例え荒らされていなくとも、他人が自宅に立ち入った気配は何となくわかる。
かように人は意外と気配を悟るものであり、冬の気配を察するには地面が凍る様をその目で見るまでもない。
しかし、人とは不思議なもので、年がら年中そこここを氷らせて回る妖精などを見慣れてしまうと、地面が凍る様から冬の気配を見過ごしてしまう。
聖 白蓮が幻想郷に訪れてからの話。
「これなど、どうでしょう」と言って、星が私にくれた本。それが今代の稗田、稗田 阿求が編纂した『幻想郷縁起』でした。
妖怪や妖精といった一定以上の力をもった方々を通俗じみた切り口で紹介しながらも、そこは稗田家の仕事、無闇に恐れず、さりとて無謀に挑まずをやんわりとまとめていました。
星は長らく地上から離れていた私に、今の妖怪と人間の在り方がどうなっているかを分かり易く知ってもらう為に、その本を用立ててくれたのでしょう。
私は、その本を読み込んで妖怪達が妖怪の本分を忘れ始めている事を知り、その行間から私の共存共栄の夢が届く事を実感しました。
星の意図通り、『幻想郷縁起』は私に正しく作用しました。ですが、副作用もあったようです。
私はこの『幻想郷縁起』を編纂した稗田 阿求という人物に強い関心を持つようになっていました。
命蓮寺が開かれて間もなくして、私と稗田 阿求さんの会合は実現します。
生々流転であるが故に短い天寿の中で知識を編み込んだ稗田家の才媛、さぞやすばらしき高論卓説をして頂ける事に期待を寄せておりました。
しかし、期待した通りの理知の向こうに年相応の幼さがある事を知りました。そして、幼いにも関わらず、己の短い生と向かい合い、かつ受け止め、全うしようとしている事も知りました。
それを知った私の心中は如何ほどでしたでしょうか?
弟の死から死ぬ事に怯えて不死を望み、乞われるままに妖怪を助けて上手く立ち回れずに封印の憂き目にあった生臭尼僧の私に比べ、己の短い生と過去から変わり続ける幻想郷を見詰めた上で未来の希望を指し示してみせた稗田の才媛。
妬む気持ちはありません。ただ、この出会いが、よき出会いになればと思うだけです。
その日を境に、阿求さんは度々、命蓮寺を訪ねてくれるようになりました。
私達は妖怪と人間との在り方を語ったりする一方で、今日のお天気とお洗濯といった他愛もない話に終始した事もありました。
ただひとつ、心苦しいのは、人妖問わず命蓮寺を訪ねてきてくれる方が多い都合、私から阿求さんの稗田家へ伺う機会に恵まれず、体の弱い阿求さんにいつも訪ねさせてしまっているという事。
それを察したであろう一輪が、阿求さんの送り迎えを買って出てくれはしました。少し違う気もしますが、それはそれで有り難いです。
ある日の事、私は常日頃から人間の参拝客に阿求さんのまとめた『幻想郷縁起』を薦めていました。そうして『幻想郷縁起』を薦められた参拝客の一人が、その本のお陰で窮地を脱したと感謝しに来ました。
そこまでなら、私も嬉しいのですが、その出来事をきっかけにその人間は命蓮寺の熱心な檀家となってしまいました。
皆の為になれば、そう思って行った行為は、『命蓮寺への信仰』という見返りを生んでしまいました。
これはいけない。『幻想郷縁起』は全ての人間の共有財産であり、その偉業への称賛は今代の稗田 阿求さんに帰結するべきである。間違っても妖怪寺である命蓮寺の信仰に繋がってしまうような事があってはならない。
私の身の上に降り注いだ、望まぬ形での信仰獲得。その出来事があった後で、阿求さんが命蓮寺を訪ねてきました。件の出来事は話題に上りませんでしたが、別の出来事が心に残っています。
それ自体は些細な事ですが、どうやら私どもで振舞っていた緑茶と茶菓子が阿求さんのお口に合わなかったようなのです。そして、阿求さんはその事にほとんど声を上げませんでした。
本当に些細な事ですが、阿求さんに気を遣わせているという一点では、どこか象徴的ですらありました。
先の信仰獲得の事も含め、まだ小さい出来事。しかし、その規模が大きくなればどうなるか。稗田が受けるべき賞賛を己等の信仰として掠め取り、その結果、阿求さんを蔑ろにする。
その時に気付きました。他人から見た時、私は妖怪達の頭領で、阿求さんは人間達の秘蔵っ子。交流を深めるにしても、私達はどこかで明確に線引きをしなければならない立場である、と。
事件のあらましも含め、私の考えを阿求さんに伝えました。阿求さんも、納得してくれました。
ある日の事。
星がわざわざ、阿求さんが熱を出して寝込んでいると報せてくれました。
もう日は落ちていますけど、今の内に阿求さんのお見舞いへ行こうかどうか悩みます。
すると、星はさらに報告を重ねます。昼前に阿求さんが命蓮寺に見えられた事、私がその時に用事があって応対出来なかった事、そして挨拶だけをして阿求さんが行ってしまわれた事の三つです。
阿求さんが『今日、熱で寝込でいる事』を考えれば、寝込む程に体調を崩すのは命蓮寺に寄った後。もし、私が阿求さんと顔を合わせていれば、このような事態は避けられたかもしれない。
そう思うと居ても立ってもいられません。私の配慮が、結局は阿求さんに害をなす事なってしまいました。ままならない歯がゆさを思いつつも、私は星にこれから阿求さんのお見舞いに行く事を伝えます。星は二つ返事で了解してくれました。
命蓮寺を出て、私は歩いていきます。
先を急ぐのなら空を飛んで行くのが正しいのでしょうが、妖怪やらそれに準ずる程に力のある人間達は、余程の事がない限り『人里の上は飛んで移動しない』という暗黙の了解があり、私もそれに従っています。
命蓮寺と稗田家の立地の都合で人里をほぼ横断する形になっても、阿求さんの屋敷まで歩いていく事にしました。
農家の田畑を越え、商店や屋台の並んだ大通りを抜け、普通に人が済む家々が少しばかり閑散とした所に出ます。ここからもう少し奥の所に、阿求さんの屋敷があります。
その時、『寒気』が私の隣を通り抜けました。私がその寒さに妖気めいたものを感じ、振り返ります。
振り向いた先には『白と青でゆらめく、辛うじて人の形に見えるモノ』が在りました。その『何モノ』かは、ゆらゆらと私から遠ざかり、ともし火のようにふっと消えてしまいました。
それは単純に、人目に付かないよう振舞う『何モノ』かを、私がちょっとした魔術で覗きこんだが故に捉えた不思議な見え方でした。
では、こんな事をするのは『何モノ』なのでしょうか?
寒い、青と白、人の形……。
……冬妖怪?
人にも妖怪にもそっぽを向いて、同じく人からも妖怪からもそっぽを向かれている冬妖怪が、私の目にすらまともに映らぬ程の忍び足で人里を歩いている。それに、これから私が行く方向から冬妖怪は来た。
その事に気付いた瞬間、本当の意味で悪寒が走った。
考え過ぎ。それはわかっている。
それでも私は、飛翔して阿求さんの屋敷に向かいました。
阿求さんの屋敷の正門前に降り立った私はまずは一回深呼吸して、わずかに昂ぶった気持ちを落ち着けます。
そして、お腹の調子を整え、声を張る準備をします。
「夜分、遅くにごめんください」
しかし、帰ってきたのは……。
「きゃあ」
阿求さんの悲鳴。
門を押し開け、正面玄関へと雪崩れ込む。
疾駆、臨戦。
護らなければ、絶対に。
時間は半日ほど遡る。
「まあ、来てくれたのですか?ささ、阿求さん、上がって下さいな」
彼女は、尋ねて来てくれた事をいつも喜んでくれた。
「阿求さんが見えられました。いつものを出して」
彼女がそういってから出されるのは、渋い緑茶と餡子の和菓子。
『家では 』『 緑茶 少し 』『 紅茶 多い』
「もしかして、私はずっと、お口に合わないものを勧めておりましたか?」
いや、そうではなく、そうではなく。
次の瞬間。
あぶく玉の様に浮かんで消える単語の群れがひとつの文章を形成する。
滲んだ水彩絵の具のような光景がはっきりとした輪郭を伴って映る。
ついさっきの事ですら朧だった記憶が昨日や一昨日から以前の記憶が現在まで繋がる。
目が覚めた。
朝起きて寒さを感じた。
庭を歩けば霜柱を踏んだ。
空を見れば薄紙のような雲が僅かにあるだけの快晴だった。
肌寒さはあっても、肌を撫でる風はない。
浅く息を吐き、額に手を当てる。少しそうした後に、少女はひとりつぶやく。
「うん。今日、出かけよう」
こうして、稗田 阿求はその日一日の予定を決めた。
まずは朝食を取った。
梅肉を添えたおかゆに、大根の味噌汁を足した。
食後、飴玉を頬張って、日記を含めた今日の分の文筆業をある程度は片付けておくべく、書斎に向かう。
いざ臨んでみて、阿求は書く事があまりない事に気付いた。正確には、まとまった時間でする作業がそれなりに控えていたが、午前の一時で切りよく終わるような作業はなく、その前段階の資料整理と用意をするのに留めた。
「あとは、帰ってきてからかな」
阿求がそうつぶやいたのは、右に筆記用具を諸々、左に足元から積まれた資料、中央は作業用にぽっかりと空いた机周りをしっかり用意してからだった。
当面の作業を終え、阿求は外出の為の着替えを始める。
厚手の服を上下に一枚。頭巾もしようかと思ったが、それ程でもないと考えを改めた。
手荷物は、まず書く物をひと揃え。見付けた事、思い付いた事を書き綴るのが目的で。それと、水筒とお弁当に飴玉いっぱいの袋をひとつずつ。
自分の装いを眺めて、阿求はこれぐらいでいいと納得した。
さらにここで出かける前に紅茶を淹れる。熱い一杯に一息ついてから、もう一作業。味はともかく、帰って来てすぐ飲めるようにと、余分に淹れた紅茶を作り置きにする。
それから、阿求は玄関で靴を履き、外套を一枚、羽織った。
出かける前、額に手を当てる。
「うん」と頷いてから、阿求は一歩踏み出した。
玄関を出てすぐ、まだ午前である事を教えてくれる眩しいばかりの陽光と、家の中よりも冷たい外の空気が出迎えくれた。
門前から伸びる平らに整った細い道を歩いていけば、視界に入ってくる家の数も増えていく。
阿求が真っ直ぐ進んだ先、大きい道に出ると、人家とは別に店舗が大きな道なりに軒を連ねている。
阿求はその大きい道を行く。食べ物、金物、着物、小物、店の軒先に並んでいる物も色々。行き交う人も老若男女は揃っていて、加えて尻尾が生えていたり羽が生えていたりの人以外の人型の生き物まで散見できる。
阿求はそれらを適当に流して見ていると、行く先に、それなりに見知った紅白と黒白が並んでいた。
近付くにつれ、その紅白と黒白が女性であるのを視認すると阿求の足は速くなり、ついには声を張り上げた。
「霊夢さん、魔理沙さん」
声を受けてそちらに目を向ける二人の少女。
「あら、おはよう」
紅白の巫女装束に身を包む少女、博麗 霊夢。
「よう、なんか珍しい所で顔を合わせるな」
黒白で魔法使いの装いを整える少女、霧雨 魔理沙。
阿求は「顔を合わせる事自体が珍しい」という言葉は口にせず、まずは挨拶を返す。
「おはようございます。
……その、お二人が御一緒に人里まで来られるのは珍しいですね。
もしかして、何か異変でも?」
阿求の幼い顔に少しばかりの困惑が浮かぶ。
それを目の当たりにした霊夢と魔理沙は互いに見合った後、真っ先に魔理沙が笑い飛ばした。
「ははは、違ぇ違ぇって。不本意ながら、こいつの買い出しに付き合わされてるんだよ」
「で、私の用事が済み次第、不本意ながら私はこいつの仕事の手伝いよ」
「お前が私に付き合うのは当然で、私がお前に付き合うのが不本意なんだよ」
「それはこっちの台詞よ。私が温情を掛けてあげたんだから、ちゃんと私に感謝しなさいっての」
「はいはい、負け惜しみアリガトウ御座いますネ~、霊夢ぅ~」
「うわぁ~、そこまでガキっぽい態度だと本気でイラッとするわぁ」
軽口の応酬ながらも、空気が悪くなる事にいたたまれず、阿求は割って入る事を試みる。
「あの……」
阿求が言い終わるのを待たず。
「ああ、悪いわね、こいつがガキで」
そう答える霊夢に。
「私の所為にすんなよ。
なぁ、そう思うだろう?」
魔理沙が被せてきて。
「はぁ……」
阿求は生返事。
「やめなさいよ。困ってるじゃない」
「それは霊夢の所為だろうが」
「あー、もう。なんで人の所為にするかなー」
「そりゃ、お前の所為だからだろ」
「やってらんない、ほんと」
「でも、私の用事には付き合えよ」
「私の買い出しに付き合ったら、いくらでも付き合ってあげるわよ」
会話に入り込めない阿求は、一区切りついた今、ここでお別れを言って立ち去ることも出来た。しかし、思わず問うてしまう事があった。
「いつも、お二人はこんな感じなんですか?」
聞かれて二人は少し考える。
「……まあ、こんな感じよね」
「そうだな、暇潰しに顔を出してるだけだしな」
「そうねぇ、暇潰しで付き合ってるだけだしねぇ」
「結局、くされ縁だしな」
「うん、それが適当な表現ね」
「そうですか」
その時、阿求の態度から魔理沙は閃いた。
「お?もしかして、苦手な奴に会いに行く途中とか?」
唐突な質問に、呆気にとられた阿求だが、口ごもりながらも答える。
「え?
いえ、違います。苦手な方という訳ではないのです」
「ほおほお。じゃあ、どんな奴なんだ?」
そこで割って入ったのが霊夢である。
「やめなさいって。人に会いにいく途中なら、引き留めちゃ悪いでしょうが」
「固ぇこと言うなぁ。でも、確かにそーだな」
魔理沙が引いたのを確認してから、霊夢は改めて阿求と向き合う。
「ま、最近は私も暇だし、妖怪に絡んだ事なら何時でも相談に乗るわよ」
今度は態度を改めて、魔理沙も続く。
「私の場合、妖怪以外でも話の内容次第じゃ、相談に乗ってやってもいいぜ」
一瞬、二人が何を言っているのか、阿求は理解できなかったが、それも一時の事だった。
「あ……っと。
お心遣い、ありがとうございます。
その時が来ましたら、御相談に伺います。それでは、これにて失礼いたします」
そうして、阿求は礼をし、二人の前を横切った。
歩いていくにつれ、道幅は少しずつ狭まり、店舗が減り、それどころか人家も減り、道行く人も減っていった。
景観で色々と減った分、道なりには手のいき届いた田畑や、手入れの全くされていないであろう原っぱや雑木林があった。
阿求は畦道に入る。途中、農家の方々と挨拶を交わし、ひたすら直進。
先程の大通り程では無いにしろ、大きい通りに行き当たる。ざっと見た限り、人通りも少しだけ戻ってきた。
人が流れていく先を阿求は見る。
そこに大きなお寺、命蓮寺があった。阿求のいる所から見る命蓮寺の景色は、少し特徴があった。田畑が広がっているのは命蓮寺の手前までで、命蓮寺から向こうは自然な山や草木が生い茂っていた。
阿求が命蓮寺の正門まで近付くと、門前の妖怪がまばらな人通りの中から、目敏く阿求を見付ける。
「おはようございまーす。
稗田の阿求さんではありませんか」
飾りではなく、本当に犬の耳らしきものを生やした少女、幽谷 響子が阿求の前に立った。
「来ると前以て言って下されば、使いの者を出したり何だりで色々用意いたしましたのに」
「いえ、おかまいなく。
ところで、白蓮さんは如何ですか?」
「いやぁ、すいません。只今、説法の真っ最中でして、……ええ。
その、ちょっとやそっとじゃ手が離せないもので、すいません」
はにかみ、頭を何度か下げながらされる響子の説明を、阿求は黙って、しかし多めの瞬きを繰り返して聞いた。
「………………
そうですか。では、日を改めて伺います」
響子のはにかみは刹那を挟んでぎょっとした表情に変わった、
「えっ?帰っちゃうんですか?」
「……はい。私用の途中で立ち寄っただけですから、あまり長居は出来ないのです」
「う~ん。そうですか~。残念です~、聖に代わって私が残念がります~、ハイ~」
「あ、えっと、本当にすいません」
阿求は自分の所為で響子に気を遣わせてしまった事に謝る。一方、響子は自分の言葉で阿求に恐縮させてしまった事に責任を感じ、何か明るい事を言おうと何でもいいから口にし始める。
「あ、そうだ。お昼過ぎには人も減り始めますから、それ以降の時間帯なら聖も時間をとり易いと思いますよぉ」
「ありがとうございます。もし、その時間にこちらの都合が合えば、また、その時はお邪魔させてもらいます。
あ、そうだ。響子さん、よろしければどうぞ」
阿求は袋から飴玉を一個取り出す。
「あ、もらいます」
響子は遠慮なく受け取って、早速、口の中に放りこむ。
「では、失礼いたします」
「は~い。じゃ、またね~」
響子は山向こうへと遠ざかっていく阿求の背中へ手を振った。
響子から阿求の姿が見えなくなった後で、その響子に声が掛かる。
「ただいま、響子」
振り返った先には、響子の同様、頭に二つのまん丸い耳を生やし、どことなく愛らしいネズミを連想させる小柄な少女、ナズーリンが立っていた。
「お。ナズちゃん、おはよーございまーす」
「ああ、おはよう」
とりあえず挨拶を済ませた後で、ナズーリンは、阿求が去っていった方向、いわゆる人里とは反対方向に伸びる道に目をやる。
「ところで、さっきチラっと見ただけだが、君にしては随分と丁寧に応対していたようだが、もしかして稗田殿が見えられていたのか?」
「はい、来ましたよ」
笑顔であっさり答える響子を前に、ナズーリンは黙って眉をひそめた。
「なんで引き留めなかったんだい。君だって聖の座右の書が今代の『幻想郷縁起』と知っていように」
「いやぁ、私もその方がいいかな~って思ったんですけど、前に用事があるのを引き留めちゃった時、聖からじっくりたっぷりこってりと説教を貰っちゃいましたからぁ。で、今日もそんな感じだったんで、『ああ、これじゃ長居させちゃ悪いな~』と思いましてぇ、ハイ」
ナズーリンは響子が口にした『説教』で思い出す事があり、それ故に響子への言及をあっさり取りやめた。
「ああ、『真に尊い方』云々で始まるアレかい」
「はい、それです……」
笑って誤魔化しているのか、はたまた笑うしかないかの響子に、ナズーリンは溜め息をひとつ挟んでから、自分なりの意見を述べる。
「全く、聖は引き留めたら怒る一方で、引き留めなければ引き留めないで、露骨に落胆するからなぁ」
「どっちがいいんでしょうかね?」
「さあて、ね」
「とはいえ、今日の稗田さんは本当に遠出する用事っぽい感じでしたからねぇ」
「好奇心で聞くが『遠出するっぽい』とは、どういう事だい」
「大した事じゃあないんですよ。ただね、飴玉を袋いっぱいに詰めていましたから、それで遠出をするんじゃないかな~って思った次第です、ハイ」
「ふぅん。飴玉ねぇ」
ナズーリンは自身が感じた引っ掛かりを、改めて確認するように呟いた。
しかし、それはそれとして。
「何にせよ、響子の判断は正しかったと私は思うよ」
「良かった、ナズちゃんのお墨付きがあるなら安心だ」
「私を基準にされても困るんだがなぁ」
それから二言三言の会話を交わした後、ナズーリンは命蓮寺の門をくぐった。
一人、道を行く阿求。
人家の連なりは命蓮寺へ行くまでに置いてきた、田畑の広がりは命蓮寺を越えた所で途絶えた。
でこぼこが目立ち始めた道の景色を彩るのは、紅の混じり始めた雑木と阿求の背よりも高い草が珍しくも無い原野、不意に現れる獣道、山はまだ遠くに望める。
何にせよ、本格的に『人』通りというものがなくなった。代わりに、命蓮寺の参拝客である妖怪と、偶に擦れ違う。
阿求は立ち止まり、額に手を当てる。体が弱い事を自覚している一方で、歩くのにも慣れている。
気温に合わせて冷たかった体も、歩いている内に温まった。これでうっすら汗でもかければ調度いい。阿求はそう思ってはいたが、自身の体を気遣う歩調では、そこまでの温まりはなかった。
水筒の水を口に含む。わずかに一口。口と喉を湿らす程度。
日は高くなり、応じて差しこむ光も強まった。日光からの熱を含んだ風が、もわっと阿求に押し付けられた。
それで初めて、阿求は日の高さを顧みて、もうすでに昼は回っている事に気付く。
昼過ぎである事に気付くと、お腹の具合も反応した。しかし、夕食はもう少し先。
大きな道なりに進んでいくと、再び景色が開ける。しかし、遠くまで見渡す事は出来ない。と、いうのも、景色の半分を覆うように霧が立ち込めてきたからである。そして、霧の向こうに見え隠れする湖があった。
阿求の行く先にある道の脇に、長椅子を中心に三方の壁の上に屋根を乗せた簡単な休憩所があった。
休憩所を前に「うん」とうなった後、阿求はそれとなく警戒をしながら、休憩所の長椅子にゆっくりと腰かける。
長椅子に体を預けてから少しして、阿求は自分のすぐ隣の椅子の上に薄紙を敷き、その上に飴玉で小さな山を作った。
そうしてから、阿求はじっと、正面の霧と湖を眺める。
霧の掛からない外枠は空の色と山の色。中心からほとんどは霧の色。霧の加減で現れては消える湖の色と紅も含んだ木々の葉の色。それらが太陽の光と湖の照り返しが鮮明に映る。
千変万化する絵画。
そういった趣で湖を眺めながら、阿求は座右に積んだ飴玉へ手を伸ばす。
しかし、何もつまめなかった。阿求は手だけでなく、視線もそちらに向けてやると、そこには薄紙一枚があるだけで、他には何もなった。
「やっぱり居たか」
阿求はそういうと薄紙をしまい、代わりに膝の上で弁当を広げる。
「まあ、これで安心して食事が出来るからいいけど」
阿求は「いただきます」と一礼し、食事を始める。
閑話休題。
広げた弁当をたたみ、水筒の水を飲む。筆記具を手にして、とりあえず、霊夢と魔理沙の二人に会った事、幽谷 響子を通じて都合が良ければ今日にでも命蓮寺を尋ねる事を書いた。
一息ついて、阿求は立ち上がる。一度、額に手を当てた後で気合いを入れ直す。
「さ、出発しましょうか」
阿求が再出発してから間もなく、獣道との分れ道に差し掛かった。
大きい道をずっと真っ直ぐいけば、毒々しいと表現しても差し支えのない赤い建物が遠くに見えた。獣道の方は、すぐ近くがもう霧の白で覆われていた。
そして、阿求は迷わず獣道の方を選んだ。
昼間であっても霧は深く、見通しは悪い。幸いなのが、道幅は人が擦れ違えるくらいはあるという事。あと、湖の外周に沿って伸びている道だから、湖が左にある位置を確保出来れば、迷う事はない。
霧は冷たく、日も届きにくくなっている。
霧は濃さを、木は茂りを深くして、進むにつれ、日の光は遠ざかる。
その時だった。
ぱきぱきっ……
霧と木々が二重に被さって出来上がった陰を行く阿求は、その道程で木の枝ではなく、氷を踏み砕いた。
阿求の足は止まった。
「地面が『氷って』いる」
阿求は一人つぶやくと、氷った地面の上をわざわざ選んで歩いていく。その氷りが広がる方向は獣道からも外れて草木が茂る所だった。それでも、阿求は意を決して、その道なき道を行く。
氷る地面に導かれる先を、霧の為に阿求がはっきりと見渡す事はできない。しかし、目を凝らせば、うっすらと湖は見え隠れして、大きな行き止まりに向かって進んでいく、言い換えれば、迷いようのない大きな目印に向かって進んでいくという安心感も少しだけあった。
その見え隠れする湖の景色に、濃い青がひらひらと舞っていた。不意に目に飛び込んだ濃い青に、阿求が目を剥いた。
驚き、立ち止まる阿求の視界の奥におぼろげながらも映える青。その青に、もうひとつ青が重なっている様に見えた。
二つの青は、木の葉や霧のように風に舞っているようにも見えた。
そして、二つの青は、今、すぐにでも遠くへ飛んで行ってしまう。
阿求がそんな考えに捉われた瞬間、少女は二つの青の元へ、駆け出した。
勢い良く踏み出した所で地面が抜けた。
沈む。
足首よりも、膝よりも、腰よりも、肩よりも、頭のてっぺんよりも、深く沈んでいく。
私は、落とし穴の上にいた。
『滅多に人が通らない場所に、こんな深い落とし穴を掘る。だから私は妖精が嫌いだ』
そんな事を思いながら阿求は、どすん、と穴の底で鈍い反響音を聞いた。
その後、意識が闇に沈んだ。
「おい、大丈夫か?」
阿求の目を覚ましてくれたのは、頬をぺしぺし叩く柔らかい小さな手だった。
阿求は薄く目を開けはしたものの、視点は定まらず、全てがぼやけて見える。
とはいえ、声の調子から、目の前にいる相手が心配している事だけはわかり、阿求はそれに応えた。
「えっと……大丈夫…………です」
すると、目の前の人物から矢継ぎ早に質問される。
「気になって見に来て正解だ。全く、結構な熱じゃないか。
ところで君、指は何本だ?」
阿求は見たままを答える。
「三本」
「やれやれ、これは重症だね」
ここにきてようやく、寝起きの阿求の視点が定まり、目の前にいる人物が何者かわかった。小さい体にまん丸の耳がぴょんと立てている彼女は、阿求も良く知る妖怪、ナズーリンだった。
そのナズーリンは今、阿求の目の前で右手の人差指と中指の二本を立てて渋い顔を作っていた。
さらにナズーリンはそばに落ちていた飴玉の袋を目敏く見付けて、拾い上げる。
「言い含めた後に与える事で情報を引き出したり、前以て目に付く所に置いて盗ませる事で他の持ち物の安全を確保したり……と、確か、妖精相手の万能道具だったね」
「……はい」
受け答えする阿求の倦怠からくるであろう、うつろさを確認したナズーリンは、飴玉の袋を阿求に手渡した後、ぴしゃりと言う。
「君が今日、ここら辺で何をするつもりだったかは知らないが、このまま帰らせて貰う」
ナズーリンは阿求に有無を言わさず、彼女を背負い、易々と穴から飛び出る。
その時、阿求は自分を落とし穴へと導いた『濃い青』の物体が同じ所ではためいているのを見た。
霧が薄れ、視界もはっきりした阿求が見定めた『濃い青』の正体は、突き立った一本の棒に青い布が巻いてあり、それが風になびいているだけだった。
「あれは……?」
「ん?あれ?」
ナズーリンは同じものを見た。
「ああ、あれは湖釣りが釣り場としてつけた目印だな。この落とし穴も、そういった手合いを狙ってこさえられたものだろう」
「……ああ、意外と考えられているんだ」
そして気付いた。
霧の向こうに見えた青が、棒の先の布によるものなら、それが二つに見えたのは熱にうなされていたから。そもそも、獣道を外れようと阿求が決断して、さらに目印にした地面の氷り具合も、単なる霜柱だった。
阿求は、冬に湧いて出るモノを追いかける余り、普通に冬になれば転がっているモノとの区別がつかなくなっていた。
「冬に化かされちゃったのかなぁ……」
背中のつぶやきを、ナズーリンは聞き流した。
ナズーリンは空を飛ぶ事無く、阿求を背負ってゆっくり歩いていく。湖を回る獣道からそれなりに大きい通りに出る。
ここまで一切会話はなく、沈黙に耐えかねた阿求が口を開いた。
「何しに行ったのか聞かないんですね」
「ん?
ああ。まあ、別に詮索はしないよ。
ただ、君にもしもの事があっては、聖が悲しむ。それだけは心の隅に留めておいてくれ。その上で、命蓮寺の事を思い出してくれ」
阿求はナズーリンがやや遠回しに『何かの時は頼ってくれ』と言われている、と思った。
「……あの、つまらない話なんですけど、聞いてくれます?」
言葉を受け、ナズーリンは少し早足。通りにある簡易休憩所の長椅子に阿求を座らせ、次いでその隣にナズーリンが腰掛ける。
「で、話って何さ」
口調だけはさばさばしていて、その実、細かい気配りを欠かせないナズーリンに、阿求は苦笑いが零れそうになった。
「私が…………そう、稗田 阿求が、『新しい稗田が生まれましたよ』と人里の賢妖やら深山の天狗やらに挨拶回りをしていた時の話です。
私、一度見た物は忘れないんです。ですから、道を覚える事には自信があるんです。
でも、妖精達って、木の枝や草花を少し伸ばしたり縮めたりして、短い間に少し違う風景を作ったり、全く別の所に全く別の所と良く似た景色を作ったりして、道行く人を迷わせたりするんです。
私も人生初めての遠出で、道に迷わされました。どんなに記憶力がすばらしくても、方向感覚が狂い、目の前の景色に疑いが生じれば、何の意味もありません。むしろ、事態は悪化すると思います。
今思えば、妖精は近場に隠れていて、私が歩くごとに風景を変えていたと思います。
まあ、そんなこんながあって、私は夕暮れに森の中で途方に暮れていました。人の通る道からも、かなり離れた所に誘導されたと思います。
そんな折、あの冬妖怪に出会ったんです。
どんな妖怪かは、先代の『幻想郷縁起』を読みこんでいましたから、ある程度はわかっていました。
でも、見ると聞くでは、やはり印象は違いました。
その時の私を見下ろした彼女の冷たい眼差しは、何も知らずに群れからはぐれた別種の生き物一匹に浴びせる物でして、その、何といいますか、私の事を『人間を見る目』で見ていました。
それまでに出会った人里の賢妖や深山の天狗は、あくまで私の事を『稗田の某』という目で見てくれましたが、この妖怪にはそれがない。私が人間で、彼女は妖怪。そこに歩み寄りも話し合いも何もない。
私はその時、本当の意味で『妖怪』に出会いました。
尤も、それらすべて思い返して得た知識。その時の私は、単純に死ぬ事を覚悟して、内心、怯えていました。すると、彼女は言いました。
『また来たの』
もちろん、私、稗田 阿求が来たのは初めてです。彼女は先代の稗田、稗田 阿弥のことを言っていました。お恥ずかしい話ですが、私がそれに気付いたのも全てが終わってからでした。
それから彼女は有無を言わさず、私を妖精の家まで連れて行きました。少し温ってから、彼女は私が好物だったという焼き菓子を振舞ってくれました。それから私を知っている所まで送ってくれました。
別れ際、たまに来るぐらいなら、また焼き菓子を作ってくれるといってくれました」
一気にしゃべって、阿求が一息ついた間にナズーリンは口を挟む。
「それで、今年、会いに行った訳かい?」
「はい。今より冬が深くなると、生身の人間では会うのが厳しくなりますから。
尋ねて来る人間一人の為に冬を弱めてくれるような方ではないですし」
「そうかい」
大まかな経緯は全部話しているだろうが、節々で含みがある事を感じる。ただ、ナズーリンはそれを深く追求しようとも思わない。
それから黙するナズーリンに、阿求は言葉を重ねる。
「実を言いますと、冬妖怪に自分から会いに行くのは今日が初めてなんです。
縁があって何度か顔を合わせた事はありますし、その都度、私の大好きな焼き菓子を振舞って貰うのですが。その、ここだけの話、妖精も含めて今でも、ちょっと苦手なんです」
「で、今年に限って、その焼き菓子が欲しかったから会いに行ったって訳かい?」
「……ええ、そうなんですけど……そうなんですけど……」
阿求はナズーリンの肩にもたれた。熱か疲労か安心か、阿求は意識を失っていた。
「おい」
ナズーリンの呼び掛けで阿求は目を覚ます。
「う…………えっと、よく、わからないんです」
阿求は意識が途切れた自覚すらなく、話を続ける。
「今年に限って、そんなに欲しいのか………」
しかし、阿求が目を開けている時間は短く、すぐに眠ってしまった。
ナズーリンは、このまま阿求を背負って帰ろうとしたが、思いとどまった。
ナズーリンはおもむろに阿求を寝かせると、彼女の飴玉を手にとり、中身を長椅子の上に並べる。
「これで良かったのかな」
ナズーリンは眠る阿求に語りかける。
「時期的にはまだ見付けるのは難しそうだが、これも何かの縁。ダウザーの本領、少しの時間だけ発揮するとしよう。
まあ、見付からなかった時は、御愛嬌という事でな」
ナズーリンは一人、休憩所を後にした。
次に阿求が目覚めた時に見た物は、霧の湖を背後にしたナズーリンの立ち姿だった。
阿求が体を起こすと、ナズーリンは空っぽの飴玉の袋を握らせてから、手に持っていた白いマフラーを阿求の首に巻いた。
「どうかな?」
ナズーリンがそう尋ねた頃には、阿求も寝起きのぼんやりしたものが大分抜けて、代わりにマフラーによる寒さの和らぎをよく実感した。
「寒くはないかい?」
阿求の実感を先読みするようなナズーリンの言葉。それに阿求はマフラーを撫でてから答える。
「だいぶ良くなりました。ありがとうございます」
「へぇ、寒さ除けのまじないってあるものなんだね」
「え?」
ナズーリンとの話が噛み合わなかった事を疑問に思った阿求だが……。
「それじゃ、帰るとしようか」
思考の瞬発力に欠けた今の阿求では、当然ナズーリンのはっきりとした意思表示の方が早く……
「はい」
聞き返す事はなどはしなかった。
阿求は何にも言わずナズーリンに体を預け、ナズーリンも何も言わず阿求を背負ってゆっくり歩きだした。
今は日の入りも早い時期、命蓮寺が見える頃にはもう夕闇が迫っていた。同じ頃、阿求は「だいぶ良くなった」と自己申告して地面に降りたがった。
ろくろく返答はしなかったが、ナズーリンはとりあえず、実際に阿求を降ろすという実行で応えた。
果たして、少しのふらつきはあったものの、阿求はナズーリンの前で直立の姿勢を保つ事に成功した。
ほっと息をついた阿求。ナズーリンの目にはそれが有言実行を完遂できた安堵と認識した、追及はしなかった。
それから、二人は並んで歩き、命蓮寺に付いたころ、阿求は口を開く。
「ナズーリンさん、ありがとうございます。今度、お礼も兼ねて命蓮寺に伺います」
「お礼、ね。次、来る時までに熱を下げて、せめて聖の前では元気そうにしてくれれば、それでいいさ」
「……善処します」
「じゃあな」
それから、ナズーリンは決して軽いとは言えない足取りの阿求の背中を見送った。
阿求が帰りで人里の大通りに差し掛かった頃、そこはもう真っ暗で、寒さが深くなっていた。それに比例して、並ぶ店からぐつぐつと煮えた料理やお酒の匂いが湯気と一緒に道へと漂っていた。
人妖問わず、道行く者は幼い少女に「早く帰れよ」やら「根詰めるなよ」といった声を気さくに掛けてくる。阿求も簡単に応じて通り抜けるが、応じる度に気力と体力を少しずつ消耗して、熱に蝕まれた頭の奥に『重い物』が積み重っていく……ような気がした。
幸いなのは、ナズーリンが用意してくれた白いマフラーのお陰か、阿求は夜の寒さをそこまで気にせず歩いていく事が出来た。
時間が掛かりはした。しかし、やっとの思いで、阿求は我が家の正門前まで辿り着いた。
ここまでの苦労を慰める間もなく、阿求は門をくぐった。
敷地内に踏み込むなり、阿求は不意の冷え込みに襲われて、悪寒にも似た感覚の震えが起こる。
阿求は体を縮こまらせて、思わず白いマフラーを握りしめていた。
歩きながらも、どこか熱にうなされていた阿求は、不意の寒さに頭を冷やされて、却って物を考えるだけの余裕を少しだけ取り戻した。
阿求は、玄関に行くまでの短い間にこれから何をしようか考える事にした。
思いつくのは以下の四つ。
お風呂に入る。夕食を食べる。今日の事をしたためる。もう寝る。
お風呂に入る。落とし穴の所為でついた泥を落としたいと思うも、熱がある上に寒い事を思えば、今日は着替えて顔を拭く程度で済ませようと思いなおした。
夕食を食べる。順当にいけば、それが正しい。しかし、熱の所為だろう、食欲が全く湧かず、転じて無理して食べようという意欲も湧かない。
もう寝る。体を大事に思えば、それも正しい。肉体も休息を求めているが、阿求本人の意思はそれを受け入れる前にひと仕事をこなしたいと譲らなかった。それに今日という日を思い返すと、踏んだり蹴ったな上に他人に迷惑を掛けただけ、このまま寝ても枕を高くして寝られないだろう。
そうして、阿求は最も不健康な選択、今日の事をとりあえず文章にまとめる事をしようと心に決めた。
食事もままならない程に疲労困憊の阿求の目に、玄関の戸を開けてすぐ飛び込んできたのは、白い布を被された何かが、ぽつんと置かれている、という光景だった。
白い布を被された何かは、丸くて平ら、けれどもそれなりに厚みはある。阿求は最初、大きなどら焼きが布の下にあるのだろうかと疑った。
すると、白い布を被された何かの隣に紙が一枚。それを手に取った阿求は、一筆添えられている事に気付き、思わず、声に出して読み上げる。
「『よき冬を』……」
読み上げた後で「あ……」と小さく声を上げた阿求は、すぐさま白い布をめくる。
そこにあったのは大きなタルト。まんまるい生地に沿って、輪切りのサツマイモが綺麗に敷き詰められていた。
阿求はタルトを両手で持ち上げて、間近でまじまじと見詰める。それから、鼻孔をくすぐるアーモンドの香りに誘われて、ぱくりと一口。
噛むごとに口内でぽろぽろと崩れていくサツマイモ、その上にまぶしてあった粒の大きいざらめ糖をがりがりと噛み砕く。それからサツマイモの下、アーモンドクリームがとろとろに溶けて口の中に広がっていく。崩れて、弾けて、とろけて、それぞれに自己主張を始めた三種類の甘みが、ひとつになって喉を通る。
阿求はそれから一息つく前に、靴と外套を脱ぎ捨てて台所に向かい、朝に作り置きした紅茶で喉を通してからやっと一息つく。
程なくして、紅茶をカップに移し替え、もう片方の手に箸を持って玄関に戻ってきた。
そして、タルトの隣に腰かけると。
「いただきます」
……の、合図の下、お箸でタルトを小さく切り分けて、二口目、紅茶、三口目、紅茶といった塩梅で、緩い勢いながらもするすると食は進んでいった。
トルテで満たし、紅茶で潤う度に、阿求はこの冬妖怪が創ってくれたトルテが大好きだと改めて実感する。
ただ、大好きだと感じる毎に、阿求は少し不思議な気持ちにさいなまれたりもする。
恐らく先代の阿弥は、このトルテを阿求と同じように楽しんではいなかった、という事が脳裏を過ぎるのである。
というのも、稗田 阿求はこのトルテを食べる時は紅茶を欠かせないと思っていた。それこそ風味もへったくれもない、くたびれた作り置きの紅茶ですら、必要になる。
そのせいもあって、阿求は少しずつ紅茶を嗜む時間が増えていった。しかし、先代の阿弥はどうやらそうではなかったらしい。
生まれて初めて、このトルテを食べた時に紅茶をねだって、冬妖怪が少し驚いたのをよく覚えている。きっと、先代の阿弥はこのトルテに、紅茶も何もなく、それだけで楽しんでいたのだろう。
そして、もうひとつ不思議に思う事がある。
先代は好物を振舞ってくれるぐらいには冬妖怪と懇意であり、転じて妖精とも仲が良かったかもしれない。
くだんの冬妖怪の立ち位置は、いわば妖怪と妖精の領分がやや曖昧に重なった場所であり、そこに観察対象としての価値を見出すのなら、その交流自体は充分納得出来る。
しかし、しかしである。歯抜けの酷い前世の記憶をさらっても、彼等の参上する場面と会話の中身の程度は、他の妖怪達と余り変わらないような気がする。
手掛かりを求めて先代が編集した『幻想郷縁起』を紐解いてみても「冬妖怪は人間と仲がよくはないので下手に近付かず、注意を払う事」「妖精と仲よくなるのは極力控える事」と記されているのみ。これはおおむね阿求の見解とも、そして、代々の稗田の見解にも大差ない。
考えられるのは、程々に付き合い、感情を文章に残す事はしなかった。そして、先代の稗田 阿弥は、かの冬妖怪や妖精達に何を想っていたのかを残さないまま亡くなった。いや、残っていた記憶はあったかもしれないが、それも代替わりした稗田 阿求は忘れてしまっている。
結局、先代の阿弥がその時どうしていたかを知る術は、冬妖怪にその事を根掘り葉掘り聞いていくより他にない。ただ、妖怪相手に人間の機微がどうだったかを聞きだそうと言うのは徒労にしかならないだろう、と阿求は思う。
あの冬妖怪は妖怪のままで、妖精も傍迷惑な存在でしかない。阿求はそれに本当の意味での嫌悪は少ないが、苦手である事は認めている。
阿求が、ふぅ、と息ついた。
タルトを食べ始めてから、妙に頭を回したがる自分を、少しおかしく思った。
そこまで思考にふけっていながら、次に阿求が真っ先に思い浮かべた言葉は、
『だから、どうだというのだろう』
この好物のタルトと、それにまつわる話。妖怪が怖いと思いました、妖精が嫌いになりました、紅茶が好きになりました、先代の阿弥と自分はちょっと違うという気がしました。
ここら辺の事は、生まれて初めてタルトを食べたその日の内に答えは出ていた。そんな事を蒸し返してみても、タルトの美味しさが増す訳でもないというのに。
阿求の中に湧いて出た疑問は、独り言となってもう少しはっきりとした形を伴う
「このタルトは好きだけど、微熱の体を押してまで欲しがるものでもないのになぁ。
私ってそんなに食い意地がはってたかな。
思い付く事も今更って思う事ばかりだし、こんなの、何かの話のタネぐらいにしか……」
阿求はそこで止まった。
自分で口にした「話のタネ」という単語が引っ掛かった。
話のタネ、それは誰とする時の?
「ああ、そっか。
私、このタルト。白蓮さんと一緒に食べたかったんだ」
そんな言葉を口にした時、阿求は明日、タルトを包んで命蓮寺に行こうと思った。
さて、ある意味で、深く根付いた熱を乗り越えて我に返った阿求は、翌日の主役になるであろうタルトを、自身が3分の1も平らげ、時計に例えるなら綺麗に「8時」の形で残っている事に気付いた。
さらに今現在の自身の行い、玄関に置かれていたお菓子を、夕食もとらずに、紅茶まで用意して、そのまま玄関で頬張っている事にも気付いた。
ちなみに、落とし穴におちて泥だらけになったり乱れたりの髪や衣服と、マフラーが巻きっぱなしである事には気付かないふりをした。
阿求は思った。
もしも、今の自分のこんな有様を聖 白蓮が見たらどう思うか。
一気に血の気が引いた。倒れそうになった。
熱があるにはあったが、もうどうでも良くなってしまった。それどころか、また別の意味で頭が重くなってしまった。もしこのまま、新種の頭痛に負けて横になってしまえば、最悪、朝まで起き上がれない。
そこで阿求は奮起した。75度に傾いた頭の角度を垂直90度に持ち直した。
同時に、別に事態はひっ迫してはいないのでゆっくりやればいい、という事にも気付いて、肩の荷が少し降りた。
人間とは不思議な物で、心が軽くなると思考も軽やかとなり新しい考えが生まれる。
これからの予定、タルトを片付ける、寝巻に着替える、そして寝る。阿求はそれで今日を終わらそうと考えた。他の事は一切しない、今日のまとめは明日にしよう、明日の事は明日考えよう、食べかけのタルトを誤魔化す方法も明日考えよう、全部全部明日にしよう、と。
そうと決まれば善は急げ。阿求が行動に移り、タルトを両手に持ったその時。
「夜分、遅くにごめんください」と、清澄でいて、隅々までよく通る声が響いた。
「きゃあ」
阿求は思わず悲鳴を上げてしまった。こんな時間に訪ねてきたのが誰か、声だけで即座にわかってしまったから、余計に驚きを堪える事が出来ず上げた悲鳴だった。
そして阿求は、自分の悲鳴を聞きつけ、一目散に駆けてくる、とても力強い足音を聞いた。
あー恥ずかしい
後書きも含めて美味しいSSです。
読んでいてその情報量に頭がついていかなかった感じがありました。
でもそれが白蓮・阿求の造形の深みにつながっているので難しいバランスですが。
レティの存在感がすげぇ。