迂闊だった、今日は起きた時から嫌な予感がしていたんだ。
起床したら湯たんぽが原因で軽く低温火傷していたり、朝食では新しい湯呑みも欠けたりと碌な事がない。
しかも予感というのは厄介で、そういった自分に都合の悪い予感ばかりが当たるから困りものである。
――事の始まりは、霊夢が早朝から僕の店に来てのことだった。
「霖之助さん、神社で雪見酒でもどうかしら?」
雲の隙間から朝日が差し込む冬の香霖堂。早朝から店に来てそんなことを言う霊夢の手には一升瓶が握られていた。
勿論その中身は醤油でも酢でもなく、酒。しかもかなり上等な物だ。
何故わかるか、というとそれは愚問以外の何事でもない。
「霊夢、それは僕が棚に入れておいた酒だろう。人の物を勝手に飲もうとしないでくれ」
「棚を開けたらあったのよ。ついでにこれも飲みましょ?」
「もう僕が行くことが前提になってるね」
さて、ここでいくつか問題が発生した訳だ。
さっき霊夢は神社で、と言っていた。確かに、幻想郷を一望できる博麗神社からの雪景色は酒の良き肴となるだろう。
だが、空を飛べない僕にとって、神社への道のりはその分遠く、険しいものとなる。
それに朝から自分の店を離れるというのも店主として問題だ。
そしてこんな寒い日に外に出るのは面倒以外の何事でもない。実はこれが一番の理由だったりするのだが。
「寒いからなんて言って断ったらストーブ持っていくわよ? まぁそれ以外の理由で断っても持っていくけど」
「む」
「今の反応で霖之助さんの心情が理解できたわ」
ふふん、と得意気に胸を張る霊夢。なんて子だ、僕にとっての冬の命綱強奪予告をしてくるとは。
今更白を切っても無駄だろう。あんな反応をしてしまったのは僕だし、何より彼女は驚異的な博麗の勘を有している。
渋々ながら僕は椅子から立ち上がり、溜め息を吐いて降参の意思を示した。
「仕方無い、出掛ける準備をするから少し待っててくれ」
準備と言っても防寒具を持ってくるだけだ、時間なんて殆ど掛からない。
直ぐに奥の部屋から外套、二人分のマフラーと手袋を持ってきて霊夢に一人分渡す。
「あら、霖之助さんも気前がいいわね」
「あげるとは言ってないぞ、貸すだけだ。これは僕が暇潰し――もとい丹精込めて作った立派な商品だ、貰うなら料金を頂こうか」
「勿論ツケで」
「何が勿論だ、駄目に決まっているだろう」
「いいじゃないそれくらい、 それより早く行きましょ?」
「……はぁ」
おそらく、僕が博麗神社から帰宅する時には手袋やマフラーの所有者は変わってしまうのだろう。何時ものことである。
嘆息しながら外に出て、僕は店の入口の扉の『営業中』と書かれた札を裏返した。
「そう言えば、確か君の神社には鬼がいると聞いてたけど。彼女とは飲まないのかい?」
「あぁ……あいつは最近、早苗や神奈子や諏訪子達のとこに飲みに行ってるのよ。だから神社は私一人だけ」
三人の名には聞き覚えがあった。たしか彼女らは最近、外の世界から神社ごと引っ越してきた人間と神だとか。
まだ面識はないが、外の世界からきた者という点で僕は彼女たちに少なからず興味がある。近い内、是が非でも会ってみたいものだ。
「全く、萃香がいないから面倒なのよね……アイツの能力があれば楽なのに」
「うん? 何か言ったかい霊夢?」
「独り言よ、気にしないで。……って、そうだ。服の新調、まだ服を貰ってないわ」
「あぁ、すまない。忘れてたいたよ。今度来た時に取りに来てくれ」
霊夢と話ながら魔法の森を抜け、人里を過ぎ、長い長い石段を登る。
そうして博麗神社に到着する頃には曇り気味だった空も大分、本来の明るさを取り戻していた。
「ふぅ……」
境内が見えた所で自然と出てくる溜め息。
ここ最近出歩きもしていなかったからだろう。妖怪の血が混じる身体な故、疲労感こそないものの、倦怠感が体にまとわりつき何をするにも億劫になる。
「情けないわねぇ、このくらいで」
「君は石段の時飛んでいただろう。歩く身にもなって欲しいものだ」
軽い言葉の応酬をしながら居間に案内され、炬燵で暖まりながら台所に向かった霊夢を待つ。
少しして、湯気の立つ湯呑みを二つ盆に乗せて霊夢は戻ってきた。
「はい、霖之助さん。とりあえずお茶よ」
「ああ、ありがとう」
朝日に輝く白銀の世界を見渡し、炬燵で暖まりなががら美味い茶を飲む、中々の贅沢だ。
だからこの茶の香りが店に置いてある高価な茶葉の香りに酷似しているのはきっと気のせいだろう、そうに違いない。
「……ところで霖之助さん」
茶を啜りながら霊夢は僕の顔をちらと伺うように見てくる。
そんな彼女のその黒い双眸から何かを悟るのは困難、いや不可能に思えた。
僕は古道具屋であり、覚(さと)り妖怪のような心を読む能力があるわけでもない。
ましてや、相手は何事にも捕らわれず縛られない、博麗の巫女なのだから。
「今日は何の日かしら?」
――が、ここで僕は彼女の言わんとしていることをなんとなく理解することができてしまった。
嫌な予感が的中したのを感じながら、霊夢の問いを返してやる。
「……師走最後の日、大晦日だね」
「そう、大晦日ね。それで――」
「……はぁ」
霊夢の話の途中から漏れる本日何度目かわからない溜め息。
僕は何をしていたんだ。
今日が大晦日であること。
何時もより強引に僕を博麗神社に誘った霊夢。
そして彼女が、非常にめんどくさがりな人格であること。
ここまでくれば店にいた時でも予測は容易にできたじゃないか。
つまるところこう言うことだ。
「大掃除が面倒だがら手伝え、と」
「あら察しがいいわね。じゃあよろしく」
「ちょっと待て。手伝うのは雪見酒でいいとして全部僕にやらせる気かい? 冗談じゃないよ」
「……仕方ないわねぇ。じゃ、お茶が飲み終わったら一緒に始めましょうか」
本気で霊夢は博麗神社の掃除を全てを僕に任せる気だったのか、眉を八の字にして心底面倒そうな顔をしている。本来は自分がやるべきことだろうに……。
まあ、見返りは絶景の雪景色での宴会、悪くはないはずだ。その分くらいは手伝ってやろうじゃないか。
そうして雪見酒を糧に、巫女と僕の博麗神社大掃除が始まった。
「とりあえず最初は畳の掃除と、障子の張り替えか……」
――そう、迂闊だった。
油断していたとも言っていい、とにかく博麗神社の現状は僕の予想を越えていたのだ。
居間や台所、寝室に縁側など、霊夢が普段から使っている場所はこまめに掃除してあったのだが……。
問題はそれ以外の場所、客間や物置場など彼女が全く行かない部屋は酷い有り様だった。
おそらく参拝者の見る可能性がある部分くらいは掃除しておこう、という魂胆なのだろう、あまりにも格差のある清潔さには呆れるばかりだ。
「けほっ、けほっ……全く、ここも埃だらけじゃないか……あ、ないと思ってた僕の店の物が――」
「あ、駄目よそれ、後で使うから。掃除したらまた仕舞っておいて頂戴」
「……僕の店から勝手に持っていった物をよくそんな平然とした顔で言えるものだね」
現在僕が掃除しているのは埃が神社の物置場。
此処も酷いという他ない、汚れとはまた違う意味で。
というのも、掃除をしていると四半時に二つの割合で僕の商品が出てくるのだ。ここまで来ると呆れを通り越して感動すらしてくる。
しかも霊夢は、非売品にしようと思った物ばかりを狙って持って行く。出てくる商品のほとんどが、僕の気に入っていた道具なのは必然と言えるだろう。
「霖之助さん、そろそろ休憩にしない?」
「ん、ああ、そうしようか。じゃあここら辺の掃除が終わったら──」
振り返ってみたが、そこには霊夢はおらず、ぱたぱたという足音だけが台所から響いてきていた。
本当に仕方のないやつだ、そう思いつつ、僕はポーチに入りそうな商品はどのくらいあるかと探しながら作業を再開した。
……言っておくが僕の商品を奪還するだけだ、泥棒行為では決して、ない。
「……よし、これで終わりかな?」
埃がなくなった最後の部屋を見渡し、僕は大掃除の作業を終了させた事実を確認した。
最初に出てくるのは達成感でなく疲労感。
今日は本当に疲れた、これも霊夢が僕に力仕事ばかりやらせるからだ。
確かに僕は霊夢より単純な腕力なら勝っているだろう、だが少しくらいは手伝ってくれてもいいと思うのだが。
「霖之助さーん、終わったー? 晩御飯にしましょー?」
「ああ、今行くよ」
霊夢の声が聞こえた途端、台所から漂ってくる食欲をそそる香り。どうやら準備は万端なようだ。
匂いに導かれるように居間に戻ると、色鮮やかな食材達が僕を出迎えてくれた。
玄米のご飯に小松菜と里芋の味噌汁、白菜の漬物に干物にした鮎の唐揚げ。
僕の疲れを労うかのように置かれたそれは、見るだけで自然と唾が出る。
「晩御飯の後は宴会もあるんだからあんまり食べ過ぎると損よ?」
「そうだね、気を付けるとしよう」
じゃあ、と手を合わせ食事前の挨拶。
「「いただきます」」
そうして料理に舌鼓を打ち終え、一息ついた頃。
そこそこに膨れたお腹に満足しながら、僕と霊夢はのんびりお茶を啜っていた。
ちなみに僕が夕食の片付けをしている間、霊夢は神社の境内へ行ってしまった。
なんでも太陽の化身である天照大神を迎える儀式をしてきたらしい。大晦日では毎回その儀式を行い、明けの明星である天香香背男命を退けているそうだ。
久々にあの子が巫女らしい仕事をしているのを聞いた気がする。言えば機嫌を損ねるので言わないがね。
時刻は既に夜。そろそろ宴会を始めるには十分な時間だろう。
「さて、晩御飯も頂いたし、そろそろ飲むかい?」
「んー、今日はお風呂沸かしてあるし、入ってからにするわ。直ぐに出てくるから霖之助さんは寛いでて」
晩御飯を食べ終わって早々、霊夢は風呂場へと向かって行った。
やることもなく、手持ち無沙汰になった僕の手は炬燵の上に乗ったミカンを掴む。
皮を剥いて一口。噛んだ瞬間に広がる果汁はまるで蜜のように甘かった。
ひょいひょいと口に運び、さてもう一つ――という所で思い止まる。そういや宴会の為に来たんだっけ。
ふう、と息を吐きつつ時刻を確認。そろそろ戌の刻をまわった頃だろうか。
宴会のことを考慮すると、どうやら時間的に今年は博麗神社で年越しを迎えそうだ。
ついでに二年参りもしてしまうのもいいかもしれない。そう考えていると、自然と自分の足が境内に向いていた。少々寒いが、我慢できない程の気温ではない。
賽銭箱の前まで来てみたが……さて、何を願おうか。
ふと賽銭箱を見てみる。構造上、中身は見ることができないが、おそらく一銭も入ってないだろう。
なにせ魔理沙が『隠れる場所に困ったら博麗神社の賽銭箱に隠れろ、数年間枯れ葉すら侵入するのを防いだ鉄壁の守りだぜ』と言うほどだ。
……ちょっと霊夢が可哀想に思えてきた。
「まあ、せっかくだ」
そう言って僕はポーチから小銭を一枚取り出し、賽銭箱へと投げ入れた。
銭と銭とがぶつかり合う音はなく、木と銭のかきんと乾いた音が境内に響く。
――と、その瞬間、どこぞの鴉天狗もびっくりするような速度でこちらに向かってくる物体が。
「お賽銭の音がしたわ! 霖之助さん、お賽銭入れてくれたの!?」
来たのは案の定、風呂上がりの霊夢だった。音を聞きつけ急いで来たのでか、所々服が乱れたりしている。
年頃の少女がそんな格好をするのは頂けない、仮にも神に仕える職業だというのに。
「入れたよ。それよりも霊夢、服をもう少しちゃんと着たらどうだい。サラシが丸見えだ」
「あ」
自分の格好にようやく気付いたのか、顔を赤く染め、慌てて服装を正す霊夢。
珍しいな、この子が狼狽する姿なんて。少し、いやかなり稀少なものを見たかもしれない。
「こほん、それで霖之助さん、お風呂空いたけど入る?」
「いや、あまり遅くなっても興醒めだろう。宴会を優先するよ」
「わかったわ。じゃ、縁側でやりましょ」
一旦部屋に戻って酒や杯を持ち、縁側へ向かう。
霊夢が襖を開け、再び外の冷たい空気へ身を出すと、そこには息を飲む程の光景が僕の目の前に広がっていた。
月は雲に隠れることなく悠々とその姿を夜空に浮かばせ、淡い光を放つ。
その月光を受け、淡く光る雪の景色は儚くも美しく。
何の音もしないその空間は、神に選ばれたような神々しさで。
感じられるその雰囲気は、まるで人が立ち入ってはいけないようで。
言葉を発するのさえ無粋だろう。
僕たちは静かに、目の前に映る光景を眺め続けていた。
どのくらい時が経ったのか。
暫くするとさあ、と霊夢が僕の方へ振り返り、いつの間にか並々と注がれている杯を渡してきた。
「じゃあ、この景色と霖之助さんに」
僕も杯を受け取り、掲げる。
「この景色と霊夢に」
こつ、と杯がぶつかり、注がれた液体がゆらりと波をたてた。
「「乾杯」」
――突然だが、霊夢は笑顔でいることがあまりない。
……いや、それだと語弊を招くか。
僕の店に茶を飲みに来る時、異変解決に向かう時、誰かと話している時。
どんな時であれ、霊夢は笑うことはあれど、それが常時保たれるなんてことはあまりない。
大抵顔に浮かんでいるのは面倒くさそうな顔か、のんびりしている顔かのどちらかだ。
だが、そんな彼女にも例外は存在する。
「霖之助さん、もっと呑みなさいよ。せっかくこんなにいい景色なのに勿体無いわ」
僕の目の前には、顔を少し朱に染め、にこにこと笑って杯を傾ける博麗の巫女。
そう、それは酒を呑んでいる時。
酒が入ると、いつでも霊夢は上機嫌だ。それこそ、別人かと見まごう程に。
縁側には、既に数本の空になった酒瓶が転がっている。
彼女のとろんとした目や赤い顔も手伝って、酔っているのは誰の目で見ても明らかだった。
「霊夢、ちょっと呑み過ぎじゃないか?」
「こんなの序の口よ。さ、霖之助さんも呑みましょ!」
そういって僕の杯に酒を注ぐ霊夢。
酔っ払いの相手というのは思った以上に労力を要するもので、出来る限り関わりたくないというのが僕の正直な気持ちだ。
しかし、生憎ここにいるのは僕と霊夢だけであり、逃げるという選択肢は最初から存在していない。
少々厄介なことになってしまったな……。
霊夢の話に相槌を打ちつつ、杯を傾ける。冷えた液体が喉を通り過ぎ、その後に燃えるような熱さが奥から込み上げてくる。
ほうと息を吐き、再び霊夢の話に耳を傾け相槌を打っていく。
そんなことを続けていた時。
「……ね、霖之助さん」
「ん?」
唐突に霊夢の声のトーンが変わる。
視線を動かすと、そこには何も考えていないようで何かを思っているような、なんとも不思議な表情をした霊夢の顔があった。
少し間が空き、やがて彼女の小さな口から言葉が紡がれる。
「私が死んだら……霖之助さんは悲しむ?」
一瞬だけ、時が止まったような気がした。
言われた意味をじっくり咀嚼するように一口、二口と酒を飲んでから、僕は霊夢の問いに口を開いた。
「……どうして、そんなことを思ったんだい?」
「別に自殺しようだとかは考えてないわ。ただ、ふと思ったのよ。何時までこんな風に霖之助さんと、いや皆と宴会できるのかなって」
そこにいるのは博麗の巫女としての霊夢ではなく、漠然とした不安を抱える一人の少女としての霊夢だった。
「今の生活は悪くないわ。霖之助さんもいるし、魔理沙もいる。萃香も色々と手伝ってくれるし、紫だって胡散臭いけど退屈はしない。他にも喧しいくらいお騒がせな奴らばっか」
「順風満帆とまでは言わないが、賑やかで霊夢にはいいんじゃないのか?」
「そうね……でも」
一拍置き、夜空に輝く月を見上げてから、霊夢は言葉を紡ぐ。
「そんなことも、何時かは出来なくなるのかなって。他の奴らは変わらないのに、私たち人間だけが年老いて、先に逝く。霖之助さんは……お婆さんになったり死んだりする私を見て、どう思う?」
「…………」
始まりがあれば終わりがある。それは悠久の時を生きる妖怪であってもなんら変わりはない。
だが、人間と妖怪との時の流れはあまりにもかけ離れている……いや、離れ過ぎていると言ってもいいだろう。
霊夢や魔理沙もいずれ成長し年を取る。しかし、それは妖怪にとって瞬きをするような一瞬の時間。
人間が『もう』と思えるような時間すら、妖怪にとっては『たかが』。
人間である限り、妖怪と変わらずにいられるなんてことは、不可能なのだ。
いずれ訪れる結末、終わり、終着。それに霊夢は思い当たった。
それは酒によるセンチメンタルか、この月を見ての吐露か、はたまた両方か。
「……そうだね、答えるなら……僕は答えにできない、というのが答かな」
「何よそれ? 返事になってないじゃない」
思っていたことと違うことを言われたからなのか、頬を膨らまし、霊夢はいかにも不機嫌そうな表情を作る。
僕は少しだけ笑い、再び口を開いた。
「そうでもないさ。霊夢、君の成長を見ていくのはとても楽しい。身長の身体面や、精神面のこともね」
何時になったら勝手に僕の服を着たり商品を持ち出したりしなくなるのか、日付を記録するのも面白いかもしれない。
身長は毎年伸びてはいるが、精神面は昔から何一つ変わっていないからな、君は。
「そして君が死ぬときだが……やはり悲しいと思うだろうね、泣くかもしれない。別れというのは何度やっても慣れぬものだ」
半人半妖、人間と妖怪のハーフ。
妖怪と生きるには余りにも短く、人間と生きるには余りにも長すぎる命。
そういう時の中を僕は生きてきた。勿論、それはこれからも続いていくだろう。
「だが、大切な友人、愛しい人と過ごした日々は思い出として残る。あの頃はああだった、こうだった。とか、その時アイツはこうだった、そうだった。とか。思い出す上で寂しさはあるだろうが、それも立派な思い出さ」
霊夢を見た。
彼女の瞳がゆらゆらと揺れている。そこにはどんな感情が宿っているのだろうか。
「そんな浮かんでくる様々な感情を一言で表すことはできない。だから僕の答は、答えにできない、さ」
杯に乗せられた液体を一気に飲み干す。あまり好きな飲み方ではないが、今はそうしたい気分だった。
酒瓶から杯に酒を注ぎ、僕は霊夢の返答を静かに待っていた。
「……なんだかずるいわ」
視線を反らし、月を見上げる霊夢。
その顔には小さな微笑みが映っていた。
再びぐいと杯を飲み干し、僕も満月の浮かぶ空を仰ぐ。
少しだけ、月が明るくなった気がした。
「ずるいとは心外だね、僕は思ったことを口にしただけなのだが」
「霖之助さんはいつも回りくどいのよ。もっとはっきり言って頂戴」
「善処しよう」
言いながら、霊夢はゆっくりと、僕に近づいてくる。
何をするのか意図がわからず、疑問に思っていると、
「おい、霊夢?」
霊夢は僕のすぐ隣に座り、こてんと首を傾け僕の肩に乗せてきた。
流れてくる仄かな石鹸の香りが、僕の鼻腔をくすぐる。
「なんとなく、こうしていたいのよ。いいでしょ? 別に減るものでもないし」
確かにまあ、減るものでもないので構わないが。
そうして夜空を見上げながら五分か、十分か、お互い無言でいる状態が続く。
そこから更に少し経った時、小さく掠れた霊夢の声が、僕の耳に届いてきた。
「霖之助さん……」
「うん?」
「さっき言ってくれたこと……嬉しかった、わ……」
「……霊夢?」
返事はなく、隣から聞こえてきたのはくぅ、という可愛らしい彼女の寝息だった。
「やれやれ、寝てしまったか」
そっと霊夢を抱き上げ、後ろの寝室にまで運び布団を掛けて寝かしてやる。
霊夢の穏やか寝顔を見てから、僕は襖を閉めた。
戻ってくれば空になった酒瓶の数々。
片付けようか、いや、僕は客だ。片付けをするのは逆に失礼だろう。
……でもまあ、相手は霊夢だし、自分の分くらいは片付けてやってもいいか。
だが、今すぐ片付ける訳ではない。
僕が持っている瓶はまだ酒が残っているのだ。月もまだ消えてはいない、このまま一人宴会へと洒落込もうじゃないか。
ゆっくりと自分のペースで呑む。先程のように複数での宴会もたまにはいいが、やはり自分はこちらが一番性に合っている。
「……しかし、霊夢がいきなりあんなことを聞いてくるとはね」
自分の本心を相手にさらけ出すと言うのは思いの外気恥ずかしく、僕は今更になって込み上げてきた感情から逃れるように頬を掻いた。
だが、あれだけの酒の量だ、今日話したことなんて綺麗さっぱり忘れているはずだろう。
もう少し量を控えていれば覚えてそうだが……。所詮過ぎ去った過去、とやかく言っても事実は不変である。
そうして持っていた酒瓶を空にし、宴会の片付け(勿論僕が呑んだりした分だけ)をしていると、あることを僕は思い出した。
――まだ、二年参りの祈祷をしてないじゃないか。
賽銭も入れたのに祈願をしないのは勿体無い。かと言って、何か願うものはあったかと問われると返答に困ってしまう。
どうしたものかと考えはしたが、とうとう片付けも終わってしまい、僕は縁側に立って首を捻るばかりだった。
とりあえず、外に長時間いては身体が冷えてしまう。そう思い僕は縁側の襖を静かに開けた。
「すぅ……」
気持ち良さそうに夢の中に身をゆだねている霊夢。
掛けた布団が若干ずれていたので直してやった。
「むにゃ……今日は、呑むわよー」
「夢の中でまで宴会してるのか、君は」
思わず苦笑してしまう。
少しだけ様子を見ていたが、人の寝顔を見ていても仕方がないだろう。
居間にでも行こうと思い、寝室を後にしようとしたところで、再び霊夢の寝言が寝室に響いた。
「―――――――」
「……っ」
思わず、身体が固まる。
その言葉を聞いた途端、浮かび上がる感情が僕の心をじわりじわりと占めていく。
そして自然と僕の顔に浮かぶ苦笑ではない、純粋な笑み。
振り返る。霊夢はさっきと同じ、穏やかな寝顔だった。
「全く、君は……」
今度こそ寝室を後にする。向かう先は神社の境内。
ゆっくりと歩を進め、僕は改めて賽銭箱の前に立った。
ほうと吐いた白い息が、月に昇っていくように消えていく。
さて。
先程浮かんだばかりの願い事。これは到底叶うものではないのかもしれない。
だが、どんな願いだろうと、願うことは僕の勝手だ、好きに願わせてもらうとしよう。
――それは、とある人間と人妖の、儚い願い。
「……何時までも、皆と一緒にいられますように……」
振り返る。月は何時までも、空に輝き続けていた。
《了》
起床したら湯たんぽが原因で軽く低温火傷していたり、朝食では新しい湯呑みも欠けたりと碌な事がない。
しかも予感というのは厄介で、そういった自分に都合の悪い予感ばかりが当たるから困りものである。
――事の始まりは、霊夢が早朝から僕の店に来てのことだった。
「霖之助さん、神社で雪見酒でもどうかしら?」
雲の隙間から朝日が差し込む冬の香霖堂。早朝から店に来てそんなことを言う霊夢の手には一升瓶が握られていた。
勿論その中身は醤油でも酢でもなく、酒。しかもかなり上等な物だ。
何故わかるか、というとそれは愚問以外の何事でもない。
「霊夢、それは僕が棚に入れておいた酒だろう。人の物を勝手に飲もうとしないでくれ」
「棚を開けたらあったのよ。ついでにこれも飲みましょ?」
「もう僕が行くことが前提になってるね」
さて、ここでいくつか問題が発生した訳だ。
さっき霊夢は神社で、と言っていた。確かに、幻想郷を一望できる博麗神社からの雪景色は酒の良き肴となるだろう。
だが、空を飛べない僕にとって、神社への道のりはその分遠く、険しいものとなる。
それに朝から自分の店を離れるというのも店主として問題だ。
そしてこんな寒い日に外に出るのは面倒以外の何事でもない。実はこれが一番の理由だったりするのだが。
「寒いからなんて言って断ったらストーブ持っていくわよ? まぁそれ以外の理由で断っても持っていくけど」
「む」
「今の反応で霖之助さんの心情が理解できたわ」
ふふん、と得意気に胸を張る霊夢。なんて子だ、僕にとっての冬の命綱強奪予告をしてくるとは。
今更白を切っても無駄だろう。あんな反応をしてしまったのは僕だし、何より彼女は驚異的な博麗の勘を有している。
渋々ながら僕は椅子から立ち上がり、溜め息を吐いて降参の意思を示した。
「仕方無い、出掛ける準備をするから少し待っててくれ」
準備と言っても防寒具を持ってくるだけだ、時間なんて殆ど掛からない。
直ぐに奥の部屋から外套、二人分のマフラーと手袋を持ってきて霊夢に一人分渡す。
「あら、霖之助さんも気前がいいわね」
「あげるとは言ってないぞ、貸すだけだ。これは僕が暇潰し――もとい丹精込めて作った立派な商品だ、貰うなら料金を頂こうか」
「勿論ツケで」
「何が勿論だ、駄目に決まっているだろう」
「いいじゃないそれくらい、 それより早く行きましょ?」
「……はぁ」
おそらく、僕が博麗神社から帰宅する時には手袋やマフラーの所有者は変わってしまうのだろう。何時ものことである。
嘆息しながら外に出て、僕は店の入口の扉の『営業中』と書かれた札を裏返した。
「そう言えば、確か君の神社には鬼がいると聞いてたけど。彼女とは飲まないのかい?」
「あぁ……あいつは最近、早苗や神奈子や諏訪子達のとこに飲みに行ってるのよ。だから神社は私一人だけ」
三人の名には聞き覚えがあった。たしか彼女らは最近、外の世界から神社ごと引っ越してきた人間と神だとか。
まだ面識はないが、外の世界からきた者という点で僕は彼女たちに少なからず興味がある。近い内、是が非でも会ってみたいものだ。
「全く、萃香がいないから面倒なのよね……アイツの能力があれば楽なのに」
「うん? 何か言ったかい霊夢?」
「独り言よ、気にしないで。……って、そうだ。服の新調、まだ服を貰ってないわ」
「あぁ、すまない。忘れてたいたよ。今度来た時に取りに来てくれ」
霊夢と話ながら魔法の森を抜け、人里を過ぎ、長い長い石段を登る。
そうして博麗神社に到着する頃には曇り気味だった空も大分、本来の明るさを取り戻していた。
「ふぅ……」
境内が見えた所で自然と出てくる溜め息。
ここ最近出歩きもしていなかったからだろう。妖怪の血が混じる身体な故、疲労感こそないものの、倦怠感が体にまとわりつき何をするにも億劫になる。
「情けないわねぇ、このくらいで」
「君は石段の時飛んでいただろう。歩く身にもなって欲しいものだ」
軽い言葉の応酬をしながら居間に案内され、炬燵で暖まりながら台所に向かった霊夢を待つ。
少しして、湯気の立つ湯呑みを二つ盆に乗せて霊夢は戻ってきた。
「はい、霖之助さん。とりあえずお茶よ」
「ああ、ありがとう」
朝日に輝く白銀の世界を見渡し、炬燵で暖まりなががら美味い茶を飲む、中々の贅沢だ。
だからこの茶の香りが店に置いてある高価な茶葉の香りに酷似しているのはきっと気のせいだろう、そうに違いない。
「……ところで霖之助さん」
茶を啜りながら霊夢は僕の顔をちらと伺うように見てくる。
そんな彼女のその黒い双眸から何かを悟るのは困難、いや不可能に思えた。
僕は古道具屋であり、覚(さと)り妖怪のような心を読む能力があるわけでもない。
ましてや、相手は何事にも捕らわれず縛られない、博麗の巫女なのだから。
「今日は何の日かしら?」
――が、ここで僕は彼女の言わんとしていることをなんとなく理解することができてしまった。
嫌な予感が的中したのを感じながら、霊夢の問いを返してやる。
「……師走最後の日、大晦日だね」
「そう、大晦日ね。それで――」
「……はぁ」
霊夢の話の途中から漏れる本日何度目かわからない溜め息。
僕は何をしていたんだ。
今日が大晦日であること。
何時もより強引に僕を博麗神社に誘った霊夢。
そして彼女が、非常にめんどくさがりな人格であること。
ここまでくれば店にいた時でも予測は容易にできたじゃないか。
つまるところこう言うことだ。
「大掃除が面倒だがら手伝え、と」
「あら察しがいいわね。じゃあよろしく」
「ちょっと待て。手伝うのは雪見酒でいいとして全部僕にやらせる気かい? 冗談じゃないよ」
「……仕方ないわねぇ。じゃ、お茶が飲み終わったら一緒に始めましょうか」
本気で霊夢は博麗神社の掃除を全てを僕に任せる気だったのか、眉を八の字にして心底面倒そうな顔をしている。本来は自分がやるべきことだろうに……。
まあ、見返りは絶景の雪景色での宴会、悪くはないはずだ。その分くらいは手伝ってやろうじゃないか。
そうして雪見酒を糧に、巫女と僕の博麗神社大掃除が始まった。
「とりあえず最初は畳の掃除と、障子の張り替えか……」
――そう、迂闊だった。
油断していたとも言っていい、とにかく博麗神社の現状は僕の予想を越えていたのだ。
居間や台所、寝室に縁側など、霊夢が普段から使っている場所はこまめに掃除してあったのだが……。
問題はそれ以外の場所、客間や物置場など彼女が全く行かない部屋は酷い有り様だった。
おそらく参拝者の見る可能性がある部分くらいは掃除しておこう、という魂胆なのだろう、あまりにも格差のある清潔さには呆れるばかりだ。
「けほっ、けほっ……全く、ここも埃だらけじゃないか……あ、ないと思ってた僕の店の物が――」
「あ、駄目よそれ、後で使うから。掃除したらまた仕舞っておいて頂戴」
「……僕の店から勝手に持っていった物をよくそんな平然とした顔で言えるものだね」
現在僕が掃除しているのは埃が神社の物置場。
此処も酷いという他ない、汚れとはまた違う意味で。
というのも、掃除をしていると四半時に二つの割合で僕の商品が出てくるのだ。ここまで来ると呆れを通り越して感動すらしてくる。
しかも霊夢は、非売品にしようと思った物ばかりを狙って持って行く。出てくる商品のほとんどが、僕の気に入っていた道具なのは必然と言えるだろう。
「霖之助さん、そろそろ休憩にしない?」
「ん、ああ、そうしようか。じゃあここら辺の掃除が終わったら──」
振り返ってみたが、そこには霊夢はおらず、ぱたぱたという足音だけが台所から響いてきていた。
本当に仕方のないやつだ、そう思いつつ、僕はポーチに入りそうな商品はどのくらいあるかと探しながら作業を再開した。
……言っておくが僕の商品を奪還するだけだ、泥棒行為では決して、ない。
「……よし、これで終わりかな?」
埃がなくなった最後の部屋を見渡し、僕は大掃除の作業を終了させた事実を確認した。
最初に出てくるのは達成感でなく疲労感。
今日は本当に疲れた、これも霊夢が僕に力仕事ばかりやらせるからだ。
確かに僕は霊夢より単純な腕力なら勝っているだろう、だが少しくらいは手伝ってくれてもいいと思うのだが。
「霖之助さーん、終わったー? 晩御飯にしましょー?」
「ああ、今行くよ」
霊夢の声が聞こえた途端、台所から漂ってくる食欲をそそる香り。どうやら準備は万端なようだ。
匂いに導かれるように居間に戻ると、色鮮やかな食材達が僕を出迎えてくれた。
玄米のご飯に小松菜と里芋の味噌汁、白菜の漬物に干物にした鮎の唐揚げ。
僕の疲れを労うかのように置かれたそれは、見るだけで自然と唾が出る。
「晩御飯の後は宴会もあるんだからあんまり食べ過ぎると損よ?」
「そうだね、気を付けるとしよう」
じゃあ、と手を合わせ食事前の挨拶。
「「いただきます」」
そうして料理に舌鼓を打ち終え、一息ついた頃。
そこそこに膨れたお腹に満足しながら、僕と霊夢はのんびりお茶を啜っていた。
ちなみに僕が夕食の片付けをしている間、霊夢は神社の境内へ行ってしまった。
なんでも太陽の化身である天照大神を迎える儀式をしてきたらしい。大晦日では毎回その儀式を行い、明けの明星である天香香背男命を退けているそうだ。
久々にあの子が巫女らしい仕事をしているのを聞いた気がする。言えば機嫌を損ねるので言わないがね。
時刻は既に夜。そろそろ宴会を始めるには十分な時間だろう。
「さて、晩御飯も頂いたし、そろそろ飲むかい?」
「んー、今日はお風呂沸かしてあるし、入ってからにするわ。直ぐに出てくるから霖之助さんは寛いでて」
晩御飯を食べ終わって早々、霊夢は風呂場へと向かって行った。
やることもなく、手持ち無沙汰になった僕の手は炬燵の上に乗ったミカンを掴む。
皮を剥いて一口。噛んだ瞬間に広がる果汁はまるで蜜のように甘かった。
ひょいひょいと口に運び、さてもう一つ――という所で思い止まる。そういや宴会の為に来たんだっけ。
ふう、と息を吐きつつ時刻を確認。そろそろ戌の刻をまわった頃だろうか。
宴会のことを考慮すると、どうやら時間的に今年は博麗神社で年越しを迎えそうだ。
ついでに二年参りもしてしまうのもいいかもしれない。そう考えていると、自然と自分の足が境内に向いていた。少々寒いが、我慢できない程の気温ではない。
賽銭箱の前まで来てみたが……さて、何を願おうか。
ふと賽銭箱を見てみる。構造上、中身は見ることができないが、おそらく一銭も入ってないだろう。
なにせ魔理沙が『隠れる場所に困ったら博麗神社の賽銭箱に隠れろ、数年間枯れ葉すら侵入するのを防いだ鉄壁の守りだぜ』と言うほどだ。
……ちょっと霊夢が可哀想に思えてきた。
「まあ、せっかくだ」
そう言って僕はポーチから小銭を一枚取り出し、賽銭箱へと投げ入れた。
銭と銭とがぶつかり合う音はなく、木と銭のかきんと乾いた音が境内に響く。
――と、その瞬間、どこぞの鴉天狗もびっくりするような速度でこちらに向かってくる物体が。
「お賽銭の音がしたわ! 霖之助さん、お賽銭入れてくれたの!?」
来たのは案の定、風呂上がりの霊夢だった。音を聞きつけ急いで来たのでか、所々服が乱れたりしている。
年頃の少女がそんな格好をするのは頂けない、仮にも神に仕える職業だというのに。
「入れたよ。それよりも霊夢、服をもう少しちゃんと着たらどうだい。サラシが丸見えだ」
「あ」
自分の格好にようやく気付いたのか、顔を赤く染め、慌てて服装を正す霊夢。
珍しいな、この子が狼狽する姿なんて。少し、いやかなり稀少なものを見たかもしれない。
「こほん、それで霖之助さん、お風呂空いたけど入る?」
「いや、あまり遅くなっても興醒めだろう。宴会を優先するよ」
「わかったわ。じゃ、縁側でやりましょ」
一旦部屋に戻って酒や杯を持ち、縁側へ向かう。
霊夢が襖を開け、再び外の冷たい空気へ身を出すと、そこには息を飲む程の光景が僕の目の前に広がっていた。
月は雲に隠れることなく悠々とその姿を夜空に浮かばせ、淡い光を放つ。
その月光を受け、淡く光る雪の景色は儚くも美しく。
何の音もしないその空間は、神に選ばれたような神々しさで。
感じられるその雰囲気は、まるで人が立ち入ってはいけないようで。
言葉を発するのさえ無粋だろう。
僕たちは静かに、目の前に映る光景を眺め続けていた。
どのくらい時が経ったのか。
暫くするとさあ、と霊夢が僕の方へ振り返り、いつの間にか並々と注がれている杯を渡してきた。
「じゃあ、この景色と霖之助さんに」
僕も杯を受け取り、掲げる。
「この景色と霊夢に」
こつ、と杯がぶつかり、注がれた液体がゆらりと波をたてた。
「「乾杯」」
――突然だが、霊夢は笑顔でいることがあまりない。
……いや、それだと語弊を招くか。
僕の店に茶を飲みに来る時、異変解決に向かう時、誰かと話している時。
どんな時であれ、霊夢は笑うことはあれど、それが常時保たれるなんてことはあまりない。
大抵顔に浮かんでいるのは面倒くさそうな顔か、のんびりしている顔かのどちらかだ。
だが、そんな彼女にも例外は存在する。
「霖之助さん、もっと呑みなさいよ。せっかくこんなにいい景色なのに勿体無いわ」
僕の目の前には、顔を少し朱に染め、にこにこと笑って杯を傾ける博麗の巫女。
そう、それは酒を呑んでいる時。
酒が入ると、いつでも霊夢は上機嫌だ。それこそ、別人かと見まごう程に。
縁側には、既に数本の空になった酒瓶が転がっている。
彼女のとろんとした目や赤い顔も手伝って、酔っているのは誰の目で見ても明らかだった。
「霊夢、ちょっと呑み過ぎじゃないか?」
「こんなの序の口よ。さ、霖之助さんも呑みましょ!」
そういって僕の杯に酒を注ぐ霊夢。
酔っ払いの相手というのは思った以上に労力を要するもので、出来る限り関わりたくないというのが僕の正直な気持ちだ。
しかし、生憎ここにいるのは僕と霊夢だけであり、逃げるという選択肢は最初から存在していない。
少々厄介なことになってしまったな……。
霊夢の話に相槌を打ちつつ、杯を傾ける。冷えた液体が喉を通り過ぎ、その後に燃えるような熱さが奥から込み上げてくる。
ほうと息を吐き、再び霊夢の話に耳を傾け相槌を打っていく。
そんなことを続けていた時。
「……ね、霖之助さん」
「ん?」
唐突に霊夢の声のトーンが変わる。
視線を動かすと、そこには何も考えていないようで何かを思っているような、なんとも不思議な表情をした霊夢の顔があった。
少し間が空き、やがて彼女の小さな口から言葉が紡がれる。
「私が死んだら……霖之助さんは悲しむ?」
一瞬だけ、時が止まったような気がした。
言われた意味をじっくり咀嚼するように一口、二口と酒を飲んでから、僕は霊夢の問いに口を開いた。
「……どうして、そんなことを思ったんだい?」
「別に自殺しようだとかは考えてないわ。ただ、ふと思ったのよ。何時までこんな風に霖之助さんと、いや皆と宴会できるのかなって」
そこにいるのは博麗の巫女としての霊夢ではなく、漠然とした不安を抱える一人の少女としての霊夢だった。
「今の生活は悪くないわ。霖之助さんもいるし、魔理沙もいる。萃香も色々と手伝ってくれるし、紫だって胡散臭いけど退屈はしない。他にも喧しいくらいお騒がせな奴らばっか」
「順風満帆とまでは言わないが、賑やかで霊夢にはいいんじゃないのか?」
「そうね……でも」
一拍置き、夜空に輝く月を見上げてから、霊夢は言葉を紡ぐ。
「そんなことも、何時かは出来なくなるのかなって。他の奴らは変わらないのに、私たち人間だけが年老いて、先に逝く。霖之助さんは……お婆さんになったり死んだりする私を見て、どう思う?」
「…………」
始まりがあれば終わりがある。それは悠久の時を生きる妖怪であってもなんら変わりはない。
だが、人間と妖怪との時の流れはあまりにもかけ離れている……いや、離れ過ぎていると言ってもいいだろう。
霊夢や魔理沙もいずれ成長し年を取る。しかし、それは妖怪にとって瞬きをするような一瞬の時間。
人間が『もう』と思えるような時間すら、妖怪にとっては『たかが』。
人間である限り、妖怪と変わらずにいられるなんてことは、不可能なのだ。
いずれ訪れる結末、終わり、終着。それに霊夢は思い当たった。
それは酒によるセンチメンタルか、この月を見ての吐露か、はたまた両方か。
「……そうだね、答えるなら……僕は答えにできない、というのが答かな」
「何よそれ? 返事になってないじゃない」
思っていたことと違うことを言われたからなのか、頬を膨らまし、霊夢はいかにも不機嫌そうな表情を作る。
僕は少しだけ笑い、再び口を開いた。
「そうでもないさ。霊夢、君の成長を見ていくのはとても楽しい。身長の身体面や、精神面のこともね」
何時になったら勝手に僕の服を着たり商品を持ち出したりしなくなるのか、日付を記録するのも面白いかもしれない。
身長は毎年伸びてはいるが、精神面は昔から何一つ変わっていないからな、君は。
「そして君が死ぬときだが……やはり悲しいと思うだろうね、泣くかもしれない。別れというのは何度やっても慣れぬものだ」
半人半妖、人間と妖怪のハーフ。
妖怪と生きるには余りにも短く、人間と生きるには余りにも長すぎる命。
そういう時の中を僕は生きてきた。勿論、それはこれからも続いていくだろう。
「だが、大切な友人、愛しい人と過ごした日々は思い出として残る。あの頃はああだった、こうだった。とか、その時アイツはこうだった、そうだった。とか。思い出す上で寂しさはあるだろうが、それも立派な思い出さ」
霊夢を見た。
彼女の瞳がゆらゆらと揺れている。そこにはどんな感情が宿っているのだろうか。
「そんな浮かんでくる様々な感情を一言で表すことはできない。だから僕の答は、答えにできない、さ」
杯に乗せられた液体を一気に飲み干す。あまり好きな飲み方ではないが、今はそうしたい気分だった。
酒瓶から杯に酒を注ぎ、僕は霊夢の返答を静かに待っていた。
「……なんだかずるいわ」
視線を反らし、月を見上げる霊夢。
その顔には小さな微笑みが映っていた。
再びぐいと杯を飲み干し、僕も満月の浮かぶ空を仰ぐ。
少しだけ、月が明るくなった気がした。
「ずるいとは心外だね、僕は思ったことを口にしただけなのだが」
「霖之助さんはいつも回りくどいのよ。もっとはっきり言って頂戴」
「善処しよう」
言いながら、霊夢はゆっくりと、僕に近づいてくる。
何をするのか意図がわからず、疑問に思っていると、
「おい、霊夢?」
霊夢は僕のすぐ隣に座り、こてんと首を傾け僕の肩に乗せてきた。
流れてくる仄かな石鹸の香りが、僕の鼻腔をくすぐる。
「なんとなく、こうしていたいのよ。いいでしょ? 別に減るものでもないし」
確かにまあ、減るものでもないので構わないが。
そうして夜空を見上げながら五分か、十分か、お互い無言でいる状態が続く。
そこから更に少し経った時、小さく掠れた霊夢の声が、僕の耳に届いてきた。
「霖之助さん……」
「うん?」
「さっき言ってくれたこと……嬉しかった、わ……」
「……霊夢?」
返事はなく、隣から聞こえてきたのはくぅ、という可愛らしい彼女の寝息だった。
「やれやれ、寝てしまったか」
そっと霊夢を抱き上げ、後ろの寝室にまで運び布団を掛けて寝かしてやる。
霊夢の穏やか寝顔を見てから、僕は襖を閉めた。
戻ってくれば空になった酒瓶の数々。
片付けようか、いや、僕は客だ。片付けをするのは逆に失礼だろう。
……でもまあ、相手は霊夢だし、自分の分くらいは片付けてやってもいいか。
だが、今すぐ片付ける訳ではない。
僕が持っている瓶はまだ酒が残っているのだ。月もまだ消えてはいない、このまま一人宴会へと洒落込もうじゃないか。
ゆっくりと自分のペースで呑む。先程のように複数での宴会もたまにはいいが、やはり自分はこちらが一番性に合っている。
「……しかし、霊夢がいきなりあんなことを聞いてくるとはね」
自分の本心を相手にさらけ出すと言うのは思いの外気恥ずかしく、僕は今更になって込み上げてきた感情から逃れるように頬を掻いた。
だが、あれだけの酒の量だ、今日話したことなんて綺麗さっぱり忘れているはずだろう。
もう少し量を控えていれば覚えてそうだが……。所詮過ぎ去った過去、とやかく言っても事実は不変である。
そうして持っていた酒瓶を空にし、宴会の片付け(勿論僕が呑んだりした分だけ)をしていると、あることを僕は思い出した。
――まだ、二年参りの祈祷をしてないじゃないか。
賽銭も入れたのに祈願をしないのは勿体無い。かと言って、何か願うものはあったかと問われると返答に困ってしまう。
どうしたものかと考えはしたが、とうとう片付けも終わってしまい、僕は縁側に立って首を捻るばかりだった。
とりあえず、外に長時間いては身体が冷えてしまう。そう思い僕は縁側の襖を静かに開けた。
「すぅ……」
気持ち良さそうに夢の中に身をゆだねている霊夢。
掛けた布団が若干ずれていたので直してやった。
「むにゃ……今日は、呑むわよー」
「夢の中でまで宴会してるのか、君は」
思わず苦笑してしまう。
少しだけ様子を見ていたが、人の寝顔を見ていても仕方がないだろう。
居間にでも行こうと思い、寝室を後にしようとしたところで、再び霊夢の寝言が寝室に響いた。
「―――――――」
「……っ」
思わず、身体が固まる。
その言葉を聞いた途端、浮かび上がる感情が僕の心をじわりじわりと占めていく。
そして自然と僕の顔に浮かぶ苦笑ではない、純粋な笑み。
振り返る。霊夢はさっきと同じ、穏やかな寝顔だった。
「全く、君は……」
今度こそ寝室を後にする。向かう先は神社の境内。
ゆっくりと歩を進め、僕は改めて賽銭箱の前に立った。
ほうと吐いた白い息が、月に昇っていくように消えていく。
さて。
先程浮かんだばかりの願い事。これは到底叶うものではないのかもしれない。
だが、どんな願いだろうと、願うことは僕の勝手だ、好きに願わせてもらうとしよう。
――それは、とある人間と人妖の、儚い願い。
「……何時までも、皆と一緒にいられますように……」
振り返る。月は何時までも、空に輝き続けていた。
《了》
この二人のお話もいいものですね。今回のお話しで学ばせていただきました。
文章としては上手くまとまってる。
酒を飲み交わす二人にニヤニヤします。いいぞもっと素直になれ。
話が上手くまとまっており、安心して読み進めることが出来ました。お見事。
霊夢さん知能犯!