屋敷の地下には、主とは別の気が狂った吸血鬼がいる。
夜な夜なすすり泣く声が聞こえてきて、その吸血鬼が人を喰らう。
時たま廃棄されている瓦礫は、その吸血鬼が破壊したものである。
――紅魔館には、この手の噂が絶えない。
わたしも勤め始めて長いので、色々なバリエーションを聞いている。もちろん真偽は定かではないし、内容がエスカレートしてもお咎めがない。所詮は妖精たちの噂話なのだから、話をしている方、聞いている方が楽しめれば、ことの是非は問われなかったりする。そもそも吸血鬼が住んでいる場所に秘密の一つや二つくらいなくては、面白みもロマンもあったものではない。幻想郷にそう居ない種族だからこそ、わたしたちメイド妖精は、ぬるま湯のような就労と引き換えに魅力的なファンタジーを満喫しているのだ。
だから、地下への異動を命じられた時には酷く混乱してしまった。
「え、地下区って。お掃除ですか?」
「いいえ、あるお方のお世話です。あなたは比較的優秀なメイドですから、掃除だけをさせることはありえません」
高い評価は嬉しいけれど、圧倒的な不安がそれをかき消す。脳裏を過ぎる不穏な噂の数々が、静かに足元へ這い寄ってくる。これが噂に聞くシボーフラグというものだろうか。
「だとしたら、どなたのお世話なんでしょうか? パチュリーさまには小悪魔さんが居ますし、レミリアさまには専属メイドなんて居ないし」
このお屋敷の主――レミリア・スカーレットに専属メイドはいない。というより何をするにしても専属メイド一人二人では足りないため、全てのメイドでことに当たる必要がある。レミリア様に限ってはある意味全員が専属なのだ。
ある方のお世話というのは、誰かの専属になれということだろう。問題はその誰かというのが、今のところ嫌な想像でしかないこと。
ここでメイド長、当時務めていた名前の無い誰かが、深く深くため息をつく。
「このお話をしている時点で、あなたには二つの道しか残されておりません。全てを聞いて仕事に就くか、記憶を消されてこの館から追い出されるか」
なにそれ聞いてない。お菓子に釣られてメイド長とのサシの話に応じてしまった自分を呪いたい……いつもは無茶をやらかすレミリアお嬢様への愚痴ばっかりなのに、てきとうに相槌打ってればいい手はずだったのにー。
しかしながらまあ、こんな話をしている時点で何か真っ黒な隠し事があると語っているようなものなわけで。メイド長が聞きたいのは生きるか死ぬかという二択ではない。真実を受け入れる覚悟があるかどうか。うっかり真実に触れてしまうよりも前に、先手を打って首輪をつけておこうというわけだ。何せ妖精メイドは何をやらかすか分かったものではないのだから。
「そですね。色々惜しいのでご指示には従順になりたいと思っております。
そのお方というのは吸血鬼なのですか?」
「レミリア様の妹です」
「妹様、ですか」
それを聞いてふと納得してしまう――どうやら地下に関する噂話の内容は、全く根も葉もないわけではないらしい。以前に流れていた「地下室にはレミリア様と血で繋がった吸血鬼がいる」という話は、それなりには本当だったのだ。
とは言っても、当時のメイドたちはレミリア様の実の娘、それも親元を駆け落ちしてまで育んだ大恋愛の末に、人間との間に生まれたハーフの吸血鬼だと思い込んでいましたが。そうか妹なのか。真実は意外とシンプルさんである。
「はい。大丈夫オーケーそのくらいは想定の範囲内です。お世話は一通りの家事だけでよいんでしょうか」
「ドライすぎても困ります。それなりの距離感で親密にお世話をしてください」
「分かりました……それで妹様は、気が狂っているとかやたらめったらものを破壊するとかそういう所がありますか?」
「はい。とても気を病んでおられます」
――やだ、一番否定して欲しいところがあっさり肯定されてしまった。
妹様に対するその手の話は、噂の中では一番多い。気が狂っていて言葉がまともに通じないとか、何でも壊してしまう怪力の持ち主だとか、酷いものになると両手両足を拘束されて檻に閉じ込められているという話さえある。ヤバい全部本当だとしたらいっそのこと消された方がマシだったかもしれない。
「あ、あの。それってお世話をしている最中にわたしが消滅するようなことになるとか、そんな危険は」
「あなたも勤めて長いですものね。色々な噂を聞いていると思いますが、とにかく直に会えば全てを理解するでしょう」
それができるからこそ選んだのですが、と後付されましても。
仕方なく、ほんっとうに仕方なく。わたしはメイド長の後ろについて、屋敷の地下へと降りていく。そりゃちょっとくらいは噂の真相について興味はありますけど、わたし猫以下なので好奇心にあっさり殺されてしまうんですってば。
「妹様の名前は、フランドール・スカーレット。この四百年ほど地下から出たことがありません」
「普通それは幽閉とか軟禁って言うんじゃありませんかね」
「それも会えば分かります――普段はベッドの上に居るだけです。あとお食事に生の血は厳禁。必ずお菓子や紅茶に練りこんだものをお出しすること」
「甘党なんでしょうか」
「レミリア様と同じですよ。基本お二人の味覚は、子供のそれに似ておられます。ですがフランドール様の場合は趣味ではなく生理的なものなので、これは厳守するように」
厳守できなかったらどうなるんだろう。怖すぎて聞けない。
と、そこでメイド長がちらりとこちらの表情を伺うように振り返る。
「? どうかしました?」
「……今回の異動で、あなたには名前が与えられることになります」
その魅惑に、一瞬だけ自分がドナドナなことを忘れてしまう。
だって、名前ですよ? パチュリー様の腹心的な小悪魔さんや、よく門番を困らせに来る大妖精や、過労死するんじゃないかってくらい働いているメイド長だって持っていない専用の呼称ですよ? 嬉しくないはずがない。
「え、マジですか? やだなぁーわたしなんかに名前なんてまだ早」
「三号。いいですか『三号』あなたはこれからそう呼ばれます」
あんまりすぎて全身も思考も覚めてしまう。いや号とか、それナマモノへの名前じゃない。あと大事なことでもないので二回言わなくていい。
「つかぬ事をお聞きしますが、もしかして一号さんと二号さんがいらっしゃいます?」
「そうですね。その名の前任者は居ました」
過去形の時点で二人はもう居ないっていうことですか。どうしよう、危険が危ない。
「そ、その。心の準備ができていないので顔合わせなどはまた明日ということで」
「先ほども申しましたように、次に貴女が地上へ出られるのは……すべてを奪われ塵になった後か、このお仕事を完全に任された時だけです」
「ちょっ、悪化してる! せめて、せめてレミリア様のお立会いを願えないものでしょうか!」
「ほら、着きましたよ。立会いなら私一人でも多すぎるくらいです」
そういう問題じゃなくていやだノックしないでー!
そんな逃げ出したいわたしを他所に、丁寧なノックが三回響き「メイド長です。失礼いたします」と言ってから、数秒後にメイド長がドアを開け、自身と共にわたしを中へと引きずり込んでしまう。
――室内は思っていたより豪奢だ。レミリア様の部屋のような華美さはあまりなく、一つ一つがよく作られたものという印象が強い……それは、つまり大事にされているということ。
最悪の想定であった牢はなく、寝室兼私室としてはとても健全だ。窓が無いのも吸血鬼的には安心できる要素になる。
部屋の空気は、とても落ち着いている。いや、落ちて沈んでいるくらいの深さか。
そして天蓋つきのベッドの下で、わたしが仕える吸血鬼がのっそりと顔を上げる。
幼い容姿はレミリア様と似ている。違いは金色の髪と、翼。レミリア様の羽は蝙蝠のそれに似ているが、この吸血鬼の羽は生物で例えられない。木の枝のような幹が一本ずつぐねぐねと左右に伸びており、そこに生った実のように七つの宝石たちがぶら下がっている。宝石は片方七つ、全部で十四。七つがそれぞれ違う色を反射している。七色なので虹になる。
そしてもの憂げな表情と、頬を伝う涙の跡。
この吸血鬼の綺麗さと可憐さに打ちのめされかけるが、メイド長の声で現実に戻る。
「こちらが、これよりフランドール様のお世話させていただきます、三号です。今後は彼女を使ってやってください」
返事はない。フランドール様と呼ばれた吸血鬼は、ベッドの上で顔を上げたまま、じっとこちらを見つめるだけだ。その視線は猫に似ていなくもないが、一方的な観察とは違う何かがあるような気がする。
察してみようとしてわたしも観察してみる。深淵は見入られ合うのが相場というもの。わたしちょっと浅いですけど。
「初めまして、三号です。以後よろしくお願いいたします」
とりあえずこちらの言葉が通じるかどうか、ぺこりとお辞儀をしつつ挨拶をしてみる。反応はあり。僅かだが目線が下を向く。
――上でも横でもなく下に行くということは、何か疚しいことがあるため。疚しさを感じるということは、それなりの良識があるということ。
なんかわりと正常っぽい。狂気だのなんだのは所詮、演出過剰の噂ということか。
いやいやでも用心するに越したことはない。狂気というフレーズは噂の中で一番多いのだから、それがまったくのデタラメということもないだろう。現になんか、ひどく警戒されている様子なので、肝心のフランドール様についてがほとんど伝わってこない。黙していれば狂気も正気もへったくれもないということか。
とにかく一気に突っ込むべきではないだろう。こちらの言葉は通じる。挨拶などの意思疎通も可能。そしてこれは仕事である。では、わたしもメイドとして働きましょう。
「それでは、早速本日の業務に移らせていただきますが――大分お疲れのようですね。掃除などは軽めに済ませてしまいますね」
とりあえずフィーリングでそう判断したのですが、何故かフランドール様の目線が再びこちらへと向く。
その表情に、純粋な驚きを混ぜて。
結局、それ以上の反応は無かったので了承されたということにしておいて、室内を軽めに掃除してお召し物さえ変えることなく、食事を出して初日の業務が終わる。その間ずっとフランドール様はベッドの上に居座っており、結局ケーキにも手をつけなかった。
業務の進捗は亀よりも遅々と進む。メイド長が言っていたようにフランドール様は本当にベッドの上から動かない。最初にシーツを変えたときは、酷く居心地が悪そうにしていたのを確認してから声をかけ、なんとかベッドから降りてもらったほどだ。服を変えられたのなんてその一週間後だ。
そこまで慎重になったのにはちゃんと理由がある。
会って二日目、最初の印象でわりとイケるんじゃないかと思って意気揚々と業務にとりかかったわたしは、天狗の速さで地雷を踏みつけてしまう。
「おはようございます。代えのお召し物をお持ちしました」
先日は着替えもせずに終わらせてしまったため、きっと着替えたくてしょうがないだろうとそれなりに気を利かせたつもりで入室する。が、返ってきたのは異様な空白。昨日よりも雰囲気が落ちているような気がする。ちょっと怖い。
寝ているのだろうか。ともかく顔でも合わせようとベッドを覗き込んでみると、フランドール様の顔がある。とても剣呑な表情。キレそうな色々。
「……って」
「あ、はい?」
「!……っ」
聞き取れなかったのは決してわたしだけのせいではないだろう。
しかし、蝙蝠型の抱き枕が飛び、床を跳ねてから、わたしの所へと叩きつけられる。
突然のインパクトに、初日にさえ流れなかった冷や汗が溢れる。ヤバい。何かの琴線に触れた。絶対キレてる。たぶんしぬ。
そしてフランドール様が……ぼふんと、ベッドの上で塞ぎ込む。第二射はなく、もがくような音と呻くような声だけが聞こえる。
今だ。チャンスは今しかない。
「し、失礼いたしました」
そう告げて高速でお辞儀をすると、着替えを持ったまま早足で、けれど決して走らずに部屋を出る。
良かった。なんとか生き残れたらしい。
――そんな安堵もつかの間。仕事してないのがメイド長にバレて叱られ、その日のうちに再突撃を仕掛けることになってしまう。嫌だ絶対空気悪い。でもわたしがダダをこねたところで、ああそうと使い潰されてしまうだけなのが目に見えているので恐々、仕事だからしょうがないと言い聞かせて再びフランドール様の部屋へと訪れる。
すると、蝙蝠型の抱き枕はベッドの上に戻っており、こちらから声をかけずともフランドール様がベッドから顔を出す。さっきのような獰猛さはなく、叱られた子犬のようなしゅんとした表情。
「どうかなさいましたか?」
「……さっき、ごめんね」
謝られるとは思っていなかったので、思わず声が裏返る。
「あ、い、いえ! こちらこそすみませんでした」
「今度から……『おはようございます』は言わないで」
「わ、わかりました」
――もしかして、それがダメだった?
よくは分からない。とにかくそういうことなのだと思い込むことにして、初日と同じような簡単な世話だけでその日の業務を終える。
確かにこれだけで慎重になるのはオーバーかもしれない。けれど、あの時の殺気は本物だった。あれ以上に愚図な会話を続けていれば、間違いなく八つ裂きにされていた。現にその後のメイド長が「あら無事でしたか」なんて恐ろしいコトをさらりと言っていた。いやいやこの仕事は何度か怪我をすることが前提なのですかいと。
とにかくその日からわたしは、地雷を探るか不用意に近づかないという方針でお世話を進めていく。機嫌を取るのではない――それは近づいていく時の作法。今のフランドール様はどちらかというと、近づいて欲しくなさそうな感じだ。なのでそのようにする。
そりゃあ、日々接している上にこちらは細心の注意を払うようにしていますから、次第に会話を交わすようにはなりましたが。
「フランドール様。本日は摘みたての紅茶が入ったのですが、お試しになりますか?」
「……ううん、いい。いつもの」
こんな具合である。
返事はあっても一言二言。会話はほとんど続かない。二日目の教訓を経ているので無理に続けることもなく、大体は沈黙している時間が過ぎていく。色々会話する言葉は浮かぶのだけれど、距離を保つためには沈黙を選ばざるをえなかった。
諸々の理由を教えてもらえたのは一月ほど勤めてからだ。パチュリーさまに呼び出されたかと思うと、いきなり講義が始まってしまった。
「うつ病というのを知っているの?」
「聞いたことがあるっていう程度です」
「そう。妙に接し方が上手いから経験者かと思ったわ」
埃っぽい図書館の中で、魔女は本も開かずに、両肘を机について手で口元を隠しながらこちらを見つめている。何度か話したことがあるのでこの方の会話スキルがアレなのは分かっているが、今日は珍しくこちらが気圧されてしまいそうな雰囲気を纏っている。
とりあえずうつ病についての知識を持ち合わせていないので、訊ねてみる。
「それってどんな病気なんですか?」
想定の範囲内であったのだろう。魔女は機嫌を損ねることなく即答してくれる。
「うつ病というのは、脳内のセロトニンなどモノアミンが不足することにより、抑うつ気分状態に陥り興味及び喜びが消失した状態のことをさし」
「すいません。わかりやすくお願いします」
「簡単に言うなら、元気が無くなるのよ。あなたは色々なことに興味があったり、自発的に動いたり、楽しかったりするでしょう? その原動力が、一切湧き出てこなくなる。搾り出したくても搾り出せない。心身ともに力が抜けてしまうくらいに。そういう病気よ」
なるほど。まさしくフランドール様の状態そのものだ。
そしてそれは気持ちによる「なんとなく」ではなく、脳内物質など目に見えない肉体的な変化による症状。吸血鬼が同じ原因で気を病むかどうかは分からないけれど、とりあえずこれは症状が肉体でなく気持ちに出てしまった病気なのだということを認識しておく。
「うつに最もやってはいけないことはポジティブな言葉をかけること。だって、それができなくなるのがうつなのだから。風邪を引いた者に平熱に戻せだの鼻水を出すなだの咳きをするなだの言うのと同じことよ。ストレスをかけて余計に悪化させてしまう――あなたはそれをしなかった」
パチュリー様の言うとおり、そういう言葉をかけた覚えはないので知らずのうちに正解を踏んでいたことになるけど、今になって知らされてもあんまり嬉しくない。
「あのー。そういうの事前に説明していただきたかったなぁと」
「そうやって説明しておいた二号は、僅か三日で半殺しにされたわ」
……なんか、今更だけどこの館の人たちズルい。そんなに情報を後だししなくてもいいのに。
「そういう顔をしない。だからあえて説明せずにあなたをつけたの。話で理解した気になったり、分かっていても理解していなければ、前任者の二の舞だから。メイド長と私で画策して慎重な者を選んだの」
「それでもかなりの博打ですよね」
「正直、四号、五号を用意する必要があると思っていたわ。けれど予想以上の大勝よ。三号が他の妖精より賢いのもあるけど、大きな理由は噂を真に受けていたこと……ねえ。あなたはまだ、フランドールのことが怖いの?」
言葉が胸に突き刺さるのを確認したかのように、魔女がニタりと笑う。
普段は決して見せない表情に、背筋が寒くなる。
わたしは、紅魔館のメイドたちの間で口にされている噂をただの娯楽程度にしか思っていなかった。居るはずがないと思っていたその噂の元、フランドール様と出会うまでは。
「どうしてわたしが噂を真に受けていたと?」
「機転の利く者ほど仮定を頭の中に留めておくものよ」
「……わりと、慣れました。でも最初の頃は真面目に怖かったですよ」
「怖かったから、深く踏み入ろうとしなかった。結果としてそれがうつ病の者に対するよい対処になった」
「結果論ですよね」
「後任への参考になれば結果も仮定もいっしょ。というより、あなたの場合はファーストコンタクトがうまく行き過ぎたから、理由はそれでも要因はやはりあなた自身」
そこで魔女は再び表情を消す。これが一番の本題だと言わんばかりに、わたしの耳が空になるのを待つ。
「三号は、どうしてフランドールを「疲れている」と思ったの?」
「え? ……そ、そういう表情だったとしか」
「四百年も地下に篭っていたのに? 『それだけ休む時間があったのなら元気なんて有り余っているだろう。こんなところに篭っているから気がおかしくなる。さあ表へ出よう』――そう言いたくならない?」
確かに。時間の情報だけ伝えられたのなら、わたしもそう言ったかもしれない。
それを押し留めたのは……ああ、出会った時の印象なんていうのは受け手によって変わるから、やはりわたし自身が要因ということになる。わたしは諸々の情報より、あの時に見たフランドール様の物憂げな表情で判断を決めたのだ。
ヤバい。今はパチュリーさまの方が怖い。
「もちろんそんなことを言っても何にもならない。フランドールはあなたの思った通り、本当に疲れているのだから」
「な、何に疲れているんでしょう?」
「それは……口で説明してもしょうがないことよ」
知るより感じろ。ということか。
魔女は組み手を解いて、傍にある本を手にする。話はこれで終わりということだろう。
「方針は今まで通りってことですね」
「物分りがいいわね。質問がなければ業務に戻りなさい」
「あ、じゃあ一つ。噂みたいに暴れることってあるのでしょうか」
「そのくらい自分で考えなさい……怒ったり暴れたりなんていうのは蓄積されたエネルギーで行うもの。そんなこと、あんな状態のフランドールにできると思う?」
無理だ。わたしでも断定できてしまう。
最後の最後でパチュリー様の機嫌を損ねてしまったので、その続きは自分で考える。一つの仮定。フランドール様が噂のような、暴れん坊だとしたら。
四六時中動くのにはそれ相応のエネルギーを消費する。ずっと暴れまわるのなんて想像を絶する膨大なエネルギーを必要とするだろう。それだけの力が起こせれば地下に閉じこもる必要なんてない。いや、むしろ抑え込もうとしても抑えきれない。大体、そんな爆発みたいなものは一瞬で収まってしまうのだ。四百年も続くのだから、その間ずっと暴れていたり、おかしなことをしているより、その間ずっと何もしていない方が現実味がある。そして、どちらも狂っていることには変わりない。
どうやら噂は、気が狂っているというフレーズだけが先行してイメージを作り上げてしまっているのだろう。だがこうやって現実的に考えてみれば、フランドール様は気を患って塞ぎ込んでいる、という方がよっぽど理屈にかなっている。
「まあ、ストレスが溜まったらその限りではないけれど」
そりゃあそうだ。わたしたちだってキレることくらいあるのだから。
ただちょっと、吸血鬼なのでどうしても他の者と比べて過激になる。ということか。
そうやって諸々の事情を知っても、いやだからでこそわたしの指針は変わらない。極力話さず、距離感をもってお世話を続ける。
不思議なのは、それを実行できた自分自身だ。
わたしも他の妖精に倣っておしゃべりは好きだ。四六時中喋っていられる。むしろじっとしている方が苦手だ。
けれどフランドール様のお世話をしている間は、沈黙すべきだという判断以前に、なぜか静かでいられる。いつものお話たちは休養日だと言わんばかりに頭の中で寝静まり、魅力的な言葉が落ちていても拾う気になれない。
そんな沈黙の中で、ふと思い至る。そういえばわたし、フランドール様の顔ばかり眺めている。
綺麗に整った顔立ちや、幼さが成せる可愛らしさ。レミリア様もフランドール様もそういった魅力の溢れる容姿をしているが、それぞれ浮かべる表情が違う。レミリア様は吸血鬼らしいちょいヤバめの顔をする。そしてフランドール様は、とても吸血鬼らしくないアンニュイな顔をする。
なんてことはない。わたしはその脆くて繊細な表情を気に入ってしまい、極力壊さないように注意を払っていただけだ。
どうして気に入ったかまでは定かではない。
しかし、ベッドの上で虚空を見つめる姿が、そしてそれが僅かに、少しずつ元気を取り戻していく日々が好きで、自分から手を加えたくなかったのだ。
それからまた数日を過ごすと、ようやく大きな変化が訪れる。「ねえ、三号」フランドール様が、ご自身から声をかけてきたのだ。
掃除をしている手を止め、悟られないように一つ呼吸を置いてから、「いかがなさいましたか」と返事をしながら振り返る。
フランドール様は、ベッドの上で蝙蝠型のクッションを胸に抱きながら座っている。 目線は合わせず、けれど顔をこちらへ向けて、返事を受ける。その表情は初めて見た時とは比べ物にならないくらい生気を持っている。アンデッドな吸血鬼相手にそう表現するのもおかしいのだけれど、とにかく活力が灯っている。
「三号はどうして、あんまり話しかけてこないの?」
もちろんわざとなのですが、直に伝えるべきではないと思ったので遠まわしに。
「もしかして、至らぬ点がございましたか?」
「ううん。そういうのだったら、すごくいいよ。調子の悪いときは、放っておいて欲しいくらいだから」
確かに。まともな人だったらブチ切れていそうな程度のお世話しかしていないので、半ば放っておいているようなものだ。
「三号はさ、普通のお話をほとんどしなかったから」
怖くて話さなかった。という半分くらいは本当の理由を腹の底へしまい込み、言葉を選んでもう片方の理由を告げる。
「はい。あまり必要としていない雰囲気でしたので、そういう時は何も無しという選択もまた必要かなと」
聞いてフランドール様が、くすりと微笑む。
「ほんと、三号ってヘン。最初の時に『疲れてる』なんて言われたの、初めてだった」
初めて見せる明るい表情は、とても可愛らしい。それがわたしをヘンって評価する言葉と一緒じゃなきゃあなぁ。
しかし、ヘンのが良いのだ。というより、うつ状態のフランドール様と無知識でそれなりに接することができた時点で、どうしようもない変わり者だろう。
――これはつまり、フランドール様も変わり者ということ。
「今もまだ、お疲れでしょうか」
「うん。少しマシになったかな」
と、そこでフランドール様が、何か言い難そうにもじもじとしてから、「あのね」と言葉を切り出し始める。
「ついさっき分かったんだけど、私、三号のことが怖かったんだ」
「わ、わたしが?」
予想外の言葉に驚きが隠せない。
だって、吸血鬼がただの妖精を怖がる理由なんて、わたしには思いつくことさえできない。
だがフランドール様は滔々と語る。
「うん。
二号もダメになって、新しいコが来ることになって、また分かってもらえるまで戦争みたいに戦わなくちゃいけないのかって、私ずっと構えてたんだ。
二号は普通のいいコだった。だから私のことが分かるまで、すごく時間がかかった。元気出して、とか。大丈夫だから、とか。フツーだったらなんとも思わない言葉を一生懸命にかけてきてくれたんだけど、全部逆効果で、すごく嫌だったんだ。大丈夫じゃないからここに居るのに、元気が出せないから倒れてるのに、どうしてそんな酷いことを言うのって。
そういうのをまた繰り返すのが、嫌で嫌ですごく怖くてしょうがなかったんだけど、いざ蓋を開けてみたら三号はそういうのしてこなくて……何か裏があるんじゃないかとかダメな方向で色々暴走してたんだけど、そのうちに気持ちも落ち着いてきて」
やっと話しかけられるようになった、と。
――深淵は、魅入られあうのが相場というもの。無理やり捻り出した表現がまさかこんなにも的確だったなんて。
あの日のフランドール様の視線に混ざっていたのは、怯えだったのだ。
「それで、三号がどうしてこんなにも上手に接してくれるのかちょっと不思議で」
どう答えるべきか少しだけ考えて。
もうここしか言うタイミングはないと、本当をストレートにして出す。
「あはは――実を言うとですね。わたしも怖かったんです。フランドール様のことが」
「ええっ!? な、なんで」
「出会う前から色々と聞き及んでおりまして」
「うそ!? 私がここに居ることは秘密なのに」
本気で驚いてらっしゃるあたり、どうやら地上で流れている噂のことは何一つとして知らないらしい。
かといって正直に話すのも問題があるので、噂の一部を伝説や怪談のような感じで脚色してフランドール様に伝えてみる。
「うー、なにそれ。私そんなんじゃないもん」
「はい。でも確認できるまで、わたしは本っ当に怖かったです」
「……それが、あんな感じにしてくれた理由?」
「上手く行った理由の半分くらいですかね。そちらの方はもうお気づきかと」
「え、なんか言ったっけ」
「どうも変わり者らしいですよ、わたし」
言われてようやく自分の発言が失礼だったことに気がつき、慌てて取り繕おうとするフランドール様だが、わたしが隠すことなくくすくす笑っているのを見て、笑い出す。
そうやって笑い合えるようになって初めて、レミリアお嬢様から『期待してるわ』と声をかけられたのでした。
夜な夜なすすり泣く声が聞こえてきて、その吸血鬼が人を喰らう。
時たま廃棄されている瓦礫は、その吸血鬼が破壊したものである。
――紅魔館には、この手の噂が絶えない。
わたしも勤め始めて長いので、色々なバリエーションを聞いている。もちろん真偽は定かではないし、内容がエスカレートしてもお咎めがない。所詮は妖精たちの噂話なのだから、話をしている方、聞いている方が楽しめれば、ことの是非は問われなかったりする。そもそも吸血鬼が住んでいる場所に秘密の一つや二つくらいなくては、面白みもロマンもあったものではない。幻想郷にそう居ない種族だからこそ、わたしたちメイド妖精は、ぬるま湯のような就労と引き換えに魅力的なファンタジーを満喫しているのだ。
だから、地下への異動を命じられた時には酷く混乱してしまった。
「え、地下区って。お掃除ですか?」
「いいえ、あるお方のお世話です。あなたは比較的優秀なメイドですから、掃除だけをさせることはありえません」
高い評価は嬉しいけれど、圧倒的な不安がそれをかき消す。脳裏を過ぎる不穏な噂の数々が、静かに足元へ這い寄ってくる。これが噂に聞くシボーフラグというものだろうか。
「だとしたら、どなたのお世話なんでしょうか? パチュリーさまには小悪魔さんが居ますし、レミリアさまには専属メイドなんて居ないし」
このお屋敷の主――レミリア・スカーレットに専属メイドはいない。というより何をするにしても専属メイド一人二人では足りないため、全てのメイドでことに当たる必要がある。レミリア様に限ってはある意味全員が専属なのだ。
ある方のお世話というのは、誰かの専属になれということだろう。問題はその誰かというのが、今のところ嫌な想像でしかないこと。
ここでメイド長、当時務めていた名前の無い誰かが、深く深くため息をつく。
「このお話をしている時点で、あなたには二つの道しか残されておりません。全てを聞いて仕事に就くか、記憶を消されてこの館から追い出されるか」
なにそれ聞いてない。お菓子に釣られてメイド長とのサシの話に応じてしまった自分を呪いたい……いつもは無茶をやらかすレミリアお嬢様への愚痴ばっかりなのに、てきとうに相槌打ってればいい手はずだったのにー。
しかしながらまあ、こんな話をしている時点で何か真っ黒な隠し事があると語っているようなものなわけで。メイド長が聞きたいのは生きるか死ぬかという二択ではない。真実を受け入れる覚悟があるかどうか。うっかり真実に触れてしまうよりも前に、先手を打って首輪をつけておこうというわけだ。何せ妖精メイドは何をやらかすか分かったものではないのだから。
「そですね。色々惜しいのでご指示には従順になりたいと思っております。
そのお方というのは吸血鬼なのですか?」
「レミリア様の妹です」
「妹様、ですか」
それを聞いてふと納得してしまう――どうやら地下に関する噂話の内容は、全く根も葉もないわけではないらしい。以前に流れていた「地下室にはレミリア様と血で繋がった吸血鬼がいる」という話は、それなりには本当だったのだ。
とは言っても、当時のメイドたちはレミリア様の実の娘、それも親元を駆け落ちしてまで育んだ大恋愛の末に、人間との間に生まれたハーフの吸血鬼だと思い込んでいましたが。そうか妹なのか。真実は意外とシンプルさんである。
「はい。大丈夫オーケーそのくらいは想定の範囲内です。お世話は一通りの家事だけでよいんでしょうか」
「ドライすぎても困ります。それなりの距離感で親密にお世話をしてください」
「分かりました……それで妹様は、気が狂っているとかやたらめったらものを破壊するとかそういう所がありますか?」
「はい。とても気を病んでおられます」
――やだ、一番否定して欲しいところがあっさり肯定されてしまった。
妹様に対するその手の話は、噂の中では一番多い。気が狂っていて言葉がまともに通じないとか、何でも壊してしまう怪力の持ち主だとか、酷いものになると両手両足を拘束されて檻に閉じ込められているという話さえある。ヤバい全部本当だとしたらいっそのこと消された方がマシだったかもしれない。
「あ、あの。それってお世話をしている最中にわたしが消滅するようなことになるとか、そんな危険は」
「あなたも勤めて長いですものね。色々な噂を聞いていると思いますが、とにかく直に会えば全てを理解するでしょう」
それができるからこそ選んだのですが、と後付されましても。
仕方なく、ほんっとうに仕方なく。わたしはメイド長の後ろについて、屋敷の地下へと降りていく。そりゃちょっとくらいは噂の真相について興味はありますけど、わたし猫以下なので好奇心にあっさり殺されてしまうんですってば。
「妹様の名前は、フランドール・スカーレット。この四百年ほど地下から出たことがありません」
「普通それは幽閉とか軟禁って言うんじゃありませんかね」
「それも会えば分かります――普段はベッドの上に居るだけです。あとお食事に生の血は厳禁。必ずお菓子や紅茶に練りこんだものをお出しすること」
「甘党なんでしょうか」
「レミリア様と同じですよ。基本お二人の味覚は、子供のそれに似ておられます。ですがフランドール様の場合は趣味ではなく生理的なものなので、これは厳守するように」
厳守できなかったらどうなるんだろう。怖すぎて聞けない。
と、そこでメイド長がちらりとこちらの表情を伺うように振り返る。
「? どうかしました?」
「……今回の異動で、あなたには名前が与えられることになります」
その魅惑に、一瞬だけ自分がドナドナなことを忘れてしまう。
だって、名前ですよ? パチュリー様の腹心的な小悪魔さんや、よく門番を困らせに来る大妖精や、過労死するんじゃないかってくらい働いているメイド長だって持っていない専用の呼称ですよ? 嬉しくないはずがない。
「え、マジですか? やだなぁーわたしなんかに名前なんてまだ早」
「三号。いいですか『三号』あなたはこれからそう呼ばれます」
あんまりすぎて全身も思考も覚めてしまう。いや号とか、それナマモノへの名前じゃない。あと大事なことでもないので二回言わなくていい。
「つかぬ事をお聞きしますが、もしかして一号さんと二号さんがいらっしゃいます?」
「そうですね。その名の前任者は居ました」
過去形の時点で二人はもう居ないっていうことですか。どうしよう、危険が危ない。
「そ、その。心の準備ができていないので顔合わせなどはまた明日ということで」
「先ほども申しましたように、次に貴女が地上へ出られるのは……すべてを奪われ塵になった後か、このお仕事を完全に任された時だけです」
「ちょっ、悪化してる! せめて、せめてレミリア様のお立会いを願えないものでしょうか!」
「ほら、着きましたよ。立会いなら私一人でも多すぎるくらいです」
そういう問題じゃなくていやだノックしないでー!
そんな逃げ出したいわたしを他所に、丁寧なノックが三回響き「メイド長です。失礼いたします」と言ってから、数秒後にメイド長がドアを開け、自身と共にわたしを中へと引きずり込んでしまう。
――室内は思っていたより豪奢だ。レミリア様の部屋のような華美さはあまりなく、一つ一つがよく作られたものという印象が強い……それは、つまり大事にされているということ。
最悪の想定であった牢はなく、寝室兼私室としてはとても健全だ。窓が無いのも吸血鬼的には安心できる要素になる。
部屋の空気は、とても落ち着いている。いや、落ちて沈んでいるくらいの深さか。
そして天蓋つきのベッドの下で、わたしが仕える吸血鬼がのっそりと顔を上げる。
幼い容姿はレミリア様と似ている。違いは金色の髪と、翼。レミリア様の羽は蝙蝠のそれに似ているが、この吸血鬼の羽は生物で例えられない。木の枝のような幹が一本ずつぐねぐねと左右に伸びており、そこに生った実のように七つの宝石たちがぶら下がっている。宝石は片方七つ、全部で十四。七つがそれぞれ違う色を反射している。七色なので虹になる。
そしてもの憂げな表情と、頬を伝う涙の跡。
この吸血鬼の綺麗さと可憐さに打ちのめされかけるが、メイド長の声で現実に戻る。
「こちらが、これよりフランドール様のお世話させていただきます、三号です。今後は彼女を使ってやってください」
返事はない。フランドール様と呼ばれた吸血鬼は、ベッドの上で顔を上げたまま、じっとこちらを見つめるだけだ。その視線は猫に似ていなくもないが、一方的な観察とは違う何かがあるような気がする。
察してみようとしてわたしも観察してみる。深淵は見入られ合うのが相場というもの。わたしちょっと浅いですけど。
「初めまして、三号です。以後よろしくお願いいたします」
とりあえずこちらの言葉が通じるかどうか、ぺこりとお辞儀をしつつ挨拶をしてみる。反応はあり。僅かだが目線が下を向く。
――上でも横でもなく下に行くということは、何か疚しいことがあるため。疚しさを感じるということは、それなりの良識があるということ。
なんかわりと正常っぽい。狂気だのなんだのは所詮、演出過剰の噂ということか。
いやいやでも用心するに越したことはない。狂気というフレーズは噂の中で一番多いのだから、それがまったくのデタラメということもないだろう。現になんか、ひどく警戒されている様子なので、肝心のフランドール様についてがほとんど伝わってこない。黙していれば狂気も正気もへったくれもないということか。
とにかく一気に突っ込むべきではないだろう。こちらの言葉は通じる。挨拶などの意思疎通も可能。そしてこれは仕事である。では、わたしもメイドとして働きましょう。
「それでは、早速本日の業務に移らせていただきますが――大分お疲れのようですね。掃除などは軽めに済ませてしまいますね」
とりあえずフィーリングでそう判断したのですが、何故かフランドール様の目線が再びこちらへと向く。
その表情に、純粋な驚きを混ぜて。
結局、それ以上の反応は無かったので了承されたということにしておいて、室内を軽めに掃除してお召し物さえ変えることなく、食事を出して初日の業務が終わる。その間ずっとフランドール様はベッドの上に居座っており、結局ケーキにも手をつけなかった。
業務の進捗は亀よりも遅々と進む。メイド長が言っていたようにフランドール様は本当にベッドの上から動かない。最初にシーツを変えたときは、酷く居心地が悪そうにしていたのを確認してから声をかけ、なんとかベッドから降りてもらったほどだ。服を変えられたのなんてその一週間後だ。
そこまで慎重になったのにはちゃんと理由がある。
会って二日目、最初の印象でわりとイケるんじゃないかと思って意気揚々と業務にとりかかったわたしは、天狗の速さで地雷を踏みつけてしまう。
「おはようございます。代えのお召し物をお持ちしました」
先日は着替えもせずに終わらせてしまったため、きっと着替えたくてしょうがないだろうとそれなりに気を利かせたつもりで入室する。が、返ってきたのは異様な空白。昨日よりも雰囲気が落ちているような気がする。ちょっと怖い。
寝ているのだろうか。ともかく顔でも合わせようとベッドを覗き込んでみると、フランドール様の顔がある。とても剣呑な表情。キレそうな色々。
「……って」
「あ、はい?」
「!……っ」
聞き取れなかったのは決してわたしだけのせいではないだろう。
しかし、蝙蝠型の抱き枕が飛び、床を跳ねてから、わたしの所へと叩きつけられる。
突然のインパクトに、初日にさえ流れなかった冷や汗が溢れる。ヤバい。何かの琴線に触れた。絶対キレてる。たぶんしぬ。
そしてフランドール様が……ぼふんと、ベッドの上で塞ぎ込む。第二射はなく、もがくような音と呻くような声だけが聞こえる。
今だ。チャンスは今しかない。
「し、失礼いたしました」
そう告げて高速でお辞儀をすると、着替えを持ったまま早足で、けれど決して走らずに部屋を出る。
良かった。なんとか生き残れたらしい。
――そんな安堵もつかの間。仕事してないのがメイド長にバレて叱られ、その日のうちに再突撃を仕掛けることになってしまう。嫌だ絶対空気悪い。でもわたしがダダをこねたところで、ああそうと使い潰されてしまうだけなのが目に見えているので恐々、仕事だからしょうがないと言い聞かせて再びフランドール様の部屋へと訪れる。
すると、蝙蝠型の抱き枕はベッドの上に戻っており、こちらから声をかけずともフランドール様がベッドから顔を出す。さっきのような獰猛さはなく、叱られた子犬のようなしゅんとした表情。
「どうかなさいましたか?」
「……さっき、ごめんね」
謝られるとは思っていなかったので、思わず声が裏返る。
「あ、い、いえ! こちらこそすみませんでした」
「今度から……『おはようございます』は言わないで」
「わ、わかりました」
――もしかして、それがダメだった?
よくは分からない。とにかくそういうことなのだと思い込むことにして、初日と同じような簡単な世話だけでその日の業務を終える。
確かにこれだけで慎重になるのはオーバーかもしれない。けれど、あの時の殺気は本物だった。あれ以上に愚図な会話を続けていれば、間違いなく八つ裂きにされていた。現にその後のメイド長が「あら無事でしたか」なんて恐ろしいコトをさらりと言っていた。いやいやこの仕事は何度か怪我をすることが前提なのですかいと。
とにかくその日からわたしは、地雷を探るか不用意に近づかないという方針でお世話を進めていく。機嫌を取るのではない――それは近づいていく時の作法。今のフランドール様はどちらかというと、近づいて欲しくなさそうな感じだ。なのでそのようにする。
そりゃあ、日々接している上にこちらは細心の注意を払うようにしていますから、次第に会話を交わすようにはなりましたが。
「フランドール様。本日は摘みたての紅茶が入ったのですが、お試しになりますか?」
「……ううん、いい。いつもの」
こんな具合である。
返事はあっても一言二言。会話はほとんど続かない。二日目の教訓を経ているので無理に続けることもなく、大体は沈黙している時間が過ぎていく。色々会話する言葉は浮かぶのだけれど、距離を保つためには沈黙を選ばざるをえなかった。
諸々の理由を教えてもらえたのは一月ほど勤めてからだ。パチュリーさまに呼び出されたかと思うと、いきなり講義が始まってしまった。
「うつ病というのを知っているの?」
「聞いたことがあるっていう程度です」
「そう。妙に接し方が上手いから経験者かと思ったわ」
埃っぽい図書館の中で、魔女は本も開かずに、両肘を机について手で口元を隠しながらこちらを見つめている。何度か話したことがあるのでこの方の会話スキルがアレなのは分かっているが、今日は珍しくこちらが気圧されてしまいそうな雰囲気を纏っている。
とりあえずうつ病についての知識を持ち合わせていないので、訊ねてみる。
「それってどんな病気なんですか?」
想定の範囲内であったのだろう。魔女は機嫌を損ねることなく即答してくれる。
「うつ病というのは、脳内のセロトニンなどモノアミンが不足することにより、抑うつ気分状態に陥り興味及び喜びが消失した状態のことをさし」
「すいません。わかりやすくお願いします」
「簡単に言うなら、元気が無くなるのよ。あなたは色々なことに興味があったり、自発的に動いたり、楽しかったりするでしょう? その原動力が、一切湧き出てこなくなる。搾り出したくても搾り出せない。心身ともに力が抜けてしまうくらいに。そういう病気よ」
なるほど。まさしくフランドール様の状態そのものだ。
そしてそれは気持ちによる「なんとなく」ではなく、脳内物質など目に見えない肉体的な変化による症状。吸血鬼が同じ原因で気を病むかどうかは分からないけれど、とりあえずこれは症状が肉体でなく気持ちに出てしまった病気なのだということを認識しておく。
「うつに最もやってはいけないことはポジティブな言葉をかけること。だって、それができなくなるのがうつなのだから。風邪を引いた者に平熱に戻せだの鼻水を出すなだの咳きをするなだの言うのと同じことよ。ストレスをかけて余計に悪化させてしまう――あなたはそれをしなかった」
パチュリー様の言うとおり、そういう言葉をかけた覚えはないので知らずのうちに正解を踏んでいたことになるけど、今になって知らされてもあんまり嬉しくない。
「あのー。そういうの事前に説明していただきたかったなぁと」
「そうやって説明しておいた二号は、僅か三日で半殺しにされたわ」
……なんか、今更だけどこの館の人たちズルい。そんなに情報を後だししなくてもいいのに。
「そういう顔をしない。だからあえて説明せずにあなたをつけたの。話で理解した気になったり、分かっていても理解していなければ、前任者の二の舞だから。メイド長と私で画策して慎重な者を選んだの」
「それでもかなりの博打ですよね」
「正直、四号、五号を用意する必要があると思っていたわ。けれど予想以上の大勝よ。三号が他の妖精より賢いのもあるけど、大きな理由は噂を真に受けていたこと……ねえ。あなたはまだ、フランドールのことが怖いの?」
言葉が胸に突き刺さるのを確認したかのように、魔女がニタりと笑う。
普段は決して見せない表情に、背筋が寒くなる。
わたしは、紅魔館のメイドたちの間で口にされている噂をただの娯楽程度にしか思っていなかった。居るはずがないと思っていたその噂の元、フランドール様と出会うまでは。
「どうしてわたしが噂を真に受けていたと?」
「機転の利く者ほど仮定を頭の中に留めておくものよ」
「……わりと、慣れました。でも最初の頃は真面目に怖かったですよ」
「怖かったから、深く踏み入ろうとしなかった。結果としてそれがうつ病の者に対するよい対処になった」
「結果論ですよね」
「後任への参考になれば結果も仮定もいっしょ。というより、あなたの場合はファーストコンタクトがうまく行き過ぎたから、理由はそれでも要因はやはりあなた自身」
そこで魔女は再び表情を消す。これが一番の本題だと言わんばかりに、わたしの耳が空になるのを待つ。
「三号は、どうしてフランドールを「疲れている」と思ったの?」
「え? ……そ、そういう表情だったとしか」
「四百年も地下に篭っていたのに? 『それだけ休む時間があったのなら元気なんて有り余っているだろう。こんなところに篭っているから気がおかしくなる。さあ表へ出よう』――そう言いたくならない?」
確かに。時間の情報だけ伝えられたのなら、わたしもそう言ったかもしれない。
それを押し留めたのは……ああ、出会った時の印象なんていうのは受け手によって変わるから、やはりわたし自身が要因ということになる。わたしは諸々の情報より、あの時に見たフランドール様の物憂げな表情で判断を決めたのだ。
ヤバい。今はパチュリーさまの方が怖い。
「もちろんそんなことを言っても何にもならない。フランドールはあなたの思った通り、本当に疲れているのだから」
「な、何に疲れているんでしょう?」
「それは……口で説明してもしょうがないことよ」
知るより感じろ。ということか。
魔女は組み手を解いて、傍にある本を手にする。話はこれで終わりということだろう。
「方針は今まで通りってことですね」
「物分りがいいわね。質問がなければ業務に戻りなさい」
「あ、じゃあ一つ。噂みたいに暴れることってあるのでしょうか」
「そのくらい自分で考えなさい……怒ったり暴れたりなんていうのは蓄積されたエネルギーで行うもの。そんなこと、あんな状態のフランドールにできると思う?」
無理だ。わたしでも断定できてしまう。
最後の最後でパチュリー様の機嫌を損ねてしまったので、その続きは自分で考える。一つの仮定。フランドール様が噂のような、暴れん坊だとしたら。
四六時中動くのにはそれ相応のエネルギーを消費する。ずっと暴れまわるのなんて想像を絶する膨大なエネルギーを必要とするだろう。それだけの力が起こせれば地下に閉じこもる必要なんてない。いや、むしろ抑え込もうとしても抑えきれない。大体、そんな爆発みたいなものは一瞬で収まってしまうのだ。四百年も続くのだから、その間ずっと暴れていたり、おかしなことをしているより、その間ずっと何もしていない方が現実味がある。そして、どちらも狂っていることには変わりない。
どうやら噂は、気が狂っているというフレーズだけが先行してイメージを作り上げてしまっているのだろう。だがこうやって現実的に考えてみれば、フランドール様は気を患って塞ぎ込んでいる、という方がよっぽど理屈にかなっている。
「まあ、ストレスが溜まったらその限りではないけれど」
そりゃあそうだ。わたしたちだってキレることくらいあるのだから。
ただちょっと、吸血鬼なのでどうしても他の者と比べて過激になる。ということか。
そうやって諸々の事情を知っても、いやだからでこそわたしの指針は変わらない。極力話さず、距離感をもってお世話を続ける。
不思議なのは、それを実行できた自分自身だ。
わたしも他の妖精に倣っておしゃべりは好きだ。四六時中喋っていられる。むしろじっとしている方が苦手だ。
けれどフランドール様のお世話をしている間は、沈黙すべきだという判断以前に、なぜか静かでいられる。いつものお話たちは休養日だと言わんばかりに頭の中で寝静まり、魅力的な言葉が落ちていても拾う気になれない。
そんな沈黙の中で、ふと思い至る。そういえばわたし、フランドール様の顔ばかり眺めている。
綺麗に整った顔立ちや、幼さが成せる可愛らしさ。レミリア様もフランドール様もそういった魅力の溢れる容姿をしているが、それぞれ浮かべる表情が違う。レミリア様は吸血鬼らしいちょいヤバめの顔をする。そしてフランドール様は、とても吸血鬼らしくないアンニュイな顔をする。
なんてことはない。わたしはその脆くて繊細な表情を気に入ってしまい、極力壊さないように注意を払っていただけだ。
どうして気に入ったかまでは定かではない。
しかし、ベッドの上で虚空を見つめる姿が、そしてそれが僅かに、少しずつ元気を取り戻していく日々が好きで、自分から手を加えたくなかったのだ。
それからまた数日を過ごすと、ようやく大きな変化が訪れる。「ねえ、三号」フランドール様が、ご自身から声をかけてきたのだ。
掃除をしている手を止め、悟られないように一つ呼吸を置いてから、「いかがなさいましたか」と返事をしながら振り返る。
フランドール様は、ベッドの上で蝙蝠型のクッションを胸に抱きながら座っている。 目線は合わせず、けれど顔をこちらへ向けて、返事を受ける。その表情は初めて見た時とは比べ物にならないくらい生気を持っている。アンデッドな吸血鬼相手にそう表現するのもおかしいのだけれど、とにかく活力が灯っている。
「三号はどうして、あんまり話しかけてこないの?」
もちろんわざとなのですが、直に伝えるべきではないと思ったので遠まわしに。
「もしかして、至らぬ点がございましたか?」
「ううん。そういうのだったら、すごくいいよ。調子の悪いときは、放っておいて欲しいくらいだから」
確かに。まともな人だったらブチ切れていそうな程度のお世話しかしていないので、半ば放っておいているようなものだ。
「三号はさ、普通のお話をほとんどしなかったから」
怖くて話さなかった。という半分くらいは本当の理由を腹の底へしまい込み、言葉を選んでもう片方の理由を告げる。
「はい。あまり必要としていない雰囲気でしたので、そういう時は何も無しという選択もまた必要かなと」
聞いてフランドール様が、くすりと微笑む。
「ほんと、三号ってヘン。最初の時に『疲れてる』なんて言われたの、初めてだった」
初めて見せる明るい表情は、とても可愛らしい。それがわたしをヘンって評価する言葉と一緒じゃなきゃあなぁ。
しかし、ヘンのが良いのだ。というより、うつ状態のフランドール様と無知識でそれなりに接することができた時点で、どうしようもない変わり者だろう。
――これはつまり、フランドール様も変わり者ということ。
「今もまだ、お疲れでしょうか」
「うん。少しマシになったかな」
と、そこでフランドール様が、何か言い難そうにもじもじとしてから、「あのね」と言葉を切り出し始める。
「ついさっき分かったんだけど、私、三号のことが怖かったんだ」
「わ、わたしが?」
予想外の言葉に驚きが隠せない。
だって、吸血鬼がただの妖精を怖がる理由なんて、わたしには思いつくことさえできない。
だがフランドール様は滔々と語る。
「うん。
二号もダメになって、新しいコが来ることになって、また分かってもらえるまで戦争みたいに戦わなくちゃいけないのかって、私ずっと構えてたんだ。
二号は普通のいいコだった。だから私のことが分かるまで、すごく時間がかかった。元気出して、とか。大丈夫だから、とか。フツーだったらなんとも思わない言葉を一生懸命にかけてきてくれたんだけど、全部逆効果で、すごく嫌だったんだ。大丈夫じゃないからここに居るのに、元気が出せないから倒れてるのに、どうしてそんな酷いことを言うのって。
そういうのをまた繰り返すのが、嫌で嫌ですごく怖くてしょうがなかったんだけど、いざ蓋を開けてみたら三号はそういうのしてこなくて……何か裏があるんじゃないかとかダメな方向で色々暴走してたんだけど、そのうちに気持ちも落ち着いてきて」
やっと話しかけられるようになった、と。
――深淵は、魅入られあうのが相場というもの。無理やり捻り出した表現がまさかこんなにも的確だったなんて。
あの日のフランドール様の視線に混ざっていたのは、怯えだったのだ。
「それで、三号がどうしてこんなにも上手に接してくれるのかちょっと不思議で」
どう答えるべきか少しだけ考えて。
もうここしか言うタイミングはないと、本当をストレートにして出す。
「あはは――実を言うとですね。わたしも怖かったんです。フランドール様のことが」
「ええっ!? な、なんで」
「出会う前から色々と聞き及んでおりまして」
「うそ!? 私がここに居ることは秘密なのに」
本気で驚いてらっしゃるあたり、どうやら地上で流れている噂のことは何一つとして知らないらしい。
かといって正直に話すのも問題があるので、噂の一部を伝説や怪談のような感じで脚色してフランドール様に伝えてみる。
「うー、なにそれ。私そんなんじゃないもん」
「はい。でも確認できるまで、わたしは本っ当に怖かったです」
「……それが、あんな感じにしてくれた理由?」
「上手く行った理由の半分くらいですかね。そちらの方はもうお気づきかと」
「え、なんか言ったっけ」
「どうも変わり者らしいですよ、わたし」
言われてようやく自分の発言が失礼だったことに気がつき、慌てて取り繕おうとするフランドール様だが、わたしが隠すことなくくすくす笑っているのを見て、笑い出す。
そうやって笑い合えるようになって初めて、レミリアお嬢様から『期待してるわ』と声をかけられたのでした。
この部分が好きです。
もうちょっと続きが読みたい気持ちになりました
是非とも続編をお願いしたいです
是非とも続編をお願いします
でも途中な感じがするし、続編あるんですかね……
いやそれでもこの点数で!
これは続編ありですよね!?期待してます!
これは続きを期待していいんですよね?
フランちゃんのキャラがおもしろいなーとおもいました。
続きも読んできます。
続編も読んでみます。
ここで終わっちゃうのは歯切れが悪いので続編も読んできます。