Coolier - 新生・東方創想話

夢違 後編

2011/10/30 01:07:32
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『彼女の場合、亡くなる時に何か大切な物を置いて来てしまったのでは無かろうか』
                 ――東方永夜抄:プレイヤーキャラ紹介








 夢を見ていた気がする。

 最初に目に入ったのは木目だった。不規則に歪んだ同心円は、鄙びた風雅をまとわせながらゆったりと上下に揺れている。やがて気付く。揺れているのは壁面だけでない、私自身も、そしてその身を預けている床もだということに。ゆらゆらと、揺りかごのような上下動はどこか郷愁を誘う。
 横向きになっていた体を上へ向ける。薄暮を思わせる天蓋はひっそりとしていて、一切の気配を感じない。立ち込める霧には重みも潤いもなく、ただただ広がる景色を曇らせているだけ。それはさながら五感そのものに靄(もや)をかけられたかのよう。かろうじて感じることができたのは水面の揺れと、古びた舟の匂い、そしてぎぃ、ぎぃと一定の間隔で響く木擦れの音ぐらいか。

「おう、お目覚めかね? 富士見の娘。」

 足元から威勢のいい声が聞こえた。おもむろに上体を持ち上げる。おんぼろの和船に長いこと転がっていたというのに体は軽く、まるで自分のものではないかのよう。艫(とも)のところで仁王立ちしていたのは、またなかなかに切符のよさを感じさせる女性だった。

「いや、寝顔があんまりにも綺麗だったもんだからさ。起こさないでそのまんま出航しちまったよ。『思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ』ってね。良い夢見たかい?」
「……どなた?」
「へぇ喋れんのかい? さすが富士見の娘だ。」

 投げられた問いを無視して、そいつは私を見下ろしながらからからと高笑いを上げる。低い視点から見上げているせいかもしれないが、それにしてもかなり背が高い。手足もそれにあわせて長く、艶かしさを失わない絶妙な具合で肉がついている。
 みっしりと詰まった四肢が艪をぐいと力強く押すと、そのまま滑らかに元の位置へと戻る、その繰り返し。されど見飽きることはない。藍色と白からなる派手な着物に照らし出されて、艪を漕ぐ様はこれ以上ないほど画になっていた。
どきつい猩々緋の髪は上の方で二つ小さく結わえてあって、お調子者な口ぶりとあわせてどことなくがさつで洗練されてないふうにも見える。しかし忙しなく動く表情の狭間に一瞬見せる眼光――さながら獲物を狙い定めた狐のような鋭い光は、この女の本質を表しているに違いまいと直感的に悟った。

「答えてくださらない? 貴女お名前は?」
「ああ、あたいかい? あたいは小町、死神の船頭役やってる小野塚小町ってもんさ。」

 小町と名乗ったそいつは、口元ににへらにへらと笑みを浮かべながら艫のへりに腰掛ける。その間も艪と艪杭の擦れ合う音が止むことはない。会話のさなかも流麗に動くその手さばきは、舟など一度たりとて乗ったことのない私から見ても、相当の腕前であることが察せられた。

「死神、ってことはここは……」
「そ、三途の川さ。さすが察しがいいねぇ。どうだい、覚えてるかい? お前さんがどうしてここに来ちまったのか。」

 ずいと顔を寄せてくる小町を無視して、もう一度辺りを見回す。海なぞ行ったことはないし、湖ですらも"あいつ"から話で聞いただけという有様だったから、こんな広大な水面を見るのは初めてなのだ。生気のない、もの侘しい空気は視界の遥か先まで広がっている。一定の間を取って水面から突き出しているのは岩だろうか。尖らせた先を無明の空に向けながら、苔むした岩肌を晒すその様は、人の与り知らぬ刻を偲ばせる。
 汐も渦も、細波すらたたぬ水面に時折り過ぎる物影。もしや水底に何かいるのだろうか。とっさに船棚から下を覗いたが、あるのは自分の顔だけ。たまらず目を背ける。
 そんな黒鏡のような川面に、艪だけが波紋を描いている。押しては引き、そして押す。その度に平らかな黒面が僅かにたわみ、水の匂いがむっと湧き立つ。振り子のような艪の動き、それにあわせて響く艪杭の軋む音は、さながら子守唄。完璧な調和を保った共鳴は、なにやらひどく心を打つものがあった。
 耐え切れず噴きだす。こんな薄っ気味悪い風景に一瞬でも"もののあはれ"を感じてしまった自分があまりに馬鹿らしくなったのだ。今まで住んでいたあの惨めな掘っ立て小屋とさして変わりやしないじゃないか、まったく。

「どうしたい。なんか面白いもんでも見えたかね?」
「ふふっ……違うわ。死ねたんだなあって思ったらうれしくなったのよ。それだけ。」

 船棚に寄りかかったまま、もう一度含み笑いをしてやった。小町はひゅいと口笛を吹いて、軽く首をすくめて見せる。はっ、ちゃちな小芝居だ。
 ……まあいい。こんな奴、腹を立てるだけ損だ。今ぐらいは自分の身の上を素直に喜んだって文句は言われまい。とうとうやった。死んでやったんだ。ざまあみろ。

「そうだったわね。思い出したわ。確かそう、あの朝、日が昇るか昇らないかって頃に自分で首をかっ切って死んだんだっけ。本家の連中さぞかし焦ったでしょうねぇ。あははっ、いい気味だこと。」
「なんだかお前さんの亡骸を使ってどうこうしたとは聞いたがね。こっちとしてもそういうことされると困っちまうんだよ。喋れるってのも案外そこらへんのせいかもしんないね。」

 すかさず被せられた無粋な説明は、それまで胸に広がっていた達成感を幾分曇らせた。やっぱりそうきたか。死んだ後の話と思えば今更どうということもないが、自分の体をあんな奴らに辱められたかと思うと無性に腹が立った。向こう岸まで響くような舌打ちに、小町は苦笑いを返してくる。

「いやはや……なかなかにお転婆だとは聞いてたが、ここまで性根のひん曲がったはねっかえり娘とはねぇ。あんたきっといい死に方しないよ、西行寺のお嬢様?」
「はっ、知ったこっちゃないわ。もう死んだんだから猫被ってる必要もないでしょうに。あとね、その富士見の娘とか、西行寺のなんたらとかやめてくんない? 氏名(うじな)で呼ばれるの大っ嫌いなの。」
「そう言われてもねえ。いきなし『幽々子ちゃん』って呼ぶのはちょいと気が引けるよ。」

 またえらく嘘臭いしぐさで、小町は頭を掻き掻き照れ笑いをしてみせる。――そういえば死神は口八丁であれこれ揺さぶってくるとこの間"あいつ"が言ってたな。なるほど、お里が知れればどうってことはない。その手の場数なら私だって散々踏んできている。そうやって生き延びてきたんだから。
 なので頬を膨らませたまま、へりに頬杖をついてだんまりを決め込むことにした。こうすれば話好きが主導権をとろうと、あれこれ二の矢三の矢を撃ってくるだろうと踏んでだ。
 しかし小町はへへへと笑ったきり、また艪漕ぎに戻ってしまった。本当にやる事なす事いけ好かない奴だ。もっともこっちだって根競べなら負けるつもりはないが。
 変化のない川面をぼんやりと眺めながら、ちらちらと頭を掠めるのは生前の記憶。と言っても思い出すに足ることなんざありやしない。掃き溜めみたいな人生だったってことだけだ。
 西行寺なんてカビの生えた看板を背負わされ、ゴミ共に担ぎ上げられ、終いにはあんな辺鄙なところで蟄居生活。寄ってくるのは"体"目当てのクズばかり。どいつもこいつもあの桜目当てにへこへこしてくる。さっきから脳裏に浮かぶのは卑屈で醜悪な追従、気色悪い愛想笑いばかりときた。思い起こすだけで腹が立つ。何が"お嬢様"だ。そこらで春を売ってる女共となんにも変わりゃしない。いや、奴らはずっとまっとうだ。だって生きるためにやってるんだから。私の価値は死骸にしかない。

 本当に三途の川の風景は退屈だった。抑えようと思っても記憶が込み上げてくる。思い出したくもないことまで次から次へと湧き立ってきやがる。……"あいつ"は、今頃どうしているだろうか。

「しっかしあんたついてたねぇ」計ったような間で、小町が声を掛けてくる。「渡し賃。ほとんど零に近かったからどんだけ漕がなきゃならんのかって冷や冷やもんだったんだが、最期の最期にずいぶん稼いだみたいじゃないか。おかげでもうじき彼岸に着いちまうよ。」
「へぇ、そうなの」
「ずいぶんと気前のいい奴もいたもんだねぇ。お前さんみたいなのに金使ってくれるなんてさ。どういう奴だったんだい?」

 顔は川面に置いたまま、得々とくっちゃべる小町をじろりと睨みつける。くそっ、余計なことを言いやがって。また思い出してしまったじゃないか。湧き立った追憶を掻き消さんと、耳の裏をバリバリと掻き毟る。こちらの憤懣などお構いなしの様子で淡々と艪を漕ぎ続けていた小町は、やり取りが楽しくてたまらないとでも言いたげに薄ら笑いを泳がせながら、私の答えをずっと待っていた。

「妖怪よ」
「妖怪? そりゃまた珍妙な話もあったもんだ。どういう奴だい?」

 あざとく問いを重ねる嫌みな死神をもう一度睨み返してから、私はさっきよりいっそう強く舌打ちした。

「さあ? とにかく使えない奴だったわ。」




 *




 夢でも見ていたんだろうか。

「メリー!?」

 跳ね起きたのは薄暗い部屋の中だった。横たわっていたベッドから衝動的に飛び降りたその先で、さっそく何かに蹴っつまづく。暗くてよく見えないが、どうやら物がそこら中に散乱しているみたいだ。強かに顔を打ったが痛みは微塵もない。構わず身を起こそうとした。
 こんなことしてる場合じゃないんだ。早くメリーを、そのためだったら命だって何だって――

「おう、起きたか。」

 すぐ横から声が飛んできた。ぐっと音源へ向き直る。警戒感に全身がこわばる。まさかあいつの、仲間?

「落ち着けって。私は普通の人間だぜ。」

 その言葉と同時に光が灯る。八卦の彫り込まれたランタンに浮かび上がったのは、あどけない風貌をした少女だった。机に向かっていた身をくるりと翻し、椅子の背もたれに胸を押し付けながら、さばけた表情をこちらへ投げてくる。面差しを飾るのは量感のある金髪、片方だけ三つ編みにしてリボンで結わえてるのは自分と似ている。背は私より頭一つ分くらい小さく、瑞々しく膨らんだ頬に浮かぶ笑みはいたずら好きの悪ガキそのまんまだ。
 でも、なによりみょうちくりんだったのはその衣装の方。今どきハロウィンの仮装行列でも見ないような魔女の格好をしている。大きな黒い三角帽子に、いかにもな感じの黒白ドレスとエプロンスカート。ぱっと見悪そうな奴じゃない。けどこんな切羽詰った状況で、ひどくふざけた格好をしているこいつに少しだけカチンときたのは事実だった。

「しっかしついてる奴だぜ。この魔理沙さんちの前で行き倒れとはな。まあ日が昇るまでゆっくりしてけ。」
「メリーは……メリーはいたの?」

 けどこんな奴なんか今はどうでもいい。少女の肩を掴んで詰問する。向こうは表情を崩すことなく、淡々としたものだった。

「メリー? さあ、私が見つけたのはお前一人だけだが。」
「くそっ! メリー、行かないと。早く行かないと。あいつがメリーを!」

 そう言い終わらぬうちに足は扉へ向かって駆け出していた。がらくた山を飛び越え、ドアノブに手をかける。椅子に逆向きのまま腰掛けた少女が声を掛けてきたのは、ちょうどそのタイミングだった。

「行ったら死ぬぜ、あんた」

 腕が縮む。ノブが回ってくれない――なんでだよ。ビビってるのか私? メリーの為なら命だってとついさっき言ったのは、まやかしだったのか?……否定できない。「死ぬ」という言葉に私は抗しがたい恐怖を感じてしまっている。さっき覚えてしまった死の実感に、また絡めとられてしまって。
 告げられた口調にはなんら切実なものがない、まるで当たり前のことを当たり前のように告げたような、あっさりした言い方だった。だからこそいっそう怖い。その奇妙な語り口がなければ私はもう家を飛び出ていた……はずだ。振り返った先に浮かんでいた顔には、やはり緊迫の色も戯れの色も窺えない。

「まあ止めはしないがな。ただ夜の森を素人が歩いたら、数分後には妖怪の胃袋にご招待だ。お勧めはしないぜ。」

 そしてにかっと笑いかけてくる。私は足が竦んで立ってるのもやっと。助けに行かなきゃいけないのに。メリーは、扉の向こうなのに。
 視線でベッドに戻るよう促され、私はしばしの逡巡を置いて従った。怖気づいたんじゃない――そう何度も自分に言い聞かせる――今この少女の口から「妖怪」という言葉が出てきたことが気になったんだ。こいつは普通の人間ではない。私の知らない何かを知ってる。そう気取ったから、なんだ。
 リボンで結わえたお下げをいじりながらだんまりを決め込む私に、少女は安心させようとしたのか一つ頷きかけてきた。そして「真っ青だぜ。少し落ち着けや」とカップを渡す。中にあるのは褐色の液体。立ち上る香りはまさしくコーヒーのそれだ。だとしても飲む気になんかなれない。
 カップとにらめっこするだけの私に大げさなため息をついた少女は、肩幅より広いつばをした三角帽を脱ぐと、改めてこちらへ挨拶を向けてきた。

「私は霧雨魔理沙だ。あんた名前は?」
「……蓮子。宇佐見蓮子。」
「そうか蓮子か。よし蓮子、あんたここの、いや幻想郷のって言わないとダメかな、幻想郷の人間じゃないだろう? 外から迷い込んだ。そういう覚えあるか?」

 こちらを気遣ったつもりの問いは、何を尋ねたいのかすらわからないもの。でも一つだけはっきりと理解する。やはりこの魔理沙って奴は普通の人間じゃない。

「妖怪に、たぶん妖怪に出くわしたの」私は懇願するように口を開いた。「その時一緒にいた、メリーって、マエリベリー・ハーンって子がその妖怪にさらわれたの。」
「外でか?」
「外って……どういうことかよくわかんないけど場所は博麗神社よ。本殿の裏に結界の切れ目ができて、そこから入った時に……」

 魔理沙は「ほぅ」と目をぱちくりさせた。

「私が、悪かったんだ……」一度開いた口は、自分の意志じゃ止められなかった。「私が行きたいなんて言ったから、博麗神社の写真なんか持ってきたから、メリーをあんな目に……」
「まああまり利口な真似とは言えんが、今は愚痴言ってる時じゃなかろう?」

 と他人事みたいに言いながら、けれど魔理沙はなにやら頭を捻ってくれているようだった。真剣なその顔つきに、さっき覚えた不快感は失せていた。今はそんなこと気にしてる余裕なんてない。

「お願い、何か知らない? メリーは、私よりちょっと長めのブロンドで、紫色のドレスを着ていて、こう、ナイトキャップみたいな帽子被ってて……」
「おいおい、まさかそれで長手袋つけて扇子持ってるんじゃないだろうな?」

 想像だにしなかった返答に体がびくっと震える。茶化したつもりだった魔理沙も、私が見せた明らかな狼狽に驚きを隠さなかった。

「ちょい待て、まさか、冗談だろ……」
「その、もしかしてそのひと知ってるの? 長い金髪に赤いリボンをいっぱい結わえてて、紫の服に長手袋、それで扇子を持ってる……メリー、そんな感じの奴に捕まったんだけど。」

 暗い部屋に、沈黙が訪れた。魔理沙からも調子のいい笑顔が消える。しばし真顔でじっとこちらを見据えたまま、まるで今の発言の真偽を値踏みするみたいに。
 あまりに鋭い視線に、一瞬目をそらしかける。唐突、この子はいくつなんだろうかと思った。面立ちや挙動は絶対に年下のそれなのに、眼光は私なんかじゃ及びもつかないくらいの力を帯びている。

「なるほど、わかった」魔理沙はぱっと表情を崩す。「お前の友達は知らんが、少なくともその妖怪の方には心当たりがあるぜ。ただな、そいつがどこに住んでるのか私は知らん。私だけじゃない。ほとんどの奴が知らないんだ。まさに神出鬼没。神隠しの主犯。まともに相手したくないやつ筆頭だな。」

 魔理沙の説明は、私を勇気付けると同時にこの上なく絶望させるものだった。こんなどことも知れない場所で最初に会った奴が目当ての人物について知ってるなんて、ありえない僥倖だろう。
 でもその魔理沙が教えてくれた情報は最悪だ。住処はわからず神出鬼没で、しかも相当厄介な相手――ましな情報が一つもない。けど、だからといって「はいそうですか」で終わらせるわけにもいかない。それはメリーがとんでもなくヤバい状況にあるってことを意味してるんだから。

「まずは基本的なとこを伝えておかんとな」未だこちらに鋭い視線を投げたまま、魔理沙は口元を緩める。「ここはさっきも言ったように幻想郷。外の世界、まあつまりお前らが住んでる世界から切り離された別の世界とでも言えばいいのかな。ここにはお前らの世界で忘れられ、幻想となったものが移ってくるらしい。その代表が妖怪ってわけだ。さっきお前とそのメリーって奴を襲ったっていう奴も妖怪、名前は八雲紫だ。そんな名前言ってたか?」
「いや、覚えてない……ごめん」
「うむ、そうか……」

 魔理沙は少しがっかりしたそぶりを見せたが、すぐさま続きを話し始めた。

「でだ、妖怪は人を喰う。そのまんまの意味でな。だから外から迷い込んできた人間は十中八九奴らの餌食になる。」
「ちょっ、それじゃまるでメリーがっ――」
「そうだぜ。」

 憤然と立ち上がろうとした私の肩をぐっと掴みながら、魔理沙は厳しい口調で言い切った。

「だからな、普通に考えたらお前の友達は助からない。そう思っとけ。」
「ふざけんなっ!!」

 掴まれた肩を思い切り払いのけて踊りあがった。魔理沙を押しのけ再びノブを回さんと駆ける。

「ただしだ――」芝居がかったふうに咳払いを入れて、魔理沙は私を呼び止める。「紫が人間を襲ったところを見た奴はいないんだ。私だけじゃなく、他の奴らもだぜ? それに質は悪いが、まったく話が通じないわけじゃない。なに考えてるかはようわからん奴だがな。」

 振り返った私に、魔理沙はにかっと微笑みかける。そして私の決意を汲み取るように小さく頷くと、外していた帽子をくるりと被りなおす。

「そして、こっからが一番の肝なんだが、ここは霧雨魔法店、人探しから妖怪退治まで手広く扱う何でも屋だ。今お前が一人勇ましく出てって森の中で迷子になるのと、目の前にいる専門家の手を借りるの、どっちがお友達の助かる見込みがあるか、よーく考えてみた方がいいと思うぜ?」

 ノブを握ったまま、私はじっと魔理沙の顔を見据える。そこまで言い終えたこの少女に、冗談を言っている様子は微塵もない。確かに物言いこそ人を小ばかにした感じはある。けど、声の調子と向けられた視線にあるのは純然たる気概そのものだ――落ち着いて考えろ蓮子。今しなければならないのは、メリーを救うこと。その確率が少しでも高い方に賭けるとすれば、猫の手だろうと悪魔の手だろうと借りるべきだろ。

「――わかったよ」私はノブから手を離す。「霧雨さんだっけ? 手伝ってほしい。メリーが助かりさえするんなら、何でもするわ。」
「決まりだな。あと、その霧雨さんってのはよせ。苗字で呼ばれるの好きじゃないんだ。魔理沙でいい。」

 と言った魔理沙はウインク交じりに親指を立てる。けどそのしぐさには、今までとは違う虚勢みたいなものが一瞬顔を覗かせた気がした。でもそんなことはどうだっていい。ふてぶてしく笑う魔理沙に近寄って手を取った。向こうもしっかりと握り返してくる。

「じゃあ魔理沙、一つだけ確認したい。本当にここがその幻想郷ってところなのか、確かめたいんだ。少しだけ外を見てもいい?」
「ああ、そりゃそうだな」魔理沙は小さく首をすくめる。「確かにここが幻想郷だって証拠をなんも見せてないもんな。いいだろう、ちょいとばかし散歩の案内をしてやるぜ。」

 魔理沙は私の手を引っ張ってドアまで進むと、ドアの横に立てかけてあった箒を取りノブに手をかけた。箒まで完備とは。まさかそれで空を飛ぶとか言い出すんじゃあるまいな。ノブを握り締めるとなにやら呪文を唱え始める。どうやら鍵が掛けてあったらしい。……ちょっと待て、つまりさっきまでのやり取りは全部茶番だったってことじゃないか!
 またとびきり物でごちゃごちゃした廊下をくぐり抜け、私達は外へ出る。真っ暗な森は異様にじめじめしていて空気もどんよりと重い。鼻を突く生臭さはそれまで嗅いだこともない、けれど魂を底から揺ぶるような懐かしさを帯びている。それは博麗神社の本殿裏で感じたのと同じ、私達の生活から消えてしまった太古の風に違いない。

「どうだ?」魔理沙は訳知り顔で問いかけてくる。「お前らだとこの森の瘴気は辛かろう。少し別のところを回ってみるか?」
「月と星を見せて。それだけでいい。空が見たいの。」

「了解だぜ」と言った魔理沙は、当たり前のように箒に跨ると、私にも跨るよう促す。おいおいまさか本当に……

「じゃあ行くぜ。舌噛むなよ!」

 そう言ったかそれより早く、体から重みやら何やらが抜ける。とっさに魔理沙の腰にしがみついた。肘や膝に小枝がぴしぴしとぶつかる。何がなにやらわからず瞑っていた目を開いた頃には、うっそうとした原生林は足のずっと下にあった。

「す、すごい……」

 そろりと、視線を上げる。手の届きそうな位置に、月と星がある。……本当に、飛んでるんだ。引力も何もかも無視して、私、今飛んじゃってる!

「どうだ! 納得したか!?」
「すごい、魔理沙すごいよ。なにこれ、航空力学はどこいっちゃったの!?」
「そんなもん魔法使いの辞書には載ってないんだぜ!!」

 駆ける。旋回する。宙返りまで。天が足元に、地が頭の上に。もうジェットコースターだ。いやそんなの比較にならない。絶叫が、眩暈が止まらない。娯楽の分類に眩暈を使った奴の気持ちがようやくわかった。メリーの言ってたことは本当だった。幻想の世界は、あったんだ。

「どうだ。ここなら星がよく見えるだろう?」

 箒が緩やかにホバリングする。案内されたのは何の障害物もない、地平線の奥まで見渡せる場所だった。手で抑えていた帽子を外し、星の、月の動きを見る。ここがどこなのか、この瞳ならわかるはず。

「博麗神社からは、およそ10km……」
「ん? なんでわかる?」

 魔理沙は不思議そうにこっちへ振り返る。返事は後回しだ。あの神社から10km圏内にこんな原生林はなかった。つまりここはさっきまでいたところじゃない。

「時刻は、えと、3月なの? 3時01分24秒……いや違うかな? ……もしかして今は2×××年じゃない?」
「太陽暦はよく知らんが、今は確か20××年だぜ……?」

 天体の動きが読みきれない。細かな時間はわかるのに、何か根本的な所をずらされている気がする。でも全くの別世界じゃない。この目の力は使えるみたいだ。それは五里霧中にあった私を幾らかは鼓舞してくれる。

「わかったわ。ありがとう魔理沙。全くとんでもない異世界じゃないみたいね。未来か過去か、一応地球のどっかしらっぽいわ。」
「おう。それはよかったが、お前はなんでそんなことがわかるんだ?」

 首だけをこっちに向けて、魔理沙は興味津々といった感じで訊いてくる。そういえばこっちの事情は一切説明してなかったな。

「あそっか。ええと私はね、星を見ると今の時間がわかって、月を見ると今いる場所がわかるのよ。昔からそうだからなんでそんなことができるのかよくわかんないんだけど。」
「秒数単位でわかるのか?」
「位置座標ももっと細かくわかるわよ。」
「そりゃ面白い」

 と言った魔理沙は箒に乗ったままくるりとこっちへ向き直った。よくもまあそんな器用なことができるもんだなと他人事のように思っていた私に、この見た目に違わぬ魔法少女は言葉を投げてくる。

「どうだ、ここが幻想郷だって納得できたか?」
「えっと……ああまあそう、ね。ここが別の世界だってことはわかったし、魔理沙が空を飛べるってことも理解したし……」
「そうかそうか。でだ、さっきの依頼なんだが当然商売ごとだから依頼料ってもんが必要だ。わかるだろ?」

 この段になってそれを言うか。全く油断ならない奴だ。「ええと、なんかあったかなあ……」と濁す私に魔理沙は畳み掛けてくる。

「いや、私が欲しいのは蓮子、お前の眼だ。その眼をよこせ。」

 そんなことを言われながらじっと見つめられる。そういえばこいつ魔女だったな。

「ちょっ、待ってよ。抉るの?」

 と答えた私がよっぽど面白かったのか、魔理沙はそれこそ箒からずり落ちるんじゃないかってくらいの勢いで笑い出す。捩れた腹が落ち着くのを待ってから、魔理沙は涙を拭き拭き言葉を継ぎ足した。

「ちがうちがう……ははっ、まあちゃんと言わんかった私も悪いか。ちょっとその力を貸してもらいたいってだけだぜ。今研究中のスペルに使えそうなんでな。」

 なるほどと、私の心の中で頷く。"スペル"とかいうのがよくわからないが、きっと魔法使い業界の専門用語かなんかだろう。そんな交換条件で済むんなら願ったり叶ったりじゃないか。私はメリーを助けなきゃいけないんだ。

「わかった。じゃあこの眼を魔理沙に貸すわ。それでいい?」

 とびきり楽しそうに、魔理沙は頬をほころばせる。見ているだけでなんとかなりそうになる、そんな不思議な笑みだった。

「よし、じゃあ早速うちに戻るぞ。作業開始だ。」







『判ってますよ。最初から腐っていることぐらい』
        ――東方永夜抄:魂魄妖夢







 どうやら居眠りをしていたらしい。

「おーい着いたよ、お嬢さん」

 飛んできた声は小町のものだ。ぱっとまぶたを開く。どうやら船棚に身を預けたまま眠りこけてしまったらしい。それも仕方ない。なんせ本当に代わり映えのしない風景なのだ。おまけに小町の奴はさっきから聞いてもいない話をだらだら続けてくる。確か艪漕ぎがかったるいとかもっと休みがほしいとか、まあとにかくその手の下らない仕事の愚痴だった。うんざりして寝たふりをしていたら本当に寝てしまったんだろう。幽霊になっても眠れるものなのかと、腹の中で苦笑する。
 小町は相変わらずとりとめのない話題を撒き散らしながら艪を漕ぎ続けていた。確かにこいつの言うとおり、舳先のすぐ向こうに岸が見える。すぐ着くなんて調子の良いこと言った割にはずいぶんと時間がかかった。嘘吐きめと毒づきたくなかったが、さすがに憚られた。時間がかかるのは言われずともわかってたことだ。
 小町は私と並ぶようにして船底に寝転がっていた櫂(かい)を拾い上げると、艪を持つ手とは逆の手で水面に差した。そして艪と櫂を実に巧みに扱いながら、くるりと舟を川岸にくっつける。鮮やかな手さばきに感嘆する間もなく、この死神は声を張り上げる。

「ほれ、彼岸にご到着だよ。ぼさっとしてないでさっさと降りた降りた。」

 情緒もへったくれもない事務的な対応に眉をひそめる。小町はそれを一笑に付すと、ひょいひょいと手際よく私を連れ立っていく。
 彼岸に着くなり引っ張っていかれたのは見てくれだけご立派な詰所である。なんでも彼岸を渡ってきた霊は死亡証明やら身元確認やらのために書類審査を受けねばならないらしい。しちめんどくさいやり取りがしばし続いたが、小町があれこれ手を回したおかげでたいした手間は取らずに済んだ。
 審査待ちのさなかに説明されたところによると、まだ寿命を迎えていない者を誤って彼岸入りさせないようにという名目で、最近関所を敷いたのだそうだ。下らないと思わずひとりごちたが、小町の奴は笑って「お役所はないところに仕事を作るのが上手いんだよ」と言うばかりだった。

「はいご苦労さん。では改めまして彼岸へようこそ。」

 従者を気取った滑稽極まりないしぐさで案内されたのは、地平線の向こうまで続く花畑。様々な草花が渾然と咲き乱れ、しかしそこに興を殺ぐ雑然は一抹もない。それぞれの花々がさながら己の立ち位置を弁えてでもいるかのように、周りの花、そして辺りの色合いに溶け込んでいる。うっすらと白む空は霧の仕業でなく、ありとあらゆる色の光が交じり合い、白の極光を編んでいるがためだった。

 なるほどよくできているなと感心する。かくも神秘的な光の洪水、舞い散る花びらの雨を一たび浴びれば、誰しも自分が現し世の者では無くなったのだと悟らざるを得ないだろう。そう思わせるに足る力が、この場所にはある。
 事実辺りを見回してみれば、同じように三途の川を渡ってきた連中がポツリポツリと佇んでいる。どれもこの光景に魂を吸われたみたいな面構えをしながら、さながら自分の存在が周囲の景色を台無しにしていると悔いでもするみたいに、その体を縮めてただじっとうずくまっているのだった。傍目から察するに、あたかも魂が浄化されていくような、そんなご大層な感慨にさえ浸っているんだろう。はっ、まったく高尚なこった。

「どうだい、いいとこだろう?」

 小町は得意げに訊いてくる。私は片の眉を吊り上げて、皮肉たっぷりに返す。

「まあね。死んでよかったと思えるぐらいには雅だわ。」

 小町はひょいと首をすくめただけだった。めらっと腹の底に火が灯る。睨まれていることも一顧だにせず、この死神は横の方を親指で軽く差す。

「まだ時間はあるみたいだからね。あっちらへんでちょいとゆっくりしていこうじゃないか。」
「どういうことよ?」

 と訝しげに返した私へ、小町は「おっといけない」とみえみえのとぼけ面をしてから口を切った。

「わかっちゃいるとは思うがここは彼岸だ。お前さんはこれから閻魔様の裁判を受ける。そこで地獄行き、冥界行き、天界行きが決まるってわけだ。」
「あたしは地獄に決まってんでしょ。そんなの時間の無駄よ、下らない」
「残念だが閻魔様の裁定はうちらの常識じゃ推し量れないからねえ。あんたなんか案外天国行きかもよ」小町は冗談っぽく笑いめかす。「ところがだ、最近は死人が増えちまったせいで裁判も滞りがちでねえ。仕方ないから全国からお地蔵さん募って閻魔様を増やしたんだが、なかなか組織の仕組みの方が伴ってくれないもんで。人手と出費だけが増えて業務はろくに回ってないって有様なのさ。」
「んなことどうでもいいわよ。ってことは順番が来るまでここで待ってなきゃいけないわけ?」
「まあそういうことだぁねぇ」と小町はすまなそうな格好だけする。「ま、たぶんそんなに待たせやしないよ。閻魔様はわんさといるわけだしね。それに最近あたいについた上司がこれまたとんでもない堅物でね。仕事をぱっぱとやっちまうからさ、そのせいであたい休めないんだけど……」

 ああまた愚痴が始まりそうだ。もうこいつは無視、そう結論付けて指差された方を見遣る。
 そこは風雅な彼岸の中でもまたとびきり格調高い一角だった。見る者を一瞬で釘付けにするような大花はない。しかしつつましげに咲く野草達が淡い陰影を織り成し、それが白の極光と木立ちの作る影に彩られて、一種荘厳な空間を形作っている。そして庭園の紐帯として一帯に柔らかな影を落としていたのは、はらはらと薄紅色の花弁を地に落とす――桜の木であった。

「あそこは、やだわ……」ほとんど呻くように呟く。「あんなところ御免よ。ちんけな花ばっかでみすぼらしいし、辛気臭くて反吐が出そう。」
「そうかい? あたいはああいう鄙びたとこの方が落ち着けていいと思うけどねぇ。桜も綺麗だ。あそこの桜は一番だよ。」
「桜なんて嫌いよ……大っ嫌い。見るだけで虫唾が走るわ。」

 たまらずしかめ面を伏せた。小町は大仰な溜息をつくと、私の肩を軽く叩く。

「じゃああっちでどうだい。曼珠沙華の名所だ。」

 目線で促された先には、確かに彼岸花の群れが毒々しいまでに咲き誇っていた。その力強さに恐れをなしたのか、他の花々は遥か下の方でひっそりと身を潜めている。彼岸花――そういえば"あいつ"は嫌いだって言ってたっけ。

「別にどうでもいいわ。あんたの好きにしたら?」

 はっ、馬鹿馬鹿しい。さっきから何を下らないことばっかり考えてるんだ私は。花なんてただ咲いてるだけだろうが。そんなものに人間の勝手な心境を押し付けるなんて、実に滑稽じゃないか。花だっていい迷惑だろうさ。
 また思い切り舌打ちをして、額を掻き上げる。小町は結局彼岸花の方を選んだ。皮肉が利いてて悪くない。他の花を蹴散らし、命を吸って咲くあの禍々しさが私にお似合いってことだろう。勝手に言ってろ。

「せっかくだ、一杯やるかい?」

 彼岸花の只中にどかりと腰を落ち着けた小町は、さっそく胸元から瓢箪を取り出した。とびきりの冷笑と一緒に私も白々しく尋ねる。

「あんた、船頭の仕事はいいわけ?」
「まあいいじゃないか。今日はめんどくさいお嬢様のお相手して疲れたってことにしようや。」
「そりゃどうも。でも死人が増えて忙しいってさっき自慢してなかったかしらねぇ?」
「今日はたまたま死人が少ない日なんだろうさ」矢継ぎ早の皮肉にも小町は軽妙に答える。「それにお前さんみたいなの放っとくと何するか分かったもんじゃないからね。問題霊のお守りも船頭の仕事のうちだよ。」
「……ったく、適当なでまかせをぺらぺらと……」

 頭をバリバリと掻く私に、小町は改めて酒を勧めてきた。二つ並べられた杯に注がれた液体は、無骨な瓢箪から出てきたとは思えぬほどの繊細な金色を纏い、えもいわれぬ芳香をふわりと立ち昇らせる。苦々しい胸の支えをすっと溶かすかのごとき、柔らかで甘い香り――果実酒か、それとも何か漬けたか。

「ほら、祝いの"よもつへぐい"だ。ずっと死にたかったんだろう? これで晴れてこっちの人間ってわけさ。」
「またえらく古臭い話を持ってくるもんだこと。」
「それとも迎えに来てくれそうな旦那でも残してきたかい?」

 かかかと笑う小町。またギロリと睨みつける。小町はひょいと杯を傾けて中の液体を空けると、もう片方をこちらへ差し出す。まるで試すみたいに。

「呑んでやるわよ。ただ、竈(かまど)で作るから"へぐい"なんじゃなかったかしらねえ。」
「欲しいんなら後でしこたま食わせてやるよ。とりあえず最初の一杯だ。」

 杯を引ったくってぐいと呑む。たまらずくらっと来た。視界に星が飛ぶ。酒などまともに呑んだことないんだから当然か。しかめ面のまま目を白黒させる私がさぞ面白かったんだろう、小町はまた高笑いを上げながら、手から零れ落ちかけた杯を拾って酒を注いだ。

「お味はどうだい、お嬢さん?」
「……黙ってろ」むせながら吐き捨てる。「香りは、桂花ね。漬けたの?」

 こんなざまであっさり答えを導き出したことにはさすがに度肝を抜かれたのだろう。小町は軽佻に口笛をひと吹きしてからにやりと笑いかけてくる。

「ほう、なんで知ってんだい? お前さんの住んでた所には自生してないもんだろう。」
「もらったのよ一度。確か棗(なつめ)かなんかを甘く煮たのに、この香りをつけてあってね。一口でいいから食べろって。」
「へぇ、そりゃまた気前のいい奴もいたもんだ。」
「……さっきの妖怪よ」

 そんなどうでもいい話を口走ってしまったのは、たぶん酒で頭がくらくらしてたせいだろう。もう考えないようにしてたってのに。
 小町は何も言わなかった。注ぎ直した酒を今度は舐めるように口に含むと、じっとこちらへ目を置いたまま黙りこくる。本当にいけ好かない女だ。こっちが焦れて一気に口を滑らすのを待ってやがる。誰がそんな手に乗るか。

「いい奴だったんだねえ」やけにしみじみとした口ぶりで小町は語りかけてくる。「とても"使えない"とは思えないがね。気の利く奴じゃないか。妖怪のくせにさ。」
「妖怪だったからよ」そう思ったのも束の間、口が勝手に開いた。「喰ってもらおうと思ったの。私の命を狙ってくる奴なんざ掃いて捨てるほどいたけど、みんな私に近づいただけであの世行き。お話になりゃしない。
 そんな時にあいつが来てね。珍しく側にいても死なないもんだからさ、こっちから隙を見せて喰わせようとしたわけ。最高でしょ? "我死なば 焼くな埋むな 野に晒せ 痩せたる犬の 腹を肥やせよ"ってね! ざまあない死に方だと思ったわ。」
「ってことはだ、振られちまったってわけか、その妖怪に。」

 奥歯が軋んだ。湧き上がるものを抑えきれない。気付けばまくし立てていた。

「はっ! とんだお人よしよ。家に連れ込んでさ、たっぷり媚を振りまいてやったの。もうほんと馬鹿丸出しよ。こっちがちょっと気を見せると顔真っ赤にして目そらして、ははっ、今時そこら辺の童だってもっと気の利いた顔するわ。
 わざと不味い飯食わせてその気になるようにけしかけたらさ、私のことかわいそうって同情しちゃったらしくてね、食い物を散々貢いできて、あははっ、付き合いきれないほどの間抜けでしょう? 私の力を見たがってたみたいだったから、屠った刺客辺りでもご馳走してやろうかと思ったのよ。けどたまたま来なくて……でもそれ以前の問題、もう全くの腰抜け女よ。猫でも殺して見せましょうかって一度仄めかしてやったの。あはったかが猫よ? そしたらありえないぐらい動揺しちゃってさ、突然詫びいれてくんの。ばっかじゃないかしら? ほんとにこれで妖怪なのかって呆れたもんよ。
 もう最後には腹が立ったから直接言ってやったの。早く食べろよへたれが、ってさ。そしたら……ぷっ、あいつなんて言ったと思う? ぷふっ……助けてあげるって、ふふっ、生きててほしいのぉって、私のことそっ、そん、け……ああもうたくさん! もうダメ、我慢できない。ふふっ、あははっ……あーっはっはっはっは! ほんと、あんな能無し見ようと思ってもそう見れるもんじゃないわよ。ははっ、ばっかみたい……」

 もう最後らへんは息も絶え絶えで、自分でも何を言ってるのかよくわからなかった。これだけ腹を捩ったのも初めてに違いない。でもそりゃそうだろう? あんなぼんくら、笑い草にでもするしかないじゃないか。私なんかにあんなことして、何の得があるっていうんだ? 頭おかしいんじゃないか?

「――辛くないかい?」

 ずっと口を挟むことなく、私の馬鹿笑いにじっと耳を傾けていた小町がようやく告げてきたのは、その一言だけだった。今までとは違う、ひどく穏やかな声。下卑た哄笑がぴたと止まる。

「なっ、何よ……」
「いんや、なんか息をするのも辛そうなぐらい笑ってたからねぇ」生温い微笑をつくった小町の口調は元に戻っていた。「死んでも息をしないと苦しいってのは変わんないからさ。気ぃつけなよ。それとも酒が回りすぎたかね?」

 飄々としながらも、静かに腹へと食い込む口ぶり。要らぬ心遣いにまた舌打ちが飛び出る。確かに酔ってたろうさ。おかげで良い気分が台無しだ。

「……っさい」
「お前さんの体が心配だっただけだよ。どこぞの妖怪さんと同じでね。」

 と言った小町の顔には、たっぷりの嘲りが浮かんでいた。

「桂花は健胃、棗には強壮の効能があるからね。そのガリガリの体にはいい薬になっただろうさ。」
「そんなの知ったこっちゃないわよ」
「あと神経の昂ぶりを落ち着かせる効能があったっけね。棗にも桂花にも。あんたにぴったりじゃないか。よくわかってるよ。」

 そこまで言うと、小町は杯を一気に飲み干す。それ以上口に出すのは野暮と言わんばかりの勢いで。
 ……勝手に言ってればいい。私はとっくに冥土の人間、よもつへぐいを済ませて体に蛆がわいた身だ。
 ガリガリと、血が滲むほど強く頭を引っ掻いてから、私は小町の杯をひったくってその鼻先へ突き出した。

「早く、注いでよ」
「おいおい……もうやめといた方がいいじゃないか? さっきは黙ってたけど、これ結構強いんだよ?」
「どうでもいいじゃない。もうとっくにくたばってんだから。祝い酒なんでしょ、だったらさっさと注ぎなさい。ほら、ぐずぐずしてんじゃないわよのろま!」

 しばしの間を置いた後、小町は半分諦めたような顔つきで私の言に従った。とくとくと注がれていく酒が杯から零れんばかりになったところで一気に流し込む。喉が、胃がかっと熱くなる。そうだ、なにもかも焼けてしまえ。
 「もう一杯」と言わんばかりの勢いで腕を突き出した私に、小町はどこか中途半端な笑みを湛えたまま付き合うのだった。




 *




 どうやら居眠りをしていたらしい。

 ぱっとまぶたが開く。視界に広がったのはマホガニーの天板。どうやら机に伏せたまま眠りこけてしまったらしい。ったく何してるんだ、居眠りしてる暇なんかないだろうに……!
 半ば無意識に、転がっていた帽子を取り部屋を出ようとする。また床に散乱するがらくたに蹴っつまずいた。そこでようやく眠りこける前にあった諸々を思い出す。今自分が魔理沙って奴の厄介になってることを。
 部屋には依然として光がなく、ランタンなしではろくに前も見えない有様だったが、東の窓はうっすらと白みだしている。おそらく夜明けが近いのだろう。
 ようやく慣れてきた目で、改めて部屋の中を見回す。とにかく目に付くのは本、それも骨董品みたいな手製本ばかりときたもんだ。全てに精緻で玄妙な装丁が施され、並々ならぬ気配を纏っている。それが床や壁をびっしりと包囲し、かび臭さと威圧感で息もできないくらい。開いたままの格好で床に転がっている本を覗いてはみたものの、意味はおろか書いてある文字すら判別不能。確かに魔法使いの家だと言われれば納得するしかない状況だ。

「魔理沙、いないのー?」

 とりあえず声を上げてみるが反応はない。立てかけてあった箒もない。本の海をかき分けてドアへと近づきノブを回そうとするも、やはりびくともしない。私がさっきみたいにテンパって外へ飛び出すリスクはお見通しってことか。
 ここに至って思い出す。ああ、そういやあいつ出掛けたんだ。夜空で契約を交わした後、ここに飛んで戻り――正に文字通りだ――、この眼のことであれやこれやと質問を受けた。そのまま一睡もせずに外へ駆け出して行ったんだっけ。私だけをここに置いて。
 一緒に連れてけと憤慨しかけた私に魔理沙が説明したところによると、ここらの連中は話一つするにも決闘をしないといけないんだそうだ。その決闘というのがさっき言ってた「スペルカード」というもので、あいつ曰く「各々の能力・記憶・考え方を形にして見せ合う、知的で無駄な遊びだぜ」らしい。

 要求された駄賃も予想に反しごくごく簡潔に済ませられた。どうやらその「スペルカード」なるものを改良するにあたって、時間に応じ攻撃座標を変化させる技術を取り入れたかったらしく、そのアドバイスをあれこれ求められたのだ。とは言うものの助言らしい助言もしていない。帰る最中にあれこれ質問された分も入れて一時間と掛からなかったろう。
 そんな短い時間ではあっても、自称"普通の魔法使い"霧雨魔理沙が、一人の"科学者"として話せる存在だというのは十分理解できた。もちろん正規の学問を修めたふうには見えなかったが、とにかく直感が冴えている。数式なんかは説明してもさっぱりだが、そこから導かれる物理学の本質的概念はしっかり捉えることができる。理解するだけではない。思わずこちらが唸ってしまうような明晰な問いを投げ返してくることも度々あった。
 魔理沙曰く「科学も魔法も根っこは同じだぜ」らしいのだが、そういうものなんだろうか。人文学的教養と自然科学的精神にしっかりと裏打ちされた「魔法論」は、一介のオカルトマニアからしても、曲がりなりにも科学を修めている一学徒の身からしても圧倒される部分があった。天文学――より正確に言うならば"占星術"か――への造詣が深いという共通項もあり、終いにはすっかり夢中になって話し込んでしまった。
 よくよく考えればこんな切羽詰った状況の中、メリーを放ってそんな与太話に夢中になっていたわけで、不謹慎な事この上ない。魔理沙が出て行って一人きりになった後、思わず自分の至らなさを呪いたくなった程だ。そのまま呵責の念に囚われてるうちに、疲れて寝てしまったんだろう。全く以って無様だ。

 とりあえずベッドの上に戻り、今後の方針について考えを巡らそうとする。しかし何が出てくるはずもない。魔理沙ははっきりとは言わなかったが、要するに私は捜索の足手まといなのだ。だって空は飛べないし、「スペルカード」とやらを使うこともできないんだから。なんともやるせなかったが、厳然たる事実だ。私は、何にもできない。
 悔しい。また心が濁っていく。これじゃ、メリーに電話をかける前と一緒。……やっぱり私はなんにも変わってない。あの時、いやそうじゃない。もっと昔、メリーと会う前から、ずっと。
 
 私は、マエリベリー・ハーンが妬ましかった。
 
 大学に入る前の私は、今振り返ってみてもイヤな奴だったと思う。小さい頃から神童だの宇佐見のお嬢様だのともてはやされ、自分でも調子に乗って世界の全てを知った気になっていた大学入学までの人生。この世の仕組みが全部見えてしまうなんていかに退屈なことか、何もかも知ってるってことがどれだけ空しいことか――青臭い優越感を胸に秘めて周りを見下すだけの日々。メリーが昔私のことを「虚無主義者」だなんて茶化したことがあったけど、それはきっと正鵠を得てる。
 そんなものを軽々と飛び越えて見せたのが、マエリベリー・ハーンのあの眼だった。 私もそんな眼を持ってた。だからこそ余計下らないプライドを持ってたのかもしれない。でもメリーは違った。どこまでも自然に、私の知らない世界を見、受け入れている。
 私の眼のことを知っても、これっぽっちも驚きやない。ただ「気持ち悪い」と茶化されただけ。それこそハンマーで頭を殴られたみたいなショックだった。悔しくて、ムカついて、見返してやりたくて――「秘封倶楽部」を立ち上げたきっかけなんて所詮そんな幼稚な対抗心でしかなかったと思う。
 でもすぐに気付かされる。メリーの見ている夢の世界、境界の向こう側――それは私なんかがいくら足掻いたって到底見ることもできない世界。悔しさはすぐ憧れに変わった。かっこよくて、私もメリーと同じものが見たいと思った。果てしない好奇心を小脇に抱え、誰も知らない世界を一人闊歩し続けている、そんなメリーに少しでも近づきたいと願って。そう、メリーは私の理想だったのだ。
 なのに、"宇佐見蓮子"は立ち竦んでしまう。ちやほやされることしか知らなかった私は、巡りあえた理想の人にさえ悔しさを覚えずにはいられない。メリーから夢の話を聞かされるたび、夢から持って来た物を手渡されるたび、私は素直な憧れと同時に醜い劣等感に刻まれた。ただ聞くことしかできない、ただ驚くことしかできない、どこまでも受身で無力な自分に気付かされて。
 だから、せめて他の部分ではメリーの役に立ちたいと思った。メリーのお眼鏡に適いそうなオカルトネタを必死で掻き集めて、活動計画を立て、あの子の好きそうなレストランを欠かさずチェックし、会話の時はあらん限りの機知と知識で飾り立て、でも失礼にならないように、絶対に不愉快な思いをさせないようにと。だってわからなかったから。メリーにとって私なんか本当に必要なんだろうか、あの子は私なんかと付き合うことに価値を感じているのか、怖くて仕方なくて。だからそうやって張り合うことで、必死にその恐怖をねじ伏せようとした。それが惨めな自己満足に過ぎないのだと、心のどこかではわかっていたくせに。
 それでも、メリーは喜んでくれてるように見えたんだ。決死の思いで見つめ合おうとする度に顔を伏せられても、話のたびに専門用語で距離を取られても、メリーは私と話すことを楽しんでくれてると思って、安心していた。これでいいんだって。私は理想の人を喜ばすことができてるんだって、そう思いこめた。
 そしてそんな儚い確信があの日、何もかも水泡に帰したわけだ。メリーは私に本気で腹を立て、でも私はどうしていいかわからない。メリーと音信不通になったあの一日は、正に地獄だった。もうお終いなんだと思って、勢いだけで掛けた電話も5秒と待たず切った。あれだけ送っていたはずのメールも、一晩悩みぬいてようやく出せたのが一通。出した後どれだけ後悔したことか。結局私は何も変わってなかったんだって、一人きりの部屋でひたすら打ちのめされた夜だった。
 あの時、二度目に掛けた電話でメリーが逆に私を励ましてくれなかったら、私はどうなっていたんだろう。あの時着信を拒否されていたら、果たしてそれでも電話を掛け続けただろうか、思い切り罵倒され、もう二度と会いたくないと言われても、部屋に直接行って許しを乞おうとしただろうか。メリーが旅行に誘ってくれず、余所余所しいままだったら……

「おう、起きてたか?」

 勢いよくドアが開いて、魔理沙が戻ってきた。夜明けだってのにこれまたパワー全開である。どういう生活をしているんだろうかこいつは。

「ああ、おかえり」
「ふむ。元気なさそうだな。ちゃんと寝てないだろ?」

 肩をぽんぽん叩きながら、まるで保護者みたいな口ぶりで笑いかけてくる。元気なもんだ。溜息を吐いて首を振った。魔理沙も小さく苦笑してから、キッチンへと向かう。

「腹減ったろう? なんか食おうぜ。」
「いや、そんな、悪いって……それよりさ――」
「うだうだ言うな」エプロンスカートの上にわざわざエプロンをつけながら、魔理沙はぴしゃりと言う。「悪いわけあるか。腹減ってんのは私なんだ。蓮子の分はそのついでだよ。一人分作るぐらいなら二人分作った方が楽だろ? おこぼれには黙ってありがたく頂戴しとくもんだ。これから忙しくなるんだしな。」

 私の返事を待たずキッチンへ向かった魔理沙は、さっさと食事の支度に掛かり出した。部屋の乱雑さが嘘みたいなてきぱきとした包丁さばきに、思わずあっけに取られる。厨房を跳ね回る金髪にすっかり見とれながら、なるたけ失礼にならないよう朝食を辞退する方法を考えているうちに、テーブルに積み上げられた本の上にはご飯と味噌汁、そして香の物が並んでいた。
 ……やっぱり年下には見えない。本当にこんな森の奥に一人きりで暮らしているんだろうか。空を飛び回って、こんな難解な本が読めて……その上料理だって。こんなこと、私なんかじゃできないよな。

「さあできたぞ、ほれ食え」

 人懐っこい笑顔を向けて、魔理沙は私を急かす。みてくれこそよくないが、見たこともない食材がふんだんに使われた献立への興味は、気を遣わせてしまった申し訳なさを上回った。これだってみんな天然ものなんだろうな。
 思わず涎が零れそうになる。もちろん腹だってペコペコだ。でも不思議と食べる気になれない。
 いつまでたっても箸に手をつけず、ただ白のリボンで結わえたお下げをいじるだけの私。魔理沙は怪訝そうに見遣る。居たたまれなくなって口が勝手に開いた。

「あ、あのさ、魔理沙は知ってる? "よもつへぐい"って……」
「ん? ああ、あれだろ。イザナミがあの世で食った飯だかなんか……っておいまさか、これがそれだって言うんじゃないだろうな?」

 なぜこんなタイミングで"よもつへぐい"なんて言葉が出てきたのか、自分でもよくわからない。ただ訳も分からず、私は言葉を押し出していた。

「さっきさ、夢で見たんだよ。三途の川を渡って彼岸に行ってね、死神に"よもつへぐい"だって言われて、酒を呑まされるの……だからなんとなく気になっちゃったんだよ。ほら、よく言うじゃない、異界の食べ物を口にするとその世界の住民になっちゃうって。だから、これを食べると幻想郷から帰れなくなっちゃう気がして、なんかそれってよくないかなって……変なこと言ってごめん、せっかく作ってくれたのに。」
「まあなかなか変わってんな」早々と食べ物を口に詰め込んでいた魔理沙は、しかし真摯な声で答える。「そんな迷信臭いやつ、幻想郷でも初めて見たぜ。でもまあ、さすがに彼岸にゃ行ったことないが、地獄の酒呑んでも天界の酒呑んでも、月の桃食っても私はここにいるわけだしな。だから蓮子も帰れるし、そのメリーって奴も死んじゃいねえよ。お前の言いたいことはわかったからさ、まずちゃんと食え。腹が減っては戦はできぬってな。」

 そして私に箸を握らせる。恥ずかしくなってなぜだか噴き出してしまった。地獄天界ときて、とどめは月か。気休めの冗談にしてもめちゃくちゃだ。でも、やっぱりこいつといるとなぜだか元気がわいてくる。

「そうだね。うん。じゃあ頂きます。」
「よしきた。そうこなくっちゃな。」
「で、その味噌汁の身って天然のキノコ?」
「ああ、昨日見つけたばっかの新種だ。昨晩おんなじように味噌汁に入れて食ってみたから、最低8時間は食べても生存可能だと検証済みだぜ。ほれどんどん食え。」

 前言撤回。やっぱこいつとは一緒にいたくない。




 食事が済むとすぐ、魔理沙はまた出かけると言い出した。しかも今度は私同伴で。食事中に聞いた話では、あの後魔理沙は紫の手がかりを求めて方々を飛び回っていたんだそうだ。なんでもその八雲紫なる妖怪はたいそうよく眠るらしい。日が昇る前に寝て、日が暮れるころに目を醒ます。つまり魔理沙の出て行った4時ごろは普通であれば紫が床へ戻る前の、一番活動的な時分になるわけだ。とりあえず鉢合わせした知り合い連中に、紫を見なかったかと片っ端から訊いて回ったそうだが、結局なんの成果も出なかった。
 落胆する私とは対照的に、魔理沙は自信満々のままだ。なんでもまだまだ当てが残っているという。

「んで、その当てはどこにいるの?」

 魔理沙にしがみつき箒に跨りながら、私はどこか上ずった調子で訊いた。たちまち後悔が胸をちくりと刺す。まるでメリー捜索を楽しんでいるみたいな口ぶりにしか聞こえなくて、言ってる自分にイラっときた。

「博麗神社だ。お前も知ってんだろ?」魔理沙は大声で返す。「そこの巫女なら何か知ってるはずだ。あいつが知らなかったら、誰も知らんだろうからな。」
「そんなすごい奴なの?」
「うーん……まあな。とてもそんなふうには見えんだろうが。」

 二度目の空中遊泳は、まったく飽きるところがない。むしろいっそう新鮮であった。進行方向から顔を覗かせつつある太陽に照らされて、夜にはおぼろげにしか窺えなかった大地の仔細がはっきりと眼前に広がる。原生林の濃密な緑、どこまでも澄んだ青を映す湖畔、鋭い輪郭を見せ付ける霊山、そして立ち昇る朝の大気。目に映るもの、経験すること全てに心奪われてしまいそうになる。……いけない。これじゃまた同じだ。今この心を占めるのは、メリーだけでなければならないのに。なのにさっきから目移りばかりして。まるでこれじゃあ――

「そういえば」箒を前へと進めながら、魔理沙は背中越しに話しかけてきた。「お前のアドバイスのおかげで例のスペル、結構さまになってきたぜ。あんがとな」
「そんなことないよ」私も向かい風に負けないよう大声で答える。「魔理沙のおかげで助かってるんだから。私の方こそありがとう!」
「礼はお友達が見つかった後だ。それよか、座標が毎回微妙にずれてる気がするんだがやっぱし歳差運動のせいかね?」
「わかんない! でも私の眼じゃ実戦で使える精度にならないのかもよ。そうだ、これ貸すよ。」

 と言って私はポケットから懐中時計を取り出すと、前にいる魔理沙に手渡した。

「電波時計。最新式で、軽度と緯度も細かく測れるんだ。きっと私のアドバイスより役に立つよ。」
「そりゃ貸りられるもんは借りるが、なんでお前こんなもん持ってんだ。必要ないだろ?」

 ずっと前を向いたまま、魔理沙は尋ねる。私もすっかり調子に乗って、誇らしげに答えた。

「お父さんにもらったんだ。」
「……はーん、親父ねぇ……」

 脳髄に、冷や水を浴びせられる。魔理沙の返事はひどく気のない、というより苛立たしささえ覚えるような調子で、およそこの快活な魔法少女の口から出たとは思えなかった。依然としてずっと前を向いたまま、その表情は私から窺えない。でも手を回した魔理沙の腰は、わずかばかり震えているふうにも感じた。
 無意識に力が入る。また心が濁っていくのを、自覚せずにいられなかった。思い出の詰まった、取って置きの品だったのにと、ひどく邪険な反応をされたことに憤りを感じてしまっている。また、またこれだ……
 そんな心持ちを背中越しで気取ったのかもしれない。人当たりのいい、でも何だか無理やり引き出したような声で魔理沙は語を継いだ。

「まあいいや。これは借りとくぜ。お前にゃ必要ないからな。」

 そしてふっと空笑いが漏れる。それは私に向けられたものだったのか、よくわからなかった。

「あとな、お前の眼はこんなもんよりずっと役に立つと思うぜ。だから――っともう着いたな。」


 気まずい空気のまま、気付けば朱い鳥居は目の前にあった。朝日を背中から浴びる大きな鳥居は、昨晩メリーとくぐったものよりずっと雄雄しく霊験を帯びているふうに見える。箒に乗ったまま鳥居を抜け、境内へと滑り込んだ魔理沙。着地する暇さえ惜しいといった感じで半分身を浮かせたまま、本殿めがけ叫んだ。

「霊夢、勝負だ!」

 そして放り出されるように境内に着地した私も、その声の先を見遣る。視線の先に突っ立っていた少女は、確かに巫女っぽかった。一応。

「めんどいからパス。まだ起きたばっかじゃない。」

 とやる気のない声を漏らしたその巫女っぽい人は、魔理沙と同じか少しばかり高い背丈をした少女だった。赤と白の装束を着て、箒片手に境内を掃いているさまは紛うことなき巫女さんだ。しかし全身から漏れ出ているやる気のなさは、およそ神に仕える身にはふさわしくない気もする。
 しかし一番印象的だったのはその眼だった。まるで参拝客を一切視界に入れていないような、というより何も映していないような茫洋とした瞳は一種恐怖さえ催させる。その人間離れした眼だけを取り出せば、この少女くらい人間と神を跨ぐ巫女の役割を担うのにふさわしい人物はいまいと、誰もが納得してしまうだろう。
 だが、瞳に吸い寄せられた視線を改めて全体に戻してみると、その畏怖の念はたちまちどこかへ吹き飛んでしまう。理由は簡単、着ている衣装のせいだ。頭にでっかいリボンをつけているわ、下はフリル付きのスカートだわ、腋は空いてるわと、纏っている巫女装束は民俗学者も度肝を抜く風変わりな一品である。要するに魔理沙と同じくらい、いやもっと摩訶不思議な人物であった。
 そいつは眠そうな顔に軽い不機嫌を混ぜて、飛んできた宣戦布告を一蹴した。だがそれでめげるやつでもないだろう、この魔理沙って奴は。

「すまんが私は寝てもいないぜ。5枚!」

 それと同時に魔理沙は飛ぶ。正確に言えば私を地面すれすれから放り投げて、そのまま鋭角に浮上した。

「……4枚」


     光符「ルミネスストライク」


 巫女さんの呟きはもう境内になかった。魔理沙が上昇する寸前、"何か"を彼女めがけて撃ったのだ。すさまじい閃光。耳をつんざく爆音。そして土煙。私が視界を取り戻したころには、魔理沙も、そして今の爆光をもろにくらったはずの巫女さんも、そこにはいなかった。
 見上げる。そして、息を呑んだ。

「朝一にぶっぱとは、まーたずいぶんとご挨拶じゃない?」
「眠気覚ましの餞別だ。いい夢見ろよ!」

 朝日が昇ったばかりの空に、一面星が瞬いている。いや、星じゃない。あれはあいつらが撃ってるんだ。速い。まばたきしたら一瞬で見失う。黒い影は縦横無尽に、それこそ稲妻みたいな光を残して飛び回る。赤い影はそんなに速くない。でもなぜか目で追えない。次の瞬間どこへ行ったかわからなくなる。もしかしてあいつら、あの光を全部避けながら動き回ってるのか?

「夢は見たわ。負けた魔理沙がお賽銭たくさん入れてくれる夢ね。」
「やっぱ眠気覚ましが足りてないな。寝言は寝てから言いな霊夢!」

 ようやくわかった。黒い影が魔理沙。赤い影が巫女さんだ。あいつら、光をばら撒きながら同時にそれを避けあってるんだ。なんなんだあれは。決闘してるはずなのに無駄弾ばっかり。とても相手を倒そうとしてるようには見えない。どう考えたって非効率そのもので、でもだからこそ、すっごく綺麗! あれが……「スペルカード」?
 戦況は五分五分なんだろうか。魔理沙が追い立て、巫女がそれをいなしてる。互いに様子を見合って……いや違う。巫女が降りてくる。あの星の海を、鋭角に潜行して!

「ワインダーくぐんなっチート巫女が!」


     宝具「陰陽鬼神玉」


 そして、星屑ごとまとめて叩き潰さんとする馬鹿でかい陰陽玉を――


     恋符「マスタースパーク」


 青と金色がぶつかる。目が眩む寸前に見たのは、魔理沙が胸元から取り出したあの八角形のランタン。あれ、ビーム撃てるの?
 ゼロ距離で衝突した閃光が溶けるころには、巫女さんしか境内にいなかった。魔理沙、まさか今ので――

「上から『ドラゴンメテオ』……じゃないな?」


     霊符「夢想封印 散」


 おびただしい数の札と陰陽玉が、地面を舐めるように爆ぜる。放射状に撒き散らされたそれは、狙ったみたいに私を掠めて境内の木々を穿つ。一瞬巫女さんと目が合った。見ただけで刺し殺されそうな、それなのにとびきり楽しそうな瞳。すっと、冷や汗が流れる。これと、魔理沙は戦ってたわけ?


     魔廃「ディープエコロジカルボム」


「ちっ!」

 息吐く間もなく、今度は巫女さんが消し飛んだ。犯人はおそらく直前に足元へ投げられた小瓶。轟音が石畳を揺らす。魔理沙はやられてない。どっかでチャンスを待ってるのか。
 もちろん今の不意打ちで仕留められる巫女さんじゃない。いつの間にか上空にあった赤い人影が、札と針を撒き散らしている。あっちも魔理沙の出方を窺ってるに違いない。
 私はもう夢中だった。流れ弾が当たるとか爆発に巻き込まれるなんて考えはこれっぽっちも浮かばなかった。今はただ魔理沙の勝利を応援していたのだ。なんでかはわからない。でも魔理沙に頑張ってほしいと思った。

「なんか狙ってんな……ああめんどい。じゃあ勝手にやんなさい!」


     神技「八方鬼縛陣」


 これまで以上に吹き荒れる札の嵐。朝日すら飲み込む黒雲を思わせる弾幕の檻は、しかし整然たる網目を描き見る者の目を惹き付けてやまない。巫女は動かない。魔理沙も出てこない。……待ってるんだ、二人とも"何か"を。そしてこの雲が境内から晴れたとき、きっと魔理沙は動く。


     魔符「スターダストレヴァリエ」


 果たしてそれは来た。私の背中側から、星屑の渦が。

「……? これが切り札……?」

 札の鎧を脱いだ巫女が渦に飲まれる。窒息しそうな密度なのに、あの巫女さんは平然と星屑の中をかいくぐっていく。なんであんなことができる? 戦い始めてからもうじき10分経つぞ……10分?

「くらいなっ!」


     光撃「シュート・ザ・ムーン」


 光が天を射抜く。それはちょうど星屑の間隙に糸を通すような完璧な座標。計算しつくされたタイミング。もしかしてこれが――

「しまっ――」
「終わりだ霊夢!!」


     夢符「夢想亜空穴」


「なーんてね」

 何が起きたのかなんて私にはわからなかった。光の噴水に見とれていたその瞬間、勝敗は決していたのだ。勝利をもたらしたのはほんの僅かな枚数の札。今までの応酬が馬鹿らしくなるほどの。でもそれはいつの間にか魔法使いの小さな懐へと、無慈悲に叩き込まれていたようだった。私は呆然と、固く冷たい石畳の上へと墜ちていく魔理沙を見ていることしかできなかったのである。







『あら残念、未練たらたらですわ』
  ――東方緋想天:西行寺幽々子







 目を醒ますと褥の上だった。

 背中を伝うのはふんわりとした感触だ。さぞ上等な寝具なんだろう。穴だらけの掘っ立て小屋で藁に包まりながら寝ていたことを思えば、夢みたいな暖かさだった。思わず小さい頃、まだ貴族の娘としてそれなりに恵まれた暮らしをしていた日々が頭に過ぎる。吐き気がした。

「ぅ、いたた……」

 上体を起こそうとするも、鉛の冠を被った頭はそれ以上持ち上がってくれない。こめかみを槌で殴られた感じだ。風邪でも引いたみたいにまぶたの裏が熱く、視界がぼんやりと霞む。……ああ、そういや"あいつ"が言ってたな。酒をしこたま呑むと翌日とんでもないことになるって。なんで死んでからそんなこと経験しなきゃならないんだ。
 仰向けのまま、ぐるぐると渦を巻く天井を見遣る。首一つ回すのさえ億劫だ。鈍痛にちくちくと責められてるってのに、脳みそはやけによく動いていた。動悸が胸を締め付ける。思い出したくもないことばかり頭を巡りやがる。

 甦ってきたのはまだ小さかった頃の記憶だ。まだ西行寺の本家にいた頃の華やかな暮らし。張りぼての幸福。そんなもののガワがめくれるのに時間はかからない。八つになる前には、自分に科せられた宿業をすっかり悟ることができるようになっていた。それまで優しくしてくれた連中の腹の内がわかるようになるにつれ、生きたいという選択肢は私の人生から自然と消えた。
 十の誕生日、私は己に一つの誓いを立てた――これから残り僅かな人生を「死ぬため」に使おう、死ぬ時だけは自分自身の意志で死んでやろうと。他人のために、化け物桜のために、群がる畜生共のためなんかに絶対に死んでやるかと、そう心に決めたのだ。
 同情や憐れみなどクソ食らえだ。私を救いたいなんて、英雄面して近づいてきた身の程知らずは腐るほどいた。結末はみな同じ。はっ、笑っちまう。死にさえもしないんだから。私がちょっと能力を解放すれば、皆小便ちびらせて逃げていく。そんなもんだ。クズの回りにはクズしか寄ってこない。
 ふぅ、と大きく息を吐く。桂花の甘い香りが鼻をくすぐる。へその下がきりきりと痛むのは、空腹ゆえか吐き気ゆえか。地獄の苦輪とはもっと辛いんだろうなとふと思う――馬鹿馬鹿しい、今さらそんなもん恐れてなんになる。こうなることが私の全てだったのに、それを今更怖いとでも?
 同じだろうが、どこにいたって。生きてようと死んでようと変わりゃしない。地獄で釜茹でにされるのと、あの気色悪い桜の花にまみれて生きていくのに、何か差があるとでもいうのか? そうだ、こんなもんはただの気の迷い、意気地なしの最後っ屁だ。……だってそうだろ? "あいつ"と初めて会った時、自分で言ったじゃないか。楽しいのは祭りが始まる前まで。事が起きれば、一旦死んだら残るのは後悔だけ。そういうもんなんだ。

 なぜか"あいつ"の、紫の間抜け面がくっきりとまぶたに浮き上がる。瞬間沸き立った憤怒がすべての不快感を一掃する。なんなんだ、さっきからあいつあいつって……まるでそれ以外ないみたいじゃないか? そもそもあの頓痴気が全部悪いんだ。あいつが、私を喰ってくれないからこんなみっともないことになったんだ。
 なにが「食べないわ」だ、ふざけるのもいい加減しやがれ。適当なことばっかり、はっきり言えばいいんだ。つまり私は妖に喰われる価値すらないってことだろ? "人間"ですらないってことだろ? そうはっきり言ってくれればよかったんだ。それを――ああちきしょうっ、ちきしょうちきしょうちきしょうめっ!

「おう、ちゃんと生きてるかい?」

 がらりと戸を引く音で我に返る。ひょこと飛び出てきたのは猩々緋の髪と相変わらずの馬鹿面だ。小町は立派な高下駄を無作法に脱ぎ捨てると、両の手で抱えていた水指を丁寧に枕元へ置いた。

「……とっくに死んでるわよ」
「ああ、そうだったね。じゃあちゃんと死んでるかい?」

 高笑いが小さな部屋に、そして頭に響く……割れそうだ。それこそ死人みたいな顔をしながらなおも毒を吐く私がさぞ滑稽だったんだろう、私を抱き起こす最中もこいつはなにやら含みのある笑みを絶やさないでいた。

「はっは、顔色はよくないね。ほらよ。」

 と言って小町は水の注がれた茶碗を差し出してくる。渋々受け取った。冷たい液体が唇、舌を伝って喉に滑り落ちる。きりりとした爽快感が頭痛を溶かし、胃のむかつきを洗い流す。一杯の水がこれほどまでに感覚を開かせるとは。
 吸い込む空気も心なしか涼やかに感じる。その心持ちは褥の横で胡坐をかく小町にも伝わったのだろう、へへんと得意げに、しかし邪気のない顔で声を掛けてくる。

「ちっとはすっきりしたかね?」
「……まあね、あんがと」
「ついでにその口の利き方もなんとかなりゃあ万々歳なんだがね」突き返された碗を苦笑交じりに受け取りながら、小町はとうとうと続ける。「黙ってしおらしくしてりゃ美人だってのに、ほんともったいないよ。ここまで運んでくるのも一苦労だったもんさ。酔っ払って絡むわ喚くわ、仕舞いにゃ暴れだすわ……よっぽど腹に溜めてたんだねぇ。死ぬ前に酒覚えなくてよかったよ。」
「まあ次から次へと恩着せがましいことで」肺腑に満ちた爽快感ごと吐き捨てる。「元はといえばあんたが呑ませたんでしょうに。ところでここあんたの部屋?」
「ま、そだね。是非曲直庁から借りてる、宿舎みたいなもんかな。」
「自分の部屋に酔わせた"美人"連れ込んでねぇ……後で閻魔に告げ口しとこうかしら。」

 小町はどこ吹く風だ。最後の方は言ってるこっちが嫌になった。自分のことを"美人"なんて、皮肉にしてもぞっとする。
 訪れた沈黙に、改めて部屋を見回す。間取りは大して広くない。がさつな性格そのままに、本が部屋の四隅でやぐらを作っている。それでも全体的に物が少ないせいだろう、すっきりと落ち着いた印象を受ける。丸窓に面した紫檀の書机などもなかなか味があって、いつか書物で読んだ仙人の暮らしを髣髴とさせるものがあった。

「まあかまやしないけどさ、閻魔様にそんな嘘吐いても無駄だよ。あちらさんはこっちのことは全部お見通しだからねえ。」
「あっそ。で、その裁判とやらはいつ始まるのかしら?」
「うーん、もう一寝入りした頃にはたぶんお鉢が回ってくるんじゃないかねぇ。ま、残り少ない彼岸生活だ。のんびりいこうじゃないか。粥でも持ってくるよ。腹減ったろう?」

 と言ってやおらに立ち上がる。いちいち小芝居臭い言い回しに腹が立ったが、言い返す元気もなかった。やはりぼぅっとした感じは抜け切っていない。一応蚊の鳴くような声で「お腹空いてないわ」と言っといたが、小町は聞こえなかったふりをしてすたすた部屋を出て行ってしまった。水指だけが残った部屋に、ひどく気の抜けた溜息がこだまする。

 また、一人だ。

 こんな生活には慣れていた、いやこれこそが私の人生だったはずだ。なのに今一瞬胸に去来したこの物悲しさはなんだ? 部屋の中が無音に、がらんどうになってしまったことに哀愁めいたものを感じたのは。――忌々しくてたまらない。あんな嫌みを凝り固めたような死神なんぞとやり合うことになにがしかの愉楽でも覚えたとでも言うのか私は? 
 ……なにもかも馬鹿げてる。全部この頭痛のせいだ。そうに決まってる。でなきゃ全部紫のぬけさくのせいだ。こうやって一人でいると、あの阿呆のことばっかり思い出す。腹が立ってしょうがない。なんであんな奴のことなんか。まるで他に思い出がないみたいじゃないか?

「はっ、ないわね……」

 水指を毟り取って碗に注ぐ。そして一気に流し込む。焦り過ぎたんだろう。途中で噎せてしまった。こぼれた水で合わせを湿らせながらみっともなく咳き込む。小町が戻ってきたのはちょうどその頃だった。

「っと、おいおいなにやってんだい……」

 手にあった椀と鍋を床に置いて、この節介焼きの死神は私の着物へ手を伸ばす。鎖骨に覚えた指先の感触、本能的に褥から跳ね上がった。

「触んなっ」

 さすがの小町も面食らった様子で、やれやれと眉をひそめながら布団を上げる。そして無言のまま食事の支度を始めた。微妙な空気に居たたまれなさを覚える。……下らない、申し訳ないとでも思ってんのか私は。ったく身の程を弁えろ。

「どうしたい? 支度できたよ。ほれ食いな。」

 しかし、並べられた膳の前にどっかと胡坐をかいた小町の顔には、いつもの憎憎しげな笑みがすっかり戻っていた。しれっとした態度でこちらを手招きするそぶりは、どこか満足げにも見える。くそ、一杯くわされたってわけか……
 舌打ちだけ返して膳に着く。小町は鼻歌交じりに鍋にあった粥をお椀へ移す。小豆粥。ハレの日に食べるご馳走。またとんだ皮肉だと思ったが、こちらに来てから酒しか入れてない体にとっては、どうでもいいことらしかった。やはり腹が減ってたんだろう、言われるがままに箸を取った。そのままさして会話らしい会話もないまま、粥をすすりあう音だけが部屋に響く。味はよかった。生きてた頃は稗や黍、後はそこらで摘んだ草を混ぜ合わせた粥しか口にしてなかったから、小豆なんて本当に久しぶりだった。
 ふと、自嘲が漏れる。飯を食うことにあれこれ感慨を覚えるなんて、そんな馬鹿げた癖をいつの間に身につけたんだろうか。そんなものは馬鹿共の暇潰しでしかないのに。……ああ、これもたぶん"あいつ"のせいだ。こうやって誰かと膝をつき合わせて飯を食うなんてことをしたのも、あの時が初めてだったんだから。まったく、まともなことは何一つできやしないくせに、こういう余計なことだけは上手くやりやがる。

「美味いかい?」

 小町はやにわに尋ねた。答える態勢をつくれえぬまま、半端に返す。

「……まあね、お腹空いてたからでしょ」
「一度くらいは素直に言えないもんかねぇ」小町はわざとらしく溜息を吐く。「ま、死んでも腹は減るんだ。たんと食いな。」

 でも私の箸は止まってしまった。なぜだろう。粥はまだ椀の中に半分ほど、腹は物足りなさを覚えたまま。なのに、膳に落ちた箸と椀が持ち上がらない。……馬鹿らしい、当たり前じゃないか。

「どした、口にあわなかったかね?」自虐めかした空笑いが一つ入る。「ま、小豆粥なんてそんなご大層なもんじゃないかもしれんがさ。」
「そんなことないわ」なぜか口だけはよく動いた。「小豆なんて久しく食べた記憶がないもの。"あいつ"も持ってきてはくれなかったもんね。穀物といえば米だけで。後はなんだか訳のわからないものばっかり……さぞ贅沢なものなんだろうけど、どう食べたらいいかもわかんない。はっ、本当に興ざめする贈り物ばっか。こっちのことなんかこれっぽっちも考えてやしない。」
「言やよかったじゃないか。こういうもんがほしいってさ。」

 最後の粥をかっ込みながら、小町はさも当然のように言った。暢気なもんだ。そんなこと私の口から言えるわけないだろう。鈍痛が頭を押し潰す。

「しっかしさ」口に粥を詰め込んだまま、小町は半笑いで続ける。「あんた、さっきから"あいつ"の話ばっかだね。昨日酔いつぶれた時もそうだ。あの妖怪への愚痴ばっかり。そんなに未練たらたらじゃ、成仏できやしないよ?」

 単なる揚げ足取りだったんだろう。今までと同じ。

「……れよ」
「ん? なんか言ったかい?」

 でも、なぜか耐え切れなかった。憤然と膳を叩き返して、私は奴に踊りかかっていた。

「黙れって言ってんだよ! 黙れ黙れ!! 貴様なんかに……貴様みたいなのに私の何がわかる!」
「なんもわかりゃしないよ。」

 小町は平然と返す。もう我も忘れてみじめったらしく喚き散らすしかなかった。

「黙れと言ってるだろこの狸が! 会った時からネチネチと嫌みばっかり、そんなに私をコケにして愉しいか! ええ? ああ愉しいんだろうよ。こんな阿婆擦れ、揚げ足とって弄ぶしか能がないからな!」
「馬鹿にしてるつもりはなかったんだけどね。口が悪いのはお互い様だろう?」

 いくら罵ろうと一切が変わらない。飄々とした物腰。私を対等に見ようとする態度――嫌悪感がほとばしる。

「嘘吐き! お前の言ってることは嘘ばっかりだ。なにが仕事は嫌いだ、仕事はしたくないだ!? 仕事のできない奴があんな上手く艪を漕げるもんか。あんなに小ずるく役所仕事をいなせるもんか。もううんざりなんだよ、お前なんかと……ああくそっ、どうせこれも全部お目付け役の仕事なんだろ? 私が西行寺の娘だから、監視ついでに世話焼いてるだけなんだろ? 全部わかってるんだよ、はっ、どんだけ上手くやったつもりでも、全部お見通しなんだよ! クソッタレが!!」

 言い終わった私の顔は見るに耐えぬものであったに違いない。酒が残った青白い頬を朱に染め、口元も眉も何もかも歪め、口角からしぶきを撒き散らしながら息を切らせたそのさまは、さぞ無様だったに違いない。
 小町はここに至っても揺るがなかった。嘲りも戯れもなく、口元に残っていた微笑は温和そのもの。僅かに緩むまなじりはあたかも私に見とれているよう。なんなんだ? なんでそんな顔を向けてくるんだ? いったいどれだけ私を愚弄すりゃ気が済むんだ?

「ま、確かにさ」小町は袖に掛かった粥の米粒を払うことなく、そっと語りかけてくる。「船頭の仕事は案外嫌いじゃないんだよ。自分の好きなようにやれるし、あんたみたいな変わった奴とも会えたりするしね。でもどうもお役所ってのが性に合わなくてねえ。毎日怒られっぱなしさ。そりゃ愚痴りたくもなんだろう? だからさ――」

そこで小町は一旦息を入れた。投げられた視線に慄然とする。

「そうやってあたいの仕事っぷりを褒めてくれたのは、お前さんが初めてだよ。あんたほんとに優しいねえ。」

 もうどうしていいか完全にわからなくなってしまった。引き攣った口はあわあわと波立ちながら、しかし言葉を吐き出してくれない。目の前にある笑みは、作り物だ。私を引っ掛けておちょくるための。でもそれはまばゆい笑顔。真摯さの体現。俯いて目をそらすしかできなかった。他に、どうしろというんだ?

「顔真っ赤だよ」小町は慈しむかのように囁く。「ふふっ、そうやって素直でいりゃ本当に別嬪さんなんだがね。そんなの見せられたら、たとえ妖怪だって思わず心打たれちまうだろうさ。あんた、きっと自分が思ってるよりかずっと魅力があるんだよ。でなきゃこんなに付きまとったりするもんかい。もったいないねぇ。」

 やめろ、そんなこと言うな。そんな甘い言葉に騙されたりするもんか。もう戸惑ったりしないと、あの時決めたんだ。なのになんで、あの時とおんなじことを、紫の奴とおんなじこと言うんだこいつは……
 力なくその場にくずおれる。小町はもう何も言わず、ひっくり返った膳を片付けるだけだった。去来する想念。それは先ほど見た夢の記憶か。夢の私、一番いけ好かない類の人間だ。でもこの死神や紫みたいな連中の隣にはああいう奴がいるべきだ。ああいう奴と付き合うべきだ。私なんかじゃない。なのに、なんで……

 小町は何も言わず部屋を出て行った。ただ私の肩をぽんと叩いて。口いっぱいに苦味が満ちる。肩に残る感触が不快にしか感じられない自分に、もはや自嘲も漏れなかった。




 *




 目を醒ますと縁台の上だった。

 背中を伝うのは座布団の感触だ。若干せんべい気味かもしれないが、昨夜からまともに横になってない身からしたら天国みたいな寝心地だった。眼前に広がっているのは閑散とした境内。天中高くまで昇りつめた日輪の光を浴びて、石畳はその白をいっそう際立たせている。先ほどの激闘が嘘のように、そこはひっそりと静まり返っていた。

「ぅ、いたた……」

 上体を起こそうとするも、ズキズキと軋む節々がそれを許してくれない。まるで全身がバラバラになったよう。よく見たら手足は擦り傷だらけ、頭も軽く打っていたのか視界がぼんやりと霞む。……ああ、確かに昨日から森の中突っ切って空飛ぶわ、境内に放り投げられるわ、爆風に巻き込まれるわ――そりゃ怪我もするよな。たぶんアドレナリンが出っ放しだったんだろう、こんなハイテンションになったことなんてないもの。
 仕方なく横向きに寝転がったまま、境内へぼんやりと視線を送る。白の石畳と蒼穹が作るコントラスト、双方を分かつ地平線上には朱の鳥居が楔を打ち、三つの色が揺ぎない調和を保っている。さっきは魔理沙と巫女さんの乱舞に見入ってたから気付かなかったけど、この神社ってこんなに綺麗だったんだ。
 そして尊い風景を祝福でもするかのように、桜が一面に咲き誇っている。青空に滲む淡紅、それが左から右に向かって舞い上がりはらはらと白の石畳へ溶けていく。流雲の織り成す影が気ままに境内へ斑を作り、中空をたゆたう花弁に光が乱射する。一瞬ごとに表情を変える眼前のパノラマは、しかし三色の調和という絶対の安定に基づくからこその揺らぎ。世界が揺らぎを愛で慈しみ、そして自身の内へと取り込んでいく度量を持ちうるからこそ可能な現象だ。
 終わりのない絶景にすっかり目を奪われていたことに気付いて、たちまち呵責の念が胸を刺す。今私がしなきゃならないことは景色を愛でることなんかじゃないだろうに。

 何だかこっちに来てからえらくセンシティブになっている。今までは風景ひとつにいちいち心動かされたりしなかった。眼前で繰り広げられる決闘に我も忘れて声を嗄らしたりなんて、絶対になかった。そう、私は自分でも知らないうちに叫んでたらしいのだ。あとで魔理沙にそのことをからかわれて、えらい恥をかいたもんだった。空を自由に舞う感覚、食べられるのかもわからない天然食材、そしてあの光の遊戯――この半日の間に経験した衝撃は、今までの一生を優に凌ぐんじゃないかと思えてしまう。メリーとだってたくさん不思議な体験をしたはずなのに……
 そう、だから夢みたいな時間から醒めるとふと過ぎるのだ。とっても嫌な疑問が。絶対にしてはならないはずの問いが――私は、本当にメリーを探す気があるんだろうか? この素晴らしい世界で、魔理沙に引っ付いてはしゃいでるたびに思う。魔理沙さえいれば、メリーはなくてもいいってことなんだろうか? 私が秘封倶楽部を立ち上げ欲したものとは、この新鮮な感動――メリーすら味わったことのないような体験――だけだったんだろうか?
 悪寒。ふんわりとした春風に包まれて跳ね起きる。一瞬でもそんなことを考えた自分を殴りたくなった。置き場所のわからなくなった手がお下げへと伸びる。メリーがいつだか褒めてくれた、白のリボンに。
 ……でも、私なんかが本当に今の問いを否定できるんだろうか。あの日、メリーに怒鳴られて嫌われて、その時から怖くてしょうがなくて、どうしたらいいか不安でたまらなくなってしまって。でも、でも私はメリーを……
 またそれか?――すっとひどく冷徹な声が頭に響く――"あの子のため"だなんてさ。じゃあ、なんであんなことしたんだ? 昨日博麗神社へ向かう電車の中で、どうして「メリーは私といて楽しい?」なんて訊いたんだ? 答えなんか聞かなくたってわかってたろ? メリーがあの状況で、喩えそう思ってなくとも否定するわけがない。だからこそ、尋ねたんだ。その優しさを、思いやりを利用するために。すっかり手から零れ落ちてしまった自信を取り戻したくて。「蓮子と一緒にいられて、とても幸せよ」って言って欲しくて、メリーに認めてもらいたくて。
 そうだよ。もう認めろよ。希望通りの答えをもらい、あの暗いトンネルの中で密かに勝利の笑みを浮かべ、宿に着いて酒を呷って馬鹿騒ぎしてたのだって、つまりはそういうことなんだろ? 久しぶりに胸がすっとしたのはメリーが許してくれたからじゃない。メリーで欲を満たせて、気が大きくなってからだろ。"宇佐見蓮子"を取り戻せたのが嬉しくてたまらなかったからだろ。
 結局私はもらってるだけだ。メリーのパートナーっていう立場に酔ってただけ。あの子の役に立ててると調子に乗って、ただそんな自己満足をもらってただけだ。そして今、その対象があっさりと魔理沙に置き換わったわけだ。自分なんかじゃ絶対できないようなことを易々とやってのけてしまうあの子のおこぼれに預かって、異世界ツアーを楽しんでさ。――もう、軽蔑する気にすらなれなかった。
 ふっと、さっき見ていた夢が頭を掠める。夢の私――口が悪くて最低な奴、相手を傷つける言葉しか吐けない奴。でもなんとなくわかる。あの近寄る者すべてを抉るような辛辣さは世界と、そして自分と向き合えない弱さの裏返しだ。それはきっと私と同じ。ただ、向きが違うだけで。

「あら起きた?」

 縁台に身を貼り付けたまま、思念の沼で溺れていた私を後ろから覗き込んだのは、この神社の巫女さん――名は博麗霊夢と聞いた。ぬっと覆い被さってきた顔に、先ほどの激闘で見せた昂揚の色はない。ただ半分寝ぼけた感じの仏頂面があるだけ。けれど光る瞳の鋭さに揺るぎはない。映るものから虚飾を根こそぎ剥ぎ取ってしまう力を宿したまま。
 じっと見据えられ、たまらず自分の方から体を逃がす。怪訝そうにその様子を見ていた霊夢は、しかし何かを会得したかのように軽く頷いてみせる。

「あ、ごめんなさい……」

 なぜか口をついたのは謝罪の言葉。向こうは姿勢を正し向き直る。

「別にいいわよ。外から来た連中は大抵そんなだしね。それよりなんか飲む? のど渇いたでしょ。」
「あ……じゃあ頂こうかな。でもその前に一つ訊きたいことが――」
「お友達のこと?」

 半歩早く言葉が飛んでくる。最初からお見通しだとでも言わんばかりに。顔だけで伝わったのだろう、霊夢は間を置かず語を継ぐ。

「それなら、魔理沙にあぶらげ買いに行かせたわ。釣りしてきたらって。」
「はぁ、えと……釣り?」

 何を言ってるのかちっともわからない。また胸に汚泥が積もる。訊きたいのは要するに、メリーの手掛かりは掴めたかってことで――

「私もあいつの居場所なんてわかんないしねえ。あっちの方が見込みあるんじゃない? って言ったのよ。だから釣れるまでちょっと待ってなさい。」

 やっぱりわからない。魔理沙も意思疎通に苦労するところはあった。けれどあの子の場合まだこちらにわかってもらいたいという努力の跡は感じた。でもこの巫女さんからはその意思すら感じない。
 不満が表情からも漏れてしまったのだろう、霊夢は少しだけおどけた表情をつくると、そのまま飲み物を取りに勝手口の方へ行ってしまった。
 一人っきり、また桜の前に取り残される。桜――見事なまでの咲きっぷりだというのに、やはりそのものに心打たれることはない。昔から桜に通り一遍以上の興味を抱けずにいた。実家にあった桜をつい思い出してしまうからだろうか。小さい頃、裸の木から葉もつけず、いきなり花を咲かすのを見て言い知れない気味悪さを覚えたものだった。変な理由だとよくからかわれたが、似たような理由で彼岸花を嫌う人がよくいるじゃないか。……ああ、そういえばメリーは彼岸花が嫌いだって、昔二人で蓮台野に行ったとき言ってたな……

「お待たせー」

 霊夢がお盆を携えて戻ってきた。載っていたのは当然あるはずの茶器ではなくて、

「これ……瓶?」

 真ん中辺りがくびれたガラス瓶。詰まっているのは褐色の液体。札みたいなもので半ば強引に王冠をこじ開けると、ポンという気持ちのいい音が響く。噴き出る泡は……

「コーラ?」
「やっぱ知ってるんだ。そう。魔理沙が負けたからってくれたの。たぶん霖之助さんとこから借りてきたんでしょうね。あいつご機嫌だったわよ。後一歩だったぜとかなんとか言ってさ。」

 と少し呆れ気味に境内へ視線を投げる。先ほどの「スペルカード」のことを思い出しているのだろうか。軽く眉尻を下げ、口調は平坦なまま霊夢は続ける。

「座標と発射時間を自由に操作できる設置型弾幕――まあよく考えたわね。散々煙幕を張って時間稼ぎして、あれの仕込みをしてたわけね。それで移動を制限するスペルでこっちを目標座標へ誘導し、定刻ちょうどにバンと。気付けなかったなぁ。あれ、あんたがアドバイスしたんだって? 発生がもうちょい早かったら、まあ負けてたかな。」

 勝ち誇ったふうでも、かといって相手を讃えるふうでもなく、淡々と戦評する霊夢。あの攻防の中、この人達はどれだけのことを考えて動いていたんだろう。あっけに取られていた私へ、何事もなかったみたいにコーラ瓶が差し出される。

「ん、これあんたの分。外じゃよくこういうもん飲むんでしょ。なんかよくわかんないけどさ。」

 と言われても瓶入りコーラなんて、映画か史料館でしか見たことが無い。不慣れな手つきで初物を受け取った私を、巫女さんはまた怪訝そうに見遣る。なんか失礼な真似をしてしまった気がして「今はちょっと違うかも」と釈明を入れておいた。私の真横に腰を落ち着けた霊夢はそれに答えず、鳥居の方へ視線を置きながらちびりちびりとコーラを飲み進める。あんまり飲み慣れてるふうには見えないな。
 初めての瓶コーラは、なかなかレトロで味があった。もちろん中味はさして変わらないわけだが。やっぱり雰囲気が違うからか。メリーもいつだかそんなことを言っていた。確か駅弁を食べながら……あの時はメリーの反応を見るのが精一杯で意味なんかよくわかってなかったけれど。
 なんだかこういう体験をする度にメリーの言ってたことが正しかったんだと言う気がしてならない。私だってわかってたんだろう。そう認めてしまう自信がなくて、必死になってメリーに反抗してただけで。
 でも、そしたらなんで――

「そうそう、聞いたわよ。あんたらうちの神社の裏から入ってきたんだって?」

 霊夢は境内へ放り投げるみたいに問うてきた。最初こっちに向けられたものと気付かず、慌てて答える態勢をつくる。

「あ、ぇと……そう、そうよ。本殿の裏から、2時過ぎだったかな。」
「ふぅん。そっか、あとで張り直しとかないとなあ……」
「あ、ごめんなさい……」

 反射的に謝る。霊夢は正面を向いたまま、気だけをこちらへ向け話しかけてくる。

「いや別に謝んなくてもいいんだけどさ、でもなんでそんな時間にいたわけ? あっちの世界じゃ丑三つ時に神社裏行くのが流行ってんの?」
「そうじゃなくて……」なんだか叱られてる気分になった。「こっちに来たかったんだ。メリーっていう、その友達が何度か夢見越しにこの幻想郷へ来たことがあったらしくてさ、だから私も……」

 やはりこちらを見ずに、霊夢は溜息を吐く。呆れられてるのがはっきりと伝わってきて、心臓がきゅっと締め付けられる。

「こっちに来たことあって、それであんた誘ってまた来ようとしたわけ? 心中希望者かなんかかしら……?」
「いや、メリーは悪くなくてね、その――」
「その友達さんは妖怪に襲われたりしなかったの? こっちいた時にさ。」
「そ、そういう話は確かに言ってたけど、でもあの子に悪気はないの。」

 徐々に霊夢の声が荒くなる。リボンに時折り手を伸ばしながら、私は懸命に抵抗した。メリーが悪し様に言われるのを、黙ってやり過ごすわけにはいかない。これは全部私が招いたことなんだ。メリーと同じものが見たいなんて体それたこと考えたせいで、あの子を巻き込んでしまっただけなんだ。あの子のせいにするなんて、間違ってる。
 霊夢は口をへの字にしたまま頭を掻く。

「ほんとにそいつ友達なの? 危ないってわかっててさ、普通そんなとこに連れてこうとする?」

 やめろ……メリーを悪人呼ばわりするな。私のメリーを、傷付けるなっ……!

「ちが……メリーは悪くないって言ってるでしょッ!」

 声を荒げた後悔が、たちまちにして口いっぱいに広がる。コーラの風味もどこかへ飛んでいってしまった。みっともなくて帽子を目深に被る。霊夢は表情一つ変えず、ただこちらを一瞥しただけだった。
 間違ってなんかない。来たかったのは私なのだ。どうにかして二人いっしょに異世界へ行ってみたかったんだ。だって、私と一緒に行けばメリーは夢と現を混同しなくなる。夢に飲まれたりしないで生きてゆける――いつまでもこっちの世界で生きて、いつまでも私に感謝してくれるはず。そう。そうやっていつまでもメリーの支えが欲しかった、頼られたかっただけだ。メリーと同じ世界が見たかったなんてきれいごと……きっと嘘でしかない。卒業した後もメリーがこんな私と付き合ってくれたかどうかなんて、この関係が続くかどうかなんて、決まってもいないくせに。

「――あんたってなんか辛そうね。」

 ようやく境内に響いたのは、間の抜けた巫女さんの吐露。場違いな調子にぱっと怒りがこみ上げたが、睨みつけるのは憚られた。やはり境内の方へと、霊夢は言葉を投げる。

「なんかさ、見てると疲れるのよね。そんな気ばっかり遣っててさ。あんたの友達って奴も、あんたと一緒にいると大変だったでしょうね。」

 ひどい言われようだったのに、言い返すこともできない。むしろなぜかひどく心に刺さった。霊夢の声に悪意はない。ただ思ったことを思うがままに口にしているだけ。

「そんな目にあったんだからさ、怒りゃいいじゃないそいつに。あんたはたまたまラッキーだっただけで、普通だったら今頃食われて終わりよ。っていうか私だったら紫の奴を怒らせたって時点で、そんな面倒ごと起こした奴は問答無用でぶん殴るけどね。」

 中空に向かってぶんぶんと御幣を振り回す霊夢。

「だから、あんな目にあったのは……全部私のせいで、そもそもここに来たのは、私がメリーに失礼なことして怒らせちゃったからで……」
「ほら、またそう」霊夢は振っていた御幣を縁台に置く。「ずっと一緒にいるんならさ、そりゃ下らないことで喧嘩したりしょうもないこと言い合って相手怒らせたりなんて、しょっちゅうあることでしょ。だからあんたも怒ればいいじゃない。なんで無理して庇うわけ?」

 巫女さんは淡々と、しかし的確に急所を突く。へどもどとしか返せないことが悔しかった。無理なんかしてないのに。私はただ、メリーを守りたいだけで……

「あんたがそいつのこと心配で、助けようとしてるってのはまあわかるけどね」霊夢の声質が変わった気がした。「でもさ、ほんとに友達さんがそれを望んでるかなんてわかんないのよ。わかってる?」

 ほんのちょっとだけ淋しげな、独り言みたいな物言い。私に説くというより、自分へ言い聞かせるような、そんな妙な言葉。霊夢は上を向いてた。

「私もここの巫女なんてもんをやってるけど、やってよかったなんて思ったことないもん。お賽銭はちっとも増えないし。たぶんそうなのよ。人助けなんて辛いだけで、誰かを救うってことは、そいつらを苦しめることでもあるの。誰かの為にって手を差し伸べることがそいつをひどく傷つけて、恨まれもして、本当に助けがいる奴こそそうね……でもまあ、それでもやんなくちゃいけないのよ。あんただったらどうする? そいつから助けて欲しくなかったなんて言われたらさ。」

 ひどく他人事みたいに、なのにこれ以上なく私を抉る言葉。それは今しがたの自問と同じ。でももっと多くのことが込められてる……巫女さんが言っていることはつまり、私こそがメリーを傷つけてたってことだ。あんたといても辛いだけだって、メリーが私を拒絶すること。それだけは避けてたはずなのに、そんなことあるわけないのに、でも言い返せない。だって、あの時メリーが怒ったのだって――

「なんか、よくわかんない……ごめん」

 頭を整理できないまま呻いた。霊夢はそんな曖昧な返事を気に掛けるふうもなく、むしろ自分から混ぜっ返しでもするみたいにさらりと言葉を被せる。

「そりゃそうね。結局そういうもんだもの。助けるなんて、頭より先に体が動いちゃうもんだし。だから勘に任しときゃいいの。あんたもそうじゃなかった? 紫の阿呆に詰め寄られた時にさ。さっきもそんな感じのこと魔理沙から聞いたけど。」

 また図星。この巫女は狙ったのかように私の心を射抜く。こっちなんかろくに見てないのに。あくまで自然に、呼吸するみたいに私と相対してくる。
 いったい何度目か、メリーから手を離してしまったあの瞬間のことがまた脳裏をよぎる。紫って奴に吹き飛ばされて、そのまま闇の中から出てきた無数の手に掴まれ引きずり込まれて……後は覚えてない。紫がメリーの腕を掴んだ時、私がなんとかできていれば――そんな後悔が先立って、また胸が詰まる。そんなことできたはずがないのに。
 そもそも、なんで私はあんなことをしたんだろうか。紫はあんな行動に出たのだって、私が間に入って余計なことをしたからかもしれないのに。……確かに霊夢の言うとおりだ。何にも考えてなかった。とっさに体が動いてた。あれに理由なんて、あったのだろうか。
 またお下げのリボンに手を伸ばす。霊夢から目をそらすために。

「なんで、あんた達は、そんなふうに話せるの――?」

 それでも我慢できなかったんだろう。思わず口に出た。霊夢はきょとんとした顔のまま、やはりぶっきらぼうに返す。

「そりゃ生きたいように生きてるからじゃないの。言いたいこと言ってるだけだもん」

 どこまでも人を受け流す、気のない返事。なのに不思議と冷たさは覚えない。本性が、引きずり出されていく。

「そんなの……変よ。話してて疲れるのは、大変そうなのはあんた達の方よ。話し方だってぶしつけだしさ、なに言ってんだか分かんないし……」
「そう?」

 霊夢にもたれかかって、甘えて。そうやって愚痴が漏れでてくる。言ってはならないことが、一番の恩人への不満が吐き出される。

「そうよ、魔理沙だってさ、無駄に楽しそうでさ。メリーが死んじゃってるかもしれないのに、まるで遊んでるみたい……」
「ああ、あいつはそうかもね。あいつは人助けでも楽しんでるっぽいかも。よくわかんないけど。」

 告げられる言葉に熱はない。はきはきしてもいないし、優しさも思いやりも感じない。なのによく響く。

「そう言われるとさ、あんたらってよく似てるわよね」思い出したみたいにぽんと言葉が飛んでくる。「どことなく似てるもん。好き勝手やってるっぽくて、その癖いろいろ縛られてるとことか。さっきまで馬鹿みたいに騒いでたと思ったら、急に難しい顔したりね。」

 そしてほんの少し自嘲を滲ませた笑いが口元に浮かぶ。この子は、さっきから何が言いたいのだろう?

「似てなんか、ないわよ。魔理沙は空だって飛べるし、魔法だって使えるし、それにあんな辺鄙な場所で一人でちゃんと生活してて。私じゃできない。あの子あんな所でずっと一人っきり暮らしてるんでしょ?」
「あいつ確か家出したんじゃなかったかな?」

 思ってもみない返事。驚愕に顔が引き攣る。でも霊夢にとってはなんの意味もない言葉だったらしい。食ってかからんばかりの形相を向けた私に遅ればせながら気付いたんだろう、霊夢は錆びた記憶をひねり出そうと額に手を当てた。

「えと、なんだっけ、確か里で……追ん出されたとか言ってたかな?……ああいつだか霖之助さんから聞かされたんだけどなあ。忘れたわ。」
「そ、そんなこと、そんな大事なこと……普通忘れる?」

 さすがに怒りを抑え切れなかった。家を出るなんて、勘当されるなんてそんなとんでもないこと、しかもそれを忘れるなんてそっちの方がよっぽど友人としておかしいじゃないか?

「そう? だって魔理沙は魔理沙でしょ。そんなのどうでもいいじゃない。」

 巫女は一蹴した。もう頭の中はめちゃくちゃだった。心を揺さぶられすぎて吐き気すら湧かない。

「ここってさ」霊夢はちょっとだけしんみりした声になる。「外で必要とされなくなって幻想になった連中が集まる場所だからね。あんまり昔のこと話しててもめんどくさくなるだけで。だからそういうのはどうでもいいのよ。なんかやでしょ? せっかく美味しいお酒呑んでる時に昔の辛気臭い話聞かされるの。なにがあったとしても魔理沙はあんなだし、紫は胡散臭いってのは変わんないわけで」
「そんな……そんなことあっさり捨てられるわけないじゃない!」
「そうなの?」霊夢は心底意外そうだった。「そういうもんなのかな……最近さ、あんたみたいに外から来てあの山に住みついた人間がいるのよ。まああんたと違って空も飛べるし弾幕ごっこもできるけど。そいつだって最初はあんたみたいに辛気臭い顔してた気もするけど、今じゃすっかり馴染んで楽しそうに妖怪退治してるしね……そういやあいつってなんでこっち引っ越して来たんだっけな?」

 なんだろうか。会話してる感覚すら湧かないのに、今までで一番会話したような気分がする。優しい言葉なんて、こっちに配慮した言葉なんて一つもないのに、心に浸み込んでくる。巫女さんはまたコーラ瓶に口をつけた。沈黙が舞い戻る。私も残っていた瓶の中身を飲み干す。胸いっぱいに溜まったもやもやを掻き消したくて。消えるはずもないけど。

「まあ、そのお友達は無事な気がするんだけどね。」

 脈絡もなく、また声が飛んできた。目の前の霊夢は生温い笑みを浮かべている。

「……どうしてよ?」
「なんとなくよ、なんとなく」

 かろうじて引き出した問いを、この巫女さんはまたも簡単にあしらう。でも冗談や慰めで言ってるふうには見えない。揺ぎない確信を伴った言葉だ。

「うーん……なんていうかさ、あいつがそんなふうに人間襲ったりしてるとこを想像できないのよね。つうか、あれ人襲うのかな?」

 こちらの凝視に、霊夢は困ったような顔で自問を引き出す。最後の一口を飲み終え空になったコーラ瓶を置く音とともに、また沈黙が場に押し寄せる。でも、それは私にとって身の置き場のない時間ではなかった。霊夢の言葉はまたも私の脳髄から大切なものを引きずり出したのだ。なぜ忘れていたんだろう。ずっと気になってたのに、はじめに魔理沙から説明を受けた時からずっと。

「霊夢は、知ってるんだよね? 八雲紫って妖怪のこと。」

 霊夢はちょっといやそうに唇を尖らせた。

「まあね。出てきて欲しくない時に限ってひょっこり出てくるもんだから……いつも出てきて欲しくないんだけど。」
「紫ってさ……本当にそんな危険な妖怪なの?」

 その問いは柳みたいだった霊夢を初めてしっかりと捕らえたらしかった。暢気な面立ちがふいに止まる。

「変なこと言うわね。襲われたのはあんたでしょうに。」
「そう、だからこそ訊きたいのよ。その時あいつ言ってたの。最後、無数の腕に掴まれて闇に飲まれる直前、確かに。」

 霊夢が初めて真っ直ぐ視線を向けてくる。私も顔を上げた。

「『――ごめんなさい』って」

 風の音だけになった。ほんのまばたき一つ程度の間だったかもしれない。でもそれはとても長く感じた。おそらく霊夢にも。

「……ほんとにあいつが?」
「間違いない。あの声はメリーのじゃなかった。今思うと声もなんとなく似てたけど、でも聞き間違えたりなんかしない。」
「ふぅん……」

 顎を撫でながらしばし考え込む霊夢。動悸が胸を打つ。そうだった。今の今まで忘れていた。魔理沙から八雲紫について聞かされた時もそれがどっか引っかかってたんだ。あの人が、悪い奴って気がどうしてもしないのだ。対峙した時の表情だって、こちらを取って喰おうって感じじゃなかった。なにか別のことを伝えたかったようにしか思えない。

「あいつはね、確かに変な奴よ」かなり長い沈黙の後、霊夢はようやく口を開いた。「妖怪のくせに、守りたいものがあるの。普通妖怪ってさ、自分らのことしか考えないものなのよ。でもあいつはこの幻想郷を、誰よりも大事に思ってる。どう考えても矛盾してんのよ。いつもは何考えてんのかわかんないし、人を平気で道具扱いしたりもしてさ。かと思ったら突然人間臭いこと言い出したり無駄なお節介焼いてきたりしてね。境界の妖怪はそういうもんなんだって言われたらそりゃそうねって話になっちゃうけど。」

 その声にはしっかりとした感情が宿っていた。確信する。この巫女さんは八雲紫のことを信頼していると。ここに来てはじめて得た確信だった。そしてこれ以上の確信はない。本当に不思議だ。この霊夢って子も、あの魔理沙も、私なんかじゃ真似できそうにない親密さに溢れてる。私の知らない"何か"を自然と身につけている。それがとても素敵で、不思議と一緒にいることを感謝したくなる。
 霊夢はそっとはにかむ。それは私の表情が緩んだからかもしれない。

「そうね。だからあんたももっと楽しそうな顔してればいいんじゃないの? そんな感じにさ」その口調はたしなめるかのようであった。「帰る気になったらいつでも帰してあげるわよ。一人でも二人でも――って帰ってきたわね。」

 霊夢は空を見上げる。私も必然的につられて顔を上げた。蒼穹に浮かんでいたのは黒い影だ。

「いやー参ったぜ。」

 境内に着地した魔理沙はエプロンスカートと三角帽についた土ぼこりを払う。ふよふよと境内を漂い進む霊夢に、私も遅れまいとついていく。

「どうだった、狐釣れた?」
「釣れたことは釣れたんだがな、締め上げて問い詰めても知らんとさ。なんでもここ数日は帰ってないそうだ。埒が明かないからキャッチアンドリリースの刑に処してやったぜ。」
「ふーん」

 相変わらず会話からは置いてけぼりだったが、察するに足取りはつかめなかったんだろう。さすがの魔理沙も徒労の色を隠しきれてない。

「やっぱこうなったらさ、無理やり結界に穴開けて紫の奴怒らせるしかないんじゃないか?」
「えーやぁよ。あれやってこっぴどく説教されるの私なのよ。コーラ一本じゃ割に合わないわ。」

 なんか物騒な話をしてるなと思ったその時、霊夢がぽんと手を叩く。横で見ていた私は思わずたじろいだ。だって顔に浮かんでいたのは真っ黒い笑みだったから。

「そうだ。攫われたんだったらさ、こっちも誘拐し返してやりゃいいのよ。紫の一番大事な友人を。」

 魔理沙も何のことだかわかったらしい。不敵な笑みが共鳴する。前言撤回。やっぱ絶対ろくでもない連中だわ、こいつらって。







『輪廻の輪から外すことは本人の悟りによる物だけで無ければならないのさ――』
                   ――東方茨歌仙:小野塚小町







 そこで夢から醒めた。

 暖かな感触にくるまれる。半睡の視界に広がるのは小町の部屋。感覚は戻りきらぬまま、寝ているのか浮いているのかの判別もつかない、いや判別をつける必要を感じない。このままずっとこうしていたい。そんなささやかな願望の中、しかし少しずつ現の感覚が勝っていく。
 そうだ。食事のさなか見苦しく喚いて、一人部屋に取り残されて……どうせいつもみたいにあのまま泣き寝入りでもしたんだろう。生きていた頃は味わうはずもなかったほんわりとした寝覚めが、たちまちいつもの不快感で塗り潰される。
 いつ掛けられたとも知れぬ布団を体から引き剥がし、しかしそこから何か為すべきことがあるでもない。それもいつも通り。ただ訳もわからず何かに腹を立てているだけの人生。ははっ、本当にうんざりだ。とっとと終わりにしてくれ。
 目覚めたことを後悔している自分に気付く。あの夢の続きがなぜか無性に気になったのだ。夢の私はどうなるのだろう。思い出すだけで腹が立ってくるほどのうざったい奴だった。しじゅう気ばかり遣ってる卑屈な臆病者。その実、下手に出て"あげてる"自分をちやほやしてもらいたくてしょうがない。だから少しでも蔑ろにされると勝手に傷ついちまうって具合だ。本当にろくでもない奴――でもわからないでもない。私だって似たようなもんだ。ただ逆なだけ。だからこそあいつの末路が、なんとなく気になったのかもしれない。

「邪魔するよ」

 私の返事を待たず、小町は部屋に入り込んできた。舌打ちが漏れそうになったが、よく考えたらここは奴の部屋、邪魔してるのはこっちの方だ。中途半端に頬をひん曲げ苦笑だけを返す。
 しかし見上げた面はまた下を向いてしまう。視線の先にあった表情自体に変わりはない。一癖ある笑みを湛えて、荒っぽいそぶりで胡坐をかいただけ。なのに名状しがたい違和感があった。一つだけ、明確に違っていたことがある。それは手にあった鎌。大柄な小町よりまた一回り大きな得物は、緩やかな半弧を描く白刃にきらりと光を纏わせて、この死神が生来併せ持つ威圧感へいっそうの凄みを注いでいた。

「起きたかね」小町は低い声で告げる。「あの後片付けから戻ってきたら部屋の隅で肩しゃくらせながら丸くなってたからね。一応布団だけは掛けといたんだが。ちっとは落ち着いたかい?」
「そりゃあ……みっともない姿拝めて、さぞ満足できたでしょうね……」

 口から言葉が上手く出てこない。吐こうと思った嫌みはたどたどしい口調のせいで、言った方をいっそう惨めにしただけだった。小町は能面みたいな笑みを貼り付けたまま。軽口も、おちゃらけたそぶりもない。向けてくるのは沈黙だけ。
 長い間だった。ただ向き合ってるだけなのに息が詰まりそうだった。この感覚はあの時と同じ、"あいつ"といた時の――
 反芻しかけた記憶をすんでのところで飲み込む。その代わりに緊張の糸が緩んでしまったのかもしれない。日が昇るみたいにそろそろと、顔が持ち上がる。
 それを待ち構えていたんだろう。小町はさっきと同じ口ぶりで言った。

「時間だ。これから閻魔様んとこへ連れてく。さあ、行こうか。」

 反射的に体を捩ったのか、小町は逃がすまいと私の腕を掴んだ。肘に走る痛み。漏れたうめき声などなかったふうに小町は口を開く。今度こそたっぷりの威を示して。

「おっと、手間掛けさせるんじゃないよ?」

 そして最初の姿勢へと戻される。ずいと小町の顔が迫った。嘲りの色をたっぷりと湛えたまま。

「どうしたい? そんな真っ白な顔して。ずっと死にたかったんだろう。これで晴れておしまいさ。あんたは地獄へ落ちて、二度と現世は拝めない。満足だろう?」

 いつもと同じ人を食ったような物言い、でも受ける印象は全く違う。頭上の白刃が鋭い光を垂らす。

「……そ、そうだったわね! 全くちんたらしてるもんだから、すっかり忘れてたわよ! ほら、さっさと連れてきなさいなこの役立たず!」

 だから、違うのは私だ。変わってしまったのはこっちの受け止め方。しょぼい虚勢に言ってる自分が笑っちまう。
 なんだ、まさか怖気づいたとでもいうのか? こんなのはよくある手じゃないか。寸前でたっぷり脅かして、惨めったらしく泣き叫んで命乞いするのを見たいだけ。うなじの辺りをガリガリと、皮膚がめくれるほど強く掻き毟る。何を驚く必要がある? 全部予定通りじゃないか。それともなにか他の言葉でも期待してたってのか私は?

「ほらさっさと立ちな」その口調はいっそう威を帯びる。「あの方は時間にうるさいんだ。遅刻なんかしたらまたあたいが説教くらっちまう。」

 そして反応することを許さぬまま、腕を組んで無理やり立たされる。背の高く、力もずっと強い小町に持ち上げられて、足が地を掴むことすら儘ならない。あまりの扱いに、掴まれた腕を振りほどこうとする。

「なにすんのよ!」

 懸命の叫びは届かない。小町は口元を吊り上げまた顔を寄せる。

「どうしたいお譲ちゃん? あんた自分がお姫様にでもなったつもりでいたのかね。あんたは大罪人なんだよ。」

 手首を捻りあげられ、有無を言わさず引きずられていく。いくら喚こうが罵ろうが無駄だった。小町はずんずん進む。物々しく冥い廊下を。

「彼岸の暮らしはどうだったね? 楽しかったかい、良い夢見れたかい? でももう終わりだ。そろそろ悔い改めな。」
「黙れこの下衆がっ!」

 小町が止まる。振り向き、引き寄せ、言った。

「その下衆にずっと頼ってたのはお嬢ちゃんだろう?」

 顔が引き攣る。口の中に溜め込んでたはずの罵詈雑言が出てこない。なんでだ? 全部見立てどおりだったじゃないか。この女はずっと私をからかって弄んでただけ、だから私もそれに付き合ってやってただけなんだ。なのに、どうして私は震えてる? 小町はぴたりと貼り付くぐらいまで顔を寄せてくる。静かに笑ったまま。

「そうだよ。あんたはあたいを頼りにしてたろ? ずっと猫被ってたお嬢ちゃんがあんだけ言いたいこと言えたのは、あたいがいたおかげだろう? お嬢ちゃんが好き勝手駄々捏ねれたのは、あたいのこと信用して、依存してたからだろ? あの妖怪の代わりにさ。」
「うるっ、黙りやがれ! 訳のわからないこと言いやが――」
「下手な虚勢はもう飽きたよ。あんたは意気地がないだけ。他人に優しくされるのが怖くて、気を遣ってもらうのが怖くて、そんな自分が嫌でたまらなくて、逃げてただけなんだよ。自害したのもそうだろう? あんたは自分の意志で死んだんじゃない。あの妖怪から手を差し伸べられて、慈悲をかけられて、本当に助かってしまいそうになって、それが怖くなったんだ。誰かから愛されて、信頼されるのが耐え切れなかったんだ。」
「違うっ! そんなっ、そんなわけないだろ!」

 何を言い合ってるのか、もう意味なんてわかりやしない。ただこいつの見せる剣幕に圧倒されてしまった。怯み背けた私の顎を、小町は掴んで持ち上げる。

「そうだ、怖がりな。もっと、もっと怖がるんだ。それが死ぬってことだ。あんたは知っとかなきゃならない。めいっぱい怖がって、生きることへの未練を覚えて、その上で裁きを受けなきゃならない。それが償うってことだよ。」

 食いしばったはずの奥歯は、ガチガチと上手く噛み合わない。払おうとした手が、足が竦む。なんでだ。なんで体が動かない!? あの立てた誓いは嘘だったってのか? 誰の為でもなく自分の為に死ぬんだなんて気概は、まやかしだったのか?

「ふざけんなっ!!」

 そんなわけがない。あの決意が、あれだけが私の全てだったんだ。他にあるものか、私なんざ他に何一つだってない。なんにも増えてやしない。そんなわけがない!

「なんで、なんで私が償わなきゃいけないんだ! 誰に償えって言うんだ。そんな奴、いるもんか! いてたまるかっ!!」
「もう最期だ、そろそろ自分と向き合いな。わかってるはずだよお嬢ちゃん。あんたは賢い。最初っからよぉくわかってたはずだ。」
「なんで償う必要がある? そんなもん要らない。私には救いなんて要らないんだ。そんなものあっちゃならないんだ!!」

 全存在を賭けた抵抗は、私の貧相な体を小町の腕から滑り落としたらしい。力の入らぬままの腰は、弾けとんだ勢いそのままに廊下へ転げ落ちる。床は冷たかった。たぎった体の熱を根こそぎ奪うほどに。逃げようという意志すら持ちえず、ただ意味もなく睨みあげた先に光ったのは、廊下よりも冷徹な半弧。

「そうだ。それでいいんだ。精いっぱい抗って、泣き叫んで、震えな。それこそあんたが救いを求めてたんだっていう、何よりの証だよ。」

 首筋に鎌を当てられる。髪の毛ほどに細い刃先は、しかし感覚すべてを吸い寄せる。もう動けなかった。

「よく覚えとくんだね」瞳に熱を点したまま、小町は続ける。「あんたを救うかどうかなんてのは、あんたが決めていいことじゃない。それはあんたのことを救いたいと思う奴が決めることだ。わかってんだろ? 本当にそいつを救いたいって思ってる奴はね、喩えそれがどんな奴だろうと、腹の底で何を考えてようと、それでも手を差し伸べざるをえないんだよ。」
「そっ、んなの……るもんか……」

 喉が詰まる。好き勝手頭をかき混ぜられて、もう吐き気さえしない。でも、言わないでいられるか。

「いるもんか……いるわけないだろ!! 私を救いたいなんて奴が、そんな馬鹿がいて――」


 私には見えていなかった。


 呻くのに夢中でよく見てなかった。視界が滲んでいてよく見えなかった。それ以上に速すぎて見ることも叶わなかったのか。首筋に当てられていた冷たさが失せる。廊下が揺れて、何かが壁に叩きつけられた音がした。懐かしい異国の匂い。両の手をそっと握られ、そしてようやく理解した。

「……ゆか、り?」
「遅れてごめん、幽々子」

 ――どうして?

「さぁ、楽しい寿命の時間だよ!」

 それは問うより速かった。紫は私を抱え地を舐めるように飛ぶ。すぐ後ろを鎌が抜ける。光が走ったとしか見えなかった一閃は床を穿ち、そのまま横へと這う。

「遅いね!」

 全く変わらぬ速度で振られた切り返しを、紫はその空間ごと断つ。仄暗い廊下に開いた漆黒の断絶に呑まれた鎌は、小町の首を水平に薙ぐ位置へと瞬時に飛んだ。
 示し合わせてでもいたかのように、小町は首だけを横に傾ける。猩々緋の結わえ髪が吹き飛び、円弧の残光が小町の耳を撫でる。それだけだった。
 低く伏せた体勢で私を抱えたまま、しかし紫は追撃を休めようとはしない。振った右の手にあわせて、再び空間に亀裂が入る。小町の立つ場所を、小町ごと真っ二つにする為に。
 そこにあるものと一緒に砕けたはずの虚空に、しかし小町はいなかった。

「――こっちだよ」

 声の方向は背中。今度は私もろとも自身を亀裂の内に沈める。生まれたはずの間合いを越えて、鎌が飛来した。

「――っ!」
「紫っ!!」

 なにが起きてるのかなんて、所詮死んだ人間の私に分かるわけがない。攻防はあまりに抽象的で、速い。けどこれだけはわかる。いま紫が横腹に一撃もらったことだけは。飛び散る血沫が、抱えられたままの私の足に生温い感覚を落とす。
 紫は今起きたことの意味を当然理解していた。廊下すべてを二つに分かつほどの裂け目を造ると、そこから岩を落とす。小町めがけではない。その間を塞ぐ為に。

「紫、あんた血が……」
「大丈夫よ幽々子、大丈夫だから」

 怪我をした方が無傷で抱えられている方を励ます――なんなんだ。こいつどこまで馬鹿なんだ……紫の顔は真っ青で、息も切れている。今まで見たどの紫とも違う。怪我のせいじゃない。妖怪が、いや紫がこの程度で弱ってしまうなら私の横なんかにいられなかったはずだ。それは何かひどく無理をしているような、苦しげな表情。なのに私を落ち着かせようと、無理やりに顔をほころばせるのだ。

「――いやぁ、よく考えたもんだ。」

 小山ほどの岩は、その会話をもたらす時間を稼いだに過ぎなかったのか。縦横無尽に振られた鎌に細切れにされ、土煙だけになった岩陰から、一際大きな人影が浮かび上がる。

「自分自身の生と死の境界を操作し、死んでるのと限りなく等しい状態になることで三途の川を越え、誰にも気付かれることなくこの是非曲直庁まで侵入した。さっすが、妖怪の賢者なんてご大層な異名を持つだけはあるねぇ、待ちわびた甲斐があったよ八雲紫!」

 紫は迎撃を止めない。空間を裂き、開けた断絶からありとあらゆるものを投げ飛ばす。なのにそれは何一つ小町を捕らえられない。紫の距離感が狂ってでもいるみたいに。

「けど残念だ。そんな無茶な術式を自分に組みこんだせいで、今のあんたは本来の力からは程遠い。隙間の発生が遅いよ。それくらいだったら、あたいの距離操作には勝てないね!」

 上段から振り下ろされた巨大な鎌。それは私たちから遥か遠くにあるはずなのに、紫の肩をかする。横薙ぎ、下段からの切り返し――どれだけ距離をとってもそれは的確に私たち、いや紫だけを捉える。逃げようもなく。
 紫はその猛攻をぎりぎりいなしていた。私を抱えながら、ままならない体を絶妙にくねらせ、急所を狙う切っ先を信じがたい身体能力で外しきる。神速で術式を組み、迎撃を重ねて隙をうかがう。
 ……わかってる。小町が遠くから攻めていられるのも、紫がずっとこの距離で耐えるしかないのも、みんな私がいるせいだ。紫が私を絶対に離すわけがない、私を危険な間合いに置きはしないと双方とも理解してるからだ。その制限は接近戦という選択肢を奪う。
 懐の中にある私の顔と、苦悶に歪む紫の顔はほんのわずかの距離。もうなにがなんだかわからない。なんでこいつが、こんなにも必死にならなきゃいけない?

「やめて、よ……あんた何やって――」
「ごめんね幽々子。大丈夫、大丈夫よ」

 なのにまた紫は笑うのだ。幸せそうに、体温を伝わせながら、そっと私の耳元へ囁くのだ。

「――もう終わるわ」

 頭上めがけ振ってきた鎌を、当たるか当たらないかのところで紫は掴み取った。白刃が食い込んだ白の長手袋が、赤に滲む。そのまま右の手で鎌を握り締めたまま、左の肘で私を抱き寄せ、空いたもう片方の手で扇子を抜いた。

「甘いね!」

 鎌を抑えられても小町は動じない。片の手を柄から外し銭を投げる。ろくに身動きがとれない紫は格好の的。迫り来る銭の雨、それは紫のとって十分過ぎる仕込みの時間でもあった。
 扇子を地面に突き立て、ほぼ同時に隙間越しの移動。銭が虚空をすり抜けても、小町は私達の行き先を見失いなどしない。自由になった鎌を手にこちらへと向き直った死神の目に飛び込んできたのは、細い光だった。

「ちょろちょろ距離が変わるんなら――」
「――!?」

 それは二筋の光。紫と、そして置きざりにしてきた扇子の二点から小町に向かって真っ直ぐ伸びる。

「測ればいいだけよ。」

 一帯から噴き出したのはヒトガタの呪符。すべてに精緻な計算式が書かれた、即席の式だ。紫の奴、あの攻撃を捌きながら何時こんなもの仕込んでたのか? 
 式は主が算出した地点めがけ押し寄せる。紫と扇子とが形作る三角形のもう一つの頂点、常に移ろう頂点へと。

「このば――」

 小町の断末魔は爆音に掻き消えた。紫は私を衝撃から庇う。きつく抱き寄せられて、柔らかな下唇が頭に当たる。温かい胸に顔が押し当てられる。しっかと届く鼓動。やめてくれ、近すぎる。

「……あっ、ごめん幽々子、苦しかった?」

 知らずうちに頭を振ってもがいてたんだろう、紫は申し訳なさそうに私を解き放つ。向けられた微笑は、たちまちにしてくすんだ朱に染まった。ほんの刹那の見つめ合いだったのに、それは何よりも長く感じられてしまう。紫は輝きに満ちた面立ちを伏せ、きゅっと唇をかむ。
 逃げたかった。小町の時なんかとは比べ物にならないくらい本能が喚き立てていた――こいつから逃げたいと、逃げねばと。全身が栗毛立ち、涙さえ漏れかけた。怖くて、綺麗過ぎて。
 一瞬感極まった紫の顔にたちまち真剣さが戻る。この時間が長く続かないことは、紫はもちろん私でさえわかっていた。まだ回復の追いついていない体を持ち上げた紫は、私の手を掴み引っ張り上げる。

「幽々子、さあ早く――」
「――遅いって言ってんだろうが!」

 地響きの向こうから届いた声。粉塵の中私が見届けたのは、白く輝く円弧の残光と、とっさに庇いに入った紫の肩と、その向こうから噴き出る鮮血だけだった。
 紫もろとも吹き飛ばされ、肩から地面に落ちた。そのまま背中を強かに打ち、逆の肩が軋み、頭に星が飛んだ。あとはわからない。紫の腕の中、温もりだけをしっかと受けながら、しかし意識はそこで途切れたのだから。




 *




 そこで夢から醒めた。

 身を刺すような寒さだ。現の感覚がたちまちにして全身を支配する。半睡の視界に広がるのは茜の空。感覚は戻りきらぬまま、寝ているのか浮いているのかの判別もつかない……そりゃそうだろう。魔理沙と箒に跨って、今私は空を飛んでるんだから。
 春とはいえ夕暮れ時、しかもこんな上空は寒いに決まってる。もう地面すら伺えない遥か上空。魔理沙の背中にしがみついたまま寒さをこらえていたら、意識が半分飛んでしまったんだろう。
 霊夢発案のとんでもない作戦を元に、目的地へ向かおうとした魔理沙に無理言った結果、私はこうして箒の上に乗っけてもらえている。なぜ一緒に行くなんてことをあそこまで強硬に主張したのか、自分でもなんでかよくわからない。
 当然ながら魔理沙は最初渋ったが、不思議なことに私の肩を持ってくれたのは霊夢だった。巫女の言葉に魔理沙もなにやら思うところがあったのか、結局は了承に至ったのだった。そうまでしてもらってるってのに、結局はこの子の背中に寄りかかって暢気に寝てるだけ。いったい何がしたいんだろ私は。
 夢の記憶が甦る。あそこで途切れてしまったことに、少しだけ口惜しさを覚えた。あの時私を救いに来たのは、間違いない、八雲紫だった。
 向けられた優しい笑顔、じんわりと伝わってきた体温、抱きしめられた感触、そして甘い香り――思い出すたび、一つの疑問を抱かずにはいられない。八雲紫は、悪い奴なんだろうか。さっきの霊夢のそぶりだって、あの時の謝罪の言葉だってそう考えれば辻褄が合う。紫はメリーに非道いことをするような、私なんかが歯向かっていいような存在なんだろうか。
 だって、あんな慈愛のこもった抱擁、私にはできない。もし紫が夢の私へ向けたものと同じ愛情をメリーに注いでくれるのなら、ああやってメリーを抱き締め微笑みかけてくれるのなら、それはとても素晴らしいことだ。メリーの隣にいるべきは、きっと紫みたいな子だ。だったら私がしなくちゃいけないことは一つしかない。本当にメリーを大切に想っているのなら……だって、私はメリーを苦しめてるだけで……

「おお、起きたか。」

 前方から飛んでくるのは魔理沙の声だ。どうやら意識が飛んでたのは背中越しからも伝わったらしい。ほんと、迷惑かけっぱなしだな。

「うん……ごめん寝ちゃって」
「そりゃ仕方ない。慣れない体でいきなりここまで上がったんだ、そりゃ意識も飛ぶさ。」

 雲は足の下。薄暮の天頂にはシリウスがうっすらと光る。天国をも連想させるパノラマは、しかし魔理沙に言わせると「まだ天界には遠い」らしい。見渡す先には門の姿がおぼろげながら捉えられるようになってきた。この距離からでも博麗神社にあった鳥居くらいに見えるほどの巨大な門。眼前に置いたのならどれほど勇壮な姿を映すのだろうか。あれこそ私たちの目的地、冥界の入口らしい。
 いよいよ来るところまで来たなと、唾をぐっと飲み込む。一方の魔理沙は平気の平左だ。実際ここにはよく来ていると得意げに説明してくれた。もう訳がわからない。なんで生身の人間が冥界に来慣れているのか。そう訊いても魔理沙は「それが幻想郷ってやつだ」と笑いめかすだけだった。
 でも、そんな余裕綽々の少女にしがみついていると否応なしに気付かされてしまう。ところどころ破け、穴の開いた衣装。最初会った時はこんなボロボロになってなかった。魔理沙は昨晩からどれだけの数「弾幕ごっこ」とやらをこなしているんだろう。たいした得になるわけもないのに。

「魔理沙、ごめんね……ここまでさせちゃって」

 そう思った時にはもう口から漏れていた。後姿からでもわかるような苦笑いと一緒に、魔理沙は言葉を返す。

「だからな、お前はそう一々ごめんごめん言うな。私は依頼を受けてやってるんだ。お代だってちゃんともらってるしな。」
「でも、そんなたいしたもんじゃないよ。」

 今度は溜息。魔理沙は右手を上げてこちらにカードを見せる。そこにはいかめしい絵柄とともに「Shoot the Moon」と書いてあった。

「こいつの改良版ができたのはお前の眼があったからだぜ。久々に暇を潰せるネタができたし、こっちとしては十分もらうもんもらってるつもりなんだがな。」
「魔理沙はさ……私といて楽しい?」

 言った自分がぞっとした。それはあの時、電車の中でメリーに向けたものと同じ問い。魔理沙をメリーと同様に扱おうとする、"宇佐見蓮子"の卑劣な言葉。
 罵倒も憤怒も飛んでこなかった。魔理沙はこめかみ辺りを指で掻く。なにか申し訳なさそうに見えた。

「まあな」魔理沙は少しだけ低い口調で語りかけてくる。「楽しくはあったぜ。蓮子から見たら不謹慎に見えたかもしれんがな。でもこれが私らのやり方なんだ。知り合いで新聞記者やってる天狗がいるんだが、そいつ曰く妖怪と人間の違いは『如何なる状況下でもそれを愉しむ』か否かなんだそうだ。適当なことしか言わん奴だが、その発想は嫌いじゃない。そう思っときゃあ、その内楽しくなるかもしれんだろう。恋符なんかも、まあアイデア的には似たとこあるしな。」
「恋符って、あのビーム……? なんとかスパークだっけ」
「ああ。昨日の晩も少し話したかもしれんが、あれは原理的に言うと人間のマイナス感情をパワーに変換する魔法だからな。どこぞの本にも書いてあったが、恋ってのは狂気の源泉としてみりゃまさしく打ってつけだ。それこそ相手のことを想い焦がれて、苦しみのたうち回ってるくらいが一番愉しい時なのさ。それがなくなったらもう燃料切れだぜ。」

 魔理沙は一生懸命励ましてくれている。気にするなと言ってくれている。

「でもさ、それって辛くない?」

 なのにこの口から出るのはやっぱり弱音だけだ。メリーに連れてきてもらった世界で、今は魔理沙の背中に寄りかかって……最低だな、私。

「魔理沙だってさ、あんな冥い森に一人で、実家からだって――」
「あー聞こえないぜ。」

 大声に掻き消される。続けて飛んできたのは舌打ちだけ。

「ったく霊夢か? 余計なこと吹き込みやがって。あいつも人のこと言えた口かよ……」

 そしてバリバリと、さっきより強くこめかみの辺りを引っ掻く。また私は恩人を傷つけたんだろう。自分の心を満たす為だけに。できれば、答えて欲しかった。やっぱり、答えて欲しくなかった。だからただ、ぎゅっと魔理沙の腰を抱きしめるしかできない。
 既に冥界の門は眼前に迫っていた。天蓋を破らんばかりの門柱は西からの残光を纏い、紫がかった朱に染めぬかれている。なんら音もなく、二つの人影を載せた箒はするりと門をくぐる。生者と死者の世界を分かつ境界を、拍子抜けするくらいあっさりと。
 しかし空気は瞬時にして変わる。箒を吹き上げたのは春の風だった。暖かく芳しい空気が私たちをくるむ。そして一面に広がる桜、桜。好きとか嫌いとかじゃない。ただただ圧倒されるほどの桜の怒濤。いつだかメリーと蓮台野に行ったことを思い出した。丑三つ時に見た季節はずれの桜吹雪。一瞬だけ見たあの幻に視界全てを埋め尽くされたとしたら、きっとこんな風景になるんだろう。
 死んだ人間が生き返りたくないと言い出す話が世界各地で伝わってるのもこれなら納得できる。こんな場所にしばらくいたら、下界に降りる気も失せてしまう。この絶景に心奪われたら、現世での未練なんか霧散してしまうに違いない。私だったらきっとそうなってしまうんだろうな……

「まあ私は普通の魔法使いだからな」桜の雨中で、魔理沙は久方ぶりに口を開く。「色々下らないことで躓いたりすることもあんだろうさ。でもな、それと家のなんたらは関係ない。んなもん古過ぎて忘れたぜ。」
「でも。だって――」
「さっきの答えの続きだかな。」

 魔理沙は決して振り向かない。前を向いたまま、しかし箒の速度は落ちた気がした。

「はっきり言って今のお前といるのは楽しくないな。うざったいだけだ。」

 すっと、額に冷たい感触。いつだか貸した懐中時計だった。魔理沙はあくでも人を食った調子で続ける。厳しい言葉に覆いを被せるように。

「ほれ、返すよ。魔理沙さんのモットーは『死ぬまで返さない』なんだが、なんだか呪われちまいそうだからな。離れられないんだろ? 私にゃ必要ない。」

 そして少しだけ苦悶を滲ませる。

「……なあ蓮子、お前はもっと自信を持てや。ホント変な奴だよお前は。ガキみたいにはしゃいだかと思ったら、次見た時はお通夜みたいな顔してやがる。最初はもっと愉快な奴だと思ってたんだがな。紫に喧嘩売るなんてぶっとんだ真似できる奴そうはいないぜ?」

 それきり声は飛んでこなかった。続きが待ち切れなくて、お下げのリボンをいじろうと手を伸ばしかけた所で止まる。瞬間変わった空気に、魔理沙と私は同時に前を見た。

「ああ、誰かと思えば魔理沙さんですか……」

 正面に浮いていたのは、魔理沙よりずっと小柄な少女。白みの強い銀髪に黒のカチューシャ、おかっぱに切りそろえられた髪型は本当に幼く見える。でも纏っているのは紛れもない闘気、しかも殺気がほんの少し混じった強烈なもの。その物々しい雰囲気は腰に差した二振の業物によっていっそうリアリティあるものになっている。
 一振は持ち主の背丈を超え出るほどの長尺で、もう一振はやや長めの脇差に見える。鞘に結わえられているのはスミレだろうか。その唯一つと言っていい彩がなかったとしたら、持ち主自身に牙を向くのではと怖くなってしまうくらいの、とにかく少女にはひどく不釣合いな得物だった。

「おう妖夢」魔理沙は先ほどとは打って変わって軽快に挨拶を投げる。「ちょいとお前んとこのお嬢様に大切な相談があるんだが、通してくれないか?」

 大きな人魂を侍らせ、妖夢と呼ばれた少女は冷たい、値踏みするような視線を私たちに向ける。正統派魔法少女に戦う巫女さんときて、今度は少女侍か。……もう戦場帰りのメイドやら獣耳ガールやらが出てきてもおかしくないノリだなこりゃ。

「花見くらいなら今更何も言わないですけど、貴方が幽々子様に相談なんてあんまりいい予感がしません。用件は?」
「ちょいと誘拐されて欲しくてさ。」

 こっちから表情は窺えないが、口ぶりから察するに魔理沙は満面の笑みで言ってるんだろう。この妖夢って子、会うのはもちろん初めてだけど、それでも一目見た時から確信できたことがある。どう見てもその手の冗談を笑って流せるタイプじゃない。

「……意味がわかりませんが」

 口調は丁寧なまま、しかしいっそう増す殺気を隠そうともしない。そんな性格など先刻承知済みなはずの魔理沙はどこまでも楽しそうで。

「そのまんまだ。悪いが人助けと思って攫われてくれ。さしあたり監禁場所は霊夢んとこにする予定だ。ちゃんと食い物は出すからさ。もちろん死ぬ前にはちゃんと返すぜ。あんなお嬢様のお守りして憑き殺されるのは勘弁願いたいからな。」
「つまり、ここで叩き切られて死にたいってことですね。」

 長尺が抜かれる。残照を食らう月明かりに当てられて、白く光る直線が絶景の桜を二つに分かつ。どう考えても交渉失敗だ。まあ交渉する気なんか、最初っからなかったんだろうなあ……こうなればもう想像はつく。つまりだ、

「5枚!」
「6枚!」

 やっぱりこうなるわけですね!
 妖夢は前に、魔理沙は上に爆ぜる。ついさっきまで自分達がいた空間に浮かぶ半弧の残光。恐怖を感じる暇なんて、魔理沙が与えてくれるわけもない。

「時間がないんでな!」


     邪恋「実りやすいマスタースパーク」


 躊躇なく下へと放たれた魔砲、それは妖夢にとって避けるには近すぎる位置からで、

「はあぁっ!!」


     断迷剣「迷津慈航斬」


 だからこそのやり方。必殺の一撃は真っ二つに叩き割られた。妖夢を基点にした二股の光が地面へ落ちていく……光を切っちゃうわけね、常識はどこいったんだい!

「切るなこの辻斬りがっ!」
「言ったでしょ、この楼観剣に切れぬものなど殆どないって!」

 たまらず後退する魔理沙、しかし妖夢は間合いをくれない。あっという間に踏み込み、切り込んでくる。それは魔理沙に反撃の態勢をつくることすら認めない。

「しつけえぞお前!」


     儀符「オーレリーズサン」


 鍔迫り合いを続ける二人の周囲に撒かれたのは色とりどりのビット。妖夢を追い立て、執拗に付け狙う。それは二人をへだつ隙をもたらしてくれるはずだった。


     空観剣「六根清浄斬」


 放たれたのは同時に五つの斬撃。てんでバラバラに飛び交っていたビットが一瞬にして全機墜とされる。その抜刀に唖然とする間もなく、六つ目の斬撃が飛んできた。

「くそがっ!」

 箒の先を強引に引き上げ、魔理沙はそれをすんででかわす。されど何一つ好転とはなりえない。勢いを加速した追撃が止むはずもないのだ。いくら星屑を撒き、煙幕を張っても妖夢は決して離れようとしない。見る見るうちに押し込まれていく。
 ぎりぎりの防衛戦は続いた。速さだけなら五分だったのかもしれない。しかし近接での踏み込みは妖夢の方が遥かに上手。加えて魔理沙には大きなハンディがある――そう、私だ。

「遅いっ!!」


     魂符「幽明の苦輪」


 後ろの人魂が妖夢の形になる。二人がかりの攻め手を受けるのは魔理沙だけ。またこれか。私は魔理沙の荷物でしかないのか? こうやって魔理沙にひっついてるしかできないのか? 見てるだけなのか!?

 ――もう、いいかげんにしろ!!

「蓮子、ちょい手ぇ貸せ!」

ぽんと、大きな三角帽が頭に載った。何かが頭頂にこつんとぶつかる。中にあったのは、小瓶とスペルカード。

「ちょ、これ――」


     天星剣「涅槃寂静の如し」


 音が消える。私から、周囲から一切。真っ直ぐ飛んでくる切っ先を、魔理沙は超人的な箒さばきでかわしきる。桜など根こそぎ吹き飛ばす白い弾幕の嵐に煽られて、なおこいつから笑みは消えてない。カードはさっき見たやつだ。指示内容は見当がつく。でも、これを私にやれと?
 跳ねた心臓が高鳴る。血液が全身を奔流する。――迷うな蓮子、今私がやらないでどうする? さっきの自分で言ったろうが。魔理沙は託してくれたんだ。だから、今度こそ迷いを断て。

「いくぞっ!!」

 世界が暗転する。声が戻った。

「ふっとべ妖夢!」


     魔廃「ディープエコロジカルボム」


「あたるかぁっ!」

 魔理沙が投じた"それ"を、妖夢は易々と両断する。くびれたところで滑らかな断面を覗かせたガラス瓶は、褐色の泡を吹いた。

「これ、って……しまっ――」
「あたれぇぇっ!!」

 上体だけのけぞらせて、渾身の力で投げた。"本物"を。

「くぅ――」

 絶叫を打ち消す閃光と轟音。箒にからめていた足がほつれる。よれた体が爆風に巻き上げられて、私は自由になった。

「――え?」
「蓮子っ!!」

魔理沙が、空が遠ざかる。何もかもがスローモーションに溶けていく。粉塵の向こうから窺えたのは、脇差片手に私の一擲を居合い抜きした妖夢の姿だった。思わず賛辞を送りたくなる。あの距離、タイミングで切り払うなんて、そりゃ勝てないはずだわ――

「手ぇ伸ばせ、蓮子!」

 瞳を閉じかけていたからだろうか。初めて芯から充足感を味わってたからだろうか。その声が届いたのはずいぶん時間が経った後のことだった気がした。
 まぶたを開く。墜ちる魔理沙の顔は、すぐ手の届くところにあった。

「間に合えっ!」

 手が伸びる。魔理沙が笑う。私も笑った。今わの際だってのに。最高に楽しくて。引力の為すがままだった体がガクンと持ち上がる。そして、二人まとめて地面に墜ちた。

「いててて……」
「さっさと手取れよ。死にたいのかこの莫迦」

 墜ちたってのは語弊があったかもしれない。すんでで魔理沙に抱えられて、私達は三割ほど墜落気味に地面に降り立った。魔理沙は地面に蹲ったまま。その下で仰向けになった私の視界に広がっていたのは、月に照らされた夜桜と体勢を整え終えた妖夢だった。

「私に背中を見せるかっ!」


     「待宵反射衛星斬」


 天頂煌く月光を浴びて、上段に構えられた刀身が真っ赤に光る。紅の直線がゆっくり月まで延びていって……あれ、もしかしてゲームオーバー?

「大丈夫だ。安心して寝てな。」

 なのに魔理沙は笑ってる。しゃがんで、こっちに顔を向けたまま。

「――もう終わるぜ」
「はあぁっ!」

 そう言った二人の姿が青く染まる。月の明かりを呑み込んで、星が降りてくる!


     星符「グラビティビート」


 魔理沙が先に撃ち放っていた光弾は、妖夢の無防備な背中に叩き込まれた。全神経を必殺の一撃を放つことに傾けていた小柄な剣士の四肢が、それに耐え切れるはずもない。自らの加速度すら裏目となって、妖夢は桜の海へと沈んでいった。

「人の背中の前に自分の背中を心配しとけってことだ、覚えときな半人前!」

 実感が湧かなかったんだろう。魔理沙が立ち上がってそう言うまで、私はへたれこんだまま呆然と妖夢が墜落していった方を見ていただけだったんだから。ようやく視線が魔理沙へと向く。親指を立てウインクしながら、ズタボロの魔理沙はどこまでも楽しそうで、だから私も笑ってしまう。
 初めは恐怖に引き攣ったみたいだった笑い声は、次第に澄んだ音へと変わっていく。全身から、もう止まらない。魔理沙も何も言わない。ただ同じ莫迦を祝う視線だけ。十分すぎる賛辞だった。
 パンと景気のいい音を響かせて、差し出された手を取る。そして起き上がった。全身泥まみれなんていつ以来だ?

「ありがと魔理沙」
「借りができたな。後で返してやるぜ。」

 手にあった三角帽を返す。向こうは下に落ちていた中折れ帽を拾って渡してくれた。同時に帽子を被り直す。そして魔理沙がじっと見据えるのと同じ方を見た。痛みも爽快感も忘れて、一点に視線が吸い込まれる。そこにあったのは絶景の中に佇む、あまりにも格調高い楼閣だ。
 低く、広大な日本家屋。桜を食うような華飾はなく、かと言って埋没するほど味気のない造りではない。むしろ見れば見るほど、その徹底した美意識に魅了される。柱や梁一つ一つに施された装飾、そして嵌められた格子の細やかなこと。完全に国風で纏めてしまうのでなく、時折り大胆に異国の風味を取り入れるあたりがまた心憎い演出だ。瓦は一点の歪みなく細波を打ち、玄関口の三和土(たたき)は鏡のように滑らか。それは非の打ち所のないほど幽雅で、かくも見事に咲き誇る桜たちはあくまで前座でしかなかったのだと痛感させられてしまう。
 あんなところに人が住んでいいのだろうかという、訳のわからない疑問がふいにもたげたその時だった。その声が聞こえたのは。

「あらー お客さん?」

 声は横から。ふよふよと気ままに漂う人影のものだった。少女は綿毛みたいにふんわりと私達の前へ舞い降りる。なんでもない所作だったはずなのに、なぜか体に電気が走る。そいつの周りにつき従う無数の幽霊が冷気を漏らし、浮かれた気分に水を打つ。

「おうよ。邪魔してるぜ。」
「あらら。白黒と黒白ね。これはめでたいことで。」

 発せられる声はどこまでも暢気だ。まさしく浮世離れしていて、生者にはおよそ口にすることができそうにない類のもの。なのに、その声には聞き覚えがあった。

「お茶の用意をしないとね。用意といえば妖夢どこ行ったか知らない?」
「あいつなら半分死んだような顔してたから、半殺しにして桜の下に埋めといてやったぜ。」
「あらららー それは困ったわねぇ。」

 扇子の裏でころころと笑う。白群の召し物に藍染の帯。ところどころにあしらわれているのはフリルのようだ。三角頭巾のついた帽子から覗く薄い薄い紅色の髪。透き通った笑みが滲ませているのは向かい合うもの全てを愛でる包容力か、あるいは向かい合うものの本質へと容赦なく抉りこんでいく苛烈さか、はたまたその両方か。華奢な体からはふつと消えそうな儚さと、濃密過ぎるほどの存在感が匂い立つ。
 そんなおよそ人間離れした風貌を、けれど私はよく知っていた。当たり前だ。知らないわけがない。

「もうすぐ夕餉時でしょ。昨晩庭で珍しい食べ物を拾ってね。妖夢に切ってもらおうかなあって思ってたんだけど。」

 だって、映ってたじゃないか。

「お嬢様にもなって拾い食いかよ。」
「あら、庭と森は食材の宝庫じゃない。それより何しに来たの。もしや匂いにつられて死んじゃった?」

 三途の川の水面に。無惨に歪んでたけれど、あの端整な面立ちを忘れるはずがない。

「ちょいと人探しをな。紫いるか?」
「紫? 知らないなあ。最後にお酒呑んだのは……一昨日か、いや去年の秋だったかな?」

 声だって、もっと毒々しい口調だったけど同じじゃないか。小町に、そしてなにより自身に呪詛を撒き散らすしかできなかったあの声と。

「呆け過ぎだぜ。運動不足だな。」
「いやいや、どっちかと言うとカルシウム不足ね。カッカしすぎて周りが見えてないんじゃない?」

 なんで、どうして"夢の私"がここに?

「まあさ、紫なんてどうだっていいじゃない」臨戦態勢を取る魔理沙を嘲笑うかのように続ける。「今夜は宴会になりそうだしね。貴方達もせっかく来たんだし、参加するでしょ?」
「宴会は大歓迎だが、ここは辛気臭いからパスだぜ。やるんなら博麗神社だな。」
「それだと私が無理ねー」

 空気の重さが変わった気がした。隣に立つ魔理沙にも力が入る。

「お客様が来てるのよ。昨日庭におっこってたの。」

 ピクンと跳ねた私の表情を、こいつが逃がすわけもなくて。

「あの状態じゃあとても外には連れ出せそうにないもの、ねぇ」
「そ、それって……?」

 無意識に足が前に出る。向こうはたおやかな笑みを絶やさない。

「だからうちでやりましょうよ。あれは絶対美味しいわ。きっと気に入ってくれると思うの。」

 どこまでも優雅に、夢見た時と一切が変わりなく、袖の内に隠れていた指が掲げられる。そこにあったのは、メリーの帽子。

「さいぎょうじゆゆこぉぉっ!!」

 掴みかかろうとした。魔理沙を振り切って。拳を振り上げ殴りかかろうとした。もう一人の"私"――夢の私に。

 でも、それは叶わないのだ。


     獄界剣「二百由旬の一閃」


 遥か向こうから届いた宣言。伸ばした手の先にあった幽々子に注意を奪われていた私に見届けることができたのは、横からの衝撃波と、白く輝く太刀の残光と、とっさに間に入った魔理沙の肩だけだった。
 魔理沙もろとも吹き飛ばされ、肩から地面に落ちた。そのまま背中を強かに打ち、逆の肩が軋み、頭に星が飛んだ。あとはわからない。魔理沙の腕の中、温もりだけをしっかと受けながら、しかし意識はそこで途切れたのだから。







『清流の清濁はその源にある。幻想郷の妖怪達がチャランポランなのは貴方の所為ね』
                   ――東方緋想天:比那名居天子







「――幽々子起きて! お願い、目を醒まして……」

 たちまち意識が戻る。目の前には今にもはちきれそうな紫の顔。……ああ、小町に吹き飛ばされて意識が一瞬飛んだのか。なぜかとても長い夢を見ていた気がしたんだが。
 さっき擦りむいたのか、肩の裏が焼けるみたいに熱い。他にもいろんなところを擦ったんだろう。でもそんなことは気にならない。自分の痛み以上に、目の前の紫はあまりにも痛々しかった。装束はズタボロで、傷のない部分を探す方が難しい。なのに浮かぶ安堵の表情は、ただ一点こちらを捉えたまま。視線の先にある存在さえあればいいのだと、そんなことを眼は告げてくる。

「小町は……?」
「幽々子!? ああ、幽々子……」

 問いを無視して私を抱き起こそうとするも、うろたえた四肢はそんなことさえ儘ならなくさせるらしい。むしろ紫の方が私の懐に収まる形になった。すっかり動転した少女、これが本当にさっきまで死神と一戦交えていた奴なのか?――そう思ったと同時だった。丸まり震えた小柄な背中の後ろに、人一倍大きな影がぬうと迫ったのは。土煙の向こうからでもはっきりとわかる白刃の煌めきを、天中に伸び上がらせて。

「紫後ろ――!」
「よそ見してんじゃないよ!」
「――っ!」

 思わず懐の紫を抱きしめ、目を瞑った。一瞬遅れて潰れるような音が響く。落ちてくるはずの刃は、いつまで経っても落ちてこない。恐る恐る目を開く。
 そこにあったのは猩々緋の髪ではなく、金色の尾だった。

「紫様!」
「……藍?」

 嗚咽を漏らしていた紫の顔が跳ね上がる。振り向いた先――私が眼を奪われていた先には小町に飛びかかる狐がいた。

「なん、で……あんたどうやって?」
「早く! 紫様早く!!」
「ああ邪魔っくさい!」

 柄で妖狐の爪を食い止めていた小町は、鎌を振り回して執拗な攻め手を払わんとする。しかし狐は離れない。しつこく食らいつく相手にたまらず後退するも、しかし小町に間合いは与えられない。どれだけ距離を操ろうと、九尾の狐の馬鹿げた身体能力はそれを一瞬で詰めてしまう。どこまでも踏み込み、切り込んでくる。それは小町に反撃の態勢をつくることすら認めない。

「藍、あんたまさか自分にもあの式を打ったの……?」
「そんなことはどうでもいい! 早く、今のうちに!!」

 会話に奪われた注意は、小町に反撃の機会をもたらす。妖狐の腹を蹴り上げ、そのまま柄で殴りつける。墜ちかけた体を、しかし狐は丸ごと小町に預ける。掴んだまま離さず、そのまま組み伏せてしまう。叫ぶ声はどこか苦悶を帯びているのに、小町をねじ伏せる四肢の豪力は神々しさすら覚えた。
 紫も眼前の光景を消化しきれていないふうに見えた。しかし瞬間顔つきが一変する。それはきっと二人にしか通じ得ない何かが至らしめた帰結なのだろう。俯いたまま、私の手を引いて駆ける。僅かに動いた口の中で押し留められた言葉は、私にさえも届かなかった。



 痛い。痛い。
 私を掴む手の強さは骨を軋ますほどに荒々しく、決して離すまいという意志をこれでもかと伝えてくる。駆ける足は速く、後を着いて行くというより紫に引きずられて足が勝手に前へと進んでいる状態だった。
 慣れない全力疾走で破裂しそうだった心臓も、どうやら針を振り切ってしまったらしい。不思議なことに頭の中が澄んでくる。理解の範疇を超える怒涛の攻防も過ぎ、落ち着きが戻ってくる。
 それはとどのつまり、私があの"西行寺幽々子"へと戻ってしまうということだ。とっくに消滅したと思ってたあの不快感が、掴まれた手を通してまたこの心を塗りつぶす。恐怖も温もりも消えていく。残ったのは嫌悪感だけ。

「離して、離してよ!」

 引きずられながら、みっともなく呻く。いったい誰が呻いてるのか、いったい誰に呻いてるのか、わかりやしない。
 紫は決して後ろを振り向かなかった。何事かひたすらに呟き続けながら、出口へ向かって駆ける。まるでそれ以外の言葉を忘れてしまったみたいに。ほんとにどこまで馬鹿なのか。かつてない怒りに堆積していた汚泥が決壊する。濁流に身を任せ、後ろに向かって跳ね飛ぶみたいに腕を振り上げた。

「離せっ!!」

 紫の手が跳ね上がる。惰性で前に進もうとする下半身と、振り払った勢いで後ろに倒れようとする上半身に引き裂かれて、私はその場でよろめいた。紫は一歩だけ余計に進むと、ぴたと歩みを止める。一瞬こちらへ振り向きかけた顔は、それ以上進もうとはせず下へ落ちた。

「ごめんなさい……幽々子」

 前を向いたまま、紫はやっとこれだけを呻く。右の手はこちらへ差し出されたまま。さっき鎌を掴み取った時の傷がくっきりと刻まれた掌だけが、こちらを向いている。肩口から腰に掛けて斜めに入った刀傷も、背中にしっかりと残ったままだ。直視することすらできない。

「お願い、幽々子……」
「はは……あはははっ」

 俯いたまま、最後の力を振り絞って嗤う。甲高い、下卑た嘲笑を捻り出す。それでいい。そうしなきゃ、ならない。

「幽々子……?」
「黙れよ。はっ、あんたさ、まだ気付かないわけ? 私がどんな女か。何を思ってあんたの隣にいたかをさ。ほんとばっかみたい。
 私はね、あんたのことなんかなんとも思ってなかったの。もっとはっきり言ってあげましょうか? 私はただ死にたかっただけ、そのためにどうしようもないくらい馬鹿でお人よしのあんたを、利用しようとしただけなの。はっ! わかった? あんたなんか……どうだってよかったんだよ。私がお前になにか与えただって? はははっ、いい加減目ぇ醒ませよ。そんなわけないんだ。よく見ろよ。こっち向いてよぉく見てみろよ。お前が勝手に憧れた"西行寺幽々子"なんて奴はな、最初っからどこにもいなかったんだよ!」

 なぜか涙が止まらなかった。肩をしゃくらせながら、みっともなく声を裏返してただ吠えた。紫は微動だにしない。そうするのが義務だとでも言いたげに体を押し固め、私を痛罵を全身で浴びていた。手だけをこちらへ差し出したまま。

「もう、わかったろ。さっさと帰れよ。一人で、もう私に構うな。ここにはな、お前が助ける価値の――」
「幽々子、お願い手を取って。お願い。」

 振り向かず、曇りない声で乞い掛けてくる。なんでだよ、人の話聞けよ、なんでそうなるんだよ……ちくしょう、とんでもない馬鹿だ。ここまでとは思わなかった。
 なんだよ、なんで前向いたままなんだよお前は。振り向いたら私が消えちまうとでも思ってんのかこいつは。……違うだろうよ、この臆病もんが。そういう時はただ振り向いて、こっち見て、消えないように抱き寄せりゃあいいんだよ……

「聞こえないのかこの阿呆。とっとと失せろ。自分のいるべき世界に、帰れよ」
「本当に、ごめんなさい……当たり前よね、そんなの。でも、それでも貴方には生きていて欲しい。幽々子はここで終わってはいけない。だから、今だけでいい。今だけでいいの。どれだけ私のことを嫌いだとしても、お願い手を取って。」

 なんでそんなに馬鹿なんだよ。私がいつ紫のことを嫌いだなんて言ったよ? なんで私に手を取らせるんだよ。お前の手を取るなんてこと、私にできるわけないだろ? 少しは考えろ馬鹿……!
 後ろ向きのまま、紫の手が伸びてくる。私の手が少しだけ持ち上がる。震える人差し指と人差し指は、どれだけ近づけたのか、滲んだ視界にはもう判別ができなかった。

「――こんなところにいましたか」

 現へと引き戻す声。大きくなる足音。我に返る。それは、前からだった。

「もう彼岸の外まで行ってしまったかと思いましたが、案外のんびりしていたようですね。」

 顔を上げる。上げてはならないと本能が告げていたのに、上げざるをえないのだ。耳に入ってくる言葉はひどく無機質で、なのに心を残らず抉り取る力を宿している。徐々に近づいてくる少女と目が合った。そして震える。肩でも膝でもない。もっと奥の方から、臓の底から戦慄が噴き上がってくる。それはいまだ味わったことのない真の畏怖。

「さあ、もう十分でしょう。終わりとすべきです。」

 背はそんなに高くない。面立ちはまだあどけなく、むき出しの手足はひどく華奢。威圧感は一抹もない。なのに、胸の前に置かれた悔悟の棒の真上で光る目、その澄み切った眼光に射すくめられた瞬間一切が崩れる。虚飾も欺瞞も、わずかばかりの意志も根こそぎ持っていかれる。自分には何もないのだとこれ以上なく気付かされる。そう、その瞳は鏡だった。己が全てを自身へと見せ付ける。
 沈みそうになった体を、紫の腕が支える。久方ぶりに触れたその手でさえも狼狽を隠しきれていない。だとしても、紫は私とは違う。

「夜魔天が、わざわざこんなところまでしゃしゃり出て何の用かしら?」
「それはこちらの台詞ですよ八雲紫。さあ、早くその娘を渡し立ち去りなさい。」

 精一杯の虚勢は、しかし何の効果ももたらしえない。これが、閻魔?

「ぬかせ夜魔天風情がっ!」

 紫が腕を振る。空間が裂けて、闇が生まれる。胸の辺りで閻魔を両断せしめんとする一撃は、あたりに血を巻き上げる。

「ぐふっ……」

 閻魔ではなく、紫の体を上下に別けて。

「ゆか……紫ぃっ!!」

 あれほどまで強固にそびえ続けていた大妖怪が、無惨に沈む。その間も淡々と歩を進めていた閻魔は、気付けば紫の横で腰を抜かしていた私の真上にいた。

「ぁ……ゃ……」
「まさかここまで手間をかけさせるとは思いませんでしたよ。西行寺幽々子。」
「ゅこに……さわるなぁっ!!」

 残っていた物を燃やし尽くして、紫は周囲すべての空間を開く。そこから伸びる光の帯。全方位から閻魔へと収束したはずのそれは、残らず背中へと叩き込まれる。うつ伏せになった紫の、荒れ果てた背中へと。

「もうやめてぇっ!」
「痛いですか、八雲紫?」

 紫は一切声を上げない。苦痛に顔を歪めながら、なおも刺し違えんばかりの形相で眼前にそびえる少女を睨みあげる。聞こえるか聞こえないかの溜息を漏らしながら、閻魔は睫毛を伏せ言葉を投げ落とす。

「しかしそれは私が貴方へ与えた痛みではない。そう、貴方が自身へ与えたいと願った痛みです。それがこの浄玻璃の鏡に映っただけ。貴方が誰よりも許せない存在、いくら償おうとしても贖えぬ罪悪感に向かってね。
 最初からわかっていたはずです。たとえどれだけ自身を傷つけようと、この娘を黄泉返らせようと、その苦痛から解き放たれることは永遠にない。この娘を救えなかったという悔恨だけは。」
「黙れ……私なんざどうだっていい。約束したんだ。幽々子にお礼をするって、約束したんだ……」
「それはよい心がけです」閻魔は粛々と、一切の感情を滲ませず答える。「しかし貴方は何を見ていましたか? この娘は貴方の救済なぞ欲していなかった。貴方は最後までそのことに気付かず、この娘を生かそうとした。心の内を見ようとしなかった。」
「そんなの、間違ってる……! 私は幽々子を生きさせる。たとえこの子が死にたいと、死ななきゃならないと思ってたとしても、見殺しになんかできるか? それが助けるってことだろうが!?」
「なるほど。なれば八雲紫、貴方は何を理解していましたか? この娘の内面に巣食う欺瞞、歪みを貴方は知っていましたか? 貴方の善意がどれだけこの娘を辱め、今の貴方の姿がどれだけこの娘を苦しめているか、気付いていたとでも言うのですか? 貴方は結局高いところから施しを恵んでいたに過ぎない。それがいかに貴い想いに基づくものであろうと、己が身を擲つ覚悟を持ったものであろうと、そんな救済はしょせん自己満足に過ぎないのだと知れ。」

 形相がたわむ。それでも紫は顔を伏せようとしない。

「そんな説教知ったことか……貴様に何と言われようが、私がどれだけ間違ってようが、返すんだっ……私に、他はないんだ。たとえこの世の理を曲げても、全部敵に回そうとも、私は幽々子に恩を返す。決めたんだ。そのためだったら神にでも悪魔にでもなってやるってなぁっ!!」

 浴びせられた返答をしっかりと受け止めてから、閻魔は先を説く。

「そう、八雲紫。貴方は少し曖昧すぎる。一介の妖怪でありながら、人間じみた行いをしようとする。挙句には神を騙ろうとする。しかしそれは驕りでしかない。しょせん貴方は妖怪でしかないのです。どこまでも自分のことしか考えられない存在でしかね。そんな妖怪風情にこの娘を救うことなどできるはずがない。弁えなさい。その卑小さ、限界を。境界の妖怪だからと言って、自身を曖昧にしていいことにはならない。むしろ誰よりも自身の立ち位置を自覚せねばならないと心得よ。」

 説教の最中も、紫は足掻いていた。血酔いの体を前へと這わせて、閻魔の足を掴もうと。そんな紫をもはや一顧だにせず、閻魔はこちらへと向き直る。もし私がまっとうな人間だったら、せめて夢の私くらい強い人間だったのなら、閻魔を振り払って紫の元へ駆け寄ったのだろう。この子は何も悪くないのだと、閻魔の前に立ち塞がり言い返すこともできただろう。でも体は動かない。現の私は腰を抜かしたまま、ただ裁きを待つしかない存在だった。

「さて、西行寺幽々子。もうわかっていますね。」

 すっと、悔悟の棒が下ろされる。私の額に突き立てるように。

「そう、貴方は少し目を背けすぎた。他者の想いから、何より自身から。全てから目を塞ぎ、唾を吐き続け、そして貴方は何を得ましたか? 皆を不幸に引きずり込んでまで己を呪い続けた結果が、今の貴方なのです。貴方は悲劇の中で生きたのではない。悲劇の中でしか生きえなかったのです。かくも罪深き者に、もはや救いなどない。たとえ無間地獄に堕ちたとしてもまだ足りない。」

 断罪の言葉に、重い物を引き摺る音が混じる。次第に大きくなる音に併せて迫ってくるのは、肩を組んだ二つの人影だった。

「小町、遅いですよ。もう始めています。」
「そんなぁ……これでもあたいなりに頑張ったんですよ四季様。こいつもうほんとしつこくて。9割死んでなかったらどんだけ強いんだか。」
「愚痴を聞いている時間はありません。その式神を早く八雲紫へ返しなさい。」

 「へいへい」と軽口を叩きながら、全身傷だらけの小町がさらに大怪我した狐を紫の横へ投げる。閻魔はちらとだけ小町に視線を向けて、今までより少しだけ柔らかな口調で問うた。

「せっかくですから監視役の見解を直接本人に聞かせるというのもよい機会かもしれません。小町、西行寺幽々子と付き合ってみてどう思いましたか?」

 思ってもみない提案だったのか、意外そうな表情をした小町は、こめかみの辺りを掻きながら一つ苦笑いを浮かべる。そしてわざとらしい咳払いを挟んで、あの芝居がかった、真摯な口回しで言った。

「そうですねぇ、まあ性格は最悪。これぐらい性根のひん曲がった奴はいないでしょうね。ただ、物を見る眼はちゃんとしてます。最後の方は結構な荒療治になってしまいましたが、まあなんとかギリギリの処で悟ってくれたみたいですし、あたいはあの役を任せても問題ないと思いますよ。」
「そうですか」

 ほんのかすか、しかし初めて口元を緩ませた閻魔は、悔悟の棒を再び胸の前に置いた。

「そう。西行寺幽々子、貴方はなにもかも気付いていた。他者の想いにも、自身の罪業にもね。貴方は結果的にこの世の理をしっかり見定めていた。ただそれに正面から向き合えず、自己嫌悪で歪ませることによってでしか吐き出せなかった。この彼岸での行いは全て見ていました。その歪みさえなければ、貴方は自身と向き合えたやもしれぬ。そしてその歪みをもたらした業を鑑みれば、更生の余地はなくもない。」

 そして立つように促された。妙な雲行きに、紫から迸っていた殺気も僅かばかり緩む。

「現在地獄は構造改革の只中にあります。増え続ける死者に対応するため、人員の増員と受け入れ先の拡充が必須となっている。しかしその一つたる冥界は、長らく管理者を欠いている状況でしてね。適任者を探していたのです。貴方は霊を統率する力を持っているし、人格としてもぎりぎり許容範囲でしょう。もちろん追試は必要ですが。
 あの西行妖は依然として危険な存在であるということで、封印後冥界へ移送するという案が出ています。それと同時に貴方の亡骸も冥界へと移送されることになる。」

 閻魔は目を閉じ、そっとはにかむ。それは自分に向けられた苦笑だったのかもしれない。

「もうわかりますね? 西行寺幽々子、貴方は亡霊となり、冥界の管理役をしてもらうことになります。己が罪を悟り、この世への未練を自覚した上で残らず抱え続ける覚悟があるならば、貴方にはその資格がある。もっとも、これは恩赦ではない。貴方は成仏することもなく、転生の可能性さえも断たれる。永遠に亡霊として冥界を彷徨うしかない。
 亡霊になるにあたって生前体験した出来事、そしてこの彼岸で見知りした出来事の全てを貴方の記憶から抹消します。そうしてやり直してみせなさい。そして永遠に気付き得ない罪業を背負い続け、償い続けなさい。晴らすことの叶わぬ未練と永遠に向き合い続けること、それが貴方にできる、精一杯の善行です。」

 瞑っていた目を開き、私に視線を落とす。そこに先ほどまでの威圧感はない。ただただ包容があるだけ。まったくなんなんだ。どうなってるんだ。こいつら揃いも揃って、なんで私なんかをそんな眼で見るんだ?
 気付けば紫も身を起こしていた。下された判決に戸惑いを隠せないまま、青白い顔を閻魔へ向けて。その表情に気付いたのか、閻魔は紫の方へ視線を向ける。

「そうですね。もののついでに貴方にも一つ忠告をしておきましょう。八雲紫、貴方はあまりにも罪深い。今のうちから悔い改めねば確実に地獄往きですからね。」

 一つ息を入れる。紫の注意をしかと引き寄せてから、ゆっくり語を継いだ。

「八雲紫。貴方が取りうる選択肢は二つしかない。一つは妖として生き、あくまで妖という境界の中で身の丈にあった生を全うすること。人を襲い、妖が持ちうる力の限界をしっかりと弁え、己の為だけにそれを使いなさい。それがもっとも自然で、本来あるべき姿です。
 ただ、もしそれを拒むというのなら、貴方はすべてを超え出るしかない。先ほど貴方は愚かにも神になると言いましたね。その通り、貴方がどこまでも強さを追い求め、曖昧であり続けようとするのなら、妖ではなく、人でもなく、そして神ですらない"何者か"になるしかない。
 ありとあらゆる常識をかなぐり捨て、妖怪ごときでは到底知りえるはずもない世界の最果ての最果てにまで辿りつけたのなら、そのとき貴方は貴方自身が望む理想を自らの手で創造することができるでしょう。実現するはずもない、幻のような世界をね。」

 息を呑んだまま、紫はずっと刺し殺すような目つきで閻魔の言葉に耳を傾けていた。けれどそれは半分辺りまで。話が終わりに差し掛かった頃には、紫の口元にあったのは笑みだった。説教に呆れたような、敵を嘲り自らを鼓舞するような、そして心底楽しそうな笑み。全くもっていかれてる。どいつもこいつも、馬鹿ばっかりだ……

「――やってやるわよ」破顔を割った不遜な声は、紛れもなく初めて会った時の八雲紫そのものだった。「なんだってやってやるわよ。神だろうとなんだろうとなってみせる。必要だってんならこの世界全てを跪かせてみせる。月だって攻め墜としてみせる。創ってやろうじゃないの。人だろうと妖だろうと神だろうと……そして死人だろうと霊だろうと一緒にいられる、そんな世界をね。」
「言いましたね八雲紫?」閻魔もまたこれ以上ないくらい愉悦を含ませた表情で、紫に相対する。「今の宣誓、しかと聞き遂げました。自らを神と騙る愚かな妖怪よ。せいぜいのたうち回るがいい。あるはずもない、幻想でしかない世界を追い続け、永遠に足掻き苦しむがいい。無限に肥大化していく自己を己が誓いに縛り付けること、それが貴方にできるたった一つの、そして最もふさわしい善行です。」

 不敵な笑みが交錯しあう。小町も、寝っ転がったままの狐すら笑ってやがる。なんなんだこれは。もう呆れて言葉も出やしない。こいつらいったい何がしたいんだよ? さっきから紫はなにすっ呆けたこと言ってるんだ? 自分を全部投げ出して、なんでこいつがそんなことしなきゃならないんだ? なんで、なんで……?

「さ、そろそろ戻るとしましょう。小町、その娘をお願いしますね。」

 閻魔は笑みを浮かべたまま踵を返す。小町は労うみたいな、どこかさばさばした表情で、私の肩をぽんと叩く。そして目配せする。「いいのかい?」と眼で告げながら。
 私と小町の視線の先で、紫は気恥ずかしそうに佇んでいた。さっき閻魔に啖呵を切った奴と同一人物とは思えないほどいじましく、こっちに声を掛けていいのかと躊躇いで一杯の顔を向けて。本当にどうしようもない馬鹿だ。今さら気を遣う義理なんて、いったいどこにあるんだよ……

「ゆゆ、こ……あの、あのね……」

 やっと出たのがこれだけ。もう涙も出ない。こんな奴が世界を創るってのか? これから死ぬより苦しい思いして、血へどにまみれてもがきながら、それで冥界に遊びに来られれば満足だってのか? 救いようのない大馬鹿野郎だ。もう……勘弁してくれ。

「私、絶対に――」
「もう忘れなさい。」

 だから断ち切る。紫の言葉も、自分の言葉も残らず全て。
 あの嫌みったらしい私をもう一度だけつくる。私には、それしかできないから。

「何もかも忘れて、自分の好きなように生きなさい。もう、いいからさ……さよなら」

 俯いたまま踵を返す。しっかりと忘れられるように。記憶になんて残さないように。

「――忘れないから」

 前へ進む。あいつの声が届かないふりをして。

「絶対に忘れない。幽々子のこと、絶対に忘れないから、だから、また会いましょう。」

 返事は口から出てこなかった。だって、今の私にできるのは祈ることだけだったから――願わくば、次にあんたが会う"私"がもう少し素直な奴であって欲しいと、ただそれだけを。




 *




「――蓮子起きろ!」

 たちまち意識が戻る。目の前には魔理沙の顔。……そうだった。妖夢から一発もらって、意識が飛んでたのか。なのにとても長い夢を見た。まさしく「心的次元の相対性」そのままに。
 さっき擦りむいたのか、肩の裏が焼けるみたいに熱い。というか全部痛い。でもそんなことどうだっていい。私には、やらなきゃいけないことがある。
 魔理沙は私以上にズタボロだった。でも幽々子を庇った"あいつ"よりかはマシか。違うのは表情。不敵に、どこまでも楽しそうに――そうだ。これが今の幻想郷なんだ。
 帽子を被り直した私達の向こうから、小さな人影が迫る。

「よう、誰かと思えば妖夢じゃないか! 木陰で寝てたんじゃなかったのか? あんまり無理しすぎると残り半分が過労死するぜ。」
「あの世からでも飛んできますよ、幽々子様に手をかけたりなんかしたらね。主人の為に命を賭せない従者なんかいるわけないでしょう!」

 剥き身の長尺を片手に猛る妖夢にも、挑発を繰り返す魔理沙にも敵意や憎悪はない。まるでもう一戦できることを感謝しているかのよう。本当に馬鹿ばっかりだ。でもこれがこの世界の流儀。この世界を創った奴の趣味。だったら私も付き合ってやらなきゃいけない。

「――魔理沙、相談があるんだけど。」
「なんだ、こんな時に。」

 横槍を入れられて不満顔の魔理沙を引っ張って、耳打ちする。すっかり頭に血が昇っていたこいつも、さすがに仰天したらしい。

「――お前、正気か?」
「さっきの貸し、その内返すって言ったの誰よ? ……お願い、あいつが持ってたのはメリーの帽子。もう日は完全に暮れた。時間がないの。」

 思い切り上から言ってやろうと思ってたのに、やっぱり切々とした言い方になった。妙な剣幕に困惑を露にする魔理沙、ようやく返してきたのは呆れ半分の苦笑だった。

「さっきも言ったが、まだ完璧じゃないぜ?」
「大丈夫。任しときなさい」
「もし妖夢に邪魔されたら?」
「魔理沙なら何とかするわ」
「……あいつは、妖夢よかずっと強いぜ。」
「だとしても、あいつは私が倒してやんなきゃいけないのよ」

 メッチャクチャな説明だったろう。言ってる自分でも意味がわからない。でも問題ない。

「……へっ。最初見たときから訳わかんねえ奴だと思ってたが、ここまで莫迦だとは思わなかったぜ。」

 だって相手は魔理沙だ。これで十分通じる。

「でも莫迦は嫌いじゃない。骨は拾ってやるよ。」

 そして星屑の入った瓶と、スペルカードが飛んできた。代わりにあの懐中時計を魔理沙へ投げる。

「ありがと。お礼に骨は拾ってあげるわ。」
「いらねえよタコ」
「作戦会議は終わりですか?」

 苛立ち混じりに飛んできた声。見れば妖夢は完全に戦闘態勢に入っている。

「待たせたな妖夢。セコイ騙まし討ちだがおまけだ、こっちの負けってことにしといてやるよ。一勝一敗、ラバーマッチといこうぜ!」
「二対一なんて聞いてなかったですけどねこっちは! さっきのはそっちの人間の分、次は魔理沙、貴方の分!」
「そう言って再戦要求した奴が勝った試しはないがな!」


     人符「現世斬」

     魔砲「ファイナルスパーク」


 光と光がぶつかる。もう魔理沙も妖夢も、私からは見えない。聞こえるのは哄笑と挑発だけだ。それでいい。それなら私も後腐れなく行ける。
 今私が見るべきはあのお屋敷、そこにいる西行寺幽々子だけだ。時間はない。二人が放つ爆風に後押しされるようにして、私は走った。



 痛い、痛い。
 もうどこか痛いのかなんてわからない。疲労と上がりっぱなしのテンションで卒倒しそうだ。
 息を切らしながら、白砂の水面を踏み散らして屋敷の中庭へと突入する。全速力で走ってるっていうのに、目に入るもの全てがもうとんでもなく美しい。こんな土壇場で息も絶え絶えだってのに、そこらに転がってる岩の稜線にさえ心奪われてしまう。
 行灯に照らされた屋敷はぼんやりと闇の中に浮かび上がり、くっきりとした光を地に注ぐ星月と鮮やかな対比を為す。二つの光源に育まれた白砂の輝きを受けて、夜の桜がかがり火のように夜空を淡く彩り、たゆたうのだ。どれもこれもが完璧で、それを上手く表現できないこっちの方が惨めったらしくなってくる。確かにあいつらしい、憎たらしくなるくらいのいい趣味してる。
 ようやく中庭の一番奥が見えてきた。なにもかも予想通り。目的の人物はどこか遠くを見るような目をして、縁台に腰掛けながら客の到着を待っている。魔理沙と別れてから3分13秒進んだ星空の下で。

「あら、貴方一人だけ?」

 暢気な声が飛んでくる。でもどこか人を小馬鹿にするような、そんな含みのある声だった。まだ呼吸が落ち着かない。膝に手を置いたままの私に、幽々子は声を投げ落とす。

「そういえば確か人探しに来たのよね、貴方達?」
「……メリーを、返しなさい……」

 ようやく声が出た。薄笑いが返ってくる。ちきしょう、やっぱあんまり変わってないじゃないかこいつ。

「ああ、やっぱり貴方のお友達だったのねーあの子。名前を訊いても何にも答えてくれないから。」

 そして後ろの襖をちらと一瞥する。私も真っ直ぐ体を起こし、促された先を睨み上げる。幽々子はこちらへ視線を戻すと、余裕たっぷりにさえずった。

「そういえば挨拶を忘れてたわね。これは失礼を致しました。わたくし、西行寺幽々子と申します。ここ白玉楼で、冥界の管理役を任されている者です。本日ははるばる遠いところからようこそいらっしゃいました。死者が閻魔様の裁判を受けた後、転生を待つところ、生きたまま来るにはちょっと気の早い場所ではありますが、どうぞごゆるりと、なんてね。
 ああそうそう、貴方のお友達だったら、その襖から奥へ入って、さらに左へ曲がった所にある部屋にいるわ。ささ。どうぞお上がりなさいな。遠慮しないで、早くお友達を迎えに行ってあげて? とっても思いつめた顔をしていたからね。昨晩そちらへ運ばせてから、部屋から一歩も出てこないものだから、今頃どうしているのやらねえ。
 案外ぐっすり寝ているのかもしれないし、もしかしたら体中に蛆がたかり膿にまみれた、変わり果てた姿になっちゃってるかもしれないわね。なんせここ冥界だもの。どうする? 中を覗いてみる? それとも――」
「御託はいいわ。」

 さすがだ。表情から笑みが消えない。ちっとも変わってないな。絶対に本音を見せようとしないんだから。

「黒猫の喩えはもうウンザリ。答えは一つ――『開けてみりゃわかる』よ。」
「ずいぶんと強気なのねえ。お友達が人質に取られちゃってるのかもしれないのに。」
「そんなのあったり前じゃない」だから私もとびきりの笑顔をつくってやる。「あんたのこと信じてるからね。」

 そうだ。簡単なことだったんだ。メリーの論文、紫が漏らした言葉、魔理沙の家の前に私が落ちてたこと、スペルカード、狐、そしてこっちに来てからずっと見てる夢――全部そうじゃないか。この臆病者を舞台の上へ立たせる為の、最高に回りくどい暗示。そう、最初っからメリーの言ってた通りだったんだ。

「残念だけどね、あんたがどんな奴かってのは、こちとらよく知ってるのよ。あんたが、あんたらがメリーをひどい目に合わすわけないって。どんだけ口では悪人ぶったって、絶対にそんなことできる連中じゃないってこと、よぉくわかってんのよ。だから、とっとと返しなさい!」

 そんなことを言われるなんて夢にも思ってなかったんだろう。柄でもなくきょとんとした顔をしていた幽々子、けどやっぱりただじゃ転ばない。すぐさま含み笑いが戻ってくる。わかっててもムカつくなこいつ。

「あらあら、ずいぶんと買いかぶられたものねぇ私も。けどこれでも結構腐りかけよ。亡霊だしね。」
「そりゃそうでしょうさ。前から腐ってんだから。」
「でも腐りはしないわ。亡霊だしね。」
「どっちかわかんないんならね、一発ぶん殴ってやった方がいいのよ。乾いた音がしないと中が傷んでるっていうでしょ。だから――」

 ポケットからカードを出して、

「一枚」

 それを真っ直ぐ突きつける。

「勝負よ。私が勝ったらメリーは返してもらう。」

 今度は驚いたりしなかった。ああ、本当に腹立つな。猫被る前はどんなふうに暮らしてたのか。"あいつ"にどんな顔を向けてたっていうのか。でもわからなくもない。くすりと笑った意地悪そうな顔からは、けれどうっとりするくらいの艶美が溢れ出てるんだもの。

「……ふぅん。いいでしょう、私も一枚」

 幽々子も襟元からカードを取り出す。交渉時間は2分09秒、ここまでは予定通りだ。さて……ここからどう始めたらいいんだろう? いきなり攻撃していいのかな?
 ちらと横目で空を見る。妖夢と魔理沙は一進一退。


     畜趣剣「無為無策の冥罰」

     恋符「ノンディクショナルレーザー」


 今度はさっきみたいなインファイトじゃない。むしろ妖夢が距離をとろうとしてる。おそらく待ってるんだろう。
 素人目にも、さっきの妖夢は相当ダメージが蓄積してたように見えた。あれじゃあもう一戦目みたいな大技の連発はできない。ならば策は一つ。魔理沙に勝負手を切らせて、そこに一撃必殺のカウンターをあわせる腹づもりだ。あまりにもみえみえの、馬鹿正直な手。たぶんそういう奴なんだろう、あの妖夢って子は。
 魔理沙だってそんなことはとうに気付いているはず。だからこそ付き合ってくれている。あいつもあえて攻め込まず、地表すれすれを飛びながら回避と迎撃に徹していた。それは静かな立ち上がり。こっちが一番待ち望んでた形。

「――ほぉら」

 そんな夜空に、蝶が舞う。

「よそ見してると、死んじゃうかもよ?」

 そしてくるくると回りながら、伸びてくる。
 とっさにかがむ。避けられない速さじゃない。でも軌道がさっぱりわからない。予想通りというか、避け損ねが背中をかする。どすんと内臓を揺すられて、一瞬呼吸ができなくなった。
 ほぼ無意識に、手一杯に握った金平糖をぶん撒いた。めくら鉄砲だが、幽々子の方には飛んだはず。なのにあいつは軽々避ける。爆風に舞い上げられてるようにしか見えないひらひらとした体さばきなのに、完璧に見切られてる。なんだいなんだい、ずいぶん強くなったじゃないか。あの時は腰抜かして震えてるだけだったってのに。
 もう一度、今度はしっかり狙いをつけて投げたが徒労だった。やっぱり作戦通りいくしかない。もう一度金平糖をばら撒いて、私は縁側から逃げ出した。


     人神剣「俗諦常住」


 すぐ横で地面が揺れる。見れば妖夢が赤弾を地面めがけ撃ち下ろしていた。地表付近からは無数の光弾が雨を裏返したみたいに沸き立つ。戦闘開始から27秒進んだ北斗七星を挟んで、それはまさしく幻想的な光景だ。魔理沙は回避に徹する。まだだ、まだ早い。
 金平糖を後ろに投げつけながら、ひたすら走る。寝ても醒めても駆けずり回ってばっかだ。やっぱり後ろは振り向かない。怖気づいて顔を伏せてるからでも、後ろの幽々子が消えてしまいそうだからでもない。少しでも速く走りたいからだ。怖がってる余裕なんかあるか。
 蝶が伸びてくる。桜の花弁みたいな弾がはらはら落ちてくる。
 避け方なんかわからない。ジグザグに桜並木を突っ走りながら、星弾で相殺する。予想通り、幽々子の足は速くない。ふわふわと飛んでくるだけだ。


     四生剣「衆生無性の響き」


 魔理沙は上へと追い立てられる。横薙ぎの一閃ごとに無数の弾が噴き上がる。暴力的な光の滝は、なのにとても綺麗で。魔理沙が浮上した場所は私の行き先と同じだ。あいつならやってくれたはず。
 大きく左へ旋回する。桜並木はあと少し。抜ければ開けた場所に出る。どうにか間に合った。ここからが勝負――
 そう思って蹴り上げた地面が、まばゆく光る。

「――へ?」

 下から吹き上がった人魂が、踏み出そうとした足先で破裂した。着地点を失って、私は爆風のされるがまま。肩から落ちて2、3周転がる。さっき妖夢の奴に吹っ飛ばされたのと同じ、今度は魔理沙がいないだけだ。

「惜しかったわねー 星じゃなくて、果物を投げればよかったのに。」

 後ろからの声が迫る。もう痛い痒いと愚痴る気にもならない。上だか下だかわからない体を持ち上げる。くそっ、ここで夢見に戻るわけにはいかないんだ。


     冥符「黄泉平坂行路」


 そう思った時には遅かった。立ち上がると既に光の中。温かいもんじゃない。なんせ私を包んでるのは、10体の人魂なんだから。

「でももう鬼ごっこはおしまい。そろそろ限界なんでしょう? 神様じゃあるまいし、ただの人間が冥府の刺客に追われてここまで逃げおおせたのなら、十分でないかしら。」

 と腐しながらも、幽々子の視線は私からずれているふうに感じた。おそらく焦点はその後ろ、朽ちた桜の巨木。この地に生えてる桜の中でも群を抜いて大きな奴だ。もの侘しげに朽木を見上げる幽々子は、確かにみんなが評していた通りの美しさだった。こんな状況でなきゃ、きっと見とれてしまっただろう。空を見上げる。ここまで来るのに2分56秒かかった。もう1分15秒しかない。

「冗談、勝負はこれからじゃない。」
「残念。虚勢は好きじゃないの。」

 自分の十八番だったくせによく言うよ。

「まあでも、終わりの場所としては悪くない選択かしら。この桜の下なんて。」
「あんたが成仏するにはもってこいね。」
「惜しいわ。今は如月じゃないし、それにこの桜は花をつけないのよ。」

 人魂が少しずつ迫ってくる。撒き散らす冷気は、全力疾走して火照った体にはちょうどいい。そう思っとけ。ビビるな。
 幽々子は扇子を突き出しぱっと開く。小憎らしいほど飄々として、どこまでも優雅に夜天を背負う。残り時間は1分5秒。

「もう諦めたら」あげつらうような口調で幽々子は説きかける。「そもそもこの弾幕ごっこに意味なんてないでしょうに。別に勝負なんかしなくたってあの子には会わせてあげるわ。私たちがこうして戦う理由なんて、何もないでしょ?」

 まだ足りない。さっきすっ転がされたせいで予定が狂った。まだ、3歩ずれてる。残り1分ジャスト。
 くそっ、寒くなってきた。どんどん体温が奪われる。体がかじかむ。膝がガクガクと笑う。負けて、たまるか。

「さっき言ったでしょ」震える唇を動かす。「一発殴ってやらないと気がすまないって。我慢ならないのよ。」
「あら、初対面の子に殴られるほど、悪いことした記憶がないのだけれど。」
「あんたが忘れたとは言わせない。西行寺幽々子。」

 寒い。ふらふらする。気を抜いたら意識が飛ぶ。当たり前だ。怖くないわけがない。あの魔理沙だって、怖いと思ってないわけがない。

「あの時、なんで振り返って声を掛けてあげなかったのよ。言いたかったこと、あんたも山ほどあったでしょう? だったら最期くらいちゃんと本音で答えてやりなさいよ!」

 あと40秒。魔理沙は、まだか?


     彗星「ブレイジングスター」

     人鬼「未来永劫斬」


 轟音、夜空に立ち昇る光の柱。切り札同士がぶつかった。下から昇る彗星と、上から落とされる斬撃。光は拮抗する。まだだ。あと30秒。

「なんのことやら、わかりやしないわ」
「わからなくてもわからなくちゃならない。ここにメリーが飛ばされて、私がメリーを追って来て、なんでだと思う? 全部あんたの為よ。」

 落ち着き払った幽々子の面立ちに、ほんの僅か感情が走った気がした。光はまだ押し合いを続けたまま。

「あんたを想ってる奴が、ずっともどかしい想いをして面と向かって言えないでいる奴が、こんなしちめんどくさい事してまであんたに伝えたいことがあんのよ。それをね、『わからない』なんて言葉で終わらせるわけにはいかないの!」

 幽々子は動じない。向こうの圧倒的有利は揺るがない。だけど確信する……あとちょっとだと。奮い立て。言わなくちゃならないんだ。夢の私にじゃない。本当にこう言ってやりたいのは、現の私だ。

「忘れさせなんかしない。あの子に答えてやらないまま、あの子を置き去りにしたまま、あんただけ楽しそうに笑ってるだなんて、そんなの絶っ対に許さない。そうやっていい顔すんの、いい加減やめろっつってんのよ!!」

 無言のままたおやかな笑みを浮かべ、しかし幽々子はじりと体を後ろへ逃がす。圧されでもしたように。でもまだ1歩。あと左に2歩。
 幽霊の群れの中、ぎりぎりまで体を左に寄せる。食いついてこい。あと2歩なんだ。 残りは15秒。もう時間が、ない。

 大地を揺らしていた音が割れる。天まで伸びていた光の柱が崩れて、押し勝ったのは、上からの光。
 そして、魔理沙が墜ちる。

「……ふふ、もうお説教は済んだかしら? じゃあ終わりにしましょうか!」

 10秒。幽々子の扇子が閉じる。人魂が収束する。――ダメだ前向け、信じろ、腹括れ!

「うおおぉぉぉっ!!」

 根性見せろ宇佐見蓮子!!

「やめなさいっ!」

 二つかすった。でも突っ切る。爆風が背中を押す。幽々子は左へ身を傾けて――あと1歩半、あと7秒。

「当たれぇっ!」
「無茶なこと!」

 渾身の一投。飛んできた"弾"を、幽々子はとっさに扇子で払う。くびれたところから粉々に砕けたガラス瓶が、きらきらと夜空を舞った。

「これって、コーラの……?」
「こんのぉっ!!」

 動転から醒める時間と、懐に飛び込む時間では、後者の方がわずかに勝った。刈り上げた腰は、信じられないくらい華奢で軽かった。

「くっ――」

 2秒。抱え上げたまま半歩先へ。1秒。体を預けてもう一歩。魔理沙と別れてから9分59秒――まとめて倒れこんだのは懐中時計で指示した通りの座標。

「いけぇ魔理沙ぁっ!!」

――ったく莫迦ばっかだな幻想郷(ここ)は!! たまんないぜ!!


     光撃「シュート・ザ・ムーン」


 色に、溶けていく。

 月めがけ伸び上がらんとする光の中で私が最後に見たものは、どこか満ち足りた笑みを浮かべる幽々子だった。







『月を撃つというのは、実はこのゲームの最大の皮肉でもある。勿論、魔理沙は意識していない』
                 ――東方永夜抄:No.097「シュート・ザ・ムーン」







 そこで私は目を醒ます。

 ずいぶんと、長い夢を見ていた気がする。二人、三人……いやもっとかもしれない。いろんな人の夢を渡り歩く夢。幸せで、ちょっぴり切なくて、辛いこともあったかもしれないけど、でもとっても優しい夢だったと思う。
 予知夢のようでも、誰かの追憶のようでも、はたまたどこぞの昔話のようでもあった。なのに具体的な内容と来るととんと覚えていない。いつもいつもそうなのだ。似たような夢を繰り返し何度も見ているのに、どうしても内容は思い出せない。それだけが、残念だった。

 横たえていた身を起こす。いつもと同じ。春の冥界、白玉楼の中庭にある縁側だ。音一つない世界。あるのは一面の桜と、枯山水のせせらぎだけ。
 長い夢を見ていたはずなのに、空にある太陽は寝る前からそれほど動いていなかった。よもや丸一日寝てたんじゃあるまいなと一瞬すっとんきょうな考えに囚われたが、お腹の空き具合から察するにそれはない。

「あーあ。『夢と知りせば 醒めざらましを』ってやつねー」

 思わずひとりごちる。すっかり気が滅入ってしまった。楽しい夢を見て、現の退屈を紛らすことができたと思ったのに、目覚めてみれば潰せた暇はほんの数刻。あの時間の何倍もの時をこの屋敷で無為に過ごしていかねばならないと思うと、春眠の心地よさもすっかり吹っ飛んでいってしまう。
 ごろんと体を倒す。見上げた空はやっぱり青かった。いつもと変わらず。

 あの四季映姫って閻魔様にここに住むよう言われて、もうどれくらい経ったっけ。なんかあの閻魔、あんまり閻魔っぽくなくてそんなに偉そうに見えなかったけど、まあ偉い奴なんだろう……たぶん。そんな閻魔が死にたての私の前に突然現れて、冥界の管理をやれと言ってきた。右も左もわからないまんまこの屋敷にほっぽられて、今じゃいっぱしのお嬢様として雅な暮らしを送る毎日だ。よくよく考えると、みょうちくりんな話だよなあ。なんで私?
 というのも、私には昔の記憶ってものがないのである。別の言い方をすれば、あのちんちくりん閻魔と出会ったところから、私の記憶は始まってるわけだ。そうなるともうどうしようもない。こうしなさいと言われても、嫌ですなんて言えない。だって反論するだけの根拠がこっちにはないんだから。
 正直この冥界ってのは悪くない所だと思う。死人が暮らす場所とは思えないくらい、敷地には色とりどりの四季が息づいている。奥の方はまだちゃんと散策してないけれど、ここから見ているだけでも十分心惹かれるものがある。
 白玉楼だって文句のつけようもないお屋敷だ。書物だって読みきれないくらいあるし、それはそれは豪華な宝物もたんまり蔵に眠っていると聞く。極めつけはなんといっても食事、ちょっと召使に言えばそうはお目にかかれないような豪勢な献立が毎日三食並んじゃうのだ。こんな素敵なところに果たして自分が居ていいものなのかと、何度も首を捻ったもんである。

 そんな身に余る生活にありつけたっていうのに、けれども私はとっても退屈なのだ。贅沢とはかくも恐ろしい、うん。

「……なんか食べよっかな」

 縁台から身を起こす。持ち上がった視線の向こうに、一本の桜が立っている。冥界にわんさと生えている桜の中でもとびきり勇壮で、そしてとびきり味気ない木だ。春もたけなわだってのに、花一つ結ぼうとしない。なんでも西行妖という、妖怪桜だったらしい。
 ここにある桜、いや全ての木々や草花は霊なんだそうだ。だからこそいっそう綺麗に咲き誇ることができる。それは魂の輝きを映し出したものなんだから。けど西行妖は咲かない。さながら魂が抜け落ちたみたいに。実際抜け落ちてしまったんだろう。
 廊下を飛んできた幽霊に、茶を持ってくるよう言付ける。この広大な屋敷にいるのは私と、おつきの幽霊たちだけ。人魂はふよふよと頼りなさげに飛びながら、主の使命を果たしに行った。そして縁側には、また私一人きり。
 そりゃ退屈だよなあと、扇子を手中でいじくりながら溜息を吐く。ここには実質私しかいない。幽霊の言ってることは理解できるが、向こうからはろくに話しかけてこない。お嬢様相手に畏れ多いとでも言いたげに。まあ、あいつら元々あんま喋んないけど。
 今度閻魔に会ったら一つ話し相手でも調達してもらえないか頼んでみよう。庭師でも、芸事の稽古役でも、もう用心棒でもなんでもいい。だってこれじゃ牢獄と変わんないじゃないか。確かに幽雅な生活だけど、なんにもないのと変わりやしない。なんか悪いことして幽閉されてるってんならまだしも。
 ぼんやりとした視界に飛び込んでくるのは、やはりあの咲かない桜。……そうだよな。つまらないのは冥界でも、白玉楼の生活でも、まして閻魔や幽霊のせいでもない。私の中に何にもないからだ。だからなんとなく惹かれてしまうんだろうな。もう咲くことのないあの西行妖に。
 また気が滅入ってしまいそうになる。いかんいかん、やっぱなんか食べて気を紛らすことにしよう。それが一番だ、とまあそんなことを思い立ったその時、妙な香りが鼻を撫でた。風に乗って運ばれてきたのは、冥界では感じることのないはずの空気。生者の気配。そして、去来する初めての感覚。

「迷子、なわけないよね?」

 気付くと私は履物に足を通していた。どこへ行けばいいのか、自分でもわからぬままに。でもその必要はなかった。波風の大元は、すぐそこまで来ていたのだから。
 いつ入ってきたのやら、目の前には少女が立っていた。おずおずと、そいつは一歩こちらへ踏み出す。そうしていいか自身に問いただすような、重い重い足取りで。
 変な奴だなあと瞬間感じた。見た目は私と同じくらい、背は拳一つくらい高いか。最初に目を惹いたのは髪。腰まで伸びたそれは金色に輝いている。西国にはこういう色の髪をした人がいるという知識だけはあったが、見るのは初めてだ。書物でしか知らない髪の色、私の知らない髪の色――興味を掻き立てる切欠としては十分だった。
 引き寄せられた注意そのままに改めて少女を上から下まで眺めてみると、やはり歪な印象は否めない。金糸に結わえた赤のリボン、紫の装束――とても色とりどりで愛くるしい姿をしてるのに、そこに浮かぶ表情はひどく青白い。中でも特に血の気の失せた唇はぴくぴくと痙攣し、なにやら言葉を引き出そうとしているふうだ。いくら待ってもその言葉が出てきそうにないことも、同時によく伝わってきたけれど。
 なんか機嫌を損ねることでもしたかなと、済まなそうなそぶりをつくりながら、そいつの顔を覗きこむ。あっという間に下を向かれた。……どうしたらいいんだろう?

「えーと、どなたかしら?」

 とりあえず話しかけてみるべきだよな。さっきあんなに話し相手が欲しいと思ってたのに、いざその状況に陥るとなんと声を掛けたらわからない自分がいる。金髪の少女はびくっと大きく肩を震わせる。俯いたまま、食いしばった歯の隙間から漏れ出る息は切れ切れとしていて荒い。なんだか傷つけてしまった気がして、申し訳ない気持ちになった。
 訳のわからない対峙はどれだけ続いたのか。ひどく長く感じたが、たぶんそんな長くはなかったんだろう。金髪の少女はいよいよ何か言わなければと口をこじ開けようとするが、しかしまた唇をへし曲げてしまう。これは待つべきではないなと直感的に悟った。私から話題を振らなきゃいけないんだろう、こういう時は。やっぱ一つうまいことでも言って場を和ませるべきか。

「んと……貴方まだ死んでないわよね? あーもしかして、自殺をご所望かなー……なぁんて」

 言った瞬間後悔する。なんで場を和ませるための話題で自殺なんだ。本当にそうだったらマズイだろうバカ! 
 ほらあんな思いつめた顔して、今にも死んじゃいそうな感じだし、よく見たら泣いてるし――あれ?

「あ、違うのっ。嘘、ただの冗談だから! ごめっ、今のなし!」

 ああ泣いちゃったじゃないか。なにやってんだ私。体が先にその子の方へ向かって行った。どうにかなだめすかせようと、肩に手を添える。

「ほら、ええと……私が悪かったから! ね? いきなり失礼なこと言って……ごめん」
「違うの……」

 初めて耳の届いた声だった。なのに、それは私の心にまた不思議な感覚を呼び起こす。胸の奥にじんわりと広がる、未だ知りえぬ感情。

「……だって、同じだったから……ごめんなさい。また、そう言ってもらえるなんて……」

 涙を拭きながら、くしゃくしゃの笑顔が上がる。それは見ているこっちがびっくりするくらい弱々しくて、なのにそれに似つかわぬ深い深い苦悶の痕が刻まれていて。触れただけで壊れてしまいそうな、悲壮感に満ちた表情。こんなに幼い見た目なのに、いったいこの子はどれだけの辛酸を舐めてきたんだろう。

「あ、ああ! そうなんだ」しばしその顔に見とれていたことに気付いて、私は慌てて声を上げた「ええと、じゃあ……そうだ! お茶でも飲んでいかない? 今持ってこさせるから。飲んだら少し落ち着くわよ、うん」

 少女は顔を真っ赤にしてこくりと頷く。あー見てるこっちが恥ずかしい。茶はまだか!

「そうそう」間を持たせようと、とにかく口を動かすことにした。「挨拶が遅れちゃったわね。私は西行寺幽々子。この白玉楼で、冥界の管理をやってて、えと……」

 けれどそこで言葉に詰まってしまう。それ以上紹介できることが、なかったのだ。
 時間稼ぎすらできない身の上に否応なく気付かされて、先ほどまでの浮かれた気分も吹っ飛んでしまった。きっとくすんだ表情を向けてしまったんだろう。金髪の少女は、そんな私を見て覚悟を決めたみたいに唾を飲むと、自分から口を切った。

「ん……はじめまして、私、八雲紫といいます。」

 そして恭しく頭を下げてくる。

「あんまりに桜が綺麗だったから、ついふらふらっとね。勝手にお邪魔して、ごめんなさい。」
「う、うん……それはいいんだけど、貴方まだ生きてるのよね。大丈夫なの? こんなところにまで入って来て。」

 とっさに会話を繋いだ私に、紫と名乗ったその子ははにかむ。先ほど感じた辛苦をまた顔に滲ませて。

「気にしないで。これでも私、妖怪なの。ここに来るくらい……なんでもないことなのよ。ええ」
「そ、そうなんだ。ふーん……」

 にこりと微笑む紫に、生返事しかできない。向けられた表情は強く心を打つものがあったのに、なぜかまともに見るのは憚られた。会話がこんなに大変なものだったなんて、知らなかった。
 すっかり狼狽していた私に、助け舟が来る。念願のお茶が運ばれてきたのだ。ようやく落ち着いた空気に――おつきの幽霊は給仕の最中ずっと怪訝そうな雰囲気を纏わせていたが――私は久方ぶりに息を吐けた。
 しばし茶をすするために用いられた口は、なかなか会話へと戻ってくれなかった。私も紫も、縁台に並んで腰掛け押し黙ったまま。時間だけがつらつらと過ぎていく。時間というのは、これほどまでにゆっくり進むものだったろうか。何か話しかけねばと思いつつ、何を訊いたらいいかとんとわからない。誰かと話した経験なんて、私にはなかったから。
 紫も何か言いたげで、なのに言葉が出てこないふうで。もどかしさだけが募る。会話をしたい。けどしたくない。もし何か尋ねられても、こっちは答えを持ち合わせていないんだもの。

「あ、あの……」その恐怖感があてもないまま先に問わせる。「お茶、もう一杯どうかしら?」

 ……もっとなんかあるだろよ私。訊いてみたいこととかさぁ。
 それでも紫は精一杯の笑みでお代わりの勧めを受け入れてくれた。私も何とか微笑み返す。どう考えても気を遣われてるのはこっちだよなあこれじゃ。このまま黙ってるともう本当に愚痴が漏れそうだ。とりあえず口を動かすことにしよう。出たとこ勝負だ。

「お茶、お好き?」
「……ええ。よく飲むわ。」

 お、なんかいけそうだぞ?

「そうなんだ。妖怪さんもお茶を飲んだりするもんなのねー。っていうか顕界じゃ当たり前なのかそんなこと……」
「そんなこと、ないわ……大陸の方だと、ありふれたことだけど……」

 やばい、話が途切れそう。何とか膨らませないと。えーと……

「あ、そうなんだ……いや、ごく普通のことなのかなーって思ってたから。お茶の淹れ方はなんでか私も覚えてたし、それにんーと……」

 あれ? 返事がない。またなんかしょうもないこと言ったかな私。ってかそもそも身の上話は続けようがないからダメって、さっき気付いたばっかでしょ。このバカ!

「あーでもさ! それだったらどうして貴方はお茶飲んでたりするの? もしかしたら大陸生まれの妖怪さんとかだったり?」
「……ううん、ちが……」
「え? あ、そうなの……で、でも行ったこととかはあるのよね?」

 無言で頷く紫。ああどんどん口数が減っていってる。なんとかしなきゃ、なんとかして相手にも喋ってもらうには……

「いいなあ、私も行ってみたい。ほら、いや知ってるわけないけど私ここから出たことなくてね……そういう外の世界って書物ぐらいでしか知らないのよ。だから、ああそう! なにか面白い話とかないかしら? ええと例えば珍しい食べ物とか珍しい食べ物とか……外の世界のことで、なんかそういうのあれば、聞いてみたいかなー なんて」

 ってな感じで、手をポンと合わせながら拝み倒してみる。悪くない流れだったはず、たぶん。

 でも、やっぱり現実は私の考えたとおりにはいかないものなんだなあと痛感する。

 だって下からちらと覗き込んだ紫は、また頬をべちゃべちゃに濡らしていたから。ぽろぽろと止めどなく流れる涙。息が詰まる。

「え? あ、あの……?」
「あっ! ごっ、ごめんなさいっ、あれ、あはは……おかしいわね……なんで私泣いてなんか……? ごめん違うの、幽々子のせいじゃ、私そんなつもりじゃ……」

 平静と取り戻そうと、紫は目尻をぬぐい続ける。笑顔をつくろうともがきながら私に謝り続ける。それでも、紫の瞳は涙を零してしまう。笑おうとした顔が歪んでしまう。私を気遣おうと繰り返される言葉は、もう呻き声にしか聞こえなくなった。

 もう、完全にお手上げだ。どうしたらいいかなんて、私にわかるはずもない。
 だから、体が勝手に動く。言葉じゃなくて。

「――もう、いいから」

 泣きじゃくる紫に腕を回して、懐に収め、引き寄せる。

「もういいよ。無理しないで」

 顔を胸に押し当て、額に頬ずりして、背中をぽんぽんと叩く。

「ごめんなさい――私ね、よくわかんなくて」

 嗚咽が響いてくる。膝に涙が滴る。戦慄きが伝わってくる。

「何にも覚えてなくて、ここ以外のこと何も知らなくて。だからこういう時なんて声掛けていいかわかんなくて」

 懐の中で丸まる体はとても小さくて頼りない。なのにこの子はどれだけのものを背負ってきたんだろう。こんな華奢な肩に、どれだけの過去を載せて生きているんだろう。

「だから、これくらいしかできないから、うん」
「ごめぇ、ごめんなさいぃ……」

 もう慟哭だった。ああそうなんだろうな。あの顔を見ればなんとなくわかる。きっといろんなことがあったんだろう。誰にも言えないような、私なんかじゃ想像もできないようないろんなことが。

「ね、もういいから。だからそんなに謝らないで。泣きたいんだったら泣いていいから。」

 でも、ちょっぴり羨ましく思う。私には涙に耽ってしまうような過去なんて、なかったから。

「ね、お願いだからそんなに自分を責めないで。私がみんな赦してあげるから。」

 だからなんとなく思ったのだ。この子の重しを、少しでも分かち合えたらと。




 茶もとうに冷えてしまった頃、ようやく紫は涙を出し尽くした。膝の上で丸くなったままのこの子を抱えながら、私は長く艶のある金糸をさすり続けていた。それは得がたい時間。言葉はなかったのに、この屋敷に来て初めて感じる満ち足りた時だった。さっきの感覚が再び胸に去来する――ああ、これがもしかしたら「懐かしい」という気持ちなのかもしれないな。

「落ち着いた?」
「ぅん、ごめんね幽々子……」

 えずき声がようやく届く。思わず溜息が漏れた。

「だからー もう謝るのはなし。私はね、むしろ貴方にお礼が言いたいの。」

 もう一度抱き起こして、慈しむように囁く。

「本当にありがとう、ずっと寂しかったの。ここで一人っきり、話相手もいなくてさ。こんなふうに接してくれたのは、貴方が初めてなのよ。」

 そして顔を離して、笑いかける。ちゃんと目を見て。

「だから、もしよかったらまた遊びに来てほしいの。今度はいろんなお話を聞かせて。ね? 紫、さん」

 また零れそうになる涙を一生懸命こらえて、笑いかけてくれる。ちゃんと目を見て。

「……ええ、喜んで。幽々子」




 *




 そして私は目を醒ます。

 身を横たえたまま顔だけを持ち上げる。確かここは春の冥界、白玉楼の中庭にある縁側だ。一面の桜と枯山水の向こうから、なにやら喧騒が響く。

「あら、起きたのね。」

 上からの声。まだ薄ぼんやりした視線の先にいたのは、幽々子だ。

「おう、起きたか。」

 今度は後ろから。月影に照らされた大きな三角帽子は、魔理沙のものだ。

「妖夢ー 蓮子ちゃん起きたわよ。お水持ってきて頂戴な。」

 廊下に響く幽々子の朗らかな声を聞きながら、ようやく私は身を起こす。見上げた空はどっぷりと黒に浸かり、浮かぶ月は最後に見た時から二時間あまり進んでいる。そんなに寝てたのか私。

「よう、初勝利おめでとさん。」

 魔理沙は絆創膏の貼られた頬を緩め、私に帽子を被せてくれた。とっさに帽子へ手を伸ばそうとしたところで、頭に巻いてあった包帯に指が触れた。よくよく見てみれば他の節々にも治療の跡がある。

「あらーあれは引き分けよ?」

 幽々子は小さく頬を膨らませてすかさず物申す。魔理沙は鼻で笑う。

「なに言ってんだい。相手は素人だぜ? それが一発当てたんだ。どう見たってお前の負けだろ」
「そうかなぁ。弾幕ごっこでなら張り合えてたと思うけどなー」
「幽々子様、水お持ちしました。」

 と、あっという間に言付けを果たしに来たのは妖夢。またこっちもやり過ぎなくらい包帯でぐるぐる巻きだ。

「それより貴方と妖夢の方はどうなったのかしら?」
「ああ、あれなら私の負けだな。」
「引き分けに見えたけどねえ」
「うーん、とは言っても最後蓮子と一緒に切ったスペルは妖夢には当たらんかったからなあ。そうだろ妖夢?」

 ちょっぴり憮然とした表情の妖夢は、水の注がれたコップを私へ差し出しながら呟く。

「勝った負けたはどうでもいいんです。なんでちゃんと事情を教えてくださらなかったんですか幽々子様? あの人を迎えに来ただけだとわかってたらあんなことしなかったのに……」
「あら、妖夢はあれでいいのよ。それに私は『ちゃんとお客様はお通ししてね』って言ったじゃない。お客と敵の区別もつけられない妖夢が未熟なだけよ。」

 妖夢は「うう゛……」と唸ったきり黙りこくってしまった。その様子に幽々子は満足げだ。

「それより庭であの子と一緒に拾ったお酒の蓋、ちゃんと切れたの? もう宴会のお客さん集まって来てるわよ。」
「切れはしましたけど……大丈夫なんでしょうかあんな拾い物を呑んで。」
「妖夢は細かいこと気にしない。落とし主だって呑んでもらいたいんでしょうよ。」

 要領を得ない主の返答に「はあ」と一つ溜息だけ残して、妖夢は廊下を駆けていった。その頼りない後姿は、先ほど刀を振り回していたのと同じ人物のものとは思えない。
 二人のやり取りを笑い半分呆れ半分で見ていた魔理沙は、一連の会話から置いてかれ気味だった私を見つけると、素早く言を繋ぐ。

「ああ蓮子。これから宴会やるんだ。なんでも霊夢の奴があちこちに言いふらしたらしくてな。そんな面倒なことしたがらない奴なんだが。」

 魔理沙が指差した向こうには、確かにあの巫女さんがいる。他に集まった連中と座を囲みながら、既に一杯開けてご機嫌の様子だ。さっきかすかに聞こえた喧騒はこれだったのか。
 なんとなしに眺めていた宴の一角に、私の目が吸い寄せられる。大きな、何本もある金色の尾。間違いない――夢で見た、あの狐。
 私の視線に気付いたのか、狐はこちらと視線を合わせ、小さく会釈を向けてくる。恐縮げな顔をして。

「じゃあ」魔理沙は三角帽子をしっかと被りなおす。「お二人さんはまだ話すことがあるだろうから、お邪魔虫は一つ酒でも呷ることにするかね。」

 それだけ言い残して駆け出そうとした魔理沙、私は慌てて呼び止める。

「魔理沙! ありがとう、本当にありがとう!」

 軽く帽子のつばを持ち上げて、魔理沙はウインクで返す。どこまでも小憎らしげに。

「おうよ、霧雨魔法店のまたのご利用をお待ちしてるぜ!」

 そして返事も待たず宴の中へ飛んでいく。まるで流星のように、どこまでも爽やかで。
 少しだけ静かになった縁側に、小さな笑い声が響く。それは小袖の下からだった。

「まったく宴会となると途端に元気づくのねぇ。ほとんど寝てないんでしょうに、あの子。」
「ここじゃよくあることなんですか? ああいう宴会って。」
「そうねーしょっちゅうね。人間も魔法遣いも、妖精も妖怪も幽霊も、神様や天人、鬼や天狗や吸血鬼だって来るわ。宇宙人が交じってても不思議じゃないわね。」

 しみじみと、幽々子は答えを紡ぐ。とても神妙な気持ちになった。夢で聞いたあの言葉を思い出さずにはいられなかったから。だから帽子を取って、幽々子へと向き直る。

「さっきは、失礼なことを言って申し訳ありませんでした。」

 そして頭を下げた。何でかはわからない。ただこの人に、そしてこの大地に敬意を払わねばと思った。

「なんのことだかさっぱりね。そんなこと言われた覚えもないし」

 首をすくめて、幽々子はとぼけ面をする。そうやってまたごまかす。本当はわかってるのに。

「ちょっとしたおふざけのつもりだったんだけどねえ。また"あいつ"の持ってきた暇潰しなのかなあと思って。そしたらあんな血相を変えて来られたもんだから、引きどころがわかんなくなっちゃって。」

 茶化すみたいに唇を尖らす。それでも私からは硬い表情が消えてなかったんだろう。幽々子は小さな溜息を漏らした。そして軽く睫毛を伏せ、歌うように説き始めた。

「私ね、友達がいるの。昔からの友達。これがもうしょうもない奴でね。他人のことなんかこれっぽっちも考えない、こっちの気持ちなんてちっとも理解できやしない。頭の回転だけは無駄によくて、それになまじ自信があるもんだからよけい質が悪い。そのくせとんでもなくお節介で、困ってる人がいるとつい手を差し出したくなる。
 けれど頭がよくて気を回しすぎる、おまけに相手のことを考えないお節介焼きって悲惨なものよ。常に物事の2、3手先を読んで動くことしかできないからさ。それじゃせっかく人の為になるようなことをしても、誰からもさっぱり理解してもらえない。」

 それはどこか遠くへと語りかけているようだった。私の後ろにいる誰かに聞かせるような、そんな言い方。

「その度に怪しい奴とか胡散臭い奴とか言われて。そんなの気にしないなんて口では気丈なこと言うくせに、心の中では傷ついてばっかで。いつもみんなのことを気に掛けてるくせに、自分の方からは姿を見せない。何か企んでも自分は表に出てこないで、一番大事なところはみんな人に任せちゃう。本当にどうしようもない奴よ。ほんと。」

 そして顔を綻ばす。うっとりと、感謝を溢れさせて。

「でもね、私の友達なの。とっても大切な。」

 その語り口があまりにも綺麗で、だから思わずこちらも顔が綻んでしまうのだ。

「そうですね。はい、よくわかります。」
「そうよね。そう言ってもらえて、うれしいわ。」

 桜が散る音。枯山水のせせらぎ。遠くから響く宴の喧騒。幽々子と向かい合う。それは時間そのものが動くことを止めたかのよう。口は開かない。開いてはいけないと思った。この静謐を破るなんて、できるわけがない。
 瞑っていた眼を、幽々子はそっと開く。

「貴方のお友達、その襖から奥に入ったお部屋にいるわ。大変だったのよ。目を醒ましてもずっと暗い顔して、部屋を出ないわ食べようとしないわ。水さえ飲まないんだから。今どき"よもつへぐい"だなんて、なかなか信心深いお友達なのねー」

 襖の方へ向いていた視線が、緩んだまなじりはそのままにこちらを向く。私も小さく苦笑して「はい」と返す。

「でも、だからこそよかったのかもね」幽々子は懐かしむような口ぶりで言った。「さあ、どうする? あの子、うちに来てからほとんど一言も喋ってないけれど、これだけは妖夢に伝えたそうよ。『もし誰か来ても決して部屋に通さないでくれ』って。」
「さっきお伝えしたとおりです。開けてみなきゃ始まりませんから」

 脇にあった帽子を取って立ち上がった。幽々子も当然のような顔で一つ頷く。

「じゃあ、私も退散しましょうかね。お二人の邪魔しちゃ悪いもの。」
「本当にお世話になりました。」

 もう一度だけ頭を下げた。さっきのは幽々子への謝辞、だからこれはもう一人への分。

「なにもかも、お二人のおかげです。だから、私もお邪魔にならないよう退散しますね……お友達によろしくお伝えください。」

 これだけは予想外だったのかもしれない。幽々子は一本取られたとばかりに苦笑する。勿論にっこりとしたまま。もう一度だけ会釈して、私は二人の元を後にした。


「……だってさ。そろそろ出てきたら?」





 襖を開け部屋を抜けるを幾度か繰り返す。一本道だった。目的の場所まで迷うことはもうない。
 一つ大きく息を吐き、最後の襖に手をかける。そして一気に開いた。
 間取りはそれほど大きくはない。真ん中に置かれた行灯だけが、夜の奥間にある唯一の光源だった。探すまでもない。部屋の一番隅でうずくまっていたこいつを、見逃すわけがない。

「れん、こ……?」
「メリー、遅れてごめん」

 一瞬息を呑んだせいで、口を切るのは後になった。ひどい顔だ。げっそりとした頬に載っているのは真っ赤に腫れ上がったまぶた。もう流すものなんてないはずなのに、まだ何かを搾り出そうと歪んでいる。グシャグシャに絡まった金糸、よれよれになった紫の一張羅――何もかもが別れた時のまま。
 私を見つけたメリーは、瞬間この世の終わりが訪れたとでも言わんばかりの驚愕に打たれたらしい。ボロボロの面立ちを更にへし曲げて、部屋の一番隅からなお後退しようともがいていた。

「ぃやっ!! 来ないでっ!」

 弾けたような金切り声が飛んでくる。でも、私は前進をやめない。

「ダメなのっ、もうほっといて! 私なんかに、もう構わないで……」

 出ない涙を捻り出して、懸命に腕を振りまわして。でも私は近づく。悪いねメリー。でもさ、その手の台詞はもう聞き飽きちゃったのよ。夢の中でね。

「私なんか……蓮子ダメ、いやダメ来ないでぇっ――」

 真正面に立って、頬に手を沿えて、そしてスナップを利かせて掌を横に振った。


    ――パシィン!


 綺麗に決まった平手打ちに、メリーはただただ呆然と、喚くのも止めてしまった。なかなか面白い顔だな。少なくとも今日見た中では一番だ。

「れ、んこ……?」
「まったくそのとおりね!」

 次はデコピンの刑に処する。すこんと軽い音がした。よし大丈夫、腐ってない。

「ホントにさ、飯は食わないわ水は飲まないわ外には出ないわ……どういうつもりなのよ。死ぬ気? 私を連れてきて、置いてけぼりにしてさ。」

 そして泣きじゃくるメリーに腕を回して、懐に収め、引き寄せる。

「あっ……いやダメ蓮子」
「そんなことされても困るの。メリーに死なれたら、私が困るのよ。」

 顔を胸に押し当て、額に頬ずりして、背中をぽんぽんと叩く。

「だって、だって私蓮子に最低のこと……」
「いいから、もうそういうのはいいから」

 嗚咽が響いてくる。膝に涙が滴る。戦慄きが伝わってくる。

「ごめ……ごめんなさい、蓮子本当にごめんなさいぃ……」

 そして慟哭に変わる。懐の中で華奢な肩が震えるたび、さっきの顔を見るたびに思う。この子は私の見ていないところでどれだけ傷ついてきたんだろう、私はこの子にどれだけのものを背負わせてしまったんだろうと。だから、せめてぎゅっと抱きしめる。

「ねえメリー聞いて?」

 メリーを膝の上に置いて、グシャグシャに絡まり切った金糸を撫で続けながら、そっと囁きかける。

「ここでさ、魔法使いの女の子と友達になったの。変な奴なんだけどね、はっきり言ってガラはよくないし。でもとっても面白い奴よ。なんて言っても箒で空を飛べるし、ビーム砲撃てるんだから。あと巫女さんとも知り合いになった。普通に空飛べるのよ。反則的に強いしね。あと刀を振り回す幽霊もどきもいたし、天然キノコは不味いし、それにね……ああうん。とにかくさ、もうすっごい楽しかったの。メリーを探してたこの半日、もう最っ高に楽しかった。さっきなんてこの屋敷の親玉と決闘までしちゃったんだから。」

 うずくまるメリーを座らせて、慈しむように囁く。

「ね、メリー? ひどい話でしょ。私さ、メリーがこんな苦しい思いしてた時、この世界を満喫してたのよ。もうギャーギャー騒いで、ずっとハイテンションだったんだから。ひどい奴でしょ、あんたがこんなことになってるってのにさ。」

 そして顔を離して、笑いかける。ちゃんと目を見て。

「つまりお相子。それでいいじゃない? だからもう謝ったりなんかしないで、メリー。もう『ごめんなさい』って言い合うのはやめよ? 私感謝してるの。経緯はどうあれメリーがここまで連れてきてくれたから、だから私は気付けた。本当にありがとう。」

 涙に暮れていた顔が、笑い出す。最初は引き攣ったような、でも徐々にはっきりとした笑顔へと。

「あはは……なによそれ……めちゃくちゃよあんた。そんな傷だらけで、なにが楽しかったよ……もう莫迦みたい、蓮子、あんたホント莫迦よ……」
「あら。だったらメリーは最低なんでしょ?」
「うるさい、私置いて東京に帰るとか……最低なのはそっちよ。どんだけ鈍感なのよあんた……わかんなさいよ、私がどう想ってたかぐらいさ、この莫迦。バカバカバカ」

 時折り声をひっくり返しながら、けれどメリーの声は少しずつ生気を帯びていく。こんなふうに喋るメリーは初めてだった。そしてこんなふうに喋れたのも、はじめてだったと思う。
 私たちはしばし、お互いへの不平不満を言い合っていた。泣きながら、笑いながら、見つめ合いながら。出てくる言葉はろくなのがないのに、これほど気持ちのいい会話はなかった。メリーに触れる。メリーがわかる。ああ、これでよかったのか。

「あ、そうそう」私はしたり顔で言う。「今外で魑魅魍魎が宴会やってるよ。どうする?」
「なによそれ」メリーは呆れ顔で言う。「私達はゲスト? それともメインディッシュかなんか?」
「さあ? お酒は呑めるでしょ、どっちみち。」

 メリーは溜息をつきながら、けれども私の手をしっかり取る。

「じゃあ、最後の夜を楽しみましょうか。今度こそ二人いっしょに。」

 そして並んで冥い部屋を出る。視界の先には、原始の色に染まった月明かり。

「うん。めいっぱい楽しんで、それで一緒に帰ろう。私達の現にさ。」









『さぁ、眼を覚ますのよ。夢は現実に変わるもの。夢の世界を現実に変えるのよ!』
                   ――夢違科学世紀:宇佐見蓮子









拝啓 メリー様

  久しぶり。もう一月だっけ? 元気してる?
  京都はそろそろ暑さも峠が過ぎた頃かな。こっちはまだ暑いよ。久しぶりの東京の残暑はキツイわ。
  ああそうそう、院合格おめでとう。よかったよかった。
  試験終わりのメールで延々愚痴聞かされたからさ、落ちたらどうなるのかと心配してたんだけど。
  こっちは先輩のつてやら裏表ルートやらを使って、何とか潜り込めそうな勤め先を確保できそうです。段々外堀は埋まりつつあるわ。
  ホント退屈なのよ。それぐらいしかやることなくてね。全然外に出してもらえないし。パソコンだって最初なかったんだから。
  これじゃ軟禁よ軟禁。もう一月だもんねえ。長いなあ。もう一月か。
  いやあ、あん時は傑作だったわよね。あの後、博麗神社から真っ直ぐうちの実家に二人で向かってさ。
  そのまんま啖呵切って、大喧嘩して。正に修羅場だったもんね。まさかメリーまで参戦してくるとは思わなかったけど。
  でもいくらなんでもさ、「お嬢さんを私に下さい。幸せにします!」はないわよ。意味違うじゃない。
  私も思わず笑っちゃったわよ。あれ文句なしで今年のMVPね。
  実はこれから親族会議なの。もうすぐ新学期が始まるから、私を京都に帰すどうかってね。
  なんか向こうは色々手を打ってるみたいだけど、さすがに中退はさせたくないはず。休学とか言い出すのかね?
  こっちも色々対抗策は練ってる。うちの教授まで支援してくれるとは思ってなかったけどさ。なかなか楽しくなりそうよ。
  じゃあ、結果が出たらまた連絡するね。もうじき会えるから、だから帰った時の活動予定はよろしくね。

                 宇佐見蓮子



「お嬢様、旦那様がお呼びです」

 障子の向こうから、小さな声が届いた。私が小さい頃から面倒を見てもらってる女中さんだ。まだ本家に味方は多くない。ばっちゃくらいか。彼女も強いて言えば穏健派ってとこかな。

「承知しました。すぐに行くとお伝えしておいて」

 丁寧な口調でそう返すと、彼女は静々と下がったようだった。うむ。どうもこうやって喋る癖は抜けないな。まあしょうがないか。そこまで気にすることでもないだろう。
 メールの送信ボタンを押して、待ち受けのメリーと目配せする。
 あの家族戦争の日を最後に、メリーとは離れ離れだ。私は本家に強制送還され、メリーは追い出された。この一月はメールでの連絡だけ。それでも最初予想していたほどの寂しさは感じない。きっとそれはメリーのおかげ、別れ際のあの一言があるからだ。――待ってるから、と。
 くれた言葉はそれだけ。でもあれほど力強い信頼はない。だからこうして嬉々として作戦が練れる。このなんにもない豪邸でも生きていける。だって、あの想いに応えないわけにはいかないじゃないか。そりゃさすがに世界を創造するのは無理だけどさ。

「さて、いっちょ派手にやってきますか」

 お下げをしっかりと結わえ直して、私は立ち上がる。怖くないと言ったら嘘だ。でも、妖怪にとっ捕まったり、空から落ちて死にかけたり、幽霊に取り囲まれて吹っ飛ばされかかるのと比べたらたいしたことじゃない。だから、ビビんな。


「すぐ行くわ、メリー」



―完―

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