「――ねんねこねんねこおねんねや お里の子らよりなお可愛い」
これは、子供ができてからしょっちゅう歌う子守唄だ。うろ覚えだけど、何故か歌えるので子をあやすには丁度いい。
出産祝いで八雲家に貰ったタオルケット、という軽い毛布をお腹にかけて、私はお布団に仰向けになって寝ている幼い体をぽんぽんと叩いて寝かしつける。
まだ生えてきたばかりの髪の毛は絹糸の様に細く、手足はまだ小さく握られている。それでも昼間は元気に動かし、触るとあったかい。
張り替えたばかりの畳の匂いが心地いい部屋。開け放たれた障子からは、昼間の暑さを冷ますには嬉しい山間部特有の涼しい風が吹いている。
「霊ちゃんのお布団、ここでいい?」
そんな声に振り向くと、結婚相手の母、つまり霧雨お義母さんが夏用の布団を持って立っていた。
「あ、ごめんなさい。わざわざ……」
「いーのよいーのよ。子育て大変なんだし、実家なんだからゆっくりしていくといいよ」
そう言って、お義母さんはいそいそと布団を隣に敷いた。
私は今、魔理沙の実家である霧雨店にいる。
霊沙(れいさ)を出産して4ヶ月あまり。私は神社で子育てしていたが、そろそろ霊沙を魔理沙のご両親に引き合わせたいと、私は魔理沙に相談した。
案の定、魔理沙は嫌だと口で言うよりわかりやすい嫌な顔をしていた。
そこで「子供が生まれたのに、お盆どころか正月も帰らないつもりなの」と強く出たら、渋々了承してくれたのだ。
こうして、もう2週間もお世話になっている。
ちょっとした里帰りの範疇を超えているが、お義父さんとお義母さんがあと2ヶ月は居なさいと言っていた。
よっぽど霊沙が可愛いらしい。
博麗の巫女の愛娘、霊沙はどこに行っても歓迎された。
特に出産後、永遠亭から初めて外出許可が出た時の、紫のハッチャケぶりは凄まじかった。
「初孫よ」
そんな冗談みたいな台詞と共に、私と霊沙を人里中にスキマを駆使して紹介して回ったのは少し恥ずかしかった。
文も取材に来たが、そっちは気持ち悪いくらい馬鹿丁寧な態度で拍子抜けした。
「かわいいわ」「霊沙、いい名前だね」「あはは、笑ってる」
それでも周囲のあたたかな言葉はとても嬉しく、親として誇らしかった。
「いやぁ。霊夢も、お母さんらしくなったね」
だが、こんな話題には曖昧に頷くだけだった。
霊沙が生まれてから、胸にある小さな違和感が原因だ。
「それにしても霊沙ちゃん。霊ちゃんに目元とかそっくり」
お義母さんが霊沙を起こさない様に隣でそっと言う。
「そう、かな」
「そーよ。ウチの跳ねっ返りに似なくて美人よ。ねー、よかったねぇー」
「お義母さん……そんな言い方は……」
「いや、事実でしょ。まったく、こーんな可愛い嫁と娘ほっぽって、何やってんだか」
さすがに私も苦笑が漏れる。
ここを訪れた当日、魔理沙は駄々をこねていた。
やれ部屋を掃除したいだの、やれ神社の留守が心配だのと散々出発を引き伸ばし、挙句に「やっぱり行くのやめよう」と言い出す始末。
そんな煮え切らない態度に私はカチンときて、「じゃあ私と霊沙だけで実家に帰らせていただきます」と三行半の様な台詞と魔理沙を神社に残して、プリプリ石段を降りてきた。
それで申し訳ない顔をして霧雨家に事情を説明したら、返ってきた言葉は「……やっぱりね」だった。
「でも、普段はこんな薄情じゃないですよ。
身重で巫女の仕事ができなかった時、魔理沙は徹夜で勉強して私の仕事を手伝ってくれたんです。
それで夜中に私が夜食のおにぎりを持って行ったら、神妙な顔で『お前一人の体じゃないんだから、無理するな』って怒られました。
それでも、美味しい美味しいて食べてくれて、ただの握り飯なのにもぅ」
そう魔理沙を擁護するエピソードを話していたら、知らぬ間に頬の筋肉が持ち上がっていた。
そういえば、ちゃんとご飯食べているのかな。明日連絡してみようかな。
はっ、と気づいたら、お義母さんがにまっと笑っていた。
「んふふ、夫婦円満で結構結構。
ウチの娘は幸せ者よ。こんなに想ってくれる人と一緒になれたんだもの。
こりゃ霖之助さんが入り込む余地はないわよねー」
「お義母さん!」
「あはは、冗談よ。それじゃおやすみ」
そう言ってお義母さんは鼻歌まじりにふすまを閉めた。
お義母さんは一言で言えば豪快でさっぱりした人だ。
私達が結婚することを決めてお義母さんに挨拶に行った時、私は猛反発を食らうか、最悪殴られることも想定して異様に緊張していた。
ところが、お義母さんは目をぱちくりした後、本当に楽しそうに笑い声をあげてあっさり承諾してくれた。
お義母さん曰く、「ガチガチになりながらも手を握り合っていて、それで認めてくれるまで帰らない、なーんて腹括っている二人に間違いはないわよ」とのこと。
以来、お義母さんは私のことを霊ちゃんと呼んで、気さくに話を交わしている。
初めはその特有の空気感に戸惑ったりしたが、よく触れ合うごとにそのざっかけない雰囲気が、どことなく魔理沙に似ていることに気づいた。
やっぱり遺伝なのかも。そう思うと人間の順応能力は優れたもので、自然にお義母さんと打ち解けることが出来て、今に至る。
「もう寝ようかな」
そう呟くと、私は洋灯の火を絞って布団に潜り込む。
暗がりに沈む部屋。その闇を四角く切り取る開け放たれた窓の外には、幾数億もの星が瞬いていた。
じっと見ているとその星々が落ちてきそうな感覚にとらわれ、今でもその風景に圧倒される。
そういえば、このサテン布を光にかざした様な大量の星は、魔理沙が弾幕に好んで使用するモチーフだ。
一見少女趣味の繊細な弾幕になりそうだが、この夜空を見上げると、その力強さの源になる理由がわかる。
流星、輝星、十重二十重の光道。
どちらかといえば結界を構築したり、御札で動きを封じる『静』の弾幕が得意な私は、魔理沙の『動』の弾幕に手こずりギリギリの攻防を繰り広げたこともあった。
しかし、私は同時にその輝きに惹かれていった。
ちょっと意識していた友情が愛情に変わった日、私達は魔理沙の家の屋根にいた。
その日も空気が澄んだ満点の星空で、私達は逢瀬を兼ねた天体観測をしていた。
白い息を吐いて、得意そうに星座や宇宙の薀蓄を披露する魔理沙の横顔はとてもキラキラしていて、私は上空ではなく横ばかり見つめていた。
ふと、そんな不躾な視線に気づいたのか、魔理沙は急に真面目な顔になって私の視線を捕らえた。
その後の言葉は、一言一句思い出せる。
「なぁ、霊夢。星っていうのは、様々な法則や規則に従って公転しているんだけど、たまにそこから外れて予想外の動きをする星がいる。
所謂流れ星ってやつだ。
よく星の動きを運命に例えるけど、そいつは大きな運命の中で自由にちょっとの反抗を見せているみたいで、私は嫌いじゃないぜ。
でもな、そんなはぐれ星にも、ちゃんと運命ってやつは行き先を教えてくれるらしい。
霊夢。私は北極星に出会ったんだ。大空で孤独な流れ星を導く羅針盤。
そして、私の世界の中心。
……私はいつか燃え尽きるまで、霊夢の傍にいたい。霊夢無しの世界は考えられない。
だから、その……私と結婚してくれ。霊夢と私の子供が欲しいんだぜ!」
今までのムードも順番もすっ飛ばした求婚の言葉。後で聞いたら、頭がチカチカしていて何て言ったか自分でもよく覚えていないらしい。
それでも、私は魔理沙の胸の中で、その言葉を受け入れた。
ふと、一陣の風がさあっと肩口を撫でる。いくら夏とはいえ、夜は割と冷え込む。
私はそっと布団から出て、障子を閉めた。
そのまま霊沙の布団を覗くと、小さな口でパクパク呼吸し、すやすやと眠っている。
ほんの少しだけ魔法の力を借りて、私達の所へやって来てくれた、私と魔理沙の愛の結晶。
霊沙は本当に可愛い。私の宝だと言い切れる。この子のためなら、何だってできる。
でも
少し胸がちくりと痛む。
おしめを変える時。おっぱいをあげる時。夜泣きがひどい時。体を拭いてあげる時。
私の胸に抱いている時。私は不安に囚われる。
そのことを考えまいと思っても、心の違和感は澱の様に溜まっていく。
これでいいのだろうか。ちゃんと子育てできているのだろうか。
考えすぎかもしれない。でも、そんな漠然とした負の感情は凝り固まり、恐怖にも似た影を落とす。
「……魔理沙」
私を安心させる笑顔で答えてくれる存在は、今日もいなかった。
――◇――
翌朝。
相変わらずみんみん蝉は忙しなく鳴いていて、まだまだ夏の盛りであることを実感させられる。
私が朝食を終え洗濯をしていると、懐の陰陽球がぶるると震えた。
地下に潜っても使える通信機の片割れを、私はただ一人にだけ預けている。
私が「はい、もしもし」と口元で返事をすると、陰陽球から期待していた声が紡ぎだされた。
『もしもし。元気か』
「ええ。それはそれは良くしてもらっているわよ。魔理沙こそ、ちゃんとご飯食べてる?」
『ああ、まぁな』
返答のトーンから察するに、ちゃんと作って食べてないのかもしれない。
私が料理担当だから、すっかり自炊をしない癖がついてしまっているのだ。
「ところでどうしたの、こんな朝早く」
『いや、何ていうか……一人で神社にいても寂しくってさ。
霊夢と霊沙の顔も見たいし、そっちに行きたいなぁ、って』
「もう、やっとその気になったのね。それで、いつ頃来てくれるの?」
『そりゃ、あの……』
急にもごもごと口ごもる魔理沙。しばらく球越しに逡巡する気配を感じたが、ついに声をひそめて魔理沙はこう尋ねた。
『……親父、今日家に居ない時間帯ってあるか?』
「無いわよ! ここは自宅なんだから、居てもいいでしょ」
「『なっ!?』」
いつのまに横で聞いていたのか、陰陽球を掠め取ったのはお義母さんだった。
「お義母さん……」
「まぁまぁ」
『その声はお袋か。……いや、だってさぁ』
「だってもあさっても無い!
まったく、結婚の挨拶もお父さんが留守の時を狙って来たり、いつからそんな姑息な娘になったのよ。
いつまでも逃げてないで、ちゃんと顔見せなさい!」
お義母さんのストレートなお説教に、魔理沙はぐっと言葉に詰まる。
『……別に、逃げてなんか』
「だったらちゃんとここに来て、お父さんにも挨拶なさい。わかったら返事」
『……はい』
「よろしい。じゃ、待っているからね」
そう締めくくって、お義母さんは陰陽球を私に返す。通信はもう切られている様だ。
「霊ちゃんごめんなさいね。勝手に取っちゃったりして」
「いえ、そんな」
「どうしても一言言いたかったのよ。こうでもしないと、あの子は一生決心がつかないから」
そうやれやれと愚痴を漏らして、ため息をつく。
「でも、ちゃんと来てくれるかなぁ」
「来るわよ。挑発されて動かない程、あの子の血は冷たくないのよ。
第一、これでも帰宅をつっぱねる頑迷な娘と、霊ちゃんは結婚しないでしょう?」
お義母さんはニヤリと笑い、私は苦笑いしか出なかった。
さすがに魔理沙の扱い方をよく知っていて、勉強になる。
魔理沙とお義母さんは別段仲が悪いという訳ではない。
私達が結婚してから、魔理沙は私の神社でぽつぽつお義母さんと会う様になった。
本人は「折角来たんだからな。世間話くらいはつきあうぜ」と強がっているが、生活の悩みや不安な事も相談しているあたり、なんだかんだで人生の先達として頼りにしているのだ。
そしてその相談事の中には、お義父さんとの関係も含まれている。
お義母さんも心を砕いてはいるが、未だに実家のじの字を口に出しただけで会話をはぐらかす魔理沙だ。
もう、お義父さんとの仲は修復不可能なのだろうか。
「それに、魔理沙にはなるべく早く来てもらわないとね」
「え?」
「二週間も旦那に会ってなくて、寂しかったでしょ。
何か、霊ちゃん気分が沈んでいるみたいだし……そーゆー時は思い切り甘えるといいよ」
そう、お義母さんは器用にウインクをする。
「もう。お義母さんったら……」
気づいていたんだ。やっぱりお義母さんには敵わない。
でも、違う。
私が悩んでいるのは、もっと違うことだ。
それは自分自身への疑問。母親であることの違和感。
私は両親の、母親の愛情を知らない。
私の両親、すなわち先代の巫女と神主は、私が赤ん坊の時に相次いで急逝したと聞く。
当時の状況はおろか、顔だって記憶にない。
私が物心つくまでは紫が親代わりだったが、それでも母親の愛情とはどんな物かを考えると、霞がかった様に分からなくなる。
そんな私に母親が務まるのだろうか。
ちゃんと愛情を注いであげられるのだろうか。
そんな気持ち。
いけないと思いつつも、モヤモヤが燻ったまま夕方になった。
気持ちを切り替えようと夕飯の手伝いを願い出た頃、玄関先から声が聞こえた。
「た……たのもー。た、の、もー」
「……それは道場破りでしょうが」
お義母さんがこめかみを抑えて首を振る。私も「ははは……」と笑って誤魔化しておく。
「まぁ、あれでも可愛い義娘の旦那だし、迎えにいってやりますか」
そして私は霊沙を抱いて、お義母さんと玄関先まで歩いていった。
「久しぶりね」
所在なさげに立っていた魔理沙にお義母さんが言ったそれは、早くも三途の閻魔様が小言する時の空気を孕んでいた。
「あー、お袋……ただいま」
「私としては二週間前に聞きたかったわよ。出産の挨拶に夫婦が揃わないって、どういうことなの」
「いや、まぁ……戸締りが心配だったんだぜ」
「本当にもう。お父さんもいつ来るのか、って待っていたのよ。
そうそう。お父さんはちゃんと部屋にいるから、約束通り顔ぐらい見せてあげなさい」
刹那、魔理沙の顔が強張る。
嫌悪とか敵意とか、あからさまなものは発散していないけど、触れてはいけない物に触れた様な異質な緊張感が辺りを包む。
私はハラハラしていたが、言うべきことを最初に話してすっきりしたのか、お義母さんは私に正面を譲った。
「お帰りなさい、魔理沙。ほら、霊沙もお帰りなさいって」
私は抱っこした霊沙を半回転させ、魔理沙に顔が良く見える様にする。
霊沙も魔理沙が分かるのか、あーあむーと喃語を発して破顔する。
途端、魔理沙の目尻が下がった。
「おー、霊沙。元気だったか? 寂しかっただろ」
魔理沙が顔を近づけると、額をぴしぱし叩かれる。
「なーんか、私の時と感じが違うんだけど」
置いてけぼりのお義母さんが、口を尖らせて不満を訴えた。すると魔理沙は、まるで無知な子供に教え諭す様な口ぶりで、一言。
「当たり前だろ」
「なんだとぅ」
「なんだよ」
「はいはい。魔理沙、お風呂まだでしょ。すぐに沸かすから、先に入ったら?」
私は話題を変えて二人の仲裁にかかる。
魔理沙とお義母さんは、会うたびにこうした漫才じみた小競り合いをしている。
軽いコミュニケーションだぜ、なんて語ってはいるが、実際大人気なく火花を散らすのは勘弁して欲しい。
「ああ、そうするぜ」
「それじゃ荷物を」
その時、突然霊沙が不機嫌にぐずりだした。
「どうしたの? ……あ、おしっこしちゃったのね。
魔理沙、私おしめをかえてくるから、部屋に上がって準備してて」
「うん、わかった」
そして一旦戻ろうとしたその背後で、お義母さんが魔理沙を引き止める声がした。
「魔理沙。ちょっと――」
先ほどとは違い、穏やかな口調だった。
少し気にはなったが、霊沙に抗議の泣き声を上げられ、その事は記憶の隅に追いやられた。
夜。
昨日まで二人で寝ていた部屋に、親子三人が川の字で横になる。
霊沙が真ん中で、私と魔理沙が挟む様に寝る。それを中程度に絞った洋灯が橙色に照らしていた。
なんだか、部屋が小さくなったかのように感じる。
三人に増えたからとかじゃない。
昨日まで空間が多くて落ち着かない空気だった部屋が、今は形容が難しい安堵感でほんわかと包まれている。
そう。魔理沙がいるだけで、どこでも満たされた場所になる。
「――よかった」
「ん?」
私が小さく呟くと、魔理沙がこちらを向く。
「魔理沙が来てくれてよかった」
「そう? そりゃあ、苦労して来た甲斐があったんだぜ」
「……ふふふ」
「今度はなんだ?」
「実家に帰るのに『苦労して』は変だな、って」
「そうか? ……割と大変なんだぜ」
そう言って、難しい顔をする魔理沙。
多分私と同じで、今日の夕飯を思い出したのだろう。
食卓に、お義父さんの姿がなかった。
私がお風呂を焚いている時に挨拶していたみたいだけど、結果はあまり芳しいものではなかったらしい。
激昂して口喧嘩になったとかいう派手な状況にはならなかったが、どうにもぎこちないまま顔合わせが終わったとのこと。
「まったく。お父さんも魔理沙も頑固者なんだから」
お義父さんに夕食を届けたお義母さんは、そう呆れた様子で語って食卓に着いた。
魔理沙も「これで飯が美味くなるわな」なんて暴言飛ばして、お義母さんにお玉でパカンと殴られていた。
いつもの漫才の様だったが、その顔には哀しみともどかしさが入り混じっていた。
「……大変じゃ、ない。皆、魔理沙が帰って来るのを心待ちにしていたのよ」
魔理沙は、無言。
魔理沙とお義父さん。二人の間にどんな確執があったのか。
魔理沙が話したくない事まで干渉しない私は、そこの所はよく知らない。
でも、このままじゃいけない、って二人が思っている事はなんとなく分かる。
お義父さんは滞在中、魔理沙の様子ばっかり話題にしていたし、魔理沙だって口では色々言うけど、結局はいつも気にかけていることの裏返しなのだ。
きっと、互いの距離感と、この関係を変えるきっかけが掴めないだけなんだと思う。
だけどそれは、私達の結婚や出産程度では変えられない程分厚い壁だったのだろうか。
両親がいない私には、想像できない程の難問なのだろうか。
そう思うと、私も少し哀しい。
「今日は霊沙もご機嫌だったよ」
私は霊沙のタオルケットをかけ直し、よだれを拭いてあげる。小さく上下する胸がなんとも可愛らしい。
「そうかぁ」
対する魔理沙は自分の髪の毛を手櫛で梳きながら、満更でもない顔になる。
魔理沙のそういう感情がすぐ表に出て、表情がくるくる変わる所も昔と同じで可愛らしい。
「それじゃ、霊夢はどうだった?」
ちくり、とまた違和感がはしる。
「……私」
「そう、ご機嫌だった?」
「私は……」
数瞬、間が空く。
「ご機嫌だったよ」
違う。私はご機嫌じゃなかった。
「……何か、悩んでいる事でもあるのか」
私は言葉を詰まらせた。
すると魔理沙が手を伸ばして、私の前髪をさらさらと撫でる。
温かくて心地良い。
「何でも話してくれよ」
「……ううん、何でもない」
私は考えを巡らせたが、結局言わなかった。何だか、甘えたくなかったのだ。
「私の問題だと思うから」
すると、魔理沙は手を引っ込めた。温もりも立ち消え、ちょっと残念。
「そっか……おやすみ」
「うん、おやすみ」
そう寝る前の挨拶をして、私は灯を消した。
暗闇の中、私は胸に手を当てる。
何で皆わかっちゃうんだろう。ちょっと悔しい。
でも、そんな心遣いが嬉しかった。
――◇――
それから二、三日。魔理沙も霊沙の面倒をよく見てくれて、私はのんびりとしていた。
「山菜採りに行かないか」
そんな午後に、魔理沙がこんな提案をしてきた。
「霊沙の面倒はお袋が見てくれるってさ。西の裏山なんだけど、どう?」
「それはいいけど、魔理沙は場所を知ってるの?」
西の裏山くらいは分かるけれど、私が言いたいのは山菜が生えている箇所のことだ。
山菜の生えている場所は限られているため、大抵はその家の秘密になっている。
大袈裟かもしれないが、舞茸の発生地などは親が死ぬ時のみに子へ口述するくらい堅い秘密なので侮れない。
すると魔理沙は、へっへっへと獲物を手に入れた狩人のようにニヤついて、懐から魔道書を取り出す。
魔道書といっても手帳ほどの大きさで、中身も魔法の文言と日々の書き置きが半々くらいの雑記帳だ。
「お袋がな、『絶対に秘密だぞ』なんて言いながら教えてくれたんだぜ」
そうページをめくって、場所の特徴を確認している。
へぇ、と私は感心した。
家の秘密を教えてくれるのだ。少し実家との距離が縮んだのだろうか。
「その代わり、魔法の森の茸群生地帯を吐かされたけどな……」
はぁ~、と肩を少し落としてうなだれる魔理沙。
……やっぱり、親子だ。ちゃっかりしている所がそっくり。
「ま、ともかく。暑いけど出ようか」
西の裏山は神社から遠くてよく知らなかったが、結構大きめの山だ。
だが、その上にはもっと高い入道雲が誇らしげにそびえている。
暑さはこの時間になってもまだ引く気配が無く、日差しも強かった。
私達は山に降り立つと、秘密の場所に向かって山道を分け入った。
山道の横に立ち並ぶ木々は、一年で最も強い日の光を逃さない様目一杯枝葉を広げている。
時折吹く風が、深い緑と土の匂いを運んできた。
「霊夢、大丈夫か?」
「うん、平気」
魔理沙が配慮の声をかけてくれた。
確かに、木の根っこが節くれ立つ様に飛び出して歩きづらい道ではあったが、生い茂る天然の日よけのお陰で汗はほとんどかいていなかった。
こうして眼前の森を観察してみると、木々は雑多に生えている様で、実は一定の法則に従って群生している様に感じた。
その証明の様に、蝉はジウジウと同じ調子で大合唱している。
しばらく歩いたところに、その場所があった。日当たりや風通しも問題ない、好条件が重なった地点だ。
そこは斜面のところが丁度拓けていて、振り返ると幻想郷の全景を一望することができた。
すり鉢みたいな盆地の底に、民家と青々と茂る田んぼが小さく見て取れる。
比較的大きなあの家はさっきまで居た霧雨店。
あの陸揚げされた帆船状の建物は命蓮寺。今日は遊覧飛行をやってないみたいだ。
迷いの竹林の万年竹はざわざわと風にゆれて、外見だけは夏の情緒をかもし出している。
噴煙たなびく妖怪の山も、飛び回る天狗の姿まで確認できそうだ。
遠くにぼやっと見える紅い屋敷は紅魔館だろう。この距離でも目立つ。
その近くにあるのが、魔法の森。魔理沙の一人暮らし時代を過ごした場所。
あの家は当初、もう必要ないからマスパで更地にするか、なんて豪快で短絡的な案が出ていたが、結局魔理沙の蒐集物を収める倉庫に落ち着いた。
その管理はアリスがしているという。
……アリスかぁ。パチュリーと結託して、泣きながら結婚式に殴り込みをかけられた思い出がもう懐かしい。
あれ以来気まずくて、すっかり疎遠になっちゃったなぁ。今度時間を作って会いに行こう。
そして、ここからは見えない東の果てに、我が博麗神社が存在している。
留守は魔理沙が紫と藍に任せたって言っていたけど、大丈夫かな。
飼ってる金魚……全滅させたりしないよね。帰ったら稲荷神社に鞍替えされてたりして。
そんな一軒一軒の家には生活があって家族がいて、私はその日常を現実的に考えることができる。
しかしこう俯瞰的に眺めると、盆地のはるか上空に鎮座する入道雲と相まって、その日常系が希薄に感じられる。
その対比が不思議だった。
「あ、見っけ」
が、今はそんな哲学より足元の食料が優先。
フキを見つけたので、手折って籠に入れた。
他にもミズ、コゴミ、ヤブカンゾウといった食べられる山菜をたくさん見つけて私は上機嫌になる。
山だけど大漁って感じだ。
一方の魔理沙は、茸は詳しいけど山菜は専門外なのか、いちいち図鑑と照らし合わせているため採る頻度が遅い。
それでも日がだいぶ傾くまで粘った結果、ほとんど私の採った物だが、夕食は大丈夫になった。
もう油蝉やミンミン蝉の声は鳴りをひそめ、ヒグラシに交代しつつある。
「そろそろ下りようか」
「おお、そうだな。でも、少し休憩していかないか」
私の提案にそう返す魔理沙。疲れがたまっているみたいだ。
「もうちょっと行った所に沢があるんだ。そこで休もう」
ざざざざざ、と小さな滝が流れ落ち、その一角はとても快適な涼しさに満ちていた。
川べりで透き通る水を手ですくって飲む。キンキンに冷えた水は、それだけで火照った体を潤し癒した。
手近な所に腰を下ろし、私達はしばし休む。
「ふぃー。今日はいっぱい採れたな」
「そうね。これだけあれば天ぷら、おひたし、炊き込みご飯もいいし、お醤油に漬ければ明日も食べられるわ」
私がご馳走の内訳を列挙すると、魔理沙のお腹がぐぅと鳴った。
「やだ。魔理沙、そんなにお腹減ってたの?」
「ははは。お腹もそうだけど、私は霊夢の料理に反応したんだぜ。
霊夢の料理は美味しいからな、腹も分かってるんだぜ」
「もう。褒めたって何も出ないわよ」
「いやいや。霊夢は芯が強いし、何よりお互いのことをきちんと理解して尊重し合っているだろ。
私ゃ霊夢みたいな嫁を貰って、すごく幸せなんだぜ」
そうお世辞とかじゃなくて、本気で思っている内容を真面目に話す魔理沙。
……もう、折角体が冷えてきたのに、また熱くなるじゃない。
「霊沙も、いいお母さんで幸せだぞ」
瞬間。
その一言で、さっきまでの惚気た余韻がいっぺんに吹き飛んだ。
私の中の違和感が膨れ上がり、喉元までせり上がってくる。
「……違う。私……そんな……」
気が付けば、そんな言葉が出てきた。いや、吐き出した。
「そんな謙遜しなくても……」
そこまで言って、様子が違うことを察した魔理沙が口を噤む。
「私……いいお母さんじゃない……違うよ」
それから私は「違う」と2回程呟く。自分の顔が硬直しているのが分かった。
「……私、不安なの。
私はお母さんの愛情を知らない。お母さんと喋ったり、抱っこされたかどうかも分からない……
そんな私が……霊沙をちゃんと育てられるのかな……って」
私は裾をぐっと握り締める。魔理沙は私の吐露をじっと黙って聞いてくれた。
「そっか。それでこの前から、ずっと悩んでいたんだな」
「……うん」
魔理沙はしばらく黙って何かを考えている様だった。
「……霊夢。愛情、って何だと思う?」
ゆっくりと紡がれた問いに、私は俯くのをやめる。
「一緒に過ごした時間。楽しくて暖かな思い出。お金や物を与えること。
こういうのが愛情って言われるけど、私はこう思う。
『自分の子供に残したもの』が愛情なんだ」
「残した……もの……」
「そう。この子は自分が確かに育てたっていう証。その子の中に息づく親の面影。
そういう朧げかもしれないけど、心に深く根を張った残滓が重要なんだと思う。
優しい親から、人を大切にする子供が育つ。頑固な親から、これまた我の強い子供が育ったりする。
残すものの形はそれぞれだけど、それが地味でも輝きを放てば、子供も、その次の世代までも受け継ぐ愛とやらは、確かに存在するんじゃないかな」
私は、魔理沙の話に聞き入っていた。さっきまで鳴いていたヒグラシの声も聞こえなくなる。
「……私にも、それがあるかな」
「あるさ。考えてごらん、お母さんの気持ちを」
「お母さんの気持ち――」
私は、ゆっくり瞼を閉じて考える。
――風景が、流れ込んでくる。
何だろう。視界が白くぼんやりして、辺りがよく見えない。
でもよく目を凝らすと、見覚えのある軒先が見える。
これは、博麗神社の軒だ。神社の縁側にあお向けに寝ていて、見上げているみたい。
辺りには誰もいない。私は急に不安になった。私は、声を上げて訴える。
誰か来て! 怖いよ!
だが、そう言ったつもりでも、私の口からは喉を枯らした様な大音量の泣き声しか出てこない。
ふ、と目の前に人型の影が差した。
その影は私をひょいと持ち上げ、腕に抱く。
「あ~、よしよし。泣かないで~。私の方が悲しくなっちゃうわよ~」
近づいた顔はたっぷりと長く真っ直ぐな金髪に、紫水晶の瞳。蠱惑的な唇から必死にひょうきんな口調のあやし言葉を発している。
ひょっとして、この人は紫?
ゆらゆらと体を揺らしてくれるけど、はっきり言ってあんまり嬉しくない。
ますます意味が分からなくて混乱し、その感情が相乗してわーわーと訴えを荒げてしまう。
「ああもう……どうしましょう……」
「――火に油を注がなきゃいいのよ。ほら、私に代わりなさい」
もう一人、誰か来た。顔が遠くにあって判別できないけど、巫女装束を着た女の人だ。
その人はオロオロとうろたえる紫から私を抱き上げ、紫と同じようにその胸に抱く。
それだけなのに、私の荒れる心は一瞬で凪いだ。
柔らかくて、温かくて、いい匂いがする。
ぽんぽん、って優しく背中を叩かれるが心地いい。ずっと、こうしてもらいたい。
私は、無意識に感じた。
これは、私の元始の記憶。
そしてこの人が、お母さん。
「さすがね。すぐ泣き止んじゃった」
「胡散臭いのを感じ取ったから、あんなにぐずったんじゃないの」
「あらご挨拶」
紫はお母さんと談笑している。私は、お母さんの胸元を見ながらそれを聞いた。
「霊夢は元気ね」
「ええ、私に似て快活よ。最近寝返りも覚えて、ばしばし転がっているわ。
控えめで体弱かったウチの旦那も、草葉の陰で喜んでいると思うわよ」
そうケラケラと笑うお母さん。でも、紫は笑わなかった。
「調子は、どうなの?」
「……うん、今日は気分もだいぶ楽。だけど、明日はどうだか分からない」
「…………」
「紫」
「何?」
「私にもしものことがあったら、霊夢のことお願いね」
「やめて頂戴。そんな話は」
珍しく紫が感情を露わにして声を張る。だが、お母さんは静かに食い下がった。
「真面目な話よ。紫、私は未練なんてほとんど無い。
旦那は私より早く逝っちゃったけど、『幸せだった』って言ってくれた。
決闘ルールのお陰で妖怪と人間の関係は、紫と私がこうやってお喋りできるくらいには良好。
それに、博麗を継ぐ者もいる。
ただ、夢想封印だけはまだ継がせる訳にはいかないから、時が来たら紫が手ほどきしてやって」
そう、夢想封印発動の仕方やコツを書置きした場所を告げる。
紫は唇を噛んだ。
妖怪である自分に奥義の真髄を教える程、彼女は自分を信頼している。
そんな稀有な存在は、『その時』まで自分が居ないことを自覚していた。
「あなたね……人間のくせに人生を憂いすぎよ」
「あなたも、妖怪のくせに感情移入しすぎ」
紫が感情を押し殺して何とか言葉を発し、お母さんが飄々と語るのはなんだかあべこべに思えた。
「ただね。ひとつだけ心残りがあるの。
これは、私のわがまま。自分勝手な感傷だと言ってもいい」
急に、お母さんの雰囲気が落ち込む。
さっきまでひまわり畑の真ん中で喋っていたのが、突然無縁塚の紫桜の前で泣き言を漏らす様に。
「私は……霊夢に『お母さん』を教えられなかった」
「料理や裁縫を一緒にしたり、綺麗な服を買ってみたり、私の恋や旦那の馴れ初めなんかを話したり。
たまには怒って、いっぱい笑って、花嫁衣裳を本人より真剣に選んだりして……
そういう、女の子の部分を育む役目を全うしたかった……」
声が震える。抱っこする腕に力がこもる。でも、決して涙は見せなかった。
脆いけど、強い母親だった。
「……だからね、紫。なるべく、霊夢を見守ってあげて。
しかるべき相手に愛を囁かれた時、それをきちんと受け止められる様に、ね」
「……わかったわ。
でもね、私は特にいい加減な部類に入る妖怪なの。
だから、そんな奴に頼んで安心しないで、あなたはちゃんと長生きするよう努力しなさいよ」
「ええ、もちろん」
そう微笑むように、肩をすくめる動きを感じた。
すると、意識がすぅーっと混濁し始める。
なんだかぽやぽやと宙に浮いている様な気分で、しかもその気分に体を任せたい欲求が頭を支配する。
「あらあら、霊夢はおねむみたい。きっと眠くて不機嫌だったのね」
そう分析して、お母さんは縁側の揺り篭に私を移す。
その時、私はお母さんの顔を至近距離で見つめることができた。
切れ長の目に揺れる黒曜石の瞳。すっと通った鼻筋と桃色の唇。
肌の色は体調のためか元々なのか、青白く感じるくらいに白く透き通っている。
長く伸ばした艶やかな黒髪を束ねるのは、私が結んでいるものと同じリボン。
快活だと本人が言っていたが、むしろ深窓のお姫様に見える。
気高く、美しい女性。だけど、私の心が一杯になるくらい懐かしくて、いつまでも見とれてしまう。
これが、お母さん。
「それじゃ子守唄、歌ってあげようね」
お母さんはふにゃりと双眸を緩め、ゆったりと歌を奏でる。
「――ねんねこねんねこおねんねや お里の子らよりなお可愛い お役目務める博麗の 萃まる感謝限りなし
ねんねこねんねこおねんねや お山のものよりなお可愛い あやかし思う博麗の 萃まる愛しさ限りなし」
この歌は、お母さんの――
私は、はっと気が付いた。お母さんの気持ち。
限りある時間の中で、出来るだけのものを残そうとした、お母さんの気持ち。
「私……」
そうなんだ。
愛情が分からないからって、愛情を受けていない訳じゃ無いんだ。
お母さんから、そして周りの人間や人外の存在からもたくさん貰って、私が形作られたんだ。
私は、お母さんに色々なことを教わったのかもしれない。教われなかったのかもしれない。
それは、私にも分からない。
なら、私の子供には、霊沙には不安な気持ちを残さない様に精一杯、ぶつかっていこう。
そう、思えた。
「霊夢は自分でちゃんと気づけた。だから、もう大丈夫なんだぜ」
私が魔理沙の方を向くと、手に持った魔道書をパタンと閉じたところだった。
「……ずるい。魔法を使うなんて」
「へへ。最近こういう系統の魔法も開発してみたんだ。綺麗な人だったな、霊夢のお母さん」
「もう。でも、許してあげる」
そう言って、私は魔理沙の肩に顔を寄せる。
霊沙。今だけ、お母さんに独り占めさせてね。
――◇――
「あ! 霊ちゃーん!」
下山して霧雨店に到着した私達を出迎えたのは、泣きじゃくる霊沙を抱っこした困り顔のお義母さんだった。
「急に泣き出しちゃって止まらないのよ。
おしめはさっき変えたし、おっぱいは出ないし、もーうどうしましょ」
そう言っておたおたと狼狽するお義母さんの姿を、魔理沙は物珍しそうに眺めて、一言。
「お袋。よくそれで私を育てたな」
「なんだとぅ!」
「なんだよ!」
「はいはい! お義母さん、霊沙を」
私は唸りあう二人を牽制しつつ、霊沙を抱きかかえる。
すると、嘘の様に霊沙は泣き止んだ。
それを見ていたお義母さんは納得した様に手をポンと打つ。
「なーんだ。霊沙ちゃんは寂しかっただけか。やっぱりお母さんが一番だよね」
そんなことを大仰に頷きながらのたまうお義母さんを、私はジト目で返す。
「魔理沙に山菜採りに行く様に吹き込んだの、お義母さんでしょう?」
「えっ……あ、あはははは……」
図星の顔を笑いで糊塗するお義母さん。私はにまっと笑う。やった、久しぶりに一本取れた。
私の腕の中で、霊沙もニコニコと笑っていた。
この子は私がお母さんであることを少しも疑っていない。
うん。お母さん、頑張らなくっちゃね。
その日の夜。
私が起きると、隣に寝ている魔理沙の姿が無い。
部屋を出てその辺を探すと、いた。
ある部屋の前で、うーんうーんと行ったり来たりをしている。
(あれは、お義父さんの部屋だ)
やがて意を決したのか、魔理沙は慎重に襖を叩く。
「お、親父……少し、話さないか」
そして、長い沈黙が暗い廊下に流れる。
しばらく魔理沙は黙って待っていたが、やがて諦めた様に俯き、そのまま立ち去ろうとしたその時
「――入れ」
ぶっきらぼうだけど、年輪を重ねた重厚感のある声が入室を許可する。
魔理沙はいたく緊張した風情だったが、「し、失礼するぜ」なんて上ずった声でふすまを開けて、中へ消えていった。
私はそっと、自室に戻る。
夕方の出来事で思うところがあったのか、どうやら雪解けが始まったらしい。
私は、それが我が事のようにとても嬉しい。
(……きっと大丈夫。頑張って)
そう、手探りで話し合っているだろう二人を、心の中で応援した。
あっという間に神社へ帰る日がやって来た。
帰り際にお義母さんが、「またいつでも遊びにおいで。この意地っ張りを除いて」なんて言うもんだから、ここ数日で一番の掛け合いとなった。
あの夜、話し合いがうまくいったかどうかはわからない。結局この場にもお義父さんは居ない。
ただ、玄関先がよく見える窓の障子が少しだけ開いていた。
魔理沙も、時折そちらに視線を送っている。
そう。焦る必要なんてない。
親子の時間はまだたくさん作れる。少しずつ、歩み寄っていけばいいのだ。
そうどっしりと構えることができる程に、私は晴れやかな気持ちだった。
こうして霧雨『夫婦』のお見送りを受けて、私達は帰宅の途につく。
私はその道中、霊沙が生まれた時、真っ先に霊沙に聞かせた言葉を思い出していた。
私はこれから初めて何の違和感も無い純粋な愛情を霊沙に注いであげることができる。
それだけで、胸が詰まる程の幸福を感じる。
それで私は、今から新たな心意気で育てていく我が子に、もう一度あの言葉を伝えることにした。
「霊沙。生まれてきてくれて、ありがとう」
『私が、お母さんよ』
【終】
これは、子供ができてからしょっちゅう歌う子守唄だ。うろ覚えだけど、何故か歌えるので子をあやすには丁度いい。
出産祝いで八雲家に貰ったタオルケット、という軽い毛布をお腹にかけて、私はお布団に仰向けになって寝ている幼い体をぽんぽんと叩いて寝かしつける。
まだ生えてきたばかりの髪の毛は絹糸の様に細く、手足はまだ小さく握られている。それでも昼間は元気に動かし、触るとあったかい。
張り替えたばかりの畳の匂いが心地いい部屋。開け放たれた障子からは、昼間の暑さを冷ますには嬉しい山間部特有の涼しい風が吹いている。
「霊ちゃんのお布団、ここでいい?」
そんな声に振り向くと、結婚相手の母、つまり霧雨お義母さんが夏用の布団を持って立っていた。
「あ、ごめんなさい。わざわざ……」
「いーのよいーのよ。子育て大変なんだし、実家なんだからゆっくりしていくといいよ」
そう言って、お義母さんはいそいそと布団を隣に敷いた。
私は今、魔理沙の実家である霧雨店にいる。
霊沙(れいさ)を出産して4ヶ月あまり。私は神社で子育てしていたが、そろそろ霊沙を魔理沙のご両親に引き合わせたいと、私は魔理沙に相談した。
案の定、魔理沙は嫌だと口で言うよりわかりやすい嫌な顔をしていた。
そこで「子供が生まれたのに、お盆どころか正月も帰らないつもりなの」と強く出たら、渋々了承してくれたのだ。
こうして、もう2週間もお世話になっている。
ちょっとした里帰りの範疇を超えているが、お義父さんとお義母さんがあと2ヶ月は居なさいと言っていた。
よっぽど霊沙が可愛いらしい。
博麗の巫女の愛娘、霊沙はどこに行っても歓迎された。
特に出産後、永遠亭から初めて外出許可が出た時の、紫のハッチャケぶりは凄まじかった。
「初孫よ」
そんな冗談みたいな台詞と共に、私と霊沙を人里中にスキマを駆使して紹介して回ったのは少し恥ずかしかった。
文も取材に来たが、そっちは気持ち悪いくらい馬鹿丁寧な態度で拍子抜けした。
「かわいいわ」「霊沙、いい名前だね」「あはは、笑ってる」
それでも周囲のあたたかな言葉はとても嬉しく、親として誇らしかった。
「いやぁ。霊夢も、お母さんらしくなったね」
だが、こんな話題には曖昧に頷くだけだった。
霊沙が生まれてから、胸にある小さな違和感が原因だ。
「それにしても霊沙ちゃん。霊ちゃんに目元とかそっくり」
お義母さんが霊沙を起こさない様に隣でそっと言う。
「そう、かな」
「そーよ。ウチの跳ねっ返りに似なくて美人よ。ねー、よかったねぇー」
「お義母さん……そんな言い方は……」
「いや、事実でしょ。まったく、こーんな可愛い嫁と娘ほっぽって、何やってんだか」
さすがに私も苦笑が漏れる。
ここを訪れた当日、魔理沙は駄々をこねていた。
やれ部屋を掃除したいだの、やれ神社の留守が心配だのと散々出発を引き伸ばし、挙句に「やっぱり行くのやめよう」と言い出す始末。
そんな煮え切らない態度に私はカチンときて、「じゃあ私と霊沙だけで実家に帰らせていただきます」と三行半の様な台詞と魔理沙を神社に残して、プリプリ石段を降りてきた。
それで申し訳ない顔をして霧雨家に事情を説明したら、返ってきた言葉は「……やっぱりね」だった。
「でも、普段はこんな薄情じゃないですよ。
身重で巫女の仕事ができなかった時、魔理沙は徹夜で勉強して私の仕事を手伝ってくれたんです。
それで夜中に私が夜食のおにぎりを持って行ったら、神妙な顔で『お前一人の体じゃないんだから、無理するな』って怒られました。
それでも、美味しい美味しいて食べてくれて、ただの握り飯なのにもぅ」
そう魔理沙を擁護するエピソードを話していたら、知らぬ間に頬の筋肉が持ち上がっていた。
そういえば、ちゃんとご飯食べているのかな。明日連絡してみようかな。
はっ、と気づいたら、お義母さんがにまっと笑っていた。
「んふふ、夫婦円満で結構結構。
ウチの娘は幸せ者よ。こんなに想ってくれる人と一緒になれたんだもの。
こりゃ霖之助さんが入り込む余地はないわよねー」
「お義母さん!」
「あはは、冗談よ。それじゃおやすみ」
そう言ってお義母さんは鼻歌まじりにふすまを閉めた。
お義母さんは一言で言えば豪快でさっぱりした人だ。
私達が結婚することを決めてお義母さんに挨拶に行った時、私は猛反発を食らうか、最悪殴られることも想定して異様に緊張していた。
ところが、お義母さんは目をぱちくりした後、本当に楽しそうに笑い声をあげてあっさり承諾してくれた。
お義母さん曰く、「ガチガチになりながらも手を握り合っていて、それで認めてくれるまで帰らない、なーんて腹括っている二人に間違いはないわよ」とのこと。
以来、お義母さんは私のことを霊ちゃんと呼んで、気さくに話を交わしている。
初めはその特有の空気感に戸惑ったりしたが、よく触れ合うごとにそのざっかけない雰囲気が、どことなく魔理沙に似ていることに気づいた。
やっぱり遺伝なのかも。そう思うと人間の順応能力は優れたもので、自然にお義母さんと打ち解けることが出来て、今に至る。
「もう寝ようかな」
そう呟くと、私は洋灯の火を絞って布団に潜り込む。
暗がりに沈む部屋。その闇を四角く切り取る開け放たれた窓の外には、幾数億もの星が瞬いていた。
じっと見ているとその星々が落ちてきそうな感覚にとらわれ、今でもその風景に圧倒される。
そういえば、このサテン布を光にかざした様な大量の星は、魔理沙が弾幕に好んで使用するモチーフだ。
一見少女趣味の繊細な弾幕になりそうだが、この夜空を見上げると、その力強さの源になる理由がわかる。
流星、輝星、十重二十重の光道。
どちらかといえば結界を構築したり、御札で動きを封じる『静』の弾幕が得意な私は、魔理沙の『動』の弾幕に手こずりギリギリの攻防を繰り広げたこともあった。
しかし、私は同時にその輝きに惹かれていった。
ちょっと意識していた友情が愛情に変わった日、私達は魔理沙の家の屋根にいた。
その日も空気が澄んだ満点の星空で、私達は逢瀬を兼ねた天体観測をしていた。
白い息を吐いて、得意そうに星座や宇宙の薀蓄を披露する魔理沙の横顔はとてもキラキラしていて、私は上空ではなく横ばかり見つめていた。
ふと、そんな不躾な視線に気づいたのか、魔理沙は急に真面目な顔になって私の視線を捕らえた。
その後の言葉は、一言一句思い出せる。
「なぁ、霊夢。星っていうのは、様々な法則や規則に従って公転しているんだけど、たまにそこから外れて予想外の動きをする星がいる。
所謂流れ星ってやつだ。
よく星の動きを運命に例えるけど、そいつは大きな運命の中で自由にちょっとの反抗を見せているみたいで、私は嫌いじゃないぜ。
でもな、そんなはぐれ星にも、ちゃんと運命ってやつは行き先を教えてくれるらしい。
霊夢。私は北極星に出会ったんだ。大空で孤独な流れ星を導く羅針盤。
そして、私の世界の中心。
……私はいつか燃え尽きるまで、霊夢の傍にいたい。霊夢無しの世界は考えられない。
だから、その……私と結婚してくれ。霊夢と私の子供が欲しいんだぜ!」
今までのムードも順番もすっ飛ばした求婚の言葉。後で聞いたら、頭がチカチカしていて何て言ったか自分でもよく覚えていないらしい。
それでも、私は魔理沙の胸の中で、その言葉を受け入れた。
ふと、一陣の風がさあっと肩口を撫でる。いくら夏とはいえ、夜は割と冷え込む。
私はそっと布団から出て、障子を閉めた。
そのまま霊沙の布団を覗くと、小さな口でパクパク呼吸し、すやすやと眠っている。
ほんの少しだけ魔法の力を借りて、私達の所へやって来てくれた、私と魔理沙の愛の結晶。
霊沙は本当に可愛い。私の宝だと言い切れる。この子のためなら、何だってできる。
でも
少し胸がちくりと痛む。
おしめを変える時。おっぱいをあげる時。夜泣きがひどい時。体を拭いてあげる時。
私の胸に抱いている時。私は不安に囚われる。
そのことを考えまいと思っても、心の違和感は澱の様に溜まっていく。
これでいいのだろうか。ちゃんと子育てできているのだろうか。
考えすぎかもしれない。でも、そんな漠然とした負の感情は凝り固まり、恐怖にも似た影を落とす。
「……魔理沙」
私を安心させる笑顔で答えてくれる存在は、今日もいなかった。
――◇――
翌朝。
相変わらずみんみん蝉は忙しなく鳴いていて、まだまだ夏の盛りであることを実感させられる。
私が朝食を終え洗濯をしていると、懐の陰陽球がぶるると震えた。
地下に潜っても使える通信機の片割れを、私はただ一人にだけ預けている。
私が「はい、もしもし」と口元で返事をすると、陰陽球から期待していた声が紡ぎだされた。
『もしもし。元気か』
「ええ。それはそれは良くしてもらっているわよ。魔理沙こそ、ちゃんとご飯食べてる?」
『ああ、まぁな』
返答のトーンから察するに、ちゃんと作って食べてないのかもしれない。
私が料理担当だから、すっかり自炊をしない癖がついてしまっているのだ。
「ところでどうしたの、こんな朝早く」
『いや、何ていうか……一人で神社にいても寂しくってさ。
霊夢と霊沙の顔も見たいし、そっちに行きたいなぁ、って』
「もう、やっとその気になったのね。それで、いつ頃来てくれるの?」
『そりゃ、あの……』
急にもごもごと口ごもる魔理沙。しばらく球越しに逡巡する気配を感じたが、ついに声をひそめて魔理沙はこう尋ねた。
『……親父、今日家に居ない時間帯ってあるか?』
「無いわよ! ここは自宅なんだから、居てもいいでしょ」
「『なっ!?』」
いつのまに横で聞いていたのか、陰陽球を掠め取ったのはお義母さんだった。
「お義母さん……」
「まぁまぁ」
『その声はお袋か。……いや、だってさぁ』
「だってもあさっても無い!
まったく、結婚の挨拶もお父さんが留守の時を狙って来たり、いつからそんな姑息な娘になったのよ。
いつまでも逃げてないで、ちゃんと顔見せなさい!」
お義母さんのストレートなお説教に、魔理沙はぐっと言葉に詰まる。
『……別に、逃げてなんか』
「だったらちゃんとここに来て、お父さんにも挨拶なさい。わかったら返事」
『……はい』
「よろしい。じゃ、待っているからね」
そう締めくくって、お義母さんは陰陽球を私に返す。通信はもう切られている様だ。
「霊ちゃんごめんなさいね。勝手に取っちゃったりして」
「いえ、そんな」
「どうしても一言言いたかったのよ。こうでもしないと、あの子は一生決心がつかないから」
そうやれやれと愚痴を漏らして、ため息をつく。
「でも、ちゃんと来てくれるかなぁ」
「来るわよ。挑発されて動かない程、あの子の血は冷たくないのよ。
第一、これでも帰宅をつっぱねる頑迷な娘と、霊ちゃんは結婚しないでしょう?」
お義母さんはニヤリと笑い、私は苦笑いしか出なかった。
さすがに魔理沙の扱い方をよく知っていて、勉強になる。
魔理沙とお義母さんは別段仲が悪いという訳ではない。
私達が結婚してから、魔理沙は私の神社でぽつぽつお義母さんと会う様になった。
本人は「折角来たんだからな。世間話くらいはつきあうぜ」と強がっているが、生活の悩みや不安な事も相談しているあたり、なんだかんだで人生の先達として頼りにしているのだ。
そしてその相談事の中には、お義父さんとの関係も含まれている。
お義母さんも心を砕いてはいるが、未だに実家のじの字を口に出しただけで会話をはぐらかす魔理沙だ。
もう、お義父さんとの仲は修復不可能なのだろうか。
「それに、魔理沙にはなるべく早く来てもらわないとね」
「え?」
「二週間も旦那に会ってなくて、寂しかったでしょ。
何か、霊ちゃん気分が沈んでいるみたいだし……そーゆー時は思い切り甘えるといいよ」
そう、お義母さんは器用にウインクをする。
「もう。お義母さんったら……」
気づいていたんだ。やっぱりお義母さんには敵わない。
でも、違う。
私が悩んでいるのは、もっと違うことだ。
それは自分自身への疑問。母親であることの違和感。
私は両親の、母親の愛情を知らない。
私の両親、すなわち先代の巫女と神主は、私が赤ん坊の時に相次いで急逝したと聞く。
当時の状況はおろか、顔だって記憶にない。
私が物心つくまでは紫が親代わりだったが、それでも母親の愛情とはどんな物かを考えると、霞がかった様に分からなくなる。
そんな私に母親が務まるのだろうか。
ちゃんと愛情を注いであげられるのだろうか。
そんな気持ち。
いけないと思いつつも、モヤモヤが燻ったまま夕方になった。
気持ちを切り替えようと夕飯の手伝いを願い出た頃、玄関先から声が聞こえた。
「た……たのもー。た、の、もー」
「……それは道場破りでしょうが」
お義母さんがこめかみを抑えて首を振る。私も「ははは……」と笑って誤魔化しておく。
「まぁ、あれでも可愛い義娘の旦那だし、迎えにいってやりますか」
そして私は霊沙を抱いて、お義母さんと玄関先まで歩いていった。
「久しぶりね」
所在なさげに立っていた魔理沙にお義母さんが言ったそれは、早くも三途の閻魔様が小言する時の空気を孕んでいた。
「あー、お袋……ただいま」
「私としては二週間前に聞きたかったわよ。出産の挨拶に夫婦が揃わないって、どういうことなの」
「いや、まぁ……戸締りが心配だったんだぜ」
「本当にもう。お父さんもいつ来るのか、って待っていたのよ。
そうそう。お父さんはちゃんと部屋にいるから、約束通り顔ぐらい見せてあげなさい」
刹那、魔理沙の顔が強張る。
嫌悪とか敵意とか、あからさまなものは発散していないけど、触れてはいけない物に触れた様な異質な緊張感が辺りを包む。
私はハラハラしていたが、言うべきことを最初に話してすっきりしたのか、お義母さんは私に正面を譲った。
「お帰りなさい、魔理沙。ほら、霊沙もお帰りなさいって」
私は抱っこした霊沙を半回転させ、魔理沙に顔が良く見える様にする。
霊沙も魔理沙が分かるのか、あーあむーと喃語を発して破顔する。
途端、魔理沙の目尻が下がった。
「おー、霊沙。元気だったか? 寂しかっただろ」
魔理沙が顔を近づけると、額をぴしぱし叩かれる。
「なーんか、私の時と感じが違うんだけど」
置いてけぼりのお義母さんが、口を尖らせて不満を訴えた。すると魔理沙は、まるで無知な子供に教え諭す様な口ぶりで、一言。
「当たり前だろ」
「なんだとぅ」
「なんだよ」
「はいはい。魔理沙、お風呂まだでしょ。すぐに沸かすから、先に入ったら?」
私は話題を変えて二人の仲裁にかかる。
魔理沙とお義母さんは、会うたびにこうした漫才じみた小競り合いをしている。
軽いコミュニケーションだぜ、なんて語ってはいるが、実際大人気なく火花を散らすのは勘弁して欲しい。
「ああ、そうするぜ」
「それじゃ荷物を」
その時、突然霊沙が不機嫌にぐずりだした。
「どうしたの? ……あ、おしっこしちゃったのね。
魔理沙、私おしめをかえてくるから、部屋に上がって準備してて」
「うん、わかった」
そして一旦戻ろうとしたその背後で、お義母さんが魔理沙を引き止める声がした。
「魔理沙。ちょっと――」
先ほどとは違い、穏やかな口調だった。
少し気にはなったが、霊沙に抗議の泣き声を上げられ、その事は記憶の隅に追いやられた。
夜。
昨日まで二人で寝ていた部屋に、親子三人が川の字で横になる。
霊沙が真ん中で、私と魔理沙が挟む様に寝る。それを中程度に絞った洋灯が橙色に照らしていた。
なんだか、部屋が小さくなったかのように感じる。
三人に増えたからとかじゃない。
昨日まで空間が多くて落ち着かない空気だった部屋が、今は形容が難しい安堵感でほんわかと包まれている。
そう。魔理沙がいるだけで、どこでも満たされた場所になる。
「――よかった」
「ん?」
私が小さく呟くと、魔理沙がこちらを向く。
「魔理沙が来てくれてよかった」
「そう? そりゃあ、苦労して来た甲斐があったんだぜ」
「……ふふふ」
「今度はなんだ?」
「実家に帰るのに『苦労して』は変だな、って」
「そうか? ……割と大変なんだぜ」
そう言って、難しい顔をする魔理沙。
多分私と同じで、今日の夕飯を思い出したのだろう。
食卓に、お義父さんの姿がなかった。
私がお風呂を焚いている時に挨拶していたみたいだけど、結果はあまり芳しいものではなかったらしい。
激昂して口喧嘩になったとかいう派手な状況にはならなかったが、どうにもぎこちないまま顔合わせが終わったとのこと。
「まったく。お父さんも魔理沙も頑固者なんだから」
お義父さんに夕食を届けたお義母さんは、そう呆れた様子で語って食卓に着いた。
魔理沙も「これで飯が美味くなるわな」なんて暴言飛ばして、お義母さんにお玉でパカンと殴られていた。
いつもの漫才の様だったが、その顔には哀しみともどかしさが入り混じっていた。
「……大変じゃ、ない。皆、魔理沙が帰って来るのを心待ちにしていたのよ」
魔理沙は、無言。
魔理沙とお義父さん。二人の間にどんな確執があったのか。
魔理沙が話したくない事まで干渉しない私は、そこの所はよく知らない。
でも、このままじゃいけない、って二人が思っている事はなんとなく分かる。
お義父さんは滞在中、魔理沙の様子ばっかり話題にしていたし、魔理沙だって口では色々言うけど、結局はいつも気にかけていることの裏返しなのだ。
きっと、互いの距離感と、この関係を変えるきっかけが掴めないだけなんだと思う。
だけどそれは、私達の結婚や出産程度では変えられない程分厚い壁だったのだろうか。
両親がいない私には、想像できない程の難問なのだろうか。
そう思うと、私も少し哀しい。
「今日は霊沙もご機嫌だったよ」
私は霊沙のタオルケットをかけ直し、よだれを拭いてあげる。小さく上下する胸がなんとも可愛らしい。
「そうかぁ」
対する魔理沙は自分の髪の毛を手櫛で梳きながら、満更でもない顔になる。
魔理沙のそういう感情がすぐ表に出て、表情がくるくる変わる所も昔と同じで可愛らしい。
「それじゃ、霊夢はどうだった?」
ちくり、とまた違和感がはしる。
「……私」
「そう、ご機嫌だった?」
「私は……」
数瞬、間が空く。
「ご機嫌だったよ」
違う。私はご機嫌じゃなかった。
「……何か、悩んでいる事でもあるのか」
私は言葉を詰まらせた。
すると魔理沙が手を伸ばして、私の前髪をさらさらと撫でる。
温かくて心地良い。
「何でも話してくれよ」
「……ううん、何でもない」
私は考えを巡らせたが、結局言わなかった。何だか、甘えたくなかったのだ。
「私の問題だと思うから」
すると、魔理沙は手を引っ込めた。温もりも立ち消え、ちょっと残念。
「そっか……おやすみ」
「うん、おやすみ」
そう寝る前の挨拶をして、私は灯を消した。
暗闇の中、私は胸に手を当てる。
何で皆わかっちゃうんだろう。ちょっと悔しい。
でも、そんな心遣いが嬉しかった。
――◇――
それから二、三日。魔理沙も霊沙の面倒をよく見てくれて、私はのんびりとしていた。
「山菜採りに行かないか」
そんな午後に、魔理沙がこんな提案をしてきた。
「霊沙の面倒はお袋が見てくれるってさ。西の裏山なんだけど、どう?」
「それはいいけど、魔理沙は場所を知ってるの?」
西の裏山くらいは分かるけれど、私が言いたいのは山菜が生えている箇所のことだ。
山菜の生えている場所は限られているため、大抵はその家の秘密になっている。
大袈裟かもしれないが、舞茸の発生地などは親が死ぬ時のみに子へ口述するくらい堅い秘密なので侮れない。
すると魔理沙は、へっへっへと獲物を手に入れた狩人のようにニヤついて、懐から魔道書を取り出す。
魔道書といっても手帳ほどの大きさで、中身も魔法の文言と日々の書き置きが半々くらいの雑記帳だ。
「お袋がな、『絶対に秘密だぞ』なんて言いながら教えてくれたんだぜ」
そうページをめくって、場所の特徴を確認している。
へぇ、と私は感心した。
家の秘密を教えてくれるのだ。少し実家との距離が縮んだのだろうか。
「その代わり、魔法の森の茸群生地帯を吐かされたけどな……」
はぁ~、と肩を少し落としてうなだれる魔理沙。
……やっぱり、親子だ。ちゃっかりしている所がそっくり。
「ま、ともかく。暑いけど出ようか」
西の裏山は神社から遠くてよく知らなかったが、結構大きめの山だ。
だが、その上にはもっと高い入道雲が誇らしげにそびえている。
暑さはこの時間になってもまだ引く気配が無く、日差しも強かった。
私達は山に降り立つと、秘密の場所に向かって山道を分け入った。
山道の横に立ち並ぶ木々は、一年で最も強い日の光を逃さない様目一杯枝葉を広げている。
時折吹く風が、深い緑と土の匂いを運んできた。
「霊夢、大丈夫か?」
「うん、平気」
魔理沙が配慮の声をかけてくれた。
確かに、木の根っこが節くれ立つ様に飛び出して歩きづらい道ではあったが、生い茂る天然の日よけのお陰で汗はほとんどかいていなかった。
こうして眼前の森を観察してみると、木々は雑多に生えている様で、実は一定の法則に従って群生している様に感じた。
その証明の様に、蝉はジウジウと同じ調子で大合唱している。
しばらく歩いたところに、その場所があった。日当たりや風通しも問題ない、好条件が重なった地点だ。
そこは斜面のところが丁度拓けていて、振り返ると幻想郷の全景を一望することができた。
すり鉢みたいな盆地の底に、民家と青々と茂る田んぼが小さく見て取れる。
比較的大きなあの家はさっきまで居た霧雨店。
あの陸揚げされた帆船状の建物は命蓮寺。今日は遊覧飛行をやってないみたいだ。
迷いの竹林の万年竹はざわざわと風にゆれて、外見だけは夏の情緒をかもし出している。
噴煙たなびく妖怪の山も、飛び回る天狗の姿まで確認できそうだ。
遠くにぼやっと見える紅い屋敷は紅魔館だろう。この距離でも目立つ。
その近くにあるのが、魔法の森。魔理沙の一人暮らし時代を過ごした場所。
あの家は当初、もう必要ないからマスパで更地にするか、なんて豪快で短絡的な案が出ていたが、結局魔理沙の蒐集物を収める倉庫に落ち着いた。
その管理はアリスがしているという。
……アリスかぁ。パチュリーと結託して、泣きながら結婚式に殴り込みをかけられた思い出がもう懐かしい。
あれ以来気まずくて、すっかり疎遠になっちゃったなぁ。今度時間を作って会いに行こう。
そして、ここからは見えない東の果てに、我が博麗神社が存在している。
留守は魔理沙が紫と藍に任せたって言っていたけど、大丈夫かな。
飼ってる金魚……全滅させたりしないよね。帰ったら稲荷神社に鞍替えされてたりして。
そんな一軒一軒の家には生活があって家族がいて、私はその日常を現実的に考えることができる。
しかしこう俯瞰的に眺めると、盆地のはるか上空に鎮座する入道雲と相まって、その日常系が希薄に感じられる。
その対比が不思議だった。
「あ、見っけ」
が、今はそんな哲学より足元の食料が優先。
フキを見つけたので、手折って籠に入れた。
他にもミズ、コゴミ、ヤブカンゾウといった食べられる山菜をたくさん見つけて私は上機嫌になる。
山だけど大漁って感じだ。
一方の魔理沙は、茸は詳しいけど山菜は専門外なのか、いちいち図鑑と照らし合わせているため採る頻度が遅い。
それでも日がだいぶ傾くまで粘った結果、ほとんど私の採った物だが、夕食は大丈夫になった。
もう油蝉やミンミン蝉の声は鳴りをひそめ、ヒグラシに交代しつつある。
「そろそろ下りようか」
「おお、そうだな。でも、少し休憩していかないか」
私の提案にそう返す魔理沙。疲れがたまっているみたいだ。
「もうちょっと行った所に沢があるんだ。そこで休もう」
ざざざざざ、と小さな滝が流れ落ち、その一角はとても快適な涼しさに満ちていた。
川べりで透き通る水を手ですくって飲む。キンキンに冷えた水は、それだけで火照った体を潤し癒した。
手近な所に腰を下ろし、私達はしばし休む。
「ふぃー。今日はいっぱい採れたな」
「そうね。これだけあれば天ぷら、おひたし、炊き込みご飯もいいし、お醤油に漬ければ明日も食べられるわ」
私がご馳走の内訳を列挙すると、魔理沙のお腹がぐぅと鳴った。
「やだ。魔理沙、そんなにお腹減ってたの?」
「ははは。お腹もそうだけど、私は霊夢の料理に反応したんだぜ。
霊夢の料理は美味しいからな、腹も分かってるんだぜ」
「もう。褒めたって何も出ないわよ」
「いやいや。霊夢は芯が強いし、何よりお互いのことをきちんと理解して尊重し合っているだろ。
私ゃ霊夢みたいな嫁を貰って、すごく幸せなんだぜ」
そうお世辞とかじゃなくて、本気で思っている内容を真面目に話す魔理沙。
……もう、折角体が冷えてきたのに、また熱くなるじゃない。
「霊沙も、いいお母さんで幸せだぞ」
瞬間。
その一言で、さっきまでの惚気た余韻がいっぺんに吹き飛んだ。
私の中の違和感が膨れ上がり、喉元までせり上がってくる。
「……違う。私……そんな……」
気が付けば、そんな言葉が出てきた。いや、吐き出した。
「そんな謙遜しなくても……」
そこまで言って、様子が違うことを察した魔理沙が口を噤む。
「私……いいお母さんじゃない……違うよ」
それから私は「違う」と2回程呟く。自分の顔が硬直しているのが分かった。
「……私、不安なの。
私はお母さんの愛情を知らない。お母さんと喋ったり、抱っこされたかどうかも分からない……
そんな私が……霊沙をちゃんと育てられるのかな……って」
私は裾をぐっと握り締める。魔理沙は私の吐露をじっと黙って聞いてくれた。
「そっか。それでこの前から、ずっと悩んでいたんだな」
「……うん」
魔理沙はしばらく黙って何かを考えている様だった。
「……霊夢。愛情、って何だと思う?」
ゆっくりと紡がれた問いに、私は俯くのをやめる。
「一緒に過ごした時間。楽しくて暖かな思い出。お金や物を与えること。
こういうのが愛情って言われるけど、私はこう思う。
『自分の子供に残したもの』が愛情なんだ」
「残した……もの……」
「そう。この子は自分が確かに育てたっていう証。その子の中に息づく親の面影。
そういう朧げかもしれないけど、心に深く根を張った残滓が重要なんだと思う。
優しい親から、人を大切にする子供が育つ。頑固な親から、これまた我の強い子供が育ったりする。
残すものの形はそれぞれだけど、それが地味でも輝きを放てば、子供も、その次の世代までも受け継ぐ愛とやらは、確かに存在するんじゃないかな」
私は、魔理沙の話に聞き入っていた。さっきまで鳴いていたヒグラシの声も聞こえなくなる。
「……私にも、それがあるかな」
「あるさ。考えてごらん、お母さんの気持ちを」
「お母さんの気持ち――」
私は、ゆっくり瞼を閉じて考える。
――風景が、流れ込んでくる。
何だろう。視界が白くぼんやりして、辺りがよく見えない。
でもよく目を凝らすと、見覚えのある軒先が見える。
これは、博麗神社の軒だ。神社の縁側にあお向けに寝ていて、見上げているみたい。
辺りには誰もいない。私は急に不安になった。私は、声を上げて訴える。
誰か来て! 怖いよ!
だが、そう言ったつもりでも、私の口からは喉を枯らした様な大音量の泣き声しか出てこない。
ふ、と目の前に人型の影が差した。
その影は私をひょいと持ち上げ、腕に抱く。
「あ~、よしよし。泣かないで~。私の方が悲しくなっちゃうわよ~」
近づいた顔はたっぷりと長く真っ直ぐな金髪に、紫水晶の瞳。蠱惑的な唇から必死にひょうきんな口調のあやし言葉を発している。
ひょっとして、この人は紫?
ゆらゆらと体を揺らしてくれるけど、はっきり言ってあんまり嬉しくない。
ますます意味が分からなくて混乱し、その感情が相乗してわーわーと訴えを荒げてしまう。
「ああもう……どうしましょう……」
「――火に油を注がなきゃいいのよ。ほら、私に代わりなさい」
もう一人、誰か来た。顔が遠くにあって判別できないけど、巫女装束を着た女の人だ。
その人はオロオロとうろたえる紫から私を抱き上げ、紫と同じようにその胸に抱く。
それだけなのに、私の荒れる心は一瞬で凪いだ。
柔らかくて、温かくて、いい匂いがする。
ぽんぽん、って優しく背中を叩かれるが心地いい。ずっと、こうしてもらいたい。
私は、無意識に感じた。
これは、私の元始の記憶。
そしてこの人が、お母さん。
「さすがね。すぐ泣き止んじゃった」
「胡散臭いのを感じ取ったから、あんなにぐずったんじゃないの」
「あらご挨拶」
紫はお母さんと談笑している。私は、お母さんの胸元を見ながらそれを聞いた。
「霊夢は元気ね」
「ええ、私に似て快活よ。最近寝返りも覚えて、ばしばし転がっているわ。
控えめで体弱かったウチの旦那も、草葉の陰で喜んでいると思うわよ」
そうケラケラと笑うお母さん。でも、紫は笑わなかった。
「調子は、どうなの?」
「……うん、今日は気分もだいぶ楽。だけど、明日はどうだか分からない」
「…………」
「紫」
「何?」
「私にもしものことがあったら、霊夢のことお願いね」
「やめて頂戴。そんな話は」
珍しく紫が感情を露わにして声を張る。だが、お母さんは静かに食い下がった。
「真面目な話よ。紫、私は未練なんてほとんど無い。
旦那は私より早く逝っちゃったけど、『幸せだった』って言ってくれた。
決闘ルールのお陰で妖怪と人間の関係は、紫と私がこうやってお喋りできるくらいには良好。
それに、博麗を継ぐ者もいる。
ただ、夢想封印だけはまだ継がせる訳にはいかないから、時が来たら紫が手ほどきしてやって」
そう、夢想封印発動の仕方やコツを書置きした場所を告げる。
紫は唇を噛んだ。
妖怪である自分に奥義の真髄を教える程、彼女は自分を信頼している。
そんな稀有な存在は、『その時』まで自分が居ないことを自覚していた。
「あなたね……人間のくせに人生を憂いすぎよ」
「あなたも、妖怪のくせに感情移入しすぎ」
紫が感情を押し殺して何とか言葉を発し、お母さんが飄々と語るのはなんだかあべこべに思えた。
「ただね。ひとつだけ心残りがあるの。
これは、私のわがまま。自分勝手な感傷だと言ってもいい」
急に、お母さんの雰囲気が落ち込む。
さっきまでひまわり畑の真ん中で喋っていたのが、突然無縁塚の紫桜の前で泣き言を漏らす様に。
「私は……霊夢に『お母さん』を教えられなかった」
「料理や裁縫を一緒にしたり、綺麗な服を買ってみたり、私の恋や旦那の馴れ初めなんかを話したり。
たまには怒って、いっぱい笑って、花嫁衣裳を本人より真剣に選んだりして……
そういう、女の子の部分を育む役目を全うしたかった……」
声が震える。抱っこする腕に力がこもる。でも、決して涙は見せなかった。
脆いけど、強い母親だった。
「……だからね、紫。なるべく、霊夢を見守ってあげて。
しかるべき相手に愛を囁かれた時、それをきちんと受け止められる様に、ね」
「……わかったわ。
でもね、私は特にいい加減な部類に入る妖怪なの。
だから、そんな奴に頼んで安心しないで、あなたはちゃんと長生きするよう努力しなさいよ」
「ええ、もちろん」
そう微笑むように、肩をすくめる動きを感じた。
すると、意識がすぅーっと混濁し始める。
なんだかぽやぽやと宙に浮いている様な気分で、しかもその気分に体を任せたい欲求が頭を支配する。
「あらあら、霊夢はおねむみたい。きっと眠くて不機嫌だったのね」
そう分析して、お母さんは縁側の揺り篭に私を移す。
その時、私はお母さんの顔を至近距離で見つめることができた。
切れ長の目に揺れる黒曜石の瞳。すっと通った鼻筋と桃色の唇。
肌の色は体調のためか元々なのか、青白く感じるくらいに白く透き通っている。
長く伸ばした艶やかな黒髪を束ねるのは、私が結んでいるものと同じリボン。
快活だと本人が言っていたが、むしろ深窓のお姫様に見える。
気高く、美しい女性。だけど、私の心が一杯になるくらい懐かしくて、いつまでも見とれてしまう。
これが、お母さん。
「それじゃ子守唄、歌ってあげようね」
お母さんはふにゃりと双眸を緩め、ゆったりと歌を奏でる。
「――ねんねこねんねこおねんねや お里の子らよりなお可愛い お役目務める博麗の 萃まる感謝限りなし
ねんねこねんねこおねんねや お山のものよりなお可愛い あやかし思う博麗の 萃まる愛しさ限りなし」
この歌は、お母さんの――
私は、はっと気が付いた。お母さんの気持ち。
限りある時間の中で、出来るだけのものを残そうとした、お母さんの気持ち。
「私……」
そうなんだ。
愛情が分からないからって、愛情を受けていない訳じゃ無いんだ。
お母さんから、そして周りの人間や人外の存在からもたくさん貰って、私が形作られたんだ。
私は、お母さんに色々なことを教わったのかもしれない。教われなかったのかもしれない。
それは、私にも分からない。
なら、私の子供には、霊沙には不安な気持ちを残さない様に精一杯、ぶつかっていこう。
そう、思えた。
「霊夢は自分でちゃんと気づけた。だから、もう大丈夫なんだぜ」
私が魔理沙の方を向くと、手に持った魔道書をパタンと閉じたところだった。
「……ずるい。魔法を使うなんて」
「へへ。最近こういう系統の魔法も開発してみたんだ。綺麗な人だったな、霊夢のお母さん」
「もう。でも、許してあげる」
そう言って、私は魔理沙の肩に顔を寄せる。
霊沙。今だけ、お母さんに独り占めさせてね。
――◇――
「あ! 霊ちゃーん!」
下山して霧雨店に到着した私達を出迎えたのは、泣きじゃくる霊沙を抱っこした困り顔のお義母さんだった。
「急に泣き出しちゃって止まらないのよ。
おしめはさっき変えたし、おっぱいは出ないし、もーうどうしましょ」
そう言っておたおたと狼狽するお義母さんの姿を、魔理沙は物珍しそうに眺めて、一言。
「お袋。よくそれで私を育てたな」
「なんだとぅ!」
「なんだよ!」
「はいはい! お義母さん、霊沙を」
私は唸りあう二人を牽制しつつ、霊沙を抱きかかえる。
すると、嘘の様に霊沙は泣き止んだ。
それを見ていたお義母さんは納得した様に手をポンと打つ。
「なーんだ。霊沙ちゃんは寂しかっただけか。やっぱりお母さんが一番だよね」
そんなことを大仰に頷きながらのたまうお義母さんを、私はジト目で返す。
「魔理沙に山菜採りに行く様に吹き込んだの、お義母さんでしょう?」
「えっ……あ、あはははは……」
図星の顔を笑いで糊塗するお義母さん。私はにまっと笑う。やった、久しぶりに一本取れた。
私の腕の中で、霊沙もニコニコと笑っていた。
この子は私がお母さんであることを少しも疑っていない。
うん。お母さん、頑張らなくっちゃね。
その日の夜。
私が起きると、隣に寝ている魔理沙の姿が無い。
部屋を出てその辺を探すと、いた。
ある部屋の前で、うーんうーんと行ったり来たりをしている。
(あれは、お義父さんの部屋だ)
やがて意を決したのか、魔理沙は慎重に襖を叩く。
「お、親父……少し、話さないか」
そして、長い沈黙が暗い廊下に流れる。
しばらく魔理沙は黙って待っていたが、やがて諦めた様に俯き、そのまま立ち去ろうとしたその時
「――入れ」
ぶっきらぼうだけど、年輪を重ねた重厚感のある声が入室を許可する。
魔理沙はいたく緊張した風情だったが、「し、失礼するぜ」なんて上ずった声でふすまを開けて、中へ消えていった。
私はそっと、自室に戻る。
夕方の出来事で思うところがあったのか、どうやら雪解けが始まったらしい。
私は、それが我が事のようにとても嬉しい。
(……きっと大丈夫。頑張って)
そう、手探りで話し合っているだろう二人を、心の中で応援した。
あっという間に神社へ帰る日がやって来た。
帰り際にお義母さんが、「またいつでも遊びにおいで。この意地っ張りを除いて」なんて言うもんだから、ここ数日で一番の掛け合いとなった。
あの夜、話し合いがうまくいったかどうかはわからない。結局この場にもお義父さんは居ない。
ただ、玄関先がよく見える窓の障子が少しだけ開いていた。
魔理沙も、時折そちらに視線を送っている。
そう。焦る必要なんてない。
親子の時間はまだたくさん作れる。少しずつ、歩み寄っていけばいいのだ。
そうどっしりと構えることができる程に、私は晴れやかな気持ちだった。
こうして霧雨『夫婦』のお見送りを受けて、私達は帰宅の途につく。
私はその道中、霊沙が生まれた時、真っ先に霊沙に聞かせた言葉を思い出していた。
私はこれから初めて何の違和感も無い純粋な愛情を霊沙に注いであげることができる。
それだけで、胸が詰まる程の幸福を感じる。
それで私は、今から新たな心意気で育てていく我が子に、もう一度あの言葉を伝えることにした。
「霊沙。生まれてきてくれて、ありがとう」
『私が、お母さんよ』
【終】
まさか途中を全部すっ飛ばして産後から始まるとは。
がまさんてひょっとして私が思ってる以上に年上だったりするかも?? お嬢様
お話の雰囲気は好きでした。でもネタがネタなだけに反応が難しいですYO!
ていうかいい話すぎてちょっとびっくりでした。もちろんいい意味ですよ? 超門番
お久しぶりです。がま様の夏休みは如何でしたか?私達はとってもめまぐるしい夏休みでした。今まで
で一番過密なスケジュールでした。でも、それも終ってしまいましたけど、ね・・。(泣)冥途蝶
しかし、そこには今まで想像したこともない世界が広がっていて、違った意味でも驚きました
東方で、こんな風に親子についての物語を作るとは……
そして胸の奥にずっしりと残る読後感、優しい雰囲気に、読み終えたとき気付くと頬が弛んでいました
とんでも設定のインパクトが尋常ではないですが、これは良い話でした。これを読めて、良かったです
自然におばあちゃんしてくれそうな紫様まで含めて愛くるしいキャラクター達でした!
はい。結果からスタートしています。
8番様
新しいジャンルの様な感覚ですが、なんとか形になりました。
お嬢様・冥途蝶・超門番様
ご無沙汰でした。私の年齢ですか……フフフ。
お気に召されたことはよく伝わりました。嬉しいです。
夏休みは……心ゆくまで休みましたよ(オイ)また最新作を楽しみにしています。
13番様
丁寧なご感想、ありがとうございます。
これを読めてよかったとは私にとって最大の賛辞のお言葉です。つい隣の部屋に飛び込んでイクさんポーズを決めました。
14番様
乾杯! 霊沙に「ばぁば」と呼ばれてデレデレする紫さんの姿が目に浮かびます。
15番様
ありがとうございます。
16番様
あったかい家族はいいですね。
これからもよろしくお願いします。がま口でした。
ご感想ありがとうございます。
実はこれが初めて書いたレイマリがラブラブする話だったもので、お気に召していただけたのならよかったです。
ご感想ありがとうございます。とても嬉しいです。