人の心ならば擦り切れ形を失う永き静寂。
彼岸と此岸を隔てる川の流れは決して変わることなく、最早音と聞こえぬせせらぎを奏で続ける。
都の死者が渡るこの橋を守護してどれだけの年月が過ぎ去ったのか、茫洋とした記憶は答えない。
この身を成す全てが希薄なのは人々と関わらぬから。陰陽の教えが広まり死者さえ近づかぬから。
様々な信仰が力を奪い、八百万の神々は忘れられ零落し消えてゆく。その只中に私は居た。
古き神、守護神たる橋姫、瀬織津比売とも呼ばれる水橋パルスィの自我は鑢掛けられ消えつつある。
人々の忘却がこの永劫の静寂さえも削れなかった私の心を摩耗してゆく。
このまま果てるか、それとも他の神々がそうであったように妖怪に身を窶すか。
末路が見えているというのに、希薄になったこの心は恐れさえ感じない。
死にゆく心でそれもいいと考える。恐怖さえなく終わりを迎えられるのならそれは――
「――あ……」
静寂を破る足音。
橋の欄干に燈された鬼火に照らされるのは、抜き身の太刀を手にした鬼だった。
鬼――?
間違いないだろう。赤みを帯びた金の髪、血よりも紅い一本角。
魔性を表す真紅の双眸は誤魔化すことなど出来ぬほどに鬼のそれ。
戦の帰りなのか、甲冑の縫いつけられた着物は血や泥で汚れていた。
死者、ではないらしい。死人が音を立てる筈も無し、何より彼女からは生気が溢れている。
戦場で生死を彷徨い迷い込んだのかと思ったが、違う。満ちる生気が示すように彼女は生きている。
肉体を持ったまま黄泉路へ迷い込むとは運の無いことだ。……死に魅入られているのと同義だから。
それにしても、人が迷い込むことは多々あったけれど鬼が迷い込むなど初めてではないだろうか。
さて困った。迷い人を送り返すことなら慣れているが迷い鬼などどうすればよいかわからぬ。
……出雲に赴いた時に他の橋姫に訊いておけばよかったかもしれぬ。
いずれ消える身と関わりを断っていたのがこう響くとは……
「あ、あの」
思ったよりも若い声に顔を上げる。
鬼は私を見て、何やら口をぱくぱくさせていた。
……? 混乱しているのだろうか。気づけば黄泉路だなんて、無理もない話だ。
「ここは、いや、あんたは――あの」
見立ては間違っていなかったらしく、彼女は戸惑っているようだ。
だが、顔も泥だらけで表情がいまいち読めない。
放っておいてもよいのだが、若い娘が泥まみれのままというのも不憫か。
歩み寄る。遠くでは気づかなかったが鬼らしくとてもよい体格をしている。
見上げるほどに大きい――そっと顔を拭ってやる。
「……!」
? 何故体を強張らせるのだろう。
構わず泥を拭うと、意外に整った顔が現れる。
歳の頃は人間だったらば十七・八。少女と言ってもいい。
はっきりとした目鼻立ちは意思の強さを感じさせる。
しかし……勇ましい格好をしている割には、どこか可愛らしい顔立ちだった。
ぽかんとしたその顔は童女じみていて、鬼と聞いて連想するような凶暴さはどこにもない。
あまりに無防備なその表情に毒気を抜かれて、つい微笑んでしまう。
がちゃんと大きな音が響く。
何事かと視線を下ろすと、鬼の手にした太刀が転がっていた。
「……?」
気が抜けて疲れが噴き出したのだろうか? こういう戦の道具は重いと聞くし。
刃物などせいぜい鋏くらいしか触れたことのない私にはいまいちわからないのだけど。
「え、あ――す、すまん。あんたの、衣汚しちまって」
別に落とした太刀は当たって――ああ、そういえば袖で拭ってやったのだった。
気にすることはないと言う前に、彼女は口を開く。
「れ、礼がしたい、んだけど、その、よかったら、いや、ここはどこで、ええと」
要領を得ない。未だ混乱から脱せていないのか。
しかし礼儀正しい鬼が居たものである。鬼の風聞など山賊としか耳に入らぬのに。
ふむ、無防備に過ぎたのは私か。攫われるやもしれぬ相手に近づくなど迂闊であった。
「ここは、どこなんだい? 私は……追手と戦ってた筈、なんだけど」
漸く意味を成す言葉が紡がれる。それを、頭の中で反芻する。
戦って……この異界の橋の近くでそんなことがあれば流石に気づく。
おそらく彼女が戦っていた場所というのはもっと遠くだろう。
それがここに、ということは……多分、合戦で大勢の人が死に霊道が捻れたのか。
この鬼は、斃した敵のものだろう色濃い死の気配を纏っていたが故に黄泉路へ迷い込んだ。
こんなところか。ではそれを説明して……
「――――」
声の出し方を忘れていた。
久しく語らうことなどなかった喉が引き攣る。
暫し間を置き、ゆっくりと喋り方を思い出す。
「――……安心なさい、並の人間はここまで来れない。ここは私の守護する黄泉路よ」
「黄泉、守護って、あんた神様か?」
「ええ」
一目でわからなかったか。私も随分衰えたものだ。
これでも瀬織津比売の名を冠する神、天に輝く大神の分御霊であるというに。
まあ――荒御魂だの祟り神だのと呼ばれて、昔日の威光など消えて失せたのだろうけれど。
「……神様……」
なんだろう。またぼうっとしている。
そんなにも激しい戦いを切り抜けてきたのだろうか。
……これも何かの縁か。手を差し伸べるくらいはしてもよかろう。
「畏まらなくてもよい。今は休息を。ここは黄泉路、何人たりとも寄せ付けぬ」
まだ道を閉じる力程度は残っているだろう。この娘が休む間くらいはもたせてみせよう。
私の言を受けて、がしゃりと甲冑を鳴らしながら鬼は座り込む。
「ありがたい。流石に疲れててね――厚意に甘えさせてもらう」
そのまま眠るかと思った鬼は、しかし顔を上げて私を見据える。
「名乗りが遅れた。私は星熊勇儀という。よければあんたの名を聞かせてくれないか?」
瀬織津比売――いや、水橋――答えかけて、口を噤む。
あまりに自然に問われた故気が緩んでしまったが、慣れ合うつもりはない。
私は遠からず消える身。今を生きる者の心に残るなど不様に過ぎる。
「橋姫。そうとだけ憶えておきなさい」
いずれ彼女は他の橋姫に出会うかもしれぬ。その時恩を返せばよい。
私と彼女はすれ違っただけ。殊更彼女に関わろうなどとは思わない。
未練など残せばこの身は消えずに魔に堕ちよう。そんなこと、神の矜持が許さぬ。
――それでも、この鬼に縋れば生き延びられるやもと考えてしまう己の弱さが疎ましい。
魔と関わり、魔に染まり、悪神と成り果てれば――――などと。
「橋姫、って……それは、川の守り神の名だろう? あんたの名じゃ……」
「教えるつもりはないということよ、鬼。神と鬼は相容れぬものだから」
「そんな杓子定規な……私は礼がしたいだけだよ」
「あなたのような小娘が礼など気にしなくてもいいわ」
「こむ、そりゃ、私は若僧だけどさ……これでも一端の鬼だ。礼を欠くような真似はせん」
むっとした様子で言い返す様が、よりいっそう彼女の未熟さを引き立たせる。
鬼など所詮山賊ではないかと挑発することも考えたが、ここまで子供っぽい娘にそれは酷だろう。
私は黄泉へと渡る死者を守る神。鬼を守る神ではないけれど、多少は甘やかしてもよかろうよ。
「礼の押し売りは礼を失するわよ? 憶えておきなさい」
「ぬ、ぐ……」
納得できたのか、そのまま押し黙る。
仏頂面のままだから一理ある、程度かもしれないけれど。
「ふふ」
鬼と喋るのなんてこれが初めてだが、なんとも愉快だ。
話に聞く鬼は乱暴で容赦のない掠奪者。だけれど彼女はそんなことを欠片も感じさせない。
矢張り風聞だけではわからない。話してみなければ理解なんて出来ないのだ。
話すことさえ忘れていたけれど――ああ、誰かと話すというのはこんなにも楽しかったのか。
まったく……ついさっき関わるまいと決めたのに、我ながら流され易い。これでは彼女を笑えない。
「教えてくれないっつーんならいいけどさ、それでもやっぱ、礼は言いたいよ」
「若いくせに頑固ね。まあ、それなら受け取っておくわ」
「言葉だけじゃなくて酒とか、宝とか……そういうもん渡したいんだけど」
「そこまでいけば押し売り。もう一度言わせるつもり?」
「……わかったよ、私の負けだ」
おやおや、またも風聞と異なる態度だ。
鬼は負けず嫌いと聞いたのにこうもあっさり負けを受け入れるとは。
「今手持ちがないしなぁ。喧嘩の最中だったし」
喧嘩、ねぇ。どう見ても彼女は合戦帰りなのだけど。
鬼にとっては命をかけた殺し合いも喧嘩の範疇なのかしら。
しかし、本当に頑固だこと。仮に彼女が宝を持っていたら無理にでも置いていったかもしれない。
「その様子からして、負け戦だったのかしら?」
「いいや、私がへまこいただけさ。一人だけはぐれちまって囲まれてね」
ほう、そんな状況から生き延びるとは。
言うだけのことはあるのだろうか。
「そうだ、この刀さ、名のありそうな武者から分盗ったんだが――ああ、ダメだな。折れてら」
血塗れの太刀を掲げられても。折れてる以前についさっき人を斬ったものなど受け取れない。
勝敗は兵家の常、戦場での生き死には他の価値観など入る余地のないことだけれど。
それでも神域への捧げ物には決まり事がある。そんなこと、この娘は知りもしないのだろう。
無邪気に名刀だからお宝だ、なんて考えているに決まってる。
「気持ちだけ受け取っておくわ」
本当に、どこまでも純粋な娘だ。
命をかけた殺し合いを演じておきながら僅かにも濁ったところを見せない。
仮令戦場の不文律であっても恨み憎しみを抱かぬなど、凡百なる者には真似出来ぬ。
過ぎたことを振り返ることなく、何よりも、誰よりも生きることを楽しんでいる。
――これが鬼なのか。
今も終わりを迎え入れようとしている私には……少しばかり眩しい。
「成る程……」
子供と断じたのはその若さだけではなく、未来しか感じさせぬその生き様故。
古き神が忘れてしまった、輝かしい明日への希望そのものだったからか。
ふふ、これでは私を一目で神とわからぬのも無理はない。
光は……私ではなく彼女にこそ宿っているのだから。
……さて、いい加減限界だろう。
「歩けるくらいには休めたでしょう? そろそろ帰りなさい」
「え?」
鬼は顔を跳ね上げる。
意外だ――としても、そう動けることが十分に休めた証左。
「ここは黄泉路。生きている者が長居する場所ではないわ」
「それは、まあ、そうなんだろうけど……」
あら、休み足りないのかしら?
存外怠け者だったのね。
「……ここ、外って言うか、どこに繋がってるんだい?」
「宇治橋。都の南よ」
「宇治……宇治!?」
大きな声を出されてこっちが吃驚してしまう。
「私は大江山で戦ってたんだぞ!?」
「おおえ……?」
大江山? たしか……北西に二十里くらい行ったところにある山だったかしら?
それはまた随分と遠いところから飛ばされてきたものね……
「あっちゃあ……こりゃあ萃香に拳骨くらうな……」
「それなら尚のこと早く帰りなさい。待っている人を心配させるものではないわよ」
「あー……うん、そうだね」
素直に頷きながら鬼は立ち上がり切先の欠けた太刀を肩に担ぐ。
そのまま歩み去る――と思ったのだが、一歩も踏み出さない。
頭をがりがりと掻きながら、こちらにくるりと振り向く。
「なあ、ここさ……また来れるのかな」
「死者なれば。ここは黄泉路、黄泉へと渡る者を拒む理由は無いわ」
「いやいや、そうじゃなくて……できれば生きたまま」
「? まあ……生きたまま迷い込む者は、あなたを例に出すまでもなく居るけれど」
「へえ……」
きゅうと口の端がつり上がる。
外見に違わぬ、野性味に溢れた笑い方。
「また来ても、いいかい?」
何を言われたのかわからない。
また来ても? 来る? この黄泉路に?
……私の話を聞いていなかったのだろうか。
「ここは黄泉路よ。居るだけで死に誘われる。来ない方がいいわ」
「そんなの突っぱねるさ。私は仲間の中じゃ一番力が強いんだ」
力が強かろうと死ぬ時は死ぬ。死とはそういうものだ。
確かに、死に抗わんとするならば力は必要だろうが。
それでもそんなもの、一理ある程度でしかない。
「ふぅ……子供の戯れ言に付き合うつもりはないわよ」
「戯れ言たぁ酷いね。本気だよ」
「ここに来る意味など無いでしょう」
「あるさ、あんたが居る」
それこそ――何を言われたのか、わからない。
理解するよりも早く、鬼は畳みかける。
「私はあんたに惚れたっ! 惚れた女に逢いに来る以上の理由なんざありはしない!」
「な――」
「今すぐ私のモノになれなんて無体なことは言わん。だがいつか必ず私のモノにする!」
この上ない直截的な口説き文句。
真紅の瞳は嘘や偽りなど微塵も映さず、凶暴的なまでの真摯さだけを訴えている。
「また来るぞ橋姫! その時は名前を聞かせてくれ!」
言うだけ言って――彼女は走り去った。
後に残るは静寂を取り戻した生死を別つ川のせせらぎ。
当の私はといえば……呆然とするしかない。
別に、求婚されるのが初めてだなんてことはない。
人間や神に幾度か恋われたことはあった。だけど、鬼に、なんて――
彼女の顔を拭い泥で汚れた袖に目を落とす。
「――星熊……勇儀、か」
子供の求婚など本気にしてはいない。
ただ微笑ましく思うだけ。
それでも。
「また、来るのかしら――ね」
久しく忘れていたあたたかさに頬が緩むことは否定できなかった。
「やあ橋姫!」
静寂を壊すは鬼の大声。
振り返るまでもなく、それが過日の鬼であることはわかった。
しかし無視をするわけにもいかず顔だけ向ける。
「あら……」
そこに居たのは、先日のような泥まみれの姿ではなく、煌びやかな衣を纏った若武者だった。
別人、とまでは言わないが……顔は悪くないと思っていたけれど、着る物でここまで変わるとは。
豪華絢爛という言葉をそのまま衣にしたような衣装。多少着崩しているのが逆に洒脱。
大柄な体躯と派手な金の髪に相俟ってとても美々しい印象を見る者に与える。
都の姫君にでも似合いそうな豪奢な単衣を羽織っているのもまた洒落ている。
その整った顔立ちから先日のような戦装束、男装は似合わないと思っていたが……ふむ、泥で汚れていなければこうも見れるものになるのか。女武者というのも、意外と美々しいものなのかもしれない。
「相変わらず美しいな、思わず掻っ攫いたくなっちまうよ」
……口を開かなければ、と但がつくが。
口説き文句としては品に欠ける。三流以下だ。
「来ようと思えば来れるもんだな異界! 流石にちっと迷ったけどさ!」
そりゃあ、まあ、異界とは言ってもここは門なのだし。拒み塞ぐ結界とは違う。
とはいえそう易々と来れるところではないことも確かなのだが……
よもや、力尽くで抉じ開けでもしたのか?
目前まで歩み寄り鬼は足を止める。
「大江山の四天王、星熊勇儀。再び見参ってな」
言って、にこりと笑う。
四天王……? あら、意外と偉かったのね。
鬼の役職なんて知らないけれど四天王というからにはそれなりに上の方なのだろう。
それにしても。
「……私の忠告、聞こえてはいなかったようね」
「なんだい、あんたの言葉に従わなきゃならなかったかね」
「当然よ。神の忠告には従いなさい」
「鬼が唯々諾々と神様に従ってちゃ商売あがったりさ」
呵々と笑いながら言われた言葉に私は口を噤む。
「それも――そうね」
彼女は私に守護されているわけではない。
私を祀っているわけでもないのだから指図されるいわれはなかろう。
彼我の立場はあくまで対等だ。一方的に命令するような間柄ではない。
ふと視線を感じ顔を上げる。鬼の娘は興味深そうな目で私を見ていた。
「あんたは面白いなあ」
心底愉快そうに言う。
「私は神なんて、偉そうなだけの奴だと思ってたよ」
「……概ね間違っていないんじゃないかしら?」
祀られた分それなりのことはするが、基本呑気にぐうたらしているのが神だ。
それなのに威厳を保とうとするから偉そうなだけに見えるというのは間違っていない。
力を使うこと自体稀なのだし、そう思われてもしょうがないと私は考える。
「だがそれを認める奴なんてそうは居ないだろ?」
「そう、でしょうね。誇れることではないのだし」
私が認めれるのだって、きっとこの摩耗した心ゆえ。
「やっぱりあんたは面白い。うん、惚れたのは正解だな」
……恥ずかしげもなくそんなことを言っても効果はないと気づいているのだろうか?
鬼に繊細な反応なんて求めてはいないが、こうも明け透けでは逆に心配してしまう。
矢張りというなら、矢張りこの娘は子供だ。恋の駆け引きや愛の機微など知らぬのだろう。
「それで? 今日は何用かしらね四天王さん」
「うん? 逢引きだ、と言わなきゃわからないかい?」
「一方的なのは逢引きと言わないわ」
「手厳しいね。なに、過日の約束を果たそうと思ってな」
約束? そんなもの交わした覚えはないが……
もしや礼か? 見れば今日の衣裳には甲冑が縫い付けられているということはないし、戦装束ではないらしい。髪も振り乱していた以前とは違い、簡素ではあるが結われている。鬼の礼装など知らぬが彼女なりに気を遣って装いを整えてきたのか。
こうも礼儀を弁えているとは見上げたものだ。あまり子供子供と言うのも悪いかも、
「さあ名を聞かせてくれ!」
一瞬でも見直した私が馬鹿だった。
「そんな約束はしてないわ。それに答えるつもりはないと言ったでしょう」
「ん? でも最後に」
「返事も聞かずに走り去ったのを忘れた? 繰り返すけど、一方的なのは約束ではないわよ」
「む、そうなのか。じゃあ改めて。名を聞かせてくれないか、橋姫」
「橋姫と呼べるのならそれで十分でしょう」
「んん~……難攻不落だな、あんた」
攻め方がなっていないだけだ。
「花の名を知りたいってのはそんなに罪なことかい?」
「花が望んでいなければ、それは罪でしょう。あなた、花を手折る口ね?」
「ん? ああ、まあキレイだなって思えば摘むけど」
「いずれ枯れる身だとしても、手折られることを望む花などいない。花には花の矜持があるのよ」
「むむむ……」
子供には難しかったかしら? 恋の駆け引きも知らぬ小娘にはまだ早かったかもしれない。
だけど諦めてもらわねばこちらが困る。いいや、この娘も――
私は遠からず死するさだめにある。それが恋仲に、などと……最悪、この娘を道連れにしてしまう。
恩も義理もないが、そんなことは認められない。未来ある若者に死の穢れを背負わせるだなんて。
老いて忘れられた神が消えるだけなのだ。生きる者が死に焦がれるなどあってはならない――
「はあ……なんだ、よくわからんな」
鬼は疲れた顔で溜息を吐く。
よい兆候だ。このまま諦めてくれれば安心できる。
「きっと、あなたのそれは恋ではないのよ」
俄かに鬼の目が鋭くなるが気にせず続ける。
「その分では恋をしたことなどないのでしょう? 礼に拘っていたし、恩を恋と錯覚して」
「橋姫」
低い声に遮られる。
明らかに彼女は怒っていた。その様に二の句を接げない。
情けない話だが――怒気に呑まれていた。
「確かに私は今まで恋をしたことはない。初恋さ。だが、だから恋ではないなんて認められないね」
若僧と侮っていた。どうとでも言い包めれると甘く見ていた。
今まで求婚してきた者たちのように、二言三言で諦めると――
「それを決めるのは私だ。私を断じれるのは私だけだ」
苛烈なまでの怒り。
壮絶なまでの慕情。
「私は断じる。この恋は本物だと言い切ろう」
ああ。
これは私の負けだ。
どうせ子供の戯言だと見縊っていたのは間違いだった。
この鬼は、星熊勇儀は――本気で私を欲している。
「……あなたを侮辱してしまったようね。謝るわ」
「わかってくれりゃあいいよ。そうだな、これで貸し借り無しだ」
一瞬前の怒気はどこへやったのか、鬼は快活に笑っていた。
怒りを伝え、それを私が理解したのだからそれでいいと彼女は笑う。
苦笑する。さて困った、どうやってこの鬼を諦めさせればよいのやら。
尚のこと――彼女を道連れになんてしたくなくなったのに。
「そうだ、あんたに訊きたいことがあったんだ」
「? 何かしら」
「あんたは、その」
何を言い淀むのか。あれだけはっきり惚れていると宣言した鬼が。
暫し待つも彼女は視線を泳がせたまま口をもごもごさせている。
いい加減声をかけようとしたところで彼女は私を見る。
「あ、あんたは、誰かの妻だったりするのかな?」
「はい?」
「いやだから、女神ってのは大概誰かに娶られてるって聞いて……」
笑い出してしまいそうだった。
これが私を黙らせたあの鬼か?
不安そうなその表情は今にも泣き出しそうで、まるっきり子供のそれだ。
「もしそうだったら?」
「そ、それは……」
「あら、掻っ攫いたいんじゃなかったのかしら」
「そりゃ! 掻っ攫いたいさ! 今すぐ私のモノにしたい! だけど」
不安げな顔は一瞬で苦々しい顔へと変わる。
「だけど……惚れてるから……もし、あんたが、今幸せなら……それを壊したく、なぃ……」
語尾は消えてゆく。己が欲と、私への想いの板挟み。
戸惑いを隠せていない。欲しいものを奪えぬ葛藤に苦しむなど、初めてのことなのだろう。
そんな、千々に乱れる心を全て曝け出して彼女は立ち尽くしていた。
もう黙っていることさえ出来かねる。
これをからかえるほど私の性根は腐っていない。
「……安心なさい、私は未婚よ」
「そ、そうなのか!?」
彼女の顔はぱっと明るくなる。
くるくると忙しない。この短い時間で喜怒哀楽全てを見せられている気分だ。
まったく、この娘と居ると退屈しない。
「…………」
一瞬。一瞬だけ魔に堕ちるのもよいかもしれぬと考えた。
怪異と化せば今の私ではいられない。それでも隣にこの鬼が居てくれるのならなんて、夢想をした。
知らず否定していた結末ならぬ末路を受け入れかけてしまうとは……絆されてしまったのかしらね?
この宇治の橋姫が――こんな小娘に。
こんなこと、絶対に教えはしないけれど。
「よかった! でも、意外だな。あんた美人だし、引く手数多だろ?」
「まあ、ね。でも一度も求婚に応じた事はないわ」
「なんで?」
無邪気に問われ、肩を竦める。
ああ、まだ正攻法が残っていたか。
彼女が私を諦める説得。どうしようもない決まりごとが。
「私は神だから。生きる世界も時間も違い過ぎるから」
答えられても彼女はぴんときていないようで、首を傾げる。
歳経た妖怪なら理解も出来ようが、この若さではまだわからぬか。
別れは必定。神も人も逃れ得ぬ終わり。されど生きる時間が違い過ぎれば――その悲しみは、苦しみは……耐え難い程に大きなものになってしまう。そう、神でさえ生きられぬ程に。
「ん……つまり、先に逝かれるのが辛いってことか?」
正解に辿り着いたことに軽く驚く。
想いの強さこそ本物なれどまだまだ未熟なこの子に理解出来るとは思わなかった。
……全てを告げてもいいものだろうか。私は遠からず死ぬのだと。
先程見せた不安げな顔を思い出す。
彼女はまだ若い。知らぬまま別れた方が傷が浅くて済むだろう。
その想いの強さを認めたからこそ……後を追わせるなど忍びない。
「ええ、だから――」
「橋姫」
手が握られる。
あまりにも突然で、振り払うことさえ忘れてしまう。
彼女は真っ直ぐに私の目を見て
「私は絶対におまえを独りにしないぞ」
暫し目を丸くし――くすりと笑う。
ああ、可笑しい。子供だな、と思った。
絶対という言葉はとても強い。だからこそ使う時を誤ればこの上なく空虚なものになる。
反射のように紡がれたその言葉には真実味など無く、ただ耳を通り過ぎるだけだった。
そんなことを、あんなに力強く。口説き文句のつもりだったのかしら?
「そう。期待しているわ」
適当な相槌に彼女はにかっと笑う。褒められた犬のような笑顔。
「ああ、約束だ!」
ただ消えようとしていた私の決意を溶かすどこまでも前向きな、陽の光を思わせる朗らかな笑み。
その約束が果たされることは無いだろうけれど、もう少しだけ生きてみようと思ってしまう。
摩耗した筈の心でこんなにも笑えるなんて――本当に面白い鬼だ。
何故か、まだ生きられる確信があった。まだまだ彼女に付き纏われる確信が。
猶予があるのなら、頑張らねば。守り神らしく彼女を守ってみせよう。
さてさて、どうやってこの鬼を諦めさせようかしらね――――
それが、決して軽々しい言葉ではなかったと知るのはもう少し後の話。
とても良かったです
こんな神様がずいぶん俗っぽくなっちゃってまぁ。
結局、押し切られちゃいそうですがw
勇パルはよい意味でも悪いでもイメージが割と固定化されてきている面があるのでこういう新しい切り口での二人の関係はとても気になるのでした。
いい前日譚だと思いました。
この後ああなるのか……にやにや。
お姉さんっぽいパルスィ素敵です…!