無性に、腹が立つ。
腹の底からふつふつと湧いて出たようなイライラが、私の胃をうごめく。
落ち着いてなどいられない。私は居ても立ってもいられず、腰掛から立ち上がった。行く当てもなくうろうろと居心地の悪い自室を歩き回り、しばらくして再び腰掛に舞い戻る。こんな無意味な動作を、ひたすら繰り返していた。
このイライラの原因は、明白だった。
私の部下が、一向に帰ってこないのだ。
あと半刻ほどで、姿を消してからちょうど五日になる。あいつは一体どこで油を売っているのか。
「はあ」
怒りのこもったため息が漏れて出る。
当の本人、私の部下である宮古芳香は、キョンシーだ。もともとは死体だったものを強引に再利用させてもらったから、間接は曲がらないし頭も体も腐りかけで出来が悪い。いまもきっと腐った頭で色々と重要なことを忘れ、どこかをうろついているのだろう。
私は今度こそ意を決して立ち上がり、羽衣を纏った。この私がいつまでも我慢させられるのは許せない。近くの墓地へ探しにいってやることにした。あそこはあいつのお気に入りの場所だ。私のほうから見つけ出して、一回ガツンと言ってやろう。何を言ってもまたすぐに忘れるだろうが、少なくとも私の腹の虫は収まる。
私は怒りのぶつける先を求めるように、墓地へ繰り出した。
「うらめしやー!」
墓地に着いてそうそう、変なやつに出会ってしまった。でっかい化け傘が、こちらを活き活きとした目で見つめていた。
だが生憎、今の私は機嫌が悪い。「はいはい、表は蕎麦屋」などと、寛大に受け答えする余裕は持ち合わせていなかった。
「死ね」
懇切丁寧にそう言うと、私は化け傘の首根っこを掴む。
「あなた、このあたりで私の部下を見なかった?」
「ひい、知りません知りません」
したり顔だった化け傘の表情が、すぐさま弱者のそれへと変わった。
「ごめんなさい、人間と間違えたの。助けて」
青ざめた顔で必死に説明する化け傘。力関係を一瞬で理解したようだ。もしかしたら、なかなか賢いのかもしれない。
目の前でじたばたする妖怪を威圧するように睨んでいたが、ふと別の考えが浮かんできた。こいつを部下にすれば、芳香より使えるかもしれない。力はなさそうだが、元気はあるし話も通じる。もしかしたら今まで不満に思っていたことが、全て解消するかもしれない。もう、出来の悪いゾンビのことで気を揉む必要もなくなるのではないか。
「あなた、名前は?」
「ひいい、多々良小傘と言います。しがない通りすがりの妖怪です」
「そう。まあ、助けてあげてもいいけど、条件があるわ」
「じょ、条件?」
「私は霍青娥。今、私はあなたをどうにでもできる状況にある。生かすも殺すも、私次第。あとは、わかるわよね?」
「青娥、さん……? どういうことでしょう」
全く分かっていないようだ。私は小傘を掴んだ腕に力を入れる。
「青娥様と呼びなさい」
芳香が見つからない。なら、別の部下を使えばいい。この子もとりわけ優秀ではなさそうだが、物覚えもマシだろうし、関節だって十分曲がる。今思えば、なぜあんな不便なキョンシーなどを使っていたのだろう。
また芳香への怒りが湧いてきて、思わず力が入った。手の中の小傘が小さく呻く。
おっと、せっかく使えそうな奴を見つけたのに、このままでは壊れてしまう。心配しないでも、部下はこれから多少マシになるだろう。私は自分に言い聞かせるように、手を緩めた。
「あ、ご主人様、でもいいわよ」
私が手を放すと、小傘はへなへなとその場で小さくなってしまった。全く、部下なんて作ろうと思えばこんなに容易く作れたではないか。この私がこんなことで困っていたなんて。
その日は、墓場に長居しなかった。その必要もなかったからだ。私は揚々と、墓場での「収穫」を持ち帰った。
小傘は、意外にも良く働いた。
呼べばすぐにくるし、芳香には出来ないような細かいことも難なくこなした。
「小傘ー、お茶」
「はい、ただいまお持ちしますー」
「小傘ー、肩が重いわ」
「はいはい、お揉み致します、青娥さま」
小傘のほうも、はじめは恐々としていたが、ここに来て三日ですっかり私の部下が板についていた。指示をしなくても、大体のことをこなせている。
これが、彼女が生まれながらに持っていた「さでずむ」とやらの力だろう。彼女の持つ大きな傘が時折邪魔になるが、それぐらいは勘弁してあげよう。
唯一の懸念は、人間を驚かせなければ得られないという彼女の食糧だったが、私の妖力を分けてあげたら普通に動けていた。案外、そのあたりは適当な構造らしい。
「ところで、青娥さま? ひとつ相談が……」
私が紅茶を飲んで一息ついているところに、小傘がおそるおそる聞いてきた。
「あら、何?」
「ちょっと人間を驚かせに、出かけても」
「だめ」
私は即答した。小傘のしょんぼりした「さでずむ」な表情が、私の心の黒い部分を心地良く刺激する。
「こんなまずい紅茶しか淹れられないで、調子に乗ってちゃだめよ。だいたい、私は緑茶派だっていうのに」
「その緑茶、すでに備蓄が切れてたじゃないですかあ。聞いたら、この紅茶でいいって青娥さまが」
小傘がなにか口ごたえしていたが、とりあえず無視。
それにしても全く、困ったものだ。部下が主人を放ってどこかに行ってしまうなど、許されるはずがない。主人を放っている張本人、芳香のことが嫌でも脳裏に浮かぶ。せっかくの穏やかなティータイムだったのに、また怒りが込み上げてきてしまった。
「こんなところで休んでないで、掃除でもしてきなさい。やることは一杯あるのよ」
「青娥さま、なにか怒ってます?」
「あんたには関係ないわよ。ほらほら、いったいった」
未だにぶつぶつ言っていた小傘を、無理矢理追い立てる。私に押され、小傘はその場で盛大にすっ転んだ。転んだというより、渾身の体当たりを床にぶち当てた、とでも表現したほうが適切かもしれない。
「いたた……乱暴ですよう、青娥さまあ」
額でも強く打ったのか、涙目になりながら不平を漏らす小傘。彼女は体をさすりながら、ようやく起き上がる。肘を使い、腰を曲げて。
それを見て、衝撃が走った。もやもやしていた思考回路が、一つのヒントを得て次々と蘇るような感覚を覚えた。
転んだから、起き上がった。小傘にとって当たり前のことをしたまでだったが、私には違って見えていた。蘇った思考回路と共に顔を出したのは、不吉な予感だった。
「ゾンビは、関節が硬くて満足に曲がらない……」
私は絶句した。どうして、芳香が戻ってこないのか。どうせ、大した理由ではないだろうと高を括って、そこまで頭が回っていなかった。
もし、何かの拍子で芳香がああなったとして。自分ひとりで、なんとかできるだろうか。
さっきまでとは、全く別の感情が私を覆い尽くす。胸が異様にざわついた。不安のような、焦りのような、落ち着かない気持ちだった。
「急に、どうしたんですか? すごく深刻な顔ですが」
小傘が何か言っていたが、私には全く聞こえていなかった。
さんざん芳香のことをこきおろしていたが、今になって冷静に考える。彼女はゾンビとしては、最高傑作。それが彼女に対する私の評価だったことを、今更ながら思い出した。
普通は、一度死んだ者を復活させたところで、言うことは聞かないし体も満足に動かない。大半は使い物にならないというのが当たり前だった。
その点、芳香はまだ動けるほうだったし、頭も良かった。体も十分すぎるほど頑丈だ。そしてその能力以上に彼女を最高傑作にたらしめたのは、私への忠実さだった。
要領は悪かったが、私に従おうとする心意気だけは誰にも負けなかったのだ。
それでも。
「私のことはいいから、早く仕事に戻りなさい」
なんとかそれだけいって、小傘を追い払う。
私はその場から動かなかった。動けなかったのだ。私は、もう芳香の行きそうな場所に心当たりがなかった。長い時間を共にしたはずだったのに、彼女のことをこれっぽっちも理解していなかった。彼女への怒りは、気がつくと自分に向いていた。
小傘があたふたと退散する。芳香より優秀だったはずの彼女は、私には途端につまらないものに見えていた。
物覚えがいい。良く働く。だから一体なんだというのか。理不尽で意味不明な怒りが沸いてくる。その怒りへの対処の仕方も分からないまま、ただただ、私は混乱していた。
そのときだった。
不意に、足音が聞こえてきた。突然耳が良くなったのかと錯覚するほど鮮明に、私はその音をしっかりととらえた。どうやら、長い廊下の先からのようだ。不器用に跳ね、ときおり引きずりながら進んでくるその音には、聞き覚えがある。
間違えようもない、芳香のものだった。
私は思わず部屋を飛び出した。きちんと扉を通ったのか、それとも壁を抜けたのか。そんな些細なことはどうでもよかった。
「うおお! 何かが猛スピードで目の前に。びっくりしたぞう!」
能天気な顔と、間の抜けた声。拍子抜けするほどにあっけなく、私の期待していた姿が目の前にあった。
「あれ、超高速飛行物体はせーがさま?」
私の部下、宮古芳香はあくまでマイペースに、声を上げた。
ずっと留守にしていた部下に対して、私は確かに憤りを抱えていた。その怒りをぶちまけるように、叱ってやってもよかった。それこそが主である私の役目だと、言い張ることもできたのだ。でも、叱る気にはなれなかった。むしろ、そんな怒りは忘れていた。
私は無意識に芳香の全身を目で追った。どこか壊れていないか、調子の悪そうなところはないか。とにかく確かめるので精一杯だった。
一通り見回して異常がないことがわかると、これまで感じたことのない感情が湧いてきた。
冷静でいられない、どうしようも無い気持ち。当然怒りではないし、焦りや不安でもない。それらの気持ちが氷解し、その下から現れた暖かい感情。
ああ、これが安堵というものか、と感じると同時に生まれる疑問。なぜ私は安堵しているのだろうか。部下が帰ってきただけ。それも元は死体だった、つまらないゾンビだ。本当に、それだけの存在のはずなのに。
「どこいってたのよ」
私は困惑を隠すように言葉を放り投げた。
芳香は一転、不思議そうな顔をする。
「どこどこ……あれ? どこだっけ」
ぐぎぎ、と首を傾げた芳香の帽子から、筒状のものがガタリと転げ落ちる。私はそれを拾うと、蓋とおぼしき部分を引っ張った。
中にはぎっしりと茶葉が詰まっていた。どうやら、茶筒だったようだ。
ああ。
それを見たとき、頭の片隅に追いやっていた記憶が鮮やかに蘇った。
芳香が出かける少し前のことだ。
「あーあ、切らしちゃってるわ。すっかり忘れていたわね。補充しに行くの、面倒ねえ」
私はいつものようにお茶を飲もうとしたが、丁度切らしていたことに気が付いた。そのときに言った、日常生活の些細な小言。
「芳香、たまにはお使いぐらいできないの? お茶がないのよ……まあ、あなたに言っても無駄でしょうけどね」
私は半分独り言のようなつもりで、近くにいた芳香に話していたのだ。話しかけている、という意思すら薄かったように思う。
しかし芳香はそれを真に受けて、一人で出かけていってしまったことになる。
それから帰ってくるまで、一週間あまり。このお茶を一体どこで手に入れたのかわからないが、今の私にはそれどころではなかった。
「良く覚えてないけど、すっごく疲れた! もう死ぬかと思ったぞう!」
全く、出来の悪い部下を持ったものだ。それだけのことで一週間も迷子になるなんて。茶筒も密閉しきれていないまま放浪していたせいか、茶葉がやんわりしけっている。本当に、使えない。
でも。
「ばか。ゾンビが死ぬはずないでしょ。まったく、頭悪いんだから」
叱ることは愚か、不満をぶつける気にもなれない。今は、小さく言い返すので精一杯。
胸に灯った気持ちに、嘘はつけなかった。暗い感情が拭い去られ、かわりに満たされた安堵と喜び。ただゾンビが帰ってきただけじゃないか、と反抗する自尊心がえらく矮小に思えた。私はこの娘を、ただの不便な部下としては見ていなかった。この娘は、私にとって誰よりも有能なのだ。
「あれ、せーが、お腹でも痛いのかー?」
安心感で、胸が詰まる。脆さが見えないように、慌てて芳香から顔を隠した。
私は心を落ち着けるように、今回の部下の仕事ぶりに客観的な評価を下すことにした。
結果はしけっていたとはいえ、任務をこなしたことには変わりない。そもそも、お茶のことをちゃんと覚えていられたこと自体が奇跡なのだ。それに、長い間離れていたのに、私の名前も忘れなかった。これはゾンビとして、いや私の部下として、満点の出来だろう。
だとしたら、主である私のするべきことは決まっていた。こぼれんばかりの感情をなんとか押さえつけて、私は、ゆっくりと片方の手を伸ばす。
「いいこ、いいこ」
いつもより少しだけ長めに、自慢の部下を称えてあげた。
デレデレ青娥も良いですが、こんな青娥も良かったです。
ところで小傘ちゃん、私の部下にならないかい?
それはそうと、小傘の再就職先を斡旋してあげたいです
あと小傘強く生きろ。
タイミングよすぎアザッス
芳香はいい子だなぁ。小傘はいつも通り不憫だなぁ。
我侭な主人と愛され従者なこんな関係もいいなあ、という発見。
満点おかせていただきます。