仰向けに倒れた上白沢慧音のまわりには、瓦礫が散っていた。白黒のモザイク状の床は果てなく広がっている。だが途中で、まるで画家が描き忘れたかのように、唐突に途切れていた。ここは、そういう空間だ。慧音が、自分が取り扱う歴史の余波を外に漏らさないよう、自力で作り上げた空間だ。
「疲れた……な」
心からの呟きが、口をついて出る。少し、厄介な歴史だった。巨大な、うねる津波を思わせるような歴史は、ただ解釈しようとするだけで、強力な余波を辺りにまき散らす。散らばっている瓦礫は、慧音が囲い込もうとして何度も失敗した証だ。
「だが、もうひと息、だ」
終わったら、ゆっくりお茶でも飲もう。どうせ興奮しているからすぐには眠れない。お茶でも飲んで、何かかじって、雑談でもして眠気が来るのを待とう。雑談の相手は、気の置けない相手がいい。あまりお節介な妖怪だとこちらも疲れる。かといって、あまり淡白すぎる人間も張り合いがない。
「ふ……私も贅沢になったものだ」
頭に、ふたりの人間が思い浮かんだ。彼女たちは、わからないなりに、慧音の苦労をわかろうとしてくれている。
慧音は下腹に力を込めて、上半身を起こした。それから右足を曲げ、足裏を床につけて、膝に力を入れて立ち上がる。眼前に、巻物が意思を持った生き物のように、うねっている。その巻物の紙面からは、カラシニコフ銃や、物干し竿のように並んだカチューシャ、T-四〇の砲塔などが、その不気味な姿の片鱗を見せつつ、浮き沈みしていた。
「さて、さっさと片付けるか」
***
朝方、ちょうど上白沢家の前で、市場へ買い物に行こうとする慧音と出くわした。藤原妹紅は久しぶりに慧音の家で手料理をご馳走になろうと思っていたところだったので、当てが外れてしまった。だが、面と向かって気落ちした表情を見せるのも慧音に悪いので、何気ない風を装って挨拶した。
「よう慧音。明日が満月だからか、ずいぶん気が立っているみたいだな」
実際にそう見えたわけではない。ただ、なんとなく軽口で言ってみただけだ。しかし慧音は妹紅の意に反して、唇を真一文字に結んで、見返した。
「そう見えるんだったら、たまにはお前もそれなりの気を使ったらどうだ」
「なっ……」
「すまないが今月は特に込み入っていてな。正直私も、うまく一日でまとめきれるか自信がない。だが、やらなければならない」
普段、ハクタクの仕事に愚痴を言わない慧音がそう言うということは、余程のことだろう。妹紅にはそれがわかる。だから何か激励の言葉をかけたいと思った。だが、何と言って? 妹紅には、慧音が実際にどんなことをやっているのか皆目見当がつかない。妖怪と戦ったり、重いものを運んだり、料理を作ったりといったこととはまるで次元の違うことであることはわかる。妹紅には想像ができないことが、慧音には日常になっている。それを、時々妹紅はもどかしく感じることがある。
「まあ私にはよくわからないけれどね。何がそんなに難しいのやら。でも、何も一日で無理に片づけなくてもいいじゃないの」
慧音はため息をひとつついた。
「お前にはわからないよ」
そして、そのまま道を歩いていった。あとに残された妹紅は、しばらく所在なく立ちつくしていたが、やがて足下の小石を蹴飛ばして、家に帰った。
稗田阿求は執筆に身が入らない様子で、筆の腹を爪で掻いたり、もう数滴しかお茶が残っていない湯呑を何度も口に傾けたりしていた。平机に広げた紙よりも、壁にかけた日めくりカレンダーを見ている割合の方が高い。
「もう、お休みになってはいかがです」
羊羹三切れとお茶のお代わりを持ってきた女中は、言葉の端に呆れを滲ませていた。
「何もそんなに根を詰めなくともいいではありませんか」
「いえ、もう少し、切りの良いところまで」
女中は平机の端に盆を置いて、ひょいと阿求の肩越しに紙を見る。
「人里の上水道整備の歴史について……ってまだ全然途中ですよ。いつになったら切りがつくんですか」
「わっ、書いている途中の原稿を見ないでくださいよ」
「いずれ公表するおつもりなら、今見られたっていいではありませんか」
「いけません。書きかけのものを見られながらあーだこーだ品評されるのなんて我慢ができません」
「はあ、そういうもんですか」
女中の中では一番若い。阿求より三つか四つ、年上なだけだ。口調も自然とくだけたものになる。以前の稗田家は言葉遣いに厳しい時期もあったが、その辺は、阿求はほとんど頓着していなかった。
「何やら阿求様、お悩みのように見受けられたので」
「私はいつも執筆に頭を悩ませていますよ」
「いえ、そういうのは悩みと言いません。悩みとはもっと予定外のもののことをいうのです。阿求様が紙に向かってウンウン仰ってるのはいつものことですから、何もおもしろくない」
「好き勝手言ってくれますね」
「さっきから、というか昨日辺りからでしょうか、何やらずっと上の空ですよ、どうかなさったんですか」
阿求は言葉に詰まった。女中は小首を傾げて、続きをうながすように阿求を見る。
「ど、どうもしませんっ」
答えに窮した阿求は、強引に女中を押しやった。女中は納得いかない表情のまま、両手をついて襖を閉め、去っていった。
阿求はため息をつき、カレンダーを眺めた。卓上の時計を見る。しばらく、秒針と長針だけを見つめていた。それからおもむろに立ち上がって、カレンダーを一枚剥がす。そして障子窓を開いた。首を出して、空を見上げる。頭上に満月がかかっていた。
春も近いこの頃、またぞろ寒さが戻ってきたせいで、いや、おかげというべきだろうか、空気が澄んでいて、金色の光が惜しみなく幻想郷に降り注いでいた。だが、阿求は浮かなかった。
昨日、市場に買物に来ていた慧音と出くわした。久しぶりに顔を合わせたので、阿求は嬉しさのあまり、はじめうまく話せなかった。少ししどろもどろになりながら、最近の仕事の話を振ってみた。すると慧音は、ほとんど表情を変えないまま、答えた。
「ああ、まあ、調子はわりと悪い方かな。まあたいしたことじゃない。あなたが気にするようなことではない」
その言い方が、阿求には冷たく聞こえた。
「そうですか。確かに部外者の私がどうこう心配することでもないかもしれません。それではさようなら」
だから阿求も、そんな言い方になってしまった。
かといって、慧音を詰るわけにもいかない。実際、月に一度、満月の夜には慧音にかなりの負担がかかることを知っている。それを前日に控え、神経が過敏になるのも毎月のことだからわかる。特に今月はその度合いが、普段より少しばかり強かったというだけだ。それなのに阿求は、昨日からずっと引きずっていた。タイミングが悪かった。ちょうど、阿求は慧音と話したくて仕方なかった。その思いがピークを迎えていたときに、もっとも気持ちが下降していた慧音と会ってしまったため、まるで阿求は、なりふり構わぬ物乞いを無様に断られたような惨めな気分になっていた。この満月の日が終わり、慧音の仕事がひと段落したら、最近読んだ本と、新種のお茶の葉をダシにして、慧音を招きたい。むしろこちらから上白沢家に出向いてもよかった。だが、何と言って? 気まずい別れ方をしてしまった。その二日後に、何の用があって出向くのだろう? 向こうは変な顔をしないだろうか。いや、きっとする。だが、一刻も早くこのもやもやした気持ちを晴らすために、彼女に会いたい。だが、何と言って?
阿求は、朝からずっとそんなことばかり考えて、紙の前に向かっていた。人里の上水道の歴史についての考察は、その間、蟻の歩みよりもさらにゆっくりとしか進まなかった。
「日付は変わったわ」
自分に言い聞かせるように、阿求は、ひとりごとにしては大きい声を出した。
夜半を回っても、まだ慧音の部屋の灯りは消えていなかった。妹紅は、白い息を吐き、ポケットに手を入れたまま、その灯りを眺めていた。
その灯りに近づく、小さな炎がある。妖怪の炎ではない。人間が作りだした、弱々しい炎だ。妹紅はそれに気づくと、舌打ちし、すぐに駆け出した。闇夜に炎に照らされた人影は、ぼんやりとしていたが、小さかった。妹紅はおおむね見当をつけていた。近づくにつれ、その推測が正しいことがわかってくる。
「おい、稗田の。何をしている。慧音の邪魔をする気か?」
妹紅は、阿求が手にしている茶筒を胡散臭そうな目で見た。
「あんた自身が求聞史紀に書いているだろう。ハクタクの仕事は大変なんだぞ」
そんなことは求聞史紀に書いてはいないが、妹紅は知らない。なぜならきちんと通して読んだことがないからだ。阿求はそれをとっくに看破していた。昔はそれなりに教育を受けたはずだが、今はあまり本とは縁のない生活を妹紅が送っていることも、阿求は知っている。
「妹紅さん、あなたこそずっと慧音……さんの家を見張ってたんですか。こんな夜中に」
「わ、私のことはいいだろう。たまたま見かけたんだ、たまたま」
「たまたまなら、もうおうちへ帰った方がよくありませんか? もう遅いですよ。ああ、妹紅さんは特に朝、早起きする必要もないんでしたっけ」
「失礼な奴だな。私だって自警団の依頼があったときは、依頼主に合わせてきちんと朝から出るさ。物書きみたいに、いつ起きてもいつ寝てもいい、気楽な仕事とは違うのさ」
「長期間の執筆にはリズムの調整が不可欠です。規則正しい生活を送っていますよ。あまり半端な知識で決めつけないでくださいね」
「そりゃ悪かったね」
「それでは、さようなら」
「あい、さようなら」
「帰らないんですか?」
「お前こそ」
「私はここで、慧音さんの仕事が終わるのを待ちます」
阿求はさっさと包み隠さず自分の目的を告げた。出遅れた妹紅は、誤魔化すか、流れに乗るか、一瞬迷った。まるで阿求のマネをしたみたいで嫌だが、誤魔化すのは妹紅の性格が許さなかった。
「私もそうだ。慧音の仕事が終わるまで待っているつもりだ」
そう言ったあとで、
「ヒマなんでね」
と、つい付け加えてしまう。
「私はまったくヒマではありませんが、慧音さんを待ちます」
「どうしてだよ」
妹紅は、少し声を荒げた。
「どうして今月に限ってそんなことをする。しかもまるで私に当てつけるみたいに」
「あなたに当てつけようと考えるほど、私があなたのことをいつも考えていると思っているのですか」
「……あんた、言い方キツイね」
「失礼しました」
ぺこりと、阿求は素直に頭を下げた。
「気が昂ぶってしまって」
「まあ、こんな真夜中だしな」
「せっかくだから、一緒に待ちましょうか」
「それもいいな」
「お茶の葉しかありませんが」
「水筒ならある」
妹紅は竹筒を取り出した。
「あとは私の炎で温めればお茶になる」
「蓋は、この茶筒のがひとつだけですが、いいですか」
「いいよ。別に病気がうつるわけじゃなし」
「妹紅さんは」
「ん」
「どうして慧音さんと?」
「そこで語尾を上げたって、何を言いたいのか伝わらないね」
「仲がいいんですか?」
「そんなの知らないよ」
「知らないはずないでしょう、ご自分のことですよ」
「さあね、たまに朝飯喰わせてくれるからかな。あんたは」
「私は、同じ物書きだからです。気が合うんです」
妹紅は、蓋の残り四分の一になったお茶を飲み干し、阿求に渡した。竹筒からお茶をそそいでやる。
「あ、これはどうも」
「まさか。そんな理由じゃないだろう」
「あなたこそ」
阿求はしれっと言い放ったあと、何食わぬ顔で蓋を傾け、お茶を飲む。息をつくと、温まった呼気が、今までよりいっそう白かった。
「しばらくは、慧音さんとこうした付き合いを続けられるおつもりなんですね」
阿求はなるべく、言葉に棘がこもらないようにしたつもりだった。自分でも、意識に上らせないようにした。
「しばらくは、ってなんだよ」
だが、妹紅の反応から見るに、阿求の試みは失敗したようだった。
「いえ、私はあと三十年もしないうちに顕界を去りますし、慧音さんも、それより長いとはいえ、ずっと、というわけではありません。けれど、あなたは違う」
「違うらしいな」
頬を歪め、人差し指で自分の心臓のあたりを、とん、と叩く。
「あなたにとって、ひとと出会って何かをするというのが、いったいどういう感覚なのか、私にはわかりません。想像を絶します」
「あんただって古事記の頃からいたんだろう。私より年上さ」
「記録として知っているにすぎません。私の記憶は、稗田阿求から始まっています」
「私だって、百年も二百年も前のことなんてロクに覚えちゃいないよ」
「忘れるんですね」
「忘れるさ、たいがいのことは」
「竹林のあのひとは?」
「たいがいのことは、って言っただろう。思い出させるなよ」
「慧音さんとは、もっとほのぼのできますものね」
「なんかお前、思ったより性格悪そうだな」
「そうでもないですよ」
阿求は肩をすくめて、またお茶を啜った。部屋の窓は、まだ明るい。
「しばらく続きそうですね」
「続くだろうな。あんたは手伝ってやれないのか? グモンジの能力とやらで」
「私の能力は、所詮人間がなしうる延長上にしかありません。ひとより物覚えが良すぎるだけで。慧音さんのは、そういう能力じゃない。人間というよりは、神様に近い能力です。しかも彼女はもう、本当に人間じゃなくなったんですから」
「つらそうだな」
ぽつりと、妹紅は呟いた。その声があまりに優しかったものだから、阿求ははじめ呆然と妹紅を見上げ、次に睨みつけた。
「私は今の慧音さんの運命を肯定しています。つらいとかつらくないじゃありません」
「私は、あいつが人間だった頃を知らない。はじめから、半人半獣としての上白沢慧音と出会った。だから、そういう喪失感は知らないんだ。でも、あんたはそれを知っている。何かを失うということは、つらいことと決まっている。嫌がるなよ、同情しているわけじゃない、労わっているだけだ」
阿求は、それを上から目線の言葉だとは思わなかった。立場は違っても、同じ方向を見る者の言葉だと受け取った。
「ずっと生きているってことは、ずっと失い続けるってことですか」
「そうかもな。いや、そうだよ。どう取り繕っても、そうなんだ。たとえ、失う代わりに得るものがある、と言い張ってみてもね」
「つらいのは、あなたではありませんか」
阿求は茶を飲み干し、妹紅に蓋を渡した。手酌しようとする妹紅の手を止め、竹筒を奪って、自分でついでやる。
「そういうなまなましい感覚は、もう、あんまりないよ。これは本当だ。はじめの頃、ずいぶんつらかった。これも本当だ。けど今は、だいたい全部、納得できている」
妹紅は茶を飲む前、まるで乾杯のような仕草をして、阿求の酌に返礼した。
「今夜はただ、徹夜しているあいつが、いい加減眠くはないだろうかと、それが心配なだけだ。明日にはまた別の心配をするさ。天気とか、市場の紙の値段とか」
「紙の値段なんてあなたが気にするんですか」
「悪いかよ」
「慧音さんに買ってあげるんですか」
「あいつは紙の好みにうるさい。もう二度と買っていってやるもんか」
「じゃあご自分で?」
「私も昔、手習いを受けたからな。だいぶ昔だからほとんど忘れかけているが。あんたらもすなる日記というものを私もしてみんとてするなり、だ」
「早速パクるあたり、文才なさそうですね」
「なんだと」
「冗談です。パクりは大事なので、どんどんした方がいいですよ。特に、優れた本を熟読して、隅々まで舐めるように読んで、叩頭してその表現を頭に叩き込むと、いいことがありますよ」
「ふぅん」
「優れた本とか。面白い本とか。よくまとめられた本とか」
「ふぅん」
「どんな本だ? とは聞かないんですか。とてもいい本を知っているんですよ私は。作者本人が言うので間違いありません」
「いやいいよ」
「あんた気配りできないひとですね」
妹紅はお茶を啜った。
「夜明けまでかかるかもな、慧音」
そう言って、あくびを噛み殺す。
「そうですね」
つられて、阿求もあくびを噛み殺した。窓の灯りは、ついたままだ。
雀の声が聞こえてくる。地面に散らばっていた瓦礫はすべてなくなっていた。きちんと閉じられた巻物が、慧音の前に浮かんでいる。慧音がそれを手に取ると、果てのない空間が端から少しずつ剥がれていった。見慣れた畳や壁が現れる。一分ほどすると、慧音のまわりはいつもの書斎になっていた。頭に生えた二本の角が、短くなっていく。髪の毛が緑から青っぽい銀色に変わるとともに、角は完全になくなった。
「ふぅーっ」
慧音は肩の力を抜いて、大きく息をついた。それから右腕と左腕を交互に伸ばしながら、書斎を出た。
予定通り、台所で茶の一杯でも飲もう。
家の中は冷え切っていた。人を入れて誰かに夜通し居てもらえればよかった。そうすれば暖のとれた部屋ですぐに飲み物にありつけたのに。だが、毎月そんな贅沢をしていられない。それに、今月がこんなに立て込むとは予想していなかった。
炭に火をつけ、何気なく窓の外に目をやる。
「はぁ!?」
途端、慧音は素っ頓狂な声をあげた。
草履をつっかけ、外に出る。家の向かい側の塀に、人影がふたつ、寄りかかっていた。ほの赤く輝く布がふたりを包んでいる。ふたりとも目を閉じ、安らかな寝顔を見せていた。
「まったく、こいつらは何をやっているんだ」
腰に手をあてて、眉をひそめ、慧音はため息をついた。
「野宿? 行き倒れ? 覗き魔が凍死? 朝から往来が増えだしたら、なんと思われるか」
慧音は赤い布に手をかけた。暖かい。引っ剥がそうと思ったが、やめた。そのまま、布でふたりをくるみこんで、抱え上げた。
「疲れた……な」
心からの呟きが、口をついて出る。少し、厄介な歴史だった。巨大な、うねる津波を思わせるような歴史は、ただ解釈しようとするだけで、強力な余波を辺りにまき散らす。散らばっている瓦礫は、慧音が囲い込もうとして何度も失敗した証だ。
「だが、もうひと息、だ」
終わったら、ゆっくりお茶でも飲もう。どうせ興奮しているからすぐには眠れない。お茶でも飲んで、何かかじって、雑談でもして眠気が来るのを待とう。雑談の相手は、気の置けない相手がいい。あまりお節介な妖怪だとこちらも疲れる。かといって、あまり淡白すぎる人間も張り合いがない。
「ふ……私も贅沢になったものだ」
頭に、ふたりの人間が思い浮かんだ。彼女たちは、わからないなりに、慧音の苦労をわかろうとしてくれている。
慧音は下腹に力を込めて、上半身を起こした。それから右足を曲げ、足裏を床につけて、膝に力を入れて立ち上がる。眼前に、巻物が意思を持った生き物のように、うねっている。その巻物の紙面からは、カラシニコフ銃や、物干し竿のように並んだカチューシャ、T-四〇の砲塔などが、その不気味な姿の片鱗を見せつつ、浮き沈みしていた。
「さて、さっさと片付けるか」
***
朝方、ちょうど上白沢家の前で、市場へ買い物に行こうとする慧音と出くわした。藤原妹紅は久しぶりに慧音の家で手料理をご馳走になろうと思っていたところだったので、当てが外れてしまった。だが、面と向かって気落ちした表情を見せるのも慧音に悪いので、何気ない風を装って挨拶した。
「よう慧音。明日が満月だからか、ずいぶん気が立っているみたいだな」
実際にそう見えたわけではない。ただ、なんとなく軽口で言ってみただけだ。しかし慧音は妹紅の意に反して、唇を真一文字に結んで、見返した。
「そう見えるんだったら、たまにはお前もそれなりの気を使ったらどうだ」
「なっ……」
「すまないが今月は特に込み入っていてな。正直私も、うまく一日でまとめきれるか自信がない。だが、やらなければならない」
普段、ハクタクの仕事に愚痴を言わない慧音がそう言うということは、余程のことだろう。妹紅にはそれがわかる。だから何か激励の言葉をかけたいと思った。だが、何と言って? 妹紅には、慧音が実際にどんなことをやっているのか皆目見当がつかない。妖怪と戦ったり、重いものを運んだり、料理を作ったりといったこととはまるで次元の違うことであることはわかる。妹紅には想像ができないことが、慧音には日常になっている。それを、時々妹紅はもどかしく感じることがある。
「まあ私にはよくわからないけれどね。何がそんなに難しいのやら。でも、何も一日で無理に片づけなくてもいいじゃないの」
慧音はため息をひとつついた。
「お前にはわからないよ」
そして、そのまま道を歩いていった。あとに残された妹紅は、しばらく所在なく立ちつくしていたが、やがて足下の小石を蹴飛ばして、家に帰った。
稗田阿求は執筆に身が入らない様子で、筆の腹を爪で掻いたり、もう数滴しかお茶が残っていない湯呑を何度も口に傾けたりしていた。平机に広げた紙よりも、壁にかけた日めくりカレンダーを見ている割合の方が高い。
「もう、お休みになってはいかがです」
羊羹三切れとお茶のお代わりを持ってきた女中は、言葉の端に呆れを滲ませていた。
「何もそんなに根を詰めなくともいいではありませんか」
「いえ、もう少し、切りの良いところまで」
女中は平机の端に盆を置いて、ひょいと阿求の肩越しに紙を見る。
「人里の上水道整備の歴史について……ってまだ全然途中ですよ。いつになったら切りがつくんですか」
「わっ、書いている途中の原稿を見ないでくださいよ」
「いずれ公表するおつもりなら、今見られたっていいではありませんか」
「いけません。書きかけのものを見られながらあーだこーだ品評されるのなんて我慢ができません」
「はあ、そういうもんですか」
女中の中では一番若い。阿求より三つか四つ、年上なだけだ。口調も自然とくだけたものになる。以前の稗田家は言葉遣いに厳しい時期もあったが、その辺は、阿求はほとんど頓着していなかった。
「何やら阿求様、お悩みのように見受けられたので」
「私はいつも執筆に頭を悩ませていますよ」
「いえ、そういうのは悩みと言いません。悩みとはもっと予定外のもののことをいうのです。阿求様が紙に向かってウンウン仰ってるのはいつものことですから、何もおもしろくない」
「好き勝手言ってくれますね」
「さっきから、というか昨日辺りからでしょうか、何やらずっと上の空ですよ、どうかなさったんですか」
阿求は言葉に詰まった。女中は小首を傾げて、続きをうながすように阿求を見る。
「ど、どうもしませんっ」
答えに窮した阿求は、強引に女中を押しやった。女中は納得いかない表情のまま、両手をついて襖を閉め、去っていった。
阿求はため息をつき、カレンダーを眺めた。卓上の時計を見る。しばらく、秒針と長針だけを見つめていた。それからおもむろに立ち上がって、カレンダーを一枚剥がす。そして障子窓を開いた。首を出して、空を見上げる。頭上に満月がかかっていた。
春も近いこの頃、またぞろ寒さが戻ってきたせいで、いや、おかげというべきだろうか、空気が澄んでいて、金色の光が惜しみなく幻想郷に降り注いでいた。だが、阿求は浮かなかった。
昨日、市場に買物に来ていた慧音と出くわした。久しぶりに顔を合わせたので、阿求は嬉しさのあまり、はじめうまく話せなかった。少ししどろもどろになりながら、最近の仕事の話を振ってみた。すると慧音は、ほとんど表情を変えないまま、答えた。
「ああ、まあ、調子はわりと悪い方かな。まあたいしたことじゃない。あなたが気にするようなことではない」
その言い方が、阿求には冷たく聞こえた。
「そうですか。確かに部外者の私がどうこう心配することでもないかもしれません。それではさようなら」
だから阿求も、そんな言い方になってしまった。
かといって、慧音を詰るわけにもいかない。実際、月に一度、満月の夜には慧音にかなりの負担がかかることを知っている。それを前日に控え、神経が過敏になるのも毎月のことだからわかる。特に今月はその度合いが、普段より少しばかり強かったというだけだ。それなのに阿求は、昨日からずっと引きずっていた。タイミングが悪かった。ちょうど、阿求は慧音と話したくて仕方なかった。その思いがピークを迎えていたときに、もっとも気持ちが下降していた慧音と会ってしまったため、まるで阿求は、なりふり構わぬ物乞いを無様に断られたような惨めな気分になっていた。この満月の日が終わり、慧音の仕事がひと段落したら、最近読んだ本と、新種のお茶の葉をダシにして、慧音を招きたい。むしろこちらから上白沢家に出向いてもよかった。だが、何と言って? 気まずい別れ方をしてしまった。その二日後に、何の用があって出向くのだろう? 向こうは変な顔をしないだろうか。いや、きっとする。だが、一刻も早くこのもやもやした気持ちを晴らすために、彼女に会いたい。だが、何と言って?
阿求は、朝からずっとそんなことばかり考えて、紙の前に向かっていた。人里の上水道の歴史についての考察は、その間、蟻の歩みよりもさらにゆっくりとしか進まなかった。
「日付は変わったわ」
自分に言い聞かせるように、阿求は、ひとりごとにしては大きい声を出した。
夜半を回っても、まだ慧音の部屋の灯りは消えていなかった。妹紅は、白い息を吐き、ポケットに手を入れたまま、その灯りを眺めていた。
その灯りに近づく、小さな炎がある。妖怪の炎ではない。人間が作りだした、弱々しい炎だ。妹紅はそれに気づくと、舌打ちし、すぐに駆け出した。闇夜に炎に照らされた人影は、ぼんやりとしていたが、小さかった。妹紅はおおむね見当をつけていた。近づくにつれ、その推測が正しいことがわかってくる。
「おい、稗田の。何をしている。慧音の邪魔をする気か?」
妹紅は、阿求が手にしている茶筒を胡散臭そうな目で見た。
「あんた自身が求聞史紀に書いているだろう。ハクタクの仕事は大変なんだぞ」
そんなことは求聞史紀に書いてはいないが、妹紅は知らない。なぜならきちんと通して読んだことがないからだ。阿求はそれをとっくに看破していた。昔はそれなりに教育を受けたはずだが、今はあまり本とは縁のない生活を妹紅が送っていることも、阿求は知っている。
「妹紅さん、あなたこそずっと慧音……さんの家を見張ってたんですか。こんな夜中に」
「わ、私のことはいいだろう。たまたま見かけたんだ、たまたま」
「たまたまなら、もうおうちへ帰った方がよくありませんか? もう遅いですよ。ああ、妹紅さんは特に朝、早起きする必要もないんでしたっけ」
「失礼な奴だな。私だって自警団の依頼があったときは、依頼主に合わせてきちんと朝から出るさ。物書きみたいに、いつ起きてもいつ寝てもいい、気楽な仕事とは違うのさ」
「長期間の執筆にはリズムの調整が不可欠です。規則正しい生活を送っていますよ。あまり半端な知識で決めつけないでくださいね」
「そりゃ悪かったね」
「それでは、さようなら」
「あい、さようなら」
「帰らないんですか?」
「お前こそ」
「私はここで、慧音さんの仕事が終わるのを待ちます」
阿求はさっさと包み隠さず自分の目的を告げた。出遅れた妹紅は、誤魔化すか、流れに乗るか、一瞬迷った。まるで阿求のマネをしたみたいで嫌だが、誤魔化すのは妹紅の性格が許さなかった。
「私もそうだ。慧音の仕事が終わるまで待っているつもりだ」
そう言ったあとで、
「ヒマなんでね」
と、つい付け加えてしまう。
「私はまったくヒマではありませんが、慧音さんを待ちます」
「どうしてだよ」
妹紅は、少し声を荒げた。
「どうして今月に限ってそんなことをする。しかもまるで私に当てつけるみたいに」
「あなたに当てつけようと考えるほど、私があなたのことをいつも考えていると思っているのですか」
「……あんた、言い方キツイね」
「失礼しました」
ぺこりと、阿求は素直に頭を下げた。
「気が昂ぶってしまって」
「まあ、こんな真夜中だしな」
「せっかくだから、一緒に待ちましょうか」
「それもいいな」
「お茶の葉しかありませんが」
「水筒ならある」
妹紅は竹筒を取り出した。
「あとは私の炎で温めればお茶になる」
「蓋は、この茶筒のがひとつだけですが、いいですか」
「いいよ。別に病気がうつるわけじゃなし」
「妹紅さんは」
「ん」
「どうして慧音さんと?」
「そこで語尾を上げたって、何を言いたいのか伝わらないね」
「仲がいいんですか?」
「そんなの知らないよ」
「知らないはずないでしょう、ご自分のことですよ」
「さあね、たまに朝飯喰わせてくれるからかな。あんたは」
「私は、同じ物書きだからです。気が合うんです」
妹紅は、蓋の残り四分の一になったお茶を飲み干し、阿求に渡した。竹筒からお茶をそそいでやる。
「あ、これはどうも」
「まさか。そんな理由じゃないだろう」
「あなたこそ」
阿求はしれっと言い放ったあと、何食わぬ顔で蓋を傾け、お茶を飲む。息をつくと、温まった呼気が、今までよりいっそう白かった。
「しばらくは、慧音さんとこうした付き合いを続けられるおつもりなんですね」
阿求はなるべく、言葉に棘がこもらないようにしたつもりだった。自分でも、意識に上らせないようにした。
「しばらくは、ってなんだよ」
だが、妹紅の反応から見るに、阿求の試みは失敗したようだった。
「いえ、私はあと三十年もしないうちに顕界を去りますし、慧音さんも、それより長いとはいえ、ずっと、というわけではありません。けれど、あなたは違う」
「違うらしいな」
頬を歪め、人差し指で自分の心臓のあたりを、とん、と叩く。
「あなたにとって、ひとと出会って何かをするというのが、いったいどういう感覚なのか、私にはわかりません。想像を絶します」
「あんただって古事記の頃からいたんだろう。私より年上さ」
「記録として知っているにすぎません。私の記憶は、稗田阿求から始まっています」
「私だって、百年も二百年も前のことなんてロクに覚えちゃいないよ」
「忘れるんですね」
「忘れるさ、たいがいのことは」
「竹林のあのひとは?」
「たいがいのことは、って言っただろう。思い出させるなよ」
「慧音さんとは、もっとほのぼのできますものね」
「なんかお前、思ったより性格悪そうだな」
「そうでもないですよ」
阿求は肩をすくめて、またお茶を啜った。部屋の窓は、まだ明るい。
「しばらく続きそうですね」
「続くだろうな。あんたは手伝ってやれないのか? グモンジの能力とやらで」
「私の能力は、所詮人間がなしうる延長上にしかありません。ひとより物覚えが良すぎるだけで。慧音さんのは、そういう能力じゃない。人間というよりは、神様に近い能力です。しかも彼女はもう、本当に人間じゃなくなったんですから」
「つらそうだな」
ぽつりと、妹紅は呟いた。その声があまりに優しかったものだから、阿求ははじめ呆然と妹紅を見上げ、次に睨みつけた。
「私は今の慧音さんの運命を肯定しています。つらいとかつらくないじゃありません」
「私は、あいつが人間だった頃を知らない。はじめから、半人半獣としての上白沢慧音と出会った。だから、そういう喪失感は知らないんだ。でも、あんたはそれを知っている。何かを失うということは、つらいことと決まっている。嫌がるなよ、同情しているわけじゃない、労わっているだけだ」
阿求は、それを上から目線の言葉だとは思わなかった。立場は違っても、同じ方向を見る者の言葉だと受け取った。
「ずっと生きているってことは、ずっと失い続けるってことですか」
「そうかもな。いや、そうだよ。どう取り繕っても、そうなんだ。たとえ、失う代わりに得るものがある、と言い張ってみてもね」
「つらいのは、あなたではありませんか」
阿求は茶を飲み干し、妹紅に蓋を渡した。手酌しようとする妹紅の手を止め、竹筒を奪って、自分でついでやる。
「そういうなまなましい感覚は、もう、あんまりないよ。これは本当だ。はじめの頃、ずいぶんつらかった。これも本当だ。けど今は、だいたい全部、納得できている」
妹紅は茶を飲む前、まるで乾杯のような仕草をして、阿求の酌に返礼した。
「今夜はただ、徹夜しているあいつが、いい加減眠くはないだろうかと、それが心配なだけだ。明日にはまた別の心配をするさ。天気とか、市場の紙の値段とか」
「紙の値段なんてあなたが気にするんですか」
「悪いかよ」
「慧音さんに買ってあげるんですか」
「あいつは紙の好みにうるさい。もう二度と買っていってやるもんか」
「じゃあご自分で?」
「私も昔、手習いを受けたからな。だいぶ昔だからほとんど忘れかけているが。あんたらもすなる日記というものを私もしてみんとてするなり、だ」
「早速パクるあたり、文才なさそうですね」
「なんだと」
「冗談です。パクりは大事なので、どんどんした方がいいですよ。特に、優れた本を熟読して、隅々まで舐めるように読んで、叩頭してその表現を頭に叩き込むと、いいことがありますよ」
「ふぅん」
「優れた本とか。面白い本とか。よくまとめられた本とか」
「ふぅん」
「どんな本だ? とは聞かないんですか。とてもいい本を知っているんですよ私は。作者本人が言うので間違いありません」
「いやいいよ」
「あんた気配りできないひとですね」
妹紅はお茶を啜った。
「夜明けまでかかるかもな、慧音」
そう言って、あくびを噛み殺す。
「そうですね」
つられて、阿求もあくびを噛み殺した。窓の灯りは、ついたままだ。
雀の声が聞こえてくる。地面に散らばっていた瓦礫はすべてなくなっていた。きちんと閉じられた巻物が、慧音の前に浮かんでいる。慧音がそれを手に取ると、果てのない空間が端から少しずつ剥がれていった。見慣れた畳や壁が現れる。一分ほどすると、慧音のまわりはいつもの書斎になっていた。頭に生えた二本の角が、短くなっていく。髪の毛が緑から青っぽい銀色に変わるとともに、角は完全になくなった。
「ふぅーっ」
慧音は肩の力を抜いて、大きく息をついた。それから右腕と左腕を交互に伸ばしながら、書斎を出た。
予定通り、台所で茶の一杯でも飲もう。
家の中は冷え切っていた。人を入れて誰かに夜通し居てもらえればよかった。そうすれば暖のとれた部屋ですぐに飲み物にありつけたのに。だが、毎月そんな贅沢をしていられない。それに、今月がこんなに立て込むとは予想していなかった。
炭に火をつけ、何気なく窓の外に目をやる。
「はぁ!?」
途端、慧音は素っ頓狂な声をあげた。
草履をつっかけ、外に出る。家の向かい側の塀に、人影がふたつ、寄りかかっていた。ほの赤く輝く布がふたりを包んでいる。ふたりとも目を閉じ、安らかな寝顔を見せていた。
「まったく、こいつらは何をやっているんだ」
腰に手をあてて、眉をひそめ、慧音はため息をついた。
「野宿? 行き倒れ? 覗き魔が凍死? 朝から往来が増えだしたら、なんと思われるか」
慧音は赤い布に手をかけた。暖かい。引っ剥がそうと思ったが、やめた。そのまま、布でふたりをくるみこんで、抱え上げた。
阿求の言葉がいいアクセントでした。
個人的には自分の書いた本を薦める阿求が良い感じでした。
短編の持つキレってやつを学びたいですね。長編にも役立つはず。
次の投稿はまた間隔を置くかもしれません。
紅楼夢の頃になるかなぁ……
今度こそ妖夢の話か、もしくは地底VS妖怪の山。
、入れすぎちょっと読みずらい。
やはり独特の世界観がありますね。