雪のように冷たい肌が赤みを帯びているのは健康性のためでも、またテーブルで湯気を立てるポタージュスープのせいでもない。
謝肉祭で浮き足立つように揺らめく影と同様、暗黒の淵を照らす焔によって生み出されたものだ。
冷たき深海の如き静寂の中、ページをめくる音と、薪の弾ける音がいやに大きく響く。
固く閉ざされた館の奥、月の光も届かぬ部屋、魔女と悪魔が二人きりで暖を取っていた。
暖炉の斜め前に椅子を置いて、その間のやや後方にあるテーブルには真っ赤なテーブルクロスと真っ赤な薔薇で飾られている。
ここは憩いの場。
しかし会話は無い。互いに無言。悪魔に至っては無音であった。
視線すら合わせていない。
魔女は暗がりの中、黙々と魔導書を読んでいる。無論、椅子ごと暖炉を向いているため、照らされているのは背表紙ばかり。肝心の内容は陰に潜んでしまっているが、目線は確実に文字を追っている。生粋の魔女にとって暗闇を見通すなど星の動きを読むよりたやすい。時折ポタージュスープに伸びる手も視界の端でとらえているため、いちいち本から目を離す必要もない。
読書。それは魔女にとって、この世でもっとも尊いもののひとつだ。
先人の知識を熟読して、先人の知恵さえも読み解く。
筆者と思考を共有してこそ真の『理解』を得られる。
どこぞの半人前魔法使いはそこをまったく『理解』していない、ただの悪質なコレクターだ。あいつが抱え込んでいる貴重な本は、あいつが死ぬまで他者の目に触れない。それは知識と知恵の損失に他ならない。まだ子供だが、いずれ己の愚かさを『理解』するだろう。
しなければ、あいつは偽物のまま果てる。
享楽を享受し。
何も創らず。
何も残さず。
それが人間の一生と言ってしまえばそれまでだが、仮にも魔女を名乗るのであれば魔女の名を落とすような真似はしないでもらいたいものだ。
時々、異変にかこつけて利用しながら多少のフォローはしてやっているが、そのせいであいつと親しいと勘違いする輩がいるのが最近の悩みだ。
百年に及ぶ人生で、友と呼ぶに値したのは今この瞬間をともにすごしている悪魔だけ。
腹立たしさを覚えるも、本を読む速度をまったく落とさない。異なる思考を同時にするのは、難解な魔術を行使する魔女にとって必須技能である。
この点において魔女は有利だ。生物学的な話をすれば、女の脳はそういった作業に向いている。かといって女が優れていると考えるのは早計だ。男は集中力が高く、ひとつの解答を目指して深く思考する能力に長け、また空間認識能力にも優れ、三次元的思考による魔術の行使は強大な強味となる。
そして男女の長所をあわせ持つ者がおり、人はそれを『天才』と呼ぶ。
彼女は昔からよく『天才』と呼ばれているが、未だ実感が無い。
賢者の石を精製した時は多少、思わないでもなかったが、まだまだ高みへ至れるという確信があり、努力と才能の限界がどこなのか『理解』できていない。
早熟なだけでは『天才』と呼べない。
神童と呼ばれた者が、いざ大人になってみれば凡人にしかすぎないケースなど多々ある。
より高く、より早く、より遠くへ至れる者をこそ『天才』と呼ぶのだ。
生まれ持った能力だけで、魔法では至れぬ領域に君臨する悪魔の姉妹のような者を。
薪が弾け、魔女はふいに本を読む手を休める。
鼻腔をくすぐるポタージュスープの香りに意識を向けた。
冬は彼女にとってもっともつらい季節だ。
ただでさえ冷え冷えとした空気が乾燥してしまうので、持病の喘息にもっとも悪影響を与える。温かい飲み物は欠かせない。紅茶やコーヒーもいいが、まったりとした味わいのスープも格別だ。特にあのメイド長お手製となれば。
深く穏やかな味わいを思い出すと、急に唇がさみしくなってくる。心なしか喉も渇いてきた気がして、テーブルへと手を伸ばし的確にカップを掴んだ。口元へ運ぶと甘い香りが湯気とともに鼻腔をくすぐり、乾燥していた喉や肺が満たされていくのを感じた。香りと湯気だけでこれだ。さっそく唇を濡らしてやる。丁度飲みやすい温度で固定させているため火傷の心配はなく、まったりまろやかな味わいが口腔に広がった。続いて喉へと流れ、心身を内側から温められる。自然と口角がわずかに上がり、ささやかな幸福というものを強く実感した。
寒い冬の晩に。
紅き魔の館で。
炉の炎の前に。
紅き魔の友と。
背筋に走った甘い電流が下腹部の奥まで刺激して、持った熱が臓器を伝わって心臓に届き強く脈打たせる。すると全身の体温がわずかに上昇し、暖炉のぬくもり以上に冬の寒さを忘却させられた。精神あるいは魂の一角が蕩けて深淵に沈んでいく。
このような気持ちを抱く最大の要因は、暖炉の炎でもポタージュスープでもない。
ただ暖炉を挟んだ席に無言で座っているだけの、紅い悪魔のおかげだ。
悪魔は肘掛けに頬杖を突き、偉そうに足を組んで、じっと暖炉の炎を見つめている。
まばたきせず。
スープに手をつけず。
魔女に一目たりとも向けず。
炎に魅入っているのではない。
炎が魅入っている。
それを魔女は正しく『理解』している。
だからこそ、二人は友となったのだ。
魔女だけが『理解』したと、悪魔だけが『理解』したから。
そこから始まった友情は今、暖炉の炎を挟んで繋がっている。
視線も言葉も交わしていないけれど、友情が繋がっていると知っているから。
悪魔は瞳をそらさない、暖炉で揺らめく炎から。
火の粉すらひとつも見逃さず、ただ見つめる。その姿勢のためますます炎が魅入ってくる。
この悪魔にかかれば、炎どころか空の星々さえたぶらかせるのではないか。
少なくともすでに――運命をたぶらかし、運命から魅入られている。
運命は彼女の手の中にある。
仮にこの小さな悪魔を研究材料にすれば、運命に関する様々な事実が発見され、革新的な技術や魔術が山のように開発されるだろう。運命を完全に解き明かし、知識と技術で完全な制御が可能となるかもしれないし、それは不可能だと解明できるかもしれない。
だが世界中の魔法使いが殺到しようとも、友に指一本触れさせるつもりは無い。
友情に反して得た真理にいかほどの価値があろう? 精神の大切さを忘れて追求した叡智では行き着けぬ領域があると魔女は考える。しかし道理の通った反論があれば喜んで耳を貸すに違いない、拮抗した議論はこちらの理論も発展させるのだから。愚者の暴論は論外だ。
その点、悪魔の発想は過程も結論も面白い。あくびが出るほど常識的な発想から、上は度肝を抜かれる発想まで、下は呆れ果てるほど幼稚な発想まで。時に柔軟に、時に頑固に。まさしく変幻自在で、驚くほど簡単に思考を読める時もあれば、まったく読めない時もある。
だから退屈せず、様々な発想を与えてくれる。
住居や図書館を与えてくれた事とは比べ物にならない実益の日々。
友人関係とは利害の一致によって終始する。
資金、書物、住居といった物質的利益にこだわる友人関係は浅いものだ。
喜怒哀楽を重ね、互いに移入する事で感情を分かち合えるようになると深いと言え、これもやはり利害の一致という大前提は覆せない。一緒にいて喜びが増え、哀しみが減るのなら、それは精神的利益を得ているに他ならない。自分の嫌な事でも相手のためにという献身も、友情に厚い己に酔うか、相手の喜びに共感するためであり、やはり自分自身のためなのだ。
利害を越えた友情――と奇麗事を語る連中は概ね、この精神的利益を持ち上げている。
魔女と悪魔の友情もまた、利害の一致によるものだ。物質的利益と精神的利益を互いに満たし合っている。
もっとも、こんな考えを伝えたところで悪魔はくだらないと笑い飛ばすだけだろうけれど。
事実、くだらないと思う。
悪魔の反論を聞かされたら、例えそれがどんなに幼稚なものだろうと納得してしまうのではないかと魔女は思う。その気になった悪魔には『黒』でも『白』でも『紅ッ!!』と思わせる『凄味』があるのだ。幻想郷に落ち着いてからはあまりそういった面を見せなくなったのだが。
しかし今、ただ暖炉の炎を見つめているというだけで、部屋全体が邪悪不可侵な空間と化しているように感じられる。魔女にとってそれはとても居心地がよく、読書もはかどるというものだ。とはいえ、別に魔女の読書を助けてくれているという訳ではない。そういう時もあるにはあるが、今は違うと確信できる。確固たる友情は、時として計算を必要とせず解答を導き出せるものだ。魔女としては計算を蔑ろにしたくはないし、解明できる計算は可能な限り解明したいが、悪魔との間にあるものに関してそれは無粋だろう。
もっと感情的でいい。ここは幻想郷なのだから。
だからといって、あいつほど感情のまま生きるのは魔女として問題がある。魔女とは知的にクールにあるべきなのだ。感情のままと言っても、理性が無ければケダモノにすぎない。一生借りるだけなどと詭弁を抜かして本を窃盗する奴は死後地獄で存分に苦しめばいいのだ。「一生借りる」だとか「万引き」だとか安っぽい言葉にすり替えたところで、罪の重さは不変なのだから。あいつは魔法使いとしては半人前だが、泥棒としては一人前だ。
堂々と泥棒を自称しているなら別に構わない。幻想郷はすべてを受け入れるし、泥棒妖怪とかも多分いるだろう。
だがあいつは魔法使いを名乗って泥棒している。魔法使いの面汚しだ。
苛立ちを誤魔化すように、魔女はズズーッと音を立ててスープを飲む。
あんな三下魔法使いもどき如きのせいで精神を乱すなど魔女の誇りが許さないので認めない。
決してツンデレではないと魔女は確信している。
絶対にだ。
そういうジャンルで自己を表現するならいわゆる素直クールが該当すると魔女は確信している。
親友への態度を客観的に見れば絶対にそうだ。
冗談で誤魔化す時もあれど、それは空気を読んでの事。友として感じている想いを臆面も無く告げた経験はあるし、信頼の確認もすでに今さらすぎて不要なレベル。英語で言うとデビルマジカルフレンド。命名したのは相変わらず暖炉の炎に見つめられ続けている悪魔だ。何が楽しいのか魔女にも分からないが、それなりの集中力を発揮しているという事は、それなりに有益であり、それなりに無益な行為なのだろう。
我知らず、魔女の口角が上がった。
出来損ない贋作魔女もどきのせいでささくれ立った精神が、友について考えるだけでやわらいでいく。
ほらね、と魔女は言いたくなった。
ほらね、あいつに友情なんか抱いてないしツンデレでもない。友と呼べるのは今現在ここにいる悪魔だけだ。この小さな悪魔だけだ。図書館にいる方の小さな悪魔ではなく、紅くて小さい悪魔の事だ。魔女は素直クールなのだ。
精神の安寧を取り戻した魔女は、中断されていた読書を再開する。
黙々と、文字を読み進めて。
綽々と、文章を読み解いて。
スープは冷めない。
そのように、してあるので。
薪が弾ける。
少し暖炉の火が弱まった。
そのように、していないので。
こちらはあるがまま、自然のままだ。薪と酸素を消費して燃えている。
静か静かな時間と空間。
思考を後回しにして魔導書に没頭する。
静けさも、時間の流れも、空間の狭さも、等しく忘れて。
本と、魔女と。
炎と、悪魔と。
それだけが、ただ在った。
肉体は精神と繋がっており、精神は魂と繋がっている。
肉体は外部の刺激を受けるためにあり、肉体が静寂によって刺激を受けないとは、静寂という刺激を受けているとも言え、肉体の静寂は精神の静寂をもたらし、魔女をますます読書へ没頭させながら、同時に別の思考もさせていた。
読書中、ふと集中力が途切れてどうでもいい思考にふけり、また読書に戻る。
それだけの、当たり前の、何の変哲もない経過をしただけ。
先ほどまでの精神の乱れは、ただそれだけの事。
気にする必要はなく、黙々と、綽々と、静々と読み続ければいいのだ。
今度こそ、魔女はすべての神経を読書に向けられた。
この部屋に時計は無い。
数時間。魔女の主観では三時間から六時間ほど経過した頃、魔導書はしおりを挟まずに閉じられた。
たったそれっぽっちの時間で閉じられた。
あいつなら、ただ読むだけで一週間はかかるだろう。完全に理解するには最低数年はかかるだろう。とはいえ、読み終わったからとて、あいつに盗まれていい気はしない。防犯対策はしっかりせねば。そのためには多少の改築が必要で、館の主に許可を取るのが筋というもの。
幸い、悪魔はここにいる。
合図として、分厚い魔導書をテーブルの上に置く。
そこそこ大きい音がしたが、悪魔は、じっと見つめてくる炎を見つめ返していた。
聞こえていないはず、ないのに。
無視する意図が見えず、魔女は眉をしかめた。
話があるという合図だと、まさか伝わっていない訳がない。
反応が皆無であっても、伝わっていると『理解』している。
その程度には『理解』し合っているし、『信頼』し合っている。
とはいえ、この悪魔は想像を絶する事を唐突にやってのける。
眼を開けたまま眠っている――というオチもありえるのだ。
ただ、見つめてくる炎を見つめ返すには、起きていないといけないだろう。
魔女は考える。
悪魔の考えを考える。
こうやって格好をつけている場合は、概ね、格好をつけた台詞を吐くはずだ。
突拍子の無いような台詞かもしれないが、現状とまったく無関係な台詞は吐くまい。
すなわち、炎だとか、読み終わったばかりの魔導書だとか、静寂だとか、闇だとか、スープだとか、そういった台詞に違いない。炎と見詰め合っているから炎、というのはいささか安直だろうが、ストレートにそう来る可能性は高い。魔導書の可能性は低そうだ、今回は内容が悪魔の趣味と合っていない。静寂、闇、どちらも可能性はあるが低い。スープは意外性が高いので可能性も高い。
炎かスープか。
どちらかを絡めて、格好をつけるはずだ。
そこまで読めれば上出来だろうと魔女は納得する。
後は台詞を引き出してやればいい。
待つのも嫌いじゃないが、今は待ちたいとは思わない。
炎によってオレンジに染まった唇を開く。
「ねえ、レミィ」
瞬間、魅入った。
赤よりも紅い瞳に。
赤よりも紅い炎を。
ふたつの紅が揺らめきながら重なって。
真紅、真実の紅色を彩って。
いかなる魔法を駆使しても生み出せない究極の美が、目の前の目にあって。
ああ、そういえばと――思い出す。
あの日も彼女は、瞳に炎を映していた。
魔女が『努力』と『才能』によって賢者の石を生み出し、己が『天才』ではないかという実感を多少なりとも掴んだあの日。
夜の闇を紅く切り裂いて、小さな悪魔が現れた。襲撃者として現れた。
骨すら残さず灰にしてやろうと放った炎の竜巻を、まるで蛇使いのように操って逆に魔女を包み込んだ悪魔は、天地を引き裂くような高笑いをした。
魔女の『努力』と『才能』をはるか高みから褒め称え、新しい玩具をもらった子供のように笑っていた。
瞳に炎を映して、炎が魅入いってより紅く染まった瞳によって、魔女の魂を鷲掴みにして。
友達にならないかと誘われた。
妖艶に光る唇が動く様に、魔女は真っ直ぐ見惚れてしまう。
「ねえ、パチェ。私が何人友達を作ろうと、あなたが何人友達を作ろうと、最高の親友は永遠に一人だけ――だから、遠慮せず素直クールになりなさいな」
そんな話は、していない。
あいつの事なんか、どうでもいい。
だのになぜ、そんな台詞を吐くのか。
暖炉の炎とじっと見詰め合ったまま、一瞬たりとも視線を向けず、これでもかと格好をつけて。
それで格好いいと、思っているのだろうか。この悪魔は。
それで格好いいと、思っているのだろう。この悪魔は。
それで格好いいと、思ってしまった。この魔女は。
まだまだかなわないと自覚しながら、さて、親友の言葉を吟味する。
性格から考えて、この場と無関係な発言はすまい。
なのに炎でもスープでもなく、魔導書や静寂や闇ではなく、なぜ友達について?
推測するのは簡単だ。
今回、魔女は悪魔の思考にたどり着けなかったが、悪魔は魔女の思考にたどり着いたのだろう。
わざわざ素直クールなどという言葉を使ったのだ。そこまで深く読み切ったという証拠だ。
親友についてあれこれ思っていたのも露見しているのだろう。
それがどこをどう間違えばあの発言にたどり着くのか。
あれではまるで、魔女が半人前魔法使いの泥棒と友達になる事を推しているようではないか。
好きの反対は嫌いであり、魔女はあいつが嫌いであり、嫌いな上に親しくするメリットが無いあいつと友達になる理由など無い。
浅慮な考えをするならば。
悪魔も、魔女がツンデレであると誤解しているのだ。
だがしかし、悪魔に限ってそれは無い。
あってたまるかと魔女は思った。
だが、それ以外考えられない状況に陥っている。
まあ、五百年も生きていれば間違いのひとつやふたつ犯すだろう。
まあ、今まさに犯したのだろう。
まあ、目くじらを立てるのも大人気ない。
同様に、クジラがメダカに目くじらを立てるのも大人気ないので、あの泥棒魔法使い如きにムキになっては己の価値を下げる。魔女のよしみで、いや、よしみなど絶無だが、大人の余裕というものによって、近所の悪ガキを叱ってやり、多少は魔女として導いてやるのもやぶさかではないかもしれない。
魔女は溜め息をつき、ポタージュスープを飲んで心身を温める。
椅子から立ち上がり、本を取って、無言で暖炉の明かりから出て行く。
おやすみの挨拶はいらない。
防犯対策についても、また今度でいいだろう。
悪魔はまだ瞳に炎を映している、邪魔をするのも無粋。
魔女の姿が闇に消えて、数秒と経たずに扉の開く音がし、閉じる音がした。
炎に延々と親友の自慢話をしていた悪魔は、艶やかな唇の端をわずかに釣り上げる。
魔女の好きな表情を、魔女が去ってからするとは、何とも悪魔らしい意地の悪さであった。
その笑みは、薪が燃え尽き語り相手が消えるまで続いていた。
なんというツンデレ・・・
面白いというよりは素敵という感じ
しかし、結局パッチェさんはツンデレなのか…
いいなぁ、このパチェ。
半人前魔法使いとも仲良くな。