この世界は幻に似て──
◇
「僕は忙しいんだけどね、魔理沙」と香霖は言った。「僕は今、歴史書を書いている。全く新しい画期的な本だ。これが書き上がったとき、幻想郷のアカデミズムは大きく進むことになるだろう。外の世界に並ぶのだ」
「つまり香霖は、仕事を受ける気がないと言いたいんだな」
その通りと言わんばかりに頷いた。やれやれだ。
寒い日は香霖のところで過ごすことにしている。窓の外には白々とした雪が目深に積もっていた。太陽は出ていたが、日の光は雪を溶かすほどの力を持っていなかった。春はまだ遠いようだ。冬を過ごしやすい季節と言うことはとてもできまい。
香霖堂は天国のような場所である。ストーブのある香霖の店は冬でも暖かく、いつもここに来るとくつろいだ気分になれるのだ。客の姿は見当たらず、ごちゃごちゃと物が積み重なった店内。年がら年中、よく分からない本を退屈そうに読む店の主。呆れるくらいにいつもと同じ光景だった。
「幻想郷には歴史がない。妖怪の寿命は長く、彼らの語る歴史は主観に満ちているからね」
「それで香霖は歴史書を書いているわけだ」
「客観性を欠いた歴史は単なる物語に過ぎない。語る者にとって都合のいいようにねじ曲げられた寓話と言ってもいい。そんなものから過去の出来事を知ることは不可能だ。そこで僕の書く本が必要になるのさ。客観的な目で見なければ、真実なんて分からないのだからね」
香霖は得意げに言った。それを聞き流しながら、ストーブの上のヤカンに手を伸ばした。が、中はほとんど水と言っていい状態で、湯にはほど遠かった。
──ふむ。
「ちょっとおかしいと思うんだよな」
「何がだい?」
「香霖は歴史書って言うけどさ。毎日の出来事を書いてるだけだろ?」その通りと香霖は答えた。起こったことをそのまま書くのが一番客観的な記述と言えるからね、と。「それは普通〝日記〟って言うんじゃないか?」
「そうかな」
「そうだよ。歴史ってのは社会がどうなったとか、もう少し大きな話だろ? 個人の生活史なんかじゃなくて」
「なるほど。日記は歴史書にならないというのが魔理沙の意見なわけだね」
「たいていのやつは同じように考えると思うけどな」
香霖は含み笑いをもらした。明らかにこいつは違う考えを持っているようだった。だからこそ自分の書く本に意味があると言っているようにも見えた。いつのことだったかは忘れたが、香霖は幻想郷について記すという使命感に目覚めたらしい。こいつに言わせれば、今までの幻想郷の歴史について書かれた本は歴史書たり得ないものばかりであって、自分がどうにかしない限り真実の歴史は生まれないのだという。一向に書き上がる気配はないのだが。何でもいいから早く誕生させてやってほしいものである。
「どうして本を書こうと思ったんだ?」
「幻想郷のためさ。自分たちの歩んできた、あるがままの歴史を見つめ直すこと。それが外の進んだ文明に追いつくための第一歩だ。まあ、この店の知名度のためという理由もあるにはあるけど。本が売れたら店の評判も上がる。もちろん、今のままでも客は十分来ているけどね」
「それは意外だな。この状態を〝客が来ている〟と言うんだから」
「そうでもないよ。うちの店は幻想郷でも珍しい道具を数多く扱っているし、何より、外の進んだ道具が手に入るのはここだけだ。物の価値の分かる人はみんなこの店に来るのさ」
「分かるぜ。ちょうど一ヶ月前にえんぴつが売れたばかりだもんな」
「魔理沙はこの一ヶ月の間、毎日のように来てえんぴつ一本買わなかったけど。まあ、それは仕方のないことだ。最近、少し寒すぎるから。いくら店の品揃えがよくても外を出歩く者がいないんじゃどうしようもない」
「客が来ないのは自然の摂理というわけだな」
「その通り」
とてもそうは思えなかった。香霖堂に客がいないのは冬に限った話ではないからだ。香霖は偏屈なやつでお世辞にも愛想がいいとは言えないし、ごくまれにやってくる客にも延々と自分の話を聞かせる悪癖がある。だから店に閑古鳥が鳴いているのである。歴史を見つめる前に、店の現状をあるがままに見つめる必要がありそうだった。
「せっかく香霖に仕事を持ってきてやったんだけどなあ」
「僕は忙しいんだよ。言わなかったかな」
「聞いてたけど意味は分からなかったな。本を書いてると言いながら、やってることはいつもと同じ読書だし、特に客が来るわけでもないし。むしろ、すごく退屈そうに見えたぞ。香霖に頼みたいことはさ、別に難しいことじゃないんだ。ちょっと見てもらいたい道具があるだけだから」
「魔理沙がそう言って面倒なことにならなかった覚えはないんだけど」
心底嫌そうに言う。
「香霖はもう少し広い心を持つべきだな」
「確かに、今は客がいない。それは認めよう。けど、もうすぐ客が来るかもしれないだろう? その可能性もないとは言えない。いつでもお客様の対応ができるよう準備しておかないとね」
「本当に誰か来ると思っているわけじゃないくせに」
「どうしてそう思うんだい?」
「ヤカンの中身が水だからな。寒い中来る客がいるなら、普通、お茶の用意くらいしておくだろ。お前がヒマなことは分かるんだ。ちょっとくらいつきあってくれよ。見てほしいのはこれなんだ」
それはビロード張りの小箱だった。ふたを開けると、中にダイヤモンドがあしらわれた指輪がちょこんと収まっていた。決して大きくはないが、雪解けの清流を思わせる透き通ったダイヤモンドだった。
香霖はわざとらしいため息をついた。
「やっぱり面倒なことになりそうだ」
「まだ何も言ってないだろ。これはさ、ある人がある人に贈った指輪なんだけどな。いや、ある妖怪が贈った、って言った方がいいのか。ややこしいな。頼みは、この指輪の〝鑑定〟なんだ。この道具の名前を見てほしいんだ。香霖の能力で」
箱を渡した。ふうん、とつぶやいて香霖は言った。
「指輪だね」
「あ?」
「しいて用途まで言うのならば、指にはめるものってところかな」
「いや、聞きたいのはそういうことじゃないんだ。聞きたいのは、それが何か特別なことに使うものなのかどうかってことさ」
「特別なこと? ひょっとして魔理沙はこれを足の指にはめる道具だとでも考えているのかい?」
「香霖は察しが悪いなあ。頼みってのはつまり──」
「この指輪が〝婚約指輪〟かどうか知りたいんだ」
◇
〝婚約指輪の鑑定〟 を香霖に頼むことになったそもそもの理由は、仕立屋の娘が妖怪好きだからだ。大店の建ち並ぶ通りから、かなり奥まった路地にその仕立屋はあった。
仕立屋とは言っても、身につけるものならその東西を問わず和服から洋服まで何でも作る。いかにも幻想郷らしい店である。小さな店だが腕はいいらしい。主に個人から注文を受けて仕立てをしているが、時々大通りの道具屋からの受注もあると聞いている。
さて、仕立屋の娘の妖怪好きは里でもかなり有名だ。西で妖怪が出たと聞けば西に行き、東で妖怪が出たと聞けば東に行く。つい先日のことだが地底から怨霊が噴き出してきたときなどは、すぐザイル片手に地底に潜っていってしまった。ちょっとどうかしてると思う。普段はのんびりしているくせにな。
その仕立屋がウエディングドレスの注文を受けた。近く結婚式を挙げたいという話だった。ひと月ほど前のことである。急な話ではあったが、店は見事なドレスを仕立て上げたそうだ。山の神社の分社が最近里にできたので、そこで式を挙げることになった。──ところで、これは神式の結婚式と言っていいのだろうか。ドレスで神前結婚というのがよく分からないんだが。まあ、本人たちがよければいいのだろう。山の神社の巫女も気にしてないらしいし。
それはともかく、準備はすべて順調に進み、式の当日を待つだけだった。ある一点を除いて。
「それで問題になったのがこの指輪ってわけだ」
「話がよく見えないんだけど」
香霖は箱に入った指輪をためつすがめつ眺めていた。
「よくできてるだろ、それ」
「まあね。作ったのは河童かな」
「よく分かるな」
「当然だよ、魔理沙。ダイヤモンドの加工は難しいからね。里の人間にそこまでの技術はない。つまり、指輪を作ったのは、その技術を持つ妖怪ってわけさ」
「話が早くて助かる。それは河童がある人に渡したものなんだけどな。その人ってのが、ええと、名前はなんて言ったっけ。まあ、どうでもいいか。いや、そこは重要なことじゃないからいいんだよ。ともかく、その指輪は河童が作ったんだ。男の河童だけど。で、ドレスも、結婚式の準備も全部終わってな。あとは式の当日を迎えるのみ、ってことになった」
「よかったじゃないか」
「そこまではな」
「何が問題なんだい?」
「問題はその結婚式が昨日だったってことだ。式は結局行われなかったんだよ」
なるほど、と香霖は言った。
「よくあることだ。特に人間と妖怪の結婚ではそういうことも多い。妖怪が好きな人もいれば、そうでない人もいる。当人たちが結婚したいと言っても周りが反対したりとかね」
「いや、それは別にいいだろ。本人が結婚したいならさ。なんで周りのやつが関係あるんだよ」
「そうもいかないよ」
首を振って言った。
「里の生活では〝家〟を考えないわけにはいかない。結婚は家と家の結びつきでもあるからだ」香霖は続けた。「里は限られた社会だ。ひとつの場所で一緒に協力して暮らしていく必要がある。たとえ当人たちがよくても、それですべて解決というわけにはいかないよ」
「そういうものか?」
「そういうものだ」
「そこらへん昔からよく分からないんだよな。家柄がどうだとか血がどうだとか。どうでもいいだろ。そりゃあ、実際に結婚なんてしたことないからよく分からないけどさ。でも、結婚って二人が好き合っているかどうか、ってことが一番重要なはずだろ? 違うか?
ま、この二人の場合は、そんな面倒くさいこと考えなくていいらしいんだ。反対してるやつもいないし、むしろ二人の結婚を歓迎しているくらいでな。あとは本人の気持ち次第ってわけだ」
だからこの指輪が問題になるのだった。
「河童はその人にプロポーズをしたんだ。指輪を渡してな。そこまではいい。なら、なぜそれがここにあるんだ?」
「なぜここにあるのか?」
「どうして指輪を自分で大切に持っていないのかってことだ」
「結婚式は開かれなかったと言ったね」
「ああ。そいつは式に来なかったからな。新婦のいない結婚式が開かれる道理はないな。式に出なかった理由をそいつは〝相手の気持ちが分からないからだ〟と言った。それで全部流れたんだ。結婚式も何もかもな」
「何か気に入らないことがあるみたいだね」
「まあな」
あの人はきれいな人だと思う。大和撫子という言葉があれほど似合う人も珍しい。
昔、琴を習わされたことがあった。たぶん、女性のたしなみとして身につけさせようという意図があったのだろう。あまりうまくいったとは言えないが。じっと座っているのは性に合わなかった。
琴の教室にその人も通っていた。年の数は五、六歳くらいしか違わないはずだが、何年たってもああはなれないと思った。奏でる音は優美で気品にあふれていたし、琴を弾く姿は淑やかだった。今はもっときれいになっているんだろう。
全く興味はないが。実家を出て以来、里に行くことが少なくなった。なので、その人が今どうしているのかは知らない。結婚式の当日に何をしていたかは言うまでもない。ひとつだけ分かっているのは、そいつが婚約指輪を他人に預けるようなやつだってことだ。人となりを詳しく知っていたとしても、特に関わりたいとは考えなかったと思う。普通、結婚式には新郎と新婦の出席が必要なのである。新郎一人でどうやって式を進めろと?
贈り物には気持ちが込められている。指輪となればなおさらだ。この指輪は河童がダイヤモンドの原石を磨き上げて丁寧に作った。幻想郷でダイヤモンドが採取できるというのは初耳だったが。まあ、幻想郷はどこで何が起こっても不思議じゃない場所である。川底をあさっていたら見つかったのかもしれない。空から降ってきたのかもしれないし、あるいは怨霊と一緒に間欠泉で地底から吹き上げられてきたのかもしれない。何でもありだ。
しかし、出自がどうであろうと、河童が指輪に自分の気持ちを込めたことは疑いようがないだろう。もちろん、指輪を鑑定してもらうことには彼女の了承を得ていた。無断で持ち出していいものじゃないからな。そのとき、そいつは言ったそうだ。〝だってあの人の気持ちが分からないと式には出られないんですもの〟と。プロポーズとともに渡されるダイヤモンドの指輪に他のどんな意味があるというのか。
だから、香霖に指輪の名前を調べてもらいに来たのは、仕立屋の娘の意向という面が強かった。あいつは、河童が指輪に込めた気持ちを伝えてあげたいと言った。妖怪が好きだから、河童の気持ちを大切にしてやろうと思ったのだろう。だが、正直なところ気分の乗らない話ではあった。
「なるほど」と香霖は言った。
「でも魔理沙。その人だって何か事情があったのかもしれないよ。特に具体的な理由が思い浮かぶわけじゃないけど。でも、男女の問題というのは複雑だからね。恋愛は互いの心を映す万華鏡のようなものさ。実際何があっても──何だい、魔理沙」
「いや、あまりにも似合わないことを言うから。熱でもあるのかと思ってさ。大丈夫そうで安心したぜ」
「一般論だよ。でも、魔理沙は詳しい事情を知らないわけだろう?」
「一般論、ねえ。この場合、そう言ってしまっていいかは疑問だな。結婚式を勝手にキャンセルするのは〝一般的〟に言えばどういうことなんだ? ノーってことじゃないのか? あなたとは結婚したくないってことでさ。それなら別にいいんだ。プロポーズをされたら、首を縦に振らなければならないっていうルールはないからな。好きにすればいい。ただ、それなりの身の振り方はあるだろ。はっきり断るとかさ。婚約指輪を鑑定に出すのは違うと思うんだよ」
仕立屋のあいつはそう考えていないようだったが。結婚というものに──特に妖怪と人間のそれに──強いあこがれを持つ夢想家なのだ。
ロマンチストは総じて不器用なものである。あいつを見ると特にそう思う。手先が器用かどうかということではなく、生き方そのものが。夢想家が指輪と聞いて思い浮かべるのは、おとぎ話のこんなシーンだ。惹かれ合った二人がいて、その片方が──どちらでもいいけど──君を一生大切にするとか、まあそんなことを言う。その後どうなるか。その次は必ずと言っていいほど〝二人はずっと幸せに暮らしました〟と続く。
そんなことは滅多に起こらないのに。たとえうまく結婚できたとしても、ケンカをして別れるかもしれない。二人の生活が平穏に過ぎるなどとなぜ言えるのだろうか。一体、何組のカップルが〝ずっと幸せに暮らす〟ことができるのだろうか。それはひとつの奇跡と言ってもいい。あるいは夢物語か。世界はそんなに単純にはできていないし、生きやすくもない。冷たい風が吹くなか一本だけろうそくを持ち、その火が消されないように抱えて生きる。ロマンチストとはそういうものだ。
もっとも、かの博麗神社の巫女、博麗霊夢の意見は違うようで、〝何言ってんのよ。どう考えたって、あんたらは同じタイプの人間じゃない〟 と言うのだが。そうか?
魔法使いの思考は論理的だ。魔法には術式が必要である。一たす一が二になるように、術の構成式と発動する魔法は常に対応している。それは火をおこそうとして水をかけても意味がないことと似ている。婚約指輪と幸せな未来をイコールで結びつけることはできない。必然的な関連性がないからである。
あいつは指輪の鑑定を主張した。〝道具の名前と用途が分かる力〟。香霖がそういう能力を持っているからだ。指輪の名前を知れば、河童がどういう意図で指輪を贈ったか知ることができる。ただ、わざわざ調べてもらう必要があるのかは疑問だった。ダイヤモンドの指輪が意味することなんて子どもでも分かる。それに、式に出なかったそいつが河童の気持ちを知ったところでどうするとも思えなかった。
本当は、あいつだって気づいているのかもしれない。店には引き取り手のないドレスが残っている。式の準備に関わった者として、本来、大切に扱わなければならない道具を又貸しするやつに何も感じなかったわけはない。しかし、それでも──気の毒な河童の幸せを願わずにはいられないのだろうと思う。ロマンチストは法則よりも理想を追うものだから。
「この指輪の名前は何だ?」
「ふむ」
香霖はじっと指輪を見つめ、何かを考え込むように目を閉じた。そして言った。
「指輪だね」
「指輪──っておい。ただの〝指輪〟か?」
「もちろん。その道具の名前は指輪。それ以上でも以下でもない」
「それは──意外というか、なんて言ったらいいのか。つまりこういうことか? 河童の方も相手のことなんて何とも思ってなかった。じゃあ、これはただの──いや、おかしいだろ。どうしてそんな相手にダイヤモンドの指輪なんて贈るんだよ」
香霖は呆れたように首を振った。
「違うよ魔理沙。僕はこれが婚約指輪じゃないとは言ってないよ。道具の本質を言ったまでだ。さらに重要なことがひとつ。そもそも──」
「この世界に婚約指輪なんて存在しないのさ」
何言ってんだこいつ。
◇
仕立屋の娘は誤解していると思う。
あいつはよく〝応援してます〟と言う。応援って何をだ。
香霖とは物心つく前からのつきあいである。香霖とつきあってきた時間は、年齢とほぼイコールと言ってもいい。けど、古くからの知人というのなら幻想郷の他のやつらだって同じなのだ。幻想郷はそんなに広い場所じゃないからな。生まれてから会うやつらはだいたい決まっている。昔なじみだからといって、あいつの考える関係になるわけではないし、全員と結婚するわけでもない。確かに最近、毎日のように香霖のところに来ているけど、別にそれが理由なわけじゃないぞ。香霖堂にはストーブがあるから冬場は自然と足が向くようになるだけだ。まあ、冬以外でもよく行くけどさ。
ただ、そういう話って実はあまり興味がないのかもしれないと思う。実際、この年になるまで誰ともそんな関係になったことはない。それに、誰かとつきあうとか、まして結婚となるとな。まだまだ先の話としか思えないのだ。
──それはともかく。香霖は一日の大半を本を読むことに費やしている。そして、聞きもしないのに突然ホラ話をし始めたりする。何か変な本でも読んだのか、あるいは妄想にとりつかれてしまったのか。手のかかるやつだ。たぶん、香霖の言う歴史書にも似たようなことが書いてあるんだろう。普通、歴史について知りたければ、その道の専門家に聞くものだ。里にもそういうやつが二人ほどいる。ただの古道具屋であるこいつの本が必要になる理由はない。そもそも、香霖は勘違いと妄想の集積物みたいなやつだから、役に立つことが書けるはずがないのである。だが、何か話し始めてしまったときはできるだけつきあってやるようにしている。わりとすぐ拗ねるしな。
「またわけの分からんことを。一応聞いてやるけどさ」
「魔理沙はいくつか勘違いをしているよ。まず、僕の能力が婚約指輪を鑑定できるという点だ」
「できないのか」
「もちろん。指輪の名前はいつだって〝指輪〟だからさ」
「使えない能力だな」
「十分な能力だと思うけどね。指にはめる道具のことを〝指輪〟と呼ぶだろう? それはどんな状況でも変わりはしない。そう、僕の能力は〝道具の本質を見抜く力〟とでも言おうか」
香霖は胸を反らして誇らしげに言った。
「どうしてお前がそんなに自信たっぷりなのか分からん」
「それに鑑定で道具の性質を知ろうというのも間違っている。鑑定ほど客観性を欠いたものはないよ。そうだなあ、例えばこんなものがあるんだけどね」
香霖は机をがさごそと漁り、中から一枚の紙を取り出した。その紙にはでかでかと文字が書かれていた。〝すまん〟。
「これはずいぶん前、どこかの誰かが僕のお気に入りのティーカップを割って、置き土産に残していったものなんだ。見覚えはあるかい」
「そんなもの取っておくなよ」
「あれは気に入ってたから。で、どうかな」
「さあ」
「そう言うと思った。僕はこの字を見ると、目の前にいる誰かの顔が思い浮かぶんだけど。まあ、とっくに過ぎた話だから、たとえ話として出しているだけだ。あまり気にしなくていい。だが、もしカップを割った犯人の字に見覚えがなかったら、どうすればいいだろうか」
「あのときの小言は長かった」
「その場合はたぶん、犯人の残した遺留物から考えていくことになると思うね。筆跡には人柄が出るものだ。本人が意識しているかにかかわらず。そこから犯人像はある程度絞り込める。これの場合、字のはらいの部分がひねくれた感じがするとか、字の太さに神経の図太さが表れていそうだ、とかね。いかにも店から道具を勝手に持って行きそうな感じの字だ」
「正直を絵に描いたような字だと思うけどな」
「なぜか意見が分かれたね。鑑定とはこういうものだよ。人によって言うことが違う」
「それは香霖の見方が偏ってるからだろ」
「そうかもしれない。物事を観察するとき、主観から離れることはできないからね。だから本当は、筆跡鑑定なんて占いみたいなものなんだけど。カップを割ったやつが誰かなんて、資料がこれだけじゃ何の判断も出すことはできないよ。特にこんな短い文だけで分かるはずがない。それにこの字は癖が強いからね。少し器用な者なら同じように書くのは難しいことじゃない。こんなふうにね」
香霖は手近な紙にさらさらと書いた。そして、ほとんど同じ字が並んだ紙を見せつけるように突き出してきた。
「嫌なやつだよなあ、香霖は。じゃあ誰が犯人かなんて分からないわけだろ。とぼければよかったわけだ」
「いいや。犯人は決まっている。僕の周りでこんなことをするのは一人しかいないからね。この紙がなくてもまず一番に疑っただろうと思うよ」
「ひどいな」
「別にいいじゃないか。それで合っているんだから。話を戻すと、道具には本来、特別な名前なんてついていないものだ。例外はあるけど。道具自体に何らかの謂われのある場合がそうだね。例を挙げると、魔理沙が前に拾ってきた草薙の剣なんかがそれに当たるかな。あの剣には昔からいろいろな伝承がついて回っている。そういう道具なら僕の能力で名前を知ることはできるんだけど──」
「草薙の剣? そんなもの拾ったっけ」
「ん? しまった。魔理沙がそんな道具を拾ったことはなかったね。拾ってきたのはごみみたいな鉄くずだったから。いや、こっちの話さ。気にしなくていい」
「怪しいな。何か隠してるって気がするぞ」
「そんなことはない。ああ、いや、そもそも、僕、草薙の剣なんて言ったかな。たぶん言い間違いか、魔理沙の聞き違いだと思うよ。まあ、今はそれよりも重要な話があるじゃないか。早く話を戻そう。魔理沙が持ってきた道具──あれ、何の話をしていたんだっけ」
「指輪」
「そうだった。なぜ〝指輪〟にそれ以外の名前がないのか。道具にどういう価値を見いだすかということは、主観的にしか決められないからだ。客観的な評価は不可能なんだ。形見の指輪について考えてみればいい。それが意味を持つのは誰にとってか。指輪が形見の指輪かどうか。それを誰かの形見として認識できるのは、ごく一部の者に限られる。他の者の目に特別な道具として映ることはない。婚約指輪も同じだ。そういう名前がついている道具があるわけじゃない。指輪は本来、ただの装飾品さ。それが特別な道具になるのは、特別な価値を認める人がいるからだ。指輪を渡す人と、それを受け取る人。二人の間で結ばれる特約だ。
こんな例を出してもいいだろう。幻想郷に指輪を専門に扱っている店はないけど、外の世界ならあるかもしれない。そこに指輪を買いに行った人がいるとしようか。でも、〝この婚約指輪〟をくださいと言うのはおかしいだろう? 全ての指輪に婚約指輪という名前をつけて売っているわけじゃないんだから。それをどう扱うかは買った人が決めることだ。それに、婚約指輪がずらっと店に並んでいるのもおかしいよね」
「すごく気が多いやつなら分からないぜ」
「よけいな茶々を入れるんじゃない」香霖は笑った。「でもその場合だって、誰かのために買うからこそ、指輪が特別な道具になるわけだ。自分だけのために買っても、金銭的価値以上のものを持ちようがないからね。二人の関係がどういう状態なのか。それを離れて婚約指輪が存在することはあり得ない。言い換えるなら、互いに相手のことをどう思っているのか。それこそが指輪の価値を決める最も重要な要素だ」
「相手のことをどう思っているか?」
「そうだよ」
「つまり、心の問題と言うこともできるわけか。心、ね。いや、続けてくれ」
「確かにそういう言い方もできるね。河童が贈った指輪が婚約指輪かどうか。そんなこと分かるわけがない。僕が指輪を受け取ったわけじゃないからね。河童がどういう意図で贈ったのか、そして、渡された方はそれをどう考えるのか。答えられるのはその二人だけだ。仮に河童が婚約指輪として指輪を贈っていたとしても、彼女が相手のことをどう思っているか、僕に知りようがないからね。指輪の鑑定なんて的外れもいいところさ」
「なるほど。香霖にしては辻褄が合っているような気がするな。たいていのやつは自分の心の中身しか分からないからな。ま、鑑定ってアイディアは他のやつのだったんだけどさ」
「他のやつ?」
「ほら、仕立屋のさ」
香霖は不思議そうな顔をした。
「ふうん。おかしいな。あの子にはこの話をしたことがあるから、これくらい知っているはずなんだけど。それとも他に理由があるのか。まあ、道具の価値は難しいということだね。他人がどうこう言える話じゃないから」
お手上げと言わんばかりに首をすくめた。
「でも、そういうことなら知る方法はあるぜ。間欠泉が噴き出してきたのはつい最近のことだから香霖は知らないだろうけど。地底には他人の心を読める妖怪がいてさ」
「〝心を読む妖怪〟?」
「幻想郷にはいろんな力を持ったやつがいるからな。そういう能力があってもおかしくないだろ? そいつならこれがどんな指輪かってことが分かる。河童のやつと会わせてやれば、どういう気持ちで指輪を贈ったか知ることができるから」
「たぶんね」
「だろ。河童の気持ちをそいつに代弁させてやればいい」
「いいと思うよ。それに何か意味があると考えるならだけど」
「あー? 他に方法なんてないだろ? でも、どうやって地底まで連れて行くかって問題はあるよな。結構遠いからさ。──何か気になることでもあるのか? そんな顔してるぞ」
「少しね。ところで魔理沙、もしかしてその婚約指輪を渡された人っていうのは、版元の娘さんじゃないかい? あの髪の長い」
「そうそう。って、あれ? 知ってるのか? ああ、そういえば歴史書を出したいとか言ってたっけ?」
「うん。里で本を出すにはあそこを通さないといけないから。歴史書を出すための下調べに行ったとき少し話を聞いてたからね。でもそうか、なるほど」
「何がなるほど、なんだ?」
「いかにもあの子らしい考え方だと思ってね。だから〝婚約指輪の鑑定〟になるのか。あくまでもその人自身に相手との関係を見つめ直させようというわけだ。そういうことなら〝鑑定〟にも意味が出るかな」
「意味が出る? ちょっと待ってくれ。話についていけない」
「結局のところ、道具の価値は自分で決めるしかないと言うことだよ。ああ見えてあの子の思考はかなり論理的だから、鑑定が不可能なことは分かっているはずだ。それでも鑑定を頼むのは何か事情があるとしか思えないからね。ただ、どうして自分で指輪を持ってこないのか疑問だけど。あの子の性格ならそうすると思うんだけどなあ。まあいいや。ところで河童の方の気持ちが変わったとか、そういうことはないよね?」
「そう聞いてるけどな。式を勝手にキャンセルされてるのにさ。お人好しってやつだな」
「なら問題はないか。いいよ。鑑定書を書こうじゃないか」
「これが婚約指輪だって書くのか? なんでだよ。そういうことはできないって言ったばかりじゃないか」
「そうだよ。鑑定なんて占いと同じくらいの意味しかないね」
「じゃあ──」
「結婚式に来なかったのはちょっとした事情があったからだ。まあ、魔理沙が詳しい話を知る必要はないよ」
香霖はそう言うと、紙を出して鑑定書を書き始めてしまった。置いてきぼりを食らったような気分になって、なぜか悔しくなった。香霖は時々、こういう言い方をする。まるで〝魔理沙はまだまだ子どもだから〟と言われてるみたいだ。
「香霖でも知ってるってことは、わりと有名な話ってことなんじゃないのか? 里に行って聞いても──」
「それはやめた方がいいね。聞いておもしろい話じゃないし。──と言っても魔理沙が興味を持ってしまったら止めても無駄か」
香霖はあきらめたように首を振った。
「版元の娘さんには以前、好きな人がいたそうでね」
「何だ? そいつのことが忘れられないとか、そういう話なのか? だから式に出なかったと」
「そうじゃないよ。問題はもう少し複雑なんだ。いや、ある意味ではこれ以上ないほど単純な話なのか。その人の問題は、他人を信用できなくなっているということだ。彼女はある男とつきあっていた。彼女はそいつと結婚するつもりでいたし、周りもそう思っていた。でも、それはうまくいかなかった。その男の一方的な裏切りがあったからだ。まあ、実際に何があったのか、それを魔理沙に教えようとは思わない。ただその男が別れぎわに言った言葉だけで足りると思うからね」
「何て言ったんだ?」
「〝飽きた〟。そう言ったそうだよ。二人の出会いは川底だった。彼女は絶望とともに冷たい水の中に沈んでいたそうだ。その人の気持ちが分かるかい?」
◇
銀世界と言ってもいい風景だった。
香霖が入れてくれたお茶を飲んだ。体の芯から温まるような心地よさがあった。
窓の外に広がっているのは白銀の世界である。雪が太陽の光を反射してきらきらと輝いて、まるで幻想郷中の宝石箱をひっくり返したみたいだった。
だからどうというわけではない。雪が降るのは毎年のことで、特に珍しいことではないからだ。実際、きれいな風景ではある。これ以上きれいなものなどないと思えるほど美しい景色だった。しかし、わざわざ外に飛び出したいと思うわけではなかった。無邪気な氷の妖精のように雪上を駆け回ってもいい。でも、誰がそんなことをするのか。こんな日に外に出ても風が冷たいという感想しかもつことはできないだろう。
特別な何かがあるわけではない。冬になれば必ず雪が降る。木々は葉を落として裸の肌をさらし、動物たちは眠りにつき、人間は囲炉裏の煙に燻されながら春を待つ。冷たいだけの季節。毎年、際限なく繰り返される雪国の暮らし。冬の幻想郷にあるのはそれだけだ。あるのは冬の厳しさのみである。雪がいくら降り積もっても、生活の障害になる以外に大して意味がない。空想の入り込む隙間はどこにもない。人がそこに銀世界などというロマンスめいたことを言いたがるのは、現実からの逃避か、夢想に過ぎないのだろう。幻想郷のすべてのものはメルヘンの世界からほど遠く、甘い夢を見るには適さない。雪に埋もれながら見ることができるのは走馬燈ぐらいのものなのだ。
もし、雪景色を見て〝銀世界〟と言える、そんな場所があるのだとすれば──。
「たぶんそうなんだろうな」
「何がだい?」
香霖は鑑定書を書く手を休めて顔を上げた。
「外の世界はきっと暖かいんだろうと思ってさ。寒さに震えて過ごすような生活はしてないと思うんだよ。どんな便利な道具があるかはよく知らないけど。たぶん、どの家にもストーブがあったり、もしかしたらもっと進んだ道具があったりしてさ」
「そうかもしれないね」
「そこでは寒い思いをしなくていい。でも、幻想郷はそうじゃない」
「というと?」
「つまり、銀世界という言葉はただの幻想だってこと。いくらきれいな言葉で飾ってみてもみても、そんなのはまやかしなわけだ。風が吹けば吹き飛ぶだけのものだ。見かけ以上に虚飾した偽りの世界と言ってもいいな。外の世界は違う」
「そうだろうか」
「外の技術は進んでいるって香霖もよく言うだろ? 雪が降っても、暮らしやすい環境をつくることができる。冬の寒さなんて気にせずに、心に暖かいものを抱くことができる。それはつまり、どんな風が吹いても消えない確かな何かがあるってことだ。ちょうど今の香霖堂みたいに。外の世界ならもっと素直に、きれいなものを見てきれいと言えると思うんだ」
湯飲みを手の中に抱える。暖かい。
「幻想に住む者たちには決して手の届かない特別な世界。ユートピア。そう思わないか?」
「別に思わない」
「どうして?」
「それは世界の本質じゃないからだよ」
「本質?」
「外の世界と幻想郷に違いはないよ。どちらが素晴らしい世界なのか。それは主観的判断に過ぎないからだ。逆に外の世界の人間が見れば、幻想郷は理想的な世界なのかもしれない」
「物事のとらえ方の違いに過ぎないってことか」
「そうだね。価値判断に絶対的な基準はない。あるのは個々人の相対的なものだけだ。幻想郷とは何か? 外の世界とは何か? どちらがよりよい世界か言うことに意味はない。どのように答えたところで、個人の答えに過ぎないのだから。誰もが認める楽園なんてどこにもありはしないよ。
そもそも、進んだ技術があることがそんなに重要なのか? 確かにそれがあれば暮らしやすくなるだろう。でも、だから? そんなのどうだっていいよ。本当に大切なことは何か。それはその世界に生きるものがいるってことだろう? 僕らはこの幻想郷に生きている。外の世界の人間もそうだ。彼らも僕らと同じようにちょっとしたことで笑ったり、悩んだりしながら生きている。何の違いがある? 小さなことしか見えない者に物事の本質はつかめない。自分たちが住む世界で、何を思って日々を過ごすのか。それが一番重要なことなのさ。
外の技術がどれほど進んでいるかなんてどうでもいいんだ。そこに生きるものにとっては些末な問題に過ぎない。たとえ心が読めても何にもならないのと同じようにね」
「何にもならない?」
「そうだよ。版元の娘さんは人からひどい裏切りを受けた。だから相手のことをどう信じればいいのか分からなくなっている。だけど河童の心を読んで、その気持ちを知ったところで何か意味があるのかい? 河童の彼女に対する気持ちは分かるかもしれない。でも、一生相手が信じられるかと考えるなら? 相手の気持ちは永遠に変わらないのか? ずっと裏切られないなんてなぜ言える? 心を読むとそういうことが分かるのか? 何も分かりはしない。どんな便利な能力を持っていたとしても、生きる悩みはなくならない。どんなに進んだ文明があってもそこから解放されることはない。万能な能力などないし、完璧な技術もない。進んだ道具があるかどうか、どんな能力を持っているのか、そんなのは些細なことだ。違うかい?」
お茶を飲みながら、鑑定書を書く香霖を眺めた。やけに熱心に書いているように見えた。人の字を癖が強いと言っておきながら、香霖の字だって相当癖が強いと思う。ひねくれているようで、どこか不器用で、そしてとても優しい字だ。
「〝知ること〟自体に意味があるわけじゃない」
香霖は言った。
「幻想郷にはいろいろな力を持った者が住んでいる。河童が何を思って指輪を作ったか──その真相を知る方法はいくらでもあるだろう。心を読む能力を持っていれば必ず知ることができるように。だけど、たとえ心を読んでも、それだけで何かが解決することはまずない。誰かから河童の気持ちを伝えられても、自分がどう考えるかと言うことは別問題だ。自分にとって相手がどんな存在なのか。それは本人にしか分からないし、決めることもできない。他人に教えられてただそれを鵜呑みにするよりも、自分がどう考えるかということの方が何倍も大事なのさ。河童は彼女のことを大切に思っているのだろう。彼女もたぶん同じだ。うまくいけばいいと思う。しかし、鑑定書を書いてどうなるかなんて何も分からない」
「分からない?」
「僕の能力だって完全じゃないからね。僕はこの指輪に〝婚約指輪〟と言う名前がついているかどうか分からない」
「でも、香霖はこれが婚約指輪だと思っている」
「そうだね。この指輪を見れば、河童が自分の心を込めて作ったことは知ることができる。河童には相手をずっと支えていく意思はあると思う。だけど彼女がそれを受け入れるのかは分からない。つまり、この鑑定書は〝そうなればいい〟というただの願いだ。絶対にうまくいくなんて断言はできない。僕にできるのは、この指輪がどれだけ丁寧に作られているか、どれほどの思いを込めて作られているか、そんなことを書くだけだ。それは客観的な事実じゃない。どうにもならない可能性もあるってことさ」
そうは思わなかった。
なぜかうまくいくような気がした。
だって、香霖堂はこんなにも暖かいのだから。香霖堂にはいつも香霖がいて、不思議とそれだけでどんな魔法もかけられると思えるから。
しかしこれミステリかな