無人の夏の中央に、博麗霊夢は立っていた。
「暑い」
呟く。
手を翳して空を仰ぐと、山々の峰の遥か向こうに雄大な積雲が連なっている。遠すぎて現実感がなくて届きそうもなくて。白く濁った大気と覆いかぶさってくる油蝉の鳴き声が、書割の穴蔵に閉じ込められたかのような、奇妙な圧迫感を強要してくる。
博麗神社の境内。
古ぼけた鳥居から本殿へと続く、焼けた石畳。
綺麗に敷き詰められた同色の砂利。
その途中に霊夢は立つ。
時折思い出したかのような空の息吹が彼女の髪を揺らすけれど、涼風には程遠くてジリジリと肌を炙るのみ。じっとり浮かんだ汗。したたり落ちるまではいかないが、洋服が若干不快に張り付いている。
何処を見ても、影のかたちが変わらず、濃く、くっきりと直下に落ちる。
ずっと同じ輪郭、みたいな気がする。
自分はそんなに永い時間ここにいるのだろうか?
夏がみせる幻が、時間感覚を奪って、返してくれない。
そう考えさせられるぐらいには、夏の白日は強力無比だった。
若干とはいえ不安になるぐらいに、彼女はここで独人だった。
何処からともなく飛んできた紅白の蝶がいた。
森から森へ、日陰から樹陰へ。日光に押しつぶされそうになりながら、地面を這うかのように飛んでいく。霊夢は黙してそれを目で追う。
昨日も一昨日も、おなじ蝶を見た気がする。
昨日も一昨日も、同じように飛んでいた気がする。
明日も同じように、紅白の軌道をなぞっているんだろうか。
疑うその記憶すらも、きっと繰り返しだ。
虫眼鏡で凝集された夏の光に焼かれて、あっという間に燃え尽きてしまう。
夏をかき乱す音がやってくる。
空っぽのがらんどうがゴロゴロと転がってくる。神社の裏側から。
振り返れば、霊夢の身長ほどもある巨大な桶が自走していた、ように見えた。
もちろんそれも真夏の幻想で、その中で見知った少女が歩きながら転がしていたのだ。
サァカスの玉乗りの要領である。
「器用なことするわね」
「私は基本的に多芸だ」
「器用貧乏だけどね。暑すぎて、奇妙な幻でも見たのかと思ったわ」
「それは悪かったな、そんなに面白いものが視えるのなら邪魔するんじゃなかった」
霧雨魔理沙。
それなりに汗だくの自称・魔法少女である。
「どこからこんなものを拾ってきたのよ」
「これを私が何処ぞより持ってきたように思うのなら確かに相当な熱中症だな。ただ、それをじっと傍観しているだけっていうのもはなはだ興を削ぐ気はしないか」
「夏に蜃気楼はつきものだわ。いもしない蝶が見えたりする。実存していても、脳裡の中だけでもね。目の前のあんただって例外じゃないよね」
「それには同意するが、おおよそ私は正気だ。第一、お前の家の蔵に仕舞われてたんだから覚えがないっていうのもおかしな話だぞ。酒でも仕込んでいるなら別だけど」
「うちにいつからあるのか分からないものを全部把握していろなんて、お釈迦様が孫悟空の飛んだ道をわざわざ覚えてなきゃいけないようなものだわ」
霊夢にはぐらかすような素振りはないが、鎌をかける魔理沙は皮肉げに笑っただけで堪えない。
「なら今度から管理することだぜ。こんな桶があるんだから、風が吹いたらさぞ儲かるに違いない」
「大山鳴動して鼠一匹で終わりよね」
魔理沙は霊夢に手伝わせて桶を立てると、持ってきた年季物のゴム製ホースを示した。黒くてやたら長い。
「暑い時は水浴びに限る」
「こんな神様の目の前でやることじゃないでしょうに。湯殿をつかいなさいな」
「インスピレィションは大切にしなきゃ。しかし、霊夢のところには時折へんなものが転がってるよな」
「火事に備えるのは悪いことじゃないでしょうに。あんたのところも山火事が起きたら一瞬で灰よ」
「五行相剋だよ。人がむやみに触れなければ上手くいくようになってる。まあその法則をかき乱すのが魔法使いの仕事だが」
「いっとくけど、井戸のポンプは手伝わないわよ。これ溜めるの結構な作業だと思うけれど」
「私は眼前のお宝を手に入れる時には無駄に手を抜かないタイプだ」
事実、そのとおりであった。
ホースが設置され、霊夢がその先端を握って待っていると、裏口から水が押取り刀で伝ってきて、大きな桶へと吐き出され始めた。古いホースのあちこちに穴があいていて、水がちょろちょろと漏れているのが見える。
魔理沙はよほど退屈を持て余していたのだろうか。途中で飽きることもなく、我慢強く送水を続けた。遮るもののない日差しが相変わらず霊夢を炙っていたが、彼女は徐々に増える水嵩と、そこから緩やかに感じられる冷気を心地よく感じていた。
乱雑な水面に揺れる夏陽の眩しさ。
「という訳でお先に」
六割がた水の溜まった桶。
一層汗だくになった魔理沙が走ってきて、そのまま桶に飛び込んだ。
かろうじて靴は脱いでいた。
「ちょっと! 何するのよ! 服を着たままじゃない」
水飛沫がはねる。霊夢が手の甲でそれを拭う。
「結果は成した努力についてくるものさ」
涼しい顔をして湯船に入っている王侯貴族が如き表情で魔理沙は笑う。帽子を手桶代わりにして水を含ませ、そのまま頭から豪快にかぶる。彼女の跳ねた金髪が無数の雫に彩られる。上気した頬を紅く染めて笑う。
「霊夢も入らないのか」
「私はいいわよ。服濡らしたくないし。あんたみたいになりたくないし」
「そうかい」
霊夢は桶の縁によりそって、手で水を掻いている。
本当にそれだけでも気持よかったのだ。
だけど、水を司る姫君は満足できなかったようだ。
一瞬そっけない態度を取ったようにみせかけて、素早く霊夢の手を捕まえた。
「あ、ちょっと、待ちなさい! なにをするの」
「私は霊夢の想像力を常日頃から評価してるからな」
悪い予感も抵抗する間もあらばこそ。
霊夢は頭から引きずり込まれた。
そのあとはお決まりだった。
壮絶な取っ組み合いをし、
水の掛け合いをし
押し合いへし合いしたところで桶が危険に軋んでいるのに気づいて慌てて静止して。
乱闘の結果、水位が低くなっているのでじゃんけんをした。
霊夢が負けた。
この上ない理不尽さを感じながら、井戸の前でポンプを上下させた。必死で。
霊夢はもう、着衣のまま水にはいるのを躊躇わなかった。
ぐったりとした感じで、魔理沙ともども水に浮かぶ。
軽く感じる体重。
重く感じる疲労。
今はそれさえも気持ち良い。
「なんだか、八岐大蛇に捧げられるお酒になった気分ね」
「首狩りな神様の前座なんてぞっとしないな」
魔理沙が首をすくめている。
「……あ。あー」
「なによ」
「一体全体、いつまで夏なんだろうな」
「夏が終わるまででしょう」
「そりゃそうだが、この場合はそういう哲学めいたことを聴いているわけじゃない」
「お天道様が気まぐれで夏や冬を入れ替えたら困るでしょ」
「それでも時に理不尽な欲求に衝き動かされるのが人間ってものだからな」
「んじゃ、鏡に映っている悪い魔法使いにでも頼むといいんだわ」
「謙遜で言うわけじゃないんだが、悪の大魔導師にはほんのちょっとだけ実力が足りないんだ。そういうのは外部に委託したいところ」
魔理沙は揺れる水面を指で二度三度つついて、丸い波紋を作っている。
「どこかにいないかな。夏が嫌だからって霧を出したり、終わらない夜を作ったりするあくどい奴」
「傍迷惑な」
「気持ちは共有できるぜ。なにしろこの盛夏だし」
「魔理沙は夏は嫌いなの?」
「大好きだが」
「でしょうね」
霊夢だって、夏は嫌いじゃなかった。
秋や冬や春に待ち遠しく思うくらいには。
無言。
油蝉の輪唱が続いている。
しこたま水遊びをした後、さすがの霧雨魔理沙も疲れてしまったのか桶を出て服を脱ぎ、下着姿のまま社務所の縁側に転がってしまった。いぎたなく大いびきをかく姿は後世まで記録を残したいところだったけれど、生憎と霊夢はその手段が思いつかなかった。
疲れていたし。
だから、後始末のことなど、あの金髪頭には最初からなかっただろう。
四苦八苦して桶から水を抜き、ホースと合わせて物置に仕舞い直した頃には、あれだけ周囲にまき散らした水分は再び乾ききってしまっていた。
霊夢は井戸でもう一度だけ水を被り、再び境内に戻った。
結構な時間を幼稚な遊びで費やした気分だったけれど、太陽は依然として中天にある。
錯覚だろうか。
この夏が永遠に終わらない、かのような。
体中の水分が陽炎になっていくかのような幻想。
遠く高く空には、雄大に聳え立つ積雲。
形は変わっているだろうか、どうだろうか。
そこで小さく、何かが煌めく。
白い閃光。
数秒して、遠雷が響いてくる。ゴロゴロ。転がる桶のように。
それは不意にやってきて、視界を全部覆って、すべてを変えてしまうのだろう。
一体私は、明日もあの紅白の蝶を視るのだろうか。
それとも。
今度こそ、何処でもない何処かへと飛んでいってしまったのだろうか。
終わらない白い夏。
遠雷が再度聞こえた。
まだ賑やかになる前の幻想郷、紅魔郷や妖々夢にあった頃の雰囲気がにじみ出ていて、この空気感が好きな人としては大好物でした。
これぞ二次創作、という感じでとっても素敵なSSでした。ありがとうございます。
夏の日陰の静けさとでもいうのでしょうか。決して暗いわけではないのですが。
あの暑い日々の記憶が蘇るようでした。
なんとなくほのぼのしてて寂しい感じかしました
雰囲気が素敵でした。
そしてとても寂しくなってしまうに同意。
せめて行水はドロワ姿でしてほしかったw
こんなに寒い日でも、脳裏にしっかり夏の神社が浮かびました。
雰囲気最高峰。