秋も深まっているのか落ち葉がヒラヒラと舞い散る。
久方振りの幻想郷は、少々寂しいところだった。
鬱蒼として薄暗かった魔法の森は、少しの光を迎える小奇麗な通り道になっている。いったい誰が作ったのか、ご丁寧にやたら長い椅子まで用意してある。きっと人間の里の者が出入りするようになってしまったんだろう。
いつの間にか変わってしまった景色に私は何もいえなかった。きっと何年経ても同じ場所にあると思っていた世界は、どこまでも器用に姿を変えていた。
「……こりゃあ、酷いわね」
呟いた言葉もむなしく、誰も返事をしない。その昔見知った筈の木々すらも、まったく知らない顔で他人行儀な目を向けてこちらを見ていた。私は、その昔つけていた帽子を目深にかぶると、その視線から背を向けるようにうつむいた。
私が外の世界に出てからもう10年が経っている。
もう10年。
まだ10年?
やっと、10年?
映写機のフィルムのように脳裏で巻き戻されるこの10年は、気がつけば全速力だった気もすればオールで漕ぎ出したいかだの様にゆっくりだった気もする。古い知人、森近霖之助の紹介で外の世界の魔女から教えを受けていたこの10年。いつの間にか大きく変わっていた外の世界に順応するのにも、なかなか骨が折れたものだ。
性格の悪い魔女を師と仰いだ10年は小波と大波を織り交ぜた海のように、ゆったりと荒々しく過ぎていった。
そして、魔女からのひねくれたお墨付きをもらって、私は幻想郷に帰ってきた。おおよそ10年ぶりに、幻想郷の土を踏んだ。
「皆、元気かな……」
昔の「~だぜ」なんて言葉は、向こうで生きるうちに使わなくなった。アルバイトで生計を立てるうち、そんな余裕もなくしてしまった。忙しい世界に振り回されて、どこかに自分をおいてきたのかもしれない。
変わったのは私たちだけではない、お前もさ。と周りの木々は呟いた。私は立ち止まってすっかり変わってしまった無数の木を見て、目を細める。
分かっている。分かっているんだ。だから黙ってくれ。
不意にこみ上げる熱いものを、唾と一緒に飲み下すと、私は再び俯いて歩き出した。
だって、しょうがないだろう?
――――言い訳した。
だって、もう戻らないんだ。
――――誰に?
だって、時間なんて、もう戻らないんだ。
――――木に。皆に。何より、霧雨魔理沙という私自身に……。
歩いても、歩いても。見知った木々は一本も無くって。それが何よりも哀しくって、私は駿馬のように早足で妙に整地された魔法の森を駆け抜けた。
見知ったモノを見たくて。大好きだった幻想郷を見たくて。大好きだったモノの残滓を無意識に探して。
見知らぬモノが、矢継ぎ早に流れていく。価値があるはずなのに、価値の無いモノが流れていく。
私はその全部を振り払って、足を速める。どこに向かう、なんて決まっている。
私の家だ。
私の居場所だ。
私の生涯の宝物をしまう場所だ。
いくつもの木はその顔を変えてしまったが、ルートは変わっていない。急いだ。何かに突き動かされるように、急いだ。
少しでも懐かしい香りがほしかった。
だから、急いで、急いで、急いで、急いで――――
「……は、はは」
そして、急いでそこにあったモノは。
『売地』
ベニヤ板に張り紙がひとつ。寂しげな案山子を思い起こさせる看板。後は、整備された空き地。散った木の葉が風に吹かれて、それがまた哀しくて寂しくて。
見間違いだと思った。
きっと道を間違えたんだとも思った。
道を戻って、もう一度歩き始めた。目をこすって、もう一度『私の家』を見た。
それでも、無い。
どこにも無い。
嘘だ。
そんなはずは無い。
どこに、どこにある。
探すんだ。
何度も。
何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
何度も、探して……それでも、ここ、だった。
「…………ぅうっ――」
大きな硝子の破片が、壊れそうだった心に思い切り突き刺さった。膝は折れて、あのころよりも少し大きくなった体が崩れ落ちる。
幻想郷のすべてを失った。
変わっている。
覚悟していたよりも、何倍も変わっている。絶望が体の隅から入り込んできた。それでも泣けない。意地やプライドじゃなかった。もう、体が泣けない。こんなに悲しいのに、泣けない。
いつまでもこうしていても始まらないから、私は立ち上がった。
探しているうちに、夜の帳は下りてしまったようだ。そして、狙い済ましたように雲行きが怪しくなってきた。月はまだ見えているが、遠くのほうにドス黒い暗雲が見える。
「雨、かなぁ……」
濡れてしまいたかった。
全部洗い流してほしかった。
ここで全部を失った私には、それがお似合いだろ?
そう自分に言い聞かせて。上を向いて呆然と雨を待つ。
「魔理沙?」
聞き覚えのある、変わらない声だった。
振り返ると、そこには金髪のショートカット。赤いカチューシャは変わらない。記憶よりもすこし大きな人形を従えた少女。
「……魔理沙、よね?」
こちらを呼ぶ声も、優しくて。もっとその顔を見たいのに。ぽつぽつと降って来た雨が、視界を濡らすのが煩わしかった。
「…………アリ、ス?」
だから、代わりに名前を呼んだ。友人の名を。時を経ても変わらない、友人の名を。
彼女は、私に近づくと、にこりと微笑んだ。
「おかえりなさい」
私は、うれしくって、うれしくって。
「ただ、いま……ただいま!」
雨は降って視界はぼやけているのに、空はやけに雲が無く月は出たままだった。
「お茶は?」
「いや、いらないわ」
アリスの家は記憶の場所よりもずっと遠くにあった。妖怪の山の近く、とても静かなところだ。
私は帽子を脱いで、荷物を椅子の下に置くと少しばかり行儀良く座った。
昔はたびたび訪れていた場所には変わらぬ家具と一緒にインテリアのような人形が増えていた。この10年、彼女も人形作りに腐心したのだろう。私が魔法使いの道に手を伸ばし続けたように。
自分と同じように戦い続けていた人が、こんなにも身近にいたことが少しだけ嬉しくて、私はそれに比例するように少しだけ微笑んだ。
「そう?じゃあ、お菓子だけでも用意するわね」
「ううん構わなくても大丈夫よ」
反射的にそんな言葉を口にする。
「…………そう」
じっとアリスの動きが止まった。寂しそうな瞳が私を見る。
ずくり、と。胸のうちが疼いた。それと同時に変わらない家具を中心に、昔の世界が古いフィルムのように再生される。
『アリス、このクッキーもらうぞー』
『あ、こら!それはさっき焼いたばっかりだから――』
『あっつ!』
『言わんこっちゃ無いでしょ!』
『ひょんなこちょよひもみふをくへ!ひたがやへどひてひまうじぇ!』
カラカラと回る私の記憶のフィルム。
昔の自分を思い返せば、それはもう豪快にご馳走になっていた。失礼極まりない、と言えばそこまでだが。あの頃の私はいったい何を考えていたのか。思い出せない。
「ごめん、気にしないで……お茶、もらっても良い?」
沈黙に耐えかねた私は、軽くアリスに頭を下げる。
「……うん」
アリスは微笑むと台所に消えてしまった。私はその瞬間、小さくため息を吐くと呆けるように窓の外を見た。
どこかが違う。
何かが違う。
私とアリスは友達なのに。全然違う。
「やっぱり、私が変わっちゃったのかな」
外の世界で時間を経るにつれて変わっていく自分を実感する事は無かった。
ただ順応する事に必死で、ここでも幻想郷と同じくらい頑張って、アリスやにとりや霊夢に追いつける位の魔法使いになってやるって。ただそれだけを考えてがむしゃらに頑張った。
どこがいけなかったんだろう。どこが悪かったんだろう。考えても考えても分からない、なんて馬鹿みたいな結論だ。せめて、昔みたく素直になれれば……。
「魔理沙?」
「えっ?」
いつの間にか、トレイにお茶の入ったティーカップを載せたアリスが隣に立っていた。淹れたてで湯気の立ち上るティーカップからは、紅茶なのか微妙に甘い良い香りがして妙に鼻についた。不意に、師のところで飲んでいた筈の紅茶を飲むのが10年ぶりに思えた。
私は心配させないように取り繕うような笑顔を見せる。
「どうしたの?」
「いや、お茶が入ったから……そしたら、魔理沙が悲しそうな顔をしていたから……」
ぐさり。
まただ。また、胸に刺さる痛み。昔も経験していたけど、それよりも何倍も痛い。アリスの心配そうな視線が、胸に痛い。
「き、気のせいよ、アリス。頂くわね」
間を繋ぐために、ひったくるようにアリスの持つトレイからティーカップを掠め取った。口をつけると、熱い紅茶が舌を刺激する。口をふさぐ為に飲んだ紅茶は、香りはよかったのに味は全然しなかった。
「頂くぜって、言わないのね」
「…………」
アリスの言葉に、紅茶に口をつけたまま私は固まってしまった。彼女はそれ以上何も言わず、私の真向かいの席に座ったが、私の頭の中は、今の一言でいっぱいだった。
『頂くぜって、言わないのね』
当然の一言、疑問の一言。なのに、どうしてこんなに心の喉を通らない。
「おいしい?」
私はティーカップに口をつけたままうなずく。味なんて分からない。
「ありがとう」
アリスは目を細めて微笑んだ。本当に嬉しそうに。
ごめん。
心の中で呟いたって、口にしなければ伝わらないのに。
ようやくティーカップから口を離す。ため息をつきたかったが、なんとなくはばかられたので、代わりに口を開いた。
「皆は、元気なの?」
ティーカップに口をつけて、紅茶を静かにすすってからアリスは少し表情を曇らせて答える。
「まぁ、いつもどおりね……でも、魔法の森は……」
「そうそうあれはいったい?」
「……最近、妖怪よりも人間の方が力を持ち始めたの」
「うそ?」
神妙な声色のアリスの言葉に、私は反射的に息を呑んだ。
幻想郷において、人間は妖怪に食われる、妖怪は博麗の巫女に退治される。という一連の流れでパワーバランスを保っている。私の居た頃はきっちりとしたパワーバランスが保たれていた。
「カガクってやつよ……ほんと小憎らしい」
思い出したのか、忌々しそうに呟くアリス。いったい如何なる戦いがあって魔法の森がああなってしまったのか……それを想像する術は私には無い。だが住処を奪われたアリスにしてみれば腹が立つなどという言葉では表しきれないだろう。
「紫は?何も言わなかったの?」
あの常に不穏な空気と不可思議な言動を従える魔女よりも魔女らしい女が何もしないはずが無い。
しかし、私の予想を打ち砕くようにアリスは俯いて首を横に振る。
どこかへと消えたのか……はたまたやられてしまったのか。ともかく、賢者を欠いた今、幻想郷の治安は最悪といっても良いだろう。
居心地悪く、私はまた誤魔化すようにティーカップに口をつける。しかし、すぐに中身は無くなった。
話題を探そうとした私は、すぐ目の前の人形に気がつく。
繊細な髪、弾力がありそうな表皮、人間に近い人形。流石、アリスの人形。
「昔よりももっと良い人形作ったのね」
机にちょこんと座る、上海人形よりも少し大きな人形に目をやる。
「ええ、貴女が居ない間、かなり頑張ったつもりよ?」
少し誇らしげに笑うアリス。
彼女の頑張りはよく分かる。その成果はこの部屋の大量の人形、その魔力から感じるヴァリエーションを見れば一目瞭然だ。
「すごいね」
感嘆の意味も込めて呟く。卓上の人形の頬に指をやると、人形は小さく首をかしげて、「ババカジャネーノ?」と言った。
ああ、きっと大馬鹿だよ。
うっかり口にしそうになった一言を飲み下す。
「あなたは?とても大人びて落ち着いたみたいだけど……」
「私は……一応、魔法使いになったわ」
少々バツが悪そうに私は苦笑した。『大人びて落ち着いた』という言葉に胸が痛みを訴えた。
「一応?」
「そう、仮免なの」
思わずカップに手が伸びる。だめだ、中身が無い。
「あら、どうして?」
やっぱり、当然の疑問だ。私は唇を噛んで俯いた。
できれば仮免だとは言いたくなかった。どこまでいっても半人前だと笑われる。やっぱり、と。きっと笑われる。
腕が震えた。振動が歯を鳴らす。
怖かった。この親友に笑われれば、きっと私は壊れてしまう。
思い起こされるのは、幻想郷とは一風違う外の世界の嘲笑。さばさばしたそれではない、嘲る、という言葉を最大限利用した、粘着質なモノ。
「お、お茶、おかわりする?」
私の気持ちを察したのか、アリスは視線を私からはずすとティーカップを持って立ち上がる。
やめてくれ、気を使われたくない……そういう変なプライドが頭を掠めて、臆病な喉を突き動かした。
「い、いいの!」
ようやく絞り出た言葉は、大きく震えた拒否の言葉……。
必死に何かを取り繕おうとする、臆病な言葉。
こんなの私じゃない。そう誰かが口にする。
「ねえ、魔理沙」
アリスは私の必死な瞳を見て、トレイを机に戻すと静かに切り出す。
悪戯をして父親に怒られた幼い日のことを思い出した。どんな言葉が飛び出すのかが怖くて、縮こまってしまう。そして、許しを請うように相手の目を見た。
「何をおびえているの?」
口を開いたアリスの言葉は、なんでもないはずなのに私の心を刺した。さっきまで高鳴っていた心臓が、一気に血を引いて音を止める。
守っていたはずのプライドが、いともたやすく崩れ去る音をすぐそばで聞いた。
「お、おびえてる?」
それでも震える唇で崩れたプライドを守ろうとする自分が痛々しくて、誤魔化すように、自嘲するように、私は歪に口の端を吊り上げた。
そんな私にアリスは卓上の人形を抱き上げて見せる。そして、諭すように柔らかな口調で続ける。
「この子はね、上海人形を元にして作ったの。便宜的に大上海って呼んでるけど……」
アリスの胸に抱かれた大上海が「バカジャネーノ?」と小首をかしげ、小さな瞳でこちらを見つめる。上海人形以上に精緻に作られた人形は、まるで感情があるかのように不思議そうに目をしばたたかせる。その一挙一動見る度に、アリスの技術力を痛感する。
魔法使いは他人にはその力のすべてを見せない。まだまだ美しく精巧な人形が居るに違いない……そう思えば、私は自分の10年がどうしようもなくちっぽけに思えた。
「これが、私の10年」
ところが、そんな私の思いを吹き飛ばすようにアリスは舌を出して笑った。
まるで、悪戯が見つかったことを誤魔化すときの子供みたいな仕草だ。
「え?」
呆気にとられる、という意味を再確認した。お腹の辺りで渦巻いていた負の感情が一気に風に吹かれさらわれたような感覚。
これがすべて?
彼女の腕に抱かれる人形は確かに精巧精緻だが、これがアリスの力量のすべてだとは思えなかった。それどころか、細かいところは違うものの、大きな部分は旧い上海人形と大して変わらないのだから。
「私も、外の世界に出るっていう魔理沙に負けないように一生懸命頑張ったんだけど、やっぱり10年じゃこれが限界ねぇ、フフ……」
軽やかに笑うアリスは先ほどまで私が晒す事を恐れていたことを平然と言ってのけた。それは私からしてみれば、雷に打たれる程の大きな衝撃だった。
「な、なんでそんなに平然と言えるの!?」
ガタッと席から立つ。机から帽子が落ちたが、一向に気にしない。
目を丸くして驚いた表情でアリスは私を見ていた。しかし、構わず私はまくし立てる。
「なんで私にそんなに無防備でいられるの!?」
声を荒らげる私を、平静を取り戻した様子のアリスが逆に問うた。
「逆に聞くけど……魔理沙はなんでそんなに身を守ろうとしているの?」
冷静な、諭すような、優しい、甘い声。そんな素敵な声にすら、私はつい過敏に反応してしまう。
「時間をかけて、できなければ嘲られるかもしれないじゃない!罵られて野次を飛ばされるかもしれないじゃない!……あんなの……あんなの……」
何人もの嘲りの顔が頭の中でぐるぐる回る。味方なんて居ない。支えてくれる人なんて居ない。何度転んでも、他人は嘲りに寄ってくるだけ。
嫌だ。
嫌だ。
助けて。
頭を抱えても、誰も助けてくれない。
叫んでも誰も助けてくれない。
敵。
敵。
皆、敵――――!
パァンッ!!
「……ひっ!?」
混濁した思考の波は、大きな音と打ち放った平手を振りぬいた後のアリス。そして熱い頬によって途切れた。
ぴたりと自分の頬に触れると、確かな熱を持っていて自分がアリスに思い切り平手打ちをもらった事を主張していた。
「アリス……?」
ただ、それよりも私は。平手打ちを放った体勢のままこちらを見つめる彼女の瞳から流れる一筋の意味を考えていて。
「馬鹿……」
アリスの端正な顔がぐしゃぐしゃになった。白磁の肌が、涙に濡れる。
泣いている。
そう思ったときには、後悔と罪悪感が心を蝕んで……。
「ごめん……なさい」
忘れ去られた事を不満に思うことも無く落ちたままの床の帽子を取って被ると、耐え切れなくなった私は、ゆっくりとアリスの家の玄関へ向かう。
「バカジャネーノ?」
うん、大馬鹿だ
「お邪魔、しました……」
ただそれだけ言うと、私は親友の家の扉を閉める。軋むような音がしてその音が妙に頭に残った。
先ほどよりも大きく見える空は、暗く優しく冷たく私を迎え入れた。秋の虫の声が耳に残る。
「…………」
月明かりに少しでも自分が照らされるのが嫌で、帽子を目深にかぶったまま私は妖怪の山の方へと当ても無く歩き始めた。
ごめんなさい、と何度も心の中で謝った。何度も後ろを振り返ってはアリスの家を確認した。それでどうなると思っているわけも無いのに。
そんな馬鹿みたいなことをしているうちに、妖怪の山はすぐそこだった。
昔はここに入るのには神経をすり減らしたものだ。何せ天狗達の領域意識は恐ろしいほど高く、また他の高位な妖怪も己の縄張りを汚されることを嫌う。ごつごつした岩肌を露出させる殺風景な山は一度入れば出る事適わぬ恐ろしい所だった。箒と八卦炉さえあれば恐れるモノなど無いと思っていたあの頃私は、烏天狗の文と戦ったりしながらもここでも毎日を楽しんでいた。
そして、今。
私は暗闇にあぐらをかくように鎮座する大きな山を見上げている。
外観は変わっていない。威圧するような空気と、不気味な程静まり返った雰囲気はまるっきり妖怪の山だ。
ここに足を向けた理由はなんなのかも見出せないまま、私はなんとなくという最もあてにできない感覚に従って、山を流れる川に沿って歩き始めた。
音も無く水流が流れる。透明な美しい水は、映し出す世界を歪めて、しかしそれすらも美しく飾ってしまう。魔法の鏡のようだった。
だけど、私にはそれを綺麗に感じる余裕すらない。
いまさらアリスには謝れない。
俯いた私がため息混じりに考えたのはその事だ。
転がり込んだ挙句、結局泣かせてしまうなんて……最低だと自分でも思う。謝りたいとは思うけど、あんなに優しくしようとしてくれた彼女にこんな不貞腐れた不細工な表情では合わせる顔が無かった。
無様な心の在り方だ。余裕が無い。
せめて、彼女のように、昔のように、素直になれたなら。
ふと、立ち止まって覗き込むと、あの頃と変わらない水面にすっかり変わった少女ではない女の顔が映る。悲しげな瞳に、無理やりの作り笑いに疲れた頬……何度も外の世界で見てきた、偽ることで生きてきた人間の顔。
水面に映ったそんな自分の顔が、なんとも憎らしくて。私は足元の石を拾い上げて思い切りブン投げた。
石は水切りのような平らな石ではなく、小ぶりで硬いジャガイモみたいな形の石。私の腕から放たれた石は、それこそ意思を乗せたように鋭く遠くの水面へと向かう。
消えてしまえ。こんな私。こんなつまらない私。こんな最低な、私。
今日何度目かの変わってしまった自分への言葉を心にすれば――ごすっと嫌な音がした。
「いったぁ!」
「えっ?」
石はぽちゃんというお決まりの音を奏でるその前に、なにやら硬いものにぶち当たる。それと同時に、少し子供っぽい声がする。よく見れば私が思い切り石を投げた先で、翠の髪の少女が帽子ごと頭を押さえながらせわしなくあたりを警戒している。
髪の毛は若草を思わせるように何度もせわしなく揺れる。
「だ、誰だ誰だ!?人間の襲来?わ、わ私は悪い妖怪じゃないよ!盟友!盟友の河童!」
機関銃のようにまくし立てる青みがかった緑髪の少女。知らない顔じゃない、それどころか……。
「って……魔理沙じゃん。わぁ、大きくなったねー」
こちらを見て、頭を押さえた姿勢のままきょとんとする少女。
私の大切な友達の一人、妖怪核弾頭河城にとりは純粋な好奇心を従えた瞳を瞬かせると、能天気にそう言った。
にとりもアリスと同じように、変わらないまま、その笑顔を絶やさずにそこに在った。それは私にしてみれば嬉しくもあり、やはりまた、辛くもある。
「人間、苦手になっちゃった?」
「うん……まぁ、人間がさ、いっぱいきたんだ、ある時」
珍しく神妙な面持ちで
「大変だったの?」
「うん……大変だった」
川沿いにあった土手を移動するまま、行く当てもないのでにとりと二人、自信なさげにどんよりとした夜空を見上げていた。そんな中に自己主張する月明かり、照らされるにとりの表情は暗く盟友であるはずの人間に裏切られたのがよほど堪えたのかも知れない。
「皆私が悪いって言うの。全部、全部私が悪いって」
肩を落とす姿は、天真爛漫な彼女の性格と照らして、昔よりももっと小さく感じて、それが並んで歩く自分が物理的に大きくなったからだと思い知れば、また辛かった。
「悲しかったよ。いっぱい泣いた。こんなに泣いたのはいつぶりだろうって位」
困ったように苦笑するにとり、その表情の奥底にある悲しみと悔しさは筆舌に尽くしがたいものだっただろう。信じられたものに裏切られ、蔑まれた。例えそれが一方的な信頼と好意だったとしても。にとりが人間にどれほどの好意を抱いていたか、私にはよく分かるから……。
「あはは、こんな話しててもしょうがないよね。魔理沙はどうだったの?」
「ど、どうだったのって?」
急な話題の転換に私は思わず上ずった声を上げる。
「外の世界だよ、魔女の修行だったんでしょ?」
にこにこと話すにとりの表情は、期待の色でいっぱいだ。魔理沙なら、輝かしい栄光を掴み取っている。そう疑ってやまない顔だ。
急に後ろめたい気持ちになった。ごめんなさいと謝りたくなった。それはアリスの件も含めてそうだったのかも知れない。それでも、プライドとか、申し訳なさとか、そんなちっぽけなものが邪魔をする。
「口調も大人っぽくなったし……お土産話が聞きたいなー」
またアリスと同じ無防備な表情。何も探っていないとアピールするような手放しの言葉。
イラつくような、悔しいような。感情は渦を巻いて心に燻る。
苦虫を噛み潰したような表情で俯く私に、にとりは首をかしげる。
「どうしたの?」
その純粋な瞳に私は涙を流しそうになってしまい、その感情を嚥下した。飲み込んだ感情はとても痛くって、惨めな自分を戒める棘を想起する。
冷や汗にもにた何かが、背筋を通った。
取り繕うために、微妙な笑顔が、不細工な作り笑いが作られる。
「いや、なんでもないよ……なんでも……あ、はは」
もう嫌だ。
帰ってくるんじゃなかった。
こんな自分を晒す位なら――――。
「うーん……えい」
「って……ぇえ?」
ばしゃーん!!
急に、地面ばかりを見て鬱屈とした視界が、真っ暗な空に変わって、最後には大きな水飛沫と共に透明な景色の中に沈んでいた。
私は、パニックになって訳も分からずに、もがいた。
息苦しい。助けて。誰か。
もがけばもがくほど、体は沈んでいく。
手を伸ばした。誰かにとってほしい。
助けてほしい。
心が叫んだ。
無理だ。誰も助けてくれない。分かってる、外で、散々思い知らされた。
それが現実。どこまでも非常で、暖かい手なんてどこにも無い。それが、現実だ。
闇色に透明色な液体が私の体を濡らす。侵食する。まるで、体に闇が入り込むように。現実の絶望という名の冷たい闇が私の心を侵していく。
嫌だ。
こんなの。
こんな私。
こんな現実。
助けて。
心が叫ぶ。
心が。
心が――――
「馬鹿だなぁ、魔理沙は」
その声は、とても優しい声だった。そんな気がした。
視界が、濡れた暗闇から黒い空に戻る。
冷たい闇の中で急に触れた暖かい手が、私を一気に闇から引き上げた。
久々に空気を吸った気がして、肺が激しく収縮を繰り返す。目はぽたぽたと髪の毛から滴る水を気にしていて、水面に落ちる水の雫が耳をなでた。
にとりは私の手を、まるで大事なものを扱うようにその小さな両の手で握っていた。水に濡れて冷たいはずなのに、その手だけは暖かくて……今にも泣いてしまいそうだ。
「魔理沙が辛いこといっぱいあったのはね、表情見れば分かるんだ」
か細い、今にも泣きそうな声だった。にとりは閉じた瞳に涙をにじませている。
「だから、せめて聞かせてよ。助けてって、何度も言ってるのは分かるんだ。助けてあげられないのかも知れない。でも、力にはなれる筈なんだ」
にとりの言葉に嘘は無かった。いや、嘘じゃないと信じたかったんだ。この手の温もりが、今にも泣きそうな声が。私の心で燻る、申し訳なさと、嬉しさが。
「外の世界に魔理沙の敵が居ても、私は……ううん、私だけじゃない。アリスや、霊夢……幻想郷(ココ)の皆は絶対に、魔理沙の味方だよ……」
言葉と共に、雨の水滴のような涙が頬から水面に垂れ落ちて、波紋を広げる。私はそれを呆然と見つめていた。
――皆敵だ。
と、私は言って身を守った。
――私は味方だよ。
と、にとりは両の手を無防備に広げてくれた。
なぜ、そんな単純な事が今の私には分からなかったんだろう。
「ごめん……」
取り繕うことも無い一言。今までの謝罪の言葉とは違う、もっと奥からでた、素の言葉。
「ごめん……にとり」
水で、疲労で、その他にももっと何か重大な重石を背負った重たい体を動かして、にとりの小さな、本当に小さな体を抱きしめる。
「いいよ……」
そう言って、抱きしめ返してくれた両腕は細いくせに、がっちりしていて。私を見放さないという意思が感じられて、胸に暖かいものが波のように広がる。
それを生に感じられるのが、すごく嬉しかった。
月がこちらを見て嗤う夜。
――嗤われていたのは私の滑稽さ。
雨が降りそうな月の夜。
――降り続けたのは私の悔しさ。
そんな幻想郷(カエルバショ)の夜。
――私はここに来て初めて、自分の背負っていたモノの重さと、くだらなさを知る。
「行かなきゃ」
「どこへ?」
にとりが、小さな声で訊く。
「謝らなきゃ」
「誰に?」
にとりの問いにまっすぐ答えよう、決意を胸に。そして言葉に。
「アリスに……それと、私に」
そしてにとりは、涙をにじませた瞳で笑う。
「うん、いってらっしゃい」
「ああ、行って来る、ぜ?」
外の世界の私はここで捨てていく。
今も昔も変わらない。変わる必要なんて無かった。
私は、私だ。
アリスの家に向かう道中、いろいろな事を考えた。
昔の事、今の事。
幻想郷の事、外の世界の事。
私の事、皆の事。
そして、これからの事。
そうしたらあっという間にアリスの家についてしまった。
「…………ふぅ」
お腹の底に溜まったものを吐き出すように呼吸する。
たった数時間前に来たアリスの家の扉は、重く、堅くそこに在る。
なんて言葉をかけたら良いんだろう。そう考えた時、先に手が扉をノックする。
「なぁ、アリス。起きてるか?」
言葉は考えていなかった。
あっちが聞いているかも考えていなかった。
「起きてないなら、いいや。吐いていく」
ただ、これは私の独白として完結して欲しい。
「私は、この10年頑張ったんだ」
頑張った。血反吐を吐きそうな修行も、泣きそうな夜も。
それだけは誰に言われても確信できる。誰かに評価されようなんて思わない。それが私の宝物。でも――――
「でもさ、それだけだった」
そう、それだけだった。私は、頑張ったという過程しか結果として残らなかった。
「私は、魔法使いにはなれなかったよ。師匠からのお墨付きで、お前には才能が無いって言われた。お前のは、魔法じゃなくてただの魔法の真似事だって。そう真っ向から言われた」
棘のような言葉が、喉から出る。棘は喉を傷つけて泣いてしまいそうな痛みが走るけど、泣いちゃいけないって分かってる心がそれを押しとどめた。
「それでも、その人を師事し続けたけどさ……」
否定され続けた10年を思い返す。無理難題も無茶な事も、あの魔女なりに私を救おうとしたのかもしれない。身の程をわきまえない人間を、本物の魔法使いにしようとしたのか……それともあきらめさせようとしたのか。
ただ、あの時の私はきっと憔悴しきっていた。だからこそ、最後の日あの人は言った。
「『お前の場所へ帰りなさい、それからまだやるならもう一度私を訪ねに来ると良い』師匠はそう言ったよ」
その意味が、やっと分かった。
見失っていたものを、もう一度取り戻した。
私らしい私を。周りの誰でもない私を。
「アリス。私の10年は終わった。もうこんなに体も大きくなったし、疲れた」
悲しいほどに、少し大きくなった手のひらを見つめる。
手を伸ばし続けた世界は、10年の歳月を経ても尚伸ばした手はそのまま、伸ばし続けたままだ。がむしゃらに走るには少しだけ長い時間。青春をすべてそれに費やした。
「でも」
だからこそ、私はその先を見なければならない。
「あと10年、もうあと10年頑張れば、魔法使いになれるかも知れないんだ」
根拠の無い言葉だった。
そんな事あるはずが無い、10年で無理だったから、もう10年なんて虫が良すぎる。
だが、それでも。それでもと私は、霧雨魔理沙は叫び続ける。開いていた手のひらを握りなおした。ぐっと入れた力に乗った言霊は、魔法になって私に見えない力を送る。
「20年でも30年でも良い。私は魔法使いになる。アリスも霊夢も皆と並んでやる」
それはきっと、空に輝く星に手を伸ばして掴もうとするような夢。
でも、そこに在ることは確かなんだ。夢幻じゃない。砂上の楼閣じゃない。そこにある私の『夢』。
「私は行くよ。今度こそ、魔法使いになってやる……そしてまた、ココに帰ってくる」
だから、そのときは―――と心の中で付け足す。
「待っててくれよ、皆で」
深夜の独白。
きっと起きてはいまい。
――奇跡や魔法が起こらない限り、私の声はアリスに届かない。
でも、それでいい。
私はアリスの家の扉に背を向けた。
――だから、それは魔法。私が使った真似事じゃない魔法。
「行ってらっしゃい」
「―――――――!」
その声を掠め取るように、一陣の追い風が吹いた。
戻るな、と言うような追い風。
前に進め、と言うような追い風。
私はその風に押されるまま振り返る事もできずに前に進む。
でもこのままじゃ寂しいから、せめて私も風に乗せる。
「……行ってきます」
わずか一日ばかりの帰郷は、こうして終わりを告げた。
人形たちが見守る中、魔理沙が行った事を確認した私は寄りかかっていた玄関の扉で、へなへなと腰を落とした。
「いきなり風を送ってくれ、なんて言うから、どうしたのかと思えば……」
隣に立っていた文が腕を組んで微笑む。
「でも、好きでしょう?あの子」
「じゃないと、手伝いませんよ」
「そうよね」
私は静かに思いはせるように顔を伏せて瞳を閉じた。
「……いってらっしゃい、魔理沙」
祈ることしかできない。応援することしかできない。
きっと彼女の力になれることなんて、微々たる事だ。
だからこそ、せめて私は彼女の居場所を守る。
「さて……」
隠した涙をふき取る。こんな姿、人形たちにだって見せられない。
私にだって問題はある。今の幻想郷にも問題は山積みだ。
だから涙を見せない事。前を向くこと。
そうすれば、可能性なんていくらでも生まれる。探求者はそうやって道を拓く。
「明日からも頑張らないと」
そう、明日も頑張ろう。
終わり
まず、完成していただいてありがとうございます。
あえて魔理沙が幻想郷に住みつかず、悩みながらも自分の夢に突き進んでいくところがよかったです。
10年間住み慣れた故郷を離れ久々に戻ってきた魔理沙の心境や10年間の努力、幻想郷外の厳しさ
上手く表現されていて好きでした。
アリスやにとり、文の人柄が変わってなく魔理沙を応援する姿勢に心うたれました。
また次回作あれば期待しています。
十年一昔 変わらないものなんて無いんですね…人間は十年あれば環境も人柄も変化してしまいますから。
と、最初に思ってしまったので違和感を覚えながら読んでしまった・・・
よかったです!
人は無防備で素直になれる場所が必要なのですね。
そりゃもうここで初めてコメントを残したくなるくらい。
前向きに自分もがんばってみようかな、と思える素晴らしい物語をありがとう。