Coolier - 新生・東方創想話

ひえだのアレ

2011/09/04 14:01:19
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 この作品は、拙作、「乙女想い涙枯らす天狗の羽根」の設定を若干引き継いでいます。
 といっても、阿求と文が仲良しなんだよということを許容していただければ、特に問題はありません。
 いいよ、気にしないよ、という方は、本文をお楽しみください。











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 阿礼乙女という存在は、私の知的好奇心をくすぐる存在である。それは、彼女が持つ求聞持の能力に魅かれるせいか、あるいは、まさに乙女であると頷かんばかりの、その容姿に魅かれるせいなのか。どちらであるかを決める事は徒労にすぎない。今、私の知的好奇心の矛先は、彼女の発した言葉に向けられていた。

「稗田家、秘蔵の書物、だと?」

 その言葉が差すものは、幻想郷縁起ではない。そもそも、幻想郷縁起は、人間が妖怪から身を守るための資料として編纂されたものだ。秘蔵する意味も、理由もない。では、稗田家が秘蔵する書物とは何か。その中には、一体何が書きつづられているのだろうか。

「……すみません、今の言葉は忘れてください。つい、うっかり口を滑らせてしまいました。あぁ、もう、私ったら、こんな大事なことを漏らしてしまうなんて……」

 目の前には、困った表情で謝罪の言葉を口にする阿求がいる。このまま引き下がるならば、きっとすべてがうまくいくのだろう。しかし、その代償として、私は一つの情報を捨てなければならない。幾度も歴史を喰い、歴史を創ってきた私だが、このたった一つの情報を捨てきることはできなかった。

「すまない、その頼みを素直に受け入れる事は出来ないようだ。どうか、一度だけでもいい、その書物を拝見させていただきたい。」

 深く頭を下げて懇願する。しかし、その行為は阿求の困惑を深めただけだった。頭を抱えて悩む阿求を見るのが居たたまれなくなり、私は一旦願いを取り下げることにした。

「阿求、悩ませてしまったようで申し訳ない。困らせる事が、私の目的ではないのだ。とりあえず、拝見させていただきたいという願いは撤回する。……ただ、やはり、どうしても、その書物について知りたいという気持ちだけは、捨てきることができないようだ。なんでもいい、その書物についての情報を教えてくれ。」

 私も浅はかなものだと、心の中で自嘲する。阿求を見ると、頭を抱える事さえなくなったものの、やはり困惑した表情は消えぬままだった。

「……慧音さん、私から伝える事が出来るのは、出来る事なら、その書物に慧音さんが触れて欲しくないと、私は思っているということです。あの書物に触れてしまえば、きっと、慧音さんは後悔する。たとえ表面上は取り繕っていたとしても、心の奥に、澱のようなものが残ることになる。私は、慧音さんに、そんな思いはしてほしくないです。」

 どこか決心したような顔つきになって、阿求はそう伝えてきた。その眼差しが痛いくらいに真剣で、私はこれ以上頼み込むことができないと知った。軽く溜め息をつき、今度こそ欲求を捨て去る。この時になって、ようやく阿求の表情に柔らかさが戻ってきた。それからしばらくは取り留めもない雑談を交わし、その日は彼女と別れる事になった。


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 数日後、私は再び知的好奇心の欲求に苛まれていた。阿求は言った。その書物に触れれば、心の奥に、澱のようなものが残ると。直接触れたわけでもないのに、今、私の心の中には、何かもやもやしたものが留まっている。
仮に、もう一度この欲求を捨て去ることができたとしたら、再び欲求に飲み込まれるということはないと言えるだろうか。この問いに対して、私の出す答えは「否」だ。阿求の前で一度は捨てた欲求が、今、こうして私を悩ませているのだから。憂いを込めた溜め息をこぼした時、目の前を一陣の風が吹き抜けた。

「どうしたのですか? 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花と称されるほどの慧音先生が、そのような憂いた表情をしているなんて。いやいや、その姿も、まるで月見草のような美しさ。花も恥じらう乙女と言っても言い過ぎではないと、私は思うのです。」

 本当に、天狗は口が達者だと思う。現れると共に、これほどのおべんちゃらを積み重ねるとは。しかし、もしかしたら、これは渡りに船と考えてもいいのではないだろうか。稗田家と文の交流が深いという話は、私の耳にも届いている。もしかしたら、例の書物についての情報も知っているかもしれない。

「乙女は乙女でも、今は阿礼乙女について心を悩ませていたところだ。まったく、阿求が私に与えた情報は、常々私の知識欲を刺激してくれる。すぐに解決するならば、私もこんなに悩むことはないのだが、人を焦らす才にも長けているのではないかと疑ってしまうな。」

 阿求の話を出した途端、文が少しだけむっとした表情を見せた。なるほど、もしかしたら、交流の深さというものは、私が想像していたもの以上のものなのかもしれない。そちらについても詳しく聞きたいところだが、まずはこちらの問題を解決させてしまおう。

「さて、稗田家との交流が深いお前なら、稗田家の秘蔵の書物というものの情報も知っているのではないか? 知っているのなら、その情報を教えていただきたいものなのだが……」

 要求を告げた時、文は少しだけ驚いたような表情を見せた。正直、この反応は予想外だった。これは、まずいことを教えてしまったか。相手は仮にも新聞記者だ。知らない情報、しかも、世に出回っていない情報を手に入れられるとしたら。どんな行動をするかは、考えるまでもない。

「慧音先生、その情報はどこで手に入れたものですか? まさか、私以外の人に、既に話してしまったりはしていませんよね? ……くぅ、こうしてはいられません。すぐに阿求に取材しに行かないと。では、失礼します!」

 ……行ってしまった。止めるべきだったのかもしれないが、こうなってしまっては、もはや私が彼女を止める術はない。私の悩みは、文の取材に阿求がどう対応するのかということに変化していた。ふむ、一時ではあるが、少なくとも、知的欲求の刺激からは解放されたようだ。その意味では、文には感謝するべきなのだろう。風の吹き去った方向を眺め、私は軽く溜め息をついた。


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 考えが甘かったと気付いたのは、翌日、文が寺子屋を訪れた時だった。昨日の、水を得た魚のような活き活きとした表情はそこにはなく、むしろ死んだ魚のような空ろな目に溢れんばかりの涙を溜めこんで、彼女は佇んでいた。訳を問いただそうと口を開いた瞬間、彼女は声をあげて泣き出してしまった。

「うわぁぁぁ、慧音せんせぇぇぇ…… もぅ、わたし、阿求にあわせる顔がありませんよぉぉぉ……」

 昨日の今日だ。原因は間違いなく例の書物。いや、今はそのことを考察している場合ではない。文を落ち着かせなければ。私は、子どもをなだめるときのように、彼女を優しく抱きしめた。

「文、好きなだけ泣くがいい。大丈夫、私が全部受け止めてやるから。お前が感じている、全ての辛さを吐き出してしまえ。」

 天狗のように力の強い妖怪でも、こんな風に泣きじゃくることがあるということに、少しだけ驚きを感じていた。たまに肩を揺らして嗚咽を漏らす文の背中をさすってやると、だんだんと泣き声が落ち着いてきたようだった。
 この頃になって、ようやく考察する余裕が生まれてきた。文は、一体どこまで踏み入ったのだろうか。たしか、昨日は取材すると言って私の所を発った。私の知る限り、彼女の取材というのは、真相を暴くというレベルの話になる。つまり、彼女は書物に触れたということなのだろうか。だが、それがどうして阿求に合わせる顔がないということにつながるのか。これ以上の考察を行うためには、本人から事情を聞くしかあるまい。

「文、どうだ? 少しは落ち着いたか?」

「……はい。なんだか、見苦しい姿を見せてしまいました。申し訳ありません。」

 袖で目を擦る文に、ハンカチを取り出して渡してやった。軽く会釈をしてそれを受け取った文は、改めて、赤くなった目の周りを軽く押さえるように拭い、柔らかな笑顔を返してくれた。ふむ、これなら、話を切り出しても大丈夫だろう。

「さて、少しばかり辛い申し出になるが、どうか、昨日あった出来事を教えてほしい。阿求に取材をして、何を知ったのか。……全てでなくてもかまわん。伝える事が出来ると判断した事だけ、教えてくれ。」

 文の表情が、少しだけ曇った。これは、早計だったか。そう考えたのも束の間、彼女は真剣な表情を取り戻し、私と視線を合わせてきた。彼女がこれほどまで真剣な表情を見せるということは、それほど重大な話になるということだ。私は目を閉じて、深く深呼吸をした。心の準備はできた。目を開き、視線を交わすことでその意思を伝えると、文はゆっくりと語りはじめた。

「……まず、この話をする前に、約束してください。慧音先生には、これ以上深入りはして欲しくはありません。こんな思いをするのは、私が最後でいいんです。よろしいですか?」

 私は静かに頷く。文の言葉の中で、私が最後でいい、という部分が気になったが、今は保留しておこう。私は文の言葉に耳を傾けた。

「阿求にこの話をした時、真っ先に確かめられたことは、どこでこの情報を知ったのかということです。私は、秘密ですと答えました。正直に慧音先生から教えていただいたと言えば、先生にも何らかの影響があると考えたからです。ただ、そこは阿求の事、きっと、情報の提供者の検討くらいはついていたと思います。」

 確かに、外見からは想像がつかないほど、阿求は頭が切れる。今回のような展開であれば、既に私から情報が漏れたと気付いているはずだ。……この情報を知っているのが、今の幻想郷に私しかいないと仮定しての話ではあるのだが。

「その後、私の問いかけに対して、阿求は一切口を開きませんでした。……実は、私にとっては、これが一番堪えたのです。何を聞いてもだんまりの阿求に、私はつい、強がった言葉をかけてしまいました。教えてくれないのなら、稗田家の書庫を自分で探ります、と。思えば、その時見せた阿求の悲しそうな顔が、最後通告だったのかもしれません。」

 つまり、文の追及にも、ついに答える事はなかったらしい。そして、強硬手段に出るという威しをかけた、と。この辺りは、なんとも妖怪らしいやり方だと思ったが…… まさか、行動に移したということなのだろうか。

「お察しの通り、私は、昨日の晩、稗田家の書庫に忍び込みました。そして、例の、秘蔵の書物というものを発見したのですが……」

 文は、そこで言葉を切った。そこから先は、立ち入ってはいけない部分。しかし、これで、少なくとも書物が存在するということは確定した。私は、心のどこかでその存在を疑っていた。だからこそ、欲求を捨てる事が出来た。しかし、ここまで聞いてしまっては、もはや湧きあがる欲求を捨て去ることはできない。

「……すまない、文。最初の約束は、どうやら守れそうにない。私も歴史研究をする身。稗田家の秘蔵の書物の内容というものが、どれほど魅力的なものに思えるかは、お前ならわかるだろう。」

「慧音先生……」

 文の表情が、悲しみに包まれていくのがわかる。その姿が、困惑した阿求の姿を想起させ、少しだけ動揺を覚えてしまった。引き返すとしたら、ここが最後のチャンスなのかもしれない。そう、まだ間に合う。関わった物を悲しませる書物であるならば、すっきり忘れ去って、これ以上関わらないのが良いに決まっている。そうだ、もう、忘れよう。そう決心するよりも、文の言葉が耳に届く方が早かった。

「稗田家秘蔵の書物、それは、『稗田家家訓』というものでした。内容については…… 残念ながら、私の口からは言えません。慧音先生、どうか、これ以上は深入りしないでください。……先生? 聞いていますか?」

 どうやら、完全に知的好奇心の欲求に飲み込まれてしまったらしい。私の頭の中では、今夜、いかにして稗田家の書庫に忍び込むかという構想が練られていた。教師という職を持つものが、このような行為をすることはいかなることか。そんな罪悪感が生まれはしたが、所詮は誤差の範囲でしかなかった。文に感謝の言葉を告げ、私は月が昇るのを待つことにした。


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 気持ちの昂りは、空に浮かぶ満月のせいだろうか。今、私は稗田家の書庫の中にいる。何度か訪問しているおかげで、場所は既にわかっていた。唯一の障害は施錠されているということだが、その程度なら楽に排除できる。施錠されたという事実を、無かったことにしてしまえばいい。下準備は、昼のうちにしておいた。
 手に持った蝋燭の灯りの中、独りほくそ笑む。もうすぐ、私の望むものが手に入る。書庫の本を一冊ずつ手にとり、表紙を見ては元に戻す。その作業を繰り返して行くたび、一歩ずつ、確実に目標の達成に近付いているのだ。
 こんな状況でも、手にとった書物の中には、興味をそそられるものが少なからずあった。それらに対する関心を押し止め、ひたすらに目的の書物を探す。ちょうど、書庫の半分くらいを検索した頃、ようやく、私は出会うことができた。

「『稗田家家訓』…… 文が言っていた書物とは、これのことだな。」

 表紙に書かれた文字を口にする。今の私は、心臓の鼓動は高鳴り、全身が身震いするほどの在り様だ。かつて、これほどまでに気持ちが昂った経験はあっただろうか。思い出そうとしても、思考回路がうまく働いてくれない。早く書物の中身を見たい。思考の全てが、そのたった一つの欲求に収束していた。震える手で、私は頁をめくった。








『ひえだのアレ』








 書物の最初の頁には、確かにそう書いてあった。執筆者、すなわち『稗田阿礼』の名前、ということなのだろう。しかし、執筆された年代を考えると、片仮名どころか平仮名すら存在しないはずの時代であるはずだ。どういうことだ。本当に、これが私が求めていた書物なのか。困惑しつつ、私は次の頁をめくる。








『ひえだのソレ』








 悪い冗談であってほしい。『アレ』ならともかく、『ソレ』とはどういうことだ。稗田家の系譜の中に、そのような名前の人物がいた、ということなのか。……仮に存在したとしても、なぜその人物の名前がこの書物に記されているのか。ますます頭が混乱してきた。それでも、私は頁をめくる手を止める事は出来なかった。








『ひえだのダレ?』








 ……誰なのかという質問は、むしろ私がしたい。執筆者は本当に稗田阿礼なのか。そうでなければ誰なのか。そもそも『稗田ソレ』という人物が誰なのか。このような悪ふざけをするような人物は誰なのかという事を、私は今すぐにでも知りたい。怒りを抑えて、私は次の頁をめくる。








『ひえだのドレ?』








 また質問された。もはや、怒りを通り越して笑いがこみ上げてきた。この書物は、私に何を求めているのだろうか。喜怒哀楽、どの感情を示してやれば気が済むというのだろうか。まさしく『ドレ?』である。驚くべきことに、次の頁にはその答えが記してあった。








『ひえだのコレ!』








「……何なんだ、この書物は!? 本当に、これが稗田家秘蔵の書物なのか!?」

 我慢が限界に到達し、大声と共に感情を外に吐き出した。時代考証はめちゃくちゃ、文章の内容は稚拙そのもの、何の目的で、誰に向けて書かれたものかさえ定かではない。蝋燭の灯りの中、憤りを隠せずに地団太を踏みかけた時、背後から声がかけられた。

「それこそが、正真正銘、稗田家秘蔵の書物ですよ。慧音さん。」

 驚いて振り返ると、そこには阿求の姿があった。既に夜も遅いはず。ここに来る途中、稗田家の人間が寝静まったことも確認した。では、なぜ阿求がここにいるのか。書物から受けた困惑と相まって、ますます状況が判断できなくなっているらしい。

「……時間を忘れるほど、探索に集中していたようですね。今は、既に明け方です。」

 頭に手をやると、なるほど、角はなくなっていた。満月の効果がなくなったということは、阿求の言うことは本当なのだろう。そうか、私はそれほどの時間、書庫の中を探索していたということか。そして、ようやくたどり着いた書物がこれ。情けなさがこみ上げて来て自嘲しかけた時、阿求が近付いてきて、書物の頁をめくった。
 そこに書かれていた内容を見て、私は驚愕した。そこには数え切れぬほどの名前が綴られていたのだ。その中に、比較的新しい筆跡で『射命丸文』という名前が書かれていることを確認した時、阿求は懐から羽根ペンを取り出し、『上白沢慧音』と、私の名前を書き加えた。

「僭越ながら、先生の名前を追加させていただきました。ここに記されているのは、この書物を見た者の名前です。」

 私は、ただ茫然と見つめる事しかできなかった。この書物を見た者が、これほどまで存在するという事実。そして、それらを書き記しているという事実。たった今、私の名前がそこに加えられたという事実。整理してみたものの、それらが何の目的で行われているのかがわからない。もしかしたら、秘蔵の書物と呼ばれる所以も、それが関係しているのではないだろうか。

「阿求、私はこの書物を見るに至った。もういいだろう。この書物について、私に教えてくれ。どのような目的で書かれたのか、なぜ秘蔵の書物として保管されているのか、それを知らなければ、かえって、私は後悔することになる。」

 何度も、これ以上は触れてはいけないと言われ続けてきた。それらの制止を聞きとめていながら、結局のところ、私はここまで来てしまった。最初に阿求が言った通り、既に後悔の念は生まれている。しかし、ここまで来たら、全てを知らなければ気が済まない。頭を下げて懇願する私に、阿求は静かに語りかけてきた。

「まず、阿礼乙女は、慧音さんもご存じの通り『見た物事を忘れない』という、求聞持の能力が備わっています。それは、逆手にとれば、『見た物事を忘れる事が出来ない』という意味でもあるのです。……ここまでは、よろしいですか?」

 私が阿礼乙女に魅かれる理由の一つ。それが、『求聞持の能力』だ。記憶というものは、いずれ消え去ってしまうもの。それが消えないというのは、どれほど羨ましいことか。私はこの時まで、ずっと、そう考えてきた。しかし、今の阿求の言葉には、どこか哀しみの感情が含まれているような気がしてならない。私が軽く頷くと、阿求は話を再開した。

「知的好奇心というものは、誰もが持ちうる欲求です。それは、この世に生を受けた時から、おそらく死を迎える時まで、湧き続けるものでしょう。普通であれば、それでいいのです。ですが、阿礼乙女はそうではいけない。万が一、忘れたいほどの辛い出来事、物事を知ってしまったら。普通の人なら、忘れることで解決できるような事でも、阿礼乙女は忘れる事が出来ない。知ったが最後、転生を行う時まで、その記憶と向き合わなければならなくなるのです。」

 確かに、そうなのだろう。辛い出来事、悩み、それらを解決するために、私たちはしばしば『忘却』という手段を使う。嫌なことは、きれいさっぱり忘れてしまうことで万事解決。そうすることで、心の平穏を保ちながら、私たちは生きている。『忘却』という手段を使えない阿礼乙女にとって、『知る』という行為がいかに危ういことなのか、それは理解できた気がする。

「知的好奇心で、なんでも知り過ぎる事に対する戒めの意味を込めて作成された書物、それがこの『ひえだのアレ』なのです。書物に記された、閲覧者の名前を見る事で、自身に対する戒めを行うようにと、先代の手記には記してありました。」

 先代、つまり、これを記したのは、先代の阿礼乙女ということか。それならば、ある程度の辻褄も合う。稗田阿弥。彼女がこれを記したのはなぜか。彼女にとって、ここまでの事をするほど苦悩する記憶というものがあったということなのか。……いや、これだけで、執筆者を特定するのは早計か。少なくとも、この書物が稗田家代々の阿礼乙女に対しての戒めとして秘蔵されているということはわかった。

「慧音さんは、歴史の編纂を行っていますね。歴史的事実に関する知的好奇心は、人一倍あるはずでしょう。ですから、このように戒める書物に触れてほしくはなかったのです。……あぁ、あの時、私が口を滑らせたばっかりに、こんなことになるなんて……」

 阿求の表情が、次第に悲しみに包まれていく。私のことを想って、これほどまでに心配してくれるとは。やはり、乙女というのは二つ名で留まるものではないのかもしれない。

「阿求、もし、私が後悔の念に苛まれていると考えているのであれば、その心配は無用だ。今はむしろ、心の中にかかっていた靄が晴れて、晴々とした気分だよ。」

 自分の気持ちに正直に、ただ事実だけを告げる。笑顔を向けてやると、阿求はなぜか困惑した顔つきになった。うむ、頭が切れるとは言え、己の視点から逸脱するには、まだまだ幼いということなのかもしれない。

「そもそも、この書物は阿礼乙女にむけて書かれた書物だろう。たしかに、内容は知的好奇心の戒めを目的としたものではあるが、それは、阿礼乙女の特殊性を踏まえたうえで成立するものだ。私は、ただ、この書物がどのようなものなのか、どのような歴史的意味を持っているかを知りたかっただけだ。それを知った今、私には後悔の念など、これっぽっちもない。」

 そして、この記憶は、決して忘れたいと思うような辛い記憶ではない。仮に、澱として、どこか心痛むものが残ったとしても、私にはそれを解決する方法があるのだ。それこそ、阿礼乙女にはできない方法が。

「阿求よ、遅くなってしまったが、勝手に忍び込むという行為を働いたことは事実だ。許してもらえるとは思わないが、謝罪の言葉だけは送らせていただく。本当に、申し訳ない。」

 私の心の中に澱ができたとすれば、勝手に侵入したという罪の意識だ。こればかりは、仮に許してもらえたとしても、ずっと心の中に残るだろう。おそらく、死後の裁判ではこの事実が指摘されるのだろう。深く頭を下げながら、そんなことを考えた。

「……さて、文もこれを見たのだろう? どうやら、私よりも彼女の方が、心に澱を溜めこんでしまったらしい。阿求に合わせる顔がない、なんて、私に泣きついてきたりしてな。だから、そうだな…… 今度会った時は、笑顔で迎えてやれ。そうすれば、文の心の澱は溶けて消えるだろう。」

 そう言うと、阿求は少しだけ顔を赤らめたようだった。このような反応をするということは…… いや、野暮な考察はやめにしよう。この問題は、これから二人が解決すればいいだけの話だ。

「慧音さん、なんだか、私、今回の出来事で、少しだけ学べたような気がします。私は、慧音さんの事を心配すると言っておきながら、私の事しか頭になかったのかもしれません。感謝の言葉を送らせてください。ありがとうございます。」

 この子は本当に頭が切れる。少しだけ、阿求が寺子屋の生徒でなかった事が幸運であるように感じた。しかし、ここは、ちょっとだけ年長者としての威勢を張ってもいいのではないか。

「少なくとも、私は阿求よりは長く生きているのだ。年の功というのは、あながちおろそかにできるものではないということかもしれんな。」

 口にしてから、年に触れるのはまずいか、という考えが頭をよぎったが、阿求の表情が笑顔に包まれている様子を見て安心した。知識に限らず、余計なことは、何の火種になるのかわからない。この点は、私も意識して行かなければいけない事だろう。

「では、私はこれで失礼させていただく。そうだな…… 願わくば、この書物にこれ以上の
名前が追記されないことを。」

「はい、でも、それもなんだかさびしいですね。実は、少しだけ、私も楽しんでいた節がありますから。やーい、ひっかかった、みたいな感じで……」

 ……うむ、前言を撤回すべきだろうか。いや、私にとっては、もう済んだことだ。阿求にとって、この書物をどう使うのかは、私が口を挟むことではないだろう。では、私はこの出来事をどのように処理するのが正しいのだろうか。
……そうだ。知的好奇心の塊のような奴がいるではないか。あいつなら、きっとこの話に食いついて来るに違いない。悪戯心を心の中に抱きつつ、私は稗田家を後にするのだった。
9月8日 あとがきを修正いたします

 >>3様のコメントが心に深く残りました。今回の慧音の行動を振り返ると、欲を満たすためなら何でもやる、罪悪感を感じたという表記はあるものの悪びれた様子は感じられない、被害の拡大は望まないと言っておきながら自らが被害を広めようとしている、など、クズ同然と言われてもおかしくないと反省しました。
 自分が考察できたのはここまでです。他にも、ここが気に入らない、この部分はおかしい、という点がありましたら、指摘していただければと思います。
 不快な思いを抱かせてしまいましたこと、謹んで謝罪致します。
kirisame
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コメント



0.320簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
こうしてドンドン広がっていくのかw
3.10名前が無い程度の能力削除
これほどクズ同然の慧音は珍しいですね。
6.90ほっしー削除
これは酷いwww
9.90りんご削除
泣く文も演技だったんでしょうかね。