当たり前のことではあるのだけれど、地底には空がない。
だからパルスィが最後に星を見たのは、まだ地上にいた頃のことである。
星空がどういうものだったのか、今では殆ど忘れてしまった。無論それ自体はないからと言って困るものではない。しかし真っ黒い地殻を眺めていると、時折ふと懐かしく思うことはある。
あるはずのものがない、物悲しさ。何故だかそんなものを感じてしまうのだ。
四季すらも再現してのける技が地底には存在する。それはひどく手間のかかる術で、行使できる者の数は少ないと聞く。星空を再現するだけの余裕はないのだろう。
それに。
地底に移り住んだ輩は大抵が派手なことを好んでいる。それが原因で人を殺し過ぎ、地上を追われた者も多い。星空などという地味な代物が捨て置かれているのは、むしろ自然なことなのかもしれない。
そう思っていた。
諦めていたのだ。
地底にいる限り、もはや二度と見ることは叶わないのだと。
しかし半年あまり前、ある事件をきっかけに地上との交流が再開された。
そうなると、地底から抜け出そうとするモノの監視は必要がなくなる。それを任されていたパルスィは、唐突に役目の終わりを告げられたのだ。
何処へなりと行って構わないと言われて。
戸惑って。
今更そんなと考えて。
考えあぐねた結果――。
パルスィはふと、星が見たいと思ったのだった。
自分の立場が変わってしまっても、きっと星空は変わっていないだろうと思ったからだ。
環境が次々と覆って行きそうで、急に恐ろしくなって。変わらないものもあると思いたかったのかもしれない。
けれど。
あんた地上になんて行かなかったでしょうに――そう言って、ヤマメは呆れたようにため息を吐いた。
「私が行こうって誘っても乗ってこなかったしさ。まあ別に構わないんだけど、どうして行こうとしなかったの。すぐそこに道はあるんだから、行けばよかったのに」
「結局、踏ん切りがつかなかったのよ。もし星空まで変わってたら嫌じゃない? 冷静に考えれば変わらないものなんてないのよね」
そんなものかねえとヤマメは首を傾げる。
「未だにここ、離れようともしないしさ」
「あら、一度馴染めば案外居易い場所なのよ?」
「それに、待ち合わせの与太にしちゃ実感がこもり過ぎてる」
「気のせいよ。どうしても見たかったわけじゃないってば」
理解してもらおうとは思わないけどねとパルスィは軽く苦笑した。変化することを好意的に捉えられる上、新しいもの好きな土蜘蛛には今一つ分からない感覚だろう。
要するに感性の違いなのだ。説明できるとも思えないし、無理矢理言葉にしてみたところで、的外れなものしか出てくるまいとパルスィは思う。
文月上旬、立秋の頃。
地底では毎年この時期に納涼祭が行われる。今年は今日がその日だった。常日頃から賑やかな旧都だけれど、今宵はそれ以上に騒々しくなっているはずだ。
しかし、その喧騒もこの橋近辺までは届かない。パルスィとヤマメは遠く旧都の灯明を眺めながら、杯(さかずき)を傾けていた。弓状の木橋の中央は、水面を渡る風が火照った肌に心地良い。
静か――である。
流石に今日、この橋を渡って地上へ向かおうと言う妖怪はいないからだ。
地底には基本的に娯楽が少ない。誰もが好むことと言えば、酒を呑み騒ぐことくらいである。人間との関わりを絶った弊害だ。故に、というべきだろうか。皆が関わる祭りは、地上では決して見られないほど華やかなものとなる。たとえ交流が復活したとしても、これを逃すような輩は地底住まいを名乗ることはできまい。
今年は花火をやるらしいよ――とヤマメは言った。
「はなび?」
「知らないかい。こう、燃すと爆ぜる粉を固めてさ、空に打ち上げて爆発させる奴。まあ、星の代わりくらいにはなるかねえ」
知らなかった。首を傾げる。
「人間はそんなことやってるの?」
「私もついこの間、地上で初めて見たばっかりだからさ。詳しくは知らないし、そのとき見たのはそれほど大きくもなかったんだけどね。差し渡しが二百丈越すようなのも作ったりするそうだよ」
こぉんなでっかい奴だってさ――と言って、ヤマメは両腕を大きく広げた。
パルスィはその腕を避けながら、半眼でヤマメを見やる。
「嘘くさいわね」
「嘘って言われてもねえ。まあ、それだけ大きいのは私だって見たことないんだし、証は立てられやしないけどさ。その半分くらいのやつは見たよ? 綺麗なもんだった――」
「――仮に本当だったとしても、よ」
こっちじゃ打ち上げられないでしょうねと遮って、パルスィは天蓋に視線を向けた。
地底の空間は相当に広く、高い。けれど二百丈――現在の単位に換算すると約六百メートル――もある爆発を起こしてもを影響がない程ではない。余波だって起きるのだろうし、倍か、あるいはもっと高さが必要だろう。そんなものを人間は打ち上げているのか。
――しばらく見ないうちに凄くなったものね。
そう思う。飛び道具と言えば弓矢を指していた頃でパルスィの人間像は止まっているのだ。それにしても。
「やっぱり、広いって言うのはここぞというときには便利なのかもしれないわね」
「そうかい? ううん、たまの機会の為だけに広くって言うのもねえ。私は狭くって暗い方が落ち着くよ。本当にあるかどうかも怪しいとこではあるしさ」
「あれ、信じてないの」
信じているから話したのだと思ったのだが。
ヤマメは杯を手酌で満たしながら苦笑する。
「言っただろ。私だって御山の神様にちょっと話を聞いただけなんだ。それだけで頭から信じられるもんか」
「ああ――地獄烏に八咫烏をくれてやった張本人って言う? 結界越えて都落ちしてきたんだっけ。なんか結構有名どころだったらしいじゃない」
「それそれ」
そんなに外は生き辛くなったのかねえ、とヤマメは僅かに物憂げな口調で言った。
博麗大結界が幻想郷の周囲に巡らされ、山里が閉ざされたことは、結界の成立から間もない頃に地底にも伝わっている。
と言うより、正確には――その結界こそが地上との交流を完全に絶った原因の一つなのである。
完全に遮断するには、あの頃のどさくさは都合が良かったのだ。
パルスィは小ぶりな杯を煽った。
「人間は変わりやすい、ってことよね。結局」
「あんた、そうやってまた上に行かない口実作ってるだろ」
ヤマメは意地悪く笑う。曖昧な笑みで濁して、パルスィは新しく酒を注ぐ。
「うん? 神様も忘れられるくらいなら、人間が大火を使っても不思議じゃないのかねえ」
「私に訊かれてもね。そういう技はあんたらの方が得意でしょ」
土蜘蛛は手先の器用な者が多いのだ。
「そりゃそうなんだけどさあ」
「まあ、外は外でいいことあると思うわよ? 私たちじゃ想像できないようなことでしょうけどね」
「無責任だねえ」
「他人事だもの」
どうせ分かりやしないんだしとパルスィは言う。幻想郷の中で起きていることならともかく、結界を越えた先のことまでは知りようがない。地底にいるから、尚更だ。
「わざわざ今になってこっちに来たのなら、その神様たちには――いいことがなかったんでしょうけど」
「夢も希望もないやね」
「忘れられたら消えるしかないのよ、神霊っていうのは。こっちで上手く馴染めればいいけど」
幻想郷がかつてとあまり変わっていないのなら、それなりに神を受け入れる余地もあるだろう。異変の最中に教えられた、新しいルールもある。
あ、とパルスィは声を上げた。
「もしかして、さ。納涼祭にも神様が関わっているのかしら」
「何故だい」
「その花火、っていうの。急に手に入れられる代物じゃなさそうだし」
「ああ、信仰を得る為に――ってか」
派手好きの馬鹿は乗るかもしれない。現世利益しか求めていない妖怪たちでは望み薄かもしれないが。
ヤマメはぽりぽりと頭をかく。
「ないんじゃないかねえ」
「そうかしら。割と節操ないと思うのよね」
「そんなものかねえ」
「そんなものでしょ」
消えたくはないから此方へ来たのだろう。人間に望みを持てないと外の世界で思わされたのなら――妖怪から信仰を得ようと思っても不思議ではあるまい。
知った風に語るじゃないかとヤマメは言った。
「会ったこともないのにさ」
「それは――まあ、ね」
私だって同じようなものだからとパルスィは苦笑する。
「想像で語ってると言われればそうなんだけど。ヤマメよりは分かるつもりよ」
「流石。橋姫さまは言うことが違うねえ」
「信仰とかそういうのを抜きにして、祭りでも何でも一緒にできればいいわよね」
「難しいだろうさ。仮令地上の連中が容認しても、こっちの奴らが認めないよ。面倒なことは放っといて楽しめばいいと、私なんかは思うけどね。旧都の中にも色々な考え方の奴がいるから」
「へえ」
「催し物の中身。どこに誰が店を出すのか。利権と娯楽が絡むと奮起する奴ばっかりだもの。ほんと、面倒だ。今年の会合もずいぶん紛糾していたらしいし――ああ」
そこで一度、ヤマメは思わせぶりに言葉を切って。
「あんたをこれまでの礼も兼ねて呼びたいって話も出ていたようだよ?」
そう言った。
は、とパルスィは目を丸くした。
――礼?
そんなものとは縁遠い生活をしていたはずなのだけれど。本当に――半年前までここを訪れる者は、ヤマメを入れても片手の指で足りる程だったのだ。
旧都で噂される"橋姫"は宇治橋のそれに近しく、寄れば嫉妬に狂わされると伝わっているはずなのに。
表に出ない部分でならば色々とやっているし、この後にもその予定はある。それを見届ける為に、ヤマメもここにいるのだけれど。あくまでも、表舞台には出ないように気を付けてきたはずなのに。
思い当たらないって顔だね――にやりと笑い、ヤマメはパルスィの肩に手を置く。
「自覚はないかもしれないが、あんたが橋を――境界を守ってくれている良い奴だって思いはじめた輩が存外に多いのさ。ここ最近はね」
「最近、ねえ。上に行く奴の見送りとかってこと?」
「そう。で、こりゃ前々から良い奴だったらしいって話になったとか何とか」
「ずいぶん急じゃない?」
行ってらっしゃい。
お帰りなさい。
その二言くらいしか、言葉を発した覚えはない。
しかし――。
そう言われることで、たとえ地上で何があっても帰ることのできる場所があるのだと思える、らしい。
――本当かしら。
パルスィは眉間に皺を寄せる。
「分からなくはない、けど。誰もそんなこと言わないわよ」
「言うもんか。面と向かって言うには照れるだろう、こんなこと」
「……そうね」
「礼をしようって言い出した発起人は、勇儀だったらしいけど」
名を聞いて納得した。自然と嘆息がこぼれる。
「こっちの都合を考えないところ、いつになったら改めてくれるのかしらね」
「無理無理。気のおけない友人だと思われたが最後、ってね。結局は自分から取り下げたらしいし、許してやんなよ」
「何よ、あいつを庇おうっていうの」
「そんなつもりはないんだけどねえ――」
不意に。
おおと言って、ヤマメはパルスィの背後、旧都方面を指差した。
「噂をすれば、だ」
「え?」
指された方向を見やる。
酒瓶をたんまり抱え、一角の鬼が此方へ向かって来ていた。常の簡素な姿でなく、艶やかな空色の着物を身に纏っている。崩した着こなしがよく似合っているが、殺風景な木橋の上には似つかわしくない格好である。祭りの開幕式もそこそこに、此処へ来たのだろうか。
遅いよとヤマメが声を張り上げる。
「神酒が来なけりゃ始まらないだろう!」
「半刻も前から呑んでるじゃない」
「これくらいは呑んだうちに入らないの。あ、気付いた」
悪い、とでも言うように勇儀は手刀の形に手を挙げていた。
ようやく始められるねとヤマメが言う。
パルスィはそうねと言って、勇儀に向かって手を振った。
橋姫と土蜘蛛と鬼と。種族を鑑みれば、本来関わりのない三人なのだけれど。地底へ移住する際のあれこれや、地底を閉ざした後のいざこざを経て、いくらか仲良くなっていた。納涼祭を望ながらこうして集まることが、毎年の習慣なのだ。
当然、祭りを投げ出してまでこんな場所へ集まるには――理由があるのだった。
とりあえず今年も橋姫さまの加護に感謝して――と割合に軽い口調で言いながら、勇儀は朱塗りの大杯を掲げた。パルスィはヤマメとともに応じながら、僅かに渋面を作る。
「感謝って言われても、私は一応、去年の暮れにはもう橋守の役目を解かれてるんだけど」
「細かいことは良いんだよ。いずれパルスィはここにいてくれてるんだし」
「……余計なことしようとしてたとも聞いたわよ」
「ま、未遂ってことで勘弁してくれな。それに、優しい橋姫さまに感謝したって罰は当たらないと思うんだけどね」
屈託なく笑われる。俄かに熱を帯びた頬を自覚して、パルスィは勇儀から顔を背ける。けれど背けた先には、ヤマメの意味深な笑みがあった。
「何よ」
「別に。それくらいで照れるとは思わなかっただけ」
「い――言われ慣れてないんだから仕方ないでしょ」
「私も言ってあげようか?」
「遠慮しとくわ。あんたのは誠意がなさそう」
酷いねえと言ってヤマメは苦笑する。自覚はしているのか、それ以上を言い募ることはなかったけれど。土蜘蛛たちは誠意などと言うあやふやな感情論を信用していないのだ。
土蜘蛛は地底で数が多い種族の一つだが、滅多に表には表れない種族でもある。病を自在に扱うため、地底へ来た当初は妖怪――特に肉体に依存する部分の多い妖獣――にすら恐れられていたのだ。旧都の成立から数百年が経過した現在では殆ど解消されてはいるけれど、その頃自衛の為に築き上げた情報網は未だ旧都全域に広がっている。
言い換えれば。
様々な話の裏を知っている――のだ。
だから、土蜘蛛たちは基本的に感情論を信用しない。彼らが誠意を見せると言うことは、取りも直さず何かしらの物品ないし情報をやりとりすることを意味している。パルスィはそんなことを望んでいないし、ヤマメとてそんなことをしたくはないだろう。
思い、杯に視線を落とした瞬間だった。
何だい二人ともしち面倒臭そうなこと話してるねえもう出来上がってるのかい――そう一息に言いながら、勇儀がパルスィの首に腕を絡めてきた。
「あたしが祭りの準備に奔走してたってのにさあ。ちょっと酷いんじゃないの」
「それはあんたが、好きでやってるんでしょうに。勇儀、重い、ってば」
「おお、悪い」
勇儀の手が一度離れて――再度、背後から抱え込まれる。身長差のせいで頭の上に顎が来るのが癪に障る。この鬼、女姿のくせに背丈が六尺近いのである。その上、地上の夏に合わせて地底の気温は暑く設定されている。密着されると暑いのだ。何を言っても無駄だと分かっているから、ある程度満足するまでは放っておくのが常になってしまったのだが。
くつくつと笑いながら、ヤマメは勇儀の腕を叩く。
「勇儀、パルスィは細っこいんだから加減してやんないと」
「分かってるさ。久し振りにたらふく呑めるから舞い上がっちゃって」
「それなら、あー、仕方がないのかねえ」
「……待って。私は関係ないわよね、それ」
パルスィの抗議は笑って誤魔化された。呑まなければ死ぬ――と勇儀が公言して憚らないことを知っている上、ここ数日奔走していたのを見ているから強く言えないのだ。
土蜘蛛とは逆に、鬼たちは旧都を取り仕切る中核に収まっている。数は多くないが一人一人の力が強いため、問題の解決に駆り出されることも多い。
ただ、彼らの解決方法は酒を酌み交わすことに重きを置いている。細かいところを詰めるには、根本的に向いていないのだ。込み入った話になると、途端に面倒がって敬遠する。
そうなると――地上、妖怪の山にいた頃から鬼たちの主格についている勇儀が駆り出されるのだ。
これもそんな事態の名残だった。
話し合いの席では、たとえ鬼であっても過剰に酒を摂取することは認められない。毎年のことなのだが勇儀は決まって心労を溜め込んでしまうらしい。そのくせ、鬼の仲間内では滅多にそれを口に出さないのだという。
お膳立てを整えるだけ整えて、当日の運営は全て他の鬼に投げるのはささやかな意趣返しなのである。と言っても――小難しいことを考えずに動けばいい役目は、鬼たちには向いているのだ。それを分かった上で、勇儀は彼らを使っている。あたしの知らないところであたしの責任問題が起きてるんだ、結構焦燥感を煽ってくれるよ、などと言って笑う奴の気がしれない。
ひとが良いのだろう。パルスィはそう思っている。勇儀は周りが楽しくなけりゃあたしだって楽しくない、とでも言うのかもしれないが。
責任感のある鬼――などという異端が四天王と呼ばれている時点で、その質も知れる。力を持っていることは当然として、面倒を押し付ける先が必要だったのだろう。
愚痴なら聞いてあげるよとヤマメは言った。同意を求められて、パルスィも少しならねと頷く。
「そうかい? あー、でもヤマメだけならともかくパルスィにまで迷惑かけるのもなあ」
「もう十分迷惑してるようだけどねえ」
「ううむ。酒の勢いで、ってことにしようかね」
「あんたが酒とか言うと無理があるわよ」
「拘りなさんな」
まあ、いつもと一緒さと勇儀はため息を吐く。
「また色んなところの折衝押し付けられてね。それに今年も、萃香は帰って来ないしさ。準備に関わってくれるような奴じゃなかったけど、睨みを利かせる奴が少ないといろいろ手間が増えていけない。さっさと一人だけ地上に逃げやがって。この半年で会いに行っとけばよかったかな。ようやく上の連中と話を付けられたっていうのに」
「変事の中に、花火が入ってるって聞いたけど?」
「お、流石に耳が早いね。ありゃ地霊殿の奴らがねじ込んできたんだけどさ」
地霊殿、とパルスィは口中で反復する。
「意外ね。古明地はそんなことに口を挟みそうにないけど」
「いや、さとりでもこいしでもないんだ」
「え?」
あれはさ、と何故か疲れた口調で言いながら、勇儀は微妙な渋面になった。
「最近、地霊殿の飼い猫と飼い烏がよくここを通るだろう」
「ええ」
「人の里にも顔を出しているらしくてね。ひと月前、そこで見た花火を地底の皆にも見せてやりたいと言うのさ」
あたしも花火ってのがどんなものかは知らないんだけど――と勇儀は大杯を煽る。頭の上で零さないでよとパルスィは念じる。
「どういうことをしようと構わないんだ。反対だったって訳じゃない。むしろ、閉鎖的な地霊殿の連中が旧都の祭りに関わろうとすること自体はいいことだと思ってるよ。いくら嫌いでも苦手でも、あそこは旧都になくてはならない場所だしね。ただね、横車押されるといい気分じゃなくなる奴もいるわけだ」
「ふうん。皆好き勝手に騒ぎたがるものね」
「そういうことさ。あいつらがさとりに見せてやりたいんだろうと分かるから、協力してやりたくなってね。いい加減打ち解けて欲しいし、あれも大概外へ出ないから」
おや、とヤマメは眉を持ち上げる。
「出られない――の間違いじゃないのかい?」
「茶化すなよ土蜘蛛。お前さんたちだって、今じゃ大手を振って通りを歩けるようになったじゃないか」
「私らと覚りは違うさ」
勇儀は寸秒、押し黙る。
「あたしにはそれが分からない」
「何故」
「心を読まれたところで、堂々としていればいい。そう思ってしまうのさ」
「それができるのは――鬼だけだろう。誰しも、腹の裡に疚しいものを抱えているものだよ」
「そういうものなんだろうか」
本心から困惑しているように、勇儀は言う。
理屈は分かるのだろう、とパルスィは思う。勇儀は何くれと目端が利く。読心をされてどう感じるのか――それを察せないほど鈍い鬼ではない。
ただ。
やはり――種族に依るところが大きいのだろうとも思う。
鬼は嘘を嫌う。無論、方便を使わないわけではない。ただしそれは清濁併せ呑む覚悟があってこそ成り立つものだ。良かれと思い発した言葉が、嘘と糾弾される覚悟。露見しなければ構わない――そんな理屈は、例えば覚りの前では通用しない。言葉――言霊に責任を持ち、仮令露見したとしても皆が良いと思える方向に動いていると考えられるような方便であるなら、鬼とて許す。
けれど、それは。
――綺麗事、よね。
そんなことは普通――できまい。ひとは嘘を、その場しのぎに、あるいは他者を騙すために吐く。言葉が生む結果にまで責任を持とうと考えている者は稀だ。そして。
そう言った者たちにとって、覚りは大きな脅威となる。
理解しているからこそ、古明地さとりは滅多に地霊殿を出ないのだろうし、その妹は能力を閉ざしたのだろう。
原因と、結果。
双方を理解できるからこそ――勇儀は悩むのだ。皆を先導する者として、鬼の異端と見られようとも。
「勇儀は勇儀の思うようにすれば良いと思うわよ」
「うん?」
パルスィは勇儀の腕の中で身をよじる。
無理矢理に首を曲げて、頭一つ高い位置の赤瞳を見据えた。
「あんたが何かをしようと思ったなら、きっと熟慮の末なんでしょうし」
「――そう言ってくれると、嬉しいねえ」
勇儀は小さく苦笑する。
「パルスィが褒めてくれるなら、考え続けることだけはやめないようにしないとね」
「……その気遣いをちょっとはこっちにも向けてもらいたいとも思ってるわよ?」
「それは無理」
何でよとパルスィは暴れる。鬼の力には、やはり敵わないのだけれど。
勇儀はまあまあと宥めながら言う。
「目下の懸案は――やっぱり、さとりかなあ。結局、調整をあたしに丸投げだしね。ペットの気持ちがわかってるんだから、もう少し手伝ってくれてもいいのにさ。ペット絡みで山の神様と関わるようになったらしいし、ちょっとはあの性格も上向くと良いけど」
「ま、あいつらが動いてくれた分楽しめるんだからいいじゃないか。花火、人間が作ったにしては綺麗なものだよ。何かこう、言葉にはしづらいんだけどさ。見た方が早いしいいか」
唯一花火を見たことのあるヤマメが、遣り取りを笑いながら言った。
「そうか。じゃあ、こっちの用を先に済ませておこうか」
「お、やるのかい」
「後顧の憂いは絶つに限るさ。その方が良いだろう、パルスィ」
「私はいつでも構わないわよ。勇儀の好きなようにして。とりあえず――いい加減放しなさいッてば!」
暑苦しいのよと言うと、勇儀はようやくパルスィを解放してくれた。
向き直ったパルスィに勇儀は朱塗りの大盃を預け、帯に手挟んだ油紙を抜き取る。厳重に封を施したそれを、勇儀はいくらか気遣わしげな表情でパルスィに手渡した。
中身を知っているからだろうか。
封越しにひどく淀んだ気配が漂っているような気がして。パルスィは僅かに顔を顰める。
「相変わらず重いわね」
「仕方ないだろう。一年分、溜まりに溜まった旧都の悪縁奇縁、穢れの類だ。そういう場所にあたしたちは住んでいるのさ」
「そうね。そうだったわ」
「すまないな。今年も頼むよ」
勇儀はそう言って、深々と頭を下げた。
旧灼熱地獄跡は是非曲直庁から払い下げられた当初、怨霊が跋扈する異界だった。
悪い想念の類は妖怪にとって毒である。幽霊と同じく気質が形を成した怨霊は、その具現のような存在だった。触れると障り、近くにいるだけでも何となしに落ち着かない気分にさせられる。土地を買い取ったまでは良かったが、現在旧都のある場所は、到底住めるような場所ではなかったのだ。
故に、計画の先導者――鬼たちがまず求められたのは、怨霊を鎮圧することだった。
怨霊の溜まり場となっていた地獄釜の直上に地霊殿を建設し、覚りを置くことで封とする。課題と思われていた覚りの確保は、その頃幻想郷に辿り着いた姉妹を仕立て上げることでどうにか成った。そのことを勇儀は悔いていないらしいが、未だにさとりが打ち解けないのは、その頃の勇儀が抱いていた打算を読み取っていたからかもしれない。
パルスィは当時を見ていないから――確証は持てないのだけれど。
そうしてできあがった広大な土地に、人間に追いやられたり、鬼と同じく人間に嫌気が差した妖怪たちが集まった。旧都の原型はこの頃にできたものだ。
既にその頃、土蜘蛛たちもまた旧都に入り込んでいたらしい。土蜘蛛はいち早く、独自の情報網を旧都内に形成した。鬼たちはそれに目をつけたのだ。そしてヤマメは、土蜘蛛側の窓口だった。
全てを投げ出してようよう地底へ流れ着いた妖怪たち――土蜘蛛はそうした輩を取りこぼさなかった。その網を、鬼は引き継いだのである。
鬼の四天王の一名が離れたのは、この頃であったと聞く。私はまだ人間に未練を残しているようだ――そう言って、地上へ戻ってしまったらしい。
ただ、もはや四天王全てが揃っていなくてはならない状況は脱していた。勇儀を主体としたいくらかの鬼たちで、旧都の構造は回り始めていたのだ。しかし。
上手く行くかに見えた旧都の運営は、結局また怨霊によって阻まれることとなる。
灼熱地獄の土壌に残留した、怨霊の思念までは――取り除くことができていなかった。怨霊を退けても、土地そのものが穢れていたのだ。
勇儀は窮し、鬼の身でありながら陰陽師の術すら行使した。鬼の四天王、力の勇儀――そう呼ばれ様々な術を扱える彼女でも独力では覚束ず、最終的に旧都の四方に四神を模した形代を配し穢れを萃めることで一応の解決は見た。
一つだけ欠点があるとすればそれは、一年に一度形代を新しいものに変えなくてはならないことであり、古い形代をどうにか処分しなければならないことだった。怨霊の穢れを萃めた形代は、それ自体が強い瘴気を発するようになるからだ。
何処かへ流さなくてはならなかった。祓いはそうして初めて完了するのだから。
ならば祓神を呼べばいい、と誰かが言って。
そして――。
橋姫が勧請されたのだった。
「――早川の瀬に坐す瀬織津比売と言ふ神――」
「毎年毎年思うけど」
「あん?」
「いい加減しつこいわよね、これ。祓っても祓っても減らないったら」
パルスィは手にした形代をひらひらと振る。大まかな人の形に切り抜かれた和紙である。手のひら大だがこれ四枚で旧都全域の穢れを萃めているものだ。そう考えれば、こうして軽々に扱うのはあまり宜しくないことではあるのだろう――多分。パルスィは術の構造が今ひとつよく分かっていない。
規模の大きな流し雛と近いのではないか。
とりあえずパルスィはそう捉えている。街一つまるごと、というモノはここへ喚ばれるまで見たことがなかったけれど、祓神として人間と関わっていた頃には、厄落としの神事でもっと小さなものを見かけたことがある。
穢れは減りやしないさとヤマメは首を横に振った。
「怨霊は封じてあるだけで死に絶えたわけじゃないんだ。今年は特に、あの異変が起きた後だしね」
「――荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に坐す速開都比売と言ふ神――」
「ああ――そう言えばそうね。あれで一気に怨霊が出てきたんだっけ」
「殆どはさとりが封じ直した、って話だけどね。幾らかはそこらに残ってるし、地上に出てしまった奴もいる。大人しく輪廻に戻ってくれると楽なんだけどねえ。無理ならせめてこう、何か潰す手段でも見つからないものかな」
「勝手に潰しちゃったら彼岸の連中に怒られるんじゃなかった? 怨霊は幽霊と違って全部人間の魂だから、とか何とか言って」
「面倒臭いねえ」
ヤマメはそう言いながら、パルスィに向けて酒瓶を突き出す。
「今のうちに飲んどかない?」
「――息吹戸に坐す息吹戸主と言ふ神――」
「遠慮しとくわ。この後のことを考えると、ね」
「ふむ。じゃ、これは私が全部頂くとしますかね」
「構わないでしょ。勇儀は今忙しいみたいだし」
パルスィとヤマメは顔を見合わせて笑う。
橋の――袂。
勇儀は橋姫を祀る社の前で、祝詞を奉納している。
「――根国底国に坐す速佐須良比売と言ふ神――」
「飽きもせずによくやるわよね」
「必要だからやってるんじゃないの?」
「あれ、ヤマメは知らなかったっけ。あんなもの別に必要ないわよ。人間が姿の見えない神様の力を借りたくて唱えるわけじゃあるまいし。第一、私もうここにいるじゃない。気分よ、気分」
「そんなに適当なものなのかい」
苦笑するヤマメに、そんなに適当なものなのよ――と返して、パルスィは欄干に顎を預けた。言葉とは裏腹に緩んだ顔を見られたくなかったのだ。
必要ないと言っても、決して嬉しくないわけではない。祝詞を聞くと気分が高揚する。自分の為にわざわざ唱えられている、と思えば尚更に。寝所で囁かれる寝物語と、受け取り方は似ているのかもしれない。
パルスィは――神霊である。
勇儀に喚ばれ橋の守護を任された一柱だ。
数百年前になるだろうか。既に、橋姫が地上で信仰を萃めることは困難を極めていた。パルスィは、消滅してしまうのならそれもまた運命だと思っていた。しかし信仰し助力を求めるものがいるのなら、力を貸すことに否やはなかった。
橋とは外と内を繋ぐ境界である。地底へ辿り着く者の多くは、まずこの場所に現れる。地上に繋がる縦穴から現れ、橋を渡り、そして旧都へ向かっていた。彼らの道行きに加護を与えることが橋姫の役割だった。
それが百と数十年前、博麗大結界ができるまでの話である。
交流が途絶した後には、パルスィは反対に橋を通らせない為にここに留まった。地上の社は取り壊されて帰れなくなったという、切実な理由もあったのだけれど。
そして互いの行き来を遮るために、鬼女橋姫が出入りを監視している――という噂がまことしやかに旧都では囁かれるようになった。
神霊の橋姫を知らずとも、妖の橋姫を知っているものは多かった。噂を流すことは――容易だったのだ。土蜘蛛もその片棒を担いでいたはずなのだが、詳細を知らないあたりはヤマメらしいとパルスィは思う。
「――罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天津神国津神八百万の神等共に聞食せと白す」
二人が話している内に。
朗々と祝詞を唱え終えて、勇儀は一つ息を吐いた。
「あ、終わった」
「みたいね」
一年に一度しか使わない詞だろう。なのに勇儀の立ち姿は堂々としている。まさか日頃から唱えているわけでもないだろうに、一言一句違えることもない。
「ただ厳ついだけじゃないことは知ってるつもりだけど、ああして実際に祝詞上げられちゃうと何だか――不思議な気分よね」
「まあ、見た目と普段の振る舞いからはあんなことできるとは到底思えないよねえ」
「聞こえてるよ、二人とも」
苦笑しながら勇儀は橋を渡ってくる。
「大きなお世話だ」
「事実だろうに。大体、鬼のくせに陰陽の術だの祝詞だのを扱えるあんたがおかしいんだ。そうだろう?」
預かっていた大杯を返しながら、ヤマメはそう言って笑う。
「いいだろ別に。使えるものは何でも使うのが私の主義だ。力任せに解決できないことと向き合ったときを考えれば、できることは多い方がいいんだからさ」
勇儀は手酌で杯を満たしながら言う。
正論ではあるのだろう。勇儀自身の印象と違っているだけで。
「それに、さ」
「――何よ」
意味深な目つきで勇儀はパルスィを流し見る。
「祝詞――言霊なんていうものは、祈りであり願いだ。貴女は請われれば嫌だと言えない性格なんだろう?」
「そんなのはね」
神仏なら誰だって同じよと仏頂面でパルスィは言った。
形代を掌の上で広げる。
「折角だから乗せられてあげるけど。とにかく――」
くしゃりと握り潰す。旧都一年分の穢れを溜め込んだ形代を、躊躇なく。
「――下がってて。雑念が入ると邪魔だから」
途端。
カタチを失った形代から黒い霧が吹き上がる。
勇儀とヤマメが色をなして距離を取る。それを尻目に、パルスィは平然と霧の端を――掴む。
生温い感触が掌に伝わる。
逃れようとしているのか。手中でそれはぬるりと蠢く。
いつ見ても気持ちの悪い代物だ。怨霊が齎す悪意の残滓――地獄の釜で溶かしきれなかった、欲望の残骸。
橋姫は悪縁を断ち切り、穢れを祓う神として祀られている。勧請された場所が地底であっても、その能力に変わりはない。
思念の残骸から悪意を絶ち、清める程度のことは容易い。
掴んだ部分を起点に、黒い霧が徐々に漂白されていく。
多分――と、掴んだ手をそのままに思考する。毎度、これを行う度に考えてしまうことを。
地獄から切り離される以前から、灼熱地獄には不備が出ていたのだ。
否。
灼熱地獄に不備が出たからこそ、この土地を放棄することになったのだろう。
是非曲直庁の財政悪化が最大の理由ではあるのかもしれない。しかしそれが原因で灼熱地獄の修理ができなくなり、結果――ということは考えられる。選択肢は他にもあったはずなのだから。
無論、憶測でしかないのだけれども。
――ほんとう。
面倒事を残していってくれたものだ。これさえなければ、旧都は今よりもう少し住みやすい場所だっただろうに。
苛立ちのまま、指先に力を込める。いっそう激しく霧はもがく。
音もなく。
声を発することができたなら、さぞ盛大な悲鳴を上げているところだろうなとパルスィは思う。しかし橋上に響くのは、形代の残骸が動くかさかさという微かな音のみだ。怨霊そのものではないのにこれだけ暴れるのだから、本体はもっと凄いのだろうか。
――機会があれば、さとりに聞いてみようか。
思う間に。
一枚。
二枚。
役目を終えた形代が、塵と消えていく。
三枚。
四枚目の半ばまで消滅した時点で。
パルスィはおもむろに口を開けた。
そして。
喰いついた。
怨霊の残滓。それはつまり、人間の想念の名残である。
ならば。
悪意を絶ち切り穢れを流しさえすれば、信仰心と同じく――、
神の糧となり得る。
するりするりと漂白された霧がパルスィの口腔に消えて行く。蠢く霞をただ嚥下する。喉元を生温い気体が通り過ぎて。腹にいやなものが溜まる感覚を堪えながら、喰う。これは一年に一度だけ得られる神饌なのだ。神霊として体を保つ為には、いくら気持ちが悪かろうと不可欠なことなのである。
するする。
ゆらり。
するする。
ゆらり。
全てを飲み下すまで、さほど時間は掛からなかった。
そうして全てを終わらせてから――パルスィはようやく顔を顰めた。
「……次は塩でもつけてみようかしら」
「そりゃ良い、折角色々とモノが手に入るようになったんだしな。ともかく――お疲れさん」
近寄ってきた勇儀がそう労いながら大杯を差し出す。
「世話をかけるね、ほんと」
「いいのよ。神饌と御利益が一致しててちょうどいいじゃない。でもこんなものばかり喰べてると本当に妖怪になっちゃいそうね。不味さで」
パルスィは大杯を受け取るなり、一気に煽った。
喉にこびりついていた違和感がもろとも腑へ流し込まれていく。酒精の健全な熱さが気持ちいい。酒瓶丸一本分近い量を飲み干して、パルスィはぷは、と息を吐いた。
やはりあんなものよりも実体のあるものの方が美味い。そう思う。
いい飲みっぷりだと勇儀が笑った、そのとき。
図ったように、腹の底に響く音が旧都から届いた。
「おう、始まったね」
「ん」
「あれが花火?」
「そうさ」
ヤマメが杯を持ち上げる。乾杯のつもりなのだろうか。
旧都の上方に咲いていたのは、橙色をした火の花だった。弾幕ごっこにありがちな華美さはない。むしろ静かに燃える熾火のような色合いだ。一つ一つはそう大きくないし、本来はおそらく真円になるのだろう形は幾らか潰れてしまっている。
それは多分、打ち上げる奴が慣れていないからだろうねと訳知り顔でヤマメは言った。人間が作ったものは、一朝一夕に扱いを習得できるほど簡単でないものが多い。ひと月前に見たというのが本当であるなら無理からぬことだろう。じゃあ来年はもう少しましになるだろう、楽しみだねと勇儀が言う。
花火を肴に、パルスィは杯を煽る。どん、どんと連続する炸裂音が、見えるものより僅かに遅れて耳に届く。
それは。
確かに潰れてはいるのだけれど――と、酒を飲みながらに思う。
「これはこれで綺麗なものね」
地上と交流が再開した証のようなものだから。
「そう言っただろ。上で見たときは月が出ていてね。もっと面白い見世物だったよ」
どうだ、と言わんばかりにヤマメは胸を張る。
ただ。
――何故かしら。
綺麗なだけではなくて、不思議と感傷を起こさせる光景だった。祭りで打ち上げられるものと言っていた。祭りの華やかさに相応しく、一瞬の儚さに思いを馳せるものなのだろうか。
一時の狂騒を良しとするのは、人妖に共通することなのか。
――良かった。
そんな考え方をまだ人間が持っているらしいことに対して、パルスィは小さく安堵の息をこぼす。
そして。
パルスィはちらりと隣に視線を向けた。
「人間が作ったもののくせに、とか思ってる?」
「ん――いや。これでやっと終わりだなと思ってね」
勇儀たち鬼は、人間の思想や在り方を否定して、関係を絶ったのだ。
そんなことはないさ、と勇儀は否定する。けれど横合いから覗きこんだその目は、どこか寂しげな色を帯びているようにも見えた。
同じ感慨を抱けるのなら、あるいは共存を続けることも可能だったのだろうか――とか、そんなことを考えているに違いない。
それは――きっと、鬼と人間の往時を知らないから言えることなのだろうけれど。
パルスィは僅かな時間で思い直す。
英傑を失い妖怪や神霊を忘れた人間が、今何を考えているのかだなんて、それこそ知り様のないことだと。
そんなことを考えながら。
三人は、しばしの間花火を楽しんだ。
花火自体はものの数分で終わってしまった。数の確保が間に合わなかったのかねえとヤマメは苦笑した。扱いも含めて、来年の祭りを楽しみにすることにしようと心に誓う。
尻窄みに終わるかと思った出し物は――しかし、旧都の上方に出現した赤い巨星が繋ぎとなって続行された。これはパルスィにも見当が付いた。霊烏路空の弾幕だろう。
そして、続く一瞬に光線が狙撃した。どうやら地上の魔法使いが地底の祭りに顔を出していたようだ。人間なのだろうに。花火の搬入を手伝っていたのか。消化不良を解消するため、今から一戦交えようとしているのかもしれない。
先刻の花火よりも派手さは遥かに上で、確かにこちらの方が旧都ウケはするだろう。けれど。
「何となく、気分じゃないねえ」
ヤマメの言葉に、パルスィはこくりと頷いて同意した。
何となく――ではあるけれど。あの花火を見たあと、どうにも弾幕ごっこを見ようという気にならなかったのである。
「そうね。何ならうちで飲んでく?」
「それもいいけどねえ」
「何だい。はっきり言いな」
「ちょいと地上に出てみる、てのはどうだろうね」
星でも見に行かないかい――と、ヤマメは含んだような目つきでパルスィを見た。
おおそれだ、と勇儀は軽く手を打った。対象的に、パルスィは半歩後ろに下がる。花火を見たことでいくらか満足してしまって、また地上へ向かおうとする気力が萎えたところだったのだ。
しかし勇儀とヤマメはまるで聞いていなかった。あたしたちが付いてるから大丈夫大丈夫――と根拠もなくそう連呼され、腕を引かれて縦穴へ連れ込まれてしまった。
「ねえ! 本当に行くの?」
「往生際が悪いよパルスィ! 私が行くって言ったら行くの!」
「観念しなよ。ヤマメはこれと決めたら引かないって知ってるだろ。蜘蛛の巣にでも引っかかったと思って、さ」
――あんたも同じじゃない。
苦笑する勇儀に、パルスィは内心で文句を垂れた。言っても無駄だと言うことは、それこそよく知っている。
地上へ続く縦穴は、長かった。
橋を渡り地上へ向かう者の中には、明らかに目的を達せず途中で引き返して来たのだと分かる者がいる。きっとこの穴を飛ぶうちに気持ちが萎え、今のパルスィと同じように地上に対する不安が大きくなった結果――引き返してしまうのだろう。
そういう輩は大抵一人きりで、勇儀やヤマメのように牽引してくれる者がいない。ここを通ることで、パルスィは彼らの気持ちがようやく分かったような気がしていた。
実際には四半刻にも満たない時間だったろう。
けれどパルスィには地底に勧請されてから今まで過ごして来たのと同じと思えるような時間、飛び続けて――。
そして。
「着いたよ」
長身の勇儀の倍近い高さの出口に、三人はようやく到着した。
妖怪の山の三合目あたりに、天狗が使っている――かつては鬼が使っていた――宴会場がある。三人はそこに降り立った。
一応、山の事情を知る勇儀は哨戒役がいるかもしれないと言ったのだけれど、発案者のヤマメがそれを笑い飛ばしてしまった。天狗がそうそう鬼に突っかかって来るはずがないと言って。そういう上下社会体系が作られていたらしい。
もしかすると、極力人に会わないようにという、ヤマメなりの気遣いであるのかもしれない。連れてくる過程が強引だっただけに、最後の一線でパルスィの気持ちを優先させたのかも――。
そこまで考えて、これは違うなと否定した。単純にこの場所がいろいろと観察するには都合のいい場所だからに違いない。人の里と思しき場所や、そこを流れる川が一望できる。思い返せば、パルスィが幻想郷の中を見たのはこれが初めてなのだった。
地上であればどこでも同じ――と考えていたわけではないけれど。社がない場所に来る、というだけで少し緊張してしまう。
――まあ、それはいいんだけど。
パルスィはため息を吐いて額に手を当てた。
「あんたたちが強引なのは知ってたつもりだったわ。でもこれほどとはね」
ようやく一箇所に腰を据えることができて、自分がどれだけ引っ張られてここまで来たのかを冷静に見つめ直した結果だった。考える暇も与えられず、連れて来られてしまったのだ。
じっとりとしたパルスィの視線を意に介さず、ヤマメは上機嫌に笑った。
「構わないじゃないか。これくらいしないとどうせ地上に顔出しゃしなかっただろ」
「それは――そうかもしれないけど」
憮然と唇を尖らせる。
灯明も何も持ってこなかったから、周囲を見渡すには星明かりと月明かりだけが頼りだった。上弦の頼りない月明かり。とは言えそれだけで十二分ではあったのだけれど。人間とは違うのだ。夜目は利く。互いの顔を見るくらいのことは造作もない。
夏の虫が鳴く声も、久しぶりに聞いた気がする。
涼しいねえ、と勇儀が言った。
「やっぱり、上の風はいい。下じゃどうしても新鮮な風って奴が吹かないものな」
「酔っ払いのくせにもっともらしいこと言うじゃない」
「酔ってるから言うんじゃないか。酒精に火照ったあとは、夜気で冷ましてもう一杯――だろ?」
どこに隠し持っていたのか、勇儀は数本の酒瓶を掲げた。だねえ、と呼応したヤマメもまた酒瓶を提げている。呑むことしか考えていないのだろうか。きっとそうなのだろう。
――馬鹿は放っておこう。
パルスィはまたため息を吐いて、夜空を見上げる。
「どうだい、橋姫さま。久しぶりの星空は」
勇儀が声を掛けてくる。
けれど。
「ああ、うん。なんだか――よく分からないわ」
「あん?」
「考えてみれば、いまいちよく覚えてないのよね。人間に祀られていた頃は、別段空を気にすることもなかったし。下に移った後なのよ、星ってものを意識したのは」
そう言って、パルスィは膝を抱えた。洞窟の内壁に自生する光苔の類を見るにつけ、星空を想起していたという方が正確だろうか。いずれ、かつて見た星空を正確に再現できるほど記憶しているわけではない。
と言っても。
綺麗だとは――思うのだが。
そういう意味では感謝することも吝かではない。
「なあんだ。連れてきた甲斐がないねえ。もう少し喜んでくれるんじゃないかと思ってたのにさ。ねえ、勇儀」
ヤマメはやはり、パルスィの機微を察するわけでもなく言った。
「――そうだねえ」
勇儀は。
どことなく感慨深げにそう言った。
――見透かされてる、かな。
思うパルスィに向けて、勇儀は夜空を指差す。
「星がどんなのか、なんてのは別に知らなくたって構いやしないさ。ただそこにあるものを見て、肴にできりゃそれでいい。星見なんてその中でも上等な奴だとでも思っとけばいいんだ」
「乱暴ね」
苦笑しながらパルスィは言う。
細かく分からなくとも、記憶の底を浚った星空と、あまり変わっていないことくらいは分かる。天の川や織女、牽牛――何とはなしに目を動かして、夏の星を探してみる。見つけやすい星の配置はあまり変わっていないようだ。
両の手で身体を支えて空を見上げながら、パルスィはふと意識に上ったことを口に出した。
「そういえばさー」
「ん?」
「あんたが私のことを公にしたいなんて、どういう心境の変化だったのよ。礼、とか何とか言ってさ。今まではあんまりそういうこと言わなかったじゃない。やっぱり、状況が変わったから?」
「あー、あれなあ」
大杯を傾けて、勇儀はゆるゆると息を吐いた。
そして。
「上と話を付けられたと言っただろう。だから、あんたにはもう無理に頼る必要はなくなったんだ。今年は寸でで間に合わなかったがね」
そう、告げた。
「あの異変で殴り込んで来た巫女とか、その後ろにいた境界の妖とかさ。大結界が安定してる今なら、あんたに負担をかけなくていい方法が色々と――」
パルスィは勇儀が次々に言い募る言葉を、右から左へ聞き流していた。それを無視して、問う。
「もう――私の助力はいらない、ってこと?」
これでやっと終わり――だったか。
それは、もうパルスィ自身が必要ないという意味だったのか。
急だねえとヤマメが剣呑な声を上げた。
「受けた恩を忘れたというわけでもあるまいに。パルスィがどう思っているかも聞かず、ただ放言するなんぞ勇儀らしくもない」
「初めから無理を言って呼んだんだ。目処がついたから帰って頂くことの何処が間違っていると言う」
「確かに、地底全体の穢れを受け持ってくれるような祓神が、他にいなかったことは事実だろうさ。けどね、勇儀。始まりがどんな形だったとしても、私はもうそこの橋姫さまとは馴染みのつもりだよ。勝手に帰してもらっちゃ困るねえ」
ヤマメは流し目を勇儀に送る。
珍しいなとパルスィは思った。ヤマメがまともに心情を吐露するところなど、ついぞ見たことがなかったからだ。静かに――けれど確実に、彼女は怒っているように見えた。
その態度は、パルスィを勇気付けるには十分なものだった。
「流石に今更そんなこと言われるとは思わなかったわね。いくら私でも、怒るときは怒るわよ」
ねえ勇儀と緑眼を吊り上げてパルスィは言う。
たじろいだように勇儀の喉が上下する。
「パルスィ」
「鈍すぎにも程があるんじゃないの? 馬鹿の相手は疲れるから嫌いなの。もうため息も出やしないわ。この際だからはっきり言わせてもらうけどね」
私は好きであの橋にいるのよ――とパルスィは半ば怒鳴るように言った。
「礼するとかしないとか、そんな下らないこと考える前に、どうして私が今まであんな地底の僻地にいたのか考えなさい。私は少なくとも今のところ、橋を離れる気はないの。最初は重いと思ったわよ。旧都全体の穢れを任せる? なに馬鹿なこと言ってるんだ、って。だけど今はヤマメと同じ気持ちなの」
人間に祀られていた頃には、こうして気安く言葉を交わせる相手などいなかったのだ。
「橋を守らなくていい、何処へなりと行って構わないとか言われても、今以上に居心地いい場所見つけられるわけないでしょう? あの烏に力を与えた神様の話も聞いたんでしょう? あんたたちと同じように、神仏だってどこに放り出されても生きていけるわけじゃないのよ」
言うだけ言って、パルスィはようやく我に返った。
微妙に視線を逸らしながら、最後にぼそぼそと付け加える。
「下手に私を放り出したら、全力で荒んで――祟ってやるからね」
荒御霊、と呼ばれる状態の神霊は、きちんと祀らなければ祟りをなす。旧都一年分の穢れを祓える程の神霊がそうなってしまえば、祀り上げ鎮めるまでに旧都へどれだけの被害が出るのか。
その計算ができない勇儀ではない、とパルスィは思う。
打算を利用するのは――悪辣かもしれない。それでも、今更消えたくはなかったから。
「大体、信仰代わりにあれを喰わなかったら、私なんて数年と持たずに消えちゃうわよ。だから――あんたらと一緒にいたいって思ってる限り、私があの役目はやらせてもらうわ」
文句は言わせないわよと、パルスィは勇儀を睨みつける。
勇儀は――暫くの間、目を伏せて顔を俯けていた。
やがて、
「――そうか」
と、呟いた。
「あんたは嫌々やっているものとばかり思っていた。祝詞を必要としないのも、請われるまま御利益を施してくれるのも――早く解放されたいものだとばかり、ね。妖怪に関わって嬉しがるような神様はいないと思ってたし――」
「どうしてそんなに自信がないのよ」
「いや――な。昔ッから他人が絡むと成功した試しがなくてさ。普段は無理矢理奮い立たせてるから」
「裏目に出たねえ」
「どうやらそうらしい」
全部ご破算だと勇儀は苦く笑った。古い協定を破棄し、新しい協定を結ぶ傍ら色々と根回しをしていたらしい。
鬼なのに。
姑息――な気がする。
パルスィは小さくため息を吐く。
「……本当、そんなのでよく鬼の中心に収まってるわよね」
「鬼なんて酔っ払いが集まってわいわい言ってるようなもんだからねえ。あたしがどういう性格だろうと、まとめ役をしてくれるなら構わないのさ」
「今まで一度もそんなこと言わなかったじゃない」
「まァ、事情の一つや二つはあるってことだ。サヨナラだと思ったからぽろっと言っちまっただけなの。全部、単なる酔っ払いの戯言だったってことにしといてくれないか」
「そういうことにしておいた方が吉のようだね。呑んで忘れよう、橋姫さま」
ヤマメは仕方なさそうに笑いながら、酒瓶を突き出してくる。今までの言葉を、しれっとなかったことにするように。もうあんまり飲めやしないわよとパルスィは悪態をつく。
――結局。
特に何も変わらないってことでいいのかしらと、興奮の余韻が残る頭で考える。勇儀が何もしないのなら、これまで通り橋を渡る者を見守るだけの緩い橋姫生活を続けるつもりなのだけれど。
後になって翻されないうちに言霊でも縛っておこうか。考えて、小さく苦笑した。流石にこの程度を詐称するようでは鬼とは呼べまい。
思う間に、二人の話題はすっかり別なことに移り変わっている。
「今年は星を見たからさ。来年はちゃんとした花火を見に来ないかい?」
「何それ。脈絡なさすぎでしょ」
「いいじゃないか。ヤマメにしては上出来だろう」
「失礼なこと言ってくれるじゃないさ。勇儀は誘わずにパルスィと二人で行ってやろうかね」
勇儀はずるいぞと憤慨する。
「せめてあたしも誘えよぅ」
「あんたは来年の今頃も祭りの準備で忙しくしてるはずでしょうに」
「そんなもん誰か他の奴に――奴に……任せられないよなあ、多分。いい加減誰か後継いでくれないかねえ」
「好きでやってるくせによく言うよ」
そりゃ来年も絶対おんなじことやるね、とヤマメが煽る。
「けっ。来年のことなんて分からないだろ。鬼が笑うね」
「そうとも限らないさ。少なくとも、また集まって酒飲んでるだろうよ」
「お、それもそうだな」
「あんたたちはお酒ばっかりね」
変わってしまうだの変わらないだのと、考えていた自分が馬鹿らしくなった。何故なら、何がどう変わろうと自分を取り巻く環境が変わってしまうとは思えなかったからだ。
自分が変わらないなら何も変わらないのだろう。良い意味でも、悪い意味でも。
――変わったと言えば、変わったのかな。
祀られるだけだった頃には、こうして言葉にすることなどできなかったのだろうし。
話したり、笑ったり、酒を飲んだり――、
まあ、何と言うか。
「ほんっと、代わり映えのしない奴ら」
パルスィは心底呆れた口調でそう言って。
けれど穏やかに微笑んだ。
だからパルスィが最後に星を見たのは、まだ地上にいた頃のことである。
星空がどういうものだったのか、今では殆ど忘れてしまった。無論それ自体はないからと言って困るものではない。しかし真っ黒い地殻を眺めていると、時折ふと懐かしく思うことはある。
あるはずのものがない、物悲しさ。何故だかそんなものを感じてしまうのだ。
四季すらも再現してのける技が地底には存在する。それはひどく手間のかかる術で、行使できる者の数は少ないと聞く。星空を再現するだけの余裕はないのだろう。
それに。
地底に移り住んだ輩は大抵が派手なことを好んでいる。それが原因で人を殺し過ぎ、地上を追われた者も多い。星空などという地味な代物が捨て置かれているのは、むしろ自然なことなのかもしれない。
そう思っていた。
諦めていたのだ。
地底にいる限り、もはや二度と見ることは叶わないのだと。
しかし半年あまり前、ある事件をきっかけに地上との交流が再開された。
そうなると、地底から抜け出そうとするモノの監視は必要がなくなる。それを任されていたパルスィは、唐突に役目の終わりを告げられたのだ。
何処へなりと行って構わないと言われて。
戸惑って。
今更そんなと考えて。
考えあぐねた結果――。
パルスィはふと、星が見たいと思ったのだった。
自分の立場が変わってしまっても、きっと星空は変わっていないだろうと思ったからだ。
環境が次々と覆って行きそうで、急に恐ろしくなって。変わらないものもあると思いたかったのかもしれない。
けれど。
あんた地上になんて行かなかったでしょうに――そう言って、ヤマメは呆れたようにため息を吐いた。
「私が行こうって誘っても乗ってこなかったしさ。まあ別に構わないんだけど、どうして行こうとしなかったの。すぐそこに道はあるんだから、行けばよかったのに」
「結局、踏ん切りがつかなかったのよ。もし星空まで変わってたら嫌じゃない? 冷静に考えれば変わらないものなんてないのよね」
そんなものかねえとヤマメは首を傾げる。
「未だにここ、離れようともしないしさ」
「あら、一度馴染めば案外居易い場所なのよ?」
「それに、待ち合わせの与太にしちゃ実感がこもり過ぎてる」
「気のせいよ。どうしても見たかったわけじゃないってば」
理解してもらおうとは思わないけどねとパルスィは軽く苦笑した。変化することを好意的に捉えられる上、新しいもの好きな土蜘蛛には今一つ分からない感覚だろう。
要するに感性の違いなのだ。説明できるとも思えないし、無理矢理言葉にしてみたところで、的外れなものしか出てくるまいとパルスィは思う。
文月上旬、立秋の頃。
地底では毎年この時期に納涼祭が行われる。今年は今日がその日だった。常日頃から賑やかな旧都だけれど、今宵はそれ以上に騒々しくなっているはずだ。
しかし、その喧騒もこの橋近辺までは届かない。パルスィとヤマメは遠く旧都の灯明を眺めながら、杯(さかずき)を傾けていた。弓状の木橋の中央は、水面を渡る風が火照った肌に心地良い。
静か――である。
流石に今日、この橋を渡って地上へ向かおうと言う妖怪はいないからだ。
地底には基本的に娯楽が少ない。誰もが好むことと言えば、酒を呑み騒ぐことくらいである。人間との関わりを絶った弊害だ。故に、というべきだろうか。皆が関わる祭りは、地上では決して見られないほど華やかなものとなる。たとえ交流が復活したとしても、これを逃すような輩は地底住まいを名乗ることはできまい。
今年は花火をやるらしいよ――とヤマメは言った。
「はなび?」
「知らないかい。こう、燃すと爆ぜる粉を固めてさ、空に打ち上げて爆発させる奴。まあ、星の代わりくらいにはなるかねえ」
知らなかった。首を傾げる。
「人間はそんなことやってるの?」
「私もついこの間、地上で初めて見たばっかりだからさ。詳しくは知らないし、そのとき見たのはそれほど大きくもなかったんだけどね。差し渡しが二百丈越すようなのも作ったりするそうだよ」
こぉんなでっかい奴だってさ――と言って、ヤマメは両腕を大きく広げた。
パルスィはその腕を避けながら、半眼でヤマメを見やる。
「嘘くさいわね」
「嘘って言われてもねえ。まあ、それだけ大きいのは私だって見たことないんだし、証は立てられやしないけどさ。その半分くらいのやつは見たよ? 綺麗なもんだった――」
「――仮に本当だったとしても、よ」
こっちじゃ打ち上げられないでしょうねと遮って、パルスィは天蓋に視線を向けた。
地底の空間は相当に広く、高い。けれど二百丈――現在の単位に換算すると約六百メートル――もある爆発を起こしてもを影響がない程ではない。余波だって起きるのだろうし、倍か、あるいはもっと高さが必要だろう。そんなものを人間は打ち上げているのか。
――しばらく見ないうちに凄くなったものね。
そう思う。飛び道具と言えば弓矢を指していた頃でパルスィの人間像は止まっているのだ。それにしても。
「やっぱり、広いって言うのはここぞというときには便利なのかもしれないわね」
「そうかい? ううん、たまの機会の為だけに広くって言うのもねえ。私は狭くって暗い方が落ち着くよ。本当にあるかどうかも怪しいとこではあるしさ」
「あれ、信じてないの」
信じているから話したのだと思ったのだが。
ヤマメは杯を手酌で満たしながら苦笑する。
「言っただろ。私だって御山の神様にちょっと話を聞いただけなんだ。それだけで頭から信じられるもんか」
「ああ――地獄烏に八咫烏をくれてやった張本人って言う? 結界越えて都落ちしてきたんだっけ。なんか結構有名どころだったらしいじゃない」
「それそれ」
そんなに外は生き辛くなったのかねえ、とヤマメは僅かに物憂げな口調で言った。
博麗大結界が幻想郷の周囲に巡らされ、山里が閉ざされたことは、結界の成立から間もない頃に地底にも伝わっている。
と言うより、正確には――その結界こそが地上との交流を完全に絶った原因の一つなのである。
完全に遮断するには、あの頃のどさくさは都合が良かったのだ。
パルスィは小ぶりな杯を煽った。
「人間は変わりやすい、ってことよね。結局」
「あんた、そうやってまた上に行かない口実作ってるだろ」
ヤマメは意地悪く笑う。曖昧な笑みで濁して、パルスィは新しく酒を注ぐ。
「うん? 神様も忘れられるくらいなら、人間が大火を使っても不思議じゃないのかねえ」
「私に訊かれてもね。そういう技はあんたらの方が得意でしょ」
土蜘蛛は手先の器用な者が多いのだ。
「そりゃそうなんだけどさあ」
「まあ、外は外でいいことあると思うわよ? 私たちじゃ想像できないようなことでしょうけどね」
「無責任だねえ」
「他人事だもの」
どうせ分かりやしないんだしとパルスィは言う。幻想郷の中で起きていることならともかく、結界を越えた先のことまでは知りようがない。地底にいるから、尚更だ。
「わざわざ今になってこっちに来たのなら、その神様たちには――いいことがなかったんでしょうけど」
「夢も希望もないやね」
「忘れられたら消えるしかないのよ、神霊っていうのは。こっちで上手く馴染めればいいけど」
幻想郷がかつてとあまり変わっていないのなら、それなりに神を受け入れる余地もあるだろう。異変の最中に教えられた、新しいルールもある。
あ、とパルスィは声を上げた。
「もしかして、さ。納涼祭にも神様が関わっているのかしら」
「何故だい」
「その花火、っていうの。急に手に入れられる代物じゃなさそうだし」
「ああ、信仰を得る為に――ってか」
派手好きの馬鹿は乗るかもしれない。現世利益しか求めていない妖怪たちでは望み薄かもしれないが。
ヤマメはぽりぽりと頭をかく。
「ないんじゃないかねえ」
「そうかしら。割と節操ないと思うのよね」
「そんなものかねえ」
「そんなものでしょ」
消えたくはないから此方へ来たのだろう。人間に望みを持てないと外の世界で思わされたのなら――妖怪から信仰を得ようと思っても不思議ではあるまい。
知った風に語るじゃないかとヤマメは言った。
「会ったこともないのにさ」
「それは――まあ、ね」
私だって同じようなものだからとパルスィは苦笑する。
「想像で語ってると言われればそうなんだけど。ヤマメよりは分かるつもりよ」
「流石。橋姫さまは言うことが違うねえ」
「信仰とかそういうのを抜きにして、祭りでも何でも一緒にできればいいわよね」
「難しいだろうさ。仮令地上の連中が容認しても、こっちの奴らが認めないよ。面倒なことは放っといて楽しめばいいと、私なんかは思うけどね。旧都の中にも色々な考え方の奴がいるから」
「へえ」
「催し物の中身。どこに誰が店を出すのか。利権と娯楽が絡むと奮起する奴ばっかりだもの。ほんと、面倒だ。今年の会合もずいぶん紛糾していたらしいし――ああ」
そこで一度、ヤマメは思わせぶりに言葉を切って。
「あんたをこれまでの礼も兼ねて呼びたいって話も出ていたようだよ?」
そう言った。
は、とパルスィは目を丸くした。
――礼?
そんなものとは縁遠い生活をしていたはずなのだけれど。本当に――半年前までここを訪れる者は、ヤマメを入れても片手の指で足りる程だったのだ。
旧都で噂される"橋姫"は宇治橋のそれに近しく、寄れば嫉妬に狂わされると伝わっているはずなのに。
表に出ない部分でならば色々とやっているし、この後にもその予定はある。それを見届ける為に、ヤマメもここにいるのだけれど。あくまでも、表舞台には出ないように気を付けてきたはずなのに。
思い当たらないって顔だね――にやりと笑い、ヤマメはパルスィの肩に手を置く。
「自覚はないかもしれないが、あんたが橋を――境界を守ってくれている良い奴だって思いはじめた輩が存外に多いのさ。ここ最近はね」
「最近、ねえ。上に行く奴の見送りとかってこと?」
「そう。で、こりゃ前々から良い奴だったらしいって話になったとか何とか」
「ずいぶん急じゃない?」
行ってらっしゃい。
お帰りなさい。
その二言くらいしか、言葉を発した覚えはない。
しかし――。
そう言われることで、たとえ地上で何があっても帰ることのできる場所があるのだと思える、らしい。
――本当かしら。
パルスィは眉間に皺を寄せる。
「分からなくはない、けど。誰もそんなこと言わないわよ」
「言うもんか。面と向かって言うには照れるだろう、こんなこと」
「……そうね」
「礼をしようって言い出した発起人は、勇儀だったらしいけど」
名を聞いて納得した。自然と嘆息がこぼれる。
「こっちの都合を考えないところ、いつになったら改めてくれるのかしらね」
「無理無理。気のおけない友人だと思われたが最後、ってね。結局は自分から取り下げたらしいし、許してやんなよ」
「何よ、あいつを庇おうっていうの」
「そんなつもりはないんだけどねえ――」
不意に。
おおと言って、ヤマメはパルスィの背後、旧都方面を指差した。
「噂をすれば、だ」
「え?」
指された方向を見やる。
酒瓶をたんまり抱え、一角の鬼が此方へ向かって来ていた。常の簡素な姿でなく、艶やかな空色の着物を身に纏っている。崩した着こなしがよく似合っているが、殺風景な木橋の上には似つかわしくない格好である。祭りの開幕式もそこそこに、此処へ来たのだろうか。
遅いよとヤマメが声を張り上げる。
「神酒が来なけりゃ始まらないだろう!」
「半刻も前から呑んでるじゃない」
「これくらいは呑んだうちに入らないの。あ、気付いた」
悪い、とでも言うように勇儀は手刀の形に手を挙げていた。
ようやく始められるねとヤマメが言う。
パルスィはそうねと言って、勇儀に向かって手を振った。
橋姫と土蜘蛛と鬼と。種族を鑑みれば、本来関わりのない三人なのだけれど。地底へ移住する際のあれこれや、地底を閉ざした後のいざこざを経て、いくらか仲良くなっていた。納涼祭を望ながらこうして集まることが、毎年の習慣なのだ。
当然、祭りを投げ出してまでこんな場所へ集まるには――理由があるのだった。
とりあえず今年も橋姫さまの加護に感謝して――と割合に軽い口調で言いながら、勇儀は朱塗りの大杯を掲げた。パルスィはヤマメとともに応じながら、僅かに渋面を作る。
「感謝って言われても、私は一応、去年の暮れにはもう橋守の役目を解かれてるんだけど」
「細かいことは良いんだよ。いずれパルスィはここにいてくれてるんだし」
「……余計なことしようとしてたとも聞いたわよ」
「ま、未遂ってことで勘弁してくれな。それに、優しい橋姫さまに感謝したって罰は当たらないと思うんだけどね」
屈託なく笑われる。俄かに熱を帯びた頬を自覚して、パルスィは勇儀から顔を背ける。けれど背けた先には、ヤマメの意味深な笑みがあった。
「何よ」
「別に。それくらいで照れるとは思わなかっただけ」
「い――言われ慣れてないんだから仕方ないでしょ」
「私も言ってあげようか?」
「遠慮しとくわ。あんたのは誠意がなさそう」
酷いねえと言ってヤマメは苦笑する。自覚はしているのか、それ以上を言い募ることはなかったけれど。土蜘蛛たちは誠意などと言うあやふやな感情論を信用していないのだ。
土蜘蛛は地底で数が多い種族の一つだが、滅多に表には表れない種族でもある。病を自在に扱うため、地底へ来た当初は妖怪――特に肉体に依存する部分の多い妖獣――にすら恐れられていたのだ。旧都の成立から数百年が経過した現在では殆ど解消されてはいるけれど、その頃自衛の為に築き上げた情報網は未だ旧都全域に広がっている。
言い換えれば。
様々な話の裏を知っている――のだ。
だから、土蜘蛛たちは基本的に感情論を信用しない。彼らが誠意を見せると言うことは、取りも直さず何かしらの物品ないし情報をやりとりすることを意味している。パルスィはそんなことを望んでいないし、ヤマメとてそんなことをしたくはないだろう。
思い、杯に視線を落とした瞬間だった。
何だい二人ともしち面倒臭そうなこと話してるねえもう出来上がってるのかい――そう一息に言いながら、勇儀がパルスィの首に腕を絡めてきた。
「あたしが祭りの準備に奔走してたってのにさあ。ちょっと酷いんじゃないの」
「それはあんたが、好きでやってるんでしょうに。勇儀、重い、ってば」
「おお、悪い」
勇儀の手が一度離れて――再度、背後から抱え込まれる。身長差のせいで頭の上に顎が来るのが癪に障る。この鬼、女姿のくせに背丈が六尺近いのである。その上、地上の夏に合わせて地底の気温は暑く設定されている。密着されると暑いのだ。何を言っても無駄だと分かっているから、ある程度満足するまでは放っておくのが常になってしまったのだが。
くつくつと笑いながら、ヤマメは勇儀の腕を叩く。
「勇儀、パルスィは細っこいんだから加減してやんないと」
「分かってるさ。久し振りにたらふく呑めるから舞い上がっちゃって」
「それなら、あー、仕方がないのかねえ」
「……待って。私は関係ないわよね、それ」
パルスィの抗議は笑って誤魔化された。呑まなければ死ぬ――と勇儀が公言して憚らないことを知っている上、ここ数日奔走していたのを見ているから強く言えないのだ。
土蜘蛛とは逆に、鬼たちは旧都を取り仕切る中核に収まっている。数は多くないが一人一人の力が強いため、問題の解決に駆り出されることも多い。
ただ、彼らの解決方法は酒を酌み交わすことに重きを置いている。細かいところを詰めるには、根本的に向いていないのだ。込み入った話になると、途端に面倒がって敬遠する。
そうなると――地上、妖怪の山にいた頃から鬼たちの主格についている勇儀が駆り出されるのだ。
これもそんな事態の名残だった。
話し合いの席では、たとえ鬼であっても過剰に酒を摂取することは認められない。毎年のことなのだが勇儀は決まって心労を溜め込んでしまうらしい。そのくせ、鬼の仲間内では滅多にそれを口に出さないのだという。
お膳立てを整えるだけ整えて、当日の運営は全て他の鬼に投げるのはささやかな意趣返しなのである。と言っても――小難しいことを考えずに動けばいい役目は、鬼たちには向いているのだ。それを分かった上で、勇儀は彼らを使っている。あたしの知らないところであたしの責任問題が起きてるんだ、結構焦燥感を煽ってくれるよ、などと言って笑う奴の気がしれない。
ひとが良いのだろう。パルスィはそう思っている。勇儀は周りが楽しくなけりゃあたしだって楽しくない、とでも言うのかもしれないが。
責任感のある鬼――などという異端が四天王と呼ばれている時点で、その質も知れる。力を持っていることは当然として、面倒を押し付ける先が必要だったのだろう。
愚痴なら聞いてあげるよとヤマメは言った。同意を求められて、パルスィも少しならねと頷く。
「そうかい? あー、でもヤマメだけならともかくパルスィにまで迷惑かけるのもなあ」
「もう十分迷惑してるようだけどねえ」
「ううむ。酒の勢いで、ってことにしようかね」
「あんたが酒とか言うと無理があるわよ」
「拘りなさんな」
まあ、いつもと一緒さと勇儀はため息を吐く。
「また色んなところの折衝押し付けられてね。それに今年も、萃香は帰って来ないしさ。準備に関わってくれるような奴じゃなかったけど、睨みを利かせる奴が少ないといろいろ手間が増えていけない。さっさと一人だけ地上に逃げやがって。この半年で会いに行っとけばよかったかな。ようやく上の連中と話を付けられたっていうのに」
「変事の中に、花火が入ってるって聞いたけど?」
「お、流石に耳が早いね。ありゃ地霊殿の奴らがねじ込んできたんだけどさ」
地霊殿、とパルスィは口中で反復する。
「意外ね。古明地はそんなことに口を挟みそうにないけど」
「いや、さとりでもこいしでもないんだ」
「え?」
あれはさ、と何故か疲れた口調で言いながら、勇儀は微妙な渋面になった。
「最近、地霊殿の飼い猫と飼い烏がよくここを通るだろう」
「ええ」
「人の里にも顔を出しているらしくてね。ひと月前、そこで見た花火を地底の皆にも見せてやりたいと言うのさ」
あたしも花火ってのがどんなものかは知らないんだけど――と勇儀は大杯を煽る。頭の上で零さないでよとパルスィは念じる。
「どういうことをしようと構わないんだ。反対だったって訳じゃない。むしろ、閉鎖的な地霊殿の連中が旧都の祭りに関わろうとすること自体はいいことだと思ってるよ。いくら嫌いでも苦手でも、あそこは旧都になくてはならない場所だしね。ただね、横車押されるといい気分じゃなくなる奴もいるわけだ」
「ふうん。皆好き勝手に騒ぎたがるものね」
「そういうことさ。あいつらがさとりに見せてやりたいんだろうと分かるから、協力してやりたくなってね。いい加減打ち解けて欲しいし、あれも大概外へ出ないから」
おや、とヤマメは眉を持ち上げる。
「出られない――の間違いじゃないのかい?」
「茶化すなよ土蜘蛛。お前さんたちだって、今じゃ大手を振って通りを歩けるようになったじゃないか」
「私らと覚りは違うさ」
勇儀は寸秒、押し黙る。
「あたしにはそれが分からない」
「何故」
「心を読まれたところで、堂々としていればいい。そう思ってしまうのさ」
「それができるのは――鬼だけだろう。誰しも、腹の裡に疚しいものを抱えているものだよ」
「そういうものなんだろうか」
本心から困惑しているように、勇儀は言う。
理屈は分かるのだろう、とパルスィは思う。勇儀は何くれと目端が利く。読心をされてどう感じるのか――それを察せないほど鈍い鬼ではない。
ただ。
やはり――種族に依るところが大きいのだろうとも思う。
鬼は嘘を嫌う。無論、方便を使わないわけではない。ただしそれは清濁併せ呑む覚悟があってこそ成り立つものだ。良かれと思い発した言葉が、嘘と糾弾される覚悟。露見しなければ構わない――そんな理屈は、例えば覚りの前では通用しない。言葉――言霊に責任を持ち、仮令露見したとしても皆が良いと思える方向に動いていると考えられるような方便であるなら、鬼とて許す。
けれど、それは。
――綺麗事、よね。
そんなことは普通――できまい。ひとは嘘を、その場しのぎに、あるいは他者を騙すために吐く。言葉が生む結果にまで責任を持とうと考えている者は稀だ。そして。
そう言った者たちにとって、覚りは大きな脅威となる。
理解しているからこそ、古明地さとりは滅多に地霊殿を出ないのだろうし、その妹は能力を閉ざしたのだろう。
原因と、結果。
双方を理解できるからこそ――勇儀は悩むのだ。皆を先導する者として、鬼の異端と見られようとも。
「勇儀は勇儀の思うようにすれば良いと思うわよ」
「うん?」
パルスィは勇儀の腕の中で身をよじる。
無理矢理に首を曲げて、頭一つ高い位置の赤瞳を見据えた。
「あんたが何かをしようと思ったなら、きっと熟慮の末なんでしょうし」
「――そう言ってくれると、嬉しいねえ」
勇儀は小さく苦笑する。
「パルスィが褒めてくれるなら、考え続けることだけはやめないようにしないとね」
「……その気遣いをちょっとはこっちにも向けてもらいたいとも思ってるわよ?」
「それは無理」
何でよとパルスィは暴れる。鬼の力には、やはり敵わないのだけれど。
勇儀はまあまあと宥めながら言う。
「目下の懸案は――やっぱり、さとりかなあ。結局、調整をあたしに丸投げだしね。ペットの気持ちがわかってるんだから、もう少し手伝ってくれてもいいのにさ。ペット絡みで山の神様と関わるようになったらしいし、ちょっとはあの性格も上向くと良いけど」
「ま、あいつらが動いてくれた分楽しめるんだからいいじゃないか。花火、人間が作ったにしては綺麗なものだよ。何かこう、言葉にはしづらいんだけどさ。見た方が早いしいいか」
唯一花火を見たことのあるヤマメが、遣り取りを笑いながら言った。
「そうか。じゃあ、こっちの用を先に済ませておこうか」
「お、やるのかい」
「後顧の憂いは絶つに限るさ。その方が良いだろう、パルスィ」
「私はいつでも構わないわよ。勇儀の好きなようにして。とりあえず――いい加減放しなさいッてば!」
暑苦しいのよと言うと、勇儀はようやくパルスィを解放してくれた。
向き直ったパルスィに勇儀は朱塗りの大盃を預け、帯に手挟んだ油紙を抜き取る。厳重に封を施したそれを、勇儀はいくらか気遣わしげな表情でパルスィに手渡した。
中身を知っているからだろうか。
封越しにひどく淀んだ気配が漂っているような気がして。パルスィは僅かに顔を顰める。
「相変わらず重いわね」
「仕方ないだろう。一年分、溜まりに溜まった旧都の悪縁奇縁、穢れの類だ。そういう場所にあたしたちは住んでいるのさ」
「そうね。そうだったわ」
「すまないな。今年も頼むよ」
勇儀はそう言って、深々と頭を下げた。
旧灼熱地獄跡は是非曲直庁から払い下げられた当初、怨霊が跋扈する異界だった。
悪い想念の類は妖怪にとって毒である。幽霊と同じく気質が形を成した怨霊は、その具現のような存在だった。触れると障り、近くにいるだけでも何となしに落ち着かない気分にさせられる。土地を買い取ったまでは良かったが、現在旧都のある場所は、到底住めるような場所ではなかったのだ。
故に、計画の先導者――鬼たちがまず求められたのは、怨霊を鎮圧することだった。
怨霊の溜まり場となっていた地獄釜の直上に地霊殿を建設し、覚りを置くことで封とする。課題と思われていた覚りの確保は、その頃幻想郷に辿り着いた姉妹を仕立て上げることでどうにか成った。そのことを勇儀は悔いていないらしいが、未だにさとりが打ち解けないのは、その頃の勇儀が抱いていた打算を読み取っていたからかもしれない。
パルスィは当時を見ていないから――確証は持てないのだけれど。
そうしてできあがった広大な土地に、人間に追いやられたり、鬼と同じく人間に嫌気が差した妖怪たちが集まった。旧都の原型はこの頃にできたものだ。
既にその頃、土蜘蛛たちもまた旧都に入り込んでいたらしい。土蜘蛛はいち早く、独自の情報網を旧都内に形成した。鬼たちはそれに目をつけたのだ。そしてヤマメは、土蜘蛛側の窓口だった。
全てを投げ出してようよう地底へ流れ着いた妖怪たち――土蜘蛛はそうした輩を取りこぼさなかった。その網を、鬼は引き継いだのである。
鬼の四天王の一名が離れたのは、この頃であったと聞く。私はまだ人間に未練を残しているようだ――そう言って、地上へ戻ってしまったらしい。
ただ、もはや四天王全てが揃っていなくてはならない状況は脱していた。勇儀を主体としたいくらかの鬼たちで、旧都の構造は回り始めていたのだ。しかし。
上手く行くかに見えた旧都の運営は、結局また怨霊によって阻まれることとなる。
灼熱地獄の土壌に残留した、怨霊の思念までは――取り除くことができていなかった。怨霊を退けても、土地そのものが穢れていたのだ。
勇儀は窮し、鬼の身でありながら陰陽師の術すら行使した。鬼の四天王、力の勇儀――そう呼ばれ様々な術を扱える彼女でも独力では覚束ず、最終的に旧都の四方に四神を模した形代を配し穢れを萃めることで一応の解決は見た。
一つだけ欠点があるとすればそれは、一年に一度形代を新しいものに変えなくてはならないことであり、古い形代をどうにか処分しなければならないことだった。怨霊の穢れを萃めた形代は、それ自体が強い瘴気を発するようになるからだ。
何処かへ流さなくてはならなかった。祓いはそうして初めて完了するのだから。
ならば祓神を呼べばいい、と誰かが言って。
そして――。
橋姫が勧請されたのだった。
「――早川の瀬に坐す瀬織津比売と言ふ神――」
「毎年毎年思うけど」
「あん?」
「いい加減しつこいわよね、これ。祓っても祓っても減らないったら」
パルスィは手にした形代をひらひらと振る。大まかな人の形に切り抜かれた和紙である。手のひら大だがこれ四枚で旧都全域の穢れを萃めているものだ。そう考えれば、こうして軽々に扱うのはあまり宜しくないことではあるのだろう――多分。パルスィは術の構造が今ひとつよく分かっていない。
規模の大きな流し雛と近いのではないか。
とりあえずパルスィはそう捉えている。街一つまるごと、というモノはここへ喚ばれるまで見たことがなかったけれど、祓神として人間と関わっていた頃には、厄落としの神事でもっと小さなものを見かけたことがある。
穢れは減りやしないさとヤマメは首を横に振った。
「怨霊は封じてあるだけで死に絶えたわけじゃないんだ。今年は特に、あの異変が起きた後だしね」
「――荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に坐す速開都比売と言ふ神――」
「ああ――そう言えばそうね。あれで一気に怨霊が出てきたんだっけ」
「殆どはさとりが封じ直した、って話だけどね。幾らかはそこらに残ってるし、地上に出てしまった奴もいる。大人しく輪廻に戻ってくれると楽なんだけどねえ。無理ならせめてこう、何か潰す手段でも見つからないものかな」
「勝手に潰しちゃったら彼岸の連中に怒られるんじゃなかった? 怨霊は幽霊と違って全部人間の魂だから、とか何とか言って」
「面倒臭いねえ」
ヤマメはそう言いながら、パルスィに向けて酒瓶を突き出す。
「今のうちに飲んどかない?」
「――息吹戸に坐す息吹戸主と言ふ神――」
「遠慮しとくわ。この後のことを考えると、ね」
「ふむ。じゃ、これは私が全部頂くとしますかね」
「構わないでしょ。勇儀は今忙しいみたいだし」
パルスィとヤマメは顔を見合わせて笑う。
橋の――袂。
勇儀は橋姫を祀る社の前で、祝詞を奉納している。
「――根国底国に坐す速佐須良比売と言ふ神――」
「飽きもせずによくやるわよね」
「必要だからやってるんじゃないの?」
「あれ、ヤマメは知らなかったっけ。あんなもの別に必要ないわよ。人間が姿の見えない神様の力を借りたくて唱えるわけじゃあるまいし。第一、私もうここにいるじゃない。気分よ、気分」
「そんなに適当なものなのかい」
苦笑するヤマメに、そんなに適当なものなのよ――と返して、パルスィは欄干に顎を預けた。言葉とは裏腹に緩んだ顔を見られたくなかったのだ。
必要ないと言っても、決して嬉しくないわけではない。祝詞を聞くと気分が高揚する。自分の為にわざわざ唱えられている、と思えば尚更に。寝所で囁かれる寝物語と、受け取り方は似ているのかもしれない。
パルスィは――神霊である。
勇儀に喚ばれ橋の守護を任された一柱だ。
数百年前になるだろうか。既に、橋姫が地上で信仰を萃めることは困難を極めていた。パルスィは、消滅してしまうのならそれもまた運命だと思っていた。しかし信仰し助力を求めるものがいるのなら、力を貸すことに否やはなかった。
橋とは外と内を繋ぐ境界である。地底へ辿り着く者の多くは、まずこの場所に現れる。地上に繋がる縦穴から現れ、橋を渡り、そして旧都へ向かっていた。彼らの道行きに加護を与えることが橋姫の役割だった。
それが百と数十年前、博麗大結界ができるまでの話である。
交流が途絶した後には、パルスィは反対に橋を通らせない為にここに留まった。地上の社は取り壊されて帰れなくなったという、切実な理由もあったのだけれど。
そして互いの行き来を遮るために、鬼女橋姫が出入りを監視している――という噂がまことしやかに旧都では囁かれるようになった。
神霊の橋姫を知らずとも、妖の橋姫を知っているものは多かった。噂を流すことは――容易だったのだ。土蜘蛛もその片棒を担いでいたはずなのだが、詳細を知らないあたりはヤマメらしいとパルスィは思う。
「――罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天津神国津神八百万の神等共に聞食せと白す」
二人が話している内に。
朗々と祝詞を唱え終えて、勇儀は一つ息を吐いた。
「あ、終わった」
「みたいね」
一年に一度しか使わない詞だろう。なのに勇儀の立ち姿は堂々としている。まさか日頃から唱えているわけでもないだろうに、一言一句違えることもない。
「ただ厳ついだけじゃないことは知ってるつもりだけど、ああして実際に祝詞上げられちゃうと何だか――不思議な気分よね」
「まあ、見た目と普段の振る舞いからはあんなことできるとは到底思えないよねえ」
「聞こえてるよ、二人とも」
苦笑しながら勇儀は橋を渡ってくる。
「大きなお世話だ」
「事実だろうに。大体、鬼のくせに陰陽の術だの祝詞だのを扱えるあんたがおかしいんだ。そうだろう?」
預かっていた大杯を返しながら、ヤマメはそう言って笑う。
「いいだろ別に。使えるものは何でも使うのが私の主義だ。力任せに解決できないことと向き合ったときを考えれば、できることは多い方がいいんだからさ」
勇儀は手酌で杯を満たしながら言う。
正論ではあるのだろう。勇儀自身の印象と違っているだけで。
「それに、さ」
「――何よ」
意味深な目つきで勇儀はパルスィを流し見る。
「祝詞――言霊なんていうものは、祈りであり願いだ。貴女は請われれば嫌だと言えない性格なんだろう?」
「そんなのはね」
神仏なら誰だって同じよと仏頂面でパルスィは言った。
形代を掌の上で広げる。
「折角だから乗せられてあげるけど。とにかく――」
くしゃりと握り潰す。旧都一年分の穢れを溜め込んだ形代を、躊躇なく。
「――下がってて。雑念が入ると邪魔だから」
途端。
カタチを失った形代から黒い霧が吹き上がる。
勇儀とヤマメが色をなして距離を取る。それを尻目に、パルスィは平然と霧の端を――掴む。
生温い感触が掌に伝わる。
逃れようとしているのか。手中でそれはぬるりと蠢く。
いつ見ても気持ちの悪い代物だ。怨霊が齎す悪意の残滓――地獄の釜で溶かしきれなかった、欲望の残骸。
橋姫は悪縁を断ち切り、穢れを祓う神として祀られている。勧請された場所が地底であっても、その能力に変わりはない。
思念の残骸から悪意を絶ち、清める程度のことは容易い。
掴んだ部分を起点に、黒い霧が徐々に漂白されていく。
多分――と、掴んだ手をそのままに思考する。毎度、これを行う度に考えてしまうことを。
地獄から切り離される以前から、灼熱地獄には不備が出ていたのだ。
否。
灼熱地獄に不備が出たからこそ、この土地を放棄することになったのだろう。
是非曲直庁の財政悪化が最大の理由ではあるのかもしれない。しかしそれが原因で灼熱地獄の修理ができなくなり、結果――ということは考えられる。選択肢は他にもあったはずなのだから。
無論、憶測でしかないのだけれども。
――ほんとう。
面倒事を残していってくれたものだ。これさえなければ、旧都は今よりもう少し住みやすい場所だっただろうに。
苛立ちのまま、指先に力を込める。いっそう激しく霧はもがく。
音もなく。
声を発することができたなら、さぞ盛大な悲鳴を上げているところだろうなとパルスィは思う。しかし橋上に響くのは、形代の残骸が動くかさかさという微かな音のみだ。怨霊そのものではないのにこれだけ暴れるのだから、本体はもっと凄いのだろうか。
――機会があれば、さとりに聞いてみようか。
思う間に。
一枚。
二枚。
役目を終えた形代が、塵と消えていく。
三枚。
四枚目の半ばまで消滅した時点で。
パルスィはおもむろに口を開けた。
そして。
喰いついた。
怨霊の残滓。それはつまり、人間の想念の名残である。
ならば。
悪意を絶ち切り穢れを流しさえすれば、信仰心と同じく――、
神の糧となり得る。
するりするりと漂白された霧がパルスィの口腔に消えて行く。蠢く霞をただ嚥下する。喉元を生温い気体が通り過ぎて。腹にいやなものが溜まる感覚を堪えながら、喰う。これは一年に一度だけ得られる神饌なのだ。神霊として体を保つ為には、いくら気持ちが悪かろうと不可欠なことなのである。
するする。
ゆらり。
するする。
ゆらり。
全てを飲み下すまで、さほど時間は掛からなかった。
そうして全てを終わらせてから――パルスィはようやく顔を顰めた。
「……次は塩でもつけてみようかしら」
「そりゃ良い、折角色々とモノが手に入るようになったんだしな。ともかく――お疲れさん」
近寄ってきた勇儀がそう労いながら大杯を差し出す。
「世話をかけるね、ほんと」
「いいのよ。神饌と御利益が一致しててちょうどいいじゃない。でもこんなものばかり喰べてると本当に妖怪になっちゃいそうね。不味さで」
パルスィは大杯を受け取るなり、一気に煽った。
喉にこびりついていた違和感がもろとも腑へ流し込まれていく。酒精の健全な熱さが気持ちいい。酒瓶丸一本分近い量を飲み干して、パルスィはぷは、と息を吐いた。
やはりあんなものよりも実体のあるものの方が美味い。そう思う。
いい飲みっぷりだと勇儀が笑った、そのとき。
図ったように、腹の底に響く音が旧都から届いた。
「おう、始まったね」
「ん」
「あれが花火?」
「そうさ」
ヤマメが杯を持ち上げる。乾杯のつもりなのだろうか。
旧都の上方に咲いていたのは、橙色をした火の花だった。弾幕ごっこにありがちな華美さはない。むしろ静かに燃える熾火のような色合いだ。一つ一つはそう大きくないし、本来はおそらく真円になるのだろう形は幾らか潰れてしまっている。
それは多分、打ち上げる奴が慣れていないからだろうねと訳知り顔でヤマメは言った。人間が作ったものは、一朝一夕に扱いを習得できるほど簡単でないものが多い。ひと月前に見たというのが本当であるなら無理からぬことだろう。じゃあ来年はもう少しましになるだろう、楽しみだねと勇儀が言う。
花火を肴に、パルスィは杯を煽る。どん、どんと連続する炸裂音が、見えるものより僅かに遅れて耳に届く。
それは。
確かに潰れてはいるのだけれど――と、酒を飲みながらに思う。
「これはこれで綺麗なものね」
地上と交流が再開した証のようなものだから。
「そう言っただろ。上で見たときは月が出ていてね。もっと面白い見世物だったよ」
どうだ、と言わんばかりにヤマメは胸を張る。
ただ。
――何故かしら。
綺麗なだけではなくて、不思議と感傷を起こさせる光景だった。祭りで打ち上げられるものと言っていた。祭りの華やかさに相応しく、一瞬の儚さに思いを馳せるものなのだろうか。
一時の狂騒を良しとするのは、人妖に共通することなのか。
――良かった。
そんな考え方をまだ人間が持っているらしいことに対して、パルスィは小さく安堵の息をこぼす。
そして。
パルスィはちらりと隣に視線を向けた。
「人間が作ったもののくせに、とか思ってる?」
「ん――いや。これでやっと終わりだなと思ってね」
勇儀たち鬼は、人間の思想や在り方を否定して、関係を絶ったのだ。
そんなことはないさ、と勇儀は否定する。けれど横合いから覗きこんだその目は、どこか寂しげな色を帯びているようにも見えた。
同じ感慨を抱けるのなら、あるいは共存を続けることも可能だったのだろうか――とか、そんなことを考えているに違いない。
それは――きっと、鬼と人間の往時を知らないから言えることなのだろうけれど。
パルスィは僅かな時間で思い直す。
英傑を失い妖怪や神霊を忘れた人間が、今何を考えているのかだなんて、それこそ知り様のないことだと。
そんなことを考えながら。
三人は、しばしの間花火を楽しんだ。
花火自体はものの数分で終わってしまった。数の確保が間に合わなかったのかねえとヤマメは苦笑した。扱いも含めて、来年の祭りを楽しみにすることにしようと心に誓う。
尻窄みに終わるかと思った出し物は――しかし、旧都の上方に出現した赤い巨星が繋ぎとなって続行された。これはパルスィにも見当が付いた。霊烏路空の弾幕だろう。
そして、続く一瞬に光線が狙撃した。どうやら地上の魔法使いが地底の祭りに顔を出していたようだ。人間なのだろうに。花火の搬入を手伝っていたのか。消化不良を解消するため、今から一戦交えようとしているのかもしれない。
先刻の花火よりも派手さは遥かに上で、確かにこちらの方が旧都ウケはするだろう。けれど。
「何となく、気分じゃないねえ」
ヤマメの言葉に、パルスィはこくりと頷いて同意した。
何となく――ではあるけれど。あの花火を見たあと、どうにも弾幕ごっこを見ようという気にならなかったのである。
「そうね。何ならうちで飲んでく?」
「それもいいけどねえ」
「何だい。はっきり言いな」
「ちょいと地上に出てみる、てのはどうだろうね」
星でも見に行かないかい――と、ヤマメは含んだような目つきでパルスィを見た。
おおそれだ、と勇儀は軽く手を打った。対象的に、パルスィは半歩後ろに下がる。花火を見たことでいくらか満足してしまって、また地上へ向かおうとする気力が萎えたところだったのだ。
しかし勇儀とヤマメはまるで聞いていなかった。あたしたちが付いてるから大丈夫大丈夫――と根拠もなくそう連呼され、腕を引かれて縦穴へ連れ込まれてしまった。
「ねえ! 本当に行くの?」
「往生際が悪いよパルスィ! 私が行くって言ったら行くの!」
「観念しなよ。ヤマメはこれと決めたら引かないって知ってるだろ。蜘蛛の巣にでも引っかかったと思って、さ」
――あんたも同じじゃない。
苦笑する勇儀に、パルスィは内心で文句を垂れた。言っても無駄だと言うことは、それこそよく知っている。
地上へ続く縦穴は、長かった。
橋を渡り地上へ向かう者の中には、明らかに目的を達せず途中で引き返して来たのだと分かる者がいる。きっとこの穴を飛ぶうちに気持ちが萎え、今のパルスィと同じように地上に対する不安が大きくなった結果――引き返してしまうのだろう。
そういう輩は大抵一人きりで、勇儀やヤマメのように牽引してくれる者がいない。ここを通ることで、パルスィは彼らの気持ちがようやく分かったような気がしていた。
実際には四半刻にも満たない時間だったろう。
けれどパルスィには地底に勧請されてから今まで過ごして来たのと同じと思えるような時間、飛び続けて――。
そして。
「着いたよ」
長身の勇儀の倍近い高さの出口に、三人はようやく到着した。
妖怪の山の三合目あたりに、天狗が使っている――かつては鬼が使っていた――宴会場がある。三人はそこに降り立った。
一応、山の事情を知る勇儀は哨戒役がいるかもしれないと言ったのだけれど、発案者のヤマメがそれを笑い飛ばしてしまった。天狗がそうそう鬼に突っかかって来るはずがないと言って。そういう上下社会体系が作られていたらしい。
もしかすると、極力人に会わないようにという、ヤマメなりの気遣いであるのかもしれない。連れてくる過程が強引だっただけに、最後の一線でパルスィの気持ちを優先させたのかも――。
そこまで考えて、これは違うなと否定した。単純にこの場所がいろいろと観察するには都合のいい場所だからに違いない。人の里と思しき場所や、そこを流れる川が一望できる。思い返せば、パルスィが幻想郷の中を見たのはこれが初めてなのだった。
地上であればどこでも同じ――と考えていたわけではないけれど。社がない場所に来る、というだけで少し緊張してしまう。
――まあ、それはいいんだけど。
パルスィはため息を吐いて額に手を当てた。
「あんたたちが強引なのは知ってたつもりだったわ。でもこれほどとはね」
ようやく一箇所に腰を据えることができて、自分がどれだけ引っ張られてここまで来たのかを冷静に見つめ直した結果だった。考える暇も与えられず、連れて来られてしまったのだ。
じっとりとしたパルスィの視線を意に介さず、ヤマメは上機嫌に笑った。
「構わないじゃないか。これくらいしないとどうせ地上に顔出しゃしなかっただろ」
「それは――そうかもしれないけど」
憮然と唇を尖らせる。
灯明も何も持ってこなかったから、周囲を見渡すには星明かりと月明かりだけが頼りだった。上弦の頼りない月明かり。とは言えそれだけで十二分ではあったのだけれど。人間とは違うのだ。夜目は利く。互いの顔を見るくらいのことは造作もない。
夏の虫が鳴く声も、久しぶりに聞いた気がする。
涼しいねえ、と勇儀が言った。
「やっぱり、上の風はいい。下じゃどうしても新鮮な風って奴が吹かないものな」
「酔っ払いのくせにもっともらしいこと言うじゃない」
「酔ってるから言うんじゃないか。酒精に火照ったあとは、夜気で冷ましてもう一杯――だろ?」
どこに隠し持っていたのか、勇儀は数本の酒瓶を掲げた。だねえ、と呼応したヤマメもまた酒瓶を提げている。呑むことしか考えていないのだろうか。きっとそうなのだろう。
――馬鹿は放っておこう。
パルスィはまたため息を吐いて、夜空を見上げる。
「どうだい、橋姫さま。久しぶりの星空は」
勇儀が声を掛けてくる。
けれど。
「ああ、うん。なんだか――よく分からないわ」
「あん?」
「考えてみれば、いまいちよく覚えてないのよね。人間に祀られていた頃は、別段空を気にすることもなかったし。下に移った後なのよ、星ってものを意識したのは」
そう言って、パルスィは膝を抱えた。洞窟の内壁に自生する光苔の類を見るにつけ、星空を想起していたという方が正確だろうか。いずれ、かつて見た星空を正確に再現できるほど記憶しているわけではない。
と言っても。
綺麗だとは――思うのだが。
そういう意味では感謝することも吝かではない。
「なあんだ。連れてきた甲斐がないねえ。もう少し喜んでくれるんじゃないかと思ってたのにさ。ねえ、勇儀」
ヤマメはやはり、パルスィの機微を察するわけでもなく言った。
「――そうだねえ」
勇儀は。
どことなく感慨深げにそう言った。
――見透かされてる、かな。
思うパルスィに向けて、勇儀は夜空を指差す。
「星がどんなのか、なんてのは別に知らなくたって構いやしないさ。ただそこにあるものを見て、肴にできりゃそれでいい。星見なんてその中でも上等な奴だとでも思っとけばいいんだ」
「乱暴ね」
苦笑しながらパルスィは言う。
細かく分からなくとも、記憶の底を浚った星空と、あまり変わっていないことくらいは分かる。天の川や織女、牽牛――何とはなしに目を動かして、夏の星を探してみる。見つけやすい星の配置はあまり変わっていないようだ。
両の手で身体を支えて空を見上げながら、パルスィはふと意識に上ったことを口に出した。
「そういえばさー」
「ん?」
「あんたが私のことを公にしたいなんて、どういう心境の変化だったのよ。礼、とか何とか言ってさ。今まではあんまりそういうこと言わなかったじゃない。やっぱり、状況が変わったから?」
「あー、あれなあ」
大杯を傾けて、勇儀はゆるゆると息を吐いた。
そして。
「上と話を付けられたと言っただろう。だから、あんたにはもう無理に頼る必要はなくなったんだ。今年は寸でで間に合わなかったがね」
そう、告げた。
「あの異変で殴り込んで来た巫女とか、その後ろにいた境界の妖とかさ。大結界が安定してる今なら、あんたに負担をかけなくていい方法が色々と――」
パルスィは勇儀が次々に言い募る言葉を、右から左へ聞き流していた。それを無視して、問う。
「もう――私の助力はいらない、ってこと?」
これでやっと終わり――だったか。
それは、もうパルスィ自身が必要ないという意味だったのか。
急だねえとヤマメが剣呑な声を上げた。
「受けた恩を忘れたというわけでもあるまいに。パルスィがどう思っているかも聞かず、ただ放言するなんぞ勇儀らしくもない」
「初めから無理を言って呼んだんだ。目処がついたから帰って頂くことの何処が間違っていると言う」
「確かに、地底全体の穢れを受け持ってくれるような祓神が、他にいなかったことは事実だろうさ。けどね、勇儀。始まりがどんな形だったとしても、私はもうそこの橋姫さまとは馴染みのつもりだよ。勝手に帰してもらっちゃ困るねえ」
ヤマメは流し目を勇儀に送る。
珍しいなとパルスィは思った。ヤマメがまともに心情を吐露するところなど、ついぞ見たことがなかったからだ。静かに――けれど確実に、彼女は怒っているように見えた。
その態度は、パルスィを勇気付けるには十分なものだった。
「流石に今更そんなこと言われるとは思わなかったわね。いくら私でも、怒るときは怒るわよ」
ねえ勇儀と緑眼を吊り上げてパルスィは言う。
たじろいだように勇儀の喉が上下する。
「パルスィ」
「鈍すぎにも程があるんじゃないの? 馬鹿の相手は疲れるから嫌いなの。もうため息も出やしないわ。この際だからはっきり言わせてもらうけどね」
私は好きであの橋にいるのよ――とパルスィは半ば怒鳴るように言った。
「礼するとかしないとか、そんな下らないこと考える前に、どうして私が今まであんな地底の僻地にいたのか考えなさい。私は少なくとも今のところ、橋を離れる気はないの。最初は重いと思ったわよ。旧都全体の穢れを任せる? なに馬鹿なこと言ってるんだ、って。だけど今はヤマメと同じ気持ちなの」
人間に祀られていた頃には、こうして気安く言葉を交わせる相手などいなかったのだ。
「橋を守らなくていい、何処へなりと行って構わないとか言われても、今以上に居心地いい場所見つけられるわけないでしょう? あの烏に力を与えた神様の話も聞いたんでしょう? あんたたちと同じように、神仏だってどこに放り出されても生きていけるわけじゃないのよ」
言うだけ言って、パルスィはようやく我に返った。
微妙に視線を逸らしながら、最後にぼそぼそと付け加える。
「下手に私を放り出したら、全力で荒んで――祟ってやるからね」
荒御霊、と呼ばれる状態の神霊は、きちんと祀らなければ祟りをなす。旧都一年分の穢れを祓える程の神霊がそうなってしまえば、祀り上げ鎮めるまでに旧都へどれだけの被害が出るのか。
その計算ができない勇儀ではない、とパルスィは思う。
打算を利用するのは――悪辣かもしれない。それでも、今更消えたくはなかったから。
「大体、信仰代わりにあれを喰わなかったら、私なんて数年と持たずに消えちゃうわよ。だから――あんたらと一緒にいたいって思ってる限り、私があの役目はやらせてもらうわ」
文句は言わせないわよと、パルスィは勇儀を睨みつける。
勇儀は――暫くの間、目を伏せて顔を俯けていた。
やがて、
「――そうか」
と、呟いた。
「あんたは嫌々やっているものとばかり思っていた。祝詞を必要としないのも、請われるまま御利益を施してくれるのも――早く解放されたいものだとばかり、ね。妖怪に関わって嬉しがるような神様はいないと思ってたし――」
「どうしてそんなに自信がないのよ」
「いや――な。昔ッから他人が絡むと成功した試しがなくてさ。普段は無理矢理奮い立たせてるから」
「裏目に出たねえ」
「どうやらそうらしい」
全部ご破算だと勇儀は苦く笑った。古い協定を破棄し、新しい協定を結ぶ傍ら色々と根回しをしていたらしい。
鬼なのに。
姑息――な気がする。
パルスィは小さくため息を吐く。
「……本当、そんなのでよく鬼の中心に収まってるわよね」
「鬼なんて酔っ払いが集まってわいわい言ってるようなもんだからねえ。あたしがどういう性格だろうと、まとめ役をしてくれるなら構わないのさ」
「今まで一度もそんなこと言わなかったじゃない」
「まァ、事情の一つや二つはあるってことだ。サヨナラだと思ったからぽろっと言っちまっただけなの。全部、単なる酔っ払いの戯言だったってことにしといてくれないか」
「そういうことにしておいた方が吉のようだね。呑んで忘れよう、橋姫さま」
ヤマメは仕方なさそうに笑いながら、酒瓶を突き出してくる。今までの言葉を、しれっとなかったことにするように。もうあんまり飲めやしないわよとパルスィは悪態をつく。
――結局。
特に何も変わらないってことでいいのかしらと、興奮の余韻が残る頭で考える。勇儀が何もしないのなら、これまで通り橋を渡る者を見守るだけの緩い橋姫生活を続けるつもりなのだけれど。
後になって翻されないうちに言霊でも縛っておこうか。考えて、小さく苦笑した。流石にこの程度を詐称するようでは鬼とは呼べまい。
思う間に、二人の話題はすっかり別なことに移り変わっている。
「今年は星を見たからさ。来年はちゃんとした花火を見に来ないかい?」
「何それ。脈絡なさすぎでしょ」
「いいじゃないか。ヤマメにしては上出来だろう」
「失礼なこと言ってくれるじゃないさ。勇儀は誘わずにパルスィと二人で行ってやろうかね」
勇儀はずるいぞと憤慨する。
「せめてあたしも誘えよぅ」
「あんたは来年の今頃も祭りの準備で忙しくしてるはずでしょうに」
「そんなもん誰か他の奴に――奴に……任せられないよなあ、多分。いい加減誰か後継いでくれないかねえ」
「好きでやってるくせによく言うよ」
そりゃ来年も絶対おんなじことやるね、とヤマメが煽る。
「けっ。来年のことなんて分からないだろ。鬼が笑うね」
「そうとも限らないさ。少なくとも、また集まって酒飲んでるだろうよ」
「お、それもそうだな」
「あんたたちはお酒ばっかりね」
変わってしまうだの変わらないだのと、考えていた自分が馬鹿らしくなった。何故なら、何がどう変わろうと自分を取り巻く環境が変わってしまうとは思えなかったからだ。
自分が変わらないなら何も変わらないのだろう。良い意味でも、悪い意味でも。
――変わったと言えば、変わったのかな。
祀られるだけだった頃には、こうして言葉にすることなどできなかったのだろうし。
話したり、笑ったり、酒を飲んだり――、
まあ、何と言うか。
「ほんっと、代わり映えのしない奴ら」
パルスィは心底呆れた口調でそう言って。
けれど穏やかに微笑んだ。
それぞれのキャラの繋がり、関わり合いがバックグラウンドにまで続いている様子が窺えて、そこがすごく巧みだと思います。
やはりまんざらでもないパルスィが可愛くて仕方ない。
ありがとうございました。
あとパルスィの立場の解釈が素敵です
雰囲気の作り方とか、間の取り方とか読んでいて引き込まれます
何だかスラスラ読めました、何ともこの感じがたまらない
ラノベ読んでいるみたいだったなのかもしれませんね。
舞台が舞台なだけあってわかりやすく、とてもとは言い切れませんがキャラクターの考えに納得できる部分がありました。
あなたのおかげで私の地底は広がりました。
地底の成立譚を考えているときにできた番外編のような話でした。
本編を書くかどうかはおそらく茨木華扇の設定が固まるまでは保留ですが。
>勇儀とヤマメ
東方本編に出るキャラクタは変わり者が多いという認識を持っています。
考え方が種族の基本から外れていると言いますか。
それでいて気持ちのいい連中だと、そんな風に感じて頂けたなら幸いです。
>パルスィの立場
最初に行き遭ったのが魔理沙だったためか、あまり嫉妬の妖怪というイメージがないのです。
その後霊夢と紫でプレイするとずいぶん印象が変わって面食らった覚えがあります。第一印象でまとめてみました。
>世界観が広がった
書いてよかったと心底思いました。ありがとうございます。
二次設定にはあまりない関係だったかもしれませんが、楽しんで頂けたようで嬉しいです。
勇儀が結構不器用な感じがして微笑ましく、逆にヤマメはかっこよかったです。
そしてパルスィのちょっと素直になれなさというか、もう、どツボでっせ!
非常に楽しませて頂きました。ありがとうございます。