Coolier - 新生・東方創想話

棘之庵 ~The end peacefully.  右編

2011/10/03 00:28:51
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前回までのあらすじ
三十路手前、縁起の纏めも転生の準備も終わってあとは死ぬだけの稗田阿求。その余生を過ごすため、代々の阿礼乙女が住んできたという『棘の庵』に一人住まいを始めました。一年間の猶予でなにが変わるのかと、訝しげに想いつつも楽しげに暮らしています。





     葉月




 茶を飲み、一服。原稿の進みが悪ければ、頭の整理と銘打って休憩するが、このところ無意味に惚けていることが多くなってきた。縁側にわざわざ座布団を持ってきて、筆が遅々となる度に茶請けと洒落込むと、いつの間にやら西日に惑わされ、そして気がつけば寝床を用意し、寝る。まるで老人である。よしんばこの歳にしてこの達観ぶりなら、仙人にでもなるのかと言わんばかりだが、もし、私がどこぞの仙人を師に迎えたとしても、その修業には到底ついていけようはずがないと想う。無食無睡にして鉄心透根を得るには、あまりにも雑念が多すぎる。なにより、甘味を除くなどそれこそ地獄だ。
 日がな一日をそうして過ごすと、存外にも細かいことが気になり始める。掃除をするにしろ書棚の整頓にしろ、目に入るすべてに意識を届かせ、自分の手が入ったものばかりにしないと気が済まなくなった。模様替えと称し、ばたばたと部屋をひっくり返しては庵の埃を外へと撒き散らすので、先日など生垣越しに近所のおばさんから元気そうだねと、それはそれはあっけらかんに言われた。暢気なものである。
 そうこうしているうちに日が暮れて、やはりあっという間に寝に入る。そして類稀な飽き性も併せ持つのが私という人間なので、片付けは遅々として進まない。原稿も進まない。
 細かいことと言えば、部屋の天井に張った蜘蛛の巣に、月が引っ掛かっていた。天井の隅っこ、二方の壁と三角を形成している箇所に巣食った蜘蛛の巣は、いまやずんぐりと丸い月を抱え込み、見るからに重そうな網目と化していた。目に入るのがいつのときも昼間なので、退治するのを先送りにしていたあの蜘蛛の巣に、よもや月が引っ掛かるとは、一体誰が予想だにしただろうか。きっとこの巣の主が一等仰天していることだろう。その慌てぶりを想像するに、さっさと私に巣を壊されてしまった方がきっと楽だったと想えるほどで、不憫でならない。自分の家に、あのお月様を想い掛けず一人占めしているのであるからして、彼の緊張というか気不味さはもはや計り知れないのだ。
 だがこれは大事なのだろうか。言っては悪いが私にとっては大したことない気がする。ということで、オモリ先生を連れてきた次第である。

「真宵月、と言うやつだろうか。迷いと真宵(まよい)を掛けた、月の怪現象だ。これは立派な変事だぞ。まずいな」

 そう言う上白沢教諭とふたりして蜘蛛の巣を見上げていると、私はなんだか、奇妙に楽しくなってきた。

「やはり大事か。だろうな、私もそう想っていた」

 いかにも困った顔をして、私は蜘蛛の巣に目を凝らした。内心の浮かれた想いを眉間の皺に隠し、この後どうなるのだろう、などと考えている内に、上白沢教諭が唸り出した。鉛頭を傾け、右手で頬をさすり、難しい問題を前にしている童のように、出せない答えを悶々と見つけようとしていた。心なしか頭から湯気が出ているかのようにも見え、流石に私もことの重大さに見当が付き始めた。
 私が後ろ手にする動作を察してか、上白沢教諭はこちらを見遣ってきた。少し私よりも高い視線が、探る気配を寄越してくる。

「おい、なにを隠した」
「いやなにも。酒なんぞ隠してないよ」
「お前まさか、この期に及んで月見酒をしようなどと。馬鹿。なにを考えているんだ」
「だからお月見をだな」

 片付けてこい、との口調に呆れが滲んでいるのが分かったので、渋々勝手へと酒を置きに行く。私が戻るのを確認し、上白沢教諭はへの字に曲げた口で解説しだした。

「真宵月と言うのはその名のとおり月が迷い込むことを指す。たまにずっと新月が続くときがあるだろう、そういうときは、月がどこかに行っているんだ。だがまさか、お前の家に来るとはな。しかも蜘蛛の巣に落ちて動けないなんて、馬鹿げている」
「でも月だぞ」
「ああ、月だ」
「いや」

 真面目な話をしているのか冗談を言っているのか、こういったとき、上白沢教諭の沈着冷静な顔を見て余計にそれが分からなくなり、果たして私がどのような態度を示せばいいのか、もはや禅問答めいてくる。

「空の上にある月とは、そう簡単に居なくなるものなのか。いや、違うだろう。それに月をそんなによく観察したことはないし、本当にどこかに月が出掛けているのか」
「目の前に引っ掛かっているではないか」
「いや」
「月を甘くみるな。ずっと遠くに居るようで、あれの実体はすぐ近くにある。幻のようで実像を結び、実体のようで露に霧散する。そこに在る、という概念が月の正体だ。どこに在っても不思議じゃない、消えようが出掛けようが月は存在するんだ」
「ふむ」

 分からないことが分かった気がする。なるほど、流石は月を寄る辺とする妖怪のひとりである。自らの進退にも影響するのだから、ただの人間よりも月に関する知識には一日の長があるということか。しかしそれを証明する第三者の言が無いので、眉唾物であるのには変わりないのだが。
 どうしたらいい、と私は聞いた。そうだ、月の素性など知ったことではない。

「放っておく」

 私は呆気にとられ、耳を疑った。

「下手に触れると危険だぞ。あれは紛れもなく月なのだからな。最悪、吸い寄せられて気付けば月に居た、なんてことになりかねん。時間や空間などは考えにもならん」
「いまや蜘蛛の巣に掛かった白い手毬のようだが」
「はたき落として済めばそれでいいがな。試しに触れるか。あの巣の主のようになりたければ」

 と、そう言った上白沢教諭が顎で指し示す。私はふいっと見上げて目を細め、蜘蛛の巣の主を探した。ところが、その主の姿が一向に見つからない。あんな八本足にして、目立つ配色の虫を、例えれば歩く振袖のような姿を、どうしたって見逃せようはずがない。

「行ったのか」
「そうだ。月へと行ったんだ」

 きっと、獲物が掛かったと見て意気揚々と近づいたのであろう。それが図らずも自らの手に負えないものだと判断するかしないかの瀬戸際、彼は飛んだのだ。月の世界へと。
 牙で食すときか、それとも糸で絡めようと足を出したときか。なにも知らずに巣を作っていた頃を走馬灯に、月という厄介者に触れた彼は如何な想いで消えたのか。つうっと背中が冷える感覚と共に、哀愁とも取れる手持ち無沙汰を、私は抱く。なんだかかわいそうである。

「助かる見込みはあるのかな」
「万に一つ。あるいはそれ以下だな」

 静かに合掌する。
 死に遅れと言える私でも、やはり月に飛ばされたくはない。蜘蛛の彼には悪いが、ここは反面教師に立ち回って頂き、私はそっと触れないことにしようと想う。彼の犠牲を、無駄にはしない。閻魔様には宜しく言っておくので良しなに計らってほしいものだ。まだ死んだかどうかは分からんが。
 午後の授業があるのでな、と、上白沢教諭はさっさと帰ってしまった。この月の扱いについて食い下がる私を無下にも払い退け、ただ不安だけを植え付けて彼女は去って行った。まったくもって無責任なものだ。
 放っておくしかないという、後手後手でしかも処置と言えるほど効果的ではない方法に、きっと先達である蜘蛛の彼も無念がっているであろう。
 しかして、これ以上なにが出来ようか。上白沢教諭を批判したはいいものの、私だとて良策がある訳でもなし。むしろ軽んじているはずの件の助言に対してどこかで胸を撫で下ろしている私が居て、さすれば流れるままに任せ、散々たる受け身でしか心の安寧を保てないということだ。これはなにが起ころうと事実に従い、あるがままを記録する稗田家ならではの体質が、所謂悪癖となっているのかもしれない。歴史の当事者ではなく、あくまでも記録者であり続けようとする気概は決して悪くはない。だがそれで害を被っては悲しい。
 こうなれば、とことん受け身で居るというのも面白いと想える。少なくとも、関係の無い第三者ではないのだから、記録者としても一個人としても、真宵月とやらをこの目に修めてやろう。新しく幻想郷縁起に纏めてみても良い。私にはその能力と気概があるからして、それを使わない手立ては無いのだ。
 私が認め、書き綴れば誰かが知ることとなり、また誰かに伝わっていく。上白沢教諭の知識にも面目が立つ。私のように眉唾などと想う者は居なくなる。物書きとしても、稗田の人間としても、それは誉れ高い、一等価値のあるものだと想える。そしてそれを正確に、事細かく情緒に溢れたものにする為には、大きく広い網を、蜘蛛の巣のようになにものをも取り込む精神を広げ、須らく、受け身でなければならないのだ。
 私は今一度、月を見上げた。まあるく、雪洞のように幽かに光を放つ月が、心なしか不安げな表情をしているように見えた。月の表情を読むなどこれまで考えたことは無かったが、そうか、月とて心細いのかもしれぬ。

「ちょっと待ってて」

 誰に言うでもなし。
 いや、私は月に言ったのだ。蜘蛛の巣に囚われた、ひとりぼっちの月に。乙女のようなことをしてしまった、と、少しだけの後悔を残して、私は庵の勝手から飛び出した。


 郷の呉服屋にて濃い藍色の反物を、蝋燭屋にて蝋燭の短いやつを三個、それぞれ実家名義の後払いにして掻っ攫うように集めた。最後に、売り歩いていた棒手振りを捕まえているところを、たまたま用事で出歩いていたオケラに見つかり、咎められる。私はそれを無視しつつオケラの財布から小銭を拝借し、棒手振りに払い、真っ赤になったオケラを引っ張って庵に帰着。ふいに、暑い最中の道中でほとんど喋らなかったと、勝手でつっかけを放り脱ぎながら想い返した。

「なんなんですか。稗田家のご当主様であろうお方が、界隈のど真ん中で手銭も持たずに買い物なんて。恥ずかしくないんですか」

 私が脱ぎっ放しにしたつっかけを手際良く揃えながら、オケラが言った。用事から帰る途中だったらしく、小さな紙袋を持っていた。オケラは私の目から逃すようにそれを懐に入れるので、訝しげに想う。丈夫そうな雁皮紙に包まれたもので、見憶えがあった。
 私が、家の誰かが風邪でもひいたか、と聞けば、オケラは手の動きを止めずに懐深くまで紙袋を入れきった。
 紙袋は薬入れ。身体が弱かった小さい頃、よくあれで薬を渡されていたことを鮮明に憶えている。真っ白い粉薬は非道く飲み難く、喉に引っ掛かる食感と共に舌には苦味が、鼻孔にはつんとした消毒薬の臭いが残る。その忘れられない記憶が告げているのだ。あれは間違いなく薬入れだ、と。
 少し間を置き、オケラが擦り切れるような声を出した。

「いえ、あの、大奥様がちょいと風邪をこじらせまして、その」
「おばばか。あの人ももう歳だからな。精の付くものでも作ってやってくれ」
「お顔を見にお戻りになられないんですか」
「そこまで悪くなかろうさ。いいよ、いいよ」

 祖母は近所に住んでいる老人たちの中で一番の元気さをその小さな身に宿していた。齡九十をとうに過ぎていたが、腰も曲がらず脚も悪くならず、頭は言うに及ばず回転が早い。それに私に厳しく読み書きを教えていた頃から今まで、祖母が病気で床に伏していた記憶が無く、弱々しいおばばを想像する方が些か難しい。どうせ、元気過ぎて脚を挫き、慣れない布団生活に気が弱くなっているだけだろう。脚が治れば自ずと良くなる。

「それよりオケラ、手伝ってくれよ。実は途轍もない居候が来てな」
「は、はあ。猫か犬ですか。そう言えば昔から飼いたがっていましたものね」
「ふむ。同じようなものだ」

 誤魔化すつもりでも、はぐらかすつもりでもなく、私は言った。誤解があるかもしれないが、実際そう想ったのだから、嘘を付く必要も無いのだし、正直に言ったまでだった。そうして、勝手から指でオケラに見るよう促す。

「なんです、あれ」
「月だな」

 はあ、と、オケラは落ち着いているともなにも考えていないとも取れる声の返事を、蜘蛛の巣にかかった月を見ながら言った。こいつのことだから、またやいやい騒ぐかと想ったのだが、存外、冷静ではあるようだった。
 それとも、あまりにも異常なことに頭がついていけず、反応すら出来ずに居るのだろうか。人は己の認識で捉えられないものにはひたすら無頓着になると言う。オケラも、そのような状態に陥っているのだろうか。
 それならそれでうるさくないなと、私は話を進める。

「あの月が寂しそうなのでな、ちょっと仲間をこさえてやろうかと想って」
「へえ。それでお恥をお晒しになっていたんですか」
「うるさいな。いいから手伝ってよ」

 月には反応しないくせに、私のことには文句を言うのだから、オケラの認識力とやらもたかが知れている。私への反応に特化しているあたり、オケラらしいと言えばらしいのだが。
 自分も脱いだ草鞋を勝手の隅に置き、オケラは未だ蜘蛛の巣に月が引っかかっているという異常が飲み込めないのか、あまりそちらを見ないようにして庵に上がってきた。その様子が怯えているような情けない及び腰だったので、私は荷物を持ち上げながらおかしく想った。
 荷物を解き、私は紺色の反物をオケラに手渡す。庭向きの障子を閉めて、反物で外から覆い光が入らないようにしてくれと頼む。呉服屋の主人は、お若い方が着るならもっと薄い色が良いと言っていたが、用法が違うので愛想笑いで聞き流した。こんな使い方をするなどと言えば、愛想だけでは済まないのだから、お互いの為にも黙っていたのだ。
 オケラの影が障子に映り、しきりに背伸びをして反物の幕を張っている。まだ薄く光が感じられるので、二重に重ねてくれと声を掛けた。はいはい、とのオケラの返事に良しと頷き、私は荷から蝋燭を取り出す。
 小さな、売り物にならない、欠片のような蝋燭だ。製作の途中で砕けた蝋燭を、店先で二束三文でバラ売りしてあったもので、用途としてはたぶん、敷居に擦り付けて戸や襖の動きを滑らかにするとかだろう。その中でもなるべく芯が出ている、蝋燭として使えるものを選んだ。必要条件は十分であるし、少しは倹約だと想える。自己満足と言うか、あとでオケラに怒られたときの言い訳、保険の役割が強い。
 そして棒手振りから買った雪洞を引き寄せる。白い無地の、和紙特有の柔らかさを薄く引き延ばして丸めたような雪洞に、上の穴から手を突っ込んで蝋燭を取り付けた。提灯のように蛇腹ではない、のっぺりとした丸みを優先して選んだら、こんな蝋燭を立て難い雪洞しかなかった。それ故に満足している。色や形は、満月そのものだ。

「それはどうするんです。わざわざこんな暗くして」

 そそくさと、庭向きの反対側から襖を開けてオケラが入って来る。私が言った通り外からの光を塞いだので、部屋はほとんど暗闇、辛うじて差し込むのはオケラが開けた襖の光だけである。それこそ反物のような光の帯を頼りに、私は蝋燭に火を灯す。予め勝手の種火から貰い受けた、仄かな火だ。

「あちちち」
「気を付けてくださいまし」

 雪洞が火を得る。滲み込むように和紙に光がほころび、蝋燭の芯に炎が馴染むと、ふらふらとした灯りの月となる。出来上がりに満足した私の息に、雪洞月が揺れる。これで良い。
 オケラとふたりで眺めていると、雪洞の下が燭台ごと外れて都合良く分けられることに気付く。灯りに浮かぶ顔同士でひとしきり笑った。もうちょっとだけ遅いのだ。

「この雪洞をな、天井からぶら下げるんだよ」

 言いながら私は天井へと糸の先を投げ、そのまま梁の上を通して雪洞を括る。高さは、輪にした糸の長さで調整。蜘蛛の巣に引っ掛かった月と同じ目線、すぐ側に浮かぶようにした。
 そうしてようやく、部屋に新たな月が灯る。今度の月は私が呼んだお手製のものだ。触っても吸い込まれない、安全で簡単な月ではあったが、見栄えはなかなかだ。それに、当のお月様だとて満更でもないような様子である。いや、依然として表情を読み取るのは難しいのだが。ふむ。
 なんで星じゃないんですか、と言って、オケラが未だ伸びる光の帯を器用に使い、残った蝋燭を片付け、種火を指で挟んで始末する。

「うん」
「月はふたつも要りませんよ。夜は明るくなるだろうけど。……寝入り難くなるだろうけど」
「せっかく月が来てくれたんだから、遊び相手が必要だろう。夜空には、居なかったみたいだし」
「阿求様じゃなくてですか」
「私は丸くないだろう」

 意味深に首を傾げ、オケラは最後の蝋燭を荷に入れる。それを鬼灯のように縛り込むと、入ってきた襖から出て行った。そのとき襖をぴたりと閉じていったので、ついに部屋の灯りは月と月だけになる。目が慣れれば、想いのほか真っ暗ではないと気付く。
 ぼおっと浮かぶふたつの月は、まるで仲の良い兄弟のように、お互いを照らしながら天井の隅に佇んでいる。そう想うと、私は天地創造を担ったような大仰な気になり、心静かながらも足が浮き立つ忙しない気分になる。そぞろな心持ちだ。
 月と言えば天体のひとつであって、蜘蛛の巣に落ちていると言えどもやはりその印象的背景には人智を超えた存在感が紛れもなくあるのだ。その月と対となる新たな月をこしらえたことに、今さらながら多少の心許なさが過ぎった。
 蜘蛛の彼がきっとそうだったように、手に負えない不安感と果てしなく超俗したものを手中に収めた高揚感がない交ぜになり、私の心根は一石を投じたように波を立てる。元来が小心者故に、変なところで後退りする私の悪い癖だ。実際は恐ろしいものなどなにも無いのに。
 そのあかしに、見上げた月は笑っていた。
 もちろん、表情が、ではない。なんとなく、そんな風に想えたのだ。それに比べて私のこさえた月はぶっきら棒である。もう少しなんとかしなさい、お前。
 不意に襖の向こうからオケラが呼んだ。味噌汁の具は茄子でいいかと訊ねてくる。

「いいよ」

 私が勝手まで聞こえるよう声を張ると、月が動いた。最初はおっかなびっくり。次第に重さが無くなり、まるで風に乗るサボン玉のようにすいすいと宙を滑り出す。おお、と、想わず声が出る。
 蜘蛛の巣から自由になった月は、自在にその丸みを泳がせた。天井高くまで昇ったかと想うと、すぐさま畳すれすれまで急降下。畳の隙間の上をなぞるように動き、壁際まで来るとそのまま柱を途中まで走り、今度はなんの気なしに、優雅に脈絡も無い軌道で宙を掻く。ぐるぐる廻ったかと想えば一転、流星のように部屋の端から端まで飛び、時折もったいぶった動きもすれば、すぐ薄情なまでに元気に跳ねる。
 荒唐無稽で自由奔放な様子に、見ているこちらは気が気ではない。なにしろ触ったら月の世界に飛ばされるのだから、誤って触ってしまえば最後と想い、私はなるべく身を小さくしていた。
 それでも、見ている分には楽しげだった。なんとも嬉しそうに飛ぶのだ。元気に動いていることもそうだが、私がこさえた月へ話しかけるように側へと寄り添ってくれるのを見ると、より一層楽しくなり、なんだかこちらが照れてしまう。まるで逢瀬を楽しむように、付かず離れず、愛でるように愛されるように、月は踊る。その実、雪洞ではあったが、やはり仲間が出来て嬉しいのだと想えた。
 畳に寝そべりながら、月の軌道を目で追う。これならば喜ぶ月の邪魔にはならない。
 真宵月。新月に入った月がどこかしらへ出掛け失せる現象。そしてどこかへと迷い込んだ月に触れた者は、月の世界へと迷い込む。上白沢教諭が月は概念でしかないと言っていたが、その割に関わったときの代償は大きいと感じた。月はどうして出掛けるのだろう。そもそも、概念でしかない月が意思在る如きこのような現象を起こすだろうか。月は何故、私のところへ来たのだろう。
 想い耽るうちに、ひとつ、事実に気付く。月に触れた者が月の世界に飛ばされるということを、如何にして伝えられるようになったか、だ。

「阿求様、合わせ味噌はどちらが多めが良かったでしたっけ」

 急に、暗かった部屋へ再び光の帯が挿し通る。畑に採りに行っていたのだろう、手に茄子を持ったオケラが襖を開けてこちらを覗いたのだ。
 するとそれまで宙を泳いでいた月が、突如として襖の隙間へと駆けた。

「あっ」

 オケラの短い叫び。咄嗟に身体が動いて、襖ごとオケラを押し倒す。暗がりから文字通り飛び出した月は、私の背をかすめ、勢いそのままに勝手の土間床へと落ちた。
 瞬間、腹の底を揺るがすような、地響きと衝撃が庵にのしかかる。それが月の重さに寄るものだと理解して恐怖し、月にしては軽い気がするとも想えた。どちらにしても、手毬くらいの大きさのくせに、大した重量があるらしい。オケラの頭を襖と畳で挟みながら、私は身体を強張らせて月の動向を伺う。

「阿求様、重い、痛い、なにも見えないです」
「我慢しろ。月の世界になど行きたくないだろう」

 襖でオケラを隠す。これなら一度の接触には耐えられる。重さは、仕方ない。
 土間床に衝突した月が身動ぎした。まるで頭を打って目眩を覚えているようにぐらぐらとその場で廻っている。でもどこが頭なのだろう。頭なんてあるのか。

「こっちだよ、おいで」

 踏みつけた襖の下から聞こえる低い悲鳴を無視し、私は勝手に降り、月の横を通る。つっかけは今の地響きでどこかへ失せたのか片方が見当たらない。もとより、そんな暇も無いので裸足のまま月を外へと導く。耳もなにも無いくせに、それでも月は私を追いかけてきてくれた。
 勝手口からは四角く切り取られた陽射しが差し込んでいた。いままで暗い部屋に居たから、やけに眩しく感じる。後ろから月が迫る気配がする。やはり外に出たがっているのだ。
 足裏が冷たい土から焼けた土に変わった瞬間、外へ出たと想うも、背丈より大きい壁に阻まれて、私は身体全部で踏み留まる。見上げれば、模様替えと称して出して置いた本棚。勝手口の陰になって中からは見えなかった、横着による、自業自得の顕現が私の前に立ちはだかっていた。
 元来運動が得意な身体ではない上に、驚愕と逡巡がない交ぜになって左右に避けることさえ想いつかない。私の頭で後悔が生まれるよりも前に、背中になにやらぶつかった。振り返ることさえ、想いつかなかった



 地平線というものを初めて見た。ずうっと彼方に、夜空と地面とを別ける線が、在る。暗くとも満天と呼べる星を浮かべた夜空と、白い丘陵が続くなだらかで味気ない地面。それらふたつは仲が悪いのか、決して交わらない線をずっと遠くの方に曳いて在る。遠くとは言ったが、どうにも遠近感が無い。近くのものは言うに及ばず、遠いものも輪郭や色合いがはっきりと分かるのだ。その明瞭とした地平線のせいで、余計に天と地は仲が悪いように想えた。
 とても静かで、ほとんどなにも聞こえない。唯一、私の鼓動だけが脈打っていて、そこ以外の熱はこの世界では残っていないようだった。人も、動物も、鳥も、植物も居ない。灰が積もったような白い地面は砂が非道く細かい。私の畑に見る湿り気などまったく感じられず、なるほど、これではぺんぺん草も生えはしないだろう。熱が生まれるのを頑なに拒んでいる、そんな気概を白色に現していた。
 見廻したぐるりは一様に地平線だけだった。時折想い出したように緩急ある丘が波打つが、それ以外はのっぺりとした豆腐のようである。私はさしずめ、胡麻かなにかか。少しだけ美味しそう、とも想う。
 反対に夜空は美しく、地平線から伸びた天の川が逆側の地平線まで繋がっている。その天の川が沈む先、脈々と流れる星を背景にして、人が立っていた。黒く、漆塗りのように濃い色をした御髪。肩を過ぎて肘の辺りまで広がっている黒髪は、夜空の深淵の如き輝きを持っていた。着物姿はどこか垢抜けた着こなしを映えさせ、紅型小紋の淡い色遣いが程良い奥ゆかしさを印象付ける女性であった。
 いつからそこに立っていたのか、すらりとした振る舞いには焦れったさや気兼ねなど微塵も無く、自然な容姿はこちらの心根をゆったりと受け止めてくれそうな、この寂しい世界で唯一の暖かみを持ち合わせているかのようだった。
 魚の鱗のように透き通った綺麗な肩掛けを直し、彼女は袂からなにかを取り出した。私のつっかけであった。それを臍の下辺りに両手で大事そうに抱える。彼女の真っ白い足袋に草履の足元が、かすかに地面から離れている。
 私がつっかけを返してもらう為に近づこうとするも、足が宙を空廻りしてまったく前に進めない。それどころか、想いも寄らず後ろへと仰け反るように身体が廻ってしまう。わたわたと慌てふためいて天と地が逆になる。下になった夜空に青い色をした巨大な球があった。
 そのまま一周して白い地面がまた下にくると、いつの間にやら女性がすぐ側まで近づいていた。どうぞ、と、手を差し伸べてくれる。私は薄いその手に縋り、やっとこさ落ち着く。恥ずかしくもお礼を言うが、声にならない。身振りで伝えようとし、ついでにつっかけも私のだと手を動かすも、女性は理解しているのかしていないのか優しく微笑むばかりである。
 言葉が使えないとこんなにも物事を伝えられないものかと、恥ずかしいやら悔しいやら。お礼が言えないのでは悪餓鬼でもあるまいし、稗田家の当主としてこれではいかんとして深々と頭を下げた。滑稽であるのには変りないので、余計に顔が赤くなる。女性の様子を伺えば、つっかけを返してくれる雰囲気は無い。なかなかの手練のようだ。
 とみに、女性が宙を指さした。その雪を纏った枝のようにか細く白い指を辿れば、なにかきらりと、線を曳くものが漂っていた。それは風も無いのに揺らめく蜘蛛の糸であった。糸は想ったよりも長く伸びているらしく、時折夜空の闇に消えるが、全体としては先端など知れる余地も無いほどに、長い。でもどうやら上に浮かんでいるあの青い球に繋がっているようである。
 地獄に蜘蛛の糸を垂らす仏の話を聞いたことがある。さすればここは地獄かと懸念するも、いささか趣きが異なるし、そんな場所に目の前に居る女性は似合わないのできっと別の場所なのだろう。
 ふと、ここは月の世界なのだ、と、まったく想いがけず心に浮かんだ。それと同時に糸へと手が届き、女性が和やかにお辞儀をして最後、私の記憶は閉じた。



 気づけば布団の中に居た。またあの暗い天井が見える。いつぞやと違うのは、オケラが私を覗き込んでいることか。顔には安堵と、痛々しいほどの悲しさが在った。私が右腕を上げようとすると、すでにオケラがそちらの腕を押さえつけていて、掌が塞がれていた。じっとりと汗で濡れた感触に、自然と言葉が零れる。

 暗い天井をしばらく眺めていると、上白沢教諭がやって来た。部屋の行灯で横顔が陰る。そこでようやく夜の時刻なのだと想うも、いったいいつの夜なのかは見当がつかなかった。静かに、障りにならないように座る衣擦れの音が少々、申し訳なかった。上白沢教諭は溜息を吐いて、なにも語らずに姿勢を正している。無言ほど辛いものはない。
 どうやら、オケラが授業中にも関わらず飛び込んで来たらしい。突然の来訪者に騒然となる子供らを制し、冷静に対処する上白沢教諭の姿が目に浮かぶ。そのまま授業を切り上げ、庵に駆け込むも、消えた私のことをまったく見つけられなかったという。さらに外を血眼で探し、これはもはやと急いで村人を集めるため庭から通りへと出る間際、庵の縁側、藍色の反物の山から足が覗いている。めくると、私が眠っていた。手には魚の鱗のように透き通った肩掛け。足の裏に、白い非道く細かい砂をまぶしながら。
 なんだか気不味くて私も黙っていると、お前は猫のようだな、と、上白沢教諭はやっとこさ口を開いた。

「あまり皆に心配をかけさせるんじゃない。無茶をするなと言っただろう、猫じゃあるまいし」
「まるで猫なら構わぬような言い方だね」
「猫はな。あれはいいんだ。飼われてはいるが一線を曳いている。決して交ざらぬ線さ。でもお前は違う。飼われているのではないし、第一、お前は人なのだからな」
「今度は気をつける」
「ほら、やはりお前は猫なんだ。次がまた来ると想っている」

 飼われておらぬというところが猫より質が悪い。そう言って、上白沢教諭は行灯を開ける。空気が入って一瞬勢いを増した蝋燭の火が、赤い心の臓ように脈打つ。焦げた鼓動で蝋が垂れる。上白沢教諭が一息で火を消すと、蝋が冷えて、熱の形が固まる。

「気になるのだろう。月が」

 言わずにおいたことを先に言われる。こちらが気を利かせたことを相手に読まれると、気を利かせないときより立場が危うい。これが良い例である。いや、悪い例とも。
 行灯の形が闇に溶け、上白沢教諭の影が私を背中から抱き起こした。腕に力が入らない。支えられなければ上半身を起こすこともままならない。支えてくれる影の腕は力強く、私の畑の匂いがした。きっと私の代わりに土を弄ってくれたのだろう。起こした上半身で、私は深く息を吸った。
 暗い部屋では壁も天井も無い。ただ庭に面した障子だけが格子を目立たせ、四角い光が月の面影を魅せる。もはや、それだけでは物足りない。
 上白沢教諭が障子を開けてくれた。吹き込む夜気が肩を裂き、爪の間にまで侵入してくると全身が痺れるように強張る。目を細め、月の光が降り立つ庭が滲む。もう夜も遅いのか、月が高く、軒に隠れてまだ見えない。

「引きずってもいいよ」

 私が両手を上白沢教諭に向けると、彼女が近づいて背中を差し出してくれた。その背中に凭れながら布団の中で脚をたたみ、正座の格好まで持っていき上白沢教諭の肩に手を廻す。身体全部を背中に預ける。ふわっとした浮遊感の後、慣れない目線の高さに少しだけ嬉しくなった。

「意外と重いな」
「うむ。食べ物が美味しいからだな」

 良いことだ、とだけ言うと、上白沢教諭は私をおんぶしたまま庭へと畳を歩きだした。重いと言いながらも、足運びは至って軽やかである。だが歩幅は狭く、それが私の心を焦らす。
 部屋から縁側を経て庭まで。幾らも無い距離なのに、随分と長く感じる。
 小さな想いが、積み重なるように高くなる。縁側に座らせてもらうも、上白沢教諭の背中が邪魔で、つい急かす身体を傾けて夜空を仰ぐと月が、見えた。

「昨日までが新月だったから、今日は二日月。既朔、とも言う」

 上白沢教諭の言葉のとおり、夜空には月が、薄く開いた瞼のようにその細身で弧を描き、当たり前に浮かんでいた。
 いつもと変わらぬ月。しかして変わらぬ月を見上げる心持ちが変わった私には、その当たり前が言いようのない感慨を抱かせる。心根がしんと静かになった。
 想い出したことがある。稀に流れてくる幻想郷の外の人間が漏らす、恋慕にも似た故郷への想い。嫌悪して、逃げてきたはずの外の世界へと向けられた懐古の言葉が、私の記憶から溢れ出る。当たり前が大切だった、などと吐いた彼が、俯けた顔に確かな後悔を滲ませるのを私は憶えている。そこに在るのが当たり前過ぎて、蔑ろにしてしまった罪を背負うかのように、彼はいつしか、幻想郷からも消えた。
 懐古の念がそうさせるのか、それとも必要とされない幻想郷が彼を排除したのか、私には分からない。でも、今は彼の想いなら分かる気がする。彼と同じ想いを、懐古の念を、私は見上げた夜空に抱いてしまった。故郷なら、この幻想郷のはずなのに。

「やはり、月に行っていたのか」

 私の肩に手を置きながら、上白沢教諭が質問を落とす。身体に堪えるからと、広げてくれたのは私が持ってきてしまったあの、魚の鱗のように透き通った肩掛けだった。何故か、月に居た女性の顔を想い出せない。
 私にも分からない、と、嘘をついた。


 次の朝、身体は軽く、起き抜けに畑を弄る。新しく加わった茄子は植替えの割には土にすぐに慣れ、腫れあがるような実を大きくさせている。水をやり、葉月の賑わいが私の庭に踊ることを誇らしく想っていると、勝手からオケラの声がした。
 月よ、あなたはやはり優しいのだなと、私は想う。部屋の蜘蛛の巣に、いつの間にやら主が戻って来ていたのだ。畳に寝転びながら巣を修復する様子を観る。いまや隣に浮かぶ私の作った月をも巻き込んで、その範囲を勢いづかせていた。
 ひとつ、間違えていたことがあった。どうやら蜘蛛の名は女郎蜘蛛と言い、彼と想っていたのが実は、彼女だったらしい。







     長月




 こんにちわ、と、挨拶されて、土を弄る手を止めた。やれやれとした身体の動きで立ち上がり、声の方、通りに面した生垣へと振り返るが誰の姿も見えない。これはひとつ謀られたかなと想い、にやにやと笑いながら通りを左右に見遣るが、やはり人っ子ひとりも歩いては居ない。いよいよもって確信を得て、生垣に脚を突っ込んだ。手応えは無し。

「隠れても無駄だぞ。もう一度脚で蹴り、生垣から心太のように突き出してやる」

 出来るだけ低く、恐ろしげな声を心がけた。ついでに、酢醤油を垂らして美味しく頂いてやる、とも言ってやった。それでも、辺りから返事は無い。容赦は要らぬなと悟り、今度はもっと勢いをつけて脚を生垣に突っ込む。

「そら、どうだ」

 またもや手応えは無い。適当だったのだから当然であろう。しかして、生垣から飛び出してきた者が一匹、頭を抱えて丸くなった身体を見事にさらけ出した。
 びゃあ、とばかりに奇声を上げ、姿を表したのは妖精であった。しかも私は庭側から脚を生垣に突っ込んだのに、通りへならまだしも、庭の方へと飛び出してきたのだから、こやつの頭の位は知れたものである。抱えた頭も殆ど隠れてはおらず、逆に無防備な尻をこちらに向けている。不憫である。より大いに、不憫である。
 この妖精には見覚えがあった。以前、縁起の方にもわざわざ欄を割いて載せてやった。対処法は知っているし、大した脅威でもないので一喝して退散させた。煮て食うのも焼いて食うのも出来ぬならば、害として退治するのもなんだか癪なのだ。こちらがむきになっては楽しみも無い。しからばここは逃がして、泳がせておくことにした。次はどんな失態を見せてくれるのか、いまから楽しみである。逃げていく最中、飛べるはずなのに走って転ぶ様には、さすがに閉口した。
 しかし、あやつはいつも他の二匹と一緒に行動するはずである。もし、次があるならばそのときは骨が折れそうだ。

 庵の生垣はその廻りをぐるりと低く囲み、まさしく上から見るとコの字といった風情だった。丁度、勝手口の目の前で生垣は途切れており、そこ以外は緻密な葉の壁が、それこそ庵を守るようにして植えてある。庭からは通りがその生垣越しに見え、朝など寺子屋に通う子供らもけたたましく走って行くらしい。私はその時分にはまだ寝ているので、オケラから聞いた話だが。
 低い生垣とは言ってもその頂点は私の腰よりも上である。故に跨ぐことも、ましてや勢いをつけて飛び越えることだって、なかなか容易ではない。だから、生垣の一部分がごっそりと消えているのを見たときは、損害に寄る怒りよりも、感心するため息を零してしまった。誰かが生垣を飛び越そうとした跡なのか、くっきりと、綺麗にへこんでいるのである。
 先だってからの妖精どもか、それとも果敢な子供らが度胸試しか悪戯でやった跡なのか。どちらにしてもどちらでないにしても、正直、見事であると想えた。四尺五寸はあろうかという生垣を、無闇に飛び越そうとするその心意気がとみに稀であるし、成功したときの歓喜というか素晴らしく無意味な達成感を、一日中庵で過ごしている私にさえ気づかせないその主張を恥じる気位が、まるでその為に生きているかのように凡庸へと打ち捨てる覚悟が、へこみ据えられた生垣から感じられるのだ。私が普段から論じている怠けへの想いとも、どこか通じ合うところがある。本当にあっぱれである。
 決して卑屈な考えからこう想っているわけではない。何故ならば、こんなことは私には出来ないからだ。
 出来る出来ないであれば出来るに越したことはない。出来るがやらない、よりも、出来るからやったと誇る方が精神的に健康そうである。だから少々生垣を壊されても腹は立たないし、形は悪くなっても、そこには己を磨こうとする努力と澄んだ自己啓発が垣間見える気がした。生垣だけに。
 むしろ成功したその瞬間を見逃した自分自身を私は恥じる。何故に気づかなかったのかと自問してみれば、その時分は昼寝をしていた。うむ。
 そのへこんだ生垣であるが、次の日に眺めてみるとなにやら様子が違う。それでもなにが違うかと言われて答えに困るくらい、薄らとしたほんの少しの印象の違いしかなかったので、そのときは気のせいということにした。しかし、また次の日に眺めるとやはり違う。こんどははっきりと分かるくらいに、生垣のへこみが深くなっている。
 近くまで来ればさらに良く分かった。人の太腿ほどの溝が、生垣に対して鉛直に走っていた。先日は誰かが飛び越えた跡だと想っていたが、どうやら物事は理解出来る範囲を少しばかり越えているらしい。溝には枝の折れも、鋏や刃物で切ったような断面も、ともすれば人の手が入ったと想える形跡すら無かったのである。ただ、へこんでいる。まるでなにか見えない丸太があって、それを避けるようにして生垣が形を成しているのだ。
 一見すると不気味である。しかし先の真宵月の件もあるので一先ずは様子見。事の成り行きを見守り、それを癖付けする為にもいまは意識して備えることにしよう。差し当たり、危険は無さそうであるし。

 さらに次の日。生垣が直っていた。よほど不気味である。
 こうなっては仕方あるまい。もう一歩踏み込んでみることにする。恐ろしいものほど見てみたくなるし、不可思議なものに興味を持つのは物書きの宿命よりも先に、人としての習性なのだ。幸いにしてオケラもオモリ先生も居ない。私は、生垣を覗いてみた。
 中は密集する枝々と葉との影が入り交じり、緑と茶と黒の鎖が絡み合っているかの如き様子だった。陽射しを浴びた植物が、微かに感じる甘い香りでより一層の活気がある。甘い香りは、生垣を成したつつじの蜜だと想われる。しかして、その蜜を貯め込む花は、いまはもう咲いていない。咲き頃はとっくに過ぎており、?果の時期さえ終わっていた。
 それ以外はなにも変わったところが無い。いや、生垣に頭を突っ込んでいる私の格好が一等変わっている。そう想っていると、もっと奥の方に目が止まった。卵がある。薄い、縹色を水に溶かしたような、ついつい触ってみたくなる色。ちょうど小さい分銅ほどの大きさなので、最初は小石と勘違いしたが、色の艶や質感から生物の心地がした。
 卵はつつじの枝に守られていた。それもまた、つつじ自身が望んでいるかのように、卵を囲う巣として自然体に役割をこなしていた。親は子を守るというのが当たり前のように、である。
 生垣に頭を突っ込んだまま、呆気にとられる形で見つめていると、卵が揺れた。脈動している。
 はっとして、先々日からの生垣に溝が在った理由に勘が働いた。あれは誰かが飛び越えようとした跡ではないし、ましてや妖精の悪戯でもない。畢竟、あれは卵を産みつけようと試みた何者かの痕跡だったのだ。一日目は様子見、二日目にここぞと決め、そして今日、卵は私によってこの世に生まれたと認知されたわけだ。
 また卵が揺れる。もうすぐ生まれそうなのか、卵はころころと、早く外の世界を見たいかのように動く。そうすれば、これは一体なんの卵なのだろう。

「ごめんください。どなたか」

 がばりと生垣から頭を上げるともう一度、ごめんください、と庵のおもてから声がした。一気に頭が冷える想いをし、私は勝手口へと庵を外から急ぎ、廻りこんだ。

「どなたか、いらっしゃいますか」
「はいはい、どちら様でしょう」

 私が声を掛けると、その人は勝手の中からこちらを振り向いた。最初きょとんとした表情のあとに、想い出したように浮かんだ笑顔が印象的な女性だった。見覚えがある。縁起にも綴った。名は風見幽香、花の香りのように漂い、だが決して季節のようにうつろわざる矜持を持つ。妖怪である。
 ふわりとした召し物、この庵におよそ似つかわしくない賑やかな洋服を纏い、彼女はゆるりとした動きで一歩、勝手口から外に踏み出した。たたんでいた日傘を振り上げ、日光を弾くようにして拡げる。そこだけ所作が機敏で少々驚いていると、日向の匂いが香った。夏の残り香の如き匂いだった。
 そちらに居たのね、と、風見幽香は私も日傘に招いてくれた。日陰に入ったというのに、日向の匂いをより一層感じる。

「突然ごめんなさい。いまはこちらにお住まいなの」
「ええ、様々ありまして。お久しぶりですね、以前頂いた実家にあるサルスベリがこの間まで盛況でした。いまは花が咲き終わらないというのにもう実を付け始めて、些かせっかちなところがかわいい。ご覧になりましたか」
「遠目で。以前と言っても十年以上も昔です。あのサルスベリも木肌を見ると充分に成長したもの、それくらい当然よね。あれは真っ直ぐに育ったけれど、曲がって成長したのもそれはそれで味わいがあるの。情緒、と言うのかしらね。でももっと大きくなるかもしれないから、いまより母屋から離した方が良い。気をつけて」
「言っておきましょう」
「邪魔だと想うなら切ってまな板やお風呂桶、水回りのものに仕上げてちょうだい。腐り難いから、きっと長持ちするでしょう」
「滅相もない。貴女がそんなことを仰るなんて」
「あれはそちらに差し上げたものだわ。お好きになされば良いのです。それに」

 植物はそちらが想っているよりも現実的ですよ。そう言って彼女はふくよかに微笑んだ。滅多に顔を見せに来ない風見幽香だが、こうして時折、それこそ風のように現れては植物のことに目を傾け、饒舌に注意や戒めを語っていく。郷の界隈でばったり逢うだけなら、ほとんど話しもせずに立ち去るというのに。
 意識の集中する方向がはっきりしているのだと想う。それだけ、散見する事柄が廻りに無いのだろう。それが良いのか悪いのかは各々の基準に任せる。
 こんなところではなんなのでと、私が庵の中へと誘うも、彼女はそれを首を振って断った。

「長居はしません。こちらに、卵はありませんか」
「卵、です、か」

 ぎくり、と、つい息を飲んだ。

「そう、卵。薄く儚い色をした、小さな小さな卵です。知りませんか」
「ええ、いや。はい、そうですね」

 しどろもどろで応答する。曖昧な返事をしているとは自分でも分かっている。だが、せっかく懐に飛び込んで来たなにかしらの卵という異変に心踊らせていた直後で、こうして解決に至るかもしれない答えが舞い込んで来るのだから、私のがっかりというか残念さは安易にご想像出来ようか。自然と、拒否するような言葉遣いになるのも理解してほしい。まるで読みかけの書物の結末を横から挿し込まれたような気分なのだ。
 私のおかしな様子を見遣り、訝しげに風見幽香は目を細めた。それはそうだろう、私ですら自分自身を怪しいと自負しているのだから。我ながら嘘を吐くのが下手だと想う。

「すいません。在ります。庭の生垣の中に、いつの間にやら卵がひとつ在りました」

 なにを謝られているのか分かりませんが、と前置きをし、彼女はその薄い唇をより薄くさせて私に言った。

「ご案内いただきましょうか」



 私が庭へ連れて行くと、もうすでに当たりはついているのか、風見幽香は脇目も振らずにあの卵が抱かれている生垣まで一直線に進んだ。始めから見られていたのかもと想像するに、私の吐いた嘘などまったく意味が無かったのではなかろうか。第一、こんな郷のくんだりまで来た時点で、なにかしら意味合いが在ると考えるのが妥当である。
 となれば、彼女はどうやって卵がここに在ると知ったのか。考えている風を目線に忍ばせていると、風見幽香が私に訊ねてくる。

「いつからこちらに」
「いつの間にやらです」
「貴女が、ですよ」

 彼女は生垣を覗き、こちらに背を向けたままで、言う。彼女が時折見せる、なけなしの、そして彼女なりの最高級の気配りである。本当は生垣に抱かれる卵について私から是が非にでも聞き出したいのに、一先ずは相手の近況を聞いて愛想を伺うのだ。久し振りに逢う相手との会話では天気の話、身内の話、そして、近況の話と相場は決まっている。それらが一番訊ねやすく、話しやすくて後腐れを残さないからだ。遠く離れて乾いてしまった関係でもすぐに潤せる、水やりのような会話。大人の嗜み、と言ってもいい。
 普段の風見幽香からは想像出来ない、相手のことを想いやる心根ではあるが、いかんせん似合わなすぎるのが悲しいところである。それでも真実、彼女は想いやる心を持っているのだし、ここはそれに合わせるのが私の大人としての対応であろう。未だ私に背中を向けて、こちらを見る気配が少しも無いところは詰めが甘いと想うが。

「ああ、私は今年の春からこの庵に引っ越して来たのです。これまでさんざん縁起の編纂に費やしてきましたから、残りの人生はゆっくり過ごそうと想いまして」
「残り数年をゆっくりだと表現するのが、人間の強いところです」
「でも過ぎてしまえばあっという間だったなどと想い馳せるのが、私たちの弱い部分ですね」
「記憶は圧縮されるものですから、それが当然。大切なのは、忘れないことです。その点貴女は圧縮も薄れることもない。人間の強さを体現していると言える。ところが貴女を羨む者は誰ひとりとして居ない。忘れることを美徳とし、むしろ忘れたい記憶の方が多いから。私はそちらがより、人間の弱さの現れだと想っています」
「稗田の血は、そんなに立派なものでしょうか」
「謙遜はもっとだめ。貴女のは、卑下ですね。嫌いです」

 相変わらずはっきりとものを仰られる女性である。

「風見さんはお強いのがお好きですか」
「弱いのが嫌いです。弱さを肯定し、価値のあるものと棚上げすることが嫌いです。他人の弱さに浸け込み、自分の弱さを隠すことが嫌いです」
「私は風見さんのそのようなところが好きですね。物怖じしないというか、恐い物知らずで。強さに縋っているわけでもないし。そう、自分と他との区別をしっかりと保っている。だから物言いも、自然とはっきりしてくる」

 見習いたいものです、と私が感心しているあいだも、風見幽香はずっと生垣の中を観察していた。どうやら卵を見つけたらしく、視線が固定されて屈んだ姿のまま覗いている。
 やはりあまり興味があるわけではないのか、彼女は私の発言から少し間を置いて話題を変えた。

「月に行ったそうですね」

 軽く頭を振って、言う。そこでやっと風見幽香は私のことを肩越しに、こちらの様子を伺うような目を寄越した。決して脅かしのある目ではなかったのだが、私は先ほどとはまた違う緊張を覚える。咎められているように感じたのだ。

「よく知ってますね。どなたからお聞きになったのです」

 ほとんど誰にも、私は口にしてはいない。知られたくなかったからである。

「いやあ、実は私にも、てんで分からなくて。あまり憶えておらんのですよ。どうやら眠っていたようですし、夢だったのではないかな、と」
「夢を憶えてはいられないのですか」
「さすがに、それはどうでしょう」

 私の要領を得ない言葉に、それでも風見幽香は笑いもせず、呆れた様子もなく変わらない眼差しを注いでくる。こういうとき、彼女が自ら視線を外すことはない。まるで要らない枝を剪定するときのように、冷徹で非情な取捨にてこちらの真意と嘘を選ぶのだ。そうして残った枝葉とそこに咲く花を、自らの益になるかどうか、見定める。彼女にこの眼で見つめられた者がもし嘘だらけなら、後には葉も枝も無い枯れ果てた丸坊主が、例え枝葉が残ったとしてもその者はもう風見幽香の従僕の徒になっている。大いにおそろしい。
 なるべくだったら穏便に済ませたいし、多くは話したくない。はぐらかす方向でなんとかしたい。何故私が月に行ったことなど聞きたいのか。

「けれど、月に行ったなんて嘘らしいと想いませんか。私が言うのもなんですが」
「嘘ならそれでも構いません。私は貴女から聞きたいだけですから」
「ふむ」

 いよいよもって追い込まれた気がする。

「この卵と関係があるのかな」
「ご想像に」

 そう言って、風見幽香はまた生垣の中を覗く。言葉尻を静かに置いて、なにやら確信を得たような言い方である。私がもうお手上げだと想っているらしい。正直に言えば確かにそうである。

「月には、行きました」
「えぇ」
「でもそれだけです。本当に行って帰ってきただけですから、風見さんが望むことなどなにも無いのです」
「私が望むことってなにかしら」
「それは、これから話してくださるんでしょう」

 風見さんが話してくれたら私も話します。私がそう言うと、風見幽香は今一度、こちらへと視線を向ける。
 なにを考えているのかは分からない。しかし、驚きとか怪訝とかいう悪い印象ではなくて、光の奥底になにか甘さと言うか緩やかなものが流れている気はした。そういう瞳だ。
 いいでしょう、と、彼女は勿体振るように日傘をゆっくりと折り畳む。今度は彼女の方から私を縁側に誘う。私もそれに倣った。

「あれはね、木の卵なのよ」

 日陰が心地良い庵の縁側から彼女はそう言った。耳慣れぬその言葉に、沈みかかっていた私のお尻が浮き上がる。驚く私の顔が面白いのか、それとも元来の性格がそうさせるのか、風見幽香の意地悪そうな笑窪が歪む。

「木の、というと」
「桂の木です。妖異幻怪、山精木魅。木や花などは往々にして特別な能力を持つものです。それは経年によるものや特殊な環境によるもの、果ては突然発生するものあります。あの卵はその突然変異。それまでは単なる桂の木だったものが、まるで想い出したかのように意思を持ち、子を成そうとする」

 ふむ、と、私は理解した風を装いながらお尻を落ち着かせる。あんまり風見幽香の笑いの種になるのも癪なのだ。腰に伝わる縁側の軋む音が、私に思慮の猶予を与えてくれた。

「なんとなくは理解しますが、あの生垣はつつじです。桂の木は、そうだ、山の方にしか生えていないはずですよ」
「卵には温める役割が必要なもの。桂の木は托卵するのです。そして自分は自由気侭に、ね」
「勝手なほどに現実的、ですね」

 托卵をすることで知られているのはかっこうで、あれはたしか別の鳥の巣に卵を産み付け、その巣の親は謀られたまませっせとかっこうの雛に餌を運ぶのだそうだ。本当の子供はとうに死に、仇であるはずの、自分よりも大きく育つかっこうの雛を養う姿は健気さや哀愁よりも愚かさの方が際立って見える。知らぬからとかしょうがないとかの問題ではなく、本能の欠陥と言っても過言ではないはずだ。自分の子と他の子の区別もつかないのでは、もはやかっこうだけに罪を着せるのはお門違いというものだ。
 そっと、我が庵を守る生垣である、つつじの方を見遣る。庵を守るということは私をも守ってくれているに等しい強かなつつじはしかし、いまや見当違いの卵をその身に抱え、肥えている。これを果たして愚かなことだと捨てるべきか否か。私は身内ということが理由になって断じることも出来ないまま、風見幽香を伺った。彼女も同じくつつじを見つめていたようで、私の縋った視線に気付き、また笑った。

「お気に召さない?」
「あまり感心はしません、他人に卵を託すなんて。風見さんはどう想いますか」
「私は貴女にサルスベリの苗を預けた女ですから」
「あれも托卵。いやいや、托苗か」
「名前はどうとでも。でもね」

 面白い話はこの後なの、と、風見幽香は頬紅に窪みを、ちょうど卵を託されたときのつつじのように、その顔に微笑を産み付ける。そぞろに私はまた惹き付けられ、彼女の次の言葉を待ってつい腕に力が入った。

「託された卵が孵るとき、本当の親がね、迎えに来るそうです。それも卵が大事に育てられていないと育ての親を喰うという、お礼を置いていくらしい」

 勝手な理不尽さにぞっとする。

「はあ、それで合点がいきました。他人の卵なのにあのつつじが大事そうに抱えているのは、謀られているのではなくむしろ脅されているのですね。あんなにもふくよかに、熱心になるわけだ」
「それだけではないのですよ。しっかりと育てられたなら、それなりの見返りがある」
「ほほう」

 俄に色めき立つ私を見て、風見幽香が少し身体を引いた。いつも自信に満ち溢れた彼女が見せる驚いた表情に、己のことながら失礼と想いつつ余計に聞きたくなる。

「どんな見返りなのですか」
「ええ、いいえ、どんなかは知らないわ。ただ、元々大陸の妖怪だからそれなりのって」
「大陸か。あちらからの妖怪ならば力もありそうですね」

 大陸とは亜細亜のことであり、海を渡った向こうにある恐ろしく巨大で広い陸地のことだ。あちらではこちらとは比較にならないほど強大で不可思議な妖怪がいるらしい。もしかしたら住んでいる陸地の大きさになにか関係があるのかもしれないが、幻想郷にだって負けず劣らずの猛者どもが居る。お礼として喰うとか弾の打ち合いが挨拶だとか、その気侭な理不尽さには同じような匂いを感じるし。
 私が変に納得していると、風見幽香は咳をひとつ、居住まいを正す。

「大陸のお話で桂は月の中にあるという高貴な理想を指していて、それがいつの間にやら妖怪に転生したようです。きっと人間の信仰や想い、手の届かない理想という夢にたまたま桂の木が寄り添ったのでしょう。いまじゃ人間のことなんて知らないで、この幻想郷へと暢気にやって来たようですが」

 ここにきてようやく月の名前が出る。私は無言で頷いて先を促す。

「こうしてね、長年の草花との触れ合いを鑑みると、あの子たちの見識は本当に澄み切っていて邪とも悪態ともつかないような超越した部分が時折見え隠れするの。降り落ちる雨を溜め込み豊かな土から吸い上げて培った力というものを、溢れさせるどころかそのまま性格や個性として言動で表現して。元々が自然の力だから、誰にも気を許さず誰の咎めも受けないのでしょう。それが、幻想郷へと辿り着いて、ますます増長し始めた」

 言いながら、風見幽香は大儀そうに縁側の近くで咲いた黄色い花を弄る。ゆっくりと触れるか触れないかのところを、指の腹で花弁の感触を楽しむかのように撫ぜている。黄色い花はたんぽぽと想えたが、私が言うより前に彼女はこれは野芥子です、と呟いた。
 見た目は黄色く八方に広がった可憐な花弁、ぎざぎざの葉に隣には紙縒りのような蕾と、どれもそれがたんぽぽと判別するのに申し分ない要素を持つも、風見幽香は違うと言う。

「姿形が似ていたり、勘違いや想いこみで間違ったことを事実と捉えるのはよくあることです。野芥子もそう。桂もそう」
「桂の、木も?」
「大陸で言うところの桂とは本来はこちらで言う木犀のこと。こちらに渡ったとき、口伝や言葉の違いのせいで元々の桂と木犀が混同されてしまったの。それだけならよくあるお話。でも桂の木、もとい、木犀はあまり良い気持ちになれなかったみたい」

 すっかり話にのめり込んだ私の喉がこくりと鳴る。

「勘違いされたまま言い広められるんだもの、当然だわ。誤解は語弊を生み、生まれた語弊は我が身をも陥れかねない。特に妖怪なんて身の上だと、認識や概念の誤りのせいで能力が極端に変化することもある。それは妖怪の挟持に関わるわ。存在理由さえ危ぶんで揺れてしまう」
「その結果幻想郷へ……ですか。外の人々に忘れられるのではなく、そんな理由でもこっちに来ることもあるのですね」

 忘れられることと誤解でその本質が霞むことはつまるところ同じだ。人々の知識や理解から遠く失せてしまうのである。赤色が暖かさを、青色が涼しさを想像させるように、色見が変われば感じるものは変わってしまう。同じく名前が変わればその本質は途端に変化する。名前なんて呼ばれれば呼ばれるほど我が身に絡みつく蔦のようなもの、そこに付いた間違いという棘は締めつけるよりも明らかに、痛々しいものだ。
 木犀は、それに耐えられなかったのだろう。自らの挟持に跡を残す誤解という棘。言うなれば、人々の想いに寄生されたのだ。共生出来るならばそれもやむなし。しかしてそれは毒を持つ、自分の知らぬ場所で育った害虫になり得た。

「自暴自棄にならなかったのは不幸中の幸いですが」

 風見幽香は、伸びた野芥子から指を離して憂鬱な余韻を感じているようだった。
 珍しく自分以外のものへと物悲しい表情を浮かべているが、無理もないと想う。草木を愛する彼女ならば、植物由来の妖怪など家族と同義である。自分の身体を傷つけられたようなものなのだ。

「風見さんは、その木犀を助けたいのですね」
「せっかく出逢えたのですもの、なんとかしてあげたいと想うでしょう。例えそれがお節介だと解釈されようと、ここで生きる糧になるのであれば」
「では、あの卵をここに導いたのはやはり風見さんですか。心配になって、それで様子を伺いに」

 違うという風に、風見幽香は私の言葉を遮って首を振った。
 彼女は縁側から勢い良く立ち上がり、生垣の方へと視線を流す。まるでなにかに問い詰めるように首を傾げて溜息を吐いた。その息には呆れる気配が混じっていると理解出来るが、私には楽しんでいるようにも想えた。風見幽香の口元には、小さな笑窪が浮かんでいた。

「様子を見に来たのは、その通りです。でも私がどうこうした事実はありません」
「はあ」
「今夜来ますよ」
「なにがです」
「あの卵の親御さんがこちらにいらっしゃるのです。貴女もどうか失礼の無いよう」

 突然の告示である。私があんぐりと口を開けていると、虫が入りますよ、と呆れた口調で彼女は言った。

「卵が孵るそのときに現れると言ってるでしょう。お覚悟を」
「な、何故私が覚悟を」
「何故って」

 当たり前だと言わんばかりに、困った顔をされる。花に居座る青虫を見るかのように、である。

「卵を育てているのはつつじですよ、私はそれを見つけただけで傍観者と言っていい」
「いいえ。貴女は無関係ではないのよ。あれは托卵なの。例えばある種の鳥が托卵するけど、その雛が孵ったとき一番初めにすることはなにかしら。親を探す、産声をあげる、違うわ。餌をねだるのでもない」
「もったいぶった言い方をなさらないでいただきたい」

 降って湧いた不安事にもはや私は必死だ。

「この庵は云わばあのつつじに守られた巣のようなもの。托卵された雛は卵から孵って、自分の成長に害となるその巣に居た元々の雛鳥を追い出すのよ。それが生存競争であり、生きる為の知恵なのです。つまり、貴女は邪魔なのです。木犀の卵にとって、何事よりも優先される懸案事項。最大の抵抗をすべき最初の敵なのですよ」

 日傘を広げ、洋服の皺を自然な所作で直す風見幽香は、目線からしてすでに帰ろうとしている気配があった。日光を遮った傘が作る濃い影に、彼女の気持ちが滲んで見える気がして、せっかく整えた洋服の裾を私はぎゅっと掴む。たゆたうような腹づもりを持て余し、その布地の細かさに気づいたときにはもう手が伸びていた。
 これからなにかが来るのである。何者かが生まれようとしているのである。しかもそれらが私にとって為にならないのであれば、弱り目にならない方がおかしい。現在唯一の縋りどころである風見幽香を安々と帰す訳にはいかないのだ。

「風見さんも一緒に居てくれるのでしょう、わざわざこんなくんだりまでいらっしゃったのですから、最後まで見届けるつもりなのでしょう?」
「御用はもうすぐに済みますから」
「そうです、月との関連はなんだったのですか。まだなにも聞いてませんし、私も話してませんよ」
「ああ、そうでしたね」

 風見幽香はついでごとを想い出したかのような身振りをし、私の手を非情に払う。咄嗟に見上げる私と視線を合わせた彼女は、なにを願いますか、と、真摯な声で訊ねてきた。

「なに、なにをって。なんですか」
「上手く卵を育てられたときのお礼があるとしたら、もう一度月に行きたいと、願うのですか?」

 どきり、と胸が痛むほどに脈打つ。

「月はね、栄えた人々が住んでいるところだけど、ちょっと横に逸れれば本当になにも無いところよ。空気は枯れ、土は痩せ、色は衰え、音も失せる。そこには満たされているようでその実、なにかが抜け落ちていく感覚に身を任せながら、過ぎる日々をありのままに受け入れて生活している人たちが居るの。誰かが言ったらしいわ、理想郷だって。考えようによってはそうね、理想的かもしれないわね」
「別に私は、月に行きたいなど」

 夏も過ぎたというのに、ぎらついた雲間の太陽の如き笑顔で風見幽香は首を振る。

「いいえ。貴女はもう一度月に行くわ。今のままならね」

 そう言うと、風見幽香は踵を返してつつじの生垣へと歩み始めた。不当な断言を押し付けられた私を置いてけぼりにし、我が道を行く彼女は颯爽と生垣に腕を突っ込む。不可思議な言動に呆然と座り込んでいたが、生垣から上がった悲鳴にはっと思考の焦点が合う。聞き覚えのあるやかましい声。風見幽香の腕で引き摺り出されたのは、果たして小さな妖精であった。先日の不憫な妖精の仲間、三妖精のうちの一匹だった。
 むんずと掴み上げられた妖精はもうすでに諦めているのか、びくりとも動かずにいる。もしや失神しているのかと想えば、項垂れた黒髪の隙間から精気の無い眼が見えた。私と視線が合うと、途端に潤い、如雨露のようにぞんざいな涙が溢れ出す。
 よっぽど恐いのであろう。やはり不憫である。だが私は助けない。

「それじゃあ私はこれにて。明日の今頃、また」
「なにもかもが有耶無耶なのですが」
「では、忠告をひとつ。関わりが無いなんて想わないこと」

 傍観なんて誰でも出来ます、口を出すくらいならかわいいものです。
 日傘の柄を握り直し、風見幽香は本当に帰ってしまった。もう片手では妖精を引き摺りながら、私の疑問と不安を置き土産にして、まるで回覧板を廻しに来て少しばかり世間話をしていくように極当たり前の風体で庵から出て行ったのである。
 あまりにも日常的な光景なので、もしかしたらすべてが彼女の作ったお話であって実際には特に何事も起こらないのではなかろうか。杞憂である。しかして希望でもある。誰かの日常が誰かの非日常だったなどというのは往々にしてあり得ることだし、これからをどう捉えるかというのは、すべて私の精神域の中でしか起こり得ないことなのだし。
 そう、すべては傍観である。風見幽香は誰でも出来ると仰るが、やはり成り行きを見守るという受け身の姿勢とは誰もが出来るほど甘くはないと想う。冷静さや客観的判断力も大いに必要であるし、なによりも、関わりが無いことこそがそれらの精度を高めることに他ならない。そしてそれが非日常を日常へと肉薄させるのだ。
 決して私が恐れをなしているというわけではない。精神力の問題である。決して、なんだかだんだん面倒臭くなってきたわけではないのだ。こういう楽観的私観というのは、歳を負うごとに張りと艶を持っていくもので、逆境に陥ることにも少なからず慣れてしまっている自分が本能的に自己防衛を行っている証左らしい。なるほど、受け身になるわけだ。
 そういう我が儘な考えもあってか、もはやなにも起こらないのだと確信し、私は今一度生垣を覗く。卵にひびが入っていた。これはもう駄目である。
 しばらく庵の縁側と生垣とを行ったり来たりし、再び落ち着かない時間を過ごす。どうしたら良いか考えあぐね、立ち座り、空を見上げ、畑の世話をしたりして気を紛らわす。
 そのうちにお腹が減ったので少々早いが昼食をとった。うちの畑で採れた茄子の浅漬けと実家から貰った鶏肉の卵綴じ、それと青豆と一緒に炊いたご飯を食す。今回の豆ご飯は上手くいった。以前は豆がまだ固くて結局それを退けて食べたが、今回はふっくらふすふすに柔らかくなっている。蒸らす前に酒を垂らしたのも効いている。風味が良いのだ。
 流石に肉類はもっぱら実家からオケラに届けさせていたが、今日のはお麩も卵で綴じてあって健康的で美味しい。人間はやはり彩りのある食生活があってこそ日々の営みにも色を帯びるというもので、普段から寝起きを不足し怠っている分をこういうところで補填しているからこそ、私にも人並みの彩りが送れているのだと想う。お麩を口に含んでしっとりと味わう。正直、オケラには感謝しているのだ。うむ。
 お腹も膨れると、やはり不安がじわりと胸の奥から染み出してくる。これも一緒に卵で綴じてしまえたら楽なのに、と想いながら、寝る。もはやどうにでもなれと自暴自棄気味に畳の上で横になった。
 途端に様々な想いが巡った。土埃が舞うので庭に水をまきたいし、明後日が締め日なので原稿も進めておきたいし、昼食の後片付けと、それに生垣の卵の件も。
 やること、考えることが多すぎる。さらにだんだんと腹立たしくなってきて、一切合切に目を閉じた。
 月になぞ誰が行きたいものか。その憤りを最後に、私の記憶は閉じた。


 夢の中で閻魔様が現れなさった。お久しぶりですねと会釈をすると、無言であちらも会釈をしてくる。想えば、夢の中の場合、いつ時の挨拶をすればいいのだろう。おはようございます、は違うだろうし、こんにちは、ではあまりに軽い気がする。かと言ってこんばんわ、でも相応しくない。なにしろ夢で現れる閻魔様は私の現実とはまったく別の世界なのだから、これといった適当な挨拶は無いように想えた。やはり会釈程度が妥当だろう。
 と考えながら、相変わらず石像のように黙ったままの閻魔様を前にして、またお茶が出るだろうと勘ぐって待っていた。しかし、今日は出てこなかった。

「こんにちは、稗田阿求」
「ええ、あ、はい、こんにちわ閻魔様。今日はどうなされたのですか、まだお迎えには時間があるはずだと想っていたのですが」

 現れたときからずっと正座をなさっている閻魔様は、それがまるで苦行のように眉間に皺を寄せる。悔悟の棒で口元を隠すと、またも黙りこくってしまった。
 こうなってしまうとまずいのだ。なにをお考えになっているのかは分からないが、一旦固まってしまうとうんともすんとも言わずに、それこそお地蔵様のように無味な時間を費やしてしまう。いくら夢の中だからと言っても、現実では時間は流れている。世界が別だとしても、無限なものなど無い。こんなときはこちらから話すしか手立てが無くなる。

「ああ、お迎えではないのですね、失礼しました。ではご用件はなんでしょうか。地獄での支度が滞っているとか、それともあちらでの私の仕事がまだ見つかってないとかですか。それともいまさら転生は無しなんてことをおっしゃいますまい」
「そちらの件はご心配なさらずとも、万事整っておりますよ。いつでも大丈夫です」

 閻魔様は嘘をお吐きにはならない。

「いつでも大丈夫なら私は何故まだ現世に居るのです。とっくに寿命を迎えて転生に入るはずが、何故私は未だに生きているのですか。一年間の猶予を以てして、なにをさせようとお考えか。意地悪にしてはあまりに非道いと、想います」

 現実で腹を立てたまま寝てしまったからか、なにかしら鬱憤が溜まっていたからか、私は一息で言い放った。閻魔様はそれでも、黙ったまま寸分も動かずに居る。この場で裁判が始まったかのような雰囲気で、生きた心地がしなかった。
 言い切った手前、仕方が無いのでむっつりとした顔で澄ましていると、なんならいまからでも来られますかと、石像よりも冷たいつららのような切れ味の眼で、仰る。

「貴女の望みがそうならば、私は止めはしません。しかし稗田阿求、少し身勝手過ぎる。まるで自らに否が無いと考えているようです。一年の猶予も月へ行った件も、元を正せば
すべて貴女が招いたこと。奇特とは言え貴女の人生の物語、悪い結末になるのは云わばそれなりの業を自らが望んだということなのですから、しっかり禊を済まさねばなりませんよ」
「もう私にはなにがなんなのか、見当を付ける為の取っ掛かりさえ見つけられないのですが」
「その為の一年でもあります」

 すっと閻魔様がその両瞼を閉じると、膝元から茶の湯がせり上がってきた。どういった構造なのか考える気にもならないが、やはりこの明晰夢は閻魔様の手の中らしい。
 せっかくなのでいただく。透き通るような白の湯呑みは人肌程度の暖かさで、少々濃いめのお茶が舌の上で苦味に変わると、ずんぐりとした腹立たしさも鳴りを潜め、代わりに場違いなほど白々とした冷静さが立ち上ってくる。一体なんなのだと言うのだろう。
 私は私のするべきことをしているだけなのに、誰もがなにかしら文句を言う。いや、それぞれがそれぞれの思慮を口にしているだけなのかもしれない。単に口にするのは別に迷惑にならないだろう。もしかしたら私へと限ったことではなく、誰に言っているものでもないのかもしれない。ただ、その言の葉を宙に漂わせ、必要とされるべき場所へと収まるのを、見守っているだけなのかもしれない。誰かが必要としているものは、風に流されるのでも操られるのでもなく、自然とその人のところへと落ち着くものである。
 宛先は分からずともしかし、大概にしてそういうものは送り主の希望という便箋で包まれているものだ。心配とか配慮だとか、奥床しく甲斐甲斐しい想いが込められているものだ。私には、分からない。きっと必要としていないからだろう。必要だと想っていないから、隣人の言葉さえ分からないでいる。でも、必要だと想うなら。本当は必要なのだとしたら、私はその便箋を大切に封じてある紐を、きっと解けるのかもしれない。私は、受け取るのが得意なはずなのだ。

「さあ、もうすぐ起きますよ」
「すっかり遅くなってしまいましたかね。もう夕飯時かな、そろそろ起きないと」
「貴女じゃありません。例の卵です」

 嫌なことを想い出させる。どんな妖怪だったか今度教えてくださいね、と、閻魔様はもう帰り支度でそう言い、茶請けに出てきた桜漬けだとてまだ口にしていないのに、途端に手元から湯呑みと一緒に掻き消えた。


 瞼を開けると日もとっぷりと暮れ、灯りも無い部屋の隅っこで、私は目を覚ました。背中に冷たい壁を感じる。寝たときは部屋の真ん中で横になったはずなのに、なんて寝相だろうか。しかも隣の部屋で、である。襖が閉じたままなのが気掛かりだが、これだけの寝相であるから、きっと寝ながら開け閉めをしたのであろう。我ながら行儀が良い。
 庭に出てみると風が首筋に涼しく、秋の気配がする夕焼けを暗い夜空が追いかけていくところだった。宵の明星が短い盛りを終えれば、すぐに寒気がするほどの夜が来る。もうそろそろ温かいものが恋しくなってくる。
 さて、件の卵である。いっそのこと食べてしまおうかと想えてくる。そのくらいまでに状況が面倒臭くて億劫でどうでもよくなっている。しかし親御さんからの仕返しは恐ろしい。
 いや、ならばちゃんと育てればいいのではなかろうか。しっかりと肌を寄せて温もりを憶えさせ、育ての親として愛情を注げば仕返しをされないどころかむしろお礼をしていただける。悪い方にばかり気を取られてたが、最善を尽くせば、こちらにだって利益はあり得る。どんなお礼なのかはやはり気になるところだ。
 いそいそと生垣に近づいた。曲がりなりにもこのつつじの持ち主なのだから、少しぐらいならおこぼれを頂戴しても悪くはなかろうと、勝手な判断で気持ちを高ぶらせる。ごそりと顔を生垣に突っ込むと、やはり葉っぱの青い匂いが鼻をくすぐり、つつじが大切に抱え込んだ枝々の中心にその卵が無い。ふむ。
 生垣から後退り、周囲を見回す。誰の気配もしないが、それはそれで不安で怪しい。
 隠れた方がいいような気がして一歩踏み出すと、ぱきりと乾いた音がひとつ。覗いたつっかけの裏にはあの卵が潰れていた。さあっと血の気が引くも、目を凝らせば卵の殻だけである。中身が入っていないのだ。
 もうすでに卵は孵っている。姿が見えないだけで、この場には居ないだけで、事はもう終わってしまっていた。とすれば、あとは卵の親がやって来るだけだ。私の是非を問うて喰うか喰わざるかの判断を下しに、鬼とも蛇とも分からぬ者がやって来る。
 こうなれば好きにするがいいと想え、私はどっかと縁側にへの字口で構え座り込んだ。来るなら来い、この稗田阿求はそう簡単には喰われはせぬぞ。そちらが勝手に振る舞うのであればこちらにだって考えがある。幾星霜積み上げてきた知識と智恵で以って筆舌と言葉の巧みさできっといい勝負をしてみせよう。つまり話せばわかる。悪いことはしていないはずだが謝っておこうと想う。ごめんなさい。なにもしません、していません。
 そうした緊張で身体を強ばらせていたものだから、突然聞こえた物音に少しばかり悲鳴を上げてしまった。必死に次の声を堪え、涙目でそちらを伺えば、なにかが動いて土埃が舞っている。
 寝に入る前に水撒きを怠っていた。秋口の空気は乾燥するから、ちょっと歩いただけでも地面から土埃が空中へと漂うのである。そのお陰で何者かが居るのは分かるが目に見えない。私が障子に隠れながら近づいていくと、小生意気なくしゃみが上がり途端に姿が見えるようになった。土埃混じりの汁を鼻から垂らした、三妖精の最後の一匹である。
 飛びついて抱きかかえれば、悪足掻きとばかりに腕の中で暴れまわる。あんまり落ち着かないのでやはり一喝してやればびっくりしたようで、すぐに騒がなくなった。

「お前ここでなにをしていた。また悪戯でもしようものなら三匹まとめて卵綴じだぞ」
「別になんだっていいじゃない。悪戯なんてしてないし、卵のお礼なんて欲しくないよ」
「ふむ、それを知っているということは、さては昼間からずっと話を聞いていたな」

 小さな妖精の身体の軽さにかこつけてぶんぶんと振り回してやるが、知らない知らないと言うばかり。さすがに疲れてきたところであることに気付く。こやつなにが目的だろう。

「知らない知らない知らない、私はなにも知らない」
「この際もうどうでもいいから、あの卵の親はいつ来るのだ。それを教えてくれれば卵綴じはまた今度にしてやる」

 振り過ぎてしまったせいだろうか。妖精は私の質問に呆けたような顔を向けてきた。頭の中がこんがらがってしまったのか。

「知らないとは言わせないぞ。お前ら三妖精が卵をあのつつじに抱かせるよう手はずしたのだろう。ここは郷の外れで人も少ない、かと言って卵に害為す妖怪が来ることも滅多にない。他の植物に托卵させ、隠れて見守るには丁度良い場所だ。どこかで知った卵のお礼を目当てにしてあわよくば掠め取ろうという魂胆だな」

 私も言えたことではないが。

「ふふん、そうよ。ついでに言えば、あんた弱いからいざとなって私たち全員でかかればどうにかなると考えたのよ。あの恐ろしい花の妖怪じゃあ手も足も出ないしね」
「ようしいい度胸だな」

 ならばお礼にと今度は縦に十回、横に五回、前後に三回振ってやる。さあ観念しろ。こちらだって疲れる。親御さんはどこに居るのだ。
 目を回した妖精はもはやしどろもどろで、そこにいるじゃない、と、やっとこ私の後ろを指さした。

「あれはつつじだ。卵の本当の親に謀られ、かわいそうに身重を任せられたこの庵の大事な生垣だ。お前らだとて悪くないわけじゃないのだぞ。あれの気持ちを考えてみろ。このまま卵の中身の行方が知れなければ、喰われてしまうかもしれぬのだ。私も、お前らも」

 だから早く卵の中身を見つけなければ。もはや手遅れだろうが、まだなんとかなるかもしれない。そうやって訴えるもこの妖精はまだ状況を掴んでいないのか、がらがらと頭を廻して鳴らしている。
 風見幽香も言っていたであろう。卵の親である木犀は自らの子を押し付けておいて、上手く育ってなければ非道いことをするような、自分勝手な妖怪なのだと。こやつはお礼の方ばかり耳に入って、そういう肝心なところを聞き逃しているのだ。さっきまでの私もそうだったが、良い情報と悪い情報を比べてみて、自分の手に負えないものかどうかを判断しなければならないのだ。知らなかったなどと言っても、喰われた後では笑い話にもならない。
 と、そこまで考えて妖精を振り回すのを止めた。
 私もまだ知らない情報があるとしたら、風見幽香が述べた以外にもこの件に関しての情報があるのだとしたら。さらに言えば、私が知らなくてこの妖精が知っている事柄があったとしたら?
 乱暴に妖精を投げ捨てて急ぎつつじの方へと駆け寄る。その葉に艶は無く、緑の匂いには青臭さが混じっていた。つつじは卵を見事孵化させた感慨からか、異様なほど生命力が枯れているようだった。以前にもこんな状態になるつつじを見たことがあった。そう、花を付け結実し、次の世代となる種子を残したときのような、生命としての使命を成し遂げた疲労感を隠しもせずに放出しているときである。他人の卵を抱いていただけで、こうもなるだろうか。いやさ、たとえそれで疲労は残るだろうが、生命力が枯れるほどのことはあるまい。
 と、いうことは。

「なあ、妖精。まさかこのつつじが……」

 呼びつけた方向に妖精は居らず、当然のごとくすでに逃げ去ったあとだった。あれだけ要領が悪いくせに、ここぞとばかり、逃げる好機は心得ているようだ。悪戯好きなわけである。
 聞き出したいことはあったが、逃げてしまったのならしようがない。一先ず卵綴じは次の機会にしてやろうと想う。あの妖精だとて、ここにはもう用は無いはずなのだから。
 私の予想が間違っていなければ、今夜は、いや、これから先もきっと木犀の妖怪は現れないだろう。確信とはいかないがある種の安心というものが、私の中でひとつ、結実しているのだ。それも含め、あした風見幽香に問いただそうと想う。
 先程までの心身のざわめきが、いまや凪のように落ち着いて静かであった。ひとり出涸らしのお茶をいれ、縁側で秋の色を濃くしてゆく長月の夜を覗いていると、山の方から低い空を赤い月が漂ってきた。不思議に笑いがこみ上げてくる。
 踏んでしまった卵の欠片を出来るだけ拾ってつつじに戻してやる。元気が無いながらも、少しだけ喜んでいるように想えた。


「そう、来なかったのですか。ああ、やっぱり」

 しらりと言ってくれるものだ。予告通り昨日と同じ時分に庵を訊ねてきた風見幽香は、出産祝いだとかでお土産に籠いっぱいの肥やしを携えていた。そんなに臭いは感じないが、あまり印象の良いお土産ではない。もちろん私に宛てたものでもない。

「知っていて私をからかったのですね、どういうことかご説明を」
「貴方に害は無かったのですからいいじゃありませんか」
「いや、百歩譲って私のことは許しましょう。しかしこのままでは気持ちが悪いのです。巻き込まれっぱなしでは稗田の血が寂れてしまいます」

 そこまでおっしゃるなら、と、風見幽香は渋々といった様子で勝手の戸をくぐる。
 部屋まで通してお茶を出した。庭に向かった障子は開け放っており、昨日よりは元気を取り戻している生垣のつつじが見え、風見幽香もほっとした表情を浮かべる。

「つまり、あの卵は木犀とつつじとの間に生まれたものなのです」
「ふむ」
「木犀は雌雄異株。雄株と雌株が完全に分かれていて、ちょうど動物がそうであるように雄と雌の性質が合わさってはじめて、自分たちの種子を残せる。貴女には言ってませんでしたが」
「はい聞いてませんでしたが。しかし雌雄異株だとしても何故相手が同じ種類の木犀ではなく、別種のつつじを選んだのです」
「雄と雌が不仲という訳ではありません。この日本で育った木犀が子を持つにはそうするしか手段がなかったのです。何故なら、日本にある木犀はすべて雄株だから」

 これもやはり大陸から渡って来たときの弊害なのか、それともまた別に原因があるのか。理由は分からないが日本には木犀の雌株は存在しないのだそうだ。故に日本の木犀は結実せず、花は咲かせるがそれは雄花のみの開花であって種子を残すことは出来ない。空回りのような花の季節を毎年迎えるのである。

「風見さんはそれをご存知だったから卵はつつじとの間の子だと確信していた。木犀のみで卵が生まれるはずがなく、必ず相手が居るはずだと。つつじだって自分の子だからこそ、あんなにも熱心だったのですね。それにしたってあんな嘘をついて私をからかわなくても良かったのでは」
「ごめんなさいね。こんな場所で卵が見つかるなんて想ってなかったものですから、下手に貴女が手を出してなにかあったら、私にとってそれこそ申し訳が立たないもの。あれだけ脅かしておけば、消極的になるだろうし、誰かにふれまわることもないだろうと想って。逃げ出さなかったのは正直意外でしたけど」

 さすが稗田家当主ですね、と言われて少し歯痒い。風見幽香は口を休めてお茶をすする。

「木犀にとって子を成すということは長年の夢だったわけですね。なんだ、風見さんは良い仲人さんじゃないですか」

 と、想いつきで私が軽口を叩くと、風見幽香はお茶のとはまた違う渋さを表情に出した。

「妖怪変化した木犀なら他の植物と子を成すことは簡単ですよ。別にこれが初めてという訳ではないでしょう。手馴れた様子でしたし」
「ほほう」
「誰しも得手不得手がありますでしょう。木犀はそちらの方は得意でしたが、自らに対しての寛容さに乏しいと言いますか、簡単に投げ出す悪い癖があったのですね。私が木犀に子を成すことで手に入れて欲しかったものは縁です。木犀を繋ぎ止めるなにかがあれば変わると想って」

 左右の指で輪を作り、風見幽香はそれを交差させて鎖のようにする。

「だからと言って鎖みたいな固いものじゃなくて、そうね、ちらりと心に残すような、想い出すと優しい気持ちになれることを木犀に見出して欲しかった。それなら縁が、血の縁が手っ取り早い方法だと想ったの。重荷にならず、でも決して捨てることが出来ない縁をね。そういうものでしょう?」
「そういうもの、ですね」

 風見幽香の言葉に頷いて、私もお茶をすすり、茶請けの桜漬けに手を伸ばす。夢の中でついに食せなんだ赤梅酢の香りに、時期外れの春を感じた。
 つつじの花は春だが、木犀はたしかこれからが咲き頃を迎えるはずである。妖怪変化した木犀と、あの卵から生まれた子は今頃どこに居るのか。もうすぐ開く花の香りが教えてくれるのだろうか。

「ご実家のサルスベリ、来年には屋根を越すかもしれませんね」
「そうなれば幹の根元で昼寝をしましょう。きっと心地良く寝れるはずです」
「では私は剪定しておきますわ。木漏れ陽が暖かい日影をご用意いたします」

 出来すぎですね、と、私は風見幽香の横顔に語りかけた。



 後日のこと。稲刈りが終わって寂しげな田圃の畦道を散歩していると子供らの声が聞こえた。賑やかな雰囲気の中で、ひっきりなしに蛙だのそっちだのあっちだのと行き来する言葉から察するところ、あの輪の中ではもしかすると凄まじきことが行われているのかもしれない、と想える。
 そのまま歩を進めながら愉快にしていると、子供らの背中に羽が有ることに気付く。跳ねまわって遊んでいるのは例の妖精どもであるらしい。先日の件もあるので立ち止まると、彼奴らはすぐさま散り散りになって逃げた。空に逃げる者、姿が見えなくなる者、慌てて転ぶ者。そこまで嫌わなくとも、と鬼ごっこの鬼のような扱いにあまり良い気分ではない。
 最後までその場に居て、私を見つめている見覚えの無い一匹が手からなにかを落とした。遠目ではあるが蛙のようである。
 蛙が逃げるのを見届け、その一匹もするすると森の方へと飛んでゆく。
 気になって追いかけようとするも、記憶に新しい花の匂いで少しだけ合点がいった。木犀の花の匂いである。







.
ということで、八作目(右編)でした。前回のあとがきで「次は半年後」とか冗談で書いたら本当に半年経ってしまった百円玉です。いやあ、半年って早いですね。冗談になってませんね。笑えませんね。


【幻想感情線を】閑話休題【南々東へ】

 なんか本当にここに書くことが無いのですが、あれですか、作品に関係無いこととかでも良いんでしょうかね。ああ、それだったらツイッターで事足ります。くだらないことばかりつぶやいてます。
 あらすじを冒頭に書いたものの、たぶん前回を読まなくても大丈夫かと想います。テーマだとか阿求の考えていることだとかは同じにしていますし、短編を纏めているだけなので章ごとにそのお話は終わりますので、基本後腐れありません。一部人物の動向を引き継いだりしますが、たぶん大丈夫です。大丈夫の理由が自分でもわかりませんが。
 しかしそんなお人でも前編を読んでいただければきっと繋がってくるはずです。「でも(百円玉の作品だから)長いのでしょう?」いいえ、奥さんそんなことはありません。なんと40kb以下で! お読みいただけます!「えぇ~!」お申し込みはフリーダイ(ry

 さて、まだまだこれ続きます。本当はこの右編だって章を3個入れるはずだったのですから、その分後ろに延びます。延びまくります。この調子で進めると完成は2年半後。……マインクラフトやってる場合じゃありませんね。
 それではこの辺にて、次はもっと早く投稿出来るよう精進します。(マインクラフトにログインしながら)

 この度はお付き合いいただき本当にありがとうございました。次に投稿する機会に恵まれましたら、その時もどうかよろしくご教授ください。

 東方Projectに感謝を込めて。ありがとうございました。


***追記(10/10)***
 お読みくださった皆々様、まずは感謝の言葉を。ありがとうございました。
 「楽しかった」と言っていただけることがこんなにも切なく打ち震えるものだと今回の投稿で体感出来ました。この気持ちを次の糧にし、日々精進しておりますので、次回の投稿でもまた、皆々様に楽しんでいただければ幸いに想います。
百円玉
http://twitter.com/hyakuendama
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コメント



0.370簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
大変よろしゅうございました 続きをのんびりとお待ちしております
3.無評価パレット削除
 前作から一気読んできたのですが……すっっっっばらしい!!!! SSを読んでて久々に呼吸が苦しくなりました!!
 稗田阿求の、終わったあとの、少し不思議な日々。はぁ、なんでしょうね、阿求はもちろんオケラやオモリ先生、それに閻魔様といったキャラというか書き方というかがすごく軽妙というか絶妙で、それに伴い『稗田阿求のまわり』ガ魅力に満ちていて、それがために『稗田阿求のまわり』を描いたほのぼの作品としての面白さがありますねみたいなことは前編での感想で書かせていただいたのですが、そこのところはもう当然のように持続してますね。具体的に言うと幽香のキャラ(三妖精もそうだけどやはり目立ってるのは幽香。あともちろん阿求)。原作キャラのは『らしさ』を伴った魅力なので、ほんと、見てるだけで楽しい。
 また、右編に至って、前編よりも不思議度の高い話が混ざり始めたのが、この作品に新たな魅力を与えているように思います。稗田阿求の、終わったあとの日々から、稗田阿求の、終わったあとの、少し不思議な日々へ。しかもこの不思議部分もまた面白いのですもの。どの辺が具体的に面白いかとかは上手いこといえないのですが、なんだろう、こう、その一つはやっぱりロマンというかな、月の話も木犀の話も、理屈によって(理屈が正しいのかとか上手いのかとかはよく判らないけど)作られた土台の、そのさらに下、根っこの部分にロマンがある! 考えるだけでワクワクする! これもうやろうと思えばそのネタ一つだけで掌編か短編一つは十分に書けるレベルだよね、なんて思いながら、そう、この右編でもう一つ、(擬似)連載形式的な面白さみたいなのが感じられたわけです!
 短編連作と連載の違いとかぶっちゃけよくわかってないのですが、素直な話、すごく続きが読みたくなるわけです。短編連作の、ああ、ここでひとまず終れるなこの物語、といったような感じは良い意味で無くて、ほんっとうに、すごくこの続きを読みたくさせてくれる。結末が気になるというだけでなく、この作品で描かれる世界の広がりをただ見たくなってもいる。阿求の物語への惚れ込みに加えてこの世界観(キャラ造形?)そのものに嵌ってしまったのか……いやこの世界観はこの阿求あってこそなのかな、このあたりやっぱり上手い具合に接続されてるよなー、なんて思考する程度の満足度。
 続きを切に、切に待ちます。
 素晴らしい作品をありがとうございました!
4.100パレット削除
 点数入れ忘れました……(´・ω・`)
7.100八重結界削除
 最高に面白いものは理由が説明できないということを再認識しました。雰囲気が良いというか、キャラが生き生きしているというか、不思議な世界観が幻想郷によく合っているというか、何を言っても伝わらない気がするのでもどかしい。つまるところ面白かったです。
 この阿求は死んでも死にそうにないなと思いつつ、続きを楽しみに待っています。
8.90名前が無い程度の能力削除
滋味にあふれているというかなんというか、とにかく面白かったです。
9.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。続き、気長ぁーに待つことにします。
11.100桜田ぴよこ削除
楽しませて頂きました。
14.100名前が無い程度の能力削除
世界観の広がりがZUN監修の某漫画の思い出させました
一つ一つの出来事に想いをはせるような丁寧な筆致がテーマと上手くマッチしている気がします
15.無評価名前が無い程度の能力削除
誤字報告などです。参考になれば幸いです
>見廻したぐるりは一様
>?果の時期さえ(?に当て嵌まる漢字が、わたしの環境では文字化けしていました)
18.100名前が無い程度の能力削除
役割を終えても好奇心を隠せない阿求と不思議に満ちた幻想郷がどうしようもなく魅力的です。