このお話は、
作品集57『七曜×七色≠七(曜×色)』
作品集69『図書館を出よう!』
の続きです。
前作をお読みになったことのない方は、そちらを先にお読み頂くと諸々分かりよいと思います。
また、
ジェネリック45『夢見る人形』
ジェネリック47『悋気応変』
となんとなく関係が有ったり無かったりしますが読まなくても問題ありません。
前作と合わせるとそこそこの分量がありますので、時間のあるときにでもお好きな飲み物を用意してどうぞ。
多分結構な分量の「俺設定」が含まれます。許せる方のみお読みください。
文中の無駄知識はあまり信じない方がいいです。
問題なければ、このまま下へどうぞ。
暗闇で満たされた部屋に、一人の魔女が立っている。
呼吸を整え、部屋の中心に置かれた寝椅子に身体を預ける。
ゆっくりと瞼を閉じ、視覚を閉ざす。
それだけでは外界と隔絶されない。
寧ろ視覚以外の感覚がより鋭敏に外界を描き出す。
身体を預けた寝椅子の感触。
香炉から匂う場を支配する香り。
呼吸と鼓動、血管を流れる血液の音。
自分の唾液の味。
それらが、自分がここにこうして存在することを示している。
その上で、徐々に身体から緊張を取り除いてゆく。
両手、両足をだらりと弛緩させ、四肢の感覚を意識から切り離す。
椅子と一体化したかのように、身体が深く沈んでいく。
自分の身体と椅子との境界をじわじわとぼやけさせる。
自分が何処にいるかを曖昧にする。
鼻から息を吸い、鼓動に合わせて口からゆるゆると吐き出す。
吐き出すという意識さえも薄れさせ、呼吸をしていることも忘れるように。
心臓が動き、血が血管の中を流れていく。
その音も聞こえなくなる。
聴覚をも意識から落としていく。
部屋にはあらかじめ焚きしめておいたアロマの香りが満ちており、呼吸のたびに仄かに感じられる。
それも、じきに感じなくなる。
嗅覚も断たれる。
味覚も既にない。
そうして、意識だけが浮かび上がる。
部屋という区切られた空間と、意識とが一体になる。
意識の中で、自らを中心に円を描く。
円上に点を一つ。
一つでは何も起こらない。
円の上を任意に動かしてみたところで、ただ一つの点に過ぎない。
点をもう一つ加える。
円上に任意の二点を取ると、線分が取れる。長くなったり短くなったりするが、それだけ。
さらに点を加える。
三点を結んで三角形が出来上がる。様々な三角形を作ることができる。
正三角形、二等辺三角形、直角三角形、その他諸々。
ただそれだけ。
もう一つ、点を加える。四角形になる。
点と点との関係が複雑になり、三角形の時よりも「点と点とを結ぶ」行為の持つ意味が豊かになる。
対角線をとる事が出来る。しかしそれは四つの点に対して二つしか取れない。
さらに点を加えて五角形。
点を一つ飛ばしに線を引いていくと、五芒星、ペンタグラムになる。
円上の五点に対して、円に依存しない閉じた輪が新たに出来上がる。
円を相生、ペンタグラムを相剋として五行の見立てが完成する。
一点を木行に見立てると、次々と属性が決まる。
点でしかなかったものが意味を持つ。
そしてそれぞれの点を円から取り出し、独立した点として配置し直す。
部屋の壁は東西南北それぞれに対応している。
東に木行、西に金行、南に火行、北に水行、中央に土行。
こうして魔術を扱う基礎的な場が出来上がる。
可能ならばさらに八点を八卦に見立て配置してさらに場を盤石なものにするのだが、今から行う儀式はそこまでの土台を必要としない。
さて始めようかと意識を集中したとき、ずしんという地響きを身体が感じる。
切り離したと言っても観念的なものに過ぎず、意識が肉体と分離しているわけでは無い。
肉体と精神は不可分なのだから、叩かれれば痛いと感じる。
精神は肉体に影響を受けざるをえない。
だからこそ事前にきちんとした準備をしておかなければ、ここまで整った場を作ることはできない。
それが、誰かの手によって乱された。
ゆっくりと寝椅子から起き上がり、パチュリー・ノーレッジは忌々しげな表情で騒ぎの元へと向かう。
■□■□■
部屋から出たパチュリーが目にしたのは、倒れた本棚とそれらを直している咲夜だった。
「にゃあにゃあ」
「何をしているのかしら?」
「見ての通り、本棚を元通りに直していますわ」
「いや、鳴き声よ」
「猫度でも上げようかと思いまして」
「何があったか大体想像はつくのだけれど、小悪魔はどこかしら」
「鼠にやられて不貞腐れています」
「あなたもあれを通したわけね」
「駆けつけたらこの有様でした」
「逃がしたのね」
「ですから叱られる前に猫度を上げています」
「それは泥棒を捕えてから縄をなうようなもの。捕えてないけれど。で、騒ぎの張本人はもういないわけね。本格的にネコイラズの導入を考えるべきかしら」
「狡兎死して走狗煮らるとも言いますわ」
「あなたの為にあの鼠を放っておけって? レミィは苦難を供に出来て安楽を供に出来ないような性格では無いから心配いらないわよ。それ以前に鼠も取れない狗じゃ、煮られるのは時間の問題ね」
「では狩って参りましょうか」
「それは無用の騒動のもと。いいのよ。あの方向に用が無いでもないのだし」
「取り返しにいらっしゃるのですか? でしたら……」
「取り返しはしない。元々持っていかれた本に火急の用があるわけでなし。何より、無用な騒ぎを呼び込みたくない」
「静かなのがお好きですか」
「そうね。さっきも儀式の邪魔をされて迷惑だったわ」
「でしたら態々邪魔をせずに本だけ持ちかえらせましたのに」
「それとこれとは話が別よ。狗は狗らしく邪魔者を追い払いなさいな」
「わんわん」
「なんで鳴くのよ」
「猫より犬の方がお好みのようなので」
「鼠を捕るならどっちでもいいわ」
「では、わんわん」
「鳴いても犬度は上がらない」
「そうですか。残念ですわね」
「文句を言われたくなければ侵入者を静かに追い返しなさい」
「仰せのとおり人形遣いは追い返しておきましたが」
「そっちは通してもいいのよ。客なのだから」
「人間差別ですわ。明日は我が身かしら」
「あなた種族メイドでしょうに」
「恐れ入ります」
「今日はコーヒーにして頂戴」
「儀式は続けないのですか」
「荒れた場で失敗したものを無理に続けたら何が起こるか分かったものじゃない。場が鎮まるまでおあずけよ」
「かしこまりました。それと、お嬢様が久しぶりにお茶に付き合うようにとの仰せでしたが」
「そういうことは早く言いなさい。あ、でも私の分はコーヒーね。ここの片付けは小悪魔に任せましょう」
「では、失礼致します」
そう言うと咲夜は歩いて図書館を出て行った。
扉が閉まると同時に、本の山の陰から赤い髪の少女が出て来る。
「消えないなんて過労かしら。あなたも、あまり咲夜に負担をかけないようにね」
「ううう、でもですよ……」
「まあ、無理をしてまでとは言わないわ。魔理沙も弾幕ごっこに関しては相当だもの。だから、口八丁の舌先三寸でどうにかなさいな。得意でしょう?」
「人を騙すのは気が引けて……」
「あなた悪魔でしょうに。メフィストフェレスとか有名じゃない」
「王さまと平民を比べないで下さいよぅ」
「とりあえず、片付けは任せたわよ。適当にやっておいて頂戴」
「はいぃ」
羽根と尻尾をしょぼんと垂らしながら、小悪魔は本を拾い集め始めた。
パチュリーは衣服を整えるために自室に戻る。
儀式の名残を引き摺ったままお茶をする気分にはなれないし、何より服には香料の匂いが染みついていた。
鼻の利く友人のことだ、このまま向かったら何事かからかわれるに違いない。
クローゼットに吊るしてある似たような服を見繕い、手早く着換えるとテラスへと向かうことにした。
■□■□■
テラスに出ると、レミリア・スカーレットが待ちかねた様子で紅茶を飲んでいた。
態々冬にテラスでお茶会も無いだろう。急に用意をさせたのか、ガーデンテーブルの周囲にはまだ雪が残っている。
有能なメイド(咲夜のみを指す)も大変だ。
冬の乾いた空気が肌を刺すが、風もなく特別凍えるほどではない。
強烈と言うほどではないにせよ太陽の自己主張も強い。
そんな陽光に対してパラソルだけでどうにかなっているのだから、日光に弱いなんて嘘をいつまで吐き続けるのだろう。
照り返しだって馬鹿にならないのに。雪焼けしても知らない。
パチュリーはそんな事を考えながら支度の整ったテーブルに向かった。
向って右側にはパチュリー用だろう、椅子が用意してある。
色素の薄い瞳に見つめられながら、殊更急ぐ様子も見せずに席に着く。
「寒いわね」
「遅かったじゃない、パチェ。凍えるかと思った」
「そんなにひどく寒くもないでしょう。食事のときにでも言付けてくれたら待たせることも無かったのだけれど」
「それはいつの食事? 今日は儀式の準備で顔を見せなかったし、昨日はそれの下調べだったっけ。魔女の友人を持つと約束一つ取り付けるのに何日かかることやら」
「悪かったわよ。レミィこそどうしたの。何日かかけてもお茶に呼ぶのがいつもなのに」
「急に友人とお茶をしたくなったの。不穏だし」
パチュリーが席に着くと、いつの間にかコーヒーが用意されている。
見ると咲夜が傍に控えていた。
いつものことだ。
「不穏、ね。何かあるのかしら」
「何かあるから呼んだのさ。分かっているんでしょう、パチェ?」
「何か良くない運命でも見えたのかしら」
「私にとっては好ましくない運命が」
「やけに奥歯に衣を着せた物言いね」
「奥歯どころか八重歯まできっちりおめかしさせたくもなるよ。ねえ、パチェは私の友人だよね」
「何を今更。わたしはレミィに囲われているもの。お妾さんと言ってもいいわね」
「茶化さない。いや、大して間違ってはいないのか。ともかく私の友人の運命が、私の望まない方向に絡めとられているの」
「難儀な友人を持ったのね」
「分かっているでしょ。あなたの運命と人形遣いの運命とがどんどん縒り合されていっているの。綯い交ぜになっている」
「自律人形の研究をしているんだもの。一緒に物を作るってそういうことでしょう」
「そうやって自分を欺くのか? そうだとしたら、人形遣いをこの館へ招くことは金輪際許可しない」
「レミィ」
「あれは魔法の森の人形遣いで、パチェはこの館の魔女なの」
「レミィ」
「このままだとパチェはこの館の魔女ではなくなる。流れるべき運命が淀み凝り固まって行く」
「レミィ、レミィ、レミィ。落ち着いてちょうだい」
「どうでもいいけど何回も呼ばないで。嫌だわそれ」
「でしょうね。話を聞いてくれる気になったかしら」
「元から聞く気はあったって」
「じゃあとりあえず聞いてちょうだい。私はこの館から出て行く気なんてない」
「当然。そんなことは許さない」
「なら、何が不穏なの」
「パチェの好きなアレだよ。定まっていないものに定めを与えたらダメになっちゃった」
「荘子ね。別に好きなわけではないけれど。混沌に七穴を掘ると混沌は死んでしまったってお話ね」
「このままでは、私の望まないdestinationが定められてしまう。望まれないdestinyというやつだよ」
destinationは目的地、定められた場所。そこへ向かう過程がdestinyならば、宿命とは定められてしまったことに他ならない。
fateは運命のうねり、fortuneは女神の気紛れ。destinyは定め。
運命を操るレミリアが、よりにもよって宿命と言いだした。
どうやら本当に尋常じゃない事態だと、パチュリーはほんの少し姿勢を直す。
「宿命だって? 私達の研究がもたらすのがそんな未来?」
「なら聞くけれど、パチェの目的地はどこ? あの人形遣いが研究を完成させたらどうするの?」
「それは……」
「幸せな家庭でも築くのか。それとも今まで通りにここであの人形遣いを待ち続け短い逢瀬を重ねるか。いっそ紅魔館に取り込むか――」
「レミィ」
「パチェ、私はこの紅魔館の当主だ。そして彼女は魔法の森の人形遣い。このままなら破綻は確実。この私が保証するよ」
「まるでロミオとジュリエットね。キャピュレット家とモンターギュ家を一人でこなすなんてレミィも大変」
「それならそれでもいい。だったらパチェも分別の付かない小娘ではないのだから聞き分けてほしいものだよ」
「ええ、ええ。そうね。十歳そこそこの小娘みたいな真似はしない」
「あれ、そんなに若かったんだっけ」
「そうよ。確か戯曲では十三歳だったかしら」
「若いというより幼いな」
「レミィも見た目は幼いじゃない」
「失礼な。これでも五百年以上の時を閲した誇り高き吸血鬼だ」
「ええ。その姿で私の五倍以上生きているのだから不思議なものよ」
「ちなみにパチュリー様も私の五倍以上生きてますわ」
「え?」
「え?」
「……」
咲夜の突然の発言に固まるパチュリーとレミリア。
やがて、何もなかったかのようにレミリアが喋り出す。
「ふうん。年齢だけ見れば白黒や巫女くらいのものかしら。じゃあそれなりに分別もついていたのかな」
「ついてないからあんなことしたのよ。というか、白黒も紅白も分別なんてついてないでしょう」
「そういえば、今日も来たって?」
「ええ、おかげで儀式が駄目になった」
そうぼやいて、パチュリーは用意されていたコーヒーを一口すすった。
程よい苦みと酸味、そして自己主張の強い香りが気分を切り替えさせる。
「うええ。パチェはよくそんな苦いもの飲めるな」
「意識をはっきりさせたいときや思考を持続させなきゃいけない時は役に立つのよ」
「どちらも縁がないな。あれこれと考えるのはパチェに任せたよ」
「どちらかといえば肉体派だものね」
「そう。小難しい事を考えないといけないのは面倒。どうすればいいかくらい考えなくても分かるじゃないか」
「それはあなただからよ、レミィ。“世界は偉人の水準で生きることはできない”という言葉もあるのだし。いや、この場合は十人十色とでも言った方が正しいかも」
「考えるのに脳がいらない種族だからね」
「気楽なものね。ここは幻想郷なのだし当然かもしれないけれど」
「そう。幻想郷様様ってね。ところでうちの魔法少女はどうしているかな」
「最近は魔理沙が物盗りがてらに遊んでいくので退屈はしていなさそうですわ」
「違うわね。遊ぶついでに盗んでいくのよ。忌々しい」
「行きがけの駄賃ってやつだな」
「ええ、そう。本当にお駄賃よ。あなたの妹と遊んでくれるのだから」
「なら霊夢にもお駄賃をやらないとね」
「勝手にしたらいいわ」
「人形遣いにも駄賃がいるかな?」
「レミィ」
「冗談よ。駄賃で友人をくれてやる義理はないからね」
「そもそも私は遊んでもらっているわけじゃない」
「似たようなもんじゃない。今のパチェはまるで人間みたい。誰かの役に立とうだなんて」
「役に立つ?」
「そうだろう? 人形遣いの“個人的な”研究に首を突っ込んで、パチェとの“共同”研究に仕立て上げたんだから」
「別にそんなことはない。私はただ求められたから与えたに過ぎない。あれはどこまでいってもアリスの個人的な研究でしかないわ」
「と、さっき“一緒に物を作る”なんて言った口が言うわけだ。求められたから与えたと言うのなら、対価は何?」
「手土産なら来る度に持ってきてるわよ。あなたも食べてるでしょ」
「ああ、あのお菓子ね。咲夜のとはまた違うけど、なかなかおいしいよ。一人占めしてみたいくらいにはね」
「させないわよ。まあ他には、後進を育てる楽しみかしら。私はそれで十分」
「後進ね。ますます人間だよ」
「しょうがないでしょう。あなたよりかは人間に近いのだから」
「まあ、人間なら子供がほしいんだろうな。パチェは人間じゃないけどそれに“近い”から、子供じゃなく“子供に近い”ものを欲しがる」
「レミィ!」
「図星をつかれると人は皆立腹する、だったかな。パチェから借りたマンガにあったよ」
「……そう。子供、かしら」
「子供だろう。あの人形遣いに自分の考えを植え付けたい、自分を継がせたいなんて思うのは。いっそ使役の契約でも結んでしまえばいいじゃないか」
「え?」
「ん?」
パチュリーの上げた疑問の声に。レミリアは右眉を上げて答える。
何もおかしなことは言っていないだろうとでも言いたげな表情だ。
「……もしかして、レミィの言ってる子供ってアリスのこと?」
「それ以外に誰がいるのさ。あの頃のパチェは子育てしてる人間みたいだった」
「ああ、そう。ふふふ」
「おい、パチェ?」
「そうね、レミィ。大丈夫。そんなことにはならないから」
「いや、だから……」
「それはね、もう失敗してるの」
「え?」
「心配しなくても大丈夫。アリスは私の子供になんかなってくれないから」
「ああ、そう?」
「うふふ。あはは。子供ねぇ。私は母親なんかにならないわ。母親なんかになれないもの。時が来ても産めないし産まない。いえ、時は来ない。」
「あの、パチェ?」
「さ、もういいでしょう。レミィの心配は杞憂よ。私は紅魔館の魔女で、あなたの友人だもの」
「あ、そう」
「まだしばらくはあなたの傍にいる」
「あ、そ。ならいいよ。ふん」
「あら、拗ねたのかしら」
「別に。友達甲斐のない魔女だ」
「そう。私はとても助かっているけれど」
「へー。そういうことにしておくよ」
投げやりにそう言うと、レミリアはパチュリーのコーヒーに手を伸ばす。
一口すすり、顔をしかめるとミルクを入れた。
「それ私のよ」
「知ってる」
「苦かったわよ」
「苦かったよ」
「コーヒーを用意いたしましょうか」
「いらない」
「あ、私に替えのコーヒーを」
「かしこまりました」
「いいよ。これを飲めばいいだろう」
「ミルク入りはいらない。罰としてレミィが全部飲めばいいわ」
「うー」
「カフェオレにすればレミィも飲めるんじゃない?」
「ああ、それはいい。咲夜」
「かしこまりました。牛乳少な目のコーヒー牛乳ですね」
「いや、カフェオレ」
「ミルクはホルスタインでよろしいですか? それともジャージーがお好みでしょうか。ガーンジーやブラウン・スイスもございますが」
「え? ああ、ふつうのでいいよ」
「畏まりました」
そう言うと、次の瞬間レミリアの前にはカフェオレがなみなみと注がれたカフェオレボウルが置かれていた。
「あー、下がっていい」
「では、失礼いたします」
レミリアが言うが早いか、声だけを残して咲夜の姿は見えなくなった。
「相変わらず見事ね」
「というか、こんなに沢山いらない」
「まあ、せっかくだから飲んでみたら」
「うん」
レミリアはカフェオレボウルを両手で持つと、溢さないようにそろそろと口をつける。
「どう?」
「甘くない」
「でしょうね。普通砂糖は自分で入れるものだから」
「知ってたなら先に言ってくれてもいいだろ」
「知ってるものだと思ったのよ」
「パチェは意地が悪いな」
「そうよ。魔女だもの」
そう言ってパチュリーはにこりと笑う。
レミリアはやれやれという顔つきで砂糖をカフェオレに放り込む。
一さじ、二さじ、三さじ……
「入れすぎよ」
「いいんだよ。甘いのが好きなんだから」
言いながら唇をぺろりと舐める。
まったくいつまでも子供だと、目の前の友人を見ながらパチュリーは思うのだった。
■□■□■
「というわけで前回の魔女会は不幸な偶然により流れてしまったわけだけれど」
「私は魔法使いよ」
「魔法を使うんだからアリスも魔女になればいいのに」
「私は人形遣いよ」
「つまり私と同じなんてまっぴらごめんというわけね。よよよ」
「だから、棒読みで泣き真似されても対応に困る」
「笑えばいいと思うわ」
「あまり適切な使いどころじゃないわね、その台詞」
「さて、二週間ぶりの魔女会なわけだけれど」
「ああ、無視すればいいのか」
「アリスのいけず」
「私になにを望んでいるのかまったく分からないわね」
例によって例のごとく、紅魔館の図書館で二人きりのお茶会が催されていた。
「そもそも私はただお茶しに来てるだけだし」
「そう。じゃあ、飲んだら帰って。出口はあちらよ」
「帰らないわよ。一応進捗状況の報告もあるから」
「そう。済んだら帰って。出口はあちら」
「……ぱちゅりーとおはなしするのはとてもたのしいわ」
「素敵な棒読みね。じゃあ、進捗から聞きましょう」
「まあ、いいけどね。進捗だけれど、動力は問題なし。動きをプログラムするのも順調。動かすだけなら今すぐにでもって感じね」
「流石はアリスね。ここまでの工程に問題はない、と」
「ここまでは、ね。ここからが問題。私が操るならこのまま完成させたっていいけれど、それでは目的が達成されない」
「自律させなければいけないのだから、アリスが操っては意味がない。さてどうしようということね」
「以上、現状報告終わり。やっぱり意識の問題は厄介だわ。本を読んでも、意識の発生について書かれたものなんて手持ちには見当たらないし」
「というより、皆無でしょうね。私もお目にかかったことはないもの。近いものとしてホムンクルスの作り方ならあるけれど」
「人の精液にハーブやら何やらを混ぜてフラスコに入れて、馬の体温くらいにするんだったかしら。あと血液。それってゴーレム作るのと大差ないわよね」
「まあ、そうね。アリスの望む方法ではない、と。じゃあ発想を変えてみましょう。相手が意識を持っていると感じるのはどういうとき?」
「そうね……。自分の意図しないことを相手がしてる時かしら。人形を操っているときに予想外の動きをすると、もしかしたら人形に心が宿ったんじゃないかと思ってしまうし」
「意図しないこと、ね。じゃあ私なんかはアリスにとって意識の塊みたいに見えるのかしら」
「分かっててやってたのね、やっぱり。そうね、パチュリーはちょっと意識が過剰かしら」
「自意識過剰なんて失礼ね」
「そんなこと言ってない」
「言ったも同然でしょう」
「まあ、言ったけれど」
「……なかなかしたたかになったじゃない」
「誰かさんのおかげよ」
「おかげというか、毒されてるのね」
「皿までおいしく頂いたわ」
「……なんだか卑猥ね」
「そんな意図は無い」
「言ったでしょう。本人がどう思っているかではなく、他人からどう思われているかが重要だって」
「ああ、あれ? 神様にはなりたくないわねぇ」
「つまりアリスは卑猥だと思われている」
「失礼な」
「軽い冗談よ。で、意識の話だけれど」
「まあ、人形の場合はただのエラーなんだけどね。指示がきちんと伝わっていないわけだし」
「つまり、アリスは自分の指示がきちんと伝わっていない状態を意識があると感じるわけね」
「いや、だからただのエラーだって」
「さて、そもそも意識とは何なのかしら」
「掴みどころがないのよねー」
呟きながら、また始まったとアリスは長話に備えて椅子に座りなおす。
パチュリーの長広舌にも慣れたものだ。
この知識の探求者は基本的に教えたがりの喋りたがりなのだろうとアリスは思っている。
興味の無い風を装いながらも、できれば自分自身で自律人形を作り上げてみたいのだろう。
ただし、パチュリーはそこまで踏み込んでこない。
何か思うところがあるのだろうけれど、具体的なところは分からない。
勿論、今に至るまでの紆余曲折に理由があるのは間違いないだろう。
しかしパチュリーが本当は何を考えているかなんて分からない。
どこか座りがわるいものを感じるけれど、他人なんてそもそも分からないものだし。
アリスはそう結論すると紅茶を一口含む。
「キスしましょう」
盛大に噴き出した。
「ななななな」
「はい、ハンカチ」
「あああ、ありがと」
「着替えが必要なら小悪魔からかっぱいでくるけど」
「え? いや、別に」
「それにしても、ミスト吹いたらバズソーキックでしょう? お約束は守らないと」
「……閃光魔術でも構わないのよ?」
「あら恐い」
「というか、いきなり何よ」
「不意をついてみたの」
「それだけ?」
「ええ」
澄まし顔で答えると、パチュリーも紅茶を一口飲む。
「パチュリー、キスしていいかしら」
「ええどうぞ」
「……あれ?」
「言われるだろうと予測していれば取り乱さずに済むものよね」
「可愛くないわね」
「だからアリスは未熟者なのよ」
「はいはい」
若干ふてくされた様子で、アリスは自分が持ってきたクッキーを口に放りこむ。
砂糖を控えすぎただろうか。いつもよりも味気ない気がする。
そんなことを考えながら、紅茶で流し込む。
行儀が悪いと思うけれど、すべてパチュリーのせいにしよう。
アリスはそう心に決めると、改めてパチュリーと向かい合う。
「で?」
「え?」
「まさか私に紅茶を噴き出させたかっただけじゃないでしょう?」
「まあ、それもあるのだけれど。素直なアリスは可愛いわ」
「趣味が悪い」
「今更よ」
「で?」
「まあ、話の枕ってところかしら。予想以上にいい反応だったわね」
「地獄に落ちればいいのに」
「魔女が悪魔に魂を売り渡しているのは常識でしょう。私の魂はレミィのもの」
「そうなの?」
「嘘に決まっているでしょう。ああ、新婚旅行は旧地獄めぐりがいいっていう遠回しな催促かしら。気が早いわね」
「そんな意図は欠片も無い」
「新婚旅行は否定しないのね。どこがいいかしら」
「いや、行かないから」
「新婚は否定しない、と」
「そもそも結婚しないって」
「じゃあ内縁の」
「小悪魔に毒されすぎよ」
「逆ね。小悪魔が毒されたの」
「やっぱりパチュリーが諸悪の根源なのね」
「違うわ。家庭の幸福が諸悪の元なのよ」
「初耳ね」
「不勉強よ」
「本の読みすぎ」
「私の個性を根幹から否定されたわ。悪魔であるレミィだってそんなひどいことはしないのに」
「いや、レミリアは吸血鬼でしょう。どう見ても誘惑とかしない肉体派だし」
「あら、レミィはあれでなかなか深窓の令嬢なのよ」
「全然そんなイメージ無いわ」
「ほら、神槍の令嬢」
「ストップ。上手いこと言ったみたいな顔しない。音だけ聞いても分かりにくいわ」
「でも分かってくれたのね。そういうアリスが好きよ」
「……で、本題は?」
「ああ、そうね。意識の話だったかしら。意識の話をするには無意識の話をしなければならないわね」
「ああ、地霊殿の主の妹」
「まあ、関係有るかしら。館の主の妹っていうのはどこも厄介なものなのかしらね」
「ここの場合はまた事情が変わると思うけれど」
「さておき、意識に話を戻しましょう。人の心は意識だけでできているものではないわね。まあ、そもそも心というのが未定義だからあまり意味は無いのかもしれないけれど」
「つまり意識と無意識で出来ている、と?」
「それは正確ではないわ。心は意識と無意識に区別できるかもしれないけれど、そもそも意識、無意識という区別は後付けでしかないもの」
「そうなの?」
「意識や無意識の大半は身体の履歴から出来ているものよ。そして日常的に自覚できる履歴が意識と呼ばれているにすぎない。無意識を超自我が抑圧して意識となって現れる。まあ、とある学者の意見にすぎないけれどね」
「でもよく言うじゃない。コギト・エルゴ・スムって」
「私は考える。それゆえに私は存在する。しかし昔の言葉は間違って伝わるものよ。健全な精神は健全な肉体に宿る、とか」
「違うの?」
「本当は、健全な肉体の持ち主に健全な精神が宿っていたらいいのだが、っていうこと。いつの世にも脳まで筋肉で出来ているような輩は多いっていうことね」
「そうなの。でも我思うゆえに我ありはそうではないでしょう」
「あれは単なる土台に過ぎない。結論でもなんでもないの。私は考えているというのは否定しがたい事実であるように思われる。よってこれを公理として採用し議論を進めよう。その程度のことでしかないわ」
「でも重要でしょう。否定しがたいんだから」
「まあ、土台がしっかりしているに越したことは無いわね。ところで、考えているのは本当に私なのかしら」
「なんで前提をちゃぶ台返しするのよ。考えてるのは間違いなく私でしょう」
「前にアリスは言ったわね。雨が降っているからといって降らせている誰かがいるわけではない」
「まあ、パチュリー辺りが降らせているんでしょうけれど」
「時にはね。いつもじゃないわ。考えているといっても考えている誰かがいるわけじゃないと言って何がおかしいのかしら」
「だって、考えているのは私だもの」
「そうね。“紅茶を噴き出した誰か”は間違いなくアリスだわ」
「もう忘れてよ」
「いやよ勿体ない。ところでアリスは紅茶を噴き出したかったのかしら」
「そんなわけないでしょ」
「ところが紅茶を噴き出した。じゃあ、あなたは誰?」
「私は私よ。あれはパチュリーが変なこと言うから」
「そう。きっかけは私。でも私が噴き出したわけじゃない。あなたがやったことでしょう」
「……それこそ、無意識とかいう話じゃないの」
「そうなのよね。意識していないのに噴き出した。アリスの中にはアリスじゃないアリスがいる、と」
「着ぐるみじゃないわよ。中にちっちゃい私が入っているわけでもないし」
「誰もそんな話はしていない。むしろ解離性同一性障害がどうのこうのという話に近いけどまあどうでもいいわ。人格とか意識とかめんどくさい話ばかり」
「そのめんどくさい部分が問題なんだってば」
「そう。だからめんどくさい話になるけど我慢して頂戴。茶飲み話には向かない話題だけれど」
「いいわよ。慣れたから」
「毒されちゃったのね」
「不本意ながら。で、めんどくさい続きは?」
「人には反射というものがあるわね。反射行動。目の前になにかが飛んできたら目をつむってしまうような。まあ、意識の支配が及ばない領域ね。弾幕ごっこ慣れした連中は目の前に弾が飛んできても目を瞑らないのかもしれないけれど」
「目を閉じていたら当たるもの。ある程度は頑張るわよ」
「私は閉じるわよ。痛いのは嫌だけど失明するのはもっと嫌。ともかく、反射っていうのは無意識の領域ね。でもアリスみたいに反射でさえある程度制御することはできる。噴き出すのを我慢できないアリスでさえ」
「日常的に噴き出すような経験してないから当然よ」
「そう。反射をある程度意識的に制御するのは一般的に“慣れ”と呼ばれているわね。身体の履歴を積み重ねること。ところでまだ慣れないの?」
「生憎と、骨の髄まで毒されてはいないのよ」
「染まってしまえば楽なのに。慣れてしまったらアリスの可愛げが減っちゃうからこのままの方がいいけれど」
「からかってるのね」
「ええ。本気でからかってるわ。アリス愛してる。さて、無意識に属する反射でさえ訓練次第ではある程度意識の領域に属することになるわけだけれど、無意識と意識の区別ってそれほど絶対的なものではないっていうのはいいかしら?」
「そうね。あくまでパチュリーの話に沿って考えれば、だけど」
「それは重畳。ところでアリスみたいに何かを操るような人は、非常に意識が発達している場合が多いわね。人形という自分以外のものを自分の思い通りに動かすためには、どのようにすれば思い通りに動くのかを自覚しなければいけない。人形の動きを意識しなければいけない。つまり人形も自分の意識の下に扱っているわけよ。だから、人形が意図しない動きをした場合には人形に意識があるんじゃないかと思ってしまう。本来人形はアリスの意識の制御下に無ければいけないものだから、当然の発想よね。そういう意味ではアリスは自意識過剰よ。違うけれど」
「前にもパチュリーに言われたわ。人形も含めて私だ。どこまで行っても私でしかない。だから他人を作れないって」
「そうね。だからアドバイスをするなら、エラーを増やしてみたらどうかしら。あなたの意図しない動きが増えるように作ってみたら、ということになるわね。もっとも、そうすると再現性が極端に落ちるからあなたの望む自律人形は作れないことになるけれど」
「んー」
「あくまで一例よ。人間の話をすると、人間というのは諸々の反射や生物学的機構の総体であって、自覚される部分、つまり意識というのはほんの一部に過ぎないの。他の多くは無意識。うちの門番がやっている中国拳法なんかは、そういう無意識の部分をいかに自覚して意識的に動かすようにするかというのが眼目だったりするらしいわ。まあ、拳法に限った話ではないわね。さっき話した通り、アリスのような人形遣いだってそうだから。参考になるかは分からないけれど、帰りに話をしてみたらどうかしら」
「そうね。考えておくわ。でも、自分の意図しないことをするように意図して設計したら、結局私の意図通りでダメなんじゃない?」
「その辺はアリス次第よ。まあ、頑張って」
「投げっぱなしね」
「だって、これはあなたの研究だもの」
「……そうよね。あくまで私がどうにかしなきゃいけないものなのよね」
「全てを私に頼るつもりはないって言ったのはアリスでしょう?」
「そうだったわね」
「ところであの大きい人形は息災かしら」
「人形に息災も何もないでしょう。ちゃんと役に立ってるわよ。じき完成する予定だし。もっとも、あちらを自律させるつもりはないけれど」
「そう。面白そうなのに。でもきかんぼうになたら手がつけられないか」
「あれの制御は外せない。なまじ大きいだけにね。危ないし」
「名前は付けないの?」
「つけないわ。なんだかあれに愛着を持つのはよくない気がするの」
「愛着をもつものを実験体にするのはよくない、じゃないのね」
「パチュリー」
「別に悪いことじゃないわよ。あれはそういう目的で造られたんだから。まあ、愛着を持ちすぎて実験できないのでは本末転倒だけれども。何事も過ぎたるは及ばざるがごとしね」
「そうは言ってもね」
「大きい人形とちっちゃい人形は見栄えがするわよね。ゴライアスとデイヴィッドみたいな」
「戦わせないわよ。何が悲しくてそんな不毛なことしなきゃいけないの」
「心を持った人形は創造主に反旗を翻す。そこに立ちふさがる巨大な人形。私はお前の兄だ。燃える展開じゃない」
「燃えない。っていうか反旗を翻さない。なんでいきなり物騒な話になってるのよ。まあいいわ。そろそろ帰るわね」
「あら、もう?」
「それなりに方向性も見えてきたし、あとは色々といじってみるわ」
「そう。楽しみにしてる。外はまだ雪が積もっているのでしょう。気をつけて」
「ありがとう。次は何かしら進展を報告できるといいわね。じゃあ、また来週」
そう言って、アリスは帰って行った。
「嘘と、幻想と、本当。私はアリスに何をあげたいのかしらね」
パチュリーはそう呟くと、紅茶を飲み干す。
ティーカップをソーサーに置いた次の瞬間、それらはマグカップに入ったコーヒーに変わっていた。
「咲夜も、聞いていたのなら姿ぐらい見せて取り替えて行けばいいのに」
ため息交じりにひとりごちると、パチュリーは研究用のノートを広げる。
先程までの賑やかな空気は消え、さらさらと書き物をする音と時折コーヒーをすする音だけが図書館を支配する。
■□■□■
アリスは家に戻ると真っ先に裏庭にある作業台へと向かう。
図書館へ出かけている間に、巨大な実験体の外装を人形達に取り付けさせていたのだ。
人形といっても外見は人型ばかりではない。寧ろこの空間にはそうでない物の方が多いくらいだ。
どちらかといえば機械と呼ばれるべきそれらは、しかし間違いなくアリスの手による人形である。
自律人形を作る上で調べた知識の副産物ではあるけれど、今やアリスはオートマタ程度ならばさほど苦労せずに作れるようになっていた。
指示してあった工程が全て問題なく終えられていることを確認すると、オートマタを倉庫にしまう。
「お疲れ様。よく頑張ってくれたわね」
しまいながら、思わず口に出してしまった。
自分はオートマタにも意識があるものとして扱っている。
しかしこの子たちに意識があるわけじゃない。
自律人形って一体どういう子なのかしら。
アリスはそんなことをぼんやりと思う。
まだ見たことのない自律人形は、一体どんな子なのだろう。
正確に言えば見たことはある。
メディスン・メランコリーという人形の妖怪には、自律人形を作ろうと決意してから何度か会っているし話を交わしたことさえある。
どう見ても可愛らしい人形でしかない彼女は、しかしあたかも人間であるかのようにものを見て、あろうことか会話までこなす。
しかし彼女は言ってみれば生後数年の赤子に過ぎないのだ。
それなのに、人間の言葉を話し人間の様な意識さえ持っている。
鈴蘭畑という自然が意志を持てばああなるのだろうか。
それ程に、彼女は妖怪らしい。
余りに幼く、人間らしい。
人間の思い描く妖怪らしい。
「さて、この子を作り上げちゃおうかしら」
骨格、筋肉、神経と愚直に作り上げてきたこの人形は、一次外装まで組み上げ上がったところだった。
人間で言えば皮膚を付けたところまで。
つまりまだ服を着ていない状態だ。
「いつまでも裸じゃきまりが悪いものね。雪の積もっている中でこのままって言うのも可哀想だし」
そう言いながら、アリスは納屋からテントの天幕の様な素材の布を取り出す。
あらかじめ台車に載せてあったから一人で運び出せたけれども、そうでもなければアリスが一人で扱える量の布ではない。
人形を総動員してこれを縫い上げた時の達成感と言ったら、それこそ言葉にできないものだった。
アリスの身体を優に超える体積の布の塊を運び出すと、アリスは糸を人形に繋ぎ始めた。
ゆっくりと、しかし確実に巨大な人形が直立していく。
「おはよう、私の娘。いつまでも裸じゃ恥ずかしいでしょう? 目を覚ましたらまずは服を着ましょうか」
無論目の前の実験体に意識があるなどと思ってはいない。
それでもアリスは語りかける。
意識があろうとなかろうと、目の前のこの子は私が作り上げた私の子なのだから。
正確に言えば私とパチュリーだけど、という言葉が脳裏をよぎるが気にしないことにする。
完全に直立した人形が、今度はゆっくりと身をかがませる。
アリスはゆっくりと布の塊から離れた。
人形の手が、布の塊をほどいていく。
裏庭の半分以上を覆い尽くす面積の布は、この人形の為の服だった。
これだけのサイズなのであまり細かいデザインは施せなかったけれど、それでも単に貫頭衣というよりはなんとかワンピースと呼べる体裁になっている。
ウエストあたりから袖になっているドルマンスリーブのワンピースであり、可愛さよりも機能性を優先させたデザインになっている。
なにしろこの人形は、アリスが服を着せてあげることができない。
そこで人形が自力で着たり脱いだりが可能なくらいにシンプルで丈夫なデザインを考えたところ、こうなってしまった。
本当はもっと可愛い洋服がいいんだろうけど、我慢してね。
そんなことを思いながらアリスは人形を操作する。
人形が慎重に布のスカート部分をつまみあげると、両手を服の内側に差し入れる。そうしてできた空間に頭部を突っ込み、あとは服をずるずると引き摺りながら立ち上がり重力を利用して身体を通す。
やはり袖を通す際にてこずったけれども、なんとか服を着た人形という体裁は整った。
「まったく、手の掛かる子だこと」
アリスはそんな軽口を叩きながら人形をベッドに寝かせた。
あんな質量の物体を軽々と扱ってしまえるのだから、この子の動力はすごいものなんだと今更乍らに感心する。
やっぱりこの子はパチュリーと私の子なんだという考えが頭に浮かぶが、気恥ずかしくなってあわてて打ち消す。
今はこの人形が一応の完成を見たという充実感に浸っていたい。
アリスは操るための糸を外すと周囲を片付け始めた。
台車を納屋に戻そうとしたその時、ベッドに寝かせたはずの人形が身じろぎでもしたように体勢を変えた。
具体的には伸びきった足が少しだけ曲がり、揃えていた筈の両腕も少し開いている。
ベッドの上で気をつけの姿勢から休めの姿勢に変わったようなものだ。
「……エネルギーが漏れてるのかしら。パチュリーに調べてもらおうかな」
そう呟くと、アリスは再び片付けに戻ったのだった。
■□■□■
翌日、アリスは再び紅魔館へと向かった。
実験体が一応の完成を見たことを知らせたいし、どうせならついでに五行器の調子も見てくれないかとパチュリーに頼むつもりだ。
いつも通り門の近くに降りると、美鈴が門の前で体操をしていた。
「おはよう」
「おはようございます。連日いらっしゃるなんて珍しいですね。しかもお昼前に」
「うん。ちょっとパチュリーに見てもらいたいものがね」
「そうですか。では、いつも通りに取り次ぎを」
「ああ、そうだ。今度モーションパターン取らせてくれないかしら」
「モーションパターン?」
「ええ。人形の参考にしたいのよ。動かすためにどれくらい力がいるのか、とか」
「あ、大きな人形の方ですか。あれ、でも普通に動くって話じゃありませんでしたっけ」
「動かすだけだったらね。でも無駄な動きばかり多くてもいけないだろうし、効率的な力の使い方を知りたいの」
「じゃあ、一緒に修業します? 丁度套路の最中でしたし」
「套路?」
「型みたいなものですよ。なかなか良い訓練になります」
「型、ねぇ」
「力の出し方を知りたいんでしたら経験した方が早いですよ。動きを真似るだけじゃ、どうしても無駄が出ますからね」
「そう。まあ、参考にはなるかしら」
「じゃあ、早速」
心なしか楽しそうな美鈴に促されて、アリスは持ってきた荷物を一旦近くにいる妖精に預けると美鈴と向かい合って立つ。
「じゃあ、肩幅くらいに足を開いてください。で、掌を上に向けて腰の前くらいにかまえます。息を吐ききって、ゆっくりと吸うのに合わせて手を上に上げていきます。肩まで上がるタイミングで吸いきる感じですね。そしたら掌を下に向けてゆっくり息を吐いていきます。吐くのに合わせて手を下げます。で、腰のあたりまで下がるくらいのタイミングで吐ききります。何回かやってみましょうか」
「深呼吸すればいいのね」
「まあ、そうですね。手の動きを意識して下さい。補助なんですけど、有ると無いとじゃ効果が違います。吐ききるとおへその下あたりに重心が落ちるのを感じると思うんですが」
「ああ、なるほど。丹田って言うんだったかしら」
「よくご存じですね。じゃあ、丹田を意識しつつ呼吸に合わせて重心を上下する感覚でやってみて下さい。自然と腰が落ちる筈です」
「軽く膝が曲がる程度ね」
「ええ。そしたら右足を踏み出して――」
そのまま15分ばかり美鈴と体操を続けたが、アリスはもう息が上がってしまっていた。
反対に美鈴は軽々とこなしている。やっぱり運動不足なのかしら、とアリスは少し落ち込む。
「落ち込むことは無いですよ。重心をゆっくり動かすのは、慣れないうちは大変ですから」
「そう、傍目で分かるくらい落ち込んでたのね、私。まあ、この動きを人形にさせるのは難しそうだわ。足がガクガクよ」
「余計なところに力が入っている証拠です。イメージとしては重心をどう動かすかを意識して、それに逆らわずに動くことですかね」
「拳法ってそういうものなの?」
「全てが、とは言いませんけど。でも重心を落として重力を利用するのが手っ取り早い力の出し方ですね」
「そうなんだ。腕立て伏せとかばっかりやってるイメージがあったんだけど」
「そういうのをやるところもありますけどね。今やった太極拳なんかは力の出し方に眼目がありますから」
「力の出し方ねぇ」
「生身で最大火力を出すためには、重力を味方につけるのが一番です。アリスさんのキックとか」
「ああ、痛いらしいわね。自分では分からないけれど」
「あれかなり脅威です。ブーツですし」
「そんなもんかしら」
「だって考えても見て下さい。50キロの物体が跳んでくるんですよ」
「そんなに重くないわ」
「失礼しました。40キロで」
「まあ、いいでしょう。重力というか慣性だけど」
「でも脅威には違いありません。身体ごと来られるのはかなり厄介です」
「まあ、体当たりは痛いでしょうね」
「そうです。原始的で単純ですが一番痛いのは体当たりなんですよ。避けにくいですし」
「そんなものかしら。マヨヒガの黒猫なんかは体当たりしてくるけどそんなに脅威でもないわよ」
「動きが直線ですからね。まあ、イメージしてもらうのが速いでしょうか」
「ん?」
「おとっつぁんのかたきー」
「……はい?」
「いや、こう、お侍さんに向かって町娘が短刀を抱え込んでどーん、ぐさー、ぎゃー。おーけー?」
「オーケー。で?」
「なぜ刀で切りかからないと思います?」
「女の子が振りまわせる重さじゃないもの」
「そうですね。じゃあ、なんで短刀を振りまわさないんでしょう」
「敵わないからじゃないかしら。受け止められたり振り払われたりしたらそれまで」
「そうでしょうね」
「でも体当たりも受け止められたらそれまでよね」
「そうですね。避けられる可能性もあります。でも一番合理的です」
「なんで?」
「仮に受け止めるとしても、体当たりしてくる相手の手だけを止めるのは難しいものです。避けられても致命的じゃありません。向き直って繰り返せばいいんですから」
「あー、厄介ではあるかもしれないけど」
「か弱い女性が取りうる攻撃手段としてはベストに近いですね」
「弾幕張ればいいじゃない」
「普通の人間は弾幕張れません」
「……ああ」
「アリスさんって、割と抜けてますね」
「隙がある方が魅力的らしいわ」
「わー。かわいー」
「蹴るわよ?」
「すみません。ふざけ過ぎました。まあ、かように体当たりは効率的な攻撃方法なんですが」
「なんで体当たりの話になってるのよ」
「重心の話ですね。体当たりって言うのはざっくり言えば重心をぶつけることです。重心移動に伴うエネルギーをどれだけ効率よく攻撃に使うかっていうのを追求した拳法なんかもありますね。距離が近ければ体当たり、ちょっと離れれば肘打ち、さらに離れれば拳か掌みたいな感じで」
「ああ、そうつながるわけね」
「で、力の出し方を色々と突き詰めて一撃に賭けるとですね」
そう言いながら、美鈴は近くの木に手を当てる。
そこそこの大きさの、枝ぶりの立派な木だ。
夏には心地よい木陰を作り出してくれるだろうが、今は葉の代わりに雪が乗っている。
「ハッ!!」
掛け声とともにどしんと地面を踏み鳴らすと、ばさばさと雪が降ってくる。
「まあ、こんなこともできたりするわけです。冷たいですけど」
「いや、あの……」
肩や頭に乗った雪を払いながら、美鈴はさもないような口調で続ける。
さらさらとした湿っていない雪とは言え、大木に積もっていたのだからかなりの量だ。
腰の少し上まで雪に埋まっている。
「人間だったら今ので死んでるわよ」
「ですねぇ。流石にこんなことは人間相手にやったりしませんよ。人間同士だって下手に殴ると死んじゃいますし」
「いや、雪の話ね。毎年屋根の雪を下ろしてて一人二人死ぬじゃない」
「……ああ、成程」
面倒になったのか、美鈴はぶるっと頭を振ると腰まである雪をものともせずに木から離れる。
「まあ、御覧のように女の細腕でもあれだけの威力がですね」
「あなた妖怪じゃない」
「そうですけど」
「まあ、色々と尋常じゃないってことは理解したわ」
「良かったです。でもやってるのは普通のことなんですよ。イメージとしては、木の板に釘を打ちつける感じでしょうか。藁人形を立木に打ちつけるときだって、五寸釘を握りしめてガンガン叩きつけるよりも、金槌を使ってごっすんごっすんした方が楽ですし無駄もありません」
「ストロードーるわよ?」
「勘弁して下さい」
「まあ藁人形の件は私より地底の橋姫向きの話題だけど、なんとなく分かったわ。生木に素手で釘を叩きつけて刺せるのなんて、神に選ばれし無敵の男くらいのものでしょうね」
「そんな人がいるんですか」
「ユダヤ人にいたらしいわ。現代のサムソンとまで言われた力自慢ね」
「ほう、一度会ってみたいですね」
「死んだわよ。素手で釘を木の板に刺す芸をやってる最中に、手元が狂って自分を傷つけたの。その傷が元でね。力に生きた男は力に倒れるのよ」
「人間ですから、仕方ないですか」
「まあね。ありがとう。色々と参考になったわ」
「いえいえこちらこそ」
「重力と重心が大事なのね」
「無手の極意は、“こかして、踏みつける”ですから」
「まあ、幻想郷だと誰も彼も空を飛んでるから実践の場は少なそうだけれど」
「そうなんですよねぇ」
美鈴はえへへと表情を崩す。
その場でぐっと四肢を伸ばし柔軟体操をすると、門の傍にある小屋からスコップを出して木の周囲に積もった雪を寄せ始める。
「手伝いましょうか?」
「いえ、これが私の仕事ですから。それにパチュリー様もお待ちだと思いますよ」
「そう。色々ありがとう。今度何か差し入れるわね」
「有り難うございます。楽しみにしてます」
アリスは預けておいた荷物を受け取ると紅魔館の門をくぐる。
後ろでは雪かきをする美鈴とそれを手伝う妖精たちの声がしていた。
■□■□■
紅魔館の玄関はいつ見ても威圧感を放っているような気がする。
重厚な造りの扉の前で軽く身嗜みを整えると、ノッカーを扉に打ち付ける。
迎えに出てくるであろう咲夜に渡すためのお菓子を確認すると、クッキーが何枚か減っているようだ。流石は妖精。
気を取り直して今日の用件を整理する。
人形の姿勢について。動力の調子について。素体は一応の完成を見たこと。
少し経って扉が開く。と、そこにいたのは見慣れたメイドの姿ではなかった。
「おやおや、いらっしゃい」
「あ、その。ご無沙汰してるわ」
一介の客に館の主が対応するという想定外の出来事に、アリスは暫く玄関に棒立ちになった。
「入らないのか?」
「……あ。お邪魔するわね。咲夜は?」
「いるよ。今日は丁度起きてたからね。最近夢見が悪くて昼間寝ていられないんだ」
「そう」
「今日もパチェ?」
「ええ。少し行き詰まっていて」
「そう」
「度々お邪魔して迷惑じゃないかしら」
「もしそうならとっくに門番かメイドに止めさせているよ。もっとも、以前一度だけ押し切られたことがあるとは言っていたかな」
「……忘れて頂戴」
「まあ、うちの知識人が慣れない強権まで振るって通しているわけだしね。宜しく頼むよ、人形遣い」
「え?」
「それは差し入れ? いつも美味しく頂いてるよ。ごちそうさま」
「どういたしまして。お口に合って嬉しいわ」
レミリアは舌舐めずりしながらバスケットに手をかけ中を覗き込む。
その様子にアリスは思わずバスケットを渡してしまう。
レミリアは受け取ると、人差し指を唇に添えて品定めをするように中のお菓子に視線を彷徨わせる。
涎を垂らしかねない表情だ。
「お気に召したなら、今度は少し多めに作ってくるわよ」
「それは是非お願いしたいな。しかし週に一度と言うのが残念だね。なんなら」
「泊らないわよ」
「いや」
「住まないわ」
「……そう。なんだかパチェと会話してるみたいだ」
「それは聞き捨てならない発言ね」
「じゃあ言い換えてやろう。無駄に頭が回る人種と会話している気分だよ」
「それは褒め言葉、ではないわよね」
「いや、どうかな。運命があるって分かっているのに裏を読み頭を遣い気を回し手を尽くしてまで抗おうと足掻く辺りは褒めてもいいと思う」
「愈々以て褒められてる気がしないわ」
「無駄に頭が回る人種はね、運命を知っているくせに宿命を信じている。自分の能力で自分が行きたい場所に辿りつけるなんて思っているんだ。自分が到達地点を決められる、って。パチェなんかは因果関係が決定論的世界でなんとかかんとか言っていたけどね。頭脳労働はパチェの領分だから実際に何を言ってるのかは分からない。だけどそれがどう見てもとんでもないことを言っているのはわかるだろう?」
「一体それの何がどうとんでもないのかしら」
「だってそれじゃあ、運命の入り込む余地が無い。そうだろう? もしもこの世が全て宿命の名の下に出来上がっているんだとしたら、私は完全に未来を知ることになる。そんな世界で生きるのが耐えられないことくらい五つの子供だって分かりそうなものだろう」
「かもしれないわね。でも、私は未来を知りたいとも思わないし運命をいじくり回したいとは思わないわ」
「結構。で、勝手に宿命なんてものを作り上げてそいつ相手に抗って見せるわけだ。見上げた根性だ。見下げ果てた性根だけどね」
「あなた、私がパチュリーと会うのが気に食わないんでしょう」
「ああ、気に食わないね。あれはうちの魔女だ。この館に私の望まない宿命なんて持ちこまれたくない」
「私がそれを持ち込んでるって言うの?」
「まあ、ね。半分以上はパチェが呼びこんだみたいなものだけど」
「弾幕ごっこなら今すぐにでも受けて立つわよ」
「ブレインを気取るくせに血の気が多いな。やめておくよ。あそこでおっかない魔女がおっかない目でこっちを見てるからね」
レミリアの視線の先では、図書館の入り口から体半分出したパチュリーがアリス達をじっとねめつけていた。
「パチェ、心配しなくても取ったりしないからそんなに見つめないで」
「何を取るっていうのよ」
「え、お菓子。まあ先にちょっとばかり分け前は貰うけどね。ちゃんと咲夜に渡しておくから」
「あ、ちょっと待ちなさい、レミィ!」
パチュリーが言い終わる前に、レミリアは姿を消していた。
後には舌を出してからかうようなイラストの書かれたカードが残っている。
時を止めたわけではない。単純に物凄いスピードで走っていなくなっただけだ。
「まったく。従者の真似をする主人ってどうなのかしら」
「ユーモアがあっていいんじゃない? 何の意図があったんだか分からないけれど」
「あれはね、運命操作らしいわよ。レミィ曰く。私がアリスのお菓子を最初に食べるように運命を操作して見せるって言ってたわね、そういえば」
「そう。まあ確かにお菓子のことは頭から消えてたわ。そう言う意味では確かに運命通りなのかしら」
「やり口が汚いわ」
「実のところ、最初に食べたのは門番隊の妖精なんだけれどね」
「どういうこと?」
「さっき美鈴と話をしていたときに、預かってもらったのよ。そしたら食べられちゃった」
「何それ。レミィも肝腎なところで格好がつかないわね」
「妖精の悪戯には運命も敵わないってことかしら」
「ロマンチックな言い回しをしても、やってることはただのつまみ食いよ」
「やけに壮大なつまみ食いね」
「さておき、入ったら? 立っててもお菓子は戻ってこないわ」
「そうね。お邪魔するわ」
アリスとパチュリーはそのまま図書館に入り定位置に座る。
すっかり座り慣れてしまった椅子の感触に複雑なものを感じながら、アリスは用件を切り出す。
実験用の素体が完成したこと。予想外の動きをしたこと。五行器の調子を見てほしいこと。
「というわけなのよ」
「そう。五行器の具合は私も気になるから見に行くのに吝かではない。ということで、今度はカスタードパイが怖いわ」
「はいはい。また胃もたれするくらいだだ甘いのを作ってあげようかしら」
「今度の私は一味違うわよ。胃薬完備だもの」
「いつも思うけれど、パチュリーって無駄なところには全力よね」
「失礼ね。興味の赴くままに全力なだけよ」
「つまりパチュリーの興味は無駄、と」
「言葉にされると意外に効くわね」
「まあ、あなたの無駄は私の有益だったりするけど」
「じゃあ早速行きましょうか」
「来たばかりよ」
「そう。じゃあお茶にしましょうか。カップ半分に一杯」
「まあ大概破茶目茶お茶会だけれど」
「大ガラスが物書き机に似ているのは何故かしら」
「“it is nevar put with the wrong end in front.” ってやつね。大ガラスだと花嫁の方かしら」
「前者よ。丁度いいでしょう。アリスなのだし」
「じゃあとりあえず半分のカップをいただこうかしら」
「残念ながら半分のカップは切らしているのよね。a cup of teaで我慢して頂戴」
会話が一段落ついたタイミングで、咲夜がティーセットをワゴンに乗せてやってくる。
相変わらずのタイミングだ。
「カップを切りましょうか?」
「結構よ。カップに一杯いただくわ」
「では」
そう言うと、咲夜は支度を整え立ち去った。
アリスの持ってきたお菓子も、量が半分くらいに減ってはいるが乗っている。
「じゃあ、大きい人形の完成を祝って」
「ありがとう」
パチュリーがティーカップを軽く持ち上げ、アリスもそれに倣う。
「これからしばらくは、自律人形の素体作りにかかることになるわ。また前みたいに来られなくなることも増えると思うけれど」
「構わないわよ。それこそがあなたの研究なんだから。それに、言ってるでしょう。私はあなたの研究が見たいのよ」
「そうだったわね」
アリスは言葉を続けようとして、止める。
紅茶で少し唇を湿らせ、溜息を吐く。
物憂げと言う風ではない。
ある問いを口に出していいものかという逡巡が、アリスの動作を阻む。
口許までティーカップを持っていくが、いつまでも口をつけずに息を吹きかけるている。
そんなアリスの様子を、パチュリーは若干の困惑が混じった表情で見つめていた。
やがてアリスは紅茶を少しだけ口に含み、コクリと嚥下する。
パチュリーの視線は、紅茶で潤った唇ではなく微かに動く喉元に向いていた。
「あら、パチュリー。どこを見ているのかしら」
「いえ、別に」
「今日はキスしてくれないの?」
「何を言うのよ。今までだってしたことないでしょう」
「まあ、そうね」
「なにか言いたいことか聞きたいことでもあるのかしら」
「……まあ、そうね」
「それは、研究に関係あること?」
「まあ、……そうね」
「全自動うなずき機能付き相槌マシーン?」
「いやいや」
「なら本題に入って頂戴、アリス。あなたの質問ならよろこんで答えるわよ」
「ええ。あのね。どう聞くべきかしら」
「いや、それは聞かれても答えられないわ」
「前置きよ。一々話の腰を折らないで。ええと、その。パチュリーは、何故私の研究に協力してくれるのかしら」
「今更も今更な質問ね。それはアリス、私があなたを愛しているからよ、とか、あなたのような前途有望な同業者に対するほんのささやかな投資よ、とか色々と理由は有るけれど。もっと根本的ことを言うとしたら、そうね……。私の興味があなたの目的と合致したから。それが何よりも大きな理由」
「じゃあ聞くけれど、あなたの興味って何?」
「ちょうど今アリスがやっていることよ。生命の様なものの創造とそれにまつわるエトセトラ」
「そう返されると納得するよりないか。嘘は吐いてないでしょうね」
「ええ、誓って。信仰に持ち合わせは無いけれど」
「でしょうね」
「まあ、騙していないかと聞かれたら答えに困るわね」
「相手は他ならぬパチュリーだもの、騙されてあげましょう。魔女相手に完全にフェアな取引が出来るとも思っていないし」
「その評価は不本意だけれど、ありがとうと言っておくわ。ところで聞きたいことはそれで終わり?」
「そうね。パチュリーが本当のことを語ってくれるには私はまだまだ未熟なようだし」
「拗ねないで頂戴。それに、未熟と言うわけじゃないわ。アリスが魅力的過ぎるから言えないのよ」
「愛してるとか魅力的とか、誤魔化しの言葉に聞こえるのは私の性格が歪んでしまったからかしら?」
「違うのよ、私はただ……。ああ、レミィが宿命とか言い出したのはそういうことだったのね」
「なんでそこでレミリアが出てくるのかしら」
「気にしないで。独り言よ」
「気になるわよ。さっきもレミリアから宿命だの運命だの言われたのだし」
「あら、そんな話をしていたのね。じゃあ今日の話題は宿命と運命についてにしましょう」
「ああ、藪蛇」
アリスは諦めたように無抵抗のポーズをとった。
パチュリーの長話は始まってしまうとオチがつくまで止まらない。
パチュリーの声を聞くのは寧ろ好きなので、アリスはいつも通りに相槌を打つ用意をする。
「と言っても、正直なところ宿命については誰の同意を得たわけでもない私の勝手な理解に過ぎないわ。話半分の二割引きくらいに聞いてちょうだい」
「大変。5パーセントしか残らないじゃない」
「それはいつも話半分と言うことかしら。まあいいけれど。そうね、目の前に積木があると思って頂戴。三角柱や四角柱、立方体や円錐なんかが散らばっているわ。それを組み合わせて形を作るとしましょう。アリスは立方体の上に三角柱を横に倒して置いて家と言うかもしれないけれど、レミィは球に円錐を突き刺したり床に板を突き立てたりしてムビエル・ムビエル・ムビエルと言うかもしれない」
「うん。全然分からない」
「でしょうね。めんどくさい理論を導入して説明すればなんとなく形には出来るかもしれないけれど、それはとても面白みが無いのよ」
「つまりレミリアは自由な発想をしているってこと?」
「というよりも、アリスは常識人代表、レミィは非常識人代表で出てもらったのよ。もっと単純化しましょうか。赤ん坊と大人でもいいわ。大人はある程度常識を持っているけれど赤ん坊はそんなことお構い無しよね」
「まあ、ね。情け容赦なしね」
「大人の持っている常識と言うのは、世界はある程度決まった形に沿って動いているというもの。世界を動かす法則があって、物事はそれに従って様々に変化していく。初期状態が与えられた場合世界は計算可能である、みたいな世界よ。その世界では間違いなく宿命が存在するわね。世界は既に常識によって意味が与えられてしまっていて、あとはそれを読み解いていくという感じにね。未来は決定されてしまっているし因果関係も決まっている。決定論的な世界と言うところかしら」
「決定論。その単語はレミリアと話してるときにも出てきたわね」
「そう。じゃあ今度はレミィにちなんで運命の話をしましょう。赤ん坊のみる世界は誰かによって意味付けされたような世界ではないわ。見える全ての物に自分が意味を与えていく世界よ。次に何が起きるかなんて決まっていないし、誰も決められない」
「パチュリーがそういう言い方をするっていうことは、その決定論的な世界と言うのは常識的な世界と言うことね? 分かりやすくて間違った世界」
「まあ、そんなところ。分かりやすくて間違った世界を分かりやすくて間違った説明で表現するとそうなるわ。勿論決定論的な世界はそれなりに有益よ。二手、三手先を読んで行動できるからとても効率がいい。だって宿命だもの、仕方ない」
「じゃあ、赤ん坊の方で出てきた世界が本当の姿ってこと?」
「そうじゃない。世界が本当はどうなっているかなんて分かるわけが無いもの。例えばこの紅茶の色だって、地下にあるこの部屋で見たらこの色でも日光に当てたらもう少し違った色になるかもしれないでしょう? それに、ここの照明を落として暗闇にしてしまったら紅茶の色なんて分からない。さて、どれが世界の本当の姿かしら」
「意地の悪い聞き方。分かったわよ。本当の姿については横に置いておきましょう」
「ありがたいわね。じゃあ、運命の話を続けましょう。そうやって目の前に立ち現われてきた世界しか見えない以上は、世界の本当の姿が持っているであろう意味なんて知りようが無いわね。そもそも世界は意味なんか持ってないし。自分で目の前の世界に勝手につけるしかない。レミィみたいな、他人が見てる世界の意味について考える必要が無い、所謂お嬢様タイプの価値観や言葉の意味が浮世離れしやすいのはそういう理由からでしょう」
「つまり子供なのね」
「そう。五百歳にして超刹那主義者。人間ならかなりの問題児ね」
「いや、五百年生きてる人間がいたら大問題よ」
「それもそうか。まあ、妖怪連中の精神年齢が概ね低めなのもそういう理由からじゃないかしら。他人の見ている世界について無頓着だし、基本的に群れたりしない。悪く言えば自分勝手、良く言えば自由奔放天衣無縫」
「そうなのかにゅう?」
「アリス、どうしたの?」
「いえ、突然口をついて出ただけよ」
「そう? まあいいわ。妖怪連中は大体宿命とか信じてなさそうだし、というか宿命を信じるくらい知能が高かったら相応の振る舞いをするわよね。そこらへんの妖怪や妖精を集めても共同体は作れなさそう。集団行動をしない連中は言葉や意識を発達させる必要もないし。逆に言えば集団の中で行動する必要があるからこそ人間は賢さを求めるのだけれど。賢者と言えば八雲紫。彼女も妖怪と人間の集団の中でああも上手く立ち回るからには相当頭がいいわね。今更だけど」
「八雲紫は宿命を信じているのかしら」
「さあ。宿命を信じる人間がいることは知っているでしょうけど」
「宿命ね。有名なところだと、モータリティの三段論法なんかがそうなのかしら。人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。よってソクラテスは死ぬ。無常ね」
「何かこの世に久しかるべき、よ。様々な命題を組み合わせて一般的な法則を導き出す。つまるところ、世界は一体どうなっているかを探求する人の多くは何らかの形で宿命を信じていることになるわね。より極端に言えば、未来を確信しているのよ。アリスが自律人形の完成を信じているように」
「まあ、普通に考えればそうでしょう?」
「普通に考えれば。対して運命を受け入れるだけの、謂わば妖精みたいなのは、世界がどうなっていようとお構いなし。気分としてはそうね、目の前にこれだけ物があるけれど、それじゃあ、これから世界は一体どう変化していくのだろう。目の前にある世界に対応することを繰り返すだけよ。学習能力が無いのね。非常に純粋で繊細な精神の持ち主だわ」
「気楽なものね。生きてるだけで楽しそう」
「楽しいんだと思うわ、きっと。そう言う意味では妖精は非常に自然に近い存在よ。賢しらに知恵を回すことをしないからあるがままに存在できる。まあ、この館を見れば分かる通りメイドには向かない生き物だけれど。世界がどう変化するか確信している人と世界は一体どうなるだろうかと眺めている人の差ね。それでも一方的に前者が優れているとは言えないわ。それだけ型にはめて物事を考えがちだと言うことなのだから。最悪の場合は単に段取りを踏むだけの機械になってしまう」
「……待って。妖精って言ってるけれど、赤ん坊でも同じよね」
「ええ、多分ね。というより、赤ん坊の方がより自然に近い状態にあるのかもしれないわ」
「ということは……、いえ、じゃあこっち? それとも……」
「アリス?」
「パチュリー、ちょっと書くものをもらえるかしら」
「ええ、どうぞ」
アリスはノートとペンを受け取ると一心不乱に何事かを書きつける。
そんなアリスの様子を見て、パチュリーは満足したような、それでいてどことなく寂しげな表情で紅茶を飲み干した。
そっと音をたてずに席を立つと、パチュリーは自分の工房に入る。
アリスは気付く様子もなく、ひたすらにペンを動かし続けていた。
■□■□■
何時間経ったのだろうか。
ノートの半分以上を構想で埋めたあたりで、アリスははっと我に返った。
そういえばパチュリーはどうしただろうか。
話の途中で突然研究に没頭してしまったのはまずかった。
周囲に姿は見えない。
飽きて部屋に戻ってしまっただろうか。
そう思いパチュリーの部屋に向かう。
図書館から直接部屋に入れるようになっていた筈だ。
ドアの前に立ちノックをしようと手を構えると、ドアには何事か彫ったプレートがかけられていた。
営業時間 9:00~15:00 要アポイント
「アンドリュウウゥゥゥゥ!」
「図書館ではお静かに」
「……あら、小悪魔」
「そんな、小悪魔なんて他人行儀な呼び方はやめて下さいな。いつも通りアイちゃんって呼んでくれなきゃ嫌です」
「いや、一度も呼んだことないし。ていうかそれも偽名よね。まだそのネタ続いてたの?」
「相変わらず容赦ないですね。あ、パチュリー様ならお部屋にはいませんよ。工房で作業中です」
「そう。今何時かしら」
「小腹がすいたので三時くらいだと思います」
「それ、信用できるの?」
「空腹度基準だと的中率は九割超えますよ」
「健康的で結構なことね。パチュリーにも見習わせたいわ」
「健康的なパチュリー様ですか? それは丸い四角とかと同義語でしょうか」
「どちらかというとユニコーンかしら。架空の動物だしね」
「ああ、少女好きですしね」
「いや、それはない」
「失礼しました。少女(※アリスさんのみを指す)好きですもんね」
「いやいや」
「あ、処j」
「そこまでよ」
「はい」
「……やけに聞きわけがいいじゃない」
「いやだなぁ。私はいつでも素直で可愛い小悪魔アイちゃんですよ」
「いや、だから誰よそれ」
「楽しそうね、あなた達」
突然目の前のドアが開く。
「あ、パチュリー様」
「あら、パチュリー。部屋にいたのね」
「正確には、部屋に入ったらドアの向こうから声が聞こえたから開けてみたのだけど」
「じゃあ、私は尻尾まいて逃げますね。お二人ともごゆっくり」
言いながら、小悪魔はそそくさと本棚の陰に消える。
「尻尾まいて逃げるなら、ついでに耳も付けてくれないかしら。猫耳とか。にゃあ」
「アリスも猫の方が好き?」
「えっと、それは何と比べてかしら」
「え? アリスさんネコなんですか?」
「いいえ、人形遣いよ」
「……そうですか」
「というか小悪魔、あなた仕事に戻ったんじゃなかったの?」
「いえ、なんとなく面白そうな気配を感じて」
「そう。ところで禁書解読と魔界生物の駆除、どっちをやりたいかしら」
「ほ、本棚を整理してきますぅ」
今度こそ小悪魔は本棚の向こうへと去って行った。
「ところで」
「にゃに?」
「……なんで猫っぽいのよ」
「猫度が高い方が好きかと思って」
「ななめななじゅうななどのならびでなくなくいななくななはんななだいなんなくならべてながながめ」
「にゃにゃめにゃにゃじゅうにゃにゃどのにゃらびでにゃくにゃくいにゃにゃゲホゴホッ」
「ちょっと、大丈夫?」
「無理させておいて心配するなんてヤクザの手法ね。いやらしい」
「そんな意図は欠片もないわ」
「まあさておき、御覧の通り私の猫度はかーなーりー高いわ」
「いや、今のどこに猫度アピールがあったのかとてつもなく謎だけれど」
「さあ愛でなさい。構いなさい」
「ああ……、うん。突然研究に没頭してパチュリーをほったらかしたのは謝るわ。ごめんなさい」
「別にいいのだけど。私もよく同じような事をするし」
「不条理ね」
「いいのよ。で、その様子だと何かいいことを思いついたのかしら」
「ええ。筋道だけはなんとなく見えた気がするの」
「それは結構。立ち話もなんだから、向こうで座って話しましょうか」
「ええ、そうね」
二人が机のある辺りに戻ると、丁度咲夜がティーセットを片付けているところだった。
「ああ、丁度いいわ。咲夜、私にコーヒーを」
「じゃあ私ももらえるかしら」
「あら、アリスもコーヒーを飲むのだったかしら」
「ええ、偶には」
「畏まりました。豆はいかがいたしましょう」
「モカで。アリスは?」
「同じもので」
「では、少々お待ちください」
そう言うと、咲夜はワゴンにティーセットを乗せて消えた。
パチュリーとアリスは互いに定位置に座る。
暫くすると、コーヒーカップをお盆に載せて咲夜が現れた。
「いい香りね」
「コーヒーはモカが好き。この香りがね」
「お砂糖とミルクはどうしましょうか」
「置いておいて頂戴。適当にやるわ」
「畏まりました」
そう言って咲夜は消える。
「それにしても、この館にもコーヒーってあるのね」
「ええ。飲むのは私だけだけれど」
「我儘なのね」
「魔女ですもの。さて、何だったかしら。ああ、アリスのひらめきについてだったわね」
「そう、私にいい考えがある」
「それは失敗するフラグらしいわ」
「やめてよ、縁起でもない」
「で、何をひらめいたのかしら」
「指針と言うか、ただの“べからず集”なのだけれどね。人形が最初から私と同じように世界を見ることがないように、ってところ。でしょう?」
「なんで私に聞くのかしら」
「だって、パチュリーがそう仕向けたんでしょう。私がそういう発想を得るように」
「まさか。人の心を操るなんて、少ししかできない」
「で、正解?」
「まあ、概ね」
「成程。じゃあこの方向で進めていけばいいわけね」
「補足させて貰うと、因果関係こそが幻想。人間の認識は因果関係に縛られている。人間の認識は幻想に縛られている。人間のように考えさせたいのなら、現実に則さない認識を組み込まなければいけない」
「でも、最初から幻想を与えてはいけない」
「そう。やっぱりアリスは頭がいいわね」
「かなり引っ張って貰った気がするけれど?」
「それでも最小限よ。手取り足取り教えたりはしていない」
「まあ、パチュリーは優しいものね」
「唐突にそういうことを言わないで。喘息の発作を起こすわよ」
「……脅されてるのかしら」
「さて、色々とアリスが閃いたみたいだし、これで研究も完成かしら」
「まだよ。これから試行錯誤の日々が始まるわ。宿命を暴きだしてもそれが真っ当に機能するかは運命次第だもの」
「そうね。運命なんていう物事を変化させる力はとても気紛れだものね」
「変化の力、ね。易もそんな感じだったかしら」
「そう。物事の変化が易の本質。ある程度の指針はあるけれど、あれも運命を前提にして宿命を読み解いているわ」
「そうよね。宿命なしでは人は生きられないけれど、運命なしではまともに存在すら出来ない」
「両方を受け入れる、というか、運命を忘れない、というところかしら。人形にいきなり宿命を押しつけてはいけない。勿論、生物としての反射や自己保存なんかは無いとそもそもただの物に過ぎなくなってしまうのだけれど、その辺の生物学的な事はアリスが知ってのとおりね」
「そうね。インプットとアウトプットは確保して、更に内部処理を変化させていく、と。ところでパチュリー」
「何かしら」
「今度はちゃんと質問するわね。答えて頂戴」
「ええ、なんなりと」
「あなたは、どうして自分で自律人形を作らないのかしら」
その質問に、パチュリーは押し黙る。
視線を彷徨わせるが、何を見ているわけでもない。
アリスは砂糖壺から砂糖を三杯コーヒーへ入れ、かき回した。
少しだけミルクを垂らす。
ミルクとコーヒーが混じりあい複雑な模様を表面に描いたころ、カップを持ちあげ啜る。
その間も、パチュリーは何も答えなかった。
アリスはさらに続ける。
「私にこれだけ筋道を示すことのできるパチュリーが、まさか作る技術が無いなんて言わないでしょう? 確かに私よりも指先が器用ではないのかもしれない。だからって、面倒だから私に全部作らせようとするような性格じゃないでしょう? いえ、寧ろあなたなら私よりもずっと上手に人形の人格面について作り上げられる筈よね。分かっているんでしょう? もうこれは私一人の研究なんかじゃない。なのにあなたは、これは私の研究だからって言う。私とパチュリーの共同研究じゃないって言う。何があなたをそんなに頑なにさせるのかしら。確かにパチュリーに比べれば私は何も知らない若輩者かもしれないわ。だけど、もういいんじゃない? いくら私が未熟者でも、そろそろ本当のことを教えてよ!」
語気を荒げたアリスは、暫く肩で息をしていた。
その様子を見て、パチュリーはますます逡巡する。
しばらくアリスを見つめていたかと思うと、口を開こうとしてやめる。
そしてまた視線を逸らし、しばらくするとアリスを見つめ、そして何事か言いかけるが結局何も語らない。
そんなことを何度か繰り返すうち、アリスはとうとうしびれを切らして立ち上がる。
「アリス、待って」
「……ええ、待ちましょう」
「その、呆れないで聞いてほしいのだけれど」
「……聞きましょう」
「その、ね」
「……」
「きっと気分を害するでしょうけど、最後まで聞いてちょうだい。本当は私だって、アリスとの共同研究だって思っているわ」
「だったらなんで」
「これは私の実験だったんだけど、そう、何て言えばいいのかしら。私の概念があなたの中でどう育っていくのか、観察していたの」
「え?」
「アリスという母胎に種を植え付けたらどんな実を結ぶのか、と言うことなのだけど」
「……そう」
「つまりは私の欲望ね。あなたのconceptionに興味があったの。でもそれを観察するからには建前上あなた一人の研究でなければいけない。アリスに知られてしまっては実験にならないもの」
「……そういうこと」
「許してほしいとは、今更言えないわね。だけど私は何よりあなたに呆れられ、嫌われるのが怖かった。一方的に私の勝手に巻き込んで置いて今更何を言っているのかと思うかもしれないけれど。アリスは賢いものね。隠し通せるとは思っていなかったけど、全部終わるまではもつと思ったのに」
しばしの間、沈黙が空間を支配する。
視線を落とし、じっと立ちつくすパチュリー。
そんなパチュリーに向かって、アリスは口を開く。
「それがどうしたの」
「……え?」
「言ったじゃない。最初から魔女相手に公平な取引が出来るとは思ってないって。人魚姫が脚を貰って声を奪われるのに比べたら、ずいぶんと良心的な価格設定よ。寧ろパチュリーに利益があるのか疑問に思うくらいね。いいでしょう。これから創る子は、私とパチュリーの子供よね。時が来たら産むと言ったじゃない。産んで見せるわ」
「……そう。ありがとう」
「ああ、でもしばらくは来られないわよ。流石にかかりきりにならないと完成はしないでしょうから。そうね、半年くらいかしら。その間ここには来ないわ」
「そう。成功を祈るわ」
そう言うと、パチュリーは薄く微笑んだ。
僅かに口の端が緩み、全身に張り巡らされた緊張が解ける。
アリスも表情を崩し、椅子に座り直した。
「さて、言うことがあるなら今聞きましょう。何かある?」
「……そうね。名前はエイダがいいかしら」
「エイダね。またなんで?」
「ベクターキャノンとか撃てそうじゃない」
「独立型戦闘支援ユニット!?」
「まあ、本当は別に理由があるのだけれど」
「じゃあそっちを言いなさいよ。なんで基本的に隠し事をするのかしら」
「そういう性格だからとしか言いようが無いわね」
「で、本当のところは?」
「Autonomously Developing Artificial Intelligence 自律発展型人工知能。略してADAIだけれど、エイダの方が可愛いじゃない」
「可愛い、ねぇ。パチュリーがそういう言葉を使うのは珍しいわね」
「何を言うのよ。アリス可愛いっていつも言っているわよ。心の中で」
「聞こえないわ、心の中じゃ」
「そう。残念ね」
「ええ、残念。じゃあ、また半年後に」
「そうそうアリス、これを渡そうと思っていたのよ」
そのまま立ち去ろうとしたアリスをパチュリーが呼びとめる。
その手には何やら透明な結晶を持っていた。
「ん?」
「五行器の小型版、と言えるほど性能は良くないけれど。サイズ比を考えればこれでも十分動くはずよ。尤も、定期的に魔力を補給しなければいけないけれど。補給はアリスでも出来るようになっているから」
「……さっきまでこれを?」
「ええ。以前から暇を見て取り組んでいたのだけれど、やっとね。使って頂戴」
「これが無いと完成しないわよ。ありがとう、パチュリー」
「じゃあ、期待してるわ」
「待ってて頂戴。絶対に作り上げて見せるから」
そう言うと、アリスは帰り支度を始める。
「完成を祈っておきましょうか。何に祈るかは分からないけれど」
「神綺様にでも祈っておいて」
「あら、アリスってばマザコンなのかしら」
「……やっぱりいいわ」
「じゃあ、遠近自在エネルギー法で祈っておくから。ルヒタニ様あたりに」
「いらないわ。ていうか誰?」
「さあ。この魔術書によればリンパ腺で交信できるらしいわ」
「妖しいことこの上ないわね」
「じゃあアリス、またいつか」
「……ええ。完成したら真っ先に知らせるわ」
「楽しみに待っているわ」
「じゃあね」
支度を整えたアリスは椅子から立ち上がり、軽く手を振る。
パチュリーもそれに応えるように手を上げる。
アリスはそのままドアの方へと歩いて行く。
静かにドアノブを回すと、アリスはそのままドアの向こうに吸いこまれるように消えた。
パチュリーは、もはや温くなったコーヒーを一口啜る。
「……あ、五行器どうするのかしら。まあ、困ったら連絡が来るわよね」
きっと困ることは無い。
だって、五行器から魔力が供給されている以上は人形は自然な体勢をとるように動くはずなのだから。
それくらい、今のアリスならあっという間に解決してしまうだろう。
そんなことを考えながら、残っているコーヒーを一気に飲む。
「やっぱり苦い」
そう呟きながらも、パチュリーの表情は嬉しそうだった。
■□■□■
・蛇の足・
外では蝉が喧しく鳴いている。
いかに緑が深い魔法の森といえども、夏場ともなれば日差しも差し込むし気温も上がる。
アリスは蒸し暑い空気に耐えかねて家中の窓を開け放つと、屋根に向かって水を撒き始めた。
昨夜からずっと作業にかかりきりだったのだが、先程やっと最後の仕上げが終わったところだった。
作業中は然程不快感を覚えることが無かったのだが、一度集中が切れるとどうにも気持ちが悪い。
何より、一週間前から居着いた居候が蒸し暑くて敵わないとせっついてきていた。
「アリス、暑いわ。雨を降らせてもいいかしら」
「そんなちょくちょく天気をいじってたら、そのうち巫女に退治されるわよ」
「私は構わないけれど」
「私が構うのよ」
「そう。なら仕方ないわね」
「パウンドケーキを焼いておいたから、それでも食べて待ってて。私はちょっとシャワーを浴びて来るから」
「なんだか餌を与えられる愛玩動物の気分だわ」
「あら、違った?」
「ここ数日については反論のしようが無いわね」
「というか、なんだって完成もしてないのに押しかけてきたのかしら」
「半年経っても音沙汰が無かったもの」
「確かに半年とは言ったけど、きっかりその通りに出来上がるわけが無いじゃない」
「だって半年よ。半年もアリス無しで耐えたのに。それはもう、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んだわ」
「そして無様に負けたのね。まあ来てくれたのは嬉しかったけれど」
「で、具合はどうなの?」
「上々。一息ついたら起こすつもり。パチュリーに仕込まれてから十月十日どころではない時間が経ってしまったけど、今日があの子の誕生日よ」
「仕込むとか、何それいやらしい」
「そうでしょう? conceptがconceptionなのだし」
「ところで、立ち会ってもいいかしら」
「どうぞ。そもそも、それが目的でしょう?」
「それも目的なのよ。何よりもアリスに会うために来たのだから」
「そう。じゃあ、シャワー浴びて来るわね」
そっけなく言うと、アリスはリビングから出て行く。
やがて訪れた無音の中、時折水音が聞こえる。
パチュリーは手持無沙汰に耐えかねて持ち込んだ本を開く。
いつもならすぐに本の内容に集中してしまえるのだが、今はあれやこれやと気が散ってしまいすぐに本を閉じた。
出産の時の男親の心境はこういう物なのだろうかと考え、苦笑する。
何も本当にアリスが子供を産むわけではない。
分かっていても、やきもきしてしまう。
そして、自分が最早何も出来ないことさえ理解しているのに、こうして立ち会いたいと思ってしまっている。
「重症よね。今更だけど」
「怪我でもしたのかしら」
いつの間にかアリスがシャワーを終えて戻ってきていた。
そんなことにも気がつかないくらい動揺しているのだと気付き、パチュリーは溜息を吐く。
「いいえ。お医者様でも草津の湯でも、という具合に重症なだけよ」
「そう。正直妬けるわね」
「は?」
「そんなにあの子のことが気がかりなのかしら。大丈夫よ、私の腕は確かだし、あなたのアドバイスも間違ってない。きちんと目覚めるわ」
「あのねぇ」
ぐったりと、椅子に身体を全て預けてしまうくらいにぐったりと、パチュリーは脱力する。
「一遍はっきりさせておいた方がいいと思うのだけど、私はアリスのことを考えてこうも落ち着かない気分でいるの。そりゃ確かに自律人形は気になるわよ。でも、それ以上にあなたのことばかり考えるわ。そこのところ、どう思っているのかしら」
「……そりゃ、嬉しいわよ。私だってパチュリーのことは、その、好きだもの。でも、共同研究の結果は大事でしょう?」
「大事よ。でもそれはアリスだから大事なの。心ぐらい読んで頂戴」
「無理難題よね、それ」
「まあ、さとり妖怪でもない限りはね」
「信じていいのよね、パチュリーのこと」
「勿論よ。アリスに誓って」
「それは誓いとしてどうなのかしら。……まあいいわ。私もパチュリーを信用しているもの」
「ありがとう」
「どういたしまして。じゃあ行きましょうか、パチュリー。娘の目覚めよ」
「……パチェ」
「え?」
「パチェと、呼んで頂戴」
「……ええ、行きましょう、パチェ」
手を取り合って、リビングを出、工房のドアを開ける。
人が一人横になれるだけの大きさの作業台の上には、人形が一体横たわっていた。
まだ服は着ていない。
胸のあたりに、こぶし大の隙間が空いている。
アリスはゆっくりと、横に置いてあったトレイの中から小型五行器を取り出す。
胸の隙間に丁度おさまるサイズのそれを慎重に差し入れ、慣れた手つきで人形の胸を縫い合わせた。
五分、十分と何も起こらずに時間ばかりが過ぎて行く。
やがて十五分ほど経ったあたりで、人形の関節がゆっくりと曲がっていく。
同時に瞼が開き、その裏から水晶で出来た瞳が覗く。
その瞳が、アリスとパチュリーを捉えた。
人形が口を開き、何事か声を発しようとする。
しかし、使いなれていない器官を無理に動かしても、はっきりとした声にはならない。
アリスは動こうとする人形を手で制し、頭を撫でた。
そのまま頬に手を添え、水晶の瞳を覗き込むとゆっくりと口を開く。
「おはよう、エイダ。私があなたのママよ」
「じゃあ、私がお父さん、になるのかしら?」
「どうでもいいわよ。私はアリス。こっちがパチュリー。宜しくね」
「ところで、この子言葉は分かるの?」
「いいえ。声の出し方だってこれから教えるのよ」
「……まあ、こういうのは気分よね」
「ええ。気分は大事よ」
「そうね」
「歩き方はおろか立ち方も覚えさせないといけない。先は長いわ」
「それでも、まずは祝わせて頂戴。アリス、おめでとう」
「ありがとう、パチェ。愛してる」
「ええ、アリス。愛してる」
二人は抱き合うと、どちらからともなく口付ける。
互いのぬくもりを感じながら、暫く離れることは無かった。
作品集57『七曜×七色≠七(曜×色)』
作品集69『図書館を出よう!』
の続きです。
前作をお読みになったことのない方は、そちらを先にお読み頂くと諸々分かりよいと思います。
また、
ジェネリック45『夢見る人形』
ジェネリック47『悋気応変』
となんとなく関係が有ったり無かったりしますが読まなくても問題ありません。
前作と合わせるとそこそこの分量がありますので、時間のあるときにでもお好きな飲み物を用意してどうぞ。
多分結構な分量の「俺設定」が含まれます。許せる方のみお読みください。
文中の無駄知識はあまり信じない方がいいです。
問題なければ、このまま下へどうぞ。
暗闇で満たされた部屋に、一人の魔女が立っている。
呼吸を整え、部屋の中心に置かれた寝椅子に身体を預ける。
ゆっくりと瞼を閉じ、視覚を閉ざす。
それだけでは外界と隔絶されない。
寧ろ視覚以外の感覚がより鋭敏に外界を描き出す。
身体を預けた寝椅子の感触。
香炉から匂う場を支配する香り。
呼吸と鼓動、血管を流れる血液の音。
自分の唾液の味。
それらが、自分がここにこうして存在することを示している。
その上で、徐々に身体から緊張を取り除いてゆく。
両手、両足をだらりと弛緩させ、四肢の感覚を意識から切り離す。
椅子と一体化したかのように、身体が深く沈んでいく。
自分の身体と椅子との境界をじわじわとぼやけさせる。
自分が何処にいるかを曖昧にする。
鼻から息を吸い、鼓動に合わせて口からゆるゆると吐き出す。
吐き出すという意識さえも薄れさせ、呼吸をしていることも忘れるように。
心臓が動き、血が血管の中を流れていく。
その音も聞こえなくなる。
聴覚をも意識から落としていく。
部屋にはあらかじめ焚きしめておいたアロマの香りが満ちており、呼吸のたびに仄かに感じられる。
それも、じきに感じなくなる。
嗅覚も断たれる。
味覚も既にない。
そうして、意識だけが浮かび上がる。
部屋という区切られた空間と、意識とが一体になる。
意識の中で、自らを中心に円を描く。
円上に点を一つ。
一つでは何も起こらない。
円の上を任意に動かしてみたところで、ただ一つの点に過ぎない。
点をもう一つ加える。
円上に任意の二点を取ると、線分が取れる。長くなったり短くなったりするが、それだけ。
さらに点を加える。
三点を結んで三角形が出来上がる。様々な三角形を作ることができる。
正三角形、二等辺三角形、直角三角形、その他諸々。
ただそれだけ。
もう一つ、点を加える。四角形になる。
点と点との関係が複雑になり、三角形の時よりも「点と点とを結ぶ」行為の持つ意味が豊かになる。
対角線をとる事が出来る。しかしそれは四つの点に対して二つしか取れない。
さらに点を加えて五角形。
点を一つ飛ばしに線を引いていくと、五芒星、ペンタグラムになる。
円上の五点に対して、円に依存しない閉じた輪が新たに出来上がる。
円を相生、ペンタグラムを相剋として五行の見立てが完成する。
一点を木行に見立てると、次々と属性が決まる。
点でしかなかったものが意味を持つ。
そしてそれぞれの点を円から取り出し、独立した点として配置し直す。
部屋の壁は東西南北それぞれに対応している。
東に木行、西に金行、南に火行、北に水行、中央に土行。
こうして魔術を扱う基礎的な場が出来上がる。
可能ならばさらに八点を八卦に見立て配置してさらに場を盤石なものにするのだが、今から行う儀式はそこまでの土台を必要としない。
さて始めようかと意識を集中したとき、ずしんという地響きを身体が感じる。
切り離したと言っても観念的なものに過ぎず、意識が肉体と分離しているわけでは無い。
肉体と精神は不可分なのだから、叩かれれば痛いと感じる。
精神は肉体に影響を受けざるをえない。
だからこそ事前にきちんとした準備をしておかなければ、ここまで整った場を作ることはできない。
それが、誰かの手によって乱された。
ゆっくりと寝椅子から起き上がり、パチュリー・ノーレッジは忌々しげな表情で騒ぎの元へと向かう。
■□■□■
部屋から出たパチュリーが目にしたのは、倒れた本棚とそれらを直している咲夜だった。
「にゃあにゃあ」
「何をしているのかしら?」
「見ての通り、本棚を元通りに直していますわ」
「いや、鳴き声よ」
「猫度でも上げようかと思いまして」
「何があったか大体想像はつくのだけれど、小悪魔はどこかしら」
「鼠にやられて不貞腐れています」
「あなたもあれを通したわけね」
「駆けつけたらこの有様でした」
「逃がしたのね」
「ですから叱られる前に猫度を上げています」
「それは泥棒を捕えてから縄をなうようなもの。捕えてないけれど。で、騒ぎの張本人はもういないわけね。本格的にネコイラズの導入を考えるべきかしら」
「狡兎死して走狗煮らるとも言いますわ」
「あなたの為にあの鼠を放っておけって? レミィは苦難を供に出来て安楽を供に出来ないような性格では無いから心配いらないわよ。それ以前に鼠も取れない狗じゃ、煮られるのは時間の問題ね」
「では狩って参りましょうか」
「それは無用の騒動のもと。いいのよ。あの方向に用が無いでもないのだし」
「取り返しにいらっしゃるのですか? でしたら……」
「取り返しはしない。元々持っていかれた本に火急の用があるわけでなし。何より、無用な騒ぎを呼び込みたくない」
「静かなのがお好きですか」
「そうね。さっきも儀式の邪魔をされて迷惑だったわ」
「でしたら態々邪魔をせずに本だけ持ちかえらせましたのに」
「それとこれとは話が別よ。狗は狗らしく邪魔者を追い払いなさいな」
「わんわん」
「なんで鳴くのよ」
「猫より犬の方がお好みのようなので」
「鼠を捕るならどっちでもいいわ」
「では、わんわん」
「鳴いても犬度は上がらない」
「そうですか。残念ですわね」
「文句を言われたくなければ侵入者を静かに追い返しなさい」
「仰せのとおり人形遣いは追い返しておきましたが」
「そっちは通してもいいのよ。客なのだから」
「人間差別ですわ。明日は我が身かしら」
「あなた種族メイドでしょうに」
「恐れ入ります」
「今日はコーヒーにして頂戴」
「儀式は続けないのですか」
「荒れた場で失敗したものを無理に続けたら何が起こるか分かったものじゃない。場が鎮まるまでおあずけよ」
「かしこまりました。それと、お嬢様が久しぶりにお茶に付き合うようにとの仰せでしたが」
「そういうことは早く言いなさい。あ、でも私の分はコーヒーね。ここの片付けは小悪魔に任せましょう」
「では、失礼致します」
そう言うと咲夜は歩いて図書館を出て行った。
扉が閉まると同時に、本の山の陰から赤い髪の少女が出て来る。
「消えないなんて過労かしら。あなたも、あまり咲夜に負担をかけないようにね」
「ううう、でもですよ……」
「まあ、無理をしてまでとは言わないわ。魔理沙も弾幕ごっこに関しては相当だもの。だから、口八丁の舌先三寸でどうにかなさいな。得意でしょう?」
「人を騙すのは気が引けて……」
「あなた悪魔でしょうに。メフィストフェレスとか有名じゃない」
「王さまと平民を比べないで下さいよぅ」
「とりあえず、片付けは任せたわよ。適当にやっておいて頂戴」
「はいぃ」
羽根と尻尾をしょぼんと垂らしながら、小悪魔は本を拾い集め始めた。
パチュリーは衣服を整えるために自室に戻る。
儀式の名残を引き摺ったままお茶をする気分にはなれないし、何より服には香料の匂いが染みついていた。
鼻の利く友人のことだ、このまま向かったら何事かからかわれるに違いない。
クローゼットに吊るしてある似たような服を見繕い、手早く着換えるとテラスへと向かうことにした。
■□■□■
テラスに出ると、レミリア・スカーレットが待ちかねた様子で紅茶を飲んでいた。
態々冬にテラスでお茶会も無いだろう。急に用意をさせたのか、ガーデンテーブルの周囲にはまだ雪が残っている。
有能なメイド(咲夜のみを指す)も大変だ。
冬の乾いた空気が肌を刺すが、風もなく特別凍えるほどではない。
強烈と言うほどではないにせよ太陽の自己主張も強い。
そんな陽光に対してパラソルだけでどうにかなっているのだから、日光に弱いなんて嘘をいつまで吐き続けるのだろう。
照り返しだって馬鹿にならないのに。雪焼けしても知らない。
パチュリーはそんな事を考えながら支度の整ったテーブルに向かった。
向って右側にはパチュリー用だろう、椅子が用意してある。
色素の薄い瞳に見つめられながら、殊更急ぐ様子も見せずに席に着く。
「寒いわね」
「遅かったじゃない、パチェ。凍えるかと思った」
「そんなにひどく寒くもないでしょう。食事のときにでも言付けてくれたら待たせることも無かったのだけれど」
「それはいつの食事? 今日は儀式の準備で顔を見せなかったし、昨日はそれの下調べだったっけ。魔女の友人を持つと約束一つ取り付けるのに何日かかることやら」
「悪かったわよ。レミィこそどうしたの。何日かかけてもお茶に呼ぶのがいつもなのに」
「急に友人とお茶をしたくなったの。不穏だし」
パチュリーが席に着くと、いつの間にかコーヒーが用意されている。
見ると咲夜が傍に控えていた。
いつものことだ。
「不穏、ね。何かあるのかしら」
「何かあるから呼んだのさ。分かっているんでしょう、パチェ?」
「何か良くない運命でも見えたのかしら」
「私にとっては好ましくない運命が」
「やけに奥歯に衣を着せた物言いね」
「奥歯どころか八重歯まできっちりおめかしさせたくもなるよ。ねえ、パチェは私の友人だよね」
「何を今更。わたしはレミィに囲われているもの。お妾さんと言ってもいいわね」
「茶化さない。いや、大して間違ってはいないのか。ともかく私の友人の運命が、私の望まない方向に絡めとられているの」
「難儀な友人を持ったのね」
「分かっているでしょ。あなたの運命と人形遣いの運命とがどんどん縒り合されていっているの。綯い交ぜになっている」
「自律人形の研究をしているんだもの。一緒に物を作るってそういうことでしょう」
「そうやって自分を欺くのか? そうだとしたら、人形遣いをこの館へ招くことは金輪際許可しない」
「レミィ」
「あれは魔法の森の人形遣いで、パチェはこの館の魔女なの」
「レミィ」
「このままだとパチェはこの館の魔女ではなくなる。流れるべき運命が淀み凝り固まって行く」
「レミィ、レミィ、レミィ。落ち着いてちょうだい」
「どうでもいいけど何回も呼ばないで。嫌だわそれ」
「でしょうね。話を聞いてくれる気になったかしら」
「元から聞く気はあったって」
「じゃあとりあえず聞いてちょうだい。私はこの館から出て行く気なんてない」
「当然。そんなことは許さない」
「なら、何が不穏なの」
「パチェの好きなアレだよ。定まっていないものに定めを与えたらダメになっちゃった」
「荘子ね。別に好きなわけではないけれど。混沌に七穴を掘ると混沌は死んでしまったってお話ね」
「このままでは、私の望まないdestinationが定められてしまう。望まれないdestinyというやつだよ」
destinationは目的地、定められた場所。そこへ向かう過程がdestinyならば、宿命とは定められてしまったことに他ならない。
fateは運命のうねり、fortuneは女神の気紛れ。destinyは定め。
運命を操るレミリアが、よりにもよって宿命と言いだした。
どうやら本当に尋常じゃない事態だと、パチュリーはほんの少し姿勢を直す。
「宿命だって? 私達の研究がもたらすのがそんな未来?」
「なら聞くけれど、パチェの目的地はどこ? あの人形遣いが研究を完成させたらどうするの?」
「それは……」
「幸せな家庭でも築くのか。それとも今まで通りにここであの人形遣いを待ち続け短い逢瀬を重ねるか。いっそ紅魔館に取り込むか――」
「レミィ」
「パチェ、私はこの紅魔館の当主だ。そして彼女は魔法の森の人形遣い。このままなら破綻は確実。この私が保証するよ」
「まるでロミオとジュリエットね。キャピュレット家とモンターギュ家を一人でこなすなんてレミィも大変」
「それならそれでもいい。だったらパチェも分別の付かない小娘ではないのだから聞き分けてほしいものだよ」
「ええ、ええ。そうね。十歳そこそこの小娘みたいな真似はしない」
「あれ、そんなに若かったんだっけ」
「そうよ。確か戯曲では十三歳だったかしら」
「若いというより幼いな」
「レミィも見た目は幼いじゃない」
「失礼な。これでも五百年以上の時を閲した誇り高き吸血鬼だ」
「ええ。その姿で私の五倍以上生きているのだから不思議なものよ」
「ちなみにパチュリー様も私の五倍以上生きてますわ」
「え?」
「え?」
「……」
咲夜の突然の発言に固まるパチュリーとレミリア。
やがて、何もなかったかのようにレミリアが喋り出す。
「ふうん。年齢だけ見れば白黒や巫女くらいのものかしら。じゃあそれなりに分別もついていたのかな」
「ついてないからあんなことしたのよ。というか、白黒も紅白も分別なんてついてないでしょう」
「そういえば、今日も来たって?」
「ええ、おかげで儀式が駄目になった」
そうぼやいて、パチュリーは用意されていたコーヒーを一口すすった。
程よい苦みと酸味、そして自己主張の強い香りが気分を切り替えさせる。
「うええ。パチェはよくそんな苦いもの飲めるな」
「意識をはっきりさせたいときや思考を持続させなきゃいけない時は役に立つのよ」
「どちらも縁がないな。あれこれと考えるのはパチェに任せたよ」
「どちらかといえば肉体派だものね」
「そう。小難しい事を考えないといけないのは面倒。どうすればいいかくらい考えなくても分かるじゃないか」
「それはあなただからよ、レミィ。“世界は偉人の水準で生きることはできない”という言葉もあるのだし。いや、この場合は十人十色とでも言った方が正しいかも」
「考えるのに脳がいらない種族だからね」
「気楽なものね。ここは幻想郷なのだし当然かもしれないけれど」
「そう。幻想郷様様ってね。ところでうちの魔法少女はどうしているかな」
「最近は魔理沙が物盗りがてらに遊んでいくので退屈はしていなさそうですわ」
「違うわね。遊ぶついでに盗んでいくのよ。忌々しい」
「行きがけの駄賃ってやつだな」
「ええ、そう。本当にお駄賃よ。あなたの妹と遊んでくれるのだから」
「なら霊夢にもお駄賃をやらないとね」
「勝手にしたらいいわ」
「人形遣いにも駄賃がいるかな?」
「レミィ」
「冗談よ。駄賃で友人をくれてやる義理はないからね」
「そもそも私は遊んでもらっているわけじゃない」
「似たようなもんじゃない。今のパチェはまるで人間みたい。誰かの役に立とうだなんて」
「役に立つ?」
「そうだろう? 人形遣いの“個人的な”研究に首を突っ込んで、パチェとの“共同”研究に仕立て上げたんだから」
「別にそんなことはない。私はただ求められたから与えたに過ぎない。あれはどこまでいってもアリスの個人的な研究でしかないわ」
「と、さっき“一緒に物を作る”なんて言った口が言うわけだ。求められたから与えたと言うのなら、対価は何?」
「手土産なら来る度に持ってきてるわよ。あなたも食べてるでしょ」
「ああ、あのお菓子ね。咲夜のとはまた違うけど、なかなかおいしいよ。一人占めしてみたいくらいにはね」
「させないわよ。まあ他には、後進を育てる楽しみかしら。私はそれで十分」
「後進ね。ますます人間だよ」
「しょうがないでしょう。あなたよりかは人間に近いのだから」
「まあ、人間なら子供がほしいんだろうな。パチェは人間じゃないけどそれに“近い”から、子供じゃなく“子供に近い”ものを欲しがる」
「レミィ!」
「図星をつかれると人は皆立腹する、だったかな。パチェから借りたマンガにあったよ」
「……そう。子供、かしら」
「子供だろう。あの人形遣いに自分の考えを植え付けたい、自分を継がせたいなんて思うのは。いっそ使役の契約でも結んでしまえばいいじゃないか」
「え?」
「ん?」
パチュリーの上げた疑問の声に。レミリアは右眉を上げて答える。
何もおかしなことは言っていないだろうとでも言いたげな表情だ。
「……もしかして、レミィの言ってる子供ってアリスのこと?」
「それ以外に誰がいるのさ。あの頃のパチェは子育てしてる人間みたいだった」
「ああ、そう。ふふふ」
「おい、パチェ?」
「そうね、レミィ。大丈夫。そんなことにはならないから」
「いや、だから……」
「それはね、もう失敗してるの」
「え?」
「心配しなくても大丈夫。アリスは私の子供になんかなってくれないから」
「ああ、そう?」
「うふふ。あはは。子供ねぇ。私は母親なんかにならないわ。母親なんかになれないもの。時が来ても産めないし産まない。いえ、時は来ない。」
「あの、パチェ?」
「さ、もういいでしょう。レミィの心配は杞憂よ。私は紅魔館の魔女で、あなたの友人だもの」
「あ、そう」
「まだしばらくはあなたの傍にいる」
「あ、そ。ならいいよ。ふん」
「あら、拗ねたのかしら」
「別に。友達甲斐のない魔女だ」
「そう。私はとても助かっているけれど」
「へー。そういうことにしておくよ」
投げやりにそう言うと、レミリアはパチュリーのコーヒーに手を伸ばす。
一口すすり、顔をしかめるとミルクを入れた。
「それ私のよ」
「知ってる」
「苦かったわよ」
「苦かったよ」
「コーヒーを用意いたしましょうか」
「いらない」
「あ、私に替えのコーヒーを」
「かしこまりました」
「いいよ。これを飲めばいいだろう」
「ミルク入りはいらない。罰としてレミィが全部飲めばいいわ」
「うー」
「カフェオレにすればレミィも飲めるんじゃない?」
「ああ、それはいい。咲夜」
「かしこまりました。牛乳少な目のコーヒー牛乳ですね」
「いや、カフェオレ」
「ミルクはホルスタインでよろしいですか? それともジャージーがお好みでしょうか。ガーンジーやブラウン・スイスもございますが」
「え? ああ、ふつうのでいいよ」
「畏まりました」
そう言うと、次の瞬間レミリアの前にはカフェオレがなみなみと注がれたカフェオレボウルが置かれていた。
「あー、下がっていい」
「では、失礼いたします」
レミリアが言うが早いか、声だけを残して咲夜の姿は見えなくなった。
「相変わらず見事ね」
「というか、こんなに沢山いらない」
「まあ、せっかくだから飲んでみたら」
「うん」
レミリアはカフェオレボウルを両手で持つと、溢さないようにそろそろと口をつける。
「どう?」
「甘くない」
「でしょうね。普通砂糖は自分で入れるものだから」
「知ってたなら先に言ってくれてもいいだろ」
「知ってるものだと思ったのよ」
「パチェは意地が悪いな」
「そうよ。魔女だもの」
そう言ってパチュリーはにこりと笑う。
レミリアはやれやれという顔つきで砂糖をカフェオレに放り込む。
一さじ、二さじ、三さじ……
「入れすぎよ」
「いいんだよ。甘いのが好きなんだから」
言いながら唇をぺろりと舐める。
まったくいつまでも子供だと、目の前の友人を見ながらパチュリーは思うのだった。
■□■□■
「というわけで前回の魔女会は不幸な偶然により流れてしまったわけだけれど」
「私は魔法使いよ」
「魔法を使うんだからアリスも魔女になればいいのに」
「私は人形遣いよ」
「つまり私と同じなんてまっぴらごめんというわけね。よよよ」
「だから、棒読みで泣き真似されても対応に困る」
「笑えばいいと思うわ」
「あまり適切な使いどころじゃないわね、その台詞」
「さて、二週間ぶりの魔女会なわけだけれど」
「ああ、無視すればいいのか」
「アリスのいけず」
「私になにを望んでいるのかまったく分からないわね」
例によって例のごとく、紅魔館の図書館で二人きりのお茶会が催されていた。
「そもそも私はただお茶しに来てるだけだし」
「そう。じゃあ、飲んだら帰って。出口はあちらよ」
「帰らないわよ。一応進捗状況の報告もあるから」
「そう。済んだら帰って。出口はあちら」
「……ぱちゅりーとおはなしするのはとてもたのしいわ」
「素敵な棒読みね。じゃあ、進捗から聞きましょう」
「まあ、いいけどね。進捗だけれど、動力は問題なし。動きをプログラムするのも順調。動かすだけなら今すぐにでもって感じね」
「流石はアリスね。ここまでの工程に問題はない、と」
「ここまでは、ね。ここからが問題。私が操るならこのまま完成させたっていいけれど、それでは目的が達成されない」
「自律させなければいけないのだから、アリスが操っては意味がない。さてどうしようということね」
「以上、現状報告終わり。やっぱり意識の問題は厄介だわ。本を読んでも、意識の発生について書かれたものなんて手持ちには見当たらないし」
「というより、皆無でしょうね。私もお目にかかったことはないもの。近いものとしてホムンクルスの作り方ならあるけれど」
「人の精液にハーブやら何やらを混ぜてフラスコに入れて、馬の体温くらいにするんだったかしら。あと血液。それってゴーレム作るのと大差ないわよね」
「まあ、そうね。アリスの望む方法ではない、と。じゃあ発想を変えてみましょう。相手が意識を持っていると感じるのはどういうとき?」
「そうね……。自分の意図しないことを相手がしてる時かしら。人形を操っているときに予想外の動きをすると、もしかしたら人形に心が宿ったんじゃないかと思ってしまうし」
「意図しないこと、ね。じゃあ私なんかはアリスにとって意識の塊みたいに見えるのかしら」
「分かっててやってたのね、やっぱり。そうね、パチュリーはちょっと意識が過剰かしら」
「自意識過剰なんて失礼ね」
「そんなこと言ってない」
「言ったも同然でしょう」
「まあ、言ったけれど」
「……なかなかしたたかになったじゃない」
「誰かさんのおかげよ」
「おかげというか、毒されてるのね」
「皿までおいしく頂いたわ」
「……なんだか卑猥ね」
「そんな意図は無い」
「言ったでしょう。本人がどう思っているかではなく、他人からどう思われているかが重要だって」
「ああ、あれ? 神様にはなりたくないわねぇ」
「つまりアリスは卑猥だと思われている」
「失礼な」
「軽い冗談よ。で、意識の話だけれど」
「まあ、人形の場合はただのエラーなんだけどね。指示がきちんと伝わっていないわけだし」
「つまり、アリスは自分の指示がきちんと伝わっていない状態を意識があると感じるわけね」
「いや、だからただのエラーだって」
「さて、そもそも意識とは何なのかしら」
「掴みどころがないのよねー」
呟きながら、また始まったとアリスは長話に備えて椅子に座りなおす。
パチュリーの長広舌にも慣れたものだ。
この知識の探求者は基本的に教えたがりの喋りたがりなのだろうとアリスは思っている。
興味の無い風を装いながらも、できれば自分自身で自律人形を作り上げてみたいのだろう。
ただし、パチュリーはそこまで踏み込んでこない。
何か思うところがあるのだろうけれど、具体的なところは分からない。
勿論、今に至るまでの紆余曲折に理由があるのは間違いないだろう。
しかしパチュリーが本当は何を考えているかなんて分からない。
どこか座りがわるいものを感じるけれど、他人なんてそもそも分からないものだし。
アリスはそう結論すると紅茶を一口含む。
「キスしましょう」
盛大に噴き出した。
「ななななな」
「はい、ハンカチ」
「あああ、ありがと」
「着替えが必要なら小悪魔からかっぱいでくるけど」
「え? いや、別に」
「それにしても、ミスト吹いたらバズソーキックでしょう? お約束は守らないと」
「……閃光魔術でも構わないのよ?」
「あら恐い」
「というか、いきなり何よ」
「不意をついてみたの」
「それだけ?」
「ええ」
澄まし顔で答えると、パチュリーも紅茶を一口飲む。
「パチュリー、キスしていいかしら」
「ええどうぞ」
「……あれ?」
「言われるだろうと予測していれば取り乱さずに済むものよね」
「可愛くないわね」
「だからアリスは未熟者なのよ」
「はいはい」
若干ふてくされた様子で、アリスは自分が持ってきたクッキーを口に放りこむ。
砂糖を控えすぎただろうか。いつもよりも味気ない気がする。
そんなことを考えながら、紅茶で流し込む。
行儀が悪いと思うけれど、すべてパチュリーのせいにしよう。
アリスはそう心に決めると、改めてパチュリーと向かい合う。
「で?」
「え?」
「まさか私に紅茶を噴き出させたかっただけじゃないでしょう?」
「まあ、それもあるのだけれど。素直なアリスは可愛いわ」
「趣味が悪い」
「今更よ」
「で?」
「まあ、話の枕ってところかしら。予想以上にいい反応だったわね」
「地獄に落ちればいいのに」
「魔女が悪魔に魂を売り渡しているのは常識でしょう。私の魂はレミィのもの」
「そうなの?」
「嘘に決まっているでしょう。ああ、新婚旅行は旧地獄めぐりがいいっていう遠回しな催促かしら。気が早いわね」
「そんな意図は欠片も無い」
「新婚旅行は否定しないのね。どこがいいかしら」
「いや、行かないから」
「新婚は否定しない、と」
「そもそも結婚しないって」
「じゃあ内縁の」
「小悪魔に毒されすぎよ」
「逆ね。小悪魔が毒されたの」
「やっぱりパチュリーが諸悪の根源なのね」
「違うわ。家庭の幸福が諸悪の元なのよ」
「初耳ね」
「不勉強よ」
「本の読みすぎ」
「私の個性を根幹から否定されたわ。悪魔であるレミィだってそんなひどいことはしないのに」
「いや、レミリアは吸血鬼でしょう。どう見ても誘惑とかしない肉体派だし」
「あら、レミィはあれでなかなか深窓の令嬢なのよ」
「全然そんなイメージ無いわ」
「ほら、神槍の令嬢」
「ストップ。上手いこと言ったみたいな顔しない。音だけ聞いても分かりにくいわ」
「でも分かってくれたのね。そういうアリスが好きよ」
「……で、本題は?」
「ああ、そうね。意識の話だったかしら。意識の話をするには無意識の話をしなければならないわね」
「ああ、地霊殿の主の妹」
「まあ、関係有るかしら。館の主の妹っていうのはどこも厄介なものなのかしらね」
「ここの場合はまた事情が変わると思うけれど」
「さておき、意識に話を戻しましょう。人の心は意識だけでできているものではないわね。まあ、そもそも心というのが未定義だからあまり意味は無いのかもしれないけれど」
「つまり意識と無意識で出来ている、と?」
「それは正確ではないわ。心は意識と無意識に区別できるかもしれないけれど、そもそも意識、無意識という区別は後付けでしかないもの」
「そうなの?」
「意識や無意識の大半は身体の履歴から出来ているものよ。そして日常的に自覚できる履歴が意識と呼ばれているにすぎない。無意識を超自我が抑圧して意識となって現れる。まあ、とある学者の意見にすぎないけれどね」
「でもよく言うじゃない。コギト・エルゴ・スムって」
「私は考える。それゆえに私は存在する。しかし昔の言葉は間違って伝わるものよ。健全な精神は健全な肉体に宿る、とか」
「違うの?」
「本当は、健全な肉体の持ち主に健全な精神が宿っていたらいいのだが、っていうこと。いつの世にも脳まで筋肉で出来ているような輩は多いっていうことね」
「そうなの。でも我思うゆえに我ありはそうではないでしょう」
「あれは単なる土台に過ぎない。結論でもなんでもないの。私は考えているというのは否定しがたい事実であるように思われる。よってこれを公理として採用し議論を進めよう。その程度のことでしかないわ」
「でも重要でしょう。否定しがたいんだから」
「まあ、土台がしっかりしているに越したことは無いわね。ところで、考えているのは本当に私なのかしら」
「なんで前提をちゃぶ台返しするのよ。考えてるのは間違いなく私でしょう」
「前にアリスは言ったわね。雨が降っているからといって降らせている誰かがいるわけではない」
「まあ、パチュリー辺りが降らせているんでしょうけれど」
「時にはね。いつもじゃないわ。考えているといっても考えている誰かがいるわけじゃないと言って何がおかしいのかしら」
「だって、考えているのは私だもの」
「そうね。“紅茶を噴き出した誰か”は間違いなくアリスだわ」
「もう忘れてよ」
「いやよ勿体ない。ところでアリスは紅茶を噴き出したかったのかしら」
「そんなわけないでしょ」
「ところが紅茶を噴き出した。じゃあ、あなたは誰?」
「私は私よ。あれはパチュリーが変なこと言うから」
「そう。きっかけは私。でも私が噴き出したわけじゃない。あなたがやったことでしょう」
「……それこそ、無意識とかいう話じゃないの」
「そうなのよね。意識していないのに噴き出した。アリスの中にはアリスじゃないアリスがいる、と」
「着ぐるみじゃないわよ。中にちっちゃい私が入っているわけでもないし」
「誰もそんな話はしていない。むしろ解離性同一性障害がどうのこうのという話に近いけどまあどうでもいいわ。人格とか意識とかめんどくさい話ばかり」
「そのめんどくさい部分が問題なんだってば」
「そう。だからめんどくさい話になるけど我慢して頂戴。茶飲み話には向かない話題だけれど」
「いいわよ。慣れたから」
「毒されちゃったのね」
「不本意ながら。で、めんどくさい続きは?」
「人には反射というものがあるわね。反射行動。目の前になにかが飛んできたら目をつむってしまうような。まあ、意識の支配が及ばない領域ね。弾幕ごっこ慣れした連中は目の前に弾が飛んできても目を瞑らないのかもしれないけれど」
「目を閉じていたら当たるもの。ある程度は頑張るわよ」
「私は閉じるわよ。痛いのは嫌だけど失明するのはもっと嫌。ともかく、反射っていうのは無意識の領域ね。でもアリスみたいに反射でさえある程度制御することはできる。噴き出すのを我慢できないアリスでさえ」
「日常的に噴き出すような経験してないから当然よ」
「そう。反射をある程度意識的に制御するのは一般的に“慣れ”と呼ばれているわね。身体の履歴を積み重ねること。ところでまだ慣れないの?」
「生憎と、骨の髄まで毒されてはいないのよ」
「染まってしまえば楽なのに。慣れてしまったらアリスの可愛げが減っちゃうからこのままの方がいいけれど」
「からかってるのね」
「ええ。本気でからかってるわ。アリス愛してる。さて、無意識に属する反射でさえ訓練次第ではある程度意識の領域に属することになるわけだけれど、無意識と意識の区別ってそれほど絶対的なものではないっていうのはいいかしら?」
「そうね。あくまでパチュリーの話に沿って考えれば、だけど」
「それは重畳。ところでアリスみたいに何かを操るような人は、非常に意識が発達している場合が多いわね。人形という自分以外のものを自分の思い通りに動かすためには、どのようにすれば思い通りに動くのかを自覚しなければいけない。人形の動きを意識しなければいけない。つまり人形も自分の意識の下に扱っているわけよ。だから、人形が意図しない動きをした場合には人形に意識があるんじゃないかと思ってしまう。本来人形はアリスの意識の制御下に無ければいけないものだから、当然の発想よね。そういう意味ではアリスは自意識過剰よ。違うけれど」
「前にもパチュリーに言われたわ。人形も含めて私だ。どこまで行っても私でしかない。だから他人を作れないって」
「そうね。だからアドバイスをするなら、エラーを増やしてみたらどうかしら。あなたの意図しない動きが増えるように作ってみたら、ということになるわね。もっとも、そうすると再現性が極端に落ちるからあなたの望む自律人形は作れないことになるけれど」
「んー」
「あくまで一例よ。人間の話をすると、人間というのは諸々の反射や生物学的機構の総体であって、自覚される部分、つまり意識というのはほんの一部に過ぎないの。他の多くは無意識。うちの門番がやっている中国拳法なんかは、そういう無意識の部分をいかに自覚して意識的に動かすようにするかというのが眼目だったりするらしいわ。まあ、拳法に限った話ではないわね。さっき話した通り、アリスのような人形遣いだってそうだから。参考になるかは分からないけれど、帰りに話をしてみたらどうかしら」
「そうね。考えておくわ。でも、自分の意図しないことをするように意図して設計したら、結局私の意図通りでダメなんじゃない?」
「その辺はアリス次第よ。まあ、頑張って」
「投げっぱなしね」
「だって、これはあなたの研究だもの」
「……そうよね。あくまで私がどうにかしなきゃいけないものなのよね」
「全てを私に頼るつもりはないって言ったのはアリスでしょう?」
「そうだったわね」
「ところであの大きい人形は息災かしら」
「人形に息災も何もないでしょう。ちゃんと役に立ってるわよ。じき完成する予定だし。もっとも、あちらを自律させるつもりはないけれど」
「そう。面白そうなのに。でもきかんぼうになたら手がつけられないか」
「あれの制御は外せない。なまじ大きいだけにね。危ないし」
「名前は付けないの?」
「つけないわ。なんだかあれに愛着を持つのはよくない気がするの」
「愛着をもつものを実験体にするのはよくない、じゃないのね」
「パチュリー」
「別に悪いことじゃないわよ。あれはそういう目的で造られたんだから。まあ、愛着を持ちすぎて実験できないのでは本末転倒だけれども。何事も過ぎたるは及ばざるがごとしね」
「そうは言ってもね」
「大きい人形とちっちゃい人形は見栄えがするわよね。ゴライアスとデイヴィッドみたいな」
「戦わせないわよ。何が悲しくてそんな不毛なことしなきゃいけないの」
「心を持った人形は創造主に反旗を翻す。そこに立ちふさがる巨大な人形。私はお前の兄だ。燃える展開じゃない」
「燃えない。っていうか反旗を翻さない。なんでいきなり物騒な話になってるのよ。まあいいわ。そろそろ帰るわね」
「あら、もう?」
「それなりに方向性も見えてきたし、あとは色々といじってみるわ」
「そう。楽しみにしてる。外はまだ雪が積もっているのでしょう。気をつけて」
「ありがとう。次は何かしら進展を報告できるといいわね。じゃあ、また来週」
そう言って、アリスは帰って行った。
「嘘と、幻想と、本当。私はアリスに何をあげたいのかしらね」
パチュリーはそう呟くと、紅茶を飲み干す。
ティーカップをソーサーに置いた次の瞬間、それらはマグカップに入ったコーヒーに変わっていた。
「咲夜も、聞いていたのなら姿ぐらい見せて取り替えて行けばいいのに」
ため息交じりにひとりごちると、パチュリーは研究用のノートを広げる。
先程までの賑やかな空気は消え、さらさらと書き物をする音と時折コーヒーをすする音だけが図書館を支配する。
■□■□■
アリスは家に戻ると真っ先に裏庭にある作業台へと向かう。
図書館へ出かけている間に、巨大な実験体の外装を人形達に取り付けさせていたのだ。
人形といっても外見は人型ばかりではない。寧ろこの空間にはそうでない物の方が多いくらいだ。
どちらかといえば機械と呼ばれるべきそれらは、しかし間違いなくアリスの手による人形である。
自律人形を作る上で調べた知識の副産物ではあるけれど、今やアリスはオートマタ程度ならばさほど苦労せずに作れるようになっていた。
指示してあった工程が全て問題なく終えられていることを確認すると、オートマタを倉庫にしまう。
「お疲れ様。よく頑張ってくれたわね」
しまいながら、思わず口に出してしまった。
自分はオートマタにも意識があるものとして扱っている。
しかしこの子たちに意識があるわけじゃない。
自律人形って一体どういう子なのかしら。
アリスはそんなことをぼんやりと思う。
まだ見たことのない自律人形は、一体どんな子なのだろう。
正確に言えば見たことはある。
メディスン・メランコリーという人形の妖怪には、自律人形を作ろうと決意してから何度か会っているし話を交わしたことさえある。
どう見ても可愛らしい人形でしかない彼女は、しかしあたかも人間であるかのようにものを見て、あろうことか会話までこなす。
しかし彼女は言ってみれば生後数年の赤子に過ぎないのだ。
それなのに、人間の言葉を話し人間の様な意識さえ持っている。
鈴蘭畑という自然が意志を持てばああなるのだろうか。
それ程に、彼女は妖怪らしい。
余りに幼く、人間らしい。
人間の思い描く妖怪らしい。
「さて、この子を作り上げちゃおうかしら」
骨格、筋肉、神経と愚直に作り上げてきたこの人形は、一次外装まで組み上げ上がったところだった。
人間で言えば皮膚を付けたところまで。
つまりまだ服を着ていない状態だ。
「いつまでも裸じゃきまりが悪いものね。雪の積もっている中でこのままって言うのも可哀想だし」
そう言いながら、アリスは納屋からテントの天幕の様な素材の布を取り出す。
あらかじめ台車に載せてあったから一人で運び出せたけれども、そうでもなければアリスが一人で扱える量の布ではない。
人形を総動員してこれを縫い上げた時の達成感と言ったら、それこそ言葉にできないものだった。
アリスの身体を優に超える体積の布の塊を運び出すと、アリスは糸を人形に繋ぎ始めた。
ゆっくりと、しかし確実に巨大な人形が直立していく。
「おはよう、私の娘。いつまでも裸じゃ恥ずかしいでしょう? 目を覚ましたらまずは服を着ましょうか」
無論目の前の実験体に意識があるなどと思ってはいない。
それでもアリスは語りかける。
意識があろうとなかろうと、目の前のこの子は私が作り上げた私の子なのだから。
正確に言えば私とパチュリーだけど、という言葉が脳裏をよぎるが気にしないことにする。
完全に直立した人形が、今度はゆっくりと身をかがませる。
アリスはゆっくりと布の塊から離れた。
人形の手が、布の塊をほどいていく。
裏庭の半分以上を覆い尽くす面積の布は、この人形の為の服だった。
これだけのサイズなのであまり細かいデザインは施せなかったけれど、それでも単に貫頭衣というよりはなんとかワンピースと呼べる体裁になっている。
ウエストあたりから袖になっているドルマンスリーブのワンピースであり、可愛さよりも機能性を優先させたデザインになっている。
なにしろこの人形は、アリスが服を着せてあげることができない。
そこで人形が自力で着たり脱いだりが可能なくらいにシンプルで丈夫なデザインを考えたところ、こうなってしまった。
本当はもっと可愛い洋服がいいんだろうけど、我慢してね。
そんなことを思いながらアリスは人形を操作する。
人形が慎重に布のスカート部分をつまみあげると、両手を服の内側に差し入れる。そうしてできた空間に頭部を突っ込み、あとは服をずるずると引き摺りながら立ち上がり重力を利用して身体を通す。
やはり袖を通す際にてこずったけれども、なんとか服を着た人形という体裁は整った。
「まったく、手の掛かる子だこと」
アリスはそんな軽口を叩きながら人形をベッドに寝かせた。
あんな質量の物体を軽々と扱ってしまえるのだから、この子の動力はすごいものなんだと今更乍らに感心する。
やっぱりこの子はパチュリーと私の子なんだという考えが頭に浮かぶが、気恥ずかしくなってあわてて打ち消す。
今はこの人形が一応の完成を見たという充実感に浸っていたい。
アリスは操るための糸を外すと周囲を片付け始めた。
台車を納屋に戻そうとしたその時、ベッドに寝かせたはずの人形が身じろぎでもしたように体勢を変えた。
具体的には伸びきった足が少しだけ曲がり、揃えていた筈の両腕も少し開いている。
ベッドの上で気をつけの姿勢から休めの姿勢に変わったようなものだ。
「……エネルギーが漏れてるのかしら。パチュリーに調べてもらおうかな」
そう呟くと、アリスは再び片付けに戻ったのだった。
■□■□■
翌日、アリスは再び紅魔館へと向かった。
実験体が一応の完成を見たことを知らせたいし、どうせならついでに五行器の調子も見てくれないかとパチュリーに頼むつもりだ。
いつも通り門の近くに降りると、美鈴が門の前で体操をしていた。
「おはよう」
「おはようございます。連日いらっしゃるなんて珍しいですね。しかもお昼前に」
「うん。ちょっとパチュリーに見てもらいたいものがね」
「そうですか。では、いつも通りに取り次ぎを」
「ああ、そうだ。今度モーションパターン取らせてくれないかしら」
「モーションパターン?」
「ええ。人形の参考にしたいのよ。動かすためにどれくらい力がいるのか、とか」
「あ、大きな人形の方ですか。あれ、でも普通に動くって話じゃありませんでしたっけ」
「動かすだけだったらね。でも無駄な動きばかり多くてもいけないだろうし、効率的な力の使い方を知りたいの」
「じゃあ、一緒に修業します? 丁度套路の最中でしたし」
「套路?」
「型みたいなものですよ。なかなか良い訓練になります」
「型、ねぇ」
「力の出し方を知りたいんでしたら経験した方が早いですよ。動きを真似るだけじゃ、どうしても無駄が出ますからね」
「そう。まあ、参考にはなるかしら」
「じゃあ、早速」
心なしか楽しそうな美鈴に促されて、アリスは持ってきた荷物を一旦近くにいる妖精に預けると美鈴と向かい合って立つ。
「じゃあ、肩幅くらいに足を開いてください。で、掌を上に向けて腰の前くらいにかまえます。息を吐ききって、ゆっくりと吸うのに合わせて手を上に上げていきます。肩まで上がるタイミングで吸いきる感じですね。そしたら掌を下に向けてゆっくり息を吐いていきます。吐くのに合わせて手を下げます。で、腰のあたりまで下がるくらいのタイミングで吐ききります。何回かやってみましょうか」
「深呼吸すればいいのね」
「まあ、そうですね。手の動きを意識して下さい。補助なんですけど、有ると無いとじゃ効果が違います。吐ききるとおへその下あたりに重心が落ちるのを感じると思うんですが」
「ああ、なるほど。丹田って言うんだったかしら」
「よくご存じですね。じゃあ、丹田を意識しつつ呼吸に合わせて重心を上下する感覚でやってみて下さい。自然と腰が落ちる筈です」
「軽く膝が曲がる程度ね」
「ええ。そしたら右足を踏み出して――」
そのまま15分ばかり美鈴と体操を続けたが、アリスはもう息が上がってしまっていた。
反対に美鈴は軽々とこなしている。やっぱり運動不足なのかしら、とアリスは少し落ち込む。
「落ち込むことは無いですよ。重心をゆっくり動かすのは、慣れないうちは大変ですから」
「そう、傍目で分かるくらい落ち込んでたのね、私。まあ、この動きを人形にさせるのは難しそうだわ。足がガクガクよ」
「余計なところに力が入っている証拠です。イメージとしては重心をどう動かすかを意識して、それに逆らわずに動くことですかね」
「拳法ってそういうものなの?」
「全てが、とは言いませんけど。でも重心を落として重力を利用するのが手っ取り早い力の出し方ですね」
「そうなんだ。腕立て伏せとかばっかりやってるイメージがあったんだけど」
「そういうのをやるところもありますけどね。今やった太極拳なんかは力の出し方に眼目がありますから」
「力の出し方ねぇ」
「生身で最大火力を出すためには、重力を味方につけるのが一番です。アリスさんのキックとか」
「ああ、痛いらしいわね。自分では分からないけれど」
「あれかなり脅威です。ブーツですし」
「そんなもんかしら」
「だって考えても見て下さい。50キロの物体が跳んでくるんですよ」
「そんなに重くないわ」
「失礼しました。40キロで」
「まあ、いいでしょう。重力というか慣性だけど」
「でも脅威には違いありません。身体ごと来られるのはかなり厄介です」
「まあ、体当たりは痛いでしょうね」
「そうです。原始的で単純ですが一番痛いのは体当たりなんですよ。避けにくいですし」
「そんなものかしら。マヨヒガの黒猫なんかは体当たりしてくるけどそんなに脅威でもないわよ」
「動きが直線ですからね。まあ、イメージしてもらうのが速いでしょうか」
「ん?」
「おとっつぁんのかたきー」
「……はい?」
「いや、こう、お侍さんに向かって町娘が短刀を抱え込んでどーん、ぐさー、ぎゃー。おーけー?」
「オーケー。で?」
「なぜ刀で切りかからないと思います?」
「女の子が振りまわせる重さじゃないもの」
「そうですね。じゃあ、なんで短刀を振りまわさないんでしょう」
「敵わないからじゃないかしら。受け止められたり振り払われたりしたらそれまで」
「そうでしょうね」
「でも体当たりも受け止められたらそれまでよね」
「そうですね。避けられる可能性もあります。でも一番合理的です」
「なんで?」
「仮に受け止めるとしても、体当たりしてくる相手の手だけを止めるのは難しいものです。避けられても致命的じゃありません。向き直って繰り返せばいいんですから」
「あー、厄介ではあるかもしれないけど」
「か弱い女性が取りうる攻撃手段としてはベストに近いですね」
「弾幕張ればいいじゃない」
「普通の人間は弾幕張れません」
「……ああ」
「アリスさんって、割と抜けてますね」
「隙がある方が魅力的らしいわ」
「わー。かわいー」
「蹴るわよ?」
「すみません。ふざけ過ぎました。まあ、かように体当たりは効率的な攻撃方法なんですが」
「なんで体当たりの話になってるのよ」
「重心の話ですね。体当たりって言うのはざっくり言えば重心をぶつけることです。重心移動に伴うエネルギーをどれだけ効率よく攻撃に使うかっていうのを追求した拳法なんかもありますね。距離が近ければ体当たり、ちょっと離れれば肘打ち、さらに離れれば拳か掌みたいな感じで」
「ああ、そうつながるわけね」
「で、力の出し方を色々と突き詰めて一撃に賭けるとですね」
そう言いながら、美鈴は近くの木に手を当てる。
そこそこの大きさの、枝ぶりの立派な木だ。
夏には心地よい木陰を作り出してくれるだろうが、今は葉の代わりに雪が乗っている。
「ハッ!!」
掛け声とともにどしんと地面を踏み鳴らすと、ばさばさと雪が降ってくる。
「まあ、こんなこともできたりするわけです。冷たいですけど」
「いや、あの……」
肩や頭に乗った雪を払いながら、美鈴はさもないような口調で続ける。
さらさらとした湿っていない雪とは言え、大木に積もっていたのだからかなりの量だ。
腰の少し上まで雪に埋まっている。
「人間だったら今ので死んでるわよ」
「ですねぇ。流石にこんなことは人間相手にやったりしませんよ。人間同士だって下手に殴ると死んじゃいますし」
「いや、雪の話ね。毎年屋根の雪を下ろしてて一人二人死ぬじゃない」
「……ああ、成程」
面倒になったのか、美鈴はぶるっと頭を振ると腰まである雪をものともせずに木から離れる。
「まあ、御覧のように女の細腕でもあれだけの威力がですね」
「あなた妖怪じゃない」
「そうですけど」
「まあ、色々と尋常じゃないってことは理解したわ」
「良かったです。でもやってるのは普通のことなんですよ。イメージとしては、木の板に釘を打ちつける感じでしょうか。藁人形を立木に打ちつけるときだって、五寸釘を握りしめてガンガン叩きつけるよりも、金槌を使ってごっすんごっすんした方が楽ですし無駄もありません」
「ストロードーるわよ?」
「勘弁して下さい」
「まあ藁人形の件は私より地底の橋姫向きの話題だけど、なんとなく分かったわ。生木に素手で釘を叩きつけて刺せるのなんて、神に選ばれし無敵の男くらいのものでしょうね」
「そんな人がいるんですか」
「ユダヤ人にいたらしいわ。現代のサムソンとまで言われた力自慢ね」
「ほう、一度会ってみたいですね」
「死んだわよ。素手で釘を木の板に刺す芸をやってる最中に、手元が狂って自分を傷つけたの。その傷が元でね。力に生きた男は力に倒れるのよ」
「人間ですから、仕方ないですか」
「まあね。ありがとう。色々と参考になったわ」
「いえいえこちらこそ」
「重力と重心が大事なのね」
「無手の極意は、“こかして、踏みつける”ですから」
「まあ、幻想郷だと誰も彼も空を飛んでるから実践の場は少なそうだけれど」
「そうなんですよねぇ」
美鈴はえへへと表情を崩す。
その場でぐっと四肢を伸ばし柔軟体操をすると、門の傍にある小屋からスコップを出して木の周囲に積もった雪を寄せ始める。
「手伝いましょうか?」
「いえ、これが私の仕事ですから。それにパチュリー様もお待ちだと思いますよ」
「そう。色々ありがとう。今度何か差し入れるわね」
「有り難うございます。楽しみにしてます」
アリスは預けておいた荷物を受け取ると紅魔館の門をくぐる。
後ろでは雪かきをする美鈴とそれを手伝う妖精たちの声がしていた。
■□■□■
紅魔館の玄関はいつ見ても威圧感を放っているような気がする。
重厚な造りの扉の前で軽く身嗜みを整えると、ノッカーを扉に打ち付ける。
迎えに出てくるであろう咲夜に渡すためのお菓子を確認すると、クッキーが何枚か減っているようだ。流石は妖精。
気を取り直して今日の用件を整理する。
人形の姿勢について。動力の調子について。素体は一応の完成を見たこと。
少し経って扉が開く。と、そこにいたのは見慣れたメイドの姿ではなかった。
「おやおや、いらっしゃい」
「あ、その。ご無沙汰してるわ」
一介の客に館の主が対応するという想定外の出来事に、アリスは暫く玄関に棒立ちになった。
「入らないのか?」
「……あ。お邪魔するわね。咲夜は?」
「いるよ。今日は丁度起きてたからね。最近夢見が悪くて昼間寝ていられないんだ」
「そう」
「今日もパチェ?」
「ええ。少し行き詰まっていて」
「そう」
「度々お邪魔して迷惑じゃないかしら」
「もしそうならとっくに門番かメイドに止めさせているよ。もっとも、以前一度だけ押し切られたことがあるとは言っていたかな」
「……忘れて頂戴」
「まあ、うちの知識人が慣れない強権まで振るって通しているわけだしね。宜しく頼むよ、人形遣い」
「え?」
「それは差し入れ? いつも美味しく頂いてるよ。ごちそうさま」
「どういたしまして。お口に合って嬉しいわ」
レミリアは舌舐めずりしながらバスケットに手をかけ中を覗き込む。
その様子にアリスは思わずバスケットを渡してしまう。
レミリアは受け取ると、人差し指を唇に添えて品定めをするように中のお菓子に視線を彷徨わせる。
涎を垂らしかねない表情だ。
「お気に召したなら、今度は少し多めに作ってくるわよ」
「それは是非お願いしたいな。しかし週に一度と言うのが残念だね。なんなら」
「泊らないわよ」
「いや」
「住まないわ」
「……そう。なんだかパチェと会話してるみたいだ」
「それは聞き捨てならない発言ね」
「じゃあ言い換えてやろう。無駄に頭が回る人種と会話している気分だよ」
「それは褒め言葉、ではないわよね」
「いや、どうかな。運命があるって分かっているのに裏を読み頭を遣い気を回し手を尽くしてまで抗おうと足掻く辺りは褒めてもいいと思う」
「愈々以て褒められてる気がしないわ」
「無駄に頭が回る人種はね、運命を知っているくせに宿命を信じている。自分の能力で自分が行きたい場所に辿りつけるなんて思っているんだ。自分が到達地点を決められる、って。パチェなんかは因果関係が決定論的世界でなんとかかんとか言っていたけどね。頭脳労働はパチェの領分だから実際に何を言ってるのかは分からない。だけどそれがどう見てもとんでもないことを言っているのはわかるだろう?」
「一体それの何がどうとんでもないのかしら」
「だってそれじゃあ、運命の入り込む余地が無い。そうだろう? もしもこの世が全て宿命の名の下に出来上がっているんだとしたら、私は完全に未来を知ることになる。そんな世界で生きるのが耐えられないことくらい五つの子供だって分かりそうなものだろう」
「かもしれないわね。でも、私は未来を知りたいとも思わないし運命をいじくり回したいとは思わないわ」
「結構。で、勝手に宿命なんてものを作り上げてそいつ相手に抗って見せるわけだ。見上げた根性だ。見下げ果てた性根だけどね」
「あなた、私がパチュリーと会うのが気に食わないんでしょう」
「ああ、気に食わないね。あれはうちの魔女だ。この館に私の望まない宿命なんて持ちこまれたくない」
「私がそれを持ち込んでるって言うの?」
「まあ、ね。半分以上はパチェが呼びこんだみたいなものだけど」
「弾幕ごっこなら今すぐにでも受けて立つわよ」
「ブレインを気取るくせに血の気が多いな。やめておくよ。あそこでおっかない魔女がおっかない目でこっちを見てるからね」
レミリアの視線の先では、図書館の入り口から体半分出したパチュリーがアリス達をじっとねめつけていた。
「パチェ、心配しなくても取ったりしないからそんなに見つめないで」
「何を取るっていうのよ」
「え、お菓子。まあ先にちょっとばかり分け前は貰うけどね。ちゃんと咲夜に渡しておくから」
「あ、ちょっと待ちなさい、レミィ!」
パチュリーが言い終わる前に、レミリアは姿を消していた。
後には舌を出してからかうようなイラストの書かれたカードが残っている。
時を止めたわけではない。単純に物凄いスピードで走っていなくなっただけだ。
「まったく。従者の真似をする主人ってどうなのかしら」
「ユーモアがあっていいんじゃない? 何の意図があったんだか分からないけれど」
「あれはね、運命操作らしいわよ。レミィ曰く。私がアリスのお菓子を最初に食べるように運命を操作して見せるって言ってたわね、そういえば」
「そう。まあ確かにお菓子のことは頭から消えてたわ。そう言う意味では確かに運命通りなのかしら」
「やり口が汚いわ」
「実のところ、最初に食べたのは門番隊の妖精なんだけれどね」
「どういうこと?」
「さっき美鈴と話をしていたときに、預かってもらったのよ。そしたら食べられちゃった」
「何それ。レミィも肝腎なところで格好がつかないわね」
「妖精の悪戯には運命も敵わないってことかしら」
「ロマンチックな言い回しをしても、やってることはただのつまみ食いよ」
「やけに壮大なつまみ食いね」
「さておき、入ったら? 立っててもお菓子は戻ってこないわ」
「そうね。お邪魔するわ」
アリスとパチュリーはそのまま図書館に入り定位置に座る。
すっかり座り慣れてしまった椅子の感触に複雑なものを感じながら、アリスは用件を切り出す。
実験用の素体が完成したこと。予想外の動きをしたこと。五行器の調子を見てほしいこと。
「というわけなのよ」
「そう。五行器の具合は私も気になるから見に行くのに吝かではない。ということで、今度はカスタードパイが怖いわ」
「はいはい。また胃もたれするくらいだだ甘いのを作ってあげようかしら」
「今度の私は一味違うわよ。胃薬完備だもの」
「いつも思うけれど、パチュリーって無駄なところには全力よね」
「失礼ね。興味の赴くままに全力なだけよ」
「つまりパチュリーの興味は無駄、と」
「言葉にされると意外に効くわね」
「まあ、あなたの無駄は私の有益だったりするけど」
「じゃあ早速行きましょうか」
「来たばかりよ」
「そう。じゃあお茶にしましょうか。カップ半分に一杯」
「まあ大概破茶目茶お茶会だけれど」
「大ガラスが物書き机に似ているのは何故かしら」
「“it is nevar put with the wrong end in front.” ってやつね。大ガラスだと花嫁の方かしら」
「前者よ。丁度いいでしょう。アリスなのだし」
「じゃあとりあえず半分のカップをいただこうかしら」
「残念ながら半分のカップは切らしているのよね。a cup of teaで我慢して頂戴」
会話が一段落ついたタイミングで、咲夜がティーセットをワゴンに乗せてやってくる。
相変わらずのタイミングだ。
「カップを切りましょうか?」
「結構よ。カップに一杯いただくわ」
「では」
そう言うと、咲夜は支度を整え立ち去った。
アリスの持ってきたお菓子も、量が半分くらいに減ってはいるが乗っている。
「じゃあ、大きい人形の完成を祝って」
「ありがとう」
パチュリーがティーカップを軽く持ち上げ、アリスもそれに倣う。
「これからしばらくは、自律人形の素体作りにかかることになるわ。また前みたいに来られなくなることも増えると思うけれど」
「構わないわよ。それこそがあなたの研究なんだから。それに、言ってるでしょう。私はあなたの研究が見たいのよ」
「そうだったわね」
アリスは言葉を続けようとして、止める。
紅茶で少し唇を湿らせ、溜息を吐く。
物憂げと言う風ではない。
ある問いを口に出していいものかという逡巡が、アリスの動作を阻む。
口許までティーカップを持っていくが、いつまでも口をつけずに息を吹きかけるている。
そんなアリスの様子を、パチュリーは若干の困惑が混じった表情で見つめていた。
やがてアリスは紅茶を少しだけ口に含み、コクリと嚥下する。
パチュリーの視線は、紅茶で潤った唇ではなく微かに動く喉元に向いていた。
「あら、パチュリー。どこを見ているのかしら」
「いえ、別に」
「今日はキスしてくれないの?」
「何を言うのよ。今までだってしたことないでしょう」
「まあ、そうね」
「なにか言いたいことか聞きたいことでもあるのかしら」
「……まあ、そうね」
「それは、研究に関係あること?」
「まあ、……そうね」
「全自動うなずき機能付き相槌マシーン?」
「いやいや」
「なら本題に入って頂戴、アリス。あなたの質問ならよろこんで答えるわよ」
「ええ。あのね。どう聞くべきかしら」
「いや、それは聞かれても答えられないわ」
「前置きよ。一々話の腰を折らないで。ええと、その。パチュリーは、何故私の研究に協力してくれるのかしら」
「今更も今更な質問ね。それはアリス、私があなたを愛しているからよ、とか、あなたのような前途有望な同業者に対するほんのささやかな投資よ、とか色々と理由は有るけれど。もっと根本的ことを言うとしたら、そうね……。私の興味があなたの目的と合致したから。それが何よりも大きな理由」
「じゃあ聞くけれど、あなたの興味って何?」
「ちょうど今アリスがやっていることよ。生命の様なものの創造とそれにまつわるエトセトラ」
「そう返されると納得するよりないか。嘘は吐いてないでしょうね」
「ええ、誓って。信仰に持ち合わせは無いけれど」
「でしょうね」
「まあ、騙していないかと聞かれたら答えに困るわね」
「相手は他ならぬパチュリーだもの、騙されてあげましょう。魔女相手に完全にフェアな取引が出来るとも思っていないし」
「その評価は不本意だけれど、ありがとうと言っておくわ。ところで聞きたいことはそれで終わり?」
「そうね。パチュリーが本当のことを語ってくれるには私はまだまだ未熟なようだし」
「拗ねないで頂戴。それに、未熟と言うわけじゃないわ。アリスが魅力的過ぎるから言えないのよ」
「愛してるとか魅力的とか、誤魔化しの言葉に聞こえるのは私の性格が歪んでしまったからかしら?」
「違うのよ、私はただ……。ああ、レミィが宿命とか言い出したのはそういうことだったのね」
「なんでそこでレミリアが出てくるのかしら」
「気にしないで。独り言よ」
「気になるわよ。さっきもレミリアから宿命だの運命だの言われたのだし」
「あら、そんな話をしていたのね。じゃあ今日の話題は宿命と運命についてにしましょう」
「ああ、藪蛇」
アリスは諦めたように無抵抗のポーズをとった。
パチュリーの長話は始まってしまうとオチがつくまで止まらない。
パチュリーの声を聞くのは寧ろ好きなので、アリスはいつも通りに相槌を打つ用意をする。
「と言っても、正直なところ宿命については誰の同意を得たわけでもない私の勝手な理解に過ぎないわ。話半分の二割引きくらいに聞いてちょうだい」
「大変。5パーセントしか残らないじゃない」
「それはいつも話半分と言うことかしら。まあいいけれど。そうね、目の前に積木があると思って頂戴。三角柱や四角柱、立方体や円錐なんかが散らばっているわ。それを組み合わせて形を作るとしましょう。アリスは立方体の上に三角柱を横に倒して置いて家と言うかもしれないけれど、レミィは球に円錐を突き刺したり床に板を突き立てたりしてムビエル・ムビエル・ムビエルと言うかもしれない」
「うん。全然分からない」
「でしょうね。めんどくさい理論を導入して説明すればなんとなく形には出来るかもしれないけれど、それはとても面白みが無いのよ」
「つまりレミリアは自由な発想をしているってこと?」
「というよりも、アリスは常識人代表、レミィは非常識人代表で出てもらったのよ。もっと単純化しましょうか。赤ん坊と大人でもいいわ。大人はある程度常識を持っているけれど赤ん坊はそんなことお構い無しよね」
「まあ、ね。情け容赦なしね」
「大人の持っている常識と言うのは、世界はある程度決まった形に沿って動いているというもの。世界を動かす法則があって、物事はそれに従って様々に変化していく。初期状態が与えられた場合世界は計算可能である、みたいな世界よ。その世界では間違いなく宿命が存在するわね。世界は既に常識によって意味が与えられてしまっていて、あとはそれを読み解いていくという感じにね。未来は決定されてしまっているし因果関係も決まっている。決定論的な世界と言うところかしら」
「決定論。その単語はレミリアと話してるときにも出てきたわね」
「そう。じゃあ今度はレミィにちなんで運命の話をしましょう。赤ん坊のみる世界は誰かによって意味付けされたような世界ではないわ。見える全ての物に自分が意味を与えていく世界よ。次に何が起きるかなんて決まっていないし、誰も決められない」
「パチュリーがそういう言い方をするっていうことは、その決定論的な世界と言うのは常識的な世界と言うことね? 分かりやすくて間違った世界」
「まあ、そんなところ。分かりやすくて間違った世界を分かりやすくて間違った説明で表現するとそうなるわ。勿論決定論的な世界はそれなりに有益よ。二手、三手先を読んで行動できるからとても効率がいい。だって宿命だもの、仕方ない」
「じゃあ、赤ん坊の方で出てきた世界が本当の姿ってこと?」
「そうじゃない。世界が本当はどうなっているかなんて分かるわけが無いもの。例えばこの紅茶の色だって、地下にあるこの部屋で見たらこの色でも日光に当てたらもう少し違った色になるかもしれないでしょう? それに、ここの照明を落として暗闇にしてしまったら紅茶の色なんて分からない。さて、どれが世界の本当の姿かしら」
「意地の悪い聞き方。分かったわよ。本当の姿については横に置いておきましょう」
「ありがたいわね。じゃあ、運命の話を続けましょう。そうやって目の前に立ち現われてきた世界しか見えない以上は、世界の本当の姿が持っているであろう意味なんて知りようが無いわね。そもそも世界は意味なんか持ってないし。自分で目の前の世界に勝手につけるしかない。レミィみたいな、他人が見てる世界の意味について考える必要が無い、所謂お嬢様タイプの価値観や言葉の意味が浮世離れしやすいのはそういう理由からでしょう」
「つまり子供なのね」
「そう。五百歳にして超刹那主義者。人間ならかなりの問題児ね」
「いや、五百年生きてる人間がいたら大問題よ」
「それもそうか。まあ、妖怪連中の精神年齢が概ね低めなのもそういう理由からじゃないかしら。他人の見ている世界について無頓着だし、基本的に群れたりしない。悪く言えば自分勝手、良く言えば自由奔放天衣無縫」
「そうなのかにゅう?」
「アリス、どうしたの?」
「いえ、突然口をついて出ただけよ」
「そう? まあいいわ。妖怪連中は大体宿命とか信じてなさそうだし、というか宿命を信じるくらい知能が高かったら相応の振る舞いをするわよね。そこらへんの妖怪や妖精を集めても共同体は作れなさそう。集団行動をしない連中は言葉や意識を発達させる必要もないし。逆に言えば集団の中で行動する必要があるからこそ人間は賢さを求めるのだけれど。賢者と言えば八雲紫。彼女も妖怪と人間の集団の中でああも上手く立ち回るからには相当頭がいいわね。今更だけど」
「八雲紫は宿命を信じているのかしら」
「さあ。宿命を信じる人間がいることは知っているでしょうけど」
「宿命ね。有名なところだと、モータリティの三段論法なんかがそうなのかしら。人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。よってソクラテスは死ぬ。無常ね」
「何かこの世に久しかるべき、よ。様々な命題を組み合わせて一般的な法則を導き出す。つまるところ、世界は一体どうなっているかを探求する人の多くは何らかの形で宿命を信じていることになるわね。より極端に言えば、未来を確信しているのよ。アリスが自律人形の完成を信じているように」
「まあ、普通に考えればそうでしょう?」
「普通に考えれば。対して運命を受け入れるだけの、謂わば妖精みたいなのは、世界がどうなっていようとお構いなし。気分としてはそうね、目の前にこれだけ物があるけれど、それじゃあ、これから世界は一体どう変化していくのだろう。目の前にある世界に対応することを繰り返すだけよ。学習能力が無いのね。非常に純粋で繊細な精神の持ち主だわ」
「気楽なものね。生きてるだけで楽しそう」
「楽しいんだと思うわ、きっと。そう言う意味では妖精は非常に自然に近い存在よ。賢しらに知恵を回すことをしないからあるがままに存在できる。まあ、この館を見れば分かる通りメイドには向かない生き物だけれど。世界がどう変化するか確信している人と世界は一体どうなるだろうかと眺めている人の差ね。それでも一方的に前者が優れているとは言えないわ。それだけ型にはめて物事を考えがちだと言うことなのだから。最悪の場合は単に段取りを踏むだけの機械になってしまう」
「……待って。妖精って言ってるけれど、赤ん坊でも同じよね」
「ええ、多分ね。というより、赤ん坊の方がより自然に近い状態にあるのかもしれないわ」
「ということは……、いえ、じゃあこっち? それとも……」
「アリス?」
「パチュリー、ちょっと書くものをもらえるかしら」
「ええ、どうぞ」
アリスはノートとペンを受け取ると一心不乱に何事かを書きつける。
そんなアリスの様子を見て、パチュリーは満足したような、それでいてどことなく寂しげな表情で紅茶を飲み干した。
そっと音をたてずに席を立つと、パチュリーは自分の工房に入る。
アリスは気付く様子もなく、ひたすらにペンを動かし続けていた。
■□■□■
何時間経ったのだろうか。
ノートの半分以上を構想で埋めたあたりで、アリスははっと我に返った。
そういえばパチュリーはどうしただろうか。
話の途中で突然研究に没頭してしまったのはまずかった。
周囲に姿は見えない。
飽きて部屋に戻ってしまっただろうか。
そう思いパチュリーの部屋に向かう。
図書館から直接部屋に入れるようになっていた筈だ。
ドアの前に立ちノックをしようと手を構えると、ドアには何事か彫ったプレートがかけられていた。
営業時間 9:00~15:00 要アポイント
「アンドリュウウゥゥゥゥ!」
「図書館ではお静かに」
「……あら、小悪魔」
「そんな、小悪魔なんて他人行儀な呼び方はやめて下さいな。いつも通りアイちゃんって呼んでくれなきゃ嫌です」
「いや、一度も呼んだことないし。ていうかそれも偽名よね。まだそのネタ続いてたの?」
「相変わらず容赦ないですね。あ、パチュリー様ならお部屋にはいませんよ。工房で作業中です」
「そう。今何時かしら」
「小腹がすいたので三時くらいだと思います」
「それ、信用できるの?」
「空腹度基準だと的中率は九割超えますよ」
「健康的で結構なことね。パチュリーにも見習わせたいわ」
「健康的なパチュリー様ですか? それは丸い四角とかと同義語でしょうか」
「どちらかというとユニコーンかしら。架空の動物だしね」
「ああ、少女好きですしね」
「いや、それはない」
「失礼しました。少女(※アリスさんのみを指す)好きですもんね」
「いやいや」
「あ、処j」
「そこまでよ」
「はい」
「……やけに聞きわけがいいじゃない」
「いやだなぁ。私はいつでも素直で可愛い小悪魔アイちゃんですよ」
「いや、だから誰よそれ」
「楽しそうね、あなた達」
突然目の前のドアが開く。
「あ、パチュリー様」
「あら、パチュリー。部屋にいたのね」
「正確には、部屋に入ったらドアの向こうから声が聞こえたから開けてみたのだけど」
「じゃあ、私は尻尾まいて逃げますね。お二人ともごゆっくり」
言いながら、小悪魔はそそくさと本棚の陰に消える。
「尻尾まいて逃げるなら、ついでに耳も付けてくれないかしら。猫耳とか。にゃあ」
「アリスも猫の方が好き?」
「えっと、それは何と比べてかしら」
「え? アリスさんネコなんですか?」
「いいえ、人形遣いよ」
「……そうですか」
「というか小悪魔、あなた仕事に戻ったんじゃなかったの?」
「いえ、なんとなく面白そうな気配を感じて」
「そう。ところで禁書解読と魔界生物の駆除、どっちをやりたいかしら」
「ほ、本棚を整理してきますぅ」
今度こそ小悪魔は本棚の向こうへと去って行った。
「ところで」
「にゃに?」
「……なんで猫っぽいのよ」
「猫度が高い方が好きかと思って」
「ななめななじゅうななどのならびでなくなくいななくななはんななだいなんなくならべてながながめ」
「にゃにゃめにゃにゃじゅうにゃにゃどのにゃらびでにゃくにゃくいにゃにゃゲホゴホッ」
「ちょっと、大丈夫?」
「無理させておいて心配するなんてヤクザの手法ね。いやらしい」
「そんな意図は欠片もないわ」
「まあさておき、御覧の通り私の猫度はかーなーりー高いわ」
「いや、今のどこに猫度アピールがあったのかとてつもなく謎だけれど」
「さあ愛でなさい。構いなさい」
「ああ……、うん。突然研究に没頭してパチュリーをほったらかしたのは謝るわ。ごめんなさい」
「別にいいのだけど。私もよく同じような事をするし」
「不条理ね」
「いいのよ。で、その様子だと何かいいことを思いついたのかしら」
「ええ。筋道だけはなんとなく見えた気がするの」
「それは結構。立ち話もなんだから、向こうで座って話しましょうか」
「ええ、そうね」
二人が机のある辺りに戻ると、丁度咲夜がティーセットを片付けているところだった。
「ああ、丁度いいわ。咲夜、私にコーヒーを」
「じゃあ私ももらえるかしら」
「あら、アリスもコーヒーを飲むのだったかしら」
「ええ、偶には」
「畏まりました。豆はいかがいたしましょう」
「モカで。アリスは?」
「同じもので」
「では、少々お待ちください」
そう言うと、咲夜はワゴンにティーセットを乗せて消えた。
パチュリーとアリスは互いに定位置に座る。
暫くすると、コーヒーカップをお盆に載せて咲夜が現れた。
「いい香りね」
「コーヒーはモカが好き。この香りがね」
「お砂糖とミルクはどうしましょうか」
「置いておいて頂戴。適当にやるわ」
「畏まりました」
そう言って咲夜は消える。
「それにしても、この館にもコーヒーってあるのね」
「ええ。飲むのは私だけだけれど」
「我儘なのね」
「魔女ですもの。さて、何だったかしら。ああ、アリスのひらめきについてだったわね」
「そう、私にいい考えがある」
「それは失敗するフラグらしいわ」
「やめてよ、縁起でもない」
「で、何をひらめいたのかしら」
「指針と言うか、ただの“べからず集”なのだけれどね。人形が最初から私と同じように世界を見ることがないように、ってところ。でしょう?」
「なんで私に聞くのかしら」
「だって、パチュリーがそう仕向けたんでしょう。私がそういう発想を得るように」
「まさか。人の心を操るなんて、少ししかできない」
「で、正解?」
「まあ、概ね」
「成程。じゃあこの方向で進めていけばいいわけね」
「補足させて貰うと、因果関係こそが幻想。人間の認識は因果関係に縛られている。人間の認識は幻想に縛られている。人間のように考えさせたいのなら、現実に則さない認識を組み込まなければいけない」
「でも、最初から幻想を与えてはいけない」
「そう。やっぱりアリスは頭がいいわね」
「かなり引っ張って貰った気がするけれど?」
「それでも最小限よ。手取り足取り教えたりはしていない」
「まあ、パチュリーは優しいものね」
「唐突にそういうことを言わないで。喘息の発作を起こすわよ」
「……脅されてるのかしら」
「さて、色々とアリスが閃いたみたいだし、これで研究も完成かしら」
「まだよ。これから試行錯誤の日々が始まるわ。宿命を暴きだしてもそれが真っ当に機能するかは運命次第だもの」
「そうね。運命なんていう物事を変化させる力はとても気紛れだものね」
「変化の力、ね。易もそんな感じだったかしら」
「そう。物事の変化が易の本質。ある程度の指針はあるけれど、あれも運命を前提にして宿命を読み解いているわ」
「そうよね。宿命なしでは人は生きられないけれど、運命なしではまともに存在すら出来ない」
「両方を受け入れる、というか、運命を忘れない、というところかしら。人形にいきなり宿命を押しつけてはいけない。勿論、生物としての反射や自己保存なんかは無いとそもそもただの物に過ぎなくなってしまうのだけれど、その辺の生物学的な事はアリスが知ってのとおりね」
「そうね。インプットとアウトプットは確保して、更に内部処理を変化させていく、と。ところでパチュリー」
「何かしら」
「今度はちゃんと質問するわね。答えて頂戴」
「ええ、なんなりと」
「あなたは、どうして自分で自律人形を作らないのかしら」
その質問に、パチュリーは押し黙る。
視線を彷徨わせるが、何を見ているわけでもない。
アリスは砂糖壺から砂糖を三杯コーヒーへ入れ、かき回した。
少しだけミルクを垂らす。
ミルクとコーヒーが混じりあい複雑な模様を表面に描いたころ、カップを持ちあげ啜る。
その間も、パチュリーは何も答えなかった。
アリスはさらに続ける。
「私にこれだけ筋道を示すことのできるパチュリーが、まさか作る技術が無いなんて言わないでしょう? 確かに私よりも指先が器用ではないのかもしれない。だからって、面倒だから私に全部作らせようとするような性格じゃないでしょう? いえ、寧ろあなたなら私よりもずっと上手に人形の人格面について作り上げられる筈よね。分かっているんでしょう? もうこれは私一人の研究なんかじゃない。なのにあなたは、これは私の研究だからって言う。私とパチュリーの共同研究じゃないって言う。何があなたをそんなに頑なにさせるのかしら。確かにパチュリーに比べれば私は何も知らない若輩者かもしれないわ。だけど、もういいんじゃない? いくら私が未熟者でも、そろそろ本当のことを教えてよ!」
語気を荒げたアリスは、暫く肩で息をしていた。
その様子を見て、パチュリーはますます逡巡する。
しばらくアリスを見つめていたかと思うと、口を開こうとしてやめる。
そしてまた視線を逸らし、しばらくするとアリスを見つめ、そして何事か言いかけるが結局何も語らない。
そんなことを何度か繰り返すうち、アリスはとうとうしびれを切らして立ち上がる。
「アリス、待って」
「……ええ、待ちましょう」
「その、呆れないで聞いてほしいのだけれど」
「……聞きましょう」
「その、ね」
「……」
「きっと気分を害するでしょうけど、最後まで聞いてちょうだい。本当は私だって、アリスとの共同研究だって思っているわ」
「だったらなんで」
「これは私の実験だったんだけど、そう、何て言えばいいのかしら。私の概念があなたの中でどう育っていくのか、観察していたの」
「え?」
「アリスという母胎に種を植え付けたらどんな実を結ぶのか、と言うことなのだけど」
「……そう」
「つまりは私の欲望ね。あなたのconceptionに興味があったの。でもそれを観察するからには建前上あなた一人の研究でなければいけない。アリスに知られてしまっては実験にならないもの」
「……そういうこと」
「許してほしいとは、今更言えないわね。だけど私は何よりあなたに呆れられ、嫌われるのが怖かった。一方的に私の勝手に巻き込んで置いて今更何を言っているのかと思うかもしれないけれど。アリスは賢いものね。隠し通せるとは思っていなかったけど、全部終わるまではもつと思ったのに」
しばしの間、沈黙が空間を支配する。
視線を落とし、じっと立ちつくすパチュリー。
そんなパチュリーに向かって、アリスは口を開く。
「それがどうしたの」
「……え?」
「言ったじゃない。最初から魔女相手に公平な取引が出来るとは思ってないって。人魚姫が脚を貰って声を奪われるのに比べたら、ずいぶんと良心的な価格設定よ。寧ろパチュリーに利益があるのか疑問に思うくらいね。いいでしょう。これから創る子は、私とパチュリーの子供よね。時が来たら産むと言ったじゃない。産んで見せるわ」
「……そう。ありがとう」
「ああ、でもしばらくは来られないわよ。流石にかかりきりにならないと完成はしないでしょうから。そうね、半年くらいかしら。その間ここには来ないわ」
「そう。成功を祈るわ」
そう言うと、パチュリーは薄く微笑んだ。
僅かに口の端が緩み、全身に張り巡らされた緊張が解ける。
アリスも表情を崩し、椅子に座り直した。
「さて、言うことがあるなら今聞きましょう。何かある?」
「……そうね。名前はエイダがいいかしら」
「エイダね。またなんで?」
「ベクターキャノンとか撃てそうじゃない」
「独立型戦闘支援ユニット!?」
「まあ、本当は別に理由があるのだけれど」
「じゃあそっちを言いなさいよ。なんで基本的に隠し事をするのかしら」
「そういう性格だからとしか言いようが無いわね」
「で、本当のところは?」
「Autonomously Developing Artificial Intelligence 自律発展型人工知能。略してADAIだけれど、エイダの方が可愛いじゃない」
「可愛い、ねぇ。パチュリーがそういう言葉を使うのは珍しいわね」
「何を言うのよ。アリス可愛いっていつも言っているわよ。心の中で」
「聞こえないわ、心の中じゃ」
「そう。残念ね」
「ええ、残念。じゃあ、また半年後に」
「そうそうアリス、これを渡そうと思っていたのよ」
そのまま立ち去ろうとしたアリスをパチュリーが呼びとめる。
その手には何やら透明な結晶を持っていた。
「ん?」
「五行器の小型版、と言えるほど性能は良くないけれど。サイズ比を考えればこれでも十分動くはずよ。尤も、定期的に魔力を補給しなければいけないけれど。補給はアリスでも出来るようになっているから」
「……さっきまでこれを?」
「ええ。以前から暇を見て取り組んでいたのだけれど、やっとね。使って頂戴」
「これが無いと完成しないわよ。ありがとう、パチュリー」
「じゃあ、期待してるわ」
「待ってて頂戴。絶対に作り上げて見せるから」
そう言うと、アリスは帰り支度を始める。
「完成を祈っておきましょうか。何に祈るかは分からないけれど」
「神綺様にでも祈っておいて」
「あら、アリスってばマザコンなのかしら」
「……やっぱりいいわ」
「じゃあ、遠近自在エネルギー法で祈っておくから。ルヒタニ様あたりに」
「いらないわ。ていうか誰?」
「さあ。この魔術書によればリンパ腺で交信できるらしいわ」
「妖しいことこの上ないわね」
「じゃあアリス、またいつか」
「……ええ。完成したら真っ先に知らせるわ」
「楽しみに待っているわ」
「じゃあね」
支度を整えたアリスは椅子から立ち上がり、軽く手を振る。
パチュリーもそれに応えるように手を上げる。
アリスはそのままドアの方へと歩いて行く。
静かにドアノブを回すと、アリスはそのままドアの向こうに吸いこまれるように消えた。
パチュリーは、もはや温くなったコーヒーを一口啜る。
「……あ、五行器どうするのかしら。まあ、困ったら連絡が来るわよね」
きっと困ることは無い。
だって、五行器から魔力が供給されている以上は人形は自然な体勢をとるように動くはずなのだから。
それくらい、今のアリスならあっという間に解決してしまうだろう。
そんなことを考えながら、残っているコーヒーを一気に飲む。
「やっぱり苦い」
そう呟きながらも、パチュリーの表情は嬉しそうだった。
■□■□■
・蛇の足・
外では蝉が喧しく鳴いている。
いかに緑が深い魔法の森といえども、夏場ともなれば日差しも差し込むし気温も上がる。
アリスは蒸し暑い空気に耐えかねて家中の窓を開け放つと、屋根に向かって水を撒き始めた。
昨夜からずっと作業にかかりきりだったのだが、先程やっと最後の仕上げが終わったところだった。
作業中は然程不快感を覚えることが無かったのだが、一度集中が切れるとどうにも気持ちが悪い。
何より、一週間前から居着いた居候が蒸し暑くて敵わないとせっついてきていた。
「アリス、暑いわ。雨を降らせてもいいかしら」
「そんなちょくちょく天気をいじってたら、そのうち巫女に退治されるわよ」
「私は構わないけれど」
「私が構うのよ」
「そう。なら仕方ないわね」
「パウンドケーキを焼いておいたから、それでも食べて待ってて。私はちょっとシャワーを浴びて来るから」
「なんだか餌を与えられる愛玩動物の気分だわ」
「あら、違った?」
「ここ数日については反論のしようが無いわね」
「というか、なんだって完成もしてないのに押しかけてきたのかしら」
「半年経っても音沙汰が無かったもの」
「確かに半年とは言ったけど、きっかりその通りに出来上がるわけが無いじゃない」
「だって半年よ。半年もアリス無しで耐えたのに。それはもう、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んだわ」
「そして無様に負けたのね。まあ来てくれたのは嬉しかったけれど」
「で、具合はどうなの?」
「上々。一息ついたら起こすつもり。パチュリーに仕込まれてから十月十日どころではない時間が経ってしまったけど、今日があの子の誕生日よ」
「仕込むとか、何それいやらしい」
「そうでしょう? conceptがconceptionなのだし」
「ところで、立ち会ってもいいかしら」
「どうぞ。そもそも、それが目的でしょう?」
「それも目的なのよ。何よりもアリスに会うために来たのだから」
「そう。じゃあ、シャワー浴びて来るわね」
そっけなく言うと、アリスはリビングから出て行く。
やがて訪れた無音の中、時折水音が聞こえる。
パチュリーは手持無沙汰に耐えかねて持ち込んだ本を開く。
いつもならすぐに本の内容に集中してしまえるのだが、今はあれやこれやと気が散ってしまいすぐに本を閉じた。
出産の時の男親の心境はこういう物なのだろうかと考え、苦笑する。
何も本当にアリスが子供を産むわけではない。
分かっていても、やきもきしてしまう。
そして、自分が最早何も出来ないことさえ理解しているのに、こうして立ち会いたいと思ってしまっている。
「重症よね。今更だけど」
「怪我でもしたのかしら」
いつの間にかアリスがシャワーを終えて戻ってきていた。
そんなことにも気がつかないくらい動揺しているのだと気付き、パチュリーは溜息を吐く。
「いいえ。お医者様でも草津の湯でも、という具合に重症なだけよ」
「そう。正直妬けるわね」
「は?」
「そんなにあの子のことが気がかりなのかしら。大丈夫よ、私の腕は確かだし、あなたのアドバイスも間違ってない。きちんと目覚めるわ」
「あのねぇ」
ぐったりと、椅子に身体を全て預けてしまうくらいにぐったりと、パチュリーは脱力する。
「一遍はっきりさせておいた方がいいと思うのだけど、私はアリスのことを考えてこうも落ち着かない気分でいるの。そりゃ確かに自律人形は気になるわよ。でも、それ以上にあなたのことばかり考えるわ。そこのところ、どう思っているのかしら」
「……そりゃ、嬉しいわよ。私だってパチュリーのことは、その、好きだもの。でも、共同研究の結果は大事でしょう?」
「大事よ。でもそれはアリスだから大事なの。心ぐらい読んで頂戴」
「無理難題よね、それ」
「まあ、さとり妖怪でもない限りはね」
「信じていいのよね、パチュリーのこと」
「勿論よ。アリスに誓って」
「それは誓いとしてどうなのかしら。……まあいいわ。私もパチュリーを信用しているもの」
「ありがとう」
「どういたしまして。じゃあ行きましょうか、パチュリー。娘の目覚めよ」
「……パチェ」
「え?」
「パチェと、呼んで頂戴」
「……ええ、行きましょう、パチェ」
手を取り合って、リビングを出、工房のドアを開ける。
人が一人横になれるだけの大きさの作業台の上には、人形が一体横たわっていた。
まだ服は着ていない。
胸のあたりに、こぶし大の隙間が空いている。
アリスはゆっくりと、横に置いてあったトレイの中から小型五行器を取り出す。
胸の隙間に丁度おさまるサイズのそれを慎重に差し入れ、慣れた手つきで人形の胸を縫い合わせた。
五分、十分と何も起こらずに時間ばかりが過ぎて行く。
やがて十五分ほど経ったあたりで、人形の関節がゆっくりと曲がっていく。
同時に瞼が開き、その裏から水晶で出来た瞳が覗く。
その瞳が、アリスとパチュリーを捉えた。
人形が口を開き、何事か声を発しようとする。
しかし、使いなれていない器官を無理に動かしても、はっきりとした声にはならない。
アリスは動こうとする人形を手で制し、頭を撫でた。
そのまま頬に手を添え、水晶の瞳を覗き込むとゆっくりと口を開く。
「おはよう、エイダ。私があなたのママよ」
「じゃあ、私がお父さん、になるのかしら?」
「どうでもいいわよ。私はアリス。こっちがパチュリー。宜しくね」
「ところで、この子言葉は分かるの?」
「いいえ。声の出し方だってこれから教えるのよ」
「……まあ、こういうのは気分よね」
「ええ。気分は大事よ」
「そうね」
「歩き方はおろか立ち方も覚えさせないといけない。先は長いわ」
「それでも、まずは祝わせて頂戴。アリス、おめでとう」
「ありがとう、パチェ。愛してる」
「ええ、アリス。愛してる」
二人は抱き合うと、どちらからともなく口付ける。
互いのぬくもりを感じながら、暫く離れることは無かった。
パチュリーさんやアリスさんだけでなく、美鈴や咲夜さんなども良いキャラしていて、読んでいて楽しかったですっ。
良いですね、実に!
相変わらずの素晴らしいパチュアリでした
もう文句なしに最高でした!
続きを期待して待っています。
次は家族三人の和気あいあいストーリーを!
相変わらずの良い薀蓄とパチュアリでした。
私の読解力が足りないんですかねwww
やはりこれもジャスティス!
ストイックなつくりながら全方向に満足できてしまう読後感です。
続き、期待していますね。
ウチはレミリアでありながらアリスみたいな思考タイプなのかもしれないな~、とか読んでて思った。だからウチはry)
さて、今度はウィキでも読みに行くかw
しかしパチュアリはいいものだ・・・
だが最高だ。
今回もすごい面白かったです。あなたの書くキャラクター、特にパチュリーはめちゃくちゃ魅力的で大好きです。
続き期待してます。
相変わらずパチュリーとアリスがだらだらいちゃいちゃと話をするばかりでしたので、
投稿前は「これ本当に面白いの?」などと不安に思っていました。
杞憂だったようです。
次回については確約しかねますが、ファイブスター物語が連載再開したら書きます、くらいの気分でお待ち下さい。
感想有り難うございました。
引きずり込まれるテンポと記述されている知識の多さが相変わらずのやばさです。
ヰさんの作品がまた読めることを楽しみにしています。
いやーまいったまいった。私の思い描く二人の理想像が既に完成されていたなんて。泣きそうです、感動で。
この二人はいつまでも眺めていたいものです。正座でもして待ってます
FSSほんとにいつ再開するんですかね・・・
あいも変わらず素敵なパチュアリでした。
洗脳されずに洗脳された演技をしながら赤ちゃんのままで集団に入れたら素敵なのにね
しかしラブラブだ