庭の方を見やる。季を外れて、ただ貧相な節くれである柳に雨粒が伝わっている。庭石もしとどに濡らされて、雨天の雲間から僅かに射し込む夕明りを照り返す。
梅雨時には、こんな黄昏時の風景がよく見られる。そんな様相に感化され、何となく気分が鬱屈する。初夏にはありふれた、気だるく思われる午後であった。
本日の編纂も一段落つき、阿求は女中が手に入れたと言う新茶を受け取った。
仄かに香る若葉の匂いを嗅ぎながら、束の間の一服を楽しむ。いつもならこれだけの小休止で気分は晴れるのだが、その日は胸に生温いものが詰まったようですっきりとしなかった。
大方、その現因が何かは分かっている。自分どきの少し前、眠気を誤魔化しながら作業をしていた時に現れた、彼女のせいであった。
「やっほお、御阿礼のコはいるかしらん?」
語りの言葉に悩み、汲々と思案を引っ掻き回していた時に、八雲紫は訪ねて来た。
「……目の前に居るのがそうですよ」
煮詰まった状態がずるずると続き、半刻にも及ぶ長考の苛立ちもあってか、視線も動かさず苛立ちを込めて、阿求はにべもなく言葉を返した。
「つれないわねぇ、せっかく紫お姉さんが来たんだから、歓迎の言葉のひとつでも欲しいわ」
口角をひくつかせながら、無愛想に返す。
「お、ね、え、さ、ん。ですか。嘘は見苦しいですよ」
「何か言ったかしら?」
鉛の塊が如き拳骨が、少女のこめかみにぐりぐりとめり込む。勿論、幻想郷の五本の指に入る大老―もとい大妖怪の八雲紫がか弱い少女に本気の制裁を見舞うことは無く、貫く痛みはスキンシップの域を出ない程度のものでしかない。が、それでも人の子には充分痛い。
ひゃあ、降参。降参。と阿求が参ったを認めるまで、手痛い躾が続いた。
「懲りたかしら。お、ち、び、ちゃ、ん?」
ふふん、と型通りな満足の声とが聞こえると、阿求はやっと頭痛―外的なものと、言わなきゃよかった
という後悔からくるものが半々―から解放された。ててて、と未だ鈍痛の残るそれをさすりながら、阿求は、
「何の用ですか、この忙しいときに。またお茶をたかりにきたんですか?生憎ですが紅茶は切らしていますよ?」
「あなたにはどれだけ私が浅ましく見えているのかしら…?違う違う、編纂の進み具合はどうかしらって心配して来たのよ」
トレードマークの扇子で胸元を扇ぎながら、管理者は言った。
疲れちゃったわ、無いなら何でもいいから飲み物ちょうだあい。と紫が台所の女中たちに注文すると、
間髪入れず匂い香しい紅茶が運ばれてきた。満開の桜が目を引く湯呑みが置かれると、口角を釣り上げ、
あらっ、嘘はいけないわねぇ、おちびちゃん。と阿求ににやけ顔を見せる。女中たちに、大妖怪を前にして
主人と裏を合わせるほどの度胸は無いらしい。気まずくなったのだろうか、買い出しにいって参ります、と揃って出ていってしまった。
何も買い物に行くのに人手は要らないだろうに。不忠者ばかりだ、と恨めしく思う阿求であった。
煎れたばかりの紅茶を一息に飲みきると、庭の雨を眺めながら、紫は愚痴をこぼし始めた。
「霊夢には倉を整理するんだから邪魔しないで、って追い返されちゃったし、幽々子の所に行けば今日はお団子の日だから食べ比べよぉって危うく壮絶なフードファイトに参加させられるところだったし、
家に逃げ戻れば橙が風邪で寝込んでるからって厄介者扱いよ。信じられる?しかもねーー」
降りしきる雨の勢いを借りるように喋り続ける紫に、要するに行き場所が無かっただけではないんですか…と阿求は突っ込む。
「―それで、どうなのかしら?」
「…何がですか?」
紫の目が、阿求に向けられていた。半分聞き流して、靄の中の言葉を引っ張り出そうとしていたので、何を訊いたのか解らなかった。
「もうっ、幻想郷縁起よ。何か行き詰まったりとか、してないの?」
「ああ、そうですよね……すいません。ちゃんと滞り無く進んでいしたよ」
またグリグリやられてしまうのではないかと身構えながら、阿求は答えた。
「貴方が遊びに来なければ、ですけど」
「あらら、それは失礼致しましたわ。お邪魔だったかしら?」
「全くその通りです」
「けんもほろろの冷たさね。嘘でもお気になさらずって言いなさいよ……。嗚呼、何で今日に限って、冷遇ばかり受けなくてはならないのかしら」
よ、よ、よ…とわざとらしい泣き真似を見せる。面倒臭いなあ、と思いながら、硯に目を落とすと、不意に、
「なんて、言ってるけど、私が来る前から進んでないんじゃない?」
と、図星を突かれた。どきり、と心臓を掴まれたような気分になる。
「硯の墨、乾きすぎよ」
手元を見ると、彼女の言うとおり、確かに墨汁の溜まりは干上がり、代わりに飴色に光る塊が残っているだけだった。
「行き詰まってるみたいね」
幾度も転生を繰り返し、同年代の子と比べて遙かに人生経験の多い彼女でも、その心根だけは変わらず、青くさい。
御多分に漏れず、物事の見方は其処等を歩く女の子と同じ阿求は、
見透かしたようなにやけ顔を予想すると顔を上げたくなくなった。
「矢張り、お見通しでしたか」
「紅茶も口を付けないまま冷めちゃってるじゃない。相当考え込んでいたのかしら」
俯いているだけでは、話が進みそうにない。観念して、阿求はそのご尊顔を拝見することにした。
案の通り、どうかしらと言わんばかりの表情が阿求に向けられている。少女の返事を待っている様子だ。
まず、怠慢を詫びるべきだろうか。精進しますと意気込む言葉を返すべきだろうか。はたまた、相手の非を突けば、やり過ごせるだろうか……。
思案はいくつも浮かんでは、意識の彼方に押しやられる。二転三転、四転五転も下手な考えは廻り続け、帰結に至ることはなくなり、次いでまともな反応も考えられなくなり、額の辺りが火照り始める。ただはっきりとしていたのは冷や汗がうなじだけでなく、全身を伝っている感覚であった。
傍目には、暑さに目を回したような奇態にしか見えない。
その様子を楽しんでいた紫も、少女の身に起こった小異変を悟ったか、心配そうな顔で近づき、肩を掴んで落ち着かせようとした。
「何もそこまで真剣に考えることではないでしょう?落ち着いて頂戴な」
宥められて、ようやく阿求の暴走は収まった。抜かれた身体中の血が戻ってきたような様子だが、落ち着きは取り戻し得たようだ。
暫くして、荒い呼吸がゆっくりと本来のリズムを取り戻すと、やや切口上に、しかし切れ切れの言葉で、阿求はスランプに陥っていることを告白した。
「スランプって言うより―」
げほげほと噎せて、また呼吸を整え直し、続けて、
「不調、て感じですが」
不規則な鼻息以外、一切を除いた沈黙のあと、紫は神妙な顔つきになって、いつから感じはじめたのかと尋ねた。
「今期の梅雨入り頃からです。そのときも同じようなことになって、女中もおおわらわの騒ぎでしたよ」
「私がいてよかったわね。危うく明日の文屋の号外に、『九代目御阿礼の子、書斎にて謎の急逝』なんて記事が載るところだったわよ」
「御心配をおかけしました」
「お願いだから、こういうことがあったなら報せて頂戴ね」
身を乗り出し顔を近づけて、
「特に貴方の場合、些細な異常でも危険な事態に発展しかねないのよ」
白く艶やかな指で阿求の額を小突くと、紫は嘆息とともに立ち上がり、
「ま、経過を観ることね。急いては事を仕損じる、よ。紅茶は美味しゅうございましたわ」と言葉を残し、
庭で作り出した裂け目の中に消えていった。
―――もう、そろそろかしら。
命儚き御阿礼の子である阿求は、紫の去り際、そんなことを思う目を見たような気がした。
時節は戻って、日暮れどき。管理者が残していった呟きが、阿求の胸裏を沈鬱にさせていた。言わずもがな作業も遅々として進まず、ただ、庭の石段石を叩く点滴の音を気にしていただけだった。耳を聾するように雨が降り続けた昼中とうってかわり、鳥類のさえずりも羽虫の飛び回る音すらも無いので、ささいな物音も甚だしく目立ち苛立たしい。複雑な心境も相まって、阿求は平静でいられなかった。
いくら御阿礼の子であっても、最期の時が紫の言うほど早く訪れるはずは無いのだ。まだ向こう十数年は先の話だ。しかし、
――あり得ない話というわけでもないのよね。
実際、今彼女を悩ませる不調は原因不明のものであり、一向に快方に向かう気配は無い。特異な生まれである以前に身体の弱い阿求が、質の悪い病魔に気に入られてしまったことも考えられる。
このところ、症状は頻々に現れ、その都度頭脳から自分の意識が切り離される感覚を覚える。深く考えに沈むときに限って、最前の通りの騒ぎになることが多い。
思いつめることすらままならず、解決する手だても講じられず、窮屈な日々が過ぎて、今日の奇態をさらす事態に至った。
彼女としては、好事家の文屋に嗅ぎつけられるより早く、けりをつけたいところであった。
何とかならないものか…と熱を上げない程度に思案する阿求は、もっと早くに気づくべきだった閃きをようやく発し、飲み干した湯呑みを置いた。
里の子供たちも居ない日暮れどきを訪ねると、彼女は教室の隅の机に向かって明日の授業の準備に勤しんでいた。いろはうたの書取りテストをやらせるつもりらしい。
―『色は匂えど散りぬるを…』に続く歌を最後まで書き完成させなさい―。
消え残った黒板の内容には、百も数えられぬ子供にやらせるに適当とは思えない、高度な授業風景が窺える。
ひらがなならともかく、漢字で書かせた上、更に歌の要約までさせるようだ。恐らく、一人として彼女の要求に答える才覚をもつ生徒は居ないだろうに。
要領を知らず、間も知らず、しかもその声には催眠の魔力を持つ。寺小屋の教師、上白沢慧音は相変わらずその熱意ばかりが先行する、困った先生だった。
明日に見られるだろう、生徒たちのどよめく姿のことも気になるが、ひとまず見なかったことにして、阿求は早速症状について尋ねてみた。
だが、
「考えられないな」
と返答は期待に添ったものでは無かった。希望は脆くも崩れ去り、肩を落とす。
「貴方でもご存じありませんか」
「いや、そういう意味で言ったわけではないよ」
慧音が言わんとすることは何なのか解らず、阿求の頭上には疑問符が浮かぶ。
「君ほどの子でもこんなことがあるとはね」
「病気ではないのですか?」
慧音は微笑ましいものを見る目になって答える。
「ただ誰でも一度は陥る状態にあるだけだ、ふとした事で振り払えるものだよ」
「はぁ」
解決の糸口を探りにきたはずが、さらにはぐらかされる結果になった。ますます頭はぼおっとして、考えるのも億劫になる。
「ふとした事、ですか。例えばどんな?」
「字の如く、と言うには些か殺生か。そうだな、友人に愚痴るとか、別の事に気を向けるとか……」
「転んだ拍子に忘れてしまうことも有り得るな」
仕様もない例ばかり列挙され続けられているが、こんなことでどうにかなるものなのかと、阿求は得心はいかず小首を傾げた。
それに気づくと、慧音は質問者を置いてきぼりにしてしまったことに気づき、
「悪い、またやってしまったな」と自戒した。
軽く咳払いをして、
「では、君の場合なら―」
「屋敷に沢山の記録があるだろう?」
「はい。とは言っても見返したことがありませんけど……」
「そこがミソだ。今までの成果を見返すのも、刺激になるだろう。何の為に編纂を続けているかをもう一度思い出すんだ」
思い出せ、と言われ阿求は思わず吹き出してしまった。
「私の能力についてはご存じでしょう?物忘れは出来ないたちなんですよ」
しかし慧音は顔色を変えず、
「では忘れていないとすれば、最初から知らなかったんだろう。単なる義務感に動かされていただけ、とも考えられないか?」と言った。
慧音の言葉は、図星を突いていた。またも永い沈黙が降りてくる。
返す言葉が見つからず、阿求はまた思考を回転させ、捻りだそうと試みた。
――が、やはり考えつく筈も無く、案の定、瞬く間に彼女の脳内は無数の空虚に占められてしまった。
ほどなくして、ゆっくりとかぶりを振りはじめ、阿求はすっかり目を回し始める。
「なるほど、これは重症だ」
慧音はふふ、と笑い、真っ赤な顔の阿求が平静を取り戻すまでの間を、微笑ましげに眺めていた。
まだ少し湿って、土の泥濘む道をとぼとぼと歩き、阿求は屋敷に戻った。
――縁起を見返せ、かぁ。
慧音には義務以外の理由を見つける他、対処法は無いと教えられた。ならば、本格的に探さなくてはならないと、阿求は考えた。
居間には戻らず、直接倉に向かった。先代が書いた分は、その中で埃を被っている。今朝からの雨で湿気っていたおかげか、おっかなびっくり戸を開けても、せき込むほど埃が舞うことは無かった。
さくり、と足を踏み入れると、途端に足下から懐かしさが伝わってくるのを感じた。
何故だろう、と阿求は記憶を辿ってみたが、心地の良いものであるということ以外、はっきり思い出すことが出来なかった。
見目数百はあると思われる巻物が、少女の背丈の倍ほどもある山を幾つも形成していた。ひとつでも抜き出そうものなら、たちまち崩れ落ちて彼女を生き埋めにしてしまうだろう。
女中を呼んで何冊か持ち出してもらうことも考えたが、どうやら夕餉の支度に走り廻っているようで、手が離せそうにないだろうと諦めた。
また後にしましょう。と思いきびすを返すと、戸の真横にも巻物を積んだ棚がある事に気づいた。背後の山ほどうず高く積みあがってはおらず、中から抜き出しても問題は無さそうだった。
稗田の歴史――縁起の目録や家系図、家計簿に至るまで――の殆どがこの棚に保管されていた。
一冊ぐらいはここに無いものだろうかと、阿求はかなり根気強く探したが、やはり肝心の幻想郷縁起は置かれていないようで、それらしきものすら見当たらなかった。
やはり後ろの山を調べるしかないか……と溜息を吐いて倉を後にしようとしたとき、視界の端に一冊、盗み見を恐れるように壁と棚の隙間に煩雑に突っ込まれた冊子を見つけた。
――なんだったかしらね、これ。
そう思って後から、矛盾であると気づく。初めて入った場所の、こんな古ぼけた冊子が、自分の知っているものであるはずが無いのだ。恐らく、先代の誰かのもの。なぜ朧気に知っていたような気がしたのだろうか。
引き抜いてみると、案の通り、八代目の稗田阿弥の書いたものだった。生前の若かりし頃の日々を書き連ねた――早い話が、日記らしい。一枚一枚頁を送ってみると、当時の彼女が感じたもの、想っていたことがよくわかった。
何せ、同年代の女の子の日記である。赤裸々にありのままを書いて、少しも通じるところが無いはずがないのだ。
それは年端もいかぬ少女の日記。哲学的なことも、しかつめらしい幻想郷の妖怪についての考察も書かれていない。ちょうど阿求と同じ時分の彼女は、恋に胸躍らせることに懸命であり、ひたむきに可愛くありたいと思う女の子であり、また、やはり幻想郷縁起を完成させることに鋭意努力を続ける御阿礼の子であった。
――生まれ変わっても殆ど同じなのね。私たちって。
そろそろ寄り道はやめにしましょう。と思いながら、終わりの数頁を流し読んでいると、文調が変わり始めていることに気づいた。
――守り続ける、愛しきもの総て。いつかその日、また会えるよう。
それが私の願い。どうか、忘れないでいて。
弱々しい字ながらも、痛切に染み入るその言葉を最後に、日記は続いていなかった。
一体、何が彼女を思い立たせたのだろうか。
――その日、憤りに耐えられなくなった阿弥は皆が寝静まる丑三つ時を狙って屋敷を抜け出した。妖怪達が最も活発になる時間であることは百も承知であったが、連日のように彼らが押し掛ける屋敷にいるよりは幾らか気が楽になると思っていた。
阿求が当主になる百数十年前、外界の文明発達は、幻想郷の均衡にも著しい影響をもたらしていた。妖怪に対抗しうる文明力を得た人間達は、いつしか妖怪を畏怖するべき存在ではなく、排除されるべき対象と見なすようになった。
今がその時とばかりに、里の血気盛んな者たちは、この手で妖怪を退治せんと屋敷に情報を求めて来る。十分に付け焼き刃になるだけの知識を調べ終えると、勇んだ様子で村を発っていく彼らの姿が、阿弥の心に陰を落としていた。
いくら弱体化したと言えども、さしもの妖怪達はそれでも彼らに討ち倒せるはずは無いのだ。相当の人数で、木っ端妖怪を相手にするならともかく、縁起の情報が必要になるほど強い者達を退治するのは、博麗の巫女の仕事の範疇なのだ。武運叶って撃退することもあるが、殆どの場合は玉砕に終わる。命を落とす者、行方知れずになる者が後を絶たなかった。
それでも成功例を頼みにして、馬鹿者は出掛けていく。最悪の連鎖は一向に終わりが見られない。
阿弥は彼らの無謀に手を貸すことに胸を痛めていた。自分が彼らを破滅の元へと送りだしている。そう考えると、里の人間を守るはずの幻想郷縁起が、一変して人間を危険に誘う悪魔のように思われた。
風呂敷に入るだけ巻物を詰め込んで屋敷を抜け出たのはいいものの、寄る辺も無い阿弥は途方に暮れるしかなかった。
兎に角人間を守るためには、この手段が手っ取り早かった。確かに彼らの自信の源と成り得る縁起さえ持ち出せば、討伐に行って無惨な目に遭う者も少しは減るかもしれないが、自分の身にまで気が回らなかったのは愚かだった。
満月の照らす夜にただひたすら歩き続け、ただひたすら身を人里から遠ざけた。畦道を、石道を、棘道を、心許ない突っかけ草履で足早に抜けていった。
松虫の鳴く声すらも届かない場所に着くと、ようやく阿弥は周囲の状況に気づいた。
手の先からうなじのあたりまで冷えきり、足は焼かれたように固まっている。出不精である為もあってか、疲労を意識した時には著しく衰弱していた。
――今、見つかってしまったら……。
走るのはおろか、歩くことすらままならない彼女には振り切れる可能性が無い。博麗の巫女も四六時中警戒しているわけではないから、助けが来る見込みも無い。
破落戸でも通りかかってくれたなら、両手を広げて歓迎し、共に一刻も早く此処を去りたいが、そんなはんちく者がこの辺を平気で歩ける筈も無い。
妖怪には腹ごしらえにおあつらえむきの、人間にとっては末期の時となってもおかしくないシチュエーションであった。
阿弥は取り敢えず路傍に倒れていた朽木に腰掛けたが、落ち着いて希望を見出すことは出来ず、結局おどろおどろしい雰囲気に圧されて、呆気なく恐怖に心を差し出してしまった。
肩が意識から切り離され、身体の冷えからではない震えが止まらなくなる。視界はうねりにうねり、はっと気づく度に正常に像を結び直すを繰り返す。
焦りが高まり、おぼつかない足が立てた音に自分で怯える。五感の全てが張りつめて、些細な事も恐怖に変わる。遂に気も狂い始めて、うわ言のように呪詛を呟く。
――見えるな。聞こえなくていい。苔の匂いも、肌ぬるい風も、苦い唾も、失せろ。失せろ。失せろ……。
妖怪の甘美な馳走として、完成してしまった阿弥には、ただ喰らわれるという末路しか残されていなかった。
――お願い。一人にしてよ。森羅万象総てが畏れでしかないなら、いらないから。だから、だからだから……。
そして、今静かに歩み寄る者がその正体とさえも気付かないまま、言い放ってしまった。
「頂いていいんだね」
うずくまる阿弥の上に、優しげで冷厳そうな言葉が落ちてきた。
「解放してあげられるよ。悠久の暗闇の中に」
最期の時を悟った阿弥は、せめて余計な恐怖を感じぬまま事が済むよう、ぴくりとも動こうとしなかった。
鋭利な爪が突き立てられるか。喉笛を噛みちぎられるか。脳裏に浮かぶ空しい予察をどうにか押さえ込んで、何も考えないように努めた。
諦めに似たいびつな覚悟をもって、阿弥は意識を暗闇に投げ出した。
濃いも薄いも分からない、何処が果てかも分からない、隔絶の象徴たる暗闇の中に、阿弥の存在が在った。
――ああ、終わったのね。
死を終えた少女が想ったことは、絶望ではなく安堵であった。
このまま漂っていればいいのだろうか。闇の中に次第に順応していく彼女に、聞こえるでもなく、見えるでもない『語り声』が触れた。
――居心地はどうかしら。
語る口を持たない阿弥は、返答を心に浮かべた。
――素敵よ。何もかも捨てられたわ。平静の極みね。
――何も存在しない場所、それがこの暗闇なの。
――ここには私を苦しめるものは無いわ。
――あなたを喜ばせるものも無いけどね。
――そうかしら。この無こそ喜ぶべきものでしょう?
寸時の間があって、『語り声』はこう干渉した。
――直にわかるわ。そして、あなたは嘆く。そして孤独を捨てたいと願う。でも、誰にも願いが届きはしないわ。もうすぐ、此処が最も残酷な場所に思うようになるわよ。
それを最後に『語り声』は消え、遂に闇の中は一人だけが存在する場所になった。換言するならば、今からがやっと真の闇になったということだ。
――それはどういう意味かしら?
答えは当然、返ってこない。
――いつまで黙っているつもり?
その時は永劫訪れない。此処は時間の概念が無い場所である。
――どうしたらいいの?
そもそも、することは無い。
――突然、居なくなるなんて。一人にしないでよ。
それが、孤独である。
暫くして自分が心に浮かべたことは愚問であったと気づくと、阿弥は考えることを止めて、また闇に漂い始めた。
しかし、流れる時間に終わりは無い。永いも短いもない時間が経ち、また阿弥は考え始めた。
――いい加減、出して。
虚空の中にて虚を想う。徒労であると知っていても尚想う。
――出しなさいよ、もうまっぴら。死ぬ方がましなの。
そして、安息の空間は冷厳な様相を呈す。
――消して、この場所。去ね、孤独。失せろ、暗闇。返せ。痛み、悲しみ、恐怖、怒りも冷たさも。
「愛しきものは、此処に無いのよ」
阿弥がそこにたどり着いたとき、『語り声』はようやく帰ってきた。
――そうよね。当然の帰結なんだけど。
阿弥の身体に意識が戻ってきた時、身体の何処にも痛みは無かった。五感も蘇り、どこにも異常は無かった。恐る恐る目を開けたが、怪異は見つからない。耳を澄ますと、彼女のものともう一つ、穏やかな息づかいが聞こえた。背中から腕を廻され、抱きしめられていると判る。
阿弥が身体を捻ると、今宵の月のように目映い金色の髪に、鮮血のような赤色のリボンを結んだ少女の横顔が見えた。
少女も阿弥に気づいたようで、目を開いて柔らかい笑みを見せた。
「お帰りなさい。食べちゃっても良かったんだけどね。でも、人間らしい反応見せられたの、久しぶりだったから」
「あなたが、あの声だったのね」
口振りから察するに、妖怪であることは確からしいが、身の危険は感じられない。
何より、彼女の身体の温もりがこの安心感を裏付けていた。元々体温は低いようだが、長い間阿弥の体にくっついていたのか、かなり温かった。
「いっつも血走った目で追っかけてくるの」
阿弥の体を離れた少女は、両手を上げくるくると廻りながら語る。
「お陰でご飯には不自由しないけど。でもこうまでしつこかったら、流石に飽きちゃう。何でだか知らないけど、人間には分かってないらしいのよ」
「何がですか?」
「夜に私に出会うってことは、美味しく頂かれるってことなのよ。なのにあいつらってば倒せるつもりでいるの。どうして?」
「妖怪が弱くなったと信じているそうですよ」
「成る程ね、分からないことでもないわ。脅かすのは妖怪のやることなのに、逆に人間からやられちゃ調子狂うものね。でも、そんな程度のことよ」
本当の理由は違うのだが、彼女のいうことは強ち間違っているものではないので、阿弥は愛想笑いで返した。
少女も回転を止めて、ふふ、と笑い返した。今度は無邪気そうな笑顔だった。
「それにしても、どうして私を食べなかったんですか?」
「森をぐるぐるしてたら、珍しく人間が怯えてるのに出くわしちゃって。でもあなた、いらない、って言ってたじゃない」
「何か言ってましたっけ?」
「見たくない、聞きたくないって。言ってたよ」
「だから、食べちゃうのもいいけど、丁度いいからちゃんと覚えて欲しかったの」
少女は急に面持ちを変え、哀しそうな様子で続けた。
「見えるから、怖いの。聞こえるから、つらいの。でもそれが嫌でも、捨てちゃ駄目なの。とても寂しくなってしまうわ」
「身に染みて分かりました」
「私は闇を操れるけど、無は操れない。だって、無いんだもの」
「でも、見せてくれたでしょう?」
「うん。でもあれでさえ完全な無じゃないわ。あれは能力の応用でできるかぎり似せたものなの。だって、あなたはあの中で悲しめたじゃない。本来ならそんなことできないはずよ」
「あの惨たらしい場所より、もっと惨たらしい場所がある。ということですか」
「相当参っちゃったのね。でも、怖がることは無いわ。私たちが、正真正銘の無に出会うことはないから。無から生まれる者も、無に消えてしまう者も存在しないの」
少女は顔を近づけ、暗い眼を覗き込ませる。不思議なことに、包み隠す気は失せてしまう。
「私は、暗闇から生まれたの。あなたは、人間からでしょ?」
「そうですね。もとを辿ればそういうことになります」
「含みのある言い方ね。何度も生きてるみたい」
少女は、屈託のない笑顔を見せた。月明かりに映える、愛くるしい仕草だった。
「今の今まですっかり忘れてたわ。私はルーミアっていうの」
「私は阿弥です。稗田家八代目当主を務めています」
稗田の一族と言えば、里では相当、知られた名前である。妖怪でも知る者は多いが、ルーミアが知らないのは無理からぬこと。出会う人間全てを喰らってきたのだから。
「ひえだ……何かしら、それ?」
「ああ、知らないんですね。こちらも初対面ですから、当然のことでしょう」
闇を操るような妖怪についての記憶を、阿弥は受け継いでいない。当時のルーミアはまだ生まれてから日が浅い妖怪であった。囁かれる噂も聞いたことが無いほど幼かった。
「難しいことを知っているんですね。とても小さい子の考えとは思えません」
最前の狂態を見られた阿弥は、気恥ずかしさを紛らすように、目の前に立った妖怪に言った。恐らく、彼女は阿弥より年下である。
「褒められるほど、多くを知っている訳じゃないわ。ただ、日がな一日が暇だから、考えごとが多いだけよ」
「見習いたいものです」
文明の発達につれて、人間は抽象に思いを巡らせることから離れるようになった。現に、外の人間ではない里の者さえ、畏れを忘れている者が多い。逆に妖怪に襲いかかろうとする始末であった。
その畏れの感情こそが、人間を人間たらしめるものであり、怪異の権化たる妖怪を生み出す源なのだ。薄れた恐怖がもたらしたものは、
両者共々弱体化することと、人間が愚かしく振る舞うようになったことだった。
「ところであなた、どうしてこんな辺鄙なとこまで来たの?」
「人間を守る……為でしょうか。私が彼らを陥れたようなものですから」
「だからあなたが生贄になったのね」
「いえ、そういう事ではなくて。私が人里にいること自体を避けたかったのです。話せば難しいことになるでしょうけど、とにかく私は彼らを破滅に誘う存在なんです」
「でも、全ての人間があなたから不幸を受け取ってるようには見えないわ。そんなお馬鹿さんのために、気を病むことなんてないでしょうに」
「でも、守るべき存在なのです」
ルーミアはあからさまに首を傾げて訊く。
「よく分からないわ。私には嫌々やっているようにしか見えないけど。あなた、本当にそんな人たちを愛してるの?」
ずきりと、阿弥の胸が痛む。見た目幼い少女に、こうまで心を見透かされるとは恥ずかしいと思った。
二の句が継げず、顔を下げたまま、阿弥は答えなかった。
「人らしさを忘れてしまったら、人間ではなくなるでしょう?なのにあなたはそんな人外すらも守りたいと思っている。おかしいと思わないのかしら?」
なおも答えず、俯いたままの阿弥は逃げ道を求めるように、消え入るような声で反論しようとした。
「いいえ、そうだったとしてもー」
言いかけて、ようやく阿弥は彼女が責め立てる理由を理解し、顔を上げた。思った通り、ルーミアの目は潤んでいた。寂しさを訴える色が、阿弥を見ていた。
その時、言葉は変わらなかったが、込められた意味は変わった。
「――人外であったとしても、私は守りたいのです」
「……そう」
素っ気なく返事を返し、阿弥の隣に腰を下ろすと、ルーミアは空の闇を見上げた。夜も更けて、瞬く星もゆっくりと姿を消していく。その中にあっても、一際輝く星を求めて、見回していた。
「いつかその願い、叶うことを祈ってるわ」
見回す目を止めて、彼女は呟いた。
――出来ますよ。あなたと私がそうであるように。
共に感情を共有した、掛け替えの無い存在。ルーミアにとって最初の、阿弥にとっても最初の――
―――『友に成ったこと』。
それが、人間と妖怪の、新たな可能性を阿弥に思わせた。しかし同時に、夢想に過ぎないのだろうか、という不安も生まれた。
ならばと、その答えを確かめるつもりで、阿弥も一緒に空を見上げた。
「何を見てるんですか?」
「さあ?一際暗い場所はないかって、思っただけよ」
出まかせを言って、ルーミアははぐらかそうとする。
「嘘はいけませんよ」
勿論、そんな嘘が通るわけが無い。ルーミアの見つめる先には、はっきりと見える、淡黄色の双子星があった。
「……いや、やっぱり暗いわ」
「でも、光っていて欲しいでしょう?」
阿弥は待ったが、遂にルーミアが言葉を返すことはなかった。しかし阿弥はその横顔だけで本意を量り知るに至った。
「いつか、見られますよ。あの星は、光るんです」
手を取りながら、阿弥が言った。
「約束しましょう、その時もまたここで。二人で見ましょう」
それでも押し黙ったままの彼女と共に、飽くことも無く、阿弥は果ての星を眺めた。
「もうすぐ夜も明けるわ」
東の空が明るんできた。もうすぐ形を潜めていた生類は朝日を仰ぎ、騒々しい夜明けを歌うだろう。
これほど惜しい別れはあっただろうか。これほど拒みたい曙色はあっただろうか。
阿弥の肩を抱きしめ、ルーミアはあやすような声で言う。
「次に会える時も、あなたがあなたのままでいてくれると嬉しいわ」
しゃくりあげるような声で、告げる。
「また、会いましょう。阿弥」
ほの暗い暗闇に至る意識の中、阿弥も告げた。
「初めて、呼んでくれましたね。ルーミア」
抱いた肩は芯から冷たく、それが彼女の最後の言葉を紡ぐに充分な意識を保たせた。
「また、会いましょう」
――願わくば、記憶の途切れぬ今生の間に。それまで、お元気で。
身を包みゆく闇は、温かい心を感じさせた。絶望も、悲嘆も、この黒を一点たりとも染めてはいなかった。
愛しい闇の中に身を委ねながら、阿弥は眠りに落ちた。
明朝、人里を少し離れた所で、御阿礼の子は倒れている所を見つかった。衰弱こそしていたものの、妖怪に襲われずにいたことに、里の者は驚きを隠せなかった。
屋敷に運ばれた阿弥が目を覚ましたのは、騒ぎから二日過ぎた日の午後の事だった。永い間眠り続けていたせいか、起きあがれるようになるまで更に数日の時間を要した。
ようやく文机に向かった阿弥が、作業に復帰できるようになって最も初めに書いたのは、縁起ではなく日記であった。
後の代に残せる記憶は、幻想郷縁起に関するものだけだ。本人の主観から見たことについては、残滓の記憶も残らない。ならせめて、読んだ後継者達があの夜に思いを馳せてくれることを願い、日記にしたためておくことにした。
もしもあの少女との再会が叶わなかった時、また寂しい思いをさせないよう、思いを汲んでくれることを信じて。
――友との再会を信じて。
また、彼女との約束も忘れぬよう、最後に書き記しておいた。
――守り続ける、愛しきもの総て。いつかその日、また会えるよう。それが私の願い。どうか、忘れないでいて。
書き終えると、日記は倉の目立たない場所に隠された。未来の子が導きを求め倉を開けるとき、良き助けになることを祈って。
女中の呼ぶ声が聞こえ、阿求は時間も忘れて日記にのめり込んでいたことに気づいた。夕餉の支度が整ったと云われたが、阿求はすぐに向かえる顔ではなかった。
小袖で涙を拭っても涙は止めどなくあふれるので、彼女は居間にはまっすぐいかず、井戸へと寄った。
釣瓶を引き上げ、手で掬い顔を洗う。何度も水をぴしゃりとはねらせる。それでも一向に気持ちは押さえられそうにない。殆ど他人のような人間の日記ぐらいで、どうしてこうも感極まってしまうのか。阿求には不思議でならなかった。相変わらずも真っ白な頭の中を彼女は必死に探し求めるが、理由は見つからない、と思うや、また涙が溢れてきた。
悔しい、わけじゃない。怖い、というわけでもない。
申し訳ない、という気持ちがそうさせている。避け得ぬことだというのに、罪の意識を感じてしまう。
釣瓶の水面に映る月は、あの日と同じ満月であった。阿弥が伝えようとしたものを、心で噛みしめたいと、必死に見つめる。
刹那、その金の星は黒に覆われた。
とっさに振り向き空を仰ぐと、艶やかな漆黒が遙か遠く空を漂っていた。
月光を照り返しもしない、純粋な黒。そこにいるのが誰なのか、友の目にはあまりに明白であった。
「お元気でしたか。すっかり、此処の様相は変わりましたけども」
――貴方はお変わりないようで。
百数余年の時を経ても尚、相手が覚えているとは思いがたい。返事など期待するだけ空しいと思っていた。それでも、一分の望みが捨てきれなかった。彼女は、『稗田阿弥』は忘却の彼方に追いやられてしまったのだろうか。直接問いただす術も無い今、その真偽を知ることは出来ないままである。
阿求が眺める夜空に、黒色の遊星はただ、踊っているだけであった。再会を喜ぶものか、離別を嘆くものかは知り得ない。
阿求の能力を縛り付けていたものは、皮肉にも先代も同じく背負っていた『使命感』に起因する。その『使命感』が動機であれば、遺憾無く力を発揮することは出来ない。
彼女が受け継いだのは、阿弥の悲願の顕現たる力なのだから。
感傷に浸る阿求を、女中の呼ぶ声が引き戻した。家の者が待ちかねている。踵を返し歩きだした阿求の表情はどこか誇らげであった。
今夜の双子星は、幻想の空で一際大きく輝いていた。
暗闇の少女は、一人約束の場所に向かう。一夜明かした路傍の朽木の上に、彼女は腰掛けて、呟いた
――本当に光ったわ。あなたの言う通り。
既に亡い友に、伝わらぬものと思って、呟いた。
――知っていますよ。私の愛する此処ですから。
案に相違して懐かしい声が聞こえると、百数余年その言葉を信じ続けたことが報われたと分かり、彼女は漸く友との再会を果たした。
梅雨時には、こんな黄昏時の風景がよく見られる。そんな様相に感化され、何となく気分が鬱屈する。初夏にはありふれた、気だるく思われる午後であった。
本日の編纂も一段落つき、阿求は女中が手に入れたと言う新茶を受け取った。
仄かに香る若葉の匂いを嗅ぎながら、束の間の一服を楽しむ。いつもならこれだけの小休止で気分は晴れるのだが、その日は胸に生温いものが詰まったようですっきりとしなかった。
大方、その現因が何かは分かっている。自分どきの少し前、眠気を誤魔化しながら作業をしていた時に現れた、彼女のせいであった。
「やっほお、御阿礼のコはいるかしらん?」
語りの言葉に悩み、汲々と思案を引っ掻き回していた時に、八雲紫は訪ねて来た。
「……目の前に居るのがそうですよ」
煮詰まった状態がずるずると続き、半刻にも及ぶ長考の苛立ちもあってか、視線も動かさず苛立ちを込めて、阿求はにべもなく言葉を返した。
「つれないわねぇ、せっかく紫お姉さんが来たんだから、歓迎の言葉のひとつでも欲しいわ」
口角をひくつかせながら、無愛想に返す。
「お、ね、え、さ、ん。ですか。嘘は見苦しいですよ」
「何か言ったかしら?」
鉛の塊が如き拳骨が、少女のこめかみにぐりぐりとめり込む。勿論、幻想郷の五本の指に入る大老―もとい大妖怪の八雲紫がか弱い少女に本気の制裁を見舞うことは無く、貫く痛みはスキンシップの域を出ない程度のものでしかない。が、それでも人の子には充分痛い。
ひゃあ、降参。降参。と阿求が参ったを認めるまで、手痛い躾が続いた。
「懲りたかしら。お、ち、び、ちゃ、ん?」
ふふん、と型通りな満足の声とが聞こえると、阿求はやっと頭痛―外的なものと、言わなきゃよかった
という後悔からくるものが半々―から解放された。ててて、と未だ鈍痛の残るそれをさすりながら、阿求は、
「何の用ですか、この忙しいときに。またお茶をたかりにきたんですか?生憎ですが紅茶は切らしていますよ?」
「あなたにはどれだけ私が浅ましく見えているのかしら…?違う違う、編纂の進み具合はどうかしらって心配して来たのよ」
トレードマークの扇子で胸元を扇ぎながら、管理者は言った。
疲れちゃったわ、無いなら何でもいいから飲み物ちょうだあい。と紫が台所の女中たちに注文すると、
間髪入れず匂い香しい紅茶が運ばれてきた。満開の桜が目を引く湯呑みが置かれると、口角を釣り上げ、
あらっ、嘘はいけないわねぇ、おちびちゃん。と阿求ににやけ顔を見せる。女中たちに、大妖怪を前にして
主人と裏を合わせるほどの度胸は無いらしい。気まずくなったのだろうか、買い出しにいって参ります、と揃って出ていってしまった。
何も買い物に行くのに人手は要らないだろうに。不忠者ばかりだ、と恨めしく思う阿求であった。
煎れたばかりの紅茶を一息に飲みきると、庭の雨を眺めながら、紫は愚痴をこぼし始めた。
「霊夢には倉を整理するんだから邪魔しないで、って追い返されちゃったし、幽々子の所に行けば今日はお団子の日だから食べ比べよぉって危うく壮絶なフードファイトに参加させられるところだったし、
家に逃げ戻れば橙が風邪で寝込んでるからって厄介者扱いよ。信じられる?しかもねーー」
降りしきる雨の勢いを借りるように喋り続ける紫に、要するに行き場所が無かっただけではないんですか…と阿求は突っ込む。
「―それで、どうなのかしら?」
「…何がですか?」
紫の目が、阿求に向けられていた。半分聞き流して、靄の中の言葉を引っ張り出そうとしていたので、何を訊いたのか解らなかった。
「もうっ、幻想郷縁起よ。何か行き詰まったりとか、してないの?」
「ああ、そうですよね……すいません。ちゃんと滞り無く進んでいしたよ」
またグリグリやられてしまうのではないかと身構えながら、阿求は答えた。
「貴方が遊びに来なければ、ですけど」
「あらら、それは失礼致しましたわ。お邪魔だったかしら?」
「全くその通りです」
「けんもほろろの冷たさね。嘘でもお気になさらずって言いなさいよ……。嗚呼、何で今日に限って、冷遇ばかり受けなくてはならないのかしら」
よ、よ、よ…とわざとらしい泣き真似を見せる。面倒臭いなあ、と思いながら、硯に目を落とすと、不意に、
「なんて、言ってるけど、私が来る前から進んでないんじゃない?」
と、図星を突かれた。どきり、と心臓を掴まれたような気分になる。
「硯の墨、乾きすぎよ」
手元を見ると、彼女の言うとおり、確かに墨汁の溜まりは干上がり、代わりに飴色に光る塊が残っているだけだった。
「行き詰まってるみたいね」
幾度も転生を繰り返し、同年代の子と比べて遙かに人生経験の多い彼女でも、その心根だけは変わらず、青くさい。
御多分に漏れず、物事の見方は其処等を歩く女の子と同じ阿求は、
見透かしたようなにやけ顔を予想すると顔を上げたくなくなった。
「矢張り、お見通しでしたか」
「紅茶も口を付けないまま冷めちゃってるじゃない。相当考え込んでいたのかしら」
俯いているだけでは、話が進みそうにない。観念して、阿求はそのご尊顔を拝見することにした。
案の通り、どうかしらと言わんばかりの表情が阿求に向けられている。少女の返事を待っている様子だ。
まず、怠慢を詫びるべきだろうか。精進しますと意気込む言葉を返すべきだろうか。はたまた、相手の非を突けば、やり過ごせるだろうか……。
思案はいくつも浮かんでは、意識の彼方に押しやられる。二転三転、四転五転も下手な考えは廻り続け、帰結に至ることはなくなり、次いでまともな反応も考えられなくなり、額の辺りが火照り始める。ただはっきりとしていたのは冷や汗がうなじだけでなく、全身を伝っている感覚であった。
傍目には、暑さに目を回したような奇態にしか見えない。
その様子を楽しんでいた紫も、少女の身に起こった小異変を悟ったか、心配そうな顔で近づき、肩を掴んで落ち着かせようとした。
「何もそこまで真剣に考えることではないでしょう?落ち着いて頂戴な」
宥められて、ようやく阿求の暴走は収まった。抜かれた身体中の血が戻ってきたような様子だが、落ち着きは取り戻し得たようだ。
暫くして、荒い呼吸がゆっくりと本来のリズムを取り戻すと、やや切口上に、しかし切れ切れの言葉で、阿求はスランプに陥っていることを告白した。
「スランプって言うより―」
げほげほと噎せて、また呼吸を整え直し、続けて、
「不調、て感じですが」
不規則な鼻息以外、一切を除いた沈黙のあと、紫は神妙な顔つきになって、いつから感じはじめたのかと尋ねた。
「今期の梅雨入り頃からです。そのときも同じようなことになって、女中もおおわらわの騒ぎでしたよ」
「私がいてよかったわね。危うく明日の文屋の号外に、『九代目御阿礼の子、書斎にて謎の急逝』なんて記事が載るところだったわよ」
「御心配をおかけしました」
「お願いだから、こういうことがあったなら報せて頂戴ね」
身を乗り出し顔を近づけて、
「特に貴方の場合、些細な異常でも危険な事態に発展しかねないのよ」
白く艶やかな指で阿求の額を小突くと、紫は嘆息とともに立ち上がり、
「ま、経過を観ることね。急いては事を仕損じる、よ。紅茶は美味しゅうございましたわ」と言葉を残し、
庭で作り出した裂け目の中に消えていった。
―――もう、そろそろかしら。
命儚き御阿礼の子である阿求は、紫の去り際、そんなことを思う目を見たような気がした。
時節は戻って、日暮れどき。管理者が残していった呟きが、阿求の胸裏を沈鬱にさせていた。言わずもがな作業も遅々として進まず、ただ、庭の石段石を叩く点滴の音を気にしていただけだった。耳を聾するように雨が降り続けた昼中とうってかわり、鳥類のさえずりも羽虫の飛び回る音すらも無いので、ささいな物音も甚だしく目立ち苛立たしい。複雑な心境も相まって、阿求は平静でいられなかった。
いくら御阿礼の子であっても、最期の時が紫の言うほど早く訪れるはずは無いのだ。まだ向こう十数年は先の話だ。しかし、
――あり得ない話というわけでもないのよね。
実際、今彼女を悩ませる不調は原因不明のものであり、一向に快方に向かう気配は無い。特異な生まれである以前に身体の弱い阿求が、質の悪い病魔に気に入られてしまったことも考えられる。
このところ、症状は頻々に現れ、その都度頭脳から自分の意識が切り離される感覚を覚える。深く考えに沈むときに限って、最前の通りの騒ぎになることが多い。
思いつめることすらままならず、解決する手だても講じられず、窮屈な日々が過ぎて、今日の奇態をさらす事態に至った。
彼女としては、好事家の文屋に嗅ぎつけられるより早く、けりをつけたいところであった。
何とかならないものか…と熱を上げない程度に思案する阿求は、もっと早くに気づくべきだった閃きをようやく発し、飲み干した湯呑みを置いた。
里の子供たちも居ない日暮れどきを訪ねると、彼女は教室の隅の机に向かって明日の授業の準備に勤しんでいた。いろはうたの書取りテストをやらせるつもりらしい。
―『色は匂えど散りぬるを…』に続く歌を最後まで書き完成させなさい―。
消え残った黒板の内容には、百も数えられぬ子供にやらせるに適当とは思えない、高度な授業風景が窺える。
ひらがなならともかく、漢字で書かせた上、更に歌の要約までさせるようだ。恐らく、一人として彼女の要求に答える才覚をもつ生徒は居ないだろうに。
要領を知らず、間も知らず、しかもその声には催眠の魔力を持つ。寺小屋の教師、上白沢慧音は相変わらずその熱意ばかりが先行する、困った先生だった。
明日に見られるだろう、生徒たちのどよめく姿のことも気になるが、ひとまず見なかったことにして、阿求は早速症状について尋ねてみた。
だが、
「考えられないな」
と返答は期待に添ったものでは無かった。希望は脆くも崩れ去り、肩を落とす。
「貴方でもご存じありませんか」
「いや、そういう意味で言ったわけではないよ」
慧音が言わんとすることは何なのか解らず、阿求の頭上には疑問符が浮かぶ。
「君ほどの子でもこんなことがあるとはね」
「病気ではないのですか?」
慧音は微笑ましいものを見る目になって答える。
「ただ誰でも一度は陥る状態にあるだけだ、ふとした事で振り払えるものだよ」
「はぁ」
解決の糸口を探りにきたはずが、さらにはぐらかされる結果になった。ますます頭はぼおっとして、考えるのも億劫になる。
「ふとした事、ですか。例えばどんな?」
「字の如く、と言うには些か殺生か。そうだな、友人に愚痴るとか、別の事に気を向けるとか……」
「転んだ拍子に忘れてしまうことも有り得るな」
仕様もない例ばかり列挙され続けられているが、こんなことでどうにかなるものなのかと、阿求は得心はいかず小首を傾げた。
それに気づくと、慧音は質問者を置いてきぼりにしてしまったことに気づき、
「悪い、またやってしまったな」と自戒した。
軽く咳払いをして、
「では、君の場合なら―」
「屋敷に沢山の記録があるだろう?」
「はい。とは言っても見返したことがありませんけど……」
「そこがミソだ。今までの成果を見返すのも、刺激になるだろう。何の為に編纂を続けているかをもう一度思い出すんだ」
思い出せ、と言われ阿求は思わず吹き出してしまった。
「私の能力についてはご存じでしょう?物忘れは出来ないたちなんですよ」
しかし慧音は顔色を変えず、
「では忘れていないとすれば、最初から知らなかったんだろう。単なる義務感に動かされていただけ、とも考えられないか?」と言った。
慧音の言葉は、図星を突いていた。またも永い沈黙が降りてくる。
返す言葉が見つからず、阿求はまた思考を回転させ、捻りだそうと試みた。
――が、やはり考えつく筈も無く、案の定、瞬く間に彼女の脳内は無数の空虚に占められてしまった。
ほどなくして、ゆっくりとかぶりを振りはじめ、阿求はすっかり目を回し始める。
「なるほど、これは重症だ」
慧音はふふ、と笑い、真っ赤な顔の阿求が平静を取り戻すまでの間を、微笑ましげに眺めていた。
まだ少し湿って、土の泥濘む道をとぼとぼと歩き、阿求は屋敷に戻った。
――縁起を見返せ、かぁ。
慧音には義務以外の理由を見つける他、対処法は無いと教えられた。ならば、本格的に探さなくてはならないと、阿求は考えた。
居間には戻らず、直接倉に向かった。先代が書いた分は、その中で埃を被っている。今朝からの雨で湿気っていたおかげか、おっかなびっくり戸を開けても、せき込むほど埃が舞うことは無かった。
さくり、と足を踏み入れると、途端に足下から懐かしさが伝わってくるのを感じた。
何故だろう、と阿求は記憶を辿ってみたが、心地の良いものであるということ以外、はっきり思い出すことが出来なかった。
見目数百はあると思われる巻物が、少女の背丈の倍ほどもある山を幾つも形成していた。ひとつでも抜き出そうものなら、たちまち崩れ落ちて彼女を生き埋めにしてしまうだろう。
女中を呼んで何冊か持ち出してもらうことも考えたが、どうやら夕餉の支度に走り廻っているようで、手が離せそうにないだろうと諦めた。
また後にしましょう。と思いきびすを返すと、戸の真横にも巻物を積んだ棚がある事に気づいた。背後の山ほどうず高く積みあがってはおらず、中から抜き出しても問題は無さそうだった。
稗田の歴史――縁起の目録や家系図、家計簿に至るまで――の殆どがこの棚に保管されていた。
一冊ぐらいはここに無いものだろうかと、阿求はかなり根気強く探したが、やはり肝心の幻想郷縁起は置かれていないようで、それらしきものすら見当たらなかった。
やはり後ろの山を調べるしかないか……と溜息を吐いて倉を後にしようとしたとき、視界の端に一冊、盗み見を恐れるように壁と棚の隙間に煩雑に突っ込まれた冊子を見つけた。
――なんだったかしらね、これ。
そう思って後から、矛盾であると気づく。初めて入った場所の、こんな古ぼけた冊子が、自分の知っているものであるはずが無いのだ。恐らく、先代の誰かのもの。なぜ朧気に知っていたような気がしたのだろうか。
引き抜いてみると、案の通り、八代目の稗田阿弥の書いたものだった。生前の若かりし頃の日々を書き連ねた――早い話が、日記らしい。一枚一枚頁を送ってみると、当時の彼女が感じたもの、想っていたことがよくわかった。
何せ、同年代の女の子の日記である。赤裸々にありのままを書いて、少しも通じるところが無いはずがないのだ。
それは年端もいかぬ少女の日記。哲学的なことも、しかつめらしい幻想郷の妖怪についての考察も書かれていない。ちょうど阿求と同じ時分の彼女は、恋に胸躍らせることに懸命であり、ひたむきに可愛くありたいと思う女の子であり、また、やはり幻想郷縁起を完成させることに鋭意努力を続ける御阿礼の子であった。
――生まれ変わっても殆ど同じなのね。私たちって。
そろそろ寄り道はやめにしましょう。と思いながら、終わりの数頁を流し読んでいると、文調が変わり始めていることに気づいた。
――守り続ける、愛しきもの総て。いつかその日、また会えるよう。
それが私の願い。どうか、忘れないでいて。
弱々しい字ながらも、痛切に染み入るその言葉を最後に、日記は続いていなかった。
一体、何が彼女を思い立たせたのだろうか。
――その日、憤りに耐えられなくなった阿弥は皆が寝静まる丑三つ時を狙って屋敷を抜け出した。妖怪達が最も活発になる時間であることは百も承知であったが、連日のように彼らが押し掛ける屋敷にいるよりは幾らか気が楽になると思っていた。
阿求が当主になる百数十年前、外界の文明発達は、幻想郷の均衡にも著しい影響をもたらしていた。妖怪に対抗しうる文明力を得た人間達は、いつしか妖怪を畏怖するべき存在ではなく、排除されるべき対象と見なすようになった。
今がその時とばかりに、里の血気盛んな者たちは、この手で妖怪を退治せんと屋敷に情報を求めて来る。十分に付け焼き刃になるだけの知識を調べ終えると、勇んだ様子で村を発っていく彼らの姿が、阿弥の心に陰を落としていた。
いくら弱体化したと言えども、さしもの妖怪達はそれでも彼らに討ち倒せるはずは無いのだ。相当の人数で、木っ端妖怪を相手にするならともかく、縁起の情報が必要になるほど強い者達を退治するのは、博麗の巫女の仕事の範疇なのだ。武運叶って撃退することもあるが、殆どの場合は玉砕に終わる。命を落とす者、行方知れずになる者が後を絶たなかった。
それでも成功例を頼みにして、馬鹿者は出掛けていく。最悪の連鎖は一向に終わりが見られない。
阿弥は彼らの無謀に手を貸すことに胸を痛めていた。自分が彼らを破滅の元へと送りだしている。そう考えると、里の人間を守るはずの幻想郷縁起が、一変して人間を危険に誘う悪魔のように思われた。
風呂敷に入るだけ巻物を詰め込んで屋敷を抜け出たのはいいものの、寄る辺も無い阿弥は途方に暮れるしかなかった。
兎に角人間を守るためには、この手段が手っ取り早かった。確かに彼らの自信の源と成り得る縁起さえ持ち出せば、討伐に行って無惨な目に遭う者も少しは減るかもしれないが、自分の身にまで気が回らなかったのは愚かだった。
満月の照らす夜にただひたすら歩き続け、ただひたすら身を人里から遠ざけた。畦道を、石道を、棘道を、心許ない突っかけ草履で足早に抜けていった。
松虫の鳴く声すらも届かない場所に着くと、ようやく阿弥は周囲の状況に気づいた。
手の先からうなじのあたりまで冷えきり、足は焼かれたように固まっている。出不精である為もあってか、疲労を意識した時には著しく衰弱していた。
――今、見つかってしまったら……。
走るのはおろか、歩くことすらままならない彼女には振り切れる可能性が無い。博麗の巫女も四六時中警戒しているわけではないから、助けが来る見込みも無い。
破落戸でも通りかかってくれたなら、両手を広げて歓迎し、共に一刻も早く此処を去りたいが、そんなはんちく者がこの辺を平気で歩ける筈も無い。
妖怪には腹ごしらえにおあつらえむきの、人間にとっては末期の時となってもおかしくないシチュエーションであった。
阿弥は取り敢えず路傍に倒れていた朽木に腰掛けたが、落ち着いて希望を見出すことは出来ず、結局おどろおどろしい雰囲気に圧されて、呆気なく恐怖に心を差し出してしまった。
肩が意識から切り離され、身体の冷えからではない震えが止まらなくなる。視界はうねりにうねり、はっと気づく度に正常に像を結び直すを繰り返す。
焦りが高まり、おぼつかない足が立てた音に自分で怯える。五感の全てが張りつめて、些細な事も恐怖に変わる。遂に気も狂い始めて、うわ言のように呪詛を呟く。
――見えるな。聞こえなくていい。苔の匂いも、肌ぬるい風も、苦い唾も、失せろ。失せろ。失せろ……。
妖怪の甘美な馳走として、完成してしまった阿弥には、ただ喰らわれるという末路しか残されていなかった。
――お願い。一人にしてよ。森羅万象総てが畏れでしかないなら、いらないから。だから、だからだから……。
そして、今静かに歩み寄る者がその正体とさえも気付かないまま、言い放ってしまった。
「頂いていいんだね」
うずくまる阿弥の上に、優しげで冷厳そうな言葉が落ちてきた。
「解放してあげられるよ。悠久の暗闇の中に」
最期の時を悟った阿弥は、せめて余計な恐怖を感じぬまま事が済むよう、ぴくりとも動こうとしなかった。
鋭利な爪が突き立てられるか。喉笛を噛みちぎられるか。脳裏に浮かぶ空しい予察をどうにか押さえ込んで、何も考えないように努めた。
諦めに似たいびつな覚悟をもって、阿弥は意識を暗闇に投げ出した。
濃いも薄いも分からない、何処が果てかも分からない、隔絶の象徴たる暗闇の中に、阿弥の存在が在った。
――ああ、終わったのね。
死を終えた少女が想ったことは、絶望ではなく安堵であった。
このまま漂っていればいいのだろうか。闇の中に次第に順応していく彼女に、聞こえるでもなく、見えるでもない『語り声』が触れた。
――居心地はどうかしら。
語る口を持たない阿弥は、返答を心に浮かべた。
――素敵よ。何もかも捨てられたわ。平静の極みね。
――何も存在しない場所、それがこの暗闇なの。
――ここには私を苦しめるものは無いわ。
――あなたを喜ばせるものも無いけどね。
――そうかしら。この無こそ喜ぶべきものでしょう?
寸時の間があって、『語り声』はこう干渉した。
――直にわかるわ。そして、あなたは嘆く。そして孤独を捨てたいと願う。でも、誰にも願いが届きはしないわ。もうすぐ、此処が最も残酷な場所に思うようになるわよ。
それを最後に『語り声』は消え、遂に闇の中は一人だけが存在する場所になった。換言するならば、今からがやっと真の闇になったということだ。
――それはどういう意味かしら?
答えは当然、返ってこない。
――いつまで黙っているつもり?
その時は永劫訪れない。此処は時間の概念が無い場所である。
――どうしたらいいの?
そもそも、することは無い。
――突然、居なくなるなんて。一人にしないでよ。
それが、孤独である。
暫くして自分が心に浮かべたことは愚問であったと気づくと、阿弥は考えることを止めて、また闇に漂い始めた。
しかし、流れる時間に終わりは無い。永いも短いもない時間が経ち、また阿弥は考え始めた。
――いい加減、出して。
虚空の中にて虚を想う。徒労であると知っていても尚想う。
――出しなさいよ、もうまっぴら。死ぬ方がましなの。
そして、安息の空間は冷厳な様相を呈す。
――消して、この場所。去ね、孤独。失せろ、暗闇。返せ。痛み、悲しみ、恐怖、怒りも冷たさも。
「愛しきものは、此処に無いのよ」
阿弥がそこにたどり着いたとき、『語り声』はようやく帰ってきた。
――そうよね。当然の帰結なんだけど。
阿弥の身体に意識が戻ってきた時、身体の何処にも痛みは無かった。五感も蘇り、どこにも異常は無かった。恐る恐る目を開けたが、怪異は見つからない。耳を澄ますと、彼女のものともう一つ、穏やかな息づかいが聞こえた。背中から腕を廻され、抱きしめられていると判る。
阿弥が身体を捻ると、今宵の月のように目映い金色の髪に、鮮血のような赤色のリボンを結んだ少女の横顔が見えた。
少女も阿弥に気づいたようで、目を開いて柔らかい笑みを見せた。
「お帰りなさい。食べちゃっても良かったんだけどね。でも、人間らしい反応見せられたの、久しぶりだったから」
「あなたが、あの声だったのね」
口振りから察するに、妖怪であることは確からしいが、身の危険は感じられない。
何より、彼女の身体の温もりがこの安心感を裏付けていた。元々体温は低いようだが、長い間阿弥の体にくっついていたのか、かなり温かった。
「いっつも血走った目で追っかけてくるの」
阿弥の体を離れた少女は、両手を上げくるくると廻りながら語る。
「お陰でご飯には不自由しないけど。でもこうまでしつこかったら、流石に飽きちゃう。何でだか知らないけど、人間には分かってないらしいのよ」
「何がですか?」
「夜に私に出会うってことは、美味しく頂かれるってことなのよ。なのにあいつらってば倒せるつもりでいるの。どうして?」
「妖怪が弱くなったと信じているそうですよ」
「成る程ね、分からないことでもないわ。脅かすのは妖怪のやることなのに、逆に人間からやられちゃ調子狂うものね。でも、そんな程度のことよ」
本当の理由は違うのだが、彼女のいうことは強ち間違っているものではないので、阿弥は愛想笑いで返した。
少女も回転を止めて、ふふ、と笑い返した。今度は無邪気そうな笑顔だった。
「それにしても、どうして私を食べなかったんですか?」
「森をぐるぐるしてたら、珍しく人間が怯えてるのに出くわしちゃって。でもあなた、いらない、って言ってたじゃない」
「何か言ってましたっけ?」
「見たくない、聞きたくないって。言ってたよ」
「だから、食べちゃうのもいいけど、丁度いいからちゃんと覚えて欲しかったの」
少女は急に面持ちを変え、哀しそうな様子で続けた。
「見えるから、怖いの。聞こえるから、つらいの。でもそれが嫌でも、捨てちゃ駄目なの。とても寂しくなってしまうわ」
「身に染みて分かりました」
「私は闇を操れるけど、無は操れない。だって、無いんだもの」
「でも、見せてくれたでしょう?」
「うん。でもあれでさえ完全な無じゃないわ。あれは能力の応用でできるかぎり似せたものなの。だって、あなたはあの中で悲しめたじゃない。本来ならそんなことできないはずよ」
「あの惨たらしい場所より、もっと惨たらしい場所がある。ということですか」
「相当参っちゃったのね。でも、怖がることは無いわ。私たちが、正真正銘の無に出会うことはないから。無から生まれる者も、無に消えてしまう者も存在しないの」
少女は顔を近づけ、暗い眼を覗き込ませる。不思議なことに、包み隠す気は失せてしまう。
「私は、暗闇から生まれたの。あなたは、人間からでしょ?」
「そうですね。もとを辿ればそういうことになります」
「含みのある言い方ね。何度も生きてるみたい」
少女は、屈託のない笑顔を見せた。月明かりに映える、愛くるしい仕草だった。
「今の今まですっかり忘れてたわ。私はルーミアっていうの」
「私は阿弥です。稗田家八代目当主を務めています」
稗田の一族と言えば、里では相当、知られた名前である。妖怪でも知る者は多いが、ルーミアが知らないのは無理からぬこと。出会う人間全てを喰らってきたのだから。
「ひえだ……何かしら、それ?」
「ああ、知らないんですね。こちらも初対面ですから、当然のことでしょう」
闇を操るような妖怪についての記憶を、阿弥は受け継いでいない。当時のルーミアはまだ生まれてから日が浅い妖怪であった。囁かれる噂も聞いたことが無いほど幼かった。
「難しいことを知っているんですね。とても小さい子の考えとは思えません」
最前の狂態を見られた阿弥は、気恥ずかしさを紛らすように、目の前に立った妖怪に言った。恐らく、彼女は阿弥より年下である。
「褒められるほど、多くを知っている訳じゃないわ。ただ、日がな一日が暇だから、考えごとが多いだけよ」
「見習いたいものです」
文明の発達につれて、人間は抽象に思いを巡らせることから離れるようになった。現に、外の人間ではない里の者さえ、畏れを忘れている者が多い。逆に妖怪に襲いかかろうとする始末であった。
その畏れの感情こそが、人間を人間たらしめるものであり、怪異の権化たる妖怪を生み出す源なのだ。薄れた恐怖がもたらしたものは、
両者共々弱体化することと、人間が愚かしく振る舞うようになったことだった。
「ところであなた、どうしてこんな辺鄙なとこまで来たの?」
「人間を守る……為でしょうか。私が彼らを陥れたようなものですから」
「だからあなたが生贄になったのね」
「いえ、そういう事ではなくて。私が人里にいること自体を避けたかったのです。話せば難しいことになるでしょうけど、とにかく私は彼らを破滅に誘う存在なんです」
「でも、全ての人間があなたから不幸を受け取ってるようには見えないわ。そんなお馬鹿さんのために、気を病むことなんてないでしょうに」
「でも、守るべき存在なのです」
ルーミアはあからさまに首を傾げて訊く。
「よく分からないわ。私には嫌々やっているようにしか見えないけど。あなた、本当にそんな人たちを愛してるの?」
ずきりと、阿弥の胸が痛む。見た目幼い少女に、こうまで心を見透かされるとは恥ずかしいと思った。
二の句が継げず、顔を下げたまま、阿弥は答えなかった。
「人らしさを忘れてしまったら、人間ではなくなるでしょう?なのにあなたはそんな人外すらも守りたいと思っている。おかしいと思わないのかしら?」
なおも答えず、俯いたままの阿弥は逃げ道を求めるように、消え入るような声で反論しようとした。
「いいえ、そうだったとしてもー」
言いかけて、ようやく阿弥は彼女が責め立てる理由を理解し、顔を上げた。思った通り、ルーミアの目は潤んでいた。寂しさを訴える色が、阿弥を見ていた。
その時、言葉は変わらなかったが、込められた意味は変わった。
「――人外であったとしても、私は守りたいのです」
「……そう」
素っ気なく返事を返し、阿弥の隣に腰を下ろすと、ルーミアは空の闇を見上げた。夜も更けて、瞬く星もゆっくりと姿を消していく。その中にあっても、一際輝く星を求めて、見回していた。
「いつかその願い、叶うことを祈ってるわ」
見回す目を止めて、彼女は呟いた。
――出来ますよ。あなたと私がそうであるように。
共に感情を共有した、掛け替えの無い存在。ルーミアにとって最初の、阿弥にとっても最初の――
―――『友に成ったこと』。
それが、人間と妖怪の、新たな可能性を阿弥に思わせた。しかし同時に、夢想に過ぎないのだろうか、という不安も生まれた。
ならばと、その答えを確かめるつもりで、阿弥も一緒に空を見上げた。
「何を見てるんですか?」
「さあ?一際暗い場所はないかって、思っただけよ」
出まかせを言って、ルーミアははぐらかそうとする。
「嘘はいけませんよ」
勿論、そんな嘘が通るわけが無い。ルーミアの見つめる先には、はっきりと見える、淡黄色の双子星があった。
「……いや、やっぱり暗いわ」
「でも、光っていて欲しいでしょう?」
阿弥は待ったが、遂にルーミアが言葉を返すことはなかった。しかし阿弥はその横顔だけで本意を量り知るに至った。
「いつか、見られますよ。あの星は、光るんです」
手を取りながら、阿弥が言った。
「約束しましょう、その時もまたここで。二人で見ましょう」
それでも押し黙ったままの彼女と共に、飽くことも無く、阿弥は果ての星を眺めた。
「もうすぐ夜も明けるわ」
東の空が明るんできた。もうすぐ形を潜めていた生類は朝日を仰ぎ、騒々しい夜明けを歌うだろう。
これほど惜しい別れはあっただろうか。これほど拒みたい曙色はあっただろうか。
阿弥の肩を抱きしめ、ルーミアはあやすような声で言う。
「次に会える時も、あなたがあなたのままでいてくれると嬉しいわ」
しゃくりあげるような声で、告げる。
「また、会いましょう。阿弥」
ほの暗い暗闇に至る意識の中、阿弥も告げた。
「初めて、呼んでくれましたね。ルーミア」
抱いた肩は芯から冷たく、それが彼女の最後の言葉を紡ぐに充分な意識を保たせた。
「また、会いましょう」
――願わくば、記憶の途切れぬ今生の間に。それまで、お元気で。
身を包みゆく闇は、温かい心を感じさせた。絶望も、悲嘆も、この黒を一点たりとも染めてはいなかった。
愛しい闇の中に身を委ねながら、阿弥は眠りに落ちた。
明朝、人里を少し離れた所で、御阿礼の子は倒れている所を見つかった。衰弱こそしていたものの、妖怪に襲われずにいたことに、里の者は驚きを隠せなかった。
屋敷に運ばれた阿弥が目を覚ましたのは、騒ぎから二日過ぎた日の午後の事だった。永い間眠り続けていたせいか、起きあがれるようになるまで更に数日の時間を要した。
ようやく文机に向かった阿弥が、作業に復帰できるようになって最も初めに書いたのは、縁起ではなく日記であった。
後の代に残せる記憶は、幻想郷縁起に関するものだけだ。本人の主観から見たことについては、残滓の記憶も残らない。ならせめて、読んだ後継者達があの夜に思いを馳せてくれることを願い、日記にしたためておくことにした。
もしもあの少女との再会が叶わなかった時、また寂しい思いをさせないよう、思いを汲んでくれることを信じて。
――友との再会を信じて。
また、彼女との約束も忘れぬよう、最後に書き記しておいた。
――守り続ける、愛しきもの総て。いつかその日、また会えるよう。それが私の願い。どうか、忘れないでいて。
書き終えると、日記は倉の目立たない場所に隠された。未来の子が導きを求め倉を開けるとき、良き助けになることを祈って。
女中の呼ぶ声が聞こえ、阿求は時間も忘れて日記にのめり込んでいたことに気づいた。夕餉の支度が整ったと云われたが、阿求はすぐに向かえる顔ではなかった。
小袖で涙を拭っても涙は止めどなくあふれるので、彼女は居間にはまっすぐいかず、井戸へと寄った。
釣瓶を引き上げ、手で掬い顔を洗う。何度も水をぴしゃりとはねらせる。それでも一向に気持ちは押さえられそうにない。殆ど他人のような人間の日記ぐらいで、どうしてこうも感極まってしまうのか。阿求には不思議でならなかった。相変わらずも真っ白な頭の中を彼女は必死に探し求めるが、理由は見つからない、と思うや、また涙が溢れてきた。
悔しい、わけじゃない。怖い、というわけでもない。
申し訳ない、という気持ちがそうさせている。避け得ぬことだというのに、罪の意識を感じてしまう。
釣瓶の水面に映る月は、あの日と同じ満月であった。阿弥が伝えようとしたものを、心で噛みしめたいと、必死に見つめる。
刹那、その金の星は黒に覆われた。
とっさに振り向き空を仰ぐと、艶やかな漆黒が遙か遠く空を漂っていた。
月光を照り返しもしない、純粋な黒。そこにいるのが誰なのか、友の目にはあまりに明白であった。
「お元気でしたか。すっかり、此処の様相は変わりましたけども」
――貴方はお変わりないようで。
百数余年の時を経ても尚、相手が覚えているとは思いがたい。返事など期待するだけ空しいと思っていた。それでも、一分の望みが捨てきれなかった。彼女は、『稗田阿弥』は忘却の彼方に追いやられてしまったのだろうか。直接問いただす術も無い今、その真偽を知ることは出来ないままである。
阿求が眺める夜空に、黒色の遊星はただ、踊っているだけであった。再会を喜ぶものか、離別を嘆くものかは知り得ない。
阿求の能力を縛り付けていたものは、皮肉にも先代も同じく背負っていた『使命感』に起因する。その『使命感』が動機であれば、遺憾無く力を発揮することは出来ない。
彼女が受け継いだのは、阿弥の悲願の顕現たる力なのだから。
感傷に浸る阿求を、女中の呼ぶ声が引き戻した。家の者が待ちかねている。踵を返し歩きだした阿求の表情はどこか誇らげであった。
今夜の双子星は、幻想の空で一際大きく輝いていた。
暗闇の少女は、一人約束の場所に向かう。一夜明かした路傍の朽木の上に、彼女は腰掛けて、呟いた
――本当に光ったわ。あなたの言う通り。
既に亡い友に、伝わらぬものと思って、呟いた。
――知っていますよ。私の愛する此処ですから。
案に相違して懐かしい声が聞こえると、百数余年その言葉を信じ続けたことが報われたと分かり、彼女は漸く友との再会を果たした。
悩みを聞いてくれる友人がいるというのは素敵ですね。
それが今まさに面倒事になってる人妖間のものだった。綺麗なお話でした。
誤字や誤用などで、ちょっと躓いてしまいました。もったいないな、と思います。
案の通り>案の定、案の如く
文屋>聞屋
見目>姿や見た目を指して
さしもの>打ち消しを伴う
などです。雰囲気も綺麗だと思えましたから、次回に期待させていただきます。
ただ物語の展開なのか単純に文章の問題なのか少し読み進めづらい感じでした。
あと台詞の出だしが一文字空いてるのと空いてないのがあり気になりました。
次回作も楽しみにしております。
次も期待してるぞ