もうすっかり夏の風景へと変わってしまった。
作物が収穫され、しばらくの間放置されていた田んぼも、今は水で潤い、おまけといわんばかりに曇り空からは雨が降り注いでいる。
鷺たちは何がいるのかは知らないが嘴を泥の中へと突っ込み、また他の獲物はいないかと水田を忍び足で巡回している。
雨の中ご苦労なことだと、真っ赤な唐傘の下でぼんやりと思う、買い物からの帰路。
傘を叩く音と、濡れた地面を踏みつける音とが耳へと継続的に流れてくる。
傘を持つ手の逆手、少しばかり雨に濡れた紙袋の中を覗き込む。
そこにあったのは蚊取り線香と、蠅叩きであった。
この時期になれば、ただでさえ神社に鬱陶しい連中が来るというのに、それに加えて新たに面倒な奴らもやってくる。
蚊や蠅なんていなくなってしまえばいいと、腕を刺されたり、睡眠を妨害されたりする度に思っていた。
ふと紙袋の中身から目を離すと同時に、不意に視線に飛び込んでくる渦巻模様。
飛び出た目玉が、自身の体長を何倍も上回る霊夢をじっと見ていた。
むっと唇を尖らせて、しゃがみ込む。すると、「あっ」と小さな声を上げた。
視線はカタツムリに向けられず、自身の着る真っ赤な袴へ向けられている。
しゃがんだせいで、水たまりに袴が浸り、深い赤色へと変わっているのに気が付いたのだ。
「ちょっと、あんたどうしてくれんのよ」
ツンと殻を突いてみれば、やれ逃げろと言わんばかりに目玉を前へ突出し、ゆっくりゆっくりと動き続ける。
しかし所詮カタツムリが急いだところで、人間からしてみれば微塵も早いと感じない。
ともかく、道の真ん中にいては危険だと思った霊夢は、道端の藪萱草のすぐ傍まで運んでやった。
またしゃがみ込んで、カタツムリをじっと見つめながら、
「後は好きにお逃げなさい」
と優しく声をかけた。
カタツムリは何も言わず、目を左右に振ってのろのろと茂みの中へと進んでいく。
このまましばらく、消えていくまで見届けようかと思ったその時、不意にゲコという声に視線をそらす。
傘から垂れる水滴が、石の上で変色した蛙にぽたぽたと落ちていたようだ。
逃げることもしないその蛙とじっとにらめっこ。
しばらくじっと見つめていると、また蛙がゲコっと鳴いた。
するとどうしたことか、霊夢は不意にふっと笑った。
「私の勝ちね? あれ? でも笑ったかどうかなんてわからないし、この場合は私の負け?」
どうなんだろうね、と蛙に問いかけても何も答えず、一度瞬きをするのみ。
そっけない態度に霊夢はむっとして、突いてやろうと指を伸ばすも、生命の気を感じたのか、蛙はぴょんと茂みの方へと逃げて行った。
突き出す人差し指は空振り、傘の外から絶え間なく振り続ける雨粒がひとつ、ふたつと濡らしていった。
濡れた指を拭おうと、袴に手を伸ばそうとしたその時、シルクの長手袋が視界に写る。
その手には、綺麗に四つ折りにされた薄いピンクのハンカチがあった。
「女の子たるもの、ハンカチの一つくらい持っていなさいな」
「果たしてここにいる女の子とやらの何割がハンカチを持っているのか知りたいわね」
そう返しつつも素直にハンカチを受け取り、濡れた人差し指をささっと拭いた。
ふと唐傘を傾けてみれば、優しく微笑む紫の姿があった。
すっと立ち上がると、急ぐようにしてハンカチを紫に戻す。
「はい、ありがと」
「そんなぶっきらぼうな返し方ないんじゃないかしら?」
「私を見ながらにやにやしてる奴に言われたくないわよ」
「やぁん、冷たいわね」
神社でなくても、霊夢が歩いていると何処かしら知り合いが寄ってくる。
大体が人間でなく、妖怪なのは言うまでもない。
特に紫は神出鬼没という割には、霊夢の周りに気が付けばいることが多く、一人になったと思えば突如出てくることもしばしば。
こんな雨の日まで傘を差して出てくる辺り、ストーカーでもしているのではないかと疑ってしまう。
「あんたってやること無いの?」
「それなりにね。霊夢とおんなじくらい」
「私は忙しいわよ? 掃除に洗濯、お買いもの。あんたみたいに式神に頼ってるわけじゃないんだから」
「あらぁ、私は結界の管理だったり、必要に応じて外の世界を行き来したりしてるのよ? それに、貴女だって私がいなければ大変な部分が多いでしょう?」
「ぐっ……。それを言われると何も言い返せないわね」
幽雅に真っ白の傘の下、にっこり笑う紫を無視して家路を急ぐ。
ぐちゃ、ぐちゃ、という足音の後ろに、くちゃっくちゃっ、と急ぐ足音が聞こえてくる。
隣を見れば、すでに同じ速度で隣を歩いていた。
歩幅が違うっていうのはこういう時に少しばかり恨めしく思えた。
「なんでついてくんのよ」
「暇なんだもん」
「隙間で家まで送ってよ」
「やだ」
「なんで」
「歩いているのがいいんじゃない」
「なによそれ」
早歩きのつもりで歩いても、平然と紫はついてくる。
身長差で見えないし、傘が邪魔で見えるはずもないのに、紫の方をじっと睨みつける。
おまけに口まで尖らせてみるけど、どうせここからじゃ表情なんてわからないはずだ。
絶え間なく振り続ける雨と、僅かに吹き続ける風とが、聴覚を刺激する。
耳に入るノイズの中、小さな声で霊夢はポツリと「私に合わせなくてもいいのに」と呟いた。
「ん? なにか言った?」
「何が? どうしたの?」
「なんでもない」
この時、紫がどんな顔をしているか、霊夢にはわからない。
だけど、紫はちょっと隙間使えば表情を窺うことだって、呟いた言葉だって聞き取ることができる。
反応を見るに、気づかれていないかなと思った、そんな時だった。
「命の歩幅は合わせられないけれど、せめて一緒に歩くときくらい、隣にいてもいいじゃない」
その声は、風のざわめく音、雨が傘を叩きつける音、蛙達の鳴き声、それらの雑音を無視して、鮮明な声で霊夢の耳まで響いてきた。
ふと、さっきまで振り続けていた雨が、次第に弱まっていることに気が付いた。
雲の間から、少しばかり太陽が見えている。
今、傘を閉じて紫の方を覗き込めば、真っ赤に染まった恥ずかしそうな顔か、もしくは真剣な表情がみられるかもしれない。
だけど、そんなことは今はどうだっていいと、霊夢は思った。
傘は閉じず、それでも紫の方を見つめながら。
「なによ、聞こえてるんじゃない」
傘の下で、決して見えるはずのない霊夢のしかめっ面。
だけど、隣からは確かにクスッと笑い声が漏れて聞こえてきた。
「覗き見しないでよ、馬鹿」
「あらあら、ごめんあそばせ」
隣で、傘を閉じる音が聞こえた。
それに合わせて、霊夢も傘を閉じる。
「霊夢も私に合わせなくてもいいのよ?」
「煩いわね、ちょうど私も傘を閉じようと思ってたのよ!」
ふんっ、と怒った仕草をしてみれば、紫はまたクスッと笑う。
「なによ」
「ほら、虹が綺麗よ?」
「あ、ほんとだ」
うっすらと、滲んだような虹を見つめる。
さっきまであんなにむしゃくしゃしていたはずなのに、今はどこか、澄んだ気持ちが満ちていた。
あの虹の向こう側まで、とはいかないけれど。
まだ少しばかり長い帰り道を、二人でゆっくり歩く、涼しい夏の雨上がり。
良いじゃないですか。