――序文――
悪いことは重なるものだと、私はそう思う。
例えばご主人がまた宝塔を無くし、それを探すのに普段以上に手間取ったり。
説法やら何やらで聖達が出払っているときに、ぬえとその友人とかいう狸が里で悪戯をし、私一人でクレームの対応をさせられたり。
お参りに来た人間を、響子が張り切って大音量の山彦で失神させて、人間に頭を下げることになったり。
「だが、重なるとは言っても、これはないだろう」
挙げ句の果てに、これだ。
私の目の前に鎮座する、青々とした瓜。
精神的な疲労を抱えたまま迎えた、命蓮寺の朝。
気がつけば備蓄の類は全て切れていて、昨日からなにも食べていない私が漸く探し出せたのは、たった一つの瓜。
「無いよりは、マシか」
何か食べないと、人間を襲ってしまいそうだ。
ストレス解消も兼ねて暴れ出す自分の姿を、脳裏から振り払う。そんなことをしたら、命蓮寺のみんなも私も、ただでは済まない。
「いただきます」
畳の上に転がる、瓜。
それに手を合わせる姿は、なんとも滑稽なものだろう。傍から見た自分の情けない姿を想像して、私は自嘲する。ははっ、なんだこの状況は。
とりあえず、腹ごしらえ。
そう考えた私は、早くもすっかり忘れていた。
今日は、“厄日”だということを。
「まずっ」
何とも言えない酸味に似た何かと、迸る苦み。熟していない瓜は、私の味蕾を苛烈に責め立てた。なるほど、だから誰も食べていなかったのか。
「まず、瓜、まずっ」
吐き出す訳にもいかず。
泣き出したくなるのを堪えながら、飲み込む。
後に残るのは、全然爽やかじゃない苦み。苦しいと書いて苦いと読むとは、どこかの誰かも上手いことを考えたものだ。
「まず、うり、ん――――ん?」
せめてもの悪態にと、私の胃袋に消えていった瓜に、“貴様の生涯は不味い”と言い聞かせる。その内に、私は自分の言葉に込められた不可思議なイントネーションに、気がついた。
「まずう、り、ん」
まず瓜。
まずうり。
まずうりん?
「ぶふっ」
ナズーリンがまずうりん。
ナズーリンがまずうりん!
思わず吹き出して悶えながら、私の思考はただそのフレーズだけでいっぱいになった。
くっ、まさか私にこんな才能があったとは。ナズーリンが、まず瓜ん。
「ばふっ、くっ、ふはっ、あはははははっ、まずうりん、マズーリン、はぶっ」
悪いことは重なる。
そう信じて疑わなかったが、どんなに暗い夜にも必ず朝が訪れるということを、私はすっかり忘れていたようだ。
「ふ、げほっ、げほっ……ふはふふ、私はもしかしたら、ぶふっ、天才かも知れない」
キレのある語呂、ツボを刺激するイントネーション、茶目っ気溢れるフレーズ。
疲労困憊で思考回路がおかしな方向へ行ったから、こんな素晴らしいギャグを思いつくことが出来たのだろうか。だとしたら、こんなにへとへとになるまで働くのも、悪くないかもしれない。
「しかし、待てよ」
呼吸を整えて、私はふと思考を巡らせる。唐突に、それこそ天啓と言っても過言ではないタイミングで思い浮かんだギャグ。
この素晴らしいフレーズを私の中だけで止めて満足して、それで許されるのだろうか。
そんなことをして、私は、毘沙門天様にお顔向けできるのだろうか。
「いや、そんなはずはない」
私は、囓りかけの瓜を尻尾に提げたバスケットの中へ放り込むと、立ち上がる。命蓮寺のメンバーに言うのは、何時だって出来る。鮮度が悪くとも、彼女たちなら受け入れてくれることだろう。
けれど、他の、幻想郷の住民達はそうではない。やはり、魚も噂もギャグも、鮮度が良い方が悦ばれるのは自明の理。
「さて、待っていろよ、幻想郷の人妖たちよ!」
諸手を上げて、私は命蓮寺から飛び去る。
目的は、たった一つ。私の渾身のギャグを、一世一代のギャグを、彼女たちへと伝えることだ。
そんな尊い決意を胸に宿す私は、後にこれを後悔することになる。
色んな事をすっ飛ばして悔やむことは、ただ一つ。
徹夜明けの脳みそで、なにかをやろうとするのは間違いだ。
たったそれだけのこと。
それでもその時の私は、“それだけ”の事すらも知る由無く、ただ人妖達の下を目指すのであった――。
まずうりん
―― 一段目――
最初の目的地をどこにするか。
うんうんと悩んでいる内に、太陽はそろそろ中天にさしかかろうとしていた。昼時になってしまえば、人々は食事処に引っ込んでしまうことだろう。
だから、チャンスは今しかない。
「だれか、適当な人妖はっと」
人の賑わう地、人間の里。命蓮寺の妖怪だからだろうか、それとも幻想郷の住人たちの人柄によるものか、私に警戒心を抱くものは、どうやら居ないようだ。
とりあえず、無用な騒ぎを起こさずに済んだことに安心する。いくら渾身のギャグとはいえ、警戒と敵意を紛らわすのは厳しいことだろう。
妖怪や神が畏れや信仰で力を増すように、ギャグもまたより多くの人を笑わせたという実績が、その身に内包する力の大きさを左右させるのだ。たぶん。
「っと」
深い思考の海から少し抜け出してみると、私は視界の端に靡く黄金を捉えた。
絹のように滑らかな髪、身に纏うはビスクドールのような衣装、人形と見紛うほどに整った顔立ち。
音に聞く人形遣い、七色の魔法使い“アリス・マーガトロイド”の名が、私の脳裏を掠めていった。
あの白黒、騒動しか持ち込まないと思っていたが、こうしてみると有益な情報を残していたようだ。偶には役に立ってくれないと、困る。
「少しいいかい?」
「え?」
離れていく後ろ姿に、慌てて追いすがり声をかける。するとアリスは、細い首を緩く傾げて見せた。
「貴女は……ええと?」
「私はナズーリン。命蓮寺の、ナズーリンだ」
「ああ、お寺の。私はアリス・マーガトロイドよ。よろしく、ナズーリン」
こう、水を注げばかぽんと鳴る鹿威しのような丁寧な応酬には、心を癒やされる。命蓮寺以外でこんな応対を耳に出来る日が来ようとは、考えもしなかった。
「それで、何か用があるのかしら?」
「ああ、それなんだが――」
言いかけて、言葉を止める。するとアリスは端正な眉を下品でない程度に歪め、私の様子を怪訝そうに眺めた。
ストレートにギャグを言うのも良いだろう。けれど彼女の容姿は見るからに和のものではない。海の向こうの者に、果たして正しく伝わるものなのだろうか。
ふむ、ここは、やや遠回しに言った方が良いのかも知れない。
「――どうにも君が、思い詰めているように見えてね」
適当に言ったことだが、これでいい。思い悩まぬ者など存在せず、それ故にひとは立ち止まる。なら、渾身のギャグで溜まりきったものを掻き出してやればいい。
なに、やることは単純明快。上手く伝わるように外堀を埋めていくと、ただそれだけのことだ。
「なに? 急に。貴女には関係のない話だわ」
「否定はしないんだね」
戸惑うアリスを、追い詰めていく。いつも被害に遭うのは私の方だから、こういうのは新鮮だ。だからと言って調子になる気はないが。
あくまでも、目的は、渾身のギャグで以て彼女を爆笑の渦に叩き落とすことにあるのだから。
「関係ないと、言ったはずよ」
「そう、関係ない。関係ないからこそ、出来ることもある」
アリスは、相変わらずの仏頂面だ。微笑みすらしない、鉄の表情。そんなに冷たくては、人も寄っては来ないだろう。笑顔とは、即ち親しみだ。
……急にこんなことを言われれば誰だってそうかも知れないが、それは気にしないことにする。
「例えば、君を優しくすること、とかね」
「!」
私の言葉に、アリスが目を瞠る。仏頂面だという自覚はあったのだろう、彼女は眉を寄せると踵を返し、視線で私を促した。
「往来で話をしていたら、人に迷惑よ」
そう言って、アリスは近くの茶屋に立ち寄った。外に出された長机ではなく店内のテーブル席に座る。どうやら、腰を据えて話を聞いてくれるようだ。
私は団子を注文し、アリスはほうじ茶だけ頼む。西洋風かと思いきや、案外和風なものも好みだと言うことか。
「さて、どうして私に声をかけたの?」
ふむ、どう答えた物か。
言ってしまえば、偶然だ。まったく知らない者に伝えるよりは、知人の友人の方がまだ気安かろうと、そう思ったからだ。
しかし、そんなストレートな物言いは、些か味気なくも思う。
「惹かれたからさ。笑顔の輪の中、一人佇む孤高の花にね」
「はぁ?」
んん? 外国の人は気障ったらしい言い方を好むと思ったんだが……あれ?
明らかに頬を引きつらせたアリスの姿に、私は首を傾げる。遠回しすぎたか?
「……どうやら、素で言ってるみたいね」
そんな私の様子が彼女の瞳にどう映ったのか、アリスはほんのりと頬に朱を差して目を逸らした。よくわからないが、どうやらある程度気を許してくれたようだ。
「失礼な。私はいつも全力で大真面目だよ」
「ええ、ごめんなさい」
アリスが素直に謝ったとき、ちょうど、注文の品が届いた。てかてかとタレの輝くみたらし団子。その芳しい香りに釣られて、私はそっと串を持ち上げる。
タレが落ちてしまわないように、掬い上げるように舌の上へ。ほのかな甘味が舌先から喉の奥へ伝わると同時に、もっちりとした食感が私を癒やす。うん。いい団子だ。
「あんまり食べないの? お団子」
「はむはむ……ん、ん、これは失礼。ここのところ忙しくてね」
しまったしまった、私としたことが。見ればアリスは、幾分か柔らかい表情を浮かべていた。この調子で彼女の緊張を解していけば、バスケットに封印する瓜を取り出すことも可能だろう。
「はぁー……そうね。知らない貴女だから、出来てしまうかも知れないわね」
アリスはもう一度ほうじ茶を啜ると、どこか憂いの秘めた表情になり、頬杖をついた。人形のように上品で可憐な彼女には、似合わない仕草だ。
「人形劇でね、小さな子供に言われたの。“お人形さんは笑うのに、お姉ちゃんは笑わないの”って」
彼女が笑ったことがないなんて話は、一度も聞いた事がない。あの白黒はことある事にアリスの話題を持ち出すが、その中に“笑うと可愛い”なんてのもあったはずだ。
「愛想笑いって言うのかしら。人形と一線を引いて、私自身が人形にはならないよう、境界の上を意識して歩いている。だから、それができないの」
人形が人間に笑顔を振りまくように、彼女自身もそれを振りまくことが出来ないのだろう。なら、答えは簡単だ。面白おかしく生きればいい。
私はここぞとばかりに、バスケットから瓜を取り出す。窓辺から差し込む陽光の下で見てみると、この瓜は明らかに熟していなかった。
「ようは、面白いと思えばいいのさ」
「え?」
戸惑うアリスの目の前で、おもむろに取り出した瓜を一囓り。強烈な苦みが、舌先を通り抜けて鼻孔をたたきのめした。
「な、ナズーリンが――ナズーリンが瓜を食べてまずうりんっ!!」
店内の空気が、ぴしりと固まる。錯覚なのだろう、それはわかる。わかるのだけれど、どうしてそんな事になったのか。
口元を抑えたままアリスを見ると、彼女は眉根を寄せて、珍獣を見る目つきで私を見ていた。
まずい。これは非常にまずい。急ぎすぎたか?!
なにか、なにか、なにかフォローを入れなければっ!
「些細なことで良い。こんなギャグを思い浮かべるのでも良い。世界に混在するあらゆるものを、愉しいと、面白いと思えば良いんじゃないか?」
よし。これで、私のギャグに理解が追いつくはずだ。
瓜を食べてまずうりん、なんて、些細な日常の風景から抽出された、凝縮された“面白いこと”に他ならないのだから。
「みんな、君の笑顔が見たいんだ。だから、些細なことに愉しいと、嬉しいと、笑って欲しい」
よし。今度こそ大丈夫だろう。とりあえず瓜の口直しに団子を食べて、それからもう一度瓜を囓ろう。味覚をリセットせねばな。
「私の笑顔が見たい、か。素敵な口説き文句ね、もう」
アリスはそう告げると、ゆっくりと微笑んだ。私が見たかった爆笑とは違うが、柔らかい笑みだ。上品と言うよりも、そう、どこか無邪気な。
「ふふ、私が子供たちの笑顔を嬉しく思えば、それだけでいい。こんなことにも思い浮かばず、意固地になっていたのね、私は」
もち、もち、と口の中に団子が残る。早く食べきって、瓜を囓らないと!
このチャンスを逃したら、次はいつ、渾身のギャグを放てるかわからない。
「さっきの変なギャグも、これに持っていく為かしら? 小さな知将さん」
「んぐ……え?」
「誤魔化さなくても良いわ。貴女って、不器用なのね」
「ちょ、ちょっ」
「でも、ふふ――ありがとう、ナズーリン」
あれ? なんか、綺麗に纏まった?
もうこれから先、同じギャグを連発しても彼女には通じないだろう。
惜しむらくは、私のレパートリーか。もっと多彩なギャグを兼ね揃えていれば、こんなことにはっ!
「先におやつになっちゃったけど、これからお昼御飯でもどう? 腕によりを掛けて作るわ」
直ぐに飛び出して、新たに誰かを見つける。それが渾身のギャグを爆発的に広める為に必要なことだとは、わかってる。
けれど、昨晩から苦い瓜と団子とストレスしか納めていない私の胃袋は、どこか切なげな声を上げていた。
迷いに迷った私が、どのような選択肢を掴み取ったのか。
それについて明言する気はないが、一つだけ言えることがある。
アリスのクリームシチューは、今までに食べたどんな洋食よりも、美味しかった、ということだけは。
――二段目――
柔らかな笑顔を浮かべるアリスに手を振ると、彼女はそれをしっかりと返してくれた。
じめっとした魔法の森の空気は好きではないが、ここに暮らす人妖は、からっとしていて気持ちの良い者ばかりのように思える。
「さて、どうしたものか」
機を逸したギャグは、残念ながらアリスの胸を震わせるに至らなかった。けれどそれはギャグが悪いのではない。あくまで、私のタイミングが悪かったのだ。
なら、どうすればいいのか。アリスは知的すぎて、タイミングを計るのに労力が必要で、結果として私は機を逸した。
「なら、もっとストレートに通じる相手に云えば良い」
魔法の森から少し歩いたところに、大きな湖がある。これもやはり白黒が言っていたことだが、この湖には頭の悪い妖精が暮らしていると、何時だったか聞いた事があった。
頭が悪いとは言うが、それは単に無邪気だとそう言うことだろう。邪気がないのなら、邪推もしない。疑いもせず笑ってくれるのだ。うん、悪くない。
そう自分の中で結論づけながら歩いていると、だんだんと視界が白濁していくことに気がついた。
私の歩く先、奥に行くにつれて深くなる霧。この先にあるのが、白黒の言っていた“霧の湖”なのだろう。
「ふふふふふ! 待っていろ、妖精!」
「呼んだ?」
「おふぅあっ?! いつの間に?!」
背中にかけられた声に、私は思わず飛び退いた。気配を消して近づいたのだろうか、まったく読めなかった。この妖精、存外やるのかも知れない。
考え事をしていたから気がつけなかったなどということは、流石に無い……と思う。たぶん。きっと。
「さっきから声かけてたじゃん」
ないったらないのだ。
目の前に浮かぶのは、青い髪の少女だった。
青のワンピースに氷の結晶のような羽。妖精とはこんな雰囲気だったか? 彼女は他の妖精達よりも、力を持っているように見えた。
だが、そんな事は関係ない。
「私はナズーリンという。君は?」
「あたい? あたいはチルノ!」
名前も容姿も雰囲気も、なにもかも白黒の言った雰囲気と合致する。彼女が、湖に暮らす“頭の悪い妖精”とやらで、間違いないようだ。
さて、アリスの時とは違う。今回はもっとストレートに、真正面から私の渾身のギャグをぶつける必要があるだろう。
私はおもむろにバスケットから瓜を取り出すと、それをチルノに差し出す、二箇所ほど囓ってあるが、なに、気にする必要は無い。
「さぁ、囓るんだ」
「え? くれるの? ふぅん」
チルノは促されるまま、瓜を囓る。
途端に顔色が青くなり、彼女は瓜を思い切り投げ捨てた。
なんてことをしてくるんだ。あとで洗っておかないと。
「にが! まずっ! なんだよこれ!」
このタイミングだ。
瓜を投げ捨てられるくらいがなんだというのだ。私は、今まさに、このタイミングを待ち望んでいた!
「ふふふふ……ナズーリンが渡した瓜が、まずうりんっ!!」
目を瞑って胸を張り、堂々と言ってやる。けれど、二秒経っても三秒経っても、十秒経っても二十秒経っても、なんの反応も返ってこない。
とりあえず薄めを開けてチルノを見てみると、彼女は氷の固まりを口の中で転がしながら、首を傾げていた。
「どういうこと?」
「は?」
どういうこととは、どういうことだ。
ああいや、わかる。わかってしまう。この妖精、ひょっとしなくても私のギャグの意味がわかっていない。
「だからな、ほら、私の名前は?」
「ナズーリンだろ! いくらあたいが忘れっぽいからって、そんなに直ぐ忘れたりしないよ!」
「そう、ナズーリンだ。ナズーリンの渡した瓜が、まず、瓜、ん、だ。わかるだろう?」
問いかけても、チルノは首を傾げるばかり。私の言葉を理解しようという気がないのかあるのかわからんが、これは中々の強敵だ。
くそっ、まさか自分自身で自分のギャグを解析するハメになるとはっ!
「どこまでわかった?! うん?!」
「な、なんであたいが怒られてるのさ? まずい瓜だってところまでは」
「そう! じゃあまずそれの“い”を取るんだ!」
「なんであたが怒られてるのさ?」
「そこじゃなァァァァァいッ!!」
ぐぬぬ、無駄に疲れる。
ギャグを解説するだけで、この疲れよう。流石に妖精相手に高度なギャグを伝えようと言う方が無謀だったということなのだろうか。
「なんだよ。大ちゃんもそうだ。あたいに『チルノちゃんはひとの気持ちがわからない』ってさ。ふんっ」
「何か言ったか?」
「なんでもないよ」
なにやら一人で肩を落とすチルノに、ため息を吐く。このままでは、ギャグを理解させることが出来ない。
今後もこういった輩に遭遇する可能性は十二分にあるのだし、ここで対処法を見極めて置かなくてはならんな。
「まず、瓜、ん、復唱!」
「なず、瓜、ん?」
「それでは“なずうりん”ではないか!」
ぐわぁぁあっ! なんでわからんのだ!
思えば、昨日から厄介ごとばかり。せっかく思い浮かんだギャグも、まだ一度も通用していない。私に堪忍袋の緒が丈夫と思うのは、大間違いだと教えてやる!
「ええい、これでもわからんか! ならば弾幕ごっこだ!」
「うん。そっちの方がわかりやすい!!」
私が飛び上がると、チルノもそれに追従するように飛び上がった。先手はこちら。通常弾幕を横一列に並べて、一斉発射を開始する。
緩やかだが確実に追い詰める、私の弾幕。しかしチルノは、あろうことか身体を厚い氷で覆って突撃してきた。
不死といっても過言ではないはずの妖精、その無謀さを侮ったか!?
「ナズーリンロッド! でりゃあああッ!!」
「うわっ!?」
けれど私とて、毘沙門天様の配下。この程度の攻撃、迎撃出来なくてどうするか!
私に討ち払われたチルノは、身に纏う氷を四散させながら、大きく後退する。その隙を逃すほど、私は甘くない。
「視符【ナズーリンペンデュラム】!」
三つのペンデュラムが巨大化、回転を始める。そうしながらも弾幕を放ち続き、私はチルノを追い詰め始めた。
「っ雪符【ダイヤモンドブリザァァァドッ】!!」
チルノの弾幕は、決して洗練されているとは思わない。けれど、その弾幕が持つ創意工夫は、私を追い詰める苛烈さという形で示されていた。
「っ」
でも、避けられない訳じゃない。常でも避けられる自信はある。だがチルノが展開する弾幕には、どこか迷いのようなものが見えた。
何かに迷うチルノの弾幕は、操り手に合わせるように惑い、隙ができる。見れば彼女の顔に余裕はなく、白黒の言っていた“天真爛漫”な言動など、どこにもなかった。
「そうか。だからか!」
なにを悩んでいるか、知らない。
だが理解できないことを何時までも悩んで足踏みをしていたら、なるほど、ギャグのおもしろさなど伝わらないだろう。
「変に悩むから本当の形が見えないんだ! ストレートに、込められた想いを受け止めろ!」
私がこのギャグに込めた情熱は、生温いものじゃない。それを受け止めるのに必要なのは、ただ、素直な心だけでいいんだ!
私の想いが心に響いたのか、チルノはあっさり被弾し落ちていく。その瞳ははっきりと見開かれていて、どこか力強ささえ宿していた。
「チルノ」
「あたい、全然わかってなかった。巫女への悪戯を止めるのも、蛙を凍らせるのを怒るのも、全部あたいの為なんだって」
地面に寝転がるチルノに、そっと近づく。
私の一言で何が何処までどう解決したのかまったくこれっぽっちもわからないが、それでも渾身のギャグが伝わりそうなら、それでいい。
「わかったんだ、ナズーリン」
「そうか。なら、言うべき事があるだろう?」
まずは、そうだな……面白い! これで十分だ。
腕を組んでチルノの返事を待っていたら、彼女は勢いよく立ち上がって、私に満面の笑みを向けてきた。
言葉は要らないと、そういうことか。くくっ、中々粋なことをする。
「うん! あたい、大ちゃんと仲直りする! それで、もう一度ちゃんと、大ちゃんの気持ちを教えて貰うんだ!」
「そうそう、大ちゃんと…………え?」
え? まずうりんは?
戸惑う私を見事に無視して、チルノは飛び去っていく。
引き止めようとした私の手は無残にも空を切り、チルノはもう、追いかけられないほど遠くへ行ってしまっていた。
「じゃあねぇーっ! それから――――ありがと! ナズーリン!」
「え、ちょっ、ちょっ、どういう、えっ、えっ?」
遠くから響く声。
呆然と手を伸ばす私。
何も答えてくれない湖。
苛立ちを覚えるほど青い空の下、私はただ一人、残された。
「いったい、どうしてこんなことに」
途中まで上手くいっていた。
それは間違いないのに、何故だかこの有様。
流石に日が落ちてしまったら、命蓮寺に帰らねばならないだろう。だというのに、もうそろそろ午後のお茶を楽しむ時間だ。
「この近くに、誰かいたか?」
白黒は――却下だ。余計な騒ぎになったら敵わん。
チルノは――いや、追いかけるにも居場所がわからん。
探し物が良く落ちてる店、香霖堂――あの店主がギャグでどうにかなるものか。
「となると」
霧の湖の向こう。
そこには、大きな屋敷が建つという。
人間と妖怪の平等を訴える聖が、特に気にしている場所。人間と共存しておきながら、人間と同じ位置には立ち得ない吸血鬼。
その地下に広がる大図書館には、本を“快く貸して”くれる魔女が居ると、白黒から聞いた事がある。
「無邪気過ぎて、理解が追いつかなかったんだろう。ならば」
アリスの時は、私のミス。タイミングを間違えたせいだ。
チルノの時は、想定外の頭の悪さ。ギャグを解説せねばならないとは思わなかった。
けれどその魔女ならば、違う。タイミングを経験した私なら、きっと笑わせることが出来るだろう。
「ふふふふ、諦めるのは未だ早いと言うことか!」
私は湖で瓜を洗うと、そのまま飛び立った。
目指すは霧の向こうの、吸血鬼の根城。
悪魔の館、“紅魔館”である。
――三段目――
霧の向こう、曇り空の下に佇む真紅の館。
噂に違わぬ、いや、それ以上とも言える威圧感に、私は確かに圧されていた。
思わず生唾を呑み込み、額に浮かぶ玉の汗をぬぐい取って、唇を濡らす。そうすることで、やっと落ち着いてくる。
「甘く見ていた訳ではないが……いや、いずれにしても気を引き締めれば済むことか」
一歩踏み出すと、途端に気が楽になる。毘沙門天様の御前に立つことに比べれば、大したことはない。柄にもなく雰囲気に呑まれていたのだろう。
それだけ、妖しげな森、霧がかった湖の向こうにある屋敷という立地はそれっぽさというヤツを出していたのだ。
「確か、白黒の話では門番が――ん?」
適当な事情でもでっちあげて入れて貰おうと、門の周りをぐるりと見回す。すると、門柱の脇で向かい合う二つの人影に行き当たった。なんの話をしているのか、妙に盛り上がっている。
片方は赤い髪に緑の中華系、人民服の女性。もう片方は淡い青の髪に深紅の瞳の少女。悪魔の館というだけあって、使用人にまで悪魔が紛れ込んでいるのか、少女の背には黒い翼が生えている。
「すまない、少しいいか?」
「だから、効率強く漫画を買いあさるには、パチェの本に混ぜるのが――ん?」
「いえしかし、パチュリー様が零せばばれて、また『無駄なものを』とお小言が――はい?」
本当に、なんの会話をしているんだこいつら。
聞く限りでは、漫画本を買いすぎて勉強が疎かになった子供のような会話だが。
「あー、真面目な本の間に挟めばいいのではないか?」
「おお、なるほど。どう思います? お嬢様」
「ふぅん……良いかもしれないわね。盲点だったわ」
うん? お嬢様?
ではこの気怠げな悪魔が、彼の有名な“レミリア・スカーレット”だというのだろうか。もっと、こう、カリスマ溢れているのかと。
威圧感がない訳ではないが、どうにもお気楽な印象を受ける。
これなら、あっさり騙せるかも知れない。
そんな私の軽い気持ちも――
「そうそう、パチェはいつものように地下よ。まっすぐ降りれば逢えるわ」
――たった一言で、崩された。
悪戯げに眇められた瞳、つり上げられた唇、口元から覗く鋭利な牙。
妖しげに輝く真紅に、私は思わず一歩下がって、身構える。
「そう警戒しないで。ふふっ」
「お嬢様、ご趣味が悪いですよー」
「あはは、だって、からかいたくなるじゃない?」
「同意を求められても困ります」
からからと笑う吸血鬼と、肩を竦めつつもどことなく口元の緩む妖怪。侮れない、けれど、過剰な警戒はこちらの身を滅ぼす可能性があるか。
「入館の許可、感謝する」
「構わないわ。くくっ」
何がおかしいのか、吸血鬼は口元を抑えて笑う。こんなに笑いの沸点が低いのなら渾身のギャグをぶちかますべきかとも思ったのだが、正直、これ以上この場に居たくなかった。
居心地が悪いというか、そう、肩身が狭いのだ。
足早にその場を立ち去った私は、後ろで交わされる会話に、耳を寄せることは出来なかった。だから、二人の会話なんか、知らない。
「美鈴! 美鈴! あれ見た!? 瓜よ瓜! バスケットに瓜!」
「ええ、しかも食べかけでしたねぇ。くっ……いえ、笑うのは失礼、ぶふっ」
「あはは! そんなに食べ物に困ってるのかしら? あはははっ」
知らないと言ったら、知らないのだ。
――今度、同胞達を紅魔館に送り込もう。そして、全ての漫画本を食い破らせよう。
通りすがる妖精のメイド達に好奇の視線を向けられながら、紅魔館の中を歩いて行く。
図書館への道はやはり道中の妖精に聞いて進んでいるのだが、どうにも遠回りをさせられている感が拭えない。
なんだ? 私が見せ物にされているのか? いや、考え過ぎか。
これもどれもあれもそれも全部、吸血鬼と門番っぽい妖怪が悪いんだ。くそぅ。
「っと、やっと到着か」
館を、一週したような気がする。
そう感じるほどの疲労感に包まれながら、私は図書館へ続く大きな扉に手をかけた。
「おお」
そして、開け放った先の光景に、思わず目を奪われる。
幾重にも連なる巨大な本棚、薄く輝く妖術の灯り、ゆらゆらと揺れる蝋燭達は浮いていて。
まるで、幻想の絵本から飛び出してきたような光景だった。
「いや、見惚れている時間はない――だったな」
今日は、どうにも独り言が多い。
瓜を運ぶ為に、普段バスケットに身を隠していた同胞たちを置いてきたのは失敗だったか。
まぁ、なんにしてもこうしていてはなにも始まらない。私はそう苦笑すると、図書館の中央へ向けて飛行を始める。
本棚の海を越え。
淡く灯る蝋燭の火を揺らし。
一際高い本棚に囲まれた、大きな机を見つけた。
「あれ、か?」
机に沢山の本を並べて読みふける、紫髪の少女。憂いげに伏せられた瞳は繊細で、触れたらそれだけで壊れてしまいそう。
だというのに、手を伸ばしたが最後、本当にどこまでも引きずり込んでしまいそうな、妖しい気配。
彼女こそが、ここ大図書館の主、“パチュリー・ノーレッジ”なのだと、私は直ぐに感づいた。
「すまない、少しいいだろうか」
パチュリーの前に降り立つと、彼女は気怠げに本から目を上げる。髪と同じ色のアメジストに見抜かれると、吸血鬼達に見られるのとはまた違った意味で、居心地が悪い。
良くも悪くも、何を考えているのかわからないのだ。
「貴女は――ナズーリン、といったかしら?」
「おや? 知っていたのか? パチュリー・ノーレッジ」
「幻想郷縁起でね」
それだけ告げると、パチュリーは再び本に視線を落としてしまう。いや、だからこそやりがいがあるというべきか。
仏頂面を、私のギャグで破壊する。アリスの時はギャグ以外の力で破壊することになり残念ではあったが、今度は違う。
「それは?」
パチュリーが、本に視線を落としたまま、私の尻尾を指さした。尻尾に下がるバスケット、その中には、瓜が入っている。
……思わぬ所で“タイミング”が訪れたな。この知識と日陰の魔女とやらを籠絡する、最大のチャンスがっ。
「食べてみるかい?」
声が震えてしまうような愚行は犯さない。ただ、クールに青々とした瓜を差し出す。パチュリーはそれを様々な角度から眺めると、そのままぱくりとかぶりついた。
寄せられる眉、歪む口元、窺うような視線。まずい――そうパチュリーが言い出す前に先手をとることこそ、最良のタイミング!
「ナズーリンの瓜が、まずうりん」
あくまで、自然に。こちらの興奮に気取られないように、静かな口調で告げた。これで間違いなし。紅魔館は……爆笑の波に支配される!
私が期待を込めた目で、パチュリーを見る。すると彼女は眉を寄せたまま。咀嚼して、飲み込んで、瓜を机に置いた。
あれ?
「ツルレイシね。まずいんじゃなくて、こういう味よ。これ」
「えっ」
パチュリーは瓜を指さして、淡々とそう告げた。弦……鶴? なんのことだかわからないが、聞いてはならないことを聞いたような、そんな気がして、ならない。
ばくばくと大きく鳴る鼓動。吹き出す冷や汗。がたがたと震える四肢。なんだ。私は、何をこんなに恐れているんだ?
「ゴーヤ、苦瓜。なんでも良いけど、これは苦みを楽しむ果実よ」
「ごーや……えっ、ゴーヤ?」
考えてみれば、聖が封印されてから、ずっとご主人と共に生活していた。人一倍苦いのが駄目なご主人は、意図的に苦い食材を避けていたようにも思える。
けれど今の命蓮寺は、ご主人だけの場所ではない。みんなが集う、みんなの場所だ。だから、食材として使うつもりで置いといた。それが、真実なのだろう。
アリスは自分が食べた訳ではないから、本当に私がまずいと思っていると認識してくれていたのかも知れないが、改めて知っていたのかと聞きに行きたくはない。
「それで、今のギャグだけど」
「うん?」
てっきり、鼻で笑われて、それで終わりかと思っていた。けれど、パチュリーは本に視線を落としたまま、続ける。
「語呂は良いわね。名前と掛けているのも良いポイントかしら。でも、一発ネタ止まり。そこから別の話題に転換できる訳でもないし、漫談としては二流以下。宴会の時の盛り上がりに便乗しないと通じそうにないし、貴女の名前を知らないものには意味がわからない。厳しめに採点して三十点、色々考慮しても四十点が限度かしら」
だが、続けられた言葉は、先程まで以上に私の心を抉るものだった。チルノの時のように自分でギャグを解説、というものよりも遙かに屈辱的な言葉。
ギャグの元ネタを徹底解剖され、解説され、採点されるというこの虚しさ。全てを理解したとき、私は絶望から両膝を地に付けていた。
「そんな、ばかな」
項垂れる私の前に、机の上から落ちた瓜が転がってくる。青々とした皮、ごつごつとした手触り。ゴーヤーチャンプルに入っている輪切りのアレは、なるほどこんな感じだ。
調理すれば充分食べられるのに、なんで生だとこんなに残念な味なのか。そう考え出すと、ますます切なくなった。
「要件はそれだけ? なら、さっさと帰って」
突き放すような言葉を頭上に、私は頷く事すらできなかった。目の前の瓜を掴み、おもむろにかざしてみる。
私はこれを、どんな気持ちで囓ったんだったか。確か、そう、空腹でもうどうしようもなくて、苛立ちを込めて食らい付いた。
余りの苦さに悶えて、吹き出したくて、それから……それから。
「ああ、そうだ」
瓜を胸に抱き締めて、思い出す。私が瓜に込めた想いは、これがまずいかどうかなんていう簡単なものじゃない。いや、シンプルと言えばそれ以上にシンプルかも知れない。
私はこの瓜に、私の安寧を託したのだ。苛立ち荒れ狂う心を鎮めて癒やす、その切っ掛けになればいいと、そう思ったのだ。
「んぐ……まずうりん……ぶふっ」
囓って、苦みが口に広がり、やがておかしくなる。
採点されたから何だって言うんだ。その程度で折れるような心で向かって行ったから、おもしろさも何も伝わらなかったんだ。
「まだだ」
「……なによ?」
立ち上がり、瓜を片手にパチュリーを睨む。なんということはない。私の使命は、この仏頂面を木っ端微塵にすることなのだから。
「本を読むのは、楽しいのか?」
「当たり前じゃない。なによ、急に」
「いや、ただ――楽しいことをしている割りに、一度も笑っていないと思ってね」
パチュリーが、怪訝そうに私を見る。まずは、本から視線を逸らさせる。これが私の、第一歩だ。
「それがなに? 笑うような内容じゃないし、第一、笑い方なんて、とうの昔に忘れたわ」
「忘れたんなら思い出せばいい。違うかな?」
「貴女のギャグなら聞き飽きたわ。一度で充分よ」
ぐぬっ……手厳しいことを言ってくれる。
けれどここであっさり諦めたら、それこそ私の想いは伝わらない。この、天才的なギャグを、彼女の心に響かせることが出来なくなる。
「私のギャグを聞かせなくても、君に笑顔を思い出させることは出来るさ」
「へぇ? どうやって?」
「簡単だよ。誰かの笑顔を真似ればいい」
誰かの笑顔を見て、釣られる。そうすれば笑顔の輪というのは、自然に広がるものなのだ。
私は近くで仕事をしていた赤髪の悪魔に手招きをして、呼び寄せた。律儀に飛んで来てくれる辺り、どこぞの吸血鬼とは違って素直で好感が持てる。
「ちょ、ちょっとナズーリン! その子を連れてきてどうするつもり?」
「彼女の笑顔を見て、そこに込められている感情を察する。頭の良い君になら出来るだろう?」
赤髪の悪魔は、戸惑いつつもパチュリーの前に立つ。これで準備は万端だ。
私は瓜についた埃をさっと払うと、それを囓るために口を開けた。そして、彼女たちの戸惑う表情を笑顔に変えてやろうと改めて見直して……止まる。
「お呼びですか? パチュリー様」
そう告げる悪魔の顔は、どこまでも柔らかかった。安らぎを与える声、優しく緩んだ顔。慈しみの込められた瞳を、パチュリーは真っ向から見返していた。
ううん? なんだこの状況は。既に笑ってるとかなにそれ聞いてない。ここで何か一言でも発したら、思い切り蔑まれることも覚悟せねばならないような、そんな空気。
「え、えっと、ね」
もしや、パチュリーは誰に対してもあんな態度だったのではないのだろうか。
身近な者に対しても、目を本に落としたまま会話をする。だから、瞳の柔らかさに、声色の優しさに気がつくことが出来ない。
もし、本当にそうだったというのなら、パチュリーの様子も理解できる。彼女は初めて、自分を案ずる者の“笑顔”を見たのだから。
「……笑顔を真似れば、良い、か」
そして、同時に、もう一つ理解できる事がある。
「ええ、呼んだわ。小悪魔」
私、空気だ。
「パチュリー様……」
パチュリーの浮かべた笑みに、悪魔はほにゃりと微笑む。見るだけで砂糖を吐きそうな光景に、私はそっと目を逸らした。瓜を囓れる雰囲気じゃない。
最早ギャグの“ぎ”の字も言わせて貰えない空気を明確に感じ取って、私はそっとその場を後にする。
けれど、そうして項垂れて音もなく去ろうとする私の背に、声が掛かる。
「ナズーリン」
振り向くと、そこには照れくさそうに笑うパチュリーの姿があった。
「さっきは、貴女のギャグを貶してごめんなさい。素敵な、ギャグだったわよ」
いや、そこは笑っといてくれ。
そう言いたくなる欲求をぐっと抑えて、私はただ、首を横に振る。
「いいよ。君の仮面に罅を入れる手伝いが出来た――それだけで、十分さ」
せめて最後は、格好付けよう。そう私は、踵を返しながら後ろ手を振る。こうすれば、私の目尻に浮かぶ涙は感づかれないからだ。
いいや、涙じゃない。泣いてなんかいない。そう、これは汗だ。今日一日本当に疲れたから、心の汗が目尻に溜まったんだ。
妖精達の好奇の目を受けながら、私は紅魔館の門を潜る。黄昏時も終わりが近く、東半分は既に夕闇へと移ろい始めていた。
「成果はどうだった?」
「君の御同胞に聞いてみると良い」
門柱の横に佇む、吸血鬼の姿。その隣には、日傘を手にした銀髪のメイドが立っていた。一歩控えて、瀟洒に微笑む。その姿に、私は何故か、ご主人に従う自分の姿を幻視した。
「門番の妖怪はどうしたんだい?」
「彼女なら、花の手入れをしているよ。なぁ、咲夜」
「はい。あの子が一番、上手ですから」
咲夜と呼ばれたメイドは、そう、緩やかに告げる。誰も彼もが、それぞれを支え合っている。ここも、命蓮寺と変わらないんだ。
そう考えると、私は、なんだか無性に命蓮寺に帰りたくなってきた。
「良かったら、夕餉に招待しようか? 親友が世話になったみたいだし」
「いや、遠慮しておくよ。門限があるからね」
「くくっ、そうか。それは残念だ」
心底残念そうなのに、引き止めたりはしない。大人っぽい言動と子供っぽい我が儘。妖怪らしい恐ろしさと、同時に宿る怠惰な姿。
やっぱりここは命蓮寺と違う。ここは、紅魔館は、命蓮寺と比べるまでもなく、“ゲテモノ”だ。
一度だけ頭を下げて、それからさっさと飛び去る。
そうしたら、直ぐに、霧に覆われた館は見えなくなった。
――終段――
夕焼けから夜に切り替わる頃、徐行飛行をしていた私は、ふらつきながらもなんとか命蓮寺に到着した。
よほど疲労が溜まっていたのだろう。体力は底を突いて、直ぐにでも休んでしまいたい。そう考えながらも夕餉の匂いに釣られてみれば、食卓にはゴーヤーチャンプルが並べられていた。
よく考えなくても、わかる事。
今日の晩ご飯は、瓜――ゴーヤ料理だったのだ。
苦いものが苦手なご主人も、元が苦瓜だとわからなければ平気なのか、笑顔でぱくついている。確かに甘味のある卵で絡められていては、あまり苦みは感じない。
過去に食べたことがあるゴーヤーチャンプルも、確かにこんな味だった。だから私は、気がつくことが出来なかったのだ。
そうして夕餉の時間も終わり、月が中天にさしかかった頃。
私は、今日一日持ち歩いた食べかけの瓜を持って、命蓮寺の縁側から夜空を眺めていた。
「結局、私のギャグはどうだったのだろうか」
私はもちろん、自分のギャグに自信を持っていた。けれど、そのギャグで笑った者は一人も居らず、ただ、その事実が私の胸を締め付ける。
「最高のギャグだと、そう思ったんだがなぁ」
囓りかけの瓜。
私はどうしても、これを捨ててしまう気にはなれなかった。
万人に受けるギャグでは、無かったのかも知れない。でも、それでも私は、まだ諦めたくなかった。
たった一人でも良い。
私の渾身のギャグで、一世一代のギャグで、笑って欲しかった。
「おや? ナズーリン? まだ起きていたのですか?」
そう、黄昏れていた私に声が掛かった。女性にしては高い身長と、凛々しい顔立ちに似合わず、どこか気の抜けた表情に柔らかすぎる口調。
私のご主人、毘沙門天様の代理妖怪、寅丸星だった。
「ナズーリン?」
私を見て首を傾げる彼女に、むくむくと悪戯心が膨れあがってくる。元はといえば、ご主人が宝塔を無くすから、こんなに疲れるハメになったんだ。
このくらいの悪戯は、許されるはずだ。そう、このくらいの、可愛い悪戯は。
「囓ってくれ」
「は? これは――瓜、ですか?」
囓りかけのそれを見て、ご主人は首を傾げる。戸惑っては居たものの、私の視線に負けて、ゆっくりと齧り付いて見せた。
寄せられる眉。
震え出す四肢。
咀嚼も呑み込むことも叶わず、ただ、私と瓜を見比べる潤んだ瞳。
「ナズーリンの瓜が、まずうりん」
試しに、呟いてみる。
すると、ご主人は、目を見開いた。
うん?
「ナズーリンの瓜が、まずうりんっ」
今度は、もう少し大きな声で言ってみる。
すると、ご主人の表情に明確な変化が現れ始めた。
「ナズーリンの瓜が――まずうりんっ!!」
「ぶふぅっ!?」
ご主人は呑み込めなかった瓜を全部吹き出すと、真っ赤な顔で蹲った。口元を抑えて我慢しているようだったが、どうやらダメだったらしい。
そのまま、ご主人は、縁側で転げ回る。
「ぶふっ! あ、はははっ、あははははっ、なんですかナズーリン、それ、あははっ、まずうりん、ぶふっ、最高です! 最高ですナズーリン! あははははっ!」
床を両手でどんどんと叩き、呼吸困難になってもなお笑う。
「まずうりん」
「おぶっ、もう、ダメです、あはははっ、まず、うっぷ、まずうりん、あはははっ」
なんだか色々出しちゃイケナイ汁を撒き散らしながら、大爆笑するご主人。
私はその色々と残念な姿を見て、一つ、決意を固めた。そう、これまで以上に、強く、一つの思いを心に決めた。
「まずうりん」
「ぐっ、あはははっ、まず、うっ、うっ、まずうりんっ! あはははっ、あなた、世界を狙えますよ、世界、あははっ、あははははっ! ぶふっ、おふ、げほっ、ふはっ!」
何があっても、生涯、このひとに付いていこう。
それはきっと私が抱いた、正直な想いだったのだろうと、感じる。
それから、額に青筋を浮かべた聖が起き出してくるまでの、少しの間。
私は、それはもう清々しい笑みを浮かべていたのだと、後にご主人が語ってくれたのであった――。
――了――
冬瓜と苦瓜は別物です。ナズが
持っていたのは後者、最後に
寅丸さんが持っていたのが前者でしょうか
えぇい!これも著作権の魔力か…
しかしギャグセンスェ・・・
徹夜明けは、素直に寝ろ
序文だけでもう居た堪れなくなって思わずブラウザバックしそうになったけど全部読んでよかった。
なのに思いのほかいい話だったのに後書きでやっぱり辛い気持ちにww
そしてやはりご主人様は最高だわw
うん、星ナズが幸せそうならそれでいいんじゃないかな。
徹夜明けの失態……やらかしたことのある身には、何やら言い表わしがたい感情を抱かせてくれるお話でしたw
「これはゴーヤだ」
「えっ」
の辺りでわらた
ブーム君みたいw
と思ったら後書オチでヤメテ!
読んでる間じゅうニヤニヤが止まらなくてやばかったです。
苦い瓜だけに皆苦笑いだったわけですね。
「腹ごなし」は食後の運動を指す言葉なので
作中のシチュでは「腹ごしらえ」が妥当かと