『突然、街中でアリス・マーガトロイドに汚い粘液をぶっかけられた』
頬のそれを拭いもせず、稗田阿求は手帳にそれだけを書き留めた。
「私、穢れちゃった……」
「誤解を招くから辞めて頂戴」
「事実じゃないですか、証拠は私の右頬にこびり付いています」
「アンニュイな午後が、必要以上にアンニュイになってしまうわ」
「自業自得です」
「ふ、ふか、ふかっひゅっ」
たぶん不可抗力と言いたかったのだろう。
アリスの顔から再び、キラキラと陽光を浴びた涎やら鼻水やらが、綺麗な放物線を描いて飛び出る。
とりあえず、手元にあった人形でガードしておいた。勿論、阿求の物ではない。
「ひょっと。いふのまに、わはひのにんひょう」
「せめて鼻水だけでも拭って下さい、はしたない」
しばし、逡巡するようにじたばたとする、アリス。
拭うようなものを持ち合わせてなかったのだろう。やがて観念したように、その手で拭った。
「……いつのまに、私の人形を取ったのよ」
「ぶっかけられた拍子に、足元に落ちておりましたので」
「だからその言い方を止めなさい、誤解されるでしょう色々と」
「じゃあ、がん」
「阿呆」
左の頬を軽く小突かれる、それも涎や鼻水を拭った手で、だ。
「うわ……阿呆はあなたです、無事な左まで汚すだなんて」
「だったら、その突っ込みどころ満載な、誤解を招くような物言いを引っ込めろ」
「私の白絹のような儚くて繊細な柔肌を、まるで一筋の轍もない新雪を踏みしだくかのように汚して冒して辱めるなんて……さては、アリスさん、そういうのがお好き?」
「阿呆」
今度の突っ込みは、人形でガードできた。
への字に口を曲げるアリスに、阿求はしてやったりとほくそ笑む。
「また私の人形を」
くしゅん。
「いきなり、ぶっかけたアリスさんが悪いんじゃないですか」
「そこは謝ったじゃないの」
へっくちゅん。
「私が聞こえなかったのでノーカンです」
「いきなり手帳にあんな誤解を招くようなこと書いて、おまけにその間は聞こえていないと」
ぶえっくしょん。
「えっへん」
三回ほどアリスの涎や鼻水が飛んできたのだが、それらはすべて防ぎ切った。
稗田なめんなよ。
「あーもう、分かったわよ。私が悪かったわ、ごめんなさい」
「うんうん、そうして『ごめんね』と『ごめんね』を繰り返して、繋がりは保たれ続けるのですね」
「こだまじゃなくて良かったわね」
また仰け反り、前屈みになって、色々とはしたないものが飛び出るアリス。苦しいからか、或いは、羞恥心からか。両目からはうっすらと涙が滲み出ていた。
このまま無情にも立ち去るのも、それはそれで乙だとも考えたのだが、汚された頬の件もある。
介抱するため、そして事情を聞くため――無論、暇つぶしというのが一番の目的だったのだが――阿求は、彼女を屋敷へと招くことにした。
「ちり紙でも、分けて、もらえるなら」
よっぽど苦しいのか、アリスは申し訳なさそうにしながらもすぐに応じた。
どうせ今日の予定はないのである。ここで恩を売っておけば、後々にどこかで返してくれることもあるだろう。
なにせ、相手は魔法使いなのだ。妖怪などと同じく、長命な者の一人である。
自分の番でなくとも、次の代くらいには、たぶん何かしらの形で助けになってくれるだろう。己のしたたかさを末恐ろしく感じながら、阿求はそこでようやく気が付いた。
アリスの鼻水が乾いたことによって、両方の頬がすっかりがびがびとなっていることに。
「……最悪です」
「同感よ」
ぐずりと鼻を鳴らしたアリスが、にべもなく同意する。
春の陽気が、軽やかに風に乗りはじめていた。
◆◆◆
「つまり、今日になって突然、その発作は起こったと」
「里の中でも治まらなくて。おかげで、持ってきたちり紙も無くなってしまったわ」
「ハンカチーフなどは?」
「よれて濡れて、どうしようもなくなって」
「そこに私が通りかかったと」
そうなのよ、とアリスは呟き、またひとつくしゃみをする。
鼻をかんだちり紙は、丸めてくずかごに放り捨てられた。そこは既に、八分目ほどまで埋まっていた。
「それにしても、辛そうですね」
「正直、侮っていたわ。原因が何かは分からないけれど、ここまでキツイだなんて」
「でも鼻詰まりとくしゃみだけですよね?」
「それは甘い見識よ、稗田の九代目」
またひとつ、くずかごへとちり紙が放り込まれた。
「まず、鼻詰まり。これの気持ち悪さが半端じゃないわ」
「と、言うと」
「鼻の奥に、鉛でも押し込まれたみたいに感じるのよ。そのせいで重い、ぼんのくぼの上あたりまであるの、その重さがずっしりと」
「それこそ、アンニュイな午後ですね」
「鼻の奥だけ、それが濃縮されているみたい。さらに鼻が詰まっているから、匂いが分からないの。そのおかげで食欲がどうしても湧きにくい、口に含んでようやく空腹を実感できるほどよ。おまけに匂いをまったく感じないせいで、料理の最大の魅力、味さえも半減されてしまう」
喋っていると多少は発作が落ち着くのか、アリスはいつになく饒舌だった。或いは、自分が今こうして実感している辛さを、積極的に他人に伝えたいのかも知れない。
あまり綺麗な話ではないものの、特にやることもなかった阿求は、しばらく聞いてやることに決めていた。
暇人だと、上等よ。
「そして、くしゃみ。どうしてこんなにくしゃみをするかと言うと、これがまた厄介でね。鼻の穴の、詰まった手前あたりと言ったらいいのかしら……そこらへんが、すごく敏感なのよ」
「おあなが敏感だなんて、まあ」
「さっきから気になっていたけど、まだ真っ昼間でしょう」
『アリス・マーガトロイドは、春になると、突然おあなが敏感になっちゃうの』
「南無三」
言葉とともに手帳の破れる音がする。折角、日記のネタにしようとしていたページを破られてしまった。おまけに、それまで鼻紙として使われてしまう。
「嗚呼、私の楽しみな嗜みが」
「おまえは発情期を迎えた十代の不健全男児か」
まあいいや、書いた内容は一度見たから憶えているし。
「……兎に角、鼻の穴が敏感になってしまってね。歩いた際の風なんかだけで、それはもう、しぶとくむずむずとなって、くしゃみが出てきちゃう。で、出てきた鼻水を拭うと、その拍子で敏感な部分がまた刺激されて」
「悪循環ですね。いっそ、ちり紙を詰めてしまえばいいのに」
「それも試したのだけど、そうすると今度は鼻水が垂れて、結局は詰めたちり紙を取らなければいけなくなる。そうしたら、さっき言ったことの繰り返しと変わらないのよ。おまけに、里みたいな人前で、そんな見っともないこともできないし……」
そこで、清潔なちり紙が無くなってしまった。
お手伝いさんに頼んで新しいものを持って来てもらう。ついでに、くずかごの中身も捨てて来てもらうことにした。
アリスは恐縮したように、しきりに礼を言っている。人形のような女性が、鼻の頭を赤くして頭を下げている光景は、ひどく面白いものに見えた。
「なるほど、これが、ギャップもえ」
「なにか言った?」
「わたくし、記憶にございません」
疲れたようにアリスは溜め息をつく。
どうやら本当に疲れているようだ。阿求のからかいだけで、これだけ疲れるはずもない。恐らく、途絶えることのないくしゃみと鼻詰まりに、かなり滅入っているのだろう。
「溜め息は、それだけ気分が沈みますよ」
「そう言われてもね、これが堪えるのよ。くしゃみの連続で、首や肩にじわじわと疲れが溜まってくるし。口内の上側も地味に痒く感じて、目の周りが熱っぽくもなってきて」
「まるで風邪ですね」
「倦怠感という意味では、遜色ないわ。それに……見てよ、ここ」
「あらら。改めて見ると、本当に真っ赤」
「鼻をかむと、多少なりとも擦っちゃうじゃない。それが何回も続くものだから、鼻とその周りが痛んできちゃって。うう、お肌のお手入れ、大変なのに」
それでも、かまなければならないのが哀しいところか。大きな音を立てて、アリスはまた鼻をかんだ。
「うあー……鼻を丸ごと取り換えたいって、なんの冗談かとも思っていたけれど」
「今は理解できますか」
「嫌と言うほど」
まるで強烈な臭気でも漂っているかのように、アリスは鼻をつまんでいた。聞くと、どうやらそれが一番落ち着くらしかった。
「一時間ほどで永遠亭からの薬売りが来る予定です、それまで休んでおきますか」
「願ってもないことね。正直、あんまり歩きたい気分でもないし、お言葉に甘えさせてもらうわ」
アリスは、はにかみながら頷いた。
鼻をつまんだことで、彼女の声はより舌足らずなものとなっている。普段のアリス・マーガトロイドを知る者から見れば、かなりの齟齬を感じたことだろう。
これは、やはり。
「ギャップもえ」
「聞こえているわよ」
「この稗田阿求。見たものは確実に記憶しますが、聞いたことや言ったことには自信がございませぬ」
「便利ね」
不便ですよ、と阿求は朗らかに呟いた。
それに対して、アリスは曖昧に微笑んだだけだった。
◆◆◆
春風に煽られて、竹林はさわさわと鳴いていた。
普段ならば、もんぺ姿の少女にでも道案内をお願いするのだが、今回は傍らに人形遣いがついている。多少の荒事でも問題ないと思い、阿求はアリスと二人で竹林を歩いていた。
道なき道が、奥へと続いている。
目指すはその先、永遠亭だ。
「参ったわ。まさか薬が無いだなんて」
「魔法使いと言うのも、そういった点では不便なのですね」
大きなマスクをつけたアリスが、肩をすくめた。
薬を売りに来た鈴仙は、人間以外のための薬を持ち合わせていなかった。稗田家へと薬を卸に来ていたのだから、当然と言えば当然である。人間用の点鼻薬も試してはみたが、効果は無かった。
「やっぱり、どうしても人間と比べて頑丈だからね。思えば、こうして鼻詰まりやくしゃみに悩まされるのも、おかしな話だわ」
「寒さとか暑さにも悩まされませんからね、羨ましい」
「そこらへん、悩みなんてない……はずなのだけれどね」
鼻炎に悩まされるアリスを見て、鈴仙も首を捻るばかりだった。
仕方ないので、こうして永遠亭に向かっているのである。お師匠様なら分かるかも知れない、というのが鈴仙の言葉だった。
「なんだか悪いわね、わざわざついて来てもらって」
「乗りかかった船ですから」
供の者を連れずに人里を出るのも、久々である。
阿求の足取りは軽い。
「それに、ぶっ掛けたのとぶっ掛けられたの仲ですしね」
「はいはい」
『アリスは観念したかのようにかぶりを振った。認知までもうひと押しか』
「阿呆」
こつんと額を突かれた。
マスクをしたことで若干は楽になったのか、アリスの表情は柔らかい。くしゃみの回数も、先程と比べて多少は治まっていた。
思えば、こうして彼女とじっくり話をするのも、幻想郷縁起を編纂した時以来である。人里で擦れ違うことは度々あっても、軽く会釈をする程度だった。
それが今、こうして冗談も交えながらやり取りしている。
過ごしやすい時代になったものだと、阿求はしみじみ感じていた。
「また変なことでも考えていた?」
「失敬な。私はいつでも純真乙女街道を突っ走っていますよ」
「顔が、にやけていたから」
「にやけていたら、いけませんか?」
「また碌でもないことを考えていると思ったわ」
「私が、年がら年中、碌でもないことを考えているように見えます?」
「今日のやり取りを振り返ると、正当な評価でしょう?」
恐らく、これがアリスの自然体なのだろう。
中々の毒舌だが、それを言う彼女の瞳は、穏やかなものである。マスクに隠れる口元も、してやったりと得意げに微笑んでいるのが、手に取るように分かった。
如何にも、純正の西洋人形。
そんな見た目によらず、意外と乗りの良い性格なのかも知れない。
「ひどいです、アリスさんは外道です」
「はいはいごめんごめん」
『こうして、いたいけな少女である私は、アリスの手によって大人の階段を上らされたのでした』
「もう突っ込むのも疲れたわ」
「ふひひ、すいません」
空を覆うほどの竹の合間に、わずかばかりの陽光が覗いている。
永遠亭までは、まだ距離があった。
「御機嫌よう。珍しい組み合わせね」
穏やかな声の主は、そんな竹林でも日傘を差していた。
「こんにちは、幽香さん」
「あら、そんなに仰々しくなくても良いわよ、稗田の九代目さん」
会釈をした阿求に、風見幽香は朗らかに笑って見せた。
丁度、二人とは擦れ違う形である。普段は向日葵畑から出歩くことのない彼女と、こうして出会うのは珍しかった。
「珍しいですね。幽香さんがこんな所に」
「ちょっと、この子たちが騒がしかったから」
ねぇ、と幽香は呟き、周囲を見渡す。
それに答えるように、さわさわと竹林が鳴いた。
「……あんたの仕業じゃないでしょうね」
黙っていたアリスが、ようやく口を開いた。
見ると、怪訝そうに眉をひそめている。急に不機嫌になったと、阿求は感じた。
「挨拶もなしに、いきなりね。何が、かしら?」
「今朝から鼻炎に悩まされているの」
「それは、お気の毒に」
泰然自若と幽香は微笑んでいる。
「で、それが私の仕業と?」
「花粉に細工とか。あんたなら、造作もないでしょう」
「まさか」
アリスの言葉が、よっぽど可笑しかったのか。
幽香はたおやかに笑い出していた。目を細めて、込み上げたものに身を任せるようにして、ひとしきり笑い続ける。
「そんなの、誰の得にもならないでしょう?」
やがて、笑いを抑えた幽香は、憮然としているアリスへと向き直った。
「お大事に」
それだけを言い、事態を傍観していた阿求へと軽く手を振って、去っていく。
アリスは一言も返さず、しかめ面で見送るだけだった。
◆◆◆
診察には、それほどの時間を要さなかった。
「あいつとは、古い馴染みでね」
永遠亭からの帰り道。
風見幽香とのやり取り以降、気まずくなってしまった空気を払拭するかのように、アリスは言った。
「どうにも、苦手なのよ」
マスクも取り、鼻声の治まりつつあるその声は、こちらにもよく聞こえる。そこに若干の歯切れ悪さのようなものを、阿求は感じていた。
原因はハウスダスト、つまり埃だった。
とは言っても、人間のようにそれだけが原因ではなく、そこに少ないながらの魔力が加わったことが原因だと、八意永琳は説明してくれた。
魔法使いは研究をするものである。
アリスも例に漏れず、自宅ではもっぱら魔法に関する実験を繰り返し、研究に没頭していたという。そうすると、その過程で扱った魔力が飛散し、どうしても家屋の至るところに蓄積してしまうらしい。
今回の鼻炎は、そうして微量ながら魔力を帯びた埃によって、鼻腔が刺激された結果だろう。永琳の見立てでは、そういうことらしかった。魔力に対して敏感な、魔法使いだということも災いした、とのことである。
魔法使いだからこそ、なり得てしまう職業病のようなものだった。
試しに、専用の点鼻薬を使ってみたところ、効果はすぐに表れていた。
「ごめんなさいね」
「何がです?」
「いやまあその、色々と」
なおも歯切れ悪く、アリスは言う。
少しばかり日の傾いてきた竹林は、ただそれだけでほの暗い。通り過ぎる春風にも、寒さが伴い始めていた。
「いきなり鼻水を引っ掛けちゃったこととか」
「さすがに焦りました、あまりにも大胆だったので」
「お屋敷でお世話になったこととか」
「情事にちり紙は必須ですからね」
「……いきなり、幽香に食って掛かったこととか」
「痴話喧嘩とか痴情のもつれとか、過度な期待させないでくださいよ、うふふ」
しばしアリスは閉口する。
怒っている様子はなく、どうやら次の言葉を模索しているようだった。
やがて、観念したかのようの佇まいを正す。
「今日は色々と、ごめんなさいね。それと……ありがとう」
一息にそれだけを言った。
『デレた、アリスがデレた』
「阿呆」
軽く、ぴしゃりと頭を小突かれる。
わざとらしく阿求は頭を押さえてみたが、その実、まったく痛くはなかった。思わず、口元から笑みがこぼれ出してしまい、アリスに怪訝な顔をされてしまう。
「今日は私も非番でしたので、それに」
「それに?」
「楽しかったですから」
そう言って、阿求は朗らかに微笑んだ。
本心だった。
決して綺麗なものではなく、むしろ色々と汚くて姦しいものではあったが、それでも楽しい一日だった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
どちらからでもなく互いに笑い合った。
「でも、あなたは少々、余計な物言いが目立つわね。正直、思っていた以上に疲れたわ」
「今日という一日を、私色で染め上げるためですから」
「どどめ色」
「具体的には、どのあたりがどどめ色だと仰りたいので?」
「振り返ってもう一度、という気分にはならないところとか」
「日記で見返すと中々楽しいものですよ」
「今日の部分、あとで添削でもさせてもらおうかしら」
「そんな御無体な」
「冗談よ」
悪戯っぽくアリスは笑い、足取りも軽やかに歩いていく。
その颯爽とした後ろ姿を追い掛けるように、阿求も一歩を踏み出した。
「あれ」
がくりと、その一歩が沈み込んだ。
視界の端々が暗くなり、浮遊感が身体を包み込む。
全部、ぐんにゃりと揺れていた。
あ、これは不味い。
「ちょっと」
こちらの様子に気が付いたアリスが、慌てたようになにかを呼びかけていた。驚いた顔もそのままに、すぐさま駆け寄ってくる。柔らかな感触は、たぶん身体を支えてくれたのだろう。
けれども声は聞こえない。
ざわざわと鳴く、竹林の囁きだけしか聞こえない。
参ったな。
これだから、丈夫じゃないこの身体が恨めしい。
目蓋を閉じるように、闇が意識を覆った。
◆◆◆
目が覚めると、見慣れた木目が映った。
そこが自分の寝室だと理解するのに、それほど時間は掛からなかった。
「やっと起きたわね」
傍らで、アリスが安堵するように溜め息をついていた。鼻の頭がまだ少々の赤みを帯びていることから、竹林の出来事からそれほど時間が経っていないことが、阿求には分かった。
「私は、どれくらい?」
それでも聞いたのは、やはり少し怖かったからである。
「ざっと三時間ほど。竹林で、身体が急に冷えたからでしょうね」
アリスは優しい手付きで、阿求に掛かる布団を直した。
「ひとまず安静にして様子を見るように、とのことよ」
「たぶん大丈夫ですよ。こういうことはよくありますので」
「駄目、安静にしていなさい」
言い募る、と言うには程好く柔らかな口調で、アリスは諭した。
「食欲はあるかしら」
「そうですね、少しなら」
正直に言えば、それほど腹が空いているわけでもなかった。
ただ、アリスの口振りから察するに、なにかを用意してくれているようだった。それを断るのも悪いので、阿求は素直に応じることにした。それに、アリスがなにを用意しているのかも気になった。
中座したアリスは、程なくして戻ってきた。いつもお手伝いさんが使っているミトンを着けて、仰々しい色合いの土鍋を持っている。
とことん幻想郷らしい、ミスマッチな組み合わせだった。
「なに笑っているのよ」
「いえ、意外と和風な装いもお似合いだなと」
「郷に入ってはなんとやらよ、ここは幻想郷なんだもの」
日本語を話せ〜、と冗談交じりに言いながら、アリスは土鍋を置いた。蓮華と椀はふたつ用意されている。ちゃっかりしたものだと、阿求は思った。
「中身は、まさかリゾットとか」
「そんなハードなもの、出せるはずないでしょう」
土鍋の蓋が取られ、ほんわりと湯気が上る。
半身を起こした阿求に、中身をよそった椀が差し出された。暖かな香りに鼻先をくすぐられ、自ずと涎が口の中を潤してくる。
質素な卵雑炊だった。
誘われるように流し込むと、懐かしい味がした。
「美味しいです。アリスさん、和食もできたんですね」
「まあ雑炊くらいなら。味とか濃くない?」
「いえいえ、丁度良いです。温まります」
蕩けるようなとき卵と、弾力のある米とが絡まってすんなりと口に入ってくる。そうやって別々の甘味がじんわりと広がり、それらが刻み海苔の香りで優しく引き締まった。出汁の旨みは、飲み込む時に喉を邪魔なく刺激してから、後味としてしみじみとくる。
「あー、鼻が癒されるわ」
アリスもご満悦といった様子だった。
「だいぶ治っているんじゃないですか」
「おかげさまで。でも、何度もくしゃみしていたから、どうやら鼻も疲れていたみたい」
椀の底を、鼻の頭に押し当てている。声にならないものが、アリスの口から漏れていた。
ちょっと婆臭いが、そこがまた可愛らしい。
『アリスの弱点に鼻の頭を追加。喘いでくれるから、お勧め』
「阿呆」
すっかりお馴染みとなった、鋭い突っ込みの声。
また額でも小突かれるかと思ったが、なにも飛んでは来なかった。合いの手は、阿求の額に届くか届かないかのところで止まっている。
申し訳なさそうに柳眉を下げている、アリスの顔があった。
「ごめんなさいは、なしですよ」
口を開きかけたアリスを制するかのように、阿求は言った。
自分でも驚くくらいに、穏やかな声音だった。
「でも」
「持ちつ持たれつです。ここまで私を運んでくれたんですよね。おまけに、美味しい雑炊もご馳走してもらえましたし」
「それは、あなたが倒れたから」
「さっきも言ったじゃないですか」
一息ついて、椀の中身をすべて流し込む。
下腹に沁み渡るような優しい味は、やはりどこか懐かしさを感じるものだった。
人間である私が、阿礼乙女である私が、人間ではないアリスが作った料理を食べられる。鼻水を引っ掛けられたのが切欠で、他愛もない話で時を過ごし、お互いがお互いのことを段々と知り得ていく。
良い時代になったものだと、阿求はひしひしと感じていた。
「楽しかったと。今も、その気持ちは変わっていませんよ」
アリスさんの痴態も見れましたしね、と阿求は付け加えた。浮かべていた笑みも、これ見よがしに、してやったりとしたものへと転じる。気恥ずかしさを誤魔化すためのもの、ということは内緒だった。
しばし逡巡するかのように、難しい顔で押し黙っていたアリスだが。
「……まったく。痴態っていうのは否定できないわね、恥ずかしながら」
安堵の表情を浮かべたのは、それから間もなくのことだった。
「でも痴態はちょっと。もう少し、まともな言い方はできない?」
『突然、街中でアリス・マーガトロイドに汚い粘液をぶっかけられた』
「おいこら」
「これを痴態と言わずして、なんと言えばいいのでしょう」
「それ以前に、その記述を書き直しなさい、今すぐ」
「この稗田阿求。聞いたり言ったりは曖昧でも、見たことに対しては一切の妥協をせぬ主義です。ひらに、ひらにご容赦を……その方が、絶対面白いですし」
「ちょっと待てや、最後」
「妥協できませぬのよ、げひげひひ」
いつの間にか、土鍋の中は空となっていた。
ひとつ心地が落ち着いたことで、互いの間にぬるま湯のような空気が流れる。アリスも阿求も、おいそれと口を開こうとはしない。静けさだけが、部屋を包みこんでいた。
そういった空気が、決して疎ましいものばかりではないということを、阿求は最近になって知った。
「お願いが、あります」
ほんの数分ほど、そうしていただろうか。
先に口を開いたのは、阿求だった。
「人形劇、できます?」
「頼まれればすぐにでも」
「お願いできますか?」
「今ここで?」
「駄目ですか?」
「お安いご用よ」
阿求の顔がほころんだ。
やがて、用意された人形たちが、生きているかのような鮮やかさで動きはじめる。
アリスの前口上は、透き通ったものだった。
◆◆◆
『ゆうべはおたのしみでしたね』
「だと思ったわ、阿呆」
すっかり調子を取り戻した阿求に、アリスは容赦をしなかった。すぱりと、昨日と比べて切れのある刀手で、おでこを引っ叩かれる。
「ひどいです、アリスさんはさでずむですね」
「抗議の一環と受け取ってほしいわ」
『イニシャルに騙されるな、アリスはさでずむ、ついでに春にはおあなが敏感』
「南無三」
手帳を引っ手繰られ、今しがた書き込んだページを綺麗に破り取られる。鮮やかな手並みだった。
無駄なことを。
阿礼乙女である私は、一度見たものを忘れないのだ。自分で書き込んだものを瞬時に記憶するなど、それこそ造作もない。
稗田なめんなよ。
「あなたと居ると、本当に疲れるわ」
「それはこちらも同じです。私の貴重な記録が、あんまりにも無残に消されてしまいますから」
「言うこと聞くことは忘れても、見たことは絶対に忘れないんじゃなかったっけ?」
「わたくし、記憶にございません」
「嘘ばっかり」
時刻は、昼下がり。
丁度、アリスのくしゃみを阿求が真っ向から受け止めた時間と、近かった。
二人はアリス邸を目指していた。アリスが紅茶を淹れると聞き、阿求がそのレシピを見たいと迫ったことが理由だった。鼻息荒く、若干興奮した様子でしきりに聞いてくる阿求に、アリスもまんざらではなかったようである。
「そういえば、そろそろだったわよね」
「昨日もこんな、憎たらしいほどの青天でした。アリスさんの涎も鼻水も、陽の光でキラキラと輝いていましたもの」
「春爛漫。昨日は気付かなかったけれど、桜も見ごろだわ」
「春と言えばやっぱり花見、桜の下での宴会もそろそろでしょう。昨日のは、酒の肴にもならない出来事でしたけどね」
すぐそこの角を曲がれば、件の場所である。
二人は顔を見合わせて、互いに苦笑しながら角を曲がった。
「あら、ご、ごひ、ごひっひゅう」
たぶん御機嫌ようと言いたかったのだろう。
曲がった先で出会った、風見幽香の顔から、涎やら鼻水やらが勢いよく飛び出してきた。まぶしい陽光を受けたそれは、美しくもはしたない放物線を描いて、アリスと阿求の顔へと降り注いだ。
しばし、三者の間に、微妙な沈黙が流れる。
『突然、街中で風見幽香に汚い粘液をぶっかけられた』
鼻の頭についたそれを拭いもせず、阿求はそれだけを手帳に書き留めた。
「あ、ごめ、ごめな、ひゃい」
謝罪しようとして、幽香は再びくしゃみをしてしまう。アリスは人形で、阿求は手帳で、それぞれガードしていた。息の合っていたことが、なんだか空しかった。
「……最悪です」
「同感よ」
なおも、くしゃみが出続けている幽香を前に、二人は同時に溜め息をついた。
爽やかな春風に、桜の花びらが、ひらりと舞った。
花の妖怪にもかかわらず、花粉症にかかってしまった風見幽香。息苦しさと羞恥心から、鼻水やら涙やらをぼろぼろと零す彼女を、二人が懸命になだめて面倒を見たのは。
また、別のおはなし。
頬のそれを拭いもせず、稗田阿求は手帳にそれだけを書き留めた。
「私、穢れちゃった……」
「誤解を招くから辞めて頂戴」
「事実じゃないですか、証拠は私の右頬にこびり付いています」
「アンニュイな午後が、必要以上にアンニュイになってしまうわ」
「自業自得です」
「ふ、ふか、ふかっひゅっ」
たぶん不可抗力と言いたかったのだろう。
アリスの顔から再び、キラキラと陽光を浴びた涎やら鼻水やらが、綺麗な放物線を描いて飛び出る。
とりあえず、手元にあった人形でガードしておいた。勿論、阿求の物ではない。
「ひょっと。いふのまに、わはひのにんひょう」
「せめて鼻水だけでも拭って下さい、はしたない」
しばし、逡巡するようにじたばたとする、アリス。
拭うようなものを持ち合わせてなかったのだろう。やがて観念したように、その手で拭った。
「……いつのまに、私の人形を取ったのよ」
「ぶっかけられた拍子に、足元に落ちておりましたので」
「だからその言い方を止めなさい、誤解されるでしょう色々と」
「じゃあ、がん」
「阿呆」
左の頬を軽く小突かれる、それも涎や鼻水を拭った手で、だ。
「うわ……阿呆はあなたです、無事な左まで汚すだなんて」
「だったら、その突っ込みどころ満載な、誤解を招くような物言いを引っ込めろ」
「私の白絹のような儚くて繊細な柔肌を、まるで一筋の轍もない新雪を踏みしだくかのように汚して冒して辱めるなんて……さては、アリスさん、そういうのがお好き?」
「阿呆」
今度の突っ込みは、人形でガードできた。
への字に口を曲げるアリスに、阿求はしてやったりとほくそ笑む。
「また私の人形を」
くしゅん。
「いきなり、ぶっかけたアリスさんが悪いんじゃないですか」
「そこは謝ったじゃないの」
へっくちゅん。
「私が聞こえなかったのでノーカンです」
「いきなり手帳にあんな誤解を招くようなこと書いて、おまけにその間は聞こえていないと」
ぶえっくしょん。
「えっへん」
三回ほどアリスの涎や鼻水が飛んできたのだが、それらはすべて防ぎ切った。
稗田なめんなよ。
「あーもう、分かったわよ。私が悪かったわ、ごめんなさい」
「うんうん、そうして『ごめんね』と『ごめんね』を繰り返して、繋がりは保たれ続けるのですね」
「こだまじゃなくて良かったわね」
また仰け反り、前屈みになって、色々とはしたないものが飛び出るアリス。苦しいからか、或いは、羞恥心からか。両目からはうっすらと涙が滲み出ていた。
このまま無情にも立ち去るのも、それはそれで乙だとも考えたのだが、汚された頬の件もある。
介抱するため、そして事情を聞くため――無論、暇つぶしというのが一番の目的だったのだが――阿求は、彼女を屋敷へと招くことにした。
「ちり紙でも、分けて、もらえるなら」
よっぽど苦しいのか、アリスは申し訳なさそうにしながらもすぐに応じた。
どうせ今日の予定はないのである。ここで恩を売っておけば、後々にどこかで返してくれることもあるだろう。
なにせ、相手は魔法使いなのだ。妖怪などと同じく、長命な者の一人である。
自分の番でなくとも、次の代くらいには、たぶん何かしらの形で助けになってくれるだろう。己のしたたかさを末恐ろしく感じながら、阿求はそこでようやく気が付いた。
アリスの鼻水が乾いたことによって、両方の頬がすっかりがびがびとなっていることに。
「……最悪です」
「同感よ」
ぐずりと鼻を鳴らしたアリスが、にべもなく同意する。
春の陽気が、軽やかに風に乗りはじめていた。
◆◆◆
「つまり、今日になって突然、その発作は起こったと」
「里の中でも治まらなくて。おかげで、持ってきたちり紙も無くなってしまったわ」
「ハンカチーフなどは?」
「よれて濡れて、どうしようもなくなって」
「そこに私が通りかかったと」
そうなのよ、とアリスは呟き、またひとつくしゃみをする。
鼻をかんだちり紙は、丸めてくずかごに放り捨てられた。そこは既に、八分目ほどまで埋まっていた。
「それにしても、辛そうですね」
「正直、侮っていたわ。原因が何かは分からないけれど、ここまでキツイだなんて」
「でも鼻詰まりとくしゃみだけですよね?」
「それは甘い見識よ、稗田の九代目」
またひとつ、くずかごへとちり紙が放り込まれた。
「まず、鼻詰まり。これの気持ち悪さが半端じゃないわ」
「と、言うと」
「鼻の奥に、鉛でも押し込まれたみたいに感じるのよ。そのせいで重い、ぼんのくぼの上あたりまであるの、その重さがずっしりと」
「それこそ、アンニュイな午後ですね」
「鼻の奥だけ、それが濃縮されているみたい。さらに鼻が詰まっているから、匂いが分からないの。そのおかげで食欲がどうしても湧きにくい、口に含んでようやく空腹を実感できるほどよ。おまけに匂いをまったく感じないせいで、料理の最大の魅力、味さえも半減されてしまう」
喋っていると多少は発作が落ち着くのか、アリスはいつになく饒舌だった。或いは、自分が今こうして実感している辛さを、積極的に他人に伝えたいのかも知れない。
あまり綺麗な話ではないものの、特にやることもなかった阿求は、しばらく聞いてやることに決めていた。
暇人だと、上等よ。
「そして、くしゃみ。どうしてこんなにくしゃみをするかと言うと、これがまた厄介でね。鼻の穴の、詰まった手前あたりと言ったらいいのかしら……そこらへんが、すごく敏感なのよ」
「おあなが敏感だなんて、まあ」
「さっきから気になっていたけど、まだ真っ昼間でしょう」
『アリス・マーガトロイドは、春になると、突然おあなが敏感になっちゃうの』
「南無三」
言葉とともに手帳の破れる音がする。折角、日記のネタにしようとしていたページを破られてしまった。おまけに、それまで鼻紙として使われてしまう。
「嗚呼、私の楽しみな嗜みが」
「おまえは発情期を迎えた十代の不健全男児か」
まあいいや、書いた内容は一度見たから憶えているし。
「……兎に角、鼻の穴が敏感になってしまってね。歩いた際の風なんかだけで、それはもう、しぶとくむずむずとなって、くしゃみが出てきちゃう。で、出てきた鼻水を拭うと、その拍子で敏感な部分がまた刺激されて」
「悪循環ですね。いっそ、ちり紙を詰めてしまえばいいのに」
「それも試したのだけど、そうすると今度は鼻水が垂れて、結局は詰めたちり紙を取らなければいけなくなる。そうしたら、さっき言ったことの繰り返しと変わらないのよ。おまけに、里みたいな人前で、そんな見っともないこともできないし……」
そこで、清潔なちり紙が無くなってしまった。
お手伝いさんに頼んで新しいものを持って来てもらう。ついでに、くずかごの中身も捨てて来てもらうことにした。
アリスは恐縮したように、しきりに礼を言っている。人形のような女性が、鼻の頭を赤くして頭を下げている光景は、ひどく面白いものに見えた。
「なるほど、これが、ギャップもえ」
「なにか言った?」
「わたくし、記憶にございません」
疲れたようにアリスは溜め息をつく。
どうやら本当に疲れているようだ。阿求のからかいだけで、これだけ疲れるはずもない。恐らく、途絶えることのないくしゃみと鼻詰まりに、かなり滅入っているのだろう。
「溜め息は、それだけ気分が沈みますよ」
「そう言われてもね、これが堪えるのよ。くしゃみの連続で、首や肩にじわじわと疲れが溜まってくるし。口内の上側も地味に痒く感じて、目の周りが熱っぽくもなってきて」
「まるで風邪ですね」
「倦怠感という意味では、遜色ないわ。それに……見てよ、ここ」
「あらら。改めて見ると、本当に真っ赤」
「鼻をかむと、多少なりとも擦っちゃうじゃない。それが何回も続くものだから、鼻とその周りが痛んできちゃって。うう、お肌のお手入れ、大変なのに」
それでも、かまなければならないのが哀しいところか。大きな音を立てて、アリスはまた鼻をかんだ。
「うあー……鼻を丸ごと取り換えたいって、なんの冗談かとも思っていたけれど」
「今は理解できますか」
「嫌と言うほど」
まるで強烈な臭気でも漂っているかのように、アリスは鼻をつまんでいた。聞くと、どうやらそれが一番落ち着くらしかった。
「一時間ほどで永遠亭からの薬売りが来る予定です、それまで休んでおきますか」
「願ってもないことね。正直、あんまり歩きたい気分でもないし、お言葉に甘えさせてもらうわ」
アリスは、はにかみながら頷いた。
鼻をつまんだことで、彼女の声はより舌足らずなものとなっている。普段のアリス・マーガトロイドを知る者から見れば、かなりの齟齬を感じたことだろう。
これは、やはり。
「ギャップもえ」
「聞こえているわよ」
「この稗田阿求。見たものは確実に記憶しますが、聞いたことや言ったことには自信がございませぬ」
「便利ね」
不便ですよ、と阿求は朗らかに呟いた。
それに対して、アリスは曖昧に微笑んだだけだった。
◆◆◆
春風に煽られて、竹林はさわさわと鳴いていた。
普段ならば、もんぺ姿の少女にでも道案内をお願いするのだが、今回は傍らに人形遣いがついている。多少の荒事でも問題ないと思い、阿求はアリスと二人で竹林を歩いていた。
道なき道が、奥へと続いている。
目指すはその先、永遠亭だ。
「参ったわ。まさか薬が無いだなんて」
「魔法使いと言うのも、そういった点では不便なのですね」
大きなマスクをつけたアリスが、肩をすくめた。
薬を売りに来た鈴仙は、人間以外のための薬を持ち合わせていなかった。稗田家へと薬を卸に来ていたのだから、当然と言えば当然である。人間用の点鼻薬も試してはみたが、効果は無かった。
「やっぱり、どうしても人間と比べて頑丈だからね。思えば、こうして鼻詰まりやくしゃみに悩まされるのも、おかしな話だわ」
「寒さとか暑さにも悩まされませんからね、羨ましい」
「そこらへん、悩みなんてない……はずなのだけれどね」
鼻炎に悩まされるアリスを見て、鈴仙も首を捻るばかりだった。
仕方ないので、こうして永遠亭に向かっているのである。お師匠様なら分かるかも知れない、というのが鈴仙の言葉だった。
「なんだか悪いわね、わざわざついて来てもらって」
「乗りかかった船ですから」
供の者を連れずに人里を出るのも、久々である。
阿求の足取りは軽い。
「それに、ぶっ掛けたのとぶっ掛けられたの仲ですしね」
「はいはい」
『アリスは観念したかのようにかぶりを振った。認知までもうひと押しか』
「阿呆」
こつんと額を突かれた。
マスクをしたことで若干は楽になったのか、アリスの表情は柔らかい。くしゃみの回数も、先程と比べて多少は治まっていた。
思えば、こうして彼女とじっくり話をするのも、幻想郷縁起を編纂した時以来である。人里で擦れ違うことは度々あっても、軽く会釈をする程度だった。
それが今、こうして冗談も交えながらやり取りしている。
過ごしやすい時代になったものだと、阿求はしみじみ感じていた。
「また変なことでも考えていた?」
「失敬な。私はいつでも純真乙女街道を突っ走っていますよ」
「顔が、にやけていたから」
「にやけていたら、いけませんか?」
「また碌でもないことを考えていると思ったわ」
「私が、年がら年中、碌でもないことを考えているように見えます?」
「今日のやり取りを振り返ると、正当な評価でしょう?」
恐らく、これがアリスの自然体なのだろう。
中々の毒舌だが、それを言う彼女の瞳は、穏やかなものである。マスクに隠れる口元も、してやったりと得意げに微笑んでいるのが、手に取るように分かった。
如何にも、純正の西洋人形。
そんな見た目によらず、意外と乗りの良い性格なのかも知れない。
「ひどいです、アリスさんは外道です」
「はいはいごめんごめん」
『こうして、いたいけな少女である私は、アリスの手によって大人の階段を上らされたのでした』
「もう突っ込むのも疲れたわ」
「ふひひ、すいません」
空を覆うほどの竹の合間に、わずかばかりの陽光が覗いている。
永遠亭までは、まだ距離があった。
「御機嫌よう。珍しい組み合わせね」
穏やかな声の主は、そんな竹林でも日傘を差していた。
「こんにちは、幽香さん」
「あら、そんなに仰々しくなくても良いわよ、稗田の九代目さん」
会釈をした阿求に、風見幽香は朗らかに笑って見せた。
丁度、二人とは擦れ違う形である。普段は向日葵畑から出歩くことのない彼女と、こうして出会うのは珍しかった。
「珍しいですね。幽香さんがこんな所に」
「ちょっと、この子たちが騒がしかったから」
ねぇ、と幽香は呟き、周囲を見渡す。
それに答えるように、さわさわと竹林が鳴いた。
「……あんたの仕業じゃないでしょうね」
黙っていたアリスが、ようやく口を開いた。
見ると、怪訝そうに眉をひそめている。急に不機嫌になったと、阿求は感じた。
「挨拶もなしに、いきなりね。何が、かしら?」
「今朝から鼻炎に悩まされているの」
「それは、お気の毒に」
泰然自若と幽香は微笑んでいる。
「で、それが私の仕業と?」
「花粉に細工とか。あんたなら、造作もないでしょう」
「まさか」
アリスの言葉が、よっぽど可笑しかったのか。
幽香はたおやかに笑い出していた。目を細めて、込み上げたものに身を任せるようにして、ひとしきり笑い続ける。
「そんなの、誰の得にもならないでしょう?」
やがて、笑いを抑えた幽香は、憮然としているアリスへと向き直った。
「お大事に」
それだけを言い、事態を傍観していた阿求へと軽く手を振って、去っていく。
アリスは一言も返さず、しかめ面で見送るだけだった。
◆◆◆
診察には、それほどの時間を要さなかった。
「あいつとは、古い馴染みでね」
永遠亭からの帰り道。
風見幽香とのやり取り以降、気まずくなってしまった空気を払拭するかのように、アリスは言った。
「どうにも、苦手なのよ」
マスクも取り、鼻声の治まりつつあるその声は、こちらにもよく聞こえる。そこに若干の歯切れ悪さのようなものを、阿求は感じていた。
原因はハウスダスト、つまり埃だった。
とは言っても、人間のようにそれだけが原因ではなく、そこに少ないながらの魔力が加わったことが原因だと、八意永琳は説明してくれた。
魔法使いは研究をするものである。
アリスも例に漏れず、自宅ではもっぱら魔法に関する実験を繰り返し、研究に没頭していたという。そうすると、その過程で扱った魔力が飛散し、どうしても家屋の至るところに蓄積してしまうらしい。
今回の鼻炎は、そうして微量ながら魔力を帯びた埃によって、鼻腔が刺激された結果だろう。永琳の見立てでは、そういうことらしかった。魔力に対して敏感な、魔法使いだということも災いした、とのことである。
魔法使いだからこそ、なり得てしまう職業病のようなものだった。
試しに、専用の点鼻薬を使ってみたところ、効果はすぐに表れていた。
「ごめんなさいね」
「何がです?」
「いやまあその、色々と」
なおも歯切れ悪く、アリスは言う。
少しばかり日の傾いてきた竹林は、ただそれだけでほの暗い。通り過ぎる春風にも、寒さが伴い始めていた。
「いきなり鼻水を引っ掛けちゃったこととか」
「さすがに焦りました、あまりにも大胆だったので」
「お屋敷でお世話になったこととか」
「情事にちり紙は必須ですからね」
「……いきなり、幽香に食って掛かったこととか」
「痴話喧嘩とか痴情のもつれとか、過度な期待させないでくださいよ、うふふ」
しばしアリスは閉口する。
怒っている様子はなく、どうやら次の言葉を模索しているようだった。
やがて、観念したかのようの佇まいを正す。
「今日は色々と、ごめんなさいね。それと……ありがとう」
一息にそれだけを言った。
『デレた、アリスがデレた』
「阿呆」
軽く、ぴしゃりと頭を小突かれる。
わざとらしく阿求は頭を押さえてみたが、その実、まったく痛くはなかった。思わず、口元から笑みがこぼれ出してしまい、アリスに怪訝な顔をされてしまう。
「今日は私も非番でしたので、それに」
「それに?」
「楽しかったですから」
そう言って、阿求は朗らかに微笑んだ。
本心だった。
決して綺麗なものではなく、むしろ色々と汚くて姦しいものではあったが、それでも楽しい一日だった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
どちらからでもなく互いに笑い合った。
「でも、あなたは少々、余計な物言いが目立つわね。正直、思っていた以上に疲れたわ」
「今日という一日を、私色で染め上げるためですから」
「どどめ色」
「具体的には、どのあたりがどどめ色だと仰りたいので?」
「振り返ってもう一度、という気分にはならないところとか」
「日記で見返すと中々楽しいものですよ」
「今日の部分、あとで添削でもさせてもらおうかしら」
「そんな御無体な」
「冗談よ」
悪戯っぽくアリスは笑い、足取りも軽やかに歩いていく。
その颯爽とした後ろ姿を追い掛けるように、阿求も一歩を踏み出した。
「あれ」
がくりと、その一歩が沈み込んだ。
視界の端々が暗くなり、浮遊感が身体を包み込む。
全部、ぐんにゃりと揺れていた。
あ、これは不味い。
「ちょっと」
こちらの様子に気が付いたアリスが、慌てたようになにかを呼びかけていた。驚いた顔もそのままに、すぐさま駆け寄ってくる。柔らかな感触は、たぶん身体を支えてくれたのだろう。
けれども声は聞こえない。
ざわざわと鳴く、竹林の囁きだけしか聞こえない。
参ったな。
これだから、丈夫じゃないこの身体が恨めしい。
目蓋を閉じるように、闇が意識を覆った。
◆◆◆
目が覚めると、見慣れた木目が映った。
そこが自分の寝室だと理解するのに、それほど時間は掛からなかった。
「やっと起きたわね」
傍らで、アリスが安堵するように溜め息をついていた。鼻の頭がまだ少々の赤みを帯びていることから、竹林の出来事からそれほど時間が経っていないことが、阿求には分かった。
「私は、どれくらい?」
それでも聞いたのは、やはり少し怖かったからである。
「ざっと三時間ほど。竹林で、身体が急に冷えたからでしょうね」
アリスは優しい手付きで、阿求に掛かる布団を直した。
「ひとまず安静にして様子を見るように、とのことよ」
「たぶん大丈夫ですよ。こういうことはよくありますので」
「駄目、安静にしていなさい」
言い募る、と言うには程好く柔らかな口調で、アリスは諭した。
「食欲はあるかしら」
「そうですね、少しなら」
正直に言えば、それほど腹が空いているわけでもなかった。
ただ、アリスの口振りから察するに、なにかを用意してくれているようだった。それを断るのも悪いので、阿求は素直に応じることにした。それに、アリスがなにを用意しているのかも気になった。
中座したアリスは、程なくして戻ってきた。いつもお手伝いさんが使っているミトンを着けて、仰々しい色合いの土鍋を持っている。
とことん幻想郷らしい、ミスマッチな組み合わせだった。
「なに笑っているのよ」
「いえ、意外と和風な装いもお似合いだなと」
「郷に入ってはなんとやらよ、ここは幻想郷なんだもの」
日本語を話せ〜、と冗談交じりに言いながら、アリスは土鍋を置いた。蓮華と椀はふたつ用意されている。ちゃっかりしたものだと、阿求は思った。
「中身は、まさかリゾットとか」
「そんなハードなもの、出せるはずないでしょう」
土鍋の蓋が取られ、ほんわりと湯気が上る。
半身を起こした阿求に、中身をよそった椀が差し出された。暖かな香りに鼻先をくすぐられ、自ずと涎が口の中を潤してくる。
質素な卵雑炊だった。
誘われるように流し込むと、懐かしい味がした。
「美味しいです。アリスさん、和食もできたんですね」
「まあ雑炊くらいなら。味とか濃くない?」
「いえいえ、丁度良いです。温まります」
蕩けるようなとき卵と、弾力のある米とが絡まってすんなりと口に入ってくる。そうやって別々の甘味がじんわりと広がり、それらが刻み海苔の香りで優しく引き締まった。出汁の旨みは、飲み込む時に喉を邪魔なく刺激してから、後味としてしみじみとくる。
「あー、鼻が癒されるわ」
アリスもご満悦といった様子だった。
「だいぶ治っているんじゃないですか」
「おかげさまで。でも、何度もくしゃみしていたから、どうやら鼻も疲れていたみたい」
椀の底を、鼻の頭に押し当てている。声にならないものが、アリスの口から漏れていた。
ちょっと婆臭いが、そこがまた可愛らしい。
『アリスの弱点に鼻の頭を追加。喘いでくれるから、お勧め』
「阿呆」
すっかりお馴染みとなった、鋭い突っ込みの声。
また額でも小突かれるかと思ったが、なにも飛んでは来なかった。合いの手は、阿求の額に届くか届かないかのところで止まっている。
申し訳なさそうに柳眉を下げている、アリスの顔があった。
「ごめんなさいは、なしですよ」
口を開きかけたアリスを制するかのように、阿求は言った。
自分でも驚くくらいに、穏やかな声音だった。
「でも」
「持ちつ持たれつです。ここまで私を運んでくれたんですよね。おまけに、美味しい雑炊もご馳走してもらえましたし」
「それは、あなたが倒れたから」
「さっきも言ったじゃないですか」
一息ついて、椀の中身をすべて流し込む。
下腹に沁み渡るような優しい味は、やはりどこか懐かしさを感じるものだった。
人間である私が、阿礼乙女である私が、人間ではないアリスが作った料理を食べられる。鼻水を引っ掛けられたのが切欠で、他愛もない話で時を過ごし、お互いがお互いのことを段々と知り得ていく。
良い時代になったものだと、阿求はひしひしと感じていた。
「楽しかったと。今も、その気持ちは変わっていませんよ」
アリスさんの痴態も見れましたしね、と阿求は付け加えた。浮かべていた笑みも、これ見よがしに、してやったりとしたものへと転じる。気恥ずかしさを誤魔化すためのもの、ということは内緒だった。
しばし逡巡するかのように、難しい顔で押し黙っていたアリスだが。
「……まったく。痴態っていうのは否定できないわね、恥ずかしながら」
安堵の表情を浮かべたのは、それから間もなくのことだった。
「でも痴態はちょっと。もう少し、まともな言い方はできない?」
『突然、街中でアリス・マーガトロイドに汚い粘液をぶっかけられた』
「おいこら」
「これを痴態と言わずして、なんと言えばいいのでしょう」
「それ以前に、その記述を書き直しなさい、今すぐ」
「この稗田阿求。聞いたり言ったりは曖昧でも、見たことに対しては一切の妥協をせぬ主義です。ひらに、ひらにご容赦を……その方が、絶対面白いですし」
「ちょっと待てや、最後」
「妥協できませぬのよ、げひげひひ」
いつの間にか、土鍋の中は空となっていた。
ひとつ心地が落ち着いたことで、互いの間にぬるま湯のような空気が流れる。アリスも阿求も、おいそれと口を開こうとはしない。静けさだけが、部屋を包みこんでいた。
そういった空気が、決して疎ましいものばかりではないということを、阿求は最近になって知った。
「お願いが、あります」
ほんの数分ほど、そうしていただろうか。
先に口を開いたのは、阿求だった。
「人形劇、できます?」
「頼まれればすぐにでも」
「お願いできますか?」
「今ここで?」
「駄目ですか?」
「お安いご用よ」
阿求の顔がほころんだ。
やがて、用意された人形たちが、生きているかのような鮮やかさで動きはじめる。
アリスの前口上は、透き通ったものだった。
◆◆◆
『ゆうべはおたのしみでしたね』
「だと思ったわ、阿呆」
すっかり調子を取り戻した阿求に、アリスは容赦をしなかった。すぱりと、昨日と比べて切れのある刀手で、おでこを引っ叩かれる。
「ひどいです、アリスさんはさでずむですね」
「抗議の一環と受け取ってほしいわ」
『イニシャルに騙されるな、アリスはさでずむ、ついでに春にはおあなが敏感』
「南無三」
手帳を引っ手繰られ、今しがた書き込んだページを綺麗に破り取られる。鮮やかな手並みだった。
無駄なことを。
阿礼乙女である私は、一度見たものを忘れないのだ。自分で書き込んだものを瞬時に記憶するなど、それこそ造作もない。
稗田なめんなよ。
「あなたと居ると、本当に疲れるわ」
「それはこちらも同じです。私の貴重な記録が、あんまりにも無残に消されてしまいますから」
「言うこと聞くことは忘れても、見たことは絶対に忘れないんじゃなかったっけ?」
「わたくし、記憶にございません」
「嘘ばっかり」
時刻は、昼下がり。
丁度、アリスのくしゃみを阿求が真っ向から受け止めた時間と、近かった。
二人はアリス邸を目指していた。アリスが紅茶を淹れると聞き、阿求がそのレシピを見たいと迫ったことが理由だった。鼻息荒く、若干興奮した様子でしきりに聞いてくる阿求に、アリスもまんざらではなかったようである。
「そういえば、そろそろだったわよね」
「昨日もこんな、憎たらしいほどの青天でした。アリスさんの涎も鼻水も、陽の光でキラキラと輝いていましたもの」
「春爛漫。昨日は気付かなかったけれど、桜も見ごろだわ」
「春と言えばやっぱり花見、桜の下での宴会もそろそろでしょう。昨日のは、酒の肴にもならない出来事でしたけどね」
すぐそこの角を曲がれば、件の場所である。
二人は顔を見合わせて、互いに苦笑しながら角を曲がった。
「あら、ご、ごひ、ごひっひゅう」
たぶん御機嫌ようと言いたかったのだろう。
曲がった先で出会った、風見幽香の顔から、涎やら鼻水やらが勢いよく飛び出してきた。まぶしい陽光を受けたそれは、美しくもはしたない放物線を描いて、アリスと阿求の顔へと降り注いだ。
しばし、三者の間に、微妙な沈黙が流れる。
『突然、街中で風見幽香に汚い粘液をぶっかけられた』
鼻の頭についたそれを拭いもせず、阿求はそれだけを手帳に書き留めた。
「あ、ごめ、ごめな、ひゃい」
謝罪しようとして、幽香は再びくしゃみをしてしまう。アリスは人形で、阿求は手帳で、それぞれガードしていた。息の合っていたことが、なんだか空しかった。
「……最悪です」
「同感よ」
なおも、くしゃみが出続けている幽香を前に、二人は同時に溜め息をついた。
爽やかな春風に、桜の花びらが、ひらりと舞った。
花の妖怪にもかかわらず、花粉症にかかってしまった風見幽香。息苦しさと羞恥心から、鼻水やら涙やらをぼろぼろと零す彼女を、二人が懸命になだめて面倒を見たのは。
また、別のおはなし。
鼻炎って本当に大変らしいですねぇ
煩悩まみれのあっきゅんは可愛いですね。彼女は鼻炎にならないのかしら。
一応もう六時間は並んで待ってるんですが
前作とは打って変わったライトなノリ、こういうのも良いなぁ。
随所でフランス書院的な思考を展開する阿求が好き。
アリスさんの力説は、鼻炎にとんと縁の無い当方が申し訳なくなる程の説得力。つらいんだね。
幽香さんはご愁傷様。スギ花粉の届かない北の大地より、心からお見舞いを申し上げます。
気が早いと思われるでしょうが、次回作を楽しみにお待ちしています。
皆可愛いね。
人形のかぴかぴ具合が気になるところ。
実に面白かったです。
まさに幻想郷的ではないでしょうか。
アリスの解説に加え、息がしずらくて頭が重く感じるし、薬を飲むと異様にのどが渇く。
それはさておき幽香さんの面倒をみる二人のお話を是非に!
奇遇ですね、私も今年とうとう花粉症になったところですよ。これはきっと運命ですね!
すれすれの話とそれに突っ込む掛け合いも良かったです。
最後のゆうかりんに全部持っていかれましたがね!
阿求かわいい。