夜の帳が降りる住宅街。そこにある学生用マンションの一室、机に向かってうんうんと唸る少女がいた。
部屋の内装はシンプルで、家具も必要最低限なものしか置いていない。これは家主……というか部屋主の意向である。物を多く置くと部屋がごちゃごちゃして不快なことに加え、狭くなることが嫌なのだ、というのが本人の弁である。
彼女の格好は酷いの一言に尽きるものだった。よれよれのパジャマに身を包み、まるで手入れされていないようなぼさぼさの髪をしている。更に目には隈が浮かんでおり、天変地異でもない限りこの格好のまま外に出るようなことはできないだろう。パジャマを身に着けてはいるが、これは風呂に入った後なのではなく朝からずっとこの格好のままなのである。
「うぅ…」
また一つ少女が唸りをあげた。もし彼女が地獄の底からどうにか這い上がろうとして力んだとしたら、全く同じ声をあげるだろう。
誰にも見せないとはいえ、何故年頃の少女がこんな醜態を晒しているのか。それは、恐らく全ての学生が忌み嫌い、それでも尚逃れることのできない試練、レポートである。しかも提出期限は翌日、いや、時間は0時をとうに過ぎているため今日と言った方が適切だろうか。
彼女の目の前に置かれたノートパソコンにはワードソフトに書き連ねられた文字の羅列が表示されている。その分量は通常であれば目を見張るほどのものなのだが、今回彼女が強いられている試練にはこれでも足りないのだ。与えられたテーマについて、彼女は持てる全てを持って臨んでいるのだが、それでも足りなかった。つまり、これからは中身のない、もしくは非常に薄い文章をひたすら埋めていかなくてはいけないのである。ちなみにこの場合の『これから』は原稿用紙にして6枚以上は軽く継続している。
「うあぁ……もう、これ以上何書けってのよ……」
既にぼさぼさになっている黒い髪を更に乱すかのように、頭を掻き毟る。いっそ現実からベッドを通じて夢の中へと逃げ込みたい気分だったが、提出期限が迫っていることと、彼女が生来の生真面目な性格であることがそれをさせてはくれなかった。そうしてもう1時間ほど唸っているのである。
不意に、傍らに置いてある携帯電話が鳴った。着信音はこれもまたシンプルなものである。あえて名前をつけるのなら『パターン1』といったところだろうか。
深夜にも関わらずメールではなく電話をかけてくる非常識さとこの忙しい時にというタイミングの悪さに苛立ちつつ、彼女は電話に出た。
「もしもし?」
『もしもし。私、メリーさん』
蓋を開けてみればなんのことはない、彼女が大学で一番と言っていいほどに仲の良い友人からのものだった。しかし、どこかおかしい。いくら電話口だからといって、わざわざ自分の名前を名乗るだろうか。しかもご丁寧にさん付けで。
「メリー?どうしたの、こんな夜遅くに」
『今、あなたの学校にいるの』
ここで彼女も合点がいった。これは恐らく、十昔ほどに流行った怪談の再現だろう。奇しくも彼女とこの怪談の主は名前が一緒なのでこんな悪戯を仕掛けてきたのだ。
「メリー?悪いけど私今忙しいの。そういうのなら今度付き合ってあげるから、それじゃあね」
そう言って返事も聞かずに電話を切ってしまった。携帯電話を傍らに置き、再び唸る作業に戻る。そうしてから、少しだけ後悔した。先ほどの切り方はあまりにも冷たかったんじゃないか?あのメリーが珍しくお茶目な悪戯を仕掛けてきたのに、この対応は些か大人気なかったんじゃないのか?そう思い、一抹の罪悪感が心を埋める。
しかし、明日謝ればいいや、という発想の転換に至るまでの時間はそう長くなく、少し時間が経つとまた唸り声が聞こえてくるのだった。
そして、また携帯電話が鳴り出した。
「もしもし?メリー?」
『私、メリーさん』
軽く当たりをつけてこちらから聞くと、やはり彼女だった。丁度いいと思い、明日に回そうと思っていた謝罪を今することにする。
「あの、さっきはごめん。ちょっと」
『今、駅にいるの』
言葉を途中で遮られたことを苛立つべきなのか、先ほどの対応でも怒っていないことを喜ぶべきなのか、はたまたこの悪戯を続けていることを微笑ましく思うべきなのか。この気持ちを自分の中のどこに落とすべきなのか悩んでいる間に電話は切れてしまった。
まあいいか、と思考に見切りをつける。一つのことをとことん考えて結論なり理論なりを導き出すのも大変重要で有意義なことなのだが、いかんせん今は他に集中するべきことがある。普段の彼女らしからぬ遅々としたペースでキーボードを叩いていった。
そうして更に原稿用紙一枚分ほどを埋めた頃、再び携帯電話が鳴り出した。
「……もしもし?」
『私、メリーさん』
若干うんざりした。ちょっとした悪戯程度ならもうそろそろ終わるだろうと思っていたからだ。しかし、それと同時にもう最後まで付き合ってやろう、という気にもなっていた。
『今、大きな交差点にいるの』
「そ。変な人に逢わないようにね」
季節は春。気温も暖かくなって人も動物も楽しくなる季節だ。それ自体はいいことなのだが、楽しくなりすぎて奇行に走る人も少数ながら存在する。幸い蓮子が住んでいる地域は治安が良く、あまりそういった話を聞くことはないのだが気をつけるに越したことはないだろう。まあ、気をつけた所で逢ってしまう時は逢ってしまうのだろうが。
それを考えての親切心から出た言葉だったのだが、対する返事もなく電話は切れてしまった。
「……ま、大丈夫でしょ」
そう割り切って作業に戻る。この世の怪異をいくつも見聞きし、触れてきた彼女達にとって、今更変質者などは恐れる対象でもなかった。さすがに実力行使に出られたら危ないだろうが、この辺りならそんな輩もいないだろう。
かちこちと時計が時を刻み、かたかたと指が文字を記す。閑散とした部屋に無機質な音が響いており、もしもこれを見ている第三者がいるとしたら、酷く底冷えした印象を抱くだろう。
対照的に蓮子の胸中には仄かな火が灯っていた。レポートの規定文字数と今まで書いてきた文字数から残りの文字数を計算したところ、そろそろ終わりが見えてくるだろうかという数字だったのである。それに眠気を通り越した深夜のテンションが加わり、一種のランナーズ・ハイのような状態になっていた。
よもやただの課題であるレポートにこれほど熱くなるなどとは誰が想像できたであろうか。今、蓮子の身体は平時より火照っており、それに伴い頬は紅く染まっている。瞳は僅かに潤み、からからに乾いた喉からは熱い呼気が吐き出される。冷たい部屋の空気を吸い込むほんの一時だけ熱が僅かに静まるのだが、それは正に焼け石に水という言葉がぴったりと当てはまる程のものでしかなかった。
「っ……はぁ、んっ……」
意図せずして口から声を漏らしてしまう。隣の部屋に住む誰かに聞かれてしまうとも考えたのだが、それすら彼女の興奮を呼び覚ます材料となっていた。
下腹部に奇妙な違和感を感じる。それは蓮子にとってはほとんど未知の感覚であり、それに対する恐怖も僅かにあったのだが、不思議と心地よく、危険信号の類ではないということを本能的に知っていた。
そんな性的快感にも似た悦楽を感じている中、それでも頭の片隅に冷静であるままの部分もあり、それがこのままではよくないと蓮子に警鐘を鳴らしているのを感じていた。
そんな中、再び唐突に携帯電話が鳴った。その音で少しながら正気に戻り、時間を確認ると、先ほどの着信からいくらか経っているのがわかった。
「も……もしもし」
『私、メリーさん』
やはり件の友人だった。先ほどから続いているこの意味不明な遊びも、今回ばかりはありがたく思える。超えてはならない一線を越えてしまうのを阻止してくれたのだから。おそらく本人にその意思はなかっただろうが、やはり持つべきものは親友なのだと痛感したのだった。
『私、今コンビニの前にいるの』
そう言ったのを聞いて蓮子は思いついた。そうだ、何か軽く食べるものを買ってきてもらおう。そうしたらきっとこの妙な身体の火照りも落ち着くに違いない。思い立ったら実践とばかりに、電話越しの相手に言った。
「あ、メリーコンビニにいるの?だったらついでにアイスとか買ってきてよ。お金は後で払うからさ」
『…………』
帰ってきたのは無言。そしてすぐに電話は切れてしまった。
まあ、大丈夫だろう。なんだか今日は様子がおかしいが、彼女はこういう頼みごとをしたら嫌な顔をしつつなんだかんだで聞いてくれるのだ。もちろん、使いっ走りにしているわけではない。メリーから頼みごとをされることもあるし、要するにお互い様なのだ。
「……さて」
幾分か落ち着いた頭で先ほどの自分をあえて顧みないように努め、再びパソコンの画面と格闘を始めるのだった。
無機質な部屋に、無機質な音。しかし、もう底冷えした空気を纏ってはいなかった。長い間続けてきたレポートの文字数マラソンがそろそろ終わりに近づいてきているのだ。心なしか蓮子の面持ちも軽くなり、正にラストスパートと言えるような状態となっていた。
時間は既に、深夜と早朝の境界とでも形容できそうなところとなっている。
「あー、もうこんな時間かあ」
ふと時計を見上げて一人ごちた。散々唸りながら、時には投げ出したくなるような気持ちにもなったが、今日という日を丸々使ってようやく完成も間近となってきた。そう考えるとなんだか感慨深い気持ちになってしまうのは、きっと気のせいではないのだろう。
たかがレポートに、と人には言われてしまうかもしれない。しかし、しかしだ。今この時の蓮子にとっては一日を全て費やして作り上げた、言わば我が子なのだ。生みの苦しみだって嫌というほど味わった。
まだ子供を授かったことなどないし、その予定だってあるわけではないのだが、陣痛に苦しみ抜き、破水を経て今まさに胎児が新生児に変化するのを身体で感じる瞬間というのは、もしかしたらこんな気持ちなのかもしれない、と思った。
「……長かったなあ」
そう、本当に長かった。しかし、それももうすぐ終わる。両手を天に突き上げて伸びをした。背骨がぼきぼきと音を立て、一瞬の快感を感じる。
さて、もうひと頑張り。心の中でそう呟き、意思を再び固めたとき、ふ、と何かを思い出してキーボードに伸ばしかけた手を止めた。
「そういや、メリー遅いなあ」
先ほど、コンビニにいると電話があってからもう1時間半が過ぎようとしている。蓮子との付き合いも長くなった今更、アイスの好みに悩むということもないだろう。しかし、すぐに頭を切り替えて作業に戻った。
きっとコンビニで立ち読みでもしているのだろう。普段のメリーはそんなことに興味など持っていないのだが、今日のメリーはなんだか妙なスイッチが入っているようだし、珍しくそんなことをしていても不思議ではない。
「……ふふっ」
そこまで考えて、少し可笑しくなった。読む本といえば、いつも純文学か詩集くらいなメリーが俗な漫画雑誌を黙々と読んでいるのを想像したのだ。いや、ひょっとしたらうっかり淫猥な雑誌を見てしまい、好奇心と羞恥心の狭間で葛藤しているのかもしれない。そう考えると、余計に可笑しくなってしまった。
自分の勝手な想像が変なところへ入ってしまい、笑いが止まらなくなってしまうというのは、きっと誰しも経験のあることだろうと思う。
想像して欲しい。よれよれのパジャマを纏い、ぼさぼさの髪と隈の浮いた目をした女性が真っ暗な部屋の中煌々と光るパソコンの前で肩を震わせて笑っているのである。
そんな中、突然携帯電話が鳴った。出てみると、やはりメリーである。
『今、あなたの部屋の前にいるの』
「あー、うん。開いてるからおいで」
そう言って電話を切ると、ドアの開く音に次いで足音が聞こえる。かさかさという音はコンビニの袋だろう。蓮子は振り返らずにパソコンのキーボードを叩いている。すると、再び携帯電話が鳴り出した。
『私、メリーさん。今、あなたの後ろにいるの』
「うん。アイスありがとね、後で食べるから冷凍庫に入れといてよ」
そう言って電話を切った。最後まで怪談を再現したかったのだろう。その意思を汲んで電話に出た蓮子だったが、パソコンから目を離すことはなかった。相も変わらずキーボードをかたかたと叩いている。もうすぐ終わる。その思いが蓮子の指を動かしていた。
背後の気配はしばらく後ろで佇んでいたのだが、やがて動き出して冷蔵庫に向かった。扉を開ける音とコンビニ袋の音から察するに、調達してきたアイスを冷凍庫に仕舞ってくれているのだろう。それが済むと再び背後に立ってじっとしていた。
「にしても、どしたの?こんな時間に。起きてたからいいけどさ」
背後の人物に向かって蓮子が声をかける。相手は微動だにせず黙っていたのだが、蓮子はそれでも振り返らずに言葉を続けた。
「ちょっと待ってね、これもうすぐ終わるから」
そう言って文字の入力を続ける。
実際残すところはあまりなかった。それでもところどころで詰まりつつの進行だったが、これならそう時間を置かずに完成するだろう。彼女の相手をするのはその後でいい。そう蓮子は考えていた。しかし、背後の相手はそんな悠長な考えではなかったようだ。
すぐに終わる、と蓮子は言った。しかし、実際にそうすぐ終わるわけではなく、しばらくの間蓮子は画面を見つめていた。そんな彼女にしびれを切らしたのか、やがて背後の人物は歩き出し、次いでドアを開閉する音が聞こえた。
「……え?」
蓮子は驚いて振り向いたが、そこにはもう相手の姿はなく、ただどこか寂しい自分の部屋が存在しているだけだった。
「えっと……怒らせちゃったかなあ」
そう呟き、少しだけ自分を省みる。しかし、明日学校で謝ればいいかと思い直すと最後の一文を手早く書き込み、データを保存する。あとはこのデータを学校で印刷して提出すればいいだけだ。
「んうぅ……ふう」
伸びをしたら、たまらず声が出た。先ほどの、小休止のための伸びとは違う、課題の終了を示す伸びだ。その快感も一塩だった。
「さーて、アイスアイスっと」
鼻歌交じりで冷蔵庫へ向かう。彼女が好んでよく食べるアイスは当然親友であるメリーも知っており、当然それが置いてあるだろう、という当たりをつけて冷凍庫を開けた。しかし、
「…………あれ?」
そこにあったのは冷凍庫から溢れんばかりの大量かつ雑多なアイスの山だった。
翌日の昼休み。昼食をとる学生で賑わう食堂で、蓮子はカレーうどんを乗せたトレイを持って辺りを見回していた。昨夜とは違い、きちんと身だしなみを整えている。トレードマークである黒い帽子の下でどこか幼さを残す顔には、もう隈は浮かんでいなかった。
「あ、いたいた」
目当ての人物を見つけると、そちらへ向かって歩き出す。
「メリー、おはよー」
「おはよう蓮子、もうお昼だけどね」
メリーと呼ばれた彼女もかなり個性的な帽子を被っていた。あえて形容するなら、ナイトキャップというのが一番適切であろう。その長い金髪と相まって、かなりの異彩を放っていた。そんな彼女に、蓮子が席に着きながら喋りかける。
「いやー、ゆうべはごめんね?レポートが今日期限でさー」
「ゆうべ?……何のこと?」
目を合わそうともせずにメリーが返し、オムライスを口に運ぶ。とろとろの卵がバターライスと絡まり、絶妙な味のハーモニーを奏でる、この食堂の人気メニューだ。
暖かなオムライスと対照的な冷たい態度に、蓮子はああ、これは本格的に怒っているなと判断した。
「いやほんとごめんよ。あんな時間にわざわざ来たんだし、何か大事なことだったんじゃないの?」
そこでようやくメリーが目を上げた。しかし、その眼差しから何かの感情を見出すことはできない。
「あなたの部屋に?ねえ、本当に何を言ってるのよ」
「……えっ?」
二人の間に沈黙が流れる。沈黙で気まずいと感じるような間柄ではないのだが、蓮子はひどく落ち着かなかった。
「えっと……、昨日の深夜くらいに電話くれたでしょ?」
「あなたが本当に何を言っているのかわからないけれど」
スプーンに乗せたオムライスを口に運びながら、メリーが言った。
「昨日、私はあなたに電話なんてかけてないわよ?」
途中でおちは読めましたが文が丁寧で整っていたためスラスラ読むことができました。
秘封の二人は日常的に怪奇に遭遇してそう
学食で出会ったメリーの冷たい態度の理由が見えてこず。
話は面白かっただけに、なんかここだけすっきりしなかったです。
とても読みやすかったです
強制ちゅっちゅで撃退するのかな、と期待してしまいました。
う、裏切ったな!僕の気持を裏切ったな!
おもしろかったです。
私も見習いたい。
一回目後ろに立たれたときに振り向いていればアイスのぎょうさん入った袋が見えたのだろうか。
と言うかもしかして、アイス溶けそうになったから一回冷蔵庫の方へ行ったのかw
律儀にアイスを買ってきたのに、全く相手にされないメリーさんがかわいいw