博麗霊夢の命日は、良く晴れた暖かい春の日だった。
◆
「もう、長くはないわね。もって三ヶ月」
医者として言いなれた台詞であるはずが、こう言い放った時にはとんでもない快感が襲ってきて、晩冬の寒さとは関係なしに震えが走った。私はそれほどサディストだったのだろうか、と自問し、そんなわけはない、と結論する。彼女だけ、特別なのだろう。長い自分の人生、この言葉を彼女に告げるために生きてきたような気さえしてくる。
「それも、私特製の延命薬を使った上でのこと。そのまま放っておけば二週間もしないうちに頓死だわ。八雲紫、女史?」
対して超然とした態度を崩さない紫は、患者用の椅子にどっしりと腰掛けていた。今までに私が医学の限界を伝えてきた者達と比べて、格段に落ち着いている。
本来、どれほど神懸かった能力を持つ立派な妖怪にとっても、いや、いっそ神にとっても、死は本能的な恐怖の対象であるはずだ。冥界やら三途の川やらが目に見えて存在する分、なるほど幻想郷は異質だろう。だが、それらは所詮、死の表面的な一部に過ぎない。死の本質は、もっと先、もっと奥、非存在という、未知の世界。未知とはイコール恐怖であり、生きとし生けるものには死に対する潜在的恐怖が付きまとう、と……。何千年もの間、そう信じていたというのに。
「案外脆いものなのね、妖怪って。で、私はなんで死ぬの? 寿命?」
他人事のように言い放った紫は、あっけらかんと笑いつつ尋ねる。爽やかな仮面を被っているが、その下の本心は明らかだった。あえてわかり切った説明を私にさせて、反応をうかがうつもりなのだろう。
死を目前に控える身ながらあまりにいつも通りの紫の表情を見ているのが癪で、精一杯目を逸らし、ずっと電灯に纏わりついている一匹の蛾に向かって答えた。
「妖怪に寿命なんて存在しない。あなたが一番理解しているはずでしょう。医者として言ってはならない言葉かもしれないけれど、どうして、なんて知りたいのはこっちの方よ」
妖怪は肉体的ダメージよりも信念に作用されやすい。それを逆手にとって、『謂われ』のある武器で攻撃すれば、妖怪を消滅させることも理論上可能だが、紫のような大妖にはそれすら効果がないだろうから、紫を死に追いやることが出来る者など、事実上この世にたった一人――すなわち"自分自身"を除いて他にいない。
となれば、口無し死人となる前に、理由だけでも話して欲しかった。
「どうして、ねえ……。あえて言うならば、あれかしら? 私がこの間冬眠から覚めたとき、」
頬に手を当て、上目遣いで楽しそうに思い出を掘り返す紫。その顔は数千年前から変わらず美しく、見まいとするのに見惚れてしまう。
「完璧だったのよねえ、式に任せてあった結界の管理。私に改善出来るところが一つもないどころか、時代の変化に合わせて新しい結界まで作ってあって。おまけに、」
嬉しそうな口調で式の成長を語る合間に、ちらりと寂寞の影が垣間見えたのは気のせいだったのか。
「食卓に煎餅が置いてあってね。煎餅よ、わかる? それも、外でしか手に入らない海苔の巻かれたやつ。私、もう、自分の式の優秀さが嬉しくて……。そろそろ死ぬのも良いかな、って思ったのよ」
死亡診断書の死因欄には煎餅と書いてやろう。軽い復讐を心の中で誓いつつ、突拍子も無い紫の言葉を解釈しようと考え込んだ。いつもならば無駄な努力と切り捨てるところだが、こと人の死に関しては理解の深度が違う。珍しいことに、論理の破綻した紫の科白の中にも少しだけ、自分に通じる部分があるような気がしていた。
「そういえば、私なんかと雑談していて良いのかしら? あなたには次の患者がいるのではなくて?」
紫がふと思い出したように聞いてきて、我に返る。小首を傾げる仕草が妙に板についていた。年増の癖に気持ち悪いと心中で一蹴しつつ、よくわからないため息をつきながら言葉を吐き出した。
「大丈夫よ、非常に残念なことに。あなたが最後の予約で、うちは完全予約制だから、それ以外の客は門前払い」
「あら、ご立派なお医者さんですこと」
うふふと、扇で口元を隠して笑う。見慣れた動作を、それでもじっとみつめているうちに、おかしな感情が心中に沸き起こった。
それは、紫に対する親近感。同時に、何故、という疑問が思考を支配する。記憶の中の彼女は、気まぐれなタイミングで尋ねてきては、何をするでもなく私に話しかけ、散々仕事を邪魔して帰っていった。そんな彼女を私はうっとうしい奴とみなしていたはずなのに、たった今、こんな感情が急に噴出するのはどういうわけだろうか。
「ねえ永琳。親しい友人として聞くけれど、あなたは自分の不老不死について、どう考えているのかしら?」
またしても思考を邪魔され、考えを読まれたかのような前置きや、意図の漠然とした質問に苛立ちが募る。
「どういうことよ。一体何が聞きたいの?」
「言葉通りの意味よ」
「言葉通り?」
「ええ、あなたは不老不死でしょう?」
「だからどうしたのよ」
「死ねないのはどういう気分かな、って」
「どうもこうもないわよ、仕方ないのだもの。おかしなことを訊くのね」
「いいえ。ただ、可哀想だと思ったものだから」
紫の言葉と哀れむような表情がトリガーとなり、自分の中であふれ出した気持ちの悪い感情が、そのまま口を通じて放出される。
「ふざけないで頂戴。今までだってこれからだって、私達三人で十分楽しくやっていける。だからあなたの憐憫なんて、」
まんまと嵌められたのだと途中で気付いたが、慌てて口を閉ざした頃には遅すぎた。扇で口元を隠した紫の顔は、目元が隠しきれずニヤニヤと笑っていた。私の感情が荒ぶるのは先の指摘が図星をついているからだと、確信を持って知っているからだろう。改めてため息をつきつつ、努めて冷静に言う。
「ダメね、降参。口ではあなたに敵う気がしないわ。死ねないのは可哀想なこと、確かにそうなのかも知れない。でも、どうしてそう思うようになったのよ?」
「私自身が長く生きてみての感想よ」
真顔に戻った紫は、扇も下ろして続ける。
「なんだか、毎年毎年、一年が薄っぺらくなっていくじゃない? たった数千年生きただけでこれだから、もっと長くなれば本当に大変だろうなあ、と思ったの」
「そりゃそうよ。こんな話を聞いたことがあるでしょう。今一歳の赤ん坊にとって、この一年は人生の全てだけれど、二歳の子にとっては半分。三歳だと三分の一で、二十歳ならば五分、千歳だったら一厘で……」
「全くもってその通りね」会話を切るのかと思いきや、紫は再び口を開く。
「ところで永琳、その計算方法で、あなたの人生を一年ごとに足していったら、しまいにはどうなるのかしら?」
「……あなた、やっぱり年の喰いすぎで呆けたんじゃないの? 簡単なことじゃない、無限大に発散よ。わずかの猶予もないくらい、ぎりぎりでね」
「あら、そうだったかしら。それなら、良かったわね」
そう言って柔らかく微笑んだ紫は、果たして私をからかいたいのかどうか、判別することは適わなかったが、
「あなたの人生に、限りは無さそう」
紫の真意など、どうでもよく感じられるような、不思議な笑みだった。交わされる言葉に一喜一憂していた自分が阿呆らしくなり、諦観混じりに伝える。
「なによ、それ。励ましてるつもり?」
澄ました表情を崩さず、なんの答えも返さない紫の真意はわからずとも、一つわかったことはあった。
それは、八雲紫という大妖に対して自分が抱く、公平無私な感情の正体。単純明快にして前途多難な苦行――すなわち、長く生きること――を行う彼女に対する、同情や、同朋意識。一年が薄っぺらくなる、と彼女は表現したが、これは私や輝夜、妹紅が抱いている一つの共通認識であり、長く生きることの苦しみの一つでもある。
だが、そのような苦しみというのは決してこの一種類に留まらず……。そう考えて、ふと思いついたことを口に出した。
「そういえば、かなり前の代の博麗の巫女、霊夢とか言ったかしら、あの子とかなり親しかったわよね、あなた。やっと同じ所に逝けて、良かったじゃないの」
やはりというべきか、形容しがたく暗い感情が、一瞬だけ紫の顔に現れて消えた。その後、平然と扇で口元を隠しつつ答えてくる。
「……あら、一人に肩入れするようなことは私、致しませんわ。幻想郷の治安を守る博麗巫女、その全員の味方ですもの」
端から見れば完璧な振る舞いだったに違いないが、私にはそれが取り繕ったものにしか見えなかった。そのことが、一つの答えを示唆する。例の巫女と彼女との間の、ある一線を超えた関係性に対して、私の興味を満たしてくれる、明確な答えを。もっとも私は、その関係をとがめる気も、とがめる権利さえも有していなかった。
しばしの沈黙の後、紫はおもむろに立ち上がる。それが足腰の弱い老女のような仕草に見えて、あながち間違いでもないのだが、少し可笑しくなった。
「さて、長々と失礼しましたこと。そろそろお暇させて貰いますわ」
「そう。それじゃあ、お薬は二週間分しかないから、それまでにまた来ること。いいわね?」
「ええ。それと、お代はいつも通り、」
「ツケよね、わかっているわよ」
「いいえ。今、ここで払うわ。今までの分を含めて全て」
ハッと驚いて刮目する。それではいつも通りと言えないだろう、と口を挟む暇さえ与えられなかった。蛾のはばたきでチラチラと揺れる灯りの下、数千年の間一度もお代を払おうとしなかった妖怪がいそいそとお金を取り出しているのは、筆舌に尽くしがたい不思議な光景だった。
ぼんやりと眺めつつ、かつて魔法の森に住んでいた人間の魔法使いのことを思い出す。彼女も生前、紫と似た大層な性格をしていて、死ぬまで借りるぜ、とばかりに様々な所の様々な物を強奪していたと聞く。だが、彼女としては嘘をついているつもりもなかったらしく、死ぬ間際となってその全てを元の持ち主へと返したそうだ。この話を聞いた当時は、元の持ち主を忘れずにいた彼女の記憶力と、嘘はつくまいとして最期の力を返却に費やした執念とに驚いたものであるが。
目の前の紫が、そんな魔法少女と重なって見えた。一枚一枚、扱い慣れていない手つきで小銭をがま口から取り出す。そもそも、これがおかしな話だ。彼女が得意としていたスキマは開かないのか。以前ならば小銭など、持ち歩かずとも取り出せたはずなのだ。思い返せば、今日は最初からおかしかった。あの紫ともあろう者が、正面口から診察にやってくるなど……。
考えたくはなかったが、この私に余命三ヶ月を宣告させるほどだから、十分ありうることだ。今の彼女には、無理なのだろう。自分の意図した場所に、スキマを開くこと。先ほど紫に重ねた老女の姿がフラッシュバックし、今の紫となる。目の前にいるのは、一人のちっぽけな老人に過ぎなかった。命が肉体にひきずられない妖怪ですら、精神状態によっては、重ねた年が仇になるということか。
その時ふいに、目の前で腰をかがめて小銭を数えていた紫が、あっ、と小さな声を漏らした。
「どうしたのよ?」
「……一枚、どこかで落としてきたみたい」
「そう? ……ちょっと見せて頂戴」
確かに小銭一枚、ちょうど診察一回分ほど、足りないようだった。しかし、最期の幕を自ら引きに来た彼女に、そんなマヌケな姿は似合わないと思った。
「なんだ、足りてるじゃないの」
「え? でも確かに一枚……」
「紫、忘れてないかしら? 永遠亭は数千年に一度、診察無料という破格の大サービスをするのよ」
大嘘だ。扇で口を隠すことも忘れたまま、しばらく呆けていた紫は、やがてぷっと吹き出す。それを見てなんとなく、思わぬ所で復讐を果たせたような気分になった。
「あなたの診療所ってボロい商売よね。たったそれだけで大サービスですって」
「なんとでも言いなさい。ただ、これで心残りはなくなったかしら?」
「……ええ、そうね。ありがとう」
二週間後薬を取りに来る気も、処方された薬を飲む気もないに違いない老妖怪は、そっと感謝の気持ちをつぶやいた。
盗んだ薬を返しに永遠亭を訪れた魔法使いを思い出す。あの時は彼女の態度が急変した意味がわからず、何の言葉も告げられなかったものだ。……いや、そもそもあの頃の私は、そんな柄ではなかったか。いつの間にか、丸くなっていたようだ。それも全て、紫のせいだろうか?
「紫」
無意識のうちに呼び止めていた。"扉から"去りかけていた紫の後姿が振り返る。改めて眺めた紫の顔は、憑き物が落ちたように晴れやかで、長く生きる者が共通して有する、鎖のような生への呪縛は、全て溶け去って彼女から離れていくように見えた。とある巫女が彼女に優しくかけた鎖は、もう不要になったということなのだろう。どうしてその変化が生じたか、確かに興味はあったが、知るべきでないと思われた。
代わりに、死者には出来ないことを、生者が叶える。
「ご苦労様」
なんとか喉から絞り出した労いの言葉に、紫は驚いたように目を見開く。その澄んだ瞳に映るのは、私か、『巫女』か。後者ならば、私はとんだピエロを演じることになるが、それでもいい。珍しく、そんな気分だった。
比較的短い時間で驚きから回復した紫の顔に浮かぶのは、呆れるほどにいつも通りの胡散臭い笑み。
「なんでもないことですわ。永琳、あなたもお達者で」
ふわりと、体をひるがえして退出する。背中にはっきりと浮かぶ鎖跡は、支えを失って死へと落ち込む予兆のようで。それでもなお、全てから解放された彼女が、心底幸福そうに見えて羨ましかった。
ガチャリ。新たな鎖が私に纏わりつく。
◆
良く晴れた暖かい春の日、衰弱した一人の巫女が、一人の妖怪に向けてつぶやいた言葉。
「私亡き後も、幻想郷をよろしくね」
死者の言葉の重さは、数千年の生をもってなお余りあるものだと、一体誰が気付いていただろうか。
◆
八雲紫の命日は、良く晴れた暖かい春の日だった。
同じ身の上の仲間がいることがせめてもの救いかな。
俺は長生きする予定はないですね。長く生きてもいいことなさそうなので。せいぜい70歳くらいで死にたい。
ふたりの約束の鎖。
その鎖はきっと、かけがえのない価値のあるものなのでしょう。
そして、蓬莱山輝夜と八意永琳は、鎖を体中に纏わり付かせ、かつそれでも笑いあいながら、自分たちには訪れない、良く晴れた暖かい春の日を見据え続けるのでしょう。
感動しました。
やはり長さは関係ないものですね。
SSも……
命も。(ドヤァ……)
どいつもこいつも良い顔して死んでいきやがって。
そんな考えを彼女たちに当てはめるのは少し無理があると思うけど、でもそれを考えざるをえない作品でした。
「託す人がいる」って、とても幸せなんだなぁって、
「自分を超えていく人がいる」ってとても寂しいんだなぁって、
そして、「生を共にする存在がいる」って、何て素晴らしい事なんだろうって、
そんな事も考えさせられました。
重い話ではあるけれど読後感はとても良く、むしろ清々しさがあるくらい
長く生きた頭脳派人妖の二人にしては、やや凡庸な台詞回しに少し物足りなさも感じたけど
地の文が好みだから満点で
鎖の表現が特に好き
素敵な作品をありがとうございます。
霊夢の時代から数千年も経つのならそうなってもおかしくないといえばそうなりますけど。
心から信頼して託せる人が出来たのなら満足して逝けるんでしょうか……蓬莱人にはそれを羨ましがることしか出来ないのかと思うと少し切なくもあります。
良いSSをありがとうございました
何かが、胸の琴線に触れるように感じました。
ただ紫の死因ですが、式に後のことを任せられるように思えたから、だけというのは少し弱く感じました。確かに後のことを任せられる人がいることは大きいです、それならそれでもう少し紫と藍と橙について掘り下げて欲しかったです、そこがあっさりしすぎていて紫は式のことを信用しているんだろうけど、どれくらい信用しているかまでは伝わってきませんでした。
夏だと匂いそうだし。