「咲夜って人間なの?」
薄々、というか結構はっきり、気付いてはいたけれど、面と向かって素で聞かれてしまうと、思うところがないでもなかった。
「あんた、あいつに会った事ないの?」
霊夢の言葉だった。それはもう随分昔のようにも、そして昨日のようにも思える記憶で、お嬢様が紅霧異変を起こした後の事だっただろう。
妹様と初めて出逢った霊夢は、何より先に私にそう聞いてきた。
そんな事はない。毎日顔を合わせている。そう言う私に、ふぅん、とこぼして霊夢が言う。
「私を見て、人間は飲み物としてしか見た事ない、って言ってたけど。じゃあ、あんたってなんなのかしらね。種族、メイド?」
まぁ、紅魔館ではその認識で構わないのだけど。必要とされているのは、人間としての私ではなく、メイドとしての私なのだし。
きょとんとして首をかしげる妹様に、そうですよ、と答える。
ばさり、真っ白なシーツをベッドにかける。皺ひとつ残さずに、端から端まで手のひらでさっと伸ばす。
「そっかぁ、知らなかった」
――そう返事が返って来るのだと思っていた。あっけらかんと、何を気にする風でもなく、そう返されるものと思っていた。
けれど妹様は、しばらく返事をしなかった。それに驚いて、作業をやめて妹様の方を見た。
少し視線を落として、何か考えているような仕草だった。
「なんで教えてくんなかったのかな、あいつ」
それは私の台詞ではない。私への台詞でもなかった。
困ったように、愚痴るように、ここにはいないお嬢様の悪口を言うような、そんな口調だった。
まさか気分を害されるとは思っていなかったので、私はいささか閉口してしまった。言葉とともに、替えた後のシーツを畳む。
妹様は、幼児くらいの大きさはあるぬいぐるみを抱くようにして、ぬいぐるみの右手をばいばいするように振っている。その瞳は楽しそうでもなんでもなく、ひたすら無感情だ。無表情でぬいぐるみを弄ぶ様は、少し怖かった。
そう。このひとは、怖い。
ベッドシーツを替える作業はすぐに終わってしまって、手持無沙汰に沈黙を持て余した。
「ん。ありがとう。この話はこれで終わりだよ」
無表情のまま私の方を見て、ぬいぐるみの手でばいばいと振る。声のトーンと行動があまりにもちぐはぐで、それがまた薄気味悪かった。
それきり何も話さず、私からも視線を外し、ぬいぐるみの手を振り続けるだけ。行け、という意味だろう。
私は一礼し、その場から下がった。
妹様に対して抱く印象というのは、個人によっててんでばらばらだ。繋ぎ合わせたら、とてもひとつの個体であるとは思えない。
たとえば霊夢は、鬱陶しいやつと言う。でも彼女は大体誰に対してもそんな事を言うので、あまりあてにならない。
たとえば魔理沙は、陽気なやつと言う。私はそう思わない。
たとえばパチュリー様は、陰気な子と言う。確かにそうだと思うけど、妹様も貴方には言われたくはないと思う、とは言えない。
たとえば美鈴は、優しい方と言う。これも、私はそう思わない。
私はと言うと、怖い方だと思う。
種族を言っているのではない。能力を言っているのではない。かといって、性格を言っているのかというと、そうでもない。
私も上手く表現できないのだけど、なんというか、あの方の纏っている空気はいつ見てもぴりぴりとしていて、触ろうとすると静電気のようにばちりと指先を痛めてしまうような。
妖精メイドは、妹様は気が触れていらっしゃるのだと囁く。妹様は気が触れていらっしゃるから、怖いのだろうか?
そう聞かれたら、私はきっと首を横に振るだろう。そんな単純な事ではないし、何より、私にはどうしても、あの方の気が触れているようには思えないのだ。
むしろ、理知的な方だと思う。お嬢様よりよっぽど思慮深い。話していて、そう感じる事が多い。言葉の端々から、鋭さが伝わってくる。
だからもし、妹様が気の触れているように見えるなら、それはむしろ、妹様が理解されていないだけか、あるいは妹様が楽しんで狂人の真似をしているのではないか、とさえ思う。
恐らく、私の恐怖の所在はそこにあるのだろう。
私には見えないどこかから、静かに俯瞰されている。観察するように眺めている。そうして、私の何かを量っている。図っている。
どこまでも深い得体の知れなさ、そしてその正体が理性によって統御されている予感。それが多分、私の恐怖の根源なのだろう。
「おまえの考えている事を当ててみせようか」
お嬢様はいたずらっぽく笑って、楽しそうに聞いてくる。
びっ、と人差し指をこちらに向けるのはいいのだけれど、お召し替えが終わるまではじっとしていて欲しい。言葉の続きを待ちながら、黙って袖を細い腕に通した。人差し指はこちらに向いたままだ。
「今日の晩餐はフレンチになるんだろ?」
「はいはい、ではそのようにメニューを考えておきます」
「えっ、違ったの?」
「えっ、当てる気がおありだったんですか?」
お嬢様は天然でボケてくるから困る。もっと妹様のように知的に……、いや、あの方は知的と表現していいものなのだろうか。
ボタンをかけ違えそうになって、慌てて時を止めて誤魔化した。他の事を考えるのはよそう。特に妹様の事は、考えれば考えるほど深みにはまっていく気がする。
「もしかして、私が勝手におやつのプリン食べた事怒ってる?」
「そんな事をなさってたんですか」
「ぎゃっ、バレた」
「バラしたのはお嬢様ではありませんか」
「これも違うかー。じゃあなんだろ」
「覚りでも連れてきましょうか」
「いいね、今度そうして」
「地底に行く用事なんてあったでしょうか」
「用事なんてなくていいじゃん。拉致ってくるのが用事だよ。羽交い締めにして、心読ませ放題しよう」
「それもそうですね」
拉致ってくるって、なんだか不穏な単語が飛び出したのは気にしないでおこう。
そっとお嬢様の肩にケープをかけ、首元で緩くリボンを結ぶ。
「そういえば」
お召し替えを終えると、ふと変だな、と思った。私はこうして毎日お嬢様の朝のお召し替えを請け負っているが、妹様には一度もそれをした覚えがないのだ。
「妹様のお召し替えは別の者が?」
「ん? あぁ、誰もしてないよ。あの子、自分の身の回りの事、誰かにどうにかされるの嫌なんだってさ。だから大体、自分の事は自分でやってるよ。おまえがフランドールにやってない事は、誰もやってないよ」
「妹様はまったくご立派でいらっしゃいますわ。その気概のほんの一部でもお嬢様にもあれば」
「むきー。私はお嬢様だからいいの!」
「お嬢様がいつも通りのお嬢様で咲夜は本当に嬉しいです……」
「むきーっ」
お嬢様が羽根をぱたぱたさせると、それに合わせてリボンがひらひらと揺れた。
お嬢様はふくれっ面で、その調子のまま、それに、と言い出した。
「どうせ、あんなの嘘に決まってるのよ」
「嘘、とは?」
「自分の身の回りの事を他人に任せるのが嫌ってやつよ。体の良い口実だわ。嫌なんじゃなくて怖いのよ」
「怖い? 妹様でも、怖いなどと思われるのですか」
「思う思う! しょっちゅうそう思ってるわよ。あいつってば、ひどい臆病者なんだから。どんなに遊ぶお金が有り余ってても、賭け事にだけは手を出さないタイプね。こつこつ貯蓄しちゃうタイプ」
「堅実で結構じゃありませんか」
「まっ、とにかく、私から言わせてもらえばただのびびりなのよ」
酷い言い様だ。
しかし、お嬢様に言わせれば臆病者か。更に複雑怪奇になってきた。
「あ、そうだ、話ついでにフランドールの事だけど」
帽子を何度か被り直しながら、お嬢様は言う。吸血鬼は鏡に映らないので、こういう時面倒なのだとよくお嬢様はこぼす。私にお召し替えをさせている大きな理由がそれだ。単純にめんどくさいっていう理由もあるだろうけど。
妹様だって、例外になく鏡に映らない。お召し替えを自分でするなら、手間取ったりしないだろうか。慣れているんだろうか。独りでいる事に。独りで面倒を被る事に。
「おまえがやってた諸々の事は別のメイドに引き継がせるから、あの子の面倒はこれからあんまり見なくて良いよ」
「えっ、お嬢様、いくら妹様と仲が良くないからってそれは」
「仲悪くないわ! 超良好だし! 勝手に私の所為にしないで。あの子の希望よ、咲夜は外してくれって」
「え、えぇ……。私、何か気に障る事をしてしまったんでしょうか……」
「んー? いや、違うよ。まぁ、なんていうか、あれはあの子の病気みたいなものだから、気にしない方が良いよ、うん」
その瞳が、一瞬、どこか悲しげだったように見えたのは、見間違いだったのだろうか。
お嬢様はすぐにぱっと表情を明るくして、それじゃーあとよろしくー、と間延びした声を出して、日傘片手に出掛けていってしまわれた。神社にお茶をせびりに行くのだろう。
残された服を軽く畳んで胸に抱いた。自然とため息がこぼれる。
気にしない方がいいと言われたのだから、そうすべきなのだけど。やっぱりちょっと気になる。かといって、妹様に直接聞きに行く勇気がある筈もないし。差し出がましいし。私の気付かない間に嫌われていたのだとしたら、あまり理由は知りたくないし。
やっぱり妹様って怖い。
肩を落としながら、洗濯に取り掛かるべく、時を止めた。
◆
お昼過ぎ、洗濯を済ませて休憩に入っていると、同じく休憩中の美鈴が小腹が空いたと泣きつきに来た。
「つまり何か作れと」
「いやぁ、咲夜さんってば話が判る! 流石!」
「まったく、調子がいいんだから。昼食おかわりしてたくせに」
「だってー。まだ残暑きびしいですしー。直射日光ってそれだけで体力削っていくんですよー」
「はいはい。何が食べたい? 冷たいデザート、それとも軽食?」
「何か冷たいものが食べたいですね」
「あぁ、それならプリンの作り置きが――」
冷蔵庫のプリンが置いてあった場所は、もぬけの殻だった。
「――あったけど、お嬢様がつまみ食いなさったんだったそういえば……」
「残念」
冷蔵庫の奥の方に、ボウルに入ったまま冷えて固まったプリン生地が少し残っていた。でも、プリン一個も作れるかどうか怪しい遠慮の塊っぷりだった。
「あ、そうだ。美鈴、そこの棚、バターロールがあるでしょ。それ適当にバスケットに入れて、取って頂戴」
「はーい。……って、咲夜さん何してるんですか」
「プリン生地潰してる」
「勿体無い! なんの為に」
「まぁ見てなさいって」
ボウルの中で隅っこに残る生地を、ゴムべらでさくさくと混ぜていく。混ぜ過ぎてペースト状になってしまわないように、適度に形を残しておく。ある程度混ぜたら、野菜室からドライフルーツを取り出して、ボウルの中に入れる。マンゴー、オレンジピール、ナツメヤシ、クランベリー。それらを軽く混ぜ合わせる。
「ナイフがあるでしょ? それでバターロールに切れ目を入れてくれる?」
「あぁ、それを挟むんですね」
「そうそう」
「切りにくい」
「そのままじゃあね。ナイフの表面を火であぶってからするのよ」
「なるほど。咲夜さんも食べます?」
「そうね、ひとつだけもらおうかしら」
「あいあいさー」
美鈴は切れ込みを入れたバターロールをみっつ持ってきた。
「あ、でも、パンに対するプリンの量が少ないですね」
「ううん、大丈夫よ」
みっつのバターロールに生地を挟みこんでいく。ちょん、ちょん、ちょん、と少しずつ。
「これをトースターで三分焼きます」
「なんと!」
ちーん。
「そして、余り物の生クリームをコーティングします」
「生クリームが余り物として保存されてるなんて、用意がいいですね」
「お嬢様がいつ何を食べたいと仰るか判らないでしょ?」
「確かに」
「最後にブルーベーリーのソースをかけます」
「おぉ……! 女子力高過ぎですよ咲夜さん……!」
「そんな事言って、貴方も途中からちゃんと紅茶淹れてるじゃない」
「美味しい軽食には美味しい紅茶がセットでしょう?」
私の紅茶は咲夜さんが淹れるよりは美味しくないですけど、と言って美鈴は笑うけど、正直、美鈴の淹れる紅茶は嫉妬するくらい美味しい。ひそかにライバル視していて、いつお嬢様に「美鈴が淹れる方が美味しい」と言われないか冷や冷やしている。
美鈴はとても器用で、なんだってちょろっと触った程度で人並み以上に上手にこなしてしまう。そのうえ、今みたいによく気が利く。
私よりメイドが似合ってるんじゃないだろうか、と思うのだけど。
「ニルギリがたくさん余ってたんで、それにしたんですけど、あとで使うつもりだったらごめんなさい」
「いえ、お嬢様はあまりニルギリがお好きでないから、丁度良かったわ」
「あっさりしてて美味しいのに」
「お嬢様は香りを重視されるからねぇ。ダージリンとかウバとか」
「うーん。やっぱり、日常的に飲んでると違いが判るんですね。私は貧乏舌なのかなぁ」
「ま、美味しいならそれでいいじゃない」
「ですね。じゃ、いただきます」
「いただきます」
美鈴とふたりでお茶するのは珍しい事ではなく、小腹を空かせた美鈴にこんな風に軽食を作ってあげるのはよくある事だった。
「これすごく美味しい」
「紅茶もすごく美味しい」
「ほんとですか? でへ、咲夜さんに褒められちゃった」
「前から思ってたんだけど」
「なんでしょう」
「こんなに美味しい紅茶が淹れられるのに、どうして貴方、自分で料理しないの? 貴方、大体なんだって器用にやってのけるじゃない。料理は専門外?」
私にとってはなんでもない質問だったが、美鈴はちょっと困ったような顔をして笑った。
「咲夜さんの作った方が美味しいから、じゃ、駄目ですか?」
いたずらがバレた子どものように、様子を伺うような笑い方だった。
「いや、構わないけど。ちょっと不思議に思っただけよ。貴方ほどメイドに向いてるひともいないのにって」
「お恥ずかしい話なんですが、私、細かい作業が結構苦手で」
「そうなの?」
「器用ってよく言われますけど、手先は結構不器用なんですよ? 針に糸通すのとかできないし」
「それは結構な不器用だわ」
「まー、だから向いてないんです、メイドは」
「貴方がメイドだったら、私の仕事もいくらか楽になるのに」
勿体無いわねぇ。
ため息と一緒に、紅茶を一口飲み込む。やっぱり、とても美味しい。熱湯の温度や蒸らす時間をきちんと調節しなければ、この味は出せない。紅茶ひとつと言えど、気を配ろうと思えばどこまでも気を配る事ができる。そうすればするほど、紅茶は味になって応えてくれる。
そのあたりは、紅魔館に来てすぐ、一番最初にお嬢様から叩きこまれた事だ。
「おまえが労働の対価としてしかこの屋敷に価値を見出さないなら、それでもいい。私に不遜な態度を取っても、大目に見てやる。でも紅茶は美味しく淹れろ。それ以外は、仕事をさぼらなければ、なんでもいい」
最初は、衣食住に困らない、条件の良い働き先だと思っていた。
認識はそれ以上でもそれ以下でもなく、この屋敷にそれ以上もそれ以下も感慨を持たなかった。
いつからだろう。紅魔館以外の場所で生きる自分を思い描けなくなったのは。紅魔館でこそ、自分が生きている事を確認できるようになったのは。
もしかしたら、どこか、もっと私に相応しい居場所は他にあるのかもしれない。もっと幸せに、もっと充足して、もっと自由に、生きられる場所があるのかもしれない。たとえそうだったとしても、私は決してそこに行きたいとは思わない。
私はここで幸せになりたいし、ここで充足して、ここで自由に生きたい。
お嬢様に必要とされる事が嬉しい。美鈴に頼られる事が嬉しい。
そんな自分でありたいし、そんな自分を好きでありたい。
だからやっぱり、妹様に嫌われたくはないなぁ。
「なんか、全身からため息が出そうな雰囲気ですよ、咲夜さん」
「メイドはメイドの悩みがあるのよ」
「私で良ければ聞きますよ?」
「うーん、そうねぇ。美鈴、誰かに嫌われちゃったらどうする?」
「その誰かによりますね」
「少なくとも、嫌いになって欲しくはないし、できれば好きになって欲しい程度に好意のあるひと」
「完全で瀟洒なメイドも、人並みに人間関係に悩むんですね」
「ちょっと、私はこれでも真剣に悩んでるのよ」
「やー、判ってます、判ってますけども」
美鈴は笑いを誤魔化すように、紅茶の残りをぐいっと飲みほした。
少し息をついて、でも、と切り出す。
「本当に嫌われているのかどうか、もう一度考えてみては? 嫌われるのは、大概、身から出た錆ですよ。でも、咲夜さんが、できれば好きになって欲しいなんて思ってるようなひとに、嫌われるようなヘマをするとは思えないし」
「無意識に、何かしでかしてしまった可能性は?」
「思い当たる節でも?」
「……ない。じゃあ、生理的に受け付けられないタイプだった、とか」
「それはもうどうしようもないですけれど……」
「そうよね……」
「自分で言っといてショック受けないで下さいよ。うーん、その相手って、私の知ってるひとですか?」
「そうね」
「なら、そういうひとはいないと思いますけど。咲夜さんを生理的に受け付けられない、なんて感じのひとは」
「安易に励ましてくれるじゃない」
「いや、一応、根拠はあるんですよ。ほら、言うでしょ、『気が合わない』って。私、そういうの判るんですよ。能力的に。それで、咲夜さんとそんな致命的に『気が合ってない』ひとは今のところ知らないから」
「ほんとに? 言葉遊びで冗談言ってない?」
「言ってないですって。信じて下さいよぅ」
美鈴の言っている事が正しければ、私と妹様だって、『気が合わない』わけではない筈だ。
だったら、どうして避けられる事になったんだろう?
「嫌われてるんじゃなくて、案外、好きの裏返しだったりして」
「えぇ? そんな、好きな女子いじめる男子みたいな」
「いやまぁ、これは結構冗談です。気にしないで下さい」
「でも、少し気が楽になったわ。ありがと」
「いえいえ。美味しい軽食のお礼になれば幸いです」
深く考えてもしょうがない事なのかもしれない。
そもそも、妹様は五百年一緒にいるお嬢様だって手を焼く程のじゃじゃ馬なのだし(じゃじゃ馬と言えばお嬢様も良い勝負だけど)、数年やそこらの付き合いの私が今更どうこう言えるものではないのかもしれない。
「それにしても美味しいわ、この紅茶。嫉妬する」
「えへ。お嬢様や妹様からも、お墨付きなのですよ!」
「へぇ。それは本当、凄いわ。お嬢様は紅茶にうるさいし、妹様なんか、感想も下さらないのに」
「きっと、咲夜さんの淹れる紅茶も美味しいって、お思いの筈ですよ。言わないだけ」
ポットから新しく紅茶を注ぎながら、美鈴は言う。
カップの水面を見つめる瞳は、どこか悲しげだった。
「あの方は、誤解されやすいし、ご本人も誤解されるよう振舞ってる節があるから厄介ですけど、本当はとっても優しい方なんですよ」
◆
確かに、元々私はお嬢様の専属メイドという色が濃かったけれど、それにしたって、ここ最近まったく妹様の御顔を拝見していないのは、メイド長としていかがなものだろうか。
ていうか、妹様は引き籠り過ぎなのだ。もうちょっと外に出ても良いと思う。
妹様の部屋のすぐ隣に、トイレとバスルームがあるのもいけない。引き籠る環境が整い過ぎだ。至れり尽くせりだから、妹様だって出てくる気がなくなってしまうのも当然だ。
そこまで考えて、しかし外に出る必要があるのだろうか、と思い至る。
別に、出たくないなら、その意思を曲げてまで出す必要などないのではないだろうか。誰からか冷たい視線を浴びているわけでもないし、どこか行かなければいけない所があるわけでもない。問題行動を起こしているわけでもない。
もう五百年も引き籠ってるわけだしなぁ……。今更出て来いと言っても出て来る筈もない……。
しかし、どうして妹様はかたくなに外を拒絶するのだろうか。
思えば、そのあたりの事情をお嬢様より聞いた事がない。聞いてはいけないような気もしていた。
というか、紅魔館に来た当初、そんなにこの屋敷の住人に興味がなかった。私はメイドとして言われた事をしていれば、それで問題ないと思っていた。その通りではあったのだけど、そんな風に最初のうちに聞いておかなかったものだから、聞くタイミングをすっかり逃してしまった。何も知らないついでに聞いてしまえばよかったのに。
今となっては、聞きにくくてしょうがない。
「それで私に探りを入れに来たのね」
「まぁ、はい、そうなります」
パチュリー様は、じと目をさらにじとっとさせて、ちょっと嫌そうな口ぶりだった。
それもそうだ。聞いた私が悪かった。
「他人である私からおいそれと言える事ではないわ」
「ですよね……」
「というか私も詳細はまったく知らない」
「そうなのですか」
「私はレミィの友人ではあるけれど妹様の友人というわけではない。残酷かもしれないけどそういう事」
パチュリー様はとても早口でぶつぶつと喋るので、聞き取るのはちょっと苦労する。
そしてそんな口調で、言いにくい事もずばずば言ってしまう方だから、言葉を受け取るこちらは余計に心が重くなってしまう。
悪気はないんだろうなぁ……。だからこそお嬢様の友人をやっていけるというか。
「私から言える事があるとすれば」
ばたん、と本を閉じて。私の目を、すっと見つめた。
パチュリー様がそんな風に話すのは、ひどく珍しい事だ。
「レミィと妹様は本来は似ている。でもレミィは弱かった。妹様は強かった。それが今日の彼女らを分けた」
「お嬢様が弱いようには思いませんが……」
「咲夜。強い事は単純に良い事ではないわ。それを勘違いしないようにね」
そうして、パチュリー様は、すっと視線を下げた。
その瞳は、どこか悲しげだった。
どうして、妹様を知る方々は皆、あの方を語る時、悲しそうな目をするのだろう。
そんなの、なんだか、可哀相だ。いや、可哀相なんて表現は正しくない。
そんなの、勿体無い。
私は妹様をよく知らない。
けれど、そんな風に悲しそうに語ってしまったら、本当に妹様が、全部が全部悲しい存在みたいじゃないか。本当に悲しくなってしまう。
私は、妹様を悲しいひとにしたくはないのだ。
「妹様も一時は外に出たがっている時もあった。でも無理だと気付いてしまったのね。決め付けたと言うべきかしら」
「どうして、ですか?」
「魔法が解けてしまったから」
「……は?」
「大事な魔法を解いてしまった。もう二度と魔法がかかる事はない。魔法の杖がなくなってしまったのだもの」
「え、えっと。判るようにご説明頂く事は、できませんか?」
「私から言える事は以上。あとはレミィにでもお聞きなさい」
パチュリー様はそれきり新しい本へと視線を移してしまって、私を見てくれる事はなかった。
だからしょうがなく、お嬢様に聞く事にした。
「私相手に交渉を持ち出すとは、やるねぇ、咲夜」
お嬢様は美鈴にでも話を聞いたのか、この前美鈴と食べた、プリンの余りで作ったデコレーションバターロールを食べたいと仰った。
その時プリンの余りはなかったので、作って差し上げる代わりに、妹様の事を教えて下さるようにお願いした。交渉、まで強い意味を持たせたつもりはなかったが、聞けるならどちらでも構わない。
お嬢様は小さくため息をついて、「そうだね、咲夜もこれから長い付き合いになるだろうし」、と前置きした。
そこにいつものお嬢様の緩い雰囲気はなかったから、私も少し身構えなければならなかった。
「最初はさ、普通に、能力が制御できなかったから。手当たり次第に壊しちゃうから、しばらく様子を見ようって感じだったんだよ。本人も承諾した。ちゃんと使いこなせるようになったら、勿論外に出て行く手筈だったよ。私達だってその気だったし、何より、フランドールがその気だった。いつか外に出て色んなものを見て回りたいって、言ってたよ」
作りながら聞け、とお嬢様が仰るので、私達は厨房にいた。私はオーブンを温めながら、カラメルソースを作っていた。
作りながら、話を聞きながら、妹様の事を考えている。
今の妹様は、どうだろう。とても、外に出たがっているようには思えない。むしろ、拒絶している。外の世界を、外の人間を、外の家族を。
「それでね、大体それと重なる時期に、フランドールにはお気に入りのメイドがいたんだよ。すごく、仲が良かったんだ」
それは全部過去形で、それが悲しかった。
結末は、なんとなくもう、判っている。だって、妹様と仲の良いメイドを、メイド長である私が把握していない筈がないのだ。
「フランドールの力は、とても難しいんだ。すごくコントロールが難しくて、ちょっとミスったら大惨事になる。だから、あせらなくていいんだよ、ゆっくりでいいんだよ、失敗してもいいんだよ、って、言ったんだけど」
ボウルに卵を入れて、牛乳とグラニュー糖を加えながら混ぜる。綺麗に溶けて、混ざる。
綺麗に混ざったものは、二度と取り出す事はできない。妹様の力は、妹様に綺麗に溶け込んでいる。それ抜きに妹様を構成する事はできない。
失敗してもいい。誰も怒りはしない、責めはしない。でも、失敗したら、後戻りはできないのに。
「メイドを壊してしまったんだ。死んではいなかったんだけどさ」
作りながら聞けと仰った意味が判った。
私が相槌を打たなくてもいいように。返事に困ったりしないように。ただ、プリンさえ作っていればいいから。
「フランドールは、その頃、丁度落ち着いてきたところだった。制御ができるようになったんだと、喜んでた。確かに制御できてたんだ。それまでの力は」
お嬢様は弱かった。妹様は強かった。
妹様は、強すぎるがゆえに孤独だった。あまりにも強すぎて、近寄る事ができない。近寄れば、壊れてしまう。
「フランドールの力は、あの子が制御できればできるようになるほど、どんどん強大になっていった。いたちごっこだったよ。ただでさえあんなに扱いづらい能力が、歳を追う毎により扱いづらくなっていくんだ。能力があんなペースで強化されていくなんて、普通は起こらない。だから、フランドールは、才能があったんだよ。類稀なる天才だったんだよ。でも強すぎた。才能が心を食ってしまった」
私はきっと今、悲しい目をしている。
悲しい話にしたくないのに、心臓が凍てつくように苦しい。
「疲れたんだってさ。自分の所為で誰かが傷付いて、それにいちいち悲しんでるのがめんどくさくなったんだって。色んな事に、笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだり、好きになったり、嫌いになったりするのに疲れたって」
「お嬢様。もういいです。聞いてごめんなさい。申し訳ありませんでした。許して下さい。咲夜が、咲夜が悪うございました」
もうそれ以上聞いていたくない。だって、お嬢様の声が震えているのだ。
妹様はすっかり疲れてしまっても。お嬢様は、まだ全然疲れていないのだ。笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだり、好きになったり、嫌いになったりする。
そして、お嬢様は、妹様が好きなのだ。
「あいつ、まだ五百歳のくせに、そんな事言うんだぁ……」
プリンなんてどうでもよくなって、お嬢様を見た。
お嬢様は、笑っていた。
へらっ、と、笑う事しかできなくて、しょうがなくひきつってるだけの、そんな顔だった。
「咲夜が人間だって言わなかったの、わざとなんだ。ごめんね。それ知ってたら、絶対おまえに会ってくれなかったと思うし」
「いえ、いえ。いいんです、……いいんです、お嬢様」
「あいつ、死にたいのかな」
とてつもなく重い言葉だったので、最初、お嬢様が何を仰っているのか理解できなかった。
そんな言葉は。吸血鬼に、あまりにも縁遠い。
「違うか。生きていたくないんだろうな。生きていてもしょうがないって、いかにも思ってそうな感じ」
生きていても、しょうがない?
そんな馬鹿な。
「そんなの」
言ってはいけない。
言ってはいけない。
言うな。
「そんなの間違ってます」
言うな。
メイドの分際で。人間の分際で。何も知らなかったくせに、自分の尺度で何を測ろうとしているんだ?
言うな言うな言うな、それ以上何も言うんじゃない!
「生きていてもしょうがないなんて、そんな事ある筈ない……私はこの紅魔館で、こんなにも幸せなのに! 私がここで生きているのに! お嬢様に出逢わなければ、美鈴に出逢わなければ、パチュリー様に出逢わなければ、……妹様に出逢わなければ、今の私はどこにもいないのに! 勝手に決め付けないで下さい! 生きていてもしょうがない筈が、ないのに!」
言い終わってから、とんでもない事を言ってしまったと思った。差し出がましいなんてレベルじゃない。
二十年も生きてないような人間が、さっきまでなんの事情も知らなかったくせに、知ったような顔で見当はずれな事を怒鳴り散らすなんて。それも自分の主に向かって。
さーっと全身の血の気が引いていった。
「あ、あぁの、もっ申し訳、」
「は、ははは。いや、びっくりした。咲夜が大声上げるところ、初めて見た。超レアじゃん。やった」
「もっ、申し訳ありません」
「何も怒ってないよ。驚いたけど。でも、それは妹に言ってやって欲しいかな」
お嬢様は、いつも通りに笑っていた。余裕があって、堂々としていて、ひとを試すような。
なんだか私はすっきりしてしまって、すっきりついでに頭の中を整理した。
「私が言っても、妹様にはあまり効果がないように思います」
「うーん。でもほら、言わないよりは言う方が。私からの言葉は聞き飽きちゃったみたいでさ。右から左で」
「いえ、私より適任がおりますわ」
「え?」
「メイドは、死ななかったのでしょう?」
「うん」
「そのメイドは、メイドを続ける事はできなくて、他の役職へと移ったのではありませんか」
「えぇ、すごい。咲夜、ほんとおまえ頭良いね」
「ヒントがありましたから」
紅魔館に、お嬢様を除いて、ひとりだけいる。
妹様を決して悪く言わず、妹様をよく見ている者が、ひとりだけ。
「じゃあさ、そいつにそれ食べさせようよ。そのカラメルソース、飴になっちゃってるよ」
「残飯処理ですか。酷いですね」
「残飯でも、咲夜の手にかかれば見事に一品できちゃうでしょ?」
プリン生地になる筈だったものを見た。いや、まだ固めればプリンとしての役目を果たせそうだ。
細かい作業が苦手なのだと言っていた。それは先天的な性質ではなくて、後天的な要素なのだとしたら。
そしてそれが、ふたりの溝となって今も横たわっているのだとしたら。
「なんとかしてみせますわ」
◆
善は急げと言う。急がば回れとも言うが、ここでは急がせてもらいたい。
私の時間は無限だが、私以外の時間は有限なのだから。
仕事上がりの美鈴を捕まえた。夜も更けつつある。珍しく、お嬢様はさっさと寝てしまわれた。私も本日の業務は終了。あとは寝るだけ。
睡眠時間を削ってでも、少しでも。
「美鈴。特訓するわよ」
「えっ。何をですか」
「何って、料理の」
「えーっ、なんでですかぁ」
「花嫁修業」
「うそぉ。私まだその予定はないので結構です」
「予定ができてからでは遅いの。とにかくするの。するったらするの」
「ていうか、もう夜中ですよ。今からですか?」
「今からよ」
「え、えぇー」
「細かい作業ができなくても、作れるレシピはたくさんあるわ」
きょとんとした顔で、美鈴は私を見た。
そうしてたぶん、すぐに私の言わんとしている事に気付いてしまったのだろう。バツの悪そうな顔で笑った。
「だから、作って。逃げないで」
「逃げてないじゃないですか」
「なら、向き合って」
エプロンを手渡す。しぶしぶ、といった様子で、美鈴は受け取った。
貴方はずっと背を向け続けていた筈。もうそろそろ、向き合ってもいい頃だわ。
「やだなぁ、咲夜さんは。全部お見通しなんだもんなぁ」
厨房へ向かう。もうとっくに準備はし終わっている。
ちゃんとレシピも決めて、材料はすべて用意しておいた。
「それで、何を作ればいいんですか?」
「あら、随分素直じゃない」
「嫌がったって、絶対逃がす気なんかないでしょう?」
「よく判ってるじゃない」
今日作るのは、リンゴのタルトです。
タルトに使うリンゴの皮をふたりで剥く。私は果物ナイフで、美鈴は皮むき機で。
「料理って、作ってる間暇ですよね」
「なんで暇なのよ」
「頭はあんまり使わないじゃないですか。ぼーっと作る感じが、なんだろう、誰かとこうして話しながらだと楽しいんですけどね」
「時を止めている間は完全に独りだから、慣れてるのかしらね。あんまりそんな風に考えた事なかった」
「そうですか? うーん」
「ごめんごめん、前言撤回するわ。超暇なの、何か話をしてよ」
そう言うと、美鈴はぱっと明るい顔になった。
「私の大好きなひとの話を聞いてくれます?」
「いやよ、のろけ話なんか」
「そういうのじゃないですよぅ」
「冗談よ。どうぞ。是非聞かせて」
剥き終わったリンゴをカットして、鍋にリンゴとバター、砂糖にレモンを少し加えて、中火にかけた。
「私はその方のお世話係だったんですけど、最初は全然上手くいかなかったんです。その方はまたアクの強い方だったし、私は私で、その仕事に慣れてなくて、失敗ばかりで」
「アクの強い方、ねぇ」
「すぐ癇癪起こして物は壊すし、すぐ泣くし、かと思ったら笑ってたり、にやにやしてこっちを見てたり、とにかく気まぐれな方でしたよ。猫みたいなひとでした。引っ掛かれてばかりでしたよ。ばりばりーって」
鍋にラム酒、シナモンパウダーを加え、木べらでさくさくと軽く混ぜる。
「でも、大事なひとだったんでしょう」
「えぇ。くるくる、ころころ、たくさんの表情を持ってる方でしたから。どんな顔も好きでしたけど、やっぱり、笑った顔が一番好きでした。私の作ったあんまり美味しくない料理を食べて、不味いよ、って笑って下さる顔が好きだった」
「不味いの? 貴方の料理」
「その方を毒見係にして、いっぱい練習したんですよ」
鍋の火を止め、常温で少し冷ましてから、冷蔵庫へ持って行く。冷やしている間、クラムを作る。バター、砂糖、薄力粉、アーモンドパウダーとシナモンパウダー、ラム酒をボウルの中で混ぜる。
「最初は不味い不味いってそればっかりだったんですけど、だんだん、美味しいと言って下さるようになりました。私に紅茶を淹れるようせがまれた時は、嬉しかったです」
「幸せよね」
「えぇ」
私達は知っている。
このひとに美味しいものを食べさせてあげたい、そう思うひとに自分の料理を振舞える幸せを。喜んで食べてもらえる幸せ。
それが判るから、今の美鈴の気持ちも察せないほど馬鹿じゃない。作りたくても作れない。作ったとしても、食べてもらえるだろうか、そんな不安も。
「私、なんにも怒ってないし、気にしてないのになぁ」
ぽつりと、落ちた。言葉が、ボウルに、生地に、さらさらと落ちる。
「昔っからそうだ。小さい事をずっと気にして、顔は笑いながら、ずっと覚えてるんだもん。辛いならそう言ってくれたらいいのに。寂しいならそう言ってくれたらいいのに。笑わせてあげられなくても、一緒に辛くなれたのに。一緒に寂しくなれたのに」
それは、どうしようもない、美鈴の言葉だった。言いたくて言えなかった、言うべきだったのに言わなかった、過去の忘れ形見だった。
そうだ。紅魔館はそういう場所だ。少なくとも、私にとってはそう。泣きたい時に一緒に泣いてくれる、笑いたい時に一緒に笑ってくれる、そういう場所なんだ。
だから、ひとりだけ仲間はずれになんか、絶対にしたくない。
「私、あの時、なんにも身体なんか痛くなかったんです。血は出てたように思うけど、でも、そんな事はどうでもよかった。ただ、私の目の前で、泣いてたんです。ごめんなさいって、もう絶対傷付けたりしないから許してって、わたしを嫌いにならないでって、すがるみたいに泣くあのひとを、見てられなかったんです。嫌いになる筈なかったのに、そう言うべきだったのに、」
美鈴は、泣いたりしない。声が震えたりもしない。一言一言を、噛み締めているようだった。
「私は、黙って何も言えませんでした」
「どうして?」
「……怖かったから」
それもまた、本音。どんなに好きでも、本能は恐怖を覚える。それは当たり前の事だ。
その当たり前が、彼女を絶望させた。そうして、すべてを諦めるようになってしまったのだ。
「でも、怖くても、それでも私は、本当は、傍にいたかったんです。私が怖かったのは能力で、力で、だから、あのひとの事を怖いなんて、思った事なかったのに」
「のに、傍にいさせてもらえなかった?」
タルトの生地に、アーモンドクリームを敷き込む。冷やした鍋のリンゴを敷き詰め、クラムをふりかける。あとはオーブンで焼くだけ。
ばたん、とオーブンの蓋を荒っぽく閉めて、美鈴はため息をついた。
「メイドはお払い箱、門番をやれ、と怪我が治ったらそう言われました。それっきりです。妹様とは、それからほとんどまともに話してません」
お嬢様の言葉を思い出して、美鈴に伝えるべきかどうか、少し迷った。でもやっぱり、言うべきだと判断した。
「妹様、疲れたんですって」
「何にですか?」
「色んな事に、笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだり、好きになったり、嫌いになったりする事」
「うそ、だぁ」
ひどく、間抜けな声だった。言葉を習いたての子どものような、ぶつ切れの発声。
「本当に、そんな事、言ったんですか。あのひと」
「お嬢様が嘘をつくと思う?」
「なんだそれ。無理に決まってるのに」
「無理って?」
「だって、あんなに、笑って、泣いて、怒って、喜ぶひとだったのに。なんでも好き嫌いが激しくて、えり好みばっかりしてるひとだったのに」
美鈴の瞳は過去を見ていた。私はその過去を知らない。
その瞳が一瞬翳ったかと思えば、急に熱を帯び出した。
「ていうかですね! 妹様はですね、勝手なんですよ! 私の意見ちっとも聞こうともしないで、御自分で勝手に決めて勝手に行動するでしょう!」
「急に元気になったわね……」
「なんだか悲しいを通り越してむしゃくしゃしてきました! なんかこう、許せません! 罰としてやっぱり、私のあんまりおいしくない手料理を無理矢理食べてもらおうかと思います!」
「そうよ、そうそう、その意気よ」
「何かすっごく難しいレシピ教えて下さい」
「難しいの?」
「はい。盛大に失敗して、全部食べさせます!」
「あぁ、そう……? 頑張って」
なんだか思ってたよりはちょっとひねくれた立ち直り方だけど、まぁ、よしとしようか。
◆
「だからって、マロングラッセからモンブランを作るなんて、流石に頭がおかしいとしか言えないよね」
お嬢様は呆れたように仰るが、私もこればっかりは弁明のしようがないので黙っておいた。
冗談で「これなんかどう? とにかく気力が勝負だけど」とレシピを笑って渡したら、美鈴が「じゃあ、作ります」とか言い出してしまったのだ。
私は冗談で言ったのだと謝ってから、マロングラッセは作るのに一週間弱はかかってしまうしとにかく面倒だからやめた方がいい、と説得したのだが、作ると言って聞かなかった。丁度秋も迎える事だし、とかなんとか。
「ていうか、美鈴が妹様好き過ぎるんですよ、絶対」
「だよね。咲夜なんか、迷うことなく売ってるやつ買ってきたもんね。愛が圧倒的に足りてないよね」
お嬢様はモンブランをつつきながら、恨みがましく言う。
「いやほんとに、作るの大変なんですよ」
「咲夜は時を進めたりしてショートカットできるじゃん」
「あら。そういえばそんな方法もありますね。思い至りませんでしたわ、申し訳ありません」
「いけしゃあしゃあとまぁ……」
美鈴がリンゴのタルトを作り終わって、マロングラッセの制作に取り掛かったのは四日前の事。
妹様は相変わらず、地下に引き籠ったままだ。
「地下にあるバスルーム取り潰しません?」
「パチェ共々殺す気か」
「お風呂に入らない程度では死にません。こちらに上がってきますよ」
「百歩譲ってパチェはそうかもしれないけど」
「冗談です。妹様のお部屋に流れるプールでも設置しませんか?」
「咲夜、ねぇ咲夜どうしたの? 何がおまえをそうさせるの? なんでそんな殺気に溢れてるの? 妹が何かしたなら私が謝るから」
「いやぁ、どうしたら出て来て下さるかと、私はこれでも真剣に」
「この世から出て行かす気しか感じないよ……」
「まぁ、そんな表面上を取り繕ったって状況が好転する筈もありませんね」
「そうだよそうだよ! だから妹を虐めるのやめて!」
「では、ベッドに炒り豆トラップを」
「やめたげてよぉ!」
「久しぶりに出てきたと思ったら、まさかこんな堂々と暗殺計画練られてるとはねぇ」
「暗殺だなんて人聞きの悪い。妹様更生計画ですわ」
「生憎だけど、本人にその意志はないようだから諦めた方がいいよ」
「あら残念。それにしても妹様、珍しいですね、出て来られるなんて」
「まぁね」
「いつノリツッコミするのか待ってたのに普通に会話すんなよ! はらはらしてた私が馬鹿みたいだわ!」
「お姉様はもとから馬鹿だよ」
「よし殴るからこっち来い!」
妹様は極めて自然に会話に入って来たので、違和感がなかった。
ちなみに、数週間ぶりの会話がわりと普通にできたのでひとり満足しているのは内緒だ。
初めからそこにいたかのように、妹様は自然にソファに寝そべってごろごろしている。
ちなみに場所はお嬢様のご自室。つまり、そのソファはお嬢様の定位置である。
「ていうかなんで寝そべっちゃうの? そこはふたり並んで横に座るフラグじゃないの? 姉妹の絡みフラグじゃないの?」
妹様はいかにもめんどくさそうに立ち上がったが、そのままソファに座る事はなかった。
「美鈴が絶対来いって言うから、来たんだけど。当の本人がいないから探してるの。知らない?」
あら、美鈴が。という事は、モンブラン、できたんだろうか。
「恐らく厨房だと思われますわ」
「厨房?」
妹様はその時、明らかに表情が崩れた。なんの中身もない無表情を貫いていたのに、一瞬、一瞬の事ではあったが、嫌そうな顔をした。そこには、どうして、という困惑の色も見て取れた。
「それは、行ってからのお楽しみという事で」
乗り気じゃない妹様の背を押し、厨房へと足を運ぶ。お嬢様も興味津津といった様子でついていらっしゃった。
だから、私は一生忘れないだろう。
厨房に入った瞬間、妹様の顔面めがけてぶちまけられたパイと、その光景を見て完全にフリーズしてしまったお嬢様の御顔を。
私も何が起こったのか判らず、パイの投げられた方向を見た。美鈴だ。しかもなんか、右手に二撃目のパイを持っている。いやちょっと待って。貴方はモンブランを作っていたのではなかったの。なんで妹様にパイ投げてるのねぇねぇねぇ。
「なに、美鈴」
この場で一番冷静だったのは妹様だった。顔面が完全に真っ白のべっちゃべちゃになってしまっていたが、右手をぐっと握った瞬間、ぽろぽろとパイが剥がれていった。
しかしそこで繰り出される二撃目。また当たるパイ。またきゅっとされるパイ。
私もお嬢様もフリーズしていた。
「こんな嫌がらせする為に呼んだの?」
「嫌がらせじゃありません、仕返しです!」
仕返し、という言葉に妹様はまた嫌そうな顔をなさった。
「――は。だったら手榴弾でも持ってくれば。パイなんかじゃ気も晴れ、」
すぱーん。三撃目入りました。
なんで喋ってる途中で投げるの。もう私は美鈴が何考えてるか判りません。
「ぜんっぜん判ってないですね! 今のは全然判ってないから投げました」
「はぁ……。一発目と二発目は?」
髪や服についたパイを払いながら、妹様は投げやりに聞いた。もう全身パイだらけだ。美鈴はクビが怖くないのだろうか。お嬢様は口を半開きにして目をまんまるくさせたまま動かない。
「一発目は、あの時のお返しです。二発目は、それから勝手に私から距離を置いた罰です」
妹様は、またため息をついた。今度はさっきより深く、長い。心底疲れた、という感じだった。
「まだそんな事言ってる。どんだけ前の話よ? 仕返しってのは判るよ。何をされたって怒りはしないさ。当然の事をしたもの。でもさ、距離を置いたとか置いてないとか、そういうめんどくさいの、やめようよ。疲れる」
「でも、私の所為で、何もかもを拒絶するようになったじゃないですか」
「誰の所為とか、そういうのいいって、めんどくさい……。わたしはわたしの意思で地下にいるだけじゃん、誰にも迷惑かけてないでしょ? だったらそれでいいじゃない」
「傷付けるのが怖いから逃げるんですか?」
「あぁうんそうだよそうそう、それでいいよ」
妹様の口調はどこまでも投げやりで、会話する気が感じられない。美鈴も変に喧嘩腰だから、余計に事態をややこしくさせている気がする。
「ちょっとふたりとも、」
止めようとして、けれど、服の裾を引っ張られた。お嬢様だ。
黙って、首を横に振る。
美鈴はパイを置いて、ずいっと妹様の前に出た。無表情で睨むように美鈴を見つめる妹様の手を、ふいに、美鈴が握った。
妹様の右手を両手で覆うように握って、妹様の胸元へと上げる。
「私は、貴方の事を嫌いになったりしません」
美鈴の視線は真っ直ぐで。
妹様の視線は泳ぎ始めた。
「傷付けない事が私から離れる事だと言うなら、私は傷付けられてでも貴方の傍にいたいです」
「どう、して」
水中で息苦しくてこぼれた空気の泡みたいに、妹様の言葉が吐き出される。
「私が貴方のメイドだから。ただ、貴方の言葉に従うだけしか能がないメイドだから」
美鈴はしゃがみこみ、妹様の手を握ったまま、まるで祈るみたいに、両手を捧げた。
「だから、疲れたなんて言わないで下さい。たった五百年やそこらで、勝手に悲観して勝手に諦めたりしないで下さい」
妹様のその時の表情を、なんと表現しよう。
泣き出しそうで、怒りそうで、何かをせき止めているような。
でも確かに、無表情ではなかった。
たくさんの表情を持っている、と美鈴は言った。私も見たい。色んな表情。そしてできれば、明るい顔が見たい。全力で笑った顔が、見てみたい。
「やめようよ、そういうの」
こぼれる言葉は、頼りなくて、おぼつかなくて、ふらふらしていた。
「美鈴さ、甘やかし過ぎるんだって。わたし、調子に乗っちゃうよ。そしたら、また、」
「だからいいんですってば! メイドの務めは、主様を全力で支える事です。主様が何か足りない所があるのなら、補うのはメイドの仕事です」
「ていうか、美鈴、今メイドじゃないじゃん」
「なら、もう一度、貴方のメイドにして下さい」
真っ直ぐな美鈴の言葉に、まるで助けを求めるように妹様がお嬢様へ視線を泳がせる。
お嬢様は肩をすくめた。ため息まじりで、
「門番辞めないなら、いいよ」
ぱっと、美鈴が笑った。
「やった!」
妹様を抱きすくめ、その場で立ち上がった。高い高いをしているように見えて、ちょっとおかしい。
「構いませんよね、妹様!」
妹様は、両手で顔を覆っている。てれ隠しかなんなのか、よく判らない。ただ、七色の羽根はいつにもまして力なく垂れていた。
「……、……、……好きにしたら……」
蚊の鳴くような妹様の声は、しかし、美鈴の、そして私の耳にもちゃんと届いていた。
◆
これは後でお嬢様から聞いた話だが、美鈴の騒動があってから、この紅魔館でおそらく一番妹様と会話していたのはパチュリー様だそうだ。
「ほら、引き籠りってする事ないじゃん。だから読書してるみたいだよ。でもフランドールの部屋に書斎はないから、大図書館に借りに行くんだってさ。そこでパチェと話す事多かったみたい。まぁ、他の住人に比べてって事だから、そんなに期待するほど多くないだろうけどねー」
あのひと、「私はレミィの友人ではあるけれど妹様の友人というわけではない」とかなんとか言って、ちゃっかり仲良くしてるじゃないか。
なんだったんだ、私への思わせぶりな発言は。
「友人の妹を友人と呼ぶのはなんだか不適当でしょう。だから私と妹様の関係は友人ではないという事なのよ」
それは屁理屈って言うんですよ、パチュリー様。
それからほどなくして、眉間に皺を寄せた妹様がフォーク片手に、何か茶色いものと格闘しているところを発見した。
「何をなさっているんですか」
「『何をなさっているんですか』! すごい質問だわ。美鈴に聞かせてあげたい」
「もしかして、それ、モンブランだったりします?」
「します。すっげ不味いからね。びっくりするくらい不味いからね。人間にはおすすめできない新感覚の味」
「そんな破滅的な味がするほど、料理下手ではなかったように思いますが」
「……え? ほんとに?」
「えぇ。一度リンゴのタルトを一緒に作ったんですが、それなりに美味しいものを作りましたよ」
「あいつ……ひとの負い目を利用して、わざと変なもん食べさせてるな……!」
「あー。御愁傷様です」
妹様はぶつぶつと文句を言いながら、少し乱暴にフォークをぶすぶす刺しては口に運んでいく。なんだかんだ言ってちゃんと食べるのだ。
仏頂面は相変わらずだけど。それはそれで可愛い。美鈴が入れ込むのも判らないでもない。
美鈴と妹様の仲がそれなりに修復されたのはよかったが、それで今度はお嬢様がおもしろくなさそうだった。
「手作りの不味いモンブラン食べさせられるのと、買ってきた美味しいモンブラン食べさせられるの、どっちが幸せなんだろう」
「それ、お姉様がこれ食べてないから言える事だよ。わたしは断然後者を選びます」
「咲夜に作ってって言ってるのに作ってくれないの」
「日頃の行いを鑑みればー?」
「なにそれ、まるで私の日頃の行いが悪いみたいじゃない」
「あぁうん、咲夜も大変だねまじで」
「はいはい、今度モンブランをちゃんとおふたり分作りますから」
「言ったよ? 私聞いたからね咲夜!」
お嬢様の話はそこそこに、美鈴を呼んだ。
「紅茶を淹れて頂戴」
「私がですか?」
「そう。えーっと、カップは三つ用意するのよ。あと、パチュリー様引っ張って来て」
「パチュリー様、お嬢様、妹様ですね、はぁい」
「お茶菓子、何が出るの?」
「何が出ても妹様はまずそのモンブランらしきものをさらえて下さいね」
「鬼畜……」
「良い気味だわ」
「お嬢様はストレートでよろしいのですね」
「やだーばかー! 角砂糖二個入れてくれなきゃやだー!」
「ニンニクでも入れておきますか」
「鬼畜……」
「鬼がいる……」
これでこそ、やっと私の大好きな紅魔館だ。
私が、私らしくいられる場所。
「さ、みんなでアフタヌーンティーにしましょう」
おわり
会話がとてもいい。上手く情感が浮かんできます。
ふらんちゃんのパイ ぬふふ
紅魔館はこうじゃなくちゃー。
これは良い紅魔館ですね。大好きだ
しかし、お嬢様深く考えてないように思えるけど、見るとこはきっかり見てるな。
そしてこの紅魔館素晴らしい。
咲夜さんによる妹様の脱引きこもり作戦が実施されているw
紅魔館お幸せに
紅魔館グッドラック!
よいお話をありがとうございました。
感動させられるところは感動させられ、笑わせられるところは笑わされ、飽きることなく読ませてもらいました。
面白かったです。
みなさん幸せそうで何よりです。笑えて、泣けて、凄く楽しめました。
この世界観、雰囲気大好きです
最初のほう、誰が誰に言ってるセリフなのかさっぱり分からないとこだけ困った。
この作品の全体的な雰囲気がすげー好きです
* + ベリーグッド
n ∧_∧ n
+ (ヨ(* ´∀`)E)
Y Y *
まさかそうくるとは。
すごくよかったです。
あと、最後のところ、
>>「やだーばかー! 角砂糖二個入れてくなきゃやだー!」
「~く『れ』なきゃやだー!」かな?
さりげなく混ざるギャグにもクスッとくるいい話でした
安心の過酸化さんクオリティの紅魔館のお話、楽しませて貰いました。
会話文が綺麗で良かったです。
という旨の美鈴のセリフにジーンときました。
よかったです。
幸せなお話をありがとうございます。
ストーリーから登場人物まで何から何まで最高でした
紅魔館は家族!ですね。
良作ありがとうございました。
いい話だ、けれど、
>「やめたげてよぉ!」
に吹いちまったじゃねえかwwww
素敵な紅魔館でした。
そして後書きwwwww
こう言うボーっと読んでてつまらなくない作品はかなり珍しいかと。
やはり氏の紅魔館面子はいきいきしてて可愛い
シリアスなこと扱っているはずなのに読んでて笑えるのはすごく好き
しかしあとがきw 実行しやがった、咲夜さんw
小悪魔が仲間に入りたそうにチラチラ見ていますw
心の温まる紅魔館でした。うん、あれ小悪魔……?
ようやく見つけられた
そして咲夜さんはやり遂げる人だなぁww