「小悪魔、今日はあなた休んでいいから」
いつもどおりの大図書館、私の仕事場であるはずのその場所で、我が主、パチュリー・ノーレッジ様はそんな珍しいことを口にした。
ぱちくりと目を瞬かせる私のことなど見向きもせず、いつものような眠そうな表情で本から視線をはずしもしない。
藤色の長い髪は今日も今日とてお美しく、嗅げば花のような香りがするのだろう。
そんなパチュリー様が、私にお休みを言い渡すのは非常に珍しいことだ。
何しろ、この大図書館は広大だ。咲夜さんの能力の後押しもあって、ちょっとした樹海のように本が所狭しと並んでいるのである。
いくらパチュリー様が天才的で優秀な魔法使いであるとしても、この広大な空間の書物を管理するのは骨が折れるはずだ。
私は本来、その書物を管理するために彼女に呼び出された使い魔であるのだから、仕事をとられてしまっては本末転倒だ。
しかし、それ以上に驚かされたのは、彼女が続けたその言葉にだった。
「これより、明日の正午までこの部屋に入ることを禁ずるわ。とっとと自分の部屋に戻って休むように」
「ぱ、パチュリー様!? 図書館の出入りを禁ずるって、どういうことですか!!?」
聞き捨てならない言葉を聞いて、私は思わず声を荒げてしまう。
確かに、今まで休みをもらうことは何度もあったけれど、仕事場ともいうべきこの図書館を出入り禁止にされるのは初めてのことだ。
ただでさえ、パチュリー様は喘息持ちだって言うのに、それでは万が一があった場合にそばに行くこともできないではないか。
そんな私の考えを理解しているようで、パチュリー様は小さくため息をついて魔道書のページをめくった。
「心配は要らないわ。ここ最近は調子がいいし、万が一の場合は咲夜を呼ぶから」
「でも……」
「小悪魔」
びくりと、いつになく冷たく鋭い声に身を震わせる。
ようやく私に向けてくれた視線は――氷のように冷たく、ナイフのように鋭かった。
その瞳に切り裂かれたかのように、ズキリと、心が痛んだ気がしたのは、本当に錯覚だったのか。
二度は言わないと、言外にそう告げるかのように。
「……わかりました。パチュリー様のお言葉に甘えさせていただきます」
「……よろしい。さぁ、部屋にお戻りなさい」
話はそれでおしまいというかのように、パチュリー様は再び本に視線を戻してしまった。
きっと、これ以上言葉を重ねてもパチュリー様は何も答えてくださらないだろう。
だから、私は彼女の言葉のとおりに部屋に戻るしかないわけで。
スカートの裾を掴んで一礼して、私はきびすを返して図書館を後にする。
ギィッと重々しいドアを開けて、もう一度後ろを振り返るけれど、もう彼女は私を見てもくれない。
まるでその態度は、お前は用済みだと、そう言われているようで。
胸の痛みを抱えたまま、私はその痛みを押し殺して……図書館のドアを、静かに閉めた。
▼
「はぁ~」
重苦しいため息がついついこぼれ出る。
らしくないとは思うのだけれど、今の私にはそれだけ先ほどの出来事が心に重くのしかかっていた。
いつもとは違うパチュリー様の態度、いつもとは違う仕事場でもある図書館への出入り禁止。
考えすぎだとは思うのだけれど、憂鬱な気分は消えてはくれなくて。
それほど、あの時のパチュリー様の視線は……冷たくて、恐ろしい魔女のそれだった。
「えぇい、何をうじうじ悩んでますか私ッ!!」
ぶんぶんと頭を振り、むんっと手を握って気合を入れる。
悪いことばかり考えるなんて私らしくない。うじうじ悩んで、気分が沈むなんて、そんなの私のキャラじゃないじゃないですか!
とりあえず仕事のこともパチュリー様の言葉の意味も今は放り出して、珍しい休みをじっくりたっぷりと堪能してやるのです!!
そうと決まればせっかくの休みをどんな風に過ごそうかと、あーでもないこーでもないと思考がめぐる。
部屋で本の続きを読むのもいいし、キッチンでお菓子を作るのもいいかもしれない。
少し多めに作って、後でお嬢様や妹様にお裾分けにするのもいいでしょうし……、うん、そうと決まればキッチンに向かいましょう。
ルンルンッとステップしながら鼻歌交じりにキッチンに向かい、通りすがる妖精メイドに挨拶しながら上機嫌。
そうしてたどり着いたキッチンには、どうやら先着がいらしたご様子。
銀髪のボブに両方のもみ上げ辺りから、先端に緑のリボンをつけたみつあみを結っている。
そんな特徴的な髪型にメイド服とくれば、我らがメイド長、十六夜咲夜さん以外にありえません。
「あら、小悪魔じゃない」
「咲夜さん、お勤めご苦労様です。……おや? それはお嬢様達のおやつですか?」
「えぇ、そんなところよ」
私の視線の先、そこには見事な出来栄えの大きなケーキ。
クリームがあしらわれ、イチゴがアクセントとなっているそのケーキは、見るからにおいしそうで見ているだけで口の中に甘い味わいが広がりそう。
うーん、さすが咲夜さん、昔は私や美鈴さんが教えていたというのに、今じゃこの館の誰よりも料理がお上手です。
うーん、おいしそう。ちょっと一口食べちゃだめですかねぇ。
そう思って彼女に視線を向けるのだけれど、そこで違和感に気がつく。
心なしか、咲夜さんの視線が私じゃなくて明後日のほうにそらされているような……?
「……咲夜さん、何か隠してません?」
「さて、何のことかわかりませんわ」
「咲夜さーん、誤魔化すときこっそり視線をそらす癖が直ってないですよー」
「あら、あんなところに全裸の妹様が」
「マジッすか!!?」
その言葉にとっさに反応してグリンと振り返るけれど、そこには咲夜さんの言う桃源郷はどこにもない。
ガッデム! 騙しましたね咲夜さん!?
文句のひとつでも言ってやろうともう一度彼女のほうに振り向くのだけど、どんな手品か彼女の姿はどこにもない。
なーんて、咲夜さんのことですから時を止めて退散したのでしょうけど……何もケーキまで持っていかなくてもよかったのに。
「もう、咲夜さんのいけずー」
口を尖らせてそんな文句を言ってみるのだけれど、ここにいない人に向けて言っても答えなんて帰ってくるはずもないわけで。
さてさて、文句ばかり言っていても仕方がありません。当初の予定通り、ちょっと早めのおやつの準備をいたしましょう。
咲夜さんの態度に違和感を覚えつつも、私は歌を口ずさみながら早速お菓子作りに専念するのでした。
▼
今日の外はおおむねいい天気、お嬢様たち吸血鬼にはつらい天気ではありますが、やはりこういった天気のほうが気分はいいものです。
その証拠にほら、本来門番を務める紅美鈴さんも、暢気に門の前で居眠りを続行中。
うん、いつもの光景ですね。こんなにいい天気ですから眠ってると思いましたとも。
壁に寄りかかっているように眠っているからか、真っ赤な長い髪は乱れることなくまっすぐとても綺麗。
胸の前で腕を組んでいるものだから、その豊満な胸がより強調されてるって、本人は気づいているのやら。
……うん、これ挑発してるんですよね。揉みますよコノヤロウ。いや、むしろ揉む。職務怠慢で眠ってる美鈴さんが悪いのです。
じゃ、そういうわけでさっそく――
「曲者ッ!!?」
「めかんぶっ!!?」
揉もうかと思ったら綺麗にコブシの反撃を食らいました。マル。
顔面に武道家でもある美鈴さんのコブシを食らって、思わず痛みのあまりにぴょんぴょんと跳ね回る。
しばらくは寝ぼけていた様子だった美鈴さんだったけれど、コブシを叩き込んだのが私だったことに気がついたようで、ぎょっとした様子で私の元に歩み寄ってくれた。
「こ、小悪魔ごめん!? 大丈夫だった!!?」
「……こぁっこぁっこぁっこぁ、この程度、妹様のレーヴァテインに比べれば!! ……ごめんなさい、やっぱさすってください」
私の涙目ながらの言葉に美鈴さんは苦笑して、「はいはい」と優しく怪我をさすってくれた。
うぅ、美鈴さんはやっぱり優しいです。さっきまで邪な気持ちを抱いていた自分を張り倒したい気分です。
意外とあとが残っていたのか、美鈴さんはその後気を操る程度の能力を使って治療までしてくれた。ますます持って頭が上がらない。
これで、仕事さえサボらなかったらすっごく優等生なのに。
「本当にごめんね、痛かったでしょ?」
「大丈夫ですよ、美鈴さんのおかげですっかり痛みも引きました。……それに、悪いの私のほうですし」
「ん? 何か言った?」
「いいえ!!? 何でもありませんよ何でも!!?」
ぶんぶん首を振って、「そうだ!」と声を出して先ほど作ったお菓子を取り出した。
バスケットに詰まっていたのは、我ながら上出来と自画自賛するほどの香ばしいクッキー。
今日はいつものように悪戯なしの、本気の本気な一品なのです。
ほんのり香る甘い匂いが食欲をそそり、事実、美鈴さんも「おぉ」と目を輝かせていらっしゃいます。
「美鈴さんもどうですか? 今日はそのつもりでこっちに来たので」
「あ、そうなんだ。それじゃあ、いただこうかなぁ」
そういいながら、ひょいっとクッキーを口に運ぶ美鈴さん。
美鈴さんはおいしそうに表情をほころばせ、もぐもぐとおいしそうに租借する様を見れば、満足する出来だったと確信できるというものです。
「うーん、おいしい!! 私も料理はできるけど、やっぱりお菓子だと咲夜さんや小悪魔に負けちゃうなぁ」
「あはは、咲夜さんはあーっという間に私たちを追い抜いちゃいましたからね。今日もキッチンでケーキ作ってらしたんですよ。……なんか逃げられちゃいましたけど」
今思い返してみても、あの時の咲夜さんの行動が腑に落ちない。
あそこで私から逃げる意味もわからないし、ケーキも持っていってしまったこともよくわからない。
うーんと首を傾げる私をよそに、なにやら美鈴さんはなにやら納得したのか「あ~」と頷いていらしたのです。
……え、なんですかその反応?
「美鈴さん、もしかして何か知ってません?」
「いえいえ、私はなーんにも知りませんよ?」
言葉を投げかけては見たものの、おどけたように肩をすくめて彼女は門番の仕事に戻ってしまいました。
明らかに知っている様子なのですけど、あの様子じゃ教えてくれそうにありません。
意外なことですが、美鈴さんはああ見えて口が堅いお人ですから。
ムーッと睨み付けてみても、暖簾に腕押しといった様子で、やっぱり教えてはくれないでしょう。
あむっと、苛立ちをごまかすようにクッキーを齧る。
本当はとってもおいしいと感じる甘みだったはずなのに、どうしてか今の私には何の味も感じられなかった。
▼
テクテクと腑に落ちないといった表情で、私は廊下を歩いていく。
今日は、なんだかみんなおかしい。
パチュリー様といい、咲夜さんといい、美鈴さんといい、みんなして何かを隠しているような気がしてならないわけで。
偶然といわれれば、もちろんそれまでだけれど。
だったら、この胸中に渦巻く漠然とした不安は、いったい何なのだろう?
「……およよ? あの後姿は……妹様?」
そんなことを考えていると、ふと見知った後姿を見つけて、私は歩み寄る。
金髪のサイドテールに赤いリボンがあしらわれた帽子、赤い衣服に背中には枯れ枝に七色の宝石があしらわれた奇抜な翼。
間違いなく、この館のお嬢様の妹君、フランドール・スカーレット様に間違いない。
「こんにちわ、妹様!」
「ひゃうっ!!?」
そして挨拶ついでにお尻を触ることを忘れない。みんな、ここ重要。
「内側に捻りこむように打つべしッ!!」
「明日のためにッ!!?」
そしてもれなく明日のための右ストレートをぶち込まれる私なのでした。
「……ふふ、さすが妹様。いい右を持っているじゃありませんか! 世界狙いますか!?」
「狙わないよこの馬鹿小悪魔!? ていうか、何の世界!? ねぇそれ何の世界!!?」
「強いて言えば……ロリの世界?」
「コブシ欠片たりとも関係ねぇ!!?」
「今日も相変わらずペドンペドンですね妹様、かわいらしいですよ!」
「ブッコロスッ!!」
べっこんべっこんにぶん殴られる私なのでした。
とりあえず一通りぶん殴ったら気が済んだのか、妹様はさわやかな笑顔で額の汗をぬぐいました。
対する私は額から流れる血をハンカチで拭き拭きしているのですが、最近妹様の手加減が鈍くなっているような気がしてなりません。
いや、私が悪いんですけどもね。
「ところで小悪魔、こんなところにいるの珍しいね?」
「あはは、ちょっとパチュリー様からお暇をいただきまして。……あ、クッキー食べます?」
「うん、頂こうかしら」
そう優雅に笑みを浮かべて言葉にしながら、バスケットからクッキーを取り出して、上品な様子で口に運ぶ。
うん、当主でないとはいえ、さすがは良家のお嬢様。そんななんでもない仕草が実に様になっているのです。
クッキーをひと齧りし、おいしそうに頬を綻ばせる妹様を見ていると、私のほうも嬉しくなってくる。
今でこそ自由に振舞っておいでですが、少し前までは彼女は地下に幽閉され続けておられました。
この館に召喚されたその日から、私は彼女の部屋に訪れていただけに、こうやって笑顔を見ることができるととても嬉しい。
だからついつい、彼女にはほかの人よりも多めに悪戯してしまう。
最初こそ怒りはするけれど、その後で彼女はいつも笑顔を見せてくれるから。
……ひねくれてますねぇ、我ながら。
「うん、おいしい。さすが小悪魔ね」
「お褒めに預かり、光栄の至り。まだまだありますし、これから私の部屋でティータイムとしゃれ込みませんか妹様?」
「あー、うん。そうしたいのは山々なんだけど……」
私の誘いに困ったように頬をかきながら、ついーっと視線をそらす妹様。
……はて? いつもなら大丈夫なら大丈夫と、無理なら無理とはっきり口にする妹様には珍しい、濁した言葉。
なんと答えたら言いか迷っている様子で、視線をあちこちとせわしなく動かしている。
ふむ、……これはもしや。
「妹様、もしかしてあの日ですか?」
がっつりアイアンクローで頭を鷲掴みにされる私なのでした。
どうやら選択肢を間違えたご様子、さっきから頭がメキメキと危険な警告音をかき鳴らしておいでです。
でもいいんです。だって、目の前の顔を真っ赤にした妹様はこんなにもかわいらしいんですから。
いや、ものすごく痛いんですけどね!
「あら、フランこんなところにいたの?」
「あ、お姉さまちょっと待ってて。この馬鹿の頭カチ割るから」
「妹様ぁぁぁぁぁぁぁぁ!!? そろそろギブッ!!? ギブアァァァァップッ!!?」
パンパンとタップするのだけれど、妹様はまったく持って私を開放する気はない様子。
あぁ、なんということでしょう。このままだと本当に私グロテスクなオブジェになっちゃいます!?
そんな私たちのやり取りにあきれたのか、この館の主、レミリア・スカーレットお嬢様がため息をついています。
ため息はいいですから助けてくださいお嬢様ッ!?
「フラン、あなたがその子と遊ぶのは勝手だけどわかってるの? 明日はその子の――」
「おぉっとお姉さまの喉元に蚊が一匹ィッ!!?」
「げぼろぉっ!!?」
何やら言いかけたお嬢様に、アイアンクローかけていた妹様が私をほっぽり出して、己が姉にフライングクロスチョップ。
飛び込みの勢い+バツの字にクロスした腕の直撃をうけ、ずったんばったんと奇妙な悲鳴を上げて転がるお嬢様。
はて、今のお嬢様の台詞に気になる単語があったような……?
にしても、今すごい落としましたよね? 「ドン!!」とかじゃなく「ズドパァァァァン!!」とかでしたし。
「……あのー、私がどうかしたんですか?」
「あ、あははははは!! なんでもないよ小悪魔!? それじゃ、私はお姉さまと図書館に行ってくるね!!?」
明らかに何かを誤魔化すような様子で、妹様はそそくさとお嬢様を抱えて図書館のほうへと去っていってしまった。
一人残されてしまった私は、その様子をただただポカーンと眺めることしかできず。
結局、私は妹様の姿が見えなくなったところで、深いため息をつく羽目になってしまったのでした。
▼
ぼふんっと、自室のベッドで着替えもせずに横になる。
せっかく作ったクッキーを食べる気にもなれず、小さくため息をひとつこぼしてしまう。
「皆さん、何を隠してるんですかねぇ」
ポツリとつぶやいた言葉に答えてくれる人は、誰もいない。
静かな室内に溶けて消えた独白とともに思い出すのは、みんなの反応だった。
お嬢様も、妹様も、美鈴さんも、咲夜さんも……そして、パチュリー様も。
みんな何かを知っているみたいだけれど、まるで隠すように話をはぐらかして。
一人だけ、それを知らされていないという疎外感。何を隠しているのか、何をしているのか、さっぱりわからない。
もちろん、ただの杞憂かもしれないけれど。
いまだに、あの時のパチュリー様の視線が、脳裏から離れてくれない。
はぁっと、小さなため息がこぼれ出る。
いきなり通告された休暇と、仕事場への出入り禁止。
今までこんなことなかったのに、いままであんな顔されたことなかったのに。
あんなに冷たい視線を、あの人から向けられたのは――初めてだった。
「私、送還されちゃうのかな?」
ポツリとつぶやいた言葉は、普段なら笑い飛ばしていただろう言葉。
そんなことはないって、自信を持って笑い飛ばせていただろう、取るに足らない可能性。
でも、あの視線を見た後では。
みんなの何かを隠している行動を見た後では。
そのありえない可能性が、現実味を帯びている気がして、恐ろしかった。
パチュリー様ならば、いつか私がいなくとも図書の自動整理の魔法を開発なさるだろう。
そうなってしまえば、それしか仕事としてとりえのない私は、お払い箱になる可能性だって、ゼロじゃない。
そう……ゼロじゃ、ないんだ。
ベッドに備え付けられた引き出しを開けると、ひとつのアルバムが顔を見せる。
何気なく手を伸ばして広げてみると、私がここに来てからの思い出が、いっぱい詰まっていた。
射命丸さんに頼んで撮ってもらった写真。そこには、大切な大切な、私の家族が写っている。
いつもの無表情で本を読むパチュリー様。
寝ながら拳法の訓練をするという愉快なことをやってのけた美鈴さん。
みんなに隠れて、こっそりとアイスクリームを食べていた咲夜さん。
悪戯されて、私を追い掛け回す妹様。
優雅に紅茶をたしなむお嬢様。
そんな、なんでもない日常の一コマ。
今まで私が見て来た、紅魔館の日常。
それが、もしかしたらもう見れなくなるかも知れない。
そう思うと、ひどく……恐ろしかった。
「いやだなぁ」
ポツリと、言葉がこぼれる。
どんなに取り繕ったって、私とパチュリー様の関係は契約によって縛られた主従であることには変わらない。
私がどんなにみんなを想っていても、どんなにあの人を想っていても、あの人が否といえば、それまでなのだ。
「……いやだなぁ」
そんなこと、あの人と契約したときに、わかっているつもりだった。
だけど、この館はこんなにも楽しくて、暖かくて、いつの間にかこんなにも好きになっていって。
もしも別れるときが来てしまったならば、とてもつらいことだと、わかっていたはずなのに。
「……帰りたくないよぉ」
ぽろぽろと、涙が零れ落ちる。
もしかしたら突きつけられるかもしれない別れに、怖くて、恐ろしくて、ぽろぽろと涙があふれてくる。
あの日、パチュリー様に召還された日のことを思い出す。
細く弱々しいと彼女を、助けたいと思った大事な主。
無愛想で喘息もちで、けれども時折見せてくれる笑顔が、本当に好きだった。
あの日、美鈴さんに館を案内してくれた日のことを思い出す。
まだメイド長を勤めていた美鈴さんに、キッチンの場所やお嬢様の部屋を案内されて。
一緒にお料理を作ったりしたのは、今でもいい思い出だ。
あの日、咲夜さんがやってきた日のことを思い出す。
お嬢様が拾ってきた人間の少女。小さくて無感情で、まるで笑わなかったお人形さんのような女の子。
料理を教えたり、掃除の仕方を教えたり、時には一緒に買い物に行ったこともあったっけ。
あの日、お嬢様と妹様の仲を知った日のことを思い出す。
いまだ不仲だった姉妹の仲を、個人の感情で奔走したのは大変だったけれど。
笑っていられるほうがいい。お二人が笑顔でいられるなら、私は喜んで道化を演じよう。
だって、あの二人の笑顔は、本当に、本当にかわいらしかったから。
楽しいときもあれば、苦しい時だってあった。
けれど、それを含めて、私はこの館が大好きだった。
みんなみんな、私のかけがえのない大事な家族。
離れたくない。失いたくない。ここの館に来たその日からずっと、ここは私にとっての第二の故郷なんだから。
まだ、送還されると決まったわけじゃない。
むしろ、そんなのは私の杞憂で、考えすぎだってこともあるわけで。
自分でも、いろんなことがあったせいで情緒不安定になっているという自覚もあるけれど。
そんな、恐ろしい予感が胸中から離れぬまま、私はいつの間にか深い眠りに落ちていった。
▼
翌日、正午。
私はパチュリー様に呼び出され、図書館の前に立っている。
重々しい扉が私の入室を拒んでいるように見えて、知らずと固唾を呑んで見つめてしまう。
結局、昨日から私のいやな予感は離れてはくれなかった。
むしろ、パチュリー様に直々に呼び出されたということもあって、余計にいやな予感は膨らんでしまった。
らしくない自分自身を追い出すように、一度、二度、深い深呼吸。
「よし、どんなことでもドンとこいです!!」
そんな強がりを口にしながら、図書館のドアに手をかける。
本当は、まだ怖い。もしかしたらって、決して大きくない可能性におびえている。
ほら、自分の症状がもしかしたら重い病気かもしれないと、そういった不安にこれはよく似ている。
意を決して、私はドアを押し開ける。
そこで、私を出迎えたのは――
パァン! パァンパァンパァン!! パァンパァン!!
『小悪魔、いつもいつもお仕事ご苦労様ーッ!!』
大量のクラッカーの音と、紅魔館のみんなだった。
「……へ?」
たぶん、今の私はずいぶんと間抜けな顔をしているのだと思う。
嫌な予想はどうやら外れてくれたようなのだけれど、今の光景も十分に予想の斜め上だ。
事態がさっぱり読み込めず、ボー然とする私の背中を、妹様がぐいぐいと押して室内に招き入れた。
そうして、つれてこられたのはパチュリー様の前。
恥ずかしそうに頬を染めて、咳払いをひとつしたパチュリー様に、昨日までの恐ろしさは微塵も感じられなかった。
「あの、パチュリー様。これは?」
「……今日であなたがここに来て50年、いつも働かせてばかりだから、たまには労おうと思って」
「私がどうせなら本人に内緒でびっくりさせてやろうって、パチェに言ったのさ!」
「お姉さまが危うく口滑らせかけて台無しになるところだったけどね」
私の疑問に答えるように、パチュリー様はどこか恥ずかしそうに口にして、続けるようにお嬢様が胸を張って自信満々に口にする。
そのお嬢様に対して辛辣な言葉を向けたのは妹様で、そんな彼女を美鈴さんがまぁまぁとなだめている。
「昨日は、あなたを図書館に近寄らせないためとはいえ、きついことを言ってしまったわね」
そう口にして「ごめんなさい」と、パチュリー様は言う。
あぁ、なんだ。やっぱり、私の気にしすぎだったんだ。
あの時、パチュリー様があんなに怖かったのも、みんなが何かを隠していたのも、今日この日の為に。
みんな、私のために……、こんなサプライズを用意してくれていたんだ。
そう思うと、とたんに昨日までの後ろ向きな自分がばかばかしくなった。
クスクスと笑う私を不思議そうに見つめていた妹様が、「どうしたの?」って問いかけてくる。
「いえいえ、ちょっと自分が大馬鹿者だと再認識いたしまして」
「うっわ、遅い再認識だなぁ。はた迷惑なやつ」
そんな軽口を交し合って、私も妹様もケタケタと笑う。
そんな時、奥から咲夜さんが昨日のケーキを持って現れて、妖精メイドやお嬢様が一目散にケーキに集まった。
そんな様子にくすくすと笑っていると、ふと、パチュリー様が隣に立っていることに気がついた。
「小悪魔、人使いの荒い主人だけど……これからもよろしく」
そんな恥ずかしそうな言葉をつむいで、パチュリー様は手を絡めてきた。
いつもとは少しだけ違う主人に笑顔を浮かべ、私はその手を握り返していた。
二度と離すものかと、そんな思いを表すかのように。
「私のほうこそ、これからもよろしくお願いしますね、パチュリー様。だって、ここにいるみんな、私たちの家族なんですから」
「……うん」
きゅうっと、お互いの腕にこめる力が、少しだけ強くなる。
この手から伝わる体温は暖かくて、こんなにも心地よい。
目の前には図書館には似つかわしくない、どたばた騒ぎが繰り広げられているけれども。
けれども、今日ぐらいはそんな日もいいんじゃないかなって、そう思う。
「みんな、ずっと一緒ですよ」
そう言葉にする思いはまぎれもない本心で。
パチュリー様も、微笑みながらその言葉に頷いてくれた。
もう、先ほどまでくすぶっていた不安はどこにもない。
だって、今の私はこんなにも、幸せに満ちた日々を送っているんだから。
>今すごい落としましたよね?
すごい音、でしょうか?
これは良い愛され小悪魔、この紅魔館は実に素敵な家族ですね。
シリアス小悪魔かと思えばやっぱり妹様にはそうなるんですねw
裏にある考えとかからして、やっぱりいい子です^^
作品内で小悪魔が「悲しいから泣く」のはもしかしたらこれが初ですか?
良いなぁ、この紅魔館
小悪魔は愛されるべきなのです。
恥ずかしがってる女の子っていいね!見ようと思ったら命がけだけど
>そのキャラが出てくるのは五巻かららしい
>「お前の書く小悪魔に性格が似てる」
あぁ・・・なる程。
良い紅魔館だ。