「なんだかおかしいわ」
その日、紅魔館は不気味に身震いしていた。
メイド長であるところの十六夜咲夜が原因を探して屋敷を歩き回っている。
白銀の髪を揺らしながら。
ここは悪魔が住む館であるが故に、建築物もまた悪魔に比する。
主たる吸血鬼がすぐに機嫌を損ねるように、館もまたへそをまげるのだ。
そこを管理する当の咲夜自身も、自分の能力を使ってあちこち空間をねじ負けている。
完璧に片付けても片付けても、いつも何処かが破綻しているのだから仕方ない、と当人は当然のように思っている。
が、報復とばかりに行方しれずの妖精メイドをますます増やされるのも困まりものだ。
「ああ、困ったものね」
だから彼女は、今、館内の雰囲気がいつにも増して険悪である理由を探して歩く。
愛用の懐中時計を確認すると、まだ正午あたり。
館の主人が起きだす夕方過ぎぐらいまでには解決しておきたい問題である。
紅魔館がままならないのは困るけれど、館の主人が不機嫌から発する無理難題はそれを遥かに上回って凶悪であったりする、こともある。
急がなければならない。
あちこちで歪んだ空間を元に戻し、
その結果として――新たな時空のひずみを発生させながら。
咲夜は仕事を処理していく。
主人は夜に活動し、自分は昼に仕事をする。無論、夜になれば主人の身の回りの世話もする。
いつ寝ているのかと問われれば答えなくても構わないぐらいに瀟洒な立ち振る舞いを見せる完璧なメイドだが、今日は少しだけ眠気を感じていた。
仕事には影響しないけれど。
だから、急がなければならない。
「急げ、急げ」
「……今のは私の言葉じゃないわよね?」
「急げ、逃げろ、間に合わないぞっと」
急いでいる自分を追い越して、白いうさぎが赤絨毯の廊下を走っていく。軽快に。
目にするだけですら結構レアな、竹林の古妖怪だ。
まさか自分の仕事場で遭遇するとは想像もしなかったが。
「そこの妖怪、止まりなさい」
「止まれといわれて止まるのは鈴仙ぐらいだよ。でもまあ、わたしを見つけられただけで結構幸運かもね。この先たぶん、何かいいことあるよー」
「じゃあまず私に捕まってくれるかしら。足を縛って幸運度を上げるアイテムにしてあげるわ」
「お断りしますよ!」
咲夜が眼力を強めた。
彼女の意思に従って時間が静止する。
しかし、その寸前で白うさぎは無数にある扉の一つに飛び込んでいた。
再び時間が動き、扉が閉まる。
「あら……この扉、見覚えがないわね」
正直、この館には見覚えのない扉なんて山ほどあるけれど。
いちいち気にしていたらきりがないから、咲夜は躊躇なくその扉を開けた。
向こう側には闇が広がっている。
窓のない部屋らしい。
踏み込む。
つもりだったが、床が抜けた。もとい、床がなかった。
「あら?」
落下する。
上に向かって。
自分が抜けたばかりの扉がすぅーっと下方に遠ざかる。
咲夜は身に付いた習慣通り、咄嗟に時を止めようとして――やめた。
慌ててはならないと自制している。彼女の精神はそれなりに強靱だ。
すごい勢いで空へ「落ちていく」のに、彼女のやや短いスカートは必要以上に翻らない。
瀟洒なメイドたる所以である。
結局そのまま落下を続け、彼女は空の天井に辿り着いた。
地面が近づくにつれて明るくなり、落下速度は緩やかになり。
咲夜は足の届かない椅子から飛び降りるぐらいの感覚で地面に降り立った。
世界は猶も逆さである。
咲夜は蝙蝠な着ぐるみを着用した自分の姿を想像していた。吸血鬼の手下が蝙蝠というのは、まあ、間違ってはいない気もする。
天井であるところの地面はチェス盤のような赤と黒の千鳥格子に染め抜かれ、地平線まで無限に広がっている。
夕暮れのような朱い空には赤い雲が掛かり、それを制して太陽の如き紅月が浮かぶ。
どれもこれも赤の眷属なのに、それぞれがきちんと見分けられるのが不思議だった。
もしかしたら一つづつに名前があるのかもしれない。
咲夜には識別出来なかったけれど。
眼前には病的に青ざめたテーブルセットがあり、青磁のティーポットからは香ばしい薫りが漂っている。
お茶の淹れ方には一家言ある咲夜としては気にならない訳もなく。
ポットを持ち上げ、ティーカップに注ごうとしたら、中の紅茶は下に向かって飛び上がっていってしまった。
逆さの世界だから道理は合っているはず。多分。
「なんだか、食べ物を粗末にしてはいけないわ」
ティーポットの口に一滴ついたお茶の残りを指ですくって小さく舐める。
すると、世界はぐるりと一回転して上方が天になり、立っている地が下になった。
或いは上下左右のない宇宙空間に於ける現状把握のように、認識方法の問題だけであったのかもしれない。
順応が早い咲夜はただ、これで分かりやすくなったわね、と納得する。
同時に、自分の着ているメイド服がいきなりブカブカになっていたのを知る。
頭に乗せたヘッドドレスもするりと抜け落ちてしまう。
拾い上げたそれを握る自分の手を見、二、三度グーパーをして、咲夜はようやく気づいた。
「あら。縮んでいるのは私だったようね」
サイズ的な問題ではない。
自分の手は作業を知らず柔らかい子供のそれだった。
ポケットの中から手鏡を取り出して翳せば、自分の顔の輪郭が若干の丸みを帯びている。
かつて自分がこういう顔だったかしらと考えて――やめる。
別にどうでもいいことだ。
しかし、どうやらここは常に何かしらの不便を強いる世界らしい。
靴も靴下も大きいので、そのまま動きまわるのは躊躇われた。
と、ティーセットを乗せた机の横にいつの間にかクローゼットが備わっている。
「用意のいいこと」と呟きながら両手で開くと、低年齢向けのエプロンドレスが一ダースほども並んでいた。
いつも着ているのと同じ紺色の服を選び、時を止めて着替えようとして――
止まらない。
もう一度試すが同じだ。
どうやら止まらない。頭上を行く赤色の雲がゆっくりと動いている。
そこでようやく、ポケットの中の懐中時計が消え失せているのに気づいた。
「……実は結構動揺しているのかしら、私。これではいつまで立っても二十にならないじゃない? 時計は十二しかないけどね」
自分ではいつも通りのつもりなのだけれど。
改めて咲夜はそう思わざるをえない。
そして、他に誰もいないとはいえ、遮るものなく徒広い空間で着替えをするのはどうにも落ち着かない気がした。
服に袖を通し、エプロンをつけ、茶色の革靴を履く。
普段はもみあげを結って止めている緑色のリボンを、頭の上に結んだ。
心なしか、銀色の髪も少し長くなっている気がする。
手鏡では全身像をみることができなかったが、なんだか心も小さくなった気がした。
気のせいかもしれない。
「お嬢様になった気分だわ」
ティーセットの横には傘立てがあって、一本だけ赤い合成布の傘がある。
その柄に木製の札が掛けてある。
『 わたしを つかって 』
呼ばれるままに傘を取り出した咲夜が、天に向かって開いた。
その瞬間、ものすごい驟雨が降り注いだ。
篠を突くような雨だ。
しかもその色は朱い。
よくよく見てみれば、それらは咲夜がさっき天空へこぼした紅茶なのだった。
但し、その量は数千倍に増加している。
「ほら、だから食べ物を粗末にしてはいけないのよ。でも血でなくてよかったわ。多分匂いが大変になるものね」
紅茶の雨は世界を覆い尽くし、微妙に高低差のあったチェス盤の大地のあちこちで島ができたり海ができたりしていった。
遠くで、突然の通り雨に集中攻撃された緑の髪の妖精が、泣きながらどこかへ飛んでいくのが見えた。
全ては世界と重力の不条理のせいなので、咲夜は良心の呵責を覚えない。
傘を指したまま待っていると、雨は次第に弱くなり、代わってほんのり紅に染まった霧が掛かりはじめた。その端々で紅茶の海が引いていくのが見えたので、咲夜はそっちに向かって歩いていくことにした。
どうやら空も飛べそうになかったし。
飛んでまで行くべき場所があるのかも、今は分からなかった。
夜が来るまでには館に戻りたいとは思ったけれど、ここに夜が来るのかは謎だった。
ダークレッドと赤茶の煉瓦でしっかりと舗装された道を辿っていくと、森に差し掛かった。
朱くて節くれだって捻れた幹の、太い楓のような樹々。
ただし、葉はどれも折り重なった短剣のように鋭くて、触れただけで指が切れてしまいそうだと、咲夜は思った。
傘を手に歩いていると、少しずつ様子が変わり始めた。
樹々の代わりに大きな傘……紫苑色や藤紫や赤紫の傘が地から生えている。真っ直ぐに、斜めに、ほとんど倒れそうな感じで、いろいろと。
その傘が二重三重と重なり合って天蓋を成すその下に、大きな寝台があり。
その上には紫色の芋虫、のような魔女が寝そべって、だらしなく本を読んでいた。
「あらパチュリー様、こんなところで本を読んでいると風邪を引きますよ」
「…………………風邪は引かないわ」
こちらも見ずに、やけにはっきりと断言された。
すこし癇に障るが、いつものことといえばいつものことである。
ただ、この芋虫は蛹や蝶になりそうもないなと思っておいた。
思っただけで口にはしないけれど。
魔女はぶくぶくと泡を立てる丸底フラスコから伸びたチューブの先を咥えて、時折何かを吸い込んでいる。
「ご自由になさればいいと思いますが、一応いっておきますと煙草は体に毒ですよ」
「……これは空気清浄機」
「紛らわしいですね、禿げしく」
「禁煙パッチのほうが良かったかしら」
邪険に答える芋虫もどき。
自分の知っている魔女よりは百倍は怠惰で可愛げがない。
読書の続きが気になって、どうやら自分に関わりたくないようだ。
溜息を付いてどこかに行こうとすると
「傘」
「はい?」
「傘を置いていきなさい。そうしたら助言してあげるわ。有効かどうかは貴女次第だけれど」
先ほどの豪雨の際に便利だった傘をみれば、柄にかかった札の文字が変わっている。
『 わたしを すてないで 』
咲夜は傘を投げ捨てた。
「ここにも紅茶の雨が振るんですか?」
「ここに降るのは本を狙う性悪な泥棒猫のよだれよ。前に使った銀の猫いらずが効かなかったから、仕方なく傘をさしているの」
「嫌味を言われてるような気がしますけど、気が付かなかったことにします」
「では、その傘に免じて教えてあげるわ。女王の庭園に向かうのよ」
「女王?」
「そして、きのこに気をつけるのね」
「きのこ?」
「きのこではないきのこよ。銀のきのこ。きのこのように振る舞うなにか」
「……おっしゃってる意味がよくわかりませんが」
「なら話すことはないわ」
一瞬だけ何かを案じる視線を寄越したのも束の間。
喋るべきことは喋ったとばかりに、紫の芋虫は再びごろりとだらしなく横になり、行儀が悪いままで読書を続けていた。
もう二度と口を開かなかった。
その背後で、さっきまで自分が持っていた傘が他の傘といっしょに広がって林立しているのが窺えた。
なんだか安心したので、咲夜はまた歩き始めた。
「国も人も制度もないのに女王様は存在するのね。信仰のいらない神様みたいなものかしら?」
森を一人で歩いていた咲夜が、ふと、ある視線に気づいた。
それはおおよそ二メートルぐらい頭上の、赤い柊の樹の枝の上。
ニンマリとした大きな顔だった。
「よう。こんな時間にお散歩かい」
「月が出ているのに昼間なんてへんてこりんな時間には散歩ぐらいしかすることがないものよ」
「子供は眠る時間だけどな。お昼寝かもしれないけど」
にやにや笑っているのは、折を見ては紅魔館に侵入してくる泥棒のような魔法少女。
ただし、いつも着用する三角帽子のかわりに、頭の上に大きな猫の耳が生えていて、スカートからは黄色の尻尾がゆらゆら、ゆらゆら。
両手の爪は鋭くとんがっていて。
牙のような八重歯を見せて、咲夜を面白そうに眺めている。
「大人だって寝る時間よ。それにしてはご機嫌そうだけどね」
「私は不機嫌だった時間なんてほとんどないよ」
「他人に物を盗まれるなんてないでしょうからね」
「皆に誤解があるようだが、無期限無利子かつ無催促で借りてるだけだ、いつも」
「それよりも、これからどっちのほうにいったらいいのかおしえてくれないかしら?」
「それは、お前のいきたいところ次第だね」
「ここがどこかも分からないのに?」
「それならどこだっていいだろ」
「どこかに出られるような感じでいいんだけど」
「どんどん歩いていけば、どこかに出られるに決まっているさ」
これは話した所で無駄だと、咲夜は思った。
「では、近くに誰かが居ないかしら? 話を聞いてくれそうな感じの」
「向こうで帽子屋っぽいのと三月うさぎっぽいのとやまねっぽいのがお茶会をやっている。行くだけ無駄だと思うけどな」
「一応お礼はいっておくわ。ありがとう」
「なに、お楽しみはこれからさ。城で会おう」
そういうと人間の姿をした猫はニンマリと笑い、足から煙のように消えて行った。
姿が消えてもそのいやらしい笑みだけは空中にわだかまっていた。
「人間みたいな猫だったわね。いいえ、猫みたいな人間だったのかしら。どっちにしても、あんなふうに笑う猫はお断りだわ」
どちらでも一緒だと咲夜は思った。
忍び足で入ってきていつの間にかいなくなる動物は泥棒か猫のどちらかだから。
出てくるだけで面倒くさくなるので、もう会いたくないなというのが本心だった。
けれど。
チェシャ猫っぽい魔法使いの言葉は正しかった。
今回に限っては。
「わはー。帽子かぶってると明るくても昏くないねー。でも暗いけど。明るいー」
「これおいしい。あ、これもおいしい。それも、それもあたしんだから!」
「……くぅ……すぅ……」
十字架の折れた木造の教会の前の長い長い机
そこを囲んで座る少女たち。
宵闇の妖怪が、お揃いの黒くてつばの広い帽子をかぶって見せびらかしている。
うさぎの耳を生やした氷の妖精が、机の上の食べ物を手づかみで口に放り込み、飲み込む前に次のお菓子に手を出している。
机の端にはパチュリーが使役する小悪魔が座っていて、コクリコクリと舟を漕いでいた。
茶席用の椅子に空席はたくさんあったけれど、咲夜としてはとても座る気になれなかった。
三月兎の席に座る妖精が、時計にベッタリとバターを塗り、紅茶に沈めて飲もうとしていた。
それが自分の時計だったらと想像してみるだけで、咲夜は背筋が凍る思いだった。
氷精だけに。
「……無駄を承知で一応聞くけど、どっちにいけばいいの?」
帽子屋が北東を指さした。
「あっちに女王様のお城があるから行くといいけど危ないよー。死ぬよー。食べられるよー」
「ありがとう。じゃ」
「それよりそれより、この帽子似合ってる? 可愛いでしょ、わたし」
「やめたほうがいいわね。私のほうがかわいいもの。十二倍くらいは。二十にはならないけどね」
正直に答えたら帽子屋っぽい妖怪が涙目になったので、咲夜は満足して北東への道を辿った。
やがて、どこまで続くか分からないくらいに長い城壁に遭遇した。
消失点は確認できるのに、フリーハンドで描かれたような歪さがあって、眺めていると眩暈がおきそうになる。
塀の高さはさほどでもなくて、いつもならば飛び越えられそうな感じだけれど、柵の上には鋭い刃が連なっていて、刺さったらいかにも痛そうだ。
仕方なく、それにそって延々と歩く。
空の色が朱のままから変わらないので時間も空間もよく分からない。
一向に疲れないのは助かる点だったけれど。
それにしてもいい加減に飽きてきた、頃。
鉄柵ではなく煉瓦積みの赤い塀の上に、誰かが座っているのを見つけた。
「あら、暇人の巫女じゃない。こんなところで何をしているの」
「そっちこそ、やけにかわいくなったものね。不思議の国を楽しんでいるのかしら」
「時計がないのが不便だけどね」
「時間を気にしない生活も悪くないものよ」
普段は博麗の巫女として知られる紅白の少女は、頭の上のリボンの代わりに蝶ネクタイを付け、スカートの代わりに長ズボンを履き、胡座をかいてこちらを見下ろしている。
なんだか今にも落ちそうにゆらゆらと揺れていて。
なんだか少しむくれているようだった。
「何を怒っているのかしら?」
「私がわざわざ《たまご》役っていうのはちょっと承服しがたいものがあるわね。体型的にいえばもっと適役がいるでしょうに」
「そう見られても仕方ないぐらいの、予備役ってやつなのよ。食習慣を見直しなさいな」
「あんたんところのお嬢様じゃあるまいし、高級なアレなんて全然食べてないわよ」
「骨壷に附子とやらをいれるくらいのことはしそうだけどね」
「それくらいじゃ魔理沙は騙せないもの」
「あいつなら毒でも喜んで持って帰りそうね」
「でも、そんなに不機嫌なら降りてくればいいじゃない。不安定な座り方をしたら落ちてしまうわよ」
「悪いけど私は降りられないわ。私が『割れる』と大変なことになるからね」
「降りたら割れるというものでもない気がするけど」
「ここにこうしている以上は、《降りる》は《割れる》なのよ。ボズワースの戦いを知らないの?」
また言葉遊びが始まりそうだったけれど、咲夜は別に議論をしたいわけではなかった。
「まあ、あんたが壁の上に座っているってことは、こっちに来たのは正しいってことみたいね。いつの間にか重要なところにいるのがあんただものね」
「どうやら少しは分かってきたようね」
「もう結構な付き合いだしね。別に嬉しくないけど」
「こっちだって願いさげだけど、まあ、許してあげるわ。私が夢に出てくるって結構大変なことだしね。あんたにそのつもりはなくても」
「忠告なのかしら? 承っておくわ」
「なら、不可入性に気をつけることね。同じものが二つは存在できない。0わる2は0だから」
「見た目が七歳六ヶ月でも?」
「あんたが時間を気にするとは思わなかったわ」
「愛用の時計を無くしちゃってるのが。それだけがほんとに、ちょっと不安なの」
咲夜はスカートの端をつまみ上げてお礼をすると、先に進みはじめた。
すると、幻想の卵が含み笑いをしながらその背に声を投げる。
「例のお決まりのはやっていかないのね、『それはネクタイ? ベルト?』って奴」
「言われないように蝶ネクタイにしたんでしょ? 誘い受けなんて勘弁よ」
呆れて振り返ると、霊夢のような何かは壁の上で、その手をひらひらと、蝶のように振っていた。
――城壁はようやく切れた。
城の入り口には鍵はおろか、城門もすらついてなかった。
勿論、門番も居ない。
「……まあ、いてもいなくても一緒なものを備え付けても同じだものね」
中に入ると、立派に整えられた庭園が迷宮のように広がっていて。
トランプの模様と数字を躰のあちこちにつけた妖精メイドたちが、ペンキと刷毛を手に庭を飛び回っていた。
「もしもし、いったいどうしたの、そんなに慌てているけど」
「女王様の命令で、生垣の白いバラを赤く塗っているのです。もう全部塗り終わったはずなのに、どこかにいつも白いバラが残っていて……ああ、早くしないと首を刎ねられて、悪魔に食べられてしまう」
何かに怯える妖精の視線を追えば。
庭に面した二階のバルコニーには玉座がしつらえてあり、巨大な椅子にはハートの冠をつけた幼き女王が座っていた。
背丈の縮んだ咲夜よりも更に小さく、あどけなく見える。
玉座の背後には七色の翼を持つ黒くて悪魔がうずくまっていて、女王に頭を撫でてもらっては喜んでいる。
女王が、見上げる咲夜を見つけた。
小さな声なのに、まるで耳元で甘く囁くかのようにはっきりと、聞こえる。
「お前は誰だ?」
「咲夜ですが、お嬢様」
「私は女王だよ」
「はい、女王様」
「お前は何処から来たの?」
「上……いいえ、下かしら? おおよそそういう方角から」
「お前は何処へ行くの?」
「日暮れまでに屋敷に帰らないと、お嬢様が怒ってしまうのです」
「――お嬢様! またお嬢様なの? お嬢様って、女王様よりも偉いのかしら」
「時と場合によりますね」
女王は唇を釣り上げて笑った。
幼く可愛い顔に似付かわしくない牙が怪しく輝く。
同時に、黒い悪魔の紅い眼球が咲夜をじっと睨みつけた。
「咲夜、咲夜、私は白い薔薇が残っていて困っているの。とっても困っているの。早く全部赤にしないと。貴女と喋っている暇はないの」
喋っている間にも妖精メイドたちの首が飛ぶ。
処刑人メイドたちが白薔薇を残してしまったメイドたちを追いかけては大きな斧を振るっている。
飛び散る血が生垣にかかり、赤の薔薇を尚一層赤く染め上げていく。
咲夜はそれを可哀想だとは思わなかったけれど、なんだか見苦しいなと思った。
自分なら、もっとうまくやれそうな気がした。
「女王様のやることには口出しいたしませんが、女王様と喋らせていただくことはいたしませんが。一つ聞いていただけませんか」
「なぁに?」
「これだけ何回も塗り回っているのですから、白い薔薇ももう、本当に残り少ないはずでしょう? でしたら、私が白い薔薇をなくしてさしあげますわ」
「その躰で、その力で、白薔薇を消してくれるというの?」
「はい、やります。消します。その代わりに、うまくできたらここから帰る方法を教えて下さい」
「うまく出来なかったら首を刎ねてジャバウォックの餌だよ」
「あら、うまくやれますから大丈夫ですわ」
「子供はみんなそういうわ。大人はみんなそういうわ」
女王は愉快そうに笑った。魔獣もつられるように喉を鳴らす。
首を飛ばされたメイドも、そうでないメイドも、一斉に笑う。
そうすると、空中から煙のような顔が降りてきて一緒に笑い始めた。
「こいつは面白い。アリスが赤い薔薇を白にしてしまうそうだ。白くならなきゃいいが。楽しみだぜ」
「私はアリスじゃなくて咲夜だわ。なんであんな人形フェチと一緒にされないといけないのよ」
女王がもくもくと現れたチェシャ猫を指さして不愉快そうに笑う。
「わたしの庭をたびたび冷やかす不届きな泥棒猫め。また現れたわ。あの首を刎ねてしまえ」
「お言葉ですが女王様、あの猫は顔だけで首が無いので刎ねることが出来ません」
口答えした処刑人メイドの首を、別のメイドがざっくり刎ねる。
ねこみみ魔法使いの首が大笑しながら飛頭蛮さながらに飛び回り、時折弾幕やらレーザーやらを乱射しながら暴れまわるので、逃げ惑うメイドたちで庭は大騒ぎになった。
不愉快そうな女王は、あっけにとられる咲夜を錫丈で差す。
「さぁ咲夜、急いで白薔薇を消すのよ。そうすればこの乱痴気騒ぎは終わり、全て片が付くわ」
「でも女王様、白薔薇はどこにあるのでしょうか。残っているのはどこ?」
「お前のまなこは硝子玉なの? その生垣にあるでしょう、憎っくき白薔薇が」
女王が指し示した生垣の最中。
無数に咲き誇る赤い薔薇の中央に。
目が痛くなるほどに白い薔薇が咲いている。
確かに。
どうして皆はこんなに探しているの?
ここにこんなにはっきりくっきり存在しているのに。
「こんなの、切り落とせばいいだけじゃない」
咲夜は懐からナイフを取り出した。
着替えた時には気が付かなかったが、いつも忍ばせる場所にいつもと同じようにナイフがあったので、自然にそれを握った。
白薔薇の茎を握り、その花弁に刃を当てる。
すると、生垣から薔薇の茎がするすると伸び始め、咲夜の足や手に絡まり始めた。
鋭い棘が躰のあちこちに刺さり、幼い咲夜の躰から血を吸い始める。
「養分を吸ってる……『きのこ』って、これのことなのね……」
真っ赤な血を垂れ流しながら、咲夜は魔女の忠告を思い出している。
全身を縛られて、もう身動きが取れない。
みれば、生垣の赤い薔薇がどんどん白く変わっていくではないか。
自分の真紅を飲み込んで、どんどん白く生まれ変わる薔薇。
増えていく白薔薇。
自分が断とうとした薔薇は、更に高く高く伸び始める。
茎は血を吸って更に赤く、
花弁は白を通り越して銀色へ。
それは咲夜の髪の色にどんどん似ていくのだった。
小さな背丈の咲夜の手では、高い場所にある白銀の薔薇を切り落とすことができない。
その下の蔓には、無くしたはずの懐中時計が絡まっているのすら見えた。
「どうしたの、咲夜! 白薔薇を刈らなければ、代わりにお前の首を刎ねるわよ!」
刻限が迫る。
「急げ、急げ、間に合わないぞっと」
白薔薇が、白うさぎが逃げる。
そんな世界のただ中で。
今や白薔薇は咲夜となり、
己の血で真っ赤に染まった咲夜もまた、依然として咲夜。
不可入性――同じ所に二つの同じものは存在できない。0わる2は0なのだ。
それでも咲夜は必死に手を伸ばす。
自分が切り落とすべき白薔薇の首筋へ、ナイフの剣閃を閃かせるべく。
遠くで女王の声がする。笑っている。
近くに七色の翼を持つ魔獣が四人でクスクスと笑っている。
「さあ、首を刎ねなさい!」
遂に女王が命令を下す。
魔獣の手にはそれぞれ、計四振りの炎の魔剣。
それらが一斉に振り下ろされる。
白薔薇の花に向かって――自分の首に向かって。
「……さん、咲夜さん! 起きてください、咲夜さん! もう夕方ですよ!」
美鈴に起こされる。
「…………………美鈴?」
「咲夜さんが居眠りなんて珍しいですね。それもこんな所で」
「どこ?」
「お庭ですけど……」
「…………………」
目を開ける。
空は薄暮だが、青から赤に変わっていくグラデーションが見えた。
薄暮が落ちてくる。
覚醒して一番最初に思ったのは、どうやら夢の結末で叫んだりするみっともない仕草はしなくてすんだみたいだ、という安堵だった。
人間誰しも間違いを犯すが、間違いの種類によっては取り返しが付かない場合もなくはない。
十六夜咲夜は背にしていた紅魔館の壁に手を当てて立ち上がった。
頭を振り、懐中時計を確認し、それから自分の右手をじっと見て、ぐーぱーを繰り返す。
「…………………」
「大丈夫ですか? お体が悪いとか」
「大丈夫よ。明日の朝はちゃんと寝ることにするわ。……それよりも美鈴、竹林の古うさぎの侵入を許したわね」
「あ、あの……その、すみません……」
「まあ別に実害もないし、私もミスをしたから今日は知らなかったことにしてあげるわ」
「はぁ、すみません」
「晩御飯は抜きだけど」
「えっと。日本語に於いて『不問』って言葉の意味は一体どうなっているのでしょうかね?」
別れ際、美鈴が伝えてきた情報があった。
屋敷の裏庭、壁の小さなヒビ割れの片隅に、奇妙な花が咲いているという。
咲夜がそこに向かうと、果たして。
継ぎ接ぎのようになった壁の、おそらくは、咲夜の空間操作の結果によるその隙間から、捻り出すようにして。
白銀色の薔薇が一輪、開花している。
茎を壁に這わせて。
不思議なことに、その花は僅かに発光していて、その明るさは鼓動のように明滅を繰り返しているのだった。
悪魔の館に相応しくない、神々しい光。
これこそが、館が嫌悪に打ち震えた原因、抜けない棘だった。
咲夜はじっと、それを見つめた。
もしかしたら、
もしかしたら。
この花は邪悪な気を吸い取って浄化する、天界からの奇跡なのかもしれず。
白うさぎが告げた幸運とやら、なのかもしれず。
これを手に入れれば、吸血鬼の運命を越え、すべての妖怪も従えるほどの摂理を目の当たりにするかもしれない。
そんな説得力を持たせる、神聖な光。
このまま黙って育てて、紅魔館の内外に繁茂させたらどうなるか。
女王と魔獣を薔薇の棘の檻に閉じ込めてしまえばどうなるか。
――世界は逆さになる。
そう、あの時のように。
白薔薇は、そう囁く。
それを見つめる人間に思いを伝えようと。
与えられた花言葉に乗せて。
『 わたしは あなたに ふさわしい 』
彼女は瞑目した。
そして――
抜く手も見せずにナイフで花を切り取ると、無数の棘がある茎ごと握りつぶした。
「……わたし、楽園の女王になるより、お嬢様のメイドのほうがずうっといいのよね」
無垢な童女の表情そのままで、悪魔のしもべがくすりと笑う。
棘によって流れしたたる、己の指先の血のしずく。
ワンダーランド全てにも匹敵するその一滴を、舌先で小さく舐める。
いかにも美味しそうに、
淹れたての紅茶のように。
そしてアリスが主人公じゃないって…orz
咲夜さんは冷静に対処できてすごいな。
若干洗練されすぎなきらいはありますが、曖昧を排して書ききった感がいいですね。