心地よい音が聞こえた。
それが何の音かは分からないけれど、外から聞こえてくるその音を彼女は心地よいと感じた。
何だろう? この感覚は何だろう? 「これ」はどういう事なんだろう? 「今」より先の自分は何も存在しない。あるような無いような、何も思い出せない。つまりはここが自分の開始点なのだろう。
扉の開く音。
「いらっしゃい」
「すみません。一本頂けないでしょうか? まったく、こんな……いきなり降ってくるなんて」
「災難ですね。まあ、こんな季節だから、無理もないことです。そちらに並んでいますから、どれでも好きなのを選んで下さい」
足音が近付いてくる。
心がざわつく。沸き立つ。
手が伸びてきた。手元を掴まれる。
自分を掴むその手は、温かかった。
手の主を見上げる。歳は十代の後半くらいだろうか。まだ顔に若干の幼さが残る男だった。
「それですか? お客さん、なかなかお目が高いですね。実はそれ、自分もここ最近作った奴の中ではいい出来だと思っているんですよ」
「あはは、別にお世辞なんていいです。ただこう……上手く言えませんが、魂が込められているって気がしたって言うと……やっぱり変ですかね?」
照れくさそうに男が笑うのを見て、店主は苦笑を浮かべた。
「いや、こっちもお世辞のつもりは無いんですけどね。ああ、お代はそこに書いてあるとおりです」
「じゃあ、これを頂きます」
「はい、毎度有り難うございました」
小銭が渡される音が聞こえた。
再び、扉の開く音。
そして、彼女は店の外へと連れ出された。
外は少し肌寒い気がした。
彼女は大きく開かれた。
それは、彼女が生まれ持った本能故なのだろう。
天から無数の水が彼女に降り注ぎ、彼女の体を濡らしていく。それは魂が震えるほどの悦びと快感だった。
手元を優しく包み込む男の手の温もり、彼女の体を伝って流れていく水の滴り、その一つ一つが狂おしいほどに刺激的であった。
男の肩にもたれ掛かりながら、彼女は周囲を見渡す。
空には重い雲が立ちこめ、日暮れにはまだだいぶ早いというのに、暗くなっていた。
町中を出歩く人が多いのかどうか、彼女は判断する基準をまだ知らない。しかし、道の広さと店の数に比べてみて、いつもよりは出歩く人は少ないのだろうと彼女は思った。同時に、こんなにも心地よい天気なのに外に出歩かないなんて勿体ないと感じた。
「寄り道した分、ちょっと遅くなってしまったかもな。まったく……女心と秋の空っていうけどさ……」
そんな声が男の口から漏れるのを彼女は聞いた。
自分を買っていったこの男は、誰かと待ち合わせなのだろうか? そういえば、他の人間達よりも少し歩くのが速いような気がする。
と、彼女らはさっきまでいた道から、広場へと出た。
その光景に、彼女は驚いた。
そこには多くの人達がいた。そして、赤い傘、青い傘、白い傘、チェック柄の傘、水玉模様の入った傘……いくつもの傘が鮮やかに咲き乱れていた。
それは彼女にはとても幻想的で、楽しげに見えた。
こんなところに連れてきてくれるなんて、自分を買ってくれたこの男は、何ていい人なんだろう。彼女は自分の幸運に感謝した。
人混みの中をかき分けるように、男は広場の中へと進んでいく。
そして、男は立ち止まった。
何事かと思い、彼女も男の視線の先へと注意を向けた。
そこには、薄紅色の地に花を模した模様が描かれた傘を差した美しい女が佇んでいた。
男はほっと小さく息を吐き、その女の元へと近付いていく。
「ああ、もう先に来ていたんだね。待たせてしまったみたいでごめん」
男は後頭部を掻きながら、女に頭を下げた。
しかし、女の目は冷たい。
その様子に、男は不安げに首を傾げた。
「ええ、そうね。私よりも後に来るってどういうつもりなの? 私、待たされるのが嫌いだって前に言ったわよね?」
「どういうつもりって? ええと……待ち合わせの時間には間に合っていると思うんだけど?」
男にしてみれば、それで十分弁解したつもりだった。しかし、女にとっては到底納得出来るものではなかったようだ。
「へえ? 時間に間に合ったからそれでいいと思っているの? 私をこんな天気の日に待たせたっていうのに?」
まるで話にならないと、女は嘆息した。
それを見て、男は困惑する。
「で? どうして遅くなったの?」
「あ……ああうん、急に雨が降ってきたからさ、この傘を買っていたんだ」
女は彼女を見て顔をしかめた。
「あなたねえ。本当に何考えて生きているの? どういうセンスしているのよ?」
「なっ!? どういうって……」
「そんな茄子みたいな傘を差してこの私と一緒に歩こうっていうの? 冗談も大概にしてよ。馬鹿じゃないの?」
男は女が何を言っているのか分からなかった。
彼女もまた、何を言われているのか分からなかった。
ただ、目の前の女が自分のことを傷つけている。そのことだけは理解出来た。悲しかった。
「……冷たっ!」
「え?」
女は、はっきりと敵意を持って男を睨み付けた。
「ちょっと、何するのよ? その茄子から雨水がこっちに飛んだじゃない」
「何を言うのさ? 俺は全然何もしてない……」
彼女の傘布からとめどなく水が滴り落ちた。それはきっと、彼女を濡らす雨水よりも多かった。
彼女は誰にも聞こえない嗚咽を漏らした。
「もういいわ。あなたとはもうこれっきりね。さよなら」
女は男に踵を返した。
「あ……ちょっと、待ってくれよ」
「ついてこないでっ!」
慌てて男は女の背中に手を伸ばそうとしたが、激しい口調で返され、思わず手を引っ込めた。
そして、そのまま為す術もなく男は女が立ち去っていくのを見送った。
大粒の雨が、重たかった。
女の姿が遠くに消えて見えなくなって、男は肩を落とした。
「お前が……悪い訳じゃないんだけどさ……」
男が呟くその声は、震えていた。
彼女を掴むその手に力が込められる。
“茄子みたいな傘……か”
そして、男もその場から立ち去った。それからはずっと男は無言だった。
それが彼女の最初で最後の……傘として使って貰えた記憶だった。
男は飲み屋に寄って酒を浴びるように飲んで泥酔し……そのまま彼女を忘れて帰った。いつか迎えに来てくれると思ったけれど、そんな事も無かった。代わりの持ち主も現れなかった。
そして、切ない思いを抱いたまま長い時間だけが過ぎていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ベッドの上で、多々良小傘は眠りながら呻き声を漏らしていた。
その隣に椅子を置き、彼女の様子を見ながら、古明地さとりは小さく嘆息した。
「あれ? さとり様。どうしたんですかその妖怪? 地霊殿にいる妖獣じゃないみたいですけど」
部屋の扉が開き、さとりがそちらを見ると、火焔猫燐が立っていた。とてとてと近付いてくる。
「あらお燐。ええ、どうやら唐傘お化けらしいんだけれど、さっき私が温泉に入っていたら、いきなり岩の陰から出てきて『驚け~☆』って言って脅かしてきたのよ。覗きかと思ってちょっと本気で能力を使ってしまったんだけれど……やりすぎたみたいね」
「それはまた命知らずな真似をする妖怪もいるものですねえ」
お燐は小傘を見下ろして肩をすくめた。
「そうそう、お燐。おやつだけれど台所に昨日のクッキーの残りがあるから、今日はそれを食べなさい。ちゃんとみんなと分けて食べるのよ? いいわね?」
「はーい。分かりました。……それで、あの~さとり様? ひょっとして怒ってます?」
「そんなつもりは無いんだけれど……」
お燐が紫色の傘を指差すのを見て、さとりは苦笑した。
さとりの足下には小傘が持つ傘が置かれているのだが、それはリボンやフリルがあちこちに付けられていた。
「ちょっとこの子のトラウマを見たから……こう、もう少し可愛くならないかなあって、そうしたら誰か使うかも知れないって思ったんだけれど」
「いやいやいやいや、さとり様。一つ目と舌がくっついているのにそんなのやっても、かえって不気味さが増すだけですってば」
「……や、やっぱりそうよね。さっきからこう……色々と試してみたんだけれど、やってみればみるほどかえって悪くなっている気がするし」
「そうですよ。もっとも、唐傘お化けとしてはそっちの方がびっくりさせられそうでいいかも知れませんけど」
それはそれで、下手をすれば巫女に(特に妖怪の山にいる方に)徹底的に退治されそうな気もしたが。
「う~ん、でももうちょっと何とか方法が無いか考えてみるわね。やりすぎたお詫びもかねて」
「はあ……頑張って下さい」
“うう……茄子じゃない……茄子じゃないもんっ!”
涙を漏らしながら呻き続ける小傘を背に、さとりは再び彼女の傘を可愛くする方法を考え始めた。
―END―
小傘のかわいさより女への反感が募る。
おめかし傘たんまじ美少……女。うん美少女です
>奇声を発する程度の能力さん
Yes さでずむです。
>愚迂多良童子さん
実際には紫……あるいは藤色の傘というのは上品な感じかもですねえ。
女に反感が募ると言っていただけて嬉しい限りです。どうも性根が甘いのか、今まで悪役に徹しきれた人物は書けた覚えがなかったので。
>oblivionさん
男は辛いです。
おめかしした小傘が出てきたら、きっとあまりの可愛さに驚くでしょうね。
>びいびいさん
ありがとうございます。
短い話でしたが、お楽しみ頂けたようで嬉しい限りです。