「最近、嫌な夢を見るんです」
「そうなの、どんなの?」
「内容はよく覚えていないんですが……」
「どうでもいい夢ってことかしら」
「そうでもないような……」
「一人で寝れなくなったら、添い寝でもしてみる?」
「そ、そんな子供じゃないんですから……」
「そう言ってるうちが子供ね。夕飯は何?」
「はいはい、今作りますので」
ある日、そんな一幕があったという。
※※※
植物が枯れ、虫が嗄(か)れる冬は静けさに満たされている。冥界の白玉楼もその例に漏れず、幽々子がお茶をすすった音が、居間には鮮明に響いていた。
「いつも冥界にいるけど、たまには遠くに行ってみたいわ」
「なんですか唐突に」
幽霊の思考はよくわからない。どことなく地に足が着いていない感じがする。半霊の妖夢も幽々子の言っていることは半分程度しか理解できない。
「だって、退屈なんだもの」
「いや、退屈って、そりゃそうでしょう」
雑務を従者に任せて、日がなごろごろしているだけの日々が退屈でないはずがない。
「どうしようかしら。紫が言う『外の世界』とか見てみたいんだけど」
「そんな気軽に行ける場所なんでしょうか」
「さぁ? だめなら、なにか起こらないかしら。それとも、起こしてみようかしら」
「起こしたって、迷惑がってくれる相手がいませんよ」
「迷惑かけるの前提なのね。ひどいわ」
「かけないんですか?」
「かける。あなただけに」
「私だけ!?」
「だって、他にいないし」
冥界には色鮮やかな自然がある。冥界には様々の生物がいる。しかし、鳥は鳥の霊、虫は虫の霊、獣は獣の霊に過ぎない。幽霊なんかとは話すことも触れることもできず、いたずらの相手は限られる。
「ほら、紫様とかは?」
「今頃寝てるわ」
「その式神とか」
「てんてこまいね。色々と」
「私も割とてんてんこまい……」
「今度休みをあげようか?」
「え、あ、いやそういう意味で言ったのでは」
ぶんぶん。妖夢が首を振る。生まれてこの方幽々子に仕え、休みも給料ももらったことがない。不満もない。それが当たり前のことだったし、主のために尽くすことを生きがいだと思っている。その様子を見て、幽々子は思案げだ。
「たまには、休んでもいいのよ? 私も家事くらい一通りできるし」
「そんなことをやらせるわけにはいきません」
「むー。つまらない。つまらないわ。あなたぐらいの年ならもうちょっと遊びまわったっていい」
「でもなぁ、仮に休みをもらったとして一緒に遊ぶあい……」
……
……
……
言葉が途絶える。妖夢はなにか気づいてはいけないことに気づいてしまったみたいな顔で口を押さえた。
「どうしたの?」
幽々子の疑問。「えっと、あっと」しどろもどろに答える妖夢。
「ああ――」
だが幽々子の明晰な頭脳は、瞬く間にその答えを導き出した。
つまり。
「友達が――」
「せめてもっとオブラートに包んだ言い方にして!?」
「じゃあ、遊ぶ相手が――」
「変わってないです! 変わってないですよ!」
「つまり、ひと」
「一人じゃないもんっ!」
「もん?」
「え、あ、うー……うあぁ……」
顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。生まれてこの方ずっと白玉楼の庭師として働きづめだった。休みもなけりゃぁ同僚もいない。そもそも冥界にゃ人がいない。出会いもなければ別れもない。妖夢にはおおよそ友達と言える相手がいない。なんだかそれが気恥ずかしい。なにか言おうとするのだが、言えず。
混乱していた。
「別に、それくらい恥じることも――」
「……ない……」
「あなたがそれだけ尽くしてくれたということでもあるし――」
「ぼ……じゃない……」
「なんなら今度――」
「ぼぼぼぼっちじゃないです!」
「えっ……えっ?」
妖夢が言った。
目を白黒させる幽々子。
「なんて?」
聞き返す。
数秒の間。
……
「ぼっちじゃ……一人じゃないもぉーっん!」
引くに引けなくなった妖夢はことさら恥ずかしそうに叫び。
言い捨てて、逃げ出すように走り去る。
それを、不思議そうな目で幽々子は見つめていた。
幽霊の思考はよくわからない。どことなく地に足が着いていないのだ。半分幽霊の妖夢の言うことも、半分くらい意味不明である。
半人分の体温と騒がしさが去った白玉楼の居間には、ただ静寂だけが残る。
ずず……。
何事もなかったかのようにお茶をすすった幽々子は、空っぽになった湯飲みを眺める。
おかわりを自分でつぎたすと、まぁそのうち戻ってくるでしょうと暢気そうに呟いた。
※※※
時は変わって春。場所は変わって博麗神社。
宴会の開かれた神社には多くの妖怪や人外や普通の人間以外が集まり、騒ぎ、大いに飲み交わしているものであった。
篝火のたかれた境内には月明かりが炯々と差し込んで、かつ、そこらにいるものみながやたら明るく騒いでいるので、ものによっては眩しいほどである。
アリス・マーガトロイドもその口だ。
普段から暗くじめじめしたところに住んでいる彼女は、どうにも今日は気分が乗らない。ちびちびと飲んで、ちびちびと喋り、ちびちびと空気のようにそこにいる。
あたりを見回していたアリスは、ふとある人物に目を留めた。銀色の髪、白と緑の服を着ていて饅頭のような物体が傍に漂っている。見た事のある顔だった。宴会で、何度か。その何度かの全てにおいて、端っこのほうでちびちび飲んでいたのを覚えている。
奇妙な、シンパシーがあった。
(確か……魂魄妖夢、だったかしら?)
冥界の半人半霊といえば、先の春雪異変の元凶の一人……らしい。あの異変を解決しにいった三人から聞いた話だ。
冥界は死者の世界である。死者との生活に慣れすぎた彼女は、生者とどう付き合えばいいのかわからないのかもしれない。
(せっかくだし……お話してみようかな? ほら、あれよ。馴染めない人を……いやまぁ半分人じゃないか……引っ張り込むのも、お姉さん的ポジションとして大切な行動よね。うん。別に……皆のテンションについていけなくて寂しいわけじゃないけど……)
立ち上がるアリス。
月と同じ色をした髪を、月明かりにさらしながら歩いていく。
夜気に清冽な蜂蜜色に、半人半霊の庭師が顔を上げる。
その瞳が奇妙な色を含んだように見えたが、その正体はわからなかった。
「隣、いいかしら?」
「ああ、うん、ええ」
うなずく妖夢。
座り込むアリス。
「……」
「……」
お互いに無言で、酒を二口三口煽った。
「えーと……」
「……」
「魂魄妖夢……さん? だったっけ?」
「ええ」
「……」
「……」
無言。
アリスは思った。
(話が続かないーっ!?)
見れば、妖夢はこわばった表情で杯を見ている。おい。なんだそれ。今から急性アルコール中毒で自殺でもするのか。そーれ! いっき、いっき!
(ああいやそうじゃあなくてっ! ほら、きっと、彼女も緊張しているだけだわ。人見知りなのよ、きっと。勇気を出すのアリスっ。あなたはやればできる子超天才っ。七色の人形遣いに不可能などないっ……!)
「えっと、一人が好きなの?」
口をついて出た言葉がそれだった。
(ないわー! それはないわー! 明らかに馬鹿にしてるっていうか一人が好きならそもそも宴会に来ないでしょーが……! うわぁうわぁどうしよう……不快に思ってなきゃいいけど……)
ちら、ちら。
ちら見するアリス。
妖夢はなにやら思案げな表情をしていた。
(どこに考える余地があったの!? というか本当にそういう人だったの!? ああうーん……余計なおせっかい焼いたかもしんない……)
「いや、別に好きなわけじゃあないわね」
ようやく返事が返ってきた。
とりあえず、言葉のキャッチボールが成立したことに安堵。
「ああうん、そうよねぇ」
「あなたは一人が好き?」
「いや、あんまり。でも実験してるときとかは、一人のほうがいいわ」
「魔法使いの方?」
「人形遣いの方」
「知ってる」
「あ、知ってたの」
「人間の里で人形劇を開いてるんでしょう」
「人里にも行くのね」
「食材を買いに行ったりとか、なんとかで」
「あなたは……はくぎょくろうで庭師をやってるんだっけ?」
「庭師のようななにか」
「なんとなくわかった」
「わかったの!?」
間の抜けた妖夢の声。
固い表情と声が崩れたのを見て、なんとなくわかった。
(この子は、こっちのほうが素っぽいわね。……あれ、なんか……んん? ……いや、気のせいか)
「いやまぁ、幻想郷の従者的立場の人たちは、だいたいどこか外れてる法則が」
「どんな法則なのよ」
「自分のことほどわからないものはない。あなたにはわからないかもしれないわね」
「魔法使いという種族は相手もわかっているのを前提に話を進めるわ。あなたにはわからないかもしれないけれど」
「心外ね。私は鏡に映る」
「幽霊が映らないというのは迷信です。映らないのは、吸血鬼くらい」
「確かに、彼女はあまりかえりみない」
「吸血鬼の知り合い?」
「魔女仲間の友人の、友人が吸血鬼」
「面倒くさいから、知り合いってことでいいんじゃないかしら」
妖夢が言う。それもそうかとアリスはうなずいた。
考える。
(話してみると、そんなに人見知りするって感じでもないけど……私みたいに、ノリについていけなかったのかしら? これがほんとのノリおく……ああいや、なんでもない。なんでもない)
「しかし桜が綺麗ねぇ」
くだらない駄洒落を抹消するため、空々しく話題をふってみる。
神社の周囲に咲き誇る多くの桜。幻想郷は春真っ盛り。
「……」
妖夢は沈黙した。
(あれー?)
いい天気ですねーみたいなノリで気軽に言ったのだが。
みょんに表情が固い。
「どうしたの?」
「あ、いや、なんでもないの」
「もしかして嫌い?」
「……嫌いじゃないわ。むしろ好き。白玉楼の大広間から障子を開けると、ちょうど壁や天井にはさまれて一枚の絵みたいに桜の木々が見える」
「それは……一度見に行ってみたいわね」
「生者があまり、死者の世界に来るものじゃないよ」
「あなたは生者じゃなくて?」
「半分死んでる」
「あなたは死者じゃなくて?」
「半分生きてる」
「あいまいね」
「たまに自分でもわからなくなるわ」
「へぇ」
そりゃ難儀なものだ、と息をつく。
「でもまぁ、私は冥界の庭師ですから、たぶん死者で正解なんでしょう」
「ふぅん。庭師っていうけど……白玉楼には他に家主がいるのよね?」
「そうだけど、どうして?」
「宴会に来てるのも見たことないし」
「……今は遠くに旅立っているの」
「死んだみたいな言いかたね」
「最初っから死んでいる」
「どんな人?」
「よくわからない人」
「……なんだかあなたが、いじくられてるところが目に浮かんだわ」
「……」
妖夢はぷい、と顔を背けた。
アリスが笑う。
「図星ね。それも少し見てみたい」
「……あまり、からかわないでよ」
「私にも白玉楼の主の資質があるってことね」
「……」
「?」
「白玉楼の主は、あの人だけです」
「あ、ああごめん」
怒っているふうではなかった。冷厳な表情でもなかった。どこかこわばった表情で言う妖夢に、アリスは謝る。この話題はもう少し慎重に扱ったほうがよさそうだと思った。
「……」
「……」
お互いに、無言。
(うーん……妙な空気になってしまったわね……なにか取っ掛かりは……)
目が、妖夢の腰元に吸い寄せられる。
「そういえばその腰の」
妖夢の腰には一本の刀が帯びられている。他に刀は見当たらない。
「魔理沙や霊夢からは、二刀流だと聞いたんだけど……」
「もう一本の刀はすごく大きいから。よくつっかえるし。まぁ、元々は二刀流」
「そっちの刀も見てみたいわね」
「なんのために?」
「最近、人形に持たせる武器にもこっているのよ」
アリスはふふ、と笑った。
「西洋風の人形に、日本刀はあわないと思うけど……」
「それはほら、あれよ。ギャップ萌え?」
「もえる? 火が出る……芽が出る……ん……?」
「ああえっと……なんでもない」
「気になるわ」
「気にしないで。お願い」
「?」
割と切実に頼み込んだ。
逃げるように目を逸らすと、だいぶ傾いた月が見えた。
「そろそろ、宴もたけなわかしら?」
「そろそろ……帰ろうかな」
「帰るの?」
「帰るの」
「そうだ。今度私の家に来てみる? 刀を持った人形も見せられるかもね」
「いえ、やめておきます」
「あらら、ふられちゃったわね。たまには、いつもと違う人と話したくなるんだけど」
「あなたと話すのは楽しかったけど……ううん、でも、やっぱり……」
最後は独り言を呟くと、立ち上がり、背を向ける妖夢。
お互いに別れの挨拶を交わして、その日はあえなくお開きとなった。
※※※
ぴしゃーん!
幽々子が白玉楼でのんびりごろごろしていると、勢いよく障子が開かれた。
「妖夢?」
妖夢が立っていた。目をらんらんと輝かせて、息も荒く、希望の光に満ちた瞳が幽々子のほうを見つめている。
なにこれこわい。
ちょっと引いた。
「幽々子様! 私今日話しかけられました……!」
「ん……え?」
「今日、私話しかけられたんです……!」
「あ、ああそう……よかったわね」
「はい!」
妖夢はとても元気よく返事した。
模範といっていい「はい」だった。
「えっと、それでどうしたの?」
「少しだけど色々話をして、別れました」
「そう……」
「もう、友達がいな……ああいやまだ友達って呼べるほどのものでは……えぇと……話す相手がいないだなんて言わせませんよ……!」
意気軒昂たる宣言。妖夢のご機嫌の理由を理解する幽々子。極端な子だなぁ。いつか騙されるんじゃないかなぁ。いっそ箱入りにしといたほうがいいかしら。でもそれだと未熟なままだなぁ。もう少し落ち着いてほしいなぁ。色々と。
「まぁ、とりあえず座りなさい。話はそれから聞くから」
「はいっ」
妖夢は適当に座布団を引っ張ってくると、これも勢いよく腰を下ろした。およそいつもの二倍の溌剌さである。人一倍。
「それでですねっ! 今日人形遣いの魔法使いのですねっ! アリスさんにですねっ!」
嬉々として語り始める妖夢を見ていると、なんだか気分がほわほわしていくのを感じる。
幽々子は穏やかな表情で耳を傾けた。
しようがないなぁ、全く……だなんて考えながら。
今日も静かな昼下がりは過ぎていく。
※※※
幻想郷は辺境の地である。そんなに広くもなく、「山」といえば妖怪の山、「森」といえば魔法の森だと即座にわかる程度だ。なのでそもそも魔法の森を魔法の森などと呼ぶ必要はない。それでもそう呼ばれるのは、森に生える数々の化物キノコが魔法のような幻覚を見せるからである。
この幻覚は一般人にとっては害でしかない。なんだか瘴気とか湧き出ているしじめじめしているし、普通の人はほとんど寄り付かない。
のだが、この幻覚は魔法使いの魔力をしばしば高めてくれる。魔法の材料に事欠かないし研究に没頭しやすいし、魔法使いには人気があった。
その森をさも当然のように歩いているものがある。
少々癖っけのある髪を風になびかせて、人形のような服を着た人形のような少女だ。
周囲に人形をいくつも従えて、手にはいかめしい本を持っていた。
「あーるーこー、あーるーこー」
どうも、散歩をしているらしい。
水気を吸って離さない地面を綺麗な靴で踏みにじりながら、陽気そうな歌を口ずさんでいる。
陽気は伝播し人形たちは舞い、踊り、じめじめと暗い森の中でそこだけ切り取ったように異色を放っている。
「あら……?」
そんな、アリス・マーガトロイドの目に飛び込んでくるもの。
きょろきょろと目線がせわしない、ふらふらと足取りのおぼつかない人影があった。
誰だろう。近づく。銀色の髪、シンプルなデザインの服、腰に挿した刀と、傍に漂う半霊。
(妖夢……? どうしてこんなところにいるのかしら。普通、迷うことはあっても迷い込みやしないはず……うーん……?)
怪訝さを顔に表しながらも、話しかけてみる。
「どうしたの?」
「あなたは、アリスさん……?」
「だからどうし……」
言葉を切る。
妖夢の異変に気づいたからだ。
顔はこっちのほうを向いているが、その焦点が合っていない。階段を踏み外したみたいな奇怪な足取りであって、半霊は幾何学的に飛び回っていた。
(まさか……)
嫌な予感がする。
「えっと、大丈夫? あなた、今、なにが見えてる……?」
一語ずつ言い聞かせるように問う。
「魔法の森にも、桜の木はあったのね」
「ん?」
「そこら中に花びらが舞っている……あと、蝶が飛んでいるわ。たくさん、たくさん飛んでいる……」
「思っきし幻覚見てるぅー!?」
「なにを言っているの?」
「いいからちょっとこっち来なさい! この森は慣れてない人には危険なの!」
ずかずか。アリスは妖夢の腕を取って歩き出した。変わり映えのしない魔法の森の風景の中を、迷うことなく歩いていく。強引に手を引っ張られて、妖夢は何度も転びそうになっていた。
やがて、アリスの家に着いた。薄暗い森の中で浮き出たように明るい洋風のたたずまい。カーテンの開けられた窓からは、人形のいくつも飾られた室内がうかがえた。
ドアを開けて靴を脱いで脱がせてリビングまで引っ張り込む。ソファに放り投げると、幻覚作用を薄める効果の薬を探し始める。
「ああもう……これでもない……あれでもない……」
「ああもう幽々子様なにをやってるんですか……棚を漁って……今日のおやつはもう食べたじゃないですか……」
「私が探しているのは薬!」
「病気なんですか? なら部屋で休んでないと」
「私はアリス! しっかりしなさい!」
「あれぇ? でも幽々子様だし……あれぇ? 悪ふざけ? もう、からかわないでくださいよー」
「なーもうまどろっこしい!」
アリスは苛立ちを床にぶつけながら妖夢へ近づき、肩をつかんだ。がくがく。ぶるぶる。前後左右にゆさぶる。
「ほらー! 起きろー! 朝よー!」
「今は夜ですよー……ほら、あんなに桜が美しい……幽々子様……うぅぅ……うわああああああああああああああああああああああああああああ」
「きゃっ!?」
奇声。絶叫。突然声を張り上げた妖夢。驚いて尻餅をついたアリスにも眼をくれず、錯乱したように宙をかいている。
「うわあああああああああああああ!」
「お、落ち着きなさいって! ほら! ほら!」
暴れだそうとする妖夢を押さえつけて、必死に呼びかける。
今にも刀を抜いて辻斬りに走りそうだ、と思う。
すさまじい形相である。大きく可愛らしい目はあまり愛らしくなく見開かれている。小ぶりな唇がこれでもかと開かれ、顔中の筋肉が痙攣していた。いったいどんな幻を見ているのだろう。背筋が冷たくなる。指先が震えだす。
それでも、必死で押さえ続ける。この小さな体のどこにそんな力が眠っているのか、非常な怪力で抜け出そうとする妖夢と、羽交い絞めにして呼びかけ続けるアリス。操作する余裕もなくなって、人形たちは地に落ちていた。そのつぶらな瞳が、どこか心配そうに二人を見ているようでもある。
どれくらいの時間がたったか、よくわからない。
時間の感覚が、あまりない。
ただ、気づくと妖夢は床に転がって、ぜぃぜぃと息を荒げている。アリスも同様である。
はぁーっ、はぁーっ。
大きく上下する胸。
明滅する視界。
たゆたう意識の中で、脱力した妖夢の姿だけが鮮明だった。
「あ、あれ……?」
そのピンぼけた目に、光が宿る。
焦点をアリスに合わせた目に、不思議な色がこもった。
「気づいた?」
息も絶え絶え、アリスが聞く。
「私は……あれ……アリス、さん……?」
「いいから、まずは、ちょっと落ち着かせて」
「は、はい……」
二人は落ち着くまで数分の時間を要した。
お互いに、テーブルを挟んでソファに座り、人形たちが紅茶を入れて、菓子を用意し、喉と腹を若干満たしたあたりで、ようやく喋る余裕を取り戻すことができた。
「ここは……アリスさんの家?」
「そう」
「なんで……私は……?」
「逆に聞くけど、どうしてあなたは魔法の森にいたの?」
少し非難がましい声。家中でああも暴れられては、全く怒りを覚えないわけにはいかない。
「ああそれは……」
妖夢は気まずいような、恥ずかしいような顔で視線をずらし。
「前、宴会の後誘ってくれたから……」
「……」
アリスは少し息を整えて。
心中でほえる。
(うがぁぁーっ!)
割と本気で怒るつもりではあった。
悪さをした子供を叱るような心持ちだったのだが。
(なんとも……)
なにせ、誘ったのは自分である。断ったのになぜ来たの? とか、そのとき一言言ってくれてもよかったんじゃないか? とか言いたいことは山ほどある。ただ、自分に好意を抱いてくれての行動だったことが、アリスをためらわせた。
「先に言ってくれれば……」
結果、出たのは呟きのような恨み言だった。
「すみません。どうしても間を置きたくなくて……」
「ああもう……ともかく、これは覚えておいて。ここのキノコは瘴気を放つわ幻覚作用のある胞子を飛ばすわで危険なの。魔理沙とかみたいに平然と採取してるのもいるけど。次からは、来るときは……」
考えてみれば、事前に行くことを伝えようにもどこでコンタクトを取ればいいのだろう。
アリスは普段家からあまり出ないのである。
妖夢のほうを、横目に見た。
「最初は、人里で探していたんだけど……次の人形劇はまだ先らしかったから」
居心地悪そうに言う妖夢。
最初から魔法の森に突っ込んできたわけではないらしい。
怒りの矛先をなんとも決しかねて、アリスは内心でうなる。
(うぎぎ……どうしたものかしら……)
「その……私はなにをしたの?」
おずおずと聞いてくる妖夢。
「幻覚を見て森で迷っていたの。それを家に引っ張り込んで、薬を探していたら幽々子様今日のおやつは云々言い出してね。桜がなんとか呟いた後いきなり叫んで、暴れだしたのよ」
「ほんとに大変なことを……すみません」
「いや、もう……それはいいわ」
やれやれと肩をすくめる。
悪気がなかったのはわかっているし、これくらいにしておこう。
ここで許す器量を持つのも幻想郷のお姉さん的ポジションとして大切なことだもの。たぶん。
「次からは事前に教えて。あまり胞子の飛んでいない場所を案内してあげるから」
「あ、うん」
「私は月に一度の人形劇か、それ以外では博麗神社あたりにいるわ。あと宴会のときとかね」
唇が乾いていたので、紅茶を一口含む。
「ふぅー」
気持ちを切り替えるために、胸の中に溜まっていた息を吐き出した。
「それで」
言う。
「どうしてまた、来る気になったの? ……いや、歓迎してないわけじゃなくてね」
「えっと……」
妖夢は口を開けて、閉めて、開けかけて、引き結ぶ。
「言わない、っていうのは駄目かしら」
「まぁ、うん」
「……」
「……」
「……あ、前言ってたあれ……ほら、刀を持った人形とか」
「それならばっちりよ」
アリスが指をたぐると、どこからともなく人形が飛んできた。てっきり和風の意匠の人形かと思わせて、いつもどおり金髪碧眼にドレス姿だった。
それが、腰に刀を帯びている。おもむろに手を伸ばすと、しゃらん、と音を立てて抜き放った。
人形は、どことなく自慢げな顔である。
「おぉぉ……」
まるで生きてるみたいな人形に、感嘆の声を上げる妖夢。アリスは少し気をよくする。
「ふふん?」
「刀とか、すごい作りこんであるのね」
「当然! 鞘の文様にも気を払ったし、刀身は研ぎ澄ませてあんなに硬いお肉もこの通り! 奥さん見てよこの切れ味! あなたのご家庭にもお一つどうぞ! ってなもんよ」
「へぇぇ……」
目をきらきらと輝かせて人形をためつすがめつ見る妖夢。あちこち触って服の手触りや質感を確かめている。
「凝ってるわねぇ」
「なんなら、あげましょうか?」
「いいの!?」
「そんなに喜んでくれると、作った側としても嬉しいの。まぁ、私の操作がなくなると、名実ともにただの人形になっちゃうんだけど……」
「もらう! もらうわ!」
「よし、あげた!」
威勢良くアリスは言った。さっきまでの剣呑な空気はもうなくなっている。
「私も、なにかお返ししないといけないわね」
「いや、別にいいって」
「もらうだけじゃ、悪いもの」
「どこぞの巫女に見習わせたいわね」
「博麗の巫女? 貧乏だって聞いてたけど……噂じゃないのかしら?」
「割と本当」
「世知辛いわねぇ」
「……そういやあなたって、魔理沙や霊夢たちとは面識あるのよね?」
「え、ええ……」
いぶかしそうな妖夢。
アリスは単純な疑問を覚えていた。
「いやね、なんか違和感というかしっくり来ないというか……魔理沙は知り合ったやつを片っ端から輪に入れてくようなイメージが」
ちょっと不躾だったかな? 一人すみで飲んでいたことをあげつらうみたいで。
反省しながらも、アリスの目は好奇心に縁取られている。
「……それは……」
妖夢はなにかを言いかけて口を閉じ、紅茶の水面を見ながら五秒ほど考えた。
「えっと、ほら、緊張しちゃって……?」
おどけたような声。
「あんまり、人見知りするようには見えないけど」
「いえいえ、私はまだまだ未熟ですから」
「そういうものかしら? なんなら、私がサポートするけど」
「いいですよ。そんな」
「私じゃ不満?」
「そういうことじゃ」
「どうせなら、みんなで騒いだほうが楽しいわ」
ふと、そんな言葉が漏れる。
アリスも結局、この穏やかな日々が好きだった。
一人だけぽつんと外れているのが、気にかかってしまう。
「あなたもやっぱり、ここの住人ですね」
「んん? どゆこと?」
「なんだかんだで、馬鹿騒ぎが好きだってことよ」
妖夢は肩をすくめて、言った。
「そりゃ、意外」
目をぱちくりさせるアリス。
「でも、嫌じゃないわ」
そう言って、楽しそうに笑う。
「……」
そのアリスを見て眩しそうに目を細めて。
どこか寂しそうに妖夢は笑った。
その笑みの正体が、アリスにはわからない。
「えっと、どうする?」
「……そうね」
妖夢は難しそうな顔で考え込んだ。
その間、ゆっくりと時間は流れた。
アリスがお茶請けのクッキーを四つつまむだけの間があった。
さらに紅茶を一杯と半分飲んだ。
妖夢はなににも手をつけなかった。
ただ、考えていた。
それから。
「……話して、みるわ」
相変わらず難しい顔で、そう答える。
博麗神社には風が吹いていた。
舞い散った花弁がふわふわと空に踊り、藍色の空に満天の星が広がっている。
日が暮れると同時に始まった宴会。
紅魔館や永遠亭からもぞろぞろとやってきていて、神社は多くの人妖で埋め尽くされる。
いつもは端っこで飲んでいる妖夢は今、その中心部に座っていた。表情はまだ強張ってぎこちないが、それなりに落ち着いているようだ。すぐ近くにはアリスもいる。
最初に話しかけたのは、魔理沙だった。
「およ、珍しいな」
「こんばんは」
「こんにちは」
「ひねくれてるわね」
「ひねくれてなきゃな」
いっそ無遠慮に隣に腰を下ろす魔理沙。酒をぐい、と煽る。杯の後ろから出てきた顔はとっくに赤く染まっている。
「あんまり飲みすぎると、後がもたないわよ」
「太く短くがいいんじゃないか」
「体中を癌に犯されて苦しみながら死ぬわね」
「物騒だなぁ。物騒なのは見かけだけにしておきな」
「どこが物騒?」
「もちろん、その腰のものが」
「白楼剣は迷いを断つ剣。あなたにとっては毒ではなく薬かもしれない。良薬ほど傷には染みて痛い」
「苦い良薬ってのはおかしいと思うんだよな。苦い時点で味は『良』くない。だから本当の良薬は口に甘いもののはずだ」
「口ざわりのいい言葉は結果として体を蝕む」
「それこそ癌みたいにな。どっちにしろ、物騒な話だぜ」
からからと魔理沙が笑う。
そこから少し離れたところ。
アリスが事の推移を見守っていた。
のんびり一人で飲んでいるように見えて、ちらちら視線が泳いでいる。
(大丈夫そうね……普通に話してるし。物騒な話を。……うーん、なんなのかしら? 結局。あの様子なら、もっと宴会に馴染んでいておかしくなかったはずなんだけど……)
一人思案しているうちに、妖夢たちの下に闖入者が現れる。
「魔理沙、なにやって……と、冥界の半人半霊ね。珍しい組み合わせだわ」
紅白の巫女服。霊夢だ。
「これで緑白と黒白と紅白がそろったな。他に白いやつはいないのか」
「自分の内面を探れば、わかるんじゃない?」
「そうだな。私の心は真っ白だからな。やましいところがなにもない」
「この世で最も厄介なのは、悪気のない犯罪者。真っ白なのはあなたの頭」
「まぁいいから座れ座れ」
霊夢が腰を下ろす。
二人の会話を傍観していた妖夢が口を開く。
「こんばんは」
「こんばんは」
「あなたはひねくれていないのね」
「? 何の話?」
不思議そうに首をかしげる霊夢。
「こっちの話だ」
「こっちの話よ」
「はぁ……?」
ちょうどそこで、アリスが立ち上がった。
そろそろ、自分も混ざろうかな。
とことこ歩いて霊夢たちのもとへ行く。
「おお、アリス」
「こんばんは」
「こんにちは」
「あなたはひねくれているのね」
「ひねくれていなきゃ……なにループさせようとしているんだ」
「ねじくれているあなたが円を描くとドーナツ状になる」
「だからなんなの!?」
「ドーナツになったあなたは甘みが増す。かじるとおいしくなる。とっても」
「かじられるの前提!?」
「これから、あなたをかじりに色々集まってくるわ」
そうして、アリスも輪に加わった。
それから少しして。
ぞろぞろと宴会に参加していたメンバーが彼女らのもとに集まりだした。
アリスがこっそり、集まるように呼びかけておいたのだ。
こうして集まってきたのはレミリアや萃香を始めとして、輝夜、永琳、うどんげ、てゐ、ミスティアやチルノや大妖精など様々の人妖たち。
彼女たちが、次々と妖夢に話しかけていく。
ちょくちょく宴会に来るものの、誰とも接点を持とうとせず黙々と飲むだけの妖夢のことが、気にかかっていたものも少なくない。アリスはそれを承知していたのである。
「あなたが噂の半霊?」
「あなたが噂の吸血鬼?」
例えば紅い館の吸血鬼であったり。
「あんた、武の心得があるみたいだね。一度、やってみないか?」
「今は刀を一本しか持っていないので」
陽気で豪気な鬼であったり。
「……なんだか、あなたからは似たもの同士の臭いを感じる……」
「あなたも、苦労してそうですね」
薬師の弟子の月兎だったりした。
それからはいつもの宴会みたいに、それぞれ入り乱れて飲み明かしている。
その輪の中に、妖夢は自然と溶け込んで見えた。
(うん……よかった)
アリスは思った。
(受け入れられてるみたいだし、私が手助けするまでもなかったわね。ほんとに、余計なお世話だったかしら? あとは、私も楽しみましょう。肩肘張ってたら、疲れるだけだし)
微笑みを漏らして、アリスは酒におぼれることにした。
今日は気分が良かったから。
「ん……どうしたんだ?」
そこに聞こえる魔理沙の声。
見るとそこには、顔をうつむけた半人半霊がいる。
(泣いてる……?)
いやまさか本当に出しゃばった真似をしたのだろうか。
彼女は実は一人静かに楽しめればよかったのだろうか。
それとも、喜んでくれたのかしら。
「あら?」
また、別の声が聞こえた。
誰もいなかったところに突然現れたのは十六夜咲夜。完全で瀟洒なメイドさんである。
妖夢も気づいたように顔を上げる。きょとんとした顔。涙のあとは見えない。もう乾いてしまったのだろうか。
「いつぞや襲い掛かってきた」
「いつの話よ。というか不法侵入者は、斬っても正当防衛よ」
「物々しい世の中ね。なんでも斬って解決だなんて、瀟洒じゃないわ」
「私があなたの館に乗り込んでみたら、どう追い返してくれるかしら」
「それはもう、八つ裂きにしてしんぜますわ」
咲夜は笑って言った。あまり冗談に聞こえない。
「物々しいなぁ」
妖夢の感嘆に、アリスはこっそり相槌を打った。
「そのあと調理して、お嬢様の夜食に並びます。資源の有効活用ね」
「私なんか食べてもおいしくないよ」
「でもたまには饅頭を食べたいってお嬢様が……」
「これは半霊っ、饅頭じゃないっ」
半霊が怒ったように飛び回る。
「あら、怖い」
「幽霊は怖がられるものよ。私はあまり、怖いのが好きじゃないけど」
「じゃあちょうだい」
「話が別っ。あなたは、そのお嬢様に言われたら人だって殺すのか?」
「ええ、おおよそ」
即答する咲夜。
「……」
はっ、とした顔になった直後。
妖夢はなぜか黙り込んでしまった。
「どうしたの?」
怪訝そうで、少し戸惑った様子の咲夜が聞く。
冗談で殺してやる! と言ったら本気で落ち込まれてしまった悪魔の従者みたいな顔である。
アリスはそのとき、なにか心がざわつくのを感じていた。
根拠なんてない。
確信があったのでもない。
ただ、なんとなく今までの妖夢の言動や表情が思い出されて、嫌な予感を覚えていた。
巫女の直感に、近いものがあったかもしれない。
「――」
妖夢が何事か呟いた。
だけど、よく聞こえなかった。
「――」
うわごとのように繰り返している。
妖夢自身自覚があるようには見えない。
おそらく、無意識の発露。
風が、吹いていた。
強い風だった。
ざわ……ざわ……
木がゆらいで枝がゆれ、こずえが音を鳴らしている。
……
……
……
「――幽々子様……」
その呟きは、風に乗ってやけに鮮明に耳に届いた。
空気に溶け込むようでいて、なにより存在感を放つ言霊に思えた。
妖夢が幻覚を見て、錯乱したときを思い出す。
あのとき幾度かこぼしていた名前、『幽々子』。
「なぁ妖夢」
すぐ傍にいた魔理沙が言う。
とても不思議そうな顔。
霊夢や咲夜の同質の視線が、妖夢のうつむけられた頬を撫でる。
至極当然の疑問を抱いている目。
猫のようにまんまるな目。
それは事実、純粋な疑問であった。
「――“幽々子って、誰だ”?」
桜の舞い散る博麗神社で開かれた、いつもと変わらないはずだった宴会。
いつもと違うのは、一人の半霊が皆の輪の中に加わったこと。
そして、宴会の途中で彼女は抜け出し、どこへとも知れず飛び去ってしまう。
春雪異変より一年がたった、変哲のない春の出来事である。
「そうなの、どんなの?」
「内容はよく覚えていないんですが……」
「どうでもいい夢ってことかしら」
「そうでもないような……」
「一人で寝れなくなったら、添い寝でもしてみる?」
「そ、そんな子供じゃないんですから……」
「そう言ってるうちが子供ね。夕飯は何?」
「はいはい、今作りますので」
ある日、そんな一幕があったという。
※※※
植物が枯れ、虫が嗄(か)れる冬は静けさに満たされている。冥界の白玉楼もその例に漏れず、幽々子がお茶をすすった音が、居間には鮮明に響いていた。
「いつも冥界にいるけど、たまには遠くに行ってみたいわ」
「なんですか唐突に」
幽霊の思考はよくわからない。どことなく地に足が着いていない感じがする。半霊の妖夢も幽々子の言っていることは半分程度しか理解できない。
「だって、退屈なんだもの」
「いや、退屈って、そりゃそうでしょう」
雑務を従者に任せて、日がなごろごろしているだけの日々が退屈でないはずがない。
「どうしようかしら。紫が言う『外の世界』とか見てみたいんだけど」
「そんな気軽に行ける場所なんでしょうか」
「さぁ? だめなら、なにか起こらないかしら。それとも、起こしてみようかしら」
「起こしたって、迷惑がってくれる相手がいませんよ」
「迷惑かけるの前提なのね。ひどいわ」
「かけないんですか?」
「かける。あなただけに」
「私だけ!?」
「だって、他にいないし」
冥界には色鮮やかな自然がある。冥界には様々の生物がいる。しかし、鳥は鳥の霊、虫は虫の霊、獣は獣の霊に過ぎない。幽霊なんかとは話すことも触れることもできず、いたずらの相手は限られる。
「ほら、紫様とかは?」
「今頃寝てるわ」
「その式神とか」
「てんてこまいね。色々と」
「私も割とてんてんこまい……」
「今度休みをあげようか?」
「え、あ、いやそういう意味で言ったのでは」
ぶんぶん。妖夢が首を振る。生まれてこの方幽々子に仕え、休みも給料ももらったことがない。不満もない。それが当たり前のことだったし、主のために尽くすことを生きがいだと思っている。その様子を見て、幽々子は思案げだ。
「たまには、休んでもいいのよ? 私も家事くらい一通りできるし」
「そんなことをやらせるわけにはいきません」
「むー。つまらない。つまらないわ。あなたぐらいの年ならもうちょっと遊びまわったっていい」
「でもなぁ、仮に休みをもらったとして一緒に遊ぶあい……」
……
……
……
言葉が途絶える。妖夢はなにか気づいてはいけないことに気づいてしまったみたいな顔で口を押さえた。
「どうしたの?」
幽々子の疑問。「えっと、あっと」しどろもどろに答える妖夢。
「ああ――」
だが幽々子の明晰な頭脳は、瞬く間にその答えを導き出した。
つまり。
「友達が――」
「せめてもっとオブラートに包んだ言い方にして!?」
「じゃあ、遊ぶ相手が――」
「変わってないです! 変わってないですよ!」
「つまり、ひと」
「一人じゃないもんっ!」
「もん?」
「え、あ、うー……うあぁ……」
顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。生まれてこの方ずっと白玉楼の庭師として働きづめだった。休みもなけりゃぁ同僚もいない。そもそも冥界にゃ人がいない。出会いもなければ別れもない。妖夢にはおおよそ友達と言える相手がいない。なんだかそれが気恥ずかしい。なにか言おうとするのだが、言えず。
混乱していた。
「別に、それくらい恥じることも――」
「……ない……」
「あなたがそれだけ尽くしてくれたということでもあるし――」
「ぼ……じゃない……」
「なんなら今度――」
「ぼぼぼぼっちじゃないです!」
「えっ……えっ?」
妖夢が言った。
目を白黒させる幽々子。
「なんて?」
聞き返す。
数秒の間。
……
「ぼっちじゃ……一人じゃないもぉーっん!」
引くに引けなくなった妖夢はことさら恥ずかしそうに叫び。
言い捨てて、逃げ出すように走り去る。
それを、不思議そうな目で幽々子は見つめていた。
幽霊の思考はよくわからない。どことなく地に足が着いていないのだ。半分幽霊の妖夢の言うことも、半分くらい意味不明である。
半人分の体温と騒がしさが去った白玉楼の居間には、ただ静寂だけが残る。
ずず……。
何事もなかったかのようにお茶をすすった幽々子は、空っぽになった湯飲みを眺める。
おかわりを自分でつぎたすと、まぁそのうち戻ってくるでしょうと暢気そうに呟いた。
※※※
時は変わって春。場所は変わって博麗神社。
宴会の開かれた神社には多くの妖怪や人外や普通の人間以外が集まり、騒ぎ、大いに飲み交わしているものであった。
篝火のたかれた境内には月明かりが炯々と差し込んで、かつ、そこらにいるものみながやたら明るく騒いでいるので、ものによっては眩しいほどである。
アリス・マーガトロイドもその口だ。
普段から暗くじめじめしたところに住んでいる彼女は、どうにも今日は気分が乗らない。ちびちびと飲んで、ちびちびと喋り、ちびちびと空気のようにそこにいる。
あたりを見回していたアリスは、ふとある人物に目を留めた。銀色の髪、白と緑の服を着ていて饅頭のような物体が傍に漂っている。見た事のある顔だった。宴会で、何度か。その何度かの全てにおいて、端っこのほうでちびちび飲んでいたのを覚えている。
奇妙な、シンパシーがあった。
(確か……魂魄妖夢、だったかしら?)
冥界の半人半霊といえば、先の春雪異変の元凶の一人……らしい。あの異変を解決しにいった三人から聞いた話だ。
冥界は死者の世界である。死者との生活に慣れすぎた彼女は、生者とどう付き合えばいいのかわからないのかもしれない。
(せっかくだし……お話してみようかな? ほら、あれよ。馴染めない人を……いやまぁ半分人じゃないか……引っ張り込むのも、お姉さん的ポジションとして大切な行動よね。うん。別に……皆のテンションについていけなくて寂しいわけじゃないけど……)
立ち上がるアリス。
月と同じ色をした髪を、月明かりにさらしながら歩いていく。
夜気に清冽な蜂蜜色に、半人半霊の庭師が顔を上げる。
その瞳が奇妙な色を含んだように見えたが、その正体はわからなかった。
「隣、いいかしら?」
「ああ、うん、ええ」
うなずく妖夢。
座り込むアリス。
「……」
「……」
お互いに無言で、酒を二口三口煽った。
「えーと……」
「……」
「魂魄妖夢……さん? だったっけ?」
「ええ」
「……」
「……」
無言。
アリスは思った。
(話が続かないーっ!?)
見れば、妖夢はこわばった表情で杯を見ている。おい。なんだそれ。今から急性アルコール中毒で自殺でもするのか。そーれ! いっき、いっき!
(ああいやそうじゃあなくてっ! ほら、きっと、彼女も緊張しているだけだわ。人見知りなのよ、きっと。勇気を出すのアリスっ。あなたはやればできる子超天才っ。七色の人形遣いに不可能などないっ……!)
「えっと、一人が好きなの?」
口をついて出た言葉がそれだった。
(ないわー! それはないわー! 明らかに馬鹿にしてるっていうか一人が好きならそもそも宴会に来ないでしょーが……! うわぁうわぁどうしよう……不快に思ってなきゃいいけど……)
ちら、ちら。
ちら見するアリス。
妖夢はなにやら思案げな表情をしていた。
(どこに考える余地があったの!? というか本当にそういう人だったの!? ああうーん……余計なおせっかい焼いたかもしんない……)
「いや、別に好きなわけじゃあないわね」
ようやく返事が返ってきた。
とりあえず、言葉のキャッチボールが成立したことに安堵。
「ああうん、そうよねぇ」
「あなたは一人が好き?」
「いや、あんまり。でも実験してるときとかは、一人のほうがいいわ」
「魔法使いの方?」
「人形遣いの方」
「知ってる」
「あ、知ってたの」
「人間の里で人形劇を開いてるんでしょう」
「人里にも行くのね」
「食材を買いに行ったりとか、なんとかで」
「あなたは……はくぎょくろうで庭師をやってるんだっけ?」
「庭師のようななにか」
「なんとなくわかった」
「わかったの!?」
間の抜けた妖夢の声。
固い表情と声が崩れたのを見て、なんとなくわかった。
(この子は、こっちのほうが素っぽいわね。……あれ、なんか……んん? ……いや、気のせいか)
「いやまぁ、幻想郷の従者的立場の人たちは、だいたいどこか外れてる法則が」
「どんな法則なのよ」
「自分のことほどわからないものはない。あなたにはわからないかもしれないわね」
「魔法使いという種族は相手もわかっているのを前提に話を進めるわ。あなたにはわからないかもしれないけれど」
「心外ね。私は鏡に映る」
「幽霊が映らないというのは迷信です。映らないのは、吸血鬼くらい」
「確かに、彼女はあまりかえりみない」
「吸血鬼の知り合い?」
「魔女仲間の友人の、友人が吸血鬼」
「面倒くさいから、知り合いってことでいいんじゃないかしら」
妖夢が言う。それもそうかとアリスはうなずいた。
考える。
(話してみると、そんなに人見知りするって感じでもないけど……私みたいに、ノリについていけなかったのかしら? これがほんとのノリおく……ああいや、なんでもない。なんでもない)
「しかし桜が綺麗ねぇ」
くだらない駄洒落を抹消するため、空々しく話題をふってみる。
神社の周囲に咲き誇る多くの桜。幻想郷は春真っ盛り。
「……」
妖夢は沈黙した。
(あれー?)
いい天気ですねーみたいなノリで気軽に言ったのだが。
みょんに表情が固い。
「どうしたの?」
「あ、いや、なんでもないの」
「もしかして嫌い?」
「……嫌いじゃないわ。むしろ好き。白玉楼の大広間から障子を開けると、ちょうど壁や天井にはさまれて一枚の絵みたいに桜の木々が見える」
「それは……一度見に行ってみたいわね」
「生者があまり、死者の世界に来るものじゃないよ」
「あなたは生者じゃなくて?」
「半分死んでる」
「あなたは死者じゃなくて?」
「半分生きてる」
「あいまいね」
「たまに自分でもわからなくなるわ」
「へぇ」
そりゃ難儀なものだ、と息をつく。
「でもまぁ、私は冥界の庭師ですから、たぶん死者で正解なんでしょう」
「ふぅん。庭師っていうけど……白玉楼には他に家主がいるのよね?」
「そうだけど、どうして?」
「宴会に来てるのも見たことないし」
「……今は遠くに旅立っているの」
「死んだみたいな言いかたね」
「最初っから死んでいる」
「どんな人?」
「よくわからない人」
「……なんだかあなたが、いじくられてるところが目に浮かんだわ」
「……」
妖夢はぷい、と顔を背けた。
アリスが笑う。
「図星ね。それも少し見てみたい」
「……あまり、からかわないでよ」
「私にも白玉楼の主の資質があるってことね」
「……」
「?」
「白玉楼の主は、あの人だけです」
「あ、ああごめん」
怒っているふうではなかった。冷厳な表情でもなかった。どこかこわばった表情で言う妖夢に、アリスは謝る。この話題はもう少し慎重に扱ったほうがよさそうだと思った。
「……」
「……」
お互いに、無言。
(うーん……妙な空気になってしまったわね……なにか取っ掛かりは……)
目が、妖夢の腰元に吸い寄せられる。
「そういえばその腰の」
妖夢の腰には一本の刀が帯びられている。他に刀は見当たらない。
「魔理沙や霊夢からは、二刀流だと聞いたんだけど……」
「もう一本の刀はすごく大きいから。よくつっかえるし。まぁ、元々は二刀流」
「そっちの刀も見てみたいわね」
「なんのために?」
「最近、人形に持たせる武器にもこっているのよ」
アリスはふふ、と笑った。
「西洋風の人形に、日本刀はあわないと思うけど……」
「それはほら、あれよ。ギャップ萌え?」
「もえる? 火が出る……芽が出る……ん……?」
「ああえっと……なんでもない」
「気になるわ」
「気にしないで。お願い」
「?」
割と切実に頼み込んだ。
逃げるように目を逸らすと、だいぶ傾いた月が見えた。
「そろそろ、宴もたけなわかしら?」
「そろそろ……帰ろうかな」
「帰るの?」
「帰るの」
「そうだ。今度私の家に来てみる? 刀を持った人形も見せられるかもね」
「いえ、やめておきます」
「あらら、ふられちゃったわね。たまには、いつもと違う人と話したくなるんだけど」
「あなたと話すのは楽しかったけど……ううん、でも、やっぱり……」
最後は独り言を呟くと、立ち上がり、背を向ける妖夢。
お互いに別れの挨拶を交わして、その日はあえなくお開きとなった。
※※※
ぴしゃーん!
幽々子が白玉楼でのんびりごろごろしていると、勢いよく障子が開かれた。
「妖夢?」
妖夢が立っていた。目をらんらんと輝かせて、息も荒く、希望の光に満ちた瞳が幽々子のほうを見つめている。
なにこれこわい。
ちょっと引いた。
「幽々子様! 私今日話しかけられました……!」
「ん……え?」
「今日、私話しかけられたんです……!」
「あ、ああそう……よかったわね」
「はい!」
妖夢はとても元気よく返事した。
模範といっていい「はい」だった。
「えっと、それでどうしたの?」
「少しだけど色々話をして、別れました」
「そう……」
「もう、友達がいな……ああいやまだ友達って呼べるほどのものでは……えぇと……話す相手がいないだなんて言わせませんよ……!」
意気軒昂たる宣言。妖夢のご機嫌の理由を理解する幽々子。極端な子だなぁ。いつか騙されるんじゃないかなぁ。いっそ箱入りにしといたほうがいいかしら。でもそれだと未熟なままだなぁ。もう少し落ち着いてほしいなぁ。色々と。
「まぁ、とりあえず座りなさい。話はそれから聞くから」
「はいっ」
妖夢は適当に座布団を引っ張ってくると、これも勢いよく腰を下ろした。およそいつもの二倍の溌剌さである。人一倍。
「それでですねっ! 今日人形遣いの魔法使いのですねっ! アリスさんにですねっ!」
嬉々として語り始める妖夢を見ていると、なんだか気分がほわほわしていくのを感じる。
幽々子は穏やかな表情で耳を傾けた。
しようがないなぁ、全く……だなんて考えながら。
今日も静かな昼下がりは過ぎていく。
※※※
幻想郷は辺境の地である。そんなに広くもなく、「山」といえば妖怪の山、「森」といえば魔法の森だと即座にわかる程度だ。なのでそもそも魔法の森を魔法の森などと呼ぶ必要はない。それでもそう呼ばれるのは、森に生える数々の化物キノコが魔法のような幻覚を見せるからである。
この幻覚は一般人にとっては害でしかない。なんだか瘴気とか湧き出ているしじめじめしているし、普通の人はほとんど寄り付かない。
のだが、この幻覚は魔法使いの魔力をしばしば高めてくれる。魔法の材料に事欠かないし研究に没頭しやすいし、魔法使いには人気があった。
その森をさも当然のように歩いているものがある。
少々癖っけのある髪を風になびかせて、人形のような服を着た人形のような少女だ。
周囲に人形をいくつも従えて、手にはいかめしい本を持っていた。
「あーるーこー、あーるーこー」
どうも、散歩をしているらしい。
水気を吸って離さない地面を綺麗な靴で踏みにじりながら、陽気そうな歌を口ずさんでいる。
陽気は伝播し人形たちは舞い、踊り、じめじめと暗い森の中でそこだけ切り取ったように異色を放っている。
「あら……?」
そんな、アリス・マーガトロイドの目に飛び込んでくるもの。
きょろきょろと目線がせわしない、ふらふらと足取りのおぼつかない人影があった。
誰だろう。近づく。銀色の髪、シンプルなデザインの服、腰に挿した刀と、傍に漂う半霊。
(妖夢……? どうしてこんなところにいるのかしら。普通、迷うことはあっても迷い込みやしないはず……うーん……?)
怪訝さを顔に表しながらも、話しかけてみる。
「どうしたの?」
「あなたは、アリスさん……?」
「だからどうし……」
言葉を切る。
妖夢の異変に気づいたからだ。
顔はこっちのほうを向いているが、その焦点が合っていない。階段を踏み外したみたいな奇怪な足取りであって、半霊は幾何学的に飛び回っていた。
(まさか……)
嫌な予感がする。
「えっと、大丈夫? あなた、今、なにが見えてる……?」
一語ずつ言い聞かせるように問う。
「魔法の森にも、桜の木はあったのね」
「ん?」
「そこら中に花びらが舞っている……あと、蝶が飛んでいるわ。たくさん、たくさん飛んでいる……」
「思っきし幻覚見てるぅー!?」
「なにを言っているの?」
「いいからちょっとこっち来なさい! この森は慣れてない人には危険なの!」
ずかずか。アリスは妖夢の腕を取って歩き出した。変わり映えのしない魔法の森の風景の中を、迷うことなく歩いていく。強引に手を引っ張られて、妖夢は何度も転びそうになっていた。
やがて、アリスの家に着いた。薄暗い森の中で浮き出たように明るい洋風のたたずまい。カーテンの開けられた窓からは、人形のいくつも飾られた室内がうかがえた。
ドアを開けて靴を脱いで脱がせてリビングまで引っ張り込む。ソファに放り投げると、幻覚作用を薄める効果の薬を探し始める。
「ああもう……これでもない……あれでもない……」
「ああもう幽々子様なにをやってるんですか……棚を漁って……今日のおやつはもう食べたじゃないですか……」
「私が探しているのは薬!」
「病気なんですか? なら部屋で休んでないと」
「私はアリス! しっかりしなさい!」
「あれぇ? でも幽々子様だし……あれぇ? 悪ふざけ? もう、からかわないでくださいよー」
「なーもうまどろっこしい!」
アリスは苛立ちを床にぶつけながら妖夢へ近づき、肩をつかんだ。がくがく。ぶるぶる。前後左右にゆさぶる。
「ほらー! 起きろー! 朝よー!」
「今は夜ですよー……ほら、あんなに桜が美しい……幽々子様……うぅぅ……うわああああああああああああああああああああああああああああ」
「きゃっ!?」
奇声。絶叫。突然声を張り上げた妖夢。驚いて尻餅をついたアリスにも眼をくれず、錯乱したように宙をかいている。
「うわあああああああああああああ!」
「お、落ち着きなさいって! ほら! ほら!」
暴れだそうとする妖夢を押さえつけて、必死に呼びかける。
今にも刀を抜いて辻斬りに走りそうだ、と思う。
すさまじい形相である。大きく可愛らしい目はあまり愛らしくなく見開かれている。小ぶりな唇がこれでもかと開かれ、顔中の筋肉が痙攣していた。いったいどんな幻を見ているのだろう。背筋が冷たくなる。指先が震えだす。
それでも、必死で押さえ続ける。この小さな体のどこにそんな力が眠っているのか、非常な怪力で抜け出そうとする妖夢と、羽交い絞めにして呼びかけ続けるアリス。操作する余裕もなくなって、人形たちは地に落ちていた。そのつぶらな瞳が、どこか心配そうに二人を見ているようでもある。
どれくらいの時間がたったか、よくわからない。
時間の感覚が、あまりない。
ただ、気づくと妖夢は床に転がって、ぜぃぜぃと息を荒げている。アリスも同様である。
はぁーっ、はぁーっ。
大きく上下する胸。
明滅する視界。
たゆたう意識の中で、脱力した妖夢の姿だけが鮮明だった。
「あ、あれ……?」
そのピンぼけた目に、光が宿る。
焦点をアリスに合わせた目に、不思議な色がこもった。
「気づいた?」
息も絶え絶え、アリスが聞く。
「私は……あれ……アリス、さん……?」
「いいから、まずは、ちょっと落ち着かせて」
「は、はい……」
二人は落ち着くまで数分の時間を要した。
お互いに、テーブルを挟んでソファに座り、人形たちが紅茶を入れて、菓子を用意し、喉と腹を若干満たしたあたりで、ようやく喋る余裕を取り戻すことができた。
「ここは……アリスさんの家?」
「そう」
「なんで……私は……?」
「逆に聞くけど、どうしてあなたは魔法の森にいたの?」
少し非難がましい声。家中でああも暴れられては、全く怒りを覚えないわけにはいかない。
「ああそれは……」
妖夢は気まずいような、恥ずかしいような顔で視線をずらし。
「前、宴会の後誘ってくれたから……」
「……」
アリスは少し息を整えて。
心中でほえる。
(うがぁぁーっ!)
割と本気で怒るつもりではあった。
悪さをした子供を叱るような心持ちだったのだが。
(なんとも……)
なにせ、誘ったのは自分である。断ったのになぜ来たの? とか、そのとき一言言ってくれてもよかったんじゃないか? とか言いたいことは山ほどある。ただ、自分に好意を抱いてくれての行動だったことが、アリスをためらわせた。
「先に言ってくれれば……」
結果、出たのは呟きのような恨み言だった。
「すみません。どうしても間を置きたくなくて……」
「ああもう……ともかく、これは覚えておいて。ここのキノコは瘴気を放つわ幻覚作用のある胞子を飛ばすわで危険なの。魔理沙とかみたいに平然と採取してるのもいるけど。次からは、来るときは……」
考えてみれば、事前に行くことを伝えようにもどこでコンタクトを取ればいいのだろう。
アリスは普段家からあまり出ないのである。
妖夢のほうを、横目に見た。
「最初は、人里で探していたんだけど……次の人形劇はまだ先らしかったから」
居心地悪そうに言う妖夢。
最初から魔法の森に突っ込んできたわけではないらしい。
怒りの矛先をなんとも決しかねて、アリスは内心でうなる。
(うぎぎ……どうしたものかしら……)
「その……私はなにをしたの?」
おずおずと聞いてくる妖夢。
「幻覚を見て森で迷っていたの。それを家に引っ張り込んで、薬を探していたら幽々子様今日のおやつは云々言い出してね。桜がなんとか呟いた後いきなり叫んで、暴れだしたのよ」
「ほんとに大変なことを……すみません」
「いや、もう……それはいいわ」
やれやれと肩をすくめる。
悪気がなかったのはわかっているし、これくらいにしておこう。
ここで許す器量を持つのも幻想郷のお姉さん的ポジションとして大切なことだもの。たぶん。
「次からは事前に教えて。あまり胞子の飛んでいない場所を案内してあげるから」
「あ、うん」
「私は月に一度の人形劇か、それ以外では博麗神社あたりにいるわ。あと宴会のときとかね」
唇が乾いていたので、紅茶を一口含む。
「ふぅー」
気持ちを切り替えるために、胸の中に溜まっていた息を吐き出した。
「それで」
言う。
「どうしてまた、来る気になったの? ……いや、歓迎してないわけじゃなくてね」
「えっと……」
妖夢は口を開けて、閉めて、開けかけて、引き結ぶ。
「言わない、っていうのは駄目かしら」
「まぁ、うん」
「……」
「……」
「……あ、前言ってたあれ……ほら、刀を持った人形とか」
「それならばっちりよ」
アリスが指をたぐると、どこからともなく人形が飛んできた。てっきり和風の意匠の人形かと思わせて、いつもどおり金髪碧眼にドレス姿だった。
それが、腰に刀を帯びている。おもむろに手を伸ばすと、しゃらん、と音を立てて抜き放った。
人形は、どことなく自慢げな顔である。
「おぉぉ……」
まるで生きてるみたいな人形に、感嘆の声を上げる妖夢。アリスは少し気をよくする。
「ふふん?」
「刀とか、すごい作りこんであるのね」
「当然! 鞘の文様にも気を払ったし、刀身は研ぎ澄ませてあんなに硬いお肉もこの通り! 奥さん見てよこの切れ味! あなたのご家庭にもお一つどうぞ! ってなもんよ」
「へぇぇ……」
目をきらきらと輝かせて人形をためつすがめつ見る妖夢。あちこち触って服の手触りや質感を確かめている。
「凝ってるわねぇ」
「なんなら、あげましょうか?」
「いいの!?」
「そんなに喜んでくれると、作った側としても嬉しいの。まぁ、私の操作がなくなると、名実ともにただの人形になっちゃうんだけど……」
「もらう! もらうわ!」
「よし、あげた!」
威勢良くアリスは言った。さっきまでの剣呑な空気はもうなくなっている。
「私も、なにかお返ししないといけないわね」
「いや、別にいいって」
「もらうだけじゃ、悪いもの」
「どこぞの巫女に見習わせたいわね」
「博麗の巫女? 貧乏だって聞いてたけど……噂じゃないのかしら?」
「割と本当」
「世知辛いわねぇ」
「……そういやあなたって、魔理沙や霊夢たちとは面識あるのよね?」
「え、ええ……」
いぶかしそうな妖夢。
アリスは単純な疑問を覚えていた。
「いやね、なんか違和感というかしっくり来ないというか……魔理沙は知り合ったやつを片っ端から輪に入れてくようなイメージが」
ちょっと不躾だったかな? 一人すみで飲んでいたことをあげつらうみたいで。
反省しながらも、アリスの目は好奇心に縁取られている。
「……それは……」
妖夢はなにかを言いかけて口を閉じ、紅茶の水面を見ながら五秒ほど考えた。
「えっと、ほら、緊張しちゃって……?」
おどけたような声。
「あんまり、人見知りするようには見えないけど」
「いえいえ、私はまだまだ未熟ですから」
「そういうものかしら? なんなら、私がサポートするけど」
「いいですよ。そんな」
「私じゃ不満?」
「そういうことじゃ」
「どうせなら、みんなで騒いだほうが楽しいわ」
ふと、そんな言葉が漏れる。
アリスも結局、この穏やかな日々が好きだった。
一人だけぽつんと外れているのが、気にかかってしまう。
「あなたもやっぱり、ここの住人ですね」
「んん? どゆこと?」
「なんだかんだで、馬鹿騒ぎが好きだってことよ」
妖夢は肩をすくめて、言った。
「そりゃ、意外」
目をぱちくりさせるアリス。
「でも、嫌じゃないわ」
そう言って、楽しそうに笑う。
「……」
そのアリスを見て眩しそうに目を細めて。
どこか寂しそうに妖夢は笑った。
その笑みの正体が、アリスにはわからない。
「えっと、どうする?」
「……そうね」
妖夢は難しそうな顔で考え込んだ。
その間、ゆっくりと時間は流れた。
アリスがお茶請けのクッキーを四つつまむだけの間があった。
さらに紅茶を一杯と半分飲んだ。
妖夢はなににも手をつけなかった。
ただ、考えていた。
それから。
「……話して、みるわ」
相変わらず難しい顔で、そう答える。
博麗神社には風が吹いていた。
舞い散った花弁がふわふわと空に踊り、藍色の空に満天の星が広がっている。
日が暮れると同時に始まった宴会。
紅魔館や永遠亭からもぞろぞろとやってきていて、神社は多くの人妖で埋め尽くされる。
いつもは端っこで飲んでいる妖夢は今、その中心部に座っていた。表情はまだ強張ってぎこちないが、それなりに落ち着いているようだ。すぐ近くにはアリスもいる。
最初に話しかけたのは、魔理沙だった。
「およ、珍しいな」
「こんばんは」
「こんにちは」
「ひねくれてるわね」
「ひねくれてなきゃな」
いっそ無遠慮に隣に腰を下ろす魔理沙。酒をぐい、と煽る。杯の後ろから出てきた顔はとっくに赤く染まっている。
「あんまり飲みすぎると、後がもたないわよ」
「太く短くがいいんじゃないか」
「体中を癌に犯されて苦しみながら死ぬわね」
「物騒だなぁ。物騒なのは見かけだけにしておきな」
「どこが物騒?」
「もちろん、その腰のものが」
「白楼剣は迷いを断つ剣。あなたにとっては毒ではなく薬かもしれない。良薬ほど傷には染みて痛い」
「苦い良薬ってのはおかしいと思うんだよな。苦い時点で味は『良』くない。だから本当の良薬は口に甘いもののはずだ」
「口ざわりのいい言葉は結果として体を蝕む」
「それこそ癌みたいにな。どっちにしろ、物騒な話だぜ」
からからと魔理沙が笑う。
そこから少し離れたところ。
アリスが事の推移を見守っていた。
のんびり一人で飲んでいるように見えて、ちらちら視線が泳いでいる。
(大丈夫そうね……普通に話してるし。物騒な話を。……うーん、なんなのかしら? 結局。あの様子なら、もっと宴会に馴染んでいておかしくなかったはずなんだけど……)
一人思案しているうちに、妖夢たちの下に闖入者が現れる。
「魔理沙、なにやって……と、冥界の半人半霊ね。珍しい組み合わせだわ」
紅白の巫女服。霊夢だ。
「これで緑白と黒白と紅白がそろったな。他に白いやつはいないのか」
「自分の内面を探れば、わかるんじゃない?」
「そうだな。私の心は真っ白だからな。やましいところがなにもない」
「この世で最も厄介なのは、悪気のない犯罪者。真っ白なのはあなたの頭」
「まぁいいから座れ座れ」
霊夢が腰を下ろす。
二人の会話を傍観していた妖夢が口を開く。
「こんばんは」
「こんばんは」
「あなたはひねくれていないのね」
「? 何の話?」
不思議そうに首をかしげる霊夢。
「こっちの話だ」
「こっちの話よ」
「はぁ……?」
ちょうどそこで、アリスが立ち上がった。
そろそろ、自分も混ざろうかな。
とことこ歩いて霊夢たちのもとへ行く。
「おお、アリス」
「こんばんは」
「こんにちは」
「あなたはひねくれているのね」
「ひねくれていなきゃ……なにループさせようとしているんだ」
「ねじくれているあなたが円を描くとドーナツ状になる」
「だからなんなの!?」
「ドーナツになったあなたは甘みが増す。かじるとおいしくなる。とっても」
「かじられるの前提!?」
「これから、あなたをかじりに色々集まってくるわ」
そうして、アリスも輪に加わった。
それから少しして。
ぞろぞろと宴会に参加していたメンバーが彼女らのもとに集まりだした。
アリスがこっそり、集まるように呼びかけておいたのだ。
こうして集まってきたのはレミリアや萃香を始めとして、輝夜、永琳、うどんげ、てゐ、ミスティアやチルノや大妖精など様々の人妖たち。
彼女たちが、次々と妖夢に話しかけていく。
ちょくちょく宴会に来るものの、誰とも接点を持とうとせず黙々と飲むだけの妖夢のことが、気にかかっていたものも少なくない。アリスはそれを承知していたのである。
「あなたが噂の半霊?」
「あなたが噂の吸血鬼?」
例えば紅い館の吸血鬼であったり。
「あんた、武の心得があるみたいだね。一度、やってみないか?」
「今は刀を一本しか持っていないので」
陽気で豪気な鬼であったり。
「……なんだか、あなたからは似たもの同士の臭いを感じる……」
「あなたも、苦労してそうですね」
薬師の弟子の月兎だったりした。
それからはいつもの宴会みたいに、それぞれ入り乱れて飲み明かしている。
その輪の中に、妖夢は自然と溶け込んで見えた。
(うん……よかった)
アリスは思った。
(受け入れられてるみたいだし、私が手助けするまでもなかったわね。ほんとに、余計なお世話だったかしら? あとは、私も楽しみましょう。肩肘張ってたら、疲れるだけだし)
微笑みを漏らして、アリスは酒におぼれることにした。
今日は気分が良かったから。
「ん……どうしたんだ?」
そこに聞こえる魔理沙の声。
見るとそこには、顔をうつむけた半人半霊がいる。
(泣いてる……?)
いやまさか本当に出しゃばった真似をしたのだろうか。
彼女は実は一人静かに楽しめればよかったのだろうか。
それとも、喜んでくれたのかしら。
「あら?」
また、別の声が聞こえた。
誰もいなかったところに突然現れたのは十六夜咲夜。完全で瀟洒なメイドさんである。
妖夢も気づいたように顔を上げる。きょとんとした顔。涙のあとは見えない。もう乾いてしまったのだろうか。
「いつぞや襲い掛かってきた」
「いつの話よ。というか不法侵入者は、斬っても正当防衛よ」
「物々しい世の中ね。なんでも斬って解決だなんて、瀟洒じゃないわ」
「私があなたの館に乗り込んでみたら、どう追い返してくれるかしら」
「それはもう、八つ裂きにしてしんぜますわ」
咲夜は笑って言った。あまり冗談に聞こえない。
「物々しいなぁ」
妖夢の感嘆に、アリスはこっそり相槌を打った。
「そのあと調理して、お嬢様の夜食に並びます。資源の有効活用ね」
「私なんか食べてもおいしくないよ」
「でもたまには饅頭を食べたいってお嬢様が……」
「これは半霊っ、饅頭じゃないっ」
半霊が怒ったように飛び回る。
「あら、怖い」
「幽霊は怖がられるものよ。私はあまり、怖いのが好きじゃないけど」
「じゃあちょうだい」
「話が別っ。あなたは、そのお嬢様に言われたら人だって殺すのか?」
「ええ、おおよそ」
即答する咲夜。
「……」
はっ、とした顔になった直後。
妖夢はなぜか黙り込んでしまった。
「どうしたの?」
怪訝そうで、少し戸惑った様子の咲夜が聞く。
冗談で殺してやる! と言ったら本気で落ち込まれてしまった悪魔の従者みたいな顔である。
アリスはそのとき、なにか心がざわつくのを感じていた。
根拠なんてない。
確信があったのでもない。
ただ、なんとなく今までの妖夢の言動や表情が思い出されて、嫌な予感を覚えていた。
巫女の直感に、近いものがあったかもしれない。
「――」
妖夢が何事か呟いた。
だけど、よく聞こえなかった。
「――」
うわごとのように繰り返している。
妖夢自身自覚があるようには見えない。
おそらく、無意識の発露。
風が、吹いていた。
強い風だった。
ざわ……ざわ……
木がゆらいで枝がゆれ、こずえが音を鳴らしている。
……
……
……
「――幽々子様……」
その呟きは、風に乗ってやけに鮮明に耳に届いた。
空気に溶け込むようでいて、なにより存在感を放つ言霊に思えた。
妖夢が幻覚を見て、錯乱したときを思い出す。
あのとき幾度かこぼしていた名前、『幽々子』。
「なぁ妖夢」
すぐ傍にいた魔理沙が言う。
とても不思議そうな顔。
霊夢や咲夜の同質の視線が、妖夢のうつむけられた頬を撫でる。
至極当然の疑問を抱いている目。
猫のようにまんまるな目。
それは事実、純粋な疑問であった。
「――“幽々子って、誰だ”?」
桜の舞い散る博麗神社で開かれた、いつもと変わらないはずだった宴会。
いつもと違うのは、一人の半霊が皆の輪の中に加わったこと。
そして、宴会の途中で彼女は抜け出し、どこへとも知れず飛び去ってしまう。
春雪異変より一年がたった、変哲のない春の出来事である。
ピクッ
会話のやり取りがとても捻りがあって読んでて面白かったです
後編読んできます
引きがメチャ上手いですね
アリスと妖夢のキャラが好きだわw
後半いってみよ~。
↓
「ドーナツになったあなたは甘みが増す。かじるとおいしくなる。
ご連絡~
見事な伏線回収
まさか、あんな話になるとは思わず。
素晴らしいの一言につきます。
これで初投稿なのが驚きです
こんにちわ→こんにちは