『もしも夜のさなかに私の足下から歩道の階段が崩れ落ちるならば、ごく短い間私は気絶する。
こうして私は、わずかだが神の不在がどんなものかが分かる。』
――――――
「天狗がね、死んだのですよ。私の倍も、長く生きた天狗が、ひとり」
鴉は脂(やに)のにおいを吐いて鳴く、塗りのかすれた欄干の上に腰かけて。
橋の内側に背を向けながら濁った川面を見つめる彼女の感情を、こちらには見ることができない。だから声の具合で推し量るよりほかはない。だというのにその声は、無感情が徹底して装われている。悲嘆や愉悦が削ぎ落されながら。
里のはずれに突き刺さった古くさい橋上のことを、誰にも気のつかれる心配はない。人もなく獣もなく、沈黙だけが遠近(おちこち)に満ちている。この静けさの中では空虚ささえも殺されるだろう。妖怪の山の入り口を遠く望むその境が、里の人々の足取りからすれば忌まれているのは、果たして当たり前のことでもあろうか。
これに棲むただひとつの騒擾は、妖怪の山から“ときおり立ちのぼる黒い煙”であった。痩身の男のように、あるいは老いた蛇ででもあるかのごとく。この、生ぬるい日の光を食べて揺らめくたったひとつのものが、殺されたすべての無意味に対して喪に服している。
いま雨の上がった日中(ひなか)に、一条の煙が立ちのぼる様を見つめる影はふたつしかなかった。
河水に映る、博麗霊夢と射命丸文。ふたりぼっちの気だるさ。
霊夢はしきりに瞬きを繰り返して、水面に映る自分の鏡像を歪ませた。一方で、文がさして美味そうでもなしに飲む煙草のにおいが、霊夢の鼻をくすぐるのである。肺の腑まで煙が染んで、ごく軽い咳が呼び起こされる。空気の代わりに、それよりももっと良くない、病そのものである棘を呼吸しているのだと思う。それはどうあっても強すぎる芳しさがつきもので、快と不快の境を融かす毒だった。
天狗の右の手の中に収まっているのは、赤銅色の長煙管だ。
ぬめるような金属の光沢に眼をなでられると、煙管は唐紅の烈しい色に変化したように見える。不器用な光の反射が霊夢の視覚に詐術を仕掛け、すると彼女は眼の珠をすでに越えた奥底まで、びりと痺れるように思う。「きれいね」とは意地でも口には出さないまでも。
しかし本当は老いた女の肌のような――それも朽ちかけて生気の褪せたところを思わせる、ものさびしい色をした煙管なのだ。そんな事実が、彼女の心を正気の地平にまで引き戻しもするし、文の煙管を見るのは今日が初めてだということを思い出させもする。煙草の嗜みが彼女にあったことさえ、実は知らないのに。
上半身を少しだけ欄干にもたれさせて、上目をつかってとっくりと、相手の唇が真白い煙を吐き出す様を見つめていた。
文は吸い口から唇を離し、少し、頭を傾げる様子でこちらを振り返った。とっくに見飽きるくらい見覚えている顔である。「だけれど」と、彼女はひとこと置いた。
「自明の老いと死をとやかく言うほどに、私は湿っぽい性格じゃないんです」
「ふうん。言葉でもって死人をついばむのが、あんたなのね」
「言ってくれますね。むしろ嘲弄と親愛とは共に手を取り合って、さっきまでの雨の中を歩いて来たというのに」
「何をもっともらしいことを言ってるんだか。嘘くさい」
「結構、結構。鴉の鳴き声とは巷間に不快を撒き散らすもので“なければならない”」
「へーえ。射命丸文一流の処世術、って、ところかしら」
く、くッ!
また、ゆっくりと吸い口を舐めてから、白い歯を見せて皮肉げに彼女は笑った。それから、わずか尖らして見せた唇から、思い切りよく白いものが中空に散じていった。雨雲のすでに霧散した、青空が広がっていた。
文は手指のその先で、ゼンマイ仕掛けのおもちゃみたいに煙管をくるくると廻し、弄ぶ。灰ひとつこぼさないままで巧みに指を動かすところは、さすがに妖怪らしい器用さだろうか。煙管をなでているのは白くほっそりとした、肉のごく薄い指なのだ。
文字通りの“鴉”天狗である文が、まるで光る小石や輝くガラスのかけらに執心している様をそのときの霊夢は想像した。文の指はあたかも細く尖ったくちばしで、そこから屍肉を喰らいもするし、ときには嘘や嘲りや、ひょっとしたら阿諛(あゆ)や追従だってお手の物だろう。ただひとつ、死んだ相手への弔いがなかなか出てこないだけで。なぜならそれは指であり、くちばしでしかないのだから。言葉のかなしさをつくるのは、いつだって頭の中が負う役目だ。むろん、霊夢だって同じことである。
しかし死んだという天狗のことは、しょせん想像もできない他人事だ。形ばかりの悼みなどしてやる気にもならなかった。無差別の憐れみに安坐していられるほど、他人に対して優しくない自覚はある。必要なのは形骸の恐怖でしかない。
妖怪の山には、今日もまた黒い煙が見える。あれは水中の微生物を思わす粘性の挙動で、不吉めいた印象を地上へと投げつけるのだ。いやに刺々しい何かの気配。ていねいに装っておいたはずの無感覚を、ザラリ、執拗に逆なでする。
煙を目にしたほんのいっとき、あれは葬儀の黒なのだと、死んだ山の妖怪を焼いているのだと――しかし、あるいは喰われた人への憐れみなのだと――、人の口には噂が奔る。二日ばかり雨が降る前にもそうだった。不気味なほどに快晴だったその日の空に、件の黒煙は亀裂にも似た軌跡を残していったのである。
そして博麗神社からでも、“黒いひび”は薄ぼんやりと望むことができた。もう居ないはずの死者が、最後に影だけ残していったみたいに。その煙は夜なんかより暗く、きっと星の光も反射することがない。たくさんの悲嘆を食べて成長しているだろうから、どんなものへも陰鬱な顔を向ける。天にその身を擦りつける妖怪の山のてっぺんから、煙が、一条、樹木じみてねじくれた身体を生やすとき。そのときには悼みにそっくりの静寂が、忌鐘の代わりに泣いているのだ。
憐れみを誘う何ものかが宿った瞬間から、死者は穢れの気を帯びる。しかし、その姿も名も人々は知らない。見も知らない者へと憐れみを抱く道理が、いったい誰にあるというのだろう。霊夢ひとりが特別であるような理由など、世界のどこにだってありはしない。否。そんなものは、あって良いはずがない。これっぽっちもだ。
「慈しみというものはね、霊夢さん。ときに残忍さの別名ですよ。衰退を見つめる感情は、たとえるなら指先を這う虫けらへの観察でしょう。その命を理由もなく圧し殺すことができる。しかし後になってから、ごく単純な哀惜をつくりだすことだってできる」
霊夢の思い起こすものを文が解る由もなく、ただ務めを果たしでもするようにつぶやいて、煙管片手に唇の片方の端を吊り上げた。
「実感が湧かないな」
そんな、霊夢の言葉が終わるより前に、文の先回り。
「それで良い。何せあなたは若すぎるし、人間はあまりに短命だ」
さらに何か言いたげに、しかし黙り込んだまま。親指で羅宇をツとなでる彼女である。都合が悪そうに目を伏せると手の中のものを器用に逆さまにし、腰かけた平らかな欄干にトントンと雁首を叩きつけた。すると、未だ熱を帯びたままでいる灰が数条、川面に向けて落ちる。かすかな風に吹き散らされて、それは粉々に砕けていく。
それから、片目をつぶって火皿を覗き込むと、また、ものを手の中でくるりと回転させ、吸い口を舐めた。さきほどより幾らか細くなった煙が、詰め込まれた刻み煙草がもう直ぐ燃え尽きてしまうのであろうことを予想させた。においだって、さっきより弱々しくなっている。なぜだろうか、終端の予想に触れて、霊夢はひどく怖じた。じり、と、片足分だけ文から離れたふりをすると、蹴られた小石が川に落ちて、ポチャリと音に飲まれていった。呑気に水の上を歩き回っていたはずのアメンボが、急に角度を変えて逃げ出していく。
文を真似るつもりで、霊夢も唇を尖らせてみた。ありもしない脂のにおいが、口いっぱいに広がった気がした。少しのいら立ちとともに視線を真横に流すと、目蓋を一心に閉じて、文の姿は何かに祈っているみたいな影が差している。
ひどく憂鬱で、厭な気分なのかもしれない。天狗の詐術は精緻に過ぎる。いつの間にか、押し付けられたずたずたのものを、霊夢は盲信している。どこか演技めいたものを感じないわけではなかったけれど、身内が死んだことへもあまりかなしげな顔をつくらない奴だから。笑んでいる人のことごとくが幸せなわけでは、決してない。そんなことは、言うまでもない自明であったはずなのに。
「ねえ」
「ん」
「それ」
「何です」
その表情にごく小さな傷をつけたい気持ちになったのは、似合いもしない、ほんのいたずら心からだ。文の手を差すと、指先から落っこちそうになった煙管を慌てて持ち直し、彼女は目を丸くした。まさか、そんなことに興味を示されるとは思わなかったという風に、声はほんのわずかに震えている。
「文が煙草を飲んでるのはね、今日はじめて見たもの」
「……なぁに。ついぞ手を出さなかっただけで。で、意を決して――」
横目でチラと霊夢の顔を見る。
と、心なしか咎めを受けたような風に、文は直ぐまた視線を逸らすのだった。
「――里の煙草屋から、最上等の煙管と刻み煙草を失敬してきました次第」
「うわっ。どろぼう」
瞬間、こちらを向く彼女の眼つきが少しだけ変わった。どこか荒んで、箍(たが)の緩んだ、わずか堕落を愛する眼。やたらと意地悪い笑みを浮かべると、赤々と燃える色の舌が、唇の奥で、ゆっくりと歯をなぞっていた。
「清く正しい、不良天狗です」
「ぜんぜん上手くないわね」
「あはは」
「人並みのまともさは、山奥にでも棄ててしまったのかしら」
「かも知れない。そんなものは犬走の餌にでもくれてやりましたよ」
もう文は、さっきまでのように、おおげさに煙を吐くことはなかった。
代わりに、溜息だけ小さく吐いて、
「妖怪並みのまともさなら、持ち合わせがあるはずですが」
と、つぶやいた。
霊夢は何も言わなかったし、文もしばらくは沈思にふけった。
だいたいのことには飽き飽きしてしまったと言いたげに、彼女は目を細めて見せる。触れたものすべてを終いにしようと願っているようにも思えた。その姿がいやに気障ったらしい。誰かが死んだから? いや、そんなものは関係がないのかもしれない。もしかしたら、つくり笑いを少し忘れかけているだけなのだろう。憂鬱の正体とは、案外、そんなものなのだ。
「しかし、困った。煙草ってのは、どうも私ァ、好きになれないみたいです」
のぼる煙は、いつの間にか、糸のように細くなっていた。
新しい趣味を開発するつもりだったのに。
そんなことを言いながら煙管を持った腕を思いきり差し伸ばすと、文は射手(いて)のごとくにはるか遠くを指し示す。ぼやりと霊夢も同じ方向へ視線をくれると、霧にけぶった妖怪の山が、その中腹までを辛うじて露わにしていた。あの黒煙は、いま根さえもなくなったみたいに――おそらくは少しの間だけ――途絶えてしまったようだ。空から色をぶちまけただけの、出来そこないの真白な霧の海に沈んでいる。霊夢の眼にはこの光景がそうと映ったが、それはもの寂しいというよりも、あまり猥雑な日常が、どうかして生き返ろうとすることの不気味さを感じたからでしかなかった。言葉もない死は、人をたばかる力を持っている。
煙草の煙が、山を覆う霧をはるか飛び越えて、空に吸われて消えていく。ただ残るのははっきりとしないにおいであり、今や手の中へ流れ込むそれをさえ忌むための理由が揃いすぎている。隣には居るのはただひとり。かなしいものなんてひとつだって知りやしないのだと、他人よりも自分を弄びたがる顔をした天狗。それは妖怪が妖怪であるにしては、あまりにもわざとらしく、露悪的な顔つきをしているに違いなかった。本当は世界のどこにも、そんな顔をする妖怪は居やしないはずだろうが。たとえば相手をかどわかすとき、これから悪いことをすると宣言するばかがどこにいる?
「性の悪い奴。あんまり調子に乗ってると退治するわよ」
「あややや、や! 死ぬまで愉しく生きるには、少しくらいの悪徳がなければ」
「また、適当なことを」
「わ、ひどい。私以上の誠実がどこにあるっていうんですか」
「あんたの、よく言葉の回るその“くちばし”のつくりが知りたいわ」
「あら、そう。なら確かめてみます? 実は口先から産まれたんですよ、私ぁ」
「いんちきな奴だって認めたようなもんじゃない、それ」
「嘘だって、欠けずに吐き続けることをすれば、それはきっと誠実でしょうが」
いっとう、大きな煙が吐き出された。ぼわり、ぼわり、と、幻みたいに拡がっていくものが生ぬるい光を吸いこんだ。それは最後に微細な粒子の存在を霊夢には思わせ、指先で摘み上げることもできるのではないかと錯覚させる。しかし、とっさの思考は煙より早く消え去るものだ。戯れに伸ばした手指の間をすり抜けて、世界のどこへともなく沈降していくにおい。惜しんでいるのは、文よりも霊夢であるのかもしれなかった。未だ知ることのない痛みは、いつの間にか無意味な期待を膨らませていく。爪の先よりなお小さい破壊の衝動が、彼女の肩をぶるりと震わせた。嘘、と口中で否定を噛み締めようとする間を見届けて、一方の天狗も、ぎりりと心を軋る気配を見せた。それから。
未だ、燃え尽きた葉の詰まったままでいる煙管を、文は川に投げ棄てたのである。
言葉にも行為にもならない霊夢の欲望を、彼女が代弁したかのように。
細い金属の管が水面を叩くときまでには、瞬きをふたつほどもすればこと足りる。しばらく尾を引き続けたように思える響きは、人への手酷い擲打(ちょうちゃく)であるごとく。水没の音は、こうして痛々しいものを刻みつけた。
驚いた魚の群れが、頭上からやって来た細長いかたまりを鼻先で突っついた。水中で散らばっていく灰が、銀色の鱗を鈍く侵していた。しばらくして喰い物でないのが解ると、尾ひれをひるがえして魚たちは散らばっていく。無言の悪事をあえて看過した事実への痛烈な甘やかさが、水音として耳の奥の奥へと残り続ける。ほどなく、濁った水に飲み込まれて赤銅色は川の底へと消え去った。見送ることへは何らか感じるものが必要なのに、そのときの霊夢には、何もなかった。ただ、ぼうッ……と、ひとつの記憶が殺されていく様を見つめるだけだった。
「さようなら。ある日の思い出」
他人事みたいにうそぶいた文。彼女の眼が、霊夢の横顔を見すえている。
いつの間にか腰かけることをやめてから、何か誇るみたいに高下駄の歯をかッかと鳴らし、橋上に立っては背を伸ばすのだ。もたれかかっていた欄干からようやく身体を起こした霊夢の気づきに応じるように、くるりと身体を回転させ相手の正面へと回り込む。彼女が手指の先で自分の唇を二、三、なでると、嘲りらしい含み笑い。ただしそれは、誰かに聞かせるにはあまり曖昧なものであったけれど。
唾をひと飲みしさえすれば、煙草の毒々しい芳しさも瞬く間になくなってしまう。
喉を滑り落ちて行った粘つきが、鼻腔にわずか残ったにおいのかけらまでをも絡め取った。胃の腑の中で粉々に砕け散っていくものは、陽炎のごとく立ち上がった記憶であったのか。文の言葉に空手をぎゅッと握りしめると、ぬるくなった霊夢の手のひらはわざとらしいまでに脈動をしている。まるで、不出来なつくりものを眺めているようじゃないか。つまりは、そんな程度の価値しかないのだと。
「文って、たまに突拍子もないことをする」
「そうでしょうか」
「まるで紫みたいね。あいつは隙間からどこへだって、唐突に現れるけど」
「……おやおや。では、私も賢者を目指してみますか」
「やめてよう。あんな妙なのがふたりに増えたら、今度は私が死ぬわ」
「手厳しいことで。八雲女史が聞いたら悲しみますよ」
「少しはへこまされることを学んだ方が良いのよ、あいつは」
虚勢を張ると、むしろ気が楽になった。後悔するのは、ずっと後でも良い気がした。すべては自分と文との秘密みたいなものだ。こんなに他愛もなくてくだらない話をすることは、めったにないだろう。ひずんだ時間の狭間に、すべてが溺れて消えてしまう。
霊夢の呼吸を見透かすように、大気へ静寂が落ちてきた。橋上の風が、まったく吹かなくなる瞬間がある。すると煙草の脂のにおいが、もう、どこまでも薄くなってきたのだと知った。
「妖怪は、ひょっとしたら長生きが過ぎるのかもしれない。憂鬱であることにも慣れすぎて、ときたま、飽いたと思えてしまう」
眼を細め、唇の端を引きつらせた文の喉が、小さな音を発した。卑屈な音、だと、思った。噛みつくのを忘れた臆病な犬が、敵へと媚びて見せるような。明瞭な意味をくみ取ることは未だできない。しかし、彼女は卑しい笑みさえ浮かべて見せることができるのだ。おそらく文にとっては、それまで含めた虚構のおぞましさなのだとしても。
「なにかっこつけてんのよ。どろぼう」
「ううん。それを言われると反論できませんね。自身の手癖の悪さを呪うしかない」
「心がけの問題でしょうが」
「ま、確かに。ここはひとつ、霊夢さんからの“借り”ということにしておきましょう」
にんまりと企む笑み。
「何よ。それ。勝手に決めちゃって……」
慌てて反論しようと口を開きかけた――が、すかさず制する格好で、相手は言葉を突きだして来る。
「あなたは、私の悪事を罰しなかった。ふたりは、紛れもなしに小さな共犯です」
何も答えられなかった。「うん」とも「いいえ」とも言ってはいけない気がした。ここで返事をしたら、彼女のやり口に籠絡される。文の手のひらのその真中で、霊夢はぎりと握り潰される。何て矮小な誘惑だろう。だのに、こんなものが、おそろしい。
「すてきだとは思いませんか、秘密めいた悪徳を共有することは。たとえば、あるふたりだけが知っている肉の交わりの心地よさを、他人に秘することにそっくりだ」
彼女は笑っていた。
たっぷりの自信とともに、母親に内緒話をする子供みたいに。
「そうして、哀れなあなたを心からあざ笑って差し上げるべく」
相手の顔をまともに見ていられなくなって、握った拳で眼をぬぐった。何度も何度も。涙も出ていないのに。肌を透過してかすかに燃え立ち始めたのは、果たして痛みだけであったのだろうか。それは、ひょっとすると嫌忌だったのではないだろうか。自ら遠ざかろうと、しかし、痛烈な記憶の中に留まろうとする相手への。
眼の珠の奥底で、気づきが疼いた。
そうだ。ようやく思い出した。鴉は、死を告げ知らせる生き物なんだと。
文は、霊夢の首に縄をかけたのだ。緩く、緩く、心地の良い絞首の縄を。
それなら何も、不思議なことはないのだろう。
突然、ごう、ごう、大風がうめいたかと思うと、散らばった砂が霊夢の耳を打ちつける。
身体に傷さえひとつもないけれど、とっさに閉じた目蓋の裏側がじくりと痛んだ。錆びた針先で引っ掻かれているような、焦慮めいたものの痛み。ようやく目尻に涙を溜められるようになったころ、おそるおそる両の眼を開いた。数瞬の後に視界に収めた世界はこれまでとほとんど変わっていない。ただひとつ、瑕にも満たない小さなものがあったとすれば、すでにどこかへ去った文への記憶こそ、それに最も近いのだ。
代わりに現れたのは、ようやく、立ちのぼることを思い出したらしい山からの黒い煙。もう、そんなもの、霊夢は見ないことにした。天狗のとんだ置き土産だ。うかつに触ると、ばちが当たりそう。それに、とっさに浮かんだ疑念なんてものは空想に等しい。触れるにも値しないのじゃないだろうか。証明するつもりのない仮定になんて、はじめから価値なんてあるはずがない。
いつ途切れるかも判らない弔いの代わりだから、文には煙草の煙と、何よりにおいが必要だったのかもしれないなんて。言うなれば、それは間に合わせの神さまだ。祈りを形あるものにつくり変えるための。あるいは文自身のかなしみを、誰にも売り渡す必要がないように?
今日あった悼み――それに似たもの――そのものを葬り去るために。
「何よう。やっぱり、性の悪い奴」
死んだ天狗は文とどんな関係だったのでしょうか。
やたらと小難しい文章でしたが、テンポの良さとか、導入部分の台詞とか、後は短さで区もなく読み切る事が出来ました。
しかし文さん、捨てるだなんて勿体ないw
文の中で俗っぽさから離しておきたい人物なのかなと思いました。あなたの作品を読むといつも喉奥の少し上のあたりが
きゅっとしまって熱くなるのです。知恵熱か鼻詰まりの多分どちらかだとおもうのですが。
文章技術それ自体はなかなかに良いものですが、魅せ方にややクセがあるので、内容以上に読者を選ぶかな、と思いました。
これは人選びますねー。
嘘を嘘と見抜ける人でないと(射命丸文を理解するのは)難しい。
よう分からん
そして好きか嫌いかで言えば、嫌い