永遠亭の朝は、そこそこに早い。
「おーい馬鹿鈴仙、起きろー」
因幡てゐがやや怒気を含んだ声を上げながら、鈴仙の部屋の戸を乱暴に開く。
彼女の機嫌が悪い理由は二つ。ひとつは昨夜近所で行われた蓬莱人同士の殺し合いのせいで、少々寝不足気味であること。
そしてもうひとつは、永琳から鈴仙を起こすよう命じられたせいで、朝飯にありつくのが遅くなってしまったことだ。
「私らを起こすのが仕事でしょうに。あんたが寝坊してどうするのよ、まったく……」
ぶつぶつと文句を言いながら、てゐは部屋の中央で寝ている鈴仙の元へと歩み寄る。
もしも彼女が、この時もう少し注意深く布団を見ていたなら、そこに二人分の膨らみがあったことに気が付いたかもしれない。
性質の悪さで知られる魔法使いに差し出された毒草を、疑いもせず口に入れてしまう程の迂闊さを持った彼女にそれを期待するのは、いささか酷な話だろうか。
「とっとと起きろっ……!?」
勢いよく掛け布団を剥ぎ取った彼女の眼に、日常と非日常が同時に飛び込んできた。
満ち足りた表情で眠る寝巻き姿の鈴仙。いつも通りとはいかないが、これはまあ日常といっていい。
だが、そんな彼女に纏わりついて寝息を立てる半裸の少女の存在は、てゐにしてみれば非日常以外の何物でもない。
「うわあああっ!?」
兎特有の敏捷さでもって、てゐは後ろに飛びのいた。
太古の昔より培ってきた危険を知らせる本能は、本物の脅威に相対したとき存分に発揮されるものである。
彼女は顔も名前も知らない少女の存在に、言葉では表せない脅威を感じ取ったのだ。
「うーん、うるさいなあ……てゐ?」
てゐの悲鳴で目を覚ましたか、鈴仙が寝ぼけ眼を擦りながら半身を起こす。
少女は依然眠りの中だ。
「れっ、鈴仙! その子! その子どうしたの!?」
「ん~? ……ああ、まあちょっとね」
「ちょっとじゃないでしょ! 誰がどう見たって事後じゃん! いわゆるひとつの朝チュンじゃんか!」
「てゐ、落ち着いて聞きなさい」
鈴仙はひどく落ち着き払った様子で、てゐに手のひらを向けた。
ここまで余裕たっぷりな彼女を見た記憶は、てゐの中には存在しない。
いつも取り乱すのは年下の上司――形骸化を通り越して有名無実と化している――である鈴仙で、余裕に溢れているのはてゐの方なのが永遠亭の日常であったはずだ。
「誤解よ誤解。誤解してるわ」
「何が五回だよこの馬鹿! 誰も回数なんか聞いてないっつーの!」
顔を真っ赤に染めて喚くてゐの姿に、年上の余裕らしきものは微塵も感じ取ることはできない。
だが彼女とて、大昔の恋心を未だに引き摺る乙女である。かような聞き違いを起こしてしまったとしても、誰に彼女を責めることができようか。
半ば現実逃避気味に、何をもって一回とするのかしらなどと考えるこの小さな兎を、誰に嘲笑うことができようか。
「ねえてゐ、大丈夫?」
「オマエはどうなんだよ!? とにかくこの事は、お師匠様にキッチリ報告させてもら……う?」
踵を返そうとしたてゐの視界が揺らぎ、全身から力が抜けてゆく。
彼女の精神と肉体は、鈴仙が発動した狂気の瞳の力によってその大部分が切り離されていた。
「どうしたのてゐ、目が赤いわよ。寝不足?」
「し、白々しい……!」
「お師匠様、とか口にしたのがマズかったわね。まあ元よりこのまま行かせるつもりはなかったのだけれど」
「あんた、一体何を……」
「あなたが居ると話がややこしくなるからね。今日一日ゆっくり休むといいわ」
「ふざけん……どぅ」
てゐの意識はそこで断ち切られ、深い眠りの中へと堕ちてゆく。
鈴仙は彼女に掛け布団を被せてやると、未だ眠ったままの少女――古明地こいしの肩をやさしく揺さぶり、覚醒を促した。
「こいし、もう朝よ。起きなさい」
「うーんむにゃむにゃ……お姉ちゃんあと五分だけ……あれ?」
薄く開いたこいしの瞳に映るのは、肉親である古明地さとりの姿ではなく、不気味に折れ曲がった耳を持つ一羽の兎。
人物、場所、昨夜の出来事といった情報が、無意識の内に記憶の中から呼び起こされる。
やがて状況を把握した彼女は、目の前の兎に向かって優しく微笑みかけた。
「おはよー、鈴仙」
「おはよう、こいし。朝ごはんの準備ができたみたいだから、ぼちぼち仕度を始めましょう」
「んー……もうちょっとだけ」
こいしは両腕を前に伸ばし、鈴仙の胸元に身体を預けた。
「やれやれ」
鈴仙は正面から受け止めてやり、両手で彼女のやわらかい髪を弄ぶ。
彼女の頭の上に乗る形となった鈴仙の口元は、何故だか妖しく歪んでいた。
永遠亭の広間では、三人の少女が朝食の席を囲んでいた。
亭主である蓬莱山輝夜とその従者である八意永琳、そしてもう一人は、一晩中輝夜と派手に殺しあった相手、藤原妹紅である。
「この間、慧音とケンカしちゃってさあ。『妹紅、最近お前の言葉遣いが荒っぽくなっているように見受けられるぞ。女の子なんだからもう少し気を遣ったらどうなんだ?』とか言わてねえ」
筍ご飯をかっこみながら饒舌に捲し立てる妹紅を、輝夜は呆れかえった表情で見つめている。
妹紅が上機嫌なのには二つの理由があった。ひとつは昨夜の勝負で見事勝利を収めたこと、そしてもうひとつは食事にありつくのが実に三日ぶりだということだった。
「ねえ、なんで? なんであなたがさも当たり前のようにウチでご飯を食べてるの? ねえ?」
「だから私も言ってやったのよ。『そういうお前はどうなんだ? 曲がりなりにも年上に対してタメ口を利くなんて、教育者としての心構えがなってないんじゃないか?』ってね。おい輝夜、おかわり」
「なにそれ、ノロケ? 惚気話を聞かせるために図々しくも居座っているという訳なの?」
輝夜の質問には答えず、妹紅は空になったお椀を差し出す。
その様子を見て永琳は、やれやれといった様子で苦笑を浮かべる。
「ねえ、永琳からも何か言ってやってよ。このままだとイナバたちの分まで食べ尽くされてしまうわ」
「まあいいじゃない輝夜。その時はその時、寝坊したあの子たちの自己責任というものよ」
「さすが、八意センセイは話がわかるう! ……おっ、噂をすればなんとやらね」
襖が開き、身支度を終えた鈴仙とこいしが姿を現した。
卓を挟んだ正面に妹紅の姿を確認するや否や、鈴仙は右手で銃の形をつくり、彼女の眉間に向けて弾丸を放つ。
鈴仙の弾丸は、目的に応じて主に二種類に分別される。ひとつは精神に作用する弾丸、もうひとつは肉体に損傷を与える弾丸である。このとき用いたのは後者であった。
真一文字に飛来する弾丸に対し妹紅はさして慌てる様子も無く、さっきまで筍を摘んでいた箸を素早く構えて受け止める。
その間、わずか一秒足らず。永遠亭では時折見られる光景であったため、この場において呆気にとられたのは客人であるこいしただ一人であった。
「おはようございます。輝夜さま、お師匠さま」
「おはよう、ウドンゲ」
「おはよう鈴仙……その子は?」
輝夜は不思議そうな顔で、ポカンと口を開いたままのこいしを見つめた。
その時生じた一瞬の隙を見逃さず、妹紅は受け止めた弾丸を輝夜の味噌汁の中へと放り込む。
「昨夜お二方の逢瀬に巻き込まれそうになっていたところを、私が見つけて保護いたしました。こいし、姫様にご挨拶しなさい」
「えっ? ああ、えーっと、古明地こいしと申します。よろしくね!」
咄嗟に言葉が思いつかなかったらしく、自己紹介はひどく簡潔なものとなってしまった。
鈴仙は気にするふうでもなく、こいしに輝夜と永琳を紹介し、その後二人並んで卓についた。
「だめじゃないのウドンゲ。お客様がおみえになったのなら私か輝夜に報告しに来ないと」
「申し訳ありません。でもいきなりお師匠様の元に連れて行ったりしたら、即断で亡き者にされてしまうのではないかと思ったので……」
「ええっ!? 私殺されちゃうところだったの!?」
こいしは怯えた表情を浮かべ、茶碗と箸を持ったまま鈴仙の後ろへと身を隠す。
鈴仙はそんな彼女をそっと抱きかかえて、自分の膝の上に座らせた。
「大丈夫よこいし、何があっても私が守ってあげるからね」
「えへへ……ありがとう鈴仙。優しいのね!」
柔らかな表情になったこいしは身体の向きを変え、鈴仙の頬に軽いキスをした。
輝夜と永琳が困惑気味にその様子を眺める横で、紹介されなかった妹紅が筍の煮物に手を伸ばす。
「なんていうか……えらく懐かれたものね。ひょっとしてアレかしら。ストロングなんとかっていう……」
「ストックホルム症候群かしら? どちらかというと吊り橋効果の方が近いかもね。なんにせよ、あまり褒められた話ではないわ」
イチャつく二人に対し、永琳はやや咎めるような視線を送る。
呼びに行かせたはずのてゐが戻らないのも気になるが、それ以上に気に掛かるのが二人の関係だ。
曲がりなりにも自身を師匠と慕う者が、他所の少女と不適切な関係を築いているのではないかという疑念が、永琳の中で鎌首を擡げつつあった。
「鈴仙」
永琳は普段用いる愛称ではなく、本名で彼女に呼びかける。
鈴仙とウドンゲ。永琳は普段この二つの呼称をさほど意識せず使い分けているが、真面目な話をする時は無意識の内に前者を用いることが多い。
こいしとちゅっちゅしていた鈴仙も、師匠の機嫌が良くない方向に向かいつつあることを察したらしく、真剣な表情を取り繕って永琳と向き合った。
「なんでしょう、お師匠さま」
「古明地さんは昨夜の戦闘に巻き込まれた、と言っていたわね。怪我とかそういうのは大丈夫だったの?」
「ああ、ゆうべのバトルはアツかったな。なんとなく誰かに見られてるような気がして、いつも以上にヒートアップしちゃってさあ」
「妹紅、あなたは黙ってなさい」
唐突に口を挿んできた妹紅を、輝夜がやや赤面しながらたしなめる。
弾幕ごっこというものは見ている分には美しいが、ひとたび巻き込まれれば無事ではすまない。
この二人の場合は尚更である。普通この手の勝負では、最低限相手が死なないような気遣いを見せるものだが、彼女たちにはそれがない。
なにしろお互い不滅の身だ。お互い遠慮は不要とばかりに、日頃の鬱憤や積年の恨みなどをブチかますのみである。
数年前に小火騒ぎを起こしてからは多少大人しくなったものの、今なお繰り広げられているのは必殺の応酬であることに変わりはない。
「ほら、ウチの子たちがよそ様のお嬢さんに怪我をさせたとあっては一大事じゃない。もしどこか悪いところがあるのなら、多少なりとも医学の心得がある私に診せるべきでしょう?」
「多少なりともって、永琳ちょっと謙遜し過ぎじゃない?」
「つーかなんだよウチの子たちって。ひょっとして私も入ってるの?」
「お願いだから、あなたたちは静かにしていて頂戴」
永琳にたしなめられた輝夜は、バツの悪そうな顔で味噌汁をすすり、形容し難い食感にその端整な顔を歪ませる。
その原因を作った妹紅はといえば、まるで「これぞ我が至福」といわんばかりの表情でもって、首を傾げる輝夜を見つめていた。
「で、どうだったの?」
「幸いにもかすり傷程度でしたので、夜のうちに私が治療しておきました」
鈴仙は唇の端を吊り上げ、朝食の席には些か似つかわしくない妖しげな笑みを浮かべて続ける。
「……布団の中で、念入りにね」
軽いジャブを放ったつもりだったのだが、返ってきたのは鈴仙のスペルカード、赤眼「望見円月(ルナティックブラスト)」にも匹敵する衝撃。
永琳は軽い眩暈を覚えつつ、渾身の笑みを見せ付けてくる彼女からそっと目を背けた。
「もー、鈴仙のばかぁ! どうしてそーゆーデリカシーのない発言しちゃうかなあ!」
「いいじゃないこいし。こういう事はいずれ明るみに出ちゃうんだから、隠すとためにならないわ」
「それはそうかもしれないけど、でも……恥ずかしいじゃない!」
ポカポカ胸を叩いてくるこいしを、鈴仙はギュッと抱きしめる。
恥ずかしいだのなんだの言いながらも、実際のところ満更でもなさそうだ。
ただ永琳からしてみれば、単なる命の恩人に対する感情と今のこいしのそれとでは、やはり性質の異なるモノのように思えてならない。
もしかしたら、鈴仙は何らかの手段でもってこいしを洗脳し、欲望の赴くままに彼女を手篭めにしてしまったのではないだろうか――永琳は心配性であった。
「種族を超えた関係、ってやつかしら。ロマンチックだと思わない? 妹紅」
「あー? 幻想郷じゃごく当たり前のことだと思うけどなあ。私は別に構わないよ? 半人半獣だろうが宇宙人だろうが」
「呆れた。あなたっていつも自分を基準に物事を考えるのね……」
「それも幻想郷じゃ普通でしょ?」
眉間を押さえる永琳をよそに、蓬莱人ふたりは小声でもって呑気な会話を繰り広げる。
ここで妹紅の視線が、こいしの胸にある第三の眼を捉えた。
「ねえ、さっきからずっと気になってたんだけど、ひょっとしてそいつサトリじゃない?」
「妹紅、知ってるの?」
妹紅が箸で第三の眼を差すと、こいしは一瞬たじろいで鈴仙の袖を掴んだ。
輝夜はまるで今気付いたとでも言いたげな表情で、まじまじと第三の眼をみつめる。
「さとりはウチのお姉ちゃんですけど、それがなにか?」
「姉がサトリってことはお前もサトリだろう。なに惚けたこと言ってんの」
「待って藤原妹紅。さとりというのはこの子のお姉さんの名前、固有名詞よ」
「なんだそりゃ。人間が子供ににんげんって名前を付けるようなもんじゃない。紛らわしい」
「このままじゃ埒が明かないから、種族名の方はサトリ妖怪と呼ぶことにしましょう」
永琳の提案に反対する者はいなかった。
こいしは何か言いたそうな顔をしていたが、鈴仙から何事か囁かれると大人しくそれに従った。
「それにしても懐かしいねえ。むかし妖怪退治をやってた頃、何匹か退治したことがあるんだ」
「それって自慢? それとも嫌がらせのつもりなの?」
「お前は黙ってろ駄兎め。なあお嬢ちゃん知ってるかい? サトリ妖怪はねえ、腕の肉が美味いんだよ……ひっひっひ」
「嫌ぁ! 助けて鈴仙!」
指をわきわきさせながら身を乗り出してきた妹紅に、こいしはすっかり怯えきっていた。
鈴仙は彼女をかばいつつ、妹紅に対して指先を向ける。
「それ以上近づいたら、この場で脳漿をブチまけることになるわよ」
「えーっと、鈴仙? 私たちまだ食事中なのだけど……」
「輝夜の言うとおりだぞ。大人しくその子をこっちに渡してもらおうか」
「誰もそんな事言ってないでしょ、この野蛮人!」
「んにゃにおう、やる気か!」
輝夜と妹紅が同時に放った拳は、間を置かずして互いの頬を打ち抜き、ふたりは仲良く仰向けに倒れた。
クロスカウンターによるダブルノックアウトなど、この二人の間においてはさほど珍しい出来事ではない。
永琳はお約束事のように深い溜息をつくと、ややぎこちない笑顔をつくってこいしの方を向いた。
「ごめんなさいね古明地さん。この子たちも普段はここまで酷く……その、とにかくごめんなさい」
「うう……やっぱり地上は怖いところだぁ……」
「地上? 今地上って言ったかしら?」
「ああ、まだ言ってませんでしたっけ。こいしの家は地底にあるみたいなんですよ」
永琳が地上という言葉に反応したのも無理はない。
彼女にとって地上とは月の対義語に等しく、なによりこいしが口にした地上は怖いという台詞は、永遠亭に来たばかりの鈴仙がよく口にしていたからだ。
「ピロートークの最中聞き出しました」
「だっ、誰もそこまで聞いてないでしょう!」
やはり今の鈴仙は何かがおかしい。
気が大きくなっているというか、大胆になっているというか。
まるで別の人格が乗り移ったかのようにしか、永琳には思えてならなかった。
「地底だぁ? サトリ妖怪は山に棲んでるんじゃなかったの?」
怪奇映画のアンデッドよろしく、妹紅が機械的に上体を起こして呟いた。
普段から不健康極まりない生活を続けている分、温室育ちの輝夜より復活が早いのかもしれない。
「ちぇっ、当てが外れたなあ。今度山登りをするから、その時にでも獲って食おうかと思ったのに」
「あんたはもうちょっと寝てていいわよ」
鈴仙が放った精神に作用する弾丸をもろにくらって、妹紅は再びひっくり返った。
「どうやらここに長居するとよろしくないようなので、私が責任をもってこいしを地底に送り届けてこようと思います」
「えっ、鈴仙ウチに来てくれるの!? 嬉しい! お姉ちゃんたちもきっと喜ぶわ!」
「ちょっ、ちょっと待っ――」
「なになに? 鈴仙お出かけするの?」
永琳が口を開きかけたその刹那、今度は輝夜が起き上がって口を挿んで来た。
さっきまで気を失っていたとは思えないほどに、その瞳は好奇心に満ち溢れている。
「ねえねえ、私も一緒に行っていいでしょ? 地底世界がどんなところなのか一度見てみたいと思ってたのよ」
「駄目よ輝夜。仮にも永遠亭の姫であるあなたが、無暗矢鱈に出歩くなんて」
「別にいいじゃないの。月の監視なんてもうあって無いようなもんなんだし」
「それはそうだけど……」
確かに輝夜の言うとおり、月の使者に彼女たちを討伐しようという意思はまるで感じられない。
永琳にとって気懸かりなのはむしろ、その事が明らかになった吸血鬼のロケット騒動以降に感じる視線。
どういうわけだか彼女を目の敵にする妖怪の賢者、八雲紫の存在であった。
「そんなに心配なら永琳も一緒に来ればいいじゃない。ねえ、こいしさん?」
「うん! 旅は道連れ、地獄行きっていうものね!」
「そういうわけにもいかないでしょう、もう……」
永琳たちが揃って地底に赴いたとなれば、あの八雲紫が黙っているとはとても思えない。
突然現れてあれこれ難癖をつけてくるか、場合によっては博麗の巫女をそそのかして横槍を入れさせるかもしれない。
先の一件以来、紫に対して苦手意識を植え付けられてしまった永琳にとって、彼女たちと関わり合いになることだけは避けたかった。
「兎に角、この件は鈴仙にすべて任せることとします。いいわね? 輝夜」
「ぶー、永琳のケチー!」
正直な話、今の鈴仙から目を離すことには不安が残る。
だがここで鈴仙にまで外出を禁じたとなれば、こいしが駄々をこね始めるに違いないと永琳は読んでいる。
永琳とてサトリ妖怪については多少の知識を持ち合わせている。それだけに、第三の眼を閉じたままのこいしがどれだけの力を隠しているのか、彼女にも判断が付きかねていた。
ここで話をこじらせてしまえば、どんな厄介な事象が沸き起こるか予想もつかない。鈴仙の同行を認めることは、彼女に出来る最大限の妥協であった。
「おいおい輝夜、折角私が遊びに来てやってるってのに、どっか行っちまおうなんて随分薄情なんじゃないの?」
「何よ妹紅、あなたまで私の邪魔をするつもり?」
再び起き上がった妹紅の存在は、意外なことに永琳にとって助け舟になるものであった。
彼女は後ろから輝夜に絡みつき、そのまま後ろに倒れこんでチョークスリーパーの体勢に移行する。
「ぐぎぎ……なによう。里にでも行って慧音先生に相手してもらえばいいじゃない」
「馬鹿言うな。慧音はお前と違って立派に働いているんだ。こんな朝っぱらからお邪魔したら迷惑が掛かるだろうに」
「ふっ、ふーんだ! どうせケンカしてるから気まずくて顔を出せないとか、そんなんでしょ……ぐえっ!?」
図星を衝かれて赤面した妹紅が、本格的に輝夜を絞め落としにかかる。
永琳の立場としては止めるべきなのだろうが、状況が状況なだけに彼女はあえて黙認することにした。
「やっぱりこうなってしまいましたね。行きましょうこいし、ここに居たらまた情事に巻き込まれてしまいそうだわ」
「ちょっ、ちょっと待って鈴仙。せめて一杯だけでもこの筍ご飯を……」
「そう言うと思って、ちゃんと御握りにして包んであるわ。道中落ち着きながら食べましょう」
「わあ! いつの間に!?」
鈴仙が差し出した御握りの包みを、こいしは満面の笑みを浮かべながら受け取った。
「それでは行ってきます、お師匠さま」
「ごちそうさまでした! 今度来るときはお姉ちゃんたちも連れてくるね!」
「え、ええ……くれぐれも気をつけるのよ」
手を繋ぎながら意気揚々と去ってゆく二人を、永琳は力のない笑みで見送った。
彼女の視界の隅では、自慢の馬鹿力で拘束を解いた輝夜が器用に身体を捻らせた後、妹紅に対しシャープ・シューターをキメている。
「ギブ? ギブアップ?」
「ノ、ノウ! 絶対にノウ!」
「やれやれ……」
永琳は深く溜息をついた後、食卓の片づけを始めた。
「てゐが居てくれれば鈴仙を監視させられたのに……あの子は何をやってるのかしら」
彼女は現在夢の中で、永遠の憧れであるダイコク様と甘いひと時を過ごしているのだが、もちろん永琳にとっては知る由もないことであった。
地底への入口は博麗神社の近くにある。
こいしの希望により、二人は神社に寄り道していくことにした。
「神社にくるのも久しぶりだわ! 霊夢はもう起きてるかしら?」
「流石にもう起きてるみたいね。ほら、あそこの賽銭箱のところ……」
鈴仙が指差した先には、賽銭箱を覗き込む博麗霊夢の後ろ姿があった。
彼女は賽銭箱に張り付くようにして中身を確認したのち、大げさに天を仰いでみせ、そしてガックリと肩を落とした。
「相変わらず感情表現が豊かだこと」
「ああん? お客さん?」
その瞳に怒りと哀しみ、そしてわずかな希望を込めた光を宿しながら、霊夢は振り返って二人を睨みつける。
「おはよー霊夢! ハイローラーのご到着よ、丁重にもてなしなさい!」
「ツッコミを入れてあげるような気分じゃないわ。っていうか、アンタら何よその組み合わせは」
「まあ、そう思うのも無理はないかもね」
にこやかに微笑む二人を見て、霊夢は怪訝そうな面持ちになる。
宴会の席で彼女たちが一緒にいる姿など見たこともないし、これといった繋がりがあるとも思えない。
頭に疑問符を浮かべる霊夢に対し、鈴仙が心配そうな表情で口を開いた。
「霊夢、あなたまた少し痩せたんじゃない? ガン? それともレズ?」
「へえ、朝っぱらからケンカを売るとはいい度胸じゃない。ねえこいし、兎鍋って食べたことある?」
「ちょっ、二人ともケンカはやめてー!」
一触即発のムードをかもし出す二人の間に、こいしが慌てて割って入る。
霊夢は意外にもあっさり身を引いてみせたが、その手にはこいしが抱えていたはずの御握りの包みが握られていた。
「あーっ! 私の御握り!」
「まあ、御握りですって? あらホント。いただきまーす」
「返して! 私の筍ごはん!」
「うるさいわねえ。ホラ、武士ならぬ巫女の情けってやつよ」
三個あった御握りのうち一つをこいしに投げ渡すと、霊夢は残りの二つを目にも留まらぬ速さで平らげてみせた。
呆気にとられた表情を浮かべるこいしの横で、鈴仙は苦笑いを浮かべる。
「どうしよう……鈴仙の分まで食べられちゃった……」
「私のことは気にしなくていいわ。なんとなくだけどこうなる予感がしていたし」
「ウェップ……ふう。負け惜しみとは見苦しいわね。兎は兎らしくその辺の草でも齧ってなさい」
「駄目よ鈴仙! 理不尽な事柄に対しては毅然とした態度で立ち向かいなさいって、お姉ちゃんが言ってた気がするわ!」
「たかが御握りぐらいで大げさねえ。大体あんたの処の馬鹿猫だってウチでご飯を食べたりするんだから、これでおあいこってモンでしょうに」
霊夢の言う馬鹿猫とは、さとりのペットにして灼熱地獄跡地の怨霊の管理者、火焔猫燐のことである。
地上と地底の交流が始まった原因ともいうべき彼女は、どういう訳か霊夢に懐いてしまったらしく、時折神社に遊びに来るのだ。
「今朝もその辺りで見かけたような気がするけど、どこ行っちゃったのかしら」
「えっ、お燐が来てたの?」
「多分ね。あんたがノコノコやってきたから怖がって逃げちゃったんじゃない?」
「そっ、そんなことないわ! きっとまだ近くにいるはず……!」
辺りを見回してみても、燐らしき猫の姿は見当たらない。
諦めきれないこいしは、しばらくの間神社周辺を荒らしまわり、賽銭箱をこじ開けようとしたところで霊夢の拳骨をくらった。
「の、脳が……脳が揺れる……」
「大丈夫? まったく、いきなり殴るなんて何を考えてるのかしらね」
「うっさいわね。あんたらみたいな何も考えてない連中に言われたくないわよ」
霊夢は非難を受け流しつつ、賽銭箱の無事を確認する。
幸いにも損傷は軽微であったが、中身は相変わらず空のままだった。
「きっと先に地底へ帰ってるのよ。私たちも行きましょう」
「わわっ、ちょっと、鈴仙!?」
鈴仙はこいしの背中と膝の裏に腕を回し、ひょいと抱え上げた。
俗にいうお姫様だっこの形である。
「やん、恥ずかしい! 霊夢が見てるぅ!」
「いいじゃないの。存分に見せ付けてやりましょうよ」
「いや、見せ付けられても困るんですけど……」
呆気にとられる霊夢を尻目に、二人は神社を後にした。
「それにしても、ホントおかしな組み合わせよねえ……」
ひとりごちた後、霊夢は厄払いも兼ねた境内の掃除に取り掛かった。
旧地獄街道。
かつて地上に見切りをつけた者たちと、地上を追われた者たちが造り上げた異形の街。
危険な妖怪たちが闊歩する通りを、鈴仙はこいしを抱えたまま進んでゆく。
「れ、鈴仙……みんながこっちを見てる気がして恥ずかしいよぉ……」
「大丈夫よ。私の能力で姿を消してあるから、誰にも見られるはずがないわ」
地上と地底の交流が始まったとはいえ、未だにその事を快く思わない者が、双方に存在するのもまた事実である。
鈴仙は万一に備え、波長を操作して自分たちの姿が見えないようにしておいたのだ。
「あっ! いっ、いま鬼と眼が合っちゃった! ううっ、もうやだあ……」
「私の知ってる鬼と違うわね。さすが旧地獄、奥が深いわ」
恥ずかしさの余り肩に頭を乗せてきたこいしを、鈴仙は優しく抱き直してやる。
始めのうちはジタバタしていたこいしであったが、やがて抵抗を諦め、鈴仙の背中に腕をまわしてしがみつく。
(鈴仙と繋がったままこんな街中歩くなんて、頭がフットーしそうだよおっ)
二人はそのまま街道を抜け、仄暗い地下道を深く深く、奥へ奥へと歩み続けた。
「着いたわよ。ここでいいのよね? 地霊殿って書いてあるし」
「えっ、もう着いたの?」
こいしが振り向くと、そこには見慣れた地霊殿の玄関があった。
かなりの年季が入ったものと思わしき扉には一枚の紙が貼り付けられており、丸っこい文字で次のように書かれている。
“新聞勧誘及び取材は今後一切お断りします。永遠に。 怨霊も恐れ怯む地霊殿の主 古明地さとり”
「あのブンヤ、こんなところまで魔の手を伸ばしていたとはね」
「そういえばお姉ちゃん、写真撮られるの嫌がってたっけ」
こいしは鈴仙から飛び降りると、リズミカルに扉をノックし始めた。
「ただいまー! 誰かいないのー? ねえー?」
「留守かしら?」
「そんなはずないわ。お姉ちゃんみたいな出不精が留守にするはず……あっ」
出不精という単語にでも反応したのか、地鳴りのような音を立てながらゆっくりと扉が開かれた。
内部には照明らしきものが無く、一面の闇に覆われている。
慎重に足を踏み入れた二人の背後で、開いた時とは裏腹に勢いよく扉が閉ざされた。
「んぎゃっふ」
「えっ、鈴仙?」
見通しのきかない闇の中に、突如響き渡った鈴仙の呻き声。
状況を把握できずにいるこいしの肩に、何者かの手がそっと置かれる。
「何処をほっつき歩いていたのかは知らないけど、厄介な奴を連れてきたものね」
「おっ、お姉ちゃん!?」
こいしの耳のすぐ側で、古明地さとりがやや芝居がかった所作で指を鳴らす。
すると、室内の照明が一斉に点され、こいしは眩しさに目を細めた。
「残念だったね兎のお姉さん。神社で調子に乗ってるところは見させてもらったよ。きっとここに来るだろうと思って先回りして待っていたのさ。おくう、しっかり押さえておくんだよ」
「少しでもおかしな動きを見せたら、お燐もろともニュークリアフュージョンしてもらうからね!」
「おいやめろ馬鹿! あたいを巻き込むな!」
鈴仙はこいしの横には居らず、前方約四メートル程の場所で仰向けに倒れていた。
上半身を火焔猫燐に、下半身を霊烏路空に押さえつけられた状態で。
「どういうつもりなのお姉ちゃん! 鈴仙を放してあげて!」
「それを聞きたいのはこちらの方よ。それともそちらの兎さんに聞いたほうがいいかしらね。おくう!」
「了解!」
空はさとりの呼びかけに元気よく答えると、右手の制御棒を鈴仙の喉元に押し当てた。
こいしが抗議の声を上げたが、当の鈴仙はくすぐったそうに身を捩りながらニヤニヤ笑っている。
「ちょっと、やめてよ。感じちゃうじゃない」
「感じるって何よ? 命の危険とか?」
「うんにゃ。私が感じているのは核融合をも超える究極のエネルギーにして、世界で最高の感情。すなわち……」
鈴仙は両脚を空の頭に絡ませると、そのまま彼女の顔を自分の股座に押し当てた。
「愛よ」
「うっ、うっ、うにゅうううううううううううっ!?」
ジタバタもがく空であったが、鈴仙の脚は彼女の頭をガッチリ抱え込んだまま放そうとしない。
燐はしばらくの間呆気にとられていたが、こいしとさとりが自分と同じ様に呆然としていることに気付くと、慌てて爪を出し鈴仙の顔を引っ掻き始めた。
「こっ、このやろう! おくうを放せ!」
「ヨハネの黙示録21章6節に曰く、『私はアルファでありオメガ、始まりであり終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう』」
「おくうに何飲ませる気だこのヘンタイめ! ちくしょう、こいつ痛みを感じないのかい!」
鈴仙の顔は既に血で真っ赤に染まっているが、依然として例の薄気味悪い笑みを浮かべたままだ。
それ以上の攻撃を諦めた燐は、さとりと協力して鈴仙の足を引き剥がした。
「おくう、大丈夫?」
「さとり様……お燐……私は世界に火をつけたいわけじゃないんです……」
「ちょっと、しっかりしなよ! 夢でも見てるのかい!?」
「私はただ、あなたの心に、火を……ガクッ」
「おくううううううぅーーーーっ!」
意識を手放した空の瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。
さとりは彼女の目蓋をそっと閉じてやると、こいしが元いた場所から居なくなっていることに気付いて辺りを見回す。
こいしはすぐ側にいた。鈴仙に馬乗りになって、彼女の顔から流れ出る血を熱心に舐め取っている。
「んっ、ちゅっ……ごめんね鈴仙。痛くなかった?」
「こいし、何してるの! そいつから離れなさい!」
「嫌よ! 私がペットと何をしようと、お姉ちゃんには関係ないでしょう!」
「ペットですって……?」
こいしに向けて伸ばした手を止め、さとりは思わず復唱してしまう。
ペットを与えてもろくに世話もせず、放浪してばかりのこいしが自らペットを連れて帰ってくるとは。
もっとも、ペットを放ったらかしにしていることについては、さとりも妹のことを言えた義理ではないのだが。
「そ、そうよ! お姉ちゃんの野蛮なペットと違って、とってもいい子なんだから!」
「いい子、ねえ……ちょっと兎さん、こいしの話は本当なの?」
「お姉ちゃんなら聞かなくったってわかるでしょう? いつもみたいに相手の心を覗き込めばいいじゃない!」
「ふむ、一理あるわね。そうだ、この際だからあなたも第三の眼を開いて、彼女の心を覗いてみればいいじゃない」
さとりはこいしの正面に回りこむと、彼女に向けて意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「きっと面白いことが分かるわ」
こいしはやや困惑気味に、さとりと鈴仙の顔を交互に見比べる。
他人の心を読んだところで、気が滅入るだけだということを彼女はいやというほど知っていた。
故に彼女は第三の眼を閉ざし、代わりに無意識で行動できる能力を手に入れたのだ。
「どうしたの? こんなに親しくできる相手でも、心を読むのは怖いのかしら?」
「さとりお義姉様、その……下着が見えてますわ」
「あなたは黙ってなさいこのエロ兎。っていうか何よお義姉様って」
鈴仙がひっ叩かれる音を聞きながら、こいしはさとりの言葉を反芻していた。
普段あまり物事を深く考えずに暮らしているこいしであったが、この時ばかりは悪い想像を抑えることが出来ずにいる。
面白いことが分かる、とさとりは言っていた。彼女は鈴仙の心を読み、そして何かを掴んだのだろう。
今のこいしにとって都合の悪い何かを。
「まったく手のかかる妹だこと。仕方がないから教えてあげるわ。実を言うと彼女は――」
「やめてっ! 聞きたくない!」
「おっと」
こいしが無意識の内に突き出した拳を、さとりは身を捻らせてかわした。
例え心を読むことができない相手でも、長年一緒に暮らしていればある程度の行動を予測することが可能だ。
そもそもさとりは、こいしに手を出させるためにあえて挑発的な言動を繰り返していたのだから。
「あらあら、今度は私に八つ当たり? ケンカをする時は相手の同意を得てからにしなさいって、いつも言ってるじゃないの」
「うるさい煩い五月蝿い! だったら勝負よ、お姉ちゃん!」
こいしは立ち上がり、さとりに向かって手袋の代わりに帽子を投げつけて宣言した。
「弾幕ごっこでも殺し合いでもなんでもいいわ! 私が勝ったらこれ以上鈴仙のことに口を出すのをやめて頂戴!」
「いいでしょう。私が勝った場合はどうするの?」
「好きにすればいいじゃない! もっとも、お姉ちゃんが私に勝つなんてこと絶対に有り得ないけどね!」
こいしの言うことにも一理あった。
これはさとり自身もある程度自覚していることだが、彼女の強さの大部分はサトリ妖怪特有の読心能力に依存したものである。
弾幕ごっこを例に挙げてみよう。あらゆる敵に対して有効な「想起」を封じられた場合彼女の力は半減し、極めて不利な立場に立たされてしまう。
「そうかもね。なら勝負の方法は私が決めさせてもらうけど、構わないかしら?」
「お好きにどーぞ!」
「弾幕ごっこでは私の不利は否めないわね。ここはひとつ、弾幕抜きの殴り合いなんてのはどう?」
「殴り合いですって? つまり肉と肉のぶつかりあいってことね。上等じゃない!」
さとりの提案に対し、こいしは目を輝かせながら応じた。
彼女がどういった意図の下に、このような提案を出してきたのかは分からない。
今のこいしに分かるのは、どうあっても自分の優位は揺るがないということと、これで姉をボコボコにする大義名分が得られたということだけであった。
「ルールは簡単よ。使用できるのは己の肉体のみで、どちらかが降参するか、意識を失ったりするかしたら決着。分かりやすくていいでしょう?」
「ええ、とってもね! 待っててね鈴仙、お姉ちゃんなんかすぐにぶっとばしちゃうんだから!」
こいしが鈴仙を、燐が空を安全な場所まで運び、エントランスの中央にスペースをつくる。
指の骨を鳴らしながら向かい合う姉妹を見て、燐はハラハラしつつも、敗者となるであろうどちらかを猫車で運べるという予感に心躍らせていた。
(いや……どちらかなんて言わず、いっそのことお二方とも運んでしまいたい。ああ、あたいったらなんてイケないペットなのかしらっ!)
「お燐、だだ洩れよ」
「んにゃっ!?」
さとりに釘を刺され、思わず背筋を伸ばしてしまった燐は、しばらくの間その場で悶絶して転げまわった。
壁を背もたれにして座った鈴仙は、そんな彼女たちを見ながら小さな笑みをこぼす。
「さて、それでは始めましょうか」
さとりは言い放つと同時に背を丸め、左足を半歩ほど前に出したのち足を内股にし、顎を引き、そして腋をしめた。
右手を口元に当て、左腕を腹の前で直角に曲げたその姿は、見ようによっては頬杖をついて考え事をしているようにも見える。
奇異な構えと相対し、こいしも得意の荒ぶる鷹のポーズで対抗しようとしたが、さとりが左腕を振り子のごとく揺らし始めたのを見て、思わずずっこけてしまいそうになる。
「なんなのその構え……ふざけてるの?」
「そういえば、あなたにはまだ見せたこと無かったわね。いらっしゃいこいし。私の実力、見せてあげるわ」
「迂闊に近寄っちゃ駄目よ、こいし……様」
こいしの後方から口を挿んできた鈴仙を、さとりはキッと睨みつけた。
先程までのニヤニヤ笑いはどこへやら、彼女の表情は幾分真剣なものへと様変わりしている。
「兎さんはヒットマンスタイルをご存知のようね。申し訳ないけど余計な口出しは遠慮願えるかしら?」
「大丈夫よ鈴仙、どうせこんなのお姉ちゃん一流のハッタリに過ぎないんだから!」
こいしは余裕の表情を浮かべながら、両手を顔の横まで下ろし、じりじりとさとりとの距離を詰めていった。
その姿は、まるで怪獣ごっこでもしているかのごとく緊張感に欠けるものであったが、さとりは気を散らすことなく左腕を振り続ける。
こいしが一歩進むごとに、彼女の気配はさとりの知覚から薄れていく。この勝負において、能力の使用までは禁止されていない。
彼女を感知できなくなるその刹那、さとりは十分に脱力した左腕を、鞭のごとく前方に振るわせた。
「なにっ……!?」
さとりの繰り出したフリッカージャブに右手を弾かれ、こいしは驚愕の表情を浮かべながら飛び退く。
再び左腕を揺らし始めたさとりが見据えるのは、右手を擦るこいしではなく、その後方から熱い視線を注いでくる兎。
先程のこいしに対するアドバイスを考えるに、彼女はこの展開を予期していたように思える。
「拳を振るうのも随分久しぶりだわ。正直な話、戦闘はあまり得意ではないのよ……強いけどね!」
「なるほどね。普段から腕を短く見せることで相手の油断を誘い、鼻っ柱に一発叩き込む戦法ってワケか。サトリ妖怪もなかなか侮れないものね」
「そうしなければ生き残れなかったからね。心を読むに値しない相手がウヨウヨしている以上、最後に頼れるのはこの腕一本のみなのよ」
今でこそ地霊殿という安住の地を得られたものの、そこに辿り着くまでの道は決して平坦なものではなかった。
誰からも嫌われ迫害される種族にとって、生きることすなわち外敵との戦いに他ならないのだから。
大抵の相手は精神攻撃で撃退できたものの、時にはそれが通用しない者もいた。
元より高尚な精神など持ち合わせていない低級妖怪や、心を読まれても平然としている鬼たち、なんでもいいから腕を食わせろと迫ってきた某蓬莱人など、強敵たちを挙げればキリがない。
放浪の日々の中で、さとりはそういった輩に対する戦い方を身につけてゆき、ついには地霊殿の当主の座を拳ひとつで奪い取るまでに至ったのだが、それはまた別の話。
「だからって、河童みたいに腕を伸ばすことないじゃない! お姉ちゃんにはサトリとしてのプライドってもんが無いの!?」
「……その台詞、あなたにだけは言われたくないのだけど」
「何ですって!? もうアッタマきた! お姉ちゃんにはこれから一方的に殴られる恐怖ってやつを、骨の髄までタップリ教えてあげるわ!」
宣言どおりにこいしは無意識へと潜伏し、さとりの持つ一切の知覚から消え失せた。
彼女はそのまま円を描くようにさとりの右側へと移動すると、駆け足で一気に距離を詰め、先程弾かれた右手を振り上げる。
「愚妹、推参なり」
芝居かかった口調で呟いたさとりは、左足を軸に九十度右に回転し、再び左腕を振るった。
「いったいっ!」
乾いた音がエントランス内に木霊し、こいしは慌ててさとりとの距離を開く。
――気配は完璧に断ってあったはずなのに、どうして?
何かの間違いだ、とこいしは自分に言い聞かせたかったのだが、左頬に残る焼け付くような痛みが、今の出来事は紛れも無い現実であるということを物語っている。
「ふふっ、今ならあなたの考えていることが手に取るように分かるわ。私が反応できたのがそんなに不思議かしら?」
「い、今のは偶然よ! 幸運は何度も続かないってことを教えてあげるわ!」
「教えてあげる、ねえ……」
こいしはその後数回に亘ってさとりの死角から攻撃を仕掛けたが、鋭い反応を見せる彼女のフリッカージャブの前に、ことごとく撃退の憂き目を見た。
疲労と困惑のあまりフラフラしているこいしとは対照的に、さとりは息を切らせることもなく余裕の表情で左腕を振り続けている。
もはや誰の眼にも勝敗は明らかであったが、こいしは未だ納得のいかない様子で戦意をむき出しにしていた。
「どうして……!? 無意識に対応できる者なんているはずないのに……!」
「分からない? だったら教えてあげましょう……と思ったけど、やっぱりやーめた」
「もう無理ですって! こいし様、ギブアップせい!」
見かねた燐が声をかけたものの、逆にこいしの闘争心に火をつける結果に終わってしまう。
やがて無意識からの攻撃を諦めたこいしは、両腕で顔面を保護するように構えると、重心を低くして正面からの突撃の姿勢をとった。
「要は懐に飛び込んじゃえばいいのよ。そうすればのびーるパンチは使えないでしょう?」
「あははっ、笑わせないで。あなたみたいな根性なしの弱虫に、正面から立ち向かうなんて芸当できるわけないじゃないの」
さとりのその嘲笑が引き金となり、こいしは弾丸のごとく彼女に向けて突進した。
もはや無意識に潜む必要もない。さとりのジャブに再び右手を弾かれたが、まだ左が残っている。
あとは懐に潜り込んで、そして――。
「抉らせてもらうわ、お姉ちゃん」
渾身の力を込めた左手を、さとりの顔面に向けて突き出す。
後先考えず、ただ無心に振るわれたその一撃は、さとりの癖っ毛を僅かに掠めて空を切った。
「こいつで、ダウンよ!」
こいしの一撃をダッキングでかわしたさとりは、上体を泳がせる彼女の顎に向け、硬く握り締めた右の拳を勢いよく振り上げる。
フリッカージャブはあくまで牽制目的の技。彼女に勝利をもたらしてきたのは、いつだってこの右手だった。
(こいし……!)
文字通り小石のごとく吹き飛ぶ妹を眺めながら、さとりは確かにその声を聞いた。いや、見たという方が適切だろうか。
駆け寄ってきた声の主は落下してきたこいしを受け止め、そのままきつく抱きしめる。
右手に確かな手ごたえを感じつつ、さとりはその者に向かって口を開いた。
「ようやく見せてもらえたわね。あなたの心の中を」
気絶したこいしを抱きしめながら、彼女――鈴仙は、そっと己の瞳を閉じた。
地霊殿のラウンジは中庭に面しており、耐熱硝子の向こうでは旧火焔地獄の炎が赤々と燃えている。
意識を取り戻した空が最初に見たものは、難しい顔で腕を組み、ひどく落ち着かない様子で歩き回る燐の姿であった。
空はソファから起き上がると、テーブルの上の茶器を倒さないよう慎重に脚を下ろし、燐に向かって呼びかけた。
「おはよーお燐。どうして私はここにいるの?」
「いきなり何だい。哲学の問題なら相手を選んでやりなさい」
「いや、そうじゃなくてね。私はたしかエントランスにいて、それで……」
意識を失う直前のことを思い出そうとするのだが、どういうわけかさっぱり思い出せそうもない。
ひどく恐ろしい思いをした気がするのだが、肝心の詳細は空の記憶から抜け落ちてしまっているようだ。
「あー……うん。思い出さないほうがおくうのためかもしれないねえ。きっと」
「そう? じゃあいいや。ところでお燐、さとり様とこいし様は?」
「さとり様はこいし様を寝室に運びに行ってるよ。あの兎と一緒にね」
倒れたこいしを運ぶ役目は、残念ながら燐の元には回ってこなかった。
代わりにさとりは彼女に対し、空をラウンジに運ぶよう指示を与えると、鈴仙を伴って行ってしまった。
「……兎? 地霊殿で兎なんか飼ってたっけ?」
「そこからかい……あっ、さとり様!」
空が振り向くと、そこには連れ立って入室してきたさとりと鈴仙の姿があった。
包帯でグルグル巻きにされた鈴仙の顔を見た瞬間、空の頭の中におなじみの警告音が鳴り響く。
Caution!! Caution!! ヤツハキケンダ。ヨクワカラナイケドトニカクハイジョセヨ。
「さとり様どいて! そいつ殺せない!」
「ちょっ、おくう!?」
制御棒に左手を添え、鈴仙らの方に向ける空を、燐が慌てて制止しする。
悪戯っぽく笑う鈴仙を横目で睨みながら、さとりは空らに歩み寄った。
「おくう、落ち着きなさい。彼女はもう敵ではないわ」
「囁くんですよ、私の中のヤタガラスがっ! そいつを生かしておいたら世のため人のためにならないとっ!」
「はいはい。それじゃあおくう、私のためにお湯を沸かしてきてくれないかしら? ちょうどお茶が飲みたい気分だったのよ」
「はっ! お任せください!」
新たな指令を受けた空は、テーブルの上のティーポットを掴み台所へと走り去って行った。
さとりは小さな溜息をつくと、鈴仙に椅子に座るよう促し、自身はテーブルを挟んだ正面の椅子に腰掛けた。
燐は万一に備え、両者から直角の位置にあるソファに陣取って、お茶の用意をしつつ鈴仙に対し睨みを利かせる。
「さとり様、本当に大丈夫なのですか?」
「こいしのことなら大丈夫よ。彼女が診たところ怪我も無いみたいだし、一晩ぐっすり寝れば元気になるって」
「いやいや、あたいが言ってるのはその彼女、ていうかコイツのことですよ。本当に信用できるのですか?」
「そうねえ。少なくともこいしに対しては誠実みたいよ? 私たちに対しては……」
さとりは挑むような目つきで、鈴仙を正面から見据えた。
「これから次第ね」
包帯の下で、鈴仙の口元が僅かに歪む。
彼女は手際よく包帯を解くと、傷ひとつない素顔を晒して微笑んだ。
燐が何か言おうとして口を開きかけたが、さとりがそっと手を伸ばして制止する。
「ありがとう。よく見えるわ」
「こいつの顔なんか見てどうするんですか? そりゃあ大した再生力だとは思いますけど」
「永遠亭印の特性軟膏よ。お求めの際は――」
「嘘おっしゃい。心を読めるようになったと思ったら早速これとは、あきれたとしか言いようがないわね」
鈴仙の瞳が赤い光を放ち、表情に一瞬ノイズのようなものが走った。
すると彼女の顔面に施されていた波長操作が解かれ、燐に引っかかれた痕が露わとなる。
「外見も心も隠し放題とは、こいしもとんでもない奴を連れてきたものだわ」
「別に隠していたわけではないわ。私はただ、無意識で行動していただけよ」
「無意識って……それじゃあなにかい? お姉さんはこいし様の能力で操られてたっていうのかい?」
燐が口にしたのと同じ疑問を、最初の内はさとりも抱いていた。
エントランスで対面したときから心が読めなかったことと、こいしに従順だったということが理由だが、それだけでは説明がつかなくなってきている。
こいしが昏倒した際、一瞬だけ鈴仙の思念を読むことができたが、その後は包帯が解かれるまで、彼女は心を隠し続けていたのだから。
「さて、そろそろあなたの目的を教えてもらおうかしら。あなたは何のためにこいしに近づき、この地霊殿にやってきたのかしら?」
「結論から言わせてもらうと、人生に苦しみをもたらす全ての概念から解放されること。それが私の目的よ」
「……はあ?」
嘘を言っているわけではないようだが、鈴仙の返答はさとりたちの想像の遥か斜め上を行くものであった。
燐がいささか間の抜けた表情で聞き返したが、彼女が居なかったらさとりが同じ表情を浮かべて同じ様に聞き返していただろう。
相手の真意を量るためには、外見だけでも平静さを保つ必要がある。そういった意味では彼女のような同席者の存在はありがたかった。
「順を追って説明させてもらうわね。私は元々、月の都で兵士をやっていたのよ。当然、有事の際は命を投げ出して戦うように教育されていたわ」
「あなたはそれが嫌で、地上に逃げ出してきた……と。そういう認識であっているわよね?」
「ええ。戦いの中でのみ訪れる死を待ちながら、永遠に近い時を過ごす……私にはそれが耐えられなかった」
物思いに耽るような表情でもって、鈴仙は天井を見上げた。
あたかもそこに月が浮かんでいるかのごとくに。
「使命を放棄したからといって、死の恐怖……苦しみから逃れられたわけではない。私には救いが必要だった」
「死なずに済む方法……蓬莱の薬と、それを作ることのできる存在……なるほど。あなたがあの竹林に辿り着いたのは、偶然ではなかったということね」
「あの……さとり様? できればその、あたいにも理解できるように話していただけるとありがたいのですが……」
心を読む者と読まれる者の会話は、第三者からすれば意味不明に聞こえてしまうものである。
こころなしか悲しげな表情を浮かべる燐を見て、さとりは済まなそうに笑ってみせた。
「ごめんねお燐。つまり彼女は死の恐怖から逃れるために不老不死の存在になろうとして、そして……挫折したのね」
「約半世紀にわたって私は蓬莱人たちと生活を共にしてきたわ。その結果理解したのよ。たとえ不滅の存在になったとしても、生きることの苦しみからは逃れられないってね」
永すぎる時間を持て余す輝夜と、彼女に半ば依存する形で自我を保ってきた妹紅。
そして常に月の動向を警戒し続け、ここ最近に至っては何者かを恐れるようになった永琳。
そんな彼女たちの姿は、鈴仙の期待を裏切ってなお余りあるものであった。
「私は悟ったわ。いくら逃げたところで、自分が変わらない限り心の平穏を得ることなどできはしないってことを」
「そして、あなたが見つけた最後の逃げ道が……こいし? あの子に何の関係が……」
「あ、おくう!」
部屋の入口でウロウロしていた空に最初に気が付いたのは、燐であった。
会話に加わるタイミングでも窺っていたのか、三人の視線を受けた彼女は妙に居心地が悪そうにしている。
本来ならお湯の入ったティーポットを携えていなければならないはずであったが、彼女が持っていたのは人数分のコップと冷たい麦茶の入った瓶を載せたお盆であった。
「おくう……私はお湯を沸かしてきてって言ったのだけれど……?」
「もっ、申し訳ありませんさとり様! 急いでお湯を沸かそうとして、それで、その……」
「勢い余って一つしかないポットを気化しちゃったというわけね。やれやれ」
さとりは空を招き寄せ、軽く握った拳で彼女の頭を小突いた。
そして懐から財布を取り出し、彼女に幾らかのお金を握らせる。
「これで新しいポットを買ってきなさい。今回はそれで勘弁してあげるわ」
「おっ、お任せください! 可及的速やかに目標物を調達して参りますっ!」
「おい馬鹿おくう! その麦茶は置いていけっての!」
お盆を持ったまま駆け出した空を、燐が慌てて呼び止める。
立ち止まった空は一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、やがて自分が持っているものに気が付くと、やや恥ずかしげにお盆をテーブルの上に置いた。
その一連のやりとりを、さとりと鈴仙は可笑しそうな笑みを浮かべながら見守っていた。
「おくう、焦っちゃ駄目よ。慌てず、急がず、ゆっくりね」
「はい! それでは行ってきます!」
何故か抜き足差し足で去ってゆく空を、一同は笑顔で見送った。
「楽しそうでいい所ね。地霊殿って」
「そうかしら? あなたの所も負けてないと思うけど」
「ウチは拳骨じゃあ済まないわね。同じ様な失敗をした日には二、三週間は生死の境をさまようことになるわ」
朗らかに言い放つ鈴仙に対し、さとりは笑顔で応じる。
彼女の発言は皮肉とも冗談とも受け取れるものであったが、そこに悪意は感じられない。
「彼女みたいな鳥頭も素敵だけど、苦悩を捨てるためにはまだまだ不十分ね。私が目指しているものはその先にある」
「その先って……何も考えず、何も感じない無意識の境地……そういうことだったのね」
「波長操作を応用した自己催眠と、師匠に内緒で精製した薬品によって、ある程度は感情や痛覚を制御することができるようになったわ。しかしそれでもまだ足りなかった」
燐に引っ掻かれた傷を愛おしそうになぞりながら、鈴仙は感慨深げに呟く。
彼女の思考の一端を垣間見たさとりは、納得の行った様子で頷いてみせた。
「それであなたは、こいしが持つ無意識で行動する能力に目をつけたというわけなのね」
「じゃ、じゃあこいつは、自分が楽になるためだけにこいし様の心を弄んでいたっていうことですか!?」
「待ちなさいお燐、それほど単純な話でもなさそうよ?」
いきりたつ燐を、さとりが手を伸ばして制止する。
鈴仙は身じろぎひとつすることなく、ただ悲しそうな表情を浮かべてみせた。
「こいしの事を知ったのは、人里に薬を売りに行ったときだったわ。彼女は八百屋の前で奇怪なポーズをとっていたんだけど、どういう訳か誰も彼女に気が付いていない様子だったの」
「何をやっているのよ、あの子は……」
妹が放浪を繰り返していることはさとりも知っていたが、そのような奇行をはたらいているとは初耳だった。
鈴仙が言うところの奇怪なポーズも、大体どのようなものかは想像がつく。
呆れた様子で眉間を押さえるさとりを、燐が苦笑いしながら慰める。
「しばらく見ていたら彼女、トマトを一つ掴んでポケットに入れると、そのままフラフラとどこかへ行ってしまったわ。誰も彼女を咎めようとしない、不思議な光景だった」
「ホントに何やってるのよ、あのバカ!」
「さ、さとり様落ち着いて! っていうかちょっと待った、どうしてお姉さんはこいし様に気が付いたんだい?」
頭を掻き毟るさとりを宥めつつ、燐は話題を変えようと疑問を口にする。
半分は好奇心による質問であったが、それなりに効果はあったらしく、さとりも落ち着きを取り戻してくれたようだ。
「さあねえ。どこかの妖精よろしく光の屈折を利用していたってのなら、私だけが気が付いた理由もわかるけど」
「あなたの瞳、便利そうで羨ましいわね」
「心にもないこと言わなくていいわ。これは推測に過ぎないのだけれど、こいしと私の波長が合ったってことなんじゃないかしら?」
鈴仙とこいし。臆病さゆえに傷つくことを恐れ、他人との接触を拒み続ける者同士。
両者の発する波長、すなわち精神状態が近い状態にあったからこそ、鈴仙は無意識で行動するこいしを認識することが出来たのではないだろうか。
「それからというもの、私は外出する度にこいしが発する波長を探して、遠くから彼女の様子を観察するようになったの。その力を詳しく知るためにね」
「こいし様に直接聞いたりはしなかったのかい?」
「ええ。観測対象への接触は成果を歪めてしまうことが多いからね。私はありのままの彼女を見ていたかったのよ」
「不愉快だわ。一歩間違えばストーカー同然じゃない。ひとの妹を何だと思っているのかしら」
「私には私の、彼女には彼女の人生がある。出来ることなら私のエゴに彼女を巻き込みたくはなかったんだけど……」
「でも、あなたはこいしの前に姿を現した。それについてはまあ、感謝してないこともないわ」
さとりは既に、二人が出会うきっかけとなった出来事を、鈴仙の中から想起して読み出していた。
並の妖怪なら即死級の炎と光線が飛び交う中、怯えるこいしを抱えて永遠亭へと走る鈴仙。
無事に自室へと辿り着いた彼女は、負傷の有無を確認するためこいしの服を優しく脱がせる。
幸い数箇所のかすり傷程度で済んだらしく、鈴仙は手際よくそれらに膏薬を塗ってやる。
呆けた表情でなすがままにされていたこいしであったが、その表情は目に見えて朱く染まっていく。
彼女は意を決した様子で立ち上がると、処置を終えて一息つく鈴仙を押し倒し、そのまま……。
「恋……しちゃったってわけね。なんてこと……」
「あのー、さとり様? お顔が赤くなっていますが、大丈夫ですか?」
「そ、そんなことはないわよ? 私は常に、冷静で、ある……」
歯切れの悪い回答を受けて、燐が不思議そうに首を傾げる。
鈴仙はどことなく幸せそうな表情でもって、そんな二人を見つめていた。
「彼女がなぜ竹林に来ていたのかは分からない。ともあれ、私の計画は大きな修正を余儀なくされたわ」
「でもそれは、お姉さんにとってチャンスでもあったってわけだ。違うかい?」
「否定はしないわ。直接彼女と触れ合ったことで、その力をより深く理解することができたのだから」
「そう、あなたは一晩ゆっくりたっぷり時間をかけて、こいしの肢体を隅から隅までじっくりと舐めまわすように……ああっ!」
「さとり様、お願いですから麦茶でも飲んで落ち着いてください」
燐からコップを受け取ると、さとりは腰に手を当て豪快に飲み干した。
ここで派手にゲップでもすれば様になったかもしれないが、生憎彼女は乙女である。多少取り乱していたとしても、嗜みまでは失っていない。
「ふう……ああ落ち着いた。そしてあなたはこいしの精神パターンを参考にして、自分の精神を弄りまわしたってことね」
「その通り。無意識って素晴らしいわね。余計な感情や思考に囚われることなく、本能のままに行動することができるんだもの」
「本能のままに行動……? じゃあお姉さんがここに来たのも、本能のなせる業だって言うのかい?」
「ううっ、まあその。そういう事になっちゃうのかしらねえ」
「なんだい、歯切れの悪い」
燐の質問を受け、鈴仙がいささか困ったような表情を浮かべる。
これはあくまで無意識による反応であり、精神的な動揺によるものではないとさとりは判断した。
「こいしを見てれば分かると思うけど、意識が無くても行動や判断に支障は出ないの。むしろ余計な要素が取り除かれ、常に最適な判断が下せるようになるみたいね」
「どうかしら。あの子は感情の赴くままに生きているようにしか見えないけどね。とてもじゃないけどあなたの言うような状態にあるとは思えないわ」
「そうかもしれない。だからこそ私の理想とする状態に近づくためには、こいしのように心を閉ざすのではなく、完全に消去してしまう必要があることが解ったのよ」
「心を消し去ってしまうってことかい? まるで生きる屍、ゾンビだね」
「現に私は、あなたが言うゾンビに極めて近い状態にある。それでも他人から見れば普通に過ごしているのとなんら変わりはないし、取り立てて不都合もないと思うわ」
「その割には随分怪しまれてたみたいじゃないの。あなたの家族、特にお師匠様には」
鈴仙が見せた心の一端から、さとりは今朝永遠亭で行われたやりとりを想起していた。
もっとも彼女の関心は、鈴仙の変化を怪しむ住人たちではなく、もっぱらこいしの見せた振る舞いにあった。
ひょっとしたら、妹は他人に対して心を開きつつあるのかもしれない。さとりは少しだけ嬉しく思った。
「あの人は色々と規格外だからね。まあそんなこんなで私の計画はあと一歩のところまで来ているのよ」
「あと一歩ってことは、まだ少し心が残ってるってことだね」
「そうなのよ。こいしから得た情報を基に少しずつ自我を削っていった結果、最後に残った感情が……」
「ちょっと待って、やめて。聞きたくないわ」
さとりは手のひらで額を押さえつつ、話を続けようとする鈴仙を遮った。
「どうしたんですか? さとり様」
「お燐、わからないの? 彼女がさっき言ってたじゃない。世界で最高の感情がどうとか、虫酸の走るようなことを!」
「それって確か、コイツがおくうとやり合ってた時の……まさか!?」
振り向いた燐の眼の中で、鈴仙が屈託の無い笑みを浮かべる。
心を捨て去ろうとした彼女が、最後の最後に捨てきれずにいる感情。
「そう……愛よ」
鈴仙が言葉を継ぐと同時に、頭を抱えたさとりが甲高い悲鳴を上げる。
彼女にはわかっていたのだ。鈴仙が元来強い自己愛の持ち主であることと、その自我が消えつつある今、行き場を失った愛が誰に向かっているのかを。
「私はこいしを愛してしまった。彼女の存在こそが、私の意識をこの不毛で無為無価値な世界に繋ぎ止める、唯一の鎖となってしまったのよ!」
「聞きたくなかった……その言葉だけは聞きたくなかった……!」
無意識の内に立ち上がっていたさとりが、力なく椅子に腰を下ろす。
彼女の予想では、事態はもっと簡単に終息を迎えるはずだったのだ。
目的を遂げた鈴仙はそのまま地霊殿を去り、こいしの恋心も一時の気の迷いとして片付けられる。
それで全ては元通りになると。だが、所詮は彼女の願望に過ぎなかったというわけだ。
「今の私は、すべてこいしのために存在すると言っても過言ではないわ。彼女が望むように振る舞い、喜ばせ、そして私も幸福を感じる。ある意味ではこれも理想的な在り方なのかもしれないわね」
「じゃあお姉さんは、本当にこいし様のペットになってしまったってことなの?」
「そのつもりはなかったのだけれど、今ではそれでも構わないと思っている。むしろ本望だわ」
「『ん』と『う』を抜いたら……?」
「よしなさいお燐! ……私は認めないわ。そんな不健全な関係、絶対に認めるわけにはいかないっ!」
このままなし崩し的に鈴仙を地霊殿に迎えてしまっては、さとりの気苦労が増える一方である。
こいしとつるんでどんなトラブルを引き起こすか知れたものではないし、何より元の飼い主たちが取り返しに来ないとも限らない。
先程話題に上った「お師匠様」のような規格外の連中と渡り合う程の気概など、さとりには毛頭ないのだ。
「お義姉様、そこをなんとか」
「私はぁ、お前のぉ、お義姉様じゃあ、なぁあいっ!」
「まあまあさとり様。こいし様のこともあるし、しばらくの間様子を見てみるのもいいんじゃないでしょうか? いざとなったらあたいとおくうで上手いこと処理しますから」
硝子の外の炎を眺めつつ、燐が真面目くさった顔で言ってのける。
彼女の頭の中では既に、ミディアムレアに焼き上がった鈴仙が猫車に載せられ、核融合炉へと運ばれる光景が描かれていた。
ペットの物騒な妄想に軽い眩暈を覚えつつ、さとりは気分を落ち着けるため麦茶に口をつける。
「灼熱地獄の炎、初めて見るけど案外綺麗なものなのね。いっその事ここを最後の地とするのもいいかもしれない。私は絶対地獄に落ちるって閻魔様も仰ってたし」
鈴仙の感慨深げな呟きを受けて、さとりは口に含んだ麦茶を盛大に噴出した。
この狂った生ける屍は、もはや死ぬことさえも恐れていないというのだろうか。
口元を袖で拭いつつ、さとりはどこか引っかかるものを感じていた。
「……結局のところ、あなたは何が望みなの? こいしと共に過ごすこと? それとも安らかな最後?」
「一切の望みを捨てる、っていうとなんだか知的に感じるかしら。生まれ育った月を捨て、逃げ込んだ先の地上をも捨て、こいしの中に心の安息を見出した私にとっては、どちらでも構わないというのが本音でしょうね」
「呆れた。そんないい加減な奴を大事な妹のペットになんて迎えてやるものですか。あなたの居るべき処はここではない。さっさと月なり地上なりに帰って、惨めな最後を迎えるがいいわ」
その大事な妹をアッパーで吹っ飛ばしたのは他ならぬさとり自身なのだが、今となってはどうでもいいことだろう。
鈴仙が現世に残した最後の感情、すなわちこいしへの愛を断ち切ってやれば、それで全ては解決するのだ。
さとりは彼女の心を覗き込み、決め手となる何かを掴むべく意識を集中させたが、これといった情報は手に入らなかった。
「ひょっとしてあなた、まだ死ぬのが怖いんじゃないの? 愛とかなんとか調子のいい事言ってるけど、意識を捨てられないのはそれが理由なんでしょう?」
「そう……なのかもしれない。生きていくために必要な最後の感情が愛だなんて、なんだか上手く出来すぎてるわね」
さとりが苦し紛れに放った一言を、鈴仙は意外にもあっさりと肯定してみせた。
相変わらず惚けた言い回しをしてみせてはいるものの、さとりの言葉は確かに彼女の核心を衝いたのだ。
となればこの機を逃す手はない。さとりは全身全霊をもって、彼女との心理戦に勝利すべく頭を働かせる。
「やはり地上に帰るべきだと思うわ。あなたには帰りを待っててくれる家族がいるでしょう? その人たちを裏切ってまで妄念に突き進むなんて、ナンセンスとしか言いようがないわ」
「月の都を警戒する必要が無くなった以上、あの人たちが私を必要とする理由はないわ。私が来るまで千年以上も過ごしてきたんだもの、今更いなくなったって気にするとは思えないけど」
「なるほどねえ。そうやってあなたは、自分を大事にしてくれた人々を捨ててきたのね」
相手の心を抉るような言動は、さとりが最も得意とする攻撃手段である。
表情を全く変えない鈴仙にどの程度通用しているかは定かではないが、説き伏せる分には問題ない。
あと一歩、あと一歩で彼女を完全に論破することができる。背中になにやら冷たいものを感じつつ、さとりは止めを刺すべく口を開く。
「いずれはこいしのことも捨ててしまうんでしょうね。あの子がどれだけ傷つくのかなんて、あなたにとってはどうでもいいことでしょうから」
鈴仙は口を閉ざしたまま、何かに驚いたかのように眼を見開いた。
勝利の瞬間が近づいていることを確信しつつ、さとりは視線を横に移し、燐の様子を窺ってみる。
先程から口を閉じたままの彼女は、なにやら落ち着かない様子で辺りを見回していた。
心を覗いてみてもイマイチ要領を得ないため、さとりは気にするのをやめて再び鈴仙に視線を戻す。
「……今ならまだ、こいしの心の傷は浅くて済むわ。あなたが本当にあの子を愛しているというのなら、ここは潔く身を引ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ」
「鈴仙! お姉ちゃんの言う事なんか聞いちゃ駄目よ!」
締めに入ろうとしていたさとりは、何者かの介入により壊れた蓄音機のごとく呻き声を吐き続ける破目に陥ってしまった。
回りくどい言い方はやめよう。話題の中心に上がっていた彼女の妹、古明地こいしが突然現れて、後ろから姉の首を締め上げてしまったのだ。
無意識の内にこいしの存在を察知していた鈴仙と燐であったが、今はただなす術もなく手足をバタつかせるさとりを眺めるしかなかった。
「こ、い、し……? あなた、どうして……?」
「残念だったわねお姉ちゃん! あんなヘナチョコパンチの一発や二発で、私をノックアウトしようなんて考えが甘いのよっ!」
強がってみせてはいるものの、あの一撃で意識を刈り取られてしまったことは事実である。
さとりにとっての誤算はふたつ。ひとつはこいしの回復が予想以上に早かったこと、そしてもうひとつは、彼女が攻撃に移った瞬間にも動きを察知できなかったことだ。
こいしが持つ他人の無意識に潜む力は、元を辿れば他人との関わりを避けたい一心で発現したものである。
彼女自身の意思で他人と関わろうとした場合、当然その能力は解除され、相手も彼女を意識することができるようになる。
先程の一騎打ちの際も、さとりはこいしが仕掛けてくるその一瞬に意識を集中させることで、迎撃の態勢をとることができたのだ。
「鈴仙をいじめることに夢中になるあまり、私の奇襲を察知できなかったみたいね! お姉ちゃんのくせに調子に乗るからいけないのよっ!」
「おっ、おやめくださいこいし様! このままではさとり様が窒息死あそばされて、僭越ながらこのあたいめが入念にエンバーミングを施したのち猫車に載せてああっ! 快感っ!」
燐の説得だかなんだかよく分からない奇声を受けて、こいしは満足げにさとりの首から手をはなした。
激しく咳き込む姉を悠然と見下しつつ、こいしは彼女の正面へと回り、鈴仙の膝の上に腰掛ける。
「げほっ、ぐほっ……こいし、いつから私の後ろに居たの……?」
「えーっとね、おくうが買い物に出かけたあたりから」
「なんてこと……ほとんどバッチリ聞かれちゃってるじゃないの……」
まるで気配を察知できなかったことは置いておくとしても、こいしがこれまでの話を黙って聞いていたことが、さとりにとっては驚きだった。
会話の内容を理解できる程度の知能はあるはずなのに、どうして彼女は何一つアクションを起こさなかったのか。
鈴仙の膝の上で幸せそうに微笑む妹の姿は、かつて無いほどに不気味なものとしてさとりの眼に映っていた。
「二人の会話をずっと聞いてたんだけど、どうも大事なことが抜け落ちてるみたいなのよねえ」
「あのー、こいし様? 一応あたいも参加してたんですけど……」
「お燐はテキトーに相槌打ってただけじゃん」
「いやあ、まあその」
「こいし、大事なことって何?」
頭を掻きながら照れ笑いを浮かべる燐には眼もくれずに、さとりは妹に対して問いかけた。
「私がどうしたいかってことよ。二人とも私の意志なんてまるでお構いなしに話を進めていたじゃない。私は鈴仙と一緒に居たいだけなのに、どうして鈴仙を追い出す流れになってしまっているのかしら」
「あのねえこいし、ちゃんと話を聞いていたの? この兎はあなたを利用していたに過ぎないのよ?」
「それくらいちゃんと分かってるわよ。でもねお姉ちゃん、私もまた鈴仙を利用していたとは考えなかったの?」
鈴仙の両手を自分の前で交差させながら、こいしは挑むような目つきで姉を見据えた。
さとりとてその可能性を考えなかったわけではないが、一連のやりとりの中ですっかり頭の中から消え失せてしまっている。
「そうだったんだ。全然気が付かなかったわ」
「うん! そうだったの」
「そーなのかー」
利用されていた当の本人は、まるで意に介さない様子でこいしにされるがままになっている。
奇妙なことに、その様子はさとりの眼に微笑ましいものとして映った。
「ずっと誰かに見られてるような気がしてたんだ。誰かが私のことを見守っていてくれるような、そんな感じが」
「その兎のことを言ってるの? でも彼女は……」
「興味本位だったって言いたいんでしょ? 私もそう。だからその人が何者なのかを知りたくなって、竹林に住んでる薬売りさんだってことまで調べたの」
誇らしげに胸を張ってみせる妹に対し、さとりは苦笑いで応じた。
「でも、実際に会うのは怖かったわ。どうしても悪い方向に想像しちゃって、ずっと迷ってた」
「へえ、こいし様でも想像したり迷ったりするものなんですねえ」
「お燐……ぶつよ?」
軽口を叩く燐に対し、こいしは冗談っぽく拳を振り上げてみせる。
さとりはこいしに代わって燐の頭を軽く小突いた後、続きを促した。
「昨日の夜、意を決した私は竹林に赴いたの。そこでなんだかよく分からない戦いに巻き込まれて、もう駄目だぁ、って思った時……」
「彼女が来てくれた、ってワケね」
「私、とっても嬉しかったの。やっぱりこの人は私のことを見守っていてくれてたんだって。そう思ったら自分を抑えられなくなって、そして……」
「あー、その先は言わなくていいわ」
嬉しそうに話を続けようとするこいしに対し、さとりは手のひらを向けて制止する。
燐が不満そうな声を上げたが、さとりが一瞥をくれると気まずそうに縮こまった。
「霊夢たちと戦って以来、私は再び他人に興味を持つようになってしまったわ。でも正直な話、まだまだ他人と関わるのは怖いの」
「あなたには、自分と他人の間に立ってくれる存在が必要だった。だから彼女の無意識にはたらきかけ、自分と行動を共にするよう仕向けたのね」
「お姉ちゃんは何でもお見通しなのね。そうよ、鈴仙にも私のことを好きになってもらいたかったの。鈴仙が一緒に居てくれれば、私はきっともう一度世界と向き合えるって、そう思ったのよ!」
こいしの独白は、終わりに近づくにつれて叫び声に近いものとなった。
言い切った後顔を伏せる彼女の髪を、鈴仙が優しく撫でてやる。
「……だからね、さっき鈴仙が私のことを愛してるって言ってくれたとき、嬉しくて思わず飛び上がっちゃったわ。誰も気付かなかったけど」
「なるほどねえ。そんなこんなでこいし様は、兎のお姉さんをペットにしたってわけなんですね?」
燐は先程鈴仙にしたのと同様の質問を、今度はこいしに対して行った。
さとりのペットである彼女にとって、どうやらそこが最大の関心事であるようだ。
「あー……うん。ペットの話云々はね……実は私の口から出まかせなのよ」
「まあ、そんなことだろうと思ったわ」
「だ、だって! お姉ちゃんたちなんだか妙に殺気立ってたし、鈴仙のことを認めてもらうにはそれしかないって……お燐! そういえばあなた、お姉ちゃんに何か余計なこと吹き込んだんでしょ!」
「いやあ、地上には気の触れた兎がいるっておくうに聞いたことがあったもんで。あたいてっきり、こいし様がナニカサレタんじゃないかって早合点してしまいまして。それでさとり様に相談しようと……」
「言い訳無用! ネコジュースにしてやるから神妙にしなさいっ!」
「ひい! お許しをー!」
こいしの剣幕に気圧された燐は、猫に変化してさとりの膝の上へと避難した。
余談になるが、空が鈴仙のことを知っていたのには理由がある。
河童たちによるバザーが催された頃、地上に遊びに行った彼女は鈴仙と遭遇し、金烏と玉兎の宿命の対決と相成ったのだ。
勝敗はおろか対決に至った理由すらも不明なその戦いは、後の世に「ザ・ディバイドの戦い」という名で語り継がれ、伝説の一戦として好事家たちの間で盛んに議論が繰り広げられることとなる。
もちろん空にとってはそれほど重要な出来事ではないため、燐に話す頃には記憶が曖昧なものとなり、鈴仙と再会する頃には完全に忘却の彼方にあった。
「まあまあこいし。大体お燐の言った通りだったじゃないの」
「あの、お義姉様? 私は気の触れた兎じゃなくて、気を触れさせる兎ですわ」
「だからお義姉様って呼ぶなとあれほど……なんかもういいわ、疲れた」
「やった! 私許された!」
こいしと抱き合って喜びを表現する鈴仙に対し、さとりは忌々しげな視線を送った。
結局のところ、状況は何一つ変わっていない。
いや、こいしの意思がはっきりと示された今となっては、さとりにとって状況はむしろ悪化したともいえるだろう。
「……さっきも同じ様なこと聞いた気がするけれど、あなたたちは結局どうしたいの?」
「決まってるでしょ! 鈴仙とここで一緒に暮らすのよ!」
「こいしの望むままに」
「それじゃ困るの! それじゃ困るって言ってるのよっ!」
さとりは二人を怒鳴りつけつつ、テーブルに拳を叩きつけた。
一瞬怯んだ様子のこいしであったが、すぐに気を取り直し毅然とした表情で姉に食って掛かった。
「どうしてよ!? どうして私たちの仲を引き裂こうとするの!? 橋姫さんにでも何かされちゃったんじゃない!?」
「別に嫉妬なんかしてないわよ。私はただ、これ以上地霊殿に騒ぎを持ち込んで欲しくないだけで……」
「なによそれ!? 結局自分の身が可愛いだけじゃない! お姉ちゃんのバカ! 事なかれ主義の意気地なし!」
「……ああそう。そういう態度を取るというのなら、私も言いたい事をはっきりと言わせてもらうわ」
さとりが急に立ち上がったため、膝の上に乗っていた燐があやうく振り落とされそうになる。
飼い主の機嫌がかつて無い程に悪化したことを察した彼女は、先程まで自分が座っていたソファの後ろに隠れてしまった。
「あんたたち、気持ち悪いのよ! なんかいつの間にか気持ちが通じ合ったかのように勘違いしてるみたいだけど、結局はお互いに能力を使ってそれらしく振舞っているだけじゃない!」
「そ、そんなことない! 私と鈴仙は……」
「愛し合っているとでも言うつもり? 笑わせないで。あんたらが愛してるのは自分自身であって、相手のことなんか都合のいい道具くらいにしか思っていないんでしょう!?」
「お義姉様、少し落ち着いて」
「お前は黙ってなさい出来損ないのゾンビ兎が。こいし、こいつの姿をよく見ておくことね。これこそが世界に背を向けた臆病者の末路というものよ。生きてるんだか死んでるんだか分からない、哀れなナマモノ……」
「酷い! 言い過ぎよお姉ちゃん! 鈴仙に謝ってよ!」
「何を謝る必要があるというの? この酷く誤った存在に対して、私が何か間違ったことを言ったとでも?」
「お姉ちゃん……私、本気で怒るよ?」
鈴仙の膝から立ち上がったこいしは、テーブルを挟んだ反対側に位置する姉を正面から睨みつけつつ、低い声で呟く。
人知れず人型に戻った燐は、ソファの陰からその様子ハラハラしつつ見守っていた。
「ええ、怒りなさい。思う存分感情を爆発させるがいいわ。その兎みたいになるよりは余程マシというものよ」
「まだ言うつもり……? ならばその減らず口、私の怒りで永遠に塞いでやるっ!」
「駄目よこいし、感情に振り回されては駄目」
テーブルに足を掛け、さとりに飛び掛ろうとするこいしを、後ろから鈴仙が抱きとめた。
「放して、放してよ鈴仙! これ以上アイツにあなたのことを……!」
「感情のままに行動してしまったら、いつか必ず後悔することになるわ。……今の私みたいにね」
鈴仙の腕の中で暴れていたこいしであったが、彼女が悲しそうな表情を浮かべていることに気付くと、抵抗をやめ大人しくなる。
そんな二人の様子を、さとりは腕を組みながら眺めていた。
「私はいつだって間違っていた。月から逃げ出したことも、不老不死を夢見たことも、そして……」
「……こいしを巻き込んでしまったことも、か。どこまでも自分勝手な兎ね。あなた」
鈴仙が飲み込みかけた言葉を、心を読み取ったさとりが繋いだ。
驚いたのはこいしである。彼女は鈴仙の肩を掴み、揺さぶりながら問いかける。
「れ、鈴仙? 私のことなら気にしないでいいのよ? 私なら大丈夫、大丈夫だからっ……!」
「いいえ。お義姉様の言った通り、私はあまりにも周りの人々に無頓着過ぎた。もう一度すべてをやり直す時機が来ているのかもしれない」
「何を言っているの……? 私のこと、嫌いになっちゃったの……!?」
こいしは鈴仙の胸に顔を押し付け、肩を震わせて嗚咽する。
その様子を冷ややかに見つめていたさとりは、鈴仙の精神状態が俄かに変化し始めたことを察知して、怪訝そうな表情を浮かべた。
「そんなわけないじゃない。ただ、今までよりも少しだけ自己主張が強くなるかもしれないから、そこは勘弁してね。こいし」
「あなた、一体何を……!?」
まるで霧が晴れてゆくかのように、鈴仙の隠された本心が露わになっていくのをさとりは感じた。
今まで彼女が見せてきた心は、波長操作によって巧妙に仕立てられた仮面に過ぎなかったというわけだ。
ここに至ってようやくさとりは、目の前の兎――鈴仙・優曇華院・イナバの心を覗くことができた。
「今度こそ、本当に全てを曝け出してくれたみたいね」
「ええ。これが私、一切の補正抜きの私の本心。 はじめまして、とでも言っておいたほうがいいかしら?」
「うーん……どこがどう変わったのか、あたいにはよく分からないねえ」
「まあ、その程度の違いしかないかもしれないわね、実際」
ソファの陰から問いかけてきた燐に対し、鈴仙は困ったような表情で答える。
こいしは顔を上げ、彼女の顔をまじまじと見つめた。
「鈴仙……今の鈴仙は、無意識じゃなくて自分の意思で行動しているの?」
「ええ、そうよ。あなたのおかげで、私ももう一度世界と向き合ってみようという気持ちになれたわ。ありがとう、こいし」
「でも、鈴仙は本当にそれでいいの? 完全に無意識になっちゃえば、楽に生きていけたかもしれないのに……」
申し訳なさそうに顔を背けるこいしを、鈴仙は笑顔で抱きしめた。
確かに彼女の言う通り、完全なる無意識に陥ってしまえば、悩むことも苦しむこともなくなるだろう。
だが、鈴仙はそれを良しとしなかった。意識を手放してしまえば、彼女自身がこいしの存在を感じることもできなくなってしまう。
それは、こいしをこの世界に置き去りにして、自分ひとりが逃げるのと同義であると、彼女はそう考えたのだ。
「私の本気ってやつを見てもらいたかったのよ。あなたにも、あなたの家族にも」
「じ、じゃあ鈴仙は、これからも私と一緒にいてくれるのね!?」
「あなたが望むならいつまでも。もっとも、本来の私は色々とアレらしいから、こいしを幻滅させちゃうかもしれないけどね」
「何言ってるのよ! 色々とアレなのはお互い様じゃないの!」
「フフッ、違いないわ」
「アレ」が一体何を指しているのかは、傍らで見ているさとりの眼を持ってしても見抜くことができなかった。
彼女は心の中でシャッポを脱ぎつつも、今後この二人をどう扱うかについて検討を始めた。
「あなたたちが本気だってのは十分わかったし、これ以上反対するつもりもありません。でも、四六時中一緒に過ごすっていうのは、ちょっと難しいと思うのよねえ」
「そうですねえ。兎のお姉さんにも一応家族がいるみたいですし……そうだ! こいし様が地霊殿を出て、地上で暮らすっていうのは如何でしょう?」
「ふーん、お燐は私に居なくなって欲しいんだ。知らなかったよ」
「いやいや、そういうことではなくてですねえ……困ったにゃあ」
こいしにジト目で睨まれた燐は、決まりが悪そうに頬を掻き始める。
二人が共に過ごすためには、どちらかが今の暮らしを捨てなくてはならない。
鈴仙にそれを望めば永遠亭が黙っていないだろうし、かと言ってこいしを地上に送り出すのもさとりとしては不安が残る。
「そんなに悩む必要があるのかしらねえ? だってホラ、月から見れば地上も地底も大差ないじゃない」
「それが何だっていうのよ、まったく……」
「距離というものは認識によって左右されるほど曖昧なものなの。お互いをよく理解しあえば、隔たりはぐっと小さくなるはずだわ。私とこいしみたいにね」
「あなたの言う事はいちいちわけがわからないわね……ちょっと待って、まさか!?」
鈴仙が何を意図しているのか、心を読んださとりにはすぐに理解することができた。
恐れというものは無知や無理解から生じるものであり、乗り越えるためには相手のことを知ろうとする勇気が必要となる。
こいしや鈴仙がそうしてきたように、今度はさとりが勇気を出す番であると、彼女の心はさとりに対して訴えているのだ。
「どうしたんですかさとり様? なんだか難しいお顔しちゃって」
「あー! 私わかった! 鈴仙が何を言いたいのか!」
「こいし様まで……あたいには何が何やらさっぱりですよ」
「おっ、お待たせしましたああああああぁっ!」
燐が拗ねたような声を上げたのとほぼ同時に、買い物に出かけた空が部屋に飛び込んできた。
新品のティーポットを携えた彼女は、そのままさとりの元へと駆け寄った。
「ご覧下さいさとり様! 以前のものよりも一回りほど大きな……あっ、この兎まだ居たのか! こいし様から離れ……」
「おくう、お燐。今からみんなで地上に行くから、すぐに準備をなさい」
「へっ? 地上ですか?」
鈴仙に掴みかかろうとする空を羽交い絞めにしながら、燐が素っ頓狂な声を上げた。
さとりの意図は不明だが、ここは黙って従うのが正しいペットとしてのあり方である。
燐は手早くコップを盆に載せると、ポットを持った空を伴って台所へと向かった。
「私たちも準備しなきゃ! 行きましょ鈴仙!」
「わわっ、ちょっと、こいし!?」
一足早く立ち上がったこいしは、鈴仙の膝裏と背中に腕を差し入れ、お姫様抱っこの形で抱き上げた。
予想だにしていなかった事態を受けて、鈴仙の頬が朱に染まる。
「あはっ♪ 鈴仙ったら真っ赤になっちゃって、可愛いんだ!」
「こ、こいし……! これって結構恥ずかしいのね……」
「兎さん? あなた下着が見えてるわよ」
「お義姉様まで、もう……!」
そのまま寝室に向けて去って行く二人を、さとりはニヤニヤしながら見送った。
さとりの意図を汲んだ上での行動だとしたら、おそらくこいしは数日分の着替えを取りにでも行ったのだろう。
「さて……上手く事が運べばいいのだけど……」
さとりはソファに身体を預け、天井を眺めながら呟く。
これから彼女が赴こうとしているのは、鈴仙の棲家である永遠亭。
こいしの身内として、一度は顔を出しておこうという思いもあったが、それ以上に二人のこれからについて先方と相談したかったのだ。
しかし相手は得体の知れない宇宙人。どのように話を進めればよいものやら、さとりには皆目見当がつかない。
できれば穏便に済ませたいところではあるのだが――さとりは心配性であった。
一行が永遠亭に辿り着いたのは、その日の夜のことである。
大広間に案内されたさとりは、事を荒立てないよう慎重に言葉を選びながら、輝夜と永琳に対し事情を説明した。
「話は大体わかったわ。つまりこれからは、なるべく二人が一緒に居られるよう計らってあげればいいのね。簡単、簡単」
「えっ……? そんなあっさり決めちゃっていいのですか?」
「私がいいって言ったらいいの。せっかく鈴仙にもお友達ができたんですもの、少しくらい融通してあげなきゃ可哀相よ。ねえ永琳?」
永遠亭の主、輝夜はさとりの申し出を快く承諾してみせた。
やや肩透かしを食らった感のあるさとりは、念のため輝夜の心を読み、彼女が嘘をついていないことを確認する。
鈴仙から事前に「あの二人の思考をまともに読もうとすると気が触れるかもしれない」との警告を受けていたため、あくまで慎重に。
「永琳、どうしたの?」
「えっ? ああ、そ、そうね。業務に支障が出ない範囲でなら、あの子たちの好きにさせてあげてもよいでしょう。オホン」
「もう、しっかりしてよね」
なにやら落ち着かない様子であたりを見回していた永琳は、輝夜に脇を突かれてわざとらしく咳払いをしてみせた。
鈴仙が元に戻り、こいしの姉であるさとりが二人の関係を認めた以上、この件について永琳の気懸かりは無くなったといえる。
「うんうん。話の流れはさっぱり解らないけど、とりあえずこれで一件落着みたいね」
さとりの隣で、すっかり出来上がった様子の霊夢が酒を呷っている。
今の永琳にとっては心を読めるさとりよりも、むしろこちらの方が不気味な存在であった。
「あのー、霊夢? あなたは一体何をしにきたのかしら……?」
「いやねえ、神社の周辺でコイツらがウロウロしてるのを見かけたもんだから、こりゃ異変か宴会かのどちらかだと思って、こっそり後を尾けてきたってわけよ」
「呆れたひとね。あなた途中から完全にお酒目当てだったじゃないですか。それにあなたの尾行、鈴仙に速攻でバレてたみたいですよ。ややこしくなるからあえて無視したみたいですけど」
「いやあ、まあその。うっ、うわっはっはっ!」
さとりのツッコミを笑って誤魔化そうとする霊夢に対し、永琳は油断の無い視線を送る。
彼女は警戒しているのだ。霊夢来訪の裏には、あの得体の知れないスキマ妖怪の思惑が働いているのではないかと。
顔を動かさずに目線だけで部屋中を見回す永琳を放置して、輝夜は座ったままさとりににじり寄った。
「ねえねえさとりさん。これからはあの二人がお互いの家を行ったり来たりするってことでいいのよね?」
「え、ええ。差しあたって今日からしばらくの間、ウチのこいしがこちらで厄介になりますが……」
先程さとりが行った提案とは、つまるところそのような内容であった。
二人が共に過ごすというのなら、永遠亭と地霊殿の両方を二人の家にしてしまえばいい。
元々は鈴仙の入れ知恵であったが、実際に口にしたのはさとりである。
彼女は自分の意見が無事に受け入れられたことに満足していた。
「折角ここまで来たんですもの、あなたたちも一緒に泊まっていってもいいのよ?」
「えっ!? い、いえいえ! 急に押しかけた上にそこまでしていただくなんて、そんな……」
「なに水臭いことを言ってるの。あの子たちが友達同士になった以上は、私たちだって友達みたいなものでしょう?」
満面の笑みで迫ってきた輝夜を見て、さとりは少したじろいだ。
嫌われ者として過ごしてきたさとりにとって、ここまで積極的かつ友好的に接してくる相手は初めてである。
「そうだ! 鈴仙もその内あなたの家に行くんでしょ? その時は私もお邪魔させてもらっていいかしら?」
「ちょっ、輝夜!?」
「あなたも一緒に行くのよ永琳。友達の家に遊びに行くのに、何を遠慮する必要があるというの?」
「うーん……それはまあ、そうかもしれないけど……」
口を挿もうとした永琳に対し、輝夜はぴしゃりと言い放つ。
永遠亭に篭りがちな彼女にとって、今回の件は友人を作る数少ないチャンスである。
いつになくアグレッシブな彼女を見て、永琳は不安を覚えつつも少しだけ嬉しく思った。
「あー、あんたたち? 行ったり来たりするのは結構だけど、神社の近くを通る際はお賽銭を忘れないようにね」
「神社はいつから関所になったのかしら」
「うっさいわね。ウチだって色々大変なのよ。信仰は増えないのにライバルばっかり増えるんだから……」
耳元で愚痴をこぼす霊夢をよそに、さとりはこれからの事について思いを馳せた。
永遠亭との敵対という最悪のシナリオは避けられたものの、ここまで先方に気に入られてしまうとは思ってもいなかったのだ。
この先なにかと気苦労は絶えないだろうが、不思議と悪い気はしなかった。
友人を作る機会に恵まれないのは、さとりも同じなのだから。
「そういえば、鈴仙はどこに行ったのかしら? こいしさんの姿も見えないようだけど……」
「言われてみればそうですね。ではウチのペットに探させて……って、こっちもいないの?」
「ん? バカ猫とバカ烏ならさっき出て行ったわよ。リスクマネジメントがどうとか言ってたけど、何のことかしらねえ?」
「あの子たちったら、勝手なことを……」
おおかた交渉が決裂した際に備えて、奇襲の準備でもしているのだろう。
さとりは手のひらで額を押さえつつ、提案者であろう燐にどのようなお仕置きをすべきかを考えた。
「竹林に迷い込んだら大変だわ。永琳、イナバたちに探させた方がいいんじゃない?」
「そうねえ。てゐがいればすぐにでも行かせるところなのだけれど……あの子はいつまで寝ているつもりなのかしら」
「いえ、それには及ばないと思います。多分すぐ近くにいるでしょうから……」
「さっ、さとり様ぁ~! 不審な輩を捕まえましてございますぅ~っ!」
叫び声が響くと同時に縁側に面した障子が開き、燐と空が飛び込んできた。
猫車の荷台には、なにやら人型の黒い塊が載せられている。
「捕まえてきたってあなた……どう見ても生きてるとは思えないわよ、それ」
「す、すみません。コイツがいきなり塀を乗り越えてきたので、驚いたおくうが、つい……」
「ご安心くださいお姫様! 塀には焦げ跡ひとつ付けていませんから!」
「それは別に構わないのだけれど……この塊、まさか!?」
「そうよ、そのまさかよ!」
「塊が喋った!?」
喋っただけではない。塊はムクリと立ち上がって、全身から炎を放ち始める。
やがて炎がおさまった時、猫車の上で一人の少女が仁王立ちしていた。
「妹紅! やっぱりあなただったのね!」
「十時間四十二分三十六秒ぶりだな輝夜! ところでこいつらは何だ? お前の新しいペットか?」
「大事な大事なお客様よ。失礼のないよう可及的速やかに退去なさい!」
「宿敵の指図は受けんよ! ……ん? そこのお前、どこかで見たことがあるような……」
「えっ? 私ですか?」
妹紅の視線を受けて、さとりは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
彼女の全身を舐め回すように見つめた後、妹紅の表情が喜びに満ちたものへと変わる。
「お前……あの時のサトリ妖怪か」
「あの時……? それじゃまさか、あなたは!」
妹紅の記憶を読み取ったさとりは、相手が何者かを理解した。
数多くの妖怪を屠ってきた妖怪ハンターにして、不老不滅の蓬莱人。
かつてさとり自身も襲撃を受け、三日三晩に亘る死闘を繰り広げた経緯があった。
「まだ生きていたとはな。だがそれも終わりだ、決着をつけようか!」
「くっ、よりによってこんな時に……!」
妹紅が臨戦態勢に入るのを見て、さとりも弾幕戦に備えるべく、彼女のトラウマを探り始める。
その大半は輝夜ご自慢の「難題」であったが、とりわけ大きなものが別の女性による「頭突き」であったため、さとりは首を傾げた。
「こらこらあんたたち、いい子にしてないと撃ち殺すわよ?」
弾幕戦の気配を察知した霊夢が、酒を呷りつつ睨みをきかせる。
タダ酒にありつける折角の機会を、無粋な連中に台無しにされるなど彼女の本意ではないのだ。
「……そうですね。こんなところで弾幕の撃ちあいなどをしては、皆さんに迷惑が掛かってしまいます」
「ほう、大人しく私に食われる気になったか。殊勝な心がけね」
「妹紅、あなたいい加減に……!」
いきり立つ輝夜を制し、さとりは不敵な笑みを浮かべた。
周囲の被害を抑えつつ、正々堂々と決着をつける方法を思いついたのだ。
「妹紅さん、といったわね。ここはひとつ、弾幕抜きの殴り合いなんてのはどうかしら?」
「なにィ……?」
地霊殿で妹に対して言ったのとほぼ同じセリフを、さとりは自信たっぷりに口にした。
彼女の口から出たとは思えないほど野蛮な提案に、その場に居た者たちは困惑の表情を浮かべる。
唯一事情を知る燐だけが、暴力と鮮血の予感に歓喜の表情を浮かべていた。
「……そうか、そういえばお前はそういうヤツだったっけな。だんだん思い出してきたぞ」
「それは何より。で、どうします? このまま尻尾を巻いて逃げ帰るというのなら、引き留めはしませんが」
「引き留めはしない……? 引き留めはしないって言ったのか!? 上等だよ、表に出な!」
二人はそのまま庭に飛び出すと、十分な間合いをとって対峙した。
両手をモンペに突っ込んだノーガード戦法をとる妹紅に対し、さとりは得意のヒットマンスタイルで迎撃の構えを見せる。
心配そうに見守る輝夜の横で、永琳はさとりの構えに熱い視線を送っていた。
「さとりさん、大丈夫かしら……」
「彼女、相当な修羅場を潜り抜けてきたみたいね。この勝負、どちらに転ぶか見物だわ」
「どっちだっていいと思うけどねえ。それよりお酒が無くなっちゃったわ。おかわりまだー?」
「自分で取ってきなよこのバカ巫女! ねえお燐、私たちも助太刀しなくていいのかな?」
「まあ見てなって。さとり様を怒らせるとどうなるか、あのお姉さんも身をもって知ることになるだろうよ」
ギャラリーが見守る中、妹紅はゆっくりとさとりとの距離を詰めていく。
一歩、また一歩と近づいてゆき、やがてさとりの制空権に足を踏み入れた時、彼女はモンペから両手を抜き出し、そして――。
さとりと妹紅が激突する音を、鈴仙は自室の前の縁側で聞いていた。
(……お前も紅に染まれ!)
(猪口才なっ!)
両者の実力は拮抗しているらしく、二人の怒号に混じってギャラリーが囃し立てる声も聞こえてくる。
思わず噴き出してしまった鈴仙を見て、隣に座っているこいしが不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもないわ」
妹紅の襲来を察知した鈴仙は、さとりと輝夜の会話が一段落した頃を見計らって、こいしと共にこっそりその場を抜け出した。
さとりが狙われるであろうことも予測がついたが、永琳や霊夢がいれば取り返しのつかない事態は避けられるであろうと判断し、あえて何も言わずに立ち去ったのだ。
そして今、二人は誰にも邪魔されること無く上弦の月を眺めている。
「鈴仙は、あそこから来たんだよね」
「ええ。もう何十年も前の話だけど、昨日のことのように思い出せるわ」
「月の都って、どんなところなの? やっぱり地上よりいいところ?」
「そうねえ。気候は安定してるし、穢れが少ないから寿命に怯える必要も無い。そして何よりお酒が美味しいわ。まあ、地上のお酒も嫌いじゃないけどね。私は」
「そう……なんだ」
故郷の話題に気分を良くしたのか、鈴仙は嬉しそうな様子で捲し立てる。
はじめは興味深げに聞いていたこいしであったが、次第にその表情は暗くなってゆく。
「こいし、どうしたの?」
「鈴仙は……地上に降りてきたことを後悔してないの?」
「えっ?」
「だって鈴仙、月の話をしている時すごい嬉しそうにしてるんだもん。本当は帰りたいって思ってるんじゃ……きゃっ!?」
こいしが最後まで言い終わらないうちに、鈴仙は彼女の肩に腕をまわして抱き寄せた。
「心配させてゴメンね。あんまりこういう話しないから、ついついテンション上がっちゃって」
「う、うん……」
「月の都はいいところよ。でもね、私がそのことに気付いたのは、実を言うと地上に降りてからのことなのよ」
「えっ、そうなの?」
「そうよ。月があんなに綺麗だったなんて、向こうに居たら絶対に気が付かなかったものね」
二人は肩を寄せ合ったまま、頭上に輝く月を見上げた。
今日が満月なら最高だったかもしれないが、その場合永遠亭では例月祭が催されるため、こうして二人で月を眺める暇など与えられなかっただろう。
「向こうに居た頃は、何もかもがイヤでイヤでたまらなかったわ。退屈で、抑圧されているようで……悪い部分しか見えてなかったんでしょうね、きっと」
「悪い……部分しか……」
鈴仙が何気なく口にした言葉を、こいしは聞き取れないほどの小さな声で復唱した。
彼女の手は、無意識の内に第三の眼を弄んでいる。
「地上での暮らしは色々とキツいことばかりだけど、やっぱり来てよかったと思うわ」
「……私に、出会えたから……? えへへ、ありがとう鈴仙」
「こいし……? あなた今、私の心を……?」
「へっ?」
鈴仙の指摘を受け、こいしは一瞬虚を衝かれたような表情で固まった。
恐る恐る胸元を確認した彼女は、第三の眼がうっすらと開いていることに気付いて悲鳴を上げた。
「きゃっ!?」
「あ……閉じちゃった」
あわてて第三の眼を閉じるこいしを見て、鈴仙が心なしか残念そうな声を上げる。
「ああ、びっくりした……!」
「やっぱり、他人の心を読むのは怖い?」
「怖いっていうか、なんていうか……」
鈴仙から顔を背け、こいしはボソボソと呟いた。
出来ることなら第三の眼を開いて、鈴仙の心の中を読んでみたいという思いはある。
だが、それをやってしまったら最後、今まで通りの関係ではいられなくなるのではないかという思いもまた、こいしの中には存在していた。
「鈴仙のいいところも悪いところも受け入れるって決めたのに……これじゃ私、今までと何も変ってないよ」
「無理に変わろうとしなくてもいいんじゃない? こいしはそのままでも十分魅力的だと思うわ」
「わっ! ちょ、ちょっと鈴仙!?」
鈴仙は不意打ち気味にこいしを押し倒すと、そのまま彼女にのしかかって思いっきり顔を近づけた。
「それに心を読む以外にも、相手の事を知る方法なんていくらでもあるでしょう? 例えば……」
言い終わらぬ内にこいしは鈴仙の頭を抱え込み、そのまま彼女の唇を奪う。
月が見守る中、二人は数十秒間熱い口づけを交わした。
「ぷはっ! ……例えば、こんな方法とか?」
「んー……まあ、ね……」
してやったりといった表情で囁くこいしに対し、鈴仙はやや困ったような顔で答える。
恥らうこいしをじっくりたっぷり堪能するのが彼女の狙いだったのだが、思いがけない反撃に遭って面食らってしまった。
「鈴仙のこと、全部知りたいな。今までのことも、これからのことも……」
「私? 私は逃げも隠れもするし、必要とあらば嘘だってつく……知ってもいいことないと思うけどね」
「それでもいいの。いい部分だけ見てたんじゃ、相手のことを本当に理解したとはいえないもの」
「それが分かっただけでも、こいしは十分変われたと思うよ」
「本当? やったぁ!」
目を細めて笑うこいしを見て、鈴仙も頬を緩めた。
地上では何もかもが変わってゆく。それが良いことであれ、悪いことであれ。
こいしは良い方向に変わっているのだろう。……おそらくは、鈴仙とは違った方向に。
「ねえ鈴仙」
「ん?」
「私がもっともっと変わって、お姉ちゃんみたいになったとしても、ずっと一緒に居てくれる?」
言葉で答える代わりに、鈴仙はこいしに優しく口づけをした。
彼女が第三の眼を開くというのなら、それもいいだろう。
かつて自身に対して行った処置により、鈴仙の精神は既に取り返しのつかないほど荒廃している。
それこそ、無意識でいるのと大して変わらないほどに。
さとりが以前の鈴仙を知っていたのなら、彼女が処置によってどれだけ変わったのかを把握することができたかもしれない。
だが、今となってはどうでもいいことだ。今の鈴仙の心を占めているのは、こいしただ一人なのだから。
「好きよ、鈴仙」
一度唇を離した後、鈴仙はこいしを抱えて寝返りをうち、自分の身体に彼女を乗せた。
彼女をこれ以上下敷きにするのが忍びなかったというのもあるが、それと同時に夜空に浮かぶ故郷――月に見せ付けてやりたいという気持ちもあった。
穢れに満ちた地上において、生きる喜びを見出した己の姿というものを。
「わたしもよ、こいし」
鈴仙はこいしを抱き寄せ、再び熱い口づけを交わした。
自己催眠と薬物の後遺症によりボロボロになった彼女の心に、再び熱いものがこみあげてくる。
もう一度すべてをやり直せる。二人でならばもう一度歩き出せる。
閉じた心と虚ろな瞳の物語は、ここから始まっていくのだから。
もしも二人が、この時もう少し周りに注意を向けていたのなら、鈴仙の部屋からてゐがこっそり出てきたことに気が付いたかもしれない。
お互いを求め合うことに夢中になっている二人にそれを期待するのは、いささか酷な話だろうか。
「イチャイチャするのは勝手だけどさあ、もう少し回りに気を配るべきじゃないのかねえ。まったく……」
てゐはぶつくさ言いながら、騒がしさを増した大広間に向けて歩き出した。
「おーい馬鹿鈴仙、起きろー」
因幡てゐがやや怒気を含んだ声を上げながら、鈴仙の部屋の戸を乱暴に開く。
彼女の機嫌が悪い理由は二つ。ひとつは昨夜近所で行われた蓬莱人同士の殺し合いのせいで、少々寝不足気味であること。
そしてもうひとつは、永琳から鈴仙を起こすよう命じられたせいで、朝飯にありつくのが遅くなってしまったことだ。
「私らを起こすのが仕事でしょうに。あんたが寝坊してどうするのよ、まったく……」
ぶつぶつと文句を言いながら、てゐは部屋の中央で寝ている鈴仙の元へと歩み寄る。
もしも彼女が、この時もう少し注意深く布団を見ていたなら、そこに二人分の膨らみがあったことに気が付いたかもしれない。
性質の悪さで知られる魔法使いに差し出された毒草を、疑いもせず口に入れてしまう程の迂闊さを持った彼女にそれを期待するのは、いささか酷な話だろうか。
「とっとと起きろっ……!?」
勢いよく掛け布団を剥ぎ取った彼女の眼に、日常と非日常が同時に飛び込んできた。
満ち足りた表情で眠る寝巻き姿の鈴仙。いつも通りとはいかないが、これはまあ日常といっていい。
だが、そんな彼女に纏わりついて寝息を立てる半裸の少女の存在は、てゐにしてみれば非日常以外の何物でもない。
「うわあああっ!?」
兎特有の敏捷さでもって、てゐは後ろに飛びのいた。
太古の昔より培ってきた危険を知らせる本能は、本物の脅威に相対したとき存分に発揮されるものである。
彼女は顔も名前も知らない少女の存在に、言葉では表せない脅威を感じ取ったのだ。
「うーん、うるさいなあ……てゐ?」
てゐの悲鳴で目を覚ましたか、鈴仙が寝ぼけ眼を擦りながら半身を起こす。
少女は依然眠りの中だ。
「れっ、鈴仙! その子! その子どうしたの!?」
「ん~? ……ああ、まあちょっとね」
「ちょっとじゃないでしょ! 誰がどう見たって事後じゃん! いわゆるひとつの朝チュンじゃんか!」
「てゐ、落ち着いて聞きなさい」
鈴仙はひどく落ち着き払った様子で、てゐに手のひらを向けた。
ここまで余裕たっぷりな彼女を見た記憶は、てゐの中には存在しない。
いつも取り乱すのは年下の上司――形骸化を通り越して有名無実と化している――である鈴仙で、余裕に溢れているのはてゐの方なのが永遠亭の日常であったはずだ。
「誤解よ誤解。誤解してるわ」
「何が五回だよこの馬鹿! 誰も回数なんか聞いてないっつーの!」
顔を真っ赤に染めて喚くてゐの姿に、年上の余裕らしきものは微塵も感じ取ることはできない。
だが彼女とて、大昔の恋心を未だに引き摺る乙女である。かような聞き違いを起こしてしまったとしても、誰に彼女を責めることができようか。
半ば現実逃避気味に、何をもって一回とするのかしらなどと考えるこの小さな兎を、誰に嘲笑うことができようか。
「ねえてゐ、大丈夫?」
「オマエはどうなんだよ!? とにかくこの事は、お師匠様にキッチリ報告させてもら……う?」
踵を返そうとしたてゐの視界が揺らぎ、全身から力が抜けてゆく。
彼女の精神と肉体は、鈴仙が発動した狂気の瞳の力によってその大部分が切り離されていた。
「どうしたのてゐ、目が赤いわよ。寝不足?」
「し、白々しい……!」
「お師匠様、とか口にしたのがマズかったわね。まあ元よりこのまま行かせるつもりはなかったのだけれど」
「あんた、一体何を……」
「あなたが居ると話がややこしくなるからね。今日一日ゆっくり休むといいわ」
「ふざけん……どぅ」
てゐの意識はそこで断ち切られ、深い眠りの中へと堕ちてゆく。
鈴仙は彼女に掛け布団を被せてやると、未だ眠ったままの少女――古明地こいしの肩をやさしく揺さぶり、覚醒を促した。
「こいし、もう朝よ。起きなさい」
「うーんむにゃむにゃ……お姉ちゃんあと五分だけ……あれ?」
薄く開いたこいしの瞳に映るのは、肉親である古明地さとりの姿ではなく、不気味に折れ曲がった耳を持つ一羽の兎。
人物、場所、昨夜の出来事といった情報が、無意識の内に記憶の中から呼び起こされる。
やがて状況を把握した彼女は、目の前の兎に向かって優しく微笑みかけた。
「おはよー、鈴仙」
「おはよう、こいし。朝ごはんの準備ができたみたいだから、ぼちぼち仕度を始めましょう」
「んー……もうちょっとだけ」
こいしは両腕を前に伸ばし、鈴仙の胸元に身体を預けた。
「やれやれ」
鈴仙は正面から受け止めてやり、両手で彼女のやわらかい髪を弄ぶ。
彼女の頭の上に乗る形となった鈴仙の口元は、何故だか妖しく歪んでいた。
永遠亭の広間では、三人の少女が朝食の席を囲んでいた。
亭主である蓬莱山輝夜とその従者である八意永琳、そしてもう一人は、一晩中輝夜と派手に殺しあった相手、藤原妹紅である。
「この間、慧音とケンカしちゃってさあ。『妹紅、最近お前の言葉遣いが荒っぽくなっているように見受けられるぞ。女の子なんだからもう少し気を遣ったらどうなんだ?』とか言わてねえ」
筍ご飯をかっこみながら饒舌に捲し立てる妹紅を、輝夜は呆れかえった表情で見つめている。
妹紅が上機嫌なのには二つの理由があった。ひとつは昨夜の勝負で見事勝利を収めたこと、そしてもうひとつは食事にありつくのが実に三日ぶりだということだった。
「ねえ、なんで? なんであなたがさも当たり前のようにウチでご飯を食べてるの? ねえ?」
「だから私も言ってやったのよ。『そういうお前はどうなんだ? 曲がりなりにも年上に対してタメ口を利くなんて、教育者としての心構えがなってないんじゃないか?』ってね。おい輝夜、おかわり」
「なにそれ、ノロケ? 惚気話を聞かせるために図々しくも居座っているという訳なの?」
輝夜の質問には答えず、妹紅は空になったお椀を差し出す。
その様子を見て永琳は、やれやれといった様子で苦笑を浮かべる。
「ねえ、永琳からも何か言ってやってよ。このままだとイナバたちの分まで食べ尽くされてしまうわ」
「まあいいじゃない輝夜。その時はその時、寝坊したあの子たちの自己責任というものよ」
「さすが、八意センセイは話がわかるう! ……おっ、噂をすればなんとやらね」
襖が開き、身支度を終えた鈴仙とこいしが姿を現した。
卓を挟んだ正面に妹紅の姿を確認するや否や、鈴仙は右手で銃の形をつくり、彼女の眉間に向けて弾丸を放つ。
鈴仙の弾丸は、目的に応じて主に二種類に分別される。ひとつは精神に作用する弾丸、もうひとつは肉体に損傷を与える弾丸である。このとき用いたのは後者であった。
真一文字に飛来する弾丸に対し妹紅はさして慌てる様子も無く、さっきまで筍を摘んでいた箸を素早く構えて受け止める。
その間、わずか一秒足らず。永遠亭では時折見られる光景であったため、この場において呆気にとられたのは客人であるこいしただ一人であった。
「おはようございます。輝夜さま、お師匠さま」
「おはよう、ウドンゲ」
「おはよう鈴仙……その子は?」
輝夜は不思議そうな顔で、ポカンと口を開いたままのこいしを見つめた。
その時生じた一瞬の隙を見逃さず、妹紅は受け止めた弾丸を輝夜の味噌汁の中へと放り込む。
「昨夜お二方の逢瀬に巻き込まれそうになっていたところを、私が見つけて保護いたしました。こいし、姫様にご挨拶しなさい」
「えっ? ああ、えーっと、古明地こいしと申します。よろしくね!」
咄嗟に言葉が思いつかなかったらしく、自己紹介はひどく簡潔なものとなってしまった。
鈴仙は気にするふうでもなく、こいしに輝夜と永琳を紹介し、その後二人並んで卓についた。
「だめじゃないのウドンゲ。お客様がおみえになったのなら私か輝夜に報告しに来ないと」
「申し訳ありません。でもいきなりお師匠様の元に連れて行ったりしたら、即断で亡き者にされてしまうのではないかと思ったので……」
「ええっ!? 私殺されちゃうところだったの!?」
こいしは怯えた表情を浮かべ、茶碗と箸を持ったまま鈴仙の後ろへと身を隠す。
鈴仙はそんな彼女をそっと抱きかかえて、自分の膝の上に座らせた。
「大丈夫よこいし、何があっても私が守ってあげるからね」
「えへへ……ありがとう鈴仙。優しいのね!」
柔らかな表情になったこいしは身体の向きを変え、鈴仙の頬に軽いキスをした。
輝夜と永琳が困惑気味にその様子を眺める横で、紹介されなかった妹紅が筍の煮物に手を伸ばす。
「なんていうか……えらく懐かれたものね。ひょっとしてアレかしら。ストロングなんとかっていう……」
「ストックホルム症候群かしら? どちらかというと吊り橋効果の方が近いかもね。なんにせよ、あまり褒められた話ではないわ」
イチャつく二人に対し、永琳はやや咎めるような視線を送る。
呼びに行かせたはずのてゐが戻らないのも気になるが、それ以上に気に掛かるのが二人の関係だ。
曲がりなりにも自身を師匠と慕う者が、他所の少女と不適切な関係を築いているのではないかという疑念が、永琳の中で鎌首を擡げつつあった。
「鈴仙」
永琳は普段用いる愛称ではなく、本名で彼女に呼びかける。
鈴仙とウドンゲ。永琳は普段この二つの呼称をさほど意識せず使い分けているが、真面目な話をする時は無意識の内に前者を用いることが多い。
こいしとちゅっちゅしていた鈴仙も、師匠の機嫌が良くない方向に向かいつつあることを察したらしく、真剣な表情を取り繕って永琳と向き合った。
「なんでしょう、お師匠さま」
「古明地さんは昨夜の戦闘に巻き込まれた、と言っていたわね。怪我とかそういうのは大丈夫だったの?」
「ああ、ゆうべのバトルはアツかったな。なんとなく誰かに見られてるような気がして、いつも以上にヒートアップしちゃってさあ」
「妹紅、あなたは黙ってなさい」
唐突に口を挿んできた妹紅を、輝夜がやや赤面しながらたしなめる。
弾幕ごっこというものは見ている分には美しいが、ひとたび巻き込まれれば無事ではすまない。
この二人の場合は尚更である。普通この手の勝負では、最低限相手が死なないような気遣いを見せるものだが、彼女たちにはそれがない。
なにしろお互い不滅の身だ。お互い遠慮は不要とばかりに、日頃の鬱憤や積年の恨みなどをブチかますのみである。
数年前に小火騒ぎを起こしてからは多少大人しくなったものの、今なお繰り広げられているのは必殺の応酬であることに変わりはない。
「ほら、ウチの子たちがよそ様のお嬢さんに怪我をさせたとあっては一大事じゃない。もしどこか悪いところがあるのなら、多少なりとも医学の心得がある私に診せるべきでしょう?」
「多少なりともって、永琳ちょっと謙遜し過ぎじゃない?」
「つーかなんだよウチの子たちって。ひょっとして私も入ってるの?」
「お願いだから、あなたたちは静かにしていて頂戴」
永琳にたしなめられた輝夜は、バツの悪そうな顔で味噌汁をすすり、形容し難い食感にその端整な顔を歪ませる。
その原因を作った妹紅はといえば、まるで「これぞ我が至福」といわんばかりの表情でもって、首を傾げる輝夜を見つめていた。
「で、どうだったの?」
「幸いにもかすり傷程度でしたので、夜のうちに私が治療しておきました」
鈴仙は唇の端を吊り上げ、朝食の席には些か似つかわしくない妖しげな笑みを浮かべて続ける。
「……布団の中で、念入りにね」
軽いジャブを放ったつもりだったのだが、返ってきたのは鈴仙のスペルカード、赤眼「望見円月(ルナティックブラスト)」にも匹敵する衝撃。
永琳は軽い眩暈を覚えつつ、渾身の笑みを見せ付けてくる彼女からそっと目を背けた。
「もー、鈴仙のばかぁ! どうしてそーゆーデリカシーのない発言しちゃうかなあ!」
「いいじゃないこいし。こういう事はいずれ明るみに出ちゃうんだから、隠すとためにならないわ」
「それはそうかもしれないけど、でも……恥ずかしいじゃない!」
ポカポカ胸を叩いてくるこいしを、鈴仙はギュッと抱きしめる。
恥ずかしいだのなんだの言いながらも、実際のところ満更でもなさそうだ。
ただ永琳からしてみれば、単なる命の恩人に対する感情と今のこいしのそれとでは、やはり性質の異なるモノのように思えてならない。
もしかしたら、鈴仙は何らかの手段でもってこいしを洗脳し、欲望の赴くままに彼女を手篭めにしてしまったのではないだろうか――永琳は心配性であった。
「種族を超えた関係、ってやつかしら。ロマンチックだと思わない? 妹紅」
「あー? 幻想郷じゃごく当たり前のことだと思うけどなあ。私は別に構わないよ? 半人半獣だろうが宇宙人だろうが」
「呆れた。あなたっていつも自分を基準に物事を考えるのね……」
「それも幻想郷じゃ普通でしょ?」
眉間を押さえる永琳をよそに、蓬莱人ふたりは小声でもって呑気な会話を繰り広げる。
ここで妹紅の視線が、こいしの胸にある第三の眼を捉えた。
「ねえ、さっきからずっと気になってたんだけど、ひょっとしてそいつサトリじゃない?」
「妹紅、知ってるの?」
妹紅が箸で第三の眼を差すと、こいしは一瞬たじろいで鈴仙の袖を掴んだ。
輝夜はまるで今気付いたとでも言いたげな表情で、まじまじと第三の眼をみつめる。
「さとりはウチのお姉ちゃんですけど、それがなにか?」
「姉がサトリってことはお前もサトリだろう。なに惚けたこと言ってんの」
「待って藤原妹紅。さとりというのはこの子のお姉さんの名前、固有名詞よ」
「なんだそりゃ。人間が子供ににんげんって名前を付けるようなもんじゃない。紛らわしい」
「このままじゃ埒が明かないから、種族名の方はサトリ妖怪と呼ぶことにしましょう」
永琳の提案に反対する者はいなかった。
こいしは何か言いたそうな顔をしていたが、鈴仙から何事か囁かれると大人しくそれに従った。
「それにしても懐かしいねえ。むかし妖怪退治をやってた頃、何匹か退治したことがあるんだ」
「それって自慢? それとも嫌がらせのつもりなの?」
「お前は黙ってろ駄兎め。なあお嬢ちゃん知ってるかい? サトリ妖怪はねえ、腕の肉が美味いんだよ……ひっひっひ」
「嫌ぁ! 助けて鈴仙!」
指をわきわきさせながら身を乗り出してきた妹紅に、こいしはすっかり怯えきっていた。
鈴仙は彼女をかばいつつ、妹紅に対して指先を向ける。
「それ以上近づいたら、この場で脳漿をブチまけることになるわよ」
「えーっと、鈴仙? 私たちまだ食事中なのだけど……」
「輝夜の言うとおりだぞ。大人しくその子をこっちに渡してもらおうか」
「誰もそんな事言ってないでしょ、この野蛮人!」
「んにゃにおう、やる気か!」
輝夜と妹紅が同時に放った拳は、間を置かずして互いの頬を打ち抜き、ふたりは仲良く仰向けに倒れた。
クロスカウンターによるダブルノックアウトなど、この二人の間においてはさほど珍しい出来事ではない。
永琳はお約束事のように深い溜息をつくと、ややぎこちない笑顔をつくってこいしの方を向いた。
「ごめんなさいね古明地さん。この子たちも普段はここまで酷く……その、とにかくごめんなさい」
「うう……やっぱり地上は怖いところだぁ……」
「地上? 今地上って言ったかしら?」
「ああ、まだ言ってませんでしたっけ。こいしの家は地底にあるみたいなんですよ」
永琳が地上という言葉に反応したのも無理はない。
彼女にとって地上とは月の対義語に等しく、なによりこいしが口にした地上は怖いという台詞は、永遠亭に来たばかりの鈴仙がよく口にしていたからだ。
「ピロートークの最中聞き出しました」
「だっ、誰もそこまで聞いてないでしょう!」
やはり今の鈴仙は何かがおかしい。
気が大きくなっているというか、大胆になっているというか。
まるで別の人格が乗り移ったかのようにしか、永琳には思えてならなかった。
「地底だぁ? サトリ妖怪は山に棲んでるんじゃなかったの?」
怪奇映画のアンデッドよろしく、妹紅が機械的に上体を起こして呟いた。
普段から不健康極まりない生活を続けている分、温室育ちの輝夜より復活が早いのかもしれない。
「ちぇっ、当てが外れたなあ。今度山登りをするから、その時にでも獲って食おうかと思ったのに」
「あんたはもうちょっと寝てていいわよ」
鈴仙が放った精神に作用する弾丸をもろにくらって、妹紅は再びひっくり返った。
「どうやらここに長居するとよろしくないようなので、私が責任をもってこいしを地底に送り届けてこようと思います」
「えっ、鈴仙ウチに来てくれるの!? 嬉しい! お姉ちゃんたちもきっと喜ぶわ!」
「ちょっ、ちょっと待っ――」
「なになに? 鈴仙お出かけするの?」
永琳が口を開きかけたその刹那、今度は輝夜が起き上がって口を挿んで来た。
さっきまで気を失っていたとは思えないほどに、その瞳は好奇心に満ち溢れている。
「ねえねえ、私も一緒に行っていいでしょ? 地底世界がどんなところなのか一度見てみたいと思ってたのよ」
「駄目よ輝夜。仮にも永遠亭の姫であるあなたが、無暗矢鱈に出歩くなんて」
「別にいいじゃないの。月の監視なんてもうあって無いようなもんなんだし」
「それはそうだけど……」
確かに輝夜の言うとおり、月の使者に彼女たちを討伐しようという意思はまるで感じられない。
永琳にとって気懸かりなのはむしろ、その事が明らかになった吸血鬼のロケット騒動以降に感じる視線。
どういうわけだか彼女を目の敵にする妖怪の賢者、八雲紫の存在であった。
「そんなに心配なら永琳も一緒に来ればいいじゃない。ねえ、こいしさん?」
「うん! 旅は道連れ、地獄行きっていうものね!」
「そういうわけにもいかないでしょう、もう……」
永琳たちが揃って地底に赴いたとなれば、あの八雲紫が黙っているとはとても思えない。
突然現れてあれこれ難癖をつけてくるか、場合によっては博麗の巫女をそそのかして横槍を入れさせるかもしれない。
先の一件以来、紫に対して苦手意識を植え付けられてしまった永琳にとって、彼女たちと関わり合いになることだけは避けたかった。
「兎に角、この件は鈴仙にすべて任せることとします。いいわね? 輝夜」
「ぶー、永琳のケチー!」
正直な話、今の鈴仙から目を離すことには不安が残る。
だがここで鈴仙にまで外出を禁じたとなれば、こいしが駄々をこね始めるに違いないと永琳は読んでいる。
永琳とてサトリ妖怪については多少の知識を持ち合わせている。それだけに、第三の眼を閉じたままのこいしがどれだけの力を隠しているのか、彼女にも判断が付きかねていた。
ここで話をこじらせてしまえば、どんな厄介な事象が沸き起こるか予想もつかない。鈴仙の同行を認めることは、彼女に出来る最大限の妥協であった。
「おいおい輝夜、折角私が遊びに来てやってるってのに、どっか行っちまおうなんて随分薄情なんじゃないの?」
「何よ妹紅、あなたまで私の邪魔をするつもり?」
再び起き上がった妹紅の存在は、意外なことに永琳にとって助け舟になるものであった。
彼女は後ろから輝夜に絡みつき、そのまま後ろに倒れこんでチョークスリーパーの体勢に移行する。
「ぐぎぎ……なによう。里にでも行って慧音先生に相手してもらえばいいじゃない」
「馬鹿言うな。慧音はお前と違って立派に働いているんだ。こんな朝っぱらからお邪魔したら迷惑が掛かるだろうに」
「ふっ、ふーんだ! どうせケンカしてるから気まずくて顔を出せないとか、そんなんでしょ……ぐえっ!?」
図星を衝かれて赤面した妹紅が、本格的に輝夜を絞め落としにかかる。
永琳の立場としては止めるべきなのだろうが、状況が状況なだけに彼女はあえて黙認することにした。
「やっぱりこうなってしまいましたね。行きましょうこいし、ここに居たらまた情事に巻き込まれてしまいそうだわ」
「ちょっ、ちょっと待って鈴仙。せめて一杯だけでもこの筍ご飯を……」
「そう言うと思って、ちゃんと御握りにして包んであるわ。道中落ち着きながら食べましょう」
「わあ! いつの間に!?」
鈴仙が差し出した御握りの包みを、こいしは満面の笑みを浮かべながら受け取った。
「それでは行ってきます、お師匠さま」
「ごちそうさまでした! 今度来るときはお姉ちゃんたちも連れてくるね!」
「え、ええ……くれぐれも気をつけるのよ」
手を繋ぎながら意気揚々と去ってゆく二人を、永琳は力のない笑みで見送った。
彼女の視界の隅では、自慢の馬鹿力で拘束を解いた輝夜が器用に身体を捻らせた後、妹紅に対しシャープ・シューターをキメている。
「ギブ? ギブアップ?」
「ノ、ノウ! 絶対にノウ!」
「やれやれ……」
永琳は深く溜息をついた後、食卓の片づけを始めた。
「てゐが居てくれれば鈴仙を監視させられたのに……あの子は何をやってるのかしら」
彼女は現在夢の中で、永遠の憧れであるダイコク様と甘いひと時を過ごしているのだが、もちろん永琳にとっては知る由もないことであった。
地底への入口は博麗神社の近くにある。
こいしの希望により、二人は神社に寄り道していくことにした。
「神社にくるのも久しぶりだわ! 霊夢はもう起きてるかしら?」
「流石にもう起きてるみたいね。ほら、あそこの賽銭箱のところ……」
鈴仙が指差した先には、賽銭箱を覗き込む博麗霊夢の後ろ姿があった。
彼女は賽銭箱に張り付くようにして中身を確認したのち、大げさに天を仰いでみせ、そしてガックリと肩を落とした。
「相変わらず感情表現が豊かだこと」
「ああん? お客さん?」
その瞳に怒りと哀しみ、そしてわずかな希望を込めた光を宿しながら、霊夢は振り返って二人を睨みつける。
「おはよー霊夢! ハイローラーのご到着よ、丁重にもてなしなさい!」
「ツッコミを入れてあげるような気分じゃないわ。っていうか、アンタら何よその組み合わせは」
「まあ、そう思うのも無理はないかもね」
にこやかに微笑む二人を見て、霊夢は怪訝そうな面持ちになる。
宴会の席で彼女たちが一緒にいる姿など見たこともないし、これといった繋がりがあるとも思えない。
頭に疑問符を浮かべる霊夢に対し、鈴仙が心配そうな表情で口を開いた。
「霊夢、あなたまた少し痩せたんじゃない? ガン? それともレズ?」
「へえ、朝っぱらからケンカを売るとはいい度胸じゃない。ねえこいし、兎鍋って食べたことある?」
「ちょっ、二人ともケンカはやめてー!」
一触即発のムードをかもし出す二人の間に、こいしが慌てて割って入る。
霊夢は意外にもあっさり身を引いてみせたが、その手にはこいしが抱えていたはずの御握りの包みが握られていた。
「あーっ! 私の御握り!」
「まあ、御握りですって? あらホント。いただきまーす」
「返して! 私の筍ごはん!」
「うるさいわねえ。ホラ、武士ならぬ巫女の情けってやつよ」
三個あった御握りのうち一つをこいしに投げ渡すと、霊夢は残りの二つを目にも留まらぬ速さで平らげてみせた。
呆気にとられた表情を浮かべるこいしの横で、鈴仙は苦笑いを浮かべる。
「どうしよう……鈴仙の分まで食べられちゃった……」
「私のことは気にしなくていいわ。なんとなくだけどこうなる予感がしていたし」
「ウェップ……ふう。負け惜しみとは見苦しいわね。兎は兎らしくその辺の草でも齧ってなさい」
「駄目よ鈴仙! 理不尽な事柄に対しては毅然とした態度で立ち向かいなさいって、お姉ちゃんが言ってた気がするわ!」
「たかが御握りぐらいで大げさねえ。大体あんたの処の馬鹿猫だってウチでご飯を食べたりするんだから、これでおあいこってモンでしょうに」
霊夢の言う馬鹿猫とは、さとりのペットにして灼熱地獄跡地の怨霊の管理者、火焔猫燐のことである。
地上と地底の交流が始まった原因ともいうべき彼女は、どういう訳か霊夢に懐いてしまったらしく、時折神社に遊びに来るのだ。
「今朝もその辺りで見かけたような気がするけど、どこ行っちゃったのかしら」
「えっ、お燐が来てたの?」
「多分ね。あんたがノコノコやってきたから怖がって逃げちゃったんじゃない?」
「そっ、そんなことないわ! きっとまだ近くにいるはず……!」
辺りを見回してみても、燐らしき猫の姿は見当たらない。
諦めきれないこいしは、しばらくの間神社周辺を荒らしまわり、賽銭箱をこじ開けようとしたところで霊夢の拳骨をくらった。
「の、脳が……脳が揺れる……」
「大丈夫? まったく、いきなり殴るなんて何を考えてるのかしらね」
「うっさいわね。あんたらみたいな何も考えてない連中に言われたくないわよ」
霊夢は非難を受け流しつつ、賽銭箱の無事を確認する。
幸いにも損傷は軽微であったが、中身は相変わらず空のままだった。
「きっと先に地底へ帰ってるのよ。私たちも行きましょう」
「わわっ、ちょっと、鈴仙!?」
鈴仙はこいしの背中と膝の裏に腕を回し、ひょいと抱え上げた。
俗にいうお姫様だっこの形である。
「やん、恥ずかしい! 霊夢が見てるぅ!」
「いいじゃないの。存分に見せ付けてやりましょうよ」
「いや、見せ付けられても困るんですけど……」
呆気にとられる霊夢を尻目に、二人は神社を後にした。
「それにしても、ホントおかしな組み合わせよねえ……」
ひとりごちた後、霊夢は厄払いも兼ねた境内の掃除に取り掛かった。
旧地獄街道。
かつて地上に見切りをつけた者たちと、地上を追われた者たちが造り上げた異形の街。
危険な妖怪たちが闊歩する通りを、鈴仙はこいしを抱えたまま進んでゆく。
「れ、鈴仙……みんながこっちを見てる気がして恥ずかしいよぉ……」
「大丈夫よ。私の能力で姿を消してあるから、誰にも見られるはずがないわ」
地上と地底の交流が始まったとはいえ、未だにその事を快く思わない者が、双方に存在するのもまた事実である。
鈴仙は万一に備え、波長を操作して自分たちの姿が見えないようにしておいたのだ。
「あっ! いっ、いま鬼と眼が合っちゃった! ううっ、もうやだあ……」
「私の知ってる鬼と違うわね。さすが旧地獄、奥が深いわ」
恥ずかしさの余り肩に頭を乗せてきたこいしを、鈴仙は優しく抱き直してやる。
始めのうちはジタバタしていたこいしであったが、やがて抵抗を諦め、鈴仙の背中に腕をまわしてしがみつく。
(鈴仙と繋がったままこんな街中歩くなんて、頭がフットーしそうだよおっ)
二人はそのまま街道を抜け、仄暗い地下道を深く深く、奥へ奥へと歩み続けた。
「着いたわよ。ここでいいのよね? 地霊殿って書いてあるし」
「えっ、もう着いたの?」
こいしが振り向くと、そこには見慣れた地霊殿の玄関があった。
かなりの年季が入ったものと思わしき扉には一枚の紙が貼り付けられており、丸っこい文字で次のように書かれている。
“新聞勧誘及び取材は今後一切お断りします。永遠に。 怨霊も恐れ怯む地霊殿の主 古明地さとり”
「あのブンヤ、こんなところまで魔の手を伸ばしていたとはね」
「そういえばお姉ちゃん、写真撮られるの嫌がってたっけ」
こいしは鈴仙から飛び降りると、リズミカルに扉をノックし始めた。
「ただいまー! 誰かいないのー? ねえー?」
「留守かしら?」
「そんなはずないわ。お姉ちゃんみたいな出不精が留守にするはず……あっ」
出不精という単語にでも反応したのか、地鳴りのような音を立てながらゆっくりと扉が開かれた。
内部には照明らしきものが無く、一面の闇に覆われている。
慎重に足を踏み入れた二人の背後で、開いた時とは裏腹に勢いよく扉が閉ざされた。
「んぎゃっふ」
「えっ、鈴仙?」
見通しのきかない闇の中に、突如響き渡った鈴仙の呻き声。
状況を把握できずにいるこいしの肩に、何者かの手がそっと置かれる。
「何処をほっつき歩いていたのかは知らないけど、厄介な奴を連れてきたものね」
「おっ、お姉ちゃん!?」
こいしの耳のすぐ側で、古明地さとりがやや芝居がかった所作で指を鳴らす。
すると、室内の照明が一斉に点され、こいしは眩しさに目を細めた。
「残念だったね兎のお姉さん。神社で調子に乗ってるところは見させてもらったよ。きっとここに来るだろうと思って先回りして待っていたのさ。おくう、しっかり押さえておくんだよ」
「少しでもおかしな動きを見せたら、お燐もろともニュークリアフュージョンしてもらうからね!」
「おいやめろ馬鹿! あたいを巻き込むな!」
鈴仙はこいしの横には居らず、前方約四メートル程の場所で仰向けに倒れていた。
上半身を火焔猫燐に、下半身を霊烏路空に押さえつけられた状態で。
「どういうつもりなのお姉ちゃん! 鈴仙を放してあげて!」
「それを聞きたいのはこちらの方よ。それともそちらの兎さんに聞いたほうがいいかしらね。おくう!」
「了解!」
空はさとりの呼びかけに元気よく答えると、右手の制御棒を鈴仙の喉元に押し当てた。
こいしが抗議の声を上げたが、当の鈴仙はくすぐったそうに身を捩りながらニヤニヤ笑っている。
「ちょっと、やめてよ。感じちゃうじゃない」
「感じるって何よ? 命の危険とか?」
「うんにゃ。私が感じているのは核融合をも超える究極のエネルギーにして、世界で最高の感情。すなわち……」
鈴仙は両脚を空の頭に絡ませると、そのまま彼女の顔を自分の股座に押し当てた。
「愛よ」
「うっ、うっ、うにゅうううううううううううっ!?」
ジタバタもがく空であったが、鈴仙の脚は彼女の頭をガッチリ抱え込んだまま放そうとしない。
燐はしばらくの間呆気にとられていたが、こいしとさとりが自分と同じ様に呆然としていることに気付くと、慌てて爪を出し鈴仙の顔を引っ掻き始めた。
「こっ、このやろう! おくうを放せ!」
「ヨハネの黙示録21章6節に曰く、『私はアルファでありオメガ、始まりであり終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう』」
「おくうに何飲ませる気だこのヘンタイめ! ちくしょう、こいつ痛みを感じないのかい!」
鈴仙の顔は既に血で真っ赤に染まっているが、依然として例の薄気味悪い笑みを浮かべたままだ。
それ以上の攻撃を諦めた燐は、さとりと協力して鈴仙の足を引き剥がした。
「おくう、大丈夫?」
「さとり様……お燐……私は世界に火をつけたいわけじゃないんです……」
「ちょっと、しっかりしなよ! 夢でも見てるのかい!?」
「私はただ、あなたの心に、火を……ガクッ」
「おくううううううぅーーーーっ!」
意識を手放した空の瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。
さとりは彼女の目蓋をそっと閉じてやると、こいしが元いた場所から居なくなっていることに気付いて辺りを見回す。
こいしはすぐ側にいた。鈴仙に馬乗りになって、彼女の顔から流れ出る血を熱心に舐め取っている。
「んっ、ちゅっ……ごめんね鈴仙。痛くなかった?」
「こいし、何してるの! そいつから離れなさい!」
「嫌よ! 私がペットと何をしようと、お姉ちゃんには関係ないでしょう!」
「ペットですって……?」
こいしに向けて伸ばした手を止め、さとりは思わず復唱してしまう。
ペットを与えてもろくに世話もせず、放浪してばかりのこいしが自らペットを連れて帰ってくるとは。
もっとも、ペットを放ったらかしにしていることについては、さとりも妹のことを言えた義理ではないのだが。
「そ、そうよ! お姉ちゃんの野蛮なペットと違って、とってもいい子なんだから!」
「いい子、ねえ……ちょっと兎さん、こいしの話は本当なの?」
「お姉ちゃんなら聞かなくったってわかるでしょう? いつもみたいに相手の心を覗き込めばいいじゃない!」
「ふむ、一理あるわね。そうだ、この際だからあなたも第三の眼を開いて、彼女の心を覗いてみればいいじゃない」
さとりはこいしの正面に回りこむと、彼女に向けて意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「きっと面白いことが分かるわ」
こいしはやや困惑気味に、さとりと鈴仙の顔を交互に見比べる。
他人の心を読んだところで、気が滅入るだけだということを彼女はいやというほど知っていた。
故に彼女は第三の眼を閉ざし、代わりに無意識で行動できる能力を手に入れたのだ。
「どうしたの? こんなに親しくできる相手でも、心を読むのは怖いのかしら?」
「さとりお義姉様、その……下着が見えてますわ」
「あなたは黙ってなさいこのエロ兎。っていうか何よお義姉様って」
鈴仙がひっ叩かれる音を聞きながら、こいしはさとりの言葉を反芻していた。
普段あまり物事を深く考えずに暮らしているこいしであったが、この時ばかりは悪い想像を抑えることが出来ずにいる。
面白いことが分かる、とさとりは言っていた。彼女は鈴仙の心を読み、そして何かを掴んだのだろう。
今のこいしにとって都合の悪い何かを。
「まったく手のかかる妹だこと。仕方がないから教えてあげるわ。実を言うと彼女は――」
「やめてっ! 聞きたくない!」
「おっと」
こいしが無意識の内に突き出した拳を、さとりは身を捻らせてかわした。
例え心を読むことができない相手でも、長年一緒に暮らしていればある程度の行動を予測することが可能だ。
そもそもさとりは、こいしに手を出させるためにあえて挑発的な言動を繰り返していたのだから。
「あらあら、今度は私に八つ当たり? ケンカをする時は相手の同意を得てからにしなさいって、いつも言ってるじゃないの」
「うるさい煩い五月蝿い! だったら勝負よ、お姉ちゃん!」
こいしは立ち上がり、さとりに向かって手袋の代わりに帽子を投げつけて宣言した。
「弾幕ごっこでも殺し合いでもなんでもいいわ! 私が勝ったらこれ以上鈴仙のことに口を出すのをやめて頂戴!」
「いいでしょう。私が勝った場合はどうするの?」
「好きにすればいいじゃない! もっとも、お姉ちゃんが私に勝つなんてこと絶対に有り得ないけどね!」
こいしの言うことにも一理あった。
これはさとり自身もある程度自覚していることだが、彼女の強さの大部分はサトリ妖怪特有の読心能力に依存したものである。
弾幕ごっこを例に挙げてみよう。あらゆる敵に対して有効な「想起」を封じられた場合彼女の力は半減し、極めて不利な立場に立たされてしまう。
「そうかもね。なら勝負の方法は私が決めさせてもらうけど、構わないかしら?」
「お好きにどーぞ!」
「弾幕ごっこでは私の不利は否めないわね。ここはひとつ、弾幕抜きの殴り合いなんてのはどう?」
「殴り合いですって? つまり肉と肉のぶつかりあいってことね。上等じゃない!」
さとりの提案に対し、こいしは目を輝かせながら応じた。
彼女がどういった意図の下に、このような提案を出してきたのかは分からない。
今のこいしに分かるのは、どうあっても自分の優位は揺るがないということと、これで姉をボコボコにする大義名分が得られたということだけであった。
「ルールは簡単よ。使用できるのは己の肉体のみで、どちらかが降参するか、意識を失ったりするかしたら決着。分かりやすくていいでしょう?」
「ええ、とってもね! 待っててね鈴仙、お姉ちゃんなんかすぐにぶっとばしちゃうんだから!」
こいしが鈴仙を、燐が空を安全な場所まで運び、エントランスの中央にスペースをつくる。
指の骨を鳴らしながら向かい合う姉妹を見て、燐はハラハラしつつも、敗者となるであろうどちらかを猫車で運べるという予感に心躍らせていた。
(いや……どちらかなんて言わず、いっそのことお二方とも運んでしまいたい。ああ、あたいったらなんてイケないペットなのかしらっ!)
「お燐、だだ洩れよ」
「んにゃっ!?」
さとりに釘を刺され、思わず背筋を伸ばしてしまった燐は、しばらくの間その場で悶絶して転げまわった。
壁を背もたれにして座った鈴仙は、そんな彼女たちを見ながら小さな笑みをこぼす。
「さて、それでは始めましょうか」
さとりは言い放つと同時に背を丸め、左足を半歩ほど前に出したのち足を内股にし、顎を引き、そして腋をしめた。
右手を口元に当て、左腕を腹の前で直角に曲げたその姿は、見ようによっては頬杖をついて考え事をしているようにも見える。
奇異な構えと相対し、こいしも得意の荒ぶる鷹のポーズで対抗しようとしたが、さとりが左腕を振り子のごとく揺らし始めたのを見て、思わずずっこけてしまいそうになる。
「なんなのその構え……ふざけてるの?」
「そういえば、あなたにはまだ見せたこと無かったわね。いらっしゃいこいし。私の実力、見せてあげるわ」
「迂闊に近寄っちゃ駄目よ、こいし……様」
こいしの後方から口を挿んできた鈴仙を、さとりはキッと睨みつけた。
先程までのニヤニヤ笑いはどこへやら、彼女の表情は幾分真剣なものへと様変わりしている。
「兎さんはヒットマンスタイルをご存知のようね。申し訳ないけど余計な口出しは遠慮願えるかしら?」
「大丈夫よ鈴仙、どうせこんなのお姉ちゃん一流のハッタリに過ぎないんだから!」
こいしは余裕の表情を浮かべながら、両手を顔の横まで下ろし、じりじりとさとりとの距離を詰めていった。
その姿は、まるで怪獣ごっこでもしているかのごとく緊張感に欠けるものであったが、さとりは気を散らすことなく左腕を振り続ける。
こいしが一歩進むごとに、彼女の気配はさとりの知覚から薄れていく。この勝負において、能力の使用までは禁止されていない。
彼女を感知できなくなるその刹那、さとりは十分に脱力した左腕を、鞭のごとく前方に振るわせた。
「なにっ……!?」
さとりの繰り出したフリッカージャブに右手を弾かれ、こいしは驚愕の表情を浮かべながら飛び退く。
再び左腕を揺らし始めたさとりが見据えるのは、右手を擦るこいしではなく、その後方から熱い視線を注いでくる兎。
先程のこいしに対するアドバイスを考えるに、彼女はこの展開を予期していたように思える。
「拳を振るうのも随分久しぶりだわ。正直な話、戦闘はあまり得意ではないのよ……強いけどね!」
「なるほどね。普段から腕を短く見せることで相手の油断を誘い、鼻っ柱に一発叩き込む戦法ってワケか。サトリ妖怪もなかなか侮れないものね」
「そうしなければ生き残れなかったからね。心を読むに値しない相手がウヨウヨしている以上、最後に頼れるのはこの腕一本のみなのよ」
今でこそ地霊殿という安住の地を得られたものの、そこに辿り着くまでの道は決して平坦なものではなかった。
誰からも嫌われ迫害される種族にとって、生きることすなわち外敵との戦いに他ならないのだから。
大抵の相手は精神攻撃で撃退できたものの、時にはそれが通用しない者もいた。
元より高尚な精神など持ち合わせていない低級妖怪や、心を読まれても平然としている鬼たち、なんでもいいから腕を食わせろと迫ってきた某蓬莱人など、強敵たちを挙げればキリがない。
放浪の日々の中で、さとりはそういった輩に対する戦い方を身につけてゆき、ついには地霊殿の当主の座を拳ひとつで奪い取るまでに至ったのだが、それはまた別の話。
「だからって、河童みたいに腕を伸ばすことないじゃない! お姉ちゃんにはサトリとしてのプライドってもんが無いの!?」
「……その台詞、あなたにだけは言われたくないのだけど」
「何ですって!? もうアッタマきた! お姉ちゃんにはこれから一方的に殴られる恐怖ってやつを、骨の髄までタップリ教えてあげるわ!」
宣言どおりにこいしは無意識へと潜伏し、さとりの持つ一切の知覚から消え失せた。
彼女はそのまま円を描くようにさとりの右側へと移動すると、駆け足で一気に距離を詰め、先程弾かれた右手を振り上げる。
「愚妹、推参なり」
芝居かかった口調で呟いたさとりは、左足を軸に九十度右に回転し、再び左腕を振るった。
「いったいっ!」
乾いた音がエントランス内に木霊し、こいしは慌ててさとりとの距離を開く。
――気配は完璧に断ってあったはずなのに、どうして?
何かの間違いだ、とこいしは自分に言い聞かせたかったのだが、左頬に残る焼け付くような痛みが、今の出来事は紛れも無い現実であるということを物語っている。
「ふふっ、今ならあなたの考えていることが手に取るように分かるわ。私が反応できたのがそんなに不思議かしら?」
「い、今のは偶然よ! 幸運は何度も続かないってことを教えてあげるわ!」
「教えてあげる、ねえ……」
こいしはその後数回に亘ってさとりの死角から攻撃を仕掛けたが、鋭い反応を見せる彼女のフリッカージャブの前に、ことごとく撃退の憂き目を見た。
疲労と困惑のあまりフラフラしているこいしとは対照的に、さとりは息を切らせることもなく余裕の表情で左腕を振り続けている。
もはや誰の眼にも勝敗は明らかであったが、こいしは未だ納得のいかない様子で戦意をむき出しにしていた。
「どうして……!? 無意識に対応できる者なんているはずないのに……!」
「分からない? だったら教えてあげましょう……と思ったけど、やっぱりやーめた」
「もう無理ですって! こいし様、ギブアップせい!」
見かねた燐が声をかけたものの、逆にこいしの闘争心に火をつける結果に終わってしまう。
やがて無意識からの攻撃を諦めたこいしは、両腕で顔面を保護するように構えると、重心を低くして正面からの突撃の姿勢をとった。
「要は懐に飛び込んじゃえばいいのよ。そうすればのびーるパンチは使えないでしょう?」
「あははっ、笑わせないで。あなたみたいな根性なしの弱虫に、正面から立ち向かうなんて芸当できるわけないじゃないの」
さとりのその嘲笑が引き金となり、こいしは弾丸のごとく彼女に向けて突進した。
もはや無意識に潜む必要もない。さとりのジャブに再び右手を弾かれたが、まだ左が残っている。
あとは懐に潜り込んで、そして――。
「抉らせてもらうわ、お姉ちゃん」
渾身の力を込めた左手を、さとりの顔面に向けて突き出す。
後先考えず、ただ無心に振るわれたその一撃は、さとりの癖っ毛を僅かに掠めて空を切った。
「こいつで、ダウンよ!」
こいしの一撃をダッキングでかわしたさとりは、上体を泳がせる彼女の顎に向け、硬く握り締めた右の拳を勢いよく振り上げる。
フリッカージャブはあくまで牽制目的の技。彼女に勝利をもたらしてきたのは、いつだってこの右手だった。
(こいし……!)
文字通り小石のごとく吹き飛ぶ妹を眺めながら、さとりは確かにその声を聞いた。いや、見たという方が適切だろうか。
駆け寄ってきた声の主は落下してきたこいしを受け止め、そのままきつく抱きしめる。
右手に確かな手ごたえを感じつつ、さとりはその者に向かって口を開いた。
「ようやく見せてもらえたわね。あなたの心の中を」
気絶したこいしを抱きしめながら、彼女――鈴仙は、そっと己の瞳を閉じた。
地霊殿のラウンジは中庭に面しており、耐熱硝子の向こうでは旧火焔地獄の炎が赤々と燃えている。
意識を取り戻した空が最初に見たものは、難しい顔で腕を組み、ひどく落ち着かない様子で歩き回る燐の姿であった。
空はソファから起き上がると、テーブルの上の茶器を倒さないよう慎重に脚を下ろし、燐に向かって呼びかけた。
「おはよーお燐。どうして私はここにいるの?」
「いきなり何だい。哲学の問題なら相手を選んでやりなさい」
「いや、そうじゃなくてね。私はたしかエントランスにいて、それで……」
意識を失う直前のことを思い出そうとするのだが、どういうわけかさっぱり思い出せそうもない。
ひどく恐ろしい思いをした気がするのだが、肝心の詳細は空の記憶から抜け落ちてしまっているようだ。
「あー……うん。思い出さないほうがおくうのためかもしれないねえ。きっと」
「そう? じゃあいいや。ところでお燐、さとり様とこいし様は?」
「さとり様はこいし様を寝室に運びに行ってるよ。あの兎と一緒にね」
倒れたこいしを運ぶ役目は、残念ながら燐の元には回ってこなかった。
代わりにさとりは彼女に対し、空をラウンジに運ぶよう指示を与えると、鈴仙を伴って行ってしまった。
「……兎? 地霊殿で兎なんか飼ってたっけ?」
「そこからかい……あっ、さとり様!」
空が振り向くと、そこには連れ立って入室してきたさとりと鈴仙の姿があった。
包帯でグルグル巻きにされた鈴仙の顔を見た瞬間、空の頭の中におなじみの警告音が鳴り響く。
Caution!! Caution!! ヤツハキケンダ。ヨクワカラナイケドトニカクハイジョセヨ。
「さとり様どいて! そいつ殺せない!」
「ちょっ、おくう!?」
制御棒に左手を添え、鈴仙らの方に向ける空を、燐が慌てて制止しする。
悪戯っぽく笑う鈴仙を横目で睨みながら、さとりは空らに歩み寄った。
「おくう、落ち着きなさい。彼女はもう敵ではないわ」
「囁くんですよ、私の中のヤタガラスがっ! そいつを生かしておいたら世のため人のためにならないとっ!」
「はいはい。それじゃあおくう、私のためにお湯を沸かしてきてくれないかしら? ちょうどお茶が飲みたい気分だったのよ」
「はっ! お任せください!」
新たな指令を受けた空は、テーブルの上のティーポットを掴み台所へと走り去って行った。
さとりは小さな溜息をつくと、鈴仙に椅子に座るよう促し、自身はテーブルを挟んだ正面の椅子に腰掛けた。
燐は万一に備え、両者から直角の位置にあるソファに陣取って、お茶の用意をしつつ鈴仙に対し睨みを利かせる。
「さとり様、本当に大丈夫なのですか?」
「こいしのことなら大丈夫よ。彼女が診たところ怪我も無いみたいだし、一晩ぐっすり寝れば元気になるって」
「いやいや、あたいが言ってるのはその彼女、ていうかコイツのことですよ。本当に信用できるのですか?」
「そうねえ。少なくともこいしに対しては誠実みたいよ? 私たちに対しては……」
さとりは挑むような目つきで、鈴仙を正面から見据えた。
「これから次第ね」
包帯の下で、鈴仙の口元が僅かに歪む。
彼女は手際よく包帯を解くと、傷ひとつない素顔を晒して微笑んだ。
燐が何か言おうとして口を開きかけたが、さとりがそっと手を伸ばして制止する。
「ありがとう。よく見えるわ」
「こいつの顔なんか見てどうするんですか? そりゃあ大した再生力だとは思いますけど」
「永遠亭印の特性軟膏よ。お求めの際は――」
「嘘おっしゃい。心を読めるようになったと思ったら早速これとは、あきれたとしか言いようがないわね」
鈴仙の瞳が赤い光を放ち、表情に一瞬ノイズのようなものが走った。
すると彼女の顔面に施されていた波長操作が解かれ、燐に引っかかれた痕が露わとなる。
「外見も心も隠し放題とは、こいしもとんでもない奴を連れてきたものだわ」
「別に隠していたわけではないわ。私はただ、無意識で行動していただけよ」
「無意識って……それじゃあなにかい? お姉さんはこいし様の能力で操られてたっていうのかい?」
燐が口にしたのと同じ疑問を、最初の内はさとりも抱いていた。
エントランスで対面したときから心が読めなかったことと、こいしに従順だったということが理由だが、それだけでは説明がつかなくなってきている。
こいしが昏倒した際、一瞬だけ鈴仙の思念を読むことができたが、その後は包帯が解かれるまで、彼女は心を隠し続けていたのだから。
「さて、そろそろあなたの目的を教えてもらおうかしら。あなたは何のためにこいしに近づき、この地霊殿にやってきたのかしら?」
「結論から言わせてもらうと、人生に苦しみをもたらす全ての概念から解放されること。それが私の目的よ」
「……はあ?」
嘘を言っているわけではないようだが、鈴仙の返答はさとりたちの想像の遥か斜め上を行くものであった。
燐がいささか間の抜けた表情で聞き返したが、彼女が居なかったらさとりが同じ表情を浮かべて同じ様に聞き返していただろう。
相手の真意を量るためには、外見だけでも平静さを保つ必要がある。そういった意味では彼女のような同席者の存在はありがたかった。
「順を追って説明させてもらうわね。私は元々、月の都で兵士をやっていたのよ。当然、有事の際は命を投げ出して戦うように教育されていたわ」
「あなたはそれが嫌で、地上に逃げ出してきた……と。そういう認識であっているわよね?」
「ええ。戦いの中でのみ訪れる死を待ちながら、永遠に近い時を過ごす……私にはそれが耐えられなかった」
物思いに耽るような表情でもって、鈴仙は天井を見上げた。
あたかもそこに月が浮かんでいるかのごとくに。
「使命を放棄したからといって、死の恐怖……苦しみから逃れられたわけではない。私には救いが必要だった」
「死なずに済む方法……蓬莱の薬と、それを作ることのできる存在……なるほど。あなたがあの竹林に辿り着いたのは、偶然ではなかったということね」
「あの……さとり様? できればその、あたいにも理解できるように話していただけるとありがたいのですが……」
心を読む者と読まれる者の会話は、第三者からすれば意味不明に聞こえてしまうものである。
こころなしか悲しげな表情を浮かべる燐を見て、さとりは済まなそうに笑ってみせた。
「ごめんねお燐。つまり彼女は死の恐怖から逃れるために不老不死の存在になろうとして、そして……挫折したのね」
「約半世紀にわたって私は蓬莱人たちと生活を共にしてきたわ。その結果理解したのよ。たとえ不滅の存在になったとしても、生きることの苦しみからは逃れられないってね」
永すぎる時間を持て余す輝夜と、彼女に半ば依存する形で自我を保ってきた妹紅。
そして常に月の動向を警戒し続け、ここ最近に至っては何者かを恐れるようになった永琳。
そんな彼女たちの姿は、鈴仙の期待を裏切ってなお余りあるものであった。
「私は悟ったわ。いくら逃げたところで、自分が変わらない限り心の平穏を得ることなどできはしないってことを」
「そして、あなたが見つけた最後の逃げ道が……こいし? あの子に何の関係が……」
「あ、おくう!」
部屋の入口でウロウロしていた空に最初に気が付いたのは、燐であった。
会話に加わるタイミングでも窺っていたのか、三人の視線を受けた彼女は妙に居心地が悪そうにしている。
本来ならお湯の入ったティーポットを携えていなければならないはずであったが、彼女が持っていたのは人数分のコップと冷たい麦茶の入った瓶を載せたお盆であった。
「おくう……私はお湯を沸かしてきてって言ったのだけれど……?」
「もっ、申し訳ありませんさとり様! 急いでお湯を沸かそうとして、それで、その……」
「勢い余って一つしかないポットを気化しちゃったというわけね。やれやれ」
さとりは空を招き寄せ、軽く握った拳で彼女の頭を小突いた。
そして懐から財布を取り出し、彼女に幾らかのお金を握らせる。
「これで新しいポットを買ってきなさい。今回はそれで勘弁してあげるわ」
「おっ、お任せください! 可及的速やかに目標物を調達して参りますっ!」
「おい馬鹿おくう! その麦茶は置いていけっての!」
お盆を持ったまま駆け出した空を、燐が慌てて呼び止める。
立ち止まった空は一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、やがて自分が持っているものに気が付くと、やや恥ずかしげにお盆をテーブルの上に置いた。
その一連のやりとりを、さとりと鈴仙は可笑しそうな笑みを浮かべながら見守っていた。
「おくう、焦っちゃ駄目よ。慌てず、急がず、ゆっくりね」
「はい! それでは行ってきます!」
何故か抜き足差し足で去ってゆく空を、一同は笑顔で見送った。
「楽しそうでいい所ね。地霊殿って」
「そうかしら? あなたの所も負けてないと思うけど」
「ウチは拳骨じゃあ済まないわね。同じ様な失敗をした日には二、三週間は生死の境をさまようことになるわ」
朗らかに言い放つ鈴仙に対し、さとりは笑顔で応じる。
彼女の発言は皮肉とも冗談とも受け取れるものであったが、そこに悪意は感じられない。
「彼女みたいな鳥頭も素敵だけど、苦悩を捨てるためにはまだまだ不十分ね。私が目指しているものはその先にある」
「その先って……何も考えず、何も感じない無意識の境地……そういうことだったのね」
「波長操作を応用した自己催眠と、師匠に内緒で精製した薬品によって、ある程度は感情や痛覚を制御することができるようになったわ。しかしそれでもまだ足りなかった」
燐に引っ掻かれた傷を愛おしそうになぞりながら、鈴仙は感慨深げに呟く。
彼女の思考の一端を垣間見たさとりは、納得の行った様子で頷いてみせた。
「それであなたは、こいしが持つ無意識で行動する能力に目をつけたというわけなのね」
「じゃ、じゃあこいつは、自分が楽になるためだけにこいし様の心を弄んでいたっていうことですか!?」
「待ちなさいお燐、それほど単純な話でもなさそうよ?」
いきりたつ燐を、さとりが手を伸ばして制止する。
鈴仙は身じろぎひとつすることなく、ただ悲しそうな表情を浮かべてみせた。
「こいしの事を知ったのは、人里に薬を売りに行ったときだったわ。彼女は八百屋の前で奇怪なポーズをとっていたんだけど、どういう訳か誰も彼女に気が付いていない様子だったの」
「何をやっているのよ、あの子は……」
妹が放浪を繰り返していることはさとりも知っていたが、そのような奇行をはたらいているとは初耳だった。
鈴仙が言うところの奇怪なポーズも、大体どのようなものかは想像がつく。
呆れた様子で眉間を押さえるさとりを、燐が苦笑いしながら慰める。
「しばらく見ていたら彼女、トマトを一つ掴んでポケットに入れると、そのままフラフラとどこかへ行ってしまったわ。誰も彼女を咎めようとしない、不思議な光景だった」
「ホントに何やってるのよ、あのバカ!」
「さ、さとり様落ち着いて! っていうかちょっと待った、どうしてお姉さんはこいし様に気が付いたんだい?」
頭を掻き毟るさとりを宥めつつ、燐は話題を変えようと疑問を口にする。
半分は好奇心による質問であったが、それなりに効果はあったらしく、さとりも落ち着きを取り戻してくれたようだ。
「さあねえ。どこかの妖精よろしく光の屈折を利用していたってのなら、私だけが気が付いた理由もわかるけど」
「あなたの瞳、便利そうで羨ましいわね」
「心にもないこと言わなくていいわ。これは推測に過ぎないのだけれど、こいしと私の波長が合ったってことなんじゃないかしら?」
鈴仙とこいし。臆病さゆえに傷つくことを恐れ、他人との接触を拒み続ける者同士。
両者の発する波長、すなわち精神状態が近い状態にあったからこそ、鈴仙は無意識で行動するこいしを認識することが出来たのではないだろうか。
「それからというもの、私は外出する度にこいしが発する波長を探して、遠くから彼女の様子を観察するようになったの。その力を詳しく知るためにね」
「こいし様に直接聞いたりはしなかったのかい?」
「ええ。観測対象への接触は成果を歪めてしまうことが多いからね。私はありのままの彼女を見ていたかったのよ」
「不愉快だわ。一歩間違えばストーカー同然じゃない。ひとの妹を何だと思っているのかしら」
「私には私の、彼女には彼女の人生がある。出来ることなら私のエゴに彼女を巻き込みたくはなかったんだけど……」
「でも、あなたはこいしの前に姿を現した。それについてはまあ、感謝してないこともないわ」
さとりは既に、二人が出会うきっかけとなった出来事を、鈴仙の中から想起して読み出していた。
並の妖怪なら即死級の炎と光線が飛び交う中、怯えるこいしを抱えて永遠亭へと走る鈴仙。
無事に自室へと辿り着いた彼女は、負傷の有無を確認するためこいしの服を優しく脱がせる。
幸い数箇所のかすり傷程度で済んだらしく、鈴仙は手際よくそれらに膏薬を塗ってやる。
呆けた表情でなすがままにされていたこいしであったが、その表情は目に見えて朱く染まっていく。
彼女は意を決した様子で立ち上がると、処置を終えて一息つく鈴仙を押し倒し、そのまま……。
「恋……しちゃったってわけね。なんてこと……」
「あのー、さとり様? お顔が赤くなっていますが、大丈夫ですか?」
「そ、そんなことはないわよ? 私は常に、冷静で、ある……」
歯切れの悪い回答を受けて、燐が不思議そうに首を傾げる。
鈴仙はどことなく幸せそうな表情でもって、そんな二人を見つめていた。
「彼女がなぜ竹林に来ていたのかは分からない。ともあれ、私の計画は大きな修正を余儀なくされたわ」
「でもそれは、お姉さんにとってチャンスでもあったってわけだ。違うかい?」
「否定はしないわ。直接彼女と触れ合ったことで、その力をより深く理解することができたのだから」
「そう、あなたは一晩ゆっくりたっぷり時間をかけて、こいしの肢体を隅から隅までじっくりと舐めまわすように……ああっ!」
「さとり様、お願いですから麦茶でも飲んで落ち着いてください」
燐からコップを受け取ると、さとりは腰に手を当て豪快に飲み干した。
ここで派手にゲップでもすれば様になったかもしれないが、生憎彼女は乙女である。多少取り乱していたとしても、嗜みまでは失っていない。
「ふう……ああ落ち着いた。そしてあなたはこいしの精神パターンを参考にして、自分の精神を弄りまわしたってことね」
「その通り。無意識って素晴らしいわね。余計な感情や思考に囚われることなく、本能のままに行動することができるんだもの」
「本能のままに行動……? じゃあお姉さんがここに来たのも、本能のなせる業だって言うのかい?」
「ううっ、まあその。そういう事になっちゃうのかしらねえ」
「なんだい、歯切れの悪い」
燐の質問を受け、鈴仙がいささか困ったような表情を浮かべる。
これはあくまで無意識による反応であり、精神的な動揺によるものではないとさとりは判断した。
「こいしを見てれば分かると思うけど、意識が無くても行動や判断に支障は出ないの。むしろ余計な要素が取り除かれ、常に最適な判断が下せるようになるみたいね」
「どうかしら。あの子は感情の赴くままに生きているようにしか見えないけどね。とてもじゃないけどあなたの言うような状態にあるとは思えないわ」
「そうかもしれない。だからこそ私の理想とする状態に近づくためには、こいしのように心を閉ざすのではなく、完全に消去してしまう必要があることが解ったのよ」
「心を消し去ってしまうってことかい? まるで生きる屍、ゾンビだね」
「現に私は、あなたが言うゾンビに極めて近い状態にある。それでも他人から見れば普通に過ごしているのとなんら変わりはないし、取り立てて不都合もないと思うわ」
「その割には随分怪しまれてたみたいじゃないの。あなたの家族、特にお師匠様には」
鈴仙が見せた心の一端から、さとりは今朝永遠亭で行われたやりとりを想起していた。
もっとも彼女の関心は、鈴仙の変化を怪しむ住人たちではなく、もっぱらこいしの見せた振る舞いにあった。
ひょっとしたら、妹は他人に対して心を開きつつあるのかもしれない。さとりは少しだけ嬉しく思った。
「あの人は色々と規格外だからね。まあそんなこんなで私の計画はあと一歩のところまで来ているのよ」
「あと一歩ってことは、まだ少し心が残ってるってことだね」
「そうなのよ。こいしから得た情報を基に少しずつ自我を削っていった結果、最後に残った感情が……」
「ちょっと待って、やめて。聞きたくないわ」
さとりは手のひらで額を押さえつつ、話を続けようとする鈴仙を遮った。
「どうしたんですか? さとり様」
「お燐、わからないの? 彼女がさっき言ってたじゃない。世界で最高の感情がどうとか、虫酸の走るようなことを!」
「それって確か、コイツがおくうとやり合ってた時の……まさか!?」
振り向いた燐の眼の中で、鈴仙が屈託の無い笑みを浮かべる。
心を捨て去ろうとした彼女が、最後の最後に捨てきれずにいる感情。
「そう……愛よ」
鈴仙が言葉を継ぐと同時に、頭を抱えたさとりが甲高い悲鳴を上げる。
彼女にはわかっていたのだ。鈴仙が元来強い自己愛の持ち主であることと、その自我が消えつつある今、行き場を失った愛が誰に向かっているのかを。
「私はこいしを愛してしまった。彼女の存在こそが、私の意識をこの不毛で無為無価値な世界に繋ぎ止める、唯一の鎖となってしまったのよ!」
「聞きたくなかった……その言葉だけは聞きたくなかった……!」
無意識の内に立ち上がっていたさとりが、力なく椅子に腰を下ろす。
彼女の予想では、事態はもっと簡単に終息を迎えるはずだったのだ。
目的を遂げた鈴仙はそのまま地霊殿を去り、こいしの恋心も一時の気の迷いとして片付けられる。
それで全ては元通りになると。だが、所詮は彼女の願望に過ぎなかったというわけだ。
「今の私は、すべてこいしのために存在すると言っても過言ではないわ。彼女が望むように振る舞い、喜ばせ、そして私も幸福を感じる。ある意味ではこれも理想的な在り方なのかもしれないわね」
「じゃあお姉さんは、本当にこいし様のペットになってしまったってことなの?」
「そのつもりはなかったのだけれど、今ではそれでも構わないと思っている。むしろ本望だわ」
「『ん』と『う』を抜いたら……?」
「よしなさいお燐! ……私は認めないわ。そんな不健全な関係、絶対に認めるわけにはいかないっ!」
このままなし崩し的に鈴仙を地霊殿に迎えてしまっては、さとりの気苦労が増える一方である。
こいしとつるんでどんなトラブルを引き起こすか知れたものではないし、何より元の飼い主たちが取り返しに来ないとも限らない。
先程話題に上った「お師匠様」のような規格外の連中と渡り合う程の気概など、さとりには毛頭ないのだ。
「お義姉様、そこをなんとか」
「私はぁ、お前のぉ、お義姉様じゃあ、なぁあいっ!」
「まあまあさとり様。こいし様のこともあるし、しばらくの間様子を見てみるのもいいんじゃないでしょうか? いざとなったらあたいとおくうで上手いこと処理しますから」
硝子の外の炎を眺めつつ、燐が真面目くさった顔で言ってのける。
彼女の頭の中では既に、ミディアムレアに焼き上がった鈴仙が猫車に載せられ、核融合炉へと運ばれる光景が描かれていた。
ペットの物騒な妄想に軽い眩暈を覚えつつ、さとりは気分を落ち着けるため麦茶に口をつける。
「灼熱地獄の炎、初めて見るけど案外綺麗なものなのね。いっその事ここを最後の地とするのもいいかもしれない。私は絶対地獄に落ちるって閻魔様も仰ってたし」
鈴仙の感慨深げな呟きを受けて、さとりは口に含んだ麦茶を盛大に噴出した。
この狂った生ける屍は、もはや死ぬことさえも恐れていないというのだろうか。
口元を袖で拭いつつ、さとりはどこか引っかかるものを感じていた。
「……結局のところ、あなたは何が望みなの? こいしと共に過ごすこと? それとも安らかな最後?」
「一切の望みを捨てる、っていうとなんだか知的に感じるかしら。生まれ育った月を捨て、逃げ込んだ先の地上をも捨て、こいしの中に心の安息を見出した私にとっては、どちらでも構わないというのが本音でしょうね」
「呆れた。そんないい加減な奴を大事な妹のペットになんて迎えてやるものですか。あなたの居るべき処はここではない。さっさと月なり地上なりに帰って、惨めな最後を迎えるがいいわ」
その大事な妹をアッパーで吹っ飛ばしたのは他ならぬさとり自身なのだが、今となってはどうでもいいことだろう。
鈴仙が現世に残した最後の感情、すなわちこいしへの愛を断ち切ってやれば、それで全ては解決するのだ。
さとりは彼女の心を覗き込み、決め手となる何かを掴むべく意識を集中させたが、これといった情報は手に入らなかった。
「ひょっとしてあなた、まだ死ぬのが怖いんじゃないの? 愛とかなんとか調子のいい事言ってるけど、意識を捨てられないのはそれが理由なんでしょう?」
「そう……なのかもしれない。生きていくために必要な最後の感情が愛だなんて、なんだか上手く出来すぎてるわね」
さとりが苦し紛れに放った一言を、鈴仙は意外にもあっさりと肯定してみせた。
相変わらず惚けた言い回しをしてみせてはいるものの、さとりの言葉は確かに彼女の核心を衝いたのだ。
となればこの機を逃す手はない。さとりは全身全霊をもって、彼女との心理戦に勝利すべく頭を働かせる。
「やはり地上に帰るべきだと思うわ。あなたには帰りを待っててくれる家族がいるでしょう? その人たちを裏切ってまで妄念に突き進むなんて、ナンセンスとしか言いようがないわ」
「月の都を警戒する必要が無くなった以上、あの人たちが私を必要とする理由はないわ。私が来るまで千年以上も過ごしてきたんだもの、今更いなくなったって気にするとは思えないけど」
「なるほどねえ。そうやってあなたは、自分を大事にしてくれた人々を捨ててきたのね」
相手の心を抉るような言動は、さとりが最も得意とする攻撃手段である。
表情を全く変えない鈴仙にどの程度通用しているかは定かではないが、説き伏せる分には問題ない。
あと一歩、あと一歩で彼女を完全に論破することができる。背中になにやら冷たいものを感じつつ、さとりは止めを刺すべく口を開く。
「いずれはこいしのことも捨ててしまうんでしょうね。あの子がどれだけ傷つくのかなんて、あなたにとってはどうでもいいことでしょうから」
鈴仙は口を閉ざしたまま、何かに驚いたかのように眼を見開いた。
勝利の瞬間が近づいていることを確信しつつ、さとりは視線を横に移し、燐の様子を窺ってみる。
先程から口を閉じたままの彼女は、なにやら落ち着かない様子で辺りを見回していた。
心を覗いてみてもイマイチ要領を得ないため、さとりは気にするのをやめて再び鈴仙に視線を戻す。
「……今ならまだ、こいしの心の傷は浅くて済むわ。あなたが本当にあの子を愛しているというのなら、ここは潔く身を引ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ」
「鈴仙! お姉ちゃんの言う事なんか聞いちゃ駄目よ!」
締めに入ろうとしていたさとりは、何者かの介入により壊れた蓄音機のごとく呻き声を吐き続ける破目に陥ってしまった。
回りくどい言い方はやめよう。話題の中心に上がっていた彼女の妹、古明地こいしが突然現れて、後ろから姉の首を締め上げてしまったのだ。
無意識の内にこいしの存在を察知していた鈴仙と燐であったが、今はただなす術もなく手足をバタつかせるさとりを眺めるしかなかった。
「こ、い、し……? あなた、どうして……?」
「残念だったわねお姉ちゃん! あんなヘナチョコパンチの一発や二発で、私をノックアウトしようなんて考えが甘いのよっ!」
強がってみせてはいるものの、あの一撃で意識を刈り取られてしまったことは事実である。
さとりにとっての誤算はふたつ。ひとつはこいしの回復が予想以上に早かったこと、そしてもうひとつは、彼女が攻撃に移った瞬間にも動きを察知できなかったことだ。
こいしが持つ他人の無意識に潜む力は、元を辿れば他人との関わりを避けたい一心で発現したものである。
彼女自身の意思で他人と関わろうとした場合、当然その能力は解除され、相手も彼女を意識することができるようになる。
先程の一騎打ちの際も、さとりはこいしが仕掛けてくるその一瞬に意識を集中させることで、迎撃の態勢をとることができたのだ。
「鈴仙をいじめることに夢中になるあまり、私の奇襲を察知できなかったみたいね! お姉ちゃんのくせに調子に乗るからいけないのよっ!」
「おっ、おやめくださいこいし様! このままではさとり様が窒息死あそばされて、僭越ながらこのあたいめが入念にエンバーミングを施したのち猫車に載せてああっ! 快感っ!」
燐の説得だかなんだかよく分からない奇声を受けて、こいしは満足げにさとりの首から手をはなした。
激しく咳き込む姉を悠然と見下しつつ、こいしは彼女の正面へと回り、鈴仙の膝の上に腰掛ける。
「げほっ、ぐほっ……こいし、いつから私の後ろに居たの……?」
「えーっとね、おくうが買い物に出かけたあたりから」
「なんてこと……ほとんどバッチリ聞かれちゃってるじゃないの……」
まるで気配を察知できなかったことは置いておくとしても、こいしがこれまでの話を黙って聞いていたことが、さとりにとっては驚きだった。
会話の内容を理解できる程度の知能はあるはずなのに、どうして彼女は何一つアクションを起こさなかったのか。
鈴仙の膝の上で幸せそうに微笑む妹の姿は、かつて無いほどに不気味なものとしてさとりの眼に映っていた。
「二人の会話をずっと聞いてたんだけど、どうも大事なことが抜け落ちてるみたいなのよねえ」
「あのー、こいし様? 一応あたいも参加してたんですけど……」
「お燐はテキトーに相槌打ってただけじゃん」
「いやあ、まあその」
「こいし、大事なことって何?」
頭を掻きながら照れ笑いを浮かべる燐には眼もくれずに、さとりは妹に対して問いかけた。
「私がどうしたいかってことよ。二人とも私の意志なんてまるでお構いなしに話を進めていたじゃない。私は鈴仙と一緒に居たいだけなのに、どうして鈴仙を追い出す流れになってしまっているのかしら」
「あのねえこいし、ちゃんと話を聞いていたの? この兎はあなたを利用していたに過ぎないのよ?」
「それくらいちゃんと分かってるわよ。でもねお姉ちゃん、私もまた鈴仙を利用していたとは考えなかったの?」
鈴仙の両手を自分の前で交差させながら、こいしは挑むような目つきで姉を見据えた。
さとりとてその可能性を考えなかったわけではないが、一連のやりとりの中ですっかり頭の中から消え失せてしまっている。
「そうだったんだ。全然気が付かなかったわ」
「うん! そうだったの」
「そーなのかー」
利用されていた当の本人は、まるで意に介さない様子でこいしにされるがままになっている。
奇妙なことに、その様子はさとりの眼に微笑ましいものとして映った。
「ずっと誰かに見られてるような気がしてたんだ。誰かが私のことを見守っていてくれるような、そんな感じが」
「その兎のことを言ってるの? でも彼女は……」
「興味本位だったって言いたいんでしょ? 私もそう。だからその人が何者なのかを知りたくなって、竹林に住んでる薬売りさんだってことまで調べたの」
誇らしげに胸を張ってみせる妹に対し、さとりは苦笑いで応じた。
「でも、実際に会うのは怖かったわ。どうしても悪い方向に想像しちゃって、ずっと迷ってた」
「へえ、こいし様でも想像したり迷ったりするものなんですねえ」
「お燐……ぶつよ?」
軽口を叩く燐に対し、こいしは冗談っぽく拳を振り上げてみせる。
さとりはこいしに代わって燐の頭を軽く小突いた後、続きを促した。
「昨日の夜、意を決した私は竹林に赴いたの。そこでなんだかよく分からない戦いに巻き込まれて、もう駄目だぁ、って思った時……」
「彼女が来てくれた、ってワケね」
「私、とっても嬉しかったの。やっぱりこの人は私のことを見守っていてくれてたんだって。そう思ったら自分を抑えられなくなって、そして……」
「あー、その先は言わなくていいわ」
嬉しそうに話を続けようとするこいしに対し、さとりは手のひらを向けて制止する。
燐が不満そうな声を上げたが、さとりが一瞥をくれると気まずそうに縮こまった。
「霊夢たちと戦って以来、私は再び他人に興味を持つようになってしまったわ。でも正直な話、まだまだ他人と関わるのは怖いの」
「あなたには、自分と他人の間に立ってくれる存在が必要だった。だから彼女の無意識にはたらきかけ、自分と行動を共にするよう仕向けたのね」
「お姉ちゃんは何でもお見通しなのね。そうよ、鈴仙にも私のことを好きになってもらいたかったの。鈴仙が一緒に居てくれれば、私はきっともう一度世界と向き合えるって、そう思ったのよ!」
こいしの独白は、終わりに近づくにつれて叫び声に近いものとなった。
言い切った後顔を伏せる彼女の髪を、鈴仙が優しく撫でてやる。
「……だからね、さっき鈴仙が私のことを愛してるって言ってくれたとき、嬉しくて思わず飛び上がっちゃったわ。誰も気付かなかったけど」
「なるほどねえ。そんなこんなでこいし様は、兎のお姉さんをペットにしたってわけなんですね?」
燐は先程鈴仙にしたのと同様の質問を、今度はこいしに対して行った。
さとりのペットである彼女にとって、どうやらそこが最大の関心事であるようだ。
「あー……うん。ペットの話云々はね……実は私の口から出まかせなのよ」
「まあ、そんなことだろうと思ったわ」
「だ、だって! お姉ちゃんたちなんだか妙に殺気立ってたし、鈴仙のことを認めてもらうにはそれしかないって……お燐! そういえばあなた、お姉ちゃんに何か余計なこと吹き込んだんでしょ!」
「いやあ、地上には気の触れた兎がいるっておくうに聞いたことがあったもんで。あたいてっきり、こいし様がナニカサレタんじゃないかって早合点してしまいまして。それでさとり様に相談しようと……」
「言い訳無用! ネコジュースにしてやるから神妙にしなさいっ!」
「ひい! お許しをー!」
こいしの剣幕に気圧された燐は、猫に変化してさとりの膝の上へと避難した。
余談になるが、空が鈴仙のことを知っていたのには理由がある。
河童たちによるバザーが催された頃、地上に遊びに行った彼女は鈴仙と遭遇し、金烏と玉兎の宿命の対決と相成ったのだ。
勝敗はおろか対決に至った理由すらも不明なその戦いは、後の世に「ザ・ディバイドの戦い」という名で語り継がれ、伝説の一戦として好事家たちの間で盛んに議論が繰り広げられることとなる。
もちろん空にとってはそれほど重要な出来事ではないため、燐に話す頃には記憶が曖昧なものとなり、鈴仙と再会する頃には完全に忘却の彼方にあった。
「まあまあこいし。大体お燐の言った通りだったじゃないの」
「あの、お義姉様? 私は気の触れた兎じゃなくて、気を触れさせる兎ですわ」
「だからお義姉様って呼ぶなとあれほど……なんかもういいわ、疲れた」
「やった! 私許された!」
こいしと抱き合って喜びを表現する鈴仙に対し、さとりは忌々しげな視線を送った。
結局のところ、状況は何一つ変わっていない。
いや、こいしの意思がはっきりと示された今となっては、さとりにとって状況はむしろ悪化したともいえるだろう。
「……さっきも同じ様なこと聞いた気がするけれど、あなたたちは結局どうしたいの?」
「決まってるでしょ! 鈴仙とここで一緒に暮らすのよ!」
「こいしの望むままに」
「それじゃ困るの! それじゃ困るって言ってるのよっ!」
さとりは二人を怒鳴りつけつつ、テーブルに拳を叩きつけた。
一瞬怯んだ様子のこいしであったが、すぐに気を取り直し毅然とした表情で姉に食って掛かった。
「どうしてよ!? どうして私たちの仲を引き裂こうとするの!? 橋姫さんにでも何かされちゃったんじゃない!?」
「別に嫉妬なんかしてないわよ。私はただ、これ以上地霊殿に騒ぎを持ち込んで欲しくないだけで……」
「なによそれ!? 結局自分の身が可愛いだけじゃない! お姉ちゃんのバカ! 事なかれ主義の意気地なし!」
「……ああそう。そういう態度を取るというのなら、私も言いたい事をはっきりと言わせてもらうわ」
さとりが急に立ち上がったため、膝の上に乗っていた燐があやうく振り落とされそうになる。
飼い主の機嫌がかつて無い程に悪化したことを察した彼女は、先程まで自分が座っていたソファの後ろに隠れてしまった。
「あんたたち、気持ち悪いのよ! なんかいつの間にか気持ちが通じ合ったかのように勘違いしてるみたいだけど、結局はお互いに能力を使ってそれらしく振舞っているだけじゃない!」
「そ、そんなことない! 私と鈴仙は……」
「愛し合っているとでも言うつもり? 笑わせないで。あんたらが愛してるのは自分自身であって、相手のことなんか都合のいい道具くらいにしか思っていないんでしょう!?」
「お義姉様、少し落ち着いて」
「お前は黙ってなさい出来損ないのゾンビ兎が。こいし、こいつの姿をよく見ておくことね。これこそが世界に背を向けた臆病者の末路というものよ。生きてるんだか死んでるんだか分からない、哀れなナマモノ……」
「酷い! 言い過ぎよお姉ちゃん! 鈴仙に謝ってよ!」
「何を謝る必要があるというの? この酷く誤った存在に対して、私が何か間違ったことを言ったとでも?」
「お姉ちゃん……私、本気で怒るよ?」
鈴仙の膝から立ち上がったこいしは、テーブルを挟んだ反対側に位置する姉を正面から睨みつけつつ、低い声で呟く。
人知れず人型に戻った燐は、ソファの陰からその様子ハラハラしつつ見守っていた。
「ええ、怒りなさい。思う存分感情を爆発させるがいいわ。その兎みたいになるよりは余程マシというものよ」
「まだ言うつもり……? ならばその減らず口、私の怒りで永遠に塞いでやるっ!」
「駄目よこいし、感情に振り回されては駄目」
テーブルに足を掛け、さとりに飛び掛ろうとするこいしを、後ろから鈴仙が抱きとめた。
「放して、放してよ鈴仙! これ以上アイツにあなたのことを……!」
「感情のままに行動してしまったら、いつか必ず後悔することになるわ。……今の私みたいにね」
鈴仙の腕の中で暴れていたこいしであったが、彼女が悲しそうな表情を浮かべていることに気付くと、抵抗をやめ大人しくなる。
そんな二人の様子を、さとりは腕を組みながら眺めていた。
「私はいつだって間違っていた。月から逃げ出したことも、不老不死を夢見たことも、そして……」
「……こいしを巻き込んでしまったことも、か。どこまでも自分勝手な兎ね。あなた」
鈴仙が飲み込みかけた言葉を、心を読み取ったさとりが繋いだ。
驚いたのはこいしである。彼女は鈴仙の肩を掴み、揺さぶりながら問いかける。
「れ、鈴仙? 私のことなら気にしないでいいのよ? 私なら大丈夫、大丈夫だからっ……!」
「いいえ。お義姉様の言った通り、私はあまりにも周りの人々に無頓着過ぎた。もう一度すべてをやり直す時機が来ているのかもしれない」
「何を言っているの……? 私のこと、嫌いになっちゃったの……!?」
こいしは鈴仙の胸に顔を押し付け、肩を震わせて嗚咽する。
その様子を冷ややかに見つめていたさとりは、鈴仙の精神状態が俄かに変化し始めたことを察知して、怪訝そうな表情を浮かべた。
「そんなわけないじゃない。ただ、今までよりも少しだけ自己主張が強くなるかもしれないから、そこは勘弁してね。こいし」
「あなた、一体何を……!?」
まるで霧が晴れてゆくかのように、鈴仙の隠された本心が露わになっていくのをさとりは感じた。
今まで彼女が見せてきた心は、波長操作によって巧妙に仕立てられた仮面に過ぎなかったというわけだ。
ここに至ってようやくさとりは、目の前の兎――鈴仙・優曇華院・イナバの心を覗くことができた。
「今度こそ、本当に全てを曝け出してくれたみたいね」
「ええ。これが私、一切の補正抜きの私の本心。 はじめまして、とでも言っておいたほうがいいかしら?」
「うーん……どこがどう変わったのか、あたいにはよく分からないねえ」
「まあ、その程度の違いしかないかもしれないわね、実際」
ソファの陰から問いかけてきた燐に対し、鈴仙は困ったような表情で答える。
こいしは顔を上げ、彼女の顔をまじまじと見つめた。
「鈴仙……今の鈴仙は、無意識じゃなくて自分の意思で行動しているの?」
「ええ、そうよ。あなたのおかげで、私ももう一度世界と向き合ってみようという気持ちになれたわ。ありがとう、こいし」
「でも、鈴仙は本当にそれでいいの? 完全に無意識になっちゃえば、楽に生きていけたかもしれないのに……」
申し訳なさそうに顔を背けるこいしを、鈴仙は笑顔で抱きしめた。
確かに彼女の言う通り、完全なる無意識に陥ってしまえば、悩むことも苦しむこともなくなるだろう。
だが、鈴仙はそれを良しとしなかった。意識を手放してしまえば、彼女自身がこいしの存在を感じることもできなくなってしまう。
それは、こいしをこの世界に置き去りにして、自分ひとりが逃げるのと同義であると、彼女はそう考えたのだ。
「私の本気ってやつを見てもらいたかったのよ。あなたにも、あなたの家族にも」
「じ、じゃあ鈴仙は、これからも私と一緒にいてくれるのね!?」
「あなたが望むならいつまでも。もっとも、本来の私は色々とアレらしいから、こいしを幻滅させちゃうかもしれないけどね」
「何言ってるのよ! 色々とアレなのはお互い様じゃないの!」
「フフッ、違いないわ」
「アレ」が一体何を指しているのかは、傍らで見ているさとりの眼を持ってしても見抜くことができなかった。
彼女は心の中でシャッポを脱ぎつつも、今後この二人をどう扱うかについて検討を始めた。
「あなたたちが本気だってのは十分わかったし、これ以上反対するつもりもありません。でも、四六時中一緒に過ごすっていうのは、ちょっと難しいと思うのよねえ」
「そうですねえ。兎のお姉さんにも一応家族がいるみたいですし……そうだ! こいし様が地霊殿を出て、地上で暮らすっていうのは如何でしょう?」
「ふーん、お燐は私に居なくなって欲しいんだ。知らなかったよ」
「いやいや、そういうことではなくてですねえ……困ったにゃあ」
こいしにジト目で睨まれた燐は、決まりが悪そうに頬を掻き始める。
二人が共に過ごすためには、どちらかが今の暮らしを捨てなくてはならない。
鈴仙にそれを望めば永遠亭が黙っていないだろうし、かと言ってこいしを地上に送り出すのもさとりとしては不安が残る。
「そんなに悩む必要があるのかしらねえ? だってホラ、月から見れば地上も地底も大差ないじゃない」
「それが何だっていうのよ、まったく……」
「距離というものは認識によって左右されるほど曖昧なものなの。お互いをよく理解しあえば、隔たりはぐっと小さくなるはずだわ。私とこいしみたいにね」
「あなたの言う事はいちいちわけがわからないわね……ちょっと待って、まさか!?」
鈴仙が何を意図しているのか、心を読んださとりにはすぐに理解することができた。
恐れというものは無知や無理解から生じるものであり、乗り越えるためには相手のことを知ろうとする勇気が必要となる。
こいしや鈴仙がそうしてきたように、今度はさとりが勇気を出す番であると、彼女の心はさとりに対して訴えているのだ。
「どうしたんですかさとり様? なんだか難しいお顔しちゃって」
「あー! 私わかった! 鈴仙が何を言いたいのか!」
「こいし様まで……あたいには何が何やらさっぱりですよ」
「おっ、お待たせしましたああああああぁっ!」
燐が拗ねたような声を上げたのとほぼ同時に、買い物に出かけた空が部屋に飛び込んできた。
新品のティーポットを携えた彼女は、そのままさとりの元へと駆け寄った。
「ご覧下さいさとり様! 以前のものよりも一回りほど大きな……あっ、この兎まだ居たのか! こいし様から離れ……」
「おくう、お燐。今からみんなで地上に行くから、すぐに準備をなさい」
「へっ? 地上ですか?」
鈴仙に掴みかかろうとする空を羽交い絞めにしながら、燐が素っ頓狂な声を上げた。
さとりの意図は不明だが、ここは黙って従うのが正しいペットとしてのあり方である。
燐は手早くコップを盆に載せると、ポットを持った空を伴って台所へと向かった。
「私たちも準備しなきゃ! 行きましょ鈴仙!」
「わわっ、ちょっと、こいし!?」
一足早く立ち上がったこいしは、鈴仙の膝裏と背中に腕を差し入れ、お姫様抱っこの形で抱き上げた。
予想だにしていなかった事態を受けて、鈴仙の頬が朱に染まる。
「あはっ♪ 鈴仙ったら真っ赤になっちゃって、可愛いんだ!」
「こ、こいし……! これって結構恥ずかしいのね……」
「兎さん? あなた下着が見えてるわよ」
「お義姉様まで、もう……!」
そのまま寝室に向けて去って行く二人を、さとりはニヤニヤしながら見送った。
さとりの意図を汲んだ上での行動だとしたら、おそらくこいしは数日分の着替えを取りにでも行ったのだろう。
「さて……上手く事が運べばいいのだけど……」
さとりはソファに身体を預け、天井を眺めながら呟く。
これから彼女が赴こうとしているのは、鈴仙の棲家である永遠亭。
こいしの身内として、一度は顔を出しておこうという思いもあったが、それ以上に二人のこれからについて先方と相談したかったのだ。
しかし相手は得体の知れない宇宙人。どのように話を進めればよいものやら、さとりには皆目見当がつかない。
できれば穏便に済ませたいところではあるのだが――さとりは心配性であった。
一行が永遠亭に辿り着いたのは、その日の夜のことである。
大広間に案内されたさとりは、事を荒立てないよう慎重に言葉を選びながら、輝夜と永琳に対し事情を説明した。
「話は大体わかったわ。つまりこれからは、なるべく二人が一緒に居られるよう計らってあげればいいのね。簡単、簡単」
「えっ……? そんなあっさり決めちゃっていいのですか?」
「私がいいって言ったらいいの。せっかく鈴仙にもお友達ができたんですもの、少しくらい融通してあげなきゃ可哀相よ。ねえ永琳?」
永遠亭の主、輝夜はさとりの申し出を快く承諾してみせた。
やや肩透かしを食らった感のあるさとりは、念のため輝夜の心を読み、彼女が嘘をついていないことを確認する。
鈴仙から事前に「あの二人の思考をまともに読もうとすると気が触れるかもしれない」との警告を受けていたため、あくまで慎重に。
「永琳、どうしたの?」
「えっ? ああ、そ、そうね。業務に支障が出ない範囲でなら、あの子たちの好きにさせてあげてもよいでしょう。オホン」
「もう、しっかりしてよね」
なにやら落ち着かない様子であたりを見回していた永琳は、輝夜に脇を突かれてわざとらしく咳払いをしてみせた。
鈴仙が元に戻り、こいしの姉であるさとりが二人の関係を認めた以上、この件について永琳の気懸かりは無くなったといえる。
「うんうん。話の流れはさっぱり解らないけど、とりあえずこれで一件落着みたいね」
さとりの隣で、すっかり出来上がった様子の霊夢が酒を呷っている。
今の永琳にとっては心を読めるさとりよりも、むしろこちらの方が不気味な存在であった。
「あのー、霊夢? あなたは一体何をしにきたのかしら……?」
「いやねえ、神社の周辺でコイツらがウロウロしてるのを見かけたもんだから、こりゃ異変か宴会かのどちらかだと思って、こっそり後を尾けてきたってわけよ」
「呆れたひとね。あなた途中から完全にお酒目当てだったじゃないですか。それにあなたの尾行、鈴仙に速攻でバレてたみたいですよ。ややこしくなるからあえて無視したみたいですけど」
「いやあ、まあその。うっ、うわっはっはっ!」
さとりのツッコミを笑って誤魔化そうとする霊夢に対し、永琳は油断の無い視線を送る。
彼女は警戒しているのだ。霊夢来訪の裏には、あの得体の知れないスキマ妖怪の思惑が働いているのではないかと。
顔を動かさずに目線だけで部屋中を見回す永琳を放置して、輝夜は座ったままさとりににじり寄った。
「ねえねえさとりさん。これからはあの二人がお互いの家を行ったり来たりするってことでいいのよね?」
「え、ええ。差しあたって今日からしばらくの間、ウチのこいしがこちらで厄介になりますが……」
先程さとりが行った提案とは、つまるところそのような内容であった。
二人が共に過ごすというのなら、永遠亭と地霊殿の両方を二人の家にしてしまえばいい。
元々は鈴仙の入れ知恵であったが、実際に口にしたのはさとりである。
彼女は自分の意見が無事に受け入れられたことに満足していた。
「折角ここまで来たんですもの、あなたたちも一緒に泊まっていってもいいのよ?」
「えっ!? い、いえいえ! 急に押しかけた上にそこまでしていただくなんて、そんな……」
「なに水臭いことを言ってるの。あの子たちが友達同士になった以上は、私たちだって友達みたいなものでしょう?」
満面の笑みで迫ってきた輝夜を見て、さとりは少したじろいだ。
嫌われ者として過ごしてきたさとりにとって、ここまで積極的かつ友好的に接してくる相手は初めてである。
「そうだ! 鈴仙もその内あなたの家に行くんでしょ? その時は私もお邪魔させてもらっていいかしら?」
「ちょっ、輝夜!?」
「あなたも一緒に行くのよ永琳。友達の家に遊びに行くのに、何を遠慮する必要があるというの?」
「うーん……それはまあ、そうかもしれないけど……」
口を挿もうとした永琳に対し、輝夜はぴしゃりと言い放つ。
永遠亭に篭りがちな彼女にとって、今回の件は友人を作る数少ないチャンスである。
いつになくアグレッシブな彼女を見て、永琳は不安を覚えつつも少しだけ嬉しく思った。
「あー、あんたたち? 行ったり来たりするのは結構だけど、神社の近くを通る際はお賽銭を忘れないようにね」
「神社はいつから関所になったのかしら」
「うっさいわね。ウチだって色々大変なのよ。信仰は増えないのにライバルばっかり増えるんだから……」
耳元で愚痴をこぼす霊夢をよそに、さとりはこれからの事について思いを馳せた。
永遠亭との敵対という最悪のシナリオは避けられたものの、ここまで先方に気に入られてしまうとは思ってもいなかったのだ。
この先なにかと気苦労は絶えないだろうが、不思議と悪い気はしなかった。
友人を作る機会に恵まれないのは、さとりも同じなのだから。
「そういえば、鈴仙はどこに行ったのかしら? こいしさんの姿も見えないようだけど……」
「言われてみればそうですね。ではウチのペットに探させて……って、こっちもいないの?」
「ん? バカ猫とバカ烏ならさっき出て行ったわよ。リスクマネジメントがどうとか言ってたけど、何のことかしらねえ?」
「あの子たちったら、勝手なことを……」
おおかた交渉が決裂した際に備えて、奇襲の準備でもしているのだろう。
さとりは手のひらで額を押さえつつ、提案者であろう燐にどのようなお仕置きをすべきかを考えた。
「竹林に迷い込んだら大変だわ。永琳、イナバたちに探させた方がいいんじゃない?」
「そうねえ。てゐがいればすぐにでも行かせるところなのだけれど……あの子はいつまで寝ているつもりなのかしら」
「いえ、それには及ばないと思います。多分すぐ近くにいるでしょうから……」
「さっ、さとり様ぁ~! 不審な輩を捕まえましてございますぅ~っ!」
叫び声が響くと同時に縁側に面した障子が開き、燐と空が飛び込んできた。
猫車の荷台には、なにやら人型の黒い塊が載せられている。
「捕まえてきたってあなた……どう見ても生きてるとは思えないわよ、それ」
「す、すみません。コイツがいきなり塀を乗り越えてきたので、驚いたおくうが、つい……」
「ご安心くださいお姫様! 塀には焦げ跡ひとつ付けていませんから!」
「それは別に構わないのだけれど……この塊、まさか!?」
「そうよ、そのまさかよ!」
「塊が喋った!?」
喋っただけではない。塊はムクリと立ち上がって、全身から炎を放ち始める。
やがて炎がおさまった時、猫車の上で一人の少女が仁王立ちしていた。
「妹紅! やっぱりあなただったのね!」
「十時間四十二分三十六秒ぶりだな輝夜! ところでこいつらは何だ? お前の新しいペットか?」
「大事な大事なお客様よ。失礼のないよう可及的速やかに退去なさい!」
「宿敵の指図は受けんよ! ……ん? そこのお前、どこかで見たことがあるような……」
「えっ? 私ですか?」
妹紅の視線を受けて、さとりは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
彼女の全身を舐め回すように見つめた後、妹紅の表情が喜びに満ちたものへと変わる。
「お前……あの時のサトリ妖怪か」
「あの時……? それじゃまさか、あなたは!」
妹紅の記憶を読み取ったさとりは、相手が何者かを理解した。
数多くの妖怪を屠ってきた妖怪ハンターにして、不老不滅の蓬莱人。
かつてさとり自身も襲撃を受け、三日三晩に亘る死闘を繰り広げた経緯があった。
「まだ生きていたとはな。だがそれも終わりだ、決着をつけようか!」
「くっ、よりによってこんな時に……!」
妹紅が臨戦態勢に入るのを見て、さとりも弾幕戦に備えるべく、彼女のトラウマを探り始める。
その大半は輝夜ご自慢の「難題」であったが、とりわけ大きなものが別の女性による「頭突き」であったため、さとりは首を傾げた。
「こらこらあんたたち、いい子にしてないと撃ち殺すわよ?」
弾幕戦の気配を察知した霊夢が、酒を呷りつつ睨みをきかせる。
タダ酒にありつける折角の機会を、無粋な連中に台無しにされるなど彼女の本意ではないのだ。
「……そうですね。こんなところで弾幕の撃ちあいなどをしては、皆さんに迷惑が掛かってしまいます」
「ほう、大人しく私に食われる気になったか。殊勝な心がけね」
「妹紅、あなたいい加減に……!」
いきり立つ輝夜を制し、さとりは不敵な笑みを浮かべた。
周囲の被害を抑えつつ、正々堂々と決着をつける方法を思いついたのだ。
「妹紅さん、といったわね。ここはひとつ、弾幕抜きの殴り合いなんてのはどうかしら?」
「なにィ……?」
地霊殿で妹に対して言ったのとほぼ同じセリフを、さとりは自信たっぷりに口にした。
彼女の口から出たとは思えないほど野蛮な提案に、その場に居た者たちは困惑の表情を浮かべる。
唯一事情を知る燐だけが、暴力と鮮血の予感に歓喜の表情を浮かべていた。
「……そうか、そういえばお前はそういうヤツだったっけな。だんだん思い出してきたぞ」
「それは何より。で、どうします? このまま尻尾を巻いて逃げ帰るというのなら、引き留めはしませんが」
「引き留めはしない……? 引き留めはしないって言ったのか!? 上等だよ、表に出な!」
二人はそのまま庭に飛び出すと、十分な間合いをとって対峙した。
両手をモンペに突っ込んだノーガード戦法をとる妹紅に対し、さとりは得意のヒットマンスタイルで迎撃の構えを見せる。
心配そうに見守る輝夜の横で、永琳はさとりの構えに熱い視線を送っていた。
「さとりさん、大丈夫かしら……」
「彼女、相当な修羅場を潜り抜けてきたみたいね。この勝負、どちらに転ぶか見物だわ」
「どっちだっていいと思うけどねえ。それよりお酒が無くなっちゃったわ。おかわりまだー?」
「自分で取ってきなよこのバカ巫女! ねえお燐、私たちも助太刀しなくていいのかな?」
「まあ見てなって。さとり様を怒らせるとどうなるか、あのお姉さんも身をもって知ることになるだろうよ」
ギャラリーが見守る中、妹紅はゆっくりとさとりとの距離を詰めていく。
一歩、また一歩と近づいてゆき、やがてさとりの制空権に足を踏み入れた時、彼女はモンペから両手を抜き出し、そして――。
さとりと妹紅が激突する音を、鈴仙は自室の前の縁側で聞いていた。
(……お前も紅に染まれ!)
(猪口才なっ!)
両者の実力は拮抗しているらしく、二人の怒号に混じってギャラリーが囃し立てる声も聞こえてくる。
思わず噴き出してしまった鈴仙を見て、隣に座っているこいしが不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもないわ」
妹紅の襲来を察知した鈴仙は、さとりと輝夜の会話が一段落した頃を見計らって、こいしと共にこっそりその場を抜け出した。
さとりが狙われるであろうことも予測がついたが、永琳や霊夢がいれば取り返しのつかない事態は避けられるであろうと判断し、あえて何も言わずに立ち去ったのだ。
そして今、二人は誰にも邪魔されること無く上弦の月を眺めている。
「鈴仙は、あそこから来たんだよね」
「ええ。もう何十年も前の話だけど、昨日のことのように思い出せるわ」
「月の都って、どんなところなの? やっぱり地上よりいいところ?」
「そうねえ。気候は安定してるし、穢れが少ないから寿命に怯える必要も無い。そして何よりお酒が美味しいわ。まあ、地上のお酒も嫌いじゃないけどね。私は」
「そう……なんだ」
故郷の話題に気分を良くしたのか、鈴仙は嬉しそうな様子で捲し立てる。
はじめは興味深げに聞いていたこいしであったが、次第にその表情は暗くなってゆく。
「こいし、どうしたの?」
「鈴仙は……地上に降りてきたことを後悔してないの?」
「えっ?」
「だって鈴仙、月の話をしている時すごい嬉しそうにしてるんだもん。本当は帰りたいって思ってるんじゃ……きゃっ!?」
こいしが最後まで言い終わらないうちに、鈴仙は彼女の肩に腕をまわして抱き寄せた。
「心配させてゴメンね。あんまりこういう話しないから、ついついテンション上がっちゃって」
「う、うん……」
「月の都はいいところよ。でもね、私がそのことに気付いたのは、実を言うと地上に降りてからのことなのよ」
「えっ、そうなの?」
「そうよ。月があんなに綺麗だったなんて、向こうに居たら絶対に気が付かなかったものね」
二人は肩を寄せ合ったまま、頭上に輝く月を見上げた。
今日が満月なら最高だったかもしれないが、その場合永遠亭では例月祭が催されるため、こうして二人で月を眺める暇など与えられなかっただろう。
「向こうに居た頃は、何もかもがイヤでイヤでたまらなかったわ。退屈で、抑圧されているようで……悪い部分しか見えてなかったんでしょうね、きっと」
「悪い……部分しか……」
鈴仙が何気なく口にした言葉を、こいしは聞き取れないほどの小さな声で復唱した。
彼女の手は、無意識の内に第三の眼を弄んでいる。
「地上での暮らしは色々とキツいことばかりだけど、やっぱり来てよかったと思うわ」
「……私に、出会えたから……? えへへ、ありがとう鈴仙」
「こいし……? あなた今、私の心を……?」
「へっ?」
鈴仙の指摘を受け、こいしは一瞬虚を衝かれたような表情で固まった。
恐る恐る胸元を確認した彼女は、第三の眼がうっすらと開いていることに気付いて悲鳴を上げた。
「きゃっ!?」
「あ……閉じちゃった」
あわてて第三の眼を閉じるこいしを見て、鈴仙が心なしか残念そうな声を上げる。
「ああ、びっくりした……!」
「やっぱり、他人の心を読むのは怖い?」
「怖いっていうか、なんていうか……」
鈴仙から顔を背け、こいしはボソボソと呟いた。
出来ることなら第三の眼を開いて、鈴仙の心の中を読んでみたいという思いはある。
だが、それをやってしまったら最後、今まで通りの関係ではいられなくなるのではないかという思いもまた、こいしの中には存在していた。
「鈴仙のいいところも悪いところも受け入れるって決めたのに……これじゃ私、今までと何も変ってないよ」
「無理に変わろうとしなくてもいいんじゃない? こいしはそのままでも十分魅力的だと思うわ」
「わっ! ちょ、ちょっと鈴仙!?」
鈴仙は不意打ち気味にこいしを押し倒すと、そのまま彼女にのしかかって思いっきり顔を近づけた。
「それに心を読む以外にも、相手の事を知る方法なんていくらでもあるでしょう? 例えば……」
言い終わらぬ内にこいしは鈴仙の頭を抱え込み、そのまま彼女の唇を奪う。
月が見守る中、二人は数十秒間熱い口づけを交わした。
「ぷはっ! ……例えば、こんな方法とか?」
「んー……まあ、ね……」
してやったりといった表情で囁くこいしに対し、鈴仙はやや困ったような顔で答える。
恥らうこいしをじっくりたっぷり堪能するのが彼女の狙いだったのだが、思いがけない反撃に遭って面食らってしまった。
「鈴仙のこと、全部知りたいな。今までのことも、これからのことも……」
「私? 私は逃げも隠れもするし、必要とあらば嘘だってつく……知ってもいいことないと思うけどね」
「それでもいいの。いい部分だけ見てたんじゃ、相手のことを本当に理解したとはいえないもの」
「それが分かっただけでも、こいしは十分変われたと思うよ」
「本当? やったぁ!」
目を細めて笑うこいしを見て、鈴仙も頬を緩めた。
地上では何もかもが変わってゆく。それが良いことであれ、悪いことであれ。
こいしは良い方向に変わっているのだろう。……おそらくは、鈴仙とは違った方向に。
「ねえ鈴仙」
「ん?」
「私がもっともっと変わって、お姉ちゃんみたいになったとしても、ずっと一緒に居てくれる?」
言葉で答える代わりに、鈴仙はこいしに優しく口づけをした。
彼女が第三の眼を開くというのなら、それもいいだろう。
かつて自身に対して行った処置により、鈴仙の精神は既に取り返しのつかないほど荒廃している。
それこそ、無意識でいるのと大して変わらないほどに。
さとりが以前の鈴仙を知っていたのなら、彼女が処置によってどれだけ変わったのかを把握することができたかもしれない。
だが、今となってはどうでもいいことだ。今の鈴仙の心を占めているのは、こいしただ一人なのだから。
「好きよ、鈴仙」
一度唇を離した後、鈴仙はこいしを抱えて寝返りをうち、自分の身体に彼女を乗せた。
彼女をこれ以上下敷きにするのが忍びなかったというのもあるが、それと同時に夜空に浮かぶ故郷――月に見せ付けてやりたいという気持ちもあった。
穢れに満ちた地上において、生きる喜びを見出した己の姿というものを。
「わたしもよ、こいし」
鈴仙はこいしを抱き寄せ、再び熱い口づけを交わした。
自己催眠と薬物の後遺症によりボロボロになった彼女の心に、再び熱いものがこみあげてくる。
もう一度すべてをやり直せる。二人でならばもう一度歩き出せる。
閉じた心と虚ろな瞳の物語は、ここから始まっていくのだから。
もしも二人が、この時もう少し周りに注意を向けていたのなら、鈴仙の部屋からてゐがこっそり出てきたことに気が付いたかもしれない。
お互いを求め合うことに夢中になっている二人にそれを期待するのは、いささか酷な話だろうか。
「イチャイチャするのは勝手だけどさあ、もう少し回りに気を配るべきじゃないのかねえ。まったく……」
てゐはぶつくさ言いながら、騒がしさを増した大広間に向けて歩き出した。
この感想を基本線として、つらつら思った事をだらだら述べていきます。
鈴仙とこいしの関係。
かなり興味深い成り立ちの関係だと思うし、二人の恋が成就して良かったとも思う。
でもなんだろう? なんかモゴモゴした感情が残るんですよね。
うどんちゃんの心理変化にもう一段階何かが挟まって描写されていると納得できたような気がする。
その何かを明文化できないのが非常に心苦しいのですが。
その他の登場人物達。
特にさとりと妹紅が面白い。一歩もバキも大好きさ。
大好きなんだけどちょっとキャラが立ち過ぎのような気もする。主役であるはずのこいナバが喰われ気味。
かと言ってヒロイン二人に焦点をあて過ぎると、途端に話が重たくなりそうだし、それは作者様の本意じゃないのかも。
うーむ、痛し痒し。でもやっぱデトロイトスタイルのさとり様は輝いているもんなぁ。
思った通りの散漫な感想になってしまった。
平にご容赦を。
バトルで突然真面目になったのはびっくり
もうもこたんがレイダーにしか見えないよ。
チラチラぼかされたエロスと、ヤンチャな鈴仙ちゃんにグッと来ました。
もちろん、その鈴仙にベタ惚れのこいしも可愛くて仕方がない。
2人仲良く補いあえればいいですね。
お疲れ様です
鈴仙のならば、掛け値なしに飲ませていただきたい
埋もれているのが不思議な作品だな。a Good one!
感じました
まあ重くなりすぎたとしても、それはそれで楽しめそうな気はしますが((