「やぁ、皆おはよう。今日も元気だね。
それじゃ起立、礼、着席。さて、教科書は何ページだったか……
ん? どうした? ……私の持っている本がいつもより多い?
ああー。これは稗田家から借りた『命名辞典 ――画数の良い名前編――』だよ。
うっかり教科書と一緒に持ってきちゃったんだな。
……え? この本を読んでいる理由?
……実はね、今度先生の家に赤ちゃんがやって来ます。そう、子を授かりました。
それで、名前は男の子だったら慧一、女の子だったら音美にしようと考えているんだけど……どうだろうか? って思って調べていたんだ」
――◇――
衝撃。
まさに雷に打たれた様な衝撃が人里中を駆け回った。
最初にその衝撃をモロに浴びたのは寺子屋の子供達だった。
朝一番。授業が始まる前に、教師を務める上白沢慧音が事も無げにサラリと言い放った冒頭の言葉が全ての始まりだった。
初め、生徒たちはポカンと呆けていた。
だが、自分たちの尊敬する優しい先生に子供ができたらしいと悟るやいなや、わーっと歓声と拍手が巻き起こった。
どこでもそうだが、赤ちゃんができるというのはとてもめでたいことだと、子供たちは体で理解している。
とかく幻想郷の様に土地が狭く、3世代家族が当たり前の地域では直のことだ。
皆が口々におめでとうございます、とかすっげー! など概ね好意的な感想を口にする。
次に慧音は洪水の様な質問攻めにあった。
いつ生まれるのですか。お腹触っていいですか。どうして今まで隠していたのですか水臭いなぁ等など。
慧音はそれらの興味津々な問いに一瞬無表情になるが、いつもの柔和な笑みを浮かべてこう答える。
「その辺のことは、お産が落ち着いたら話すよ。それより授業だ」
そしてほとんど無理矢理皆を静粛にさせ、いつも通り授業を始めた。
さて、昼前に授業が終わっても生徒たちの興奮は醒めやらない。
子供達は家に帰って、両親に朝の出来事を泡食って話す。
父ちゃん母ちゃん聞いて聞いて! 詳しいことはわからないけど、けーね先生の赤ちゃんが生まれるんだ。だから一緒にお祝いしよう! といった具合だ。
これには里の大人も吃驚仰天。寝耳に水。
ええっ、本当かい。あらあらまぁまぁいつの間に。慧音先生が言うのなら間違いない。よし、今夜は赤飯炊いてくれかーちゃん云々。
小さな幻想郷の大きな吉報。
里中皆家族みたいな人里で、この噂は冥界の庭師が跣で逃げる様な急速さで広まった。
その噂は当然神社の巫女、物好きな魔法使い、スクープ命の報道天狗、紅魔館、そして竹林に住まうあの人間にも届いた。
――◇――
「とりあえず、結婚式は私んとこの神社でいいわよね。
なんせこの幻想郷で最も歴史と格式がある神社だしね」
「何を言っているのです。守矢神社こそがふさわしいですよ。
フルーツ食べ放題、ライスシャワーばら撒き放題です」
「おおっ。大きな利権が絡んだ二大勢力のシマ争いですか。社会面に載せなければ」
そう文は、多大な信仰&収益が予想される一大イベントの入札合戦を繰り広げる霊夢と早苗を、自慢の写真機に納める。
博麗神社の茶の間には、前述3人の他に暇を持て余した魔理沙、レミリア咲夜の主従コンビ、さっきから部屋の隅っこで不機嫌そうに胡坐を組む妹紅が集っていた。
「お前ら落ち着けって。それより、慧音が妊娠したって話は本当なのか疑問なんだぜ。
なにしろネタ元がコイツの新聞だからなぁ」
そう言って、魔理沙は文をジトッとした目で見つめる。
そもそもここにいる面子は、今日の文々。新聞夕刊号にでかでかと踊っていた『上白沢慧音 ご懐妊』の文字に目を剥き、半ば集会所と化した博麗神社に集まってきたのだ。
しかし情報ソースがあの新聞だ。真偽の程は慎重に吟味せねばならぬだろう。
だが、あからさまにデマと決めてかかられた空気を感じて、文はムッとして言い返す。
「勿論、私なりに取材をして裏づけを取りましたよ。
寺子屋の生徒さんはこぞって本当に先生が言ったんだ、の一点張りでした。
あと、ご本人にも直接確認しましたし」
突然飛び出した確度の高い情報に、一同ええっ! と文ににじり寄る。
特に妹紅などは、今にも噛み付きそうな勢いで文の胸倉をつかみ上げて詰問する。
「おいブン屋。慧音は何て言っていた。言え!」
「な、何ですか妹紅さん。そんなにいきり立たなくても……
実は新聞には載せませんでしたが、今日の昼過ぎ帰宅途中の慧音さんをつかまえて突撃取材を行ったんです――」
『こんにちは慧音さん。毎度お馴染みの射命丸 文です。
早速ですが、コウノトリがやって来たって本当ですか?』
『……カラスの貴方が来るほど広まっていたか。ああ、本当だ』
『おおおっ! これは確かな証言ですね。そうだ、何か一言あれば是非』
『そうだな……子ができると不思議なもんだ。悲しくもないのに涙が止まらないことがある。
でもそれは、お腹の中の子に対する思いが溢れてきた物だと思っているんだ。
何にも心配いらないよ。だから早く会いたいな。ゆっくりまっているからね。そんな思いが一杯なんだ。
……あはは、そんなこと考えたらまた涙が出てきた。すまないが、これで失礼するよ』
『…………』
「――私はその言葉を聞いた時、母の慈しみを感じると同時に、自分が何やら野次馬根性むき出しの卑しい存在にちょっぴり感じました。
でも私は報道が使命。よって、最低限の事実が伝わる程度の記事にしました。
そして、いたたまらなくなった皆さんが、ここに集結したという訳です」
「そ、そうなの……」
妹紅は気が抜けたのか、文の胸倉から手を離すと壁に背をずりずりともたれかける。
目は焦点が合っていないし、威勢の良かった口からは小さな呼吸音が聞こえてくるだけ。
まるで青菜に塩をふったみたいに、しおらしくなってしまった。
どうやら相当心にクるものがあったらしい。
「どうやら本当っぽいわね。完全に母性に目覚めているみたいだし」
「はあぁ~、慧音先生お母さんになるんだ……いいなぁ」
「慧音が母親か。上手に子育てするんだろうな」
紅緑黒の人間トリオがヤイヤイ自分なりの感想を漏らす中、吸血鬼の最年長者が口を挟む。
「あのさ、皆でお茶を濁していないで、そろそろ核心を突きましょうよ。
あのワーハクタクの相手は誰なの? それが今回一番の議題でしょ」
「そ、それは」
「何故かこの新聞には相手側の情報が一切ありません。それが信憑性を新聞紙より薄っぺらくしているのですわ」
咲夜の酷評に文はぐっ、と言葉に詰まる。
慧音は半妖だが、スラリと高い身長で人里を巡回し、屈託のない笑顔と安心感を振りまいている。
気立てもよく、料理も得意な人里一番の知的美人だ。
彼女が自然と、男性の衆目を集めてしまうのも致し方ないだろう。
その人気ぶりは、こっそりファンクラブが設立される程だ。
そんな慧音には、婚約者はおろか恋人だっていなかったはず。
異性はもちろん、同性の人間だって相手が気にならない訳がない。
特に、け~ね倶楽部 会員番号1番の妹紅は、その話題が出ただけで肩をビクッと震わせ動揺を露にしている。
しかし、これは本人に問いただすには野暮すぎる内容。
全員の目は自然と、そーゆー野暮天には慣れっこのマスコミ天狗へ向かう。
「あやややや……わ、私もそこまでは聞いていません。
さすがに、あの空気でここまで個人的なことは聞きづらいというか……」
「ハァ!? あんた今まで散々私たちの私生活書き散らかしといて、どの口がそんな殊勝なこと言ってんの」
「いや、ですから……今回は雰囲気というか、空気感が違いすぎて」
「何だよまだるっこしいなー。普段のウザいくらいの突貫精神はハッタリなのか」
「なっ! じゃ、じゃあ意気地なしの私に変わって、魔理沙さんが取材してくれますか!?」
カチンときた文の反撃に、魔理沙はぐむっ! とたじろぐ。
「それは……あー、霊夢。お前も気になるだろ。一緒に聞きに行かないか。
大丈夫。慧音に会ったら、しっかり後ろから見守ってやるんだぜ」
「それ私が一人で聞きに行くも同然でしょ。早苗、あんたのトコで結婚式挙げたいって言ってたわね。
事前の打ち合わせとか称して、確認しちゃいなさいよ」
「ええっ! いや、まだ決まった訳じゃないので……やっぱり面と向かっては聞きづらいですよ……」
「そうだ、こういう時は言いだしっぺがやるって相場が決まってるぜ。だから」
「あら咲夜、お茶の時間だわ」
「はいお嬢様。携帯ティーセットをご用意いたしますわ」
「こら! お茶を濁しながら透明な紅茶を飲むな!」
まさに会議は踊るが、されど進まず状態。
いいかげん気まずい役回りの醜い押し付け合いがピークに達したとき、先刻から黙りこくっていた元人間が発言する。
「私が聞く」
「も、妹紅」
「私は慧音と永い付き合い。多少なら厚かましい態度も大目に見てくれるでしょ」
「でも、あなた」
「皆まで言わないで」
妹紅は手をさっと挙げ、会話を切り上げる。
妹紅と慧音が、ただの永い付き合いで済ませられる関係ではないと、顔見知りならわかっている。
厭世的で人との交わりを持ちたがらない妹紅が、姿を見るだけで頬を染めたり、時には感情むき出しで意見をぶつけ合うが、結局はお酒を呑んで笑いあう数少ない人物が慧音だ。
慧音も妹紅をいつも気遣いニコニコと世話を焼く。
その両人は傍目に見ても、組み木の様に自然とぴったり合わさった良仲に感じられた。
そんな妹紅が、この驚愕の報道に何も感じないはずがない。
その証拠に、いつもどっしり落ち着いている彼女が、先刻の慌てぶりを恥も外聞もなく衆目にさらしたのだ。
何度も、何度も確かめたかったのだろう。でもその度に見たくない、信じたくないと心がブレーキをかける。
それで足が竦んでどうしようもなくて。
だから、神社で自分の感情を誤魔化すしかなかったのだろう。
でも今は感情の整理がついたのか、その顔に嫉妬や恨みつらみといった下賎な感情はなく、ただ大切な相棒の門出を願って微笑を作る。
そのストイックさに、皆は圧倒される。
「妹紅さん……」
「守矢の。そんな泣きそうな声はやめて。
それにしても私にまで黙ってるなんて、慧音もやってくれるよ。
こりゃあ、是が非でも勿体つけて正体隠した婿の面拝んでおかないと、私の腹の虫が治まらないな。
これで箸にも棒にもひっかからない男つかまえてたら、拳骨喰らわせてやらにゃ。ははは」
ポケットに手をつっこんで取り出した紙巻タバコに火をつけ、妹紅は殊更明るく天井を仰いで言う。
だが、一同は息を呑んだ。
妹紅の頬には、一筋の光る線。もう部屋の中にまで差し込む夕日に照らされていた。
「それで、喰らわせた後にね……
これからも寺子屋で授業して、自分の子供たくさん作って、そんでたまには……私のトコに遊びに来いって、言ってやらないとね。
幸せに、なれよって……言って、やらないとねぇ……」
斜陽が顔を翳らせ、表情を悟らせまとする。
だが、ぶるぶる震える紫煙の根元が妹紅の本心を如実に語る。
そんな切なく哀しい、不器用な女の祝辞と決別の言葉に心を打たれた。
――◇――
しばらく水を打ったかの様に一同は押し黙っていたが、ふと表から「ごめんください」の声が聞こえる。
声の主は、噂の人物だ。
一同は吸い寄せられる様に、賽銭箱のある正面口へ出て行く。
「やぁ、夕飯時に失礼するよ……ってなんだ皆お揃いで」
向こうの山に沈む夕日を背に、慧音は不思議そうな顔をして立っていた。
代表して霊夢が答える。
「ちょっと寄り合いをね。ところで、何か用かしら?」
「ああ。この神社では、安産祈願のお守りは無いものかと聞きにきたんだが……」
と、慧音の語尾がおぼつかなくなる。
集団の後ろに、タバコを急いでもみ消す妹紅を見つけたからだ。
「妹紅……」
「や、やあ慧音。子供が生まれるらしいわね。
別に、その……めでたいことは結構よ。だけど、私は何にも知らなくて……極端に驚いたというか、その……」
「妹紅。黙っててすまなかった」
言葉を選びすぎてしどろもどろになる妹紅に、慧音が頭を下げる。
「幾度も打ち明けようと試みたんだが、どうしても勇気が出なかった。
嫌われるんじゃないか、もう会ってくれなくなるんじゃないか。そう思って言い出せなかったんだ。
妹紅、不甲斐ない私を許してほしい」
ややオーバーなくらい平に謝る慧音。妹紅はそんな慧音の肩を優しく抱き起こす。
「……馬鹿。私はそんなことで慧音を嫌いになったりしないわよ。私に気を使うのはいいけど、見縊るのはやめて」
「……本当に」
「ええ、本当。むしろ何でも話してくれた方がお互い気持ちがいいわ」
「そう……ありがとう」
「なんだ湿っぽいな。子供が出来たんだ、嬉しいことでしょう。
お相手は誰だか知らないけど、そんな悲しい顔していたら嫌われちゃうわよ。
そうだ、今度その婿を紹介してちょうだい。じっくり話し合いたいからね」
妹紅はやけにブルーな慧音を元気付けようと、陽気に振舞う。
だがその明るい雰囲気は、慧音が放った次の一言で冷や水をかぶった様に凍りついた。
「相手は……父親は、誰だかわからないんだ」
「……え?」
かすれた、傍から聞いても間抜けな声が妹紅の口からにじむ。
重たそうな夕日が、緩慢な動きで完全に沈みきった。
「二ヶ月くらい前、いつもの様に里の夜回りをしていたんだ。
そしたら、突然後ろから襲われて……悲鳴を上げたのに誰も助けてくれなくてっ!……
後で子ができたと知った時には、もう、どうしようもなかった……」
ぎゅうっと拳を握り締めて俯き、だんだん息を荒く凄惨な状況を吐き出す慧音。
しかし、突如顔をあげる。その表情は、笑顔。
ただそれは、いつもの周囲の人間をほっこりと和ませる笑みではなく、何かを哀願する羊を思わせる口の歪み。
その様を目撃した者の背毛が、一斉に逆立つ。
宵闇が、どんどん辺りを侵食していく。
「でもね……お腹の子には罪なんてない。ある訳がない。
だから、ちゃんと生んだら、私が責任を持って面倒を見ようと思う。
そう決心しているのに、踏ん切りがまだつかないのかなぁ。
何にも心配いらないよ。だから早く会いたいな。ゆっくりまっているからね。
そう毎日言い続けないと夜も眠れないなんて、私も脆くなったもんだ」
へへへ、とレコードの音声の様に平板だった独白を、空笑いで締める。
と、慧音の足元にぽた、ぽたと水の染みが浮かび上がる。
雨か? と慧音は上を見て手をかざし、空に異常が無いことを確認してから、その水は自分の表情を排した目から出ていることに気づいた。
「あれ? 何だ、また涙が出てきた。
おかしいな、子供ができんだそ。嬉しいんだ。悲しくなんかない。
あれ、あれ、どうして止まらないんだ!
本当に嬉しくて、それで、う、愛らしい子で、全然悲しくなんか……なんか……
あ、ああ、あう、ああっ!!」
それが、激情の決壊点だった。
慧音は魂消る甲高い咆哮を上げながら、わんわんと泣き崩れる。
膝をつき、両手で双眸を押さえつけるが、隙間から涙が溢れ出てくる。
聞く者の胸をザックリと抉る慟哭。
一陣の風が、びゅう、と慧音の脇を通り抜けた。
たまらなくなった早苗が慧音に走り寄り、優しく背中をさする。
だが、ふいごで薪を熾す様に泣き声が増長する。
ついに早苗もぼろぼろともらい泣きし、小さく丸まった身体を抱きしめる。
「先生……こんな……ごめんなさい。私、私っ……」
その涙は何もしてやれない、言葉すらかけられない悔しさも混ざっているのか、早苗はただ子供の様に泣きじゃくる慧音を抱きすくめる。
「――許せないんだぜ」
箒を爪が真っ白になる程強く握り締めた魔理沙が、低く呻く。
霊夢も、かっと目を見開く。ぎりと奥歯を噛み締めて、この惨状を目に焼き付けようとする。
文の背中の羽はざわざわと膨れ上がり、眼光は猛禽類のように鋭く研ぎ澄まされる。
その眼は、いつもヘラヘラしている新聞記者ではなく、それだけで相手を射殺せそうな高位な妖怪のみが持ち得るそれであった。
「……咲夜。久しぶりよ。こんなにも、吸血鬼の血が騒ぐ夜は」
「ええ、お嬢様。今夜のお料理は腕によりをかけますわ。新鮮な肉塊が手に入るのですもの」
そう、色を増した紅い眼の吸血鬼は、牙を剥き出しにして哂う。
その従順なる僕はいつもの様に冷静だったが、手にかけたナイフの切っ先は小刻みに震える。
皆、下腹部から湧き上がる戦慄きが抑えられない。
慧音を、いや女の尊厳を踏みにじった愚者に対して、宥恕の念など到底ありえないのだ。
そんな壮絶な空気の中、怒りを糊塗し口調を和らげる技術を持ち合わせた早苗が、慧音をあやすように語りかける。
「慧音先生、もう泣かないで。私達は先生の味方ですよ。だから少し落ち着いて、ね?」
「ぐす……うえぇ……ごめん……ごめんよぉ」
「慧音が謝る必要はないぜ! そんなに自分を責めるな!」
「ごめんよ……ごめんよ沢子ぉぉぉー!」
「そう、悪いのは沢子であって決して慧音のせいじゃ
沢子?」
え、沢子……沢子って誰……えええ?
早苗と魔理沙が必死に慰める会話に突然出てきた謎の名前に、場が疑問符に包まれる。
だが、慧音の独白は嗚咽交じりに進行する。
「私がもっと気をつけていれば、あんなドラ猫に乱暴されることもなかったのに!
あまつさえ父猫が誰とも知れない子が出来るなんて……私の可愛い沢子に狼藉を働いた責任どう取るんだああぁぁぁ!!」
それを聞いた一同の時が、止まる。
魔理沙が、そんなまさかと思いつつ、おそるおそる慧音に『本当の』事情を尋ねる。
「あー、慧音。ちょっと聞くけど、沢子っていうのはどこのどなただ?」
「……沢子は、私が雨に濡れて震えていたのを拾った猫だ。可愛いんだぞ。
真っ白で細身でな、さぁっと長い尻尾に私と揃いのリボンを結んでやったら、これが愛おしいのなんの」
「えと、それじゃ妊娠したっていうのは!?」
「沢子だ。酷い話だろ!
いつの間にか腹が大きくなっていて、永遠亭で診てもらったら子が授かっていると言うじゃあないか。
でも相手が分からなくて、それで歴史を覗いたら、沢子がどこぞの馬の骨のオス猫に押し倒されていたんだ!
そこからは私も見ていられなかった……
あの悲鳴は忘れられない。同意が無いことは明白だ! どうして私の沢子がぁぁぁ」
そうまくし立てて、また悲しくなったのか、よよよ、と涙を流す慧音。
一行は、ようやく全ての思考がボタンの掛け違いだったことを悟る。
それを悟った瞬間、恐ろしいまでの虚脱感が襲い、同時に滝の様な質疑兼ツッコミの応酬が始まる。
「あのな、猫の交尾って大体そーゆー感じなんだぞ!」
「ええっ!? ほ、本当なのか……」
「まぁ野良に、その……致されたっていうのは何とも言い難いけど、珍しくはないわね」
「なんと……あんなに荒々しいのが……」
余程カルチャーショックを受けたのか、頭を掻き毟りながら激しくうろたえる慧音。
どうやら歴史や一般教養は得意だが、生物学や保健体育は苦手だったらしい。
「じゃあ、私の取材の時の答えは何だったのですか!?」
「沢子が子を生んでも大丈夫、私が絶対面倒見るからという意思表示だが?」
「それであんな我が事の様に取り乱していたのですか!?」
「沢子は私の家族も同然だ! 充分、我が事だろう」
「何で慧音じゃなくて猫が妊娠したってハッキリ言わなかったのよ!?」
「え? 言ってなかったっけ?」
「言ってないわぁ!!」
魔理沙の本格派ツッコミで場の緊張は完全にトーンダウンし、早苗はさっきまでぼろぼろ流した涙を返せ! と言わんばかりにがっくりうなだれる。
霊夢は盛大にため息をつくし、文は面の皮を元に戻してバシバシフラッシュを焚く。
紅魔館ズはもう飽きちゃったのか、いそいそと帰り支度を整えていた。
「まったく、大山鳴動して猫一匹だぜ」
「そーよ。そもそも、妹紅にまであんな深刻な態度を取るもんだから、話がこじれるのよ。
どうして黙っていたの?」
霊夢の問いに、慧音は気まずそうに頬を掻きながら答える。
「あー……妹紅は猫の毛が駄目らしいんだ。
猫が近くに寄っただけで、クシャミ鼻水が止まらなくて、目が充血していた。
そんな妹紅に猫を飼ってます、なんて言えないよ」
そう嘆息する慧音。
成程、そんな事情なら飼い猫の存在をひた隠しにして、バレたら平謝りしたのも頷ける。
「でも、今日妹紅に言われて考えを改めた。やはり隠し事はお互い気分が良くない。
この際はっきりと謝って、しこりのない関係を築きたいと思う。
妹紅、色々と心配をかけさせてしまったが、これからも一緒に居てくれるかい?」
慧音は本人が居たら鼓動を極限まで昂ぶらせる、ある種凶暴な台詞をさらりと投げかける。
そう、『本人が居たら』意外と初心な蓬莱人の反応をニヤニヤ眺め倒して、大団円に持って行けただろう。
ようやく、慧音は気づく。
「あれ? 妹紅はどこにいるんだ?」
慧音はきょろきょろと辺りを見回すが、人群れの中に妹紅の姿が見受けられない。
不思議そうな顔をする慧音に、霊夢がどこか達観した哀愁のある表情で答える。
「慧音。あなたが大泣きした時、何か感じなかった?」
「え?……ああ、風が吹いたけど、この山間部にしてはやけに熱かったな。
まるで真夏の昼間みたいな熱風だった……」
慧音は記憶の糸を辿って呟いた瞬間、その糸は綱の様に太くなって、ある展開にがっちり結合される。
それは、慧音の全身から冷や汗を大河の様に流させるに充分な破壊力と真実味があった。
その反応を見て、霊夢もようやくわかったか、と事態がかなりマズくなっていることを告げる。
「そう、その時妹紅があなたの脇を通り過ぎて、今人里にいるでしょうね。
そして、多分――」
慧音の背後から、夕焼けの様な橙色の閃光が神社に降り注いだ。
と同時に、大量の酸素を奪われた大気が発するくぐもった爆発音が、霊夢の話をさえぎる。
慧音は、振り向けなかった。いや、振り向かなくても業火の火柱が明々と燃えているのが予想できる。
霊夢が、完全に諦め切った様相で短い続きを発した。
「多分じゃなくて、もう手遅れね」
――◇――
人里の中空に、火の鳥が出現していた。
その明るさは、日の沈んだ幻想郷の時刻を夕刻まで差し戻している。
火の鳥は操る者の荒れ模様を一身に具現化したのか、禍々しく攻撃的な姿でばちばちと燃え盛る。
そんな炎の下では、地獄の鬼もかくやという想像を絶する憤怒の感情を剥き出しにして仁王立つ妹紅。
妹紅の前には、里中の青年、壮年、初老の男達。いわば里の生産年齢人口の片割れが、地べたに正座させられている。
妹紅の迫力が伴う命令に逆らえなかったのだろう。生まれたての小鹿の様にカタカタと震えて俯く姿が、それを饒舌に語っている。
すると、妹紅が腹の底まで痺れさせる様な大音声で、男達に一喝する。
「この中に一人!
私の大事な大事な慧音の純潔を汚い手段で奪った上、その責任さえまっとうしない宇宙の塵芥にも劣る屑野郎がいる!
お前だろ!!」
「いいいい、いえ! ち、ち、ち、違います!!」
「お前やぁぁぁー!!!」
「ひいいぃぃぃ!! すみませんごめんなさい!!」
襟首をつかみ上げられ、理不尽な取調べの標的となった不運な青年は、涙と鼻水を垂らして許しを請う。
その醜態を見た妹紅は、コイツは違うと思ったらしく、ぞんざいに手を離して青年を解放する。
腰を抜かした彼が這う様にして逃げ帰った男集団に、怒りの冷めやらない妹紅が猛る。
「おい! 聞いているか、この女の敵め!
こそこそ隠れていないで潔く出てきたら、一思いに燃やしてやろう。
ただし、いつまでもシラぁ切るつもりだったら、時間をかけてジワジワと火あぶりにしてやる!
さぁ、最初に火達磨になりたい奴から前に出ろ!!」
魔女裁判も真っ青な窮地に、男達が今度こそ恐慌状態に陥る。
振動の止まらない手で合掌し、ぶつぶつと念仏を唱える者もいる。
周りでは、男の家族や親友が最早これまでと泣き崩れていた。
その人垣の中で
「あわわわわわ……」
里の守護者たる慧音が、自分が引き起こした事の結果を骨の髄まで存分に理解していた。
有事の際は自らの危険をも顧みず、里に近づく魑魅魍魎を追っ払う頼もしい慧音が、今や猟犬に睨まれた鴨のように動けない。
止めなければ、と頭は考えていても、実際に不動明王の如き凄みを発散しまくる妹紅を見ると、体が拒否してしまう。
慧音が薄っすら涙目に引きつった笑みを浮かべて、一緒に付いてきてもらった面子に「助けて!」というサインを必死に送る。
だが、一同はにこやかに一言。
「私は結界を守って、あなたは人里の治安を守る。つまり管轄外だから、私は無理」
「えっ!?」
「知ってるか? 大規模な火災の時、爆薬で炎をふっ飛ばす消火方法があるそうだ。
この状況だが、慧音という爆薬が妹紅の傍で吹き飛べばすぐ収まるぜ。
で、その時爆心地にのうのうといる奴が居ると思うか?」
「なっ!?」
「あ、すいません。私は神奈子様と諏訪子様に晩ご飯をお作りしなければならないので、これで失礼します」
「ちょっ!?」
「あやや~、ここに割り込むのは勘弁してください。私は戦場カメラマンじゃないんで」
「まっ!」
「あ、ちなみにレミリアと咲夜は、紅茶をもう一杯飲みたいからってもう帰ったわ。
君子危うきに近寄らずの精神よ、って言い残して」
「ぎゃー!!!」
慧音の悲痛な叫びも空しく、慧音を除く一行は蜘蛛の子を散らす様にそそくさと物陰に退避してしまった。
残された慧音は途方に暮れるが、守護者としての使命が己を奮い立たせる。
何とかありったけの勇気と責任感を掻き集めて、妹紅の方へ歩き出す。
そんな戦場へ赴く兵士の様に悲壮な後姿を目撃し、防御体勢万端な皆の想いは一つ。
死なない程度に頑張れ。あと、なるべくこっちに火の粉を飛ばさないでくれ、と。
――◇――
ごっちーん! と鈍く痛そうな衝撃音が響き渡る。
その音の発生源では、麗しの半獣が「あうう~」と呻き声をあげて、頭をさすりながらへたり込んでいた。
勿論、今度は別の怒りで震える妹紅の鉄拳制裁が炸裂したのだ。
「こっ、こっ、この馬鹿!」
事の全ての真相を知った妹紅は、鮮紅色に染め上げた顔で慧音にやる方ない感情をぶつける。
「猫!? 猫に子供ができただけだって!?
私はね、勝手に勘違いした挙句、その猫のために無実の人間を処刑する所だったのよ!」
「はうあう~、面目ない……」
「それで済んだら退治屋はいらないでしょうがっ!!」
興奮して語気を荒げる妹紅を、木陰から出てきた一同はやれやれと眺める。
ヘタな異変よりも恐怖の格が違った今回の猫騒動は、何とか収束したようだ。
ちなみに疑いの全てが事実無根と知った住人達が暴動を起こすのでは、と傍観者組はハラハラしていたが、男衆は妹紅の怒りが慧音に向いた途端、一目散に解散した。
疑われた不快感云々より先に、死地を脱した喜びを家族とむせび泣きながら分かち合い、各々が信ずる神に感謝を捧げていたのでまぁ問題ないだろう。
だが、それで妹紅の昂ぶりが抑えられるはずもなく、激情の炎は燃え上がる。
結果、妹紅は口が滑らないよう制御する部分を自ら焼き切ってしまった。
「どーりで慧音に抱きついたら、しばらくクシャミが止まらないと思ったよ!」
「うえっ! も、妹紅!?」
「わかる? 私はあの時、猫の毛がたっぷりついた胸元にぐりぐり顔を押し付けたのよ。うう、思い出しただけでジンマシンが出そう……」
「ちょ! 待っておちつい」
「これが落ち着ける!? もう慧音の家に泊まれないわよ私!
でも泊まりたいのよ私は! だからできるだけ我慢する。
だけど、鼻水ズルズルの女を膝枕したいと感じる? おでこ同士をコツンってできる? 後ろからギュってしてナデナデはどお?
毎度のことだけど、これをしてもらわないと私、寂しくて眠れなくなるんだからね!」
「ぎゃー! ぎゃー!! これ以上はやめてぇ!!」
「眠るといえば、布団はちゃんと干して毛を払っておいて。布団の中で睦みあうのに涙は野暮だからね。
特にあの熱い夜の最中に、『妹紅、もし私が妹紅のこと嫌いだったらどうする?』とか冗談半分に聞くなんて無粋の極みよ!
今でもそれをチラッと考えただけで……すん……ホラ! こんな涙が見たいの!?
まぁ、その後ぎゅーって抱っこしてもらいながら一晩中『ごめん、愛してるよ』って言ってくれたからいいけどね。大体、いくら貴方が半獣でも、あんなに激しく求められたら体が保たな」
「月に代わってヴォルケーノォォォ!!!」
「ぎゃん!」
立て板に水の通り早口でまくし立てる妹紅に、頭から湯気を出している慧音がヘッドバットを以ってして会話を強制終了させる。
「な、何するんだよ」
「何? じゃなーい! 周りを見てみろ!」
涙目でそう促す慧音。妹紅はゆっくり周りを確認し、ようやく体中の体温が急上昇する。
目に映るは、笑っている顔見知りの面々。
ニヤニヤと、あらあらまあまあと、きゃあきゃあと、下世話な感情を隠しきれない笑みだ。
「ほほぅ。そこまで進行していましたか」
「そりゃぁ、慧音の事ならあれだけ前後不覚に陥るわけよねぇ」
「女性同士のリリアンヌなご関係……じょ、常識に囚われてはいけませんねハァハァ」
「あやややや~、これは夕刊の見出しを訂正しませんとね。
『上白沢慧音 ご懐妊……予定!? お相手は焼き鳥店店長のM.H』
うん。非常にキャッチーな感じがイイ!」
「待て待て待てーい!! 誤解だ! 言葉の綾だって! 私と慧音はそんな関係じゃないってば!」
好き勝手な物言いに、妹紅はわたわたと両手を忙しなく上下させながら必死に弁明する。
だが、下劣な詮索は終わらない。
「ホントですかぁ?」
「本当だっての! そんな慧音相手に、何か感じるわけないだろ」
「……本当なのか」
「くどいな! なんなら公文書にしたためてもいいぞ。
天地神明に誓って慧音と不健全な関係ではないことをかくかくしかじかみたいな――」
そこまで勢いで言って、妹紅ははたと気づく。
あれ……この声はもしや!
妹紅が振り返ると、慧音が立ったまま俯いていた。
ただその肩は震え、呼吸は壊れた空気入れの様にしゃっくり上げている。
「……ひっく……ぐす……ひどいよ妹紅」
「ってうわぁー! な、泣くな。ほら気を確かに」
「だって……だってぇ……私のこと嫌いだって」
「そんなこと言ってないだろう! いいかい、私は慧音だけしか見ていないよ。
ほら、胸に手を当てたっていい。こんなにドキドキしているぞ」
「……本当?」
「ああ本当だ。慧音がいない世界なんて意味もないよ」
「本当にぃ?」
「疑り深いな。なんならこれから家に行ってじっくりねっとり証明しても――」
妹紅は考えるより先に感じた。
あれ……なんかデジャビュが見える……
「やっぱりそーゆー仲じゃん」
「ほらほら、二人の邪魔しちゃ悪いでしょ早苗」
「あの! も、もうちょっとだけ見学を……」
「心配ご無用! 後日この射命丸文が、会話の細部にいたるまで詳しく掲載いたしますから」
「ぬうぁぁぁぁぁ!!! いっそ殺せぇぇぇ!!!」
妹紅が恥かしさのあまり錯乱し、とうとう土台無理なことを発声しながらゴロゴロと地面をのた打ち回る。
そんな珍事を知ってか知らずか、慧音の家で今回の本当の主役がにゃあ、と鳴いたのだった。
【終】
それじゃ起立、礼、着席。さて、教科書は何ページだったか……
ん? どうした? ……私の持っている本がいつもより多い?
ああー。これは稗田家から借りた『命名辞典 ――画数の良い名前編――』だよ。
うっかり教科書と一緒に持ってきちゃったんだな。
……え? この本を読んでいる理由?
……実はね、今度先生の家に赤ちゃんがやって来ます。そう、子を授かりました。
それで、名前は男の子だったら慧一、女の子だったら音美にしようと考えているんだけど……どうだろうか? って思って調べていたんだ」
――◇――
衝撃。
まさに雷に打たれた様な衝撃が人里中を駆け回った。
最初にその衝撃をモロに浴びたのは寺子屋の子供達だった。
朝一番。授業が始まる前に、教師を務める上白沢慧音が事も無げにサラリと言い放った冒頭の言葉が全ての始まりだった。
初め、生徒たちはポカンと呆けていた。
だが、自分たちの尊敬する優しい先生に子供ができたらしいと悟るやいなや、わーっと歓声と拍手が巻き起こった。
どこでもそうだが、赤ちゃんができるというのはとてもめでたいことだと、子供たちは体で理解している。
とかく幻想郷の様に土地が狭く、3世代家族が当たり前の地域では直のことだ。
皆が口々におめでとうございます、とかすっげー! など概ね好意的な感想を口にする。
次に慧音は洪水の様な質問攻めにあった。
いつ生まれるのですか。お腹触っていいですか。どうして今まで隠していたのですか水臭いなぁ等など。
慧音はそれらの興味津々な問いに一瞬無表情になるが、いつもの柔和な笑みを浮かべてこう答える。
「その辺のことは、お産が落ち着いたら話すよ。それより授業だ」
そしてほとんど無理矢理皆を静粛にさせ、いつも通り授業を始めた。
さて、昼前に授業が終わっても生徒たちの興奮は醒めやらない。
子供達は家に帰って、両親に朝の出来事を泡食って話す。
父ちゃん母ちゃん聞いて聞いて! 詳しいことはわからないけど、けーね先生の赤ちゃんが生まれるんだ。だから一緒にお祝いしよう! といった具合だ。
これには里の大人も吃驚仰天。寝耳に水。
ええっ、本当かい。あらあらまぁまぁいつの間に。慧音先生が言うのなら間違いない。よし、今夜は赤飯炊いてくれかーちゃん云々。
小さな幻想郷の大きな吉報。
里中皆家族みたいな人里で、この噂は冥界の庭師が跣で逃げる様な急速さで広まった。
その噂は当然神社の巫女、物好きな魔法使い、スクープ命の報道天狗、紅魔館、そして竹林に住まうあの人間にも届いた。
――◇――
「とりあえず、結婚式は私んとこの神社でいいわよね。
なんせこの幻想郷で最も歴史と格式がある神社だしね」
「何を言っているのです。守矢神社こそがふさわしいですよ。
フルーツ食べ放題、ライスシャワーばら撒き放題です」
「おおっ。大きな利権が絡んだ二大勢力のシマ争いですか。社会面に載せなければ」
そう文は、多大な信仰&収益が予想される一大イベントの入札合戦を繰り広げる霊夢と早苗を、自慢の写真機に納める。
博麗神社の茶の間には、前述3人の他に暇を持て余した魔理沙、レミリア咲夜の主従コンビ、さっきから部屋の隅っこで不機嫌そうに胡坐を組む妹紅が集っていた。
「お前ら落ち着けって。それより、慧音が妊娠したって話は本当なのか疑問なんだぜ。
なにしろネタ元がコイツの新聞だからなぁ」
そう言って、魔理沙は文をジトッとした目で見つめる。
そもそもここにいる面子は、今日の文々。新聞夕刊号にでかでかと踊っていた『上白沢慧音 ご懐妊』の文字に目を剥き、半ば集会所と化した博麗神社に集まってきたのだ。
しかし情報ソースがあの新聞だ。真偽の程は慎重に吟味せねばならぬだろう。
だが、あからさまにデマと決めてかかられた空気を感じて、文はムッとして言い返す。
「勿論、私なりに取材をして裏づけを取りましたよ。
寺子屋の生徒さんはこぞって本当に先生が言ったんだ、の一点張りでした。
あと、ご本人にも直接確認しましたし」
突然飛び出した確度の高い情報に、一同ええっ! と文ににじり寄る。
特に妹紅などは、今にも噛み付きそうな勢いで文の胸倉をつかみ上げて詰問する。
「おいブン屋。慧音は何て言っていた。言え!」
「な、何ですか妹紅さん。そんなにいきり立たなくても……
実は新聞には載せませんでしたが、今日の昼過ぎ帰宅途中の慧音さんをつかまえて突撃取材を行ったんです――」
『こんにちは慧音さん。毎度お馴染みの射命丸 文です。
早速ですが、コウノトリがやって来たって本当ですか?』
『……カラスの貴方が来るほど広まっていたか。ああ、本当だ』
『おおおっ! これは確かな証言ですね。そうだ、何か一言あれば是非』
『そうだな……子ができると不思議なもんだ。悲しくもないのに涙が止まらないことがある。
でもそれは、お腹の中の子に対する思いが溢れてきた物だと思っているんだ。
何にも心配いらないよ。だから早く会いたいな。ゆっくりまっているからね。そんな思いが一杯なんだ。
……あはは、そんなこと考えたらまた涙が出てきた。すまないが、これで失礼するよ』
『…………』
「――私はその言葉を聞いた時、母の慈しみを感じると同時に、自分が何やら野次馬根性むき出しの卑しい存在にちょっぴり感じました。
でも私は報道が使命。よって、最低限の事実が伝わる程度の記事にしました。
そして、いたたまらなくなった皆さんが、ここに集結したという訳です」
「そ、そうなの……」
妹紅は気が抜けたのか、文の胸倉から手を離すと壁に背をずりずりともたれかける。
目は焦点が合っていないし、威勢の良かった口からは小さな呼吸音が聞こえてくるだけ。
まるで青菜に塩をふったみたいに、しおらしくなってしまった。
どうやら相当心にクるものがあったらしい。
「どうやら本当っぽいわね。完全に母性に目覚めているみたいだし」
「はあぁ~、慧音先生お母さんになるんだ……いいなぁ」
「慧音が母親か。上手に子育てするんだろうな」
紅緑黒の人間トリオがヤイヤイ自分なりの感想を漏らす中、吸血鬼の最年長者が口を挟む。
「あのさ、皆でお茶を濁していないで、そろそろ核心を突きましょうよ。
あのワーハクタクの相手は誰なの? それが今回一番の議題でしょ」
「そ、それは」
「何故かこの新聞には相手側の情報が一切ありません。それが信憑性を新聞紙より薄っぺらくしているのですわ」
咲夜の酷評に文はぐっ、と言葉に詰まる。
慧音は半妖だが、スラリと高い身長で人里を巡回し、屈託のない笑顔と安心感を振りまいている。
気立てもよく、料理も得意な人里一番の知的美人だ。
彼女が自然と、男性の衆目を集めてしまうのも致し方ないだろう。
その人気ぶりは、こっそりファンクラブが設立される程だ。
そんな慧音には、婚約者はおろか恋人だっていなかったはず。
異性はもちろん、同性の人間だって相手が気にならない訳がない。
特に、け~ね倶楽部 会員番号1番の妹紅は、その話題が出ただけで肩をビクッと震わせ動揺を露にしている。
しかし、これは本人に問いただすには野暮すぎる内容。
全員の目は自然と、そーゆー野暮天には慣れっこのマスコミ天狗へ向かう。
「あやややや……わ、私もそこまでは聞いていません。
さすがに、あの空気でここまで個人的なことは聞きづらいというか……」
「ハァ!? あんた今まで散々私たちの私生活書き散らかしといて、どの口がそんな殊勝なこと言ってんの」
「いや、ですから……今回は雰囲気というか、空気感が違いすぎて」
「何だよまだるっこしいなー。普段のウザいくらいの突貫精神はハッタリなのか」
「なっ! じゃ、じゃあ意気地なしの私に変わって、魔理沙さんが取材してくれますか!?」
カチンときた文の反撃に、魔理沙はぐむっ! とたじろぐ。
「それは……あー、霊夢。お前も気になるだろ。一緒に聞きに行かないか。
大丈夫。慧音に会ったら、しっかり後ろから見守ってやるんだぜ」
「それ私が一人で聞きに行くも同然でしょ。早苗、あんたのトコで結婚式挙げたいって言ってたわね。
事前の打ち合わせとか称して、確認しちゃいなさいよ」
「ええっ! いや、まだ決まった訳じゃないので……やっぱり面と向かっては聞きづらいですよ……」
「そうだ、こういう時は言いだしっぺがやるって相場が決まってるぜ。だから」
「あら咲夜、お茶の時間だわ」
「はいお嬢様。携帯ティーセットをご用意いたしますわ」
「こら! お茶を濁しながら透明な紅茶を飲むな!」
まさに会議は踊るが、されど進まず状態。
いいかげん気まずい役回りの醜い押し付け合いがピークに達したとき、先刻から黙りこくっていた元人間が発言する。
「私が聞く」
「も、妹紅」
「私は慧音と永い付き合い。多少なら厚かましい態度も大目に見てくれるでしょ」
「でも、あなた」
「皆まで言わないで」
妹紅は手をさっと挙げ、会話を切り上げる。
妹紅と慧音が、ただの永い付き合いで済ませられる関係ではないと、顔見知りならわかっている。
厭世的で人との交わりを持ちたがらない妹紅が、姿を見るだけで頬を染めたり、時には感情むき出しで意見をぶつけ合うが、結局はお酒を呑んで笑いあう数少ない人物が慧音だ。
慧音も妹紅をいつも気遣いニコニコと世話を焼く。
その両人は傍目に見ても、組み木の様に自然とぴったり合わさった良仲に感じられた。
そんな妹紅が、この驚愕の報道に何も感じないはずがない。
その証拠に、いつもどっしり落ち着いている彼女が、先刻の慌てぶりを恥も外聞もなく衆目にさらしたのだ。
何度も、何度も確かめたかったのだろう。でもその度に見たくない、信じたくないと心がブレーキをかける。
それで足が竦んでどうしようもなくて。
だから、神社で自分の感情を誤魔化すしかなかったのだろう。
でも今は感情の整理がついたのか、その顔に嫉妬や恨みつらみといった下賎な感情はなく、ただ大切な相棒の門出を願って微笑を作る。
そのストイックさに、皆は圧倒される。
「妹紅さん……」
「守矢の。そんな泣きそうな声はやめて。
それにしても私にまで黙ってるなんて、慧音もやってくれるよ。
こりゃあ、是が非でも勿体つけて正体隠した婿の面拝んでおかないと、私の腹の虫が治まらないな。
これで箸にも棒にもひっかからない男つかまえてたら、拳骨喰らわせてやらにゃ。ははは」
ポケットに手をつっこんで取り出した紙巻タバコに火をつけ、妹紅は殊更明るく天井を仰いで言う。
だが、一同は息を呑んだ。
妹紅の頬には、一筋の光る線。もう部屋の中にまで差し込む夕日に照らされていた。
「それで、喰らわせた後にね……
これからも寺子屋で授業して、自分の子供たくさん作って、そんでたまには……私のトコに遊びに来いって、言ってやらないとね。
幸せに、なれよって……言って、やらないとねぇ……」
斜陽が顔を翳らせ、表情を悟らせまとする。
だが、ぶるぶる震える紫煙の根元が妹紅の本心を如実に語る。
そんな切なく哀しい、不器用な女の祝辞と決別の言葉に心を打たれた。
――◇――
しばらく水を打ったかの様に一同は押し黙っていたが、ふと表から「ごめんください」の声が聞こえる。
声の主は、噂の人物だ。
一同は吸い寄せられる様に、賽銭箱のある正面口へ出て行く。
「やぁ、夕飯時に失礼するよ……ってなんだ皆お揃いで」
向こうの山に沈む夕日を背に、慧音は不思議そうな顔をして立っていた。
代表して霊夢が答える。
「ちょっと寄り合いをね。ところで、何か用かしら?」
「ああ。この神社では、安産祈願のお守りは無いものかと聞きにきたんだが……」
と、慧音の語尾がおぼつかなくなる。
集団の後ろに、タバコを急いでもみ消す妹紅を見つけたからだ。
「妹紅……」
「や、やあ慧音。子供が生まれるらしいわね。
別に、その……めでたいことは結構よ。だけど、私は何にも知らなくて……極端に驚いたというか、その……」
「妹紅。黙っててすまなかった」
言葉を選びすぎてしどろもどろになる妹紅に、慧音が頭を下げる。
「幾度も打ち明けようと試みたんだが、どうしても勇気が出なかった。
嫌われるんじゃないか、もう会ってくれなくなるんじゃないか。そう思って言い出せなかったんだ。
妹紅、不甲斐ない私を許してほしい」
ややオーバーなくらい平に謝る慧音。妹紅はそんな慧音の肩を優しく抱き起こす。
「……馬鹿。私はそんなことで慧音を嫌いになったりしないわよ。私に気を使うのはいいけど、見縊るのはやめて」
「……本当に」
「ええ、本当。むしろ何でも話してくれた方がお互い気持ちがいいわ」
「そう……ありがとう」
「なんだ湿っぽいな。子供が出来たんだ、嬉しいことでしょう。
お相手は誰だか知らないけど、そんな悲しい顔していたら嫌われちゃうわよ。
そうだ、今度その婿を紹介してちょうだい。じっくり話し合いたいからね」
妹紅はやけにブルーな慧音を元気付けようと、陽気に振舞う。
だがその明るい雰囲気は、慧音が放った次の一言で冷や水をかぶった様に凍りついた。
「相手は……父親は、誰だかわからないんだ」
「……え?」
かすれた、傍から聞いても間抜けな声が妹紅の口からにじむ。
重たそうな夕日が、緩慢な動きで完全に沈みきった。
「二ヶ月くらい前、いつもの様に里の夜回りをしていたんだ。
そしたら、突然後ろから襲われて……悲鳴を上げたのに誰も助けてくれなくてっ!……
後で子ができたと知った時には、もう、どうしようもなかった……」
ぎゅうっと拳を握り締めて俯き、だんだん息を荒く凄惨な状況を吐き出す慧音。
しかし、突如顔をあげる。その表情は、笑顔。
ただそれは、いつもの周囲の人間をほっこりと和ませる笑みではなく、何かを哀願する羊を思わせる口の歪み。
その様を目撃した者の背毛が、一斉に逆立つ。
宵闇が、どんどん辺りを侵食していく。
「でもね……お腹の子には罪なんてない。ある訳がない。
だから、ちゃんと生んだら、私が責任を持って面倒を見ようと思う。
そう決心しているのに、踏ん切りがまだつかないのかなぁ。
何にも心配いらないよ。だから早く会いたいな。ゆっくりまっているからね。
そう毎日言い続けないと夜も眠れないなんて、私も脆くなったもんだ」
へへへ、とレコードの音声の様に平板だった独白を、空笑いで締める。
と、慧音の足元にぽた、ぽたと水の染みが浮かび上がる。
雨か? と慧音は上を見て手をかざし、空に異常が無いことを確認してから、その水は自分の表情を排した目から出ていることに気づいた。
「あれ? 何だ、また涙が出てきた。
おかしいな、子供ができんだそ。嬉しいんだ。悲しくなんかない。
あれ、あれ、どうして止まらないんだ!
本当に嬉しくて、それで、う、愛らしい子で、全然悲しくなんか……なんか……
あ、ああ、あう、ああっ!!」
それが、激情の決壊点だった。
慧音は魂消る甲高い咆哮を上げながら、わんわんと泣き崩れる。
膝をつき、両手で双眸を押さえつけるが、隙間から涙が溢れ出てくる。
聞く者の胸をザックリと抉る慟哭。
一陣の風が、びゅう、と慧音の脇を通り抜けた。
たまらなくなった早苗が慧音に走り寄り、優しく背中をさする。
だが、ふいごで薪を熾す様に泣き声が増長する。
ついに早苗もぼろぼろともらい泣きし、小さく丸まった身体を抱きしめる。
「先生……こんな……ごめんなさい。私、私っ……」
その涙は何もしてやれない、言葉すらかけられない悔しさも混ざっているのか、早苗はただ子供の様に泣きじゃくる慧音を抱きすくめる。
「――許せないんだぜ」
箒を爪が真っ白になる程強く握り締めた魔理沙が、低く呻く。
霊夢も、かっと目を見開く。ぎりと奥歯を噛み締めて、この惨状を目に焼き付けようとする。
文の背中の羽はざわざわと膨れ上がり、眼光は猛禽類のように鋭く研ぎ澄まされる。
その眼は、いつもヘラヘラしている新聞記者ではなく、それだけで相手を射殺せそうな高位な妖怪のみが持ち得るそれであった。
「……咲夜。久しぶりよ。こんなにも、吸血鬼の血が騒ぐ夜は」
「ええ、お嬢様。今夜のお料理は腕によりをかけますわ。新鮮な肉塊が手に入るのですもの」
そう、色を増した紅い眼の吸血鬼は、牙を剥き出しにして哂う。
その従順なる僕はいつもの様に冷静だったが、手にかけたナイフの切っ先は小刻みに震える。
皆、下腹部から湧き上がる戦慄きが抑えられない。
慧音を、いや女の尊厳を踏みにじった愚者に対して、宥恕の念など到底ありえないのだ。
そんな壮絶な空気の中、怒りを糊塗し口調を和らげる技術を持ち合わせた早苗が、慧音をあやすように語りかける。
「慧音先生、もう泣かないで。私達は先生の味方ですよ。だから少し落ち着いて、ね?」
「ぐす……うえぇ……ごめん……ごめんよぉ」
「慧音が謝る必要はないぜ! そんなに自分を責めるな!」
「ごめんよ……ごめんよ沢子ぉぉぉー!」
「そう、悪いのは沢子であって決して慧音のせいじゃ
沢子?」
え、沢子……沢子って誰……えええ?
早苗と魔理沙が必死に慰める会話に突然出てきた謎の名前に、場が疑問符に包まれる。
だが、慧音の独白は嗚咽交じりに進行する。
「私がもっと気をつけていれば、あんなドラ猫に乱暴されることもなかったのに!
あまつさえ父猫が誰とも知れない子が出来るなんて……私の可愛い沢子に狼藉を働いた責任どう取るんだああぁぁぁ!!」
それを聞いた一同の時が、止まる。
魔理沙が、そんなまさかと思いつつ、おそるおそる慧音に『本当の』事情を尋ねる。
「あー、慧音。ちょっと聞くけど、沢子っていうのはどこのどなただ?」
「……沢子は、私が雨に濡れて震えていたのを拾った猫だ。可愛いんだぞ。
真っ白で細身でな、さぁっと長い尻尾に私と揃いのリボンを結んでやったら、これが愛おしいのなんの」
「えと、それじゃ妊娠したっていうのは!?」
「沢子だ。酷い話だろ!
いつの間にか腹が大きくなっていて、永遠亭で診てもらったら子が授かっていると言うじゃあないか。
でも相手が分からなくて、それで歴史を覗いたら、沢子がどこぞの馬の骨のオス猫に押し倒されていたんだ!
そこからは私も見ていられなかった……
あの悲鳴は忘れられない。同意が無いことは明白だ! どうして私の沢子がぁぁぁ」
そうまくし立てて、また悲しくなったのか、よよよ、と涙を流す慧音。
一行は、ようやく全ての思考がボタンの掛け違いだったことを悟る。
それを悟った瞬間、恐ろしいまでの虚脱感が襲い、同時に滝の様な質疑兼ツッコミの応酬が始まる。
「あのな、猫の交尾って大体そーゆー感じなんだぞ!」
「ええっ!? ほ、本当なのか……」
「まぁ野良に、その……致されたっていうのは何とも言い難いけど、珍しくはないわね」
「なんと……あんなに荒々しいのが……」
余程カルチャーショックを受けたのか、頭を掻き毟りながら激しくうろたえる慧音。
どうやら歴史や一般教養は得意だが、生物学や保健体育は苦手だったらしい。
「じゃあ、私の取材の時の答えは何だったのですか!?」
「沢子が子を生んでも大丈夫、私が絶対面倒見るからという意思表示だが?」
「それであんな我が事の様に取り乱していたのですか!?」
「沢子は私の家族も同然だ! 充分、我が事だろう」
「何で慧音じゃなくて猫が妊娠したってハッキリ言わなかったのよ!?」
「え? 言ってなかったっけ?」
「言ってないわぁ!!」
魔理沙の本格派ツッコミで場の緊張は完全にトーンダウンし、早苗はさっきまでぼろぼろ流した涙を返せ! と言わんばかりにがっくりうなだれる。
霊夢は盛大にため息をつくし、文は面の皮を元に戻してバシバシフラッシュを焚く。
紅魔館ズはもう飽きちゃったのか、いそいそと帰り支度を整えていた。
「まったく、大山鳴動して猫一匹だぜ」
「そーよ。そもそも、妹紅にまであんな深刻な態度を取るもんだから、話がこじれるのよ。
どうして黙っていたの?」
霊夢の問いに、慧音は気まずそうに頬を掻きながら答える。
「あー……妹紅は猫の毛が駄目らしいんだ。
猫が近くに寄っただけで、クシャミ鼻水が止まらなくて、目が充血していた。
そんな妹紅に猫を飼ってます、なんて言えないよ」
そう嘆息する慧音。
成程、そんな事情なら飼い猫の存在をひた隠しにして、バレたら平謝りしたのも頷ける。
「でも、今日妹紅に言われて考えを改めた。やはり隠し事はお互い気分が良くない。
この際はっきりと謝って、しこりのない関係を築きたいと思う。
妹紅、色々と心配をかけさせてしまったが、これからも一緒に居てくれるかい?」
慧音は本人が居たら鼓動を極限まで昂ぶらせる、ある種凶暴な台詞をさらりと投げかける。
そう、『本人が居たら』意外と初心な蓬莱人の反応をニヤニヤ眺め倒して、大団円に持って行けただろう。
ようやく、慧音は気づく。
「あれ? 妹紅はどこにいるんだ?」
慧音はきょろきょろと辺りを見回すが、人群れの中に妹紅の姿が見受けられない。
不思議そうな顔をする慧音に、霊夢がどこか達観した哀愁のある表情で答える。
「慧音。あなたが大泣きした時、何か感じなかった?」
「え?……ああ、風が吹いたけど、この山間部にしてはやけに熱かったな。
まるで真夏の昼間みたいな熱風だった……」
慧音は記憶の糸を辿って呟いた瞬間、その糸は綱の様に太くなって、ある展開にがっちり結合される。
それは、慧音の全身から冷や汗を大河の様に流させるに充分な破壊力と真実味があった。
その反応を見て、霊夢もようやくわかったか、と事態がかなりマズくなっていることを告げる。
「そう、その時妹紅があなたの脇を通り過ぎて、今人里にいるでしょうね。
そして、多分――」
慧音の背後から、夕焼けの様な橙色の閃光が神社に降り注いだ。
と同時に、大量の酸素を奪われた大気が発するくぐもった爆発音が、霊夢の話をさえぎる。
慧音は、振り向けなかった。いや、振り向かなくても業火の火柱が明々と燃えているのが予想できる。
霊夢が、完全に諦め切った様相で短い続きを発した。
「多分じゃなくて、もう手遅れね」
――◇――
人里の中空に、火の鳥が出現していた。
その明るさは、日の沈んだ幻想郷の時刻を夕刻まで差し戻している。
火の鳥は操る者の荒れ模様を一身に具現化したのか、禍々しく攻撃的な姿でばちばちと燃え盛る。
そんな炎の下では、地獄の鬼もかくやという想像を絶する憤怒の感情を剥き出しにして仁王立つ妹紅。
妹紅の前には、里中の青年、壮年、初老の男達。いわば里の生産年齢人口の片割れが、地べたに正座させられている。
妹紅の迫力が伴う命令に逆らえなかったのだろう。生まれたての小鹿の様にカタカタと震えて俯く姿が、それを饒舌に語っている。
すると、妹紅が腹の底まで痺れさせる様な大音声で、男達に一喝する。
「この中に一人!
私の大事な大事な慧音の純潔を汚い手段で奪った上、その責任さえまっとうしない宇宙の塵芥にも劣る屑野郎がいる!
お前だろ!!」
「いいいい、いえ! ち、ち、ち、違います!!」
「お前やぁぁぁー!!!」
「ひいいぃぃぃ!! すみませんごめんなさい!!」
襟首をつかみ上げられ、理不尽な取調べの標的となった不運な青年は、涙と鼻水を垂らして許しを請う。
その醜態を見た妹紅は、コイツは違うと思ったらしく、ぞんざいに手を離して青年を解放する。
腰を抜かした彼が這う様にして逃げ帰った男集団に、怒りの冷めやらない妹紅が猛る。
「おい! 聞いているか、この女の敵め!
こそこそ隠れていないで潔く出てきたら、一思いに燃やしてやろう。
ただし、いつまでもシラぁ切るつもりだったら、時間をかけてジワジワと火あぶりにしてやる!
さぁ、最初に火達磨になりたい奴から前に出ろ!!」
魔女裁判も真っ青な窮地に、男達が今度こそ恐慌状態に陥る。
振動の止まらない手で合掌し、ぶつぶつと念仏を唱える者もいる。
周りでは、男の家族や親友が最早これまでと泣き崩れていた。
その人垣の中で
「あわわわわわ……」
里の守護者たる慧音が、自分が引き起こした事の結果を骨の髄まで存分に理解していた。
有事の際は自らの危険をも顧みず、里に近づく魑魅魍魎を追っ払う頼もしい慧音が、今や猟犬に睨まれた鴨のように動けない。
止めなければ、と頭は考えていても、実際に不動明王の如き凄みを発散しまくる妹紅を見ると、体が拒否してしまう。
慧音が薄っすら涙目に引きつった笑みを浮かべて、一緒に付いてきてもらった面子に「助けて!」というサインを必死に送る。
だが、一同はにこやかに一言。
「私は結界を守って、あなたは人里の治安を守る。つまり管轄外だから、私は無理」
「えっ!?」
「知ってるか? 大規模な火災の時、爆薬で炎をふっ飛ばす消火方法があるそうだ。
この状況だが、慧音という爆薬が妹紅の傍で吹き飛べばすぐ収まるぜ。
で、その時爆心地にのうのうといる奴が居ると思うか?」
「なっ!?」
「あ、すいません。私は神奈子様と諏訪子様に晩ご飯をお作りしなければならないので、これで失礼します」
「ちょっ!?」
「あやや~、ここに割り込むのは勘弁してください。私は戦場カメラマンじゃないんで」
「まっ!」
「あ、ちなみにレミリアと咲夜は、紅茶をもう一杯飲みたいからってもう帰ったわ。
君子危うきに近寄らずの精神よ、って言い残して」
「ぎゃー!!!」
慧音の悲痛な叫びも空しく、慧音を除く一行は蜘蛛の子を散らす様にそそくさと物陰に退避してしまった。
残された慧音は途方に暮れるが、守護者としての使命が己を奮い立たせる。
何とかありったけの勇気と責任感を掻き集めて、妹紅の方へ歩き出す。
そんな戦場へ赴く兵士の様に悲壮な後姿を目撃し、防御体勢万端な皆の想いは一つ。
死なない程度に頑張れ。あと、なるべくこっちに火の粉を飛ばさないでくれ、と。
――◇――
ごっちーん! と鈍く痛そうな衝撃音が響き渡る。
その音の発生源では、麗しの半獣が「あうう~」と呻き声をあげて、頭をさすりながらへたり込んでいた。
勿論、今度は別の怒りで震える妹紅の鉄拳制裁が炸裂したのだ。
「こっ、こっ、この馬鹿!」
事の全ての真相を知った妹紅は、鮮紅色に染め上げた顔で慧音にやる方ない感情をぶつける。
「猫!? 猫に子供ができただけだって!?
私はね、勝手に勘違いした挙句、その猫のために無実の人間を処刑する所だったのよ!」
「はうあう~、面目ない……」
「それで済んだら退治屋はいらないでしょうがっ!!」
興奮して語気を荒げる妹紅を、木陰から出てきた一同はやれやれと眺める。
ヘタな異変よりも恐怖の格が違った今回の猫騒動は、何とか収束したようだ。
ちなみに疑いの全てが事実無根と知った住人達が暴動を起こすのでは、と傍観者組はハラハラしていたが、男衆は妹紅の怒りが慧音に向いた途端、一目散に解散した。
疑われた不快感云々より先に、死地を脱した喜びを家族とむせび泣きながら分かち合い、各々が信ずる神に感謝を捧げていたのでまぁ問題ないだろう。
だが、それで妹紅の昂ぶりが抑えられるはずもなく、激情の炎は燃え上がる。
結果、妹紅は口が滑らないよう制御する部分を自ら焼き切ってしまった。
「どーりで慧音に抱きついたら、しばらくクシャミが止まらないと思ったよ!」
「うえっ! も、妹紅!?」
「わかる? 私はあの時、猫の毛がたっぷりついた胸元にぐりぐり顔を押し付けたのよ。うう、思い出しただけでジンマシンが出そう……」
「ちょ! 待っておちつい」
「これが落ち着ける!? もう慧音の家に泊まれないわよ私!
でも泊まりたいのよ私は! だからできるだけ我慢する。
だけど、鼻水ズルズルの女を膝枕したいと感じる? おでこ同士をコツンってできる? 後ろからギュってしてナデナデはどお?
毎度のことだけど、これをしてもらわないと私、寂しくて眠れなくなるんだからね!」
「ぎゃー! ぎゃー!! これ以上はやめてぇ!!」
「眠るといえば、布団はちゃんと干して毛を払っておいて。布団の中で睦みあうのに涙は野暮だからね。
特にあの熱い夜の最中に、『妹紅、もし私が妹紅のこと嫌いだったらどうする?』とか冗談半分に聞くなんて無粋の極みよ!
今でもそれをチラッと考えただけで……すん……ホラ! こんな涙が見たいの!?
まぁ、その後ぎゅーって抱っこしてもらいながら一晩中『ごめん、愛してるよ』って言ってくれたからいいけどね。大体、いくら貴方が半獣でも、あんなに激しく求められたら体が保たな」
「月に代わってヴォルケーノォォォ!!!」
「ぎゃん!」
立て板に水の通り早口でまくし立てる妹紅に、頭から湯気を出している慧音がヘッドバットを以ってして会話を強制終了させる。
「な、何するんだよ」
「何? じゃなーい! 周りを見てみろ!」
涙目でそう促す慧音。妹紅はゆっくり周りを確認し、ようやく体中の体温が急上昇する。
目に映るは、笑っている顔見知りの面々。
ニヤニヤと、あらあらまあまあと、きゃあきゃあと、下世話な感情を隠しきれない笑みだ。
「ほほぅ。そこまで進行していましたか」
「そりゃぁ、慧音の事ならあれだけ前後不覚に陥るわけよねぇ」
「女性同士のリリアンヌなご関係……じょ、常識に囚われてはいけませんねハァハァ」
「あやややや~、これは夕刊の見出しを訂正しませんとね。
『上白沢慧音 ご懐妊……予定!? お相手は焼き鳥店店長のM.H』
うん。非常にキャッチーな感じがイイ!」
「待て待て待てーい!! 誤解だ! 言葉の綾だって! 私と慧音はそんな関係じゃないってば!」
好き勝手な物言いに、妹紅はわたわたと両手を忙しなく上下させながら必死に弁明する。
だが、下劣な詮索は終わらない。
「ホントですかぁ?」
「本当だっての! そんな慧音相手に、何か感じるわけないだろ」
「……本当なのか」
「くどいな! なんなら公文書にしたためてもいいぞ。
天地神明に誓って慧音と不健全な関係ではないことをかくかくしかじかみたいな――」
そこまで勢いで言って、妹紅ははたと気づく。
あれ……この声はもしや!
妹紅が振り返ると、慧音が立ったまま俯いていた。
ただその肩は震え、呼吸は壊れた空気入れの様にしゃっくり上げている。
「……ひっく……ぐす……ひどいよ妹紅」
「ってうわぁー! な、泣くな。ほら気を確かに」
「だって……だってぇ……私のこと嫌いだって」
「そんなこと言ってないだろう! いいかい、私は慧音だけしか見ていないよ。
ほら、胸に手を当てたっていい。こんなにドキドキしているぞ」
「……本当?」
「ああ本当だ。慧音がいない世界なんて意味もないよ」
「本当にぃ?」
「疑り深いな。なんならこれから家に行ってじっくりねっとり証明しても――」
妹紅は考えるより先に感じた。
あれ……なんかデジャビュが見える……
「やっぱりそーゆー仲じゃん」
「ほらほら、二人の邪魔しちゃ悪いでしょ早苗」
「あの! も、もうちょっとだけ見学を……」
「心配ご無用! 後日この射命丸文が、会話の細部にいたるまで詳しく掲載いたしますから」
「ぬうぁぁぁぁぁ!!! いっそ殺せぇぇぇ!!!」
妹紅が恥かしさのあまり錯乱し、とうとう土台無理なことを発声しながらゴロゴロと地面をのた打ち回る。
そんな珍事を知ってか知らずか、慧音の家で今回の本当の主役がにゃあ、と鳴いたのだった。
【終】
オチがわかっていても、作者の溢れ出る文才のおかげでとても楽しめました。
めっちゃ暗い話を期待したのでちょいがっくし。
文章に勢いがあって、すらすら読めました。
そう!悪いのは沢子であって決して慧音のせいじゃ
沢子?w(゚ロ゚;w(゚ロ゚)w;(;゚ロ゚)
こんなお話でした。いかがだったでしょうか。
奇声を発する程度の能力様
はい、猫です。モデルは『猫の恩返し』のユキちゃんです。
10番様
貴重なご意見ありがとうございます。ちょっと強引な節もありましたが、ほのぼのとしたラストを目指しました。
次回以降にご期待ください。
11番様
笑っていただけたのなら幸いです。
16番様
本気で心配された方、この場を借りてお詫び申し上げます(汗)
時に流される程度の能力様
お褒めのお言葉、恐縮です。春になると、なぜか私の部屋の真横でされちゃうので毎年困っています。なんでだろう……
愚迂多良童子様
最初はそういう展開も考えたのですが、どーにも暗い話は苦手で……。良くも悪くもハッピーエンド症候群のがま口です。
20番様
ご好評の様でよかったです。次回もよろしかったらご覧ください。
お嬢様・冥途蝶・超門番様
すばらしい昂ぶりですね。慧音先生のネーミングセンスにちと違和感を覚えた作品でもあります。誰も悪くないよ!
今作でいよいよリーチのがま口でした。