◆
季節を証明する必要性なんて、私は考えたこともありませんでした。
取りも直さず例年お決まりの景色を従え、お馴染みの花が咲き、聴き覚えのある鳥と共に過ごす。人がその季節の名を口にすればそれが到来の証拠で、会話から消えていった時は過ぎ去った証。寺子屋で半妖の先生が錆びた鐘で打ち鳴らす予鈴のように、客観的で明確な始終はありません。例えばあの薄紅色の花は毎年咲いているはずですが、それは目印であって季節そのものではありません。
明確にしておきますが私は季節ではなく、季節の定義をもたらしているのです。僭越ながら私が知らせる季節の兆候や客観的な年月以外の何が、この季節を定義することができるのでしょうか。
私は確かに、春を告げる者。
ではもし私が伝えなければ、桜が咲いても春と呼ばれない――でも本当に、そんなことが有りうるのでしょうか?
◆1.
春女苑の傾げた首を、紫陽花の青葉が撫でている。
日増しに増えていく燕の黒い影が鉛空の下を低く、何面も連なる水鏡を掠めて飛ぶ。まだ細い苗が揺れている水面に、小さな生き物たちがいくつもの同心円を描き出す。
木深い森の中もまた等しく暦は変わり、主役を禅譲した花達が人知れぬまま地面へ散っていつまでも消えなずんでいた。秋の落ち葉の朽ちた上、忘れ置かれた名残の雪もすでに消え、汚れた山桜の亡骸が一枚ずつ点々と散る中で、空気の質は確かに変わっていく。上枝を賑わせたひたきも別の街へ帰った。まだらの木漏れ日がじわりじわりと、高い温度で侵食しはじめていた。
……さようなら。
河城にとりが腰かけている大きな岩の足許には、水中花が一輪咲いていた。冷え冷えと駆け下る渓流の底、浮世離れした亜麻色の花びらを岩間に潜め、厚みのある葉を椀のように丸く広げている。
首を俯けたにとりの丸い背中越しに、白い妖精が明るい声で話しかけていた。
「立派な水門でしたねえ。ここに来る道すがら、見せてもらいましたよ」
笹舟が一艘、流れへと漕ぎ出した。白糸混じりの荒いせせらぎを、今にも壊れそうな笹舟が一艘下っていく。白い春の妖精は緊張した面持ちで、その覚束ない航路を目で追いかけている。
慣れない指で作ったせいで、結び目がほどけかけている。
「本当に、稲作の時期に間に合わせて造るなんて……」
下流で背中を丸めている河童は、リリーホワイトを振り向こうとしなかった。
「春先に馬鹿にしてくれてたな。覚えてるぞ、『絶対無理ですぅ!』って」
似ていない声真似。
「……謝ってもらおうかなあ」
笹舟が、彼女の横を過ぎていく。
河城にとりは決して振り向くことなく、とても嬉しそうな声で春の妖精を詰った。足許に躍り出た舟に気づくと、水音を立てて蹴飛ばす真似をしてみせた。長靴が水面に翻り、飛び散った細かい飛沫がきらきらと光った。目に見えない積み荷を乗せた緑の舟は、泊まることなく流れを下っていく。
「ねぇ、河童さん」
「にとり」
「どうして人のためにあそこまで? ……いえね、私も人が嫌いというわけではありませんが」
「何か造りたかったんだよ。大きくて、自然を邪魔はしないけど誰かの役に立つ機能的な立体物」
「……よく分かりませんが。にとりさん」
「人が、妖怪が――? そういうのは、割とどうでもいい」
幻想郷は間もなく梅雨である。田んぼは代掻きを終え、頼りない早苗が水鏡に打たれた。
三ヶ月前に名残の雪が降ったことは、まだ記憶に新しい。あっという間に溶けることになる最後の銀毛布をつけた田んぼを高い山から一望に収めて、あの日妖精は彼女に出逢った。あれが水鏡に変われば初夏。青く茂れば盛夏。
それまでに水門を造るのさ。
河の城だから、河城だ。
彼女はそう言って、笑っていた。
曰く注文をくれた者がいるわけでもなく、一人の退屈な妖怪が手慰みで作っただけだという。
それが、彼女にとっての今年の春だった。
水門の効果のほどは推測に委ねられたが、なぜかリリーには、彼女の為した仕事が無益のまま終わるとはちっとも思えなかった。夏が終わるまで、誰も知らない水門を彼女は開けたり閉めたりするに違いない。
あの一面の鏡が黄金色に染まれば、秋。
そしてもう一度銀に染まれば、あっという間に。
「お前さんも河童になってみれば、分かるんじゃないかな」
「いえ。そこまでしなくてもせめて妖精をやめれば、分かるかもしれませんが」
二人で最後に、小さく笑い合った。
リリーホワイトは前触れもなく、足許の岩場を蹴った。葉漏れ日が身動ぐ。
……ごめん。
去り際の小さな声に、にとりは笑い声で答える。
「今更謝られても、遅いねっ!」
「水中花も大きくなりましたね。春の初めは、まるで親指だったのに」
うん、と背を向けて頷く友達。
「またね」
「うん」
「またね」
「……うん」
三秒の後には、すでにすっかり忘れているように思われた笑顔。何かを必死で隠しているようにも見えた。
にとりはずっと、リリーに背を向けたままだった。従い、その表情を見たのは笹舟だけである。
季節の境目に特有の、呆気ない幕切れ。すれ違うように巡り逢った春の妖精と入れ替えに、爽やかな色の瞳は間を置かず、次の季節を映すだろう。リリーはもう一度、笹舟の航路を追いかけた。
ころりと舟が転び、透明な積み荷を水面へ返したのが見えた。
はたはたとリリーは飛び、次に人里を目指していく。
◆
道端に笑う花。薄紅に色づく郷の景色。増えていく生き物の種類。昨日を置き去りにしていく毎日の温度。
春を伝えることは容易いものでした。春はそこかしこに自らの証を残しますが、その正体をいつまでも掴ませてはくれません。それと思わせるものには蜜に気づいた蝶のように引き寄せられ、一つひとつ新しい春の姿を見つけては伝える――春の妖精を名乗る私の領分はあくまでも忠実で、限定的で、その垣根をどうしても越えることが出来ませんでした。
たとえば今年最初に逢った春の姿は、笛の音。
あの河童と出逢う前の日。
寒の戻りで冷え込んでいた朝でした。一年ぶりに見る幻想郷は季節外れの吹雪に包まれていて、道からはすっかり人気が絶えていました。
その場違いな音色を、場違いゆえ最初は風の悲鳴と誤解しながら、私は凍える我が身を掻き抱いて震えつつ人里へ降りていきました。
弥生も半ばの人里を我が物顔で駆け抜ける吹雪は、荒びながらも名残雪特有の儚さを湛えていて、それがまるで逆説的に春を証明しているよう。
春は、冬の忘れ形見と共に訪れるから気づきにくい。とりあえず寒さをしのげる物陰を探し、ぴいぷうと吹きすさぶ音の中を私は飛ぶ。
――風の音じゃない。
軋む廃屋の軒下、崩れそうな浅い土間に腰掛けている一人の少女。彼女の前に聴き手の姿はなく、ただ遊びで吹いているらしい。
荒れた四阿の内側より、吹雪に掻き消されそうなか細い笛の調べと明確な違和感を振りまいている。外套を羽織るでもない。隣に聳える凍みた桜が波打つ軒に凭れて、私が運ぶ春を待ち構えている。
五感の表面で交錯したのは、現実の冬と空想の春。虚実の狭間に落ちこんだように生気の薄い彼女は季節の狭間の光景の中に存在し、笛の音の覚束なさがあまりにも似付かわしい。凍てつく風も気にならないのか、掌に収まる琥珀色の笛を無心に奏でている。ほー、ほーと、笛は単一の音色を吐いた。少女の容貌は、端整で美しかった。
――それが私が今年、最初に出逢った春。
つたない旋律は私の心の中で、生まれたばかりの春に重なっていきました。明確な定義に乏しい春が、確かに五感で感じられる形でそこに存在していることへの驚喜。
名も知らぬ少女が一心不乱に奏でる音は、非常に純粋で客観的なぶれの一切ないものでした。そして行方を定めず、聴衆の居ない調べはしばし吹雪に立ち尽くす私の周囲を彷徨いつづけたのです。
◆2.
「あ、いたいた」
河童の山から、空を飛べばそう遠くもない人間の郷。
少女はまったく同じ場所で笛を奏でていた。リリーホワイトが三ヶ月前に見た時点で瀕死の廃屋だったが、苛烈な冬を越えて意外にもどうにか姿形を留めている。蛇行曲線が一目散の降下軌道に変わった。
四阿の軒先には桜の枝が凭れている。固かった蕾は当然とうに咲きとうに散り終え、赤芽の占拠を経て深緑を宿そうと支度している。
笛の音色はふわりふわりと、空まで泳いできていた。あの日と異なっているのは、平淡だった音色に生まれている奇妙な音階だ。
「お邪魔しまーす……よっと」
リリーが降りてきたことに少女は気づかない。瞳を閉じている。夢中で指を運ぶばかりだった。
あの吹雪の中での記憶が蘇る。彼女はやはり笛に集中しており、通りの反対側から聴衆に徹し、息を潜めていた春告げ妖精の存在に気づくまでずいぶんと時間を掛けた。
その表情は、夢中というのも少し違う。
無心。
無意識。
迎える春を無視していた三ヶ月前の演奏。そして終わりゆく春を奏でてもやはり彼女の表情には、寂しさも嬉しさも宿らない。彼女には石ころのように気配がない。季節とまるで対を為しているようだった。姿形はないが存在感を持つ季節と、姿形があるのに存在感を一切纏わない少女。
リリーは僅かに痛んだこめかみを抑えた。
誰にも知られない春風が、人気の絶えた道で今日も吹いている。
雨の気配を嫌っているのか、街の中心部に近いというのに人影はなかった。
「……ぁ?」
少女はうっすらと、瞳を開けた。
人は春という季節に、これほど無意識を貫けるものだろうか。存在の定義について、リリーホワイトは僅かに痛んだこめかみを抑えた。ぽけ、と開いた少女の唇から、笛まできらりと唾液の糸が光を引いて、慌てた小さな手が翻る。
唇に添えた手の甲。
桜色にふくれた頬。
湿った風に髪を揺らした少女に、きっと睨まれる。
「笛、上手になったね」
「……ん?」
「名前、なんて言うの」
「こいし」
そこでふと、少女は怪訝そうな顔をした。
「見えるの?」
「え?」
「私の姿……ていうか聞こえてるの?」
少女は不意に、ずいと笛を差し出てきた。
「聞こえるんだ。吹く?」
「いや、私は……」
「春告げの笛だよ」
どきり、と、妖精の中で心音が高鳴った。
こいし、と名乗った少女はにこにこ笑って、リリーを誘うように笛をちらつかせる。
細竹を二本組み、太く短い胴体の上に斜めの吹き口が取りつけてある。全体は掌に収まるほどの大きさで胴体は手前も奥も穴になっており、少女の親指と中指がその穴を開け閉めしながら吹いてみせると、いびつな音階が生まれた。
吹雪を隔てて遠巻きに眺めた時は気づかなかった。
リリーは、懐かしさにふっと笑った。
「意味は知らない。でも古道具屋の見立てでは、そんなこと言ってたから」
「使い方までは教えてもらわなかったみたいね。――ひょっとしたらわざとだけど」
リリーホワイトは改めて、少女の腰掛けた場所へと歩み寄る。初めて間近に眺める上目遣いの瞳はくりくりと大きく、長く黒い睫毛と好奇心が縁取っている。接近してきた見知らぬ妖怪に身を固くして、その下の頬に僅かな赤を混ぜた。人形のような半開きの唇が、呆気にとられて固まる。
「初音の笛だよ」
「……はつね?」
「貴方と最初に逢った頃は、まだ、地鳴きを始めたばかりだったね」
しなやかな指で両の穴を塞ぎ、長い息を送り込む。
低い音色を丁寧に送り出して、次の刹那に音階がくるりとひっくり返った。妖精の指が瞬いたのをこいしは見逃している。一瞬の音色の反転に息を呑み、ものすごい芸を見たという顔でリリーホワイトを見上げた。
ほー、ほけきょ。
どこかの枝から、笛の音をなぞるように鳴き声が返ってきた。
「……って鳴らすための笛なのよ。これ」
「なんでそんなに上手いの――三ヶ月経っても、私まだうまく吹けないのに」
ころころと笑うリリーから、こいしは笛をひったくった。笛を口にする。力の籠もったその指を優しく包んだのは、肩越しのリリーホワイトの掌だ。
「ふわっと離すのがコツ。そしたら音の高さも、ふわっと変わる」
「分かってる。分かってるけど……」
「本物の鶯も同じなのよ。春先の鶯は全然上手に鳴けなくて、あなたみたいに練習してる。道具屋さんのご主人も、だからあなたに使い方を教えなかったのかもしれないわ。鶯たちも春じゅう使って、季節が終わる頃にようやく」
ほけきょ。
本物がまた一つ、どこかで鳴き声を返した。
こいしの奏法は不安定を極めていた。三度に二度は未だ歪な音色を宙に放っている。
遅れて気づき、怪訝そうな視線をリリーに向けた。
「どしたの?」
「……ううん。そうか、春だったんだなーって」
「もう夏だよ?」
「だから、春『だった』の。この春ずっと練習してたんでしょ、えーと……こいしちゃん」
ほけきょ。
「……鶯と同じだって言いたい? もしかして」
「そう。で、それが春なんだって言いたいの」
「なにそれ」
今頃になってリリーは、山の河童が一春をかけて水門を築いた理由を知るに至った。彼女たちの中で時は連綿と続いている。一年に一度断絶する春と違い、四季そのものは連続性を有し終わることがない。
そこに自分と妖怪達、人間達のひとつのずれが横たわっているのかもしれない。
春は春によってのみ定義されているのではないのだ。春にのみ領分を持つ妖精は、春を春で証すことにしか慣れていない。
目に見えない未来が、現在という透明で常に主観的な壁をすり抜けて過去へ変わる、そこにのみ化学変化が存在しているわけではない。通りすぎていった航路によって――そこにあった一つの季節が、不可逆性を拠り所に定義されることもある。
……のかもしれない。
こいしは首を傾げていた。難儀していた笛をあっさり吹いてみせた奇妙な妖精に、一定の意識を向けてくれるようになっている。
はっきりと輪郭を持たない不思議な少女から紡がれる、絶対に客観的な季節の存在をリリーホワイトは撫でた。いきなりくしゃくしゃと帽子を撫でられて、こいしは当然慌てている。
妖精の白い翼が、空気を叩いた。
刹那の出来事だった。
「ごめん。行かなくちゃ」
「どこに?」
「ちょっとね。探しもの」
目を白黒させる少女に、リリーホワイトは宛てのない挨拶を告げる。
「またね」
時間をかけて完成させた水門。笹舟に乗せた無言の言葉。朽ちた長屋の庇に凭れた桜の深緑、上手になった初音の笛。鉛色の空から落ちたひと雫や紫陽花が裏打ちする間際の過去の時間――季節の証拠には、いろんな形がある。
一つひとつを検めていけば、いずれは春の正体を抽出することも可能だろう。
リリーホワイトは友達に会えたことが嬉しかった。目立たない町はずれの一本桜に、少女はあの日春を届けてくれていた。何故彼女が笛を吹いていたのか、その気まぐれの理由は知らない。
春の証を残してくれる人は、みんな友達だとリリーは考えている。
◆
私はそこでふと幻想郷を全貌視界に収めたくなり、天高く昇りました。久しぶりに翼に力を籠めたら、季節のせいか汗が浮きました。
きらめく芝桜も尽き、木蓮が花弁を落とし、燃え上がるような満天星も果てた頃。薫る風の消し忘れた空色のすべてが、水無月の透明な鉛色に押し流されていく頃。花菖蒲の紫紺の色が、沼の汀に僅かに点りはじめる頃。白い雨が毎日やまない頃。
幻想郷は、来る季節と帰る季節の狭間にありました。冬と夏に挟まれて、ようやく今年の春は春として定義されようとしていました。
間もなくの眩しい季節と裏腹に哀しげに沈んだ郷は、証を暗く霞ませていくようです。やがて羽ばたく蝶をひそめた大きな蛹のような幻想郷は、大切なものを置き去りにして太陽の季節に移ろおうとしています。
今にも泣き出しそうな、じめっとした空気でした。私の白い翼は重く湿った暑い空気に絡みつき、私は麦の穂の細波を眺め紫陽花の垣根を見下ろし、やがて自然と大好きな場所へ向かいます。
世界一恐ろしい妖怪が待つ。
けれど世界一綺麗だと、信じている場所。
それが三つ目、最後の春の場所。
大好きな幻想郷がぎゅっと詰まった、かけかわるもののない無二の春の名前は、
夢。
◆3.
「あれえっ、幽香さん!」
滑空の直線的な下り軌道の先で、派手派手しいチェック模様の背中が舟を漕いでいる。リリーホワイトが飛び込むと背中は何の抵抗もなく運動エネルギーを受け止めて前方につんのめり、そのまま二人でもみくちゃに草原へ転がった。
離れてしまった背中にもう一度抱きついて肩越しに頬をすり寄せ、その身をリリーはさらに乱暴に引きはがす。
「やっぱり、ない」
違和感に首を傾げていると、恐ろしい妖怪はようやく、ゆっくりと首を後ろに振り向けた。
「……」
「どうも、幽香さん」
「ねえ。妖怪がみんな、人の接近を敏感に気取れると思ってる? 残念だけど大間違いよ。それにあなたは人ですらない。あまり驚かせないで頂戴」
新鮮な不機嫌をふんだんに語調へ織り交ぜた幽香は、百人の獄卒も凍りつかせる新鮮な笑顔で妖精にこぶしを握り締めた。
リリーホワイトは動じない。
お構いなしに、子供とさして変わらない掌を無邪気に伸ばす。
「ねぇ幽香さん、髪切ったんですか」
「……ん……」
短い指で、頬を撫でる。
「春先はすごく、長く伸ばしていたのに」
「気分転換。悪い?」
背中の中ほどまではあった、と思う。
くしゅくしゅとウェーブを描いた緑色の髪が、見た目とても重そうだったのを覚えている。
軽くなった頭をさする幽香に、リリーホワイトはさらに一言を刺した。
「失恋したの?」
「……今みたいなことを私に言った人は普通、幻想郷では『命知らず』と呼ばれるわ」
「私は人ですらない、って今おっしゃったじゃないですか」
「ええ。だからちゃんと教えてあげなきゃね。命の大切さとか」
ふわり。
「でもほら、普通の人間が『命知らず』なら特別な妖精は『命知らず』でなくてもいいという理論が」
「今すぐ貴方を、普通の命知らずにしてあげることもできるわよ」
ふわり。
度々柔らかく笑ってみせる幽香に、リリーはふるふると首を横に振った。
「でも、私にとって幽香さんは特別ですよ! 幽香さんのこと、すっごい好きです。だからわざわざお別れしに来たんですから」
笑顔を弾けさせたリリーはそう叫ぶと幽香にもう一度抱きつき、巻きつけた腕をすぐにほどいて、犬のように花畑へ駆け出していく。
花畑に埋もれたところで屈託なく足を取られて転んだ。振り向きざま照れくさそうに手を振られ、幽香は思わず手を振り返してしまう。楽しげに地面へそのまま転がる子供を、懐かしむような目で幽香は眺めていた。花畑には、春が滞留していた。
夏未満の景色が、逆説的に春を疎明する。
風見幽香の栖はとこしえに移ろうことなく、咲くも咲かずも向日葵に包まれている。なだらかな地平線を覆い尽くす一面の向日葵畑は今、二つの季節の狭間にまたがって曖昧な色彩に包まれていた。太陽にも喩えられる大輪の金色の花は萌え開くに至らず、か細い茎が降り出しそうで降らない、かと思えば降りだす気まぐれな雨に毎日怯えている。春でも夏でもない浮気な雨空を、固い瞼から窺っている。
リリーが恐る恐る、向日葵の茂みから顔を出していた。
「あの。すみません、お邪魔でしたか」
「……別にいいわよ。私も結構、寂しがり屋だから」
笑顔はそのままに、溜息で誤魔化す。
金色の髪の間に咲いた笑顔を、風見幽香は眺めていた。その髪は向日葵の色に似ている。
眩しくもないのに日傘を開き、くるりと背中を向けた。
「『特別に好き』か――」
頬を緩めた幽香に、リリーが背中から叫んでくる。
「ま、幽香さんが好きというよりは、この場所が好きなんですけども」
「………………で、『お別れ』って何?」
幻想郷でも指折り数えられる強大な妖怪、風見幽香。
彼女がこの馴れ馴れしい妖精に心を許したことは、この春幻想郷でちょっとした話題になっていた。
髪って、ものすごく時間を掛けて伸びる割に切るとなったら一瞬じゃない。
しばらく放っておいたら、ずっしり重いのが時間の貯金みたいで何となく切りづらくなってね。あんまり暑いから切っちゃったんだけど。
四日か五日前。
初めて夕立が降った日よ。もう夏なんだなーって思ったから、もういいやって。
冬、春、季節まるまる二つかけないと出来ないものをばっさり切って、落ちた髪の束はもう半年分とか何も関係ないもんね。もう取っておくこともない廃棄物。
「本当は、花の妖精になりたかったな……」
リリーホワイトは、まだ咲かぬ向日葵畑に話しかけた。
曇り空を見上げながら、話題の二人が畦道に並んで座っている。
「そしたら、幽香さんとも一緒に居られたりして」
「妖精なんて……暇つぶしの相手」
「もちろん知ってます」
「それに、花は別に一年中咲いてる訳じゃないわ。束の間よ」
「でも花は花です。向日葵は咲いてなくたって、枯れない限りは向日葵なんです。例えば向日葵妖精になって……これは幽香さんの傍に居たかったなーっていう、それだけの意味ですけど」
見応えのない空を見上げ、日傘をまた少しリリーの方へずらして幽香は顔を隠すのだった。
「寝ても覚めても、花として人に見てもらえたら嬉しいじゃないですか」
「……良い姿ばかりじゃないのよ、向日葵も」
「けど花はそこに存在している。客観的に見えるんです。枯れても、種になっても」
見渡す限りの緑色を、夏色の風が駆け下ってきた。空に鉛色は濃い。気まぐれな雨が一つ過ぎるたび、その季節は近づいてくるのだった。
梅雨という、春でも夏でもないモラトリアムの花畑に未来の向日葵色の髪を揺らして、リリーは小さく笑っている。腰を時折浮かせては座り直す焦りの気持ちの発露は、隠しきれない寂しさを無意識に誤魔化すためのものでもあった。
幽香の視線との境目には、彼女が隠れみのに開いた日傘が横たわっており、幽香の表情はリリーに読めない。
リリーの表情も、幽香には読めない。
「私よりも寂しがり屋みたいね、貴方は」
老獪な声音は、それ単体で感情を読ませてくれるほど分かりやすいものではない。
「幽香さんは、夏って見たことありますか」
「あら。毎年目の前で、うんざりするくらい見てるけど」
「違いますよ、向日葵は夏を定義づけるアイテムです。夏そのものではありません」
もどかしくなり、小さな手でリリーは日傘を退ける。なぜか慌てふためき目を丸くした幽香の肩に、こて、とリリーは首を乗せて甘えた。同じ場所に顔を合わせて、同じ五感を二人で共有する。翡翠色の細い胴体をふるわせた糸のような蜻蛉が飛ぶ。蒼と鉛色が鬩ぎ合っている空。
「来なければ冬。過ぎてしまえば夏。春は春だけでは、春になれないんでしょうか。それを私が伝えなければ、春になれないんでしょうか。ねえ幽香さん」
首を起こす。
「誰が見ていなくても花は花だけど、春はそれと気づいて貰えなければ、春にすらなれないかもしれない。気づいてもらえた時にはもう春じゃなくなってる」
遠い山の上でごろごろと、低い音が鳴っている。
吹いてくる風がやけに湿って、気づけば温度が低くなっている。
「……花の妖精はその辺、まあ楽かもしれないわね」
夕立が来るな、と幽香は思っていた。空がどんどん暗くなっている。蒼の面積は東側に申し訳程度に分け与えられる程度となっていた。境界線ではっきりと空の輝度が変化している。
やけに寒げな友達の肩へ伸ばしかけた幽香の腕に、しかしふと絡まり何かが邪魔をする。
――春はそれと気づいて貰えなければ、春にすらなれない。
片頬に凝り固まった妖精の強がりに、一人前以上の妖怪が話してやれることなどない。風見幽香は、固まったまま言葉に窮した。
何気なく抱こうとした小さな肩はすぐ隣なのに遠く、梅雨の雨雲が見えない雨で妖精の頬を濡らしているのに、ただ見つめるだけ。
無邪気に慰められたなら、よほど罪もない。
「短い春は、それはそれで風情がありますが」
「ねえ、もうお別れなの?」
「はい。……春の正体は、来年からの宿題になります」
「よくしてもらった割に、大した見送りもしてあげられないけど」
「似合わない言葉ですね、しおらしい幽香さん。やっぱり失恋でもしたんですか?」
強がりの笑いが痛い。
大妖怪の立場からかけられる慰めも励ましも、この妖精に一体何の力になるのだろう。
守れば失わない。
求めれば得られる。
それが妖怪だ。
守れど失い、求めても得られなかった彼女の『春』という、刹那的で空即是色な持ち物の一体何を自分が分かってやれるだろう。当たり前に気づける当たり前のことを悠久の無聊に溶かして、雲霞の如く押し寄せる季節を当たり前だと思っていた。
「はあ……なんか今年は、誰にも気づいて貰えなかった。少しだけ悲しいかなあ」
「ねえ」
「ううん。いいの」
ひょこりと首を起こすと、何の前触れもなくリリーは幽香の頬に唇を押しつけた。
いやに風が吹いていた。
幽香の顔の真横で嬉しそうににっこりと笑い、我慢できなくなったようにもう一度押しつける。柄にもなく自分の心音が跳ね上がったことで、幽香は否応なく実感させられることになる。
同情しているらしい。
妖怪である自分が、こんな名もない妖精一匹に。
胸を鎮めながら、幽香は横目でリリーの向日葵色のつむじを眺めた。髪の毛からふわりと、いろんな花のいい匂いが舞う。
「バカ」
途端に滑稽になった。なるほど、妖精が馬鹿だというのは分かる。
自分が春なのだ。妖精はそれに気づいていない。
春告げと春の何が違うのか。自分がたくさんの人に気づいてもらえばいい。気づいてもらえないなら努力すればいい。気づいてもらえる世界になるよう、祈ればいい。
不満足は否めないだろう。だが妖精以外の客観的な事実では、この妖精が紛れもなく、春だと思う。
リリーホワイトの吐息が、頬から離れた。
「……またね。幽香さん」
「貴方の言うとおりよ。今年は短かった気がするわね。春」
「色んな理由がありますけどね。だから未練がましく今年は、長居しすぎたくらいです」
妖精はにこにこ笑って幽香を見つめ、
「結局、ダメだったんだけどさ」
自分の頬を人差し指でとんとんと指す。
一瞬躊躇った幽香だったが――真っ赤にまで赤くなり戸惑いながらも、リリーの頬にそっと躊躇いがちのキスを返した。
「……バカ。こっちまで寂しくなるんだから」
「だって」
春の妖精はふと真顔に戻り、
「季節は、たった四つもある」
白い翼で、ついに降り出した雨粒を叩いた。
幽香の頬、涙ならそこに流れるだろうという位置に雨粒が一滴落ちてきて、きらりと弾け散る。
◆
春が飛び立っていく空は、白い雨の帷を纏っている。
日傘をそのまま雨傘に変えて、妖精の昇っていった空を風見幽香は見上げた。
これで三日連続の雨になる。
瞬く間に小さくなっていく白い背中を、雨傘の端で覆い隠す。
「……大丈夫よ」
忘れてしまいそうだけど、いつもどおりの冬はきちんとあった。そして間もなく、確実な夏が来る。
貴方の言うとおり。
夏が来て冬を思い出せば――たとえ少し遅くても、その狭間に春があったことに気づくだろう。誰もが。
◆4.
私は瞼を閉じ、大好きな花畑を見下ろします。
目を閉じていれば何も見えません。元より私は、目を開けて見えるものを探していません。
目の前には現在しか存在しません。したがって目を閉じれば、現在から牽引される過去と未来が見えてくるのです。
私はこの向日葵畑の夏を、宿命的に目の当たりにすることができません。十重二十重の黄金色、飛び交う蜂の羽音を添えた夏を映すには、瞼を閉じるのが唯一の手段です。開花を待ち侘びる向日葵達を網膜に焼き付けてから瞳を閉じれば、香りが漂い、花びらがすべて開いて、真っ白の陽射しが入道雲を借景に降り注いできて、身体が熱くなって、胸がどきどきして、まだ見ぬ花畑が完全な金色に光り輝くのです。
幻想郷で一番好きな花畑の満開。
夏は、春告げの私によっても定義することができます。春の消えていく時がすなわち、夏だからです。
ほけきょ、と軽やかな音。
鳥かな。笛か。
真っ白な翼をふるわせ、春告げの妖精はまっすぐ空を目指していく。
ごろごろという音が真横までやって来ている。にわかに冷たい風が立ち籠め、雨粒は大きく速くなり、地上までは降ることのない氷の粒が華奢な体躯を囲い込む。
顔も服も濡らして凍えながら、翼で空気を叩きながら、幻聴を聴きながら、幻覚に溺れながら、梅雨前線に行く手を塞がれながら、まっすぐに空の上を目指す。季節のモラトリアムは、強くあろうとするほど脆くなる。春と夏のひび割れが、毎年これほどたくさんの雨を降らせる。
氷の粒が頬に当たり皮膚が裂けて、一瞬翼が怯んだ。堕ちながら紅く滲んだ頬を抑え、唇を拭い、妖精はもう一度翼を振る。上昇に転じる。ぴりぴりと身体中が痺れるような感覚を覚える。遠くの雲が紫色に光っている。
春はもう飛翔をやめない。
どれほど痛くても、傷ついても、ここからは上向きの加速度だけが積み重なる。
渾身の力で翼をふった。薄れていく意識の中でリリーホワイトは、ああ、この痛みが春の正体だと思っていた。
世界は今までずっと、春だったんだ。
季節は、たった四つもある。
分厚い雲の向こうにはどんな季節でも必ず青空がある。季節は空から循環する。
(了)
めぐるめぐるぐるぐるめぐる。
今は今しかないけれど、めぐった先もきっと今。
春が大好きな彼女を覚えている人が居るから、きっとずっと大丈夫。
美味でした。
ご馳走さまです♪
ともかく、女の子同士の間接キスって萌えるよね。はんごんさんの邪念を感じるよね。
相変わらず文章綺麗だよね。羨ましい。
それと、このリリーは間違いなく人間様より頭良い。
来年の春が楽しみだ。
こういう文章が書けるようになりたい。