Coolier - 新生・東方創想話

奇跡の蝉の残滓

2011/05/23 22:33:06
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 風を取り込むために開かれた窓の外、翡翠のような夏の色に染まる午後の庭が陽炎に歪む。

 着物の首元を緩め右手の団扇で煽ぐ程度では、戸外から弱い風に乗って侵入する熱気に耐えることは出来ない。傍らに置かれた硯に注がれた、だいぶ前から全く減っていない墨汁が、泳ぎたくなるほどに涼しげな色をたたえているように見えるのは、身体が水分を欲しているからだろうか。

 使用人が午前中に水を打ってくれた地面も既に乾き、同じく水を求めている。

 お盆が過ぎ、幽霊たちも皆あの世に帰ったあとの幻想郷は少しずつ秋に向かっていくが、完全に紅葉の季節が来るにはまだ時間がかかる。それまでは延々と続くように思える残暑に悩まされる日々だ。


・ ・ ・


 私は墨の乾いた筆を放りだし、卓上に広げた和紙をぞんざいな仕草で床にのけ、木の肌の色をした平面に頬をつけた。

 外気よりやや低い温度が冷たくて心地よく、ゆっくりと瞼が降りてくる。このまま昼寝も悪くない、と溶けるように身体の力を抜き机に体重を預ける。

 数秒か、数十秒か。

 私が安らかに瞼を閉じていられた時間は、決して長くはないと定められている私の生からしても非常に短かった。

 机から起こした私の顔は、だいぶ不機嫌な表情を浮かべているだろう。

 頭上から響く、妙な節を持ったうねり声のような低い音。それが私の眠りを妨げた下手人だ。視認できそうなほどの密度で部屋中を埋め尽くしている音を無視して安眠できるほど、私の神経は太くはない。

 うらみがましい視線を窓の外に向けたところで窓の外から流れ込む騒音は止むはずもなく、照りつける夏の日差しが眩しく目を下げる。目につくのは乾いた筆と漆黒の湖。

 私の人生そのものといえる「幻想郷縁起」の編纂作業は、ここ数日まったく進展がない。閉め切った部屋は釜ゆで地獄の暑さで私を迎えるし、風を求めて窓の開いた部屋に移れば照りつける太陽と鼓膜を震わせる大合唱だ。庭の木の陰が直射日光を防いでくれるこの部屋ですらサウナのようになっている現状は、秒単位で私のやる気をそぎ落としていく。

 生き地獄という言葉が脳裏に掠める。転生するが故、地獄に縁がない私がまさか現世で地獄を味わうとは誰が思っただろう。

 思考を溶かす熱気に、蜘蛛の糸にすがる気持ちで机に涼を求める。硯の側面あたりで焦点をさ迷わせる私の視界の端を、何者かが遮った。

 方角からして窓の外から飛び込んできたのであろう人差し指ほどの侵入者は、木製の壁に張り付く。

 ――途端、部屋に響く騒音が一層ひどくなった。平衡感覚の狂いそうな低音が外からだけでなく部屋の中からも発生し、私の耳に、多重音声による音波攻撃を開始する。

 もはや安眠だのどうだのという事態ではない。熱に体力を奪われた身体を無理やり動かし、壁に居座る侵入者に近づく。

 私の立ちあがる気配を察した侵入者はあわてて騒音を中断するが、もう遅い。私は侵入者の背中をむんずと掴み、細い足で未練がましく壁にしがみつこうとする身体を無理やり剥がして窓の外に放り投げた。

 参った、と一目散に空の彼方へと飛び去る侵入者の影を目で追いながら、私は少し後悔した。侵入者の姿を幻想郷縁起の挿絵に残しておけば、と。

「せっかくの、奇跡の蝉だったのに……」


・ ・ ・


 幻想郷には十一年ごとに大量発生する「十一年蝉」が存在する。過去の御阿礼の子――つまり、転生前の私が残した幻想郷縁起を紐解いてみると、大量発生の間隔は律儀にちょうど十一年。土中で普通の蝉よりも長い年月を経るその蝉は「奇跡の蝉」とも呼ばれる。

 十一年という年月は、人間からしてみれば非常に長い。故に、十一年蝉の鳴き声を聞いた者はそれを初めて聞く音だと勘違いする。今日の昼ごろに訪ねてきた香霖堂の店主も、その一人だった。

 迷いの森の入口に店舗を構える彼は人間と妖怪の合いの子で人間よりも遥かに長い寿命を持つが、それでも記憶力が人間より優れている、というわけではないらしい。彼はこの稗田家に夏の日差しの中に溢れる騒音の正体とその駆除方法を調べに来たのだ。

 昔は門外不出だった稗田家の資料も、最近では求められればある程度公開することにしている。誰かに伝えるために書き残されたものは誰かに見られなければそのまま忘却の彼方へ葬られてしまうからだ。幻想郷にはそうやって忘れられた物たちが流れ着くこともある。それを拾い集めては売ったり売らなかったりしているのが彼、香霖堂の店主、森近霖之助だ。

 商売をしている姿よりも道具に囲まれながら読書をしている光景が常態という彼も、稗田家の膨大な書物には目を通しきることを諦めたらしく、私が内容をすべて暗記していることを伝えると蝉に関する記述の書かれた書籍を探してほしいと頼んできた。

 幾つかの資料に目を通し、礼を言って去って行った彼の目は明るくはなかった。稗田家の資料は事実だけを記載している。客観的事実に覆われた文面に主観が入る余地はなく、彼の求める者はその主観にあったのだろう。ただ、帰り際に玄関まで送った時、彼の瞳の中には何らかの考えが浮かんだようだった。蝉の駆除方法か、それとももっと上手い付き合い方か。

 どちらにしろ――うらやましいことだ。 


・ ・ ・ 


 気を紛らわせようと立ち上がり、部屋の隅においてある和綴じの書物を数冊つかみ、手繰り寄せる。

 八代目や七代目の御阿礼の子が記した『幻想郷縁起』だ。

 森近氏に資料を渡す時に挟んだ栞がそのままになっている。一冊に一枚か二枚、その場所には奇跡の蝉について記してある。

 先代たちはこの暑さと騒々しさの地獄をどうやって乗り切ったのだろう。万が一もしかすると、私の記憶にはそんなことについて書かれている行などなかったがそれでも豆粒ほどの可能性を期して、頁を開いていく。

 やはり、奇跡の蝉の出現にしか書かれていない。鳴き始めてから一週間ほどで止むというから、それまで我慢しろと、そう言うことなのだろうか。


・ ・ ・


 それにしても、暑い。今年は特にと思うが、それは毎年のことのような気がする。つまり、年々幻想郷の気温が上がっているのかもしれない。

 再び机に熱を奪わせながら、そんなことを考える。

 茹るような、という形容がふさわしいほどの真夏日。出汁を摂られる貝となら、今の気分を共有できるような気がする。むしろ彼らは殻にこもることが出来る分マシか。私は部屋にこもっても焼死しそうだ。私は貝になりたい。

 思考が分散していく。生来身体の強くない私にとって、この暑さは凶器だ。目を遣る先、壁掛け時計は壱と弐の間を指している。一日の中で最も太陽が元気な時間帯だ。

 今日はもう作業は進みそうもない。そう考え、ぞんざいに片づけた道具を置いたまま、死人のような足取りで部屋を抜けだし、廊下を挟んだ対面の部屋に上がった。

 窓の障子越しに入る光の中に埃が輝いている。光源が少ないために昼だというのにどこか薄暗くいが、そのせいか他の場所よりもやや涼しく感じられた。

 掛け軸と花の活けられた花瓶、それに小さな書棚と文机が畳の部屋に置かれている、典型的な和室。ただ、机の上には典型的な和室には無いものがあった。

 見た目は一抱えもある、大きな艶消しの黒一色の箱。高さは文庫本を四五冊積んだ程度か。傍らには大判の書籍のような薄いものが何枚か重ねられている。

 薄いものは音盤で、その隣の黒いものが再生機だ。

 私は別に阿礼乙女としての私室を持っているが、そちらは窓と扉以外の壁を書棚が埋めているような場所で、どちらかと言うと書庫といった感覚に近い。こちらは使われていなかった部屋を今代の私が物を運び込んで私物化した、阿求としての私室。

 音盤の一枚を手に取り、再生機にかける。

 部屋に、音がうまれる。

 自然のものではない、造られた音。流れる様でつかえる様な、高いようで低いような、同じ曲調が繰り返されているようでしかし先ほどとは違うような、どことなく私――転生する阿礼乙女達に似ている、そんな曲。

 幺樂団というバンドのものだ。正体がよくわからないところがあるが、重要なのは曲の良しあしで、彼らは私のお気に入りだ。

 机に肘をつき、手のひらで顔をささえ、とりとめのない思索に耽りながら曲を聴く。これで紅茶があれば文句なしだ。



 ――しばしの間、暑さを忘れて曲に聞き入ることが出来た。



 しかし、それもつかの間。

 幻想の音から私を引きずりだしたのは障子の奥から響く鼓膜の裏側を爪で掻くような現実の音だった。
  

・ ・ ・

 
「おや。めずらしい」

 私の靴が香霖堂の床を踏む音に店主の声が重なる。

 視界の隅から隅まで、雑多に物が散らかっている。開いた扉の先は倉庫のようだった。見たことのない物や使い道のわからない物、大きい物小さい物、様々な物体が山をなし、床の見えている場所の方が少ないといった具合で、文字通り足の踏み場もない。

 その物の山の中で動きがあった。一人の男性が立ちあがったのだ。

「いらっしゃい――先ほどぶりですね。なにかお探しですか?」

 店主、森近霖之助の眼鏡が窓から刺した光を反射する。台詞こそ商売人のそれだが、その表情は一見すると不機嫌極まりないように見える。というか、実際眼鏡の奥で眉根をひそめている。特に不機嫌だったり私が歓迎されていないのではなく、そんな表情が彼の素なのだが。

 魔法の森の入口にある道具屋、「香霖堂」。もともとは里の道具屋で働いていた森近氏が独立して構えた店だ。

 魔法の森は瘴気のせいで足を踏み入れる者は少ない。そのうえ彼の言動は基本的に、商売をする気があるのかと疑わざるを得ない。それでも幾らかの常連客はいるというその理由は、ここが「外の世界」の道具を取り扱っているからだろうと私は考えている。すくなくともまあ、商売上手だとかそういったものとは彼岸と此岸程の距離がある店主だ。

「ええ。その、音を保存できる道具を探しているのです」

「ふむ――」

 私の言葉に、彼は顎に手を遣り記憶を探る素振りをしていたが、やがて道具の山に腕を伸ばした。

「たとえば、この前拾ってきたものですが――」

 商品の説明をするときに拾って来たというのはどうなのだろう。やはり商売には向いていないのでは、というお節介な感想を得ていることを知ってか知らずか、ともあれそう言ってこちらに差し出すのは手のひらに収まるほどの棒状の物体。白色で、鼠色の硝子がはめ込まれている。

「これは録音デバイスといって、その名の通り音を録るための道具です」

 どうぞ、と手渡された物を観察する。木材ほど軽くはないが、鉄の塊にしては軽すぎる。窓のある面の反対には小さな穴が開いている。

「これ、どうやって使うのですか?」

「わかりません」

 即答された。

「僕は、これが音を出したり入れたりすることは解りますが、使い方は解りませんから。思うに、硝子が張ってあるあたりテレビのように霊気入れとして使うのかもしれません。裏の穴から音の幽霊を出入りさせる物ではないでしょうか」

 なるほど。礼を言い、値段を聞くとカフェの紅茶一杯よりも安かった。相場はわからないが、やはり積極的に商売をする気はないのだろう。

 録音デバイスとやらを懐におさめ、香霖堂の扉を開く。未だに蝉は鳴き続け、やや輝きを落とした太陽が地面から水分を奪い続けている。

 さて、次はどうするか。森近氏の言葉を考えるに、音の幽霊を操ることが出来る者に会うのが一番良いだろう。

「となると、彼女辺りに頼んでみましょう……」


・ ・ ・


 里から少し離れた場所に、さびれた墓地がある。

 石畳の上に乗った墓石は夕焼けに染まり、不確かな影がまるで人間が立ち並んでいるかのような錯覚を受けた。

 墓参りには遅く、肝試しには早い時間だ。人間は誰もいなかった。

 周囲に比べやや気温が低いのはたむろしている幽霊たちのせいか。蒸し焼きになるような纏わりつく熱気がやや緩和されたそこには、墓地に収められていた者たちだけでなく、寂しさからそれに惹かれてやってきた「はぐれ幽霊」も結構な数いるはずだ。

 数にして、およそ三十くらい。丸餅を伸ばしたような薄い白色の彼らはひどく「活き活きとして」いるように見えた。

 まるで盆踊りのように、音程に乗ってゆらゆらと周囲を漂っているのだ。

 幽霊たちの隙間を縫うように、墓場に音楽が響いていた。大空を突き抜けて延々と上方に向かっていく、例えるなら上昇気流のようなアッパーな曲だ。

 そんな幽霊たちの中心に、周りのものとは違う、はっきりとした少女の形をとる者がいる。

 彼女は正確には幽霊ではない。「騒霊」という似て非なる存在だ。白い髪、白い服、白い帽子という全身を白で統一した格好の少女は、メルラン・プリズムリバーという。

 幻想郷の各地で演奏会を開いている彼女とその姉妹だが、各地の墓地で幽霊や亡霊を相手に練習をしているということが天狗の記事に書いてあったことを思い出し、ここまで来たのだが、わりと平気であることないこと嘘八百を並べ立てる彼女らにしては珍しく正しい記事だったことは私にとって幸いであったが、失念していたことがある、そう、彼女、メルランの放つ音には聞く者を躁状態にさせる効能があり、まともに聞くと会話が出来なくなったり踊りだしたりするということであり、いけない、私は――



「あらー」

 気付くと、私はなぜか上着を脱いだ状態で幽霊に取り囲まれていた。

「お客さんね」

「ああ、はい、お客さんなのです」

 上着を着直し、姿勢を正す。無理やりに近い形で感情を昂ぶらされた反動か、薄く頭痛がする。おもわずこめかみ辺りを軽く押さえる私に、メルランが顔を近づけて問う。

「ファン? おっかけ? いま、サインするものは持ってないわよ?」

「ああ、いえ、そういうわけじゃなくて」

 手を振り否定し、

「ええと、この音――」

「ぐるぐる?」

「へ?」

 私の眼前で、メルランは蜻蛉を捕まえるときのように指先で渦巻き模様を描く。指先の動きは少しずつ大きくなり、手首、腕と伝播し、振り回された腕を避けるように辺りの幽霊が少し遠ざかった。

「あっちから聞こえたと思ったらこっちから聞こえて、かと思ったらそっちから聞こえるの。どこにいるかわからなくて、ぐるぐるするでしょ?」

 つまり、平衡感覚が狂いそうということなのだろうか。黄昏を前にした墓地には飽きもせずに蝉の声が鳴り響いている。四方八方からのうめき声は、それぞれが数度鳴いては声を潜め、また鳴き始めるというサイクルを繰り返しているためにタイミングによって音源が変わるのだ。

 ともあれ。

「で、この音なんですけれど――」

「私たちも騒がしいけど、この音はもっと騒がしいでしょ? 三人で集まれば勝てるかもしれないけど、姉さんは湿気でテンションが下がるっていうし、リリカは抜け駆けしてこの音を操って騒がしくなろうとするし、私は暇だからここで騒いでいたの。ああそう言えば、なんだっけ? サインするものは持ってないわよ?」

 ……どうにも話しにくい相手だ。声にも曲と同じような効果があるのか、それともただ単に意思疎通の難解さからか、頭痛が一段悪化した気がする。

「サインではなく。この音を、記録として残したいのです。ご協力願えませんか?」

「んー、なにすればいいの?」

「音の幽霊を操ってこの音と同じ音を出して、それをこの「録音でばいす」に入れようと思うんです」

 懐から取り出した小さな棒を、メルランはまじまじと見つめる。

「そんな小さいのに入らないんじゃない?」

 ほら、とメルランは裏側の穴を塞ぐように指を突き出し、

「小指一本も通らないじゃない」

「でも、幽霊はお餅みたいに細く伸びるじゃないですか。あんな感じで、糸みたいな感じにして入りませんか?」

「うーん、多分無理。だって、こんな狭い入れ物のなかに入れられたらイライラしそう」

 確かにそうかもしれない。幽霊だって狭い所に押し込まれるのは嫌だろう。しかし、外の世界にはこんな小さな容器に入る幽霊がいるのだろうか?

「高くて細い音なら入るかもしれないけど、こういう低いのはどっちかって言うと厚くて大きいのよね。無理無理」

「そう……ですか。仕方ないですね」

 音の専門家がいうのなら、そうなのだろう。既に辺りは闇の色の比率が大分高まっている。里に着くころにはほとんど夜になっているだろうし、あまり家のものに心配をかけたくはない。

 私はメルランに軽く礼をし、未だ衰えを知らない蝉の声を背後に墓地を立ち去った。
 

・ ・ ・


 そこまでの顛末を紙に書き込み、私はふう、と一息つく。

 月明かりが薄く差し込む部屋の中、壁越しに聞こえない程度の音量で幺樂団の楽曲が流れている。障子紙越しの灯がゆらりと揺れた。

 秋も近い、静かな夜だ。

 風も無く、草木は眠り、遠くからうっすらと虫の鳴き声が聞こえるが、それもほとんど耳には入らない。

 蝉の声は、あの日を頂点に少しずつ音量を減らしていき、夏が去っていくようにいつしか消えてしまった。ある日、気づくと完全になくなってしまっていたのだ。秋になれば、今は遠い虫の声が、跡を継ぐように響き始めるだろう。それらもやがて冬の静けさに飲み込まれる。

 蝉の寿命は短い。

 だから、彼らの声も一年の内のごく短い期間にしか聞くことは出来ない。

 だが、私が、稗田阿求が求聞史紀に書き込んでいる妖怪たちから見れば、私の寿命も蝉と大差ないものなのかもしれない。どんなに存在感があろうと、いつか、気がついた時には消え去ってしまうほどに儚い命なのかもしれない。人間よりも遥かに長寿な人間と妖怪の合いの子や、寿命を終えてとどまる幽霊も、やはり根本では違わないだろう。

 常に流れていく時間に晒される我々は変化から逃れることは出来ず、絶えず変わっていく。しかしその流れは円を描いていて、いつかは元の場所に戻ってくるのではないか、とそう思う。

 奇跡の蝉たちは、あと十一年という、彼らが忘れ去られるのに十分な歳月を経て、この世に舞い戻ってくるのだ。その蝉たちは前の個体とは違ったものだが、しかし彼らの存在は鳴き声を通してかつての蝉たちの存在を思い出させる。

 録音という手段に頼らずとも、人々の記憶にはその残滓が刻まれているのだ。

 私にとっての鳴き声が、この求聞史紀だ。延々と続く稗田の系譜。九代目の私の記述は八代、七代、それ以前の記録を参照したものが含まれている。そしていつか十代目が奇跡の蝉の年に出くわした時、彼か彼女かは私の記述を参照するだろう。

 先代は何を思ってこの声を聞いていたのだろう、と。

 そして蝉の声が去った後で、先代が得た感覚を得ることだろう。それはまるで幽霊のような、私の存在の残滓。

 その時のために、私は奇跡の蝉のことについて叙述しておく。あくまでその存在だけを、だ。

 それ以上は書き込むことをしない。先代たちがそうしてきたように。
着想は「2008年の春」が来た時に。それ以来、落とすに落とせずHDDに眠っていたメモ帳を引きずり出した結果がこれだよ!
そんな感じで間が空いたせいでオチがどーにもこじつけライクですが、ともあれ。
涼しすぎる午後に流し読みすると程よい暖気を得られるような夏が書きたかった。らしい。たぶん、きっとそう。
螺旋
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コメント



0.210簡易評価
1.80愚迂多良童子削除
更新押したら行間空いててびっくりした。
記録より記憶に残す蝉時雨、ですか。
蝉って寿命短いようで、その実地中に潜っている期間が長いから、結構寿命は長いんですよね。
御阿礼の子は転生を待っている間が地中に居る期間に相当するんでしょうかね。
御阿礼の子を花に例える話は有りましたが、なるほど蝉も悪くないですね。
3.80名前が無い程度の能力削除
阿礼乙女(男)としては同一なれど、ただ一人の個である阿求。
その存在を、いつか感じて欲しいというささやかな願い。希望かな。
オチがあっさりしているからこそ、その思いがかすかに、障子紙越しの灯火のように感じ取れるのかもしれませんね。
夏前だというのに既に夏が過ぎ去ったあとのような一抹のさみしさをおぼえる良作でした。
4.60名前が無い程度の能力削除
こいつは良いアキュー