フランドール・スカーレットは闊歩する。
大股で堂々と歩いている。
けれど、その動作はふわふわとしているのだから、これはスキップランランといったほうがよい。
だから、赤い館の長い廊下をスキップランランする。
そして、瞳は爛々と光っていた。
スキップなんてまだるっこすぃ、とフランドールはおもっている。語尾をちょっと変えるのが近ごろの彼女の流行りだった。
長い廊下といっても、本気で駆けぬければ十秒とかからない距離に、いったいぜんたいどれだけ時間をかければいいのくぁ。笑顔のなか、お目々だけがギラギラとしていた。
しかし、本気で走ってはいけない。
だって、そんなことをすると、ニ歩で靴がダメになって、石の床が穴だらけになってしまう。お姉様に叱られちゃぶ。
「叱られちゃぶ台」
言ってみたけど面白くなかった。
そんなわけで、たっぷり三分かけてお部屋のまえに着きました。
ノックする。
すぐに扉が内側に開き、薄闇のなかから浮かびあがるように現れた白い顔、十六夜咲夜が丁重に出迎えてくれた。
会釈をあたえ、部屋の中ほどまで足を進める。扉の閉まる重い音がして、背中を飾る宝石の羽根から、なけなしの輝きがぽろぽろとこぼれ落ちた。
「よく来たな」
と降ってきたのは、お姉様であるところの、レミリア・スカーレットの声である。
部屋の奥まったところに据えられた極端に脚の長い椅子に腰掛けて、レミリアはフランドールを見下ろしている。椅子の右と左に浮かぶ青白い炎に照らされて、そのちいさな身体が、はっきりと見てとれた。肘かけに寄りかかり、背中のコウモリの羽根を反り立たせたなりで、白磁の顔から微笑をこぼした。
「おまえの方から会いに来るのは珍しいね」
とレミリアはいった。同時にその霊気が膨れあがり、強風のように吹きつけて来る。霊気、カタカナで言ったらオーラ、同音異義語は冷気です。
いけないっす、とフランドールはおもった。
レミリアのオーラには、相手を従属させる魔力が篭っている。それに飲まれると、レミリアの下僕になってしまう。その証拠に、咲夜が扉のそばで床に額をつけて土下座をはじめた。
フランドールは、気力を確かにしてレミリアを見上げた。
スカートをちょこっと持ち上げて、軽く足を曲げてお辞儀をする。
左右の手を胸に重ねて、
「お姉様に、お願いがあって来たぬぉ」
とてもとても可愛らしくいった。
とたんにオーラがほとばしった。
名づけて、インフィニティ・チャーミング!
これに飲みこまれ心を奪われると、フランドールがいとおしくって仕方がなくなる。なんでも言うことを聞いてあげたくなってしまう。
オーラとは、つまり吸血鬼の魅了のちからのことなのだった。個体によって微妙にあるいは全く性質が異なっており、それが吸血鬼の個性のひとつとなる。
ぶつかり合ったオーラが、部屋のまんなかで押し合っている。
気づけば咲夜が、影のようにすぐ後ろに立っていた。
レミリアよりもフランドールに近い所にいたせいで、インフィニティ・チャーミング! の方にあてられたらしい。
振りむいて肩越しに見てみると、目がうるんでいた。熱っぽい視線でフランドールを見詰めている。なんか近いぬぁ、とおもったら、いきなり後ろから抱きつかれた。背中に頬をよせてくる。
あぁ、なんだかこそばゆい。ぶるっときっあ!
「それで、お願いってなんなの」
レミリアは、咲夜にはお構いなしだった。
「あ、えっと、欲しいものがあるのん」
「なにかしら?」
「紅魔館の当主の座でち」
「あげないにゃ」
「なにぃーっ!」
シット! マイフェーヴァリット語尾変えを真似されてしまった。イラっときっあ!
この瞬間、フランドールの流行りは終焉をむかえたのであった。
「お姉様っ」
瞳にきら星を宿らせてレミリアを見上げる。
「ん?」
「もとからちからずくで奪うつもりだったんだよっ。咲夜、あぶないから部屋から出てって」
「かしこまりました」
と答えるがはやいか、咲夜は扉も開けずに部屋から姿を消した。
「ちからずくってどうやって?」
レミリアは、含み笑いの顔もやさしげで余裕たっぷりである。
「手段は選ばない」
「たとえば」
「くすぐり地獄」
「なにッ!」
ガタッと音がしたのは、レミリアが羽ばたきも力強くフワリと浮きあがり、椅子のうえに立ったからだった。
浮き足をして、胸のまえに持ち上げた手をだらりと垂らしている。
よし! 食いついてきた。レミリアは、ちょっとくすぐられてみたいかも、と考えているはずである。
フランドールは、ピアノを弾くときの形にした手を突きつけて、
「さぞくすぐったかろうよ」
といった。テンションがあがって、へんな喋り方をしてしまったが、気にしない。
それで、そそり立っていたレミリアの羽根が、ほんのわずかにしおれたらしい。オーラの均衡が崩れ、インフィニティ・チャーミング! の支配領域がおおきくなる。
いける、とフランドールが足を踏み出したとき、レミリアがニヤリと笑った。
「来るがいい妹よ」
横顔を隠すように片手をあげて、
「私の“くすぐり地獄返し(ヘル・リヴァース)”が怖くないのならな」
といった。
「なにぃーっ!」
しまった、返されてみたい、っておもってしまった。
とたんにオーラが、釣りあいを取り戻す。
うかつに攻めこめば、くすぐり返される。そうなると、こそばゆいのに弱いこちらが不利である。先に降参させられてしまう。
フランドールは、アマチュアレスリングの選手ばりに構えたまま、右へ左へとじりじり動いた。
と、そのとき、頭上に電球がともった。
立ち止まって、次に右へ動いたとき、元居た所にフランドールの姿がひとつ残った。横並びになったふたりが、顔を見合わせてハイタッチする。そうして左右に分かれるように移動し、それぞれに分身した。
『フォーオブアカインド』
四人への分身はフランドールの得意技のひとつである。
「ふっはー、“四倍くすぐり地獄”になりました!」
組み体操の扇を披露しながらいった。
しかし、お姉さんは怯まない。
レミリアのまわりの空間に赤い魔法陣が数個現れて、そこから無数のコウモリが湧き出してきた。
「くすぐり地獄返し with バッツ」
なんという、なんという羽根だ、とフランドールは戦慄した。あのパタパタした羽根のひとつひとつが即死級の破壊力を秘めている。あれが半袖の口からするりと入ってきたりしたら、それこそ一瞬で降参せざるをえない。
「こんなことなら長袖を着て来たらよかった……」
「いや、長袖でも心もとなくないかしら。こちらのくすぐりを防ぎたいのなら、私のあげた怪獣の着ぐるみでも着て来るんだったね」
「あんなの着れないよ」
ぷっと頬をふくらませる。
「そう。で、どうするの? 来るのかい、来ないのかい?」
「くっそー」
ほかの手を使うしかない。
パチンと指を鳴らすと、三体の分身が後方宙返りをして消えた。いや、とんまな奴が一体いて、後頭部を打ってのびてしまった。あれは、256分の1の確立で出るどんくさい奴だ。レアだけど、ありがたくない。
「よくもやったな!」
ビシッと指を突きつける。とりあえず、お姉様のせいにしてみました。
「ちょっと、運命をあやつってやっただけさ」
とレミリア・スカーレットが、クールに決める。
それを見てフランドールは、アイツまたノリでウソついてるよ、とは思ったが、そこに付け入ることにした。
「能力を使うなんてずるいよ。それだったら私も使う!」
本気で腹をたてたふりをして、開いた手のひらをレミリアに向けた。
軽く握る。おなじみフランドールの破壊の儀式である。
でも、これ実は生きてる物は壊せない。
秘密だよ。♥
けれど、壊す壊す詐欺でだまして、お姉様を降参させてみせる!
「はてさて、お姉様っ。なんで、いつもみたいに逃げなかったの?」
小首をかしげて、下になったほっぺに人差し指をフニッとあてて上目遣いをしてみせる。よっし、とりあえず小馬鹿にしてやった。
が、レミリアは表情を毛ほども変えない。鈍感か、とフランドールは思った。
「お姉様の破壊の目は、もう私の手の中に入ってるんだよ」
わかってないかも知れないので、ちゃんと説明してあげた。
「うん」
「きゅっとして、レミリアどっかーん」
「やってみたら?」
「えっ」
やだな、やだな、あの吸血鬼なんかたくらんでるよ。
えっ、もしかして、ひょっとしたら、秘密がバレている?
「ひえーっ」
っていったら、ニヤリって顔をされた。
やっぱりバレてる?
くっそー。
フランドールは、キッとレミリアを見た。口をぎゅっと閉じて、あごのところに梅干のようなシワをつくった。
「お姉様、怖くないの?」
「怖がっているのは、おまえのほうだろう」
「くっ……」
うぅ、なんとか誤魔化さなきゃ。
「わ、私は怖がってなんかないよ。ただ、ちょっと手元が狂って、いま握っている破壊の目は、お姉様のお洋服のやつだから、どうしょうかなあって思っただけ」
フランドールは、そろえた膝を軽く屈伸させながら、そのリズムに乗って握った手を前後に振りふり、口をとんがらせていった。ちなみに今の発言は事実である。生きているところのレミリアの目は、つかめないから、代わりに服の目を握っておいたのである。
「ち、ちょっと、待って」
レミリアの顔色が変わった。それはそうだろう。紅魔館の当主たるもの、椅子のうえですっぽんぽんでは様にならない。
形勢逆転!
フランドールは、いたずらっ子の笑顔をつくった。
「壊してみよっかな?」
「止めっ、うわーっ……うおぉぉぉ!」
と、いきりたったレミリアが、フランドールに飛びかかろうとした、そのときだった。
『バタン!』
ものすごい大きな音をたてて部屋の扉が開いた。
姉妹が、おどろいた顔を同時に振り向かせた。
咲夜が立っていた。レミリアを静かに見詰めている。それが、花が散るように哀愁をおびた顔に変わっていった。かすかに何ごとかをつぶやいたようだった。
靴のかかとを鳴らしながら優雅に部屋へと歩み入ってきた咲夜は、つゆもオーラに捕われていなかった。このメイド長は、鍛えられているから、その気になればオーラなどものともしないのである。先ほどは、たわむれに虜となってみせたのだろう。
咲夜は、フランドールのそばまで来るとひざまずき、おもむろに其の握ったほうの手を己の手で包みこんだ。咲夜が真に仕える相手は、レミリアただひとりである。優雅なるメイド長は、その主人の窮地を救いうため、フランドールの蛮行を阻止すべく駆けつけてきたらしかった。
「妹様」
と咲夜はまっすぐにフランドールの目を見ながら、そっと手にちからをこめ、重くうなずいた。
フランドールがうなずきかえす。
「いいわ、お洋服は壊さないよ」
といったら、咲夜は顔の横の三つ編みを揺らして、首を左右に振った。
あれっ? ちがった?
咲夜は、ふたたび手にちからをこめて、真面目くさった顔でレミリアを見上げている。
「えっと、もうお姉様の服の目は、もとの場所に返してしまったよ」
フランドールがこっそり耳打ちすると、すかさず咲夜は深かぶかと首を垂れた。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
しれっとした声でいった。
「いや、呼んでないけど……」
レミリアは、椅子に腰を落ち着けて微苦笑を浮かべている。
「そうですか」
と静かに身を起こした咲夜が、完璧なメイドの立ち姿をそこに体現させた。
「それは失礼いたしました」
と言い残して消えた。
姉妹が顔を見合わせる。
「つづける?」
青い髪の姉は、肘かけによりかかって、てんでやる気がないようすでいった。
「んー、やめとく」
金髪の妹は、首を横にふった。
「ところでさ、なんで当主の椅子が欲しいだなんておもったの?」
とレミリアが尋ねると、フランドールはちょっと眉根を寄せてから、ふわりと笑った。
「ひみつ」
と舌をだした。
それは、数年前の暑い夏のことだった。
当時、フランドール・スカーレットは、紅魔館の地下深くにある部屋に封印されていた。
封印は、四百と数十年まえ、フランドールの破壊能力を危険視した七人の吸血鬼が、三十七人の魔法使いの協力を得て施したものである。殺さないで封印したのには、やはり理由があるらしかったが、すでに七人の吸血鬼がこの世のものでなくなったいまとなっては、その真相は解らなかった。
以来、封印の部屋をふさぐ扉は、五百年にちかい時のなかで、ただの一度も開いたことがなかった。
これまでレミリア・スカーレットが試みた、ありとあらゆる封印解除の“手”を、その一見なんのへんてつもない木製の扉は、ことごとく跳ねかえしてきたのである。もちろんフランドールの破壊能力だって効かなかった。
その日。
レミリアは、封印の扉に背中のうえのほうをもたせかけながら、スカートの中であぐらをかいで石床のうえに座っていた。
木の板いちまいを隔てた部屋のなかでは、フランドールが、おんなじようにドアに背をあずけ、腰のよこに手をつき膝を立てている。
「もうすぐ幻想郷じゅうを、紅い霧が覆いつくす」
とレミリアがいった。
封印の扉は、声だけは明瞭に通す。
そのおかげでフランドールは、口伝えで魔法を覚えることができ、魔法のちからで食べ物を生成するなどして、なんとか生きてこれたのである。
「紅い霧?」
フランドールが尋ねるように返した声はちいさかった。
「うん。霧は私の魔力を満たした器なんだ。それが幻想郷いっぱいに満ちる」
「ふーん」
「そのときこそ、このいまいましい封印を解いてみせる」
レミリアは、後ろ手に扉を叩きながらいった。扉は、吸血鬼の怪力をうけてびくともしないどころか、音すらたてない。
「これのせいで、私は妹を四百ウン十年間閉じ込めてきた非道な姉よばわりだ。非道? おおいに結構だね。吸血鬼にとっては褒め言葉じゃないか。どいつもこいつも影で私を褒めちぎってるよ」
そういってレミリアはすましていたが、しばらくして耳を傾けるように首をかしげた。いつもなら何かしら言葉を返して来るはずの扉の向こうが静か過ぎる。フラン、と呼んでみるが返事がない。かわりにすすり泣く声が漏れてきた。
おやおや、とレミリアはいった。
「しおらしくって、お前らしくないね」
「だって、もし今度も上手くいかなかったらって考えたら、悲しくなるんだもん」
「失敗を先取りして、悲しがることもないだろうに」
「だって……」
「どうせなら、成功を先取りして、わくわくしていてほしいんだけど」
「今まで、全部失敗してるくせに?」
「それを言うな」
レミリアは、目に見えて肩を落として息を吐いた。
「ねえ、お姉様」
「ん?」
「なにかお話して……みんなはどうしてる?」
「封印を解くための準備にいそがしくしてるよ」
「聞かせて」
「パチェは、特大の魔方陣を敷いてる」
「パチェは好き。私にいっぱい魔法を教えてくれたよ」
「そっか。咲夜は、パチェの魔方陣ために図書館を広くしたり、霧でおかしくなった妖精のぶん家事をがんばってる。掃除が大変なんだと」
「咲夜? 咲夜も好き。なんにも用事がないのに、毎日ここに来てくれるから。いっつも、早くお世話をさせてくださいませ、っていってるわ」
フランドールが咲夜の口を真似たのが、よく似ている。レミリアは静かに微笑んだ。
「うん。美鈴はいつもどおり館を守ってくれてる。妖精が役にたたないから休みもなしだけど、おまえのためだからってはりきってるよ」
「めーりん! 美鈴は、面白いお話をいっぱいしてくれるんだ。お姉様の次に長い時間そばにいてくれるし、大好き」
「へえ、私の知らないところで、みんなそんなにお前をかまってくれていたんだ」
「うん。あと小悪魔は?」
「小悪魔?」
「よくパチェと一緒にいる子」
「ああ、あれはそう呼ばれてたっけ。パチェの手伝いをしてる、とおもう」
「ふうん」
フランドールは、ごくたまにひとりでやって来て、悪事の体験談と悪のすばらしさを語ってゆく悪魔のことを、レミリアに聞かせた。
「お姉様」
「ん?」
「私、みんなに会ってみたい」
「うん……」
それっきりふつりと会話が途絶えた。
辺りは静まりかえっている。
だいぶん長いこと時間がたったあと、レミリアがみんなだっておなじさ、とこぼした。
自身の体温で温まった扉のぬくもりが、ふとしたはずみで背中に返ってきたのが、フランドールの体温に思えて、レミリアははっとした。
その数時間後……。
封印は破られた。
パチュリーの力を借りて、紅い霧の魔力を拳に集中したレミリアが振り下ろした一撃は、その片腕もろとも封印の扉を消し飛ばした。
「やった……」
レミリアは腕を失った肩から血を噴出させながら、前のめりになってうつ伏せに倒れた。
噴きだした血がもう新しい腕を形成し始めている。が、渾身の一撃に体力を消耗しきった吸血鬼は、うまく動けないようだった。ちからをこめても震えるばかりの身体に鞭打って、上体を少しく浮かせ扉の中をのぞきこんだ。
狭いが館の他と変わらない豪奢な装飾の部屋があった。その暗がりの向こうにフランドールが立っていた。
奥の壁に背をつけて、魔法の障壁に包まれながら、祈るように胸のまえで手を組み合わせている。
魔法障壁は透けていたが、エメラルド色に淡く発光しているせいで、フランドールの姿がはっきりとは見えない。
なぜ障壁を早く解除しないのか、とレミリアはじれったくなった。
その目がはっと見開かれる。
すぐ目の前で封印の扉が再生をはじめていた。
「フラン!」
と叫んだつもりが、おもいのほか声が弱々しい。
「お姉様?」
フランドールの声がした。障壁を解き、一歩そしてまた一歩と確かめるように近づいて来る。
495年ぶりの外である。
おおきすぎて一時には受けとめきれない喜びを、ひと足ごとに噛み締めているのだろう。
が、封印が復活しようとしているいま、そんな場合ではない。フランドールは気づいていない。
「走れ……フラン、走るの」
再生したての手を差し伸べて訴えるが、あの子に届かない。
床まで届いてまだ余りある長い髪、フランドールは五百年の時を引きずって歩いている。
そして、封印の扉は、上下左右から幕が下りるように閉じつつあった。その修復速度はだんだん速くなっているようである。
「フラン、急いで!」
咽喉よ裂けるなら裂けよ、声が枯れてもう二度と出なくなってもいい。レミリアはなけなしの声をはりあげた。
「あっ」
フランドールが気づいた。駆けだした。
よかった、間に合う。
……否。
駆けだそうとしたのが、足をもつれさせて転んでいる。長年よく使っていなかったせいで足の機能が十分でなかったのか。
「うくっ……お姉様っ」
「フラン」
共に床にうつぶせになった姉妹は、向かい合って呼びあった。
が、いかめしい装飾の扉にはばまれて、お互いの顔が見えない。
レミリアは顔をあげた。
扉にぽっかりと開いた穴を見ながら、フランドールがそこから抜け出してくる奇蹟を祈った。祈るうちに、みるみる穴は小さくなり、完全に塞がったとき、表面に波紋のような波が走った。
奇蹟は、起こらなかった。
「あぁ……」
レミリアは事切れたように虚脱して、突っ伏した。
三百年、と蚊の鳴くような声で言った。こんかい使った手を再び使うのに待たねばならない年月である。要となるパチュリーの参拾七魔法同時詠唱のために、月とあまたの星星の巡り合わせを待つ必要があった。
そのあいだ、またあの子は狭い部屋の中でひとりぼっちでいなければならない。
ちいさな吸血鬼は放心して、床のほこりっぽい臭いばかりを気にしながら、じっとうずくまっていた。
その耳に、
『コツ、コツ、コツ』
硬い踵が床石を踏む音が響いた。
音が途絶える。
ひと呼吸おいて、
「お姉様……?」
背中に声が降ってくる。
まさか?
短く息を吸いこんだレミリアが、寝返ろうと力をふりしぼった。そのとき、肩におおきな手が触れた。とたんに身体が軽くなり、どこをどうされたのか、次の瞬間には床に座っている。
しばし目がまわったようになり、我に返った。紅美鈴が、かたわらにひざまずき、片手で背中を支えていた。もう一方の手をレミリアの下腹にあてて、癒しの氣を流しこんでくれている。
美鈴の顔は、怪我で腫れてひどいありさまだった。
レミリアをのぞきこむようにしていたその顔が、無言でうなずき目顔で斜め上を指し示した。
釣られるように視線を上げると、目に飛びこんできたのは、身体中に包帯を巻きつけながらも凛として立つメイド長、十六夜咲夜の姿だった。
レミリアの目が見開かれる。
咲夜の腕のなかに、彼女がいた。
「フラン?」
レミリアは、確かめるように名を呼んだ。
無意識に手が差しのべられる。
美鈴がすっと身を引いた。
瞬間、フランドールが咲夜の腕から逃れるように空中に飛びだした。宙に舞うことしばし、レミリアの胸のなかにふわりと落ちた。
それが、ちからいっぱいしがみついて、ところかまわず頬ずりをしてくる。
「お姉様、お姉様、お姉様……」
他の言葉をすっかり忘れてしまったかのように繰り返した。
「ああ、フラン。わたしのフ……」
普段なら絶対に言わないような言葉が、口からこぼれそうになる。
レミリアは、仔猫になって夢中でじゃれついてくる妹をなだめるように、髪の生え際に近いところをそっと指で梳かした。
ふっとフランドールの力がゆるんだ。胸に顔をうずめ、静かに息をしはじめた。
「よう、ございました」
と咲夜が控えめにいった。
「うん」
主従が穏やかな視線を交わらせ、主人が満足げにうなずいた。
そうして、レミリアはしばらくフランドールを撫でていたけれど、不意にみじろぎをして背中を伸ばした。
フランドールの肩を掴んでそっと離れさせる。
なっとくがいかないような顔で目をのぞきこんでくる妹に、ひとしきりまじめくさった顔を見せると、
「これからちょっと、行かなきゃならない所があるんだよ」
といった。
「嫌っ」
すがりついてくるそぶりをみせるのを振りきってレミリアが立ちあがった。本調子には程遠いけれど、時間と美鈴の氣が体力をずいぶん回復させてくれたようだった。
「なに、すぐに済むさ。済んだらみんなでお祝をしよう。お前は髪をきれいに整えて、かわいらしい服を着て私と踊るんだよ」
「……」
フランドールがふいっとうつむいた。
おおきく息を吸って、静かに吐きだすのを繰り返している。
レミリアはその頭に手をのせた。
「私はね、私の望みのために幻想郷を霧でおおったんだ。いま、それを異変として巫女が館に乗り込んできている。私は紅魔館の当主として、あいつと決闘をしなきゃならない」
そういって、すっとフランドールの脇を通り抜けた。
「妹を頼む」
とすれ違いざまに咲夜にいって、足を止めないで地上へとつながる階段に向かった。
その背中に美鈴が声をなげた。
「お嬢様、もう霧は晴れているんですよ」
階段のすこし手前でレミリアが立ち止まった。背中を向けたまま、
「だろうね。魔力を使い果たしたんだから」
「はい、私……巫女に負けて地面に倒れていて……それで実際に晴れるところを見たんです。それを今から巫女に知らせてきます。そうすれば奴は帰りますから。だから、そんな身体で無茶しないで妹様のそばにいてあげてください」
「だめだよ。それだと、私が敵を前に恐れをなしたように見える」
皮肉っぽく息を吐いてからレミリアは続けた。
「こちらにどんな事情があるにせよだ、巫女からすれば逃げたように見えるだろう。逃げて笑い者にされるのは、私だけじゃあないんだよ?」
「……」
「お前は甘いね」
「すみません」
美鈴がちからなくあやまると、レミリアの顔が軽く笑みくずれた。
「うん、いいよ。私の下にいるあいだは甘いお前でいておくれ」
そういったとき、階段に人影がさした。
小悪魔とそれに負ぶさったパチュリーだった。
「ああ、レミィこれから出るところだった? とりあえず、異変に狂った妖精は意外に使えるわ。ありったけを巫女にけしかけておいたから、もうしばらくは……」
と言いかけたパチュリーが、ふとレミリアの肩ごしに、その背後を見遣って微笑んだ。
「なに? もうしばらくは持つって?」
「あ、ああ、そうね。その通りよ。今からあなたが謁見の間に向かう時間くらいは稼げる」
「そっか、それじゃあそろそろ行こうか」
パチュリーがうなずき、咲夜が、いってらっしゃいませ、と言って、小悪魔が頭をさげた。
それでレミリアは、なかなか動き出さない。
なんだかソワソワしだしたかとおもうと、ぱっと身を返して駆けた。
フランドールのかたわらで身を沈めると、いきなり軽く抱きしめて、髪にそっとくちづけをした。
「けじめをつけてくる」
というと影を引いて階段にとびこんで、そのまま駆け上っていった。
残されたフランドールは、きょとんとしている。それが不意に泣きそうな顔をして、
「どうして、お姉様が当主なの?」
といった。
「フラン、ねえフランってば」
過去をふりかえり、その余韻にひたっていたフランドールが、ふと我に返ればレミリアが呼んでいる。なんども呼びかけていたらしく、その顔は少し苛立たしげだった。
「フラン」
「なに?」
「暇だから、チェスでもする?」
「やだ」
「おまえ、勝てないからねえ」
「なんだとー」
お姉様がずるいから嫌なだけだよっ、とフランドールが地団太を踏んだとき、ノックの音が部屋に響いた。
「誰か?」
「美鈴です」
「入っておいで」
次の瞬間には咲夜が部屋の入り口に立っていて、静かに扉を引き開けた。
「失礼します」
と美鈴が数歩なかに入ってきて立ち止まった。赤い髪が、なんだかしっとりとしているように見えるのは、夜露のせいだろうか。屋外は、かなり冷えこんでいるらしく、美鈴は頬と鼻の頭を赤くしていた。
身をよじって振り向いたフランドールが、ちいさく手をふった。
それにちょっとうなずいて微笑んだ美鈴が、
「お嬢様。例のものが先ほど山から届きました」
「ほう、こんな時間に……しかし意外と早かったわね」
何が届いたの、とフランドールがたずね、存じませんわ、と咲夜が答える。
「いま、エントランスホールで、梱包をといてますけど、見に来られます?」
「よし行こうか」
といったレミリアが、ピョンと椅子から飛び下りた。
ホールの中程に置かれていたのは自転車のような何かだった。
紅魔館の面々が自転車というものを知っているのは、かつて咲夜が香霖堂で買って来たものを館のなかで乗りまわしていたからである。その様は颯爽としていて非常に瀟洒であったそうな。それがいま見られないのは、パンクしたのをパチュリーが魔法で直そうとして、どこをどうしたのか爆発させてしまったからである。
そういうことがあったから、レミリアはひとあし先に来て自転車のような物体Xをいじりまわしていた魔法使いを認めるや慌てて離れさせた。
フランドールは、物体Xの上をひとまわり飛んでから、不思議そうな顔でハンドルのあたりをつんつんと突っついた。
「なにこれ?」
「発電機」
受け取った説明書に目をやったままでレミリアが答える。
「知らないっ」
「まあ、見てればわかるよ」
てな感じで、なごやかにやっていると、パチュリーが嘲笑めいた息をもらした。
「電気を出すだけに、こんな大層な仕掛けを要するなんて、科学のちからもたかが知れている」
カマボコを逆さにしたような目をしながら、口をちいさく三角に開いてぶつくさといった。
「魔法は実用、科学はロマンさ」
とレミリアがひらりとサドルにまたがった。
ハンドルのあたりに付いているダイヤルをカチカチまわして、両のグリップをしっかり握った。
「どうれこいつの実力を試してやろうか」
ものすごく前のめりで、格好よくいいはなった。
そうして、ひとしきり足をぶらぶらさせて、それっきり動かなくなった。
足が、ペダルに届いていなかった。
「……」
ハンドルにしがみついたレミリアの、だらりと垂れた両の足が揺れている。
パチュリーは、魔法でこっそりサドルとペダルの距離を縮めてやれないかと考えた。
フランドールは、おもいっきりひっぱったら足が伸びるかもとおもった。
美鈴は、自分が代わりに漕いであげたくて仕方がなかった。
そして、咲夜は胸がきゅんとした。
――ああ、そうか。
四人はそれぞれに思い出した。
山の河童に発注した発電機はオーダーメイドで、レミィの足の長さにあわせて作られているはずであることを。
いつか、足の長さを計ってもらっていたお姉様が、背伸びしていたことを。
計った長さを注文書に記入するときに、こっそりおまけを足してあげていたことを。
そして、そのときのお嬢様のドロワーズが、赤いコウモリのワンポイントであったことを。
しかし、だれも何も言わなかった。みんなやさしかった。
静寂をやぶったのはレミリアその人だった。
スカーレット・デビルとはこのことか、とおもわせる真っ赤な顔が、
「レミリア・デビルウィング!」
とスペルカードを宣言するみたいにいった。
すると、背中のコウモリの羽根が変形して、おおきな手の形になった。羽根の手が伸びて、ペダルをつかんで、力強くこぎはじめた。
やったー! とフランドールが歓声をあげ、他のみんなも口々に感動したような声をあげた。
「ふん。何の感動だか」
レミリアはすましている。
「わあ、なんだか、すごく唸ってるね」
フランドールが、発電機をさわさわしながら嬉しそうにいった。ふと真顔になって首をかしげた。
「で、これがどうしたの?」
「電気が出ているはずだけど」
電灯でもあったら一目瞭然だったのだろうけど、いま発電機の後部からしっぽのようにのびている二本の線には、なんにも繋がっていない。
「これじゃ、わかりませんねえ」
と美鈴が両手を細い腰にあてて首をすくめた。
「後ろから出ている線の先を右手と左手で一本ずつ持ってみなさい。それで身体がしびれたら電気が出ている証拠」
とパチュリーが無茶をいった。
「なるほど」
美鈴は言われたとおりに線を手にとった。当然、感電する。が、意外にのんきそうにしている。
「あ、ほんとだ、なんかビリビリきますよ」
氣を使う要領で、電気を両手に集めてスパークさせてみせた。
「危ないから止めなさい」
「あはは、すみません咲夜さん」
「よし、試運転は成功だね。美鈴、アレは?」
「そうおっしゃるとおもい、用意させておきました」
「うん。それじゃあ庭にいこうか」
とレミリアが機嫌のよい声をだした。
フランドールが空を見上げると、天の川にそって星が流れた。
「見た?」
そばに居るふたりに尋ねると、目が“3”みたいになっているパチュリーが、
「なにを?」
と聞き返してきた。
「流れ星ですわ、パチュリー様」
咲夜が正解を教えた。
やっぱり表は寒くって、人間の咲夜は厚手のマントを着ている。彼女は、種族的に夜目があまりきかないから、ひとり手にランプを下げていた。
「あら、それはおしいことをしたわ。流れ星は魔法使いにとっての吉兆」
懐から取り出した眼鏡をかけて、急にお目々ぱっちりになったパチュリーが言いながら辺りを見まわしているが、ちらりとも空は見ない。魔女が羽織っているのは、ショールだった。
いま、レミリアと美鈴のふたりに小悪魔を加えた三名は、フランドールたちをここに待たせて、なにやら準備があるらしい。庭の片隅に生えるおおきなモミの木の方に、ぶつぶつと打ち合わせをしながら歩いていった。
「なにがはじまるのかな?」
フランドールが、期待に満ちた顔で咲夜とパチュリーを見比べながらいった。
「どうせ、ろくでもないことよ」
「ろくでもないことですわ」
とふたりが答える。やっぱりね、とフランドールは考えて、ワクワクとしてきた。くだらないことは大歓迎である。
やがて、レミリアがひとりで戻ってきた。すこし離れたところで立ち止まると、腕と羽根を広げて、
「レディス・アンド・ジェントルメン、アンド・おとっつあん、おっかさん」
とか言いだした。
ろくでもないわね、とパチュリーがいって、ななでもないですわ、と咲夜がいった。
レミリアが、背中に手をまわしてマイクを取り出す。
「イッツァ、レミリア・ショー!」
パチンと指を鳴らしたが、そのとき、こっそりとマイクのボタンを押したのをフランドールは見逃さなかった。きっと裏方の美鈴たちに合図を送ったのに違いない。でも、気がつかなかったふりをしといてあげよう。
とか考えていると、ジャーン、ジャーンとドラの音が響いてきた。
同時に庭のすみに生える雄大なモミの木がちらりと光った。
青白い小さな電灯が、下の枝から上に向かって駆けあがるように灯ってゆく。木のまわりを飛びまわる妖精たちが手にした、銀の皿やナイフ、フォークに銀紙などが明かりをうけてピカピカとまたたいた。
やがて、てっぺんの星が夜の空に浮かびあがった。
モミの木を見やっていたレミリアが、フランドールたちに顔を戻した。
笑っている。
もろ手をあげて羽根をたたみ、ちいさな身体をおもいっきり伸びあがらせて、
「メリークリスマス!」
といった。向こうから赤い服を着た美鈴と小悪魔が走って来る。
咲夜が笑顔でメリークリスマスと返し、フランドールは不思議そうな顔をした。
「レミィ、いまは三月よ」
とパチュリーが眼鏡をくいっとあげた。
3月×日(晴)
今日は、クリスマスパティーをしました。
お姉様は、当主だけど自由です。だから、もう当主は、とらないことにします。
あと、はかいのう力のヒミツがバレてるかもなので、あした作り物のクモを目の前でこあして、びっくりさせようとおもいました。
あと、分身がひとり、どっか行って帰ってこないのが心配です。(おしまい)
みんな可愛い!
いなくなった分身欲しい!
久しぶりに読み返してみたらコレだよ驚いたのなんの。
改めて、ぬくもりてぃ感じました。