1.天子
夕暮れの空はまだ太陽の残照のおかげで明るいが、地上では影が長く伸び夜を感じ始める時刻に、天子はそっと神社に降り立った。
一日の終わりに縁側に腰掛け、何をするでもなくぼーっと宙を見詰める少女を、天子は声をかけないまま眺める。
視線の先の少女は天子には気づかないまま、空を見て軽く息を吐く。
冷酷、暴れん坊、能天気、毒舌、未熟。
答えるものによって、その少女の印象はまるで違った。
何故、天子がそんなことを知っているのかと言えば、その少女についていろんな人に尋ねまわったからだった。
会う人、その立場によって、少女はまるで別の人かと思うほど、違う答えが返ってきた。
でも天子が一番気にいっているのは、この昼と夜の狭間の時刻の僅かな一瞬に見せる、ほんの少しだけ悲しげに見えて、それでいながらそれすら楽しんでいる風な、不思議な表情だった。
おそらく少女は何らかの感傷に捉われている訳でもなく、普段と変わらない笑みを浮かべているのだが、夕暮れの闇が、顔の細部の印象をあいまいにし、少女の大きな黒目勝ちの瞳だけを目立たせているので、天子がその様に感じてしまうだけなのだろう。
「しかし霊夢はいつ遊びにきても同じことしてるわね~」
「いっつも同じ時間に遊びにきてるんだから、こっちだって同じことしてるに決まってるでしょ」
「でも、霊夢って働かないわよね? 高等遊民と言うやつね」
「嫌な言い方しないでよ。あんたと違って毎日アレやコレやといそがしいんだから」
「じゃ、そのアレコレを具体的に言ってみて?」
「え~っと、お掃除したり、洗濯したり、食事の用意したり。あと色々」
「ほとんど生活するのに必要最低限なことね。仕事とは言わないわね。霊夢ってどうやって生活してるの? 人間って働くのが当たり前でしょ?」
「他の誰に文句言われても、あんたにだけは言われたくないな~」
目を、剣呑さを感じるほど鋭く細めつつも、頬は童女のようにかわいらしく霊夢は膨らませて見せる。
…………こういう相反する二つが交じり合う霊夢の表情が、天子にとってはたまらなく良いのだ。
「怒らない、怒らない。ほら~、お土産の桃よ。機嫌直して、ほら~」
「私は物で釣られるほど、子供じゃないわよ」
「じゃあ、いらない?」
「ダメよ。せっかくくれるってものを拒否できるほど、大人じゃないわよ」
口ぶりこそ余裕を見せてはいるものの、目線はちらちらと何度も天子の手元の籠に落ちている。
「私だってせっかくもってきたお土産なんだから、あげるつもりだけど……」
「う~ん、うちの流儀は無理矢理嫌がる相手からもらうのが得意なんだけどなぁ。まぁ、一応礼はちゃんと言うつもりよ」
「かわいくないわね」
「別にあんたに可愛がられる予定はないけど」
などと言いながら、天子の前で、縁側で足をぶらぶらさせて霊夢は小首を傾げてみたりする。
「…………っ、そんなに欲しがるなら仕方ないわね。ほら、お土産よ。ありがたくいただきなさい」
「はいはい、渡したくってたまらない癖にしかたのないヤツね」
霊夢は果汁が垂れて袖口が汚れるのにも構わず、皮を剥いて白い果肉が露出すると勢いよく被りつく。
口の中で二、三度噛んだだけで、すぐに喉が動き、体内を熟した桃が落ちていく。
霊夢が桃に被りつくごとに小さな白い前歯が唇の隙間から覗く。
唇の色は天子の持ってきた果物の色と同じだが、霊夢の唇のほうがずっとつややかな色をしていると天子は思った。
「あげないわよ」
じっと黙って見ている天子に気がついたのか、霊夢は桃の入った籠を天子の手から届かない場所へと移動させる。
「そんなに警戒しなくっても、誰もとらないわよ。大体それはウチの庭に生ってるようなもんだし」
「あんたも天界もろくでもないところだけど、これがあるのだけがうらやましいわ」
「ろくでもないって失礼ね。やっぱり取り上げる」
「こら、くっつくな。食べられないじゃないの」
「いっぱいあるんだから、一緒に食べたっていいじゃないの」
天子はふざけたふりをして、霊夢にくっつき、霊夢が手に持つ食べかけの桃に口をつける。
「うん、今日の桃もいい味ね」
「普通、取り返す場合は食べかけのものじゃないんじゃないの?」
「霊夢が食べたものと同じものじゃないと、ちゃんといい味出ているかわからないじゃないのよ」
「ほんと、天人て訳がわかんないわね」
「いいのいいの、訳がわかんなくていいの。でも、霊夢って鈍感ってよく言われたりしない?」
「鈍感? どっちかって言うと良く気が利くって言われるわ」
天子は心の中で嘘ばっかりと思った。
霊夢のことをいろんな人に聞いたけれど、気が利くなんて答えた人は全くいなかった。
むしろのん気者すぎて困る、と言った人のほうが多かったぐらいだった。
「鈍感」
天子の高度なスキンシップにも何の感慨も抱かなかった霊夢は、どうかんがえても鈍感者だった。
「あむっ」
「あっ、また、私の桃を盗んだっ」
くやしかったので、天子はまた霊夢の食べかけの桃に、口をつけてやった。
「どうして私の食べかけのものから盗るのよ? こっちにもいっぱいあるじゃないの?」
「だって、霊夢が返さないって言うから仕方ないじゃないの?」
「そんなこと言ったっけ?」
「よく覚えてないけど、霊夢がわけてくれないから、仕方なく霊夢の食べかけをもらってあげてるの」
「う~ん、そうだったっけ~、う~ん」
困惑に眉を顰める霊夢。
鈍感者で、霊夢の齧った同じ場所に口をつけると言うことの意味は分からないものの、何か訳がありそうで、それが恥ずかしいことだと気がついてはいるのか、霊夢は困った表情のまま天子と目を合わせることも出来ずにもぞもぞと体を揺すっていた。
「ごちそうさまっ。霊夢に食べさせてもらう桃は格別においしいわね」
「何よ。どろぼう」
「ふふっ」
「どうして笑うの?」
「さぁ~?」
霊夢の困り顔を見れたことに、天子は満足げに笑ってみせる。
それだけが目的ではないけれど、まさか天子が困った顔を見たいがために、わざといじわるしてるなんて霊夢は考えてもみないようだった。
「本当に天界関係はろくなものじゃないわ」
言いながらも次の桃に手を伸ばして、霊夢は齧り付く。
「その割に私のお土産は拒否しないのね」
「うん、この桃だけはいいわ。もう、このためだけにあんたが来ても、追い返さずに遊んであげてるの。相手は何物であれ、お賽銭とお土産もってくるのは拒否しないのが私の大方針よ」
「私は桃の付属物?」
「そうとも言う」
「そんなに好きなんだ」
「うん、毎日、毎食食べてもたぶん飽きないと思う」
「えへへっ」
「何よ。急に気持ち悪い笑いかたして」
天子の笑顔に、霊夢は露骨に嫌そうな顔をする。
「ん~ふっ、霊夢が毎日天界の桃を食べられる方法を考えたっ。霊夢が私と結婚したらいいのよ――――――――――。あっ、桃が転がった…………」
天子の天啓のような大名案に対する霊夢の反応は、目を大きく見開いたまま硬直し、口元に両手で抱え持った桃を取り落とすほど、大仰なものだった。
「な、な、な、け、けっ、こ」
落ちた桃は霊夢の膝の上で弾み、勢いはそのままに地面の上を転がっていったが、霊夢はそれどころではないのか、目を天子に据えたまま動くことも出来ずにいた。
表情こそ色々と変えては見せるものの、焦ったところなどついぞ見せたことのない霊夢が、おたつき顔を真っ赤にさせている。
「けっこ……ん、なんて……、まだ早いと思うわ。だって私達、まだ、大人って訳じゃないし」
「じゃあ、婚約だけしておいたらいいのよ。結婚は大人になってからでOKだし」
「あっ、そうか、そうなんだ、うん」
混乱する霊夢にチャンスとばかりに天子は体をくっつけ、霊夢の腕をとって、自分の腕と組んでみる。
普段の冷静な霊夢なら、すぐさまボカンと天子の頭を殴りつけるところだが、今はそれどころではないパニック状態なので、大人しくされるがままだった。
「今、『うん』って言ったわよね。じゃ、結婚、OKなんだ」
「えっ、いやっ、ちがうっ、そういう意味じゃなくって、えっと、えっと」
「霊夢、『うん』って言った」
「言ったけど、言ったけど、あ~ん、くっつかないでよぉ」
霊夢が困ってオタついている隙に、天子は調子に乗って霊夢を抱きしめて、身動き取れなくしてしまった。
体をすくめる霊夢の頬に鼻をおしあてて、ぷっくりとした頬の感触を、鼻先で味わった。
「『うん』って言った」
「違うの、違うの……」
「言った」
耳に軽く息を吐きかけながら囁いてやると、霊夢はきゅう、と体を小さくさせる。
初めは霊夢をからかうためのイジワルのつもりだったが、『結婚』と言う言葉にすら頬を染めるその純情さに天子の胸は高まり、自分で自分がコントロールできなくなっていく。
「霊夢、大丈夫よ。私にまかせて」
眼を閉じ震える霊夢の顎に手をかけ、天子の方へと強引に向かせる。
『結婚』の話題が出たときには言質だけでもとか思っていたが、こうなったら既成事実もありの気がしてくる。
「霊夢、優しくするから……、ねっ」
「ああっ、ああっ」
顎を引き上げられて、上向かされた霊夢は、困惑したように眉を顰めたまま、吐息を漏らす。
天子は霊夢の甘い呼気に引寄せられるように、目を伏せながら、霊夢の顔に唇と近づけていく。
「霊夢…………、女の子同士だけど、私ちゃんとするから」
自分を鼓舞するように、天子は強く言葉を発すると、ぎゅっと固く目をつぶって霊夢の唇目掛けて口を寄せた。
「天子」
霊夢の唇はさらりとした感触だった。
固くて、冷たくて、天子と思っていたのとはかなり違っていたが、何分天子も初めてのことだったので、こういうものかと思うだけだった。
少しだけ産毛がくすぐったくて気持ちよくて、唇を尖らせるように擦り付ける。
「こらっ、天子っ」
感触に夢中になり霊夢の唇を啄む天子に、霊夢は何度も名を呼んでくる。
唇を通して愛を交し合う恋人には全く似つかわしくない、怒ったように自分の名前を呼ぶ霊夢の声に、天子はしぶしぶ目を見開く。
「天子っ、あんた、よくも騙したわねっ。あやうく騙されるところだったわ」
目を見開いた先には、甘い果実の薫りと、薄い桜色。
天子が啄むその感触は、おみやげにもってきた天界の桃だった。
「よく考えたら――――、っていや、よく考えないでも、私達って女の子同士だから、結婚は無理じゃないっ。よくも、甘い言葉で騙してくれたわね。一瞬かなり本気になっちゃったじゃないの」
あんまりにも、ありそうでなさそうな、冗談のような展開に天子は落ち込む。
キスできると思った瞬間に、他のものに摩り替えられるなんて、振られ役にありそうなお約束の流れで、自分がその役にハマっているのはさすがにつらい。
「………………私は結婚してもいいわよ?」
なんとか本気っぽく真面目な顔で、霊夢に再びアタックをかける。
「何よ。結婚詐欺。あんたが最後に女の子同士って口を滑らせなかったら、危ないところだったわ」
「結婚詐欺は結婚するって騙して、お金とったりするのでしょ? 私のは違うじゃないの」
「いや、うそ。結婚してあげるって騙して、あたしから……、キ、キスを、う、奪おうとしたじゃないのっ。女の子同士は結婚できないのに」
「キスができるんだから、結婚だってできるわよ。だから私、嘘ついてないもん」
霊夢は先ほどの空気に呑まれていたことを振り払うように、わざとらしく笑ってみせて、手でパタパタ顔を仰ぎながら、なんでもない軽い笑い話にしてしまおうとしている。
確かにあわよくばと、霊夢をからかっているついでの告白で、本気っぽくはなかったが、霊夢となら結婚してもいいと言うのは、嘘ではなかった。
「天子の言うことだから信じないもの。里の人で女の人が女の人と結婚してるのって見たことがないもの」
霊夢はそんな天子の内心など知るよしもなく、余裕が出てきたのか、騙されないものとばかりに、フフンと少し自慢混じりの笑みすら浮かべたりしている。
「どうしたら信じるのよ。私の言うことを信じられないんだったら」
「そうねぇ。例えば、ねぇ。恋愛とか苦手そうで、融通とかが利かなくって、不器用で、そういう女の子がね、もし私のことが好きで、本気でお付き合いしてください、とか言ってきたら、女の子同士もありだなぁ、って認めてあげるわ」
「少々、例えなのに具体的っぽい感じがするわね?」
「べ、べ、べ、別に意味なんてないわよ? 例えばよ、例えば。だいたい、女の子同士で結婚とか意味不明発言するのは天子だけなんだから。ま、他の人が言ってくれたら結婚しちゃうかも」
「何その不条理。私が霊夢に意識させてきっかけ作ったのに、どうしてとられちゃうのよ。これって寝取られ?」
「あっ、またエッチ発言。天子はエッチ。どうして天人ってエッチなことばっかりなのよ」
恥ずかしくなったのか霊夢は、天子に向かって乗り出すように話していたのを、あわててごまかすように顔をそらして他所を向く。
割合とのんびり屋で少々のことには動じない風でいて、時折ちょっとしたことで素の顔を出してしまうところが、かわいらしく天子には思えた。
こうやってじゃれあうように、イジワルしてみたり、怒らせてみたり、拗ねさせてみたり、ただそれだけで楽しくて、一緒にいる間だけ、自分のほうを見てくれるだけでいい。
天子は自分の霊夢に対する『好き』をそういう風に捉えていた。
「イーだ、霊夢が初心すぎるのよ」
自分のものになるとか、誰かのものだとか、必死すぎるのは、天子は好きではない。
結構本気なのだけれども、距離を置いて、冷静に観察して楽しむ。
余裕のある、『好き』だけでいたかった。
「霊夢って案外普通よね」
天子は今まで、自分の中に荒々しい感情があることを知らなかった。
「だってそうでしょ? 性別が同じだったらダメとかって……、決め付けたりしてさ」
「何よその言い草は」
天子のしゃべり方に嫌な感じを受けたのか、霊夢もさすがにむっとした顔を見せている。
でも天子は止めるつもりはない。
絶対にある訳がないと思っていた、本気の、奔流ような、『好き』が、天子に嫌なやつを演じさせる。
例え霊夢に嫌われてしまっても、脳裏に霊夢が普段いつも一緒にいる少女の姿が浮かび、どうしても許せなかった。
「あ、怒った? ごめんねぇ~。でもね、霊夢ってみんなが結構特別扱いしてるから、もっと他の人間とは全然違うって思ってたからね。なんていうの? あの子とあんまり変わんないのよね~」
今の天子は馬鹿な道化だった。
でも、やめられない。
天子がほんのちょっとしかけた悪戯に、霊夢が冗談で返した。
ただ、それだけのことなのに、胸の奥がチリチリとしてくる。
「な~んかね。自分のこと、普通、普通って言ってる子。名前、なんて言ったっけ~? 覚えてないわ」
「魔理沙のこと?」
「マリなんとか? うんうん、なんかそういう名前だった気がするわ。普通の魔法使いだとか、霊夢の真似している子」
軽薄な口調で馬鹿にしてみせる。
「普通だなんて、自分を守るための言い訳にすぎないって決まってるわ。だって、自分が特別な存在じゃなくっても、自分にとっては自分以外に代われないんだから。ある意味自分って特別な存在よね。他人にとってはゴミみたいだったとしても。それを普通って冗談めかせて、普通って言ってるってなんか気持ち悪い」
霊夢の隣には、絶対に自分で普通と名乗る人間がいるなんて、許せない。
「ああいう風に妖怪退治とか、他のこととかも真似されたら、霊夢のしていることだって普通にされちゃうんじゃないの? 普通の私ができるんだから、何も特別なことじゃありませんって」
口に出してから天子は気付いた。
霊夢には『特別』でいて欲しい。
自分には手の届かないままでいて欲しい。
本当はもっと仲良くなりたいし、好き同士になれたら最高だけれども、それよりも永遠に届かないままのほうが、もっと辛くて、苦しくて、胸が焦がれるけれども、素敵だった。
だから、霊夢の隣にいる人間は、絶対に普通であってはいけなかった。
「周りだって魔理沙が出来るんだから、たいしたことないって、誰にでも出来ることなんだって、普通のことなんだって、霊夢が馬鹿にされちゃう。霊夢が特別じゃなくなっちゃう」
天子は霊夢に恋していた。
でも、それよりもはるかに強いのが、霊夢に対する憧憬だった。
手に入って汚れるよりも、永遠に美しいまま、手も触れることも出来ない憧憬の対象であって欲しかった。
どうしてそういう感情が生まれてしまったのかは、天子にも知りえないことだった。
「霊夢が馬鹿にされちゃうよぉ」
夕暮れ時に霊夢が縁側で見せる、あの寂しげで、幸せに満たされて見える不思議な表情。
あの表情のまま、ずっと一人でいて欲しい。
天子自身に対してすら、拒絶を貫いて欲しかった。
霧雨魔理沙がどうかなんて、どうでも良かった。
夕焼けに染まる霊夢の誰に向ける訳でもない笑みこそが、天子の求めるすべてだった。
霧雨魔理沙に対する悪口を積み重ねた先に、天子が自分ですら知らなかった、天子が霊夢に求めるものに辿り着いた。
「…………ごめんね、天子。プロポーズことわっちゃって」
ポツリと漏らした霊夢の言葉に天子はわれに返った。
霊夢は嫌な態度の天子のことは怒ってはおらず、むしろ優しげと言ってよかった。
「プロポーズ?」
「天子、私と結婚しようとか、言ったでしょ?」
あんまり霊夢が恥ずかしがるものだから、イジワルしていたのが元々の話の流れ。
天子が居もしない霊夢の相手を想像し、勝手に嫉妬して、嫌なヤツになっていたのだった。
そして最後に天子は、自分さえ知らなかった本音を吐き出したのだった。
「私、私、私……」
最後に自分が吐き出した言葉の意味を理解すると、天子は自分の顔が真っ赤に染まっていくのがわかった。
『霊夢が特別じゃなくなっちゃう』なんて、じゃれかかるようなプロポーズよりも、もっと激しい愛の言葉に等しい
霊夢のことが特別です、と言ってしまったようなものだった。
正直なところ、愛を告白したのと変わらなかった。
それがわかっているのか、天子の態度を霊夢は全く責めることなく、うれしげにさえ見えた。
「霊夢、お、お願いだから、顔、見ないでよ。本気で恥ずかしい……」
「あははっ、エッチ天人なのに、照れてる照れてる」
「もうっ、霊夢馬鹿ぁ~」
「うふっ、照れてる天子って可愛いわぁ~。天子ってこういう気分で私のこと、イジメてたんだぁ」
「やめてよぉ」
可愛いと霊夢に言われるのはうれしかったが、霊夢との立場が逆になり、霊夢をからかう時にどんな思いでいたのかも知られてしまい、天子は羞恥に顔がますます赤くなるのを止められなかった。
「可愛いわよ、天子。顔真っ赤ね。とっても恥ずかしいいんだ? くすくすっ」
霊夢が耳元で無邪気な童女のような声で囁く。
でも声の調子とは裏腹に、確信犯的に天子がもっとも恥ずかしくなるところを責めてくる。
「可愛い、恥ずかしがり屋さん」
「うっ、うっう~」
本気の本気で恥ずかしくて、胸がむずむずして、霊夢の顔を天子は見ることができなかった。
身を硬直して呻くことで精一杯だった。
もう対等の結婚どころか、立場は逆転して、霊夢に弄られる可愛いペットみたいだった。
「恥ずかしいから、顔見ないで……、お願い……」
今までの天子が一方的にかまいかけるよりも、こうやってイジメられるほうが、霊夢をずっと近くに感じることが出来た。
それにイジメられているほうが、恥ずかしくって、胸がムズムズして、息苦しくて、切なくて、ずっとずっと気持ち良かった。
「だ~め、こうやってずっと近くで顔見詰めていてあげる」
「うううっ、恥ずかしい、よぉっ」
もっともっと霊夢に苛められて、可愛がって欲しかった。
ある意味ではこの結末は、天子にとって結婚よりもはるかに最高だった。
2.魔理沙
「知ってるか? アリスのところの上海人形最近すごいんだぜ。目玉がさぁ~」
縁側に霊夢と並んで腰掛け、魔理沙が大げさなまでの身振り手振りを交えて、一方的に話しているのはいつものことだった。
「あ~、何で伝わらないのかなぁ? このすごさが。色が変わるんだぜ、色が。もうビックリだぜ。青だったり、赤だったり、ピカッってしたりしてさぁ」
秋のあっと言う間に落ちる夕日も、這いよる闇のもたらす感傷も、こうやって霊夢と一緒にいれば魔理沙には縁遠いもので、黄昏時でも日中にいるのと全く何ら変わらず、ただ楽しいだけだった。
「赤だったり、青だったりって、何なのよ。アリスと一緒にお人形で遊んだってことよね? もう、あんたらが仲良すぎるのは皆知ってるんだから、わざわざ言いふらさなくってもいいって」
霊夢が興味なさそうに、合いの手を入れてくる。
霊夢がこういう態度なのはいつものことなので、魔理沙は慣れっこだった。
霊夢はなんのかんの文句を言いながらも、一応は魔理沙の話は聞いてくれている。
ただ、ここのところ特に気だるげに感じることが何度かあり、魔理沙はそこが気になってはいた。
「違う、違う、そうじゃなくってだなぁ。あ~、アリスと一緒にいたのはいたんだけど……、さぁ……」
霊夢の脇には籠に一杯入った桃が置かれていて、魔理沙の話に相槌を打ちながら、おいしそうに滴る果汁に手が濡れるのも気に留めず、霊夢は齧りついていた。
よほど好物なのか、果実を口に含んだ瞬間、少しだけ霊夢の頬が緩む。
桃の取れる季節じゃ無い時でも、霊夢の家にはいつも桃があって、魔理沙にも何処から手に入れているのか不明だった。
「仲良しさんと一緒に人形ごっこか、楽しそうね」
「あ~、霊夢からかわないでくれよ。に、人形ごっこってなんだよぉ……、違うよぉ」
思わず霊夢の言葉に照れてしまう魔理沙。
「人形ごっこって、口ごもって、真っ赤になるなんて恥ずかしい。ふんっ、じゃ、『今度は魔理沙が人形の役ね』とか、やってるんでしょ?」
魔理沙はそういうつもりはないのだが、結果的にアリスとの仲良し自慢みたいな話になるのは毎度毎度のことなので、霊夢の攻撃には容赦がなかった。
「『それじゃ、今日はどんな服を着ましょうか? お着替えしましょうね』とかも、やっているんでしょ、どうせ?」
「あっ、うっ、ううううっ、あうぅ…………」
霊夢の攻撃に、魔理沙は小さくなり、黙り込んでしまう。
体をフルフルと震えさせ、エプロンを握り締めて、魔理沙は顔を染めて俯いてしまう。
そんな態度を取ったら、まるで本当に霊夢が言ったみたいなことをしていると思われてしまう。
魔理沙が人形代わりの人形ごっこ自体はしたことはなかったが、ちょっと似たことがあったので、思い出すと恥ずかしく、思い切って否定できなかった。
「魔理沙そこで黙ったらダメなんじゃないの? 黙ったら――――全世界にアリスと魔理沙はお人形ごっこしてますって、喧伝してるもんじゃない」
「いや、喧伝はしてない。断じてないぜ。しかも全世界には絶対にありえないから」
似たようなことはあったが、それでもさすがに自分達を人形代わりの人形ごっこはしてなかったので、何とか霊夢に突っ込みを入れる。
「あら? 復活早いわね」
「そりゃ、実際に『人形ごっこ』、自体はやってないんだからな」
「でも、お着替えの部分の否定はしない、っと」
「うぐっ」
魔理沙の微妙な言い回しに反応して、霊夢は鋭く突っ込んでくる。
普段はのんびり屋の癖にこういう時だけは、やたらと反応が良すぎるのが霊夢なのだ。
「まっ、かわいそうか、こんなに言っちゃ。何しろ、秘密のいけない遊びなんだからねぇ」
魔理沙が黙り込んだのをいいことに、霊夢はさらに責め立ててくる。
「そうね。お互いを人形に見立てて、着せ替えっこしてるなんて、囃し立てちゃだめよね。秘密のいけない遊びなんだからね」
『いけない遊び』を連発され、魔理沙はぐぅの根も出なかった。
何しろアリスとそれっぽいことをしたのは事実だった。
アリスの家に遊びに行った時に、魔理沙がいっつも似たような白と黒の色合いのばっかりを着ているのを、アリスが見咎めて、いろんな服に着せ替えられた。
髪の毛もふわふわのクルクルにされて、パステルカラーのやら、お姫様っぽいのやら着せられて、アリスに『かわいい、かわいい』を連発されたりした。
魔理沙は思いっきり嫌がって見せたが、実際は満更でもなかった。
結構面白くって、いい気分だった。
でも、霊夢に突っ込まれてみると、魔理沙を人形に見立てたお人形ごっこで、すごく恥ずかしいことをしていた気がする。
「うわぁああああああっ」
あらためて思い返すと思いっきり恥ずかしく、とんでもないことをしていたことに魔理沙は気がついた。
着替えはほとんどアリスの手によってで、魔理沙は裸にされて、スカートも、シャツのボタンを留めるのもアリスがしてくれた。
薄い絹のストッキングを履かされた時などは、踵を持ち上げられ、足の裏にアリスの手の平が触れた状態で、布地を足先にくぐらされた。
下着一枚の状態で、髪に触れられ、熱したコテで型を付けられ、リボンを飾られた。
お人形ごっこの時のアリスの距離の近さや、耳元での声の調子や、手が触れたくすぐったい感触を思い返すと、とてつもなくエッチだった。
「何思い出してんの? エッチ」
「そ、エッチとか、そんなこと、ないぜ」
決め付けるように霊夢が言うが、魔理沙はそれどころではなく、頭を抱える。
煩悶する魔理沙に呆れたのか、霊夢が横でため息をつき、桃を齧っている。
魔理沙は黙って食べる霊夢の横で、アリスに着せ替えごっこされた感触を思い出していた。
体に感じるくすぐったさもそうだったが、胸の奥にあるものや、頭がぼーっとする感じも、全部が気持ちよかった気がした。
アリスとしたエッチなことは、とても恥ずかしく頭を思わず掻き毟ってしまうほどだったが、同時に何故だか魔理沙はニヤニヤとしてしまう。
「ねぇ、魔理沙。あんたって一体何がしたいのよ?」
霊夢の声に魔理沙ははっと我に返り、あわてて顔を引き締めた。
自分が黙り込んでいた時間はどれぐらいだか不明だが、変な笑い顔を霊夢にしっかりと見られてしまっていたようで、霊夢は冷たい声を出している。
魔理沙は何でもない風を装うことにして、霊夢が怒っているようなので、無難な方へと話を向けることにする。
「う~ん、そうだな。晩ご飯でもつくろうぜ、一緒にさぁ」
「そういうことじゃなくって」
「一緒にするの嫌なのか? ずるいぜ、霊夢はさ。なんだかんだ言って私におしつけるつもりだぜ?」
「じゃなくってよ。魔理沙、何やってんのってこと。アリスと遊んで、ニヤニヤ思い出し笑いするのが魔理沙のしたいことなの?」
「べ、べつにニヤニヤなんて……」
「してたわよ」
「し、してたかも知れないけど……。そんなに怒らなくてもいいじゃないか」
「別に怒ってないわよ」
「怒ってるぜ。霊夢がそんなに恐い顔してるの見たことないぜ」
「じゃあ、怒ってることにしてもいいわよ。魔理沙がそう言うならね。じゃ、私の質問に答えて。魔理沙はそもそも何がしたくて、一人で家を出てまで生きている訳?」
「そんなこと急に言われたってわかんないぜ」
今日の霊夢は何故だか、変だった。
魔理沙は霊夢とはつきあいは長いが、こういう真面目っぽい話はしたことがなかった。
「難しい動機なんて別にないぜ。ただ、魔法を使ってみたかった、それだけだぜ。今は普通に魔法使えるし、どうしたいとかって別にないぜ。それじゃダメか?」
本当は、魔理沙は先のことなんて考えたくなかった。
霊夢は……、霊夢は特別でこの先何があろうが、ずっと博麗霊夢のまま、今の霊夢のままでいることが出来る。
一方、魔理沙の未来には何の保証もない。
魔理沙が今付き合っている連中は皆人外で、特別な力を持っているし、寿命も魔理沙に比べたら全然長い。
ひょっとしたら魔理沙が年老いて死ぬ時が来たって、今の魔理沙が見ている姿形と全く変化がないかも知れない。
ひょっとしたら、――――――――ひょっとしたら数十年経っても、連中にしたら人間の数日と感覚が変わらず、姿形だけでなく、中身の性格も、ちょっとした行動すら、時間が経ってないみたいに変わってないことだってありえた。
魔理沙の人生の果てで、何も変わっていない、魔理沙の過ごした時間が意味がないみたいに、何の変化もない風景を突きつけられたら……、そう考えるととても恐かった。
「はぁ――――、普通って」
「普通じゃダメなのか? 普通の魔法使いになれるってだけで十分じゃないか。すごく楽しいし。魔法は楽しい。霊夢や他のみんなと遊ぶのも楽しい。どうして普通じゃダメなんだぜ?」
魔理沙が”普通の魔法使い”になるには、家や、その他いろいろを投げ捨てる覚悟と、霊夢には見せてはいないが努力が必要だった。
人間じゃない、いわゆる化け物連中と一緒に遊ぶには、普通にしがみ付くことだって、必死のことだった。
霊夢は何にも特別なこともせずに、自然のまま人外に混じることが出来る。
霊夢は”特別”だった。
”普通”の人間の魔理沙とは違った。
「普通、普通、普通、普通――――――、魔理沙って、普通って言葉を隠れ蓑にして、楽してるのね。すごくズルイわ」
「どうしてだよ、何処がズルイって言うんだよ? 私が普通の魔法使いになることが、何処が悪いんだよ」
「はぁ――――――、別に普通の魔法使いでも、問題はないわよ。普通って名乗るならそれでもいいわよ。でも、普通の魔法使いが、どうして私の、巫女の真似事みたいなことをしたりしてるの?」
「それは…………」
『霊夢みたいになりたいからだよ』――――よほど、魔理沙はそう言おうかと思った。
でも、霊夢の友達でいるのに、一緒にいるために霊夢の真似事をしていた、とは言えない。
霊夢は特別だから、何もしなくっても物事が全て相手のほうからやってくる。
トラブルも、好意も、友人も、何もかもが、霊夢が指一つ動かさなくっても、相手のほうから擦り寄ってきて、霊夢に視線を向けてもらいたがっている。
一方魔理沙のほうは、霊夢に相手してもらいたい連中に、無理矢理割り込んで、邪魔なことをして初めて構ってもらうことが出来るのだった。
巫女の真似事をして、トラブルに首を突っ込んで、魔理沙はようやく見てもらうことが出来るのだった。
「普通の魔法使いでいたいなら、魔理沙のやりたいことを、やりたいようにやればいいじゃない? どうして私のやらなければならないことに首を突っ込むのかなぁ? 魔理沙は魔理沙のやりたいことをする、私は私の仕事をする。それでいいじゃないの――――――――――正直――――――――――――魔理沙のこと、――――――邪魔――――、かも知れないわ……………」
「どうして私が邪魔なんだよ!!」
言おうか言うまいか、霊夢にしてはかなり迷ったのか、何度かつっかえつつ邪魔と言う言葉を吐き出した。
魔理沙としては、うすうすここ最近の霊夢の態度に変化を感じ始めていたので、言われてみれば納得と言う感じもしないではなかった。
それでも、やはりはっきりと邪魔と面と向かって言われてしまえば、冷静にいることはできなかった。
「ん~、ねぇ……、大体魔理沙の売りって何よ?」
霊夢の周りにはいろんな人間やら、妖怪やらがいた。
けれど一番仲がいいのは魔理沙のはずだった。
初めは、魔理沙は気がつかないふりをしていた。
昔は霊夢の周りには誰もいなくって、魔理沙しかいなかった。
それが段々と大きな事件が起こるごとに知り合いが増え、霊夢と魔理沙だけが一緒にいる、そういう機会は少しずつ減っていった。
霊夢が魔理沙と一緒に過ごす時間が少なくなったのも、霊夢は何しろ幻想郷で唯一の神社の巫女である訳だし、巫女の仕事が食い扶持である訳だから、年から年中魔理沙と遊んでいる訳にはいかない。
魔理沙だって一応は魔法使い業で生計を立てている訳だから、さすがに遊んでばかりいるとご飯が食べれなくなってしまう。
だから、霊夢と始終一緒にいなくっても何も不自然なことはないはずだった。
「私の売りってなんだよ? 私がいいたいのはそういうことじゃなくってさぁ……、どうして霊夢にとって私が邪魔なんだってことだよ。私達友達だったよな? 仲良しだったよな? どうして、急にそんなこと言い出すんだよぉ!!」
それでも魔理沙が、一番昔から霊夢を知っている。
霊夢の一番の仲良しは魔理沙でなくてはいけないはずだった。
もちろん霊夢と魔理沙がそう話し合って決めたことではないが、魔理沙の中ではそういうことになっていた。
何しろ霊夢が面白いヤツだと一番初めに気がついたのは魔理沙で、他の連中は魔理沙の真似をしていたけだったのだから。
「私が魔理沙に興味がないんだから、仕方ないじゃないんじゃないの?」
「そんな……、私と霊夢は一番の仲良しだっただろ?」
「でも、今は違う」
霊夢の言葉には全くと言っていいほど容赦がなく、魔理沙を傷つける。
「魔理沙はずっと変わらないのね。ずっと出会った頃のまま。そういうのを良し、とする人もいるかも知れないけど、私には退屈」
魔理沙は自分の顔が引き攣っているのがわかった。
「魔理沙が私に興味を持ってもらえる売りってなんなの? 魔理沙が私に一番に扱って欲しいって言うなら、そうなるだけの価値をまず見せて欲しいわね」
霊夢は青ざめて立ち尽くす魔理沙を見て、楽しそうだった。
霊夢は魔理沙を意図して傷つけている。
魔理沙が覚えている限り、魔理沙と霊夢がこういう風に言い合ったことなどなかったはずだった。
「私は元気だぜ」
「ふん?」
「好奇心いっぱいで、いろんなことに興味を持って、楽しいことをいっぱい考えられるんだぜ」
「ふっ」
「と、友達だっていっぱいいるし…………」
霊夢は何も言わずに口を歪めただけだった。
「魔法が使えるぜ。速く飛べるぜ。あ、う……、な、なんだったっけ、家事だって、掃除とかだって、出来るし……、さぁ…………」
自分で並べ上げながら、それらが霊夢にとっては価値がないものなんだろうと、魔理沙は思いつつ、だからと言って霊夢を惹きつけられるものは全く出せそうもなかった。
「全部、いらないわね」
「う……、ううぅ」
「どれ一つとして魔理沙が持っているものは、私にとって何の価値もない。むしろ魔理沙は邪魔」
容赦のない霊夢の宣告が魔理沙を貫いた。
この頃の霊夢の態度にひょっとしたらと言う疑念はあったが、改めて言葉にされるとつらかった。
「魔理沙、勝手に家に入り込んで食事作ったり、掃除してくれたりしてたみたいだけど、そういうのって本当に迷惑。あんたが私のためにって、思ったら思うほどすごく迷惑なの。つきまとわれてる感じが気持ち悪くってたまらない」
「そこまで…………?」
「そうよ。嫌いを越えて、気持ち悪いの」
「そんなに言わなくっても、いいじゃないかよ~…………」
魔理沙は完全に打ちのめされて、泣きたくてたまらないのに、媚びるような笑いを浮かべてしまう。
霊夢がそんな魔理沙の笑い顔を見て、苛立ちを募らせていっているのが分かっているのに、魔理沙はことさらに懐く犬のように振舞ってしまうのだった。
「その笑いかたっ」
今にも唾でも吐きかけてきそうなほど、霊夢は顔を歪めて魔理沙を睨みつける。
「えへへっ、冗談だよな? 霊夢、そうだよな? わ、私のこと嫌いな訳ないよな?」
「どうだっていいわ…………。とにかくもう此処には来ないで? いい?」
「いや、私は霊夢のところに何度だって来るんだ。絶対に遊びにくるから」
「魔理沙……、あんたねぇ。そんな態度が私をむかつかせるんだって。本気でいらだってくるわ。むかつく」
「なぁ霊夢。今日は何が食べたい? 霊夢の食べたいもの、つくってやるからさぁ。機嫌直せよぉ…………」
すがりつくように伸ばした魔理沙の手を、霊夢は殴りつけ、近寄ろうとする魔理沙の脛を蹴りつける。
「消えてよ。あんたの顔なんて見たくないんだから。消えないんだったら、力ずくで追い出すだけよ」
「霊夢が怒るようなことをきっと私がしたんだな。だから霊夢は怒ってるんだな。ごめんようぉ、霊夢ゆるしてよ」
「嫌っ、気持ち悪い、懐くみたいな笑い方するなっ」
霊夢は激高している。
歯を剥き出して怒っている。
にもかかわらず魔理沙は霊夢の態度にわざとらしさを感じてしまう。
霊夢の言葉は長い付き合いから本気なのだと分かるし、魔理沙に霊夢が苛立っていることも目つきから見て取ることが出来る。
霊夢の怒り方はわざとらしい。
何か意味があって怒っている。
魔理沙は、それは理解しているし、きっと霊夢は真面目な話がしたいと思っていることもわかっている。
霊夢の怒りは魔理沙に対する問いかけで、きちんと答えることで魔理沙と霊夢はもっと違った関係になれるかも知れない。
でも今の魔理沙には霊夢の投げかけてくる漠然とした問いに、答える術を持ってはいない。
未来の、大人に近付いていく自分達について話すことは、魔理沙には恐いことにしか思えない。
「わかった、アリスだな? 私がアリスと仲がいいから怒ってるんだぜ? ふふ、でも安心していいぜ、なんて言ってもアリスは私よりもずっと霊夢の――――――――――」
だから魔理沙はいつものように道化を演じてしまう。
へらへらと笑って、深刻な話を、意味のない笑い話に変えてみせる。
道化を演じていれば、いつも周りは魔理沙のペースに合せてくれる、今まではずっとそうだった。
「魔理沙……っ、いいかげんにっ」
霊夢は思わずと言った感じに立ち上がり、魔理沙に足を向けて踏み出した。
怒鳴らず、呻くように腹の底から漏れ出た声は、霊夢がどれだけ苛立っているのかを示していた。
魔理沙は霊夢が恐くなり、喉の奥がひくつくのが分かった。
霊夢は、本気で魔理沙に対して怒っている。
「ひっ、に、にらむなよ……、わかったよ。かえるよ。でも、霊夢が嫌いだって言っても、私は霊夢のこと気に入ってるからな。絶対にあきらめないからな。霊夢がダメだって言っても、また絶対に来てやるからなっ」
「あっ、そう」
最後の霊夢の返事は気のないものだった。
先ほどまでの怒りの表情は消えうせ、まるで何事もなかったような顔をしている。
今は平静に見えても、霊夢は本気だった。
わざとらしくても、本気で怒っていた。
本気の霊夢は恐くて、魔理沙はどうしようもなく足が震え、目の前が真っ暗になり、どこまでも落ちていくような浮遊感に、頭がくらくらした。
「じゃあ、またな霊夢っ」
眩暈がして、霊夢の発した言葉に絶望を感じ、今すぐにでも消えてしまいたいと思いながらも、魔理沙は歯をにっと剥き出しに元気に笑ってみせた。
それが、皆が”魔理沙”と思う、魔理沙の姿だったから。
3.アリス
「よく来たわね。もう~、何? どうしてそんな所で立ち止まってるのよ。早く座りなさいよ」
霊夢を前にして立ちすくむアリスを、霊夢は強引に手を握り隣に座らせる。
縁側を庭に向かって、二人で並んで座る。
霊夢の右側が、アリスが博麗神社に遊びに来たときに定位置で、霊夢を挟んだ反対側に魔理沙がいつも座っていた。
博麗神社で遊ぶ時はいつも三人でだった。
魔理沙がおらず、アリスが一人で霊夢のところに来るのは初めてだった。
「桃があるのよ、桃が。食べる? 食べるわよね?」
霊夢はアリスが魔理沙と一緒に尋ねて来なかったことには、何ら不審は抱いておらず、むしろ普段よりも上機嫌にアリスには見えた。
「いや~ね~。あいつ自身はあんまり遊びに来てくれてもね~、って感じなんだけど。この桃だけはいいのよ」
桃の出所である、比那名居天子について語りながら、霊夢はわざとらしく眉を顰めてみせる。
「この桃のためだったら、遊びに来るのは大歓迎よね? ね、アリスだってお裾分けもらえる訳だし」
「ええ、そうね……」
アリスは口ごもる。
そんな時にはたいてい魔理沙が割って入り、話の接ぎ穂を作ってくれたものだった。
でも、今日は、魔理沙は居てはくれない。
「いい天気ね」
正直、空は曇天で、到底いい天気とは言えないような雲行きだった。
ただ、アリスは何かを言わずにはいられず、口にしただけだった。
「ん、すごく雲ってるわよ。アリス的にはジメジメした雰囲気のほうがいい天気だったり――――――――、って嘘、嘘。イジワル言っちゃいけないわよね。はい、剥けたわ。食べてね」
「うん」
皿にのせた桃に、櫛を刺して霊夢はアリスに渡してくれる。
気分ではないが、口にしてみると桃は瑞々しく、甘い汁が果肉から溢れてくる。
十分に熟した白桃は、昨晩から何も食べていなかったアリスの体を満たしてくれる。
つるりとした喉越しの良さと果汁が、食欲が無かったはずなのに、あっという間に出された一皿を平らげさせた。
「おいしかった?」
「うん、とっても。うん……、本当に、信じられないぐらいよかったわ。こんなにおいしい果物たべたのって初めてかも」
「そうでしょ。よかったわ。アリスがおいしいって言ってくれたことも良かったけど、私だけが一人でこの桃おいしいって言ってる訳じゃないってことが証明されたのが、もう一つよかったことね」
「うん」
どうして、食べておいしく感じるのかと、アリスは恨めしく思う。
つらくて何も喉を通らないはずだったのに、おいしい物を出されただけで、体は簡単に受け入れてしまう。
いっそ、心のままに、何も食べれなくなってしまったほうが良かったのに。
「今日はどうしたの? めずらしいわね、アリスが一人でなんて。たいてい魔理沙と一緒なのにね」
「うん」
「まぁ、大体は想像がつくわ。魔理沙とケンカしちゃった? そうでしょ?」
「ええっと」
「わかるわ。うん、うん。魔理沙って落ち着き無いところがあるから、大方アリスの言うことなんか聞かないで、こうアリスの我慢にならないところに触れちゃった? どう、あたり? あたりでしょ?」
「…………」
「あんた達もたいがい仲がいいと言うか、悪いと言うか、しょっちゅうケンカしてるわよね。実のところ私も魔理沙には時々腹に据えかねるところがあったりするから、アリスの気持ちはわかるわ」
「違うのっ。今日一人で来たのは、霊夢に話があったからなの…………よ」
魔理沙のことを持ち出され、思わず抑えていた感情がほとばしり、アリスは大声を出してしまう。
「ケンカ……、したんじゃ……、ないのよ…………」
思わぬ感情の爆発が過ぎると、アリスの勢いは尻すぼみになる。
めったに見ないアリスの極端とも言える反応に、霊夢も驚いているようだった。
「う、ふぅ……ん、そうなんだ。私てっきり……。ごめんね」
霊夢が、アリスが一人で来たことを不思議に思ってくれていたのには、少しうれしかった。
霊夢はアリスのことを一応は気にかけてくれている。
魔理沙がいないことにも、ちゃんと気がついてくれている。
そのことを思い出し、アリスの胸が痛みに震える。
「あの……」
沈黙を保ったまま、アリスが話すのを待ち構える霊夢を前に、ようやくアリスは覚悟を決めて口を開く。
「あのね…………」
まるで霊夢に愛を告白でもするようなシュチュエーションだと思った。
もし、アリスが実際に霊夢に好きだと伝えるならば、こんな風に思わせぶりに、でも中々言い出せないような、そんな風になるだろう。
「きのう魔理沙に会ったの」
魔理沙のことを思い出し、アリスは語り始める。
「家に帰る途中だったのかしら? 森の真ん中で会ったのよ。何処に行ってたのかって聞いたら、博麗神社って答えるから、どうして私も連れて行かなかったのって怒ったの」
なんとなくだが週に一度は、アリスと魔理沙は顔をあわせるのが習慣みたいになっていた。
特に決めた訳でもないのだが、週の真ん中の日が、二人が顔を見せ合う日だった。
前回は魔理沙がアリスの家に来たので、その日は交代にアリスが魔理沙のところに向かう番だった。
「いつもだったら私が怒ったりしたら、魔理沙はこれでもかってぐらいに喜んで、馬鹿みたいに私のことからかってくるのに、その日に限ってすごく殊勝で、大人しくあやまってきたの」
帽子を目深にかぶり、アリスとは目線も合わせず、俯いたまま魔理沙はぼそぼそと喋った。
「あんまり素直すぎるものだから、私、何かたくらんでるんでしょ? って言ったわ」
魔理沙と一緒に霊夢のところに遊びに行くことを、すごく楽しみにしているのを知っているはずなのに、アリスのことを無視して置き去りにしてしまったことに、アリスはすごく腹を立てていた。
だから普段とは違う魔理沙の態度にも、あまり疑問を持つこともなく、アリスは一人で怒ったままだった。
「普段の魔理沙を知っているなら、そう思うのも仕方ないわよね? 魔理沙ったら、いたずらとか、そういうのがすごく大好きで、まるで小さな子供みたいだったんだもの。何かあると、すぐに悪巧みばっかりしてた」
アリスは魔理沙のことを思い出す。
「でも、どこかそんなところが憎めなかったのよね……」
目深に被った帽子を怒ってアリスが引き上げると、現れた魔理沙の顔はアリスの予想とは違うものだった。
ぼーっとして目線がどこを見ているのか分からない感じで、まるで目の前にあるものが信じられず、夢の中にでもいる、そんな印象をアリスは受けたのだった。
「実際のところは、悪巧みとかじゃなくって、魔理沙は体調が悪かったのね……たぶん」
魔理沙が体を悪くする。
そんなことをアリスは想像したことなどなかったのだった。
「ううん、はっきりとおかしかったのね。頬を真っ赤にして、目が潤んだみたいになってて、顔がむくんでいた気がする」
そういう大人しい魔理沙もかわいいものだな、と場違いなことを思ったことをアリスは覚えている。
「うん、風邪かなんかだと思ったの。魔理沙が風邪なんかひくんだって、ちょっとぽかんとしちゃって……。私、そんなこと気がつかないで怒った後だったから、居心地が悪くって、『ちゃんと体は大事にしなきゃダメじゃないの』とかそんなことだけ言ってほうったらかしにしちゃって」
家にくっついていって、看病したほうがいいんじゃないか?
アリスの家に無理にでも連れて帰って、面倒見たほうがいいんじゃないか?
アリスは魔理沙の様子に、そう思った。
でも、具合の悪そうな魔理沙にあれこれ世話を焼く自分をアリスは思い浮かべたが、なんとなく博麗神社の件で置いて行かれたことへの拗ねと、魔理沙の面倒を見る気恥ずかしさが躊躇となって、そのまま大人しく立ち去る魔理沙をただ見送るだけだった。
「そのときにおかしいって思ったら、よかったの」
もちろんアリスも魔理沙のことが心配だったし、そのまま放っておくつもりなどなかった。
だから一晩だけ様子見のつもりで、その日は魔理沙の家に行かなかった。
「ごめんなさいっ、霊夢っ、わたしっ、おかしいとは思ったの。思ったから、ちゃんと次の日、起きたらすぐに、魔理沙の家に行ったの。本当に、すぐに行ったのよっ、でもっ」
アリスの目から涙が流れ出す。
霊夢にちゃんと言わなければとアリスは思うが、言葉は一向に続かずに、嗚咽だけが溢れてくる。
「ううううっ、ひっく、ううっ、ま、まりさぁ。魔理沙ね、動かなくなってたの。もう…………。あああっ、ああっ、ほ、ほんとうに、ごめんなさい、霊夢っ」
散々、泣いたはずなのに、涙は止らなかった。
「ま、魔理沙、本当に眠ってるみたいで、すぐに、でもっ、動き出しそうで、冗談だと思った、冗談だとおもったのよぉっ」
だが、アリスの口から吐き出した言葉と、実際に起こったことは全く違っていた。
あわてて来たためアリスの息は上がったままで、ドアのノックも申し訳程度で返事も待たずに、勝手に家にアリスは上がりこんだ。
昨日のあからさまなまでに元気のなかった魔理沙の様子は、アリスにとっては心配のたねで、細かい礼儀なんて構っていられなかった。
心配でたまらなかったにも係わらず、一晩のこととは言え魔理沙を放置してしまったことに、既にアリスは後悔を感じ始めていた。
魔理沙の名を呼びながら、アリスは建物の中に入り込み、魔理沙がいつも寝転がっている居間へと向かった。
魔理沙の家は小さいながらも、ちゃんと寝室や、書庫や、魔法の勉強のための部屋が供えられている。
なのに、魔理沙は結局便利だからと、居間に怪しげな収集物や、魔術書、実験道具を置き、その隙間で食事をして、ソファーで寝るような生活をしていた。
まさか人を心配させるほどの不調を見せながら、いつもの場所にはいないだろう。
アリスは思いながらも、足を真っ直ぐに居間へと向けた。
「魔理沙?」
首だけ部屋の中へ伸ばすようにして、アリスが居間の中を見てみると、定位置のソファーの上に魔理沙の姿は見えなかった。
病気にもかかわらずソファーに寝転がって、ウンウンと唸ってやしないだろうか、との疑念もあっただけに、魔理沙がいなかったことにアリスは胸を撫で下ろした。
魔理沙なだけに、どんな行動をとったものだか知れたものではないだけに、大人しく寝室で休んでいるようなので、本気で一安心だった。
「もうっ、心配かけさせるんだから」
ほっとしたことで、いつもの憎まれ口を叩ける余裕も生まれてくる。
「ほんっと人の気もしらないで、迷惑ばっかりかけて。罰として、ここの部屋を綺麗に掃除してあげようかしら?」
もちろん、そんなことは魔理沙にとってはありがた迷惑で、アリスに整理整頓されてしまった部屋を見た魔理沙がどんな顔をするのか想像して、一人噴き出した。
服は脱ぎっぱなしで椅子の背に引っ掛けられ、机の上には何やら薬っぽいものを調合するための薬研があり、すぐ横にかわいらしい柄の茶碗が並び、積み上げた魔術書の上に植木鉢が載ってたりしている。
風邪薬を作りでもしたのか、今日の机の上はいつもよりも混沌としていて、物と物の隙間に薬草やら、乾燥させた木の根や、丸薬、菌糸類がごちゃごちゃに並んでいるのが、常とは少しだけ違うところだった。
「でも、私のあげたお人形だけはちゃんと扱ってくれているみたいね。本当だったら、もっとちゃんとしないといけないじゃないの、って説教するんだけど、こういう風にされると……、怒れないじゃないのよ」
アリスの視線の先には、仲良く肩をくっつけあう人形達がいた。
寝床代わりのソファーの魔理沙の頭がくる場所に、魔理沙人形とアリス人形が手を繋いで、座っていた。
アリスとしては、ここはコレクションの中からこれぞと言うものをカスタムして作りたかったのだが、残念なことに魔理沙はビスクドールが恐いらしかった。
グラスアイの虹彩の作り出す模様の美しさ、一つ一つに微妙な違いがあり、偶然も左右して同じものは一つとして存在しない面白さ、虹彩に現れるグラデーションは覗き込む角度で色が変わり、まるで万華鏡のようで、いくら見ていても見飽きることはない。
そういったことを魔理沙にも知って欲しく、アリスのよろこびを共有して欲しかったのだが、魔理沙は『目が恐い、どこに行っても私のことみてるぜ?』、とただひたすら不気味がるだけだった。
黒目の部位が小さく、奥目がちになると、グラスアイの表面がドーム形になっていることから、正面以外から人形を見ても、視線が追いかけてくるように見えることがある。
「グラスアイは追視があるからいいんじゃないの」
と、人形のことになると夢中になってしまうアリスは、魔理沙とのやりとりを思い出し、愚痴った。
「ま、魔理沙にはお似合いよね。なにしろお子様なんだもん」
フェルトを使って手縫いで作られた、かわいらしいぬいぐるみ。
ふわふわとした触感で、抱きしめると気持ちがいいのか、よく魔理沙は抱っこし、ソファーに寝転がっていたものだった。
「ふふっ、抱っこしたら気持ちいいって、ほんとにお子様よね。そういうところが可愛いんだけどね」
言いながらも魔理沙のそういう様子を思い出すと、アリスは思わず笑みを浮かべてしまう。
他のみんなは魔理沙とアリスの関係をどう思っているのかは知らないが、アリスにしてみれば魔理沙は妹みたいなものだった。
お子様の癖に生意気な口を利いて、何かにつけ無理して背伸びして、何でもない風な顔を見せながら人に負けまいと一生懸命になっている。
そんな子供っぽいところが、アリスにとってはかわいくて、かわいくて仕方なかった。
可愛い妹みたいな魔理沙と一緒に遊ぶだけで、本当に楽しかった。
あれこれ文句とつけて、世話を焼くことも楽しかった。
「っと、おかしいわね、霊夢がいないわ」
自分で考えたことに照れて、まるで誰かに見られてでもしている様に、アリスはあわてて真面目な顔をする。
アリスが魔理沙にあげたぬいぐるみは三体で、アリスと魔理沙、そして霊夢だった。
三体はいつも一緒に並べてあって、博麗神社で座るみたいに、霊夢を中心に魔理沙とアリスが挟んで並んでいた。
その霊夢が今日は見当たらなかった。
「もう霊夢だけ連れて行ったのね。ちゃんとアリスもつれていきなさいよ」
一人愚痴りながら部屋の中へとソファに向かってアリスは足を進めた。
アリスと魔理沙のお人形を、魔理沙の元へ持っていってやり、おきざりなんて酷いと文句を言ってやるつもりだった。
そんなに怒ってはいないが、なんとなくそういう態度を取るほうが、楽に魔理沙と顔を合わせられそうだったからだ。
「っと……?」
自分を象った人形にアリスが手を伸ばそうとした時、やわらかいものを踏んづけた気がした。
アリスの靴の下には紅白の衣装を着た、ぬいぐるみが転がっていた。
「え、うそ。…………うそ、よね……」
霊夢の形をしたちいさなぬいぐるみをつかもうと、伸びた手がその隣に転がっていた。
開いたまま視線の定まらない目に、紙のように真っ白な肌、床にこびり付いた吐瀉物。
「うそ、嫌、嫌、嫌」
アリスは後退る。
傍に駆け寄ってきちんと様子を見ないといけない、そう思うのに体は硬直して、勝手に距離を取ろうとしてしまう。
テーブルとソファーのほんの僅かな隙間に魔理沙は転がっていた。
瞼が垂れ下がっているのに、目は完全に閉じきらず、何処を見ているのか分からない瞳は、黒目だけが嫌に目立ち、まるで牛みたいな目だった。
口も弛緩してしまったのか、ぽかんと驚いた時の形で、薄く開いた唇の奥に舌が見える。
肌は一晩過ぎたせいか、血の色が完全に消え、真っ白だった。
肌の白い人間とかそういう、人の息吹を感じさせる白さではなく、本当に白く、紙のように白かった。
「ああああ、あああ、あああ」
『気持ち悪い』
アリスはまず、そう思った。
弛緩して、間延びした表情は、生きていた時の魔理沙を全く感じさせず、ただ生理的な嫌悪だけを感じさせた。
魔理沙のことが大好きだったはずなのに、あんなに心配していたはずなのに、せめて駆け寄って触れてあげるべきなのに、アリスの心に湧き起こる情動は、嫌悪と恐怖だけだった。
苦しそうな顔ではなく、ぽかんとしたままの呆けた表情というのが、アリスに生々しく死という物を感じさせた。
触れたらおぞましい死が感染して来るような、そういう不気味さを魔理沙の姿にアリスは感じてしまったのだった。
「ああああああああ」
気持ち悪くて、魔理沙の姿が気持ち悪くてたまらず、アリスは部屋から逃げ出した。
何度も、何度も、後ろを振り向いて、恐怖に縮こまりながら、アリスは魔理沙の家から走って逃げたのだった。
「魔理沙が死んだって?」
「…………ええ」
「そう……なんだ。魔理沙が…………」
「うん、私が行ったらもう、冷たくなってて……」
『魔理沙の様子がおかしくて、動かなくって、床の上にいて、目が開いたままで全然動かないの』
香霖堂に駆け込み、アリスが何とかそれだけを口にすると、
『ありがとう、よく知らせてくれたね』
ほんの一瞬目を閉じ、息を止めたが、香霖堂の店主は静かに笑みさえ作って、アリスに言った。
善意ではなく、ただの押し付けだったが、香霖堂の店主はアリスを責める様子も見せず、むしろ気遣ってくれた。
『あとのことは気にしなくていいからね』
よほどアリスの態度が異常だったのか、細かいことは問うこともせずに、全てを片付けてくれたようだった。
「ごめんなさい、霊夢」
「どうしてアリスがあやまるの?」
「だって……、だって」
ただ、霊夢にだけは、自分が伝えないといけない。
魔理沙のことは気持ち悪くて、恐くて放り出してしまったが、霊夢にだけはきちんと自分で伝えたいと思い、嫌で堪らなかったがなんとか伝えることができた。
ただ、それでも魔理沙の死体を見たときに感じたことだけは、口にすることが出来ずに嘘をついている。
「泣かないで。アリスが泣くことないのよ」
「だって、だって、ごめんなさい、ごめんなさい。霊夢」
しくしくとアリスは泣き続けた。
涙が出たのは、家に辿り着き、余裕が出てからだった。
恐さとショックが消えて初めて、魔理沙のことが可哀想だと思った。
「だって、私が、もっとしっかりしていたら」
「アリスのせいじゃないわ。アリスのせいではないのよ。……ね、だから泣かないでいいのよ」
「でも、でも」
「気にしなくていいのよ。自分の責任だなんて、ね」
「だって、魔理沙が、魔理沙がぁ」
霊夢が横を向く。
霊夢を挟んだ向こう側、魔理沙がいつも座っていた場所だった。
今は誰もいない。
何でもない霊夢の動作に、ようやくアリスは魔理沙に二度と会えないのだと、魔理沙が死んだことの意味を理解した。
「ああああああああああぁ、魔理沙――――――――――っ。魔理沙、魔理沙、魔理沙――――――――――――」
魔理沙を失ってしまったことが急に実感として胸に迫って来て、アリスはたまらずに慟哭し、魔理沙の名を叫んだ。
4.咲夜
「ぷっ」
「なによ」
「なんでもないわよ? なんでも」
ようやく平静を取り戻した咲夜に、霊夢が訳知り顔でニンマリと笑う。
「いやいや、やっぱり出不精はダメね。たまには自分から出かけてみるもんだわ」
咲夜の元を尋ねて来てくれた霊夢に紅茶を出すが、いつものようには上手くいかず、ソーサーを支える手が抑えることが出来ずに震えてしまう。
「ぷっ、くっ、ぷくくっ、あはっ、ご、ごめん、咲夜、ダメ、私、ダメ、ぷくくっ、あははっ、わらっちゃう、私、わらっちゃう、あははははははっ――――――――――――」
霊夢が堪えきれなくなったのか、笑いを炸裂させる。
「もうっ、霊夢、散々私のことを苛めたじゃないの。ねぇ、つらいの、お願いだから、これ以上苛めないでよ」
久々に遊びに来た霊夢は、咲夜の顔を見て大爆笑している。
とんでもなく失礼な話だったが、それでも咲夜は霊夢の前で、羞恥に顔を赤らめることしかできない。
何故なら、霊夢は知ってしまった側で、咲夜は知られてしまった側だったからだ。
「ごめん、ごめん、本気でごめん。あやまるわ。でも、ね。だって、咲夜が、あんな咲夜が、思い出したら、ぷっ」
「もう、霊夢、やめて。いくら霊夢でも本気で怒るわよ」
「ふふっ、咲夜のこと元々好きだけど、もっと好きになっちゃったかな?」
「なっ、ちょっ、霊夢っ?」
「もちろん、友達としてよ? どうしたの? 真っ赤だった顔がさらに赤くなったかな?」
「いや、もうっ、お願いだから、そんな風に見詰めないでよ。 もうっ」
咲夜が両手を火照った頬にあてると、手の平は確かに熱かった。
おそらく咲夜の顔は霊夢の言うとおり真っ赤になっているようだった。
現在、紅魔館では、子供っぽい遊びが大流行になっていたのだった。
以前にはなかったことだが、世間が平和になり、人里との交流も普通なものになると、紅魔館に住まうものの中にも、自然と里に足を向けるものもでてくる。
その『交流』の結果、紅魔館にもたらされたものは、人間の子供の遊びだった。
妖精メイドの内の幼いものが、里に行った時に人間の子供と遊んだりして教えてもらったのだろうか、いつの間にやら、メイドの間で流行り始めたのだった。
鬼ごっこやら、かくれんぼやら、石蹴りやら、本当に普通の子供がするような遊びだったが、今までに体験したことのないものだっただけに、あっと言う間に皆が夢中になった。
もちろん咲夜も夢中になったひとりで、遊んでいるところをよりにもよって霊夢に見られてしまったのだった。
「えーと、どこから?」
「どこから見てたと思うの?」
咲夜の質問に、霊夢は質問で答えてきた。
咲夜はかくれんぼの時に木の枝に登っている最中を、霊夢に見られてしまっていた。
木登りしている姿を見られた時点でかなり恥ずかしいことだったが、それ以前となるともっと恥ずかしいことをしていたはずだった。
「どこから見てたと思う?」
「えっと、えーっと、かくれんぼする鬼を決めるのに、じゃんけん、とかしてたあたりとか?」
「うーん、確かにそれは見てたわね~。メイドの中でも咲夜の笑い声が一番大きかったような気がするわ」
「鬼、ごっことか?」
「うん、見た見た。咲夜、すごく元気だったわね」
「私が鬼の時は?」
「ぷっ、あれね。くくくっ」
「もう、お願いだから笑わないでよ」
正直なところ、子供の遊びに一番夢中になっていたのは、何といっても咲夜だった。
妖精達にとっては人間の子供の遊びは新鮮で、ちょっとしたブームに過ぎないものだった。
でも、人間でありながらそういう遊びをしたことのない咲夜にとっては、流行とかそういうものではなかった。
ひょっとしたら環境が違えば咲夜が過ごせたかもしれない子供時代を、大きくなってからなぞるもので、遊んでいるだけでまるで別の人間に生まれ変わったみたいだった。
ただ走り回って、追いかけあっているだけで、色々な咲夜を自分で縛っているものを忘れられた。
過去のこと、メイド長の立場、人外のものの間でしか生きられない自分という存在。
そういう普段は表層では意識していないものの、心の奥深くでは常に気にかけているような自分を縛っているものを、完全に放り投げてしまえた。
理屈も何も捨てて、ただの子供の咲夜になっていた。
長身で、すらりとした体をして、大人っぽい雰囲気の咲夜が、幼い容姿の妖精メイド達に混じりあって鬼ごっこをするのは、傍からみればちょっと変な風に見えたかもしれない。
でも、咲夜はそんなことを気にかけず、大口を開けて笑い、はしゃいでいた。
鬼ごっこの時はスカートの裾が捲れて、艶めかしいストッキングで包んだ足が露出するのも、ガーターベルトさえ見えてしまっているのも無視して、ぴょんぴょんと跳ねまわった。
「まぁ、最初から全部見せてもらったわよ。くっくっくっ、かな~り、たっぷりと咲夜の恥ずかしい姿をね~」
「そうなの……」
子供みたいにはしゃぎ回る姿は全部霊夢に見られてしまったようだった。
鬼ごっこの時に捕まえた子を抱きしめて、頬擦りとかしていたところも見られてしまったようだった。
「まぁ、そんなに気をおとさないでよ。私、ああいう咲夜のこと、かわいくって好きって思ったわよ」
「霊夢、そうは言うけど、やっぱり見られてたらすごく恥ずかしいものよ。だって、私だって私の外見で、あんな風だったら、変だと思うから……」
「ふぅ――――――――、咲夜も面倒くさい性格ね。私はそういうところも好きだけどね」
「もうっ」
「ふふっ、私はいいと思うんだけどなぁ。まっ、本当のことを言ったら、少し妬けたかな? 私といるときはあんな開けっぴろげな顔をしてくれたことはないものね。やっぱりお屋敷の人は身内だからかしら?」
「そんなことないわよ。霊夢と一緒にいるのも好きよ。でもなんというか、のんびりしてしまうのよね」
霊夢と一緒に過ごす時間も、それはそれで貴重なものだと咲夜は思っている。
ただ、あんまりにもリラックス出来すぎてしまうから、霊夢との時間はあっと言う間に過ぎてしまうので、傍目からは咲夜が大切にしているとは見てもらえないかも知れない。
「あははっ、そうよね、私達だけで一緒にいるとすごくのんびりで、ほわーっと過ぎちゃうものね。あははっ、確かにそうだわ。うんうん、茶飲み友達みたいなものね」
「茶飲み友達って、おじいさんとか、おばあさんとかのあれかしら?」
「嫌かしら?」
「ふふっ、何だかうれいしわ。私達にぴったりね」
「そう、よかった」
咲夜がのんびり気分になってしまうのは、霊夢がもっている空気のせいだった。
咲夜は、それは霊夢の包容力だと思っている。
みんな霊夢の包容力に引寄せられて、ついつい霊夢の元に足を運んでしまうのだ。
どちらかと言えば見た目ははるかに咲夜のほうが年上なのだが、咲夜は密かに霊夢にお姉さんっぽい雰囲気を感じている。
だから今日みたいに霊夢には平気で照れたりすることができる。
霊夢は気がついていないみたいだったが、実はいろんなところで咲夜は霊夢に甘えてみたりもしている。
「ふぅ――――と、ところで……ね。えーっと、今日はね」
「今日は?」
「ちょっと咲夜、そんなに身を乗り出して聞かないでよ。なんだか話し難いじゃないのよ」
「あら、ごめんなさいね」
霊夢が急に真面目な顔をするものだから、咲夜は我知らず、霊夢のほうへ体を寄せていたみたいだった。
「まぁ、何? たいしたことじゃないのよね。最近、咲夜、家に遊びに来てくれないなぁ――――――ってね」
霊夢はちらりと咲夜を一旦見てから、目をそらした。
「私のこと嫌いになった、のかな?」」
「そんなことない、そんなこと絶対にあるはずないから」
と、あまりに大げさすぎる否定で、自分の内心をさらけ出したみたいで、咲夜は恥ずかしくなり、あわてて目をそらした。
「まぁ、そんなわけで、出不精の私がわざわざ足を運んでしまったり、とかね。あははっ」
咲夜の必死な態度に思うところがあったのか、霊夢の声にあった緊張が若干和らいだようだった。
「でも、冗談は抜きで最近神社に来なくなったわね。一時は気が付いたらいっつも咲夜がいて、まるで神社に住んでるのかって言うぐらいだったのに。何かあったり……とか?」
「…………」
咲夜は答えていいものかどうか、迷った。
霊夢のことが嫌いになったわけじゃない。
神社にいるときの、雰囲気も好きだった。
群れ集まる人以外の者達も好きだと思う。
「咲夜?」
「ごめんなさいね。うん、私ね、霊夢。やっぱり足が遠くなっていたみたいね。正直、何が嫌と言う訳ではないのよ。霊夢や、神社の雰囲気は好きよ」
「ここの、紅魔館の人といるほうが今はいいってことかな?」
「そうなってしまうの、かしら、ね。うん、結果的にそうだと思う」
目の前で霊夢からはっきり問われてしまうと、咲夜が無意識に行動していた意味が、なんとなく明らかになってくる気がした。
「そう、霊夢も、神社も、そこで起きる色々の事件も全部すごく楽しかったわ。夢中になったわ。もう、面白くって、面白くって、四六時中それしか考えてなかったくらいに。どんなことが起きるのかな? どんな人がくるのかなって。もう本当に夢中でそればっかりだったの」
「でも、咲夜の言葉は過去を語るものなのね」
「特に弾幕ごっこ。次はあれをしようって、本当にそれしか、それ以外はみんなつまらなく感じる。それぐらい大好きだったのよ。今でも好きよ。でも、それ以外は全然何もってほどじゃなくなったわ」
「どうしてなの?」
「ふぅ――――――――――、少し前の私の位置に他の人がいるから」
霊夢も咲夜の本音の吐露にショックを受けたのか、黙り込む。
咲夜も言いたくはなかったが、霊夢に嘘をつくのはもっと嫌だったので、あえて本当のことを言った。
「新しい人がくると、みんな霊夢になりたがるのよ。私も含めてね。霊夢の周りにいる人との関係が出来ていくのも楽しいし、何より遊ぶことが面白くって仕方ない感じ。そういうの初めは私しかいなかったわよね? レミリアお嬢様の起こした事件が一番初めで、そこから霊夢にくっつくようになったんだもの。でも、後から来る人がみんな、同じように夢中になっていくのを見て、私だけじゃなかったって、思ってしまったの」
「そう、なんだ」
「はっきりとは意識してなかったわ。神社に遊びに行った時に、あっ、新しく来た人だって思って、その振る舞いを見てると、すごく寂しかった。まるで自分の居場所を取られてしまったみたいに」
「そんなことないのに、咲夜は咲夜で遊びに来てくれるとうれしいのに」
「それでも、そう思っちゃったのよ。その居場所は自分一人のものじゃないのに、他の人をズルイって思ってしまったの。そうしたら、ちょっと冷めてしまった部分があるのよ」
「ねぇ、魔理沙とかも、そういう風に感じたりしたのかしらね?」
「魔理沙と私は違うから、断言はできないけど、やっぱり少しはそう思ったりするんじゃないかしら?」
「やっぱり、そうなのかなぁ?」
霊夢にはめずらしく、肩を落として寂しそうにつぶやいた。
「ねぇ、霊夢。覚えている? 紅霧異変のことを」
「もちろんよ、あのルールを使って、初めての異変だもの。忘れるわけないわよ。咲夜ともあれで仲良くなったんだもの」
「ふふっ、知ってるかしら? 私、あの時ルールは守ってたけど、霊夢のことなんて死んでもいいって思ってやってたの」
「あれ? そうだったの?」
霊夢はのん気なものだった。
咲夜の吐き出した感情には、すごく寂しげな顔をしたのに、殺す気で戦ったことは別に当たり前という顔をする。
自分の生き死よりも、周りの感情のほうが、霊夢にとっては重要なことのようだった。
割合と何事にも頓着しない風のイメージが、霊夢に対してあっただけに、咲夜には以外な気がした。
「うん。お遊びだけど、遊びだからこそお嬢様は結構本気で、幻想郷を霧で覆いつくすつもりだったわ。勝つつもりだったわ。やる以上は」
「そんなのあたりまえよ。だから面白いんじゃないのよ。ルールを作ったって意味は、ルールを違反しなけりゃ、何したっていいってことだもの」
「霊夢はそんな風に考えてたの?」
「まあね」
「ふふっ、これじゃ負けるはずね。正義の味方のほうが、悪者よりも悪に寛容なんだから」
「なによぉ、それ」
咲夜は霊夢という存在の、本質の一部に少し触れられた気がした。
なにごとにも無頓着な風でいながら、ある瞬間には無邪気に物事に夢中になれる。
とてつもなく、冷たいと感じてしまうほどドライに対処しながら、以外なところで感情的になったりする。
霊夢の中ではきっと線引きがはっきりとしているのだろう。
規則を作ってしまえば、それを守る限りはどう使うかとか、どう解釈するかは受け取る側の事情を優先して、作った側は文言に現した以上は過度に干渉しない。
規則に意図があっても、意図を裏切る行動を取られても、ルールを守っていれば問題じゃない。
ある意味、受け取る側のほうが正しい。
極論だが、霊夢の中では、そういう風に思考が動いているのだろう。
徹底的なほどの受容性。
どこかの誰かが、幻想郷はあらゆるものを受け入れると言ったが、実際のところそれは霊夢が受け入れるから、それが現象として全体に反映されるに過ぎないのではないか、とも思う。
「でもね、最近は霊夢に負けるところまでが、お遊びとして折込済みになってる気がするわ。霊夢に負けて、霊夢に受け入れてもらうことで、もっと楽しく過ごすことが出来る。だから異変を起こす」
「そんなことはさすがにないと思うけどねぇ。咲夜の思い込みかも」
「私はそう思っちゃったの。例え、拗ねた思い込みでも、思ってしまえば本人にしたら真実よ」
「そうね。本人がどう思うかっていうことのほうが、現実の正しさよりも、人の行動には影響を与えるものだものね。咲夜がそう思ったのなら、それはそれで正しいのよ。現に咲夜はあきちゃって、あんまり神社に来てくれなくなったんだものね」
「ごめんなさいね、今度からは普通に遊びには行くわ」
「でも、咲夜は一旦卒業かな? 仕方ないものね、人って成長が早いから、大人になれば暗黙の了解で出来ているゲームは受け入れられなくなるわ。楽しさの大前提が、ルールそのものが納得できなくなるものね。いずれ、誰だってそうなってしまうものね」
「霊夢は?」
「私は仕事だからね。私はこれがあるから生きていけるの。好きとかは関係ないわ。まぁ、好きか嫌いかって言うと、大好きだけどね」
「ごめんなさい」
咲夜としては、つまらないながらも悩んだなりの言葉だけれども、それは選択ができるものの贅沢で、霊夢には無理な話だった。
霊夢に出来るのは、過ぎていくいろんなものを受け入れることだけなのに。
「どうしてあやまるの?」
「だって……、霊夢のほうがつらいわ」
「私だけが、変わり行く中で置いていかれるから?」
「…………」
「そうね。私の周りには妖怪しかいなくなっちゃうかもね。そして、昔からいた人はいなくなって、私のことなんて忘れてしまうのかも。楽しかった昔のこととして」
「…………」
「ねぇ、覚えていてよ、咲夜。私のことを覚えていて、今の私のこと覚えていて。そうすれば寂しくなんてないわ。いろんなものが例えなくなってしまっても。寂しくなんてないわ」
「覚えているわ」
咲夜には霊夢のように全てを受容する力はない。
純粋にただ霊夢を好悪の感情だけで見ることもできない。
ずっと隣で一緒の道を行くことはできない。
『覚えている』
それはただの言葉だけど、咲夜は約束を本物にするつもりだった。
普通の”人間”では、約束を守ることができない。
成長は何かを得ることだけれども、同時に何かを意図的に捨てていくものだから、本当に約束を守ろうとすれば、成長を拒否しないと叶わない。
ただ、紅魔館にいる咲夜には、その方法がある。
咲夜は失っていくことは寂しいことだけど、変わることは決して悪いことだとは思わない。
人のまま、変わっていくことを楽しむつもりだった。
でも、それも過去のこと。
「あと、神社にも顔を出すこと。やっぱり咲夜の顔を見ないと寂しいから。あははっ」
「うん」
「私のことを過去にしないでね」
「うん」
咲夜は目の前の少女のため、自分の中の正しさをあえて捨てる覚悟をつける。
霊夢はそこまでとは考えてはいないかもしれないけれど、咲夜にとって約束したということはそういう意味だった。
霊夢が知ったらどういう顔をするのか想像すると笑みが思わず零れてしまう。
「ちょっと照れるわね」
霊夢は頬を染めながら、名残おしげに咲夜の腕を軽く叩くと、立ち上がってドアに向かって歩いていく。
咲夜と真面目に話したことが照れくさいのか、あわて気味に部屋から飛び出そうとする。
霊夢のそういうところは咲夜と同じ年頃の少女らしく、咲夜はかわいらしく感じた。
「霊夢っ、――――――――――魔理沙のこと残念だったわね」
あと一歩で部屋から霊夢がたち去ってしまう、と言うところで、その後ろ姿に咲夜は声をかけた。
霊夢がわざわざ足を運んだ意味は、魔理沙のことを告げるためだったのだろうから。
「――――――――っ、知って…………、たんだ…………」
「途中、一度言いかけたでしょ? それに、わざわざ私のところに来てくれたんだもの、用がないと来ないわよね?」
霊夢が言えなかったのは仕方がなかった。
魔理沙は霊夢の一番の友達で、それを失うことは霊夢には本当につらいことで、初めての体験なのだから、どうやって振舞っていいのかわからなかったのだろう。
だから咲夜は霊夢を責めない。
代わりに、大事なことを言わずに帰ってしまったしまったことで、霊夢が後悔して後で傷つかないようにしてあげる。
咲夜は霊夢が伝えようとしてくれただけで、十分だった。
「ふぅ、ちゃんと自分の口で言いたかったんだけどね。私には出来なかったわ。私って、ダメだわね」
「霊夢、ありがとう。来てくれた、それだけで十分よ」
「うん、ごめん。咲夜、また、家に来てね」
「うん」
「じゃあ、咲夜、またね。バイバイ」
「バイバイ」
軽く咲夜が手を振ると、霊夢は後ろ手に部屋の扉を閉め、帰っていった。
5.チルノ
「いいなぁ、いいなぁ、んしょ」
チルノは塀の上から飛び降りる。
「いいなぁ、いいなぁ、みんないっぱいて、すっごく楽しそう」
壁の向こう側にはお屋敷があり、その庭からははしゃいだ声が響いてきている。
中ではチルノと同じような年頃の妖精達が、走り回って遊んでいる。
「あんな風にみんなで遊べたら、すっごい、たのしいんだろうなぁ」
氷の妖精であるチルノは、何でも冷たくしてしまうから一緒には遊べないけれど、見ているだけでも楽しくて、チルノはお屋敷を囲う塀の上から飛び降りた勢いのままに駆け回った。
遊びと言えば何かを凍らせることしか知らなかったチルノは、ここしばらくは覚えた弾幕ごっこに夢中だった。
でも、弾幕ごっこは一対一で遊ぶものだし、普通の妖精には難しいのか誰もチルノとは遊んでくれない。
チルノが遊べる相手は年上の強そうな人ばかりだけだった。
だから、いっぱいで普通に一緒に遊べる遊びは、チルノがやったことのないもので、大発見にチルノはとても興奮していた。
「よし、あたいもやってやるんだから」
と、誰も相手がいないのに、チルノは気合を入れて走る。
何しろ実際に遊ぶとなったら、今までやったことのないものだから練習が必要だった。
「トン、トン、トン」
追いかけてくる鬼を避ける練習として、木の根っこを踏んでピョンピョン跳ねてみる。
「ふふふっ、この木なんて丁度良さそうだわ。ふふふっ、誰もかくれんぼで木の上になんて隠れてるなんて考えもしないでしょうしね」
枝が太くチルノが乗っても折れないほどの、大きな木を見つけると、チルノは腕組みをして見上げた。
体を斜に構え、足をピンと伸ばし、顎は引き気味で、自信満々に不敵に唇を吊り上げる感じでチルノは笑ってみる。
お屋敷でかくれんぼしてた時に、メイド長がそんな感じでしゃべっていたから、チルノもやってみたのだった。
チルノはかくれんぼで勝てそうな時には、そういう風にするのがお約束なんだろうと、メイド長の行動から推測している。
「でも、どうして飛んじゃダメなんだろう?」
チルノの胴体よりも太い幹に取り付いて、じりじりと上に向かいながら、チルノは疑問を口にした。
飛んだら一瞬で木の天辺ぐらい簡単にいけるのに、手と足を使って昇るのは難しい。
でも、メイド長がやってたんだから、そういう遊びなのだとチルノは思った。
「むずかしい」
両手で木にしがみつきながら、太腿で幹を挟み込んで、手と足を交代に動かさないとせっかく昇っても、あっと言う間に下にまで滑って落ちてしまう。
「いもむしみた~い、くねくね」
でも芋虫っぽく体全体で動くといい感じで上れる。
くねくねの動きは木登りと相性がよく、あっと言う間に上のほうまで行けた。
いい感じなので、芋虫になった気分で上っていく。
「って、何、相変わらず馬鹿やってんの?」
「いもむしぃ……、って霊夢?」
あと少しで枝に達すると言うあたりで、地面の上からあきれた声が聞こえた。
ふりかえると霊夢がチルノを見上げ、なにやら複雑そうな顔をしていた。
「こけこっこー、こっこー、こー、こっこー」
「にわとりの真似をしてもダメよ。どっから見てもチルノでしょ。そんなんじゃごまかされないわよ」
「そっかー、霊夢はかしこいなぁ。さすが霊夢」
「………………」
チルノの変装は霊夢に見破られたので、チルノは隠れるのをあきらめて、滑って降りた。
「今のかくれんぼっぽかったよね?」
「一人で遊んでたわけね、例によって」
「どうして霊夢は私がにわとりじゃなくって、私ってわかったのよ」
「そりゃ、木に水色の服がしがみついてんただから、チルノってわかるわよ」
「そっかー、さすが霊夢だなぁ――――――――――――と、と言うことは、服を脱いだら私ってわからなくなる?」
「馬鹿、服脱いでも、あんたの髪も水色なんだから、チルノって分かるって。大体、かくれんぼで服脱ぐなっ」
ごつんっ、と拳骨がチルノの脳天に叩きつけられた。
いつもながら霊夢の突っ込みは容赦がなかった。
「あっ、そっか、裸なってもダメなんだぁ。霊夢は頭いいなぁ」
「あんた以外なら、誰でも気がつくわよ」
「そっかなぁ? 今度、誰かひっかかるか試してみよっ」
「だから服脱ぐなって言ってんでしょっ」
「いたっ、いたっ」
今度は二連発で拳骨の突っ込みを貰った。
「痛いけど、まぁ、いいや。霊夢、鬼ごっこしよ。霊夢が鬼ね。はいっ、スタート」
「ずいぶんいきなりねぇ」
「ほら、鬼さん、追っかけてきてよ~」
「ちょっと、ズルイわよ」
「へへへっ」
さすがに妖精を誘って、鬼ごっこをするのは恐くて自信がないが、霊夢だとチルノの相手をしてくれるので、安心して無理矢理でも遊ぶことができる。
「鬼さん、こっちこっち」
追いかけてくる霊夢に、振り替えっては飛び跳ねて、チルノは捕まえてみろと誘ってみせる。
ぴょんぴょんと飛び跳ねるごとに、いつもよりも甲高いはしゃいだ声が自然と出てしまう。
「もう、仕方ないわねぇ」
霊夢は困った顔をしながらも、口元には笑みが浮かんでいるので、それなりに楽しんでくれているみたいだった。
「ちょっと待ちなさいよ」
「ダメ、絶対につかまらないよー」
木の周りをチルノが走れば、霊夢も同じように廻って追いかけてくる。
「はぁはぁ、霊夢、速いっ、もうちょっとゆっくり」
「ダメダメ、あとちょっとで捕まえてやるんだから」
チルノはあんまり思いっきり走ったことなどないものだから、霊夢をからかっていたはずが、あっという間に逆転して、追いつくか追いつかないかのぎりぎりの距離で遊ばれてしまっている。
「はぁはぁ、霊夢、ダメ、ほんとにダメ、あたいもう、走れないから」
「ほ~らほら、捕まえるぞ~、あと、ちょっとで手が届きそう」
疲れて歩きになったチルノの背中に霊夢の手が迫る。
「霊夢、ダメ、ダメだよう」
「じゃ、ちゃんと逃げるっ」
「ダメ、あたい、しんどいよぉ。鬼ごっこってこんなにしんどいの? はぁはぁ」
「チルノは知らないだろうけど、鬼ごっこって捕まったら、すっご~い罰ゲームが待ってるから」
「ひっ、やだぁ」
息が切れてもうほとんど足が止っていたチルノは、罰と聞いて必死になって駆けた。
何しろ普段から霊夢の罰ゲームは、チルノの耳にも二度とその目に合いたくない、との噂が届いているほどだったからだ。
いつもチルノと遊ぶ時は、罰ゲームはなかったが、鬼ごっこでは罰ゲームがあるらしい。
お屋敷では皆キャーキャー言っていたけど、罰ゲームのことを恐がって叫んでいただけかもしれない、とチルノは思い至る。
背中に冷や汗が流れるのをチルノは感じた。
「ふっふっふっ、つーかーまーえーるーぞー」
「きゃー」
霊夢の考える罰ゲーム。
霊夢のことだから、チルノを捕まえるとカエルが千匹ぐらいいる池の中に放りこむぐらいの凶悪で容赦のないことをやるに違いなかった。
「鬼ごっこ中止、急に用事を思い出したから、霊夢と遊ぶのやめ」
「いいこと教えてあげる。そんな言い訳は通用する訳ないってことね」
チルノがあれこれ考えている間に距離を詰められ、霊夢に首根っこを掴んで持ち上げられる。
「やぁやぁ、罰ゲームはヤダ」
「くっくっくっ、ふわふわで、ふにふにしてて、つるつるしてるものってな~んだ?」
「へっ、クイズ?」
「それはねぇ。あんたのほっぺよ」
「あう~」
霊夢の問いかけにチルノが考える間も無く、後ろから霊夢に抱きつかれてチルノは簡単に持ち上げられてしまう。
「かえる風呂はいやぁ~」
「そんなことしないわよ。こうしてやるんだから、それ~、すりすり~」
「やあぁん、霊夢のほっぺが」
抱っこされたチルノの頬に霊夢の頬が添えられ、そのまま頬擦りされる。
「やぁん」
「ほんとにふわふわ、ふにふに、つるつるね~」
チルノの頬の感触に霊夢は満足げな声をあげる。
「あうううぅぅ、きゃー」
霊夢の頬がチルノの頬に触れるたび、くすぐったくってチルノは悲鳴をあげる。
霊夢の頬は気持ち良くて、むずむずして、頭がふわふわとして、その心地良さが、わけが分からなくて、悲鳴になった。
「なによぉ、チルノは失礼ね。気持ちよくしてあげてるのに」
「メイド長もしてた、罰ゲームだもん、これ」
「なんだ、あんたも見てたんだ」
「うああぁっ、恥ずかしいよ、やめてよ」
「罰なんだから、つらくって当たり前でしょ?」
「そっか、だからメイド長がやってたんだ。なるほど」
おそろしい罰ゲームだった。
一見、仲良し同士がじゃれあっているみたいだったけど、実際にやられてみたらすごく胸の奥がムズムズする、変な気分になる罰ゲームだった。
現にチルノは頭がぼーっとしてしまって、上手く考えられなくなってきている。
さすがに悪魔の館を切り盛りするメイド長考案の罰だった。
気持ちよくってふわふわ気分になって、もっとやって欲しくもあるあたりが、悪魔的だった。
「ふぅ、おそろしい罰だったわ」
霊夢が飽きるまで存分にほお擦りされ、骨抜きにされたチルノは、ようやく解放されると腰砕けになり地面に倒れこみながら、額の汗を拭った。
「にしては、やたらとニヤニヤしてるわね」
「そ、そんな訳ないでしょ。こんなに、ふにゃーってなるんだから、おそるべき罰だわ」
「うむ、しかしエロい幼女ね。頬擦りでこんなになっちゃって」
「え、えろ?」
チルノによくわからない単語を言う霊夢。
「ま、それはいいとして、今日は一応あんたに話があって来たのよね」
「霊夢があたいに話って……」
考えてみる。
「おみやげ?」
「はぁー、チルノ……」
「しまった、お腹すいてたから、心の声が表にでてた」
霊夢がチルノに話なんて、かつて一度もなかったことだけに、とっても重要な話だろうと思った。
霊夢がチルノに重要な話なんて、きっとおいしいものが手に入ったとか、そんな感じだろうから、おみやげと思ったのだった。
そもそも霊夢はチルノにあんな食べものもらったとか、そういう話をしすぎるのが問題なのだ。
「魔理沙って、知ってるわね」
仕切りなおすように霊夢が、真面目な顔をして、話を戻す。
スカートのポケットから何処からか盗んできたのか、パンが一切れ入っていて、チルノに分けてくれた。
「魔理沙? 馬鹿魔理沙のこと?」
霊夢のくれたバターの味のするロールパンをチルノは齧った。
霊夢はやはりどこかのお馬鹿とは違って、気が利いた。
馬鹿魔理沙は一度だってチルノに、おいしいものなんてくれたことなんてなかった。
「馬鹿がどうかは知らないけど、三角の帽子をいっつも被ってる魔理沙のことよ、チルノは知り合いだったわよね?」
「うん、馬鹿魔理沙のことだ」
「チルノに馬鹿呼ばわりされてたんだ、魔理沙のヤツ」
「能天気なヤツだもん。どうして霊夢ぽかんって口あけてるの?」
「まぁ、ね、いろいろとあるわけよ」
「ふぅん?」
霊夢がさらにもう一個パンをくれる。
霊夢がこのあたりをうろうろしてたと言うことは、お屋敷にでも用があったのだろう。
霊夢のことだからお屋敷の中で、おいしそうなものをちゃっかりといっぱい食べてきているに違いない。
なので、チルノは遠慮することなく、もう一個のパンも食べた。
今度はクリームが入っていた。
「ねぇ、もし、よ。魔理沙に、会えないってなったら、嫌?」
「う~ん、う~んと、手下一号!!」
「うーん、うむぅ。要するに魔理沙は子分みたいなものだから、それがいなくなると困るってことね」
「うわー、わぉー、すごい霊夢。今のでよくわかったね」
「言っておいてそれなのね?」
霊夢にもらったのがおいしすぎて、喋るほうに気が廻らないチルノを、霊夢は上手くフォローしてくれる。
いつもながら霊夢の便利な能力だった。
「とにかく、将来的には使い魔にしてあげる予定。えらい人は、みんな使い魔もってるみたいだし、あたいもえらくなったら、一人ぐらいはいると思うから、魔理沙を使い魔にしてあげるの」
「どこからそういうこと覚えてくるのよ」
「それはともかく」
「どうしてチルノが仕切りなおすのよ、もうっ。なんと言うか魔理沙と話してた時のことを思い出すわよ。しかしなんというか魔理沙って、チルノと同じような感じだったのね。それじゃ、『何がしたいのよ』なんて、漠然とした問いに答えられる訳なかったわね……、ふっ」
「魔理沙と同じ?」
「そうね、無邪気で、いっつも楽しそうで、うん、そういうところ似ているのかも」
「それって褒めてるの?」
「うん、そのつもりよ」
「う~、そうかな?」
魔理沙のことをチルノは思い返してみる。
かなりお馬鹿だったような気がする。
馬鹿魔理沙と一緒で、馬鹿魔理沙に似ているということは、つまりチルノは…………。
「うあー、霊夢があたいのこと馬鹿って言った」
「違うわよっ。どういう想像したのか、想像つくけどね」
「ふぇ?」
「とにかくよ。魔理沙と会えなくなったら、嫌な訳よね」
「うん、一応は」
思い返してみれば魔理沙は生意気なヤツだった。
やたらと大人ぶってみせるし、自分が頭いい振りするし、チルノのことをやたらと馬鹿にするし、いいとこなしだった。
それでも、ちょくちょくチルノと一緒に遊びたがって、チルノはあんまり相手にしたくないのに、やたらと構ってきた。
暇つぶしにしたら、いろんなこと知ってるし、それなりに面白いヤツではあるので、チルノはそのうち魔理沙をこてんぱんに出来るぐらい最強になったら、子分ぐらいにはしてやるつもりだった。
一応、それぐらいは魔理沙のことが好きだった。
「そう、じゃあ、残念なお知らせよ。魔理沙、死んじゃった。もう、会えないの」
「うん?」
「魔理沙は死んでしまって、もういないの。チルノは魔理沙に二度と会うことは出来ないの」
「うん?」
霊夢の冗談は面白くなく、チルノは嫌な顔をした。
「霊夢、馬鹿なこといわないでよ。あたい知ってるもん、人間って年とらないと死なないもん、魔理沙はまだ若いから、そんなことあるわけないもん」
チルノの突っ込みに霊夢の表情が消えていく。
チルノに魔理沙の死を告げた時は、泣きそうな、痛そうな、笑いたくないのに無理につくった笑い顔をしていたのが消えた。
「チルノは”死ぬ”って意味はわかるのよね?」
チルノは霊夢の表情で悟った。
霊夢の言っていることが冗談でも何でもなく、魔理沙は本当に死んだのだと。
霊夢の表情の消えた顔は、とても綺麗で、憂いもなく、透き通っていた。
チルノが綺麗だと見惚れるぐらいだった。
「うん、もう会えないの」
「そうよ。魔理沙はこの世からいなくなってしまったの。もう、どこにもいないのよ」
まるで感情が消えた声で霊夢が言った。
霊夢の声はとても澄んでいて、透明で、まるで唄でも歌っているみたいだった。
それは霊夢が話しているのではなく、何処か他の場所から、何処か遠いところからの、宣告のようだった。
霊夢の徹底的なまでに自分を消した態度に、チルノは本当に魔理沙はいなくなり、それがどうしようもないことだと、理解させられる。
「ねぇ、霊夢、なんとかしてよ。魔理沙と会いたいよ。もう、二度と、会えないなんて、やだ、よ」
「無理よ」
「いじわるしないでよ」
「無理なの、ごめんね。私でも、他の誰でも、偉い神様でも、死んでしまった人を、どうにかすることは出来ないのよ」
「あたい、あたい、あたい、どうしたら?」
霊夢の顔を覗き込むが、霊夢は視線すら合わそうとしてはくれない。
チルノに魔理沙が死んだなんてつらいことを無理に聞かせていながら、チルノをその辛さに一人置き去りにする。
霊夢は霊夢の中に閉じこもり、チルノを放り出している。
チルノは意味はわかるが、どうしていいか全く分からないのに。
「どうしようもないわ。だから死ぬってことは残酷なことなの。あの時、どうしたらとか、もっと違ったやり方があったかもとか思っても、どうしようもないのよ。生きていてくれたら、例え失敗してもやり直すことが出来たかもしれない。でも、死んでしまったら、もう二度と、どうすることも、できないのよ」
「どうしたら?」
「覚えていてあげて、魔理沙のこと」
「それだけなの?」
「うん、それだけしか出来ないの」
残酷すぎる霊夢の答えだった。
チルノは自分が涙を流しているのに、気がついた。
涙は意識しないのに、自然と次から次へと流れてくる。
恐いことがあった訳でもないのに、痛いことがあった訳でもないのに、止らない。
泣くことなんて恥ずかしいことなのに、胸が疼いて仕方がなく、呻きが溢れてくる。
「どうしてよ?」
「どうしてもよ」
「どうしてなのよぉ」
別にチルノは霊夢に聞きたくて言ったつもりでなく、勝手に口からそういう言葉が出てくるのだった。
魔理沙はもういない、その事実は痛い。
今まで体で感じたどんな痛みよりも、チルノを震わせる。
魔理沙の生意気なしゃべり方が思い出されてくる。
魔理沙にこてんぱんにやっつけられ、それでも一緒になって笑ったことが思い出される。
お互いに腹を立てあって掴み合いになったこととか、通りすがりの妖精に二人して悪戯をしたことも、チルノが貰ったおやつを二つにして食べたこととか、何もかもが、魔理沙としたいろんなことが甦ってくる。
そのどれもが、もう、二度と魔理沙と一緒にすることができないのだ。
「うぐぐぐ、うぐぅ、魔理沙、ひぃん」
魔理沙はいつも馬鹿みたいだったが、一緒にいて楽しかった。
魔理沙はチルノの友達だった。
お互いのことを無茶苦茶言い合っていたが、すごく仲良しだった。
チルノは魔理沙のことが大好きだったと、今になってわかった。
「つらい?」
「…………」
「それはチルノが魔理沙のことを好きだったからよ。思い出があるからなの。魔理沙のためにずっと覚えていてあげてね」
うんうん、と涙でぐしゃぐしゃになった顔でチルノは肯く。
「私のことも覚えていて、私もチルノのこと覚えておくから」
「霊夢も死んじゃうの?」
「死なないけどね。そうやって、みんなでみんなのこと覚えておいて、覚えていたいから仲良しになるのよ」
「仲良しだったら、覚えていてくれるの?」
「うん、だから、チルノももっと一杯、仲良し作って……ね」
「うん」
霊夢はようやく笑顔になって、チルノの頭を撫でてくれた。
チルノはしゃくりあげながら、泣き続ける。
「魔理沙は?」
「もう思い出を作ることはできないわね。…………後は…………、見送ることね」
「見送る?」
「人間はお葬式をしてあげるの。皆で集まって、魔理沙のことを思い出すために話して、お花とかで綺麗にしてあげて、見送ってあげるの。大好きでしたってね」
チルノは肯く。
魔理沙はいなくなり、チルノにはしてあげられることは何もないのだった。
ただ、チルノの覚えている魔理沙が、魔理沙が残した全てなのだった。
6.霧雨
アリスは一晩中涙を流し続け、泣き腫らした目を擦り、ぼんやりとしたままシーツから体を起こした。
時計を見ると時刻は昼を過ぎているはずだったが、寝室のカーテンからは光は入ってこず、空は薄暗いままだった。
「魔理沙…………」
魔理沙のことを思い出すと、また自然と涙が流れてくる。
あんなに小さかったのに、まだまだ子供だったのにと、魔理沙の無邪気だった振る舞いを思い出すと、可哀想で仕方がなかった。
悲しいと言うよりも魔理沙が可哀想だった。
あんなに小さい女の子がどうして死なないといけないのか、それを考えるとただ可哀想としか思えなかった。
むろんアリスも、魔理沙は子供と言うには大きすぎたし、自分一人で生活出来るほどの知恵も持っていたし、それなりの交友関係もあり、アリスよりよほど世慣れていたことは分かっている。
でも、頭で理解することと、心がそれを受け入れられるかは別の問題だった。
「魔理沙ぁ」
ぐずぐずと泣きながら、アリスは顔をシーツに押し付け、涙を拭う。
情けないことだったが、他には何もする気が起こらなかった。
魔理沙を思い出し、無為に泣き続けることが、アリスの出来る唯一のことだった。
元々アリスに友人は少ない。
わざわざ自宅を訪ねてきてくれるほどの相手と言えば、魔理沙しかいなかった。
その魔理沙が居ない今では、誰もアリスのことを気にかけてくれることもないだろう。
もう何もしたくないし、何も受け入れたくなかった。
もはやこの世自体がどうでも良かった。
飽きるまで、完全に涙が枯れつくすまで、存分に涙を流したい。
それだけだった。
「――――――――――――――っ」
「魔理沙……、魔理沙……」
「ここが――――――――、もっと奥の――――――」
「魔理沙………………」
アリスは静寂を破る、ざわめきのようなものを振り払おうと、頭から布団を被り、丸まって耳を塞ぐが、声は時間と共にはっきりとしてくる。
初めは風の起こすざわめきに過ぎなかったものが、少しづつ形を帯、やがては人の声と分かるものへと姿を変えていく。
「魔理沙の――――――――家?」
「ここは――――――、――――――――――――友達だった――――――ア――――――――」
声は一種類ではなく、何人もの人が集まっているようだった。
何人、というには大人数の声が集い、アリスの家の前を通り過ぎて行っている。
「魔理沙の家は?」
「もっと、森の奥よ。ずっとずっと森の奥深く」
「そんなところに住んでたんだねぇ」
「魔理沙が――――――――」
「――――――――魔理沙――――――」
アリスは本当なら何も聞きたくなかったし、耳を塞いだままでいたかった。
ただ、何度も魔理沙の名が呼ばれているのを聞いてしまった。
「――――――――――魔理沙――――――――――、魔理沙――――――――――」
アリスは起き上がり、ベッドから下りて、床に足をついた。
服を着替え、足は引寄せられるように部屋の外へと向かった。
アリス自身はもう、何も考えたくないのに、魔理沙の名前を呼んでいる声を聞くと、いてもたってもいられず、家の外へと踏み出してしまう。
「雨?」
空は曇り、細かな雨が降っていた。
曇天と言うには、所々に明りが漏れ、薄く鼠色の膜が張ったような空具合だった。
空気は暖かく、顔を濡らす雨も冷たくは感じなかった。
アリスは誘われるまま、傘も差さずに森の中へと進んでいく。
魔法の森は年中薄暗く、幻想郷のほかの地と比べても湿度が異様に高いせいか、菌類の生育が盛んだった。
家よりも高い木々が重なり合い、低く成長の遅い木達が光を求めて、空へと向かう隘路に己の細い体をくねらせ入り込んで、わずかばかりの隙間で呼吸していた。
足元にはじくじくとした菌類が胞子を撒き散らして、一族を繁栄させようと落ちた葉にすら取り付いて、青白い粉を塗りたくる。
じゅむっ。
アリスがブーツの踵を地面に埋め込むと、皮底を通しても過剰な湿度で腐れた葉の汁気が染み込んでくる気にさせられる。
鼻を蠢かせると、腐葉土の匂いが流れ込んでくる。
不快さにアリスは、閉じこもっていても世界は変わってはいなかったことを知った。
「どこにむかってるのかしら?」
光を求めて、細く今にも折れそうな木すら、上へ上へと幹を伸ばして枝を広げる植物の群れで構成される森は、丁度天然の天井のようだった。
植物が激しい生存競争結果として、背の高さを得たせいで、地表に勢力の空白が生まれ菌類がはびこるようになっていた。
木々の作り出した天井に人の立てる音が反響して、声の進む先の位置取りを上手くアリスはつかめなかった。
ただ足は、何度も往復した道のりを辿っていく。
魔理沙の家への道を。
本当に何度この道を往復したのかわからなかった。
それぐらい魔理沙とアリスはお互いの家を行き来していた。
魔理沙のことだから、アリス以外にも同じように行き来している家があっても少しも不思議ではなかったが、アリスにとっては魔理沙だけがそういう相手だと言うこともあり、もう魔理沙はいないのだと知っていても、足だけはまるでいつものように軽々と道を行く。
自然と足は早まり、アリスの鼓動は興奮で高くなる。
魔理沙の家へ行く、それだけで初めはやや早足程度だったものが、やがて駆け足へと変わってしまう。
本当に見慣れた道だった。
どの木を目印にした角を曲がるか、分かれ道になっているか、あとどれぐらい行けば魔理沙の家があるのか、意識しないでも体は覚えていて、おぼろげだった集団の声が段々と近付いてくる。
前を行く人の群れも、魔理沙の家を目指しているようだった。
「魔理沙、魔理沙」
アリスの心は魔理沙がいた頃のように跳ね、アリスの体を突き動かす。
アリスは妙な確信とも取れる、魔理沙とまた会えると言う予感に、ひたすら突き動かされていた。
最後の垂れ込める絡み合う樹木から垂れ下がった菌糸のトンネルとくぐると、魔理沙の家が見える。
家の前には喪服を来た人たちがいた。
影のように黒い服の隙間に、白布が見える。
四角い白木の箱を包むように、白い布が被せられ、喪服の人が箱から伸びた棒を担いでいた。
人が入っているとは、到底思えないような小ささだった。
アリスの感じた予感は、あっけなく裏切られた。
「魔理沙……」
アリスは、ショックは受けたが、今度は涙は流さなかった。
あまりの衝撃に感情が磨耗してしまい上手く動かないせいもあったが、目の前の光景を見て、当たり前のことに気がついてしまったせいだった。
死んでしまえば、二度とは戻らない。
アリスの悲しみはまだどこか自分に酔った部分があり、ある意味絶対的な隔たりを理解していなかった。
ただの白木の箱を見て、死と言う、どうしようもなさを心の奥から理解させられ、甘い可哀想という感情さえ吹き飛んでしまったのだった。
ただの箱という帰結の前では、好意からの憐憫ですらただの自己満足に過ぎないと、アリスは思い知らされたのだった。
だから、悲しいはずなのに涙は出てこなかった。
「魔理沙……………………」
唖然として声も出せなくなったアリスの前で、魔理沙を弔う人々は、次の目的地に向い足を動かし出した。
アリスは何ともすることが出来ずに、離れて後ろをついて歩いていく。
喪服の黒の中に、アリスの明るすぎるパステル調の服で混じることは出来なかった。
葬送の列は服の色や、空模様と比べて、決して暗い雰囲気ではなかった。
むしろアリスからすれば明るく感じた。
列を成す人々の顔は苦渋には歪んでおらず、笑みさえ浮かんでいて、朗らかとすらアリスには見えた。
魔法の森を抜けると、葬列は幻想郷を巡り始める。
生前魔理沙が出歩いた場所や、異変の時に活躍した場所、思い出を偲びながら列は歩いていく。
さびしげな無縁塚を通り、丘を越えて、迷いの竹林にまで足を踏み入れていく。
人々はアリスと一緒に魔理沙が活躍した、永夜異変のことも知っており、口々に竹林の感想を話している。
人間達にとって竹林は以前とは違い、入ってしまえば永遠に出ることの出来ない危険な場所、と言う認識では無くなったようだった。
普通の人間からはじき出されるようにして、誰も足を踏み入れることのない魔法の森に家を構えていた魔理沙だったが、決して人間達からは嫌われていないようだった。
人々の口に上る魔理沙の行動は、好ましく語られ、魔理沙のことを誇りに思っている節さえ感じられた。
「普通の魔法使い……ね」
人々は魔理沙を自分達の代表だと見ていた。
何でもない普通の人間が、与えられた規則の内だとは言っても、妖怪と対等に渡り合うことが出来た。
魔理沙は人間と同じように、妖怪を相手にしても全く態度を変えることもなく、友達付き合いをしていた。
今の幻想郷では妖怪も里を訪れ、買い物をしたり、飲み食いをしたりしている。
人は妖怪を恐れることもなく、もはや今では日常の風景として受け入れている。
妖怪に襲われることは天災に合うことと同義で、出会ってしまえば、あきらめ受け入れるしかないものだった。
でも大人からしたら小さな子供の魔理沙が、そんなことは過去のものとして、戦いすら遊びに変えて楽しげに暮らしていた。
聞かない風を装っていても、日々いろんな事件が起きるたびに、魔理沙のしたことも自然と耳に届いてくる。
悪戯ものの妖精を魔理沙が悪戯して困らせていること。
恐いはずだった妖怪なのに、魔理沙に大事なものを取られて大弱り。
幻想郷を揺るがすはずの大事件に魔理沙が口を突っ込んで、引っ掻き回す。
魔理沙はそんなつもりは毛頭なかったのだろうが、人々からすれば耳に聞こえてくる噂話での魔理沙はどこかユーモラスで、巻き込まれた妖怪も話の中ではどこかとぼけた風のあるかわいらしいものへと変わってしまう。
何処かの不思議なお伽話のように。
人々はもう妖怪を恐るべき異邦人のようには見ない。
共存できる隣人として見ている。
葬列から聞こえてくる魔理沙の思い出話から、人々に魔理沙が残したものをアリスは見つけた。
「楽しいそうなぐらい……ね」
参列者は皆、魔理沙の名前を口にすると、ほがらかで優しそうな笑みを浮かべる。
まるで魔理沙が幸せな終わり方をしたみたいだった。
いや、人間にしてみたら、幸せと言えるのかも知れない。
妖怪に喰われて跡も残らなかった訳でもなく、天災に巻き込まれた訳でもなく、飢えて死んだ訳でもなかった。
ほんの少し前までは、子供だと言っても、当たり前にあった光景だった。
魔理沙は一人で生きるには十分なほど成熟してはいなかった。
その子供が飢えることもなく、妖怪から怨まれることもなく、天寿を全うしたのだった。
これから人間達は誰もが魔理沙のように生きることが出来る。
魔理沙はある意味、未来のともし火のようなものだった。
特別な博麗ではなく、”普通”だった魔理沙だからできたことだった。
竹林の奥にある屋敷を見て、再び魔理沙を送る列は何事も無かったように竹林から出ることが出来た。
列はさらに進み、湖を巡り、山へと進んでいく。
空は薄曇で明るいが、降り注ぐ細かな雨のせいで、地面近くでは煙ったように白く濁り、葬列の後ろをついて歩くアリスの目からは、喪服の黒がおぼろげな影になって、景色に溶けていくよう見えた。
アリスは何処か受け入れられずにいた魔理沙の死が、魔理沙がこの世に存在していた意味を、参列者の口に上る言葉の端々から受け取ることができ、少しではあるが救われた気がした。
もはやアリスにとってこの列に連なる意味はなかったが、列が辿る先で魔理沙の最も親しいと言っていい人物が待っているかと思うと、離れられずに距離をとったまま付き従った。
「あら? あの子?」
アリスが付かず離れずの位置を取ったまま、湖の彼方の紅魔館を見据えることの出来る丘を離れた時、アリスの前を小走りに駆ける、小さな姿が目に入った。
「魔理沙とよく一緒に遊んでいた子だわ」
喪服を着ることもせず、いつもと変わらない明るい水色の服を着て、同じ色の髪を揺らしながら、列について歩いている。
「魔理沙、魔理沙のこと覚えてるよ、あたい」
魔理沙の名前を呟きながら、俯き加減で小さな体をさらに小さくしながらも、葬送の列に加わった。
背中に羽の生えた明らかに人ではない姿が最後尾に加わったことに、一瞬人の影がざわついたが、小さな胸に抱えた花と、鎮痛と言っていい表情を見せる幼い顔に声は静まった。
「霊夢が教えてくれたんだ。魔理沙に出来ることは、これ、しか、もうないって……」
最後まで言い切ることが出来ずに、途切れてしまう。
しゃくりあげながら、何とか上を向いた顔は涙で濡れていた。
「だからあたいに出来ることするよ。が、がんばって、魔理沙を送るよ」
顔をゆがめながら、胸にある赤い花を、力を込めて抱きしめる。
「あたいだけじゃないんだよ。みんな、魔理沙のことを好きだったから、みんなで魔理沙のこと覚えてるから、魔理沙は寂しくないよ」
言葉と共に最後尾に、同じような姿をした妖精が加わる。
緑の髪を黄色のリボンで横に束ねた妖精が、初めに列に加わった幼い妖精の横に並び、頑張ったねというように、そっと肩に手を伸ばした。
その胸にはやはり花束が抱えられている。
「ねっ、みんな魔理沙のこと覚えてるでしょ?」
必死になって魔理沙に話かける妖精の姿に、人々の中からも胸が詰ったような声が漏れ出した。
列には妖精が次々と加わっていく。
服装や容姿は様々だったが、皆が申し合わせたように胸に花を抱えていた。
紅魔館に住んでいるのか、メイドの服を着た妖精も混じっている。
人よりも小さな体に、幼い容姿の妖精達が、花を抱えて、悲しみにくれる姿がアリスの胸を打った。
人を弔う方法も、死の意味さえどれだけ理解できているのかもわからない妖精達が、自分達で考えたのは、魔理沙に送る花を集めてくることだった。
ただ、純粋な悲しみを表すその姿に、アリスの胸が震え、涙が流れ落ちる。
妖精の持つ花は、春の花もあれば、夏に咲くものもあった。
色も取り取りで、赤もあれば、黄色もあり、また紫色もあった。
真っ赤な薔薇や、妖精の背丈を越えるような大きすぎる向日葵もあった。
弔いの意味さえ知らない妖精が、自分達なりに魔理沙を弔っているのだった。
「魔理沙~」
「魔理沙、魔理沙」
「魔理沙~」
「魔理沙のこと忘れないよ」
「ずっと、ずっと、ちゃんと覚えてる、魔理沙のこと、ぜったい忘れないから」
「魔理沙~」
かわいらしい声で魔理沙の名前を呼びながら、小さな参列者達は泣いていた。
微笑ましく見ていた人間達も釣られるように涙を流し、口元を押さえて呻いた。
アリスも涙を流していたが、決して不快な涙ではなかった。
魔理沙のことを純粋に好きでずっと覚えていたい、そう思って、魔理沙のことを思うと自然と流れた涙だった。
本当に純粋に魔理沙がいなくて悲しい、それだけの涙は心地よかった。
人間もそう感じたのか涙を流しながら、妖精達から花を受け取り、同じように魔理沙を悼む、異なる種族の隣人達の手を取り、列の中へと導いていった。
妖精と人間が交じり合う葬列は、静かに歩みを続ける。
列は幻想郷を一回りして博麗神社の麓まで辿りつくと、折り返し里へと戻っていった。
最後に幻想郷を魔理沙に見せて廻った葬列は、これから墓地へと向かうことになる。
アリスが神社へと続く石段を見上げると、予想に違わず鳥居の下に人影があった。
石段を下りることも出来ず立ち尽くす影を見たアリスは、魔理沙とここで別れることにした。
「さようなら、魔理沙。大好きだったわ。それと……ごめんなさい」
誰にも聞こえない声で、アリスは魔理沙にあやまった。
魔理沙のことは今でも好きだし、大切な思い出を残してはくれたが、もうアリスが魔理沙にしてあげられることは何もなかった。
「行くわね、魔理沙」
そのままアリスは振り返らずに、石段を昇る。
石段の先には、まだアリスが何かをしてあげられる人が待っている。
「霊夢…………」
階段を上りきると、霊夢がじっと立っていた。
霧のように細かな雨に全身を打たせ、傘も差さず立っていた。
鳥居に手を添えてやや前のめりに、足を踏み出そうか迷っている、そんな格好のまま下を行く魔理沙を送る人々を見ていた。
「霊夢」
アリスが声をかけるが返事は返ってこなかった。
アリスは当然のこととして、さらに話かけるでもなく、黙ったまま横に並んだ。
体の横に伸ばした霊夢の指先が、触れるか触れないのかの距離にアリスは立った。
霊夢の立つ位置から見える、道を行く列はすでにおぼろげで、ただ一塊の黒い染みのようにしか見えなかった。
本当はあの中に混じってしまえば楽だろうに、霊夢は鳥居からわずかに半歩境内より足を踏み出し、見送るだけだった。
どれぐらいの間、濡れて立っていたのか、霊夢の黒いやわらかだった髪は水を吸い、重くつやを失っていた。
濡れているせいで前髪が額に張り付き、表情が曇ってみえる。
全身もまた水に浸かったようにずぶ濡れで、肩口から覗いた肌には鳥肌が立っていた。
服は体に張り付き、スカートは足にまとわりついて、太ももの輪郭がくっきりと浮き出ていた。
「アリスは魔理沙のこと送ってあげていたのね」
暖かい日ではあったが霊夢は雨に濡れて冷えたせいか、唇は紫色に変わり、声は震えていた。
同じように雨に打たれて歩いてきた後だったので、アリスの髪も水で重く垂れ、濡れた服が肌に張り付いていた。
毛先から雫がぽたぽたと流れて落ちている。
アリスと同じような濡れ具合から考えると、霊夢は魔理沙が来るずっと前、それこそ魔法の森を葬列が歩いていた時から待っていたのに違いなかった。
時間が経ち、見送る相手はいなくなり、立っている意味がなくなっても、霊夢はじっと正面を見て、行ってしまった彼方を見続けていた。
霊夢を一人置いておくことも出来ず、アリスは濡れたまま横に立ち続ける。
霊夢は問いかけを発さない。
聞きたいことは、幾らでもあるだろうに、何一つ言わなかった。
葬送の列はどんな様子だったか、親しい人はいたのか、列にいた人はどんな顔をしていたのか、知りたいはずなのに、霊夢は何も聞かない。
「…………っ」
霊夢が身震いすると、並んだ手の甲同士がぶつかった。
冷たい、こわばった感触がアリスに伝わってくる。
その感触は接触を拒むようだった。
魔理沙が床に伏し、伸ばした指先の感触も、同じように冷たくこわばっていたのだろう。
アリスはそれに触れることが出来なかった。
隣にある冷たい手にも、手を伸ばすことができない。
「妖精達もいたわ」
「……?」
「ちいさな妖精達も、魔理沙を見送るために来てくれたの。みんな、胸に花束を抱えてたわ」
目線を動かしはしなかったが、霊夢が驚く様子を、アリスは感じた。
「震えながら『魔理沙~』って名前を呼んでいたわ。きっと、あの子達なりの弔いなのね」
霊夢は声を出しはしないものの、興味を引かれているようだった。
「魔理沙のこと好きだったのね。だから、あの子たちに出来ること、送ることをしようって思ったのね、きっと」
「そう」
「魔理沙のこと覚えてるって、ずっと忘れないって言っていたわ」
「そう」
「妖精達にできる、魔理沙を大事に思うやり方は、ずっと覚えていることなのね」
霊夢はアリスのほうに向き直った。
「少なくとも魔理沙は妖精達に本当の悲しみと、弔うことの意味を残したようね」
それだけ言うと、再び魔理沙が行ってしまった先を見詰める。
風が吹き、横薙ぎに雨が降りかかる。
濡れて寒かったが、それでもアリスは決して不快な気分ではなかった。
隣にいる霊夢も同じように感じてくれていればいいのに、アリスはそう願った。
ざざざざ、と何度も風が吹くごとに、景色が明るくなっていく。
雲が吹き飛ばされ、空は明るく、雲の色も薄くなっていく。
晴れた風景の中、霧雨だけが降り続いていた。
草木の緑が濃く見え、風景はまるで五月の、新緑の季節を思い出せた。
はるか彼方の里まで見えるようになったが、それでももう葬列は見えなくなってしまっていた。
それでも霊夢は動こうとしない。
隣に立つ霊夢の鮮やかな服の紅が、妖精の少女が魔理沙に手向けようと抱えた花を思い出させた。
魔理沙を見送ろうと集まった妖精達は、一人一人がまるで違う花を持っていた。
その花々は気付いたものはいなかったが、本来なら今の季節に咲くはずのないものが、混じっていた。
人間達は気が付かなかったし、妖精達は気にとめてもいないようだった。
ただ魔理沙に渡したい、綺麗な、明るい花だけを、魔理沙に見せたい一念だけで集めてきたに違いなかった。
健気な話だったが、その話には残酷な裏があった。
参列者の中、アリスだけが気がついていた。
幻想郷に季節外れの花が咲く時、それは外の世界で異変があった時。
本来なら六十年に一度だけ、狂ったように季節を考えずに咲く花々が、幻想郷を埋める。
妖精達が持ってきた花はどれも季節を外れていた。
里を、山を埋め尽している訳ではないが、それでも季節外れの花が多く咲いている。
六十年に一度の狂い咲きではないけれど、妖精達の捧げ持つ季節外れの花々が、魔理沙の死が特別なものではないとアリスに教えてくれている。
真っ赤な薔薇、大きな向日葵、儚げな桜。
本来咲くはずのない霧雨の季節に花開き、数え切れない無数の命が、ここではない何処かで、あたり前のように散り続けていることをアリスに囁いている。
魔理沙の死は魔理沙を大切に思うものにとっては特別だったが、人間の運命としては何も特別なところはなく、誰にでも起こり得ることだった。
「ねぇアリス。魔理沙って本当に病気で死んだのかしら?」
物思いに沈むアリスに、唐突に霊夢が語りかけてくる。
「え?」
「ひょっとして、ひょっとしてなんだけど……」
霊夢は言いよどむ。
「こう、何か、魔理沙にとって、つらいことがあったりして」
口に出していいのかとまるで迷っているみたいに、アリスには思えた。
「私、考えてしまうのよ」
アリスと霊夢の前髪同士が触れるほど、霊夢は近づきアリスの目を覗き込んでくる。
「魔理沙ってひょっとしたらって………………」
そこで霊夢はアリスから視線を外す。
「魔理沙、自分で死を選んだんじゃないかしら。とてもつらいことがあって、耐え切れなくって、それで……」
「そんなわけ、あるわけないわ」
「でも」
「そんなことあるわけないから。魔理沙にそんなことがあるわけがない」
アリスは強く言い切った。
「私は魔理沙がそんな子だったって思わない」
霊夢はアリスの瞳の色を、縋るような表情のまま、嘘がないかを探るように、じっと見詰めてくる。
「そう、そうよね、ありがとう」
数瞬の後、霊夢はまた魔理沙が行ってしまった方角を見る。
アリスは霊夢がどうしてそんな考えに至ったのかはわからなかった。
霊夢と魔理沙は一番古い友達同士で、アリスにもわからない、二人の繋がりがあった。
その中で、霊夢はなんとなく、そういう風に考えてしまったのだろう。
アリスにも、死んだ魔理沙が怖くて、触れることさえできなかったと言う、霊夢に隠したいことがある。
霊夢にもまた、アリスには言わないことが、魔理沙との間にもあったのだろう。
どんなに時が経っても、霊夢とアリスの関係が変わっても、ずっと二人の間には魔理沙がいる。
何かあるごとに、二人は魔理沙のことをふと思い出すだろう。
「霊夢」
「何?」
それでもアリスは霊夢にずっと言いたかったことを、打ち明けるつもりだった。
魔理沙が死んでしまった以上、何かあるごとに魔理沙を思い出しては、行き違いが霊夢とアリスの間に起こることもあるだろう。
アリスの瞼の裏には鮮やかな花の残影が写っている。
妖精達の抱えた花束は、誰にでも、いずれ降りかかる運命を示していた。
だから、アリスは出来ることを、精一杯やるつもりだった。
「話したいことがあるの」
「アリスが私に話って、何だろう?」
「何だと思う?」
「わからないわ」
「ふふ、聞いたら、きっと驚くわ」
「何かしら? 全く想像もつかない」
「そうかもしれないわ。ねぇ、でも、少しだけ待って。この雨が止むまではこのままでいたいの」
「うん、わかった」
霊夢も同じ気持ちのようだった。
霊夢が肯くと、また二人の手の甲同士が、触れ合った。
アリスは、その手を今度は掴むつもりだった。
でも、雨が止んでしまうまでは、手を離しておこうとアリスは思う。
もう少しこのまま霊夢と二人で、今のままの関係でいるつもりだった。
霧雨が止んでしまう、その時までは。
ー了ー
夕暮れの空はまだ太陽の残照のおかげで明るいが、地上では影が長く伸び夜を感じ始める時刻に、天子はそっと神社に降り立った。
一日の終わりに縁側に腰掛け、何をするでもなくぼーっと宙を見詰める少女を、天子は声をかけないまま眺める。
視線の先の少女は天子には気づかないまま、空を見て軽く息を吐く。
冷酷、暴れん坊、能天気、毒舌、未熟。
答えるものによって、その少女の印象はまるで違った。
何故、天子がそんなことを知っているのかと言えば、その少女についていろんな人に尋ねまわったからだった。
会う人、その立場によって、少女はまるで別の人かと思うほど、違う答えが返ってきた。
でも天子が一番気にいっているのは、この昼と夜の狭間の時刻の僅かな一瞬に見せる、ほんの少しだけ悲しげに見えて、それでいながらそれすら楽しんでいる風な、不思議な表情だった。
おそらく少女は何らかの感傷に捉われている訳でもなく、普段と変わらない笑みを浮かべているのだが、夕暮れの闇が、顔の細部の印象をあいまいにし、少女の大きな黒目勝ちの瞳だけを目立たせているので、天子がその様に感じてしまうだけなのだろう。
「しかし霊夢はいつ遊びにきても同じことしてるわね~」
「いっつも同じ時間に遊びにきてるんだから、こっちだって同じことしてるに決まってるでしょ」
「でも、霊夢って働かないわよね? 高等遊民と言うやつね」
「嫌な言い方しないでよ。あんたと違って毎日アレやコレやといそがしいんだから」
「じゃ、そのアレコレを具体的に言ってみて?」
「え~っと、お掃除したり、洗濯したり、食事の用意したり。あと色々」
「ほとんど生活するのに必要最低限なことね。仕事とは言わないわね。霊夢ってどうやって生活してるの? 人間って働くのが当たり前でしょ?」
「他の誰に文句言われても、あんたにだけは言われたくないな~」
目を、剣呑さを感じるほど鋭く細めつつも、頬は童女のようにかわいらしく霊夢は膨らませて見せる。
…………こういう相反する二つが交じり合う霊夢の表情が、天子にとってはたまらなく良いのだ。
「怒らない、怒らない。ほら~、お土産の桃よ。機嫌直して、ほら~」
「私は物で釣られるほど、子供じゃないわよ」
「じゃあ、いらない?」
「ダメよ。せっかくくれるってものを拒否できるほど、大人じゃないわよ」
口ぶりこそ余裕を見せてはいるものの、目線はちらちらと何度も天子の手元の籠に落ちている。
「私だってせっかくもってきたお土産なんだから、あげるつもりだけど……」
「う~ん、うちの流儀は無理矢理嫌がる相手からもらうのが得意なんだけどなぁ。まぁ、一応礼はちゃんと言うつもりよ」
「かわいくないわね」
「別にあんたに可愛がられる予定はないけど」
などと言いながら、天子の前で、縁側で足をぶらぶらさせて霊夢は小首を傾げてみたりする。
「…………っ、そんなに欲しがるなら仕方ないわね。ほら、お土産よ。ありがたくいただきなさい」
「はいはい、渡したくってたまらない癖にしかたのないヤツね」
霊夢は果汁が垂れて袖口が汚れるのにも構わず、皮を剥いて白い果肉が露出すると勢いよく被りつく。
口の中で二、三度噛んだだけで、すぐに喉が動き、体内を熟した桃が落ちていく。
霊夢が桃に被りつくごとに小さな白い前歯が唇の隙間から覗く。
唇の色は天子の持ってきた果物の色と同じだが、霊夢の唇のほうがずっとつややかな色をしていると天子は思った。
「あげないわよ」
じっと黙って見ている天子に気がついたのか、霊夢は桃の入った籠を天子の手から届かない場所へと移動させる。
「そんなに警戒しなくっても、誰もとらないわよ。大体それはウチの庭に生ってるようなもんだし」
「あんたも天界もろくでもないところだけど、これがあるのだけがうらやましいわ」
「ろくでもないって失礼ね。やっぱり取り上げる」
「こら、くっつくな。食べられないじゃないの」
「いっぱいあるんだから、一緒に食べたっていいじゃないの」
天子はふざけたふりをして、霊夢にくっつき、霊夢が手に持つ食べかけの桃に口をつける。
「うん、今日の桃もいい味ね」
「普通、取り返す場合は食べかけのものじゃないんじゃないの?」
「霊夢が食べたものと同じものじゃないと、ちゃんといい味出ているかわからないじゃないのよ」
「ほんと、天人て訳がわかんないわね」
「いいのいいの、訳がわかんなくていいの。でも、霊夢って鈍感ってよく言われたりしない?」
「鈍感? どっちかって言うと良く気が利くって言われるわ」
天子は心の中で嘘ばっかりと思った。
霊夢のことをいろんな人に聞いたけれど、気が利くなんて答えた人は全くいなかった。
むしろのん気者すぎて困る、と言った人のほうが多かったぐらいだった。
「鈍感」
天子の高度なスキンシップにも何の感慨も抱かなかった霊夢は、どうかんがえても鈍感者だった。
「あむっ」
「あっ、また、私の桃を盗んだっ」
くやしかったので、天子はまた霊夢の食べかけの桃に、口をつけてやった。
「どうして私の食べかけのものから盗るのよ? こっちにもいっぱいあるじゃないの?」
「だって、霊夢が返さないって言うから仕方ないじゃないの?」
「そんなこと言ったっけ?」
「よく覚えてないけど、霊夢がわけてくれないから、仕方なく霊夢の食べかけをもらってあげてるの」
「う~ん、そうだったっけ~、う~ん」
困惑に眉を顰める霊夢。
鈍感者で、霊夢の齧った同じ場所に口をつけると言うことの意味は分からないものの、何か訳がありそうで、それが恥ずかしいことだと気がついてはいるのか、霊夢は困った表情のまま天子と目を合わせることも出来ずにもぞもぞと体を揺すっていた。
「ごちそうさまっ。霊夢に食べさせてもらう桃は格別においしいわね」
「何よ。どろぼう」
「ふふっ」
「どうして笑うの?」
「さぁ~?」
霊夢の困り顔を見れたことに、天子は満足げに笑ってみせる。
それだけが目的ではないけれど、まさか天子が困った顔を見たいがために、わざといじわるしてるなんて霊夢は考えてもみないようだった。
「本当に天界関係はろくなものじゃないわ」
言いながらも次の桃に手を伸ばして、霊夢は齧り付く。
「その割に私のお土産は拒否しないのね」
「うん、この桃だけはいいわ。もう、このためだけにあんたが来ても、追い返さずに遊んであげてるの。相手は何物であれ、お賽銭とお土産もってくるのは拒否しないのが私の大方針よ」
「私は桃の付属物?」
「そうとも言う」
「そんなに好きなんだ」
「うん、毎日、毎食食べてもたぶん飽きないと思う」
「えへへっ」
「何よ。急に気持ち悪い笑いかたして」
天子の笑顔に、霊夢は露骨に嫌そうな顔をする。
「ん~ふっ、霊夢が毎日天界の桃を食べられる方法を考えたっ。霊夢が私と結婚したらいいのよ――――――――――。あっ、桃が転がった…………」
天子の天啓のような大名案に対する霊夢の反応は、目を大きく見開いたまま硬直し、口元に両手で抱え持った桃を取り落とすほど、大仰なものだった。
「な、な、な、け、けっ、こ」
落ちた桃は霊夢の膝の上で弾み、勢いはそのままに地面の上を転がっていったが、霊夢はそれどころではないのか、目を天子に据えたまま動くことも出来ずにいた。
表情こそ色々と変えては見せるものの、焦ったところなどついぞ見せたことのない霊夢が、おたつき顔を真っ赤にさせている。
「けっこ……ん、なんて……、まだ早いと思うわ。だって私達、まだ、大人って訳じゃないし」
「じゃあ、婚約だけしておいたらいいのよ。結婚は大人になってからでOKだし」
「あっ、そうか、そうなんだ、うん」
混乱する霊夢にチャンスとばかりに天子は体をくっつけ、霊夢の腕をとって、自分の腕と組んでみる。
普段の冷静な霊夢なら、すぐさまボカンと天子の頭を殴りつけるところだが、今はそれどころではないパニック状態なので、大人しくされるがままだった。
「今、『うん』って言ったわよね。じゃ、結婚、OKなんだ」
「えっ、いやっ、ちがうっ、そういう意味じゃなくって、えっと、えっと」
「霊夢、『うん』って言った」
「言ったけど、言ったけど、あ~ん、くっつかないでよぉ」
霊夢が困ってオタついている隙に、天子は調子に乗って霊夢を抱きしめて、身動き取れなくしてしまった。
体をすくめる霊夢の頬に鼻をおしあてて、ぷっくりとした頬の感触を、鼻先で味わった。
「『うん』って言った」
「違うの、違うの……」
「言った」
耳に軽く息を吐きかけながら囁いてやると、霊夢はきゅう、と体を小さくさせる。
初めは霊夢をからかうためのイジワルのつもりだったが、『結婚』と言う言葉にすら頬を染めるその純情さに天子の胸は高まり、自分で自分がコントロールできなくなっていく。
「霊夢、大丈夫よ。私にまかせて」
眼を閉じ震える霊夢の顎に手をかけ、天子の方へと強引に向かせる。
『結婚』の話題が出たときには言質だけでもとか思っていたが、こうなったら既成事実もありの気がしてくる。
「霊夢、優しくするから……、ねっ」
「ああっ、ああっ」
顎を引き上げられて、上向かされた霊夢は、困惑したように眉を顰めたまま、吐息を漏らす。
天子は霊夢の甘い呼気に引寄せられるように、目を伏せながら、霊夢の顔に唇と近づけていく。
「霊夢…………、女の子同士だけど、私ちゃんとするから」
自分を鼓舞するように、天子は強く言葉を発すると、ぎゅっと固く目をつぶって霊夢の唇目掛けて口を寄せた。
「天子」
霊夢の唇はさらりとした感触だった。
固くて、冷たくて、天子と思っていたのとはかなり違っていたが、何分天子も初めてのことだったので、こういうものかと思うだけだった。
少しだけ産毛がくすぐったくて気持ちよくて、唇を尖らせるように擦り付ける。
「こらっ、天子っ」
感触に夢中になり霊夢の唇を啄む天子に、霊夢は何度も名を呼んでくる。
唇を通して愛を交し合う恋人には全く似つかわしくない、怒ったように自分の名前を呼ぶ霊夢の声に、天子はしぶしぶ目を見開く。
「天子っ、あんた、よくも騙したわねっ。あやうく騙されるところだったわ」
目を見開いた先には、甘い果実の薫りと、薄い桜色。
天子が啄むその感触は、おみやげにもってきた天界の桃だった。
「よく考えたら――――、っていや、よく考えないでも、私達って女の子同士だから、結婚は無理じゃないっ。よくも、甘い言葉で騙してくれたわね。一瞬かなり本気になっちゃったじゃないの」
あんまりにも、ありそうでなさそうな、冗談のような展開に天子は落ち込む。
キスできると思った瞬間に、他のものに摩り替えられるなんて、振られ役にありそうなお約束の流れで、自分がその役にハマっているのはさすがにつらい。
「………………私は結婚してもいいわよ?」
なんとか本気っぽく真面目な顔で、霊夢に再びアタックをかける。
「何よ。結婚詐欺。あんたが最後に女の子同士って口を滑らせなかったら、危ないところだったわ」
「結婚詐欺は結婚するって騙して、お金とったりするのでしょ? 私のは違うじゃないの」
「いや、うそ。結婚してあげるって騙して、あたしから……、キ、キスを、う、奪おうとしたじゃないのっ。女の子同士は結婚できないのに」
「キスができるんだから、結婚だってできるわよ。だから私、嘘ついてないもん」
霊夢は先ほどの空気に呑まれていたことを振り払うように、わざとらしく笑ってみせて、手でパタパタ顔を仰ぎながら、なんでもない軽い笑い話にしてしまおうとしている。
確かにあわよくばと、霊夢をからかっているついでの告白で、本気っぽくはなかったが、霊夢となら結婚してもいいと言うのは、嘘ではなかった。
「天子の言うことだから信じないもの。里の人で女の人が女の人と結婚してるのって見たことがないもの」
霊夢はそんな天子の内心など知るよしもなく、余裕が出てきたのか、騙されないものとばかりに、フフンと少し自慢混じりの笑みすら浮かべたりしている。
「どうしたら信じるのよ。私の言うことを信じられないんだったら」
「そうねぇ。例えば、ねぇ。恋愛とか苦手そうで、融通とかが利かなくって、不器用で、そういう女の子がね、もし私のことが好きで、本気でお付き合いしてください、とか言ってきたら、女の子同士もありだなぁ、って認めてあげるわ」
「少々、例えなのに具体的っぽい感じがするわね?」
「べ、べ、べ、別に意味なんてないわよ? 例えばよ、例えば。だいたい、女の子同士で結婚とか意味不明発言するのは天子だけなんだから。ま、他の人が言ってくれたら結婚しちゃうかも」
「何その不条理。私が霊夢に意識させてきっかけ作ったのに、どうしてとられちゃうのよ。これって寝取られ?」
「あっ、またエッチ発言。天子はエッチ。どうして天人ってエッチなことばっかりなのよ」
恥ずかしくなったのか霊夢は、天子に向かって乗り出すように話していたのを、あわててごまかすように顔をそらして他所を向く。
割合とのんびり屋で少々のことには動じない風でいて、時折ちょっとしたことで素の顔を出してしまうところが、かわいらしく天子には思えた。
こうやってじゃれあうように、イジワルしてみたり、怒らせてみたり、拗ねさせてみたり、ただそれだけで楽しくて、一緒にいる間だけ、自分のほうを見てくれるだけでいい。
天子は自分の霊夢に対する『好き』をそういう風に捉えていた。
「イーだ、霊夢が初心すぎるのよ」
自分のものになるとか、誰かのものだとか、必死すぎるのは、天子は好きではない。
結構本気なのだけれども、距離を置いて、冷静に観察して楽しむ。
余裕のある、『好き』だけでいたかった。
「霊夢って案外普通よね」
天子は今まで、自分の中に荒々しい感情があることを知らなかった。
「だってそうでしょ? 性別が同じだったらダメとかって……、決め付けたりしてさ」
「何よその言い草は」
天子のしゃべり方に嫌な感じを受けたのか、霊夢もさすがにむっとした顔を見せている。
でも天子は止めるつもりはない。
絶対にある訳がないと思っていた、本気の、奔流ような、『好き』が、天子に嫌なやつを演じさせる。
例え霊夢に嫌われてしまっても、脳裏に霊夢が普段いつも一緒にいる少女の姿が浮かび、どうしても許せなかった。
「あ、怒った? ごめんねぇ~。でもね、霊夢ってみんなが結構特別扱いしてるから、もっと他の人間とは全然違うって思ってたからね。なんていうの? あの子とあんまり変わんないのよね~」
今の天子は馬鹿な道化だった。
でも、やめられない。
天子がほんのちょっとしかけた悪戯に、霊夢が冗談で返した。
ただ、それだけのことなのに、胸の奥がチリチリとしてくる。
「な~んかね。自分のこと、普通、普通って言ってる子。名前、なんて言ったっけ~? 覚えてないわ」
「魔理沙のこと?」
「マリなんとか? うんうん、なんかそういう名前だった気がするわ。普通の魔法使いだとか、霊夢の真似している子」
軽薄な口調で馬鹿にしてみせる。
「普通だなんて、自分を守るための言い訳にすぎないって決まってるわ。だって、自分が特別な存在じゃなくっても、自分にとっては自分以外に代われないんだから。ある意味自分って特別な存在よね。他人にとってはゴミみたいだったとしても。それを普通って冗談めかせて、普通って言ってるってなんか気持ち悪い」
霊夢の隣には、絶対に自分で普通と名乗る人間がいるなんて、許せない。
「ああいう風に妖怪退治とか、他のこととかも真似されたら、霊夢のしていることだって普通にされちゃうんじゃないの? 普通の私ができるんだから、何も特別なことじゃありませんって」
口に出してから天子は気付いた。
霊夢には『特別』でいて欲しい。
自分には手の届かないままでいて欲しい。
本当はもっと仲良くなりたいし、好き同士になれたら最高だけれども、それよりも永遠に届かないままのほうが、もっと辛くて、苦しくて、胸が焦がれるけれども、素敵だった。
だから、霊夢の隣にいる人間は、絶対に普通であってはいけなかった。
「周りだって魔理沙が出来るんだから、たいしたことないって、誰にでも出来ることなんだって、普通のことなんだって、霊夢が馬鹿にされちゃう。霊夢が特別じゃなくなっちゃう」
天子は霊夢に恋していた。
でも、それよりもはるかに強いのが、霊夢に対する憧憬だった。
手に入って汚れるよりも、永遠に美しいまま、手も触れることも出来ない憧憬の対象であって欲しかった。
どうしてそういう感情が生まれてしまったのかは、天子にも知りえないことだった。
「霊夢が馬鹿にされちゃうよぉ」
夕暮れ時に霊夢が縁側で見せる、あの寂しげで、幸せに満たされて見える不思議な表情。
あの表情のまま、ずっと一人でいて欲しい。
天子自身に対してすら、拒絶を貫いて欲しかった。
霧雨魔理沙がどうかなんて、どうでも良かった。
夕焼けに染まる霊夢の誰に向ける訳でもない笑みこそが、天子の求めるすべてだった。
霧雨魔理沙に対する悪口を積み重ねた先に、天子が自分ですら知らなかった、天子が霊夢に求めるものに辿り着いた。
「…………ごめんね、天子。プロポーズことわっちゃって」
ポツリと漏らした霊夢の言葉に天子はわれに返った。
霊夢は嫌な態度の天子のことは怒ってはおらず、むしろ優しげと言ってよかった。
「プロポーズ?」
「天子、私と結婚しようとか、言ったでしょ?」
あんまり霊夢が恥ずかしがるものだから、イジワルしていたのが元々の話の流れ。
天子が居もしない霊夢の相手を想像し、勝手に嫉妬して、嫌なヤツになっていたのだった。
そして最後に天子は、自分さえ知らなかった本音を吐き出したのだった。
「私、私、私……」
最後に自分が吐き出した言葉の意味を理解すると、天子は自分の顔が真っ赤に染まっていくのがわかった。
『霊夢が特別じゃなくなっちゃう』なんて、じゃれかかるようなプロポーズよりも、もっと激しい愛の言葉に等しい
霊夢のことが特別です、と言ってしまったようなものだった。
正直なところ、愛を告白したのと変わらなかった。
それがわかっているのか、天子の態度を霊夢は全く責めることなく、うれしげにさえ見えた。
「霊夢、お、お願いだから、顔、見ないでよ。本気で恥ずかしい……」
「あははっ、エッチ天人なのに、照れてる照れてる」
「もうっ、霊夢馬鹿ぁ~」
「うふっ、照れてる天子って可愛いわぁ~。天子ってこういう気分で私のこと、イジメてたんだぁ」
「やめてよぉ」
可愛いと霊夢に言われるのはうれしかったが、霊夢との立場が逆になり、霊夢をからかう時にどんな思いでいたのかも知られてしまい、天子は羞恥に顔がますます赤くなるのを止められなかった。
「可愛いわよ、天子。顔真っ赤ね。とっても恥ずかしいいんだ? くすくすっ」
霊夢が耳元で無邪気な童女のような声で囁く。
でも声の調子とは裏腹に、確信犯的に天子がもっとも恥ずかしくなるところを責めてくる。
「可愛い、恥ずかしがり屋さん」
「うっ、うっう~」
本気の本気で恥ずかしくて、胸がむずむずして、霊夢の顔を天子は見ることができなかった。
身を硬直して呻くことで精一杯だった。
もう対等の結婚どころか、立場は逆転して、霊夢に弄られる可愛いペットみたいだった。
「恥ずかしいから、顔見ないで……、お願い……」
今までの天子が一方的にかまいかけるよりも、こうやってイジメられるほうが、霊夢をずっと近くに感じることが出来た。
それにイジメられているほうが、恥ずかしくって、胸がムズムズして、息苦しくて、切なくて、ずっとずっと気持ち良かった。
「だ~め、こうやってずっと近くで顔見詰めていてあげる」
「うううっ、恥ずかしい、よぉっ」
もっともっと霊夢に苛められて、可愛がって欲しかった。
ある意味ではこの結末は、天子にとって結婚よりもはるかに最高だった。
2.魔理沙
「知ってるか? アリスのところの上海人形最近すごいんだぜ。目玉がさぁ~」
縁側に霊夢と並んで腰掛け、魔理沙が大げさなまでの身振り手振りを交えて、一方的に話しているのはいつものことだった。
「あ~、何で伝わらないのかなぁ? このすごさが。色が変わるんだぜ、色が。もうビックリだぜ。青だったり、赤だったり、ピカッってしたりしてさぁ」
秋のあっと言う間に落ちる夕日も、這いよる闇のもたらす感傷も、こうやって霊夢と一緒にいれば魔理沙には縁遠いもので、黄昏時でも日中にいるのと全く何ら変わらず、ただ楽しいだけだった。
「赤だったり、青だったりって、何なのよ。アリスと一緒にお人形で遊んだってことよね? もう、あんたらが仲良すぎるのは皆知ってるんだから、わざわざ言いふらさなくってもいいって」
霊夢が興味なさそうに、合いの手を入れてくる。
霊夢がこういう態度なのはいつものことなので、魔理沙は慣れっこだった。
霊夢はなんのかんの文句を言いながらも、一応は魔理沙の話は聞いてくれている。
ただ、ここのところ特に気だるげに感じることが何度かあり、魔理沙はそこが気になってはいた。
「違う、違う、そうじゃなくってだなぁ。あ~、アリスと一緒にいたのはいたんだけど……、さぁ……」
霊夢の脇には籠に一杯入った桃が置かれていて、魔理沙の話に相槌を打ちながら、おいしそうに滴る果汁に手が濡れるのも気に留めず、霊夢は齧りついていた。
よほど好物なのか、果実を口に含んだ瞬間、少しだけ霊夢の頬が緩む。
桃の取れる季節じゃ無い時でも、霊夢の家にはいつも桃があって、魔理沙にも何処から手に入れているのか不明だった。
「仲良しさんと一緒に人形ごっこか、楽しそうね」
「あ~、霊夢からかわないでくれよ。に、人形ごっこってなんだよぉ……、違うよぉ」
思わず霊夢の言葉に照れてしまう魔理沙。
「人形ごっこって、口ごもって、真っ赤になるなんて恥ずかしい。ふんっ、じゃ、『今度は魔理沙が人形の役ね』とか、やってるんでしょ?」
魔理沙はそういうつもりはないのだが、結果的にアリスとの仲良し自慢みたいな話になるのは毎度毎度のことなので、霊夢の攻撃には容赦がなかった。
「『それじゃ、今日はどんな服を着ましょうか? お着替えしましょうね』とかも、やっているんでしょ、どうせ?」
「あっ、うっ、ううううっ、あうぅ…………」
霊夢の攻撃に、魔理沙は小さくなり、黙り込んでしまう。
体をフルフルと震えさせ、エプロンを握り締めて、魔理沙は顔を染めて俯いてしまう。
そんな態度を取ったら、まるで本当に霊夢が言ったみたいなことをしていると思われてしまう。
魔理沙が人形代わりの人形ごっこ自体はしたことはなかったが、ちょっと似たことがあったので、思い出すと恥ずかしく、思い切って否定できなかった。
「魔理沙そこで黙ったらダメなんじゃないの? 黙ったら――――全世界にアリスと魔理沙はお人形ごっこしてますって、喧伝してるもんじゃない」
「いや、喧伝はしてない。断じてないぜ。しかも全世界には絶対にありえないから」
似たようなことはあったが、それでもさすがに自分達を人形代わりの人形ごっこはしてなかったので、何とか霊夢に突っ込みを入れる。
「あら? 復活早いわね」
「そりゃ、実際に『人形ごっこ』、自体はやってないんだからな」
「でも、お着替えの部分の否定はしない、っと」
「うぐっ」
魔理沙の微妙な言い回しに反応して、霊夢は鋭く突っ込んでくる。
普段はのんびり屋の癖にこういう時だけは、やたらと反応が良すぎるのが霊夢なのだ。
「まっ、かわいそうか、こんなに言っちゃ。何しろ、秘密のいけない遊びなんだからねぇ」
魔理沙が黙り込んだのをいいことに、霊夢はさらに責め立ててくる。
「そうね。お互いを人形に見立てて、着せ替えっこしてるなんて、囃し立てちゃだめよね。秘密のいけない遊びなんだからね」
『いけない遊び』を連発され、魔理沙はぐぅの根も出なかった。
何しろアリスとそれっぽいことをしたのは事実だった。
アリスの家に遊びに行った時に、魔理沙がいっつも似たような白と黒の色合いのばっかりを着ているのを、アリスが見咎めて、いろんな服に着せ替えられた。
髪の毛もふわふわのクルクルにされて、パステルカラーのやら、お姫様っぽいのやら着せられて、アリスに『かわいい、かわいい』を連発されたりした。
魔理沙は思いっきり嫌がって見せたが、実際は満更でもなかった。
結構面白くって、いい気分だった。
でも、霊夢に突っ込まれてみると、魔理沙を人形に見立てたお人形ごっこで、すごく恥ずかしいことをしていた気がする。
「うわぁああああああっ」
あらためて思い返すと思いっきり恥ずかしく、とんでもないことをしていたことに魔理沙は気がついた。
着替えはほとんどアリスの手によってで、魔理沙は裸にされて、スカートも、シャツのボタンを留めるのもアリスがしてくれた。
薄い絹のストッキングを履かされた時などは、踵を持ち上げられ、足の裏にアリスの手の平が触れた状態で、布地を足先にくぐらされた。
下着一枚の状態で、髪に触れられ、熱したコテで型を付けられ、リボンを飾られた。
お人形ごっこの時のアリスの距離の近さや、耳元での声の調子や、手が触れたくすぐったい感触を思い返すと、とてつもなくエッチだった。
「何思い出してんの? エッチ」
「そ、エッチとか、そんなこと、ないぜ」
決め付けるように霊夢が言うが、魔理沙はそれどころではなく、頭を抱える。
煩悶する魔理沙に呆れたのか、霊夢が横でため息をつき、桃を齧っている。
魔理沙は黙って食べる霊夢の横で、アリスに着せ替えごっこされた感触を思い出していた。
体に感じるくすぐったさもそうだったが、胸の奥にあるものや、頭がぼーっとする感じも、全部が気持ちよかった気がした。
アリスとしたエッチなことは、とても恥ずかしく頭を思わず掻き毟ってしまうほどだったが、同時に何故だか魔理沙はニヤニヤとしてしまう。
「ねぇ、魔理沙。あんたって一体何がしたいのよ?」
霊夢の声に魔理沙ははっと我に返り、あわてて顔を引き締めた。
自分が黙り込んでいた時間はどれぐらいだか不明だが、変な笑い顔を霊夢にしっかりと見られてしまっていたようで、霊夢は冷たい声を出している。
魔理沙は何でもない風を装うことにして、霊夢が怒っているようなので、無難な方へと話を向けることにする。
「う~ん、そうだな。晩ご飯でもつくろうぜ、一緒にさぁ」
「そういうことじゃなくって」
「一緒にするの嫌なのか? ずるいぜ、霊夢はさ。なんだかんだ言って私におしつけるつもりだぜ?」
「じゃなくってよ。魔理沙、何やってんのってこと。アリスと遊んで、ニヤニヤ思い出し笑いするのが魔理沙のしたいことなの?」
「べ、べつにニヤニヤなんて……」
「してたわよ」
「し、してたかも知れないけど……。そんなに怒らなくてもいいじゃないか」
「別に怒ってないわよ」
「怒ってるぜ。霊夢がそんなに恐い顔してるの見たことないぜ」
「じゃあ、怒ってることにしてもいいわよ。魔理沙がそう言うならね。じゃ、私の質問に答えて。魔理沙はそもそも何がしたくて、一人で家を出てまで生きている訳?」
「そんなこと急に言われたってわかんないぜ」
今日の霊夢は何故だか、変だった。
魔理沙は霊夢とはつきあいは長いが、こういう真面目っぽい話はしたことがなかった。
「難しい動機なんて別にないぜ。ただ、魔法を使ってみたかった、それだけだぜ。今は普通に魔法使えるし、どうしたいとかって別にないぜ。それじゃダメか?」
本当は、魔理沙は先のことなんて考えたくなかった。
霊夢は……、霊夢は特別でこの先何があろうが、ずっと博麗霊夢のまま、今の霊夢のままでいることが出来る。
一方、魔理沙の未来には何の保証もない。
魔理沙が今付き合っている連中は皆人外で、特別な力を持っているし、寿命も魔理沙に比べたら全然長い。
ひょっとしたら魔理沙が年老いて死ぬ時が来たって、今の魔理沙が見ている姿形と全く変化がないかも知れない。
ひょっとしたら、――――――――ひょっとしたら数十年経っても、連中にしたら人間の数日と感覚が変わらず、姿形だけでなく、中身の性格も、ちょっとした行動すら、時間が経ってないみたいに変わってないことだってありえた。
魔理沙の人生の果てで、何も変わっていない、魔理沙の過ごした時間が意味がないみたいに、何の変化もない風景を突きつけられたら……、そう考えるととても恐かった。
「はぁ――――、普通って」
「普通じゃダメなのか? 普通の魔法使いになれるってだけで十分じゃないか。すごく楽しいし。魔法は楽しい。霊夢や他のみんなと遊ぶのも楽しい。どうして普通じゃダメなんだぜ?」
魔理沙が”普通の魔法使い”になるには、家や、その他いろいろを投げ捨てる覚悟と、霊夢には見せてはいないが努力が必要だった。
人間じゃない、いわゆる化け物連中と一緒に遊ぶには、普通にしがみ付くことだって、必死のことだった。
霊夢は何にも特別なこともせずに、自然のまま人外に混じることが出来る。
霊夢は”特別”だった。
”普通”の人間の魔理沙とは違った。
「普通、普通、普通、普通――――――、魔理沙って、普通って言葉を隠れ蓑にして、楽してるのね。すごくズルイわ」
「どうしてだよ、何処がズルイって言うんだよ? 私が普通の魔法使いになることが、何処が悪いんだよ」
「はぁ――――――、別に普通の魔法使いでも、問題はないわよ。普通って名乗るならそれでもいいわよ。でも、普通の魔法使いが、どうして私の、巫女の真似事みたいなことをしたりしてるの?」
「それは…………」
『霊夢みたいになりたいからだよ』――――よほど、魔理沙はそう言おうかと思った。
でも、霊夢の友達でいるのに、一緒にいるために霊夢の真似事をしていた、とは言えない。
霊夢は特別だから、何もしなくっても物事が全て相手のほうからやってくる。
トラブルも、好意も、友人も、何もかもが、霊夢が指一つ動かさなくっても、相手のほうから擦り寄ってきて、霊夢に視線を向けてもらいたがっている。
一方魔理沙のほうは、霊夢に相手してもらいたい連中に、無理矢理割り込んで、邪魔なことをして初めて構ってもらうことが出来るのだった。
巫女の真似事をして、トラブルに首を突っ込んで、魔理沙はようやく見てもらうことが出来るのだった。
「普通の魔法使いでいたいなら、魔理沙のやりたいことを、やりたいようにやればいいじゃない? どうして私のやらなければならないことに首を突っ込むのかなぁ? 魔理沙は魔理沙のやりたいことをする、私は私の仕事をする。それでいいじゃないの――――――――――正直――――――――――――魔理沙のこと、――――――邪魔――――、かも知れないわ……………」
「どうして私が邪魔なんだよ!!」
言おうか言うまいか、霊夢にしてはかなり迷ったのか、何度かつっかえつつ邪魔と言う言葉を吐き出した。
魔理沙としては、うすうすここ最近の霊夢の態度に変化を感じ始めていたので、言われてみれば納得と言う感じもしないではなかった。
それでも、やはりはっきりと邪魔と面と向かって言われてしまえば、冷静にいることはできなかった。
「ん~、ねぇ……、大体魔理沙の売りって何よ?」
霊夢の周りにはいろんな人間やら、妖怪やらがいた。
けれど一番仲がいいのは魔理沙のはずだった。
初めは、魔理沙は気がつかないふりをしていた。
昔は霊夢の周りには誰もいなくって、魔理沙しかいなかった。
それが段々と大きな事件が起こるごとに知り合いが増え、霊夢と魔理沙だけが一緒にいる、そういう機会は少しずつ減っていった。
霊夢が魔理沙と一緒に過ごす時間が少なくなったのも、霊夢は何しろ幻想郷で唯一の神社の巫女である訳だし、巫女の仕事が食い扶持である訳だから、年から年中魔理沙と遊んでいる訳にはいかない。
魔理沙だって一応は魔法使い業で生計を立てている訳だから、さすがに遊んでばかりいるとご飯が食べれなくなってしまう。
だから、霊夢と始終一緒にいなくっても何も不自然なことはないはずだった。
「私の売りってなんだよ? 私がいいたいのはそういうことじゃなくってさぁ……、どうして霊夢にとって私が邪魔なんだってことだよ。私達友達だったよな? 仲良しだったよな? どうして、急にそんなこと言い出すんだよぉ!!」
それでも魔理沙が、一番昔から霊夢を知っている。
霊夢の一番の仲良しは魔理沙でなくてはいけないはずだった。
もちろん霊夢と魔理沙がそう話し合って決めたことではないが、魔理沙の中ではそういうことになっていた。
何しろ霊夢が面白いヤツだと一番初めに気がついたのは魔理沙で、他の連中は魔理沙の真似をしていたけだったのだから。
「私が魔理沙に興味がないんだから、仕方ないじゃないんじゃないの?」
「そんな……、私と霊夢は一番の仲良しだっただろ?」
「でも、今は違う」
霊夢の言葉には全くと言っていいほど容赦がなく、魔理沙を傷つける。
「魔理沙はずっと変わらないのね。ずっと出会った頃のまま。そういうのを良し、とする人もいるかも知れないけど、私には退屈」
魔理沙は自分の顔が引き攣っているのがわかった。
「魔理沙が私に興味を持ってもらえる売りってなんなの? 魔理沙が私に一番に扱って欲しいって言うなら、そうなるだけの価値をまず見せて欲しいわね」
霊夢は青ざめて立ち尽くす魔理沙を見て、楽しそうだった。
霊夢は魔理沙を意図して傷つけている。
魔理沙が覚えている限り、魔理沙と霊夢がこういう風に言い合ったことなどなかったはずだった。
「私は元気だぜ」
「ふん?」
「好奇心いっぱいで、いろんなことに興味を持って、楽しいことをいっぱい考えられるんだぜ」
「ふっ」
「と、友達だっていっぱいいるし…………」
霊夢は何も言わずに口を歪めただけだった。
「魔法が使えるぜ。速く飛べるぜ。あ、う……、な、なんだったっけ、家事だって、掃除とかだって、出来るし……、さぁ…………」
自分で並べ上げながら、それらが霊夢にとっては価値がないものなんだろうと、魔理沙は思いつつ、だからと言って霊夢を惹きつけられるものは全く出せそうもなかった。
「全部、いらないわね」
「う……、ううぅ」
「どれ一つとして魔理沙が持っているものは、私にとって何の価値もない。むしろ魔理沙は邪魔」
容赦のない霊夢の宣告が魔理沙を貫いた。
この頃の霊夢の態度にひょっとしたらと言う疑念はあったが、改めて言葉にされるとつらかった。
「魔理沙、勝手に家に入り込んで食事作ったり、掃除してくれたりしてたみたいだけど、そういうのって本当に迷惑。あんたが私のためにって、思ったら思うほどすごく迷惑なの。つきまとわれてる感じが気持ち悪くってたまらない」
「そこまで…………?」
「そうよ。嫌いを越えて、気持ち悪いの」
「そんなに言わなくっても、いいじゃないかよ~…………」
魔理沙は完全に打ちのめされて、泣きたくてたまらないのに、媚びるような笑いを浮かべてしまう。
霊夢がそんな魔理沙の笑い顔を見て、苛立ちを募らせていっているのが分かっているのに、魔理沙はことさらに懐く犬のように振舞ってしまうのだった。
「その笑いかたっ」
今にも唾でも吐きかけてきそうなほど、霊夢は顔を歪めて魔理沙を睨みつける。
「えへへっ、冗談だよな? 霊夢、そうだよな? わ、私のこと嫌いな訳ないよな?」
「どうだっていいわ…………。とにかくもう此処には来ないで? いい?」
「いや、私は霊夢のところに何度だって来るんだ。絶対に遊びにくるから」
「魔理沙……、あんたねぇ。そんな態度が私をむかつかせるんだって。本気でいらだってくるわ。むかつく」
「なぁ霊夢。今日は何が食べたい? 霊夢の食べたいもの、つくってやるからさぁ。機嫌直せよぉ…………」
すがりつくように伸ばした魔理沙の手を、霊夢は殴りつけ、近寄ろうとする魔理沙の脛を蹴りつける。
「消えてよ。あんたの顔なんて見たくないんだから。消えないんだったら、力ずくで追い出すだけよ」
「霊夢が怒るようなことをきっと私がしたんだな。だから霊夢は怒ってるんだな。ごめんようぉ、霊夢ゆるしてよ」
「嫌っ、気持ち悪い、懐くみたいな笑い方するなっ」
霊夢は激高している。
歯を剥き出して怒っている。
にもかかわらず魔理沙は霊夢の態度にわざとらしさを感じてしまう。
霊夢の言葉は長い付き合いから本気なのだと分かるし、魔理沙に霊夢が苛立っていることも目つきから見て取ることが出来る。
霊夢の怒り方はわざとらしい。
何か意味があって怒っている。
魔理沙は、それは理解しているし、きっと霊夢は真面目な話がしたいと思っていることもわかっている。
霊夢の怒りは魔理沙に対する問いかけで、きちんと答えることで魔理沙と霊夢はもっと違った関係になれるかも知れない。
でも今の魔理沙には霊夢の投げかけてくる漠然とした問いに、答える術を持ってはいない。
未来の、大人に近付いていく自分達について話すことは、魔理沙には恐いことにしか思えない。
「わかった、アリスだな? 私がアリスと仲がいいから怒ってるんだぜ? ふふ、でも安心していいぜ、なんて言ってもアリスは私よりもずっと霊夢の――――――――――」
だから魔理沙はいつものように道化を演じてしまう。
へらへらと笑って、深刻な話を、意味のない笑い話に変えてみせる。
道化を演じていれば、いつも周りは魔理沙のペースに合せてくれる、今まではずっとそうだった。
「魔理沙……っ、いいかげんにっ」
霊夢は思わずと言った感じに立ち上がり、魔理沙に足を向けて踏み出した。
怒鳴らず、呻くように腹の底から漏れ出た声は、霊夢がどれだけ苛立っているのかを示していた。
魔理沙は霊夢が恐くなり、喉の奥がひくつくのが分かった。
霊夢は、本気で魔理沙に対して怒っている。
「ひっ、に、にらむなよ……、わかったよ。かえるよ。でも、霊夢が嫌いだって言っても、私は霊夢のこと気に入ってるからな。絶対にあきらめないからな。霊夢がダメだって言っても、また絶対に来てやるからなっ」
「あっ、そう」
最後の霊夢の返事は気のないものだった。
先ほどまでの怒りの表情は消えうせ、まるで何事もなかったような顔をしている。
今は平静に見えても、霊夢は本気だった。
わざとらしくても、本気で怒っていた。
本気の霊夢は恐くて、魔理沙はどうしようもなく足が震え、目の前が真っ暗になり、どこまでも落ちていくような浮遊感に、頭がくらくらした。
「じゃあ、またな霊夢っ」
眩暈がして、霊夢の発した言葉に絶望を感じ、今すぐにでも消えてしまいたいと思いながらも、魔理沙は歯をにっと剥き出しに元気に笑ってみせた。
それが、皆が”魔理沙”と思う、魔理沙の姿だったから。
3.アリス
「よく来たわね。もう~、何? どうしてそんな所で立ち止まってるのよ。早く座りなさいよ」
霊夢を前にして立ちすくむアリスを、霊夢は強引に手を握り隣に座らせる。
縁側を庭に向かって、二人で並んで座る。
霊夢の右側が、アリスが博麗神社に遊びに来たときに定位置で、霊夢を挟んだ反対側に魔理沙がいつも座っていた。
博麗神社で遊ぶ時はいつも三人でだった。
魔理沙がおらず、アリスが一人で霊夢のところに来るのは初めてだった。
「桃があるのよ、桃が。食べる? 食べるわよね?」
霊夢はアリスが魔理沙と一緒に尋ねて来なかったことには、何ら不審は抱いておらず、むしろ普段よりも上機嫌にアリスには見えた。
「いや~ね~。あいつ自身はあんまり遊びに来てくれてもね~、って感じなんだけど。この桃だけはいいのよ」
桃の出所である、比那名居天子について語りながら、霊夢はわざとらしく眉を顰めてみせる。
「この桃のためだったら、遊びに来るのは大歓迎よね? ね、アリスだってお裾分けもらえる訳だし」
「ええ、そうね……」
アリスは口ごもる。
そんな時にはたいてい魔理沙が割って入り、話の接ぎ穂を作ってくれたものだった。
でも、今日は、魔理沙は居てはくれない。
「いい天気ね」
正直、空は曇天で、到底いい天気とは言えないような雲行きだった。
ただ、アリスは何かを言わずにはいられず、口にしただけだった。
「ん、すごく雲ってるわよ。アリス的にはジメジメした雰囲気のほうがいい天気だったり――――――――、って嘘、嘘。イジワル言っちゃいけないわよね。はい、剥けたわ。食べてね」
「うん」
皿にのせた桃に、櫛を刺して霊夢はアリスに渡してくれる。
気分ではないが、口にしてみると桃は瑞々しく、甘い汁が果肉から溢れてくる。
十分に熟した白桃は、昨晩から何も食べていなかったアリスの体を満たしてくれる。
つるりとした喉越しの良さと果汁が、食欲が無かったはずなのに、あっという間に出された一皿を平らげさせた。
「おいしかった?」
「うん、とっても。うん……、本当に、信じられないぐらいよかったわ。こんなにおいしい果物たべたのって初めてかも」
「そうでしょ。よかったわ。アリスがおいしいって言ってくれたことも良かったけど、私だけが一人でこの桃おいしいって言ってる訳じゃないってことが証明されたのが、もう一つよかったことね」
「うん」
どうして、食べておいしく感じるのかと、アリスは恨めしく思う。
つらくて何も喉を通らないはずだったのに、おいしい物を出されただけで、体は簡単に受け入れてしまう。
いっそ、心のままに、何も食べれなくなってしまったほうが良かったのに。
「今日はどうしたの? めずらしいわね、アリスが一人でなんて。たいてい魔理沙と一緒なのにね」
「うん」
「まぁ、大体は想像がつくわ。魔理沙とケンカしちゃった? そうでしょ?」
「ええっと」
「わかるわ。うん、うん。魔理沙って落ち着き無いところがあるから、大方アリスの言うことなんか聞かないで、こうアリスの我慢にならないところに触れちゃった? どう、あたり? あたりでしょ?」
「…………」
「あんた達もたいがい仲がいいと言うか、悪いと言うか、しょっちゅうケンカしてるわよね。実のところ私も魔理沙には時々腹に据えかねるところがあったりするから、アリスの気持ちはわかるわ」
「違うのっ。今日一人で来たのは、霊夢に話があったからなの…………よ」
魔理沙のことを持ち出され、思わず抑えていた感情がほとばしり、アリスは大声を出してしまう。
「ケンカ……、したんじゃ……、ないのよ…………」
思わぬ感情の爆発が過ぎると、アリスの勢いは尻すぼみになる。
めったに見ないアリスの極端とも言える反応に、霊夢も驚いているようだった。
「う、ふぅ……ん、そうなんだ。私てっきり……。ごめんね」
霊夢が、アリスが一人で来たことを不思議に思ってくれていたのには、少しうれしかった。
霊夢はアリスのことを一応は気にかけてくれている。
魔理沙がいないことにも、ちゃんと気がついてくれている。
そのことを思い出し、アリスの胸が痛みに震える。
「あの……」
沈黙を保ったまま、アリスが話すのを待ち構える霊夢を前に、ようやくアリスは覚悟を決めて口を開く。
「あのね…………」
まるで霊夢に愛を告白でもするようなシュチュエーションだと思った。
もし、アリスが実際に霊夢に好きだと伝えるならば、こんな風に思わせぶりに、でも中々言い出せないような、そんな風になるだろう。
「きのう魔理沙に会ったの」
魔理沙のことを思い出し、アリスは語り始める。
「家に帰る途中だったのかしら? 森の真ん中で会ったのよ。何処に行ってたのかって聞いたら、博麗神社って答えるから、どうして私も連れて行かなかったのって怒ったの」
なんとなくだが週に一度は、アリスと魔理沙は顔をあわせるのが習慣みたいになっていた。
特に決めた訳でもないのだが、週の真ん中の日が、二人が顔を見せ合う日だった。
前回は魔理沙がアリスの家に来たので、その日は交代にアリスが魔理沙のところに向かう番だった。
「いつもだったら私が怒ったりしたら、魔理沙はこれでもかってぐらいに喜んで、馬鹿みたいに私のことからかってくるのに、その日に限ってすごく殊勝で、大人しくあやまってきたの」
帽子を目深にかぶり、アリスとは目線も合わせず、俯いたまま魔理沙はぼそぼそと喋った。
「あんまり素直すぎるものだから、私、何かたくらんでるんでしょ? って言ったわ」
魔理沙と一緒に霊夢のところに遊びに行くことを、すごく楽しみにしているのを知っているはずなのに、アリスのことを無視して置き去りにしてしまったことに、アリスはすごく腹を立てていた。
だから普段とは違う魔理沙の態度にも、あまり疑問を持つこともなく、アリスは一人で怒ったままだった。
「普段の魔理沙を知っているなら、そう思うのも仕方ないわよね? 魔理沙ったら、いたずらとか、そういうのがすごく大好きで、まるで小さな子供みたいだったんだもの。何かあると、すぐに悪巧みばっかりしてた」
アリスは魔理沙のことを思い出す。
「でも、どこかそんなところが憎めなかったのよね……」
目深に被った帽子を怒ってアリスが引き上げると、現れた魔理沙の顔はアリスの予想とは違うものだった。
ぼーっとして目線がどこを見ているのか分からない感じで、まるで目の前にあるものが信じられず、夢の中にでもいる、そんな印象をアリスは受けたのだった。
「実際のところは、悪巧みとかじゃなくって、魔理沙は体調が悪かったのね……たぶん」
魔理沙が体を悪くする。
そんなことをアリスは想像したことなどなかったのだった。
「ううん、はっきりとおかしかったのね。頬を真っ赤にして、目が潤んだみたいになってて、顔がむくんでいた気がする」
そういう大人しい魔理沙もかわいいものだな、と場違いなことを思ったことをアリスは覚えている。
「うん、風邪かなんかだと思ったの。魔理沙が風邪なんかひくんだって、ちょっとぽかんとしちゃって……。私、そんなこと気がつかないで怒った後だったから、居心地が悪くって、『ちゃんと体は大事にしなきゃダメじゃないの』とかそんなことだけ言ってほうったらかしにしちゃって」
家にくっついていって、看病したほうがいいんじゃないか?
アリスの家に無理にでも連れて帰って、面倒見たほうがいいんじゃないか?
アリスは魔理沙の様子に、そう思った。
でも、具合の悪そうな魔理沙にあれこれ世話を焼く自分をアリスは思い浮かべたが、なんとなく博麗神社の件で置いて行かれたことへの拗ねと、魔理沙の面倒を見る気恥ずかしさが躊躇となって、そのまま大人しく立ち去る魔理沙をただ見送るだけだった。
「そのときにおかしいって思ったら、よかったの」
もちろんアリスも魔理沙のことが心配だったし、そのまま放っておくつもりなどなかった。
だから一晩だけ様子見のつもりで、その日は魔理沙の家に行かなかった。
「ごめんなさいっ、霊夢っ、わたしっ、おかしいとは思ったの。思ったから、ちゃんと次の日、起きたらすぐに、魔理沙の家に行ったの。本当に、すぐに行ったのよっ、でもっ」
アリスの目から涙が流れ出す。
霊夢にちゃんと言わなければとアリスは思うが、言葉は一向に続かずに、嗚咽だけが溢れてくる。
「ううううっ、ひっく、ううっ、ま、まりさぁ。魔理沙ね、動かなくなってたの。もう…………。あああっ、ああっ、ほ、ほんとうに、ごめんなさい、霊夢っ」
散々、泣いたはずなのに、涙は止らなかった。
「ま、魔理沙、本当に眠ってるみたいで、すぐに、でもっ、動き出しそうで、冗談だと思った、冗談だとおもったのよぉっ」
だが、アリスの口から吐き出した言葉と、実際に起こったことは全く違っていた。
あわてて来たためアリスの息は上がったままで、ドアのノックも申し訳程度で返事も待たずに、勝手に家にアリスは上がりこんだ。
昨日のあからさまなまでに元気のなかった魔理沙の様子は、アリスにとっては心配のたねで、細かい礼儀なんて構っていられなかった。
心配でたまらなかったにも係わらず、一晩のこととは言え魔理沙を放置してしまったことに、既にアリスは後悔を感じ始めていた。
魔理沙の名を呼びながら、アリスは建物の中に入り込み、魔理沙がいつも寝転がっている居間へと向かった。
魔理沙の家は小さいながらも、ちゃんと寝室や、書庫や、魔法の勉強のための部屋が供えられている。
なのに、魔理沙は結局便利だからと、居間に怪しげな収集物や、魔術書、実験道具を置き、その隙間で食事をして、ソファーで寝るような生活をしていた。
まさか人を心配させるほどの不調を見せながら、いつもの場所にはいないだろう。
アリスは思いながらも、足を真っ直ぐに居間へと向けた。
「魔理沙?」
首だけ部屋の中へ伸ばすようにして、アリスが居間の中を見てみると、定位置のソファーの上に魔理沙の姿は見えなかった。
病気にもかかわらずソファーに寝転がって、ウンウンと唸ってやしないだろうか、との疑念もあっただけに、魔理沙がいなかったことにアリスは胸を撫で下ろした。
魔理沙なだけに、どんな行動をとったものだか知れたものではないだけに、大人しく寝室で休んでいるようなので、本気で一安心だった。
「もうっ、心配かけさせるんだから」
ほっとしたことで、いつもの憎まれ口を叩ける余裕も生まれてくる。
「ほんっと人の気もしらないで、迷惑ばっかりかけて。罰として、ここの部屋を綺麗に掃除してあげようかしら?」
もちろん、そんなことは魔理沙にとってはありがた迷惑で、アリスに整理整頓されてしまった部屋を見た魔理沙がどんな顔をするのか想像して、一人噴き出した。
服は脱ぎっぱなしで椅子の背に引っ掛けられ、机の上には何やら薬っぽいものを調合するための薬研があり、すぐ横にかわいらしい柄の茶碗が並び、積み上げた魔術書の上に植木鉢が載ってたりしている。
風邪薬を作りでもしたのか、今日の机の上はいつもよりも混沌としていて、物と物の隙間に薬草やら、乾燥させた木の根や、丸薬、菌糸類がごちゃごちゃに並んでいるのが、常とは少しだけ違うところだった。
「でも、私のあげたお人形だけはちゃんと扱ってくれているみたいね。本当だったら、もっとちゃんとしないといけないじゃないの、って説教するんだけど、こういう風にされると……、怒れないじゃないのよ」
アリスの視線の先には、仲良く肩をくっつけあう人形達がいた。
寝床代わりのソファーの魔理沙の頭がくる場所に、魔理沙人形とアリス人形が手を繋いで、座っていた。
アリスとしては、ここはコレクションの中からこれぞと言うものをカスタムして作りたかったのだが、残念なことに魔理沙はビスクドールが恐いらしかった。
グラスアイの虹彩の作り出す模様の美しさ、一つ一つに微妙な違いがあり、偶然も左右して同じものは一つとして存在しない面白さ、虹彩に現れるグラデーションは覗き込む角度で色が変わり、まるで万華鏡のようで、いくら見ていても見飽きることはない。
そういったことを魔理沙にも知って欲しく、アリスのよろこびを共有して欲しかったのだが、魔理沙は『目が恐い、どこに行っても私のことみてるぜ?』、とただひたすら不気味がるだけだった。
黒目の部位が小さく、奥目がちになると、グラスアイの表面がドーム形になっていることから、正面以外から人形を見ても、視線が追いかけてくるように見えることがある。
「グラスアイは追視があるからいいんじゃないの」
と、人形のことになると夢中になってしまうアリスは、魔理沙とのやりとりを思い出し、愚痴った。
「ま、魔理沙にはお似合いよね。なにしろお子様なんだもん」
フェルトを使って手縫いで作られた、かわいらしいぬいぐるみ。
ふわふわとした触感で、抱きしめると気持ちがいいのか、よく魔理沙は抱っこし、ソファーに寝転がっていたものだった。
「ふふっ、抱っこしたら気持ちいいって、ほんとにお子様よね。そういうところが可愛いんだけどね」
言いながらも魔理沙のそういう様子を思い出すと、アリスは思わず笑みを浮かべてしまう。
他のみんなは魔理沙とアリスの関係をどう思っているのかは知らないが、アリスにしてみれば魔理沙は妹みたいなものだった。
お子様の癖に生意気な口を利いて、何かにつけ無理して背伸びして、何でもない風な顔を見せながら人に負けまいと一生懸命になっている。
そんな子供っぽいところが、アリスにとってはかわいくて、かわいくて仕方なかった。
可愛い妹みたいな魔理沙と一緒に遊ぶだけで、本当に楽しかった。
あれこれ文句とつけて、世話を焼くことも楽しかった。
「っと、おかしいわね、霊夢がいないわ」
自分で考えたことに照れて、まるで誰かに見られてでもしている様に、アリスはあわてて真面目な顔をする。
アリスが魔理沙にあげたぬいぐるみは三体で、アリスと魔理沙、そして霊夢だった。
三体はいつも一緒に並べてあって、博麗神社で座るみたいに、霊夢を中心に魔理沙とアリスが挟んで並んでいた。
その霊夢が今日は見当たらなかった。
「もう霊夢だけ連れて行ったのね。ちゃんとアリスもつれていきなさいよ」
一人愚痴りながら部屋の中へとソファに向かってアリスは足を進めた。
アリスと魔理沙のお人形を、魔理沙の元へ持っていってやり、おきざりなんて酷いと文句を言ってやるつもりだった。
そんなに怒ってはいないが、なんとなくそういう態度を取るほうが、楽に魔理沙と顔を合わせられそうだったからだ。
「っと……?」
自分を象った人形にアリスが手を伸ばそうとした時、やわらかいものを踏んづけた気がした。
アリスの靴の下には紅白の衣装を着た、ぬいぐるみが転がっていた。
「え、うそ。…………うそ、よね……」
霊夢の形をしたちいさなぬいぐるみをつかもうと、伸びた手がその隣に転がっていた。
開いたまま視線の定まらない目に、紙のように真っ白な肌、床にこびり付いた吐瀉物。
「うそ、嫌、嫌、嫌」
アリスは後退る。
傍に駆け寄ってきちんと様子を見ないといけない、そう思うのに体は硬直して、勝手に距離を取ろうとしてしまう。
テーブルとソファーのほんの僅かな隙間に魔理沙は転がっていた。
瞼が垂れ下がっているのに、目は完全に閉じきらず、何処を見ているのか分からない瞳は、黒目だけが嫌に目立ち、まるで牛みたいな目だった。
口も弛緩してしまったのか、ぽかんと驚いた時の形で、薄く開いた唇の奥に舌が見える。
肌は一晩過ぎたせいか、血の色が完全に消え、真っ白だった。
肌の白い人間とかそういう、人の息吹を感じさせる白さではなく、本当に白く、紙のように白かった。
「ああああ、あああ、あああ」
『気持ち悪い』
アリスはまず、そう思った。
弛緩して、間延びした表情は、生きていた時の魔理沙を全く感じさせず、ただ生理的な嫌悪だけを感じさせた。
魔理沙のことが大好きだったはずなのに、あんなに心配していたはずなのに、せめて駆け寄って触れてあげるべきなのに、アリスの心に湧き起こる情動は、嫌悪と恐怖だけだった。
苦しそうな顔ではなく、ぽかんとしたままの呆けた表情というのが、アリスに生々しく死という物を感じさせた。
触れたらおぞましい死が感染して来るような、そういう不気味さを魔理沙の姿にアリスは感じてしまったのだった。
「ああああああああ」
気持ち悪くて、魔理沙の姿が気持ち悪くてたまらず、アリスは部屋から逃げ出した。
何度も、何度も、後ろを振り向いて、恐怖に縮こまりながら、アリスは魔理沙の家から走って逃げたのだった。
「魔理沙が死んだって?」
「…………ええ」
「そう……なんだ。魔理沙が…………」
「うん、私が行ったらもう、冷たくなってて……」
『魔理沙の様子がおかしくて、動かなくって、床の上にいて、目が開いたままで全然動かないの』
香霖堂に駆け込み、アリスが何とかそれだけを口にすると、
『ありがとう、よく知らせてくれたね』
ほんの一瞬目を閉じ、息を止めたが、香霖堂の店主は静かに笑みさえ作って、アリスに言った。
善意ではなく、ただの押し付けだったが、香霖堂の店主はアリスを責める様子も見せず、むしろ気遣ってくれた。
『あとのことは気にしなくていいからね』
よほどアリスの態度が異常だったのか、細かいことは問うこともせずに、全てを片付けてくれたようだった。
「ごめんなさい、霊夢」
「どうしてアリスがあやまるの?」
「だって……、だって」
ただ、霊夢にだけは、自分が伝えないといけない。
魔理沙のことは気持ち悪くて、恐くて放り出してしまったが、霊夢にだけはきちんと自分で伝えたいと思い、嫌で堪らなかったがなんとか伝えることができた。
ただ、それでも魔理沙の死体を見たときに感じたことだけは、口にすることが出来ずに嘘をついている。
「泣かないで。アリスが泣くことないのよ」
「だって、だって、ごめんなさい、ごめんなさい。霊夢」
しくしくとアリスは泣き続けた。
涙が出たのは、家に辿り着き、余裕が出てからだった。
恐さとショックが消えて初めて、魔理沙のことが可哀想だと思った。
「だって、私が、もっとしっかりしていたら」
「アリスのせいじゃないわ。アリスのせいではないのよ。……ね、だから泣かないでいいのよ」
「でも、でも」
「気にしなくていいのよ。自分の責任だなんて、ね」
「だって、魔理沙が、魔理沙がぁ」
霊夢が横を向く。
霊夢を挟んだ向こう側、魔理沙がいつも座っていた場所だった。
今は誰もいない。
何でもない霊夢の動作に、ようやくアリスは魔理沙に二度と会えないのだと、魔理沙が死んだことの意味を理解した。
「ああああああああああぁ、魔理沙――――――――――っ。魔理沙、魔理沙、魔理沙――――――――――――」
魔理沙を失ってしまったことが急に実感として胸に迫って来て、アリスはたまらずに慟哭し、魔理沙の名を叫んだ。
4.咲夜
「ぷっ」
「なによ」
「なんでもないわよ? なんでも」
ようやく平静を取り戻した咲夜に、霊夢が訳知り顔でニンマリと笑う。
「いやいや、やっぱり出不精はダメね。たまには自分から出かけてみるもんだわ」
咲夜の元を尋ねて来てくれた霊夢に紅茶を出すが、いつものようには上手くいかず、ソーサーを支える手が抑えることが出来ずに震えてしまう。
「ぷっ、くっ、ぷくくっ、あはっ、ご、ごめん、咲夜、ダメ、私、ダメ、ぷくくっ、あははっ、わらっちゃう、私、わらっちゃう、あははははははっ――――――――――――」
霊夢が堪えきれなくなったのか、笑いを炸裂させる。
「もうっ、霊夢、散々私のことを苛めたじゃないの。ねぇ、つらいの、お願いだから、これ以上苛めないでよ」
久々に遊びに来た霊夢は、咲夜の顔を見て大爆笑している。
とんでもなく失礼な話だったが、それでも咲夜は霊夢の前で、羞恥に顔を赤らめることしかできない。
何故なら、霊夢は知ってしまった側で、咲夜は知られてしまった側だったからだ。
「ごめん、ごめん、本気でごめん。あやまるわ。でも、ね。だって、咲夜が、あんな咲夜が、思い出したら、ぷっ」
「もう、霊夢、やめて。いくら霊夢でも本気で怒るわよ」
「ふふっ、咲夜のこと元々好きだけど、もっと好きになっちゃったかな?」
「なっ、ちょっ、霊夢っ?」
「もちろん、友達としてよ? どうしたの? 真っ赤だった顔がさらに赤くなったかな?」
「いや、もうっ、お願いだから、そんな風に見詰めないでよ。 もうっ」
咲夜が両手を火照った頬にあてると、手の平は確かに熱かった。
おそらく咲夜の顔は霊夢の言うとおり真っ赤になっているようだった。
現在、紅魔館では、子供っぽい遊びが大流行になっていたのだった。
以前にはなかったことだが、世間が平和になり、人里との交流も普通なものになると、紅魔館に住まうものの中にも、自然と里に足を向けるものもでてくる。
その『交流』の結果、紅魔館にもたらされたものは、人間の子供の遊びだった。
妖精メイドの内の幼いものが、里に行った時に人間の子供と遊んだりして教えてもらったのだろうか、いつの間にやら、メイドの間で流行り始めたのだった。
鬼ごっこやら、かくれんぼやら、石蹴りやら、本当に普通の子供がするような遊びだったが、今までに体験したことのないものだっただけに、あっと言う間に皆が夢中になった。
もちろん咲夜も夢中になったひとりで、遊んでいるところをよりにもよって霊夢に見られてしまったのだった。
「えーと、どこから?」
「どこから見てたと思うの?」
咲夜の質問に、霊夢は質問で答えてきた。
咲夜はかくれんぼの時に木の枝に登っている最中を、霊夢に見られてしまっていた。
木登りしている姿を見られた時点でかなり恥ずかしいことだったが、それ以前となるともっと恥ずかしいことをしていたはずだった。
「どこから見てたと思う?」
「えっと、えーっと、かくれんぼする鬼を決めるのに、じゃんけん、とかしてたあたりとか?」
「うーん、確かにそれは見てたわね~。メイドの中でも咲夜の笑い声が一番大きかったような気がするわ」
「鬼、ごっことか?」
「うん、見た見た。咲夜、すごく元気だったわね」
「私が鬼の時は?」
「ぷっ、あれね。くくくっ」
「もう、お願いだから笑わないでよ」
正直なところ、子供の遊びに一番夢中になっていたのは、何といっても咲夜だった。
妖精達にとっては人間の子供の遊びは新鮮で、ちょっとしたブームに過ぎないものだった。
でも、人間でありながらそういう遊びをしたことのない咲夜にとっては、流行とかそういうものではなかった。
ひょっとしたら環境が違えば咲夜が過ごせたかもしれない子供時代を、大きくなってからなぞるもので、遊んでいるだけでまるで別の人間に生まれ変わったみたいだった。
ただ走り回って、追いかけあっているだけで、色々な咲夜を自分で縛っているものを忘れられた。
過去のこと、メイド長の立場、人外のものの間でしか生きられない自分という存在。
そういう普段は表層では意識していないものの、心の奥深くでは常に気にかけているような自分を縛っているものを、完全に放り投げてしまえた。
理屈も何も捨てて、ただの子供の咲夜になっていた。
長身で、すらりとした体をして、大人っぽい雰囲気の咲夜が、幼い容姿の妖精メイド達に混じりあって鬼ごっこをするのは、傍からみればちょっと変な風に見えたかもしれない。
でも、咲夜はそんなことを気にかけず、大口を開けて笑い、はしゃいでいた。
鬼ごっこの時はスカートの裾が捲れて、艶めかしいストッキングで包んだ足が露出するのも、ガーターベルトさえ見えてしまっているのも無視して、ぴょんぴょんと跳ねまわった。
「まぁ、最初から全部見せてもらったわよ。くっくっくっ、かな~り、たっぷりと咲夜の恥ずかしい姿をね~」
「そうなの……」
子供みたいにはしゃぎ回る姿は全部霊夢に見られてしまったようだった。
鬼ごっこの時に捕まえた子を抱きしめて、頬擦りとかしていたところも見られてしまったようだった。
「まぁ、そんなに気をおとさないでよ。私、ああいう咲夜のこと、かわいくって好きって思ったわよ」
「霊夢、そうは言うけど、やっぱり見られてたらすごく恥ずかしいものよ。だって、私だって私の外見で、あんな風だったら、変だと思うから……」
「ふぅ――――――――、咲夜も面倒くさい性格ね。私はそういうところも好きだけどね」
「もうっ」
「ふふっ、私はいいと思うんだけどなぁ。まっ、本当のことを言ったら、少し妬けたかな? 私といるときはあんな開けっぴろげな顔をしてくれたことはないものね。やっぱりお屋敷の人は身内だからかしら?」
「そんなことないわよ。霊夢と一緒にいるのも好きよ。でもなんというか、のんびりしてしまうのよね」
霊夢と一緒に過ごす時間も、それはそれで貴重なものだと咲夜は思っている。
ただ、あんまりにもリラックス出来すぎてしまうから、霊夢との時間はあっと言う間に過ぎてしまうので、傍目からは咲夜が大切にしているとは見てもらえないかも知れない。
「あははっ、そうよね、私達だけで一緒にいるとすごくのんびりで、ほわーっと過ぎちゃうものね。あははっ、確かにそうだわ。うんうん、茶飲み友達みたいなものね」
「茶飲み友達って、おじいさんとか、おばあさんとかのあれかしら?」
「嫌かしら?」
「ふふっ、何だかうれいしわ。私達にぴったりね」
「そう、よかった」
咲夜がのんびり気分になってしまうのは、霊夢がもっている空気のせいだった。
咲夜は、それは霊夢の包容力だと思っている。
みんな霊夢の包容力に引寄せられて、ついつい霊夢の元に足を運んでしまうのだ。
どちらかと言えば見た目ははるかに咲夜のほうが年上なのだが、咲夜は密かに霊夢にお姉さんっぽい雰囲気を感じている。
だから今日みたいに霊夢には平気で照れたりすることができる。
霊夢は気がついていないみたいだったが、実はいろんなところで咲夜は霊夢に甘えてみたりもしている。
「ふぅ――――と、ところで……ね。えーっと、今日はね」
「今日は?」
「ちょっと咲夜、そんなに身を乗り出して聞かないでよ。なんだか話し難いじゃないのよ」
「あら、ごめんなさいね」
霊夢が急に真面目な顔をするものだから、咲夜は我知らず、霊夢のほうへ体を寄せていたみたいだった。
「まぁ、何? たいしたことじゃないのよね。最近、咲夜、家に遊びに来てくれないなぁ――――――ってね」
霊夢はちらりと咲夜を一旦見てから、目をそらした。
「私のこと嫌いになった、のかな?」」
「そんなことない、そんなこと絶対にあるはずないから」
と、あまりに大げさすぎる否定で、自分の内心をさらけ出したみたいで、咲夜は恥ずかしくなり、あわてて目をそらした。
「まぁ、そんなわけで、出不精の私がわざわざ足を運んでしまったり、とかね。あははっ」
咲夜の必死な態度に思うところがあったのか、霊夢の声にあった緊張が若干和らいだようだった。
「でも、冗談は抜きで最近神社に来なくなったわね。一時は気が付いたらいっつも咲夜がいて、まるで神社に住んでるのかって言うぐらいだったのに。何かあったり……とか?」
「…………」
咲夜は答えていいものかどうか、迷った。
霊夢のことが嫌いになったわけじゃない。
神社にいるときの、雰囲気も好きだった。
群れ集まる人以外の者達も好きだと思う。
「咲夜?」
「ごめんなさいね。うん、私ね、霊夢。やっぱり足が遠くなっていたみたいね。正直、何が嫌と言う訳ではないのよ。霊夢や、神社の雰囲気は好きよ」
「ここの、紅魔館の人といるほうが今はいいってことかな?」
「そうなってしまうの、かしら、ね。うん、結果的にそうだと思う」
目の前で霊夢からはっきり問われてしまうと、咲夜が無意識に行動していた意味が、なんとなく明らかになってくる気がした。
「そう、霊夢も、神社も、そこで起きる色々の事件も全部すごく楽しかったわ。夢中になったわ。もう、面白くって、面白くって、四六時中それしか考えてなかったくらいに。どんなことが起きるのかな? どんな人がくるのかなって。もう本当に夢中でそればっかりだったの」
「でも、咲夜の言葉は過去を語るものなのね」
「特に弾幕ごっこ。次はあれをしようって、本当にそれしか、それ以外はみんなつまらなく感じる。それぐらい大好きだったのよ。今でも好きよ。でも、それ以外は全然何もってほどじゃなくなったわ」
「どうしてなの?」
「ふぅ――――――――――、少し前の私の位置に他の人がいるから」
霊夢も咲夜の本音の吐露にショックを受けたのか、黙り込む。
咲夜も言いたくはなかったが、霊夢に嘘をつくのはもっと嫌だったので、あえて本当のことを言った。
「新しい人がくると、みんな霊夢になりたがるのよ。私も含めてね。霊夢の周りにいる人との関係が出来ていくのも楽しいし、何より遊ぶことが面白くって仕方ない感じ。そういうの初めは私しかいなかったわよね? レミリアお嬢様の起こした事件が一番初めで、そこから霊夢にくっつくようになったんだもの。でも、後から来る人がみんな、同じように夢中になっていくのを見て、私だけじゃなかったって、思ってしまったの」
「そう、なんだ」
「はっきりとは意識してなかったわ。神社に遊びに行った時に、あっ、新しく来た人だって思って、その振る舞いを見てると、すごく寂しかった。まるで自分の居場所を取られてしまったみたいに」
「そんなことないのに、咲夜は咲夜で遊びに来てくれるとうれしいのに」
「それでも、そう思っちゃったのよ。その居場所は自分一人のものじゃないのに、他の人をズルイって思ってしまったの。そうしたら、ちょっと冷めてしまった部分があるのよ」
「ねぇ、魔理沙とかも、そういう風に感じたりしたのかしらね?」
「魔理沙と私は違うから、断言はできないけど、やっぱり少しはそう思ったりするんじゃないかしら?」
「やっぱり、そうなのかなぁ?」
霊夢にはめずらしく、肩を落として寂しそうにつぶやいた。
「ねぇ、霊夢。覚えている? 紅霧異変のことを」
「もちろんよ、あのルールを使って、初めての異変だもの。忘れるわけないわよ。咲夜ともあれで仲良くなったんだもの」
「ふふっ、知ってるかしら? 私、あの時ルールは守ってたけど、霊夢のことなんて死んでもいいって思ってやってたの」
「あれ? そうだったの?」
霊夢はのん気なものだった。
咲夜の吐き出した感情には、すごく寂しげな顔をしたのに、殺す気で戦ったことは別に当たり前という顔をする。
自分の生き死よりも、周りの感情のほうが、霊夢にとっては重要なことのようだった。
割合と何事にも頓着しない風のイメージが、霊夢に対してあっただけに、咲夜には以外な気がした。
「うん。お遊びだけど、遊びだからこそお嬢様は結構本気で、幻想郷を霧で覆いつくすつもりだったわ。勝つつもりだったわ。やる以上は」
「そんなのあたりまえよ。だから面白いんじゃないのよ。ルールを作ったって意味は、ルールを違反しなけりゃ、何したっていいってことだもの」
「霊夢はそんな風に考えてたの?」
「まあね」
「ふふっ、これじゃ負けるはずね。正義の味方のほうが、悪者よりも悪に寛容なんだから」
「なによぉ、それ」
咲夜は霊夢という存在の、本質の一部に少し触れられた気がした。
なにごとにも無頓着な風でいながら、ある瞬間には無邪気に物事に夢中になれる。
とてつもなく、冷たいと感じてしまうほどドライに対処しながら、以外なところで感情的になったりする。
霊夢の中ではきっと線引きがはっきりとしているのだろう。
規則を作ってしまえば、それを守る限りはどう使うかとか、どう解釈するかは受け取る側の事情を優先して、作った側は文言に現した以上は過度に干渉しない。
規則に意図があっても、意図を裏切る行動を取られても、ルールを守っていれば問題じゃない。
ある意味、受け取る側のほうが正しい。
極論だが、霊夢の中では、そういう風に思考が動いているのだろう。
徹底的なほどの受容性。
どこかの誰かが、幻想郷はあらゆるものを受け入れると言ったが、実際のところそれは霊夢が受け入れるから、それが現象として全体に反映されるに過ぎないのではないか、とも思う。
「でもね、最近は霊夢に負けるところまでが、お遊びとして折込済みになってる気がするわ。霊夢に負けて、霊夢に受け入れてもらうことで、もっと楽しく過ごすことが出来る。だから異変を起こす」
「そんなことはさすがにないと思うけどねぇ。咲夜の思い込みかも」
「私はそう思っちゃったの。例え、拗ねた思い込みでも、思ってしまえば本人にしたら真実よ」
「そうね。本人がどう思うかっていうことのほうが、現実の正しさよりも、人の行動には影響を与えるものだものね。咲夜がそう思ったのなら、それはそれで正しいのよ。現に咲夜はあきちゃって、あんまり神社に来てくれなくなったんだものね」
「ごめんなさいね、今度からは普通に遊びには行くわ」
「でも、咲夜は一旦卒業かな? 仕方ないものね、人って成長が早いから、大人になれば暗黙の了解で出来ているゲームは受け入れられなくなるわ。楽しさの大前提が、ルールそのものが納得できなくなるものね。いずれ、誰だってそうなってしまうものね」
「霊夢は?」
「私は仕事だからね。私はこれがあるから生きていけるの。好きとかは関係ないわ。まぁ、好きか嫌いかって言うと、大好きだけどね」
「ごめんなさい」
咲夜としては、つまらないながらも悩んだなりの言葉だけれども、それは選択ができるものの贅沢で、霊夢には無理な話だった。
霊夢に出来るのは、過ぎていくいろんなものを受け入れることだけなのに。
「どうしてあやまるの?」
「だって……、霊夢のほうがつらいわ」
「私だけが、変わり行く中で置いていかれるから?」
「…………」
「そうね。私の周りには妖怪しかいなくなっちゃうかもね。そして、昔からいた人はいなくなって、私のことなんて忘れてしまうのかも。楽しかった昔のこととして」
「…………」
「ねぇ、覚えていてよ、咲夜。私のことを覚えていて、今の私のこと覚えていて。そうすれば寂しくなんてないわ。いろんなものが例えなくなってしまっても。寂しくなんてないわ」
「覚えているわ」
咲夜には霊夢のように全てを受容する力はない。
純粋にただ霊夢を好悪の感情だけで見ることもできない。
ずっと隣で一緒の道を行くことはできない。
『覚えている』
それはただの言葉だけど、咲夜は約束を本物にするつもりだった。
普通の”人間”では、約束を守ることができない。
成長は何かを得ることだけれども、同時に何かを意図的に捨てていくものだから、本当に約束を守ろうとすれば、成長を拒否しないと叶わない。
ただ、紅魔館にいる咲夜には、その方法がある。
咲夜は失っていくことは寂しいことだけど、変わることは決して悪いことだとは思わない。
人のまま、変わっていくことを楽しむつもりだった。
でも、それも過去のこと。
「あと、神社にも顔を出すこと。やっぱり咲夜の顔を見ないと寂しいから。あははっ」
「うん」
「私のことを過去にしないでね」
「うん」
咲夜は目の前の少女のため、自分の中の正しさをあえて捨てる覚悟をつける。
霊夢はそこまでとは考えてはいないかもしれないけれど、咲夜にとって約束したということはそういう意味だった。
霊夢が知ったらどういう顔をするのか想像すると笑みが思わず零れてしまう。
「ちょっと照れるわね」
霊夢は頬を染めながら、名残おしげに咲夜の腕を軽く叩くと、立ち上がってドアに向かって歩いていく。
咲夜と真面目に話したことが照れくさいのか、あわて気味に部屋から飛び出そうとする。
霊夢のそういうところは咲夜と同じ年頃の少女らしく、咲夜はかわいらしく感じた。
「霊夢っ、――――――――――魔理沙のこと残念だったわね」
あと一歩で部屋から霊夢がたち去ってしまう、と言うところで、その後ろ姿に咲夜は声をかけた。
霊夢がわざわざ足を運んだ意味は、魔理沙のことを告げるためだったのだろうから。
「――――――――っ、知って…………、たんだ…………」
「途中、一度言いかけたでしょ? それに、わざわざ私のところに来てくれたんだもの、用がないと来ないわよね?」
霊夢が言えなかったのは仕方がなかった。
魔理沙は霊夢の一番の友達で、それを失うことは霊夢には本当につらいことで、初めての体験なのだから、どうやって振舞っていいのかわからなかったのだろう。
だから咲夜は霊夢を責めない。
代わりに、大事なことを言わずに帰ってしまったしまったことで、霊夢が後悔して後で傷つかないようにしてあげる。
咲夜は霊夢が伝えようとしてくれただけで、十分だった。
「ふぅ、ちゃんと自分の口で言いたかったんだけどね。私には出来なかったわ。私って、ダメだわね」
「霊夢、ありがとう。来てくれた、それだけで十分よ」
「うん、ごめん。咲夜、また、家に来てね」
「うん」
「じゃあ、咲夜、またね。バイバイ」
「バイバイ」
軽く咲夜が手を振ると、霊夢は後ろ手に部屋の扉を閉め、帰っていった。
5.チルノ
「いいなぁ、いいなぁ、んしょ」
チルノは塀の上から飛び降りる。
「いいなぁ、いいなぁ、みんないっぱいて、すっごく楽しそう」
壁の向こう側にはお屋敷があり、その庭からははしゃいだ声が響いてきている。
中ではチルノと同じような年頃の妖精達が、走り回って遊んでいる。
「あんな風にみんなで遊べたら、すっごい、たのしいんだろうなぁ」
氷の妖精であるチルノは、何でも冷たくしてしまうから一緒には遊べないけれど、見ているだけでも楽しくて、チルノはお屋敷を囲う塀の上から飛び降りた勢いのままに駆け回った。
遊びと言えば何かを凍らせることしか知らなかったチルノは、ここしばらくは覚えた弾幕ごっこに夢中だった。
でも、弾幕ごっこは一対一で遊ぶものだし、普通の妖精には難しいのか誰もチルノとは遊んでくれない。
チルノが遊べる相手は年上の強そうな人ばかりだけだった。
だから、いっぱいで普通に一緒に遊べる遊びは、チルノがやったことのないもので、大発見にチルノはとても興奮していた。
「よし、あたいもやってやるんだから」
と、誰も相手がいないのに、チルノは気合を入れて走る。
何しろ実際に遊ぶとなったら、今までやったことのないものだから練習が必要だった。
「トン、トン、トン」
追いかけてくる鬼を避ける練習として、木の根っこを踏んでピョンピョン跳ねてみる。
「ふふふっ、この木なんて丁度良さそうだわ。ふふふっ、誰もかくれんぼで木の上になんて隠れてるなんて考えもしないでしょうしね」
枝が太くチルノが乗っても折れないほどの、大きな木を見つけると、チルノは腕組みをして見上げた。
体を斜に構え、足をピンと伸ばし、顎は引き気味で、自信満々に不敵に唇を吊り上げる感じでチルノは笑ってみる。
お屋敷でかくれんぼしてた時に、メイド長がそんな感じでしゃべっていたから、チルノもやってみたのだった。
チルノはかくれんぼで勝てそうな時には、そういう風にするのがお約束なんだろうと、メイド長の行動から推測している。
「でも、どうして飛んじゃダメなんだろう?」
チルノの胴体よりも太い幹に取り付いて、じりじりと上に向かいながら、チルノは疑問を口にした。
飛んだら一瞬で木の天辺ぐらい簡単にいけるのに、手と足を使って昇るのは難しい。
でも、メイド長がやってたんだから、そういう遊びなのだとチルノは思った。
「むずかしい」
両手で木にしがみつきながら、太腿で幹を挟み込んで、手と足を交代に動かさないとせっかく昇っても、あっと言う間に下にまで滑って落ちてしまう。
「いもむしみた~い、くねくね」
でも芋虫っぽく体全体で動くといい感じで上れる。
くねくねの動きは木登りと相性がよく、あっと言う間に上のほうまで行けた。
いい感じなので、芋虫になった気分で上っていく。
「って、何、相変わらず馬鹿やってんの?」
「いもむしぃ……、って霊夢?」
あと少しで枝に達すると言うあたりで、地面の上からあきれた声が聞こえた。
ふりかえると霊夢がチルノを見上げ、なにやら複雑そうな顔をしていた。
「こけこっこー、こっこー、こー、こっこー」
「にわとりの真似をしてもダメよ。どっから見てもチルノでしょ。そんなんじゃごまかされないわよ」
「そっかー、霊夢はかしこいなぁ。さすが霊夢」
「………………」
チルノの変装は霊夢に見破られたので、チルノは隠れるのをあきらめて、滑って降りた。
「今のかくれんぼっぽかったよね?」
「一人で遊んでたわけね、例によって」
「どうして霊夢は私がにわとりじゃなくって、私ってわかったのよ」
「そりゃ、木に水色の服がしがみついてんただから、チルノってわかるわよ」
「そっかー、さすが霊夢だなぁ――――――――――――と、と言うことは、服を脱いだら私ってわからなくなる?」
「馬鹿、服脱いでも、あんたの髪も水色なんだから、チルノって分かるって。大体、かくれんぼで服脱ぐなっ」
ごつんっ、と拳骨がチルノの脳天に叩きつけられた。
いつもながら霊夢の突っ込みは容赦がなかった。
「あっ、そっか、裸なってもダメなんだぁ。霊夢は頭いいなぁ」
「あんた以外なら、誰でも気がつくわよ」
「そっかなぁ? 今度、誰かひっかかるか試してみよっ」
「だから服脱ぐなって言ってんでしょっ」
「いたっ、いたっ」
今度は二連発で拳骨の突っ込みを貰った。
「痛いけど、まぁ、いいや。霊夢、鬼ごっこしよ。霊夢が鬼ね。はいっ、スタート」
「ずいぶんいきなりねぇ」
「ほら、鬼さん、追っかけてきてよ~」
「ちょっと、ズルイわよ」
「へへへっ」
さすがに妖精を誘って、鬼ごっこをするのは恐くて自信がないが、霊夢だとチルノの相手をしてくれるので、安心して無理矢理でも遊ぶことができる。
「鬼さん、こっちこっち」
追いかけてくる霊夢に、振り替えっては飛び跳ねて、チルノは捕まえてみろと誘ってみせる。
ぴょんぴょんと飛び跳ねるごとに、いつもよりも甲高いはしゃいだ声が自然と出てしまう。
「もう、仕方ないわねぇ」
霊夢は困った顔をしながらも、口元には笑みが浮かんでいるので、それなりに楽しんでくれているみたいだった。
「ちょっと待ちなさいよ」
「ダメ、絶対につかまらないよー」
木の周りをチルノが走れば、霊夢も同じように廻って追いかけてくる。
「はぁはぁ、霊夢、速いっ、もうちょっとゆっくり」
「ダメダメ、あとちょっとで捕まえてやるんだから」
チルノはあんまり思いっきり走ったことなどないものだから、霊夢をからかっていたはずが、あっという間に逆転して、追いつくか追いつかないかのぎりぎりの距離で遊ばれてしまっている。
「はぁはぁ、霊夢、ダメ、ほんとにダメ、あたいもう、走れないから」
「ほ~らほら、捕まえるぞ~、あと、ちょっとで手が届きそう」
疲れて歩きになったチルノの背中に霊夢の手が迫る。
「霊夢、ダメ、ダメだよう」
「じゃ、ちゃんと逃げるっ」
「ダメ、あたい、しんどいよぉ。鬼ごっこってこんなにしんどいの? はぁはぁ」
「チルノは知らないだろうけど、鬼ごっこって捕まったら、すっご~い罰ゲームが待ってるから」
「ひっ、やだぁ」
息が切れてもうほとんど足が止っていたチルノは、罰と聞いて必死になって駆けた。
何しろ普段から霊夢の罰ゲームは、チルノの耳にも二度とその目に合いたくない、との噂が届いているほどだったからだ。
いつもチルノと遊ぶ時は、罰ゲームはなかったが、鬼ごっこでは罰ゲームがあるらしい。
お屋敷では皆キャーキャー言っていたけど、罰ゲームのことを恐がって叫んでいただけかもしれない、とチルノは思い至る。
背中に冷や汗が流れるのをチルノは感じた。
「ふっふっふっ、つーかーまーえーるーぞー」
「きゃー」
霊夢の考える罰ゲーム。
霊夢のことだから、チルノを捕まえるとカエルが千匹ぐらいいる池の中に放りこむぐらいの凶悪で容赦のないことをやるに違いなかった。
「鬼ごっこ中止、急に用事を思い出したから、霊夢と遊ぶのやめ」
「いいこと教えてあげる。そんな言い訳は通用する訳ないってことね」
チルノがあれこれ考えている間に距離を詰められ、霊夢に首根っこを掴んで持ち上げられる。
「やぁやぁ、罰ゲームはヤダ」
「くっくっくっ、ふわふわで、ふにふにしてて、つるつるしてるものってな~んだ?」
「へっ、クイズ?」
「それはねぇ。あんたのほっぺよ」
「あう~」
霊夢の問いかけにチルノが考える間も無く、後ろから霊夢に抱きつかれてチルノは簡単に持ち上げられてしまう。
「かえる風呂はいやぁ~」
「そんなことしないわよ。こうしてやるんだから、それ~、すりすり~」
「やあぁん、霊夢のほっぺが」
抱っこされたチルノの頬に霊夢の頬が添えられ、そのまま頬擦りされる。
「やぁん」
「ほんとにふわふわ、ふにふに、つるつるね~」
チルノの頬の感触に霊夢は満足げな声をあげる。
「あうううぅぅ、きゃー」
霊夢の頬がチルノの頬に触れるたび、くすぐったくってチルノは悲鳴をあげる。
霊夢の頬は気持ち良くて、むずむずして、頭がふわふわとして、その心地良さが、わけが分からなくて、悲鳴になった。
「なによぉ、チルノは失礼ね。気持ちよくしてあげてるのに」
「メイド長もしてた、罰ゲームだもん、これ」
「なんだ、あんたも見てたんだ」
「うああぁっ、恥ずかしいよ、やめてよ」
「罰なんだから、つらくって当たり前でしょ?」
「そっか、だからメイド長がやってたんだ。なるほど」
おそろしい罰ゲームだった。
一見、仲良し同士がじゃれあっているみたいだったけど、実際にやられてみたらすごく胸の奥がムズムズする、変な気分になる罰ゲームだった。
現にチルノは頭がぼーっとしてしまって、上手く考えられなくなってきている。
さすがに悪魔の館を切り盛りするメイド長考案の罰だった。
気持ちよくってふわふわ気分になって、もっとやって欲しくもあるあたりが、悪魔的だった。
「ふぅ、おそろしい罰だったわ」
霊夢が飽きるまで存分にほお擦りされ、骨抜きにされたチルノは、ようやく解放されると腰砕けになり地面に倒れこみながら、額の汗を拭った。
「にしては、やたらとニヤニヤしてるわね」
「そ、そんな訳ないでしょ。こんなに、ふにゃーってなるんだから、おそるべき罰だわ」
「うむ、しかしエロい幼女ね。頬擦りでこんなになっちゃって」
「え、えろ?」
チルノによくわからない単語を言う霊夢。
「ま、それはいいとして、今日は一応あんたに話があって来たのよね」
「霊夢があたいに話って……」
考えてみる。
「おみやげ?」
「はぁー、チルノ……」
「しまった、お腹すいてたから、心の声が表にでてた」
霊夢がチルノに話なんて、かつて一度もなかったことだけに、とっても重要な話だろうと思った。
霊夢がチルノに重要な話なんて、きっとおいしいものが手に入ったとか、そんな感じだろうから、おみやげと思ったのだった。
そもそも霊夢はチルノにあんな食べものもらったとか、そういう話をしすぎるのが問題なのだ。
「魔理沙って、知ってるわね」
仕切りなおすように霊夢が、真面目な顔をして、話を戻す。
スカートのポケットから何処からか盗んできたのか、パンが一切れ入っていて、チルノに分けてくれた。
「魔理沙? 馬鹿魔理沙のこと?」
霊夢のくれたバターの味のするロールパンをチルノは齧った。
霊夢はやはりどこかのお馬鹿とは違って、気が利いた。
馬鹿魔理沙は一度だってチルノに、おいしいものなんてくれたことなんてなかった。
「馬鹿がどうかは知らないけど、三角の帽子をいっつも被ってる魔理沙のことよ、チルノは知り合いだったわよね?」
「うん、馬鹿魔理沙のことだ」
「チルノに馬鹿呼ばわりされてたんだ、魔理沙のヤツ」
「能天気なヤツだもん。どうして霊夢ぽかんって口あけてるの?」
「まぁ、ね、いろいろとあるわけよ」
「ふぅん?」
霊夢がさらにもう一個パンをくれる。
霊夢がこのあたりをうろうろしてたと言うことは、お屋敷にでも用があったのだろう。
霊夢のことだからお屋敷の中で、おいしそうなものをちゃっかりといっぱい食べてきているに違いない。
なので、チルノは遠慮することなく、もう一個のパンも食べた。
今度はクリームが入っていた。
「ねぇ、もし、よ。魔理沙に、会えないってなったら、嫌?」
「う~ん、う~んと、手下一号!!」
「うーん、うむぅ。要するに魔理沙は子分みたいなものだから、それがいなくなると困るってことね」
「うわー、わぉー、すごい霊夢。今のでよくわかったね」
「言っておいてそれなのね?」
霊夢にもらったのがおいしすぎて、喋るほうに気が廻らないチルノを、霊夢は上手くフォローしてくれる。
いつもながら霊夢の便利な能力だった。
「とにかく、将来的には使い魔にしてあげる予定。えらい人は、みんな使い魔もってるみたいだし、あたいもえらくなったら、一人ぐらいはいると思うから、魔理沙を使い魔にしてあげるの」
「どこからそういうこと覚えてくるのよ」
「それはともかく」
「どうしてチルノが仕切りなおすのよ、もうっ。なんと言うか魔理沙と話してた時のことを思い出すわよ。しかしなんというか魔理沙って、チルノと同じような感じだったのね。それじゃ、『何がしたいのよ』なんて、漠然とした問いに答えられる訳なかったわね……、ふっ」
「魔理沙と同じ?」
「そうね、無邪気で、いっつも楽しそうで、うん、そういうところ似ているのかも」
「それって褒めてるの?」
「うん、そのつもりよ」
「う~、そうかな?」
魔理沙のことをチルノは思い返してみる。
かなりお馬鹿だったような気がする。
馬鹿魔理沙と一緒で、馬鹿魔理沙に似ているということは、つまりチルノは…………。
「うあー、霊夢があたいのこと馬鹿って言った」
「違うわよっ。どういう想像したのか、想像つくけどね」
「ふぇ?」
「とにかくよ。魔理沙と会えなくなったら、嫌な訳よね」
「うん、一応は」
思い返してみれば魔理沙は生意気なヤツだった。
やたらと大人ぶってみせるし、自分が頭いい振りするし、チルノのことをやたらと馬鹿にするし、いいとこなしだった。
それでも、ちょくちょくチルノと一緒に遊びたがって、チルノはあんまり相手にしたくないのに、やたらと構ってきた。
暇つぶしにしたら、いろんなこと知ってるし、それなりに面白いヤツではあるので、チルノはそのうち魔理沙をこてんぱんに出来るぐらい最強になったら、子分ぐらいにはしてやるつもりだった。
一応、それぐらいは魔理沙のことが好きだった。
「そう、じゃあ、残念なお知らせよ。魔理沙、死んじゃった。もう、会えないの」
「うん?」
「魔理沙は死んでしまって、もういないの。チルノは魔理沙に二度と会うことは出来ないの」
「うん?」
霊夢の冗談は面白くなく、チルノは嫌な顔をした。
「霊夢、馬鹿なこといわないでよ。あたい知ってるもん、人間って年とらないと死なないもん、魔理沙はまだ若いから、そんなことあるわけないもん」
チルノの突っ込みに霊夢の表情が消えていく。
チルノに魔理沙の死を告げた時は、泣きそうな、痛そうな、笑いたくないのに無理につくった笑い顔をしていたのが消えた。
「チルノは”死ぬ”って意味はわかるのよね?」
チルノは霊夢の表情で悟った。
霊夢の言っていることが冗談でも何でもなく、魔理沙は本当に死んだのだと。
霊夢の表情の消えた顔は、とても綺麗で、憂いもなく、透き通っていた。
チルノが綺麗だと見惚れるぐらいだった。
「うん、もう会えないの」
「そうよ。魔理沙はこの世からいなくなってしまったの。もう、どこにもいないのよ」
まるで感情が消えた声で霊夢が言った。
霊夢の声はとても澄んでいて、透明で、まるで唄でも歌っているみたいだった。
それは霊夢が話しているのではなく、何処か他の場所から、何処か遠いところからの、宣告のようだった。
霊夢の徹底的なまでに自分を消した態度に、チルノは本当に魔理沙はいなくなり、それがどうしようもないことだと、理解させられる。
「ねぇ、霊夢、なんとかしてよ。魔理沙と会いたいよ。もう、二度と、会えないなんて、やだ、よ」
「無理よ」
「いじわるしないでよ」
「無理なの、ごめんね。私でも、他の誰でも、偉い神様でも、死んでしまった人を、どうにかすることは出来ないのよ」
「あたい、あたい、あたい、どうしたら?」
霊夢の顔を覗き込むが、霊夢は視線すら合わそうとしてはくれない。
チルノに魔理沙が死んだなんてつらいことを無理に聞かせていながら、チルノをその辛さに一人置き去りにする。
霊夢は霊夢の中に閉じこもり、チルノを放り出している。
チルノは意味はわかるが、どうしていいか全く分からないのに。
「どうしようもないわ。だから死ぬってことは残酷なことなの。あの時、どうしたらとか、もっと違ったやり方があったかもとか思っても、どうしようもないのよ。生きていてくれたら、例え失敗してもやり直すことが出来たかもしれない。でも、死んでしまったら、もう二度と、どうすることも、できないのよ」
「どうしたら?」
「覚えていてあげて、魔理沙のこと」
「それだけなの?」
「うん、それだけしか出来ないの」
残酷すぎる霊夢の答えだった。
チルノは自分が涙を流しているのに、気がついた。
涙は意識しないのに、自然と次から次へと流れてくる。
恐いことがあった訳でもないのに、痛いことがあった訳でもないのに、止らない。
泣くことなんて恥ずかしいことなのに、胸が疼いて仕方がなく、呻きが溢れてくる。
「どうしてよ?」
「どうしてもよ」
「どうしてなのよぉ」
別にチルノは霊夢に聞きたくて言ったつもりでなく、勝手に口からそういう言葉が出てくるのだった。
魔理沙はもういない、その事実は痛い。
今まで体で感じたどんな痛みよりも、チルノを震わせる。
魔理沙の生意気なしゃべり方が思い出されてくる。
魔理沙にこてんぱんにやっつけられ、それでも一緒になって笑ったことが思い出される。
お互いに腹を立てあって掴み合いになったこととか、通りすがりの妖精に二人して悪戯をしたことも、チルノが貰ったおやつを二つにして食べたこととか、何もかもが、魔理沙としたいろんなことが甦ってくる。
そのどれもが、もう、二度と魔理沙と一緒にすることができないのだ。
「うぐぐぐ、うぐぅ、魔理沙、ひぃん」
魔理沙はいつも馬鹿みたいだったが、一緒にいて楽しかった。
魔理沙はチルノの友達だった。
お互いのことを無茶苦茶言い合っていたが、すごく仲良しだった。
チルノは魔理沙のことが大好きだったと、今になってわかった。
「つらい?」
「…………」
「それはチルノが魔理沙のことを好きだったからよ。思い出があるからなの。魔理沙のためにずっと覚えていてあげてね」
うんうん、と涙でぐしゃぐしゃになった顔でチルノは肯く。
「私のことも覚えていて、私もチルノのこと覚えておくから」
「霊夢も死んじゃうの?」
「死なないけどね。そうやって、みんなでみんなのこと覚えておいて、覚えていたいから仲良しになるのよ」
「仲良しだったら、覚えていてくれるの?」
「うん、だから、チルノももっと一杯、仲良し作って……ね」
「うん」
霊夢はようやく笑顔になって、チルノの頭を撫でてくれた。
チルノはしゃくりあげながら、泣き続ける。
「魔理沙は?」
「もう思い出を作ることはできないわね。…………後は…………、見送ることね」
「見送る?」
「人間はお葬式をしてあげるの。皆で集まって、魔理沙のことを思い出すために話して、お花とかで綺麗にしてあげて、見送ってあげるの。大好きでしたってね」
チルノは肯く。
魔理沙はいなくなり、チルノにはしてあげられることは何もないのだった。
ただ、チルノの覚えている魔理沙が、魔理沙が残した全てなのだった。
6.霧雨
アリスは一晩中涙を流し続け、泣き腫らした目を擦り、ぼんやりとしたままシーツから体を起こした。
時計を見ると時刻は昼を過ぎているはずだったが、寝室のカーテンからは光は入ってこず、空は薄暗いままだった。
「魔理沙…………」
魔理沙のことを思い出すと、また自然と涙が流れてくる。
あんなに小さかったのに、まだまだ子供だったのにと、魔理沙の無邪気だった振る舞いを思い出すと、可哀想で仕方がなかった。
悲しいと言うよりも魔理沙が可哀想だった。
あんなに小さい女の子がどうして死なないといけないのか、それを考えるとただ可哀想としか思えなかった。
むろんアリスも、魔理沙は子供と言うには大きすぎたし、自分一人で生活出来るほどの知恵も持っていたし、それなりの交友関係もあり、アリスよりよほど世慣れていたことは分かっている。
でも、頭で理解することと、心がそれを受け入れられるかは別の問題だった。
「魔理沙ぁ」
ぐずぐずと泣きながら、アリスは顔をシーツに押し付け、涙を拭う。
情けないことだったが、他には何もする気が起こらなかった。
魔理沙を思い出し、無為に泣き続けることが、アリスの出来る唯一のことだった。
元々アリスに友人は少ない。
わざわざ自宅を訪ねてきてくれるほどの相手と言えば、魔理沙しかいなかった。
その魔理沙が居ない今では、誰もアリスのことを気にかけてくれることもないだろう。
もう何もしたくないし、何も受け入れたくなかった。
もはやこの世自体がどうでも良かった。
飽きるまで、完全に涙が枯れつくすまで、存分に涙を流したい。
それだけだった。
「――――――――――――――っ」
「魔理沙……、魔理沙……」
「ここが――――――――、もっと奥の――――――」
「魔理沙………………」
アリスは静寂を破る、ざわめきのようなものを振り払おうと、頭から布団を被り、丸まって耳を塞ぐが、声は時間と共にはっきりとしてくる。
初めは風の起こすざわめきに過ぎなかったものが、少しづつ形を帯、やがては人の声と分かるものへと姿を変えていく。
「魔理沙の――――――――家?」
「ここは――――――、――――――――――――友達だった――――――ア――――――――」
声は一種類ではなく、何人もの人が集まっているようだった。
何人、というには大人数の声が集い、アリスの家の前を通り過ぎて行っている。
「魔理沙の家は?」
「もっと、森の奥よ。ずっとずっと森の奥深く」
「そんなところに住んでたんだねぇ」
「魔理沙が――――――――」
「――――――――魔理沙――――――」
アリスは本当なら何も聞きたくなかったし、耳を塞いだままでいたかった。
ただ、何度も魔理沙の名が呼ばれているのを聞いてしまった。
「――――――――――魔理沙――――――――――、魔理沙――――――――――」
アリスは起き上がり、ベッドから下りて、床に足をついた。
服を着替え、足は引寄せられるように部屋の外へと向かった。
アリス自身はもう、何も考えたくないのに、魔理沙の名前を呼んでいる声を聞くと、いてもたってもいられず、家の外へと踏み出してしまう。
「雨?」
空は曇り、細かな雨が降っていた。
曇天と言うには、所々に明りが漏れ、薄く鼠色の膜が張ったような空具合だった。
空気は暖かく、顔を濡らす雨も冷たくは感じなかった。
アリスは誘われるまま、傘も差さずに森の中へと進んでいく。
魔法の森は年中薄暗く、幻想郷のほかの地と比べても湿度が異様に高いせいか、菌類の生育が盛んだった。
家よりも高い木々が重なり合い、低く成長の遅い木達が光を求めて、空へと向かう隘路に己の細い体をくねらせ入り込んで、わずかばかりの隙間で呼吸していた。
足元にはじくじくとした菌類が胞子を撒き散らして、一族を繁栄させようと落ちた葉にすら取り付いて、青白い粉を塗りたくる。
じゅむっ。
アリスがブーツの踵を地面に埋め込むと、皮底を通しても過剰な湿度で腐れた葉の汁気が染み込んでくる気にさせられる。
鼻を蠢かせると、腐葉土の匂いが流れ込んでくる。
不快さにアリスは、閉じこもっていても世界は変わってはいなかったことを知った。
「どこにむかってるのかしら?」
光を求めて、細く今にも折れそうな木すら、上へ上へと幹を伸ばして枝を広げる植物の群れで構成される森は、丁度天然の天井のようだった。
植物が激しい生存競争結果として、背の高さを得たせいで、地表に勢力の空白が生まれ菌類がはびこるようになっていた。
木々の作り出した天井に人の立てる音が反響して、声の進む先の位置取りを上手くアリスはつかめなかった。
ただ足は、何度も往復した道のりを辿っていく。
魔理沙の家への道を。
本当に何度この道を往復したのかわからなかった。
それぐらい魔理沙とアリスはお互いの家を行き来していた。
魔理沙のことだから、アリス以外にも同じように行き来している家があっても少しも不思議ではなかったが、アリスにとっては魔理沙だけがそういう相手だと言うこともあり、もう魔理沙はいないのだと知っていても、足だけはまるでいつものように軽々と道を行く。
自然と足は早まり、アリスの鼓動は興奮で高くなる。
魔理沙の家へ行く、それだけで初めはやや早足程度だったものが、やがて駆け足へと変わってしまう。
本当に見慣れた道だった。
どの木を目印にした角を曲がるか、分かれ道になっているか、あとどれぐらい行けば魔理沙の家があるのか、意識しないでも体は覚えていて、おぼろげだった集団の声が段々と近付いてくる。
前を行く人の群れも、魔理沙の家を目指しているようだった。
「魔理沙、魔理沙」
アリスの心は魔理沙がいた頃のように跳ね、アリスの体を突き動かす。
アリスは妙な確信とも取れる、魔理沙とまた会えると言う予感に、ひたすら突き動かされていた。
最後の垂れ込める絡み合う樹木から垂れ下がった菌糸のトンネルとくぐると、魔理沙の家が見える。
家の前には喪服を来た人たちがいた。
影のように黒い服の隙間に、白布が見える。
四角い白木の箱を包むように、白い布が被せられ、喪服の人が箱から伸びた棒を担いでいた。
人が入っているとは、到底思えないような小ささだった。
アリスの感じた予感は、あっけなく裏切られた。
「魔理沙……」
アリスは、ショックは受けたが、今度は涙は流さなかった。
あまりの衝撃に感情が磨耗してしまい上手く動かないせいもあったが、目の前の光景を見て、当たり前のことに気がついてしまったせいだった。
死んでしまえば、二度とは戻らない。
アリスの悲しみはまだどこか自分に酔った部分があり、ある意味絶対的な隔たりを理解していなかった。
ただの白木の箱を見て、死と言う、どうしようもなさを心の奥から理解させられ、甘い可哀想という感情さえ吹き飛んでしまったのだった。
ただの箱という帰結の前では、好意からの憐憫ですらただの自己満足に過ぎないと、アリスは思い知らされたのだった。
だから、悲しいはずなのに涙は出てこなかった。
「魔理沙……………………」
唖然として声も出せなくなったアリスの前で、魔理沙を弔う人々は、次の目的地に向い足を動かし出した。
アリスは何ともすることが出来ずに、離れて後ろをついて歩いていく。
喪服の黒の中に、アリスの明るすぎるパステル調の服で混じることは出来なかった。
葬送の列は服の色や、空模様と比べて、決して暗い雰囲気ではなかった。
むしろアリスからすれば明るく感じた。
列を成す人々の顔は苦渋には歪んでおらず、笑みさえ浮かんでいて、朗らかとすらアリスには見えた。
魔法の森を抜けると、葬列は幻想郷を巡り始める。
生前魔理沙が出歩いた場所や、異変の時に活躍した場所、思い出を偲びながら列は歩いていく。
さびしげな無縁塚を通り、丘を越えて、迷いの竹林にまで足を踏み入れていく。
人々はアリスと一緒に魔理沙が活躍した、永夜異変のことも知っており、口々に竹林の感想を話している。
人間達にとって竹林は以前とは違い、入ってしまえば永遠に出ることの出来ない危険な場所、と言う認識では無くなったようだった。
普通の人間からはじき出されるようにして、誰も足を踏み入れることのない魔法の森に家を構えていた魔理沙だったが、決して人間達からは嫌われていないようだった。
人々の口に上る魔理沙の行動は、好ましく語られ、魔理沙のことを誇りに思っている節さえ感じられた。
「普通の魔法使い……ね」
人々は魔理沙を自分達の代表だと見ていた。
何でもない普通の人間が、与えられた規則の内だとは言っても、妖怪と対等に渡り合うことが出来た。
魔理沙は人間と同じように、妖怪を相手にしても全く態度を変えることもなく、友達付き合いをしていた。
今の幻想郷では妖怪も里を訪れ、買い物をしたり、飲み食いをしたりしている。
人は妖怪を恐れることもなく、もはや今では日常の風景として受け入れている。
妖怪に襲われることは天災に合うことと同義で、出会ってしまえば、あきらめ受け入れるしかないものだった。
でも大人からしたら小さな子供の魔理沙が、そんなことは過去のものとして、戦いすら遊びに変えて楽しげに暮らしていた。
聞かない風を装っていても、日々いろんな事件が起きるたびに、魔理沙のしたことも自然と耳に届いてくる。
悪戯ものの妖精を魔理沙が悪戯して困らせていること。
恐いはずだった妖怪なのに、魔理沙に大事なものを取られて大弱り。
幻想郷を揺るがすはずの大事件に魔理沙が口を突っ込んで、引っ掻き回す。
魔理沙はそんなつもりは毛頭なかったのだろうが、人々からすれば耳に聞こえてくる噂話での魔理沙はどこかユーモラスで、巻き込まれた妖怪も話の中ではどこかとぼけた風のあるかわいらしいものへと変わってしまう。
何処かの不思議なお伽話のように。
人々はもう妖怪を恐るべき異邦人のようには見ない。
共存できる隣人として見ている。
葬列から聞こえてくる魔理沙の思い出話から、人々に魔理沙が残したものをアリスは見つけた。
「楽しいそうなぐらい……ね」
参列者は皆、魔理沙の名前を口にすると、ほがらかで優しそうな笑みを浮かべる。
まるで魔理沙が幸せな終わり方をしたみたいだった。
いや、人間にしてみたら、幸せと言えるのかも知れない。
妖怪に喰われて跡も残らなかった訳でもなく、天災に巻き込まれた訳でもなく、飢えて死んだ訳でもなかった。
ほんの少し前までは、子供だと言っても、当たり前にあった光景だった。
魔理沙は一人で生きるには十分なほど成熟してはいなかった。
その子供が飢えることもなく、妖怪から怨まれることもなく、天寿を全うしたのだった。
これから人間達は誰もが魔理沙のように生きることが出来る。
魔理沙はある意味、未来のともし火のようなものだった。
特別な博麗ではなく、”普通”だった魔理沙だからできたことだった。
竹林の奥にある屋敷を見て、再び魔理沙を送る列は何事も無かったように竹林から出ることが出来た。
列はさらに進み、湖を巡り、山へと進んでいく。
空は薄曇で明るいが、降り注ぐ細かな雨のせいで、地面近くでは煙ったように白く濁り、葬列の後ろをついて歩くアリスの目からは、喪服の黒がおぼろげな影になって、景色に溶けていくよう見えた。
アリスは何処か受け入れられずにいた魔理沙の死が、魔理沙がこの世に存在していた意味を、参列者の口に上る言葉の端々から受け取ることができ、少しではあるが救われた気がした。
もはやアリスにとってこの列に連なる意味はなかったが、列が辿る先で魔理沙の最も親しいと言っていい人物が待っているかと思うと、離れられずに距離をとったまま付き従った。
「あら? あの子?」
アリスが付かず離れずの位置を取ったまま、湖の彼方の紅魔館を見据えることの出来る丘を離れた時、アリスの前を小走りに駆ける、小さな姿が目に入った。
「魔理沙とよく一緒に遊んでいた子だわ」
喪服を着ることもせず、いつもと変わらない明るい水色の服を着て、同じ色の髪を揺らしながら、列について歩いている。
「魔理沙、魔理沙のこと覚えてるよ、あたい」
魔理沙の名前を呟きながら、俯き加減で小さな体をさらに小さくしながらも、葬送の列に加わった。
背中に羽の生えた明らかに人ではない姿が最後尾に加わったことに、一瞬人の影がざわついたが、小さな胸に抱えた花と、鎮痛と言っていい表情を見せる幼い顔に声は静まった。
「霊夢が教えてくれたんだ。魔理沙に出来ることは、これ、しか、もうないって……」
最後まで言い切ることが出来ずに、途切れてしまう。
しゃくりあげながら、何とか上を向いた顔は涙で濡れていた。
「だからあたいに出来ることするよ。が、がんばって、魔理沙を送るよ」
顔をゆがめながら、胸にある赤い花を、力を込めて抱きしめる。
「あたいだけじゃないんだよ。みんな、魔理沙のことを好きだったから、みんなで魔理沙のこと覚えてるから、魔理沙は寂しくないよ」
言葉と共に最後尾に、同じような姿をした妖精が加わる。
緑の髪を黄色のリボンで横に束ねた妖精が、初めに列に加わった幼い妖精の横に並び、頑張ったねというように、そっと肩に手を伸ばした。
その胸にはやはり花束が抱えられている。
「ねっ、みんな魔理沙のこと覚えてるでしょ?」
必死になって魔理沙に話かける妖精の姿に、人々の中からも胸が詰ったような声が漏れ出した。
列には妖精が次々と加わっていく。
服装や容姿は様々だったが、皆が申し合わせたように胸に花を抱えていた。
紅魔館に住んでいるのか、メイドの服を着た妖精も混じっている。
人よりも小さな体に、幼い容姿の妖精達が、花を抱えて、悲しみにくれる姿がアリスの胸を打った。
人を弔う方法も、死の意味さえどれだけ理解できているのかもわからない妖精達が、自分達で考えたのは、魔理沙に送る花を集めてくることだった。
ただ、純粋な悲しみを表すその姿に、アリスの胸が震え、涙が流れ落ちる。
妖精の持つ花は、春の花もあれば、夏に咲くものもあった。
色も取り取りで、赤もあれば、黄色もあり、また紫色もあった。
真っ赤な薔薇や、妖精の背丈を越えるような大きすぎる向日葵もあった。
弔いの意味さえ知らない妖精が、自分達なりに魔理沙を弔っているのだった。
「魔理沙~」
「魔理沙、魔理沙」
「魔理沙~」
「魔理沙のこと忘れないよ」
「ずっと、ずっと、ちゃんと覚えてる、魔理沙のこと、ぜったい忘れないから」
「魔理沙~」
かわいらしい声で魔理沙の名前を呼びながら、小さな参列者達は泣いていた。
微笑ましく見ていた人間達も釣られるように涙を流し、口元を押さえて呻いた。
アリスも涙を流していたが、決して不快な涙ではなかった。
魔理沙のことを純粋に好きでずっと覚えていたい、そう思って、魔理沙のことを思うと自然と流れた涙だった。
本当に純粋に魔理沙がいなくて悲しい、それだけの涙は心地よかった。
人間もそう感じたのか涙を流しながら、妖精達から花を受け取り、同じように魔理沙を悼む、異なる種族の隣人達の手を取り、列の中へと導いていった。
妖精と人間が交じり合う葬列は、静かに歩みを続ける。
列は幻想郷を一回りして博麗神社の麓まで辿りつくと、折り返し里へと戻っていった。
最後に幻想郷を魔理沙に見せて廻った葬列は、これから墓地へと向かうことになる。
アリスが神社へと続く石段を見上げると、予想に違わず鳥居の下に人影があった。
石段を下りることも出来ず立ち尽くす影を見たアリスは、魔理沙とここで別れることにした。
「さようなら、魔理沙。大好きだったわ。それと……ごめんなさい」
誰にも聞こえない声で、アリスは魔理沙にあやまった。
魔理沙のことは今でも好きだし、大切な思い出を残してはくれたが、もうアリスが魔理沙にしてあげられることは何もなかった。
「行くわね、魔理沙」
そのままアリスは振り返らずに、石段を昇る。
石段の先には、まだアリスが何かをしてあげられる人が待っている。
「霊夢…………」
階段を上りきると、霊夢がじっと立っていた。
霧のように細かな雨に全身を打たせ、傘も差さず立っていた。
鳥居に手を添えてやや前のめりに、足を踏み出そうか迷っている、そんな格好のまま下を行く魔理沙を送る人々を見ていた。
「霊夢」
アリスが声をかけるが返事は返ってこなかった。
アリスは当然のこととして、さらに話かけるでもなく、黙ったまま横に並んだ。
体の横に伸ばした霊夢の指先が、触れるか触れないのかの距離にアリスは立った。
霊夢の立つ位置から見える、道を行く列はすでにおぼろげで、ただ一塊の黒い染みのようにしか見えなかった。
本当はあの中に混じってしまえば楽だろうに、霊夢は鳥居からわずかに半歩境内より足を踏み出し、見送るだけだった。
どれぐらいの間、濡れて立っていたのか、霊夢の黒いやわらかだった髪は水を吸い、重くつやを失っていた。
濡れているせいで前髪が額に張り付き、表情が曇ってみえる。
全身もまた水に浸かったようにずぶ濡れで、肩口から覗いた肌には鳥肌が立っていた。
服は体に張り付き、スカートは足にまとわりついて、太ももの輪郭がくっきりと浮き出ていた。
「アリスは魔理沙のこと送ってあげていたのね」
暖かい日ではあったが霊夢は雨に濡れて冷えたせいか、唇は紫色に変わり、声は震えていた。
同じように雨に打たれて歩いてきた後だったので、アリスの髪も水で重く垂れ、濡れた服が肌に張り付いていた。
毛先から雫がぽたぽたと流れて落ちている。
アリスと同じような濡れ具合から考えると、霊夢は魔理沙が来るずっと前、それこそ魔法の森を葬列が歩いていた時から待っていたのに違いなかった。
時間が経ち、見送る相手はいなくなり、立っている意味がなくなっても、霊夢はじっと正面を見て、行ってしまった彼方を見続けていた。
霊夢を一人置いておくことも出来ず、アリスは濡れたまま横に立ち続ける。
霊夢は問いかけを発さない。
聞きたいことは、幾らでもあるだろうに、何一つ言わなかった。
葬送の列はどんな様子だったか、親しい人はいたのか、列にいた人はどんな顔をしていたのか、知りたいはずなのに、霊夢は何も聞かない。
「…………っ」
霊夢が身震いすると、並んだ手の甲同士がぶつかった。
冷たい、こわばった感触がアリスに伝わってくる。
その感触は接触を拒むようだった。
魔理沙が床に伏し、伸ばした指先の感触も、同じように冷たくこわばっていたのだろう。
アリスはそれに触れることが出来なかった。
隣にある冷たい手にも、手を伸ばすことができない。
「妖精達もいたわ」
「……?」
「ちいさな妖精達も、魔理沙を見送るために来てくれたの。みんな、胸に花束を抱えてたわ」
目線を動かしはしなかったが、霊夢が驚く様子を、アリスは感じた。
「震えながら『魔理沙~』って名前を呼んでいたわ。きっと、あの子達なりの弔いなのね」
霊夢は声を出しはしないものの、興味を引かれているようだった。
「魔理沙のこと好きだったのね。だから、あの子たちに出来ること、送ることをしようって思ったのね、きっと」
「そう」
「魔理沙のこと覚えてるって、ずっと忘れないって言っていたわ」
「そう」
「妖精達にできる、魔理沙を大事に思うやり方は、ずっと覚えていることなのね」
霊夢はアリスのほうに向き直った。
「少なくとも魔理沙は妖精達に本当の悲しみと、弔うことの意味を残したようね」
それだけ言うと、再び魔理沙が行ってしまった先を見詰める。
風が吹き、横薙ぎに雨が降りかかる。
濡れて寒かったが、それでもアリスは決して不快な気分ではなかった。
隣にいる霊夢も同じように感じてくれていればいいのに、アリスはそう願った。
ざざざざ、と何度も風が吹くごとに、景色が明るくなっていく。
雲が吹き飛ばされ、空は明るく、雲の色も薄くなっていく。
晴れた風景の中、霧雨だけが降り続いていた。
草木の緑が濃く見え、風景はまるで五月の、新緑の季節を思い出せた。
はるか彼方の里まで見えるようになったが、それでももう葬列は見えなくなってしまっていた。
それでも霊夢は動こうとしない。
隣に立つ霊夢の鮮やかな服の紅が、妖精の少女が魔理沙に手向けようと抱えた花を思い出させた。
魔理沙を見送ろうと集まった妖精達は、一人一人がまるで違う花を持っていた。
その花々は気付いたものはいなかったが、本来なら今の季節に咲くはずのないものが、混じっていた。
人間達は気が付かなかったし、妖精達は気にとめてもいないようだった。
ただ魔理沙に渡したい、綺麗な、明るい花だけを、魔理沙に見せたい一念だけで集めてきたに違いなかった。
健気な話だったが、その話には残酷な裏があった。
参列者の中、アリスだけが気がついていた。
幻想郷に季節外れの花が咲く時、それは外の世界で異変があった時。
本来なら六十年に一度だけ、狂ったように季節を考えずに咲く花々が、幻想郷を埋める。
妖精達が持ってきた花はどれも季節を外れていた。
里を、山を埋め尽している訳ではないが、それでも季節外れの花が多く咲いている。
六十年に一度の狂い咲きではないけれど、妖精達の捧げ持つ季節外れの花々が、魔理沙の死が特別なものではないとアリスに教えてくれている。
真っ赤な薔薇、大きな向日葵、儚げな桜。
本来咲くはずのない霧雨の季節に花開き、数え切れない無数の命が、ここではない何処かで、あたり前のように散り続けていることをアリスに囁いている。
魔理沙の死は魔理沙を大切に思うものにとっては特別だったが、人間の運命としては何も特別なところはなく、誰にでも起こり得ることだった。
「ねぇアリス。魔理沙って本当に病気で死んだのかしら?」
物思いに沈むアリスに、唐突に霊夢が語りかけてくる。
「え?」
「ひょっとして、ひょっとしてなんだけど……」
霊夢は言いよどむ。
「こう、何か、魔理沙にとって、つらいことがあったりして」
口に出していいのかとまるで迷っているみたいに、アリスには思えた。
「私、考えてしまうのよ」
アリスと霊夢の前髪同士が触れるほど、霊夢は近づきアリスの目を覗き込んでくる。
「魔理沙ってひょっとしたらって………………」
そこで霊夢はアリスから視線を外す。
「魔理沙、自分で死を選んだんじゃないかしら。とてもつらいことがあって、耐え切れなくって、それで……」
「そんなわけ、あるわけないわ」
「でも」
「そんなことあるわけないから。魔理沙にそんなことがあるわけがない」
アリスは強く言い切った。
「私は魔理沙がそんな子だったって思わない」
霊夢はアリスの瞳の色を、縋るような表情のまま、嘘がないかを探るように、じっと見詰めてくる。
「そう、そうよね、ありがとう」
数瞬の後、霊夢はまた魔理沙が行ってしまった方角を見る。
アリスは霊夢がどうしてそんな考えに至ったのかはわからなかった。
霊夢と魔理沙は一番古い友達同士で、アリスにもわからない、二人の繋がりがあった。
その中で、霊夢はなんとなく、そういう風に考えてしまったのだろう。
アリスにも、死んだ魔理沙が怖くて、触れることさえできなかったと言う、霊夢に隠したいことがある。
霊夢にもまた、アリスには言わないことが、魔理沙との間にもあったのだろう。
どんなに時が経っても、霊夢とアリスの関係が変わっても、ずっと二人の間には魔理沙がいる。
何かあるごとに、二人は魔理沙のことをふと思い出すだろう。
「霊夢」
「何?」
それでもアリスは霊夢にずっと言いたかったことを、打ち明けるつもりだった。
魔理沙が死んでしまった以上、何かあるごとに魔理沙を思い出しては、行き違いが霊夢とアリスの間に起こることもあるだろう。
アリスの瞼の裏には鮮やかな花の残影が写っている。
妖精達の抱えた花束は、誰にでも、いずれ降りかかる運命を示していた。
だから、アリスは出来ることを、精一杯やるつもりだった。
「話したいことがあるの」
「アリスが私に話って、何だろう?」
「何だと思う?」
「わからないわ」
「ふふ、聞いたら、きっと驚くわ」
「何かしら? 全く想像もつかない」
「そうかもしれないわ。ねぇ、でも、少しだけ待って。この雨が止むまではこのままでいたいの」
「うん、わかった」
霊夢も同じ気持ちのようだった。
霊夢が肯くと、また二人の手の甲同士が、触れ合った。
アリスは、その手を今度は掴むつもりだった。
でも、雨が止んでしまうまでは、手を離しておこうとアリスは思う。
もう少しこのまま霊夢と二人で、今のままの関係でいるつもりだった。
霧雨が止んでしまう、その時までは。
ー了ー
まぁそれが氏の狙いであり、作風であり、魅力なのでしょうが。
惜しむらくは、シリアスと魔理沙のタグと、最初から鈍感というフレーズを多用していた時点でだいたい展開が予想出来てしまった点でしょうか。
それと内容的にイジメのタグ入れておいた方がよろしいのではと思います。
氏の作風をわかって読む人ばかりではないでしょうし
自分は博霊みたいな特別な人間ではないので一般的な結論を言います。
どうみても自殺です。本当にありがとうございました。
空を見上げ過ぎたら首が折れてしまったのか・・・
凄く良かったです
自分も霊夢に対して似たような感じですかねー+一番好き
素敵なお話ありがとうございました!
やっぱりお上手ですねえ。
積極的な天子ちゃんかわいい。
ひしひしと感じられる素晴らしいお話でした。
こういう霊夢だから僕は目を離せないんだなあ……
描写はさすが奈利さんだと思いました。
ぐいぐい惹き込まれ、感情をぐちゃぐちゃと掻き回されました。
ありがとうございました。
この辺のもやもやした感覚がなんとも霊夢らしい。
作者氏が狙ったか定かではないが、とにかく各キャラクターの思考が
意味不明過ぎて読んでて気分が悪くなってくる。
「え、なんでそう考えたの?」「は、急にそんな事言う?」みたいな。
ダークでも何でも読んできたからそういった内容にも耐性はあるんだが…
なんでだろう?
取り分け魔理沙の心情を考えてしまうと...なんだかやるせない気持ちになります。
やっぱり寿命ネタは、嫌いだ。