月の美しく輝く夜、守矢神社の廊下をうごめく影がひとつ。
(そろり…そろり…バレないように…)
抜き足差し足忍び足、から傘妖怪小傘は、音を立てないよう細心の注意を払いながら、目的の部屋を目指す。
妖怪の山の山頂にあるこの神社に忍びこむ人間などおらず、また妖怪たちも、強力な二柱の力を恐れて忍びこもうなどとは思わない。この妖怪を除いてではあるが。
そのため不用心にも鍵をかけておらず、潜入は容易であった。
(息を殺して…気配を消して…)
そう念じながら、一歩一歩を慎重に踏み、ついに目的の部屋の前までたどり着く。この中に標的がいる。
そして、これまた音を立てないように細心の注意を払いながら障子戸を開ける。
(ふふふ、眠ってる眠ってる)
こみあげそうになる笑いを何とか抑えて、ニヤニヤ笑う。
標的は布団の中ですやすや寝息をたてている。
(こっそり…こっそり…)
そして枕元まで歩み寄り、標的の寝顔を覗き込む。
(早苗ってば、気持ちのような顔しちゃって…この顔がどう歪むか、見ものだわ)
標的、東風谷早苗はぐっすり眠っているようだった。
きしし、とまた笑いそうになるのを頑張って堪える。ここで起こしてしまったら全てが水の泡だ。
(ひょいっと)
そして小傘は、早苗の布団にもぐりこんだ。その際、少し着衣を乱して。
「何やってんです小傘さん?」
「うわぁ!?」
突然声をかけられた。標的の東風谷早苗に。
「ささささ早苗、起きてたの!?」
「ええ、間抜けな妖怪が部屋の前まで近付いている気配がしたので起きてしまいました」
何ということか。あれだけ細心の注意を払ってここまでやって来たというのに、全ては無駄だったのだ。
落胆する小傘に、早苗は、はぁ、とため息をついて
「で、本当に何しに来たんですか?まさか寝首を掻きに来たってわけでもないでしょう?というか、何で半脱ぎしてるんですか?」
「ふっふっふ、よくぞ聞いてくれました!」
その質問を待っていたのだと、胸を張って答える小傘。
「ずばり、早苗を驚かせに来たのよ!」
「…はい?」
小傘が早苗を驚かせにくることはよくあることだった。だからそれはいい。ちなみに現在早苗の全戦全勝である。
でもどうしても分からない、不可解なことが一つ。
「何でいつもみたいに大声で驚かせようとせず、布団に入って来たんですか?それも服を脱いで」
「え?だって目が覚めて隣に憶えのない裸の女がいたら、人間って驚くんじゃないの?」
「…………」
わたしは何かおかしいことをしているのか、と言わんばかりのきょとんとした目で小傘は言った。
早苗は、まずどこからつっこもうか頭を悩ませた。
「とりあえず、そんな知識どこで憶えたんですか?」
「えーっとね、これだよ」
そう言って小傘がポケットから取り出したのは、少しボロボロになった小さな一冊の本。
そのタイトルは
「『愛と憎しみのサスペンス、旅情編』、ですか…」
月明かりに照らされて見えたのは、おそらく幻想入りした外の世界のサスペンス本。道端で拾ったのだろう。
小傘は、その本をパラパラとめくり、目的のページを見つけ出す。そして月明かりを頼りに本の内容を読み上げる。
「…男が目を覚ますと、驚愕した。隣に憶えの無い女が寝ているのだ。その衣服ははだけている。酔った勢いで連れ込んだのかもしれない」
「はぁ、もういいです」
内容は実にありがちな展開。
どうやら「驚愕した」の一言に感銘を受け、早苗に対し実践してきたようだ。内容がどういう状況であるかもよく分かっていないらしい。きっちり理解していたらそれはそれで何か嫌だが。
「男」と書いてあるのに、それを勝手に人間全般に置き換えているあたりも小傘らしいかもしれない。
短絡的にもほどがあるだろう、きっとそこだけしか読んでないのだろうな、と早苗は思う。
「ちなみに、続きはどうなるんです?」
「え、続き?」
全く続きの内容を把握していない小傘。
早苗の思った通り、興味本位に数ページめくってみて「驚愕」の言葉を見つけただけのようだ。
小傘はまた月明かりを頼りに声に出して読みだす。
「えーっと…すると女も目を覚ました。そこで二人は口論になった。昨晩何があったのか、その責任を、女がまくしたてるように問うたのだ。口論の末、男はカッとなって女を突き飛ばした。すると、女はタンスの角に頭をぶつけ、動かなくなった。男が慌てて女の元へ寄ると、もう息は無かった…」
ここまで読んで、途端に小傘の目が怯え始めた。
「じゃ、じゃあ…わたし早苗に殺されちゃうの…?」
「殺しません!」
小傘の様子に、夜であるにもかかわらずつい大声を出してしまった。
広い家で、神奈子や諏訪子の寝室とは離れており、ご近所さんと呼べるものもいないのが幸いと言えば幸いだった。
まったく何故こうもすぐに鵜呑みにしてしまうのか、純粋にもほどがある。早苗は呆れてしまった。
ふとここで、心配事が出てくる。呆れるほど純粋な小傘が、本の内容をあまり理解せず、すでに何かやらかしてしまっているのではないか、と。
「もしかして、わたし以外にこの驚かし方を実践しましたか?特に男性に」
「ううん、してないよ。第一犠牲者は早苗って決めてたから」
とりあえず自分以外の誰にもやっていないようで、早苗はほっとした。
しかし「第一犠牲者」と言っているあたり、他の人間にもやるつもりだったようだ。
こんな驚かし方、夫婦の夫の方にでもやれば確かに驚くだろうが、その後の夫婦の空気の重さは半端ないだろう。独身男性にしても驚くに違いないが、あまりにも不純である。
よってこの驚かし方は人間への迷惑が甚だ大きい。それが問題だ。
決して「小傘を誰にも渡したくない」という早苗の嫉妬心から来るものではない。おそらく、きっと。
「いいですか小傘さん、こんなことわたし以外の誰にもやっちゃいけませんよ」
「どうして?」
「わたしは貴女を殺したりはしませんが、人によっては殺してしまうかもしれません。だから、やっちゃだめです」
「ひえぇぇ…分かった、もうやらない」
小傘の純粋さが非常に活きた。もちろん早苗の言ったことは嘘であるが、簡単に信じてくれた。
早苗は再びほっとする。重ねて言うが、これは人間への迷惑の大きさを懸念したものであって、決して「小傘を誰にも渡したくない」という早苗の嫉妬心から生じた想いではない。たぶん。
「さ、分かったのなら服をちゃんと着なおして帰りなさい。わたしも寝ますから」
もう夜も遅い。さらに、早苗は寝ていたところを起こされたようなものだ。だから眠い。
帰るよう促されると、小傘は、うーん、とちょっと考えた後
「ねえ、今日泊まっていっていい?」
「え?」
突然泊まっていきたいと言い出した。
困惑する早苗に、小傘はあっけからんと話を続ける。
「だって、帰っても一人でつまんないし、大人しく寝るから、いいでしょ?」
「はぁ、分かりましたよ」
「やったー」
諦めたように息をつき、早苗は小傘の宿泊を許可した。
小傘との付き合いも短いものではなくなってきたので、こういうことを言いだすと意外と頑固に引き下がらないのを早苗は知っていた。
「じゃあお布団出してあげますから、大人しく寝ててくださいね」
早苗は、布団から出て押入れから新しい布団を出そうとした。
すると小傘はそれを止めた。
「そんな面倒なことしなくても、このままでいいじゃない」
「…まあ、小傘さんがそれでいいなら別にいいですよ」
色々思うところもあったが、早苗は布団を取り出すのをやめた。
小傘は小柄なので窮屈というわけではないし、最近夜は結構涼しくなってきたので、暑苦しいというわけでもない。
何か変な気分になるということが無いでもないが。
「じゃあ、おやすみー…すぅ…すぅ…」
「も、もう寝ちゃったんですか!?」
反応が無い、どうやら本当に眠ってしまったらしい。
(妖怪って夜の方が調子がいいんじゃなかったっけ…)
そう思う早苗であったが、事実目の前の妖怪はあっという間に寝てしまった。
布団に入るとすぐに寝るタイプなのかもしれない。うらやましい。
早苗だって女の子だ、眠れない夜だってあるというのに。
(まあ、たまにはこんなのも良しとしますか)
小傘を起こしてしまわないよう、やさしく小傘の頭を撫でた。髪の毛は思ったより柔らかかった。
すると、小傘は何やらむにゃむにゃ喋り出した。寝言のようだ。
「いっぱい驚かせたぁ…お腹いっぱいだぁ…」
(ふふっ、嬉しそうな顔しちゃって)
現実ではあんまり芳しくないようだが、夢の中ではずいぶんと調子がいいようだ。
早苗の顔もほころぶ。
「むにゃむにゃ…どうだ早苗ぇ…参ったかぁ…」
(むむ…)
どうやら驚かしていたのは早苗だったようだ。
小傘の夢の中とは言え、小傘に驚かされているというのは何だか悔しい。ふがいないぞ、夢の中の自分。
(落ち着け落ち着け…これは夢なんだし…)
夢の中は非常に自由奔放で、現実では起こり得ないことも簡単に起きる。
そういうものなのだと自身に言い聞かせて、心を静める。
早苗が自分と戦っていると、小傘はまた寝言を言い始めた。
「約束だぞ早苗ぇ…」
(約束?)
「驚いたんだから、わたしと結婚しろぉ…」
「何でですか!?」
はっと口を押さえる。ついつい声を出してしまっていたのだ。
起きてしまっただろうか、と小傘の顔を覗き込むと
「すぅ…すぅ…」
(よかった、寝てる…)
せっかくお腹いっぱいになる夢を見て眠っているのに、起こしてしまっては可愛そうだ。
それにしても
(ああびっくりした。まったく一体どんな夢を…ん、びっくり…?)
「びっくり」
自分が頭に描いたその言葉を何度も何度も思い返す。
(わたしが…びっくりさせられた…誰に…?)
誰に、一体誰に。
それは他でもない、隣で寝ているから傘妖怪。今まで一度も驚かされたことのなかった、全戦全勝「だった」相手。
早苗の理解がそこまで及んだとき、非常に大きな悔しさがこみあげてきた。
(小傘さんに驚かされるなんて、悔しい悔しい悔しい!)
驚かせない妖怪と今までからかってきたのに、それはもう過去のこと。
早苗の不敗神話は、今ここに幕を閉じたのである。
(もういいです!寝て忘れます!)
幸いこのことを知っているのは驚かされた早苗のみである。言わなければ誰にも分からない。
布団を頭までかぶって、今起きたことを何とか忘れようと奮闘する早苗であった。
翌朝
「あれ?早苗がまだ起きてないなんて珍しいな」
神奈子が起きると、いつも既に起きている筈の早苗の姿がなかった。どうやらまだ寝ているらしい。
神奈子は早苗を起こしに行った。
「おーい早苗、朝だ…って何だこれは!?」
障子戸を開けると、何故か一緒の布団で寝ている早苗と小傘。しかも小傘の服はとても乱れている。神奈子は驚きのあまり真っ白になった。
なんと、から傘妖怪小傘は寝ながらにして一人と一柱を驚かせ、見事お腹を満たすことに成功したのである。
「ふぁぁ…おはようございます神奈子様…」
「ううん…おはよう…」
そんなことは露知らず、小傘は早苗と一緒に心地よい朝を迎えたのであった。
無茶しやがって…
今すぐ行きます!
ねね、いいだろう?
いつでも逃げられるように鍵を開けておこう。
早苗さんにご褒美ももらえるようなのでちょっと神社にいってきます。
それはともかく、いいこがさなでした。
いいなあ俺も驚かされたい……え、何俺も神社裏?
・・・え、違うの?ざんね(この先は赤黒い液体で解読できない