世界は余りに脆弱だ。
こんなにも小さく弱い私の掌で、跡形もなく崩れ去ってしまう。
科学者たちが人生をかけて構築した数式も。
思想家たちが思い描いた完全なる理想も。
芸術家たちが魂と誇りで描き出した絵画も。
こんなにも幼い私の前ですら、塵芥同然。
次の瞬間には砕け散ってしまう、フラジールな存在でしかなかった。
だからこそ私は壊してしまうことを恐れる。
血に沈む〝わたし〟が、何時、何を壊してしまうだろうと、ずっと震えながら。
気の遠くなるような歳月を、ずっと独りで生きてきた。
495年。遥か彼方に繋がった、暗闇に潜む歴史。
それはきっと、吸血鬼フランドール・スカーレットの足跡。
お姉さま、フランドールはいらない子なのでしょうか。
暗く狭い、無機質な牢獄から、少女の声が聞こえる。
辺りに漂っているのは、脳髄を狂わせる腐臭と甘美な血の香り。
血濡れた少女はじっと扉を見つめながら、壊れた人形のようにそれを繰り返す。
お姉さま、お姉さま。
どうして何も言ってくれないの。
じゃりじゃりと音を立てる首輪、壁に打ち付けられ錆びついた鎖。
ふとした拍子に、少女が何も着ていないことに気付く。
鋭い爪でひっかいたような、蚯蚓腫れと傷跡が白に映える。
やっと治りかけたはずの傷を抉ったために膿みだした皮膚に虫がたかっている。
お姉さま、お姉さま。
決して届かぬ扉に手を伸ばして、生まれたままの少女は呟き続ける。
ああ、あれはわたしだ。
すんなりと零れ落ちたその言葉に、少女はぎょっと後ろを振り向く。
ずっと外に焦がれているわたし。
未だに外へ出られないでいるわたし。
わたしが拒絶して、まだそこにいるわたし。
少女はじっとわたしを見つめて、零れ落ちた言葉を繰り返す。
わたしはあなた、あなたはだあれ。
あなたはわたし、わたしはだあれ。
「……変な夢」
そこで、わたしは目が覚めた。
見上げていたのはいつもの見慣れた天井で、わたしは柔らかいベッドの上にいる。
お姉さまがくれたピンク色のパジャマの肌触りが心地いい。
甘美な香りに満ちた牢獄も、手足を拘束する忌々しい枷も。
そして〝わたし〟までもがどこかへ行ってしまった。
「……」
ふぅ、と小さく息をつき、硬く冷たい鉄の感触が残る手首を触る。
紛れもなく、あれは〝わたし〟だった。
理由もない確信がある。
確信というよりも、絶対的な存在感を以てそれは存在している。
あれは〝フランドール〟。
わたしの中にいる、唯一無二の〝フランドール〟。
わたしが恐れている〝フランドール〟。
そんな私をずっと眺めている〝フランドール〟。
永遠に届くことの無い世界を、わたしを通して眺めている〝わたし〟。
「……っ」
突然起こった鋭い痛みが頭蓋を貫き、わたしは思わず頭を抱えた。
あの日――わたしが世界を知った時から、〝わたし〟はずっとあそこにいる。
他でもない、わたしが閉じ込めた。
だからこそ、思う。どういう風の吹き回しだろう。
「……いらない子、かあ」
〝わたし〟が呟いていた言葉を、再び噛みしめてみる。
この世界にあるまじき、過ぎた力を持つ吸血鬼フランドール・スカーレット。
その力を統べる術もなく、精神的にも未熟で、ずうっと独りの哀れな子。
それがわたしであり、〝わたし〟であり、〝フランドール〟。
「誰がいらない子だって?」
何の考えも無しに私がそう呟いた瞬間、突然に聞き慣れた声が返ってきた。
「アンタも一端の口をきくようになったものね」
振り返ると、何時の間にやら扉のすぐ傍に小さな黒い影が立っている。
わたしのそれとは違う蝙蝠の翼を生やし、髪は水色、ピンクの可愛らしい服に身を包む。
レミリア・スカーレット。わたしの大好きなお姉さま。
「ええ? 私のフランドール・スカーレット」
そのお姉さまはひどく不機嫌な様子で、じろりとわたしを一瞥する。
「お、お姉さま……? どうしてここに?」
わたしはお姉さまを刺激しないよう、おそるおそる口を開く。
だって、お姉さまがわたしの部屋にやってくることなんてほとんどないはずなのに。
「やけにうなされてたみたいだから、様子を見に来ただけよ」
「うなされて……わたしが?」
わたしは小さく首をかしげてみせる。
思い当たるのはついさっきまで見ていた、あの夢。
「お姉さま、お姉さま、って。五月蠅くて敵わないから見に来たわけ」
お姉さまは呆れたように肩をすくめると、それからにこりとほほ笑んだ。
わたしは少しの間きょとんとその顔を見つめていたけど、その内に可笑しくなって嗤いだしてしまう。
お姉さまも同じだ。
二人でくすくすとひとしきり笑うと、お姉さまはわたしのベッドに腰掛けて、わたしの髪を手櫛で優しく撫ぜてくれる。
くすぐったいような、気持ちのいい感覚に身を任せ、わたしはお姉さまに身体を預けた。
「いらない子、なんて。そんなことあるわけないじゃない」
お姉さまの優しい声が、柔らかい手の暖かさが、わたしの身体に染み込んでいく。
「だから、そんなことを言うのはやめなさい、フラン」
やっぱり、お姉さまはすごい。
わたしに止められない〝わたし〟ですら止めてしまう。
わたしがわたしだと、わたしであっていいんだと、感じさせてくれる。
「あのね、お姉さま」
珍しい、夢を見たの。
〝わたし〟は暗い牢屋に繋がれていて、ずっと独りでお姉さまを呼んでいる。
開くことの無い扉、その先にお姉さまがいるのかもわからない。
でもね、〝わたし〟はずっとお姉さまを呼んでいるの。
わたしはわかったわ。〝わたし〟はわたしなんだって。
フランドール・スカーレットは、あの子とわたしでできてるんだって。
わたしにはお姉さまがいたわ。
今は咲夜も美鈴も、パチュリーも。
霊夢も魔理沙も、外の世界も知ってる。
だけど、〝わたし〟には何もない。お姉さまも、誰もいない。
あの扉の先にはきっと何もないの。
わたしが閉じ込めたんだから、当然でしょう?
〝わたし〟がいたらお姉さまも壊しちゃうから。
咲夜も美鈴もパチュリーも、霊夢も魔理沙も、世界も何もかも。
〝わたし〟が手をぎゅってするだけで、どかーん。
こんな力が無ければいいのに、何度もそう思ったよ。
だからきっと、〝わたし〟はずっと前からあそこにいたんだ。
わたしと同じこの部屋で、ずっとお姉さまを待ってたんだ。
だけど〝わたし〟は消えちゃった。
わたしが外に出ようとしたから、〝わたし〟は居られなくなったんだ。
〝わたし〟がいたら、わたしは外に出られない。
だって何もかも壊しちゃうから。
ねえ、お姉さま……。
「ばか」
そこまで話した時、急にわたしはお姉さまに抱きしめられた。
目を白黒させるわたしがお姉さまを見上げると、お姉さまは涙ぐんだ瞳でじっとわたしを見つめている。
どういうわけかその姿はおぼろげで、水のベールを隔てたように、はっきりしない。
「本当に、ほんとに、ばか」
「お姉さま……くるしい」
「ごめんね、フラン、ごめんね。ごめんなさい」
壊れたレコードのように、泣きじゃくりながらお姉さまはそう繰り返す。
これじゃあまたわたしが壊してしまったみたいじゃない。
〝わたし〟でもないのに、どうしてもわたしは何かを壊したいらしい。
「お姉さま、泣かないで」
「な、泣いてなんかっ……ないっ」
完全に立場が逆転しちゃったけど、こういうのも悪くない。
泣いているお姉さまを抱きしめ返しながら、静かにあの場所に思いを馳せる。
〝わたし〟はまだそこにいるの?
ついさっきの出来事だから、きっとまだそこにいるんでしょう?
どうしてわたしの夢に出てきたのか、ちょっとわかった気がするわ。
でも、もう少し待ってて。
わたしが〝わたし〟を守れるようになるまで。
わたしが誰も傷つけないようになるまで。
何年かかるかはわからないけど、出てきてもお姉さまは渡さないけど。
それまでは、わたしが迎えに行くまで、待っていて。
最後に残った一人は消えるんじゃなくて、誰かと一緒になっていなくなるんだから。
もしかして、着ていない?(違ったらすいません
少々狂った感じが良かったです
hangedではなくmarriedで終わらせるとても心暖まるssでした