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Flying 1 ~ わぁ、なんかものすげぇ奴が来ちゃったぞ。
春の日ざしに欠伸も漏れる、とある午後のこと。
UFOが神社に急降下爆撃をかましてきた。
中空でケラケラ踊りながら、キャンディーみたいな光弾を撒き散らし、翻る。石くれがあちらこちらで弾け飛ぶ。野鳥がバタバタと逃げていく。
博麗霊夢は湯のみを引っくり返して猛然と立ち上がり、巫女棒を打ち振るった。
「何すんだこのヤロー!!」
境内の随所に仕掛けられたお札から、ロープみたいな光の束が呼ばれて飛び出て、ハクションと一回しなった後、UFOへ殺到。飛行物体はビックリしたように一瞬硬直し、こっちにプリケツを向けたが既に手遅れだった。霊気をまとった縄が絡みつき、UFOはあっと言う間もなく御用となった。
折れそうなくらい指を強く鳴らしてやると、バチンっという爆竹の音と共に、込められた霊気が一斉に拡散、辺り一面は砂煙に見舞われた。
影がうごめき、人型に形を整えてゆくのを見て、霊夢は腰を屈めた。手に手にシャララ、扇子のようにお札が花開く。
「けほけほ……いたいじゃないの」
這い出てきたのは黒髪ショート、黒ニーソ、黒ミニスカワンピの少女だった、うほっ。
「やっぱあんたか」
お得意のジト目で睨んでやると、いつかのメシウマ妖怪はにへらと笑う。
「うん、私」
「これはまたぁ、何しにきたのかしらねぇ」
「イタズラ」
「上等じゃない」
別に封印したりはしないから、なんて言ってしまったが、これは撤回すべきかもしれない。
法界どころか三途の川の向こうまで蹴飛ばしてやろう。
「前はやられたけど、今度はそうはいかないわ!」
アンノウン少女が使い魔の口からスペルカードを抜き出し、ケケケと吠えた。
「正体不明の飛行物体に怯えて――死ね!!」
― After UFO Crisis ―
「ぬえ~ん……人間だなんて嘘、絶対嘘」
「いい加減、泣き止みなさいよ、まったくもう」
霊夢は耳を押さえながら、膝を抱えて泣きじゃくる封獣ぬえを見下ろした。
春風が縁側をそよりと撫で、日は陽気に草花を悦ばす今日このごろである。境内、冬眠から目覚めたキツネやらタヌキやらが集まって、ところどころに穿たれた穴を興味深げにほじくり返していた。
「ほら、じっとしてなさい」
博麗印の焼酎に浸した綿を近づけると、ぬえはいやいやするように首を振った。癖のある黒髪が、ふわりと踊る。
仕方ないのでヘッドロックをかまして黙らせ、頬の切り傷にピンセットを差し向けた。
「ぬえんっ!」
竜宮の電撃を受けたみたいにエイリアンは奇怪な羽を屹立させ、そんで縁側をだるまのように転げまわった。ワンピースの裾が勢いよく翻ったが、中が見えそうで見えなかったのは芸術的だった。
「この」
ぬえの髪を押さえて絆創膏を取り出した霊夢は、むっと顔を上げる。
いやいや、何してんだ。向こうから売ってきたケンカ、傷の手当てなんてする義理はないじゃないか。
しょっちゅう生傷こしらえてやってくる友人の顔が、ふと思い浮かぶ。習慣って怖いわぁ。
「ま、いいか」
「ぬぅ?」
「で、なに、からかいにでも来たわけ?」
ぬえは絆創膏をぺたぺたと触りつつ、目を逸らした。
「えっと、いや、その――あんたが楽しそうにお茶してたから、つい」
「邪魔したくなったと」
「そう、そうよ」
こいつ、まったく成長してねぇ、と霊夢は拳固を落っことした。ぬえんっとまたも甲高い悲鳴が上がった。
頭を抱えて、恨めしげな目を向けてくる封獣さん。
「納得いかぬぇ、納得いかぬぇー!」
「うっさい、本当に封印するわよ?」
「ひっ」
今度は癖っ毛を直立させて呻いたぬえは、霊夢から陰陽球三個分の距離をとった。重度の封印恐怖症である。黙らせる文句としては丁度いいな、と霊夢は湯のみを持ち上げた。
「ほら、これでも飲んで落ち着きなさい」
ルビーみたいな瞳が揺れた。
「え、いいの?」
「欲しくないなら、別に」
「あっ、飲む飲む」
伸ばされた手をかわして霊夢は笑い、指を振ってやる。ぬえは戸惑うように湯のみと霊夢のにやけ顔を交互に見たが、やがて息を漏らしてうつむいた。
「……いただきます」
「よろしい」
ぬえの目が閉じられる。恐る恐る湯のみを傾け、小さな喉仏を震わせるさまを、霊夢は黙って見つめていた。
やがて、ぬえの顔が、ひまわりみたいに明るく咲いた。
「これ、美味しいぬぇ」
霊夢は満足げに頷く。
「当然、私が淹れたお茶だもの」
「やっぱり煎茶は、これくらい苦い方が良いや」
「ほう、あんたとはお茶の好みが合いそうね」
小鳥の歌、若葉のじゃれ合う音、茶をすする音。タヌキたちがエサを巡って決闘するさまを眺めながら、二人は小さな茶会を楽しんだ。隣に腰掛けたぬえは、時々絆創膏に手を当てては、顔を歪めた。ぬえっち涙目。
ちょっとやり過ぎたかもしれない、と霊夢は考えて、すぐ首を振った。
らしくない。妖怪なんだからそんくらい、すぐに塞がるだろうに、ねぇ。
「あのさ」
「にゃ、なに?」
やべ、噛んだ。
いきなり声をかけられて、霊夢はうろたえた。ぬえは小首を傾げただけで、再び八重歯を覗かせるのだった。
「この前の異変のことでさ」
「うん」
「……私が飛倉集めの邪魔したこと、あいつらにバラしたでしょ」
声のトーンが、夜の帳のように落ちた。
こちらを眼力凄まじく睨みつけてくる大妖怪。バッテン印の絆創膏のせいで凄みは薄れ、拗ねている駄々っ子にしか見えないのは、なんとも惜しいことだ。
記憶の糸を手繰り寄せに寄せた末に、霊夢は軽く頷いた。
「あぁ、アレね。言った言った」
両の眉をくっつくぐらいに寄せて、ぬえが身を乗り出してくる。目が心なしか潤んでいた。
「この鬼巫女め。お陰さまで、ムラサに風呂へ十三回も沈められたわ」
「そりゃ怖い」
「胸とか、あちこち触られたし」
「そりゃ変態でんがな」
ぬえはこほんっ、と咳払いした。
「素直に頭下げるつもりしてたのに、びっくりしちゃってさ……あんたのせいで、ちゃんと謝れなかったじゃん」
「あー? 人のせいにしないでくれるかしら」
ぬえはネタに煮詰まったどっかの物書きみたいに口を引き結んだ。湯のみを包む手が震えている。投げつけてきやしまいか、と霊夢は目を細めた。
ぬー、と唸る少女の上目遣いが、霊夢の胸をしこたま抉る。
「何もバラす必要ぬぇじゃんか。あんたには関係ないことなのにさぁ」
瞳が烈火のごとく燃え上がっていた。
面倒だなぁ、と霊夢は姿勢を崩して、ぬえと向き合ってやる。
「あんたのこと、どうせ『適当に嘘並べて、白蓮に許してもらおうケケケのケ』とか考えてるだろうなって、そう思ってね」
「ぬっ」
「だから、私がチクっといてやったのよ。沈められたのはご愁傷さまだけど、この方が後腐れないでしょ? みんなすっきり、円満解決ってね」
「ぬぬぬ」
まぁ、こいつほどの妖怪をあのまま野放しにするよりかは、寺に預けた方が重畳だと判断したのもあるが、それは言う必要ないかな、と霊夢は煎茶を飲み下す。
ぬえは子犬みたいに威嚇を続けるも、その瞳は宙ぶらりんに彷徨い、火勢はとっくに無くなっていた。
「せっかいだよ、そんなの。余計な、おせっかいだよ」
吐き出した言葉のしずく、一粒一粒がぼたぼたと、霊夢の膝に濃い染みを作っていくような、そんな感じが。
ぬえは胸元のリボンを直し、真っ赤な靴を履いて飛び立つ。
途中でくるりと回転して逆さまになり、舌を出してブーイングサインを送ってきやがった。
「次に会ったときは覚悟んなさい! とびっきりのイタズラしてやるんだから!」
そう吐き捨てて飛び去るぬえの後を、色とりどりのUFOが追っていった。
「うーむ」
これまで色んな妖怪と会ってきたけど、あいつほどあっかんべーが似合う奴もいないわね、と霊夢は最後の一杯を楽しんだ。
うめぇ。
Flying 2 ~ 春の青空は、目に痛いくらいに高かった。
障子向こうから転がってくる小鳥のさえずりが、頭に穴を空けんとするかのような。
溶けるように布団に沈み込んでから、どれくらいの刻が経ったのか。
体をよっこらせっくすと起こすと、頭がぐらついてまた倒れこみそうになった。
背中がベタついて気持ち悪い。寝汗か。
そんでもって。
「飲み過ぎちゃったかぬぁ……」
頭をボリボリと掻いて、私は魂を吐き出さんばかりの溜息をついた。
完全に二日酔いだコレ。
御堂の方から縁側を踏みつける音が迫ってきたと思ったら、障子がババアンと開く。
「うわー……あんた、まだ寝てたわけ」
誰かと思ったら。
「ぬぁ、ムラサ?」
「大当たりよ寝坊助。布団洗うからどいて。それと、買い物行ってきてくれない?」
へいへい、とばかりに這い出ようとしたら、待ちきれなくなったのか布団ごとひっぺがえされた。
「何すんぬん!」
「ひゃー、すんげえ臭い……風呂くらい入りなさいよ、まったく」
とくっちゃべりながら、キャプテン・ムラサは木綿布団を抱きしめ、自分の鼻に押し付けた。
「いやもうまったく、実にまったく」
「さっさと洗えよ! この変態!」
寺に逃げ帰ったあとの記憶はおぼろげだった。確か蔵から、奉納された地酒を引っ張り出したんだっけ。うちの連中は仏徒なもんで、五戒だかなんだか知らないけど酒を飲むヤツが少ない。いきおい、蔵には酒の詰まった樽や瓶が積み重なっていく一方になる。だったら最初から遠慮すりゃいいのに、「厚意を無下には出来ません」との白蓮の一声で、可哀相に酒たちは暗い床に追いやられる運命と相なった。
独り占めとはまさにこのことで、私は何百年と味わえなかった吟醸を思う存分浴びつくすことができた。
その環境がいけなかったんだろう。
スペカ一枚も破れずに惨敗し、ふて腐れて晩酌を始めたら、もう止まんなくなった。無駄に美味しいから、無駄に涙が出た。
で、この顛末。
「はい、これ財布。無駄遣いするんじゃないよ。こっちは店の場所と買う物リスト、メモしといたから」
「えっ?」
「えっ?」
ちょ、買い物ってどういうことよ!
「はい? あんた、さっきうんうん頷いてたじゃないの」
と、ムラサは鼻をつまみながら、布団を部屋から追放した。それはそれで地味に傷ついた。
「よく聞き取れなかったんだよ」
私は訴える。
「人里とかムリ、勘弁。自分から正体明かしに行くようなもんじゃん」
「天狗にバラされたんだから、今さらでしょーに」
ぬぅ、そうだった……。
根雪まだ残る春先、博麗霊夢に返り討ちに遭いヘコんでいたところを、遅れてやってきたもう一人の腋に捕まえられ、記念撮影を強要された。寺に居つくようになってから数日後のこと、ムラサがニヤニヤと笑みを浮かべて新聞とかいうモノを持ってきた日にゃ、本気で死んでやろうかと思った。そこには息絶えた魚みたいに目を虚ろにした私と、見てるだけでムカついてくる満天星空スマイルを浮かべた緑ん奴が並んで写っていた。んでもって、「正体不明のエイリアン、ここに捕らわる」って見出しがデカデカと躍っていた。それが里にばらまかれたというのである。
私は一夜にして、大事な大事なアイデンティティーを失った。
久々の地上だってのに、なんだこのザマはって、スクープされた日は夜通し声を殺して泣いた。
地底ボケが治れば、あんな紅白巫女なんて、と思っていた。
絶対に仕返ししてやるって、そう思ったんだ。
なのに、なんだ。
弱くなる一方じゃないか。
黙りこんだ私の膝に財布を置くと、ムラサは「起き上がれる?」と手を差し出してくれた。礼を言って手を取り、ふらつきながらも立ち上がる。目眩が頭を鉄球のごとく貫き、揺さぶってきやがる。
「暗くなる前に済ませといてよ。あとは――」
「今度はなに」
「そうだね、服も洗うから脱いでって、ってか脱げ」
「嫌だよ!」
「んー、いいのかなー? 洗濯してあげないぞー?」
「ああん」
「そんじゃ、よろしく頼むよ、ぬえ」
洗濯物をまとめて背負い、地底時代からの友人は颯爽と出て行ってしまった。
また、私は独りになった。
降り注ぐ陽の光が、部屋を容赦なく照らした。逃げ場なんてなかった。
小鳥のハミングがうっさい。いつもだったら心を静めてくれるししおどしの音が、今じゃ頭痛に拍車をかけるだけ。
財布に縫い込まれたポップな錨のマークが、目に焼きついて離れない。
落とし前はつけたからさ、とムラサは今まで通りに接してくれている。命蓮寺落成後は船長、無念の引退かと思いきや遊覧船なんか始めちゃって、まいにち収支報告書と睨めっこをしては、あーでもないこーでもないと頭を捻っている。
楽しそうだな、とセーラー服の真っ白な背中を見守りながら、思った。
私は、どうなんだろう?
元人間の営む寺なんかに羽を休めちゃって、やっぱり、あーでもぬぇこーでもぬぇって、ずっと悩んでいる。
これから、どうしよう? 何をして、この平和な日々をやり過ごせばいいんだろう?
そんな私の心に、幽霊船みたいに浮かび上がってきたのは、博麗霊夢の仏頂面だった。
月下に這いつくばる私を悠然と見下す、汗一つない青白い顔。
すわ法界に封印か、とびびって漏らしそうになった私に向かって、「冗談よ冗談」と答えたときの、ふわふわの笑顔。
白蓮ならあんたの力になってくれると思うよ、なんて諭してきたときにゃ、打って変わって優しそうな顔、浮かべちゃってさ。
そして、今。
私はまた。
人間の巫女なんかに、私の飛ぶべき道筋を教えてもらおうとしている。
錨のマークが、かすんで、ぼやけて、にじんで。
ねぇ、ムラサ。
本当に日和ったのは、どっちなんだろうね……。
「なんて、落ち込んでても仕方ぬぇよね! ひゃっはー、娑婆の空気うめー!」
空元気よろしく叫んでみた。叫べるってことは、まだ私は大丈夫ってこと。
行水して気分もよくなったし、ショッピングでもしゃれこもうか、と私は人里に舞い降りていた。行き交う人々せわしなく、浪々として春の日ざしは高し。私に目を留める人は数あれど、振り返って見ようという輩はいないんだから、こいつぁぶったまげ申した。
手を上げて挨拶してくるおばちゃんにしどろもどろになりながら、私は考える。
妖怪は自由を得る代わりに、本分を失ったのか。
ムラサから預かったメモには、あいつらしい不器用で可愛らしい字が躍っていた。食材その他、日用品などなど、この機会に私に全部やらせちまおうという魂胆が見え見えのラインアップである。道理でサイフも手に余るほど分厚いはずだ。
二重丸で囲ってある項目を見て、私は呆れるやら諦めやら、どっちともつかない気持ちに脱力した。自慢の羽も垂れ下がって地面にキスしてしまう。
団子から饅頭、最中など、どれもこれも甘いもののオンパレード。どう見ても経費濫用です本当にありがとうございました。
「おう、妖怪のお嬢ちゃんかい、いらっしゃい!」
「ぬえぬえ」
挨拶である。
手渡されたメモに目を通した途端、店主のおっちゃんは豪快に笑い出した。
「そうかそうか、水蜜ちゃんのお使い――ってぇことは、嬢ちゃんもお寺の人な訳だ」
「ぬえ」
肯定である。
おっちゃんは「待ってな、サービスしてやるから」と店の奥に引っ込んだ。
……どうやら、ムラサの偏執っぷりは里でも広く知られちゃってるようだ。
ムラサは大の甘党である。
生前は塩辛い海水を沢山飲まされ、死後は世知辛い人間を大勢飲み込んだ、その反動かどうかは知らんが、ムラサの人里スイーツ巡り(笑)は寺の財政をつとに圧迫しつつあるとナズーリンが耳を垂らしていた。
手品のようにキュロットのポケットから三色団子を引っ張り出すヤツを見て、「お菓子を集める程度の能力――!?」と、自らのアイデンティティーに何やら苦しんでいたのは寅丸さんである。
甘味に乏しい地底時代でさえ、旧地獄の熱を利用してサトウキビを栽培しようとしたくらいだから、地上でシャバの空気を吸った今となっちゃあ、連日虫歯を量産してはばからない。
私が「Hey,Murasa! そんなの、太陽がないからここじゃ育たぬぇよ!」と説得し、栽培を諦めさせるまで丸一年もかかった。そしたら、今度は夢遊病に禁断症状が重なって私の羽をスルメみたいにかじり始めたのには泣いた。乙女の敏感なところに歯を立てるなんて、マジ鬼畜の所業である。あん時、正体不明にしてしまったムラサの顔は、今も脳裏に焼きついて離れない。
戻ってきたおっちゃんがどごすっと置いた唐丸籠らしきものを見て、私はげんなりしてしまった。
野菜や米俵、菓子類のほか、なぜかタンスまで突っ込まれていた。
持って帰れないわけじゃない、けど、私はそんな力自慢じゃぬぇよ。
「全部しめて、お会計はこれだけだな。まいどっ!」
差し出されたソロバンと、メモに併記されていた「幻想郷の貨幣一覧表」を交互に見比べながら、私は「ぬぅー」とうなった。
地底とのカルチャーギャップに悪戦苦闘、孤軍奮闘を余儀なくされていた、ちょうどその時である。
「わっ……何で、あんたがここに」
背後から奇襲されて、私の体は痺れた。
博麗霊夢。
昨日、私をコテンパンにした紅白巫女が、買い物袋を提げて立っていた。
Flying 3 ~ さくらよさくら、あいつの瞳に映しておくれ。
その頃、村紗水蜜は茶の間で聖白蓮に差し向かって熱弁を振るっていた。
洗濯の際、水蜜はぬえが脱ぎ捨てた黒ワンピへの頬ずりに夢中になり、危うく三千世界に悟入しそうになった。書院に掛けられた「六根清浄」――聖直筆の書が視界に入らなければ、あるいはそのまま即身成仏していたやもしれぬ。
いかん、これはいかん。
柄杓で水を被り心身を清めようとしたが、底が抜けていたのでうまくいかんかった。
ぬえのワンピからは甘酸っぱい香りが匂いたち、それはそれは甘くてクリーミィで――いかんいかん!
聖のご尊顔を拝めば、煩悩もたちどころに消え去るかもしれへん、と一日の予定を繰り上げることにした。
「……遊覧船事業、里の皆さんからもご好評をいただきまして、これなら、命蓮寺への信仰もうなぎ登りに登ること、間違いなしです!」
命蓮寺の今後の運営のこと、幻想郷について見聞きしたこと、あれから妖怪はどんな歴史を辿ってきたのか……身振り手振り交えて話すこと、一つ一つを丹念に拾い上げ、書きとめてくれる聖の微笑みが、水蜜をたまらなく落ち着かせるのだった。
新しい甘味のレシピを開発中だと告げると、鈴が鳴るように、春の日ざしみたいに笑ってくれた。
廊下を通りがかった一輪が、「新レシピ」と聞いて暗い顔をこぼして去っていったのは、見て見ぬふりした。
先日、腕によりをかけて作った「ムラサの水没キャラメルカレー」は大不評。
ぬえは噴き出して机を汚し、ナズーリンは密かにネズミに与えようとし、完食しようと無茶をした寅丸は目眩を起こして昏倒し、頼みの一輪は目を逸らしてスプーンを置いた。聖だけは微笑すら浮かべて食べつくし、お代わりまでしたのだから水蜜は感激した。後になって超人化して食っていたことがバレて気まずくなった。
「大結界が張られた後、人と妖の関係は薄れ、妖怪は弱りに弱ってしまいました――ですが!」
ガッツポーズを作って力説。
「先だって戦った時の、あのスペルカードルールによってぇ……あの、聖?」
水蜜は目を十五夜の月よりも丸く見張った。
筆を執る手を休めて、うつむいてしまった敬愛の人。
一拍置いて、ししおどしよりもずっと静かな音と共に、和紙に水たまりが広がった。
「え、え、あ――聖、私、何か?」
「……違うのです、違うんですよ、ムラサ」
身を乗り出す水蜜、手を上げて制す聖。机一つ隔てた距離の、なんと遠いことだろう。
喉の奥から漏れてしまいそうな嗚咽を、唇を噛んで耐えていて。胸に押し付けた握りこぶしは、溢れ出る何かをせき止めようと震えていて。
聖の心が水難事故に遭うさまを、水蜜は初めて目にした。
呼吸が止まってしまって、何も言えなくなってしまう。
柱時計の刻む永遠が、二人の間にたっぷりと静寂を注いでから。
聖は、ゆっくりと口を開いた。
「私が封印されている間に、それだけのことが、それだけの命が過ぎ去ってしまった、なのに、何もしてあげられなかったのに。取り残してしまったのに。ムラサ、あなたが」
聖の潤んだ目が、真っ直ぐに水蜜を射抜いた。
「あなたが、こうして笑いかけてくれるのが、私は申し訳なくて、何よりも――」
嬉しくて。
水蜜の心の船も、転覆した。
「恥ずかしいところを、見せてしまいました」
「はは、お互いさまですね」
二人は目尻に溜まった雫をそっと拭い、笑い合った。
聖の髪に、桜の花びらが体を休めている。水蜜のセーラー服にも、花びらは降り注ぐ。深呼吸したくなるような心地よい風が、寺の境内をなぐさめていく。
命蓮寺の屋根の上、桜木の向こうに人里と妖怪の山を一望できる、密かな人気スポットである。
「こうしてまた、桜の雨を見ることができるなんて……」
聖は当初、毘沙門天に不敬がどうたらこうたらと難色を示していたが、今や一日に一度は瓦に腰を下ろさないと気がすまなくなっている。白蓮がなんか満月に向かって南無三の練習してた、とナズーリンが顔を青くして寅丸に報告していたのは記憶に新しい。
「私は、果報者ですね」
ほうっと息を漏らして微笑む聖。
「まだまだ、もっと幸せになれますよ」
見ること叶わなかった桜、千年分まで、あなたは幸せになれます。
水蜜は続く言葉を飲み込んだ。一介の妖怪に過ぎない自分には、この句はまだまだ重すぎた。
「ありがとうございます、ムラサ」
「えへへ」
つむじ風が巻き上がり、洗濯物がはためく。
「っとと、ヤバいかな?」
水蜜の懸念に反して、洗濯物はよく持ちこたえ、竿にしがみついていた。
「ぬえ……」
「?」
「ぬえは、里に?」
「はい、先ほどお使いを頼みまして」
黒のワンピースは春の陽気とあいまって、とても目立つ。
「そう」
聖は驚いたように、人里へと目を移した。
「昨日ものすげえ飲んでたみたいでしたし、酔い覚ましを兼ねてちょっと……何か言付けでも?」
「いえ、昨日帰ってきてから、あの子……機嫌が悪そうで、それに、ケガもしていて」
水蜜はあー、と相槌を打つ。
「なんでまた突然、霊夢さんのとこ行ったんだろ、あいつ」
「えぇ、そのことなのですが」
聖が膝の上に組んだ手を所在なげに動かす。
実は昨日、と語り出したところによれば。
昨日の朝、読経に精を出しすぎて南無三しそうになった聖の居室へ、ぬえが顔を覗かせたというのだ。あらあらまぁまぁ、きゃっきゃうふふと抱き上げてやると、ぬえは塹壕に身を躍らせる兵士のような俊敏さで抜け出し、肩で息をしながらいくつか尋ねてきたという。
いわく、博麗霊夢は何者か。いわく、人間の癖に何故あんなに強いのか。いわく、あのモロ腋を冷やしたら行動不能になると聞いたが本当か。
「あの子、霊夢さんのことが気になって仕方がないみたいで」
「ははぁ」
「どうして、と訊いても、『わかんない』とこぼすだけで、戸惑っているようでした」
「へへぇ」
「神社に行ったのも何か、あの子なりに思うところがあったんじゃないか、と」
「むふぅ」
水蜜は顎に手を当てた。
博麗霊夢が寺にやってきたのは、あの異変からしばらく経ってからのことである。
「飛倉騒動に油注いでたヤツの正体が、分かったわ」
と、面倒くさそうに頭を掻き、
「もうすぐ来ると思うから、あとはヨロシク。じゃ」
颯爽と飛び去っていった。
あの「ヨロシク」とは、どの「ヨロシク」だったのだろう。
予告どおりやって来たぬえは、全てを話してくれた。水蜜らが密林に潜むゲリラよろしく待ち構えているのを見て、すげえビックリしたみたいだったが、とにかく、ぬえは受け入れられた。
聞けば、聖が虐げられた妖怪を救おうとしていることをぬえに教え、命蓮寺に行くよう助言したのも、あの紅白巫女だとか。
もし霊夢の計らいがなかったら、正体不明の親友は今も、人っ子一人いない夜空の中でぬえぬえ鳴いていたかもしれない。膝を抱えてため息ばかりをこぼすぬえの潤んだ瞳を想像して、水蜜はきしむ胸を両手で押さえつけた。
これは、一つの奇跡だ。
縁という縁が手繰り寄せた、一つの奇跡なんだ。
かくある命蓮寺の、当たり前の食卓の風景が、今の水蜜にはたまらなく愛しかった。
「……ほんとは、お礼が言いたかったんだと思いますよ、あいつは」
「私も、そうであれば良いな、と思います」
水蜜は一つ頷いて、聖の方へ向き直った。
「聖、今度の宴会、博麗神社でしたよね」
「えぇ」
「次は、ぬえも連れていきましょうよ」
聖が首を傾げる。
「行きたがるでしょうか、あの子」
人ごみは嫌い、と何度も断ってきた、親友の浮かない顔。
「無理を通してでも、私は見せてやりたいんです、あいつに」
今、思えば。
「この世界は、こんなにもあったかいってこと」
ぬえは、人ごみが怖い、と言いたかったのかもしれない。
聖は黙って頷いてくれた。踏み外さないよう慎重に立ち上がり、思いっきり伸びをする。服についた埃を払って振り向いた時には、いつものタンポポみたいな優しい顔に戻っていた。
「さて、お使い行ってくれたご褒美に、今夜は餡蜜でも作りましょうか」
「ひ、聖の餡蜜!? ぬえテラウラヤマシス!」
アンカーぶん投げてぬえの口を塞いでやろうかと血迷った。
それほどに聖の餡蜜は絶品であった。里の甘味屋も味は一級だが、聖の前では泣いて成仏するしかあるまい。
「もちろん、ムラサの分もたっぷり作ってあげます。楽しみにしてて下さいね」
「――――!」
嗚呼。
極楽浄土は、ここにあった。
Flying 4 ~ New Undefined Energy
「一度、食べてみたかったのよねぇ、楽しみだわー」
博麗霊夢はごきげんだった。
私の心臓は火事を報ずる鐘みたいにカンカン鳴っていた。
里一番と名高い定食屋の座敷で、私と紅白は膝を突き合わせていた。板場ではハチマキ締めたおっさんが手元を鬼のように凝視しており、弟子らしき若もんがこれまた鬼のような顔で師の業を盗み取ろうと控えている。真昼間だってのに、酔客の真っ赤な笑い声が店内を駆け巡り、二日酔いの身をこさえた私はそれだけで頭痛がぶり返してきた。
紅白巫女は布巾で手を拭っては、待ちきれんとばかりに板場をかえりみる。首が回るたびに、トレードマークのリボンがカエルみたいに跳ねた。板長は熱のこもった視線を浴びるたびに相好を崩し、再び鬼の顔に戻って包丁操る手を早めるのだった。
なんで、こんなことになったんだか、と私は水を啜る。
往来で相対した私たち。
今日は茶葉を買い足しに来たんだけど、とのたまった紅白は、獲物に照準を定めた猟師の形相を顔に貼り付けていた。
ものすげぇ怖かった。
銃口のごとき黒目が捉えているのが、私の持つまるまると肥った財布だと分かり、買い物なんてうっちゃって逃げ帰ろうかと思った。
それを察したのかどうか、腋巫女は私の羽をむんずと掴む。
ぬえんっ!
悲鳴とも嬌声ともつかない声を上げる私を小突いて、紅白は言った。
「昨日の弾幕ごっこ、忘れたわけじゃないわよねぇ?」
大妖怪たるぬえ様が、人間に一飯の席を設ける羽目になるとは……。
担いだ買い物カゴが、肩にずしりと食い込む。「水蜜ちゃんによろしくな!」と追いかけてきた声の能天気さといったらなかった。
鼻歌も高々に定食屋を目指す巫女と、半ば引き摺られるようにして歩く私。
昨日の今日だってのに、博麗霊夢は、どこまでも博麗霊夢だった。
会いたかったのか、会いたくなかったのか、私自身、よく分からない。
「いやー、昼飯食べてこなくて正解だったわ。ありがとね、封獣さん」
と、屈託のない笑顔を向けてくる。
それを見ると、なんだかもう、どうでもよくなってきた。
「……ぬえ」
「はい?」
「ぬえが、その――私の名前だから」
「そ。じゃ、ゴチになるわよ、ぬえ」
うん、と私は頷く。
なんども、頷いた。
「ヘイ、おまち! 梶之助が特製、春の詰め合わせ定食だ。こいつを食いたくて、山から下りてくる妖怪だっているんだぜ」
「ヤッフゥ、やっときたわ!」
「ぬわー……」
息を呑むと云えばいいのか、開いた口が塞がらないと云えばいいのか。
漆の箸を高々と掲げる霊夢、腕組みに鼻息を添えながらも、冷や汗を滝にして霊夢の顔をうかがう板長、肴膳を前に感涙の止まらない弟子。
私は両腕を膝に立てて、盆に見入った。
脳裏にかすむは、ずっとずっと昔、記憶の海の、彼方のことだ。
平安朝のお偉いさん方がさも上品ぶって食っていた、あの会席膳を思い出したのである。
木の上からケケケと覗き、頃合いを見計って料理に正体不明のタネを仕込んでやった、あの頃の私を思い出したのである。
アユの塩焼きに始まり、若筍煮、菜の花の辛し和え、ふきの旨煮、三つ葉のすまし汁など、およそ考えつく春の贅沢を余すところなく膳に盛り込んだみたいだ。
けれどもひときわ目を惹かれるのは、真珠みたいに光り輝く白米ばかりである。
頭痛もいっぺんに吹っ飛んだ。二日酔い? 何それ?
「ささっ、冷めねぇうちに食いな」
焦れたように板長が言う。
「うん、いただくわ」
「ぬ、いただきます」
私たちは手を合わせる。それ以上の言葉は要らなかった。
霊夢はアユに箸を突貫させ、私は菜の花をご飯に乗せた。
箸を口につけたのは、ほとんど同時だった。
霊夢のリボンが跳ね上がるのと、私の羽が飛び上がったのも、やっぱり同時だった。
で、二人して笑い出した。
笑うしかない、本物の料理人は、ただ客を笑わせるのだと、知った。
胸からこみ上げてくる熱の塊に、私はむせた。
地底に閉じ込められる前、楽しくて楽しくて仕方がなかった日々。
地底に封じられてから、ムラサたちと互いに慰めあい、肩を抱き合った日々。
そして。
帰ってきた。
私は、こうして帰ってきたんだ。
命蓮寺を囲む桜の花びらたちが、さあっと私の心に舞った。
妖怪としての半生、隅々まで明るく照らしてくれたその味は。
形容するなら。
ただ、懐かしかった。
私は笑いながら泣いた。
板長が身を震わせてうんうん、と頷き、弟子が袖で涙をぬぐう中。
霊夢は呆れるように目を細め、けれど優しく肩を叩いてくれた。
宴もたけなわなら、腹を割って話すのもこんな時じゃないだろうか。
私は言えずじまいだった言葉を、ようやく形にできた。
「霊夢、あの……ごめん、それと、ありがと」
「あー?」
すまし汁から顔を上げて、霊夢は言った。
「ほら、タネばらまいて、騒ぎを大きくしちゃったこと。それとさ、白蓮のこと、教えてくれたこと」
霊夢が教えてくれなかったら、私、ずっとムラサたちのこと、誤解してたままだったから、だから――。
最後は掠れて、声にならなかった。
霊夢はふんふんと首を振りながら、追加のアユを背骨ごと噛み砕いた。すげぇ。
「それで、あれから連中とはうまくいってんの?」
「そりゃあ、もう」
命蓮寺で過ごす日々を、ジェスチャーを交えて話してやった。
白蓮の南無三で屋根瓦が吹き飛んだことや、お経を読み間違えた寅丸さんが茹ダコみたいになって耳やしっぽを出してしまい、参拝客から失笑を買ったこと、そんな寅丸さんを慰めるナズーリンがドヤ顔で毘沙門天を見上げる一方で、ムラサと一輪が聖のプロマイドを巡って取っ組み合いをしていたこと、エトセトラ。
霊夢はある時は口を押さえて笑い、ある時は興味深げに相槌を打ち、ある時は「ねーよ」とドン引きした。
「どうやらみんな、落ち着くところに落ち着いたみたいね」
霊夢がアユを咀嚼しながら言った。小骨なんてそ知らぬ顔だ。こいつの口ん中は一体どうなってるんだろ?
「うん、白蓮が驚いてた。妖怪も人間も、一緒になって酒ぇ飲んでるもんだから」
アユを飲み下して、霊夢は頷く。
「ここじゃ、楽しけりゃ何でもいいのよ、度が過ぎないかぎりは。皆が皆、結界で区切られたコッチ側なんだから」
そこで目を逸らして、箸の尻で頭を掻く。
「それこそ、恐怖の大妖怪もね」
酒をがぶ飲みし始めた霊夢の頬は、酔いのせいだろうか、ほんのりと赤かった。
「だからあんたも、気構えてないで力を抜きな。肩肘張るのは、異変のときだけで沢山よ」
酒瓶で店内をぐるりと指す霊夢につられて、私の首も巡った。
客、板前、往来を行き交う人間たち。皆が皆、忙しなく手を動かし、足を動かしている。楽しそうに。それはそれは、楽しそうに。
春を唄う人々の流れは、とめどなく里を廻っていた。
なのに、何故だろう。
今、この時だけは、そんな人間たちの邪魔をしてやる気には、なれなかった。
それは多分、こいつのせいだ。
料理に舌鼓を鳴らした時の幸せそうな顔、隣の酔客に絡まれた時の鬱陶しそうな顔、こちらの視線に気付いた時の訝しげな顔。
初めて会った時とは別人だ。いつもはこんなに、表情をころころと変えるのか。
霊夢の顔を眺めるのは、どうしてなかなか、飽きなかった。
「何、ニヤニヤ笑って。顔になんか付いてる?」
「うん、ほっぺに三つ葉が」
「えっ! やだ」
「嘘だよ」
「……こいつ」
「ぬへへ」
箸を振り上げた霊夢から逃げ惑いながら、私は愉快愉快と鳴いた。
ケラケラと、ケラケラと。
「改めまして封獣ぬえ様、ゴチになりやした」
合掌。
往来に出て、霊夢がおどけたように言う。手にはちゃっかりとアユの塩焼き、土産の包みを握っている。よほど気に入ったんだろう。
「ん、お粗末さま」
「……なんか違うくない、それ」
「どうでもいいじゃん」
「そうね。美味しけりゃ、何でもいいわ」
私がミサイル級の唐丸籠を背負い直すあいだ、霊夢は春の日ざしを浴びながら背伸びしていた。ヘソチラを見逃さないあたり、ほんと私も日和ったもんだと思う。
……え、なんかおかしい?
「いやー、満足満足。また食べに来たいわねぇ」
霊夢が振り返る。口の端が釣り上がっていた。
「ぬえ。今度、異変起こしなさいよ。私にはお賽銭が入るし、あんたは活躍できる。一石二鳥よ」
「やらぬぇよ!」
「私のオゴリでも?」
「……考えとく」
共犯である。それで良いのか、博麗の巫女。
冗談よ冗談と手を振りながら、風を読むかのように空を見上げる霊夢。
綺麗に描かれた首筋のラインに、空色を映した瞳に、私の心臓はまたもや踊った。
もう、帰っちゃうのか。お別れか。
神社が足を落ち着けているであろう山を遠くに見据えて、私は胸を押さえた。昨日の弾幕ごっこで巻き起こした爆音が、鮮やかに蘇ってくる。バンソーコーを貼ってくれたときの、呆れたような少女の顔も。
「……あのさ、霊夢」
「ん?」
「あんたのお茶さ、ほんと、美味しかったよ」
「そ」
「えっと、また――また飲みに行ってもいい?」
アユの包みがゆらゆら揺れる。
「お茶菓子持参ならね」
ちぇっ。
ムラサのキャラメルカレーを持ってってやろう、いま決めた。
風が吹く。
霊夢の体が浮き上がる。
人間が、空を飛んでいる。
周りを歩む人たちは、一斉に楽園の巫女に目を留めた。
巫女は気にも留めず、悠々泰然と春風を背に受けていた。
それこそが、霊夢の強さなんだろう。妖怪には決して持ちえない、人間の強さ。
そう思うと。
私の胸は、ますます高鳴った。
そうだ。
まだ訊いてないことが一つ、あった。
「霊夢!」
巫女は空中でくるりと一回転すると、逆さまに私を見下ろした。
どでかい籠に潰されそうで、それでも何とか立っているのが、私だ。
「これからわたし、どうすればいいと思う!?」
「あんたの、好きなようにすればいいんじゃない?」
当たり前みたいに、霊夢は言いおった。
「そう言うと思ったよ」
ニヤリと笑った私の顔は、少しは妖怪らしくなったんじゃないかぬぁ。
Last Flying ~ 君のいる世界に、いざ南無三。
星も満天に脈打つ、命蓮寺の夜。
水蜜は一升瓶を置いて茶の間を後にした。中年オヤジのような見事な千鳥足で障子にもたれ、柱に掴まりつつ縁側に倒れこむ。
談笑に花咲かせる仲間たちの声が、背中をくすぐってくる。
心地良い。聖輦船の舳先で浴びた風のような、そんな心地良さだ。
よく食べ、よく語り、よく笑った。
聖の音頭で般若心経を歌い、ノリに乗った寅丸がヘタクソなライブを敢行し、ナズーリンが引きつった歓声を上げていた。騒ぎ疲れた一輪は雲山を枕にして寝ている。
そんで。
「まあ~た飲んでんの、あんた」
「飲みたいんだもん、いいじゃん。ってか、ムラサも酒くさいよ」
ははっ、飲みたいんだもんねー、とぬえにもたれかかった。温かい背中だった。ぬえは怒るでもなく、少しばかり身じろぎして三対の羽を開き、水蜜を受け入れた。
“わいん”とかいう西洋の酒をちびちびとあおりながら、親友は空にぶらつく月を見上げている。背中にこすりつけるように頬をくっつけると、規則正しくランニングを続ける心音が聞こえた。
虫の鳴き声一つしない閑寂な夜である。夏がくれば、カエルの鳴き声で夜も眠れなくなるのかな、そん時はみんなで花火でもやろうか、なんて考えが、ふと浮かぶ。
楽しみだなぁ。
「……今日はお疲れさん」
「あい」
背中越し、ぬえの声が立てた振動が、直に伝わってくる。
「どうだった、人里」
「んー、人間も変わったもんだね、ほんと」
ケラケラと笑い声、夜空に散っていく。
「ぬえさ、今日は機嫌良いよね。なんか良いことでもあった?」
「そーいうムラサこそ、酔っ払うなんて珍しいじゃん」
「別にー。そんな大したことじゃないよ」
そう。
日常に転がってる、ほんの小さなこと。
それだけでも。
実感できるものは、意外と沢山あるらしい。
水蜜は黒いワンピースの生地を撫でてやった。ぬえがくすぐったそうに背筋を伸ばす。
頭がクラクラする。ほろ酔いとは、まさにこのこと。もう、眠ってしまいそうだった。
「……私の体さ、冷たくない? 大丈夫?」
「いんや、ひんやりして、気持ちいいけど」
「そっか」
それなら安心だ。
水蜜はゆるりと目を閉じた。
「ムラサー、ぬえー! 餡蜜が出来ましたよー!」
「うおおおおッ!! 待ってましたあああぁぁぁッ!!」
水蜜は月の光よりも速く跳ね起きた。突き飛ばされたぬえは縁側から転げ落ちそうになった。
「いきなり押すぬぁ、バカヤロー!!」
ぬえが吠えた。
「ごめんちゃい! ついテンション上がっちゃった」
舌を出す水蜜、唸り声を上げながら睨みつけるぬえ。
夜桜の花びらが、二人の間をそっと滑り降りた。
座敷に駆け戻ろうとする水蜜を、ぬえが呼び止める。
「ごめん待って、腰が……」
「あ、そっか」
ミサイル級を背負い抜いたぬえの足腰はボロボロであった。
「ほら」
水蜜は、いつかと同じように手を差し出してやる。
「ありがと」
二人は法の光に満ち溢れる茶の間へと帰っていった。
★ ★ ★
「あー、くそ。また負けたぜ」
「まだまだねぇ、魔理沙」
「なぁ、夢想転生、あと十秒短くしてくれないか? そしたら勝てるんだが」
「いやよ」
「だよなぁ……。ん、どうした?」
「あー、そういえば、あの未確認飛行妖怪。結局、仏門に入門したみたいよ。お寺で寝泊りだってさ。やっぱり地底は嫌みたいね、普通の妖怪は」
霊夢はそう言って、ふわりと微笑んだ。
~ fin. ~
ぬえと船長の間柄もいい親友っぷりで素敵です。
続きとかありましたら読んでみたいなぁ…などと申してみたり…。
最後まで、ほのぼのと楽しめました♪
ありますとも!
比喩の選択や語調が軽いものに統一されているからかな。
それと登場キャラたちがみんな温かい。
はっちゃげていながらも、さりげなく気持ちを出したりするところとかなんか素敵。
冒頭のばってんに貼った絆創膏はジャスティスだなと思ったり、
命蓮寺においてババアンとフスマを開けて登場するのは住職さんの方がじゃないと思ったり。
ところで、巫女が持ってる棒は大麻(おおぬさ)と言いましてね…
馴染む、実に馴染むぞ!