目が覚めたとき、まず天井が見える。
それを当たり前と思えなかったのは、宿無しの浮き草稼業が身に染みついているから――というだけではなく、それが全く見覚えのない天井であったからだ。
「…………?」
瞼に閂がかかっている筈もなかったがそんな心地で、妖忌は目をこじ開けた。
明るい。朝の陽であろう。開け放たれた障子戸からたっぷり取り込まれる白い光で、部屋は柔らかく満たされている。――部屋の中、と思われた。仰向けのままでは全体を見回すことは出来ないが、四方は仕切られているようだ。
そこまでぼんやりと把握してから、妖忌はようやく自分が布団に寝かされている事に気付いた。
「あ。起きた」
と、頭の傍で声がする。
寝違えたのかひどく痛む首をねじ曲げそちらを見ようとするが、その頃にはすでに声の主は立ち去ってしまったらしい。襖を開け、また閉めるような音が聞こえた。
溜め息をついて、枕に深く頭を沈める。
全身がだるくて起き上がる気にもなれない。疲労が酷いし、頭にまで血が回っていないように思える。筋もあちこちに突っ張るような痛みがあった。
――昨日はそんなにきつい仕事をしたかな。
手間取りの仕事は用心棒や護衛だけでなく駕籠かきから子供のお守りまで、良く言えば幅広く――無論、悪く言えば節操なく――引き受ける。荷揚げや橋架け人足の仕事は、よほど慣れて体力に自信のある者でなければ身体の方で音を上げてしまう。
だがここしばらくは、そういった手当の良い仕事にはありついていない。
さては正体を失うほどの酒でも喰らったか、と己を疑う。だとしたら困ったことになる。前金にはあまり余裕がないというのに。前金には……
(……前金?)
何の前金だ。
言わずもがな、仕事の手間だ。
寝ている場合ではない厄介な仕事だぞ、なにせ『キツネ憑き』を――
「――――」
瞬間。
堤を破るように、引っかかっていた記憶が溢れ出した。
夥しい数の『キツネ憑き』。
それと斬り合う自分。
そして連中に囲まれ動けなくなった、
「っ物体……!?」
「はい、そこまで」
布団を跳ね上げ、跳び起きた瞬間。
その頭にぽん、と軽い物を当てられて、妖忌は動きを止めた――押さえつけられたわけではなく、跳び起きた衝撃で身体中に激痛が走っていたので。
骨という骨を逆棘の荊に差し替えられたような感覚に、思わず上げかけた悲鳴を必死に呑み込んでいる内に、視界に誰かが回り込んでくる。
「もう遅いけど、急に動かない方が良いわよ。……本当ならそんな注意も必要ないくらいの大怪我だったのだから」
よっぽどあの世に逝きにくい理由でもあるのかしらね。
呆れ気味にそう言って、傍らに正座した女は肩をすくめた。
人間離れした女であった。
と言って、露骨に妖怪らしい外見をしているわけではない。叡哲な輝きを宿す切れ長の目が印象的な顔は、素直に美しいと呼べるほどだ。
しかし空気が違う。
本当に、いま同じ空間に――否、同じ星の上に生きている者かと疑いたくなるほどの決定的な、違和感。そんな底の知れない空気が、女の周囲に漂っている。
呻きながらも剣呑に目を尖らせる妖忌に苦笑して、女は手に持った書き付けに筆を走らせた。先ほど頭に置かれたのはこの紙束らしい。
「意識ははっきりしているわね。……安心して、ここは診療所よ。私は薬師。八意永琳というの。あなたは?」
「…………魂魄、妖忌」
「はい、どうも。ようやくカルテが埋まったわ」
警戒に強ばりきった態度を気にもせず、女、永琳は更に手元へ何かを書き付けた。
星図をデザインした奇妙な服――これのせいで、彼は永琳を薬師でなく祈祷師かなにかと思っていた――に胡散臭げな目を向けつつ、妖忌は低い声で訊ねる。
「ここは何処だ」
「言ったでしょう? 診療所。迷いの竹林の永遠亭と言う名を聞いたことは?」
「……風の噂には」
淀みなく、さりとてまくし立てるでもない話し口に毒気を抜かれつつ、妖忌は渋々と頷いた。
聞いた噂というのも竹林の奥に腕の良い医者が居るという以上のものではないが、確かに開け放たれた障子戸からは生い茂る竹藪が窺える。それだけで信用するものでも無かろうが、格別に疑う理由もないように思えた。
さて、と書き付けを畳の上に置き、永琳は姿勢を正してこちらを見る。
「あなたの容態だけどね。全身に打撲、裂傷、火傷、薬品性の爛れ、亀裂骨折。筋断裂もあちこちに。教科書に載せたいくらい見事な『満身創痍』だったわ」
「確かに身体は痛むが――それほどの怪我なら、いま動けているのは不思議に思えるな」
「ずいぶんと薬を使ったからね。あなた自身の回復力が大したものだったこともあるけれど」
「………………済まぬが持ち合わせは無いぞ」
「薬」のひと言が出た途端渋い顔をする妖忌に、永琳はぷっと息を吹き出した。
ごめんなさい、と口元を隠して謝り、それでもなお小さく肩を震わせる。
仏頂面でそれを見ていると、やがて彼女は目尻を拭ってこちらを見た。
「診察代のことなら大丈夫。気にしなくて良いわ」
「いや女史よ、手持ちが少ないという段ではないのだ。びた一文でも金を出せば、もう次の収入まで食いつなげぬ」
「大丈夫というのに。……龍とでも戦ってきたような身体をして情けないことを言わないで、また笑っちゃうわ」
永琳は苦笑するが、貧乏素浪人にとっては笑い事では済まないのだ。
こちらの心配を余所に、薬師は聞き取りやすい声で言葉を続けてくる。
「とにかく。怪我が怪我だったから、強力な霊薬をどばどばぶっかけながらどうにか治療したのよ。効果が覿面な分、身体には強力に負担がかかるからしばらくは安静にしていることね。担ぎ込まれたときは死んでるかと思ったわ」
「……担ぎ込まれた?」
「そうよ。あの子にね」
怪訝な顔で訊ねる妖忌に頷き返し、永琳は障子戸の向こうを手で示した。
改めてそちらを見ると、庭先を数匹の兎が跳ねて行く。この屋敷で飼っているのだろうか、暢気にころころ、転がるように妖忌の視界を横切っていく。
そして、兎たちの後を追うように。
ずんがずんがと、穏やかでない地響きが近付いてきた。
思わず半眼になる妖忌を余所に、それは庭先に姿を現した。
「ウサギー。マテー」
「ちょっと、あなた」
現れたと言っても、障子戸から見えるのはエプロンドレスの裾と足元くらいであったが、そもそもそれだけ巨大な物体の心当たりなどひとつしかない。
その大きな足は永琳の呼びかけに答えて庭に立ち止まった。縁側の方へ出て上方を見上げながら、永琳は柔らかく微笑む。
「良かったわね。目を覚ましたわよ」
「…………物体か?」
他の何で在るはずもなかったが、自然と妖忌は呟いていた。
それを聞きつけた訳でもあるまいが、巨大な足はぺたんと庭先に座り込み、じっと室内を覗き込んでくる。
蜂蜜色の髪に、ぱちくりと瞬く碧玉の眼球。余りに整いすぎた精緻な美貌はいかにも「それらしい」造作だったが。
ともあれ見間違えようもないフリル付き機動物体、ゴリアテ人形である。
しばしの間、妖忌はぽかんと口を開けたその顔を観察していた。鼻筋の通った凛々しい面立ちでも、中身が物体ではこうも間抜けに見えるものか。
何となくそんな事を考えていると、やがてその顔がくしゃっ、と崩れる。
嫌な予感を覚え、咄嗟に立ち上がろうとしたときにはもう遅く――ぬっと差し込まれた巨大な手に掴まれて、妖忌はあっという間に人形に抱きしめられていた。
「ジジー! ジジージジージジー、ジジー!!」
「蝉か貴様は! 痛い、莫迦者痛い! しこたま痛いッ!」
「こらこら。半分死人が、更に半分死にかけてるのよ。ほとんど死人なんだから慎重に扱いなさい」
泣き叫ぶように繰り返しながら遠慮のない力で妖忌を締め上げるゴリアテ人形に、薬師が軒下から投げやりな声をかける。
全身の傷がもう一度開いたように錯覚しながら、妖忌は必死に身を捩ってゴリアテの顔を見上げた。
「なんでもいいから力を抜け。今度こそ死ぬぞ、私は」
「ジジ~」
まったく反省した素振りもなく頬をすり寄せる人形に、溜め息をつく。
その光景を見上げ意味深な笑みを浮かべながら、永琳は長い髪を揺らした。
「その子が瀕死のあなたを抱えて駆け込んできたのが、一昨日の晩。およそ丸一日意識を失っていた勘定になるわね」
「む……」
「上手く喋れないようだから詳しい事情は知らないけど――その子自身も大分傷ついていたわ。怪獣とでも戦ってきたの?」
冗談めかして肩をすくめる永琳の言葉に、妖忌は改めてゴリアテの姿を見る。
人形のドレスはあちこちが裂け、焼け焦げていた。血や泥も致命的な染みになってしまうだろう。
「お前が…………助けてくれたのか」
ゴリアテは、ただにこりと笑い返してきた。よく見れば髪にも、不自然に断たれている箇所がある。
この、莫迦は――
きっとあの夜、意識を失った妖忌のもとに駆けつけ『キツネ憑き』と戦い抜いたのだ。
ロクに動けもしない身体で。
満足に振れない剣だけを武器に。
大事な髪もドレスも台無しにして――――たった独り、妖忌を護るために。
括っていた下げ緒は戦いの最中にでも千切れたか、長い髪はさらさらと風に踊っている。
顔にかかるその一房を手にとり、妖忌は目を伏せて呟いた。
「済まぬ」
返事は、再びの抱擁だった。
無言で強く抱きしめる人形の腕に、全身の骨と筋が悲鳴を上げるが……奥歯を噛みしめただ、耐える。
フリルに埋もれて何も見えない妖忌の耳に、どこかに笑みを含んだ薬師の声が聞こえてきた。
「懐かれてるのね。その子、駆け込んできてからずっと傍に貼り付いて離れなかったのよ。あんまりに思い詰めてるから、さっき兎の遊び相手をして貰ったのだけど」
「気遣い、痛み入る」
「医者ですもの」
フリルの間から顔を出して見れば、得意そうに胸を張って微笑む永琳の顔が見下ろせた。落ち着いた女性と思っていたが、案外に子供っぽい所もあるらしい。やはり尋常の者ではないのだろう――自分の怪我を一両日で治してしまった事を考慮に入れぬとしても。
頭を振り、そろそろ人形の腕から逃れようと思った時、屋敷からぱたぱたと足音が聞こえてきた。
「師匠ー。その人の着物、一応持ってきましたけど――」
「ご苦労様。そこに置いておいてちょうだい」
「……でもこれ、繕うより新しいの買ってきた方が絶対早かったですよ。剣の方はどうしようもなかったんで、まだ向こうに置いたままです」
しかめ面で、それでも言いつけ通りに持ってきたものを布団の傍へ置いたのは、兎の耳――付け耳とすれば、その感性は理解できないが――を頭上に揺らす少女である。目が覚めたとき、最初に聞こえた声だった。
兎の妖怪と思しき少女はちらりとこちらを窺うと、あの、と恐る恐る声をかけてくる。
「つかぬことを窺いますが……冥界に、ご親族がいらっしゃったりします?」
「? 白玉楼という屋敷に孫が勤めているが」
「あ。やっぱりあの子のお身内さんなんですねー」
答えると、少女は急にぱっと笑顔を浮かべた。
「半人半霊の方なんで、もしかしてと思ったんですが」
「む。妖夢をご存じか」
「たまーに人里で会いますよ。最近は見かけないですけどね」
相手が得体の知れぬ素浪人から知り合いの身内になったことで緊張が解けたのか、気安い調子で答える兎少女。
隣で困ったように苦笑している永琳に気付いた様子もなく、耳をぱたぱた羽ばたかせている。動くのか、それは。
半眼で観察していると、少女はふと思い至ったように顔を曇らせた。
「ところで、いったいどうなさったんです? あなたもその人形も、まるで戦争でもしてきたみたいな有り様でしたよ。剣だって、十人や二十人斬ったってあれほど歪みませんよ。芯金が粗悪だから、ひん曲がって逆に折れなかったようなものです」
「――――鉄火場に慣れているようだな」
「いや慣れてはいないですけど……まあその、座学じゃはみ出すくらいに詰め込まれたんで」
眼を丸くする妖忌に、兎はごにょごにょと口ごもり視線を外す。それからこほん、と迫力のない咳払いをし、改めてこちらを見上げた。
「今どき、こんな怪我する殺し合いなんてナンセンスですよ。……あ、そうだ。冥界の方へ連絡しなくちゃですね。使いの兎を――」
「必要ないわよ」
ぽんと手を打った兎少女に、横からきっぱりとした声で告げるのは、八意永琳。
きょとんとして振り向く少女に軽く嘆息し、ぴしり、一本指を立てる。
「そんなことよりウドンゲ、あなたはアレよ。えーと……ほら。裏の粉挽き小屋の掃除がまだのはずじゃなくて?」
「ていうか、そもそもウチには粉挽き小屋が無いんですが」
「小屋が無ければ建てればいいじゃない」
「凄いスケールのマッチポンプですけどね、それ。……ううん。席を外せ、的な解釈でいいんでしょうか?」
「察してくれてお師匠感激よ。あ、小屋は建てておいてね。前からあればいいなと思っていたの」
「ムチャクチャ言い出したなぁ」
ちょっとした小用でも言いつけるような永琳にじっとりと半眼を返し、それでも反論はせず兎少女――ウドンゲ。優曇華?――は屋敷の奥へ下がっていった。
一度そちらを窺ってから、永琳は一つ息をついてこちらを見上げる。その目は先程までよりも幾分、鋭い。
「さて。推測になるのだけれど…………あなたたち、最近よく聞く『キツネ憑き』に襲われたのではないかしら?」
「――? 何故、そう思われた」
「傷の種類と数がまちまちで、どれも明らかに殺意を持った角度と深さ。そんな真似を平気でするほど危険な妖怪はこの幻想郷にはいられない――――妖怪の賢者に目をつけられてしまうものね」
「そんな真似をするのは狂った妖怪のみか――いかにも、連中と斬り合った。不覚を取ってこの有り様だが」
「生きているのだから僥倖でしょう。……それはそうと、首が疲れるから降りてきて欲しいのだけど」
「うむ」
そろそろ、こちらも話す度に揺れるフリルが鬱陶しくなってきてはいた。
尚もぐりぐりと頬ずりするゴリアテの額に何度か手刀を喰らわせて縁側へ降りると、身体に重さが帰ってくる。顔をしかめその場に胡座をかけば、永琳も苦笑を浮かべて近くに腰を下ろす。
「ウドンゲには――さっきの子だけど。あの子には、あまり『キツネ憑き』の話を聞かせたくなくてね」
「是非とも聞くべき話でもないからな」
「それもそうだけど。……特にあの子は、狂気を操る力を持っているから。よく里に顔を出すだけに、あの子を『キツネ憑き』の主犯と噂する者も多い」
「…………」
「もちろん見当違いよ、あの子の催眠は傍にいなければ長く保たないの。なにより、これほどの事態を引き起こす度胸も肝っ玉もない」
「弟子思いなのだな」
茶化したつもりはなかったが、永琳は苦い顔で肩をすくめた。
そして庭先に座ったままのゴリアテ人形へ視線をやってから、少しだけ声を低める。
「もし『キツネ憑き』についてなにか知っているなら、教えて欲しいのよ。詳しいことが分かれば治療薬を作ることが出来るかも知れない」
「――なに?」
「あくまで『かも知れない』という話よ、薬でどうこうできるものではない可能性は十分ある。……それでも、なるべく早期に解決して欲しいの。彼岸の是非曲直庁が調査と解決にあたっていると言うけれど、出来ることはしておきたくてね」
「弟子のためか」
「あの子も含めて、かしら。ウチには力の弱い妖怪兎が沢山いるから」
腕を組み、小さく息をつく薬師から視線を外し、妖忌は横目に庭の方を見た。
座り込むゴリアテに、どこからか戻ってきた兎たちがじゃれている。確かに妖気を感じるとはいえ、妖怪、妖獣と呼ばれるまでにはまだ永い年月がかかるだろう。
顎を突き出すように背中を丸め、妖忌は懐手して呻いた――この時にようやく意識したが、彼が着ているのは清潔な新品の着物であった。この屋敷の物なのだろうが、自分のぼろより余程上等である――。
「済まんが、私も彼岸の手間取りを任されて連中を斬っているに過ぎん。詳しいことは死神にでも訊いた方がよろしい」
「あなたにこそ訊きたいのよ。『キツネ憑き』を直に見て、戦って。なにか思うことはなかった? 行動に奇妙な偏りは? 本来あり得ない妖術を使ったりしなかった?」
「こちらがそもそも妖怪に詳しくはないから、なんともな…………あいや。しばらく」
整然と、しかし矢継ぎ早に述べ立てる永琳に気圧され気味になりながら、ふと妖忌は宙を睨んだ。
そう言えば――そうだ、あった。奇妙な偏り。
渋面で声を落とし、妖忌は一層背中を丸める。
「役立つかどうかは知らぬが、連中は互いを喰い合ったりはしなかった」
「――というと?」
「数十からなる狂った凶暴な『キツネ憑き』は皆、私とあの物体しか狙おうとしなかったのだ。思い返せば、確かに妙な話よ」
「……何者かに統率されている、ということかしら?」
「さてな。だとして、尾羽打ち枯らした素浪人と巨大腹ぺこ物体にあれだけの数を差し向ける意図も分からん。……うん? ちょっと待て」
投げやりに言いながら庭の人形を見やったところで、妖忌は気付いて言葉を止めた。
膝の上でころころと兎を転がして遊ぶゴリアテをしばし観察してから、顔をしかめる。
「直っている……?」
切り裂かれ、焼け焦げた服から覗く身体は、特に損傷している様子は見られなかった。
低級妖怪ではそうおいそれと傷付けられる強度でないことは分かっているが、あれだけの数に襲われて、満足に身も守れぬ状態だったというのに。
困惑して眉根を寄せ、妖忌は永琳を振り返った。人形本人に訊いたところで埒は開くまい。
「女史は、人形師の心得もあるのか? それにあの物体は、擬似精神とやらが不安定になりろくに身動きも取れぬ状態だったはずなのだが」
「――――そのことで、あなたに話しておかなくてはならない事があるの」
と。
不意に居ずまいを正して、永琳はこちらに正対してきた。思わずこちらも背筋を伸ばさずには居られない、奇妙な緊張感が漂う。
だが、こちらを見る永琳の目に深刻な色はない。その瞳に宿る光は……場違いに過ぎるかも知れないが、賞讃や祝福の類であるように思えた。
訝る妖忌に、彼女はくすりと微笑んでみせる。
「こう見えて結構に長生きしていてね。薬学と魔術は繋がってくるものだし、擬似精神の技術は医療転用の可能性もあるからそれなりに勉強しているわ。もっとも、私も魔法は使えないのだけれど」
「……才媛であるな」
「お褒めに与り光栄だわ。――話を、この子が駆け込んできた夜に戻すけど」
嫌味なく笑って頭を下げてから、永琳はゴリアテを見上げる。
「酷い有り様だったからね。あなたの治療をひと通り終えてから、この子の様子も診てあげたのよ。使い魔かなにかと思っていたから、まさか自律術式で動いているとは思わなかった」
「…………」
「あなたの言うとおり。擬似精神を構成する魔術回路は、高次情報の処理限界を超える過剰マニューバで循環不良を起こしていた…………その、形跡があった」
「……あった?」
「立ち直っていたのよ。永遠亭へ辿り着いた時点でこの子の擬似精神は、もう新たな駆動基準に対応した処理サイクルに対応して――いえ。『慣れて』いた」
「だが……しかし、それはまるで」
それではまるで。
困惑して言葉につまる妖忌に肩をすくめると、永琳は懐から何かを取り出し、こちらに放ってきた。
手の平大の扁平な丸缶。蓋に貼られたラベルには何も書いていない。
それを受け止めた衝撃がまた傷に響くのに顔をしかめている内に、彼女は言葉を続ける。
「この子の傷を修復したのはその薬よ。本当はとあるお得意様専用の、特製の傷薬」
「とある客?」
「ええ。――人形の妖怪の、ね」
大きな衝撃を受けなかったのは、それが半ば予想通りの答えだったからだが。
永琳もさほど間を置くことなく、兎まみれになっているゴリアテを見たままはっきりと、言った。
「魔術も人形も専門じゃないから、確かなことは言えないけれど――――――多分、この子は妖怪になりかけている」
「…………」
「正確には魂が宿りかけている、と言うべきかしらね。土台となる擬似精神をベースに、本物の……『この子の』自我が、形を成しつつある」
「そんなことが、起こり得るのか?」
「意外と少なくない事例よ。付喪神なんかはその筆頭」
疑いを拭いきれぬ妖忌に、答える薬師の調子は軽かった。
「特にこの子は自律術式という下地がある。人の形をしているのも、魂を宿すには都合の良い条件というわね」
「……そういうものか」
「あとは、そうね――――人形に命を吹き込むのは、傍にいて人形を愛してあげる人」
歌うように呟いて、こちらを見る薬師の顔は、ひどく楽しげに見えた。
とびきりの仏頂面で見返すも、彼女は気にした様子もなく微笑を浮かべる。
「懐かれるわけね。あなた、見かけより随分優しい人なのだわ」
「……人形は専門外ではないのか」
「女の子は誰しもお人形の専門家なのですよ」
悪びれるでもなく嘯いて、彼女はもう一度ゴリアテへ視線を戻した。
「妖怪になる、なんていうと人間には悪く聞こえるけれど、今のこの子となにが変わるわけでもないわ。擬似精神上に構築した人格がそのまま、より柔軟で、不安定で、予測不能なものになるだけよ」
「それは悪くないのか」
「予測不能ということは、規定の術式から外れて無限の可能性へ踏み入れるということだもの」
明確に悪戯な笑顔を浮かべると、薬師は含み笑いを溢す。
「自律術式の研究としては失敗なのでしょうけど。本物の魂を宿してしまってはね、ふふ」
「む――」
「?…………ああ、大丈夫よ。この結果が原因で、人形遣いがこの子を廃棄処分したりすることはあり得ないから」
「覚り妖怪か貴様」
俄に引っかかった心配事をずばり言い当てられ、妖忌は半眼で唸った。
得体の知れない竹林の薬師は、やはり得体の知れない笑みを浮かべたまま首を傾ける。
「どうして、この子はここへあなたを連れてこれたと思う? 永遠亭は迷いの竹林の奥深く、偶然では辿り着けない場所にある。だのに、その子はほぼ最短距離で竹林を抜けてここに助けを求めに来た」
「なぜそんなことが分かる」
「竹林の外から玄関先まで真っ直ぐ竹藪が蹴倒されていたから。帰りは道なりに帰ってね」
「…………」
色々と言いたい気持ちを込めて庭のゴリアテを見るが、人形は気付いた素振りもなく、身体を上り下りする兎と戯れていた。
傷薬の缶を弄びながら溜め息をつく妖忌に、永琳はまさにその缶を指差して笑う。
「答えは多分、それ」
「……うん?」
「アリス・マーガトロイドは優秀な人形遣いだもの。人の形をした器に擬似精神の魔法を施して、妖怪化の可能性を考慮しなかったとは考えにくい。……大体、あの行き過ぎたドール・マニアが自分の人形を無碍に扱うことはあり得ない。心配ないわ」
「誰が心配していると言った」
うんざりと頭を振りながらも、とりあえず言われたことは腑に落ちた――この物体に注がれた偏執的なまでの愛情の片鱗は、これまで何度も垣間見ている。
溜め息に安堵を隠したことには気付かなかったのか、敢えて触れなかったのか、どちらとも取れる微笑で永琳は後を続けた。
「あの変態、いえ魔法使いは擬似精神に魂が芽生えることを考え、記憶野に永遠亭の座標を設定しておいたのでしょう。『怪我したらここを頼りなさい』という具合に。メディスン――例のお得意様だけど、あの子のことは彼女も知っているから、人形妖怪用の傷薬くらいあると当て込んだのでしょう」
「……過保護だな」
「変態、いえ人形師だからね」
存外きっぱりと頷く永琳は、しかしさほど迷惑そうな様子には見えなかった。
面倒見が良いのか、面倒な相手に慣れているのか。恐らくは、その両方なのだろう。
肩へ膝へ頭の上へと駆け回る兎に目を回しているゴリアテとこちらにそれぞれ微笑を向けてから、すっと立ち上がる。
「そういうことだから心配は不要。『キツネ憑き』のことがあるから冥界に使いは出せないけれど、ゆっくり養生していくといいわ」
「そうも言っていられん」
渋い顔で呟くと、妖忌も苦労して立ち上がる。
ぎょっとして眼を丸くする永琳に傷薬の缶を放り返すと、部屋に戻り手早くぼろの着物に着替える。まったく本調子でないが、特別痛む数箇所に負担をかけないよう身体を使えば、動くのにそれほど不自由はない。
一応気を遣ったのか縁側で待っていた永琳は、戻ってきた妖忌を呆れ顔で睨んだ。
「並の人間ならひと月は起き上がれない怪我だと教えれば、大人しくしてくれないかしらね」
「並の人間より半歩ばかり、死に馴染みが深いのでな」
「ああもう。身体より仕事が大事?」
「動いて死ぬかは五分と五分だが、食う物を食わねば確実に御陀仏だ」
袂に入れてあった髪紐で総髪を括る妖忌に、永琳は処置無しとばかりに頭を振った。
無論仕事は大事だが、あれだけの『キツネ憑き』を斬った上はそうそう文句もつけられまい。それよりも重要な事がある。
『キツネ憑き』は互いを喰らわないという事を死神に伝えなければならない。
それが調査の足しになるかは分からないが、恐らく死神も把握していない事態ではあるはずだ。
「世話になった。……薬の払いは、仕事の手当が入ったら必ずに」
「気をつけなさいね、強い霊薬は反作用も大きいの。あまり身体に無茶をさせると今度こそ治療する暇もなく死んでしまうわよ」
「ダイジョウブー」
と、答えたのはゴリアテ人形であった。
綿花でも収穫したように抱えていた兎を地面に降ろすと、どん、とフリルの胸元を叩いて見せる。
「ジジー、タスケルー。ゴリアテ、イッショー」
「…………」
「――――ふふ、そうね。それなら安心かしら」
唖然とする妖忌と、無用に気合いの入った顔を造るゴリアテを見比べて、永琳は口の端をつり上げる。
一歩、縁側の縁に踏み出して、薬師はぱちんと片眼を瞑った。
「では、保護者の方は患者の健康に気をつけてください。お大事に」
「オダイジルー」
「……貴様がお大事にしてどうする、たわけ」
やっとの思いで、それだけ吐き捨てるも。
人形も薬師も愉快そうな笑みを浮かべ、こちらを見るだけだった。
「しかし物体よ」
薙ぎ倒された竹藪を歩きながら、妖忌は声を上げる。
薬師の言葉は嘘ではなく、永遠亭の門を出た妖忌の目に先ず飛び込んできたのは、へし折れた竹藪がどこどこまでも続く光景であった。この風情のない光景を作りだしたであろう当人は、その事を忘れているのではないかと思うほど平然と彼の隣を歩いている。
こちらを振り向く人形の顔を見上げ、妖忌は眉間に皺を寄せた。
「本当に大丈夫か? 魔法のことは皆目分からんが、あの夜はかなり参っていたように見えたぞ」
「ゴリアテー」
「……大丈夫というなら、それを信じるしかないが」
満面の笑みで頷くゴリアテに、妖忌はいまひとつ信用しきれぬ面持ちで首を捻った。
薬師の言ではもう新たな情報に「慣れた」という話だが、彼女も自分も所詮魔法使いではない。あくまで推測、推論だ。
音にならない舌打ちをして、妖忌はぴたりと足を止めた。
意外なことに、ゴリアテが足を止めたのもほぼ同時であった。
少し驚いてそちらを見てから、妖忌は厳しい目で頭上を見上げる。
「尾けていたのか、別口か――どのみち歓迎はできんな」
「ノーモアー」
高く高く伸びる竹。
その一本に黒い影がこびりついている。朝陽を柔らかく拡散する竹林にあって、それは掛軸に一点、零れた汚濁のように目を引いた。
沸騰した眼球で二人を睨んでいるのは猿のような獣だった。右腕のみが異常に長く、それを巻き付けるようにして竹にぶら下がっている。
紛れもない、『キツネ憑き』。
猿妖は泥土を沸かすような声で啼くと、身体を固定する右腕を解いた。
そのままこちらへ降下してくるつもりかと思いきや、猿妖はその中途で竹を蹴り、その反動で遥か遠くの竹へ飛び移る。同じ事を繰り返して頭上を飛び回り、その度に速度を上げながら死角へ回る機を窺っていた。
遂にその影すらも目で追えなくなった頃、妖忌はちらりとゴリアテを見る。彼女もまたこちらを見ていた。
その視線の交錯で、用は済む。
張り詰めていた息を吐き、妖忌は身構えていた身体を脱力させた。そもそも剣は永遠亭に置いてきたままだし、どのみち使えぬ剣でもある。
瞬間、背後上空でひと際鮮鋭な殺気が膨れ上がった。
竹を蹴った猿妖が妖忌に狙いを定めたのだろう。獣ならばこの隙を見逃す道理はあるまい――何せ備えも警戒もない、正真正銘の隙を見せてやったのだ。
弩砲よりも速く空を滑り降りた猿妖の長い腕が、その鋭い爪を妖忌の首に打ち立てる、直前。
冷たく鋭い、鮮烈な風が竹林を吹き抜けた。
『キツネ憑き』にはそうとしか感じられなかったろう。
稲妻が閃くような刹那の機に、ゴリアテ人形の巨剣は的確に滑り込んでいた。
抜き打ちに薙ぎ払った左の剣が矢のように伸ばした猿妖の身体を水平に撫で斬り、その動作と共に振り下ろした右の剣が、突き出された腕を斬り落としている。
猿妖は、痛みすら感じなかったに違いない。
苦悶の声一つ無く勢いを失くし、屍が地面に落ちる頃には、ゴリアテはもう剣を引き油断無く辺りに視線を配っている。
その全てが、透き通るように淀みない一連の流れの中にあった。
「見事」
呟いたことで、妖忌は初めて自分が息を止めていた事に思い至った。
動きにはぎこちなさの欠片もなかった。あの夜に見せた動きよりも鋭いくらいである。
と、思いかけた時。
生えかけた竹でも踏んだのか、突然ぐらりとバランスを崩すゴリアテに、妖忌は慌てて振り返った。
「ええい。貴様、なにひとつ大丈夫ではないではないか」
「ダ、ダイジョウブー」
凜と引き締めていた顔をあっという間に情けなく崩し、人形がぶんぶんと頭を振る。
地面を踏みしめ剣を上げると、その場で幾度も空を斬って見せた。太刀筋は鋭く変化に富み、生い茂る竹を避けているのに速度を落とさない。
最後にぴしりと構えに戻り、わくわくとした顔を向けてくるゴリアテへ、妖忌は投げやりに手を振った。
「分かった。大丈夫なのだな。信じよう」
「シンジレー」
嬉しげに微笑み、剣を腰の後ろへ戻すと、ゴリアテはさっさと歩き出していた妖忌に追いついてくる。
その足音と震動にすっかり慣れてしまったのは喜ぶべきことでは無いのだろうな、などと考えながら。
視線だけで人形を見やり、彼はぽつりと独りごちた。
「教えを焦ってはいかんということか――まだまだ、私も未熟者だ」
「ミジュクー」
「聞いているな、物体め」
「キャー」
忌々しげに蹴る真似をしてやると、彼女は楽しげに悲鳴を上げて先へ走っていく。
その背を苦笑で見送りながら、妖忌はこっそりと心中で溜め息を溢した。
(アリス・マーガトロイド。いずれ、詫びを入れに行かねばならぬか)
服のこと。髪のこと。擬似精神への過負荷に、魂の芽生え。妖怪化……
その全てに、少なからず自分が関わっていることはもはや明白である。
見よう見まねの拙いものだが。
先ほど見せたゴリアテの構えは、紛れもなく、二刀派魂魄流のそれであったのだ。
「指南の手間賃くらい、貰ってバチはあたらんかも知れんな」
やけくそに呟き、頭を掻いて。
幸せしか記憶に残っていないような笑顔でこちらを待っているゴリアテに追いつくべく、苦労して足を速めた。
■
「――そらッ、捕まえたよ!」
「きゃああああ!?」
背後から、勢いよくタックルをかけられて。
彼女は飛びかかってきた相手ともども、大事な鈴蘭の畑に倒れ込んだ。
半ば裸絞めの格好に彼女を拘束したまま、飛びかかってきた者――赤毛の死神はふぅ、と溜め息をつく。
「ったく……逃げたり隠れたり。とんだ手間をかけさせてくれたね」
「違うよ違うよ違うよ、わたしじゃないよ! わたしがやったんじゃないよ!!」
「落ち着けというのに。取って喰いやしないよ」
半べそになって暴れる彼女に、死神は疲れ切った声で呻いた。ほぼ丸一日彼女を追い回していたのだ、疲れもするだろう。
「取って喰いやしない」ことのアピールなのか死神が彼女を地面に降ろした途端、彼女は脱兎の如く駆け出した。
が……
「もう逃げられんよ。一度能力にかけちまえばこっちのもんさ」
どれだけ走っても、死神の声はまるで遠くならない。
赤毛の長身はまるで動いていないというのに、必死に駆けている彼女と相手の距離は一向に広がらなかった。
その内にあっさりと疲れ果て――当然、丸一日逃げ回っていたからだが――へたり込む彼女のもとへ、死神は悠々と歩いてくる。
「反応を見るに、こっちの用件は察しが付いてるみたいだね。人形っ子」
「……わたしを捕まえに来たんでしょ」
座り込んだままドレスの裾を掴み――メディスン・メランコリーは、恨みがましげに死神を見上げた。
向こうも適当な地面に胡座を掻くと、膝に頬杖をついて見返してくる。
「どうしてそう思うんだい?」
「ここのところ、へんな毒があちこちばらまかれてるじゃない。わたしがやったと思ってるんでしょ!」
辺りの鈴蘭を見回してから、メディスンは噛み付くような顔で叫んだ。
メディスンは、打ち棄てられた人形が鈴蘭の毒によって変化した妖怪である。その為、毒を操る能力に長けている。
最近、幻想郷のあちこちに彼女の知識にもない奇妙な毒が発生していた。
その毒は力の弱い妖怪や妖獣を冒し気を狂わせ、凶暴にしてしまうらしい。驚いたメディスンは大事な鈴蘭たちが変な毒に感染しないよう、ずっとここで頑張っていたのだが……昨日、突然にこの死神がやって来たのだ。
血相を変えて飛んでくる死神を見て、彼女は直感した。
死神、とくれば次は閻魔である。きっと閻魔は、彼女が毒をばらまいた犯人と勘違いしてとっちめようとしているのだ!
かくて丸一日にわたる鬼ごっこが始まった訳なのだが……
鬼ごっこに勝ったはずの死神はメディスンを問い詰める様子もなく、やっぱりね、と膝を打つ。
「とうとう尻尾を掴んだよ。八坂の大将、大金星だ」
「う? な、なんなのよう。なんの話なのよう」
「安心しな、あたいはあんたを捕まえに来たんじゃあない。あんたが犯人とは端ッから考えちゃいないよ、毒人形」
「! ほんと、毒おっぱい!?」
「誰が毒おっぱいか」
人畜無害の天然モンだい。
身を乗り出すメディスンに半眼で呻き、死神はその豊かな胸を隠すように着物の襟を掻き合わせた。
だがこの死神がしばしば、ここからほど近い所で彼岸花の毒を目一杯浴びて昼寝している事は知っている。毒おっぱいでなければ何おっぱいだというのか。
羨ましげに凝視するメディスンに気圧されたのか、死神は視線を遮るように身を捩って後を続ける。
「その妙な毒……『キツネ憑き』ってんだが、そいつは今のところ低級妖怪や妖精にしか干渉していないのさ。あんたが黒幕なら、まず人間を狙うだろう?」
敵意を肯定して良いものかとも思ったが、事実ではあったので素直に頷く。人形解放活動家たる彼女にとって、人間は打ち破るべき仇敵だ。
死神もその事を咎めはしない。腕を組み、うむうむと適当に頷いている。
「世間じゃいま、この『キツネ憑き』が問題になっててね。とりあえず『憑かれ』ることのない、あたいら死神が調査にあたっているのさ」
「ふーん。大変ね」
「大変も大変。つい昨日まで、『キツネ憑き』って現象が病気なのか、なにかの呪いなのかも分かってなかったくらいさ」
「そんなざまで解決できるの?」
頭を振る死神に、メディスンはしかめッ面で口を尖らせた。
奇妙な毒――『キツネ憑き』?――は、今も鈴蘭畑の周囲に漂っている。死神には寄りつこうとしないが、時折メディスンに入り込もうとしてくるので、ぴしゃりと撥ね付けてやっていた。無論、スーさんに近付こうとすれば同じく追い払う。
この毒が怪しいなどということはすぐに分かりそうなものなのに、死神という連中も存外情けない。
その印象通りに眉を下げ、死神は赤毛を揺らして頭を振った。
「いやあ、毒の大家であらせられる先生のようにはなかなか。なにせ先生は幻想郷イチの毒の専門家」
「――――せ、先生? わたし?」
「またまた、他にどなたがいらっしゃる。先生の毒にかかれば天人だろうが蓬莱人だろうがイチコロリンのスッコロリンともっぱらの噂ですぜ」
「……そ、そう? ふふん。まあそれほどでもないけどねー」
なにか磨り潰してるんじゃないかと思うほどに揉み手を揉んで言ってくる死神に気を良くし、鼻高々に胸を張る。
おだてる死神の弁はますます調子を上げ、ぴしりと額すら打ちながらまくし立てた。
「しかし先生におかれましては、こんちまたまたいいポイズンボディで。よ、ミス・ガシングガーデン! 毒も滴るいい人形!」
「えへへー。もっと言って、もっと言って」
「大先生! メランコリー大先生! 幻想郷に咲いた鈴蘭の女王! くぅーッ、毒々しい! ア、抱かれてェー!」
「おーほほほ! くるしゅうない、くるしゅうないわー!」
「ところで、今日はそんな大先生にお願いがあるんでげすが」
「やだ」
ぶん投げられた。
ぽよんぽよん、とバウンドして転がっていくメディスンに自ら走って追いつき、頭を引っ掴んで持ち上げて、死神がにっこり微笑む。
「頼みがあるんだが聞いてくれんかね、すっとこ毒人形」
「待って待って待って。聞くから聞くから放して、待って、割れちゃう割れちゃう」
めりめりと音を立て始めた頭を叩いて訴えて。
溜め息と共に死神が手を放し、ぼとりと地面に落着すると、メディスンはふらふら頭を揺らしながら呻いた。
「うう。ガンガンする……多分出た。ミソとか」
「無いものは出ないだろう」
「ほんとだ。頭いいね、おっぱい」
ぱっと顔を上げて賞讃するも、死神はあまり喜んでいない様子だった。疲れ果てたように俯き、長々と息をついている。
不思議な思いでそれを眺めていると、やがて彼女は何かを諦めた顔でこちらに手を差し伸べた。
「とにかく話を聞いてくれ。……ちょいと、シャレにならん大事になりかけてるんだ」
「むー。まあ聞くだけなら聞くけどもー」
この暢気な死神があまり見せない深刻な顔に渋々と頷きながら、メディスンは差し出された手を取って立ち上がった。
すまんね、と苦笑し死神、腰に手を当て語り出す。
「『キツネ憑き』にやられちまうと、魂は三途の河を渡れないほどに傷つき穢されてしまう。そうなればあの世とこの世の魂のバランスが崩れ、転生のサイクルが乱れちまい……ゆくゆくは、幻想郷の存在そのものが危うくなるってことだ」
「関係ないわ。わたしはこの鈴蘭畑があればいいのだもの」
「そう急くない。なにも難しいことを頼もうってんじゃあないよ」
つんと唇を尖らせるメディスンの髪を軽く撫で、死神は首をすくめた。
毒が見えている訳でもないだろうがひとしきり辺りを見回して、彼女は少しだけ声を低める。
「あたいらは、こんな厄介な事態を招いた張本人をとっちめてやらにゃならん。だがそいつは隠れるのが上手くてね、なんの手掛かりも掴めない」
「…………」
「だがようやく尻尾を掴んだ。『キツネ憑き』が毒によって引き起こされるなら――――毒人形、お前さんはその出所を追えるはず。やってくれんか」
「ふん、お断りよ。わたしはスーさんを守らなくちゃいけないんだから」
「アメッ子をあげよう」
「わあ。やる」
「ちょろいなあこの人形」
袷から取り出された棒付きキャンディを受け取ると、死神がなんとも言い難いぬるい笑みを浮かべた。
見くびられるのも癪だったので、指を突きつけてにやりとニヒルに口元を歪める。無論、片手にはキャンディを握りしめたまま。
「これは手付け代わりよ。ことが済んだらもう一本くれなさい」
「あーよしよし。お姉さんが何本でも買ってやるとも」
「ほんと? じゃあ彼岸花入りのがいいな」
「あるかなそんな殺人駄菓子。いや、まあ都合しよう」
首を捻りながらも承諾する死神に、メディスンは満足して頷いた。
少なくとも彼女は人間ではないし、まるきり知らぬ顔でもない。ご近所付き合いを大切にしておけば人間と全面戦争になった時にきっと力を貸してくれるだろう。
スーさんたちは心配だが……少しの間なら、自身の毒で持ち堪えてくれるだろう。死神が毒を撒いている犯人を懲らしめれば問題ないわけだし、なにより、これ以上犯人と勘違いされるのを恐れてびくびくしているのは面白くない。
のんびりと打算しながら飴を咥えるメディスンを苦笑で眺め、死神が大きく手を振った。
ふわり、踊る風が鈴蘭を揺らした直後――何も持っていなかった死神の手の中に、捻れた大鎌が出現する。すごい手品だ。
思わず拍手する彼女にくるりとお茶目にお辞儀してから、死神はにぃと白い歯を見せる。
「さて。早速だが、ひとつ頼むよ先生。解決は早ければ早いほどいいってもんだ」
「がってんよ。コンパロ、コンパロ~」
力強く請け負って、メディスンは辺りに漂う《毒》の流れと密度を感じ取る。
多くは鈴蘭の生み出す清涼で透明な毒気。自分にとっては生きる活力にも等しい綺麗な毒だ。
その中に、動物の死骸を煮詰めたような、不気味悪い感覚の毒が混じっている。数日前からあちこちに漂っている得体の知れない毒……これが死神の言う『キツネ憑き』を引き起こす毒なのだろう。
嫌悪感を我慢して、その毒の漂ってくる方角を探り……びしりと空の一角を示す。
「向こうの方。……だと思う。近くにいけばもう少し詳しくわかるかも」
「よしきた、そうと決まれば八艘飛びだ。急ぐよ!」
「待って」
短い袖を更に捲って飛び立とうとする死神の着物を、ぐいと掴む。
つんのめって振り向く彼女の目を真っ直ぐ見返し、メディスンはおもむろに両腕を広げた。
「おんぶ」
「このクソ忙しい時にわがまま言うんじゃありません」
「一日逃げ回ってヘトヘトなんだもん! 自慢じゃないけど、いま弾幕一発でも撃ったら気絶するからね!」
「まったく同じだけこっちも疲れてるんだよ!――いや、ケンカしてる場合じゃないか。ああもう!」
地団駄踏み踏み、頭を掻いて。
死神は片手でメディスンの脚を持ち豪快に担ぎ上げた。ビスクドールサイズのメディスンを長身の彼女が背負うのは難しかったらしく、ほとんど肩車の体勢になる。
したり顔で頷くと、メディスンは手綱でも握るように、二つに結った死神の髪を掴んで叫んだ。
「進路よーし。走れ毒おっぱい、さながら馬車馬のごとく!」
「調子に乗るな毒人形!……やい、ついてる。飴が髪についてるよ! ちょいとッ!」
涙声の悲鳴を響かせて。
事態終息の鍵を担ぐや死神、小野塚小町。
鈴蘭畑を走る、走る――
■
白玉楼の庭は広い。
花見客などは桜見事な枯山水の大庭しか見ないが、裏の小庭にも庭師の手入れは行き届いている。そちらは家人の目にしか触れぬため、景観もやや手を替えてあった。
とはいえ、今はその中心にどんと聳える巨大な物体のせいで、景観の配慮などは根こそぎ蹴散らされている有り様なのだが。
「まめに帰ってこい、とは言ったけれど」
先日訪れた時と同じ縁側に、同じ格好で腰をかけ。
妖忌は黙然と腕を組み、隣から突き刺さる幽々子の冷たい視線にただ耐えていた。
「帰ってくる度に私を驚かせようとか、そういうエンターテイメントな試みはいいからね。本当」
「………………面目御座いませぬ」
「心臓マヒで死んじゃったら化けて出てやるんだから」
「また指摘の面倒臭い発言を」
最後に答えたのは、妖忌を間に幽々子の反対側にいる妖夢である。こちらは座らず、軒下の日陰に立っていた。
掃除の途中なのだろう。使い込まれた竹箒を六尺棒のように携え、庭の中心で構えの型を反復しているゴリアテ人形を見たまま溜め息をつく。
「でも、幽々子様の仰るとおりです。数十年ぶりに突然帰ってきたと思ったら、次は満身創痍の大怪我で現れるなんてサプライズはもう御免ですよ」
「分かっておる。なに、もうあれほどの『キツネ憑き』に襲われることもあるまいよ」
「そうね。あとは、死神がうまくことを運んでくれるのを待ちましょう」
軽く同意し、幽々子は猫のようにうん、と伸びをした。
――永遠亭を後にした妖忌が再び白玉楼を訪れたのは、冥界を通じて彼岸へ連絡を取るためである。
先日の死地で垣間見た『キツネ憑き』の動向が何らかの手掛かりにならぬ物かと、ゴリアテと共に息せき切って駆けつけたのだが……
軽い溜め息と共に、妖忌は頭を掻いた。
「よもや、既に黒幕へのあたりをつけていたとは思いませなんだ」
「うふふー。見せたかったわ、目明かし幽々子の冴え渡る推理ショー」
「守矢の神様が掴んだヒントを元に、小町さんがいま毒の出所を追跡しているそうです。もう解決は時間の問題でしょう」
さも己一人の手柄のように胸を張る幽々子の言葉を、妖夢が動ぜず淡々と補足する。
なにやら不満げにぶーぶー言う主と、それをすべて几帳面に受けては流している従者に挟まれながら、妖忌は髭を撫で顔をしかめた。
「ともあれ落着か。手当の良い仕事だけに、いま少し稼ぎたかったところではあるが」
「贅沢を言わないの。どのみち怪我は治りきってないんでしょう?」
「確かに」
独り言のつもりで溢した言葉に返事をされ、妖忌は苦笑して肩をすくめる。
八意永琳の霊薬は大した効き目で、身体は既に僅かな違和感も消え、普通に生活するのに支障ない程度まで回復していた。
ただし幽々子に言わせれば、強力な霊薬とは「体力を前借りするようなもの」だという。生命が等しく内包するという「命の核」に蓄えられた力を以て傷を癒やすため、当面は傷や病気の治りが遅くなり、危機的状況に際しての予備霊力も失われるのだとか。
いまいち呑み込めぬ話だが、それを聞いた妖夢の「火事場の踏ん張りがきかなくなるんですね」という乱暴なまとめが存外、的を射ている気もする。
なにげなく丁寧に繕われた着物の袖を撫でた、その時。
「――ジジー!」
「む」
突然に自分を呼ぶゴリアテ人形の声に、ひょいとそちらへ首を向ける。
ぴしりと決まった剣の型は、文句なしとは言えないまでも上々の仕上がりに見えた。下段に剣を広げた受けの構え。ゴリアテの本分である豪剣とは相容れぬようだが、受けることが即ち防御とは限らぬ。受けの技を知らずして二刀の奥義は身につかない。
しばし無言でゴリアテの姿勢を検分した後、彼女の足下へ目を向ける。
型稽古の反復で乱れた足跡が幾つも付いていた。顔をしかめ、妖忌は鋭く声を飛ばす。
「また足配りが乱れてきたぞ。剣に意識を置きすぎるな」
「アバシリー?」
「体勢が崩れたら、下手に変化させず剣に従え。恐らくお前はその方が向きだ」
「ゴリアテー!」
気合いの入った返事と共に、ゴリアテは再び剣を構えた。
陽光を浴び、時折翻る鋼の閃きをじっと見つめながら、幽々子が不意に口を開く。
「妖忌。あなた、竹林の薬師に変な薬でも盛られた?」
「は?」
唐突な問いに虚を突かれ、ぽかんとする妖忌を振り返り。
幽々子はそこに経典でも書かれているのかと思うほどしげしげと妖忌の顔を観察し、やがて腕を組むと、もっともらしく頷いて見せた。
「やっぱり。あなた、若返ってるわよ」
「……仰る意味が分かりかねますが」
「幽々子様、だからミョウガは控えめにとあれほど申し上げたのに」
「それは遠回しなようでいてざっくり傷つくもの言いよ、妖夢」
悲愴な面持ちで頭を振る妖夢をひとしきり半眼で見やってから、彼女はこほん、と咳払いをする。
「ものの喩えよ。……なんというか、目がね」
「目――ですか?」
「昔のあなたに戻ったみたいだなって」
「ふむ」
分かった素振りで顔を撫でてみるが、無論幽々子の言わんとするところはまるで掴めない。
そんなことなど見透かしているとでもいうように、幽々子は袖で隠した口元ににやにやと愉快げな笑みを浮かべていた。この顔をしている幽々子を幾ら問い質しても、ふわりふわりとはぐらかされるだけだと言うことを妖忌は深く心得ている。
早々に諦めて嘆息する妖忌に、今度は妖夢が思いついたように声を上げた。
「若返ったかどうかは分かりませんが」
「うん?」
「ゴリアテの指導に熱心にはなりましたよね。心境の変化でも?」
「む」
問われて、妖忌はゴリアテ人形へ目を戻す。
幽々子に『キツネ憑き』に関する調査の進展を聞いている間、暇そうにしていたので軽く型の修練をさせていたのだ。もっとも、本格的な修練ではなくそれ以前の下地を整えるような段階だが――型取りを繰り返すゴリアテは真剣だった。
剣を振る彼女の表情を見るにつけ、アリス・マーガトロイドという人形師の腕に感嘆せざるを得ない。月も朧に霞む白貌は神話の一幕を大理石に削りだしたような、ある種の威厳すら感じさせるほど、美しかった。
それは決して眉目の良さからくるものではない。
ひたすらに。
ただひたすらに剣を振る事に専心するが故の、不純物を纏わぬ意志が放つ、煌めき。
瞼を伏せ、妖忌は静かに頷いた。
「魔法で生み出された擬似精神ということを差し引いても、奴は剣を学ぶことに天賦の才がある。冗談ごとでなく、いずれは私より強い剣士になるだろう。――――私は、奴が辿り着く先を見てみたいのやもしれぬな」
「ふっふっふ。きっと、それだけではないわね」
横から言い添えてきたのは、なぜか得意顔の幽々子。
孫と共によく似た怪訝顔を並べていると、彼女はゆらりと宙に浮き上がった。そしてこちらの眼前にまで漂ってくると、びしり、鼻先に指を突きつけてくる。
張り上げるのは、鬼の首でも取ったような声。
「妖忌。あなた、あの子に恋してしまったのよ!」
ぽかん、と。
再び同じ唖然顔を孫の隣に並べて、妖忌は絶句する。この御方の突飛な発言には些か慣れたつもりでいたが、流石に意味を把握しかねたのだ。
同じ気分なのだろう、ぱくぱくと金魚のように口を動かす妖夢を視界の端に見留めながら、ゆっくりと言葉を吟味する。
そして、腹の底から楽しそうな笑顔を浮かべてこちらを見ている幽々子に短く嘆息し、
「――そうかも知れませぬな」
「あれ、認めた!?」
反応したのは、何故か妖夢だった。
裏切られたような顔でこちらを見る孫を振り向き、妖忌はしかめ面で首を捻る。
「どうした」
「さすがに家族会議モンでしょう、それは」
「やあね妖夢。遅すぎる恋なんてないのよ」
からかう対象を妖夢に絞ったらしく、幽々子は彼女の周りをくるくる飛び回り、訳知り顔で囁きかけた。
「あなた、お爺ちゃん子だものね。彼がふりふりプリティなお人形にラブりんドキュンのメルヘンじじいだと認めたくない気持ちは分かるわ」
「お分かりいただけますか」
「幽々子様」
「でも、聞けばあの子は妖怪になりかけていると言うじゃない。生あるものが惹かれ合うのに必要なのは、理屈ではないのよ」
「幽々子様」
「うう。しかし……」
「あなたに必要なのは家族の決断を認めてあげる勇気と優しさ。それでも分からないというのならあの子から、剣で妖忌をもぎ取って行きなさい!」
「くッ、許してくださいゴリアテ。私はまだ、そんな因業な大人の事情に関わりたくはないのです――――!」
「幽々子様」
「ああ、悲劇! 誰もが誰もを愛しているが故に、再び同門同士が刃を交えることになってしまうとは!」
「幽々子様」
最後のひと言は、頭へ拳骨を落としながら。
ぺちゃりと床に落ちてのたうつ幽々子を、妖忌は淡々と見下ろした。
「お戯れが過ぎますぞ」
「……ぶ、ぶったわね? ぐーでぶったわね?」
「いまは御側付きではありませぬゆえ、一発にて留めました」
未だ解かぬ拳骨に、はーっ、と息をかけて見せると、幽々子は小鳥に土を喰わせたような声を上げて黙り込む。
妖夢は早くもゴリアテの元へ駆け寄り、訳の分からぬ啖呵を切り勝負を挑んでいた。人形も人形で、特に疑問なく受けて立っている。
斯くて再び、莫迦弟子二人が繰り広げる剣の応酬を遠い気持ちで眺めていると、小声で文句を言いながらもそもそと幽々子が起き上がった。
「照れることないのに。あなたも認めていたじゃない」
「剣に惚れるということを理解するには、妖夢はまだ若く未熟に過ぎる。あまり勘違いさせないでいただきたい」
「私だってわかんないわよ、そんなの」
渋面で言う妖忌に、幽々子はぷくりと膨れっ面で答える。
隣に座り直して覗き込むようにこちらを見上げると、彼女は意味ありげに口の端を持ち上げた。
「そんなお堅い意味じゃなくて。やっぱりあなた、あの子に恋しているのだと思いますわ。もちろん妖夢が勘違いしているような意味でもないけれど」
「……それはこちらこそ分かりませんが」
「いつか分かるといいわね」
教える気はないらしい。
青草を呑まされたような顔で黙り込めば、幽々子もくすくす微笑んで、庭の二人へ目を向ける。
二度、三度。
涼やかな音を立て、剣が打ち合う。以前のように乱れ飛ぶのではなく、一つ一つに意図の込もった剣鳴は、先日の立ち合いとは比べものにならぬほど洗練されていた。妖夢も以前と同じ手は通じぬと踏んだらしく、右へ左へ舞うように足を送っている。
その速度に翻弄されず冷静に、しかし激しい気勢を乗せて剣を打ちかけるゴリアテ人形の姿を眺め、幽々子がぽつりと呟いた。
「『剣』の剣と、『盾』の剣。なんとなく分かる気がするわね」
それは先日、まさにこの庭で語った妖忌の言葉。
横目に窺うと、幽々子はぼんやりと微睡むような目で剣戟を見つめている。
「あなたの剣は『盾』にはなれず、『剣』で在りきることもできなかった――そう言っていたわね」
「……は」
「当たり前だと思うのよ。だってあなたは、ずっと私のために剣を振ってくれていた。そこに意味があると、私が思い込ませてしまっていた」
「――幽々子様?」
「剣を振るう意味。探し出せないのは、ずっと“外”に意味を探していたせい。あなたが剣を振るう意味は――きっと、あなたの中にある」
そっと自分の腕を抱きしめ、音もなく溜め息を溢す幽々子を、妖忌は怪訝な面持ちで眺めていた。
彼女はそれから改めて、小さな笑みを唇に溶かした。
続ける言葉は、些か以上に唐突に。
「妖忌。月へ行ったことはある?」
「……は?」
先ほどと同じ言葉に、今度は疑問の意を込めて。
かくんと顎を落とす妖忌に、蝶が羽ばたくような微笑で。
「私はあるわ。紫のスキマで、妖夢と一緒にね」
「はあ」
「博麗の巫女や吸血鬼も行ったのだけれど、彼女たちは自力で飛んでいったのよ。ねえ、ロケットという乗り物を知っている?」
「寡聞にして存じませんな」
大きな入道雲を見たと報告する子供そのままの輝きで瞳を満たす幽々子に、妖忌は気圧されながら頭を振った。
本日も冥界は晴天。
夏の日差しに何かを見透かすように、幽々子は目の上に庇をつくる。
「吸血鬼たちが作った船なのだけど。すごいのよ、莫大な魔力を積んだ三段重ねの船。加速するにつれ余分な箇所をどんどん切り離し、広大な星の海を駆け抜けて――――とうとう月へ辿り着いてしまった」
「ふむ」
「最後なんて、こんなちっちゃな姿になっちゃってね。他にやりようもあったでしょうに」
両手で手鞠でも持つような仕草をし、くくっ、と喉を鳴らす。
思わず空を仰げども、無論、その船がそこを飛んでいる由もない。
「『盾』でもなければ、『剣』でもない」
妖忌。
呼びかけた幽々子はこちらを見てはいない。
唄うように、夢見るように双眸を伏せ、彼女は見逃しかねないほど幽かな笑みを浮かべていた。
「あなたの剣はロケットよ。他の全てを切り捨て、削ぎ落とし、研ぎ上げて。遥か星の海も越え、目指す高みへ辿り着くまで止まらない……不器用で、真っ直ぐな剣」
「…………」
「言ったでしょう? あの子に恋してるって」
くすくすと笑う幽々子が、庭に目を送る。
そこにいるのはゴリアテ人形。
ただ愚直に、ただ真っ直ぐに、自分の身体も省みずに邁進し、強く――ひたすらに、強く在らんと歩みを止めぬ未熟者。
――私は、
彼女の剣を導きたいのだと思っていた。
彼女を、自分では辿り着き得なかった高みへ至らせてやりたいのだと思っていた。
……本当にそうか?
自分はそれほど聞き分けの良い、利口な男であったのか?
否。
――私はきっと、
剣士たらんとする自分を装ってきたのだ。
幽々子様の御身がためと偽って……若き時分に見上げた、馬鹿げた高みを目指したいと願う愚かで未熟な己から、目を背け続けてきたのだ。
しかし、虚飾は喝破された。
自分を言い訳にするなと叱られてしまった。母親に尻をはたかれたような気分。もう千年生きたとて、自分はこの御方には敵うまい。
見栄を剥ぎ取られ、残った物はただ一つ。
魂魄妖忌が剣に望む、たった一つの答えが残る。
――私はきっと、あの人形が辿り着く遥かな高みへ、共に至りたいと望んでいるのだ。
胸に落ちてきたのは、小さな手応えだった。
数十年――否。千年、探し求めていた答えとしては肩透かしに過ぎるほどささやかな、納得。
それは初めから自分の中にあったのだ。
己に迷い、迷いに目を塞がれ彷徨って。余りにも長い遠回りの果てに行き着いたのは、初めて剣を握ったその時に抱いた想いにひとつとして違わぬ。
剣に身を捧ぐ者ならば、誰しも「それ」を意識する。
届かぬ歳月に身体が老い、技が枯れても。
剣は無限の夢を見る。
月をも斬らんと高みへ駆ける。
小利口なつもりで仕舞い込み、ずっと自分の内に閉じこめていた、それこそが。
魂魄妖忌が剣を振るう、意味であったのだ。
「走りなさい」
蝶が軽やかに空を撫でる。
そんな錯覚を抱かせるほど、囁く幽々子の声は穏やかで、暖かかった。
「走りなさい。奮いなさい。納得ゆくまで高めなさい、魂魄妖忌。あなたの剣が夢見るならば――――星の海を渡り、いつか、あなたの月へ届くように」
「………………、は」
正対し、座り直して。
妖忌はただ深々と、頭を下げる事しかできなかった。
本来なら、万の言葉を尽くして謝辞を述べても追いつかぬ。
御役目を果たしきることは叶わなかったが…………この御方に仕えることが出来たのは、生涯最上の誉れに違いなかった。
気の利いた言葉も思い浮かばぬ無骨者に亡霊姫が返した笑みは、しかしひどく気安げで明け透けなものだった。
「あなたのことだから、お節介を焼かなくても自分で答えに辿り着いたんでしょうけど。……あんまりあの子を待たせるのも可哀想だしね」
「は。ようやく、真に奴を導くことが出来る気がいたします」
「そういうアレじゃなかったんだけど……もういいわ、それで」
不思議な言い回しをする幽々子に、渋面で首を捻る。
彼女はあまり上品とは言えない仕草で舌を出すと、ぞんざいに手を振って見せた。
「ほら、そろそろお弟子さんたちの相手をしてあげなさい。妖夢ー、ゴリりーん。妖忌が稽古つけてくれるって」
「ゴリりんて」
「ゴリアテー」
互いに止める切っ掛けを探していたのだろう。その呼びかけに打ち合わせていた剣を止め、妖夢とゴリアテが同時にこちらを振り返る。
悪戯を仕掛けたような含み笑いでこちらを見る幽々子に、
「――良いでしょう」
妖忌は、笑い返した。
手早く草鞋を履いて庭へ降りる彼に、幽々子は心底から楽しそうに声をかける。
「訓練用の木剣ならあるけれど、持ってきましょうか?」
「それには及びません。そこな薪ざっぽうでもいただければ十分です」
「再び師匠の教えを頂けるとは望外の喜び」
と。
やはり笑みを浮かべた妖夢が、庭の隅に積んであった薪を取り上げる妖忌に笑いかける。
ただし、こちらは幾分挑戦的な色を含む。
「されど、いかな師匠もいまは療養中のお身体。棒きれなどで無理はなされまするな」
「なに。未熟な弟子の相手には大人げないほどだ」
手頃な太さの薪を探り当て、長さと調子を確かめて。
持ち上げたそれで肩を叩きながら、妖忌は軽く肩をすくめた。
「加減が足りぬと言うなら、二人同時に来るが良い」
「言いましたね。ゴリアテ、いまこそ姉妹殺法・ブラザーαの封印を解くときです」
「ブラザー」
「……いつ練習したのだ」
半眼で呻く妖忌を余所に、ゴリアテは極端な下段に両剣を下げ、妖夢はその肩に飛び乗りこちらへ剣を突き出す。真っ先に連想したのは春節の獅子舞だったが、意図はともかく妙にこなれた構えには見えた。
そのまま演武とも歌舞伎ともつかない不気味な動きで剣を揺らめかせる二人に溜め息をつき、半身に身構え――――誰からも見えない角度で、笑みを溢す。
負ける気がしなかった。
今なら百匹の『キツネ憑き』を相手にしても遅れは取らぬ。
身体は何処までも軽く、心に一点の曇りもない。握った薪すら無双の名刀に思えてくる。
(これほどに)
これほどに悔いも、迷いもない剣を振るったことはなかった。
叫びだしたいほどの昂揚を、抑えることなく全て束ね、くるり回した薪を握る。
強く地を蹴る草鞋の音は、ともすれば歓声にも聞こえた。
結論から言えば、昂揚はそう長く保たなかった。
弟子の面子を慮らないのなら端的に一瞬であったと言って良い。更に言えば、妖忌は一度たりとも剣を振っていないし、弟子の剣を受けてもいない。
何とも言い難い面持ちで立ち尽くす妖忌の耳に、莫迦二人が不思議そうに交わす言葉が聞こえてくる。
「解せませんね。合体フォームをとった我々は驚異の四刀流。理論上、木ぎれ一本の師匠の四倍は良く切れるはず」
「ヨンバイー」
「黙らっしゃい」
妖夢を載せたまま剣を振ろうとし、その回転で振り落とされた妖夢に躓きすっ転んだ巨大人形へ、色々と行き場の無くなった想いを込めて言い捨てる。
なおも不満そうに首を捻っている孫を半眼で見下ろし、妖忌はぐったりと溜め息をついた。
「なんだったのだ、姉妹殺法」
「いえほら、合体技。せっかくの妹弟子ですし」
「ガッタイー」
「……本格的に稽古をつけ直してやる必要があるかもしれんな、お前」
冷や汗などかきながら呻くが、妖夢とゴリアテはあまり疑問もない様子で立ち上がり、平然と砂をはたいている。
掴んだはずの答えが鼻の穴から抜けていくような心地で溜め息をつき、妖忌は適当に薪を投げ捨てた。と、
「あら。いいわね、それ」
不意に、庭へ漂い出てきた幽々子がそんな事を呟いた。
「妖夢のことはともかく。ゴリりんにちゃんと剣を教えるなら、一度どこかにじっくり腰を据えた方が良いのではなくて?」
「…………、幽々子様。それは――」
「『キツネ憑き』の仕事はもう明けるでしょうし。妖夢もゴリりんも、ライバルがいた方が刺激になるんじゃないかしら」
「それは保証いたしかねますが」
姉妹殺法が脳裏を過ぎり、思わず渋面で呻く。
困惑顔を見合わせる妖夢とゴリアテにくすりと微笑を溢してから、幽々子は袖から取り出した扇で口元を隠した。
「縛り付けるつもりはないけれど。今までほったらかしてたんだから、少しくらい側に居てくれてもよさそうなものですわ」
「――――――ありがたき、お話です」
「師匠、冥界に逗留なさるんですか?」
堅苦しく一礼する妖忌と宙に浮かんでいる主を忙しなく見比べ、妖夢がそわそわとした様子で訊ねる。
期待に眼を輝かせる孫の細い髪に手を触れ、妖忌は苦笑混じりに首をすくめた。
「少しの間であろうがな。すまぬが、厄介になるぞ」
「やった! ゴリアテ、今夜はお祝いの御馳走ですよ」
「ゴチソウー」
「それには酸っぱい苺でも食わせておけばよろしい」
半眼で告げるが、既に妖夢は聞いてない。首を捻るゴリアテを見上げ、剣士の分を離れた年頃の少女らしい笑みを浮かべていた。
縮尺さえ度外視すれば本当の姉妹のような仲の良い光景に柄にもなく頬が緩み――妖忌は慌てて表情を引き締める。
そのほんの僅かな笑みも見逃さなかったのだろう、幽々子が狐狗狸のような笑顔でするすると近寄ってきた。
「案外、素直に決めてくれたわね?」
「図々しいとは存じますが、仰るとおりです。本格的に稽古をつけようと思えば、確かに草枕の旅暮らしでは具合が悪い」
「外では食費もかかるしね?」
「ふむ。そこが一番具合が悪い」
「お茶目なじじいになっちゃってもう」
髭を撫で飄々と言ってのける妖忌の肩を、幽々子が軽く引っぱたく。
――けらけらと明るく笑う亡霊姫に、傍らでは莫迦弟子二人が騒ぎ合っている。
完全に身体が癒えるまでは時がかかろうが、その間、この物体の剣を叩き上げてやるのも悪くなかろう。
心は清冽に澄み、最早剣に迷いも無い。
冴え渡る晴天を見上げ、妖忌は夏を迎える冥界の空気を存分に吸い込んだ。
知らず伏せていた瞼をスゥと開き、妖忌はおもむろに歩き出す。
不思議そうに首を捻り、幽々子が扇で自分の頬を押した。
「どこへ行くの?」
「腰を据えて指南するなら、いずれ真剣は必要になりましょう」
深く懐手して、妖忌は苦く口元を歪める。
「死神からせしめた前金は残り少ないが、数打一振り、買えんこともない。だんびら商売が空手では据わりの悪いものですからな」
「! オカイモノー、イッショー!」
と、こちらに気付いたゴリアテ人形が威勢良く挙手しながら、地面を揺らして駆け寄ってきた。
もう少し静かに歩け、とそちらへ告げようとした瞬間――ひょいと襟首をつまみ上げられ、胸元に抱えられる。
何が起きたか分からずフリルの中で目を瞬かせる妖忌をしっかり抱きしめ、ゴリアテは鼻息すら吹きそうなくらい得意げに宣言した。
「ジジー、オダイジー。ゴリアテ、イッショー」
「……ついてくるなとは言わんが、なぜ抱える」
苦労してフリルの中から腕を出し、人形の顎を殴る。
それには微塵も構わず、ゴリアテは妖忌を抱えたまま幽々子たちを振り返り、ぺこりと頭を下げた。
「イッテキマース」
「いってらっしゃい。妖忌をよろしくね」
「ちょうど良い用心棒です。意外とフリル似合いますよ、師匠」
「………………」
適当に手を振って見送る二人に、どう文句を言ったものかと考えながら。
結局仏頂面を造ることしか出来ず、妖忌はゴリアテに抱えられたまま運ばれていった。
「しかし、どこまで抱えていくつもりだ」
「チカラノカギリー」
不穏な返事が返ってきたのは、顕界を降りてしばし行った、人里に向かう道でのこと。
白玉楼からこちら、ゴリアテはずっと妖忌を抱えたまま上機嫌に地面を揺らしている。実際、本調子でない妖忌が歩くよりも余程早く、彼も半ば諦めてはいた。無用の混乱を避けるべく、今は往来も少ない旧い街道を選んだのは正解だったかも知れない。
……後は里で買い物を済ませる間、大人しく外で待つよう聞き分けてくれることを願うのみである。
なんとなく落ち着いてしまったフリルの中に背を預け、妖忌はふと首を反らした。
「なあ。物体よ」
「ゴリアテー」
「いや、なに。お前の主はいつ戻ってくるのかと思ってな」
「アリスー?」
訊かれると、彼女はくい、と首を捻る。
そのまま少しの間考え込んでいたが、やがて無言で頭を振った。
そうか、と頷き、妖忌もまた黙り込んだ。
ずんがずんがと、地面が揺れる。
鳴く鳥の声も高く遠く。この人形と無言で過ごす静かな時間が、不思議なほどに心地良い事には気付いていた。
その感覚をなぜか誤魔化したい気持ちになり、妖忌はもう一度顔を上げる。
「私は、長く冥界に留まるつもりはない」
「ゴリアテー?」
「漸く見つけられたのだ――私が剣を振るう意味を。私の剣が見る夢を」
「……ゴリアテー」
「うむ。また旅暮らしに戻るであろうな。あそこはちと、居心地が良すぎる」
苦笑して髭を撫で、妖忌は彼方の稜線にかかる雲の眩しさに目を細めた。
「お前も白玉楼に棲み着くつもりはなかろう。主が戻れば、やはりそちらへ帰らねばなるまい」
「ゴリアテー……」
「なぜ悩むか。なに、それまでに基礎はしっかり叩き込んでやる。技倆は自ずとついてくるであろうよ、お前には才がある」
「ムー」
何が不服か、ぷくりと頬を膨らませるゴリアテをひとしきり怪訝な顔で見つめて。
それからごほんと息を払い、ぼりぼりと肩を掻き。
たっぷりと視線を彷徨わせながら、妖忌はなるたけ独り言に聞こえるような口振りで切り出した。
「――さて、うむ。ところで……お前には、命を助けられた義理があるな」
「?」
「半端な技を伝えることは危険な行いだ。その意味でも、私はお前の剣の行き着く先を見届ける義務がある――いや。私が、それを望んでいる」
「ジジー?」
「借りを返すは人の道、道を外さば此を外道と言うように…………、ええい」
なんとか遠回しに伝えようとするが、結局訳が分からなくなる。
乱暴に頭を掻きむしり、ふん、と大きく息をつき。
ぱちくりと瞬きしているゴリアテを見上げて、妖忌は開き直ったように腕を組んだ。
「私はいずれ流浪に戻る。……当て処はないが、しばしこの近くへは立ち寄らんだろう」
「!? ソ――」
「だからな、物体」
その時はお前、一緒に来い
「――――――ァ……、エ?」
「武者修行、には早かろうがな。見聞を広めることは考えを深めることに繋がる。芽生えかけているという魂にも良い刺激になろう」
「…………、……」
「なんにせよここで決める話ではない。お前を造った魔法使いとも相談せねば仕様のないことだ。それまで、ちくと考えてみ――――おい、どうした」
気付けばゴリアテの歩みは止まっていた。
見上げた彼女は何かを訴えようとしているのか忙しなく口を動かしていたが、その唇が言葉を紡ぐことはない。人間であれば泣き出しているのではないかというくらい、必死で真剣な面持ち。
何となく気圧され口を噤んでいると、彼女は頬でも張るようにぎゅっと目を瞑り、もういちど見開く。そして碧玉の瞳で真っ直ぐこちらをのぞき込み、
「…………ヨメイリ?」
「いっぺん死ねお前は」
どこかで歯車が外れたらしく、頭の煮えた発言をする物体に半眼で手刀を見舞う。
それでピントが合ったとでもいうように、ゴリアテは慌てて妖忌を抱え直すと、顔を間近に近づけてまくし立てた。
「イッショ! イッショー! ジジー、イッショー!」
「近い! 近いし、うるさい!」
「ヤー!! イッショー!!」
「ええい、だからお前の主に話を通さねばならんと……いや、その前に、放せ」
潰れる、潰れる。
こちらの怪我など忘れているように――忘れているだろう、間違いなく――遠慮のない力で抱きしめるゴリアテの腕を、ばしばし引っぱたく。無論何度も繰り返したやり取りの通り、ゴリアテは一向に構わない…………と、思っていたのだが。
突如するりと腕が緩んだ。
その事にむしろ戸惑い、顔を見上げようとするが、その前にゴリアテが頬をすり寄せてくる。
ぽつり、か細い声が耳元をくすぐった。
「ジジー、イッショ。ゴリアテ、スキー」
「――――」
「ダメ?」
答えられるはずもない。件の人形遣いが魔界から帰ってこない事には相談すら始まらないのだから。
それを、この物体が分かっていないとは思わない。事態を理解する知恵はあっても、それで感情を抑える世知がないのだ。
溜め息が溢れる。
顔へ触れる金糸の髪を撫でてやり、苦笑混じりに言ってやる。
「分かった。物体」
「……?」
「好きについて来るがいい。もし、お前の主がそれを認めなければ――」
「ナケレバー?」
顔を離し、首を傾げる人形に。
妖忌はにやりと、悪戯な笑みで応えた。
「――魔法使いに喧嘩を売って、お前を攫っていく。それでいいな?」
返ってくるのは、ふにゃりと緩んだ彼女の笑顔。
それだけで全てを行う価値があると思える。このうるさくて面倒な巨大物体を連れて行くことも、人形遣いと交渉することも、ともすればその為に、道義の通らぬ剣を抜くかも知れないことも。
良かろう。やってやろう。
道理も道義も何する物ぞ。
全幅の信頼を寄せるこの笑顔の為ならば、出来ないことなどないように思えた。
自然と緩む頬を隠すように顔をしかめ、妖忌は大仰に鼻を鳴らす。
「ならば、さっさと歩くのだ。丸腰ではそもそも勝負にならん」
「ゴリアテー!」
元気よく頷いて、ゴリアテは跳ねるような足取りで歩き出す。
魔法の心得、擬似精神の知識など無くとも、その胸の内は自分と同じと分かった。それが、確信できた。
――焼きが回ったな、魂魄妖忌。
浮かべたつもりの苦い顔もうまく締まらず、ただただ頭を振る。と、
「…………ァ、」
「ぬっ?」
何かに蹴躓いたように、突如ゴリアテの身体が傾いだ。
腕から放り出された妖忌は危なげもなく地面に降り立ち、後ろを振り返る。地面に膝をつき、ゴリアテがきょとんと目を丸くしている。
そちらへ戻りながら、妖忌は怪訝顔で彼女を見上げた。
「どうした、物体」
「ゴ、ゴリアテー?」
ゴリアテ自身、何が起きたか分かっていないのだろう。膝をついたまま困惑顔でこちらを見下ろしている。
この街道は森の傍を通り、かつては妖怪の類が多く現れた道であった。峠沿いに新しい街道が敷かれると共に往来の途絶えた道だが、極端に荒れ果てている訳でもない。少なくとも、彼女の重量を躓かせるような巨岩はどこにも転がっていない。
眉間に皺を寄せ、妖忌は一段声を低くする。
「やはり、まだ擬似精神への負荷に慣れていないのか?」
「チガウー」
ふるふると首を振ると、ゴリアテは何と言うこともないように立ち上がった。そのまま剣は抜かずに軽く型を演じて、にっこり笑って見せる。
確かに、身のこなしに問題はない。
ひとしきりそれを眺めてから、妖忌は腕を組んで呻いた。
「……と言うことは、浮かれて自分の足にでも蹴躓いたのではないか。貴様」
「ケッツマー」
「笑いごとか。この物体め」
照れくさそうに笑う人形の脛を無造作に蹴飛ばし、妖忌は、笑い返す。
「さっさと行くぞ。屋敷へ戻ったら、日暮れまでその根性を叩き直してやる」
「ゴリアテー!」
力一杯頷き歩き始めるゴリアテ人形に肩をすくめ、踵を返そうとした、その時。
がさりと、街道脇の茂みが音を立てる。
足を止めたのは、二人同時だった。
「――ジジー」
「まだ動くな」
剣に両手をかけ、油断無く腰を落とすゴリアテへ、妖忌は鋭く囁いた。
この枯れた街道に、物盗りや追い剥ぎという線もあるまい。
すわ竹林での如く『キツネ憑き』かと疑うが、それにしてはあのひりつくような殺気が感じられない。草陰の向こうから近付く気配は、むしろ今にも消え入りそうなほどに弱々しい。足音を隠すつもりもないようだった。
緊張と疑念に空気が張り詰めてゆく。
ややあって、足音の主が茂みを割って姿を現した時、妖忌は思わず目を瞠った。
予想だにしない姿ではあった。
よほど強引に森を歩いてきたのだろう。
上等の服は泥にまみれ、飴細工のような肌には大小無数の切り傷が刻まれている。
彼が知る姿とは余りにかけ離れた無惨な風体だが、そんな事は問題ではない。
ここに。陽の当たる地上に居ること自体が考えられない地底の妖怪。
見間違う筈もない「目」を胸元に抱えた少女の姿――
――覚り妖怪、古明地さとりであった。
「――――サ、ムラ……イ…………?」
焦点の合わぬ双眸が二人を見つめ、譫言めいてそう呟き……さとりはその場に崩れ落ちる。
漸くにして我に返り、妖忌はすぐさま彼女へ駆け寄った。
「古明地殿! 何故こんな所に――――この有り様は、いったい!?」
「サトリン、ケガー!」
「……っ。お願い――力を、……ッ!」
抱き起こされたさとりは切れ切れに、しかし口を閉ざすことなく喋り続ける。
ざっと見た限り、大きな怪我を負っている様子はない。
覚り妖怪の身体は、並の人間より脆いくらいであると聞く。地底の旧都からここまでやって来ただけでも無茶な真似だが、この衰弱はそのためだけではないように思えた。
厳しい顔で考え込む間にも、さとりは必死に言葉を紡ぎ続ける。
「例の、異変…………地底、『キツネ――――、憑き』っ……!」
鉛の鏃を打ち込まれたような衝撃。
言葉を失った妖忌の着物を掴んで、絞り出すようにさとりは繰り返す。
「皆、抑え…………弱いから、私――助け、呼びっ……! お願いし……助けて、――――助け、て……ッ!!」
「――――――」
声が掠れていた。
縋り付く手も震えていた。
旧地獄の主、古明地さとりが、泣いていた。
「ジジー」
「うむ」
袖を引くゴリアテと視線を交わし、小さく頷き合う。
刺草の綱を掴むような思いで、地上へ来たのだろう。
味方と呼べる者もいない、かつて自分たちを排斥した世界へ一人、この忌み嫌われた妖怪が助けを求めに来なくてはならないほどの事態が地底で起こっているのだ。
ともすれば、既に他の妖怪へ助力を頼んでいたのかもしれない――少女の細い身体には、明らかに森歩きだけでは付き得ない刃傷も見受けられる。
こうなる事を予測出来なかった道理はない。
悪意については並ぶ者無く敏感な覚り妖怪が――――それでも、こうせずには居られなかったのだ。
「事情は道すがら聞く」
「スガラクー」
意識の有無も定かではなかったが、素早く告げて。
ゴリアテにさとりの身体を預け、大まかに方角を確かめながら、妖忌は声を強ばらせる。
「頼まれるまでもない、連中を斬るのが私の仕事だ。……走るぞ、物体」
「ゴリアテー!」
さとりの矮躯を慎重に抱きゴリアテが頷くのを確認してから、強く、地面を蹴る。
行く手に見えていた雲は流れ、いつしか空は青一色。
その色味に、何故かつきまとう不安の念を振り払うように、妖忌は無言で走り続けた。
■
場所は違えど、川という場所は自分の性に合っているのだろう。
傍らを流れる清流のせせらぎに思わず眠気が鎌首をもたげるのを感じ、小町は慌てて目を瞬かせた。
勤勉であろうとするつもりはさらさらないが、今はサボっているわけにはいかない。
「やい毒人形。まだ上流かい?」
「そうみたいよ、毒おっぱい」
頭にしがみついた毒人形、もとい人形妖怪メディスン・メランコリーが頷くのに、小町はうんざりと辺りを見回した。
妖怪の山――
天狗を中心とした社会が築かれた、幻想郷において妖怪が支配する土地の筆頭と言える。
本来、小町のような外部からの来訪者は歓迎されない所ではあるが、彼女はここ数日『キツネ憑き』の調査やら守矢神社への報告やらで頻繁に山へ出入りしていたため、天狗の方でも半ば侵入を黙認しているようである。それでも、監視の目がどこからか向けられていることには違いないのだろうが。
溜め息をつくと、小町は足場にしている川中の岩を下駄で鳴らした。
「やれやれ、こうなると守矢が方陣を張ってくれていて助かったよ。湖のあたりまで行けと言われたんじゃ足腰が立たなくなっちまう」
「飛べばいいのに。馬鹿じゃない」
「……お前さんが、地面近くを進まないと毒の流れが確かめられないと抜かすから元気にハイキングする羽目になってるんだがね」
「わたしのせいじゃないもの。恨み言は毒を撒いた犯人に言ってよね」
「是非そうしよう。だからさっさと毒の発生元を突き止めてくれんか、めらん子先生」
「へんなあだ名つけないでよ」
文句を言いながら満更でもなさそうに声を弾ませ、毒人形は掴んだ小町の髪をぱたぱた揺らして遊んでいた。
……このポンコツに頼らなくちゃならんという事態が、そもそも間違ってるんじゃあないのかね?
半眼で顎を突き出す小町にしがみついたまま、メディスンは澄ました顔で肩をすくめる。
「山の神様もケチよね。結界なんて張るなら山ごと囲んじゃえば良かったのに」
「神通力も無限に出てくるもんじゃあないからねぇ。神様二柱、巫女一人――湖まで囲っただけでも気合いの入った仕業さ」
「ふーん」
「それにこの調子だと、毒を撒いてる奴は山中に潜伏しているみたいだしね。そいつを内側に呑んじまえば方陣の意味がなくなっちまう。結果オーライだよ」
「どうでもいいけどねー。幻想郷中に毒が溢れても、わたしは絶対無事だろうし」
「……もしあたいが『憑かれ』たら、真っ先にお前さんにかぶりつくとしよう」
足をばたばたさせる人形娘を視線だけで睨みつけると、小町は気を取り直し、上流へ向かって岩を跳び渡っていった。
川幅は大分狭くなり、流れも急になってきている。
ここは守矢の湖とは水源を違え、伏流から始まる小さな川だ。程なく水源へたどり着くだろう。
かこん、かこん。
軽やかに下駄を鳴らしながら、小町はふと顔をしかめた。
「――しかし妙だな。例の毒は、この川から発生しているんだろう?」
ちらりと川面へ目をやれば、透き通った水の中に川魚の遊ぶ姿が垣間見える。
目を細め、小町はメディスンを落とさない程度に首を捻った。
「けれど魚は狂っちゃいないし、下流の河童も元気そうだった。ちょいと合点のいかない話じゃあないか」
「知らないわよ。毒の流れを追えっていうからそうしてるだけだもの」
「疑う訳じゃないがね。ただ、毒を流されているにしちゃあ綺麗なモンじゃないかと思っただけさ」
「え?」
「うん?」
と。
頭上で訝しげな声を上げるのに、小町はぴたりと足を止めた。尖った岩の上で器用にバランスを取りながら視線でメディスンを見上げる。
「なんだい」
「わたし、川に毒を流してるなんて言ってないよ?」
「……あん?」
よじよじと頭を登り、口を曲げる小町の顔を逆さまに覗き込んで、メディスンは困ったように眉根を寄せた。
「川に沿って毒の流れを感じただけよ。毒が川に溶けてるわけじゃない」
「待て、待て待て。――それじゃあたいは見当違いな方へ向かってるのか?」
「ううん、毒の流れの濃い方は川の上流。ただ、毒は水に溶けてる訳じゃないってだけで」
「……さっぱりわからんよ、毒人形」
「なんでわからないのよ、毒おっぱい」
途方に暮れて呻く小町に、呆れ顔を造る人形少女。
片脚でバランスをとり続けながら、小町はふむ、と考え込む。
訳の分からない事は頭から省き、一番手近な疑問から手をつける。
川に毒を溶かさないなら、なぜ川から毒を広める必要があった?
この川は湖から続くそれとは違い小さな川だ。裾野を広げることもなく山中の小沼に流れ込むため、幻想郷中に毒を撒こうと考えれば、この川を選ぶ理由は何一つ無い。
……偶然?
予期せぬ事態により、ここから毒を撒く羽目になってしまったと考えれば多少は妥当に思える。
すると今度はその「予期せぬ事態」が何なのか分からなくなり、思考はますます袋小路へ嵌り込んでいくのだが。
頭を掻きむしろうと手を伸ばすが、メディスンが載っていたので仕方なくその髪をかき回しておく。
「ま、とにかく進もうかい。黒幕さえとっちめれば万事解決だ」
「――なにを解決するつもりなのですか?」
ひゅるり
川波を撫でる風声に紛れ、誰かが囁いた。
飛び掛けた足をすんでの所で踏みとどまり、小町は声のした方を振り返る――反動で手を滑らせたメディスンが川に落ちているが、とりあえず無視。
細めた瞳で見つめるのは手近な岸辺。
大きな岩が張り出し、ちょっとした瀬になっているそこには誰の姿もなかった。が、小町はそこへ視線を注ぐ。
いかにも「彼奴」が好みそうなロケーションであったのだ。
「しばらく、死神。とうとうこんな小川へ左遷されたのかしら」
風に舞う木の葉が一枚、小町の視界を過ぎった直後――それまで天道虫一匹見えなかった岩の上に人影が出現していた。
静謐に禅を組む、大陸風の出で立ちをした女。
見かけの歳は小町と変わるまい。行者然とした格好ではあるが、明るい配色の染め着や胸元のコサージュといった少女らしい装飾が先に目立つ。
片手に持っていた大鎌を肩に担ぎ、小町はにやり、気安げな笑みを浮かべた。
「なに、仕事だよ。ちょいとやり過ぎた悪党へ縄を打ちに行くところさ」
「そう。てっきり、仙人にでもなりたくて修行しているものかと」
「いやまあ、この体勢に意味はない」
岩の先端で危なげなくバランスを取ったまま、小町は川へ鎌の柄を差し、流れていくメディスンの襟首を引っ掛けた。
そのまま天日干しにするつもりで鎌を担ぎ直し、ひょいと肩をすくめる。
「貴方こそ珍しいじゃないか。顔を見かけて挨拶に来たって訳ではないんだろう?」
「ええ。そっちの妖怪は初めて見る顔だったので、一応、山の者として注意をね」
「毒おっぱい、あんたの知り合い?」
柄に引っかかってぶらぶら揺れながら――楽しそうではあった――、メディスンが首を傾げる。
そちらへ片目を瞑ってみせ、小町は岸辺の行者へ顎をしゃくった。
「ものを知らんね、毒人形。この御方こそ、説教好きなことうちのボスにも引けを取らんと評判の仙人。妖怪の山の茨木華扇と言えば知らぬ者はいないというものだ」
「うげえー。閻魔のお説教はもう嫌なんだけど」
「説教は罰でなく徳として受け入れるべきですよ。……流石に噂のヤマザナドゥほど口うるさいつもりもありません。安心なさい、人形の妖怪」
「本当? 桃色おっぱい」
「もッ――他に言いようはないんですか、それ」
取り立てて悪気があるわけでもない事は察したのだろう。強く言う事も出来ず、仙人――茨木華扇は渋い顔で、人形の言うとおりに桃色の髪を掻く。
忍び笑いに肩を震わせながら、小町はひらひらと手を振った。
「ま、ま、生まれて間もない妖怪の言うことだ。長生きしてる仙人様が腹を立てるでもあるまいて」
「もちろん。そのくらいでトサカにくるような鍛え方はしてないわ」
「ときにちくと訊ねるが、桃色おっぱい」
石を投げられた。
時間差をつけた三つの投石を避け、受け止め、下駄で蹴落としてから、小町は三白眼の華扇へ拝むように手を向ける。
「冗談だよ。そう怒らんどくれ」
「怒ってませんよ。仙人ですから」
「怒ってるよね?」
「怒ってるねえ」
指をさすメディスンの声が聞こえていないはずもなかったが、華扇は澄ました顔でそれを黙殺した。無論、禅を組む脚がぴくりと反応したのを見逃す小町ではなかったが、ここで彼女をからかっていても埒がない。
かこ、と岩を蹴り岸辺へ跳ぶ。
濡れ鼠のメディスンを乾いた草の上に放り出し、小町は地面に鎌の頭を打ち付けた。
「いまはちょいと急ぎでね。あまり貴方と遊んでいる暇はないんだよ」
「どの口でいうのかしら、この死神は」
「悪かったって。今度酒でも持っていくから勘弁しておくれ」
肩越しにこちらを睨んでいた華扇は溜め息をつくと、おもむろに禅を解く。
そして音もなく岩を飛び降りて、探るような目を向けてきた。
「――聞きたいことがあると言っていたわね」
「そうこなくっちゃいけない。話の分かる仙人は好きだよ」
ぱちんと指を鳴らし、死神、白い歯を見せて。
呆れ顔で肩をすくめ、仙人、頭を振って呻く。
二人を見比べ不思議そうに瞬きしているメディスンを一寸見下ろしてから、小町は声を落とした。
「貴方も聞いているだろう。件の『キツネ憑き』」
「ええ、もちろん」
「アレのネタが割れた。聞いて驚け、生き物を狂わせちまう毒がばらまかれてたってんだよ」
「知ってるわよ」
呆れた口振りで即答する華扇に、小町はぎょっとして息を呑む。
その反応が不可解だというように眉を顰めると、仙人は大きく腕を広げ溜め息混じりに肩をすくめた。
「今更なにを言っているの。幻想郷の危機だったというのに、あなたはまた仕事をサボっていたようね」
「ううん? そ、そんなことはない……ハズ、なんだけどねえ?」
「底の知れた言い訳を。ああ、もしかして悪人を捕らえに行くと言っていたのは……どうやら、ひどい勘違いをしていそうね」
「おっぱい仙人、なにか知ってるの?」
「おっぱいの呼び方を変えろと言ったわけではなくて」
子犬のように身体を震わせ水を払うメディスンに、道着の胸元を隠しながら、華扇。
おほんともったいぶって咳払いをすると、厳重に布を巻いた右腕で辺りを示す――意味のある動作ではなく、彼女が喋る時の癖だ。
「いいですか?――――そもそも『キツネ憑き』を引き起こした悪人など、いなかったのです」
「……あん?」
「皆、スペルカードルールに慣れすぎたのね。〝異常〟が起これば〝異変〟であり、そこに〝首謀者〟がいるものと思ってしまう……でも、必ずしも全ての異常に黒幕が居るわけではない。幻想結界の緩みにまつわる異常など、記憶に新しいのではなくて?」
「スーさんがやけに元気だった年ね。あちこちで花が咲いていたっけ」
ぴょこんと立ち上がるメディスンに、華扇はにっこり微笑みかける。
「結界の緩みは六十年周期で発生し、また自然に終息します。あらゆる事情に意図の介在を疑うのは、視野は広くとも思考が狭窄というものです」
「……でもあれって、確か毒おっぱいが仕事サボってたのが原因でムモゴゲ」
「つまり、『キツネ憑き』の毒も自然に発生したものだと言うのかい?」
首を捻ったメディスンの口を素早く塞いで抱え込み、小町は鋭く双眸を細めた。
怪訝な眼差しを腕の中の毒人形へ向ける華扇に、はッ、と息を吐く。
「あり得んよ。『キツネ憑き』の連中は魂までも深く蝕まれていた……まるで怨霊に取り憑かれたようなひどい有り様だったんだ。自然界に発生する物質が、気質の結晶である魂へ干渉することはない――魂とはそう簡単なものでないんだ、茨木の」
「……怨霊に憑かれたような……そこまで辿り着いておきながら、なぜ死神のあなたが思い至らなかったの」
核心を突いたつもりの言葉だったが、仙人はいよいよ呆れたといった風に頭を振った。
額を押さえてよろめきすらしてみせると、逆に困惑する小町へびしりと指を突きつけてくる。
「怨霊に憑かれたようになるのは当たり前。ある意味で、『キツネ憑き』は怨霊に憑かれていたのだから」
「怨霊が原因だと言うのか? しかし覚り妖怪は、怨霊の処理は順調だと――」
「いいえ。原因は間違いなく、毒。ただし天然自然の毒ではなかった――旧地獄では、怨霊の処理は順調だと言っていたのでしょう?」
「……………………、まさか」
毒と、怨霊。
その鍵詞が冷たく頭に貼り付くのを感じ、小町は口を歪めた。
腕を組み、華扇は小さく顎を引く。そして真っ直ぐこちらを見つめたまま、断言した。
「――怨霊の背負った欲望や穢れは地獄の釜に溶け出して、地上へ沁み出し毒素となる。まず、これを利用して地上へ蘇ろうと思いついた利口な怨霊がいた」
「…………」
「欲と共に己自身を釜へ溶かし、存在そのものを毒へ変じて――そうして地上へ沁み出たら、生ある者の身体と魂を蝕み、さらに強力な宿主へ乗り換えるべく力を蓄える」
「力の弱い妖怪が『憑かれ』たのはそういう絡繰りか……怨霊そのものを変じたとて、わずかな毒素では大妖の抵抗力を突破できない」
「逆に、全く力のない人間や動物は最初から狙われない。低級妖怪や妖精の妖力を喰い荒らし、生命力を蓄え……最終的には強力な妖怪の身体を乗っ取り、成り代わりでもするつもりだったのでしょう。地獄の責め苦を逃れるのに冴えた抜け道ではあるわね」
低く唸る小町とは対照的に、華扇の声はあくまで冷静である。
僅かに眉を持ち上げたものの、淡々とした口振りを崩すことなく話を続けてきた。
「その利口者のやり口に怨霊たちが次々続いてしまったのが、言わば『キツネ憑き』の原因。〝首謀者〟なんて居なかったし、その意図が掴める由もない。計り知れない数の怨霊の毒……私は憑依毒、と仮称していましたが……それぞれが〝首謀者〟のようなものだったのですから」
「冥界に迷い込んだ『キツネ憑き』もいたって話だよ。死人から生命力を奪おうってのは、滑稽な話に聞こえるがね」
「そちらの方が願ったり、だったのでしょう。浄化された気質を喰らえば『キツネ憑き』なんて面倒を踏まず、浄土に滑り込むことが出来る。……死神は冥界と顕界を行き来することがあるでしょうから、危なかったわね。浄土の空気を纏った上で隙を見せていれば、怨霊たちの垂涎の獲物だった」
「生憎、今度ばかりは気を張らにゃならん事情がある」
最後はやや皮肉げに付け足す彼女に歯を覗かせると、小町は鎌の柄に体重を預けて首を傾げた。
「……しかし、やけに事情に明るいじゃないか。死神のあたいでも、ようやくなにかの毒が原因らしいってことを掴んだだけだってのに」
「あなたを死神の基準と考えてはいけないでしょうに。なに、実は私も『キツネ憑き』については個人的に調査していたの」
苦笑して自分を示す華扇に、小町は意外な思いで眼を丸くする。
八雲のスキマや西行寺のお姫様ほどとは行かぬまでも、この茨木華扇も十分に並ならぬ実力者だ。上司、四季映姫からも注意が届いているはずだが……いつもの「お迎え」と思って通知を受け取らず姿を眩ませたのかもしれない。仙人などというのは概ね、そういう連中だ。
「妖怪の山でも『キツネ憑き』は発生していたからね。最近俗界を見廻ったとき、地獄谷の間欠泉の毒素が奇妙に変質していたことに気付いていたので、最初にその毒と『キツネ憑き』を結びつけて考えられたのが大きかった。……少し、地底の事情には明るいものでして」
「それだけで推測を立てちまうのは、流石に仙人といった風情だがね」
顔をしかめて舌を出し、小町は声を尖らせる。
この仙人の考察が鋭いことは認めるが、
「それならそれで、もっと早くあたいらか八坂の大将辺りに言ってくれりゃあ話は早く済んだんだ。事情が分かってたってんなら、なんだって今の今まで――」
「ねえ、毒おっぱい」
きつい口調で問い質そうとした途端、それまで黙っていたメディスンが突然、横から口を挟んでくる。
着物の裾を掴む彼女を渋面で見下ろし、小町はぴしりと指を立てて見せた。
「毒人形。いまちょいと大事な話をしているんだ、悪いが話は後で――」
「なんで桃色おっぱいは、全部終わったみたいな話し方をするの?」
「……え?」
きょとん、と。
眼を丸くしたのは、小町と華扇。
人形娘は二人を交互に見上げると、不思議そうに小首を傾げた。
「気付いていたー、とか。調査していたー、とか。気が早いおっぱい?」
「なにがなんでもおっぱいは訂正しないつもりですか」
半眼で長々溜め息をつき。
華扇は腰を折ってメディスンの髪に触れると、困った風に苦笑してみせる。
「変なことを訊きますね。――――――終わったみたい、じゃなくて『終わった』話じゃないですか」
「………………は?」
今度重なった声は、メディスンと小町。
ちろりと視線をそちらに向ければ、メディスンはしばし探るような目を辺りに配った後、向き直って頭を振ってきた。毒はまだ残っているということだろう。
自分の言葉を微塵も疑っていない様子の仙人に、小町はぽりぽりと頭を掻く。
「やい、勘違いおっぱい」
「そろそろ怒るわよ」
「もう怒ってたろう。そうじゃない、どうして終わった話だなんて心得違いをしているんだ?」
きゅっと眦を吊り上げる華扇に臆せず、小町は一歩そちらへ詰め寄った。
真剣なこちらの眼差しを値踏みするようにじっとりのぞき込み、仙人は頭を振った。胸を張り、逆に鼻っ面を付き合わせてくる。
「なにが心得違いか。憑依毒の推測を立てた後、私はもう一度地獄谷を訪れたのよ。そうしたら、もう間欠泉には憑依毒どころか、その他の毒素や毒ガスすらも綺麗さっぱり無くなっていた」
「無く――――っ?」
「確かに盲点となる抜け道だけれど、彼岸と旧地獄でそれぞれ管理を徹底すればこと足りる話。私が推測を立てている間に、優秀な彼岸の死神たちが事態を収束させたのでしょうと思っ、て…………あれ?」
「だから暢気に山に引きこもってたってわけか――」
「……違うの? あれ? 終わ、って……ないの?」
額を押さえ天を仰ぐ小町に、華扇は急速に自信ありげな態度を崩しておろおろし始める。
――この際、彼女が強力な仙人であったことも災いした。
タネは分からぬが、華扇は怨霊を握り潰すほどの力を持つ――『キツネ憑き』の方で彼女を避けていたのだろう。『キツネ憑き』の発生が止まっていないことに気付けば、あるいは間違いに気付けたかも知れないが。
狼狽える華扇へ、今度はメディスンが得意げな調子で鼻息を吹く。
「間違いないわ。この毒の大先生たるわたしが、じきじきに毒を追ってここまで来たんだから」
「そ、そんなぁ……ん? と言うことは、毒はこの辺りから流れてきていると?」
「うん、そこの川からじわじわと。川に毒を撒いてるわけじゃないみたいだけど」
「おかしくありませんか、それ?」
「おかしくないよ。ほんとだもの」
「ああ。確かにおかしい」
「毒おっぱいまで!」
顎に手をやり唸る小町に、憤慨して地団駄を踏む毒人形。法螺吹き呼ばわりされているとでも思ったのだろう。
指先からびろびろと得体の知れない毒霧を噴射する彼女を鎌の柄で遠くへ押しやりながら、独白じみて呟く。
「地獄の毒が染み出すのはあすこの間欠泉に限られていたはず。貴方の話が本当なら、こんなところへ出てくるはずがない」
「嘘じゃないよ! ほんとにこの川から変な毒が湧いてきているんだから!」
「この川の水源は、地底からの伏流です」
短い手脚を振り回して抗議するメディスンに応えず、華扇がぽつりと呟いた。川の上流へ視線を向け、微かに声を強ばらせる。
「一度…………地下へ、戻っている? 間欠泉へ沁み出した後、わざわざ地下水の流れに潜っていたとすれば、この川から毒が溢れてくる訳も分かるけれど――」
「なにそれ。めんどくさい」
「ああ。まともに考えりゃ、怨霊連中がそんな七面倒くさい手順を踏む理由はない」
馬鹿にするように鼻を鳴らすメディスンに合わせて頷き、小町は華扇を見た。しかしその目は、彼女の言葉を否定する様子ではない。
黙って言葉を待つ仙人にひとつ頷き、小町はひとつ、推測を口に乗せる。
「そもそも偶然で始まった異変なんだ。なにかの加減で、意図せず毒を地底へ引き込んじまった者がいるとすれば」
「怨霊そのものを溶かし出した狂毒よ。誰にでも操れるものではないわ」
「わたし出来るよ。見て見て、ほら」
「だが現実に、毒は地底から溢れてきている」
手の平に不気味な深緑色の物体を集め出したメディスンへ手振りで「ポイしなさい」と訴えながら、小町は頭を振った。液体ともガス状とも区別の付かないこの穢らわしい物体が、怨霊の変じた毒なのであろうか。
褒められなかったのが不服らしく、人形娘が口を尖らせてその毒を雲散霧消させるのを確認してから、一度息をつく。
「考え方を変えよう。理由は分からんが、ともあれ毒は地底に引き込まれた。そんな真似をするのはいったい誰だ?」
「例えば……土蜘蛛? いえ違う――」
「ああ。こいつは疫病の類じゃあない。実際に会ってきたけど、奴は正気だったしね」
「怨霊を運ぶ火車の妖怪は?」
「いい線をついてるが、ありゃ覚りの腹心だ。ともすれば主を危険に晒すような真似はびた一文しやしないさ」
仙人共々腕を組み、梢越しの空を睨む。
そもそも、腑に落ちない部分があった。
間欠泉は旧地獄とも繋がっている。
本来最も危険な地底に限って『キツネ憑き』が一切発生していないというのは合点の行かぬ話だ。
怨霊の毒以外の毒素もすべて間欠泉から消えているという華扇の言も気にかかる。つまり怨霊の毒が目的ではなく、毒という毒を手当たり次第に……いや、待て。
「……そうだよ、そうだ。『キツネ憑き』がどうして発生するのか、心得ている奴なんざまだほとんど居ないんじゃないか」
《毒》による異常だと判明したのはつい先日、守矢神社の大博打に依ってのことであり、その《毒》が地底の怨霊が姿を変えたものだと分かっているのは、恐らくこの場にいる自分たちだけだ。早期から間欠泉の異常に気付き、怨霊と毒の関係を心得ている仙人・茨木華扇でなければ思い至らなかったろう。
――考えろ。考えろ、小野塚小町。ひどく嫌な臭いがするぞ。
すり切れる位に頭をこね回しながら、華扇に視線をやる。
「間欠泉から毒が消えたのはいつのことだった?」
「……? そうね、あれは――」
記憶を手繰るのは仙人の十八番だ。生まれてより体験した全ての過去を思い返すことで寿命を延ばしてきた彼らは、決して記憶を違えない。
怪訝な顔をしながらも淀みなく華扇が告げた日にちは、『キツネ憑き』が確認されだして間もない頃だった。
そんな頃から毒を引き込んでいたのに、地底では『キツネ憑き』が確認されていない。
それはつまり……地底の住人を護るため、流れ込むはずだった毒を先回りして回収していた者がいるという事ではないのか?
恐らく事実全てを見透かしていた訳ではない。ただ間欠泉に湧いた何らかの毒が『キツネ憑き』を引き起こすと直感し、片端から毒素を回収したのだ。
馬鹿げた、無茶で、荒唐無稽な業だ。ひと言に言えば自殺行為だ。
日々地獄で煮出される欲望や穢れ、そこから生まれる砒素や水銀を始めとする猛毒は生半可な量ではない。数日も回収し続ければ千年級の大妖でも参ってしまう。
全身に嫌な汗が噴き出す。
メディスンはこの川から毒が発生していると言った。上手くを回収を逃れた怨霊がいたのか、保持しきれなかった毒が漏れ出したのか、ともあれ地底に引き込まれた毒が伏流に潜り、地上へ返ってきているのだとすれば――毒は未だ回収され続けていると言うことである。
うまくない。
そいつはべらぼうにうまくない。
大量の毒を回収し続けて今なお生きているということは、「何者か」は千年級どころの騒ぎでは済まない大妖だ。火車や土蜘蛛ではあり得ない。
更に悪いのはその大妖が、大量に怨霊の毒を回収していることだ。力の弱い怨霊毒でも量が蓄積し、かつ他の毒に蝕まれ身体の弱っている相手ならば…………
(大妖怪といえど、『キツネ憑き』に憑かれ得る)
肉を糸にして解かれるような、血の気の引く感触が顔を這い降りていく。
誰だ?
誰が、堕ちようとしている?
地獄鴉ではない。奴もまた強力な妖怪だが、火車と同じく覚り妖怪の腹心だ。怨霊を操るような器用な業も持っていまい。
だとすれば、何者だ。
地底の住人を護るために大量の猛毒を喰らい集め、なお耐えられる強者など……
「………………彼奴しか考えられないじゃあないか、バカ野郎!」
吐き捨てた罵声は、自分自身に向けた言葉だった。
突然に叫んだ小町を、華扇がぎょっとして見つめてくる。その視線には応えず、彼女は川にバッタを流して遊んでいたメディスンの首根っこを引っ掴んだ。
片手で持ち上げた大鎌に霊力を込めている合間に、目を白黒とさせて華扇が訊いてくる。
「どうしたの、突然。彼奴って? なにか分かったの?」
「すまんが話はまた今度だ! 三人も運ぶ余裕はない!」
虚仮の無い切羽詰まった叫び声に、仙人が続けようとした言葉を呑み込んだ。
いきなり鷲掴みにされ、手荷物の如くぶら下げられた人形娘がきぃきぃ喚く。
「ち、ちょっと!? なんなのよ毒おっぱい!」
「口を閉じてな毒人形、全力全開でぶっ跳ぶよ!」
答えた時には小町は既に霊力を込めた鎌を振り下ろし、開いた無間の狭間へ飛び込んでいた。
ただただ致命的な事態に間に合うよう祈りつつ、地底までの距離を縮める。
思い至るのが遅すぎた。
地獄の猛毒を根こそぎ萃めることの出来る強者など、他に居るはずもないというのに!
己の不明を胸中で罵倒しながら、ぶらさげたメディスンへ説明するつもりで絶叫する。
「火の手はとっくにケツを焼いてたんだ――――――――――伊吹の鬼が、堕ちるぞ!!」
それが半ば以上、悲鳴であることは自覚しながら。
■
「わたしのせいなのです」
空気の冷えた薄闇の中。
地底への縦坑を転げ落ちるように下りながら、ゴリアテに抱えられた古明地さとりが切れ切れに言葉を紡ぐ。
さとりが地上へ出てきたときに使った坑は、彼女が妖忌たちを見つけた場所からほど近い湿地に埋もれるように隠されていた。天井が低く、ゴリアテはほぼ中腰にならなくてはならなかったが、内部は坑と言うよりも斜面に近く、進むのに苦労は少ない。
行く手に浮かべた妖術の灯りを維持するのも大変だろうに、さとりは口を閉ざそうとしない。
「怨霊の処理にかかり切りで、しばらく旧都へ出ていなかったから……地底は平和だなんて決めつけて、見るべきものを見ていなかった! 伊吹萃香が独り、戦ってくれていたことに気付けなかった――――!」
「大江山の伊吹鬼か」
告解じみたさとりの慟哭に、妖忌はぽつりと呟いた。
伊吹萃香。
地底を訪れた際、ちらと姿を見かけた二本角の小鬼を思い返し、僅かに眉を寄せる。
「彼の鬼が、地底へ広がるはずだった『キツネ憑き』を一身に引き受けていたと?」
「地上とも交流があり『キツネ憑き』の異変にいち早く気付いた伊吹の鬼は、間欠泉の毒や呪詛・邪念……災いを招くと思しきものを自身に『萃』め、封じていたようです。自身が狂うことを恐れ、他の者に接触することもなく――――星熊勇儀が気付かなければ最悪の事態に陥っていた」
「では、まだ伊吹の鬼は『キツネ憑き』には――?」
「はい、完全に狂気に呑まれた訳ではない……ですが正気であるとも言えません。……その心の大半をおぞましい穢れに蝕まれ、たった一片、かろうじて伊吹萃香の心を残しているだけ」
「急がねばならんというわけだな」
「イソゲルー」
苦く呻き足を速める妖忌に合わせて、ゴリアテも中腰のまま器用についてきた。
そのエプロンドレスの胸に抱かれたさとりが、不意に小さく呟く。
「ごめんなさい」
「……?」
「助力を頼める義理など無いことは分かっているのに――――それでも、地上であなたたちの心の波動を見つけたとき……縋らずに、居られなかったのです」
無言で、妖忌は明かりに照らされる前だけを見つめていた。
深い悔恨を滲ませた、さとりの独白が暗闇を叩く。
「あなたしか知らないのです。わたしを…………覚りの妖怪を助けてくれるような存在を、他に知らないのです。サムライ、あなたの心につけ込みました。わたしは、サムライ――――あなたなら、情に訴えて動かすことが出来ると、打算していたのです」
「…………」
「ごめんなさい――ごめんなさい。他にやり方を知らないのです。わたしは弱みにつけ込むことでしか、心に触れられないのです。ごめんなさい。けれど、どうか……お願いです。助けてください、サムライ……わたしたちを、助けて――――」
「喋るな。傷に障る」
短く告げた言葉には、特に憤慨が含まれているわけでもない。
ちらりと、肩越しにさとりを見上げてから、彼は音にならない程度に鼻を鳴らした。
「そこまで傷つきながら貫く打算ならば、それは本心と変わるまい」
「――え?」
「心とは自分でこそ計り知れぬもの。……貴殿の言葉だ、古明地さとり」
息を呑む。
音が聞こえたわけではないが、そんなような間が空いた。
青白く照らされる行く手に向き直り、妖忌はどうということもなく告げる。
「剣は生き様、士はこころ様であるという。託された貴殿の心に、応えず剣士は名乗れんよ」
「コロコロサマー」
「誰だそれは」
何一つ分かっていない調子で頷くゴリアテをひと睨みしたとき。
彼女の腕の中で、さとりが僅かに身を捩った。
そしてか細い声でひと言、呟く。
「………………」
聞き取れなかった声は、しゃくり上げるように震えていた気がした。
しかし斜面を下る妖忌には彼女の顔が見えない。だから、彼女が泣いていたと決めつけることは出来ない。
ならばきっと思い違いだ。勘違いは、すべきじゃない。
斜面を下り始めて、どれほどの時間が経ったのか。
呼吸を調整しているとはいえ地肌が剥き出しの坑をそう長く走り続けていられるはずはないのだが、心地だけならば既に地獄の底を突き抜けていた。
途中、さとりが造り直した鬼火の明かりが再び消えかけた頃、ようやく行く手からぼんやり赤い光が差してくる――が、それを見留めた妖忌は厳しく顔を引き締めた。
それは紛れもなく、炎の赤であった。
「っ――!」
縦穴が途切れ、旧地獄の広大な空間が広がった瞬間、吹き付けてくる熱気に思わず足を止める。
旧都は炎に沈んでいた。
はるか昔の面影を残す家屋の多くが倒壊し、粉砕され、薙ぎ倒されている。廃墟と化した街並みのあちこちから火の手が上がり、火の粉と煤煙が降り注ぐ中を鬼を始めとする地底の妖怪たちが逃げ惑っていた。
活気に溢れながら、どこかに侘びしさを隠した旧地獄の景観は見る影もない。
むごい光景に奥歯を噛みしめた、その時。
「ジジー!」
「! あれは――」
鋭く叫ぶゴリアテの声に、弾かれるように顔を上げる。
街の一画に聳える一際大きな屋敷――地霊殿の方角で爆発が起きた。
炎も煙も伴わない、荒れ狂った衝撃だけが弾けたかと思うと、酒楼と思しき楼閣が沈み込むように倒壊し始める。同時、空中へ人影らしきものが高く放り出された。
舌打ちし、妖忌はゴリアテを促す。
「行くぞ。覚りの身に気をつけろ」
「ゴリアテー!」
威勢の良い了承の声を背中で聞き、妖忌は倒壊した建物を跳び渡ってゆく。
端から跳ぶつもりもないのだろうゴリアテは、瓦礫の山を蹴散らしながら後に続いてきた。巻き上がる火の粉や木片がかからぬよう、さとりはフリルの奥深くにしっかり抱え込んでいる。
更に数度の爆音が轟くのを聞いた頃、ようやく最初の爆発が見えた辺りへ辿り着いた。
うそ寒くなるほどに根こそぎ粉砕された楼閣の残骸を見回し――へし折れた立派な梁に、干された雑巾のように引っかかっている影を見つける。
見覚えのあるお下げ髪に、飛び出した三角形の耳。地霊殿で見た火車の娘だ。
「おい。しっかりしろ、おい」
その場で待っているようゴリアテに身振りで伝え、妖忌は瓦礫を跳び伝って火車を担ぎ降ろした。
麦袋のように軽い身体をなるたけ水平な場所へ寝かせ、二、三度頬を張ると、ぴくりと瞼が震える。
うっすらと開いた瞳に、覗き込む妖忌の姿が映り込み――次の瞬間。
「――ッ!?」
「っ、待て!!」
バネで弾かれたように跳び起きると同時、火車はひと息に貫き手を突き出してきた。
正確に眼球を狙う鋭い爪を、妖忌はとっさに腕を払って回避する――それでも、左眼の僅か下に鋭い痛みが走った。
払った腕を掴んで大人しくさせようとするが、その必要もなかった。吹き飛ばされた時に負傷していたのだろう、貫き手を繰り出したそのまま地面に膝をつく。
大きく息をつき、妖忌は娘へ手を差し伸べた。
「無茶をするな。大丈夫だ、私は敵ではない」
「っ地上の、サムライ……? どうして、あんたがここに――」
憎々しげに手を払いのけ、猫の瞳孔でこちらを睨み。
それから火車は、はっとした様子で妖忌の背後へ視線を向けた。そしてきょとんと立ち尽くしているゴリアテと、その腕に抱かれたさとりの姿を確認すると、それだけでこちらを絞め殺そうとでも言うような怒気を瞳に込める。
「あんた…………さとり様になにをした!!」
「助けを求められた」
牙を剥き、再び飛びかかってこようとする火車へ静かに告げ、妖忌は両手を肩の高さへ上げた。
「取り急ぎ捕まったのが私たちしかいなくてな。ちと手は足りぬが、許せ」
「ッこの、ふざけたことを…………!」
「――お燐」
フーッ、と火車が威嚇の息を溢した時。
背後からか細い声が聞こえてきて、妖忌はぎょっとして振り返った。
不安定な瓦礫の足場を、顔を真っ青にしたさとりがよろめきながら歩いてくる。
見るからに覚束ないその足取りに、妖忌が手を延べるより早く――彼を突き飛ばして駆け寄った火車が、その小さな身体を支えていた。
「さとり様! よくぞ、御無事で――――!」
「お燐も。……ひどい怪我をしているわね」
「あたいの怪我なんか舐めときゃ治ります。さとり様こそ…………ああ、ああ。こんなに傷だらけになってしまわれて!」
さとりの顔や腕についた無数の創傷をひとつひとつ確認し、火車はその度に悲鳴じみた声を上げる。最後にはとうとう膝をつき泣き崩れてしまった彼女を、さとりは苦笑を浮かべ抱きしめてやっていた。
落ち着かせるように火車の背中を撫でながら、さとりは不意に険しい声で囁きかける。
「他の皆は?」
「…………ひどいもんです。土蜘蛛と釣瓶落としがこっぴどくやられて、いま鬼の若衆が容態を見ています。おくうが動ければ少しは分があるのに――」
「煙の排出を止めたら遠からず皆窒息死よ。あの子の手だけは止めてはだめ」
断定するさとりの言葉に、妖忌はふと天井を見上げた。
旧都中から立ち上る黒煙は、成る程、天井付近へ集束した後すべて地霊殿の中へ吸い込まれてゆく。地獄の奥底にあるという炉心から煙を排出しているのだろう。
それは火車も承知しているらしい。頷きながら頬を拭い、涙と煤の跡をこすり落としている。
「おくうには油問屋の火事って伝えてます。……なにが起きてるか分かったら、それこそあの子、融合炉を放り出しかねない」
「それがいいわね。……では、いまは?」
「……はい。さっきまで橋姫も頑張ってくれてましたが――――もう動けるのは、鬼の頭領だけです」
沈痛な、火車の声が溢れたと同時。
耳をつんざく爆音が鳴り響き、通りを荒れ狂う衝撃が吹き抜けた。並びの長屋は草がそよぐように次々倒壊し、瓦礫が辺りに吹き荒れる。
「伏せろ!」
「フセレー!」
妖忌が火車とさとりを引き倒すと同時、疾風のように駆けたゴリアテが三人の前に立ちはだかった。音もなく抜いていた剣を盾のようにかざし、梁や柱といった巨大な瓦礫を防ぐゴリアテの陰で息を詰めること数秒余り。
ようやくにして衝撃が収まり、顔を上げれば――そこに見える光景は一変していた。
爆発は地霊殿の門前で起きたらしい。
門から妖忌たちのいる場所まで、いやさそこを通り過ぎ遥か彼方まで、通りの並びは跡形もなく薙ぎ倒されていた。衝撃波は石畳まで引き剥がしており、削れた地肌が剥き出しになっている。
そして、爆発の中心。
すり鉢状に抉れた路上に睨み合う二つの影があった。
「――ぐ、…………ッの野郎ォ――」
突き出した拳を震わせ、大きく肩で息をしているのは、額に一本角の大鬼――星熊勇儀。
こびりついた血と火傷で全身を凄惨に彩り、鬼の頭領は今にもくずおれそうな脚を強く踏みしめ、ベッ、と地面に血反吐を吐き捨てた。
枷を締めた腕を強く振り、遠く離れた妖忌の耳をも奮わせるほどの大声を張り上げる。
「いい加減目を覚ませ、この大馬鹿! 冗談ごとじゃあ済まないんだぞ!? クソッ、分かってんのか――――――萃香ァ!!」
――応えたのは、鎖が鳴る音。
巻き上がる火の粉と土煙の狭間から姿を現したのは二本角の小鬼だった。錘のついた鎖を三本も引き摺るその矮躯は、勇儀と向き合えば大人と子供である。
伊吹萃香。
妖忌は一度、ごく僅かに姿を見かけたきりだが――
「……ゴリアテー」
ごくりと息を呑む妖忌の耳に、呟くゴリアテの声もどこか遠い。
伊吹萃香は、見るに耐えない有り様だった。
『キツネ憑き』に正気を狂わされた結果だろう。握り締めた拳のみならずその腕、肩、脚に至るまで無数の裂傷が走っている――鬼の怪力を活かしきれず、行き場を無くした力が反動となって萃香自身を傷付けているのだ。
大量に萃めた毒や呪詛で臓腑が腐りかけているのか、獣のように呼吸する口から溢れる血はひどくどす黒い。平衡も確かでないらしく、向かい合う勇儀から微妙にずれた角度に首を向けていた。
だのに目だけが爛々と輝いている。
生ある者全てを呪うような沸騰する血液で満たされたその眼球には、心覚えがあった。
――『キツネ憑き』――
冷たい唾を飲み込む妖忌の傍で、震える火車の声がする。
「さとり様…………さとり様。伊吹の鬼は、もう――――?」
答えは返らない。
気を宥めてやるように、さとりは無言で火車の髪を撫でていた。
陶器のようにひび割れた腕をゆらめかせ、萃香が鎖を鳴らす。凶悪なまでの殺気は、直に相対せずとも気力を削ぎ落とされそうな程だ。
その殺気に真っ向から向き合い、一歩も臆せず。
星熊勇儀が声低く唸った。
「『キツネ憑き』だか知らないが、独りで勝手に抱え込みやがって……その挙げ句が、このザマか!」
「ユ…………ギ、――ゥ、ギ…………ィっ!」
「なぜなにも言わなかったんだい! お前はいつだってそうじゃないか、ええ!? いつだってひとッ言もなく、手前ェで勝手に決めちまうんだ! お前に巻き込まれることを…………あたしが恐れるとでも思ったのか!?」
びりびりと、空気が啼く。
一言ごとに口に溜まった血の飛沫を飛ばし、勇儀は『キツネ憑き』の殺気も呑み込む程の怒気を膨れ上がらせる。
軋む音すら聞こえてきそうなほどぎこちなく、それでも力強く握りしめた拳を突き出し、鬼の頭領はひときわ鋭く、重い声を轟かせた。
「そいつが断然、気に喰わん! 我が同胞にして旧き朋友――――伊吹萃香が『キツネ憑き』なぞにびびりくさっていることが、あたしは堪らなく許せんのだ!!」
「……ュ、ユ…………ゥ、ウ……! ユゥ………………ィ!」
「どうした! けちな狂気のひとつやふたつ、さっさと撥ね付けて見せないか! 出来ないお前じゃないだろうがッ!」
「っ、ウギ、ぃ……ユウ、ギ、イ、イィイイィイ!」
「ッ萃香あぁぁああぁあぁぁああぁあぁぁあああ!!」
壊滅的な咆吼は、既に砲弾と変わりなく。
大声が空気が爆裂させるのと、二人の鬼が動いたのは同時だった。固く握りしめた拳に、荒ぶる霊力が渦を巻く。
一歩。
踏み出す脚に、地殻が吼える。
二歩。
蹴り出す脚に、マグマが叫ぶ。
三歩。
吐き出す息もかち合う距離で――――――必殺の拳と、壊廃の拳が激突する。
それまでとは比較にならない、地底の空間そのものを崩壊させるような衝撃波が吹き荒れた。
地面が裂け、地霊殿の堅固な門扉に次々と亀裂が入る。周囲の瓦礫が衝撃と振動に磨り潰されて、砂のように分解されていた。
正面からぶつかり合い強烈に弾けて蒸散する霊気の奔流が通りを駆け抜け、ゴリアテの巨体を転倒させるのを横目に窺い、妖忌は瓦礫へしがみつく手に力を込める。
(これほどか――――鬼の力とは!)
敵う敵わないなどという段ではない。これは最早種族の壁だ。
二人の拳は拮抗していた。
萃香が『キツネ憑き』に狂わされ最大の力を発揮できない一方、彼女を抑え続けてきたであろう勇儀もまた傷つき疲弊している。
「ィィイィィイイィイ…………!」
「ああぁああぁぁあぁ…………!!」
拳と鼻面を突き合わせ、鬼は双方、一歩も退かぬ。
腕となく顔となく、間断なしに弾けては血が飛び散り、充満する二人の霊力に圧し潰され蒸発していた。
互いの血と肉を灼き尽くすまで続くかと思われた壮絶な対峙は、しかし、ささやかな変化によって崩壊する。
「…………、っ!?」
突如、弾かれたように勇儀が身を仰け反らせる。
鼻先で小さな火球が炸裂したのだ。鬼にしてみれば目の前で燐寸を擦られた程度の火だろうが……薄紙一枚の差を競い合う拮抗状態には致命的な隙を生む。
禍々しい笑みに口を歪め――――萃香の拳が、勇儀の腹へ吸い込まれていった。
よもや、あばらを砕く音が聞こえるはずもないが。
それが聞こえたと錯覚せずにはいられない角度で、勇儀の身体が折れ曲がる。両脚が地面を離れ、完全に宙に浮いた彼女に向かい萃香は左拳を引き絞る。空気が螺旋を描いて拳先に集束し、やがて太陽の如き業火へ変じた。
疎密を解し、空を萃めて練り上げれば、即ち大地も融かす焦熱となる――――伊吹萃香を象徴する、古く偉大な鬼の業であった。
そこに纏う焦熱ごと、萃香は勇儀へ拳を叩きつける。鉤を引っ掛けるような横殴りの拳が鬼の頭領を捉えた瞬間、今度は紛れもない大爆発が生じた。
一点に圧縮されていた熱が解放され、弾けた熱風が萃香もろとも周囲を焼き払い、焼け焦げた星熊勇儀を紙くずのように吹き飛ばす。
「く――っ!」
炎の狭間にそれを見た妖忌は、咄嗟に通りへ飛び出していた。
体格の良い鬼の身体を横っ飛びにかっ攫い、熱風の奔流から引きずり出す。殺しきれなかった慣性に引き摺られ瓦礫の山へ突っ込み、したたか背中を打った。
悲鳴を噛み殺して身体を起こしていると、火車に支えられたさとりがこちらへ駆けてくる。ゴリアテが上手く熱風をやり過ごしてくれたのだろう。剣と瓦礫を盾にしたらしい彼女たちに怪我はない様子だった。
「勇儀、星熊勇儀! 聞こえていますか!?」
「っグ、く……そ、ッたれ…………!」
切迫した声でさとりが呼びかけると、勇儀は存外に素早く身を起こした。
焼け焦げて使い物にならなくなったかすりを毟るように脱ぎ捨てると、さとりや妖忌の方は一顧だにせず瓦礫に縋って立ち上がる。
熱風に焼き払われた通りの彼方、自ら生み出した炎で灼かれた萃香も無事ではない。肌や服に燃え移った炎をさも煩げに払っているが、その左腕は奇妙な方向へねじ曲がっていた。
舌打ちして立ち上がり、妖忌はさとりへ視線を向ける。
「あのままでは長く保たん。古明地殿、伊吹の鬼の心は読めるか?」
「…………、いいえ。微かに残っていた自我の欠片も、いまは感じられません」
勇儀に遠慮したのだろう。さとりは僅かに躊躇ったが、それでも明確に断言した。
無言で拳を震わせる勇儀を横目に見てから、妖忌は深く頷き返す。
「一度『憑かれた』魂は、二度と元には戻らぬ。早く…………楽にしてやることが、唯一の救いであるそうだ」
「しかし、可能ですか? いまの彼女を――――、相手にすることが」
言葉を選んで、さとりが呟く。肩越しに萃香の様子を窺いながら妖忌は渋面で呟いた。
「分の悪い勝負ではある。……身を隠し、自身の力と吸い込んだ毒で自滅するのを待つが最も確かな手だが」
「駄目だ。下の炉におくうがいる」
即座に断じたのは火車妖怪。
萃香の背後、地霊殿を睨む彼女の肩に触れ、さとりも小さく首肯する。
「あの子はいま動けない。あの子が襲われ、地獄釜の制御が失われれば――」
「ロクなことにはならない、か」
「は――――なにを、ぐちゃぐちゃ言ってるんだ」
沈んだ顔を見合わせる面々に、それまで黙っていた勇儀が吐き捨てた。
思わず振り向くが、彼女はこちらを見ていない。焦点も合っていない両の目は、彼方で立ち尽くす伊吹萃香のみを見据えている。
立っていること自体が奇跡のような震えて覚束ない足取りで、それでも一歩、彼女は脚を踏み出した。
「ワケはない……一発。あと一発も、ぶん殴ってやれば……あいつは、目を覚ます――」
「待ちなよ、頭領! その身体じゃ――」
「屁でも、ないね……もう百遍灼かれても、くたばるもんか……!」
慌てて叫ぶ火車の言葉を鼻で笑い飛ばし、更に一歩、前へ踏み出す。
砕けるほどに強く膝を掴んで、不規則な呼吸の合間へねじ込むように、彼女は朦朧とした様子で言葉を重ねた。
「心配ないよ。あいつは、誰より強い鬼だ……『キツネ憑き』なんぞ、もうすぐにねじ伏せる。当たり前さ――――ああ。ワケはないんだ」
「……気持ちは、察する。だが、」
「言うな!」
鋭い喝声に、妖忌は踏み出しかけた脚を止める。
大きな背中を丸め、勇儀は俯いていた。
萃香の相手どころか子供に突かれただけで崩れ落ちそうなその背中に、しかし誰も、何も言うことが出来ない。
「――バカを言うな。あいつは、山の四天王……泣く子も黙る伊吹鬼だ。元に、戻らない……? 侍……鬼に、嘘をつくもんじゃない」
「…………」
「あたしは嘘が大嫌いだ…………だから、言うなよ。あいつが……萃香が、もう元に戻らんなどと――――――くだらん嘘は二度と言うな!!」
ばきり
縋っていた瓦礫を握り潰し、鬼の頭領が絶叫する。
自ら吐いた血を踏みしめ、ろくに持ち上がらない腕は構えらしき体勢を取る――火傷と煤にまみれた頬に流れる涙は拭いもせず。
「そんなバカな話があるものか! そんな話は嘘っぱちだ! 萃香は元に戻る、『キツネ憑き』なんぞに屈するものかよ! 決まっているだろう!? あいつは、あいつ、がッ……………………そんなの、ないだろッ……萃香ぁ…………!」
「頭領――頭領、だめだよ! あんたまで、死んじまうよォ!」
「黙れッ!」
鼻声になって頭を振る火車に、勇儀は即座に怒鳴り返す。
涙に濡れ、傷と血でぼろぼろの凄絶な形相で、彼女は砕けそうに食い縛った歯の間から荒い呼吸を溢した。
「時間がないんだ……あいつは毒でまいってる……! 助けてやらなくちゃいけないんだよ!」
「…………星熊」
「うるさい! あいつは助かるんだ、助かるに決まってるんだ! あいつを殺そうなどと考えてみろ! あたしがそいつをくびり殺して――――、?」
その時だった。
とん、と静かに――――白く細い指が、慟哭する鬼の眉間に触れたのは。
妖忌と勇儀は、同時にその指を辿って振り向いた。
見返すのは、古明地さとりの深い瞳。
第三の目。
「ごめんなさい」
「……っ!?」
瞬間。
雷に打たれたように仰け反り、勇儀が転倒する。
白目を剥き、完全に意識を失った鬼を慌てて支えながら、妖忌はまじまじとさとりを見た。
「なにをした?」
「恐怖催眠――――気絶して貰いました」
大きく息をつき、そのまま糸を引くように倒れる覚りの身体を、素早く駆け寄った火車が抱き止める。
青ざめた顔で吐息を震わせているのは、力を使いすぎたせいだけではあるまい。
瓦礫の陰に横たえられた勇儀を見つめるさとりの言葉は、半ば独り言のようだった。
「目が覚めたときは……どうぞ、わたしをくびり殺してください」
「どうするつもりだ」
「伊吹萃香を殺します」
きっぱりと宣言するさとりの目を、妖忌は動ぜず見つめ返す。
覚り妖怪にはそれだけで全て伝わったろう。
頭を振り、彼女は弱々しい笑みを浮かべた。
「その通り。わたしや、怪我をしたお燐では、彼女の相手にはならない。だから」
「…………」
「汚れてくれますか、サムライ。この浅ましい覚り妖怪の刺客となって…………彼女の命を、奪ってくれますか」
じっと見つめるさとりの口元には、卑屈な笑みが浮かぶ。
さも命冥加で、保身に長けた、相手の心を見透かして弱みにつけ込む覚り妖怪――――そう見えるよう、装った笑み。
(この娘は)
全てを自分の所為にしようとしているのだ。
勇儀を黙らせ、妖忌を焚きつけ、自分の命惜しさに萃香を殺させた悪党になることで……悪意を自身に集束させるために。
どう転んでも哀しみしか残らぬ結末が見えた今、せめて、誰もが恨むことの出来る相手を造るため。
第三の目など無くともその心算は容易に知れた。
だから、
「断る」
「っ……?」
「こちらも商売が忙しくてな」
草鞋が土を噛んだ。
首を廻らせ、瓦礫の中に壊れた竃を見つける。近寄って灰を探ると使い込まれた長火箸が転がり出てきた。
尻を繋ぐ環を捻るようにして壊し、二本を両手に携えて、妖忌は覚り妖怪に向かって口を歪めて見せる。それが根性の悪い笑みに見えていることを祈りながら、
「私は『キツネ憑き』を斬り、けちな手間を稼がねばならんのだ。貴様の声など耳にも入らぬ」
「…………」
「主人と鬼を連れて下がっていろ。この辺りまで巻き込まれぬ保証はない」
「え――ぁ? あ、ああ。わかってる」
不意に話を振られた火車は狼狽えながらも、すぐに横たわる勇儀に駆け寄った。
存外と危なげなく鬼を担ぎ上げる火車を見ている妖忌に、さとりがふっと吐息を溢す。
苦笑したのだろうな、と思ったのは、その表情が泣き顔かどうか判別がつかなかったからだが。
「あなた、演技には向いていませんね」
「言えた義理か」
「やはり、あのとき手元に捕らえておくべきでした……わたし、可愛いものには目がないのです」
「さとり様、さあ――」
肩に鬼を担いだ火車が差し伸べる手に捕まり、彼女はゆっくり歩き出す。
瓦礫の上を慎重に渡ってゆく三人の影を見送っていると、不意に、さとりが声を投げてきた。
「サムライ」
「…………」
「あなたに背負わせはしませんよ。炎も悪意も、血も責任も…………地底のものはすべて、古明地さとりが『目』の内にある」
振り返らずに告げられた言葉に、妖忌も答えは返さない――黙って、その背に一礼する。
それから大きく息をつき、おもむろに顔を上げた。
「物体」
「ゴリアテー?」
呼びかけると、通りの向こうでゴリアテ人形がぱっと顔を上げる。図体を隠そうとは思っていたらしく、比較的大きな瓦礫の陰にしゃがみ込み頭を抱えていたのだが、そもそも目立つ金髪と服装、どうにも隠れきれていない。
とりあえず指摘は後にして、火箸で肩を叩きながら訊ねる。
「話は聞いていたな」
「ゴリアテー!」
「よし。…………では、お前も早く行け」
威勢良く剣を振りかざすゴリアテに頷き返し、二人を支えて歩いて行く火車の背を示す。
驚いたように眼を丸くする人形から目を外して、妖忌は地霊殿の方へ顔を向けた。
萃香は未だその場に留まっていた。
さしもの伊吹鬼も、星熊勇儀と打ち合っては消耗が大きかったのかも知れない。無差別な殺気を撒き散らしながら、ぎらついた眼を四方へゆっくりと廻らせている。
「以前の木っ端妖怪どもとは訳が違う――伊吹の鬼が『キツネ憑き』だ。膂力も霊力も技倆も、すべてお前には危険すぎる」
「ゴリアテー?」
「お前は覚りたちについていろ。火車も鬼もあのざまでは満足に身動き取れまい」
「……ジジー?」
訝しげに声を低めるゴリアテに、妖忌は気付かぬ振りで話を続ける。
「小野塚の手間ではちと割りに合わぬが、なに。伊吹の鬼も弱っている。星熊には悪いがせいぜい時間を稼がせて貰おう」
「……ゴリアテー」
「信じぬか、莫迦者」
顔を曇らせる人形に呆れて嘆息し、さっさと歩き出す。
数歩を行ったとき――背後から躊躇いがちについてこようとする気配を察し、妖忌は静かに言い置いた。
「頼んだぞ」
「ッ!?」
「お前を信用して任せるのだ、物体」
「――――ズルッコー」
ぷくりと頬を膨らませ背中を睨む姿が、振り返らずとも見えていた。苦笑を溢したこちらの顔も、振り返らずとも知れていただろう。
だから肩越しに手を掲げるだけで応え。
妖忌は焦土と化した街並みに佇む鬼に向かい、ゆっくりと歩を進めていく。
「…………ッ、……?」
萃香がこちらに気付いたのは、もう十間ほどにまで近付いた頃。
ちりちりと肌を焦がす殺気の結界に踏み込んだ事を実感して、妖忌はその場に脚を止めた。
萃香の身体は勇儀のそれと同等――否、それ以上に酷い有り様だった。
勇儀に焦拳を打ち込んだ時には既に折れていたのだろう、左腕が不自然な方向へ曲がり炭化している。だらりと垂らした腕を地面に擦るように背中を丸めており、小さな身体がことのほか小さく見えた。
その小さな姿を前に脚を止めたのは、間合いを取る意味以上に本能が命じていたからであった。
(止まれ)
これ以上進むなと。
あと一歩近付けば影も残らず砕き散らされると、頭ではなく身体が理解する。
その光景さえ幻視してしまいうんざりとしながら、妖忌は両手の重みを意識する。
一尺五寸、くろがね造りの長火箸一対。
竃の大きさに合わせたのだろうが、振り回して使うならせいぜい脇差程度の長さしかない。鍔も握りもない分それにも劣ると言える。
対峙する巨大な殺気に立ち向かうには、あまりと言えばあまりな得物であったが、
「是非もない」
声に出して呟くと、草鞋を擦って腰を落とす。
半身に身構えたこちらを見ても萃香は動かなかった。
ただ周囲へ無差別に発散していた殺気が、こちらに集中する――それだけで、ぶん殴られたと錯覚するほどの衝撃が身体を突き抜けていった。
思わず後退しかけた脚をすんでの所で踏みとどまり、妖忌は静かに呼吸を絞る。
沸騰する萃香の目を真っ直ぐ見返し、告げた言葉は自分でも意外なほど平静なものだった。
「これも仕事でな。……毒の廻りきるまで、手合わせ願おう。大江山の伊吹鬼」
「ィ、ギ、ィ……い――――――――!」
血泡を飛ばして咆吼し、萃香が地面を蹴る。
低く、低く前傾し、鉤爪の形にした手で地面を切り裂きながら、鬼は瞬く間に十間の距離を踏破した。
身体ごと捻るように振り上げた腕を上体を捌くだけで避けると、妖忌は彼女の背後へ跳ぶ。音もなく呼気を爆発させ、無防備な背中へ火箸を振り下ろす――が、返ってきたのは肉を打つ手応えではない。腕と同時に振り上げた萃香の靴底が、その一撃を受け止めていたのだ。
読まれていた。
いや、
(誘われた!)
戦慄する暇もなく、後ろへ飛び退く。
同時に、視界の下から伸び上がってきた何かが鼻先を灼いた。
宙返りする格好で身体を丸めた萃香が鎖を投げたのだと気付いたのは、そのまま二歩三歩と距離を開けてからのことだ。身体を引くのが瞬き一つでも遅れていれば首を絡め取られていただろう。
四つん這いの格好で着地した萃香は引き戻した鎖をぐるりと腕に巻き付け、そのまま四肢を使って地面を突き放す。獣じみたその跳躍は妖忌が遠ざかる速度より数段速い。
既に四歩目を下がりかけていた脚を、妖忌は咄嗟の判断で真横へ捻った。錐揉みに回転した彼の背を、爪か、角か、それとも牙か、鋭い衝撃が掠めていく。
魔物の咆吼じみた風切り音を追ってそのまま回転し、妖忌は最初に目についたものへ火箸の先端を突き出した。
硬い手応えと共に、火花が咲く――既に体勢を立て直した萃香が、腕に巻いた鎖で火箸を受け流している。
鮮やかな火花が消えた時には、もう二人はそれぞれ腕を引き背後へ跳んでいた。
再び開いた距離を吟味しながら、ゆっくりと火箸を構え直す。
――流石は鬼、毒も消耗も関係ないか。
打ち合った手に痺れが残っている。萃香が打点をずらし、箸の根元近くを受けたせいだ。
力任せで強引であった以前の『キツネ憑き』とは比べるも愚かしい。凶暴な殺意と共に、永き時を戦い抜いてきた鬼の業が生きていた。
(距離を詰めるのは危険だな)
鎖の絡め取りを警戒しつつ、拳の届かぬ間合いを維持する――
刃すらついていない火箸では余程深くから打ち込まねば鬼に傷を与えることもできないだろう。そもそも短いこの得物は攻めるに向かぬ。
そう判断しながらも――――彼の脚は、自然と萃香へ向かっていた。
半ば無意識の行動に、しかし自身を訝る暇は無い。
こちらの動きを見留めた彼女は折れた左腕を振り上げて、もう一本の鎖をこちらへ投げつけてくる。
蛇のようにうねり地面を叩く鎖を、跳び越えるようにやり過ごす。正面へ一足に踏み込む妖忌に向かい、萃香は咆吼と共に右腕を振り下ろした。
身の毛もよだつ音を立て襲いかかる鋼鉄の拳を、彼は角度を合わせた火箸に滑らせるように受け流す。くろがねをこそぎ落とす重拳が、轟音を立てて地面に突き刺さった瞬間――妖忌は、殆ど寝ころぶように身体を地面に投げ出した。
「っ!」
直後、頭の上を鋭い何かが通り過ぎていく。
萃香が振り戻した鎖が弧を描いて戻ってきたのだ。遠心力をつけた鋼の鎖は、通りの瓦礫の一つを打ち砕いて絡みつき、動きを止める。
それが、伊吹萃香が初めて見せた明確な隙であった。
「ちぃ――――ッ!」
気合い鋭く、超低空から火箸を突き上げる。
無骨なくろがねの棒はその先端を以て――――萃香の右肩を、浅く突き穿っていた。どす黒い血と篭もった怒号が飛び散る。
心臓でも狙えた絶好の機に、情けをかけた訳ではない。
折れた肘を更にねじ切るように、萃香が振り上げた左腕が火箸を弾いていたのだ。
無理な体勢で打ち込んだ妖忌が、逆に致命の隙を晒す格好になる。
「ぃ……ぎぃ、ぁ…………あ、あぁ……あぁああぁ――――――ッ!!」
金切り声と呼んで差し支えない絶叫と共に、地を這う妖忌を掬い上げるような後ろ蹴りが放たれた。
あばらへ突き刺さる踵の前に火箸を一本、挟み込むことが出来たのは偶然に過ぎない。先の一撃を弾かれ体勢を崩した時たまたま腕を引いていただけの事だ。
鉄火箸越しにも鋭く突き刺さる衝撃と共に、妖忌の身体は高々と宙へ打ち上げられる。
「――――っ、?」
気付けば彼は、建物の屋根よりも高く飛んでいた。
白へ黒へ明滅する視界の端、遥か眼下で脚を高く突き上げている伊吹萃香の姿を見留めようやく記憶が時間に追いつく。
空中高く、蹴り上げられたのだ!
「くぁ…………!」
溢れた呻き声は半ば悲鳴だった。
地上の萃香はこちらを見上げ、右腕を振りかぶっている。石や鎖を握っているようには見えなかったが、彼女が何をするつもりか妖忌には漠然と想像がついていた。
その予想に違わず――――空気を萃め造りだした幾つもの火球が、妖忌めがけて投擲される。下から降る流星のようなその光景はいっそ幻想的ではあった。
(南無三――!)
届け。間に合え。へし折れるな。
刹那の間で様々に懇願し、両手の火箸を旋回させる――
まず、右手の箸が一番先に届いた小さな火球を打ち砕いた。同時に左腕の回転で慣性を歪め、僅かに遅れた二発目にこめかみを掠らせる。
三発目、ひときわ巨大な火球は火箸を交差させて迎え打ち、軌道を反らしてはね除けた。この時点で、火箸は持ち手の革巻きも焦がすほど熱を持ち始めている。掌を灼かれる痛みに気が遠くなった。三発目を弾いた衝撃で僅かに身体が泳ぎ、左右へ撃ち分けられた四発目と五発目の間を辛うじてやり過ごす。
そこから先は頭で考えている余裕は無かった。
がむしゃらに腕を振り、身体を縮め、掠る焦熱に肌を灼かれながら、ほぼ反射神経のみで火球の間をすり抜けてゆく。
――弾幕勝負とは、このような感覚なのやもしれぬ。
思考停止した頭に、ふとそんな考えすら浮かんでくる。
だとすれば一度孫の胆力を褒めてやらねばなるまい。これほど神経を磨り減らす戯れなど、少なくとも自分は願い下げだ。
何発、何十発の火球を避け、弾き、打ち砕いたろう。気付けば妖忌は、背の高い長屋の屋根に降り立っていた。
辺りを見回し、先程まで傍にあった地霊殿が一町近くも離れている事に気付く。火球に弾かれる内に遠くまで追いやられてしまったらしい。
萃香は、屋根に立つ妖忌が更に見上げる上空に跳び上がり――否。飛び上がり、こちらへぎらついた眼差しを向けていた。
「飛行術は得手ではないのだがな」
呟き、両手の感覚を確かめる。熱に灼かれた手の皮は既に火箸に融着していた。あとで剥がす時に地獄を見るだろう。
苦い笑いが込み上げてくるのを感じ、妖忌はそれを嘆息に変えて押し出した。
濁った声で哭き、稲妻の速度でこちらへ飛翔する萃香を睨むと、妖忌は強く屋根を蹴る。
ふわりと身体が浮かぶ感覚があった。
飛行術は霊力を纏い空を駆けるだけの単純な術だが、自在に使いこなすには技術以上にセンスが要求される。
生憎と妖忌は、その才に恵まれなかった。速度も出なければ方向を制御する事も出来ない。
いま使った術もほんの一瞬体重を打ち消した程度のものであり、実際に行ったのは大きな跳躍だ。
通り向こうの長屋へ飛び移り、彼はその屋根の上を走り始める。萃香から見れば直角に横へ折れた格好だが、彼女は躊躇無く同じ棟へ降り立ち、屋根板を踏み砕きながら追走してきた。
瞬く間に追いつくと、萃香は鎖を巻いた腕を何度も投げつけてくる。腰の入らない手打ちの拳だが、その一つ一つに岩盤でもぶち抜きそうな力が込められていた。
「ち――――!」
その拳を一つずつ弾き、捌いて、受け流しながら、しかし互いに脚は止めない。
連撃の合間の隙を縫って妖忌が火箸を突き出すが、悉く鎖に受けられ、拳で打ち落とされて鬼へは届かぬ。
何度目かの撃剣が弾かれると同時、妖忌はその勢いをかって別の棟へ跳び渡った。
萃香はそれを追わず、宙に何発もの火球を浮かべると、砂利でも放るような仕草でそれを投げつけてくる。
霰の如く火球が降り注ぎ爆発を巻き起こす中――妖忌は、敢えてそれを避けなかった。
飛び散る炎に肌を灼きながら、爆発で砕けた屋根板を踏み砕き長屋の中へ落下する。住人は慌てて避難したらしく、茶器やタバコ道具がひっくり返った部屋に着地すると、寸分と間を置かず戸板を蹴破り表へ飛び出した。
再度慣れない飛行術を併用して、頭上の爆発が収まる前に、向かいの棟の屋根までひと息で跳び上がる。
「……ッ!?」
奇策は、果たして鬼の虚を突いた。
足の下から猛然と打ちかけた火箸の一撃は萃香の膝頭を痛烈に殴りつける。確かな手応えの通り、鬼の身体がぐらりと傾いだ。
屋根に降り立ちざま、妖忌は独楽のように身体を廻し更に二度、三度と打ちかける。横薙ぎの双閃はそれぞれ鬼の肩と脇腹に埋め込まれた。上がったのは悲鳴ではなく怒号だったが、その口からどす黒い血が飛び散る。
軽い身体が吹き飛ばされ長屋の上を転がって行く様を見て、妖忌は折れそうになる膝を必死に支えていた。
鬼の身体能力に無理やり合わせた機動を続けてきたため、呼吸が乱れきっている。
『体力の前借り』――
永遠亭で処方された霊薬について、幽々子が述べた言葉が痛烈に思い返される。
乱れた呼吸がいつまでも戻らない。最初に蹴飛ばされた腹の痛みもまるで引かなかった。
「っク…………!」
休息を求め軋む身体を叱咤して、強引に屋根板を蹴る。
萃香は数間離れた所で、ようやく身体を起こそうとしている所だった。
その姿勢からどう動こうとも、彼が飛び込んで頸に火箸を突き立てる方が早い。それで鬼の息の根を止めることが出来るかどうかは定かではないが、間合いの結界は既に、妖忌が支配していた。
貰った。
頭のどこかで確信する。
それがいけなかったのだろうか。
鬼を侮った不遜の報いは、眼前に迫る鉄拳の形を以て突きつけられる。
拳は愚か、その鎖鞭でも届かないはずの間合いを開けていたはずだというのに。
「――――――、っ!?」
有り得ぬ光景に思考も身体も硬直する。
視界を埋め尽くした鬼の拳に、どこをどう打ちのめされたかすら定かではない――その瞬間、彼は間違いなく気を失っていた。
火砲で撃ち出された砲弾のように、妖忌の身体は屋根を突き破り、壁を打ち砕いて、それでも止まらず二軒、三軒と長屋を粉砕し……瓦礫に引っかかり表の通りへ弾き出されたところでようやく停止する。
身体が動かせず、というより呼吸もままならずに、妖忌は通りに寝転がったまま愕然と「それ」を見上げていた。
初めは、長屋の崩壊で巻き上がった土煙と思っていた。
だが煙が晴れ、朦朧とした意識が徐々にハッキリしてくると、それが人の形をしていることに気付く。
彼方に見える地霊殿より大きな影。
頭に二本の角を備え長屋を踏み砕くそれは、入道の如くに巨大化した伊吹萃香であった。
「――ク、は…………!」
思わず溢した息は、笑声のようにも聞こえる。
実際、そんな余力があれば笑い転げていた。家屋敷でも叩き潰せそうなあの拳にぶん殴られて、まだ生きている事だけでも奇跡に等しい。
失われた鬼の力、萃める力。
その不羈奔放の業の前に、矮小な己を思い知らずには居られない。奇策、不意打ちなどの小手先は寄せ付けもしないだろう。ましてこの手にあるのは火箸が一対。あの巨体に打ち込んだところで蟻の顎ほどのものでもあるまい。
(さて、困った)
身の程をわきまえるべきであるぞ、魂魄妖忌。
そも、最初から錆びくれかけの老骨が鬼などに挑むこと自体が間違っている。
あたら命を投げ出して届かぬ相手を討とうなどと、常なる自分にあるまじき無思慮であった。
無謀の刃を抜くは即ち、剣士の恥。
それは。
届かぬ月を斬ろうとするような暗愚に他ならぬ。
(困ったな)
それを心得て、尚。
身体は既に限界を振り切り。
霊薬で塞がれた傷が片端から開き全身を血に染めて。
指は既に得物を握る感覚すらなくしているというのに、尚。
妖忌は、昂揚している自分に気付いていた。
(まったく、困った)
草鞋で地を擦り、立ち上がる。
それだけで全身に激痛が走った。どこかで骨が砕けているのだろうが、痛みが疲弊しきった身体に反響して何処が痛いのか分からない。
口の中を切ったらしく溜まった血反吐を無造作に吐き捨てて――――ゆっくり火箸を構えると、妖忌は彼方の巨大な鬼を睨みつけた。
「ここまで己が愚かとは、思いもよらなかったぞ」
圧倒的な旧き力を前にして、自分が考えている事はただただシンプルで純粋なことだった。
――さて、如何に斬る。
それは、かつて迷いの内に自分へ囁いていた血脂の臭う妄執ではなかった。
強大で圧倒的な力の発露を前にして、自分がいかにそれを超えるか。超えて征けるのか。己と、己を映す剣へ問いかけているのだ。
感情は既に思案の外。
理念も奥義も乖離して、ただ剣だけがそこに残る。
命も心も燃料に高みへ翔る、
ロケットの剣が。
「お互い長くは保つまい。伊吹の鬼」
血にぬめる舌が継いだ微かなその声が、届いたわけでも無かろうが。
伊吹萃香はこちらを向いた。巨大な身体が長屋の瓦礫を踏み分けて通りへ立つ。
歩くだけで地響きを伴う鬼の姿へ、妖忌はぐっと火箸を握った拳を突き上げた。
「毒で果てるのは本意でなかろう。……かかってこい」
「か、ヵ……ぁ、が、ああぁ――――!」
旧都全体を揺さぶる咆吼と共に、萃香は猛然と地面を蹴る。
歩幅と速度を考えれば鼓動があと二つ打つまでに、超重量の拳が妖忌を粉砕するだろう。
逃げるにも避けるにも距離がない。そもそも、もうまともに身動きは取れなかった。
それでも心に絶望はない。
迫り来る確実な死を粛然と見据え、その喉笛に得物を突き立てる隙を窺っている。
望みがあるとすれば、相討ち。衝突に合わせて打ち込めば、突進の速度がそのままこちらの武器となる。
上手くことが運んだとしても妖忌の身体は間違いなく粉微塵だ。しかしそんな事には考えも至らない。ただ目の前の古豪を打ち倒すことに意識は集約されていた。
だから。
力強く踏み込んで、いままさに振り下ろされようとした萃香の拳の前に飛び込んできた影に気付くまで、多少の時間がかかった。
「……………………、?」
轟然と鳴り響く金属音に、妖忌は我に返る。
鎖に巻かれた鬼の鉄拳は交差した分厚い二枚の鉄板に受け止められていた。
否、それは鉄板ではない。
常軌を逸して巨大な、剣だ。
「っ、物体……!?」
そこまで確認し、妖忌の頭はようやくそこに聳えている者の正体を認識した。
滑り込むようにして妖忌と萃香の間に割って入ったゴリアテ人形が、頭上にかざした剣で鬼の一撃を受け止めていたのだ。
「う、ッギぃい……い、ぃいい――――!!」
「!」
突然割り込んできた巨大人形へ怒りに燃えた視線を叩きつけると、萃香は無造作に折れた左手を振り上げ鎖鞭をしならせる。
大振りの仕草に気付いたゴリアテは剣の角度を変えて拳を受け流すと、即座に腰のポイントへ剣を固定した。そして振り返りざまに妖忌の身体を掬い上げ、思い切り地面を蹴る。その足先を掠めるように、鎖が路面を砕いた。
受け身の格好で地面を転がり起き上がると、ゴリアテは胸に抱えていた妖忌を見下ろす。
「――ジジー!?」
「……ああ。死んではいない」
実際は怪我の痛みで気を失いそうだったが、なんとかそれだけ言い返す。
ほっと安堵の息をつき、彼女が慎重に地面に降ろしてくれたところで、妖忌は改めてそちらを見上げ眉を顰めた。
「なぜ戻ってきた。覚りたちはどうした?」
「ダイジョブダァー」
「言うことを聞けと言っておるのだ、たわけ」
再度両手に剣を抜き無責任に答えるゴリアテに、仏頂面で言い放つ。流石に蹴飛ばしてやる元気はなかった。
「早く戻れ。お前の腕で鬼とは戦えん」
「イヤー、タタカウー!」
「喧しい。いいからさっさと、」
「ダマラッシャーイ!」
ばしんと、頬をぶっ叩かれたように。
張り上げたゴリアテの声に、一瞬ならず思考が止まっていた。
その間に彼女は両手の剣を構え直し、伊吹萃香に向かって駆け出している。力を萃めて巨大化した鬼と比べては、その体躯も子供のように縮んで見えた。
吼え猛る鬼の拳を大剣で受け流すゴリアテの姿を見ながら、妖忌は呆然と立ち尽くす。
――逆らった?
ゴリアテが妖忌の言うことを聞かないことはこれまでも多々あった。だがこれほど強硬に、己の意志を曲げまいと主張する姿を見るのは初めてだ。
何故だ。
何がそれほどまでに、あの馬鹿らしいほど素直な物体を頑なにさせている?
妖忌を助けるため、では、あるまい。
ゴリアテはそんなことを考えまい。さとりたちを任せて送り出した時、こちらを睨む目には不満と――それが自惚れでないと、なぜか確信があったが――信頼が篭もっていた。彼女は妖忌が鬼に負けるとは微塵も考えていない。実際、それは買いかぶりも甚だしい勘違いではあったのだが。
それでも、ゴリアテは駆けつけた。
師の言葉にも逆らって、強大な鬼へ立ち向かっていった。
何故、とそこまで思考が空転したところで。
「――ぬおっ!?」
鬼の拳に弾かれて、ゴリアテの巨体が跳ね返ってくる。辛うじて形を残していた長屋が、今度こそ跡形もなく粉砕された。
瓦礫と残骸をがらがらと崩して、ゴリアテは無様にすっ転んだ格好のままぐりん、とこちらに首を向ける。
「トッチメラレー」
「あっという間に帰ってくるな、根性無し」
「ドコンジョーデーイ!」
思わず言い返してしまった言葉に、ゴリアテはぱっと身体を起こした。ドレスの埃を手早く払い、再び萃香に向かって打ちかかってゆく。
自分より巨大な相手と戦った経験などあるわけもないだろうに、彼女の剣に恐れはない。嵐のように叩きつける拳と蹴り、合間に挟み込まれる鎖と火球を捌き、凌いで、僅かな隙へ果敢に斬り込んでゆく。迷い無い斬撃は防がれこそするものの、一刀打つごとに鬼の形相を歪ませていた。
見事では、ある。
撃剣の鋭さは見る度に向上し、体幹の回転を基軸とした足捌きは踊るように重量を感じさせぬ。受けの技はまだ教えていないというのに、妖忌や妖夢の見よう見まねか、無様ながらに形にはなっていた。
数日前、土蜘蛛や勇儀に振るっていた稚拙なチャンバラ剣法の面影は何処にもない。が――
(届かぬ)
彼女の成長は規格外かもしれないが、鬼の身体能力は端から埒外なのだ。
現にどちらが優勢かはひと目でわかる――ゴリアテが剣を打ち返す頻度は目に見えて減っていた。その豪剣が鈍ったわけではない。狂気に蝕まれ、毒に衰弱して尚、鬼の膂力がそれに勝っているだけのことだ。
駄目だ。
彼女の剣は、萃香に届かない。
刃を噛む心地でそれを確信した、瞬間。
「ぎ……あ、ゥ…………あぁああぁあ――――!!」
絶叫。
魂を磨り潰すようなおぞましい咆吼と共に、萃香が折れた左腕を振り下ろした。節棍じみて弧を描く腕はゴリアテの剣を弾き、拙い構えをこじ開ける。そして体勢を崩したゴリアテの腹へ間髪入れず、痛烈な膝蹴りが叩き込まれた。彼女に内臓があれば間違いなく破裂していただろう。
萃香は即座に身を仰け反らせ、浮き上がったゴリアテに猛然と頭突きをぶつけた。山の一つくらいは崩せるのではないかと疑うほどの強烈な衝撃は、振動で遥か彼方の建物を震わせた程だ。
再び弩砲の勢いで弾かれたゴリアテが、瓦礫の山の中へ打ち返される。今度はそこで止まらず、何間もの距離を地面ごと抉って行った。
「ッ――――無事か、物体!?」
激痛でまともに働かない手脚を強引に引き摺り、妖忌は彼女が吹き飛ばされた方へ近づいていく。
さしもの頑丈人形も堪えたのか、瓦礫と岩盤に埋もれたゴリアテはすぐに起き上がりこそしたものの、その動きはどこかぎこちない。頭突きを喰らった額を初め、顔や手に無数の傷がついていた。
剣を杖に膝立ちになるゴリアテに近づいて、低い声で呻く。
「分かったろう、お前では伊吹の鬼には敵わん」
「――、ッ……ォ。ジ、ジー…………」
こちらの声には気付いたのだろうが、ゴリアテは剣を収めようとしない。
まだ立ち上がれはしないのか膝で地面を擦る彼女に、妖忌は眉を顰めて言葉を重ねる。
「今は退くときぞ、物体。――お前には未来がある。高みへ至れる剣を、ここでむざむざ折ってくれるな」
「……ジ、――ィ。……ォ……」
「分からん奴め。つべこべ言わんと早く――、っ」
言葉は、途中で呑み込んだ。
聞こえたのだ。
こちらを見つめたゴリアテが、必死に繰り返している言葉が。
ようやく身体が回復したらしく今度は明瞭な声で、彼女ははっきりと、告げる。
「ジジー、シュギョー」
「――――――――お前、」
「オニ、カテナイー。ゴリアテ、タタカウー。トッチメ、ドウスル――――?」
並べる言葉は拙くて。
しかし彼女が何を言わんとしているか、妖忌には手に取るように伝わった。
それはたった今、自分が抱いている想いと同じであったのだから。
お前は、
「届かぬ月を斬ろうと願うのだな」
見返す瞳に迷いは無い。
師の教えを請う瞳。勝ち目のない目前の敵に必死に勝とうとする瞳。
前へ、前へと進むことしか考えぬ――――剣のような、瞳。
受けて立つ様に、その瞳を真っ直ぐ見つめ返す。
刃を打ち合う様に、彼女もじっと瞳を逸らさぬ。
言葉は必要ない。
その視線の剣戟で、互いの考えも心の裡も全てが通じていた。
静かに瞼を伏せる。
再び開いた視界に、真剣に引き締められたゴリアテの白貌を映し込み、妖忌はぽつりと呟いた。
「髪」
「?」
「邪魔であろう」
告げてやると、首を傾げていたゴリアテはぱっと無邪気に微笑んだ。剣を置き、火箸の剥がれぬ手で着物の袖を裂く妖忌を宝物でも掬うように持ち上げる。
即席に作った髪紐は短かったが、それでも素直な人形の髪を束ねるには用が足りた。
いつぞやのように頭の後ろで括ってやった髪を嬉しそうに揺らすゴリアテの手の中で、妖忌は声を低める。
「私を連れたまま、やり合えるか?」
「ジジー、イッショー?」
「戦いながら教えを伝える。しくじれば死ぬぞ」
「ゴリアテー!」
覚悟は問わぬ。
その必要はないと分かっていた。
寸分の迷いもなく答えると、ゴリアテは妖忌をドレスの胸元に差し込んだ。少々見た目は情けないが、エプロンのフリルに上手いこと引っかかって思いの外しっかり身体が支えられる。贅沢を言っているときではない。
剣を拾い上げ立ち上がるゴリアテに、妖忌は鋭く声を飛ばした。
「まずは、間合いがある。お前と相手の間に横たわる距離を把握しろ」
「キョリー」
「剣閃、視線、足配り、目運び。あらゆる手を尽くして間合いの内を完璧に支配する。それが剣術――――お前の、結界だ」
「ゴリアテー!」
ひゅん、と風斬り剣を構え、ゴリアテが鋭く地面を蹴る。
三度、真っ直ぐに突進してきた巨大人形を、狂気に滾った萃香の眼球が睨めつけた。血混じりの咆吼を上げ、左腕の鎖を横薙ぎに振り抜く。
鋼の颶風となって襲いかかる鎖鞭を、ゴリアテは極端に身を屈めてやり過ごした。胸元に差し込まれた妖忌が鼻を擦るかと錯覚するほどの低空から鎖を潜り――そのまま鬼の足下を滑り抜けてゆく。
好手だ。
慣性に揺さぶられながら妖忌は呻いた。愚直に正面から斬り合う行動に目が慣れていた萃香は、続けざまに振り出そうとしていた拳の行き場を見失う。
滑り込んだ勢いのまま身体を旋回させ、ゴリアテは後ろ手に振り上げるように剣を打ち込んだ。上々の成果とは言えぬまでも、剣先は萃香の脹ら脛を浅く切りつける。
「っぎ、ぃあ、ああぁがああぁぁあぁッ!!」
「!」
猛る怒号と共に、萃香は後方高く踵を蹴り上げた。
空間ごと削ぎ落としてゆくように鋭く伸びる蹴りを、ゴリアテは素早くかざした剣の腹で受け流す……つもりだったのだろうが、角度を誤ったか勢いを殺しきれず剣を引っ掛けられる。鋼が弾かれる乾いた音と共に、巨体が大きく後方へ吹き飛ばされた。
「……ッ! 物体!」
「ゴ、ゴリアテー!」
叱責の喝を飛ばす妖忌に応え、ゴリアテは慌てて体勢を立て直す。着地した勢いで再び地面を抉ることになったが、なんとか転倒はせずに済んでいた。
こちらを振り向き、怒りの咆吼を上げる萃香の周囲に霧のような光が漂い出す。
その霧の粒子一つ一つが妖弾である事には、ゴリアテも気付いているだろう。無言で重心を落とす彼女へ妖忌は静かに言葉をかけた。
「呑まれるな。その図体に通じる威力ではあるまいが、まとわりつかれれば動きを殺される」
「マトワリ、コロサレー」
「動きを止めず、走り切れ。何時までも維持できるものではあるまい」
そう告げると同時、妖弾の霧が生物じみて蠕動して襲いかかってくる。
通り一杯に広がるその霧を見たゴリアテの判断は素早かった。即座に真横へ足を送り、瓦礫を踏み越えて萃香の横へ回り込む。
無論、霧もそちらを追う。しかし本流を外れた薄い霧では疾走する彼女の速度を止められない。右へ、左へと俊敏に足を切り返すゴリアテの機動に翻弄され、逆にその密度を薄くしている有り様だ。
霧の魔陣が効果を上げぬ事に業を煮やしたか、萃香が高らかに咆吼すると霧は呆気なくかき消える。
それと同時、彼女は周囲に無数の火球を浮かべた。渦巻く業火の塊は、こちらを睨む獣の眼のようでもある。
「見極めよ。万物自然の行いである以上、炎の中にも流れがある。その繋がりを断つことができれば、お前の剣は炎でも斬れる」
「……ゴ、ゴリアテー」
足を止め、慎重に探る目付きで火球を睨みながら、ゴリアテが困った風に呻いた。
当たり前だ。本来、自然の粋――精霊を見極める目を持てるようになるだけで百年単位の修行が必要になる。
だが、
「自信を持て」
淡々と言い、妖忌はぽん、とゴリアテの胸に拳をぶつけた。
きょとんとする彼女を見上げて肩をすくめる。
「お前自身を疑わず、剣が走るに任せるのだ。頭で考えるよりその方が向いている」
「ゴリアテー」
照れているのか、へにゃ、と相好を崩して。
それから一転、鋭く表情を引き締めると、彼女は火球を漂わせる萃香に向かい構え直した。
揺るぎない攻性の構えを取るゴリアテのエプロンに挟まったまま、妖忌は静かに目を閉じる。
――此奴の剣は、成し遂げる。
誰よりも、ゴリアテ本人よりも強く妖忌が確信していた。
少し、勘違いをしていたのだ。
ずっと、この人形は主の為に強く在らんとしているのだと思っていた。
だがそれは間違っていた。
否、今でもその想いに偽りはあるまい。ただその想いを高め、蒸留し、汲み出された雫の一滴を、生まれ始めた「彼女自身」が育んでいたのだ。
強くありたいという、素朴で純粋で、しかし狂おしいほど心を惹きつけて止まぬ願いを。
ならば、成し遂げられぬ道理はない。
彼女が地面を蹴ったのか、萃香が地面を踏み鳴らしたのか。
どちらともつかぬ轟音を合図に時間は加速し始めた。猛烈な勢いでこちらへ撃ち出される火球の嵐へ、ゴリアテは真っ直ぐに斬り込んでいく。
無音で、無想で、繰り出された横薙ぎの一閃が淡雪のように火球を砕くのを――――妖忌は、歓喜を抑えきれずに見つめていた。
「止まるな、斬れ! 斬り……斬り、斬って、斬り開け!」
「ゴリアテ――――!!」
凛然と叫ぶゴリアテの剣は尚も鋭さを増し、回転を上げて行く。雪崩じみて押し寄せる鬼の火焔は、雨粒ほどにも彼女の行く道を阻みはしなかった。
怨嗟の声を轟かせ、更に火球の数を増やす萃香を遠くに見据えて口元を歪める。
それは昂揚の笑みだった。
――随分と、無茶な真似をさせた。
距離と間合いの奪い合いに於いて、空を制し。
妖霧の縛陣に挑んで、魔を踏破し。
曇り無き剣と心が導くまま、精霊を下す。
全てが本来、長い時間をかけて会得するべき心得だった。それをたった今、狂える古鬼を相手に学んで見せろと妖忌は言いつけたのだ。
荒行と呼ぶのも愚かしい。死ねと宣告するに等しい無謀な賭け。
だが、ゴリアテは応えてみせた。
不安定な擬似精神でよくぞ成し遂げたと褒めてやりたい気持ちはあるが、同時に、彼女ならば成し遂げると当たり前に感じている自分もそこに居た。
――お前もまた、同じであった。
高みを見上げてひた走る、そこに迷いを抱けぬ愚か者。遥か彼方の月をも斬らんと、心の底からそう願う。
ロケットのような、大莫迦者だ。
(ならば、届く)
お前がそれを願うなら。
くれてやれる、伎がある。
「剣を信じろ! 断迷を誓え!」
最後の火球を斬り払った時、そこにあったのは轟然と突進してくる萃香の姿であった。
鎖を巻いた鉄拳を投げ放つ鬼に、ゴリアテは動じない。寸前で身体を切り返し、すり抜け様に脇腹をかすめ斬る。斬り込む手応えが妖忌にまで伝わってくるが、この程度では鬼の身体には致命傷たり得ない。
「空を斬り、魔を斬り、精霊を斬り時空を斬り…………お前の剣は神髄へ至る!」
どす黒い血飛沫を散らし、鬼が振り返ったその時、ゴリアテはもうその場にいない。山猫の如き跳躍で鬼の頭上までも跳び上がり、その肩口へ深く剣を打ち込んでいた。
彼女の剣は止まらない。がむしゃらに振り回される鎖鞭をかわしながら背中を切り下げ、着地と同時に再び真横へ斬り抜ける。舞うように軽やかながら、稲妻のように鋭く跳ね回り翻弄するゴリアテを、狂気に濁った鬼の瞳は影すらも捉えられない。
ここは既に迷いを断ち、自らを剣と化した彼女の間合い。
ゴリアテの、結界の内だ。
「既にすべてはお前の中だ! 顕せ――――お前の月を、斬り裂いて見せよ!」
教えることは教えた。伝えることは伝わった。
後は、彼女次第。
縦横無尽、獅子奮迅。
雷雨の如き剣閃は最早物質のみを捉えるに非ず。繰り出す鋼が魂と魄、存在の根源を斬り裂き散らす。
その技、既にして奥義結就せり。
輪廻因果。陰陽表裏。三千世界を遍く絶やし、魂魄の粋を穿つもの。
人の形に宿りて奔り、鬼神を討つは豪の剣。
來り、顕わせ。
――――未来永劫斬――――
決着には、音も無い。
あるいは剣花か大音声が、自分の耳を潰していったか。
ともあれ妖忌の耳にゴリアテの声が聞こえて来たのは――――萃香の胸に深々と打ち込んだ二本の剣を、ゆっくりと引く段に至ってからだった。
「……ゴリ、アテー……?」
油断無く構えを取り直し、ゴリアテが呻く。自分の剣がもたらした結果を実感できずにいるのだろう。
無理もない――ゆっくりと傾ぎ、仰向けに倒れてゆく萃香の胸からは、一滴の血も溢れてはいなかったのだから。
ずぅん、と巨体が倒れるのを確かめてから、妖忌はようやく長い息を吐き出した。
「案ずるな」
「……?」
「お前の、勝ちだ」
素っ気なく告げたのと同時。
瓦礫を潰して転がった萃香の身体から音もなく霧が噴き出してくる。妖弾の霧よりも細かく滑らかな、上等の綿毛じみた霧。
ふんわりと暖かなその霧が通りに溢れ、程なくして流れ去った後――押し潰された瓦礫の中に寝そべる、二本角の小鬼の姿が残る。
ぱちくりと瞬きするゴリアテのエプロンから抜けだし、地面まで苦労してフリルを伝い降りてから、妖忌は改めて巨大な弟子を振り仰いだ。
「――魂を断ち、未来永劫を斬る魂魄の秘剣。奥義開眼、確かに見届けた」
「? ヒケンー……?」
「確信はあったが土壇場でここまで修めるとはな。満点をくれてやるぞ、物体よ」
「……マンテンー……、ッ」
「む」
ふにゃりと微笑むと、ゴリアテはそのままぺたんとその場に座り込む。
そちらへ身体を向け、妖忌は顔をしかめた。
「やはり、擬似精神に負荷がかかったか?」
「ゴ、ゴリアテー……?」
「動くな、動くな。……並の剣客が数百年かけて行く道をひと息に駆け抜けたのだ、無理せず休んでいろ」
首を捻って呻くゴリアテに軽く言い置き、妖忌は踵を返した。
瓦礫の山に横たわる萃香は、最初に見た時よりも小柄に見える。
無論それは錯覚に過ぎない。ゴリアテの剣が魂魄を断ち、一時的に伊吹萃香という鬼を輪廻上から乖離させているのだ。現世ともあの世とも関わりのない身体は、物質的にも気質的にもなんの力も持たない。
(大したものだ)
肩越しに、座り込み休んでいるゴリアテ人形を振り返る。
魂の芽生え始めた彼女を指し、竹林の薬師が「規定の術式から外れて無限の可能性へ踏み入れるということ」だと言っていたことを思い出す。彼女は、確かにその身に秘める可能性の一端を顕した。
ならば、今はその感覚を確かめておけば良い。
苦い結幕を降ろすには、彼女は未だ若すぎる。
重い身体を引き摺り、微動だにしない萃香の傍らに立つ。
このまま放っておけば、やがて剥離した魂魄も肉体へ帰ってくるだろう。そうすれば再び『キツネ憑き』が暴れ出す。
止めを差してやる必要があった。
「…………」
今の萃香であれば、頸でも心臓でも突いてやれば簡単に死に至るだろう。
古き鬼、大江山の伊吹萃香。
このような形での死は、彼女も望む所ではないだろうが……
「許せ」
恨みも呪いも、せめて自分が引き受けよう。
短い言葉に無音の祈りを捧げ、火箸を振り上げた。
その時。
「――――待ってくれ、侍」
突然に横合いから伸びてきた手が、妖忌の腕を静かに掴む。
驚いて振り向けば、そこには背の高い一角の鬼。生気のない顔を沈鬱に曇らせた、星熊勇儀が立っていた。
見ればその背後に、火車の肩を借りたさとりの姿も窺える。勇儀の後ろ、瓦礫の山の麓から、さとりは第三の目でこちらを見上げていた。
「……伊吹の鬼は、大人しくなってくれたようですね」
「一時的に魂魄を切り離しただけだ。まだ死んではいない」
「そいつは、あたしの役目だ」
ぽつりと呟き、勇儀は掴んでいた妖忌の腕をそっと降ろさせる。
受けた傷は深かったであろうに、そこに立つ姿は威風堂々とした、鬼の頭領の姿であった。
「侍。大人形も。萃香に代わって礼を言う。――――おかげで、最期にどえらい喧嘩が出来たんだ。こいつも満足しているだろうよ」
「……大丈夫か?」
「…………あたしはこいつの苦しみに気付くことも、その苦しみを止めてやることも出来なかったんだ」
肩が震える。
今にもひび割れて砕けてしまいそうな声で、それでも星熊勇儀は決然と続ける。
真っ直ぐに向ける瞳は、横たわる朋友を見据えて決して曲がらない。
「送る痛みは、せめてあたしに背負わせてくれ」
見守る者たちは、沈黙するより他になかった。
妖忌は黙って瓦礫を降り、火車は込み上げる嗚咽を噛み殺すように主人の胸に顔を埋める。さとりは血が滲むほど唇を噛みしめ、彼女の頭を撫でていた。
一寸、地下に風が吹く。
それは勘違いであったのかもしれない。固めた拳を振り上げる勇儀の髪が、獅子の鬣のようにざわめいた。
「……苦しかったろうな。地底のみんなを、お前が独りで護ってくれていたんだものな」
語る言葉は、むしろ優しげに。
それでも拳は震えない。己の成すべき事を心得て――その為に、己の心を欠く覚悟があるのだから。
嗚呼、やはり。
星熊勇儀は古く強い、古豪の鬼であったのだ。
「愚痴と文句は、そっちにいってからたっぷり聞くよ。…………だからいまは、静かに、眠れ」
訣別の言葉としては無骨に過ぎるが、この場にはそれこそが相応しくも思える。
じゃらり、腕を締める枷の鎖が鳴った。
そこから哀惜がこぼれ落ちるのを防ぐかのように、一度ぎゅっと強く閉じ、再度見開いた勇儀の目に、もう迷いはない。
横たわる親友の身体へ、振り下ろされた怪力乱神の拳が突き刺さる――
「――――待った! 待ったああああーッ!」
――直前。
素っ頓狂な絶叫が響き渡るのに、全員が動きを止め、声のした方を振り返った。
通りの向こう、大橋の方角。
旧都の目抜き通りにガランガランと下駄節奏で、駆けてくる奇妙な形の影がある。
「その拳待った! 逸るな、逸るな! 止まれぇ――――――!!」
「お前が止まれ」
前を見ていないのか、唖然とした一同の間を颯爽と駆け抜けて行こうとするその影の足下へ、妖忌は半眼で火箸を差し出した。
影はきゃん、と悲鳴を上げてすっ転び――――赤毛の死神、小野塚小町の姿に化ける。
怪訝顔で首を捻り、さとりがかすれた声で訊ねた。
「彼岸の死神? なぜこんなところに」
「ッは――へ、っほ、げほッ――!……待、はっ…………へは――――ぅえ。吐きそう……」
「年寄りかお前」
大の字に寝そべってぜえぜえ呼吸を荒げる小町を見下ろし、妖忌は困り果てて呟いた。他の者も気持ちは同じらしく、一様に突然の闖入者へ似たような顔を向けている。
息をするのもしんどそうな状態の癖に妖忌の呟きは聞きつけたらしく、小町はむくりと起きあがり涙目の青い顔でこちらを睨んだ。
「ッこの、恩知らずめ……! あ、あたいが――なんで、クソっ。ゲロ吐きそうになって、全力疾走してきたと……ッ!」
「運動不足じゃない? 二の腕のお肉が心地良かったわ」
「……お前さんのドタマに吐いてやろうか」
「ぎゃー!?」
「――なんなんだい、一体」
と、しかめ面で勇儀が呻く頃には流石に皆、小町が一人でない事に気が付いていた。
胡座を掻いて座り直した死神に羽交い締めにされ、小さな少女が必死に逃れようと暴れている。奇妙な形に見えたのは、この少女を小脇に抱えていたからだろう。
微妙にとっちらかった感のある空気を再び硬くして、勇儀がじろりと死神を睨みつけた。
「迎えにはまだ寸分早いよ、死神。いま我が朋友を送り出すところだ、無粋な茶々は入れんで貰おう」
「それよ。待ったというのはそのことさ、地底の大鬼」
と、小町はくるりと勇儀を振り返る。
訳が分からず首を傾げる一同を余所に小町はようやく立ち上がり、抱えていた少女をひょいと頭に乗せた。そして身軽に瓦礫を登ると、横たわる萃香の傍らに膝をつく。
深刻な顔で彼女の肢体を検分し、死神は得心のいった様子で息をついた。
「魂魄を輪廻から切り離したか。ジジイの仕業だね」
「いや。そこの物体の剣だ」
「あん、デカ人形が?……ま、誰だっていいさ。でかしたよ」
頭を振る妖忌に一瞬怪訝な顔をし、その向こうでぽかんとしているゴリアテを見やってから、小町は肩をすくめて萃香に視線を戻す。
呼吸もない鬼を見下ろしたまま、彼女は頭にしがみついている少女へ声をかけた。
「頼むよ毒人形。自我も意識もないだけやりやすいってもんだろう」
「ふんだ。そんなことしなくても楽勝だったわ、毒おっぱい」
口を尖らせて、少女はぱっと地面に飛び降りた。
そしてやおら萃香の額に手を載せると、目を閉じて静かに囁く。
「コンパロ、コンパロ――――毒よ、集まれ」
途端。
魂の抜けたはずの萃香の身体がびくん、と痙攣するように跳ね上がった。
険しい顔で成り行きを見守っていた勇儀が、ぎょっとして少女に詰め寄ろうとする。
「お、おい。お前、いったいなにを……?」
「邪魔しちゃあいけないよ。なにしろ、集中力のないお子様だからね」
その肩をやんわりと押しとどめ、小町はぐるりを見回した。
「他に『憑かれた』奴はいないな? いたら此処へ連れてくるといい」
「……話が見えんぞ、小野塚」
「ちょいと込み入った話だ。そいつは後々、祝杯を上げながら話そう」
「祝杯?」
「そうさ。――――『キツネ憑き』異変の解決を祝ってね」
さらりと告げられたひと言に、皆、きょとんとする。
……今、この死神はなんと言った?
真っ先に口を開いたのはさとりだった。第三の目を死神に向けて音もなく息を呑み、呟く。
「――本気で言っているのですね?」
「心でも読んでみればいいさ」
そうすればよく見えるとばかり、小町はぐい、と胸を張ってみせる。
「詳しい話は省くがね。……『キツネ憑き』の正体は、地底の怨霊そのものが変質した、毒だったのさ」
「怨霊が?――――ああ……ああ、なんてこと――近頃、怨霊の処理効率が上がっていたのはそういう絡繰りだったのですか」
「応さ。そいつに気付かなかったんだから、彼岸もこちらさんも間が抜けてた」
「本当に」
余人には内容の分からぬ会話を交わして二人、苦い面を交換する。
まだ萃香の傍で何事か唱えている少女を振り返って、小町が得意そうに歯を剥いた。
「この子は上でスカウトしてきた妖怪でね、毒を操ることにかけちゃあ天下一品のメディスン・メランコリー先生様閣下大統領だ。たまに絞め殺したくなるくらい生意気だってとこに目を瞑れば可愛いもんだから、みんな仲良くしてやっとくれ」
「それ褒めてる? けなしてる?」
「べた褒めに決まってるじゃあないか」
「ならいいけれど」
本当に疑問はないらしく、不審げに小町を振り向いたメディスンは機嫌良く鼻歌など歌い出した。
とりあえず悪意は無いらしいその妖怪にこっそり舌を出しつつ、小町はこちらへ振り返る。
「めらん子先生に集められない毒はない。……『キツネ憑き』から、怨霊の毒を抜き取ることも朝飯前って寸法だ」
「! おい。それは、」
「その通りさ、大鬼」
詰め寄って肩を掴む勇儀に抵抗もせず、小町はへらりと笑う。そして人なつっこい笑顔のまま、親指で傍らのメディスンを示した。
「伊吹の鬼は助かるよ。怨霊の毒も、一緒に身体へ封じた毒素も全部吸い出して、目覚めたときにゃあすっかり健康体だ」
「――――っは……はは――」
「魂魄を切り離したのがファインプレーだった、おかげでぎりぎりの所で毒の吸い出しが間に合った。……幸運にもやっこさん、べらぼうに強力な鬼だからね。身体も、魂の傷すらも。時間をかければ徐々に回復していくだろうよ」
「そうか……そうかい、はは――――萃香ぁ。お前、助かるんだってさあ…………良かったなあ………………!」
「ちょっと、邪魔しないでよ角おっぱい」
「おっぱい以外で人を見分けられんのかねお前さん」
へなへなと崩れ落ち、笑顔と泣き顔の入り交じったぐちゃぐちゃの表情で萃香に縋り付く大鬼へ迷惑そうに口を尖らせるメディスンに、小町が半眼で呻いている。
無造作に頭を掻く死神を見上げて、妖忌は瓦礫の下から声をかけた。
「――なんらかの毒が『キツネ憑き』の原因だろうとは幽々子様も仰っていたが、怨霊が変じた毒であったとはな」
「大した調査の手際だろう?……いや、あたいも偏屈仙人に行き会わなきゃあ百年経っても気付かなかったろうけどね」
「偏……? なんだか知らぬが、ともあれ仕事もこれで終了か」
「ん、そうなるねえ……原因がわかったからにゃスキマや博麗の巫女も動けるだろうし。ま、昔馴染みのよしみで手間は約束通りの額を払ってやろう」
「当然だ、たわけ」
憮然として火箸を鳴らす――まだ剥がす勇気がない――妖忌に、小町はけらけらと屈託なく笑う。
それからさとりの傍へ降りて行き、地獄炉の管理がどうのと事務的な話を始めた彼女に頭を振って、妖忌は踵を返した。
地面に座ったままのゴリアテは、状況が把握できていないのだろう。しきりに目を瞬かせてこちらを見下ろしている。
「ゴリアテー?」
「うむ。もう心配ないそうだ」
尋ねる彼女に頷き返し、妖忌はふと顔を曇らせた。
「まだ動けんか?」
「ゴリアテー……」
「無理はするな、ゆっくり身体を休めればよい。……ともあれ、色々とかたがついたからな」
情けない顔で鳴くゴリアテに答えながら、妖忌は長々と息をつく。
――そう。色々と、かたがついた。
死神の言う通り『キツネ憑き』のこともあるが、それ以上に、長く永く暗闇の中で探し回っていた答えを掴んだ気がしていた。
想いも心も入り込む余地ない、ただひたすらに己が高みを志す――――魂魄妖忌がロケットの剣。それを、ようやく実感できた。
剣を振るう意味。
それは今、確かに妖忌の内にある。遥か昔、初めて剣を握った時からそこに在り、歳月と共に理性や分別の下に埋もれていた火が再び灯った感覚。
自分一人では、百度輪廻を廻っても見つからなかったに違いない。
幽々子が。
妖夢が。
そして今、隣に鎮座している巨大な物体が傍にいてくれなければ、自分は闇中の人斬り庖丁として無為に錆びくれてゆくしかなかっただろう。
それは千余年を生きた老骨としては余りに青く、情けないことかも知れない。
しかし心は雨に洗われた夜空のように澄み渡っていた。
剣を振るっていた時とはまた違う穏やかな昂揚に、胸を震わせる。
「――なにはともあれ、腹が減った。小野塚から手間をせしめて飯でも喰いに行くか」
「ゴハンー。ハラペコー」
「さすがにあれだけの機動を行えばな」
「ヨクネ、ヨクタベ、ヨクタベルー」
照れ笑いを浮かべ微妙におかしいことを口走りつつ、ゴリアテはエプロンのポケットに手を伸ばそうとする……が、その手は見えない糸に引っかかったように止まる。
先ほどの見事な奥義は、やはり随分身体に負担をかけたらしい。
困り顔で口を尖らせる彼女を見上げ、少し迷ってから――――妖忌はひとつ息をつくと、右手に灼けついた火箸を引き剥がした。
とはいえ、剥がしたのは掌ではなく持ち手の革巻きである。いずれはこちらから剥がさないといけないが、差し当たってはこれで良かろう。
がらんと火箸を投げ捨て、多少自由になった指を確かめると、妖忌はゴリアテの膝に跳び上がった。
「邪魔するぞ」
「? ジャマサレゾルー」
不思議そうに頷く彼女のエプロンのポケットを探り、そこから摘み置いていたらしい草苺をひとつかみ取り出す。
大半は干涸らび、しなびて潰れていたが、その中から比較的瑞々しい一粒を探り出すと、今度はひょいと腕に飛び乗った。瞬きするゴリアテの眼前に苺を突き出し、妖忌は仏頂面で告げる。
「……なにを間抜けた顔をしとる。口を開けろ」
「――ゥヤ?」
「またあの腹の虫を聞かされてもかなわんからな」
言い捨てる口調が、やや早口だったのには気付かれなかったろうが。
なんにせよ、目を瞬かせていたゴリアテ人形はにぱ、と笑みを咲かせる。満面の笑顔でこちらを見つめながら、しかし一向に口を開けようとしない。
訝しげに眉根を寄せ、妖忌は首を傾げた。
「なんだ」
「アーン、スルー」
「……鼻にねじ込んでやろうか貴様」
「キャー」
割と本気で言ってやると、ゴリアテは嬌声を上げて頭を振る。盛大に溜め息をつき、妖忌は礫の要領で彼女の口へ苺を弾き入れた。
もふもふとそれを咀嚼する彼女は、それでも満足そうな笑みを浮かべていたが。
もう一度溜め息をつき、ゴリアテの腕に背中をもたれる。こちらもいい加減、身体が限界だ。
さとりと小町が話し合う声や、泣き崩れる鬼の頭領を火車が宥め、それに少女妖怪が煩げに文句を言っている声。遠くでは騒ぎが収まったことを察したらしき住人たちが、消火や救助活動を始めていた。
俄に辺りに漂いだした喧騒を聞きながら空洞の天井を見上げ、妖忌は静かに呟いた。
「物体」
「?」
「お前は――月を斬ることが出来たか?」
その問いに、彼女はすぐには答えなかった。
急いで苺を飲み下すと、しばし妖忌と同じく宙を見上げて…………それから、こちらを見下ろし頭を振る。
そうか、と頷き、彼は首をすくめた。
「伊吹の鬼も、『キツネ憑き』に憑かれていては全力はだせなかったろうしな。全力の鬼と対峙するには、お前ではまだ役者が足るまいが」
「ゴリアテー」
「……うん?」
もう一度頭を振るゴリアテに、意外な想いで視線を上げる。
本来の伊吹萃香に勝たねば納得できない、ということだと思ったが……
「違うのか」
「チガウー」
きっぱりと言い、ゴリアテは自身の部品を軋ませた。
剣を置き、妖忌を膝に抱えるようにそっと腕を回す。
「――ゴリアテ、アリス、ダイスキー」
「知っとるよ」
「アリス、ゴリアテ、ツクッター。ゴリアテ、タタカウー」
「その為に造られたという話だったな」
頷き、しばし彼女は押し黙った。
乏しい語彙を探っているのだろう。難しい顔で首を捻った後、つかえ気味ながらぽつぽつと言葉をこぼし始める。
「タタカウ、アリスノタメ。タイセツ、アリスー」
「それがお前の本質だ。主のため、どこまでも強く鋭く在らんとする『剣』の剣。その神髄へ至る資格がお前にはある」
事実、アリス・マーガトロイドの為――彼女に生み出された戦闘人形として腕を磨かんとする決意が、ゴリアテにこれほどの剣を与えたと言っても過言ではない。如何に素直な擬似精神でも、根幹を支える想いがなければここまでの成長は見せなかったろう。
純粋に賞讃を込めて告げた言葉は、しかしゴリアテの顔を曇らせるだけだった。
僅かに身じろぐと、彼女は妖忌を抱える腕に微かに力を込める。
「チガウー」
「……?」
言葉の内容、そのものよりも。
その声――とんでもない悪戯がばれた子供のように怯えた声音に驚き、妖忌は顔を上げる。
「ゴリアテ、ワルイコー」
「なぜ悪い」
「――――ミツケタ。オツキサマ」
答える一瞬、ゴリアテが僅かに微笑んだ気がした。
それを確かめる間もなく、彼女はふいと視線を逸らす。見つめるのは地面に置いた剣。
「オツキサマ、ゴリアテ、トドカナイ。オツキサマ、トドキタイー。…………デモ、アリスノタメ、チガウー」
「……お前は」
「ゴリアテ、ワルイコー。ゴリアテ――――ゴリアテ、オツキサマ、ダイスキー」
たどたどしく紡がれる言葉は、傍で聞く者があったとしても意味を掴むことは出来なかっただろう。
だが、
(物体…………お前は)
妖忌には、彼女の言葉が分かっていた。
たった数日共にいただけだが、彼女の心が疑いなく把握できていたのだ。
魔法ではない。
妖術でもない。
それは剣を持つ者にしか分からない――否。
例えば妖夢がここにいても、理解は及ばないかも知れぬ。孫は既に、その肩に担う務めを全うするに相応しい剣士へ成長した。
この想いは剣士では解せぬ。
もっと無様で偏屈で。空の果てまで突き抜けるくらいの愚か者にしか通じない――――
そんな粋狂な、願いなのだ。
「ジジー」
祈るように、真っ直ぐこちらを見つめる瑠璃の瞳。
その視線を受け止める。
込められた想いを間違いなく受け入れる。
妖忌の目をのぞき込み、そっと、ゴリアテの唇が開かれた。
「ゴリアテ、オツキサマ、キレル――――?」
頷いてやるのは簡単だ。
その成長を見てきた妖忌にはそれが分かる。天賦の才と揺るぎない芯の強さを持つこの人形は、必ず剣の神髄に到達する。
保証してやるのは簡単だ。
未だ技、師を超えると折紙をつけてやるには至らぬが、それも時間の問題だ。肩の一つも張ってひと言褒めてやればいい。
が、
――何の意味がある?
彼女は同じだ。自分と、同じだ
ならば。
必要なことは、分かりきっていた。
「物体よ」
告げる声は、自然に滑り出す。
じぃと見つめるゴリアテの顔を見上げ、妖忌は静かに双眸を細めた。
そして、告げる。
「お前は――――――――――、?」
直前。
俄に、背後が騒がしくなったことに気付く。何人かが大声を交わしている様子だった。
怪訝に思いそちらを振り向く。
「――どういうことですか!?」
「し、知らないよ! わたしに聞かないでよ――!」
瓦礫の山の上。
伊吹萃香が寝かされている辺りを中心に、さとりや少女妖怪が言い争っていた。彼女たちだけでなく、火車や鬼の頭領、小町も狼狽した様子で少女妖怪を取り囲んでいる。
泣き出しそうな顔の少女に、皆が次々と詰め寄っていく。
「あんた、毒を操れるなんてフカシてたわけじゃないだろうねぇ……!」
「嘘じゃないよ! わたし嘘なんかついてないよ!!」
「止めなさい、お燐――! 彼女の言葉は本心です」
「なら尚更分からん。どうなってるんだ、萃香は間違いなく『キツネ憑き』にやられてたんだろう――!?」
「そうだよ、そうだから、落ち着いとくれ! これじゃ聞ける話も聞けやしないだろう――――!」
口々に叫ぶ皆に、自身も似たような悲鳴を上げているのは小町だった。
涙目でスカートの裾を掴む少女の前に片膝をつくと、死神はゆっくりとその髪を撫でてやる。
「いいかい、あたいを見るんだ。あたいの質問にだけ答えとくれ」
と、落ち着かせるように語りかける声が既に動揺に裏返ってはいたが。
とまれ少女は多少落ち着いたようだった。こくりと無言で頷くのを確認してから、小町はゆっくりと言葉を切り出す。
「もういっぺん確かめてくれないか。いま言ったことは、間違いないんだね?」
「…………。うん」
ふて腐れたように口を尖らせた少女が、皆の環の中心に顔を向ける。
恐らくはそこに横たえられた伊吹萃香の身体を見下ろし、彼女は小声で、しかしはっきりと言い切った。
「砒素も水銀も、普通の毒はいっぱい集まったよ。でも――――怨霊の毒なんか、これっぽっちも出てこなかった」
しん、と一帯が静まりかえる。
「……萃香は、間違いなく『キツネ憑き』になっていたんだろう?」
厳しい顔で唸る勇儀は半ば独り言の体だったが、それをさとりが険しい面持ちで肯定する。
「鬼の心を蝕むほどの狂気です、他に考えようがありません」
「でも、それじゃ筋が通りませんよ」
思案げに呟いたのは火車の娘。
がりがり頭を掻きながら、鋭い目で少女妖怪を見下ろしている。
「やっぱり、この子がなにか勘違いしてるんですよ。蚤やシラミじゃないんだから、毒に足が生えて逃げ出すわけもない」
「蚤ついてるの? ばっちいのね、猫」
「違わい!」
「お燐……」
舌を突き出しぱたぱた逃げ出す少女と、目をつり上げてそれを追いかける火車に、嘆息混じりに頭を振って。
さとりは、深刻な面持ちで小町を見やった。
「彼岸の死神は、如何に考えます」
「悪いが見当もつかんよ。……でもまあ、毒人形が嘘をついてるって線はないだろう」
「そんな嘘をつく理由がないしな」
まだ身体が痛むのだろう、どさりと瓦礫の上に胡座を掻いた勇儀が乱暴に頭を掻いて呻く。
「死神。『キツネ憑き』から毒が抜ける理由はいくつ考えられる?」
「怨霊の毒……知り合いは憑依毒、と名付けたけど。こいつに関してはついさっき存在が知れたようなもんなんだ。確かなことはなにも言えんよ。――ああ」
ただ、と。
渋い顔で答えていた小町は、ふと何か思い当たったように表情を変えた。
口元に手を当て眉根を寄せ、独り言じみて呟き始める。
「霊体を捨て実際的な物質になった以上、恐らくはもう《毒》としての属性に縛られてる。生き物は、毛虫に刺されたってそう簡単にゃ治らないんだ……鬼も狂わす憑依毒がたちまち抜けるなんてべらぼうが有り得るのか?」
「あの子のように、毒を操る力に特化した妖怪ならば……?」
「めらん子先生を除けば、後は辛うじて、伊吹萃香が強引に毒を萃められる位のものじゃないかね。仮に、他にそういう芸を隠してた奴がいたとしても」
声低く訊ねるさとりに肩をすくめ、ぐるりを見回し、小町は浅く溜め息をついた。
「こそこそ毒を持ち去る理由がない。『キツネ憑き』は、当の怨霊たち以外にとっちゃ百害あって一利なしだ」
「穏やかじゃないね……ふん。どうにもきな臭い」
「うーむ、こりゃいかん。あたいの頭じゃどうにもならない」
癖のある赤毛を掻きむしり、乱暴に鼻を鳴らし。
考え込む勇儀とさとりへそれぞれひらひらと手を振って、小町が大仰に頭を振った。
「後はうちのボスやらスキマやら、頭の切れるお歴々に考えてもらおうや。いいじゃないか、ともあれ伊吹の鬼は助かったんだ。毒だってたまにゃブラッとどこかに行きたくなることくらいあるだろう」
「あなたじゃないんですから。不自然なことには、大抵ろくでもない意図が絡んでいるものですよ」
「どっこい『あらゆる事情に意図の介在を疑うのは、視野は広くとも思考が狭窄』と、今回の事件解決の立役者は仰っているの、さ…………、ん?」
半眼で睨むさとりに気楽に言い返した格好のまま、小町が不意に顔を曇らせた。
自分の言葉に何か引っかかったのか黙して考え込み始めた彼女に、さとりと勇儀が怪訝顔を見合わせる。
顔をしかめてゴリアテの腕を飛び降り、妖忌は声を張り上げた。
「小野塚」
「あん?――ああ、ジジイ。ちょいと知恵を貸しなよ」
彼の存在を忘却していたらしく驚いた風に顔を上げ、小町がひらひら手招きしてくる。
「『キツネ憑き』の毒が、どこかに行っちまった」
「聞いていた。……なにか思い当たるのか?」
「引っかかるんだよ。――もしかして、『キツネ憑き』は」
「ちょっと!」
と。
突然小町の声を遮り、甲高い声が辺りに響いた。彼女の方へ向かいかけていた足を止め、首を廻らせる。
とうとう捕まったらしく、火車に羽交い締めにされた少女妖怪が遠くで叫んでいた。捕まえている火車が困惑するくらい強く手脚をばたつかせながら、彼女の目は明らかに妖忌を見つめている。
ばしばし火車を蹴っ飛ばしながら必死の形相で怒鳴るその声は、悲鳴のように聞こえていた。
「そこの半分人間! ちょっと……ええと、もう! なんとかしなさいよ!」
「……? なんだ? なにを言って、」
「見つけたんだってば! 毒!――――――――そっちの子、危ない!!」
たどたどしい少女の言葉は何一つ理解できなかったが。
それでも妖忌が背後を振り向いたのは、ただ気付いたからであった。
そこに膨れ上がる灼け付くような、殺気に。
「ッ!」
反射的に、左腕を跳ね上げる。
殺気は彼の動作を一切構わず猛然と降り注ぎ――掲げたくろがねの火箸を両断して、深々と妖忌の肩を斬り下げた。
破城鎚でも打ち込まれたような衝撃が、身体を強烈に地面へ叩きつける。
意識が明滅する。
明らかな致命傷を受けたことは分かっていた。袈裟懸けに斬り込まれた傷から噴き出す血が砂に吸い込まれていく感覚がある。
だが、そんなことはどうでも良い。そんなことは意識の片隅にもない。
震える腕で地面を掻き、喉へせり上がってきた血塊を吐き出して――――
妖忌は、彼女を見上げた。
「……物体――――、ッ!?」
血濡れた巨剣を突き出してこちらを睥睨する、ゴリアテ人形を。
「ァ……、ジ――ジ……、ェ――――!」
「っこいつは――『キツネ憑き』、なのか…………!?」
ぎこちない動作で剣を引くゴリアテに、勇儀が愕然と叫ぶ。
同じく動揺した様子で、さとりが困惑した声を上げていた。
「そんな馬鹿な! いくら擬似精神で駆動しているとはいえ、生物でもない人形に…………!?」
「もー!? なにとんちんかんなこと言ってるの、目玉オバケ!」
もどかしげに叫んだのは、火車に抱えられた少女妖怪。
困惑して緩んだ火車の腕をするりと抜けだし、彼女はゴリアテを指差して地団駄を踏む。
「身体は毒で動くのよ、わたしを見なさいよ! 魂を持った人形に毒を注げば、それは人間や妖怪と変わらない! あの子は――――妖怪になったのよっ!」
「た、魂、って…………だって。そんな、ひょいひょい生えるもんじゃあないだろう?」
「いや――そうか、そうなんだ! そいつが引っかかっていたんだ、クソッ!」
おろおろと主人と少女を見比べる火車の言葉に被せて、小町ががん、と瓦礫を蹴った。
痛恨の表情で奥歯を軋らせ、死神、手負いの獣じみて唸り声を溢す。
「自律術式の擬似精神だ。それが下地になって、デカ人形に魂が生まれた…………そいつを、『キツネ憑き』にかっ攫われた!」
「萃香の身体を捨てて、大人形に乗り移ったということか? だが死神、毒というものはそう簡単には抜けないとお前は言った」
「ああ、ああ! その通りさ! よっぽどの条件が揃わなくちゃ、怨霊の毒といえど容易く宿主を変えられたりするもんか!」
眉を顰める勇儀に投げ返した言葉は、幾分八つ当たり気味ではあった。
関節各部を軋ませ、両手の剣を構えようとしているゴリアテを睨みながら、苦渋と悔恨に声を尖らせる。
「その条件をデカ人形は満たしちまった。生まれかけの無防備な魂なんざ、鬼さえ狂わせる程の憑依毒なら造作もなく取り憑ける…………魂魄のジジイと一緒に行動していたなら、他の『キツネ憑き』とやり合った際に毒を吸い込んじまっていたかも知れないしね」
霞む意識の遠くに、その言葉を聞き――
妖忌は愕然と目を見開いてゴリアテを見上げた。
――先程からの不調は、『キツネ憑き』の毒に蝕まれていたせいだったのか?
心臓が凍り付くような錯覚。
思えば彼女はある頃からか、時折今のように奇妙な不調を見せていた気がする。
あれは、そう…………『キツネ憑き』の群れから妖忌を護って独り戦い抜いた、あの夜からではなかったか?
斬り伏せられ、宿主の絶命を悟った『キツネ憑き』の毒が、あの時既に芽生え始めていたゴリアテの魂に目をつけて、その身体を少しずつ蝕み――今、伊吹萃香の身体に巣くっていた大量の毒を導いたのだとすれば?
――なぜ気付いてやれなかった。
吐息と共に、血を溢す。己自身を絞め殺してやりたい気分だった。
師匠面で、大言を吐いて、全て分かったような顔をして。
その結果がこれか。
自分を信じて共にいた……素直で、素朴で、愚直なこの物体を、みすみす『キツネ憑き』に堕としたのか。
なんという失態!
なんという体たらく!
なんという――――!
(無様)
震える。
感覚のない身体のどこかも既に分からぬが、己を内側から突き崩すような感情に妖忌は震えていた。
それは自責であった。
悔悟であり、懺悔だった。歯が砕けるほどに噛みしめても尚収まらぬ、魂魄妖忌という男の無様への赫怒であった。
地面を硬いものが擦る。
暗くなり始めた視界の端に、ゴリアテの靴が窺えた。巨大なつま先以外には何も見えないが、彼女が自分に向かって剣を振り上げている姿は容易に想像できる。
「ッ……ジジ、ィ――ッ……ヤ、…………ア……ァ、アァ、アアアァア――――!!」
「――――ッ!」
鉄塊が振り下ろされる気配がした。
身体は一寸とも動かない。技術も何もない棒を振り回すような一撃でも、這い蹲った半死人――今や「四半死人」だ――を黄泉路へ送るには十分すぎるだろう。
……それで良いか、とも思う。
当然の報いにも感じられた。彼女自身すら気付かなかった毒の侵食に唯一気付けたはずなのに、何一つ気付けなかった自分には当然の。
このまま彼女の剣に潰されるのなら、それも仕方のない事。
ぼんやりとした諦観に意識を明けわたそうとした、その時。
横合いから吹き込んだ旋風が、彼の身体を攫っていった。
刹那遅れて、たった今まで妖忌が倒れていた場所に巨剣が墜ち、轟音を立てて地面を砕き散らす。
横っ飛びに妖忌を攫った紅い旋風は、彼の身体ごとごろごろと路面を転がっていった。三間ほどもそのまま転がってゆくと、風はその勢いをかって起き上がり――小野塚小町の形を成す。
理解が及ばず呆然としている妖忌の肩を担ぎ身体を支えて、小町は埃まみれの顔を拭いもせずに大声を張り上げた。
「――っ待ちな! 聞こえるか、デカ人形! 早まるんじゃないよ!」
「そうよ! それはやっちゃだめなんだから!」
死神に継ぐように、誰かが甲高い叫び声を上げた。
小町の背にでも貼り付いていたのか、やはりドレスを埃まみれにした少女妖怪が地面に降り立つ。目を回したらしくふらつきながらも、地面に食い込んだ剣を引き抜こうとしているゴリアテへ懸命に呼びかけていた。
「そりゃ、人間なんかどうなってもいいけど――でも! こいつを、あなたが殺しちゃ、いけないんだよ!」
「こいつは……魂魄妖忌だ。お前さんと一緒にいた、お前さんの師匠だぞ! 殺すなよ、このジジイを殺しちゃいけないよ……!」
耳元で、死神が必死の形相でがなり立てる。
肩に回した妖忌の腕をしっかり支え、剣を振り上げたゴリアテを睨みながらじりじり距離を開ける彼女の傍ら、少女妖怪も後ずさりする。
それでも、ゴリアテに向けられた幼い顔は、一時たりとも逸れることはない。
「この半分人間は、あなたの大切な人なんでしょう!? 見れば分かるよ――――わたしは、分かるよ!」
「ジ……ジ、……、――――!」
「あなたはこいつを殺しちゃだめだよ、あなたの心が死んでしまう! 心が死んでしまったら………………人形は、もうどこにも行けないんだよ!!」
ひび割れた少女の声が、地下の空洞にこだまする。彼女がなぜそこまでゴリアテに思い入れるかは分からないが、その言葉に虚仮や虚飾が無いことは明らかだった。
虚言などのために、恐怖に震える脚で立ち続けていられる者はいない。
ゴリアテは――動きを止めなかった。
ゆっくりとこちらを向き、引き抜いた剣を歯車仕掛けの機械のように持ち上げてゆく。そのまま無造作に打ち下ろすだけで、死神や少女もろとも妖忌を粉微塵に粉砕せしめるだろう。
頭上に持ち上がってゆく鉄塊を睨んだまま、小町がぐびりと息を呑んだ。
「…………離れるんじゃないよ、毒人形。振り下ろす瞬間に『跳べ』ば助かるかも分からん」
「さ、三人運ぶ余裕はないんじゃなかったの、毒おっぱい?」
「一人でも難しい。地底へ来るのに、霊力を使いすぎた」
「……短い妖怪人生だったなあ」
途方に暮れて少女が呻く。
状況は明らかに絶望的だった。
小町と少女は元より、勇儀も、さとりも、火車妖怪も。最早満足に動ける者は一人としていない。為す術もなく、妖忌は目の前の光景を見つめていた。
暢気で素直なゴリアテとはかけ離れた、捻れて凶悪な殺意。先の萃香が纏っていた、『キツネ憑き』の狂気そのままの――
(――――、……?)
その時。
妖忌は「それ」を見た。
見たのではなかったかも知れない。聞こえたようにも、触れられたようにも感じる。最も正確に表す言葉は…………伝わった、であったろうか。
構えも何もない、力任せに担ぎ上げただけの剣を握りしめ、こちらを見下ろすゴリアテ人形。
その、瞳。
身体を蝕む怨霊の狂気に、ほんの紙一重の所で抗う作り物の瞳。
――その眼差しの意味を理解できたのは、きっと、妖忌だけだった。
恐らくは彼女の生みの親、アリス・マーガトロイドがこの場に居たとしてもその本意は伝わらなかったろう。
なぜなら、それは理に合わぬこと。
何一つ実るもののない、馬鹿げた、莫迦げた、愚かな想い。ゴリアテ本人にしか理解は叶わぬ。
だが。
魂魄妖忌には伝わった。
彼女の心が伝わった。
なぜならば――――
「………………」
そうか。
お前は、それを望むのか。
ならば。
――自分も、暢気に死んでいる訳にはいくまい。
ふらり、小町の肩を突き放す。
ぎょっとした彼女が慌てて何かを叫んだようだったが、その言葉は頭に入ってこなかった。
誰かの叫び声も、建物が燃える音も消えて行き、自分の鼓動だけが耳の中に溢れかえる。
それでも自分が呟く言葉だけは、不思議とはっきり聞こえていた。
「物体」
稀代の人形師に形作られた美貌を狂気の形相に歪めた人形は、ひょっとしたら何事か呻き返したかもしれぬ。
しかし妖忌にはその声は聞こえなかった。怨霊の毒が喋らせる譫言など聞いている余力はない。
ふわふわと感覚のない脚で地面を踏みしめて。
千切れたように実感のない腕を持ち上げて。
今にも剣を振り下ろそうとしている彼女へ、今度こそ告げる。
お前は、
――――月を、斬れ。
本当に、そう言うことが出来たかどうかは分からない。
穴へ吸い込まれるように遠のいて行く意識の中、妖忌は全身から力が抜け落ちるのを実感していた。本当にひと言言葉を発するだけの力しか残っていなかったらしい。
我が身も老いたと自嘲混じりに考えるが、ともあれ用は足りたのだ。
あの物体に、伝わったのだから。
(そうだろう? この…………莫迦弟子め)
視界が暗闇に閉ざされる、その一瞬。
「――――――――」
こちらを睥睨するゴリアテ人形の顔にほんの一片、ふにゃりと、とぼけた笑みが浮かぶのを確かに見届けて。
妖忌は、辛うじて繋いでいた意識を手放した。
【続く】
『ふりふりプリティなお人形』おおむね同意。
血が滾る感じ。面白い。止まらない。
素晴らしい、感動した――いや、感動している。さて、最後行ってきます
迅雷の如く4へ急行いたします!
発狂してまうところやで~
ラスボスは萃香だと思ってた俺の負けです。
では4に行ってきます。
師匠で祖父のあんたが狐憑きの毒や死亡フラグ如きを叩っ斬れないでどうするよ?
大団円以外認められねぇ。
コマロフ大佐になるのは許せねぇ。
今宵はお誂え向きの満月だ。そいつを真っ二つにするまではくたばってられんだろうがよ、爺さん。
配分が凄いっていうかなんというか、ある種別次元だ
すごく今更だけど、妖忌は半霊を活用しないんだな。
このまま一気に読み進めたいと思います。
すいか可愛い
続きが気になってラスト読むまで寝られないじゃないか、明日も平日だってのに!!
タイトルは『野苺と剣侠』のロケットという意味だったか。
そしてめらん子に言われて気づいたが登場人物のおっぱい率が高くないかー、このおっぱい作者め。
最終話へ行ってきます。
⇒共感します!
変態、いえ魔法使い…(1)
変態、いえ人形師…(2)
⇒つい、うっかり口を滑らしてしまった、と思いきや、しっかり二度目も滑るなんて
もはやこれは確信犯w(大事なことなので2回言ったんですね?わかります。)
毒おっぱい
桃色おっぱい
気が早いおっぱい
勘違いおっぱい
⇒よりどりみどりじゃないか!
妖忌一向が地霊殿門前で勇儀&萃香に出会うシーン。
「そいつが断然、気に喰わん! 我が同胞にして旧き朋友――――伊吹萃香が『キツネ憑き』なぞにびびりくさっていることが、あたしは堪らなく許せんのだ!!」
ここのセリフだけ違和感がありました。萃香に訴えかけているのではなくて、妖忌一向(と読者)に
ものすごい勢いで自己紹介しているみたいな感じでした。さとりや妖忌一向に「・・・と思っているに違いない。」という風に地の分で説明させた方がいいんじゃないかなと思いました。
しかし、ささいなことです。4話に行ってきます!
早く次へ!
アホなこと言ってないで次行ってきます!
最高傑作にしか思えない。
ブラ……ザー? わぁい
・燃えカスと硝煙と空薬莢を後に残す鉄砲玉の剣…こういうのが可能なのは痛苦を感じない人形か、
半分冥界に片足突っ込んでいる存在くらいだと思ってしまうのは、自分が心理的限界に縛られた
人間だからでしょうか。
なんにせよ、主と身内、服と髪をかえりみるくらいはした方がいいんじゃないかなーと感じてしまいます。
・毒と人形と怨霊の因果関係を、原作に忠実な形で纏め上げる手腕にはただただ舌を巻くばかりです。
感想は完走したら
剣でも盾でもない、妖忌にしては随分とハイカラな剣ですが、幽々子様の説明を聞いてみればなるほど然り、よく似合う。
そしてゴリアテがロケットの剣となって月に挑む――見事なお手前で御座いました。
萃香の不調、ゴリアテの魂と不調、伏線の回収も綺麗でお手本にしたくらいです。
メディスンが毒としてだけではなく、ゴリアテのために人形として関わってくるのも感動。
次を、次を読まねば!
涙をこらえながら文章を読んでいくのはとても心地よいです
霊力ではなく妖力ではないでしょうか?
4まで読ませてもらいましたが素晴らしかったです。ボリュームもありましたが1回で読み切ってしまいました。
ゴリアテと妖忌の関係が少しづつ進むのもとってもいい。