どうにも落ち着かない。
来客用のソファーに座っていた霧雨魔理沙は、目の前に置かれたティーカップを手にすると、もういちど部屋の中を見渡した。
湿った空気の漂う仄暗い地下室。古びた煉瓦造りの壁面に据えられた燭台。その上で揺らめきながら書架を照らす蝋燭の炎。
しかしどこを捜しても、本来この図書館にいるはずの人物が見当たらない。
「なぁ……パチュリーはどうした」
「体調がすぐれないとのことで、今は自室にいらっしゃいます」
何の前触れもなく訪れた来客を見ようともせずに、小悪魔は手にした羽根ペンを図書目録の上に走らせる。
それを気にするでもなく、魔理沙は紅茶を一口だけ啜ると、黙々と作業を続ける小悪魔にパチュリーの容態を訊いた。
「また喘息がひどくなったのか?」
「最近は、症状も軽かったので安心してたんですが……やっぱり、この部屋に長い間こもってるのが、よくないのかもしれません」
「ここはカビ臭いしな」
「余計なお世話です。ちゃんとお掃除してますよ」
小悪魔の手が止まり、ふてくされた表情で魔理沙を睨みつける。
「いちいち間に受けるなよ、冗談だ」
「はいはい、面白味のない奴ですいませんね。それで……どうするんですか? パチュリー様にご用があるなら、日を改めたほうがいいと思いますけど?」
「わざわざ紅茶まで出してもらったんだ。しばらくなら、話し相手になってやっても構わんぜ」
遠回しに帰れと言われていることに気付いていないのか、魔理沙はテーブルの上に積まれていた本を適当に漁ると、そのままページを捲り始める。
それを見た小悪魔も、これ以上は仕事にならないと思ったのだろう。とつぜんペンを置いて立ち上がり、大声を張り上げて作業の中断を宣言した。
「あーもー、休憩です、休憩!! 私も一緒にお茶しますよ!!」
なかばヤケになりながら、どすどすと紅い絨毯の上を歩いて魔理沙の隣まで来ると、そのまま勢いよくソファーへと身を沈める。
鼻息を荒げた小悪魔は、菓子入れの中に入っていたビスケットを鷲掴みにすると、それを次々に口の中へと放り込み、紅茶で一気に流し込んだ。
「ほんっとにもう……パチュリー様はいらっしゃらないし、想定外の来客はあるし、まだ仕事は半分しか終わってないし……なんで今日に限ってこんなに色々と重なるんでしょうかね」
「そうカリカリすんなよ。忙しい時だからこそ、休息が必要だとは思わないのか?」
「私としては、用のないお客様には早々にお帰り頂いて、さっさと自分の仕事を終わらせたかったんですけどね!!」
小悪魔の口から、小さな破片と化したビスケットの弾幕が魔理沙に襲いかかる。
「うわっ!! お前……しゃべる時は、全部食べてからにしろ!! せっかく本を返しに来たってのに……ったく、えらい言われようだな」
「え? そうなんですか?」
目を剥いて驚く小悪魔に、魔理沙はテーブルに積み上げられた本を無言で指差した。
しかし、背表紙を見た小悪魔の表情は和らぐどころか、ますます険しさを増していく。
「…………これ、ぜんぶ禁帯出の本じゃないですか。いくら捜しても見つからないと思ってたら……やっぱり勝手に持ち出してたんですね」
「堅いこと言うなよ。そのうち持ってこようとは思ってたんだ。嘘じゃないぜ」
咎められたことを笑顔で弁明する魔理沙に、地下図書館の司書は呆れた表情で大きなため息をついた。
「なに言ってるんですか。この図書館にある蔵書は、どれもパチュリー様の大切な宝物なんですよ。一冊でも失う訳にはいきません」
「それが『紅玉と瑪瑙の書』であってもか?」
その言葉を聞いた途端、小悪魔の動きが止まる。
魔理沙はそれを見逃さず、目の前にいる小悪魔の表情を伺いながら、慎重に言葉を続けた。
「もうずいぶんと前の話だが、私とパチュリーのふたりで、互いの持つ魔力について話をしたことがある。その時にあいつは、魔法使いと魔女の違いとは『紅玉と瑪瑙の書』で得られる知識の差に過ぎない、と確かに言った。だが、いくら私がそれ以上聞いても、あいつは未だに何も教えてくれない。それは、あなたが見るべきものじゃない、ってな。生殺しもいいところだとは思わないか?」
しかし、小悪魔は平然とそれを否定する。
「きっと冗談のつもりだったんでしょう。そもそも、この図書館の目録には、そんな名前の本は登録されてませんよ」
「どうだろうな。大切な宝物ほど、普通は宝箱の奥に仕舞っておくもんだぜ?」
小悪魔は黙したまま、何も語ろうとはしない。
それを自身の言葉に対する肯定と受け取った魔理沙は、自分の予想が間違っていなかったことを確信する。
「私には『紅玉と瑪瑙の書』が、この図書館以外に保管されてるとは思えない。ただ……禁帯出のエリアまで捜しても見つけられなかった希少本だ」
そう言って小悪魔を見ながら、にやりと笑う。
「そいつがどこにあるかは……どうやら、お前に訊いたほうが早そうだな」
アーチ構造の天井まで届く書架に並んだ蔵書の数は、数千万とも数億とも言われている。その中から目的の一冊を探し当てるのは、さすがに魔理沙でも無理があった。
そういう意味では、この場にパチュリーがいないのは僥倖だったのかもしれない。
なぜなら、夜中に忍び込んで手当たり次第に物色するよりも、エプロンの下で握りしめた八卦炉で小悪魔から在処を聞き出したほうが、はるかに効率がいいからだ。
「…………私は、時々この仕事が嫌になることがあります」
しかし、小悪魔の返した答えは予想を外れたものだった。
どう答えたらよいかもわからず、言葉通りに受け取った魔理沙は、とっさに相槌を打つ。
「え? まぁ……これだけ本があれば、確かに管理するだけで骨が折れそうだな」
「そういうことじゃ、ないんです」
小悪魔は紅茶に映った自分の顔を見ると、誰に告げるでもなくぼそりと呟いた。
「そこまでして、『紅玉と瑪瑙の書』という本を手に入れたいんですか?」
小悪魔が、うつむいたままの姿で魔理沙に問いかける。
「あ、あぁ……それで魔女の持つ知識が得られるなら、わざわざ拒む必要もないだろう」
百年を経ても変わることのない容姿、複数のエレメントで組み上げられた属性魔法、人ならざる者を使役する能力。そのどれもが、今の魔理沙にとっては喉から手が出るほど欲しいものばかりだった。
独学では到達することすら叶わなかった未知なる領域。もしそこに、たった一冊の本が導いてくれるのであれば、これをみすみす逃す手はない。
そう考えれば、全身に絡みつく小悪魔の冷涼とした言葉や、胸中にわだかまる名状し難い感情でさえ、どこかに押しやってしまえると思えた。
だが、しかし――――
「そうですか……なら、私も止めようとは思いません」
ゆっくりと顔を上げる小悪魔に、魔理沙の胸を打つ鼓動が早まった。
ざわめき立つのは、冷気を帯びた不穏な空気。
肌を刺す鋭い視線に感じるのは、底知れない不安と恐怖。
なぜ目の前にいる司書は、こんなにも嬉しそうな顔をするのか。
「おっしゃる通り、この図書館には目録に登録されていない魔道書が、一冊だけですが存在します。ですが……あなたは、それを閲覧するための代償として、何を支払えますか?」
「な…………」
投げかけられた質問に、魔理沙は絶句する。
「魔法使いと魔女の違い? 単純なことじゃないですか」
ゆっくりと言葉を吐き出した小悪魔は、喉元を上げて襟元のネクタイを緩めると、身につけていたシャツのボタンを外し始める。
暗室に消え入る衣擦れの音。やがて露わになった小悪魔の白い両肩と胸元には、絵とも文字ともつかない不可思議な文様のようなものが、隙間なく埋め尽くされていた。
「おい、お前の体…………」
「これが、あなたの手に入れたがっていたモノですよ、魔理沙さん」
どこか愉悦めいた小悪魔の言葉を合図に、彼女の肌に刻まれた文様は次々と姿形を変え、また新たな文様へと生まれ変わる。それが魔理沙には、柔らかな肌の上で悶え苦しむ蟲のように見えた。
「人間には決して解読することのできない私たちの言葉。あなたには、ここに書かれた知識を得るために、魔法使いという肩書きを捨て、人間という種族を捨て――――すべてを捨て去る覚悟がありますか?」
「あ、いや……それは…………」
小悪魔の問いに、魔理沙は何も言葉を発することができなかった。
それを見越していたかのように、小悪魔は魔理沙に向かって蠱惑に満ちた声で語りかける。
「私と契約して魔女になるのであれば、もっと隅々までご覧頂いても構いませんよ?」
小悪魔が妖しく微笑むと、どこからともなく冷たい風が吹いた。
それに呼応して壁面の燭台で踊っていた炎が騒ぎ出すと、首をかしげていた小悪魔の首筋と肩の辺りが――――
ぱらり、ぱらりと。
音を立てて捲れ始めた。
図書目録にさえ記されることのない異端の書が、紅玉に染まる長い髪を揺らしながら、果実のような甘い芳香を放つ。
契約を交わした者だけが閲覧できる真実の書が、瑪瑙色の双眸を妖しく輝かせながら、距離を縮めて魂の譲渡を迫る。
「知りたくはありませんか? 秘めやかなる異界の秘密を」
耳元をくすぐる甘美なささやきと艶めいた吐息。
冷たい手が頬を撫でると、理性が少しずつ、しかし確実にあらぬ方向へと捻じ曲がる。
決して手に入れることのできなかった知識の源。もしそれが、今ここで手に入るのなら、あるいは――――
「あーやめろ、くそ!! お前とは契約しないし、何も見たくない!!」
我に返った魔理沙は、かぶりを振って小悪魔の肩を掴むと、そのまま腕を伸ばして距離を取った。
その途端に、ふたりを取り巻いていた空気の流れが変わる。
頬をふくらませながら口をとがらせていた小悪魔は、はだけた服装を正しながら魔理沙のほうを向いて不満を口にした。
「そんなに邪険にしなくてもいいじゃないですか。私、何か悪いことでもしましたか? これでもサービスしたつもりなのに……ひどいですよ」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。色々な意味で……心臓が止まるかと思った」
魔理沙は、手元にあった紅茶を一気に飲み干すと、大きく息を吸って呼吸を整える。
そして開口一番、大声で小悪魔を怒鳴りつけた。
「おい!! 知識を得るのに対価が必要だとは聞いてなかったぞ!! あと、ところ構わず契約を迫るな!! もう少しで、お前に魂を抜かれるところだったぜ!!」
「だって、しょうがないじゃないですか」
小悪魔は自分のティーカップに口をつけると、そのまま膝元に置いてあったソーサーにカップを運ぶ。
「これが私の仕事なんですから」
青磁の器が重なり合う音と共に、諦念の情を含んだ小悪魔の声が室内に響いた。
魔理沙は、自分の隣でティーカップを手にする彼女の横顔を見て、ある疑念を抱く。
魔女と悪魔が取り交わす契約には、望んだ物の大きさに等しい代償が求められると聞く。
もしそれが真実であるなら、図書館の主人である魔女は、いったいどんな目的で、何を犠牲に契約を結んだのだろうか。
図書館の司書である悪魔は、いつか訪れる約定履行の時、いったい何を手にいれ、何を失ってしまうのだろうか。
いずれにしても、契約の見返りとして失ってしまう物の重さを知っているからこそ、パチュリーは『紅玉と瑪瑙の書』を読んではいけないと警告したのではないだろうか。
「…………そろそろ引き上げるぜ。邪魔したな」
今それを知る術はないし、知ったところで、おそらく自分が割って入る余地など、どこにもない――――そう思った魔理沙は、軽いため息をついて横に置いてあった帽子を被ると、ソファーから立ち上がった。
そのまま図書館の入り口まで歩き、扉に手をかけようとした時、ふいに小悪魔から声をかけられた。
「魔理沙さん」
「ん?」
「お願いしたいことがあるんですが、構わないでしょうか」
小悪魔は、書架から一冊の本を取り出した。
真新しい黒革で装丁された医薬書と思わしき書籍には、小さな栞が挟まれている。
「なんだよ、これ」
「この栞を挟んだ場所に、咳止めに有効なハーブティーの調合方法が書いてあります。これを……パチュリー様に渡して頂けませんか?」
そう言うと小悪魔は、厚みのある本を魔理沙に手渡した。
「きっと今頃は、読む本もなくて退屈してると思います。できれば、今日は一緒に……いてあげて下さい」
「お前も一緒に来ればいいじゃないか。だいたいお喋りなんてのは、人数が多いほうが楽しいもんだろ?」
「そうかもしれません。ですが――――」
小悪魔は魔理沙から目を反らす。
「契約が有効である以上、私は図書館から外に出ることはできません」
誰にも届かないほどの小さな声。
うつむいた小悪魔を見た魔理沙は、頭をかいて小さく舌打ちをする。
「なかったことにしちまえ、そんなもん。でないと、お前はこの先もずっと……こんな辛気くさい場所に縛られたままなんだろ?」
「契約の際に、私が支払ったのは『知識』と『自由』です。それを今さら破棄するなんて、できる訳ないじゃないですか」
魔理沙の言葉を聞いても、目の前にいる司書は、ただ力なく苦笑いを浮かべるだけだった。
「いいのかよ、それで!!」
「取り交わした契約の力は、誰にも――それが例えレミリア様であったとしても、決して覆すことはできません。私には……どうすることもできませんよ」
「なんなんだよ、それ…………」
納得できなかった。
運命を操る能力ですら抗えないほどの力とは、どれほどのものなのか。
もし契約という名の束縛が、この暗澹たる地下の牢獄に小悪魔を閉じ込めているのなら、どれだけの時間を彼女はこの場所で過ごさなければならないのか。
今の自分に何ができる?
どうすれば、彼女を――書架に捕らわれた悲しい本を持ち出すことができる?
どうすれば、咲き誇る花の姿を見せ、空を翔ける鳥の声を聞かせることができる?
無理だ。
何もできない。
どうすることもできない。
自分の無力さに、魔理沙は自分の拳を握りしめる。そして、喉の奥から声を振りしぼり――――
「…………明日もだ」
「え?」
「明日もここにくる。明後日も、その次も、またその次も……死ぬまで毎日かよい続けてやる、絶対にだ!! だから…………」
悔しさに胸が詰まる。
「だから…………」
それでも、拳を強く握りしめたまま。
「そんな諦めた顔するなよ」
頬をつたう感情を拭うことすら忘れ、震える声で自分の言葉を伝えた。
その言葉を最後に、ふたりは言葉を交わすこともなく、ただ静寂の訪れた場所に身を任せる。
はい、という短い返事が魔理沙の耳に届いたのは、それからずいぶんと経ってからのことだった。
「…………この本は、ちゃんと渡しといてやるよ」
魔理沙は、小悪魔に背を向けて別れを告げると、目の前の扉に手をかける。
閉ざされた重厚な扉を押し開ると、大きな軋みと共に目を眩ますほどの陽光が、薄暗い図書館の中に飛び込んできた。
「ありがとうございます」
眩しい光を浴びながら、小悪魔も小さく手を振って魔理沙を送り出した。
やがて密室に射し込んだ一条の光は、室内のいちばん奥にある魔女の机と、卓上に置かれた執筆途中の自著を鮮明に照らし出す。
その表紙に記されていた題名が、愛すべき悪魔に差し伸べる救済の手と書かれていることに、ふたりは最後まで知ることがなかった。
《END》