ぱらりぱらりと、頁を捲る音が閑古鳥の鳴く香霖堂に響いている。
音の源は一冊の本、そしてそれを読んでいる香霖堂店主、森近霖之助によるものであった。
無表情に、或いは仏頂面で読み進めていく彼の様子は、誰が見ても商売人に向いているとは言い難い。
客など月単位で数えられそうな頻度であるこの古道具屋。
しかし、そんな店には珍しく、今日に限っては一人の来客者がいた。
「…………」
「如何でしょう? 前回のより読み易くなっていると思うのですが」
一段落読んだと判断した少女――稗田阿求がそう尋ねると、霖之助は彼女と目を合わせ、はっきりと告げた。
「読み易くはなったね。ただ、内容については抗議せざるを得ない」
眉間に皺をこれでもかと寄せ、思い切り少女を睨む現在の絵面。
誰かに見られでもすれば、店主の沽券を悉く押し潰すであろう程だ。
「あら、何かご不満が?」
「そう言える君の人間性を問いたいな」
本を閉じ、店主が阿求に表紙を見せると、そこには『求聞史紀』というタイトルが記載されていた。
表題は違えど、それは千年以上も前から稗田家が編纂している『幻想郷縁起』に他ならない。
御阿礼の子が自ら見聞きした史実を書き記した書物であり、幻想郷に住む人間の安全を守るための資料。
平和になりつつある今では単なる妖怪を紹介する読み物となりつつあるが、人々の為に作られたというその本質は今でも変わることはない。
つまり――
「多くの人に読まれる書物にこんな事を書かれるのは営業妨害の何事でもないよ」
再び開いた幻想郷縁起の頁。
そこには霖之助の店である香霖堂と店主の項目があった。
しかし、書かれているのは店主を立腹させるにたり得る文字の数々。
やれ商品を買っても役に立たないだの、やれ客に対しても冷たく当たるだの。
ただ、後者に限っては店主の自業自得に違いないのだが。
「営業妨害なんて。私は思ったこと、感じたことをそのまま記したに過ぎませんよ」
「これで客が減ったらどうしてくれるんだ」
「元より客など殆どいないではありませんか。現に幻想郷縁起を持って来た時に霖之助さんはのんびりと茶を啜っていましたし」
「客は来ているよ、ただ君が来た時にいなかっただけだ」
「それしては以前伺った時からここの商品は一つも売れていないようですが」
「…………」
そんなことはない、と白を切るのは簡単である。だが、彼女の能力はそれを許さない。
机に置かれたパーソナルコンピュータ、棚に並べられた携帯電話、無造作に置かれた浄水器。
霖之助は自身と店の取材の際、殆どの商品を彼女に見せてしまっている。
一度見た物を忘れない程度の能力。阿求は店主より鮮明にこの香霖堂を記憶していた。
「と、まあ、そんな事は置いときまして」
霖之助から送られる恨めし気な視線と共に、阿求は前の話を切って捨てる。
改めて阿求は店主に向き直り、その顔を真剣なものへと変えた。
自然と、霖之助も背筋も伸びる。
「今日は幻想郷縁起の他にご報告があって伺いました」
「報告?」
ええ、と阿求はこくりと頷き、愁いを滲ませた面持ちを見せた。
その顔に、霖之助は切迫に似た感情を覚える。
何を言われるのか、そんな大変なことなのか。
若しくは、自分は薄々気が付いてしまっているのだろうか。
やがて、阿求はぽつりと霖之助に告げた。
「もうじき、転生の儀に入ります」
それは、唐突な別れの言葉。
辺りに静寂が満ち、香霖堂は不自然に静まり返っていた。
目に映る少女の、なんと儚いことか。
触れれば崩れてしまいそうな、風が吹けば消えてしまいそうな。
今何か言わなければ、何処かにいなくなってしまいそうで。
だから店主は、返すべきを言葉を懸命に探す。
冷静になろうと、冷めてしまった茶を啜る。
様々な返答が彼の頭をよぎり、そして溶けるように消えていった。
「……そう、か」
やがて絞り出すように紡がれたのは、そんな言葉であった。
「あれ、寂しがってくれるんですか? ふふ、霖之助さんが寂しがるなんて――」
「珍しいことでもないさ。僕だって寂しいと思う時くらいある」
裏表の無い真摯な言葉に、思わず阿求は頬を軽く朱で染めた。
普段は適当にはぐらかすことの多い店主だが、この時ばかりは愚直な程真っ直ぐで。
強がるついでにからかおうとした少女の目論見は、自分で転ぶという結果を招いて頓挫してしまった。
「知人との別れはどんな者でも悲しい。それが親しい者になれば尚更だよ」
「……全く、霖之助さんがそこまで寂しがり屋だなんて知りませんでした」
「そうかな? ……いや、そうかもしれないな」
少々自嘲気味に霖之助は笑い、よいしょと重い腰を上げた。
年寄り臭いその動作に、思わず阿求は吹き出す。
どうしたと聞くも、阿求が「何でもありません」と言ったので霖之助は詮索することを早々に打ち切った。
「今紅茶を入れてくるよ。最後の話になりそうだ、時間の許す限りゆっくりしていくといい」
「はい、遠慮なくゆっくりさせてもらいます」
さて、何から話そうか。
勝手方に向かいながら。
店の内装を見渡しながら。
そんなことを二人は考えていた。
「――そろそろ時間なのでお暇させて頂きますね」
そう阿求が言ったのは、日もそろそろ落ちようかとする夕刻の頃であった。
未だ日の光は届いているが、四半時もすれば辺りは妖怪の跋扈する世界となるだろう。
「送っていこうか?」
「お気持ちだけ受け取っておきます。帰りは一人でと決めていたので」
「そうか」
有意義な時間は瞬く間に過ぎて行った。
求聞史紀の編纂や、互いの昔話、香霖堂の経営。
他愛もない日常のあれこれを、二人は話し合った。
しかし、その時間もいよいよ終わりを告げる。
名残り惜しさがないと言ったら嘘になるだろう。
けれど、引き留めようとするのは単なる我儘でしかない。
百年もすれば、また会える。
そう自分に言い聞かせても、霖之助の重苦しい感情は一向に拭えなかった。
それは新たな御阿礼の子に対する不安か、それとも百年という年月の長さから来るものなのか。
それとも――
「……では」
そうしてる内に阿求はドアに手を掛け、外の空気に身を晒す。
ドアに括り付けてあるカウベルが、カランカランと音を立てた。
これでいいのかと、それは言っているようで。
「――最後にいいかい?」
全くの無意識で、霖之助は阿求を引き留めていた。
ドアを閉める直前で、阿求は彼に振り返る。
「……はい、何でしょうか」
そう言っても無意識は無意識、霖之助の頭は完全に空回りしている。
碌に思考もしていなかったし、何より彼は自分自身の行動に驚いていた。
本当に自分は寂しがり屋だなと苦笑の一つでもしたいが、生憎そんな余裕も無い。
それ故に、出てきたのは何てこともない疑問であった。
「何故、僕を英雄伝に書いたんだい?」
くす、と阿求が柔らかく微笑んだ。
無理に作った疑問。明らかなきっかけ。
そんな彼の行動がどうしようもなく微笑ましく、愛おしかった。
「僕は異変を起こす程の力もない」
「はい」
「自慢できるほどの能力がある訳でもない」
「ええ」
「荒事なんて以ての外だ」
「存じてます」
「何でそんな僕を――」
「そんな貴方だから、私は霖之助さんを英雄伝に書いたのですよ」
「……?」
訳が分からず、霖之助は混乱する一方。
阿求はただ、にこにこと笑っていた。
「そうですね、じゃあヒントを出しましょう」
悪戯っぽく、阿求は人差し指を自身の唇に当てた。
「霖之助さん、私が転生する際に持ち越せる記憶って分かりますか?」
「あ、ああ。確か幻想郷縁起に関わる――」
はっとして、霖之助は顔を上げた。
そこには顔を赤く染めながらも、満足そうに頷く少女がいた。
「それでは、これで失礼します。ああ、さよならは結構ですよ、必ずまた逢いますから」
ぱたんと静かにドアが閉められ、阿求は今度こそ香霖堂から出て行った。
店内には、ただ呆然としている店主だけ。
先程の話を整理しようと、霖之助は既に混沌となっている頭で唸り唸る。
やがて理解したのか、彼の顔は一瞬で真っ赤に染まった。
持ち越せる記憶は幻想郷縁起に関わる一部のみ。
裏を返せば、幻想郷縁起に書きさえすれば持ち越せる可能性もある訳で――
「まいったな……」
稗田阿求。
どうやら彼女との付き合いは、まだ続いていくのかもしれない。
百年後、彼女は覚えてくれているのだろうか。
また会いに来てくれるのか。
また一緒に話し合えるのか。
わからないが、とりあえず信じて待っていよう。
今から始まる、百年という歳月。
それまでに、とびきり美味しい紅茶の入れ方を学んでおこう。
自分の為にここまでしてくれた、誰よりも愛おしい彼女の為に。
《了》
こういうお話は大好物です。おかわりを要求しますwwwwwww
んでもって100点の恋話ですよ、これは。
素晴らしいお話でした!
ただ次代が女性とは限らないわけで…
私は一向に構わんッ!
次代では二人がくっついてくれることを望みますwww
確かに(どんな理由であれ)資料に残してしまえば、役目の一部と見做せるんだな……
実に斬新かつ乙女で2828が止まらなくなる阿求霖でした^^