Coolier - 新生・東方創想話

棘之庵 ~The end peacefully.  前編

2011/04/12 22:28:01
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  棘之庵 ~The end peacefully.







     皐月





 はらっと目を覚ますと、暗い年季の入った天井があった。ここは何処だ、という、逡巡とも寝ぼけとも受け取れる思考が過ぎると、あっという間に視界の景色と記憶が結びついてくる。隅っこにねぐらを作った蜘蛛の巣、あれを見つけたときはまだ昼間だったから退治せずにおいた。まだ埃の残った梁、そうだ掃除の途中だった。古めかしい中に真新しい天板の傷、あれはその掃除でハタキが楽しくてつい調子に乗って付けたのだ。ありありとした記憶がそれこそ蘇るように想い出される。実際は昨日のことなのだが、ついさっきの出来事として勘違いするほど明瞭な憶えに、いまさらの感慨も気落ちもなにも無い。それが当たり前だと突き放す程度には、私の人生はそればかりに囚われていたのかもしれない。
 記憶の明瞭さと頭の覚醒具合というのは比例している。だが寝ぼけ眼をしていかにも気だるそうな声を出し、私は布団の中で寝返りをうった。丁度良い重さの布団がしっとりと身体を包む。まだ自分の匂いがついていない布地に、少しだけ余所余所しさを感じたので、頬をすりつけてみた。寝汗は、かいていないか。とにかく、私はまだ眠いのだぞと、見せつける溜め息をついた。しかして誰が見るわけではない。昨日から、私はこの庵でひとり暮らしを始めたのだから。
 こうして起きたのだから朝のはずなのだが、障子は霧中のように薄暗く、湿っている。どうやら雨のようだ。布団の中から感じるには、素敵な天気だと想う。
 夢の中で閻魔様がもう一年待ってくださいと、仰っていた。夢だというのに正座をして、そこに座れと申されるのだ。さらにお茶とその茶請けまで出るのだから、なかなかどうして、便利そうだった。こういうのを明晰夢と言うのだろうか。

「稗田阿求、あと一年だけ現世に留まっていただきたい」
「それはまあ、ありがたいお話です」
「言いますが貴方の身体はもうくたびれてますから、本当なら明日にでもこちらに来てもらわないといけないのですが」
「なにか問題があったのでしょうか。私の方に不備がありましたかね」

 首を横に振りながら、閻魔様は刺々しく眉を寄せた。そしてそのまま岩のように黙り込む。この人は嘘をつかない。しかし代わりに口を噤んでは神経質そうにこちらを見つめるのだ。まだ審判は先のはずだから、これでは生きた心地がしないというもの。死に遅れに変わりはないが、それなりの気の使われようは頂戴したい。生きている者に閻魔の手が及ぶ道理は無いのだ。
 私が食い下がるわけでもなく、手持ち無沙汰にお茶をすすると、そこで目が覚めた。逃げたなと、口には出さずに布団に潜る。でも正直、本当にありがたい。まだこの布団の感触を楽しんでいられるのだから。あっちの布団は閻魔様の頭と同じく、固くて好かない。
 こちらの準備がとんとん拍子に進んで、さあ後はお迎えを待つばかりだと想っていた矢先のことだった。両親や家に住み込みで働く人たち、近所のおじさんやおばさん、厄介になっていた書物店のご主人、お茶飲み仲間、少なからず交歓のあった妖怪や妖精、幻想郷の人々。そういう恩義を受けた人たちの顔も想い浮かべる。皆、私に良くしてくれた人ばかりだ。お別れの挨拶をしたとき、誰もが一様に悲しんでくれた。当の私はヘラヘラしていて、逆に叱責された。ふと、このままだと困るなと想えた。これで生きて私が出て行けば、また叱られるのではないだろうか。いや、決して悪いことではないのだが、叱られると分かっていて叱られに行くのは、これはまた違った勇気が必要な気がする。嫌だな。
 今日は、一先ずいいだろう。昨日の今日だ。彼らだって余韻に浸りたいはずだ。私にそんな心配をされるのは心外だろうが、こちらとしても精一杯、残される者の想いを汲んでやりたい。だから、今日はいいだろう。丁度、雨だ。今ごろは悲しみという静謐が皆の心を落ち着かせているはずで、ならば私がそれを掻き回すのはお門違いというもの。皆の心は皆のものだ。大いに悲しんでくりゃれ、と、私は他人事だと大きな欠伸をした。
 雨は、幻想郷の底を洗うようにしとり、またしとりと降り続いている。私は眠気と共に想いを馳せる。一粒一粒がそこに住まう人々の目には映らずとも、雨は必ず皆の目に留まる。寒いときもあるだろう、恵みと感じるときもあるだろう。それぞれの人の感じ方は違えど、人々が雨に濡れているのになんの違いがあろうか。雨よ、平等に降れ。雲よ、平等に降らせよ。この郷の全てを洗わなくていいから、今は、私を想う人々を洗ってくれよ。もし、誰にも見つからない雨粒があったとしても、私が憶えているから。私は、それを記憶するだけだから。雨音を子守唄に、私はまた記憶を閉じた。

 次に目が覚めたとき、やけに暗かったので、しまった寝過ぎたと今度は直ぐ様、頭が覚醒した。それでもお経が上げられていることになど気づきもしなくて、飛び起きた私は強かに額を打ち付けた。途端に視界が明るくなり、頭を押さえて見渡せば、見知った人たちの見慣れぬ驚愕めいた顔ばかり。私の葬式の最中だった。大いに、死ぬほど叱られた。









     水無月






 私こと稗田阿求の生活は、とんと倦怠の渦中をさまよっていた。もう後は死ぬだけだったので、本当にやることが無くて暇なのだ。
 後は死ぬだけという事態は、僥倖、これがまた楽で仕方が無い。
 例えば家の者がものすごくあまくなる。私の代の幻想郷縁起を綴り終え、装丁も満足のいくものが出来上がり、果たして私の仕事が無くなってしまうと、両親をはじめとして周囲の皆が私に対して非道く寛容になった。放ったらかしと言っても差し支えない。その頃に私は一日中寝て過ごす蜜の味と、お布団という座敷牢の俘虜になったのだ。そこから先は転生の為の準備に追われるようになるのだから、ちょっとくらい怠けたって誰も文句は言わなかった。私が縁起を綴り始めたときは両親から女中までもが眼を光らせ、それこそ檻に入れられているかの如き扱いだった。さらに、私に率先して厳しく書を教え、縁起の何たるかと郷における稗田家の理を叩き込んだあの祖母の変わり様と言ったら、おかしくて仕方無かった。布団の中から私が飴湯だとのたまえば、祖母がえびす顔でしずしずと持って来る。そうやって優しげな声で阿求や阿求やと囁くのだから、私の笑い声を枕で隠し通せていたのが不思議なものだ。まるで猫かわいがりである。本当の意味で稗田家九代目当主になれた気がする日々であった。
 転生の準備は端折る。想い出したくもない。煩瑣めいた準備が終わり、そして今度こそ文字通り楽になるはずだった。その折に、この庵のことを祖母から聞いた。名を棘之庵と言い、代々の御阿礼の子が少ない余生を此処で過ごすのだという。いつ頃からある習慣かは記憶に無いが、大層なものだ。余生と言ったってせいぜいが数ヶ月であろう。隠居と言うよりも猫の末期と言った方が真実味があり、その通り、此処で過ごす内にくたばった御阿礼の子を稗田家の者が見つけ、粛々と弔うのだそうだ。そう、先日のように。失敗したが。
 今日もまたもや朝から布団の中でぼうっとしていたら、襖を開ける乾いた音がしたと想うと、今度は盛大ながらくしゃ音で眠気も飛んだ。見ればオケラだった。

「良かった。まだ生きてた」
「なんだ、オケラか。うるさいよ朝から」
「もうお昼近いです。さあ起きてくださいまし。朝餉は。お食べになりましたか」

 そう言って目尻を拭きながら落とした筆記道具一式を拾っている。こいつはオケラ、列記とした人間で、実家に奉公する女中のひとりである。名前は、そうだ、おからだ。元々が面白い名前なのだが、もっと親しみ易くしてやろうと渾名をオケラにしてやった。奉公に来たのが私が幼少の頃だから、もうかれこれ二十年近い付き合いになるのか。来年三十路を迎える私の三つ下のはずなのでオケラは二十六歳かな。嫁にも行かずに、物好きなものだ。

「呼んでくれれば良かったのに。黙って上がり込むなんて、ここは私の家だよ」
「お勝手から呼び掛けましたとも。返事が無いときのおからの気持ち、分かりますか」

 誰かの声に気づかないほど物想いに耽っていたのだろうか。この間もそうやって見つけたのか、と私がだらだらと身体を起こしながらからかってやると、オケラめ、なにも言わずに筆記道具だけ置いてさっさと帰ってしまった。ついでに洗濯でもしていってくれればいいものを。少々言い過ぎたか。あれはあれで甲斐性があるので、後々反撃されたら嫌だな。
 寝間着のままで庭に向かう障子を開くと、なるほど、確かにお日様はもう高いところにいらっしゃる。のびやかな陽射しが暖かい。寝起きの身体には気持ちが良いが、部屋の中にひゅるると風が入れば途端に寒気がする。まだまだ季節の本調子には時間が掛かるらしく、空の青さと庭の湿り気具合を確認し、早々に閉めきる。水無月の空は遠く澄んだ色をしていて、生まれてこのかた記憶している空と同じだった。この季節は好きである。
 さてさて、夕べの残りの味噌汁と実家から貰った煮物と菜の花のお浸しで腹を膨らませる。拙い手足でも力を出さなければならないときがある。今日は畑を耕すのだ。

「土を作って野菜を収穫したい、だと? ……大人しく向日葵でも植えてその種を採っていた方が良いぞ」

 と、皮肉たっぷりの顔立ちで上白沢教諭に言われた。葬式事件のことを根に持っているな。いの一番で私に抱きついてきて、いの一番に説教を鳴らしたくせに。上白沢教諭は郷の寺子屋で教鞭と石頭を日夜振るっているお人だ。むかし、その石頭にはなにが詰まっているのか、と聞いてやったら、とんでもないしっぺ返しを食らった。あれは相当の漬物石か鉛の金属でも入っているに違いない。なので、私は陰でオモリ先生と呼んでいる。釣りの錘と子供達のお守りと二重の意味でだ。ふむ。
 私が我慢しながら種など食わないと言えば、じゃあ朝顔にしてその日記を作れ、幻想郷『緑』起だ、良かったな、とまるで相手にしない。一度でも臍を曲げればこれだ。絡んだ毛糸のように始末に終えない。

「良し、帰っていいぞ」
「なにが良しだ。話はまだ終わってないよ」

 さすがに声を荒らげてやれば、やっとこちらが本気だということを理解してくれたようだ。しかし今度は日々の賜物よろしく、私を説得しにかかって来た。

「止めておけ止めておけ。お前のような貧弱者に務まることじゃない。土を耕すには力が要るし、作るには肥やしなどを撒いて見守る根気も要る。言うは易しとはこのことだ。数年単位で土を作ることも多々あるのだぞ。今まで食べるのだけ専門のやつが、しゃしゃり出れば碌な事にならない。本当に止めておけ。本当に」

 最後の言葉にはからかいよりも心配する気配が強く出ていた。心なしか声にも凄みがある。しまったな。正直、こうなった上白沢教諭の方が扱いにくい。一度決めてしまえば始末に終えないのは同じだが、心配事となるとこのお人は急に保守的になる。それも自分の為よりも他人の為となるとなおさらだった。私の手には余る頑固さなのだ。
 しかし、私も言い出したからには引き下がれぬ。先程の発言も癪なのでしつこく食い下がる。

「せっかく自由の身になれたんだ、好きに生きたいと想うのは当たり前でしょう」
「だからこそ、他のことをやれ。畑仕事はお前の身体に堪える。好きに生きる時間が余計短くなるかもしれん」
「あなたが手伝ってくれればいい。それなら問題無かろう」
「問題、の意味合いをすり替えるな。分かってて言っているだろう。無駄にするなと私は言っているんだ」
「無駄ではないよ。決して無駄ではない」

 先生という者はこれだからいけない。なんでもかんでも良いことと悪いことに区別しようとし、それでいて、良いことばかりを教え子に奨めてくる。あれは駄目、これは駄目と、悪いことに蓋をする。私は子供ではないけれど、少しだけ、意地になっていた。

「想うに、今まで自分で決めた約束に縛られて、もはや不自由だと感じることさえ久しくなった。なるほど、あの庵を終の棲家に仕立てた意味が分かる気がするよ。我ながら忘れっぽくていかん。あれは私の、私たちの悪戯なんだ。あなたみたいな人たちへの」

 押し黙った上白沢教諭の顔は怒っているのか悲しんでいるのか、私には分からない。

「不自由な時を生きてきたとは想わない。不自由だと考えるくらいなら、稗田阿礼は使命を帯びたりはしない。ただ、ひとりで生きてきたわけではないから、私たちなりにお礼がしたいのだろう」
「それがこの体裁か。どれだけ意地が悪いんだ」
「なにも忘れないという能力だって、私には愛おしいということです」

 私がそう言うと、上白沢教諭はため息をついた。こんな面倒臭いやつに絡まれているのだから、それも仕方無いと見る。心中お察しする。
 迷惑を掛けるつもりはないのだ。今までどおりに接してくれれば、それが良い。
 まだ渋る教諭に相対していると、昼九つの鐘が鳴った。時は待ってくれない。

「後生だ。頼みます」
「……ずるい言い方だ」

 上白沢教諭はいよいよもって怒った顔をした。頭突きだけは勘弁だよ、と、私が言えば、彼女は拳を振り上げるフリをする。私はか弱いのだから、というのだけは言わないでおいた。


 棘之庵に土の匂いが薫る。水無月の風は存外乾いていたので、ひっくり返した土の湿り気をよく吸う。その風を庵全部に行き届かせる為に、ぜんぶの戸を開けっぴろげにした。すると庭の反対にある勝手口にまで土の生きる匂いが渦巻いて、まるで冬眠から目覚めたばかりの土臭い蛇に、周囲をぐるりととぐろを巻かれたようだった。風がちろちろと舌を出しては、私の鼻をくすぐっていく。私が使うまで百年ほど眠っていた庵であるから、これがいい目覚ましになるだろう。芽吹く息吹に緑薫り、眠り終わりの終の棲家。火照ったふくらはぎを桶の水で冷やしていると、庵の屋根に雀がとまった。どうやらこの蛇は怠け者らしい。私と気が合いそうじゃないか。
 そうしてひとりで耽っていると、上白沢教諭の声に呼ばれ、私は疲れを癒す時間も惜しくてまた庭の方に土の匂いを辿った。

「それでなにを植える」

 腕まくりをした姿が凛々しく立っていた。うず高くなった畝を前にして、ほうれ私に任せればこの通りだと言わんばかりの面構えである。先程まで渋っていたのが嘘のようだったので、私はなるべくこともなさげに応対してやろうと想った。

「茄子が良いね。秋茄子は最高の馳走だ。それと白菜にさつまいも、大根人参葱にそれから」
「おっとそこまでだ。茄子は難しいぞ、それに根野菜はこの庭じゃ手狭だな。紫蘇や大葉、唐辛子なんてどうだ。虫が付きにくく収穫も容易だ」
「全部食事の薬味じゃないか、それ単体で食べられるものが良いのです」
「わがままだな」
「御阿礼の子は代々そうなのだから、仕方が無い」

 そのまま半刻ほどの議論があって、やっとこさ胡瓜と唐辛子に決定したがもう夕七つが鳴った後である。その間、土は待ちぼうけをくらって乾いてしまった。苗と種の用意もあるから、明日にしようということになった。うむ。
 別れ際の上白沢教諭は妙に清々しかった。これも私のお陰だということをその内知るだろう。私は私で、もはや動けないほどに疲れていたから、こちらも日頃の運動不足を知ることになるだろう。夕飯は軽く済ませ、すぐに布団に入った。まだ部屋内に残る土の匂いに抱かれたので、疲労も手伝い早々に記憶が閉じた。
 のだが、すぐにまた、がらくしゃ音で目を覚ます。用事が無くてもやってくる、オケラである。

「良かった。生きてる」

 生きてるとも。この通りとな。








      文月





 怠けというのは仕事があるからこそ生まれるのであって、単体ではただの穀潰しである。いや、それすらも危うく、もしかしたら存在さえしないのかもしれない。ということを、仕事の合間を利用して考えるに至った。我ながら立派な怠けであると自負する。仕事があるにも関わらず、というところが肝心で、我が身をもってして自らの仮定を証明せしめた。悲しくはその様子が必ずしも立派であるとは限らないところだが。
 私は怠けるのが好きだ。怠けは黄金に輝く蜜として、そのとろみの効いた甘露な時間を私に与えてくれる。なので仕事に対しては手広くやる。幻想郷縁起の編纂はもちろん、装丁や流通に関しても私の手が届く範囲で積極的に仕事を請け負っている。忙しさは私の怠け欲を発起させ、より良い怠惰な時を提供してくれるというわけだ。想うに怠けは背徳的な心象が原因であって、やらなければならないことがあるのに、それを怠る事実に自らの存在意義を見出そうとしているのではなかろうか。つまりは反発する精神と自制の精神との引き算で自己を形成しようという、型抜きのような精神活動。考えててだんだんと自分でも分からなくなってきた。お餅食べたい。
 最近では少々ながらも書評や筆写なども扱うようになった。怠けるのは好きだが、やはり筆をとると私は落ち着く。実の親よりも長く付き合った筆をして、その通り相棒と呼ぶに相応しい感慨があるのだから、つくづく、書き物とは縁深い運命にあると想うわけである。いやはや、これで筆の進みも早ければ言うこと無いのだがね。

「怠けるのは逃げてるだけですよ。なにをそんな学者様みたく、大袈裟な」

 かなりの正当な意見であった。今日は朝早くからオケラがやって来て、私の話を聞いて開口一番、批判しはじめたのだ。

「人間、真面目が一番です。真っ当な仕事を持っている人をご覧なさいな。皆さん、誰でも正直で熱心で、怠けている人なんていませんよ。阿求様は怠けが過ぎます」
「働いただろう。それこそ命がけで」
「またそういうことを言う。そんな冗談はおからは嫌いです。真面目に働けばそれが生き甲斐になっていくでしょうとも、ええ。誰からも好かれる人というのは、働き者だと昔から相場が決まってます」

 私の背中越しに箒の音をたてながら、オケラはとくとくと説教じみた声を出す。いや、これは正真正銘、説教だ。しかもまったくの正論。元来口うるさいのは承知していたが、オケラめ、近頃めっぽう口が達者になったものだ。それでいて掃除の手も緩むこともなく、几帳面に埃を掻き集めて、抜かりが無い。そう言えばこのあいだ若くして女中頭になったそうだ。あのオケラが、立派に出世したものよの。でも、いや、これはそれだけではない、と勘が働く。

「オケラ」
「はい」
「良い人でも出来たの」

 ばたん、と箒が落ちる音がした。こちらも筆を置いてから振り向けば、ちょうど庭を背景にオケラが突っ立っていた。どうやら図星、よもや予感的中、すなわち、形勢逆転。この稗田阿求、伊達で歳を重ねてはおらぬぞ。こんなときの為の我が求聞持の能力、発揮せずして死ねるものか。今度はこちらの番なのだ。オケラの赤面した顔を肴に、酔いでも廻るように私は良い気分になった。近頃吊るした軒先の風鈴が涼しげにひとつ、鳴った。

「さて、どうなのだ」
「は、いや、えう」
「その人は真面目なのか」
「え、その」
「その人は働き者で、皆からの評判も良いのか」
「い、いやぁ?」
「その人はなかなか頭も良いようだね。オケラにも色々と話してくれる」
「あ、あうう。そんな……」

 もうすでにあたりはついているのだが、焦らす。私は焦らす女だ。

「口が達者になるわけだ。あれ、だろう。私と一緒に逢ったことのある」
「えう」
「書物店の」
「いやぁ……」
「跡取り息子の」
「えうぅ……」
「京次郎」

 もはや否定も反論も出来ないと見えて、手で顔を隠して、オケラは力無くその場に座り込んでしまった。顔はもちろん、耳まで赤くしてしまって、覆った指の隙間からは隠しきれない羞恥心が腫れ上がっている。なにやら言葉にならない声を発し、ゆらゆらと身体を揺すっていた。舟を漕ぐようにゆっくり、ゆっくりと。見ているこちらが恥ずかしい。
 京次郎というのは私が贔屓にしている書物店、『扁蘿蔔堂』の倅であり、鼻筋の通った端正さで郷の女共に大層気に入られている奴のことだ。あすこの主人には殆ど似ず、若くして逝かれた母親の器量を受け継いだ若旦那であるから、それはもう引く手数多のひっぱり凧で、人気と言うよりもはや信仰とも言える女子衆からの慕情を、一手に引き受けている男であった。と、いうのは昔の話。悲しきかな、真面目過ぎるのが祟って四十近い今になっても嫁も貰わない、堅物の中の堅物、おなごの手とて握ったこともないのではないかと噂さえ浮かぶ、拳骨頭の持ち主に成り果てていた。そんな奴に取り入るとは、オケラも隅に置けないものである。漫ろ神に憑かれたわけでもあるまいし、あの男であれば間違いというのでもなさそうなので、悪くはない、のだろうが。

「上手くやったもんだねオケラは」
「え? えへへ」

 その後なにかと訊ねてみたものの、良い人を想い出して惚けたオケラはまったく使いものにならず、昼行灯よろしく、赤い顔をぽっぽぽっぽさせて悶々としていた。こやつ駄目だ。
 オケラを放っておいて、私は畑の様子を見る為に、暑い陽射しを帽子で避けながら庭を横切った。まだ日が早くとも、お日様は上り調子でギラギラと照り輝いている。夏になれば早晩、過ごし難くなるのは重々承知していたが、なんともはや、まだ盆前だというのにこんなに暑くてどうしようというのだろう。
 ふと下を見ると、釜の底のように干上がった土の上を、蟻の行列が這っていた。綺麗に並んだ列も、私の影に入っているあいだだけはゆったりと流れているようだった。そうだな、働き者もたまには休みたくもなろうさ。こう暑くては、致し方無いというもの。そう想い、私は蟻の列を閉ざし、草履の裏で小さな土手を作って分断してやった。行列の行き先は私の畑。働き者に免じて、これくらいで許してやろう。もっと別の餌場を見つけなさい。
 井戸で水を汲み、庵をぐるりと廻りまた庭に戻って畑に水を撒く。腕に力が無いので一度に桶で運べる分量が少なく、幾度かそれを繰り返した。暑い最中にやる仕事ではないな。明日からはもっと早朝にしてしまおう。これでは倒れてしまう。
 軒先を見るとまだオケラが居た。のの字のの字を床板に描いて、にへらにへらと恥ずかしそうに笑っている。あの茹で上がった頭にも水をくれてやろう。真実そう想い、疲れた身体に鞭打って、私は死に損ないなりに踏ん張ってみた。

「おやおや、暑いのによく働くもんだ。まだ四季様に許しを乞うって腹積もりかい」

 強欲なこったね、と、身軽そうな笑いを含みながら、畳の上に死神が現れた。ついついとした軽快な足運びとその長身が、豪奢とも受け取れる雰囲気と相まって、一見すると舞姫のようである。だがその実、魂を管理する仕事よろしく、挙動には迂闊さなど微塵も見せない隙の無さがあった。それでいて日陰でもなお褪せない色と振る舞い、名を小野塚小町。ことさらに怠けた気位を持つ、特異な死神だった。
 まるで、はじめからそこに居たような馴れ馴れしい畳の踏み方に、福寿顔だったオケラは目の色を変えて見上げ、ねめつけた。以前、実家の方に現れた小町にオケラが、ここは稗田のお家です、と怒鳴ったことがあった。なにが気に入らないのか、オケラは小町を好ましく想っていない。死神を好む方が珍しいとは、私も想う。
 当の小町はオケラに嫌われているのを知りながら、けたけたとさぞや愉快だと、笑っていた。

「貴方と同じ、怠ける為に働いているわけですよ。今日はなに、抜き打ちかな」
「うん、なんてことない。怠けついでさね」

 そう言って小町は縁側まで歩み寄り、きょろきょろと庭を眺め始めた。腕を組み、背中を丸くした姿で舐めるように目を凝らす様子は、どことなく貧乏神をも連想させる。なんてことはない。話し出す頃合いを見計る彼女の癖である。私は私で、腕が大変なので抱えた桶を地面に降ろした。陽射しが反射する水面が、生き物のように波打つ。ちょうどその照り返しが長身の死神の目に届き、顔を眩しそうにしかめさせた。

「数百年来のお得意様のご機嫌伺い、ってところかな」
「ついでで足りるようなお仕事なんて、この世にありませんでしょうが」

 オケラである。

「ああ、この世じゃなくて岸のあちら側に住んでるからね、こっちとはまた違った規則があってだね」
「彼岸だろうと此岸だろうと、お仕事になんの違いがありましょうか。閻魔様はそれを見てご判断なさると聞いておりましたが、その腹心であるはずの方が一等怠けているなんて。さぞや甘きご判断がなされているのでしょうね。あたくしら稗田様の女中どもが逝けば、すぐに天国行きです」
「いんや、四季様はそれだけじゃお沙汰は下さないよ。閻魔は魂に問うのさ。俗に閻魔様に舌を抜かれると言うが、あれは閻魔の前では言の葉なんぞ必要無いってことだ。すべてを見ているというのはその通り、すべてさ。働き者だからじゃなく、愚か者だからじゃなくてね。あんたが言うようだったら、仕事で頓死した奴ら皆が天国行きになっちまう」
「だったら、貴方はご苦労なさいますよ。渡し賃だって全然足りないんじゃないかしら」
「ん、死神は宵越しの銭は持たん。あるなら酒代に消える」

 小町がまた面白そうに笑うと、オケラは顔を真っ赤にした。自分がからかわれていることに腹を立てているのだろう。いかんせん、最近良い人が出来て多少口が回るようになったからといっても、所詮は百姓生まれのただの女中である。数百年生きていて、さらに口から生まれたようにお喋り好きな小町なのだから、一端の女中頭に務まる勝負相手ではないのだ。頭の善し悪しではなく年季の入りようが、知識云々ではなく気の持ち方が違う。
 いよいよもって立ち上がったオケラに、私は声を掛けた。

「前にこっぴどくやられて懲りたと想えば、分が悪いと最初から相手にしなければいいのに。オケラ、戻るなら今度来るときお餅持ってきて」
「阿求様がそんなだからおからは……!」

 オケラの矛先がこちらに向けられた。疲れているのだから勘弁してくれ、と私は軒下の影に崩れるように入り込んだ。日向とは大違い、こっちは天国か。自分の手で顔を扇げば汗は一気に引く。だが、私が聞いてないフリをしているというのに、オケラの口は一向に収まらない。
 うんざりして顔を背けると、小町のにやにや笑った顔が目に入った。面白いものなぞなにもなかろうと訝しんだ私を流し目に、怠けと言えばね、と庭に向かって声を上げた。あまりにも唐突だったので、オケラは驚いて口を閉じた。

「ずっと昔、あたいの舟に乗せた客に漁師がいてさ。そいつが言うにゃ真面目に働いて損したって、青い顔してうな垂れるんだよ。あんまり気の毒そうだったからさ、彼岸に着くまでの成り行きで、ちょっと聞いてやることにしたんだ。なんでそんなこと言うのさ、って」

 小町はどっかりと縁側に腰掛け、やはり我が家でくつろぐかのように、投げ出した足を冷たい日陰の土に触れさせた。つい私も草履を脱いで真似したくなったが、そそくさと逃げようとしているオケラの裾を捕まえる為に、その機会をなくしてしまった。

「そいつはね、元々、真面目一貫で働いていたそうだ。朝は日が昇る前から、夜は月が見えるまで、寝る間も惜しんで一所懸命に仕事したんだとさ。その分だけ漁の腕前も上がって、仲間内の信頼もあったから、わりと天職だと想っていたらしい。まあ、おなごに人気があるかどうかは、別としてね」

 誰もが昔話をするとき、遠くを見るようになんとなく目を泳がすものだが、この小町はどういうことか紙芝居でも読んでいるかのごとく、面白く楽しげに喋る。子供をあやすまでとはいかないが、なんとも聴きやすく、とりわけ自らの想ったことを話の間に間に挟む。それが情緒というか、聴く者の琴線に触れるのだろう。なるほど、喋り方ひとつで悲しい話も楽しく聴けるなら、浮かばれぬ魂たちにはさぞや好評な船頭だ。
 しかしいなせな肌を持つその船頭が話せば、雰囲気も明るくなるだろうと想えたが、そこは死神である。聴いていると不思議と汗が引いて涼しすぎる感覚にもなった。

「見れば確かにウケの良い顔はしてなかったね。おなごの先を伴侶として歩くには荷が勝ちすぎていた。まだその頃は若かったってのもあるだろうが、三枚目役にも劣るからその分を仕事の出来高で補おうとしていたらしいよ。結局は女だって男の顔より先立つものが欲しいもんさ。浮いた話だってひとつやふたつ、それなりに上手くことが廻ってきた、その矢先だった。ある日そいつは夢を見た。男なら誰だって見るような助平な夢をさ」

 いやらしい、とオケラは苦々しいような顔つきで呟いた。男の全部がそういう生き物だとは想わないが、少なくはないだろう。きっとオケラの良い人だって見てる。

「そうしたら良いところで覚めちまって、そいつはまた寝た。続きを見る為に。仕事があるのに。一度くらい怠けたって良いだろう、今まで真面目に働いたのだから。そう想って枕に溺れた。でも周囲は違った。その日は別に仕事が忙しいわけでもなくてね、漁の解禁日でもなければ仕事納めでもない。ましてや時化で荒れているのでもないし、そのせいで網の修理に追われているのでもない。まったくもって、むしろゆっくりと沖に出たって構わないような日だった。そいつの言い訳はそれ。だけど仲間は許しちゃくれなかったのさ。問答無用で叩かれて、挙句の果てに村八分。あっという間にそいつは全部を失った。なぜだ、どうして。不思議だねえ?」

 誰ともなく問いかけた小町に、オケラが揚々と怠けたからだと応えた。

「オケラ、きっと小町はそんなことを聞いたんじゃないよ」
「だってそれしかないじゃないですか。みんなが働いているときにひとりだけ寝ていたのでしょう。そんなことをしたら、誰だって嫌いになりますよ」

 縁側に正座、いかにも自分が実直の手本だと言わんばかりに、オケラは姿勢を正している。しゃんとしているのはいいが、突っぱねすぎている感があるように想えた。すまし顔のオケラに、そうだね、と、小町。

「あんたの言うとおりだ。怠けたのが原因ではある。でも、例えば普段から怠け癖がある奴だったらどうだろう。いつも仕事をしない者がいつも通り怠けていても、なんだまたかぐらいで済んでいた話かもしれないよ。村八分なんて非道い始末にまではならなかったはずさ」
「真面目に働いていたからその分しっぺ返しも大きいということですか。馬鹿らしい。まるで理不尽じゃないですか、失敗する為にせっせと働いていたわけじゃなかろうし」
「いやね、もしもの話さ。それからというもの、そいつは仕事を転々としていったそうだ。そして前みたいに真面目には働かなくなった。適度なところで休み、明日やれることは明日やり、時には数ヶ月以上も放蕩していたこともあった。つまりそいつは理解したのさ。登れば登った分だけ落ちると痛い。だったら、低いところに居れば、落ちたって痛くない、ってね。めでたし、めでたし」

 不貞腐れているオケラとは反対に、小町は大仰に背伸びをした。話好きな死神にとっては、ひと仕事終わったような気分なのだろう。そのまま、べたりと畳の上に仰向けになって深く息を吐いた。長身は長定規のようで、伸ばした指の先は部屋の中ほどまで届きそうだった。部屋と縁側の仕切りで背中が痛むのか、変な風に身体を浮かせている。
 話の余韻に呆けながらその放埒さを見ていると、すっかり緩んだ私の手からオケラの裾が逃げ出した。慌てて振り向くも、すでに立ち上がり、私の間合いの外でオケラは身なりを整えていた。もはや用は無いと無言で私に頭を下げ、またきびきびとした女中頭の顔に戻り、庵の勝手口に歩み出した。

「ちなみにそいつは地獄行きだ」

 あんたらも気をつけるこったね、と、いつの間にやら起き上がっていた小町が、どちらを見るでもなく、言い放った。その顔は普段よりは真面目で、でも口元を歪ませているのでなんだか奇妙な印象を受けた。明るく、早朝の雀のように朗らかな小町にしては、随分と慎重だと想えたのだ。
 また怒り出すかと想えたが、オケラはより一層しずしずともう一度頭を下げた。どうやらもう小町を相手にする気は無いらしい。

「お餅、あんこですか、みたらしですか」

 想い出したオケラが振り返る。両方で、それと私とお前とふたり分を、と頼むと、オケラは稗田家に戻っていった。昇進して仕事も増えたろうに、こうして毎日来てくれるのだから、あれも良く出来た女中である。
 オケラの気配がしなくなったのを察して、悪かったね、と、私は小町に言った。小町はいつも通りの笑顔で、首を傾げた。

「そう言う割には止めはしなかったね」
「あれ、知ってて煽ってるのかと想っていた。どうだい、オケラは。面白いだろ」
「うんまあ、芯はある。それよりもさ、あんた」

 小町が、呆れ気味の吐息をついた。

「あの子があたいに突っかかってくるわけ、どう理解しているんだい」
「小町が無礼だからだろう」
「そうじゃなくてさ。これ以上、死神にお節介やかせるんじゃないよ」

 気持ち急かすような声を出し、小町はまた寝転がって天井を見上げた。私が一緒になって見ると、先程置いた桶の水がてらてらと天板で揺らぎ、即席の天窓をこしらえていた。小町は長い足を桶に届かせて、天窓に波紋と陰りをつくる。すると庵の天井が、水底から見た水面のような、光と暗さが絡み合う高く張られた帳となった。

「小町が私の命を見張っている、とでも想っているのだろう。あれは子供の頃から私にべったりだったから、私もなんとなしに気が通じているんだ。でも、あれの気持ちはあれのものだから、それをどうこう言うのはお門違いな気がして、気が引けるんだろうな。こうして迷惑を掛けた小町に悪いと謝るのだって、あれが居ないときにしているし」
「それをひとこと言ってくれればあたいも楽なんだけどね」
「諸々を許容してくれる心の広い小町だからこそです。そしてあれが想っていることはあながち間違いではない。そうだろう」

 私が縁側から立ち上がって見下ろした小町は、一等真面目な顔をしていた。しかして不意を突かれた死神は、たとえ図星だとしても慌てずに私の目を覗き込んでくる。此方の意図を汲み取ろうとする眼差しには金目の匂いさえ感じさせる鋭さがあった。どこかの女中頭とは大違いである。
 見つめ合ったのもほんの束の間、すぐに砕けた表情を取り戻し、小町は笑った。

「ありゃあ、やっぱり知っていたか。昔の記憶も残っているのかい」
「長い付き合いはこちらも同じ、と言いたいところだが、生憎と先代以前の記憶は覚えが悪くて。小町は堂々と怠け、それでいてその裏付けや理由にはもっともらしいことを加える怠けのお手本だ。やはり怠けは逃避なのだね。本来の、ごたごたとした面倒な仕事よりも先に、楽で簡単な仕事を。たぶん書類書きに飽きて様子見程度のつもりで私に逢いに来たのだろう。怠けは、仕事を持つ者にしか出来ないことなのだからね」

 つまりは、オケラの言う逃げているだけというのも正しいし、私が考えていた精神活動という側面もあながち間違いではないらしい。小町は働き者である。だからこそ、本当に大事な仕事への自己認識を高める為に、楽な仕事に逃げているだけなのだ。
 そうやって自分を追い詰めなければ出来ない仕事もある。死神という、人の最後を見届け見送り見守る仕事は、果たしてそれに値しないだろうか。お喋り好きな船頭ならなおさら、人の魂を想いやる、強靭で優しい心が必要ではないだろうか。見送られる側に居る魂たちに好かれるというのは、そういうことではないだろうか。

「だから、もうそろそろ戻った方が良い。私は、大丈夫だからさ」

 私の庵に怠けに来た死神は、とても居住まい悪そうに、目を泳がせた。伸ばした足を組み換え、起き上がる気配も無く寝転がったままだった。この期に及んでまだ横柄な態度を取るのも、私への気遣いかなにかか。

「楽で簡単な仕事だなんて想っちゃいないさ。これでも、四季様から直截言われて来ているんだよ」

 言い訳代わりに小さく言った小町は、長い足を振り上げ、その反動で素早く立ち上がった。軒のヘリに両手を掛け、先程とは逆に小町が私を見下ろす。

「稗田阿求。あんたの、他人の気持ちは他人のものっていう考え方を、あたいは気に入らない。あんたが大丈夫だなんて想っていないし、あんたにはまだ足りないものがある。どうして四季様が連れていかないのか、あたいも知らされていないけど」

 そこで急に小町は口篭った。あまりにも小町らしくない様子に、私は逆に心配した。
 私の曇った顔に気づいたのか、小町は自分の状況共々、笑って誤魔化す。

「慣れないことはするもんじゃないね。とにかく、いいね、怠けるんじゃないよ。あたいに言われる筋合いは無いって想うだろうが、あの子が言う通りそれが一番さ。あたいの話で一番怖いのはなんだったか。あんたは分かってるんだろう」
「たった一度の失敗を許せない人の心、ですか」
「そうさ。仕事は怠けても、精神の成長を怠けちゃいけないよ」

 いいね、と、はっきりとした念押しの声を勢いにして、小町は一切を振り切るように背を向けた。長身の割に小さいと想える背中が部屋内の影に消えると、物音すらしなくなった。夏の陽射しに焼かれそうな私を残して、死神はあっという間に、庵から去って行った。

 小町の言葉に習い、午後は畑の世話に精を出した。緑が強い葉に虫は付いていないか、土を横取りする邪魔な雑草は無いか、水は足りているか。上白沢教諭が言っていた通り、やはりこの胡瓜と唐辛子は強いようで、まったく手を煩わせずに大きく成ってくれた。この分だと私が手間をかけずともすぐに成長してしまうのではないかと、つい想ってしまう。それでは悲しいので今度また別の苗を貰いに行くことにした。あの先生のことだから、少なからず良い顔はされないだろうが、そこはなに、また拝み倒してやろうじゃないか。もっと手間のかかるものを、などと言ったら、叱られるかもしれないが。
 夕七つが鳴る頃には空に厚い雲が重なって、随分と涼しくなってきていた。もう少し早く陰ってほしいものだったが、この分だとすぐに雨だろうから、丁度良いのかもしれない。
 早めに夕餉の用意をしていると、風呂炊きと雑多な仕事をしにオケラが来る。包丁の握りが危なっかしいと、代われ代われと急かすので全部を押し付けてやった。腹立ち半分に部屋に行けば、書机の上にお餅の入った包が。普段から書き物机の側には食べ物を置くなと聞かせてあるが、これは別だ。勝手から匂い立つ汁の香りに、ひとつだけと自分に言い聞かせながら、食す。残りは明日、仕事のお八つにしようと書机の下にしまった。
 案の定、オケラが帰る前に雨が降り出してきた。夜のせいで暗いのか、それとも雨雲のせいで暗いのか分からない空から、咳き込むように雨が振り、やがてすぐに土砂降りとなった。俄雨とは捉えられない時間帯と激しさから、オケラに泊まっていけと促した。

「今から帰っても仕事は少なかろう。後で私からも言っておくし、もう遅いしな」
「はい、明日もこちらには来ようと想っていましたから、お言葉に甘えて」

 雨音がうるさくて夜は仕事にならず、不貞寝するように布団へ潜った。寝付けずにいると、隣でオケラが布団を敷く音がする。なるべく静かに敷こうと気を遣っている様子に、私は知れず、声をかけた。

「小町を気に病むことはないよ」
「あれま、起きてらっしゃったんですか。いやですね」
「あの人はあの人なりに考えているけど、それにお前が合わせることはないから」
「……そうですね」

 そう言って、オケラは敷き終えた布団の上にぺたんと座り込んだ。てっきりまた激しく嫌がられると想っていたが、素直に返されると逆に落ち着かない。
 私が、どうした、と聞けば、オケラは静かにかぶりを振った。洋燈が雨の音にも負けず、部屋を仄暗く灯していた。

「お餅を、買いに行ったんです。稗田様のお屋敷には、無かったものですから。その帰り道で京次郎さんをお見かけしたんです」
「良い人の、書物店の跡取り息子のか」

 オケラが短く頷いた。

「なんでもないんです。ただ、あの人がお仕事でお忙しいはずのこの時分に、お花屋でお花を買って出掛けるのを見ただけで」
「つけたのか」
「そんな、まさか。でも、その、なんだか恐くて」

 隙間風に、洋燈の炎が緩く、震える。怠けていたんでしょうか、と、オケラは涙目になって呟いた。私が布団から起き上がると、膝立ちのままにじり寄って来る。こういう心配性なところは、小さい頃となにも変わらないと、私はオケラの頭に手を置いた。いつの間にやら結綿の似合う、立派な女中頭になったというのに。いや、その髪も今は寝に入るので解いているのだったな。

「なんてことはないよ。オケラが見定めた男だろう。そのお前が心配してどうする」
「だって。怠けているんなら、まだ。でも、誰か別の人のところに行っているとしたら、私は」

 ぱたぱた、と、こぼれた涙が布団に染み入る。

「大丈夫、京次郎はそんな奴じゃない。きっと、そうさな、墓参りにでも行っていたのだろう」
「そんなこと、どうして分かるんです」
「買っていた花は白い花だったろう」
「なんのお花かは分かりませんでした」
「花の品種はいいよ。なら、奴はその名の通り、次男だというのは知っているね。次男が跡目を継ぐのを、お前は妙だと想ったことは無いかえ」

 オケラは、厚ぼったく腫れた瞼を、必死になって瞬きさせた。私はなるべく、ゆっくりと話すようにした。

「昔聞いたことがある。京次郎には兄が居て、本当はその兄が店を継ぐはずだった。でもな、詳しくは知らないが、とあることで亡くなったそうだ。京次郎は真面目で型に嵌まりすぎる嫌いがあるから、たぶん代わりに店を継ぐことになる自分が申し訳なくて、盆前ではあるが兄の墓へと参っていたのだろう。もしかしたら、オケラのことを教えてるかもしれないよ」
「でも」
「それに私は逆に安心しているんだ。仕事が忙しいのに別のことで気を紛らしている奴が、拳骨頭の堅物よりも、よっぽど人間らしくて」

 私はオケラの解いた髪を撫でながら、ほら、と掛け布団を上げた。涙を拭い、オケラは大人しく布団に潜る。
 京次郎は小町と同じなのだ。一等大切な仕事をする為に、別の仕事を先に片付け、そっちに集中しようとしている。あやつ本人にはその気は無いのだろうが、見方を変えればそれは怠けだ。一等大切な仕事を先にするのが最良の手のはずなのだ。他のことなど、後から幾らでも間に合うのだから。
 でも、墓参りを優先させる無意識の選択に、京次郎の人情というか、心根が表れている気がして、私はオケラに手合いの相手だと、真実そう想えた。
 ふうっと息を吹き、私が洋燈の炎を消すと、部屋はいよいよ雨音に包まれる。月灯りも無いこんな夜は、闇も影も暗さも一緒くたになって、いっそ分かりやすいと感じる。潜ったはずのオケラが鼻をすすり、手を差し伸べてくる気配だとてすぐに分かった。

「そんなに心配なら、明日にでもあやつに聞けば良い。杞憂だとは、眼に見えているが」
「はい、そうします」

 繋いだ手は少々冷たく、幼い頃に共に散歩した畦道を想い出させる。

「さあ、もう寝るよ。明日も早い。そうだろう」
「うん」

 ゆったりとした時間が庵の中で流れる。不思議で、妙に安穏めいた空気を抱くこの庵は、なにかを問いかけるように、暗い天井を私に魅せつける。さながら記憶の奥底を揺るがす波紋の如く、それは私の胸に食い込んでくる。なにかを忘れている感覚を生まれて始めて抱き、また、知っていたはずだという既視感のような想いに、私は今一度、この庵の命題に差し迫った。
 御阿礼の子が最後の時を待つ庵。いつの私が取り決めたのか、もはや定かではない奇妙なしきたり。私は知らず、おばばから初めて聞いたというのも解せない。まるで組木細工のような名誉さを紐解けば、なにごとか知り得るのだろうか。それともただの死ぬまでの潰しなのか。しからばもしや、今まで縁起に本来の仕事を見出し、忙しく纏めて生きてきた私の、人生の怠けがこの庵なのかもしれない。では、次の大きな仕事とは。
 そう耽っていると、暗い隣の床から私の名が呼ばれた。

「なんだい、おから」
「居なくならないでくださいまし」

 私の無言は雨音に混じり、より一層の侘しさが庵を覆う。オケラの寝息を聞きながら私は記憶を閉じた。


 明朝、障子の隙間から差し込む朝日で目が覚める。あの土砂降りは厚雲と共に夢のように消え失せ、また暑くなるであろう青さが、文月の空に素っ気なく広がっていた。もぞもぞと布団を畳み終えると、勝手から白飯の湯気が流れる。行けば、オケラが結い上げた髪もよろしく、すっかり女中の体でせかせか働いていた。

「おはよう」
「あ、おはようございます。阿求様」

 振り向いた顔に焦燥は無かった。聞けば、朝一番で京次郎の元へと問い詰めに行ってきたらしい。さぞや驚いた、不思議そうに訳を話す二枚目の顔が目に浮かぶ。やはり墓参りだったとはしゃぐオケラに、私は、そうだったろう、と寝間着のままでふんぞり返って見せた。もし本当に別の女と逢瀬を楽しんでいたとしたら、知人に言って跡形も無いところだが。
 朝餉の香りは私を素直にさせる。オケラの小煩い声もいまやなんてことなく受け流し、袷に着替えて卓にて静々と待つに至った。そうして期待を呑み下していると、盆を持ったオケラが部屋に入ってくるなり素っ頓狂な声を出した。

「阿求様、あり、蟻ん子が」

 見れば蟻の行列が庭から、縁側、畳みと繋がって私の書机の下へと潜り込む始末。なんとも言えない不安な気色に、畢竟、私のお餅が喰われていた。
 声にならない悲観をあらわに、咄嗟に手を出した私へとオケラが、これだから働き者が一番なのですよ、と殺生なことを言い出した。諦めの付かない私をオケラが笑う。

「少しは見習ったらようございます」

 甘味を持った私は苦々しい顔をして、大股歩きに縁側へと駆ける。庭は昨夜の雨で光輝き、礫のような水滴が私の様子をつぶさに写し取った。畑には、あの土砂降りでも負けない、大きな蕾が胡瓜の蔓に垂れている。
 私は蟻ん子まみれになった団子を庭に放った。

「そら、私からの褒美だ。存分に味わうが良いさ」










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 ということで、八作目(前編)でございました。区切った理由としては、また長くなりそうなのと、モチベーション維持の為でございます。予定ではこの後三作か四作編にて投稿しようかと想いますが、あんまり立派な理由ではないので作品集の最後の方に、うっすらと上げる程度で体裁を整えようかと考えた次第です。きっと他の方々の邪魔にならないよう、祈っております。


【幻想感情線を】閑話休題【西へ】

 書きたいものがあるというのはなかなか幸せなものだと想うのですが、僕の場合、その時々に読んでいた本に影響されやすいようで、今回の作品もとある小説から感銘を受け、書き始めたわけです。あ、パクリとか言わないで。これは決して真似ではなく、イマジネーションを刺激された結果で色々と参考にした、リスペクトゥという名の、劣化……。
 つまりは、様々な形のお話を書いていきたいものですね、ということで。ちなみに僕がなんの本を読んだか分かりますかね? 分かったらすごく、ありがとうございます。百円を差し上げますね。
 それではこの辺にて、また次か、次の次か、半年後ぐらいの作品集終わり間際でお逢いしたいと想います。

 この度はお付き合いいただき本当にありがとうございました。次に投稿する機会に恵まれましたら、その時もどうかよろしくご教授ください。あと英訳Google先生サンクス。

 東方Projectに感謝を込めて。ありがとうございました。
百円玉
http://twitter.com/hyakuendama
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コメント



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4.90つくし削除
キャラがしっかり立ってて良いです。これは期待。続きが気になります。
5.100奇声を発する程度の能力削除
続きを楽しみに待ってます
6.100名前が無い程度の能力削除
引き込まれました。続きが楽しみです。
7.100名前が無い程度の能力削除
すてき。読んでない人は損してますよこれ
8.100パレット削除
 くああああ面白ぇ……阿求とかオケラとかキャラがすっごい魅力的で、キャラのみならずお話に対しても作者の方からの妙な圧力が感じられないからかな、自然体なお話なんだけど見てて楽しいという……そう、あくまで自分の中での分類なのですが、シリアスな作品やコメディ、ギャグな作品とは系統が違う、「ほのぼの作品としての面白さ」が体現されているように思います……こういうのって上手に書かれると凄く引き込まれて、凄く楽しめる。
 右編が投稿されたのをきっかけに読ませていただきまして、このあとそちらも見させていただこうと思います。面白い作品をありがとうございます!
11.90桜田ぴよこ削除
これを見逃していたとは不覚ですね。
12.100名前が無い程度の能力削除
太陽と土の匂いのする作品ですね、といっても、言ってる本人も訳がわかりませんが、そんな感じです。阿求と西瓜食べたい。
阿求とオカラの関係が良いです! 赤面したり、彼氏の動向に不安になったりするオカラは可愛いですね。
小町も呆け癖が阿求にフォローされていたのにも笑いました。
さて、先代が棘之庵にこめた真意や、閻魔様が一年の猶予を設けた理由などは後に明かされるのでしょうか。
17.100名前が無い程度の能力削除
ひょうひょうとした阿求がたまりません
今まで読んでなかったことを後悔
18.100ばかのひ削除
こんな面白い文書、ずっとよめると思いました