彼女は悩んでいた。
今のこの状況をどう打開すべきか、思索をめぐらせていた。
しかしながら、名案は浮かばない。浮かぶいくつものアイディアは、全てが袋小路に辿り着き、結局、検討しなおしを余儀なくされる。
そんな風に悩み、苦しんでいたから、段々とその視野も狭くなる。
そうして、一つの結論に辿り着いてしまうのは、ある意味、当然の帰結でもあった。
「ねぇ、上海。あっちに置いてあった魔法の本、知らない?」
『それなら、昨日、仏蘭西が片付けていたけれど』
「そう。じゃあ、仏蘭西に聞けばわかるわね」
ありがとう、と上海人形の頭をなでて、アリスは別の部屋へと歩いていく。頭をなでられた上海は嬉しそうに(もっとも、人形の表情の変化はわかりづらいのだが)微笑んで、アリスの後をふよふよ追いかける。
――と、
「誰かしら?」
とんとん、と表につながるドアをノックする音が響く。
それが聞き間違いでないことがわかったのは、もう一度、ドアがノックされてから。
「はーい、どなた?」
ドアを開けて、アリスは首をかしげる。
「どうしたの? 幽香」
「立ち話もなんだから、まずは家の中に入れてくれないかしら」
「はいはい」
何だか既視感を覚えながら、アリスは幽香を家の中に招き入れた。
突然のお客様に、人形たちもあわただしくなる。
そんなこんなで、二人がついているテーブルの上にお茶とお菓子が用意されたのは、それから10分ほど後のことだった。
「まずは、これ」
と、いきなり幽香が取り出したのは、色気の欠片もない皮袋だった。
それを受け取り、中を見て、アリスは『……へぇ』と声を上げる。
「お店を開くに当たって、あなたから借りたお金、全部、返しに来たわ」
「ようやくたまったのね。当初の予定から、だいぶ後にずれ込んでるけど」
「う、うるさいわね。いいじゃない」
「よくない。
いい? 幽香。親しき仲にこそ礼儀は必要よ。借りたものは期日までにきっちり返す。じゃないと、魔理沙みたいになっちゃうわよ」
「……それはいやね」
借りたものは『死んだら返す』と公言して、意地でも返さない輩の顔を思い浮かべ、幽香はつぶやく。
アリスも内心、『ちょっと言いすぎかなー』とは思ったのだが、彼女に持って行かれた魔法書の恨みは強いようだった。
「けれど、大丈夫? これ、全部返して、今後の運転資金とかちゃんと残ってる?」
「ああ、大丈夫よ」
幽香は出されたティーカップを持ち上げて、中身を一口。
そうして、ふぅ、と息をついてから、
「あのお店、もう閉めるつもりだから」
そう言った。
「……は?」
アリスがやっとのことで声を絞り出したのは、それからかなり後。
幽香の持っているティーカップの中身が、半分以上、なくなってからだった。
「ちょっ……どういうことよ! お店を閉める!? 何で!?
まさか、幽香! めんどくさくなったからとかそういう理由じゃないでしょうね!?」
詰問口調で詰め寄るアリス。テーブルの上に身を乗り出す彼女を、周囲の人形たちが押し留める。
幽香は変わらず、すまし顔のまま。
「妖怪ってのは気まぐれだってのはわかってるけど、いくら何でも唐突だと思わないの?」
何とか心を落ち着けようと、アリスはカップの中身を口にする。
しかし、声には苛立ちと、何より驚きの色が濃い。
「落ち着きなさいよ。はしたないわね」
「あなたにだけは言われたくないわ」
「まぁ、私にも事情があるのよ」
ふぅ、と幽香。
「あのお店を開いた理由は……その……ね? 私……友達が欲しいって……」
「そんなの知ってるわよ」
意外と、こう見えて繊細かつ寂しがりな幽香が、アリスにその話を持ちかけたのは、もうずいぶん前のこと。
当時、色々と知恵を絞り、その結果、アリスが幽香に言ったのは『あなたの特技を生かせばいいんじゃないの?』の一言。
幽香の特技は色々あるのだが、その中の一つに『料理上手』というものがある。中でもケーキなどの洋菓子を作るのが大得意かつ大好きということで、それを利用した作戦を提案したのだ。
「もっとみんなと触れ合える場所と時間を作ればいい、って」
そうして出来たのが、まずはたくさんの人とふれあい、誰からも好かれるような妖怪となるという作戦。
その際、幽香がアリスに言ったのは『私の特技を生かすなら、お店をやってみたいの』ということだった。聞けば、彼女、ずっと昔――人間の考えの範疇で言う『昔』なのか、それとも時間的な『昔』なのかはわからない――は、自分のお店を開くことを夢見ていたらしい。
アリスはその話に乗り、幽香に対して資金提供を行い、同時に彼女の手伝いをしながら、その作戦を実行に移した。
「目的、達成できたの?」
「……さあ」
「私以外にも、友達、一応は出来たわよね」
「まぁ、ね」
「だから?」
幽香は何とも言えない顔で『さあ』と応えると、クッキーをかじる。
甘すぎ、とコメントしてから、
「……違うのよ」
少しだけ、寂しそうにつぶやく。
「今朝、ね。朝、起きて気づいたのよ」
「何に?」
「部屋に飾ってある鉢植えの花が枯れていたの」
この幽香、通称『花の妖怪』である。名前通り、花を操ると共に花と一緒に生活しているような妖怪である。
言うなれば、そのガーデニングの技術もまた芸術的であり、何度か、紅魔館などから『技術を教えてください』とやってくる相手に対して講師を勤めたこともあるのだとか。
「……ショックだったわ。以前は、寿命以外で、あの子達を死なせてしまったことなんてなかったのに」
「……原因は?」
「水のやり忘れ」
植物を育てていく上で、それは致命的なミスと言っていい。
そして、確かに、彼女の言うように、彼女ならば決して犯すはずのないミスであった。
「何でかな、って考えたのよ」
「うん」
「……お店、忙しくてさ」
彼女のお店は、朝の10時に開店し、夕方5時まで営業している。
当然、その間、店の主人である彼女は厨房とカウンターにかかりっきりだ。しかも、食品を扱う店であるため、営業時間が終わっても明日以降の仕込みは欠かせず、さらに自分の生活もあるとなると、休業日以外はそれ以外のことが出来ないのも、理解できる状態であった。
何せ、彼女の店は有名なのだ。連日、たくさんの客が訪れているのである。
「楽しいのよね、ほんと。
『これ、美味しかったです』とか『また来ます』なんて言われると、何かすごく嬉しくて。
長い間、生きてるけど、そんな気持ちになったことなんて今までなかったし。だから、まぁ、アリスには感謝してるのよ? いいアイディアをくれて」
「……まぁ……そう。ありがと……」
「何かね、毎日、ものすごく疲れるんだけど……毎日、すっごく楽しいの。
くったくたのはずなのに、夜遅くまで、今度の新製品は何にしようかな、とか、今売ってるお菓子の値段、あれくらいでいいのかな、って考えちゃってさ。
私らしくない話で悪いんだけど、子供になったみたいだったわ」
そんな風に、毎日毎日、過ごしていたからだろうか。
朝も昼も夜も、彼女の日常に余裕はなくなっていった。しかし、それは悪い意味ではなく、とてもいい意味での忙しさだったのだろう。
彼女の生活は充実していたのだ。今までよりも、恐らく、ずっと。
「けど……そっちばっかりにかかりっきりになっちゃってたのも事実よ。
それってさ、ふと思ったんだけど……自分勝手かな、って」
自分さえよければそれでいい。そう思うようになってしまったんじゃないか、と彼女はつぶやいた。
そんな風に、毎日が楽しくて仕方ないから、もっともっと楽しく過ごしたいと考えるようになっていった。その結果、まず最初に目的が決定してしまった。
明日はどんなことをして、お店を盛り上げようか。
ずっと、そればかりを考えていたのだ、と。
そして、そんなことをしていたから、枕元と言う、手を伸ばせばすぐに触れられるようなところに置いておいた、お気に入りの花を枯らしてしまったのだ、と。
「……だから、ね。一応、目的は達成できてるんだし。これ以上、お店をやってる理由もないかな、って。
元の、気ままな妖怪に戻ろうと思うのよ。
……そしたら、こんなこと、しなくてすむし。こんな気持ちにならなくてすむし」
「……そう」
「……止めないのね」
「何か、そういう話を聞いちゃうとね」
それ、違うじゃない。
――喉元まで出かかった言葉を、アリスは飲み込んだ。
そんな彼女に、幽香は片手にメモ帳を取り出し、それを広げる。そこに書かれている文字に、一瞬だけ、アリスは視線をやった。
「それでね、アリス。最後に一つ、手伝いを頼みたいのよ」
「手伝い?」
「閉店セールをやろうと思うの。あなた、人里とかで宣伝してきてくれない? 私は私の知り合いに声をかけてくるから」
彼女の顔は笑顔だった。
以前の彼女なら、決して、そんな笑い方は出来なかっただろう。
「……そう」
本気なんだ、と内心でつぶやく。
先ほどまで落ち込んだ表情を見せていた幽香が、無理に笑顔を作っているのが痛々しかった。
よっぽどショックだったんだろうな。
そう思えてしまうから、言葉が続けられない。
「それに、お店は閉めるけど、あの温室は気に入っているから。あれだけは続けていこうと思うわ。
だから、きっと、あんまり今までと変わらないわよ」
それじゃ、と幽香は席を立つと、マーガトロイド邸を後にした。
しばらくの間、椅子の上から動けないでいたアリスは、小さなため息をついてから立ち上がる。
「……参ったわね。まさか、こんなことになるなんて」
『マスター、どうするの?』
「言い出したら、彼女は聞かないし。まだ未練とかはあるみたいだけど……ね」
『自分を追い詰めるのはよくないですよ』
「……わかってるんだけどね。
だけど、幽香の気持ちを考えるとさ……言えないよ」
困ったなぁ、と。
彼女は天を仰いで、大仰につぶやいたのだった。
自らの決断は正しいのだろうか。
彼女は苦悩していた。
本当に、この選択肢を選んでしまってよかったのだろうか。もっと、他に道はあったのではないだろうか。
何せ、自分の選んだ答えが、すなわち、目の前の人を悲しませることになってしまったからだ。
本当は違う。この人にこんな顔をして欲しかったんじゃない。ただ、もっと、違う顔をして欲しかった。違う瞳を向けて欲しかった。
私が欲しかったのは、そんな返答じゃなかった。
しかし、もう後戻りは出来ない。一度、起きてしまった出来事は変えられない。
彼女は悩んだまま、次の道を進んでいくしか出来ない。
~文々。新聞 号外~
『太陽の畑の名物、喫茶店かざみ閉店のお知らせ』
本紙読者諸兄に、残念なお知らせである。
本紙読者であれば、恐らく知らないものはいないであろう名店である喫茶店かざみが、このほど、店主である風見幽香女史の都合により閉店となってしまうとのことである。
最初は本紙記者も『まさか』と思っていたのだが、店主に話を伺ったところ、これが話題づくりのための冗談ではなく、本気の決断であることを伝えられてしまった。
本紙記者も、最低でも一週間に一度は利用していたお店であっただけに、残念至極である。
あいにくとその理由を聞くことは出来なかったが、店主の意思は固く、すでに閉店の用意を始めているとの事だ。
そこで、店主からは、これまで愛用してくれたお客様全員に対して感謝の気持ちを表すため、大々的な閉店セールを行うとの話を伺っている。
お店の商品全てが半額以下となる他、新たな名物となった温室を無料開放する他、温泉利用者に無料のドリンクサービスを行うとのことだ。
正直に言うのならば、そのようなセールもサービスも行って欲しくはないのだが、これも店主の意向であるため致し方なしと言うほかないだろう。
閉店セールは本日より一週間。悔いの残らないよう、読者諸兄には、家族友人を誘って、ぜひともかざみに足を運んで頂きたい。
「あなた、どういうつもり!?」
かざみに甲高い怒声が響いたのは、閉店セールが始まった二日目のことだった。
「勝手にお店をやめるなんてどういう了見よ! 答えなさい!」
「お嬢様、落ち着いて……」
「黙りなさい、咲夜! わたしは、ライバルに勝手に逃げられるのが何よりも嫌いなのよ!」
その日、一番最初の客としてやってきたのは、紅の館のお嬢様とその従者だった。
そのお嬢様――レミリアは、幽香の顔を見るなり、いきなり怒鳴り声を上げたというわけだ。
当然、事情のわからない他の客が目を丸くし、固唾を呑む事態となってしまっている。
「別に、あなたと争っていたつもりはないわ。
それに、このお店は私が店主なのよ。店主の判断で店を閉めることの、何が悪いと言うの」
「何かしら、それ。ただの開き直りじゃない。
どんな理由があるにせよ、何かをする時には筋を通すものでしょう! 誰も納得しない行動なんて、ただの独善でしょう!」
普段、それを地で行っているレミリアが言う言葉に説得力はないのだが、明確な勢いはあった。
見れば、店内の客も、半分くらいがレミリアの意見に同意しているような眼差しを送っている。彼らもまた、このお店にやめて欲しくないのだ。
「今すぐ撤回なさい! さもないと、ただじゃすまないわよ!」
「……ふぅん。それはどういう意味かしら?」
一瞬で、二人の間に剣呑とした空気が漂う。
この二人、こんな見た目と雰囲気だが、この世界では紛れもなくパワーバランスの頂点に君臨するもの達だ。
そこに感情任せの『ルール無用』が加われば、どうなるか。
「お嬢様、お納めください」
横手から従者が止めに入った。その言葉は鋭く、レミリアは小さく舌打ちする。
「ごめんなさい。気を悪くさせてしまって。
私の方から謝ります」
「別に構わないわ。何でやめるのか、って何度も聞かされたんだし」
「咲夜! いつものケーキとジュース!」
苛立ちが抑えきれないレミリアは、そう怒鳴って、店内のイートインスペースに歩いていく。
咲夜は『畏まりました』と一礼をして、手元の財布を開けた。
「これとこれね。あと、これはサービス。あのお嬢様に持っていってあげて」
用意したトレイの上に、ケーキとジュース、さらに小さなプリンを載せる。
ありがとう、と咲夜はつぶやき、お金をカウンターの上に。
そうして、トレイを受け取りながら、小さな声で、しかしはっきりとした声で言った。
「お嬢様、とても驚いていたの。『どうしてやめちゃうの?』って。
最初は、その理由をあなたに聞きに行くだけだって言っていたんだけど……やっぱり、まだ自分の感情をコントロールできないのね。あんな風に怒鳴ってしまって」
「そう」
「お嬢様、あなたの作るケーキが大好きなのよ。それから、フランドール様も。
お店やめちゃうのダメって言ってきて、って。言われたわ」
「……無理よ」
「理由は聞かない。あなたの決意は固そうだし。
けれど、知っていて欲しいのよ」
咲夜は幽香に背中を向け、肩越しにつぶやく。
「自分勝手な理由じゃなく、あなたにこのお店を続けていて欲しいって思ってる人、一杯いるんだ、って」
そんな彼女の背中に視線を送っていた幽香は、ため息と共に顔を前に戻す。
次に並んでいたのは、二人の子供を連れた人間の母親だった。
彼女は幽香に商品を注文した後、子供たちを促す。彼らは幽香の顔を見上げて、「お姉ちゃん、お店、やめないで」としっかりとした言葉で告げ、『お手紙』と、一通の便箋を彼女に手渡したのだった。
『幽香さん、お店、やめないでください! お願いします! 俺たち、幽香さんに逢えなくなったら生きる楽しみがなくなってしまいます!』
『こんなに美味しいお菓子を食べたのは初めてでした。幽香さんのお店は、とても素敵なお店だと思っています。
やめられてしまうのはとても残念ですが、これからも美味しいお菓子作りだけは続けていってください』
『妖怪さんは、昔から気まぐれさんが多かったけれど、老婆心ながら言わせてください。ちゃんと自分を納得させられないと、色々と後悔するもんですよ』
『ぼくたちは、おねえちゃんが作ってくれるおかしが大すきです。おねえちゃん、おみせをやめないでください。ぼくたち、もっとおねえちゃんのケーキが食べたいです。おねえちゃん、おねがいします』
――つと、雫が伝う。
レミリアの訪問の翌日。
店に、珍しい人物がやってきた。
「こんにちは」
「あら、いらっしゃい」
ドアを開けて現れたのは、ぴょこんと伸びたうさみみが特徴的な、永遠の館の住人、鈴仙だ。
普段、彼女は館のお遣いとして、この店にやってくる。理由としては、館の子供たちに食べさせてあげるお菓子を購入するためだったり、自分だけこっそりと美味しいお菓子に舌鼓を打つためだったりと色々だが。
「注文していたケーキセットでしょ? すぐ持ってくるから……」
そこで、幽香は足を止める。
「ごきげんよう、幽香さん。お店、大繁盛ですね」
「はっ、はい! ありがとうございます!」
その、永遠の館の実質的な主である医者が、今日は鈴仙の後ろに続いていた。
彼女――永琳の笑顔に、幽香は慌てて頭を下げる。
幽香は、この彼女に一目置いているところがある。その理由としては、いつぞやの診療所での一件が原因だったりするのだが、それはさておこう。
「えっと……」
「飲み物と……そうですねぇ、この辺りの美味しそうなケーキを、それぞれ二つ、頂けますか?」
「あれ? ここで食べていくんですか?」
「長い間待って疲れたでしょう?」
店の外には、ずらーっと人が並んでいる。遠く彼方で、アリスが連れてきたゴリアテ人形が『最後尾』と言う看板を掲げて立っている。ちなみに、入店までの待ち時間は、ざっと2時間だ。
店内のイートインスペースもほぼ満席だが、何とか二人分の席は空いている。永琳は注文をすると、さっさとそちらに歩いていってしまった。
「はい」
「あ、すいません」
永琳からアバウトに指定されたケーキと紅茶を鈴仙へと、幽香は手渡す。すると椅子の上から、永琳が『よろしいかしら?』と声をかけてきた。
「……あ、あの、何か?」
「実を申し上げますと、私、ここのお菓子を食べるのは初めてなんです」
鈴仙が永琳の前に、お茶とケーキを置いていく。それを、彼女は上品に一口すると『あら、美味しい』と声を上げた。
「ここのお菓子は、うさぎの子供たちが大好きで。我先にと争うこともあるんですよ」
「それは……その……ありがとうございます……」
「うどんげも、よくてゐに掠め取られてたわね」
「いつか痛い目を見せてやります」
ケンカはダメよ、と言いつつも、永琳はそれを止めるつもりはないらしい。彼女の瞳が、それを雄弁に語っていた。
「お店、やめられてしまうんですってね」
「……はい。色々、諸事情があって」
「そう。あなたが決意なされたことなんですから、私は何も言いません。
ただ……少し残念ですね」
お茶を一口して、ふぅ、と息をつく。
「鈴仙からお話を聞いているのと、今のあなたとは、どうにもずれがあるように感じてしまいまして。
いつもだと、『すごく楽しそうでしたよ』と鈴仙は語るのですけれど、今は、すみません、そんな風にはとても見えなくて」
「……そうですか」
「未練がおありですか?」
それについては答えを返すことはしなかった。
代わりに、小さく肩をすくめるだけだ。
「以前、私のところに来た時のあなたと、だいぶ変わったということを伝え聞いております。
ですけれど、今のあなたは、以前と同じ……いえ、もっとひどいかもしれませんね。
私は医者です。ご友人にもご家族にも話しづらいことがあるのでしたら、一度、ご相談ください。患者のプライバシーは守りますから」
彼女はケーキを食べ終えると、「とても美味しかったです」と微笑んだ。
そして、両手に大きな荷物を抱えた鈴仙を連れて店を後にする。
佇む幽香はそれを振り返らず、テーブルの上の食器を片付け、厨房へと歩いていく。その背中には、誰も声をかけなかった。
『……重症だな』
『状況は逐一報告するように、とはマスターに言われていますけれど……話しづらいですね』
『確かに。
西蔵、あまり余計なことを言うんじゃないぞ』
『何でそこでこっちに言うのさ、オルレアンは』
『お前はお調子者だからだ』
今日の幽香の店の手伝いをしている人形三人が、何やら騒がしくなる。そんな彼女たちに客が視線を注ぎ、慌てて、彼女たちは客あしらいへと戻っていくのだった。
「しっかし、何でやめちまうんだろうなぁ」
「さあ? 私に言われても」
幽香の店の閉店セールが続く中、博麗神社の縁側でお茶をする二人の姿があった。
その二人の間には、文字通り、口の中に入れたらとろける美味しさのエクレアが、お茶請けのお菓子として置かれている。
「私はこういうお菓子は好きだな。まぁ、あいつの店がなくなっても紅魔館に行けば食えるわけだけど」
もぐもぐエクレアをかじる一人――魔理沙。
彼女は、口許のクリームをぬぐうと、「けど、何か唐突だよな」と続ける。
「もう4月だしなぁ。
気分を一新させたかったとか?」
「最近は、リリーもうるさいしね」
「そういえば、知ってるか? リリーが、よくあいつの店に現れるらしいぜ」
「食べ物につられてるのかしら」
「じゃないか?」
何せ、妖精ってのは好き勝手に生きてるからな、と魔理沙は言った。
そういう生き方は、それこそ妖怪の専売特許であるのだが、もう一人――霊夢は「あいつ、何か地味に子供好きだから、それが関係してるんじゃない?」と言った。
「子供としちゃ寂しいだろうな」
「あいつの花畑とか、ずいぶん、人が来るようになったらしいしね」
一昔前は『怖い妖怪がいるから近づいちゃいけません』と言う認識だった太陽の畑が、今では『今日はみんなでピクニックに行きましょう』という場所になっている。
それはとりもなおさず、幽香のこれまでの活動のおかげだ。店にやってくる人が増えると同時に、確実に、彼女の評判も向上しているのである。
ちなみにどうでもいいが、そのせいで阿求の元に『何で、あの人のことをこんなに悪く書くんだ!』と幻想郷縁起片手に抗議して来る人間が異様に増えたらしい。
「まぁ、私はこの手のお菓子は苦手だから、あんまりどうこうすることもないけどさ。
理由もわからず行動するってのはあれよね」
「お前、人のこと言えるのかよ」
「言えないかも」
「自覚してんのか」
「今年の抱負は『謙虚になる』ことなのよ」
「もうその時点で謙虚じゃないぜ」
そう言いつつも、『出された食事は、決して残さず、食べること』と教育されてきた霊夢は自分の分のエクレアを口に運ぶ。そうして、『たまにはこういう甘さもいいかもね』とコメント。
「アリスも悩んでてさ。
何とか幽香に思いとどまらせたいとか言ってたけど、それもなかなか出来ないらしい」
「あいつって、変に頑固なところがあるのよね」
「何か事情もあるって言ってたけどな」
それがどういう事情なのかは教えてくれなかったのだと言う。
アリス曰く、『魔理沙に教えても何にもならない』のだとか。その場は軽く受け流しはしたものの、魔理沙は「ひどい言い方だと思わないか?」と霊夢に同意を求めたりする。若干、気にしているようだ。
「ただの気まぐれにしても、ねぇ? 一度、こういうのって口に出したら撤回は難しいでしょうし」
「いやいや、案外、4月バカかもしれないぜ?
アリスがそれを聞いたのって4月1日らしいし」
「ああ、ありえるかもしれないわね。
この頃、あいつ、ずいぶん冗談とかを口にするようになってきたみたいだし。実は周りを巻き込んだ、壮大な作り話でしたー、とか。
たまたまいたずら心を起こしただけかもね」
「わはは、そうかもな」
なら、何にも気にする必要、ないかもな。
そんな楽観的な言葉を口にして、二人が笑っていた、その時だ。
「霊夢さんっ!」
「はっ、はいっ!」
いきなり、横手からものすごい怒声が響いた。
慌てて霊夢はその場に飛び上がり、正座をして、声の主の方に振り返る。
果たして、そこには、般若のような形相を浮かべた早苗の姿。彼女は、手に持っていたお盆を床の上に置いてから、
「なんて失礼なことを言うんですか! 一体どういうつもりですか!」
と、ものすごい勢いで霊夢へと詰め寄っていく。
霊夢は顔を真っ青にして、ずざざざっ、と後ろに下がっていく。魔理沙は『巻き込まれたらかなわん!』と神社の縁側の下に身を隠した。
「う……あ……えと……」
「……そのお菓子、幽香さんのところから買ってきたんです。
幽香さん、ちゃんと笑顔で『いらっしゃい』って迎えてくれて、これを渡してくれました」
ついに、霊夢は追い詰められる。
これ以上下がれないと言うところまで早苗に追い詰められた彼女の顔には、いまや、後悔の色しかなかった。
「わたしは言いました。
『どうして、お店をやめてしまうんですか?』って。そうしたら、『色々あって』って言ってました。
……笑ってました。
けど、目は、すごく悲しそうだったんです。
幽香さんは、きっと、今でもお店をやめたくないと思ってるんです。だけど、どうしてもやめなきゃいけない事情が出来てしまったんです。
そうやって悩んでいるのに! それなのに、その人をバカにして、どういうつもりですか!?」
「い、いいいいやあの、そういうつもりで言ったわけじゃ……」
「言い訳しない!」
「は、はいっ! ごめんなさいっ!」
「……こえー……」
縁側の下から亀よろしく顔を覗かせた魔理沙の頬に汗一筋。対する霊夢は、完全に涙目だ。
「巫女は人の心を支えるのが仕事でしょう! それなのに、その相手をけなすなんて、どういう了見ですか!
それでなくとも、幽香さんは霊夢さんのお知り合いでしょう! お知り合いが悩んでいる時に、どうしてそんなひどいことを言えるんですか!?
霊夢さんにだってわかるはずです! どうしても、自分の意思と反対にあってもやらなくちゃいけないことがあって! それに悩んで! 苦しんで! そういう気持ち、人間ならわからないはずがないでしょう!
冗談でも言っていいことと悪いことがあります!」
霊夢の視線が魔理沙を向いた。
助けてくれ、と語る彼女の視線を受けて、魔理沙は縁側の下に、また身を引っ込める。
巻き込まれてなるものか、という魔理沙の決意は固かった。……こんな状況を見せられれば当たり前だが。
「幽香さん、本当に、毎日大変だったんですよ!?
わたしは途中からしか知りませんけれど、それでも、幽香さんの苦労とか一杯見てきました!
お店の経営ってすごく大変なのに、幽香さんは、どうやったらお客さんに喜んでもらえるかとか、一生懸命考えていたんですよ!?
そういう、他人の努力を無碍にするようなことを、よくも口に出来ますね!」
「は、はい! 軽率でした! ごめんなさいっ!」
「今すぐさっきの言葉を撤回してください! それから、幽香さんに逢ったら、ちゃんと謝ってください!
わかりましたか!?」
「はい、わかりました! ごめんなさいっ! 失言でした!」
「……全くもう……」
早苗の怒声が消えたことで安全を悟ったのか、もぞもぞと魔理沙が縁側の下から這い出してくる。
そして、彼女は二人を一瞥し、思った。
『……早苗の方が圧倒的上位なんだな』と。
――さて。
早苗も落ち着き、何とか空気が平穏に戻った頃、早苗が「だけど、本当にどうしてなんでしょうか」とつぶやいた。
「何か兆候とかなかったのか?」
「……全く。
一応、人の気配とかは、ある程度は読めるつもりですけれど……そんな感じは……」
「何か理由があったんだろうとは思うけどなぁ」
「……本当に残念です。
言ってしまうなら、まだ、お店をやめてしまうことはいいんです。けれど……そうすることで、幽香さんが元気がなくなっちゃうのが、とても悲しくて……」
どうしたらいいでしょうか、と早苗。
ちなみに、霊夢は先ほどの恐怖がまだ抜けきっていないのか、魔理沙の陰に隠れるようにして早苗に視線を送っていたりする。
「何とか考え直してもらうにはどうしたらいいか、ってか?」
「そうです。
……正直、余計なお世話かもしれないけど……。だけど、絶対に、幽香さん、後悔すると思うんです。このままだと。
だから……それでも『やめる』と言うのなら、後悔しない形でやめてもらいたいですから」
「んー……そうだなぁ……」
正直に言うのなら、魔理沙は『それこそ本人の自由だろ』と言いたかった。
しかし、そんなことを言えばどうなるか。
先ほどの霊夢のような目にあうのは目に見えている。彼女は、目に見えている地雷を踏みに行くようなバカではなかった。
「じゃあさ、こう……『これは!』って思える企画を持っていってみるとかどうだ?
やめるなんてこと、考えなくなるくらいのさ」
「あ、それ、いいかもしれませんね! 楽しい企画があれば、『そんなことしてる場合じゃない』って言えるかもしれませんね!」
「そうだろ!」
「よし、その手で行きましょう! 霊夢さんも、手伝ってくださいね」
「は、はい! 全身全霊を持ってお手伝いさせていただきますっ!」
「何もそこまで気合を……あ、入れた方がいいのかな……?
ともあれ、頑張りましょうね!」
『こんなにすごい企画』があれば、幽香もきっと考え直すだろう。『そんな楽しそうなことならやらない理由はないわね』と。
そして、『お店、やめるのをやめるわ』と、きっと言ってくれるはず。
それはたぶんに希望の混じった考えではあるのだが、早苗は魔理沙のアイディアに賛成して拳を握る。
彼女にとって、幽香は大切な友人なのだ。その友人のため、奮闘したいと考えているのだ。
絶対に、幽香に後悔を覚えて欲しくない。
そう、早苗は思っていた。
しかし、そんな簡単に妙案が浮かぶものでもない。
三人の人間が集まればよい知恵が浮かぶという言葉もあるが、それだって絶対ではないことを思い知ったのは、神社の時計が夜の9時を告げた頃だった。
「……あー」
「困りましたねぇ」
居間の畳の上で大の字になる魔理沙。早苗はテーブルに突っ伏し、大量に広げた紙を見つめている。
三人で、片っ端から出していったアイディアの群れ。しかし、そのどれもが、自信を持って『これだ!』と幽香が言いそうなものがない。
「はらへったー。飯食ったのにはらへったー」
「言っておくけど、うちは滅多なことじゃ三食以上は出さないわよ」
ようやく気を取り直したのか、しばらく前から正常状態に戻っている霊夢が、すまし顔で湯飲みを傾ける。
「……どうしましょうか」
「早苗には悪いけど……やっぱり、いきなり名案を思いつけ、っていう方が難しいよ」
「そうですよね……」
だけど、わたしは諦めません! と早苗は宣言する。
「諦めたら、そこで試合終了です! 諦めない限り、何か道はあるはずです!」
「けど、それも100%ってわけじゃ……」
「数字なんてものは単なる目安です! 足りない分は勇気で補えばいいんです!」
「無茶な理屈だが、そういうのは嫌いじゃないぜ」
あとは、具体的な手段をどうするかだ、とは魔理沙の言葉。
ここで何か一つ押しがあれば何かが変わるかもしれない。とはいえ、ここに集まっている三人では、それを達成することは出来なさそうだった。
単純な経験の差か、それとも積み重ねてきた年月の違いか。
要するに、完全にギブアップ状態というわけである。
「よし」
「霊夢さん?」
「こういう時くらいしか役に立たない奴を呼び出すわ」
「お。その手があったか」
唐突に、霊夢はそんなことを言い出した。
そうして、彼女は声を上げる。
「紫のばーか」
「誰がバカよ」
「いてっ」
まさに一瞬。
いきなり、霊夢の後ろに空間の亀裂が現れたかと思うと、そこから伸びてきた手が霊夢の頭を引っぱたいた。
続けて、そこから声の主が現れる。早苗は彼女の姿を認めると、「お茶、用意してきますね」と席を立つ。
「全く。他に何か呼び方があるでしょう。
『紫さま、我々、迷える子羊をお救いください』とか」
「あんたにそんなこと言うのやだ」
「私もやだな。あとあと、いつまでも恩に着せられそうで」
「……あなた達、人をどういう目で見てるのよ」
こういう目、と二人が見せた視線に、紫は沈黙した。
早くも立つ瀬なしの彼女の元に、早苗が戻ってくる。
「あの……紫さん? お茶を……」
「……早苗ちゃん、あなた、本当にいい子ね。うちの霊夢も、あなたの何分の一かでもいいから『優しさ』とか『他人を思いやる気持ち』とかを持って欲しかったものだわ」
何だかよくわからないことを言われ、『は、はあ……』と早苗は曖昧に返事をした。
ともあれ、紫は用意された座布団に座り、お茶を一口する。
それから、彼女はおもむろに口を開いた。
「言っておくけれど、私はあなた達の案に賛成しません」
のっけからの一言で、三人は一斉に沈黙する。
「他者を尊重するのなら、その判断を尊重しなさい。自分勝手な押し付けの理由で、それを捻じ曲げようとすることは、相手にとっても、そしてあなた達にとってもよくないことよ」
「で、ですけど、紫さん……」
「後悔しているように見えるというのは早苗ちゃんの想像でしょう? 当人から、その話は聞いた?」
「い、いえ……」
「他人の心を推し量りたいのならさとりにでも頼みなさい。もっとも、彼女のことだから、よしんば引き受けてくれたとしても幽香との間で大変なことになるでしょうけど」
勝手なことはしないように、と彼女は三人に釘を刺す。
『勝手』といわれて、まず、難しい表情を浮かべたのは早苗だった。次に、霊夢と魔理沙が面白くなさそうな顔を浮かべる。
「じゃあ、紫は、このままほったらかしとけってこと?」
「そういうこと」
「お前、それでいいのかよ。『幻想郷に住むものは、みんな、私の子供みたいなもの』って言ってるくせして」
「そう思っているからこそ、相手の意見を最大限尊重するのよ」
「それが間違いでも?」
「明白なことならちゃんと止めるわ。けれど、今回はそうじゃない」
「その基準はどこにあるんだよ」
「私の頭の中」
「何よ、頼りにならないわね」
「そうね」
霊夢と魔理沙の批判もなんのその。
泰然とそれを受け止め、紫は湯飲みをテーブルへと戻した。
「あなた達が言っていた言葉だけど、心変わりというものは、本来、他人が促すものではない。他人が促す心変わりは、ただの押し付けよ」
心変わりとは、それまでの自分の考え方を否定すること。
自分の中で考え、悩み、その結論に従ってそれをするならまだしも、他人からそれを促されると言うのは、すなわち、他人による自己の否定につながる。
傍目には、それは美談となることもある。
しかし、実際にはたちの悪い無礼の一つであり、他者の意見を無視した、単なる傲慢となるのだ。そう、紫は語った。
「心変わりして欲しいならそれを待ちなさい。止めたいと思うなら、その気持ちを素直に伝えなさい。それを相手が否定するのなら、それが相手の考えなのだと受け止めなさい。
あなた達に、他人の否定をする権利なんてないわ」
ぴしゃりと言われてしまった。
それは、一言で言うならお叱りの言葉だった。ただ押さえつけるのではなく、きっちりと、相手の過ちを指摘した上での言葉。
それには、さすがに三人でも反論は出来なかった。そして、その言葉が、先の紫の一言を裏付けていた。
「彼女には、確かに未練がある様子。それで悩んでいるのも確か。
けれど、それでもそれを押し通そうとするのには何らかの理由がある。問題は、その理由が、彼女の中でどれほど大きなものであるかと言うこと。
彼女はそんなに愚かではない。自分にとって間違いである選択肢は選ぶことはないでしょう」
だから、ほったらかしておきなさい、ということだった。
「何かをしたいと思うのは間違いではない。だけど、それが本当に正しいのかどうか、判断するのはあなた達と、そして、それを受ける相手なのよ」
彼女はそれだけを言うと、開いた空間の向こうに姿を消した。
しばしの沈黙。時計の音だけが、室内に響き渡る。
「……どうするよ?」
「悔しいけど、言い返せないわ」
霊夢は姿勢を崩すと、畳の上で大の字になった。
どうしたもんかね、と魔理沙もそれに続く。
「……とりあえず、今日はお開きにしましょう」
「そうね。
魔理沙、どうする?」
「泊まっていくぜ」
「んじゃ、あんたの布団、ないから。畳の上ね」
「何でそうなる!?」
丁々発止としたやり取りが戻ってくる。
早苗は、言葉の応酬から、徐々に手が出始める二人をしばらく眺めていたが、つと、立ち上がってテーブルの上の湯飲みを持って流しへと歩いていく。
「……だけど……」
そうして、彼女はぽつりとつぶやいた。
「……何とかしてあげたいんだよね」
後ろから響く「博麗デッドロックっ!」「ぎ、ぎぶぎぶぎぶ! ロープがねぇーっ!」という声を無視して、早苗は小さく、つぶやいたのだった。
悩みに悩んで出てきた答えが、都合のいい自己の肯定だったことに彼女が気づいたのは、それからずいぶん後のこと。
同時に、彼女は猛烈な後悔を覚えていた。
あの日に戻りたい。
戻って、もう一度、やり直したい。
別の道を選びたい。
そう願っても、それはもはや、かなわぬ夢だった。
後悔に変わってしまった悩みを引きずったまま、彼女は進んでいくことしか出来ない。
止めて欲しい。
誰か、私を止めて欲しい。
前に進めない想いが渦巻いている。体に絡み付いて、身動きを出来なくしている。
苦しい。
辛い。
悲しい。
どうしたらいいのかわからない。
「ありがとうございました」
そして、セール最終日。
最後の客が、名残惜しそうに店主の顔を見ながら店を後にする。
店主――幽香は、彼を見送った後、店のドアにかけてあるプレートを『閉店』の側へと裏返した。
「さて……」
店内へと舞い戻る。
店の中には、『最後の一日くらい』と手伝いを申し出てきたアリスの姿。彼女は、「お疲れ様」と幽香の肩をたたいた。
「終わっちゃったわね」
「……そうね」
「店のもの、ほとんど全部、売れたわね」
「あまり物もあるけどね」
「あれ、どうするの?」
「欲しいのがあったら持って行って。
あまったのは、私が誰かに配ることにするわ」
そう、とアリスは返事をすると、周囲を漂う人形に声をかけた。彼女は人形たちを連れて踵を返す。
「何かあっさり終わったわね」
「そうね」
「今までありがとう。手伝ってくれたことには、一応、感謝してあげるわ」
「はいはい」
入り口にかけてあるコートを手に取り、アリスはそれに袖を通した。
そうして、幽香を振り返る。
「……ほんとに終わっちゃうのよ?」
「……いいのよ」
「そう。わかった。
じゃあ、幽香。また何かあったらうちに来て。いつも通り、相談とかには乗るし、お茶の相手にはなるから」
「わかった」
「それじゃね」
短く、淡白な会話が終わると、しんと室内が静まり返る。
幽香は一人、小さなため息をつくと、一度、ざっと店内を見渡した。
あれこれと悩んで作り上げたレイアウト。もちろん、アリスには散々ダメ出しをされ、頭の中にあった図とはだいぶ違ったものになってしまっている。
しかし、改めて眺めてみると機能的な配置だった。
どこからでも日の光が取り入れられる窓。
外から見た時に、店内の活況がわかるように配置されたイートインスペース。
用意された椅子やテーブルも、アリスがわざわざ持って来てくれたものばかり。
店に入ってすぐに用意された陳列棚。
子供も来るんだから、と高さに配慮がなされ、人間の目線の位置を計算して配置された棚の上に、品物が載ることも、もうない。
入り口奥のカウンターに設置されたウィンドウを開いてみれば、まだ少しだけ、甘い匂いが漂ってくる。
その残り香も、あともう少しで消えてしまうのだ。
「……終わっちゃったか」
何だか実感がなかった。
また明日になったら、また品物を並べなきゃいけないのかな、と少しだけ考えてしまった。
明日から、ここの空間に、にぎやかな声が響くことはないのだ。
「……寝ようかな」
奥の階段をあがって寝室へ。
月光の差し込む空間に戻ってきた彼女はベッドの上に横になる。
そうして、つと、枕元を見れば、何もない鉢植えがぽつんと置かれている。それを眺めていた彼女は、ふと、ため息をついたのだった。
自分の中での結論をつけて、つと、彼女は立ち止まって考える時間を得ることが出来た。
自分が見出した答えの意味。
自分が行ったことの意味。
そして、それが本当に、自分のためであったのだろうかと。
……結局、それがごまかしに過ぎないことに気づく。気づくのは一瞬だった。
何度も後悔してきたのだから、それが自分にとってプラスになりえないことなどわかっていた。
わかっていたからこそ、やってしまったのだ。
どうしようかな、と考えた。
もう、取り返しのつかないことであるのはわかっていた。
わかっていても、もう一度、やり直したいと、彼女は強く思った。
身勝手な考えで、自分勝手にも程があるとわかっていたけれども。
そう思わずにはいられなかった。
奇跡は起きないのだろうか。
たった一度でいい。過ちを償うチャンスはもらえないのだろうか。
そう思ってため息をつく彼女。その背中に、ぽん、と誰かの手が載せられたのは、その時だった。
翌朝、太陽の光で目を覚ました幽香は、時計を見てベッドの上に飛び起きた。
慌てて朝の用意を調えて、階段を駆け下りていく。
そうして、階段を降り切ったところでようやく思い出す。
「……ああ、そうか」
今の時刻、午前9時。普段なら、店の開店の準備を始めてないといけない時間帯だ。
しかし、もう、その必要もない。彼女の店は閉店したのだから。
しばらくの間、そこに立ち尽くしていた彼女は、厨房へと足を運んで朝食を作ると、店の椅子に腰掛けて食事を始める。
「……この建物、どうしようかしら」
自分の家として、このまま使おうか。しかし、いつまでもこの建物の中にいると、何だか色々と思い出してしまいそうで居心地が悪かった。
とりあえず、その辺りは、今度、アリスに相談しようか。
結論を先送りして、彼女は窓から外を眺める。
季節は春を迎えたとはいえ、まだまだ周囲には雪が残っている。それらと緑の草花が入り混じる光景は、この季節独特のものだ。
「温室でも見に行こうかな」
何となくそうつぶやいて、彼女は席を立った。
空っぽの皿などを洗ってから、表のドアを開けて外へと歩みだす。まぶしい太陽の光に目を細めてから、いつもの日傘を掲げて、ゆっくりと歩いていく。
「こっちはこれから続けていくとは言っても」
店の側に作られた、幻想郷唯一の温室。
しかしながら、当然、続けていくには維持費がかかる。その維持費は、これまで、店の売り上げから充当していたのだが、それがなくなった以上、どこから捻出するかを考えなくてはいけない。
基本、妖怪とはその日暮らしだ。これはこれで困ったわね、と彼女はつぶやいた。
ともあれ、温室の中へと足を踏み入れる。
途端、冬の空気などどこにもない、暖かな気配が肌を包み込んでいく。
「ふぅ……」
ぼーっと、その場で時間を過ごす。
無数の花に包み込まれるこの空間は、彼女にとっても居心地のいい場所だ。彼らを眺めながら、彼女は温室の奥へと歩いていく。
そうして、奥の壁にあるスイッチを押せば、温室内に這いまわされている配管から、室内に、水がシャワーとなって降り注いでいく。
「便利なものよね」
つぶやき、シャワーを止めて踵を返す。
とりあえず、これからどうやって時間を潰そうか。そんなことを、ふと、悩む。
以前の彼女――店を開く前の彼女も、こうして一日の時間をすごす手段を持っていたはずなのだが、とんと思い出すことが出来ない。
これから、毎日、こんな感じに退屈なのだろうか。
そんなことを思っていた彼女の足が止まる。
「あら?」
温室の中に、見慣れない姿が一つ。
年のころは、5歳か6歳程度だろう。小さな人間の女の子が、興味深そうに花を眺めている。
「あなた、そこで何をしてるの?」
尋ねると、少女はびくっと背筋を震わせ、幽香を振り向いた。
「あなた、一人?」
「ううん。ママがいるよ」
「そう。
どうやってここにきたの?」
「ずーっと向こうから」
店の閉店を知らない客だろうか。
幽香は思った。
かなり大々的に人里にも宣伝したはずなのだが、それを知らない人間がいるのも、特段、世界と言う範囲で考えるのなら不思議ではない。
「うちに用事?」
「うん」
「ごめんなさいね。お店は、もう閉店したのよ」
そう言ったのだが、少女は反応を見せなかった。代わりに、目の前の花を眺めている。
「あなた、花が好きなの?」
「うん」
「ひょっとして、温室を見に来たのかしら?」
「うーん?」
何だかよくわかっていないらしい。
この年頃なら仕方ないか、と幽香は肩をすくめて、彼女の隣で膝を曲げた。
「不思議でしょう? この花、この季節には咲かない花なのよ」
「そうなの?」
「あっちもそう。何でだと思う?」
「あったかいから?」
「そうね。正解。
ここはね、色んな花を栽培しているの。温室、って言うのよ」
へぇー、と少女は声を上げた。
どうやら、この空間そのものに興味を持ってくれたらしい。幽香は彼女に『あれはね』と、一つ一つ花の名前や特徴を説明していく。
それを一つ一つ聞いて、うんうん、と少女は楽しそうにうなずいた。
「おねえちゃん、すごいね。物知りなんだね」
「まぁね」
「おねえちゃんは、お花のどんなところが好きなの?」
「……好きなところ、か。
全部、かな」
言ってみて『ずるい答えだな』と幽香は思った。しかし、少女はその答えが気に入ったのか、けらけらと楽しそうに笑うだけだ。
そんな彼女に、幽香は尋ねた。
「じゃあ、あなたは、どうして花は咲くんだと思う?」
どんな子供っぽい答えが聞けるだろうか。
彼女の顔を見ながら、幽香はそんなことを思う。
「あのね、育ててくれた人に『ありがとう』って言うために咲くんだと思う」
しかし、返ってきた答えは、予想していなかったものだった。
「お花はお礼が言えないから、育ててくれた人に『ありがとう』って言いたくても言えないよね?
だから、その代わりに、きれいなお花になって『今まで育ててくれてありがとう。こんなにきれいになったんだよ』って言ってるんだと思う」
「……そう」
「ここにあるお花、ぜーんぶ、おねえちゃんに『ありがとう』って言ってくれてるんだよ」
――育ててくれてありがとう……か。
幽香は内心で小さくつぶやき、曲げていた膝を伸ばした。
「あなた、お腹すいてない?」
「ん? んー……少しだけ」
「じゃあ、美味しいお菓子をご馳走してあげる」
おいで、と彼女は少女の手を引いて温室を後にした。
店の中に戻り、少女に『そこで待っていて』と椅子とテーブルを勧めた後、厨房へと。
「花が咲くのはお礼のため……か」
じゃあ、野に咲く花は何に感謝しているんだ、とは言わない。
ここにあるたくさんの花は、あの少女が言うように、幽香が一生懸命、献身的に世話をしたものばかりだ。
もちろん、彼らにそんな『お礼』を期待して、彼女は花を育てていたわけではない。ただ、楽しいからそれを続けていただけだ。
その名を冠した妖怪であるからこそ、愛情を持たない理由はない。
花が好きで、彼らが好きで、ずっと世話をしていた。
――だから、その、好きなはずの花を『うっかり』で枯らしてしまったことは、彼女の心に突き刺さる。
「はい、どうぞ」
その思いを振り切って、少女の前に戻ってきた時には、彼女は笑顔を浮かべていた。
差し出されたケーキを嬉しそうに頬張る少女の頭をなでながら、彼女は少女の対面に腰を下ろす。
「美味しい?」
「うん」
そう、とだけうなずく彼女。
それから少しして、少女が尋ねる。
「ねぇ、おねえちゃん。おねえちゃんはおかしやさんなの?」
「昨日まではね」
「やめちゃったの?」
「うん。ちょっとね」
そっか……、と少しだけ、少女は寂しそうな顔になった。
そんな少女に『ごめんね』と彼女。
「ううん」
少女は首を横に振ると、小さな声で、しかし、しっかりとした声で言った。
「おねえちゃん、何だかさみしそう」
「……寂しい?」
「うん」
そんなことないわよ、と強がってみせるのだが、子供の意見は正直だった。
「おねえちゃん、どうしてお店やめちゃったの?」
「ん……っと。
花をね……枯らしちゃったの。今まで、そんなこと、一回もなかったのに」
「どうしてやめちゃったの?」
「え? だから……」
「どうして?」
何度もしつこく聞いてくる少女に、つと、思う。
――あれ? 何で私、店をやめたんだっけ?
理由はある。覚えている。店のことにかまけてしまっていて、花を育てることを怠ってしまっていたことだ。
だから、店をやめれば時間が生まれる。時間が生まれれば、きっと、そんなことをするはずもなくなるだろう。
しかし。
まず最初に、店をやめて、彼女が思ったのは何だっただろうか。
それは『退屈』。
時間が生まれたことに対する『喜び』でも『開放感』でも、これからの自分への『意気込み』でもなかった。
ただ、『退屈』が生まれただけだった。
「その……」
「お店、やめちゃうの?」
「……」
答えられなかった。
そうだよ、と、そんな簡単な言葉すら発することが出来なかった。
そして、何とか『あのね――』と言葉を搾り出そうとしたとき、店のドアがノックされた。
「あ、はーい」
慌てて立ち上がる幽香。ドアを開けると、そこには、桃色の髪を長く伸ばした、妙齢の美人が立っていた。
「ママ!」
少女が声を上げ、母親に向かって手を振る。
女性はぺこりと幽香に一礼すると、少女の元へと歩いていって、彼女の手をとった。
「あ、えっと……その子がうちの温室に一人でいたから……」
「はい。ありがとうございます」
「その……」
「この子の面倒を見ていただいて感謝しております。
ああ、申し訳ありません。わたくし、雛菊と申します」
「……あ、はい」
「この子は、本当に元気なだけがとりえの子でして」
嬉しそうに、そして幸せそうに微笑む彼女。
そんな彼女の笑顔に、幽香は何も言えず、黙り込む。
「大変お世話になりました、風見幽香さん。何か御礼をしたいところなのですけれど、あいにくと持ち合わせがなくて……」
「あ、その……別にお礼なんて……」
言って、『あれ?』と首をかしげる。
彼女に、自分は自己紹介をしただろうか。
それとも、この店のおかげで、自分は人里ではそれなりに有名人になっているらしいから、単に名前を知っているだけなのだろうか。
その彼女の疑問には答えるはずもなく、女性は続けた。
「ですから、お礼の言葉を言わせてください」
「え? え、ええ……どうぞ」
彼女は、幽香にぺこりと一礼する。少女もそれに倣って、ぺこりと頭を下げた。
「わたしは、幽香さん。あなたをずっと慕っておりました」
「えぇ!?」
「まだわたしが幼い頃から、あなたと出会い、あなたに優しい言葉をかけてもらい、そして、あなたに育てていただき。
ずっと、あなたに感謝し、あなたを慕っておりました」
いきなりの発言に、幽香は目を丸くして『ちょっと、どういうこと!?』と頭の中で叫ぶ。
当然だが、彼女は目の前の女性を知らない。ましてや、女性が今の見た目になるまで、つまり、成人するまでの間、付き合いを持っていた相手など数えるほどだ。もしも、その間も付き合いがあったのなら、女性のことを知らないはずはないのだ。
そんな矛盾など、女性は微塵も気にしていないようだった。
「わたしがこうして成長し、子供も設けることが出来たのは、ひとえにあなたのおかげです」
「ちょっと、あなた……」
「あなたのことをそばで見ていて、いつかお礼を言いたいと思っていました。
けれど、なかなかその時間もなくて……。
今、この時間をいただけた事を、わたしは感謝しております」
そうして、彼女は言う。
「幽香さん。お店をやめないでください」
「何で、いきなり……」
「あなたは、このお店を始めて変わられた。それは悪い意味ではなく、とてもよい意味で。
わたしは、あなたの笑顔を見ているのがとても嬉しかった。昔のあなたの話も聞いていましたが、その時のあなたと、今のあなたとが同一人物とは思えなかった。
あなたは毎日疲れていた。けれど、毎日、とても幸せそうでした。わたしは、そんなあなたを見ているだけで、とても嬉しかったんです」
ふっと既視感に駆られる。
こんな言葉を、誰かが言っていなかっただろうか、と。
「今のあなたの顔は、とても辛そうです。心が痛くなってしまいます。
わたしは、幽香さんにそんな顔をしていて欲しくありません」
「……けど……」
「大丈夫。わたしは恨んでなどいません。
むしろ、わたしとあなたとは、生きる時間が違うのです。あなたといつまでも一緒にいることは出来ません。
……そして、わたしは、あなたと比べて、とても弱い生き物です」
我が子の頭をなでながら、彼女は続ける。
「……わたしは後悔しているんです。あなたにそんな顔をさせてしまっていることに。
わたしが、もっと強い生き物であればよかったのに、って」
「……何を……?」
「だから、幽香さん。お店をやめないでください。
そして、いつまでも笑っていてください。
そうじゃないと、わたしが辛いんです。
あなたの幸せな笑顔を見られなくなって……そして、あなたに悲しそうな顔をさせてしまって。その負い目がありまして、とあるお方に言われてしまいました。
『その未練を背負ったままでは、あなたは極楽浄土にはいけませんよ』と」
と言うことは、この彼女は幽霊と言うことか。
しかし、それにしては、何かがおかしい。何か、彼女から感じるものがある。
そう。それは――。
「それに、この子はあなたの幸せな笑顔を、まだ知りません。
わたしがあなたに見せていただいていた、あなたの最高の笑顔を、この子にも見せてあげて欲しいんです。
わたしがあなたのことを好きになった、あなたのあの笑顔を」
「……まさか、あなた……!」
「ありがとうございました、幽香さん。それから、これからはこの子があなたにご迷惑をおかけするかもしれませんが、わたしにしてくれた時と同じように優しくしてあげてください」
彼女は一礼して、少女を連れて歩き出す。
幽香の横を、彼女が通り抜けた瞬間、空気を揺らして香る匂いがあった。
振り向く幽香。女性はドアを開け、「それでは」と幽香に一礼する。
「あなた――!」
ドアの向こうに消える二人を追って、外へと飛び出す。
その瞬間、一陣の風が吹き、合間にひらひらと、桃色の花の花弁を流していった。
「――!?」
幽香は慌てて身を起こす。
周囲の気配は静まり返り、窓から差し込む日の光だけがにぎやかだった。
時計を見る。時刻、午前9時。
「……夢……」
彼女はすぐさま立ち上がると、枕元に置いてある鉢植えに視線をやった。
そこに見た『正夢』に、彼女の瞳から、一筋の雫が流れ落ちたのだった。
彼女の心は晴れやかだった。
雲一つない、穏やかな晴天のように澄み渡っていた。
今なら、普段、出来ないことでも出来るんじゃないか。たとえ、それが錯覚であったとしてもそう思ってしまう何かがあった。
迷いはなかった。
あんなことが出来たんだから、きっと、こんなことだって出来るはず。
足取りは軽やか。体は羽根のように軽い。
もう一度、やってみよう。
そう思った。
何を、とは誰も聞かない。どうして、とも聞かない。
出来たのだから。
出来るのだから。
出来てしまうのだから。
振り返って、彼女は言った。
その瞳の向こうに見えるもの。そこに映るもの。それだけを見つめて、彼女は言った。
――ありがとう――
『マスター、どこに行くの?』
「ちょっと幽香のところ」
朝食を終えて、アリスはコートを着込んだ。尋ねた上海は『どうして?』と首をかしげる。
「……やっぱり、まだ気になるのよ」
昨日があんな感じだったしね、とアリス。
それで上海もアリスの言葉を理解したのか、『それなら、あたし達も行く!』と宣言してしまった。
アリスは彼女たちを断ろうにも断れず、やれやれ、と肩をすくめる。
「ほんと、これで自立できないのが不思議よ」
私って、ほんとに人形遣いとしての才能はあるんだろうか。
苦笑と共にそんなことを思い浮かべ、アリスは彼女たちを連れて太陽の畑へと向かった。
――小高い丘の上に、ぽつんと佇む一軒の建物。
その前へと舞い降りたアリスは、少しの間、ドアの前で逡巡する。やがて、大きく深呼吸をしてから、ゆっくりとドアを開けた。
「あら、アリス」
建物の主がそこに立っていた。彼女は、手に何やら色々な飾りを持っている。
何してるの? そうアリスが尋ねた。
「何してるの、って。
決まってるじゃない。リニューアルオープンの準備よ」
「はぁ!?」
こともなげにさらっと言ってくれた幽香に、アリスは思わず声を上げる。
まさに寝耳に水、青天の霹靂だ。
あんまりにもあんまりな発言に「どういうことよ!?」と声を荒げてしまう。
「だから、リニューアル。一度、閉店しないと出来ないでしょ?」
「そういうことじゃなくて!
じゃあ、何!? 何で閉店なんてしたのよ!」
「だから、リニューアルのためよ。あなた、頭悪いわね」
「こっ……!」
さすがに二の句が告げなくなり、言葉を失うアリス。
そんな彼女に、幽香は意地悪く笑いながら言った。
「ねぇ、アリス。私があなたに話を持っていったの、いつだったか覚えてる?」
「お、覚えてるわよ! 4月1日……って……まさか!?」
「そう。四月バカ。面白いわね、友人を騙すのって」
「ゆっ……!」
アリスはそこで言葉を区切ると、大きく息を吸い込んだ。
そして次の瞬間、「騙したわねぇぇぇぇぇぇぇっ!」と、太陽の畑全部に響くような声で絶叫した。
「信じられない! あんな深刻そうな顔して、文に広告まで頼んで! それぜーんぶ四月バカ!?」
「ええ、そうよ」
騙される方が悪いのよ、と幽香。
そこには微塵も自分に非があることを感じていない、いつもの傍若無人さがあった。
「心配して損した! このバカ幽香!」
「はいはい、そうね。
それで、アリス。悪いんだけど手伝ってちょうだい」
「ええ、ええ、いいわよ! 手伝うわよ!
その代わり、お金取るわよ! こうなったら、絶対にお金を返せないくらいに借金まみれにして、二度と、『店をやめる』なんて言えないようにしてやるわ!」
「そうなったら踏み倒すわよ」
「うるさいっ! このバカ!」
叫ぶ彼女。
その表情には、確かに怒りの色があった。あんな風にたちの悪い嘘で騙されたのだ。それも無理もない。
しかし、それ以上に、アリスの表情に浮かんでいる色がある。
それは、嬉しさだった。
『結局、何だったのよ。もう』
『姉さま、ご存知ですか?』
『何よ、蓬莱。あなたは嘘つきだから、あの女の気持ちがわかるっての?』
『それもありますけれど。
四月バカのうち、嘘をついていいのは午前中だけ。幽香さんがマスターのところにやってきたのは午後だったのですよ』
え? と首をかしげる上海に蓬莱は何も応えなかった。
「それじゃ、店の模様替えと……あと、あの天狗に広告してもらわないとね。
ちょっと、天狗ー! ここに特ダネがあるわよー!」
「呼ばれて飛び出てあやややや! 毎度おなじみ射命丸ですよー!」
「だーっ! もーっ!」
ずいぶんとにぎやかになった店の中。
昨日までの空気はどこにもない。そして、今のようなにぎやかさが、この場所独特の『空気』であるのは、もはや言うまでもなかった。
~文々。新聞 春の超特大号外~
本紙読者の諸兄に嬉しいお知らせである。
前回の号外でお伝えした、喫茶店『かざみ』の閉店のニュースであるが、本日、店主である風見幽香女史より『四月バカ』であることが明かされた。
全くはた迷惑なことであるが、本紙記者は素直にその『嘘』を喜びたいと思う。
風見幽香女史によると、かねてより、店のリニューアルを考えており、どうすればより利用者の心に残るような『リニューアルオープン』が出来るかを検討していたとの事だ。
その際、エイプリルフールのことを思い出し、その話を打ち出したのだという。
本当に厄介ないたずら心ではあったが、喜ばしい事実であるのは言うまでもないだろう。
リニューアルオープンセールは本日午後より開始される。
当然、セールに伴い、既存商品の半額セールも行われる他、リニューアルによる新商品も多数追加されるとのことだ。
また、来店した方全てにかざみで使える3割引チケットをプレゼントするとの事である。なお、利用期間はチケット記載の日時より一ヶ月なので留意されたしとの事である。
悲しいニュースに肩を落としていた諸君。今回のニュースで飛び上がって喜んでいる諸君。
ぜひとも、かざみに足を運び、思いっきり買い物をしていただきたい。
店主からも「必ず来るように」とのメッセージを預かっている。きっと、以前よりも素晴らしいお店が、諸君を出迎えてくれるはずである。
太陽の畑に佇む一軒の家。
まだ季節柄、一面が緑の草原のままのその場所に、大勢の人妖が列を作っている。
列の最後尾には大きな人形が立ち、『ただいまの待ち時間2時間』の看板を掲げている。
「もう、嘘なら嘘って言いなさいな。わたしはてっきり、あなたが勝負から逃げ出したと思ったじゃない」
「お嬢様、こちらの店と潰しあいはしないはずでしたけれど」
「い、いいじゃない、別に!
それじゃ、咲夜。ショートケーキとチョコレートケーキと……ああ、もう、めんどくさいわ! こっからここまでぜ~んぶ買ってきなさい!」
「虫歯になりますよ」
「うぐっ……!」
そこにやってくる者たちは、皆、花のように甘く優しいお菓子を求めてやってくる。
彼らは、皆、店内でああでもないこうでもないと悩みながら、両手に一杯のお菓子を抱え、笑顔で店を去っていく。
「ねぇ、妖夢ぅ。ここぉ、暑いんだけどぉ」
「まぁ、『温室』って言うくらいですから」
「あ、妖夢ぅ。このお花はぁ、なんていう名前なのかしらぁ?」
「こっちに書いてありますよ。えーっと……パッ○ンフ○ワー?」
「いったぁぁぁぁぁ~い! かじられたわぁぁぁぁ~!」
店の周りに佇む施設も大好評。
時々、変なトラブルが起きる他は、やってくる客、全てに満足してもらえる時間を提供してくれる。
「あら、うどんげ。こっちのクッキーも一緒に買いましょう」
「あ、はーい」
「それから……あら、懐かしい。ハッカパイプじゃない。
昔はよく食べたわねぇ」
「……あの、師匠。ちょっと年齢を感じさせる発言は……」
「あらあら」
「ごめんなさい失言でした!」
にぎやかな騒動も一緒に起きるその場所で、退屈を潰していくものも少なくない。
美味しいお菓子と美味しいお茶、そして楽しい時間があるのだから。
「あれ、珍しい」
「よっ。どうだい。もうかってるかい」
「ええ、まあ、そこそこに。
小町さん、今日はどんな御用事で?」
「四季様が『ケーキ買ってきてください』だとさ。自分で行けばいいのにね。
結構な甘党だっていうことをみんなに知られたくないのさ」
「かわいいところがある閻魔様で何よりです」
「ははは、そうだね。というわけで……ま、せっかくだから、自分の分も買っていこうかな」
「ありがとうございます」
その人の流れは朝から途絶えることがなく。
時が過ぎれば過ぎるほどに伸びていく。
今度、この近くに宿泊施設も作ろうか。そんな話を、店の中でも聞こえるほどに。
「ねぇねぇ、お燐! これ、美味しいね!」
「ちょっとお空! それ、まだ会計済ませてないよ!」
「あれ? 食べちゃダメなの?」
「ダメ!」
「……やれやれ」
「はい、お姉ちゃん、あ~ん」
「だから会計済ませる前に、店のものを口にしないでください、あなた達はっ!」
「……さとり様、今度から、ここに買い物に来るの、あたい達だけにしましょうね」
「え~!? お燐、ずるい! 自分だけ美味しいもの食べようとしてるー!」
「そーだそーだー」
「……すいません。この子達が食べた分も合わせてお金は払いますから」
「……強く生きてね、さとり」
その風景は、いつになっても変わらない。
この春を過ぎて、季節が変わっても、ずっと変わらない。変わらないまま過ぎていく。
「アリスさん、幽香さんはいますか!?」
「うわ、何、早苗!」
「お店の継続、おめでとうございます! お金一杯持ってきましたので、ケーキ、一杯くださいっ!」
「え、ええ、ありがとう……」
「あれ、てんこじゃないか。お前、何しに来たんだ」
「誰がてんこよ、天子よ、て・ん・し! 別に、わたしが来たっていいじゃない!」
「いや、結構違和感あるのよ、てんこの場合」
「天子って言ってるでしょ!
わたしは……その……も、申し込みを……」
「申し込みって何だ?」
「……お菓子作り教室……。自分でも作れるようになれたらいいかなーって……」
「あんたキャラ変わった?」
「うるっさいっ! いいじゃない、別に!」
「まあまあ、怒るな怒るな、てんこ」
「むきーっ!」
そんな、いつも変わらない毎日を皆が歓迎し、その時間と空間を享受する。
もちろん、その時間を演出する方としては大変さもまたひとしおなのであるが。
「よい……しょ。
さて、帰りましょうか、ナズーリン」
「落とさないように頼む」
「ははは、大丈夫ですよ」
「けれど、そんな大きなケーキも買うのに、他のケーキも買っていくんですか?」
「ああ、いや、これは……」
「……聖が食べるんですよ……。一人で……」
「……え? そのワンホール全部……?」
そして、そのいつもの空間を、ひっそりと見つめる一人の少女がいる。
彼女はにぎやかなその空間を眺めて、いつでも楽しそうに笑っていた。
自分に向けられる笑顔に、同じように笑顔を返せる日を夢見て、毎日、笑顔の練習を続けている。
「ねぇ、アリス。このケーキ、新商品なんだけど」
「何かいい匂いのケーキね。見た目もきれいだし。
なんていうの?」
「これ? ヒナギクって名づけようかな、って。
見た目がそれっぽいでしょ?」
「いいわね。ワンホール1000円くらいでよろしく」
「高くない?」
「高くない! それ、材料費だけで相当かかってるでしょ! あなた、商売するつもりあるの!?」
小さな音を立ててドアが開く。
今日もやってくる、たくさんの客の元に、店主が振り返る。
「いらっしゃいませ。かざみへようこそ」
その顔に、まぶしいくらいの大輪の花を咲かせる彼女を、店のカウンターの上で、ようやく芽を出したばかりのヒナギクの花が見つめていた。
~Fin~
今のこの状況をどう打開すべきか、思索をめぐらせていた。
しかしながら、名案は浮かばない。浮かぶいくつものアイディアは、全てが袋小路に辿り着き、結局、検討しなおしを余儀なくされる。
そんな風に悩み、苦しんでいたから、段々とその視野も狭くなる。
そうして、一つの結論に辿り着いてしまうのは、ある意味、当然の帰結でもあった。
「ねぇ、上海。あっちに置いてあった魔法の本、知らない?」
『それなら、昨日、仏蘭西が片付けていたけれど』
「そう。じゃあ、仏蘭西に聞けばわかるわね」
ありがとう、と上海人形の頭をなでて、アリスは別の部屋へと歩いていく。頭をなでられた上海は嬉しそうに(もっとも、人形の表情の変化はわかりづらいのだが)微笑んで、アリスの後をふよふよ追いかける。
――と、
「誰かしら?」
とんとん、と表につながるドアをノックする音が響く。
それが聞き間違いでないことがわかったのは、もう一度、ドアがノックされてから。
「はーい、どなた?」
ドアを開けて、アリスは首をかしげる。
「どうしたの? 幽香」
「立ち話もなんだから、まずは家の中に入れてくれないかしら」
「はいはい」
何だか既視感を覚えながら、アリスは幽香を家の中に招き入れた。
突然のお客様に、人形たちもあわただしくなる。
そんなこんなで、二人がついているテーブルの上にお茶とお菓子が用意されたのは、それから10分ほど後のことだった。
「まずは、これ」
と、いきなり幽香が取り出したのは、色気の欠片もない皮袋だった。
それを受け取り、中を見て、アリスは『……へぇ』と声を上げる。
「お店を開くに当たって、あなたから借りたお金、全部、返しに来たわ」
「ようやくたまったのね。当初の予定から、だいぶ後にずれ込んでるけど」
「う、うるさいわね。いいじゃない」
「よくない。
いい? 幽香。親しき仲にこそ礼儀は必要よ。借りたものは期日までにきっちり返す。じゃないと、魔理沙みたいになっちゃうわよ」
「……それはいやね」
借りたものは『死んだら返す』と公言して、意地でも返さない輩の顔を思い浮かべ、幽香はつぶやく。
アリスも内心、『ちょっと言いすぎかなー』とは思ったのだが、彼女に持って行かれた魔法書の恨みは強いようだった。
「けれど、大丈夫? これ、全部返して、今後の運転資金とかちゃんと残ってる?」
「ああ、大丈夫よ」
幽香は出されたティーカップを持ち上げて、中身を一口。
そうして、ふぅ、と息をついてから、
「あのお店、もう閉めるつもりだから」
そう言った。
「……は?」
アリスがやっとのことで声を絞り出したのは、それからかなり後。
幽香の持っているティーカップの中身が、半分以上、なくなってからだった。
「ちょっ……どういうことよ! お店を閉める!? 何で!?
まさか、幽香! めんどくさくなったからとかそういう理由じゃないでしょうね!?」
詰問口調で詰め寄るアリス。テーブルの上に身を乗り出す彼女を、周囲の人形たちが押し留める。
幽香は変わらず、すまし顔のまま。
「妖怪ってのは気まぐれだってのはわかってるけど、いくら何でも唐突だと思わないの?」
何とか心を落ち着けようと、アリスはカップの中身を口にする。
しかし、声には苛立ちと、何より驚きの色が濃い。
「落ち着きなさいよ。はしたないわね」
「あなたにだけは言われたくないわ」
「まぁ、私にも事情があるのよ」
ふぅ、と幽香。
「あのお店を開いた理由は……その……ね? 私……友達が欲しいって……」
「そんなの知ってるわよ」
意外と、こう見えて繊細かつ寂しがりな幽香が、アリスにその話を持ちかけたのは、もうずいぶん前のこと。
当時、色々と知恵を絞り、その結果、アリスが幽香に言ったのは『あなたの特技を生かせばいいんじゃないの?』の一言。
幽香の特技は色々あるのだが、その中の一つに『料理上手』というものがある。中でもケーキなどの洋菓子を作るのが大得意かつ大好きということで、それを利用した作戦を提案したのだ。
「もっとみんなと触れ合える場所と時間を作ればいい、って」
そうして出来たのが、まずはたくさんの人とふれあい、誰からも好かれるような妖怪となるという作戦。
その際、幽香がアリスに言ったのは『私の特技を生かすなら、お店をやってみたいの』ということだった。聞けば、彼女、ずっと昔――人間の考えの範疇で言う『昔』なのか、それとも時間的な『昔』なのかはわからない――は、自分のお店を開くことを夢見ていたらしい。
アリスはその話に乗り、幽香に対して資金提供を行い、同時に彼女の手伝いをしながら、その作戦を実行に移した。
「目的、達成できたの?」
「……さあ」
「私以外にも、友達、一応は出来たわよね」
「まぁ、ね」
「だから?」
幽香は何とも言えない顔で『さあ』と応えると、クッキーをかじる。
甘すぎ、とコメントしてから、
「……違うのよ」
少しだけ、寂しそうにつぶやく。
「今朝、ね。朝、起きて気づいたのよ」
「何に?」
「部屋に飾ってある鉢植えの花が枯れていたの」
この幽香、通称『花の妖怪』である。名前通り、花を操ると共に花と一緒に生活しているような妖怪である。
言うなれば、そのガーデニングの技術もまた芸術的であり、何度か、紅魔館などから『技術を教えてください』とやってくる相手に対して講師を勤めたこともあるのだとか。
「……ショックだったわ。以前は、寿命以外で、あの子達を死なせてしまったことなんてなかったのに」
「……原因は?」
「水のやり忘れ」
植物を育てていく上で、それは致命的なミスと言っていい。
そして、確かに、彼女の言うように、彼女ならば決して犯すはずのないミスであった。
「何でかな、って考えたのよ」
「うん」
「……お店、忙しくてさ」
彼女のお店は、朝の10時に開店し、夕方5時まで営業している。
当然、その間、店の主人である彼女は厨房とカウンターにかかりっきりだ。しかも、食品を扱う店であるため、営業時間が終わっても明日以降の仕込みは欠かせず、さらに自分の生活もあるとなると、休業日以外はそれ以外のことが出来ないのも、理解できる状態であった。
何せ、彼女の店は有名なのだ。連日、たくさんの客が訪れているのである。
「楽しいのよね、ほんと。
『これ、美味しかったです』とか『また来ます』なんて言われると、何かすごく嬉しくて。
長い間、生きてるけど、そんな気持ちになったことなんて今までなかったし。だから、まぁ、アリスには感謝してるのよ? いいアイディアをくれて」
「……まぁ……そう。ありがと……」
「何かね、毎日、ものすごく疲れるんだけど……毎日、すっごく楽しいの。
くったくたのはずなのに、夜遅くまで、今度の新製品は何にしようかな、とか、今売ってるお菓子の値段、あれくらいでいいのかな、って考えちゃってさ。
私らしくない話で悪いんだけど、子供になったみたいだったわ」
そんな風に、毎日毎日、過ごしていたからだろうか。
朝も昼も夜も、彼女の日常に余裕はなくなっていった。しかし、それは悪い意味ではなく、とてもいい意味での忙しさだったのだろう。
彼女の生活は充実していたのだ。今までよりも、恐らく、ずっと。
「けど……そっちばっかりにかかりっきりになっちゃってたのも事実よ。
それってさ、ふと思ったんだけど……自分勝手かな、って」
自分さえよければそれでいい。そう思うようになってしまったんじゃないか、と彼女はつぶやいた。
そんな風に、毎日が楽しくて仕方ないから、もっともっと楽しく過ごしたいと考えるようになっていった。その結果、まず最初に目的が決定してしまった。
明日はどんなことをして、お店を盛り上げようか。
ずっと、そればかりを考えていたのだ、と。
そして、そんなことをしていたから、枕元と言う、手を伸ばせばすぐに触れられるようなところに置いておいた、お気に入りの花を枯らしてしまったのだ、と。
「……だから、ね。一応、目的は達成できてるんだし。これ以上、お店をやってる理由もないかな、って。
元の、気ままな妖怪に戻ろうと思うのよ。
……そしたら、こんなこと、しなくてすむし。こんな気持ちにならなくてすむし」
「……そう」
「……止めないのね」
「何か、そういう話を聞いちゃうとね」
それ、違うじゃない。
――喉元まで出かかった言葉を、アリスは飲み込んだ。
そんな彼女に、幽香は片手にメモ帳を取り出し、それを広げる。そこに書かれている文字に、一瞬だけ、アリスは視線をやった。
「それでね、アリス。最後に一つ、手伝いを頼みたいのよ」
「手伝い?」
「閉店セールをやろうと思うの。あなた、人里とかで宣伝してきてくれない? 私は私の知り合いに声をかけてくるから」
彼女の顔は笑顔だった。
以前の彼女なら、決して、そんな笑い方は出来なかっただろう。
「……そう」
本気なんだ、と内心でつぶやく。
先ほどまで落ち込んだ表情を見せていた幽香が、無理に笑顔を作っているのが痛々しかった。
よっぽどショックだったんだろうな。
そう思えてしまうから、言葉が続けられない。
「それに、お店は閉めるけど、あの温室は気に入っているから。あれだけは続けていこうと思うわ。
だから、きっと、あんまり今までと変わらないわよ」
それじゃ、と幽香は席を立つと、マーガトロイド邸を後にした。
しばらくの間、椅子の上から動けないでいたアリスは、小さなため息をついてから立ち上がる。
「……参ったわね。まさか、こんなことになるなんて」
『マスター、どうするの?』
「言い出したら、彼女は聞かないし。まだ未練とかはあるみたいだけど……ね」
『自分を追い詰めるのはよくないですよ』
「……わかってるんだけどね。
だけど、幽香の気持ちを考えるとさ……言えないよ」
困ったなぁ、と。
彼女は天を仰いで、大仰につぶやいたのだった。
自らの決断は正しいのだろうか。
彼女は苦悩していた。
本当に、この選択肢を選んでしまってよかったのだろうか。もっと、他に道はあったのではないだろうか。
何せ、自分の選んだ答えが、すなわち、目の前の人を悲しませることになってしまったからだ。
本当は違う。この人にこんな顔をして欲しかったんじゃない。ただ、もっと、違う顔をして欲しかった。違う瞳を向けて欲しかった。
私が欲しかったのは、そんな返答じゃなかった。
しかし、もう後戻りは出来ない。一度、起きてしまった出来事は変えられない。
彼女は悩んだまま、次の道を進んでいくしか出来ない。
~文々。新聞 号外~
『太陽の畑の名物、喫茶店かざみ閉店のお知らせ』
本紙読者諸兄に、残念なお知らせである。
本紙読者であれば、恐らく知らないものはいないであろう名店である喫茶店かざみが、このほど、店主である風見幽香女史の都合により閉店となってしまうとのことである。
最初は本紙記者も『まさか』と思っていたのだが、店主に話を伺ったところ、これが話題づくりのための冗談ではなく、本気の決断であることを伝えられてしまった。
本紙記者も、最低でも一週間に一度は利用していたお店であっただけに、残念至極である。
あいにくとその理由を聞くことは出来なかったが、店主の意思は固く、すでに閉店の用意を始めているとの事だ。
そこで、店主からは、これまで愛用してくれたお客様全員に対して感謝の気持ちを表すため、大々的な閉店セールを行うとの話を伺っている。
お店の商品全てが半額以下となる他、新たな名物となった温室を無料開放する他、温泉利用者に無料のドリンクサービスを行うとのことだ。
正直に言うのならば、そのようなセールもサービスも行って欲しくはないのだが、これも店主の意向であるため致し方なしと言うほかないだろう。
閉店セールは本日より一週間。悔いの残らないよう、読者諸兄には、家族友人を誘って、ぜひともかざみに足を運んで頂きたい。
「あなた、どういうつもり!?」
かざみに甲高い怒声が響いたのは、閉店セールが始まった二日目のことだった。
「勝手にお店をやめるなんてどういう了見よ! 答えなさい!」
「お嬢様、落ち着いて……」
「黙りなさい、咲夜! わたしは、ライバルに勝手に逃げられるのが何よりも嫌いなのよ!」
その日、一番最初の客としてやってきたのは、紅の館のお嬢様とその従者だった。
そのお嬢様――レミリアは、幽香の顔を見るなり、いきなり怒鳴り声を上げたというわけだ。
当然、事情のわからない他の客が目を丸くし、固唾を呑む事態となってしまっている。
「別に、あなたと争っていたつもりはないわ。
それに、このお店は私が店主なのよ。店主の判断で店を閉めることの、何が悪いと言うの」
「何かしら、それ。ただの開き直りじゃない。
どんな理由があるにせよ、何かをする時には筋を通すものでしょう! 誰も納得しない行動なんて、ただの独善でしょう!」
普段、それを地で行っているレミリアが言う言葉に説得力はないのだが、明確な勢いはあった。
見れば、店内の客も、半分くらいがレミリアの意見に同意しているような眼差しを送っている。彼らもまた、このお店にやめて欲しくないのだ。
「今すぐ撤回なさい! さもないと、ただじゃすまないわよ!」
「……ふぅん。それはどういう意味かしら?」
一瞬で、二人の間に剣呑とした空気が漂う。
この二人、こんな見た目と雰囲気だが、この世界では紛れもなくパワーバランスの頂点に君臨するもの達だ。
そこに感情任せの『ルール無用』が加われば、どうなるか。
「お嬢様、お納めください」
横手から従者が止めに入った。その言葉は鋭く、レミリアは小さく舌打ちする。
「ごめんなさい。気を悪くさせてしまって。
私の方から謝ります」
「別に構わないわ。何でやめるのか、って何度も聞かされたんだし」
「咲夜! いつものケーキとジュース!」
苛立ちが抑えきれないレミリアは、そう怒鳴って、店内のイートインスペースに歩いていく。
咲夜は『畏まりました』と一礼をして、手元の財布を開けた。
「これとこれね。あと、これはサービス。あのお嬢様に持っていってあげて」
用意したトレイの上に、ケーキとジュース、さらに小さなプリンを載せる。
ありがとう、と咲夜はつぶやき、お金をカウンターの上に。
そうして、トレイを受け取りながら、小さな声で、しかしはっきりとした声で言った。
「お嬢様、とても驚いていたの。『どうしてやめちゃうの?』って。
最初は、その理由をあなたに聞きに行くだけだって言っていたんだけど……やっぱり、まだ自分の感情をコントロールできないのね。あんな風に怒鳴ってしまって」
「そう」
「お嬢様、あなたの作るケーキが大好きなのよ。それから、フランドール様も。
お店やめちゃうのダメって言ってきて、って。言われたわ」
「……無理よ」
「理由は聞かない。あなたの決意は固そうだし。
けれど、知っていて欲しいのよ」
咲夜は幽香に背中を向け、肩越しにつぶやく。
「自分勝手な理由じゃなく、あなたにこのお店を続けていて欲しいって思ってる人、一杯いるんだ、って」
そんな彼女の背中に視線を送っていた幽香は、ため息と共に顔を前に戻す。
次に並んでいたのは、二人の子供を連れた人間の母親だった。
彼女は幽香に商品を注文した後、子供たちを促す。彼らは幽香の顔を見上げて、「お姉ちゃん、お店、やめないで」としっかりとした言葉で告げ、『お手紙』と、一通の便箋を彼女に手渡したのだった。
『幽香さん、お店、やめないでください! お願いします! 俺たち、幽香さんに逢えなくなったら生きる楽しみがなくなってしまいます!』
『こんなに美味しいお菓子を食べたのは初めてでした。幽香さんのお店は、とても素敵なお店だと思っています。
やめられてしまうのはとても残念ですが、これからも美味しいお菓子作りだけは続けていってください』
『妖怪さんは、昔から気まぐれさんが多かったけれど、老婆心ながら言わせてください。ちゃんと自分を納得させられないと、色々と後悔するもんですよ』
『ぼくたちは、おねえちゃんが作ってくれるおかしが大すきです。おねえちゃん、おみせをやめないでください。ぼくたち、もっとおねえちゃんのケーキが食べたいです。おねえちゃん、おねがいします』
――つと、雫が伝う。
レミリアの訪問の翌日。
店に、珍しい人物がやってきた。
「こんにちは」
「あら、いらっしゃい」
ドアを開けて現れたのは、ぴょこんと伸びたうさみみが特徴的な、永遠の館の住人、鈴仙だ。
普段、彼女は館のお遣いとして、この店にやってくる。理由としては、館の子供たちに食べさせてあげるお菓子を購入するためだったり、自分だけこっそりと美味しいお菓子に舌鼓を打つためだったりと色々だが。
「注文していたケーキセットでしょ? すぐ持ってくるから……」
そこで、幽香は足を止める。
「ごきげんよう、幽香さん。お店、大繁盛ですね」
「はっ、はい! ありがとうございます!」
その、永遠の館の実質的な主である医者が、今日は鈴仙の後ろに続いていた。
彼女――永琳の笑顔に、幽香は慌てて頭を下げる。
幽香は、この彼女に一目置いているところがある。その理由としては、いつぞやの診療所での一件が原因だったりするのだが、それはさておこう。
「えっと……」
「飲み物と……そうですねぇ、この辺りの美味しそうなケーキを、それぞれ二つ、頂けますか?」
「あれ? ここで食べていくんですか?」
「長い間待って疲れたでしょう?」
店の外には、ずらーっと人が並んでいる。遠く彼方で、アリスが連れてきたゴリアテ人形が『最後尾』と言う看板を掲げて立っている。ちなみに、入店までの待ち時間は、ざっと2時間だ。
店内のイートインスペースもほぼ満席だが、何とか二人分の席は空いている。永琳は注文をすると、さっさとそちらに歩いていってしまった。
「はい」
「あ、すいません」
永琳からアバウトに指定されたケーキと紅茶を鈴仙へと、幽香は手渡す。すると椅子の上から、永琳が『よろしいかしら?』と声をかけてきた。
「……あ、あの、何か?」
「実を申し上げますと、私、ここのお菓子を食べるのは初めてなんです」
鈴仙が永琳の前に、お茶とケーキを置いていく。それを、彼女は上品に一口すると『あら、美味しい』と声を上げた。
「ここのお菓子は、うさぎの子供たちが大好きで。我先にと争うこともあるんですよ」
「それは……その……ありがとうございます……」
「うどんげも、よくてゐに掠め取られてたわね」
「いつか痛い目を見せてやります」
ケンカはダメよ、と言いつつも、永琳はそれを止めるつもりはないらしい。彼女の瞳が、それを雄弁に語っていた。
「お店、やめられてしまうんですってね」
「……はい。色々、諸事情があって」
「そう。あなたが決意なされたことなんですから、私は何も言いません。
ただ……少し残念ですね」
お茶を一口して、ふぅ、と息をつく。
「鈴仙からお話を聞いているのと、今のあなたとは、どうにもずれがあるように感じてしまいまして。
いつもだと、『すごく楽しそうでしたよ』と鈴仙は語るのですけれど、今は、すみません、そんな風にはとても見えなくて」
「……そうですか」
「未練がおありですか?」
それについては答えを返すことはしなかった。
代わりに、小さく肩をすくめるだけだ。
「以前、私のところに来た時のあなたと、だいぶ変わったということを伝え聞いております。
ですけれど、今のあなたは、以前と同じ……いえ、もっとひどいかもしれませんね。
私は医者です。ご友人にもご家族にも話しづらいことがあるのでしたら、一度、ご相談ください。患者のプライバシーは守りますから」
彼女はケーキを食べ終えると、「とても美味しかったです」と微笑んだ。
そして、両手に大きな荷物を抱えた鈴仙を連れて店を後にする。
佇む幽香はそれを振り返らず、テーブルの上の食器を片付け、厨房へと歩いていく。その背中には、誰も声をかけなかった。
『……重症だな』
『状況は逐一報告するように、とはマスターに言われていますけれど……話しづらいですね』
『確かに。
西蔵、あまり余計なことを言うんじゃないぞ』
『何でそこでこっちに言うのさ、オルレアンは』
『お前はお調子者だからだ』
今日の幽香の店の手伝いをしている人形三人が、何やら騒がしくなる。そんな彼女たちに客が視線を注ぎ、慌てて、彼女たちは客あしらいへと戻っていくのだった。
「しっかし、何でやめちまうんだろうなぁ」
「さあ? 私に言われても」
幽香の店の閉店セールが続く中、博麗神社の縁側でお茶をする二人の姿があった。
その二人の間には、文字通り、口の中に入れたらとろける美味しさのエクレアが、お茶請けのお菓子として置かれている。
「私はこういうお菓子は好きだな。まぁ、あいつの店がなくなっても紅魔館に行けば食えるわけだけど」
もぐもぐエクレアをかじる一人――魔理沙。
彼女は、口許のクリームをぬぐうと、「けど、何か唐突だよな」と続ける。
「もう4月だしなぁ。
気分を一新させたかったとか?」
「最近は、リリーもうるさいしね」
「そういえば、知ってるか? リリーが、よくあいつの店に現れるらしいぜ」
「食べ物につられてるのかしら」
「じゃないか?」
何せ、妖精ってのは好き勝手に生きてるからな、と魔理沙は言った。
そういう生き方は、それこそ妖怪の専売特許であるのだが、もう一人――霊夢は「あいつ、何か地味に子供好きだから、それが関係してるんじゃない?」と言った。
「子供としちゃ寂しいだろうな」
「あいつの花畑とか、ずいぶん、人が来るようになったらしいしね」
一昔前は『怖い妖怪がいるから近づいちゃいけません』と言う認識だった太陽の畑が、今では『今日はみんなでピクニックに行きましょう』という場所になっている。
それはとりもなおさず、幽香のこれまでの活動のおかげだ。店にやってくる人が増えると同時に、確実に、彼女の評判も向上しているのである。
ちなみにどうでもいいが、そのせいで阿求の元に『何で、あの人のことをこんなに悪く書くんだ!』と幻想郷縁起片手に抗議して来る人間が異様に増えたらしい。
「まぁ、私はこの手のお菓子は苦手だから、あんまりどうこうすることもないけどさ。
理由もわからず行動するってのはあれよね」
「お前、人のこと言えるのかよ」
「言えないかも」
「自覚してんのか」
「今年の抱負は『謙虚になる』ことなのよ」
「もうその時点で謙虚じゃないぜ」
そう言いつつも、『出された食事は、決して残さず、食べること』と教育されてきた霊夢は自分の分のエクレアを口に運ぶ。そうして、『たまにはこういう甘さもいいかもね』とコメント。
「アリスも悩んでてさ。
何とか幽香に思いとどまらせたいとか言ってたけど、それもなかなか出来ないらしい」
「あいつって、変に頑固なところがあるのよね」
「何か事情もあるって言ってたけどな」
それがどういう事情なのかは教えてくれなかったのだと言う。
アリス曰く、『魔理沙に教えても何にもならない』のだとか。その場は軽く受け流しはしたものの、魔理沙は「ひどい言い方だと思わないか?」と霊夢に同意を求めたりする。若干、気にしているようだ。
「ただの気まぐれにしても、ねぇ? 一度、こういうのって口に出したら撤回は難しいでしょうし」
「いやいや、案外、4月バカかもしれないぜ?
アリスがそれを聞いたのって4月1日らしいし」
「ああ、ありえるかもしれないわね。
この頃、あいつ、ずいぶん冗談とかを口にするようになってきたみたいだし。実は周りを巻き込んだ、壮大な作り話でしたー、とか。
たまたまいたずら心を起こしただけかもね」
「わはは、そうかもな」
なら、何にも気にする必要、ないかもな。
そんな楽観的な言葉を口にして、二人が笑っていた、その時だ。
「霊夢さんっ!」
「はっ、はいっ!」
いきなり、横手からものすごい怒声が響いた。
慌てて霊夢はその場に飛び上がり、正座をして、声の主の方に振り返る。
果たして、そこには、般若のような形相を浮かべた早苗の姿。彼女は、手に持っていたお盆を床の上に置いてから、
「なんて失礼なことを言うんですか! 一体どういうつもりですか!」
と、ものすごい勢いで霊夢へと詰め寄っていく。
霊夢は顔を真っ青にして、ずざざざっ、と後ろに下がっていく。魔理沙は『巻き込まれたらかなわん!』と神社の縁側の下に身を隠した。
「う……あ……えと……」
「……そのお菓子、幽香さんのところから買ってきたんです。
幽香さん、ちゃんと笑顔で『いらっしゃい』って迎えてくれて、これを渡してくれました」
ついに、霊夢は追い詰められる。
これ以上下がれないと言うところまで早苗に追い詰められた彼女の顔には、いまや、後悔の色しかなかった。
「わたしは言いました。
『どうして、お店をやめてしまうんですか?』って。そうしたら、『色々あって』って言ってました。
……笑ってました。
けど、目は、すごく悲しそうだったんです。
幽香さんは、きっと、今でもお店をやめたくないと思ってるんです。だけど、どうしてもやめなきゃいけない事情が出来てしまったんです。
そうやって悩んでいるのに! それなのに、その人をバカにして、どういうつもりですか!?」
「い、いいいいやあの、そういうつもりで言ったわけじゃ……」
「言い訳しない!」
「は、はいっ! ごめんなさいっ!」
「……こえー……」
縁側の下から亀よろしく顔を覗かせた魔理沙の頬に汗一筋。対する霊夢は、完全に涙目だ。
「巫女は人の心を支えるのが仕事でしょう! それなのに、その相手をけなすなんて、どういう了見ですか!
それでなくとも、幽香さんは霊夢さんのお知り合いでしょう! お知り合いが悩んでいる時に、どうしてそんなひどいことを言えるんですか!?
霊夢さんにだってわかるはずです! どうしても、自分の意思と反対にあってもやらなくちゃいけないことがあって! それに悩んで! 苦しんで! そういう気持ち、人間ならわからないはずがないでしょう!
冗談でも言っていいことと悪いことがあります!」
霊夢の視線が魔理沙を向いた。
助けてくれ、と語る彼女の視線を受けて、魔理沙は縁側の下に、また身を引っ込める。
巻き込まれてなるものか、という魔理沙の決意は固かった。……こんな状況を見せられれば当たり前だが。
「幽香さん、本当に、毎日大変だったんですよ!?
わたしは途中からしか知りませんけれど、それでも、幽香さんの苦労とか一杯見てきました!
お店の経営ってすごく大変なのに、幽香さんは、どうやったらお客さんに喜んでもらえるかとか、一生懸命考えていたんですよ!?
そういう、他人の努力を無碍にするようなことを、よくも口に出来ますね!」
「は、はい! 軽率でした! ごめんなさいっ!」
「今すぐさっきの言葉を撤回してください! それから、幽香さんに逢ったら、ちゃんと謝ってください!
わかりましたか!?」
「はい、わかりました! ごめんなさいっ! 失言でした!」
「……全くもう……」
早苗の怒声が消えたことで安全を悟ったのか、もぞもぞと魔理沙が縁側の下から這い出してくる。
そして、彼女は二人を一瞥し、思った。
『……早苗の方が圧倒的上位なんだな』と。
――さて。
早苗も落ち着き、何とか空気が平穏に戻った頃、早苗が「だけど、本当にどうしてなんでしょうか」とつぶやいた。
「何か兆候とかなかったのか?」
「……全く。
一応、人の気配とかは、ある程度は読めるつもりですけれど……そんな感じは……」
「何か理由があったんだろうとは思うけどなぁ」
「……本当に残念です。
言ってしまうなら、まだ、お店をやめてしまうことはいいんです。けれど……そうすることで、幽香さんが元気がなくなっちゃうのが、とても悲しくて……」
どうしたらいいでしょうか、と早苗。
ちなみに、霊夢は先ほどの恐怖がまだ抜けきっていないのか、魔理沙の陰に隠れるようにして早苗に視線を送っていたりする。
「何とか考え直してもらうにはどうしたらいいか、ってか?」
「そうです。
……正直、余計なお世話かもしれないけど……。だけど、絶対に、幽香さん、後悔すると思うんです。このままだと。
だから……それでも『やめる』と言うのなら、後悔しない形でやめてもらいたいですから」
「んー……そうだなぁ……」
正直に言うのなら、魔理沙は『それこそ本人の自由だろ』と言いたかった。
しかし、そんなことを言えばどうなるか。
先ほどの霊夢のような目にあうのは目に見えている。彼女は、目に見えている地雷を踏みに行くようなバカではなかった。
「じゃあさ、こう……『これは!』って思える企画を持っていってみるとかどうだ?
やめるなんてこと、考えなくなるくらいのさ」
「あ、それ、いいかもしれませんね! 楽しい企画があれば、『そんなことしてる場合じゃない』って言えるかもしれませんね!」
「そうだろ!」
「よし、その手で行きましょう! 霊夢さんも、手伝ってくださいね」
「は、はい! 全身全霊を持ってお手伝いさせていただきますっ!」
「何もそこまで気合を……あ、入れた方がいいのかな……?
ともあれ、頑張りましょうね!」
『こんなにすごい企画』があれば、幽香もきっと考え直すだろう。『そんな楽しそうなことならやらない理由はないわね』と。
そして、『お店、やめるのをやめるわ』と、きっと言ってくれるはず。
それはたぶんに希望の混じった考えではあるのだが、早苗は魔理沙のアイディアに賛成して拳を握る。
彼女にとって、幽香は大切な友人なのだ。その友人のため、奮闘したいと考えているのだ。
絶対に、幽香に後悔を覚えて欲しくない。
そう、早苗は思っていた。
しかし、そんな簡単に妙案が浮かぶものでもない。
三人の人間が集まればよい知恵が浮かぶという言葉もあるが、それだって絶対ではないことを思い知ったのは、神社の時計が夜の9時を告げた頃だった。
「……あー」
「困りましたねぇ」
居間の畳の上で大の字になる魔理沙。早苗はテーブルに突っ伏し、大量に広げた紙を見つめている。
三人で、片っ端から出していったアイディアの群れ。しかし、そのどれもが、自信を持って『これだ!』と幽香が言いそうなものがない。
「はらへったー。飯食ったのにはらへったー」
「言っておくけど、うちは滅多なことじゃ三食以上は出さないわよ」
ようやく気を取り直したのか、しばらく前から正常状態に戻っている霊夢が、すまし顔で湯飲みを傾ける。
「……どうしましょうか」
「早苗には悪いけど……やっぱり、いきなり名案を思いつけ、っていう方が難しいよ」
「そうですよね……」
だけど、わたしは諦めません! と早苗は宣言する。
「諦めたら、そこで試合終了です! 諦めない限り、何か道はあるはずです!」
「けど、それも100%ってわけじゃ……」
「数字なんてものは単なる目安です! 足りない分は勇気で補えばいいんです!」
「無茶な理屈だが、そういうのは嫌いじゃないぜ」
あとは、具体的な手段をどうするかだ、とは魔理沙の言葉。
ここで何か一つ押しがあれば何かが変わるかもしれない。とはいえ、ここに集まっている三人では、それを達成することは出来なさそうだった。
単純な経験の差か、それとも積み重ねてきた年月の違いか。
要するに、完全にギブアップ状態というわけである。
「よし」
「霊夢さん?」
「こういう時くらいしか役に立たない奴を呼び出すわ」
「お。その手があったか」
唐突に、霊夢はそんなことを言い出した。
そうして、彼女は声を上げる。
「紫のばーか」
「誰がバカよ」
「いてっ」
まさに一瞬。
いきなり、霊夢の後ろに空間の亀裂が現れたかと思うと、そこから伸びてきた手が霊夢の頭を引っぱたいた。
続けて、そこから声の主が現れる。早苗は彼女の姿を認めると、「お茶、用意してきますね」と席を立つ。
「全く。他に何か呼び方があるでしょう。
『紫さま、我々、迷える子羊をお救いください』とか」
「あんたにそんなこと言うのやだ」
「私もやだな。あとあと、いつまでも恩に着せられそうで」
「……あなた達、人をどういう目で見てるのよ」
こういう目、と二人が見せた視線に、紫は沈黙した。
早くも立つ瀬なしの彼女の元に、早苗が戻ってくる。
「あの……紫さん? お茶を……」
「……早苗ちゃん、あなた、本当にいい子ね。うちの霊夢も、あなたの何分の一かでもいいから『優しさ』とか『他人を思いやる気持ち』とかを持って欲しかったものだわ」
何だかよくわからないことを言われ、『は、はあ……』と早苗は曖昧に返事をした。
ともあれ、紫は用意された座布団に座り、お茶を一口する。
それから、彼女はおもむろに口を開いた。
「言っておくけれど、私はあなた達の案に賛成しません」
のっけからの一言で、三人は一斉に沈黙する。
「他者を尊重するのなら、その判断を尊重しなさい。自分勝手な押し付けの理由で、それを捻じ曲げようとすることは、相手にとっても、そしてあなた達にとってもよくないことよ」
「で、ですけど、紫さん……」
「後悔しているように見えるというのは早苗ちゃんの想像でしょう? 当人から、その話は聞いた?」
「い、いえ……」
「他人の心を推し量りたいのならさとりにでも頼みなさい。もっとも、彼女のことだから、よしんば引き受けてくれたとしても幽香との間で大変なことになるでしょうけど」
勝手なことはしないように、と彼女は三人に釘を刺す。
『勝手』といわれて、まず、難しい表情を浮かべたのは早苗だった。次に、霊夢と魔理沙が面白くなさそうな顔を浮かべる。
「じゃあ、紫は、このままほったらかしとけってこと?」
「そういうこと」
「お前、それでいいのかよ。『幻想郷に住むものは、みんな、私の子供みたいなもの』って言ってるくせして」
「そう思っているからこそ、相手の意見を最大限尊重するのよ」
「それが間違いでも?」
「明白なことならちゃんと止めるわ。けれど、今回はそうじゃない」
「その基準はどこにあるんだよ」
「私の頭の中」
「何よ、頼りにならないわね」
「そうね」
霊夢と魔理沙の批判もなんのその。
泰然とそれを受け止め、紫は湯飲みをテーブルへと戻した。
「あなた達が言っていた言葉だけど、心変わりというものは、本来、他人が促すものではない。他人が促す心変わりは、ただの押し付けよ」
心変わりとは、それまでの自分の考え方を否定すること。
自分の中で考え、悩み、その結論に従ってそれをするならまだしも、他人からそれを促されると言うのは、すなわち、他人による自己の否定につながる。
傍目には、それは美談となることもある。
しかし、実際にはたちの悪い無礼の一つであり、他者の意見を無視した、単なる傲慢となるのだ。そう、紫は語った。
「心変わりして欲しいならそれを待ちなさい。止めたいと思うなら、その気持ちを素直に伝えなさい。それを相手が否定するのなら、それが相手の考えなのだと受け止めなさい。
あなた達に、他人の否定をする権利なんてないわ」
ぴしゃりと言われてしまった。
それは、一言で言うならお叱りの言葉だった。ただ押さえつけるのではなく、きっちりと、相手の過ちを指摘した上での言葉。
それには、さすがに三人でも反論は出来なかった。そして、その言葉が、先の紫の一言を裏付けていた。
「彼女には、確かに未練がある様子。それで悩んでいるのも確か。
けれど、それでもそれを押し通そうとするのには何らかの理由がある。問題は、その理由が、彼女の中でどれほど大きなものであるかと言うこと。
彼女はそんなに愚かではない。自分にとって間違いである選択肢は選ぶことはないでしょう」
だから、ほったらかしておきなさい、ということだった。
「何かをしたいと思うのは間違いではない。だけど、それが本当に正しいのかどうか、判断するのはあなた達と、そして、それを受ける相手なのよ」
彼女はそれだけを言うと、開いた空間の向こうに姿を消した。
しばしの沈黙。時計の音だけが、室内に響き渡る。
「……どうするよ?」
「悔しいけど、言い返せないわ」
霊夢は姿勢を崩すと、畳の上で大の字になった。
どうしたもんかね、と魔理沙もそれに続く。
「……とりあえず、今日はお開きにしましょう」
「そうね。
魔理沙、どうする?」
「泊まっていくぜ」
「んじゃ、あんたの布団、ないから。畳の上ね」
「何でそうなる!?」
丁々発止としたやり取りが戻ってくる。
早苗は、言葉の応酬から、徐々に手が出始める二人をしばらく眺めていたが、つと、立ち上がってテーブルの上の湯飲みを持って流しへと歩いていく。
「……だけど……」
そうして、彼女はぽつりとつぶやいた。
「……何とかしてあげたいんだよね」
後ろから響く「博麗デッドロックっ!」「ぎ、ぎぶぎぶぎぶ! ロープがねぇーっ!」という声を無視して、早苗は小さく、つぶやいたのだった。
悩みに悩んで出てきた答えが、都合のいい自己の肯定だったことに彼女が気づいたのは、それからずいぶん後のこと。
同時に、彼女は猛烈な後悔を覚えていた。
あの日に戻りたい。
戻って、もう一度、やり直したい。
別の道を選びたい。
そう願っても、それはもはや、かなわぬ夢だった。
後悔に変わってしまった悩みを引きずったまま、彼女は進んでいくことしか出来ない。
止めて欲しい。
誰か、私を止めて欲しい。
前に進めない想いが渦巻いている。体に絡み付いて、身動きを出来なくしている。
苦しい。
辛い。
悲しい。
どうしたらいいのかわからない。
「ありがとうございました」
そして、セール最終日。
最後の客が、名残惜しそうに店主の顔を見ながら店を後にする。
店主――幽香は、彼を見送った後、店のドアにかけてあるプレートを『閉店』の側へと裏返した。
「さて……」
店内へと舞い戻る。
店の中には、『最後の一日くらい』と手伝いを申し出てきたアリスの姿。彼女は、「お疲れ様」と幽香の肩をたたいた。
「終わっちゃったわね」
「……そうね」
「店のもの、ほとんど全部、売れたわね」
「あまり物もあるけどね」
「あれ、どうするの?」
「欲しいのがあったら持って行って。
あまったのは、私が誰かに配ることにするわ」
そう、とアリスは返事をすると、周囲を漂う人形に声をかけた。彼女は人形たちを連れて踵を返す。
「何かあっさり終わったわね」
「そうね」
「今までありがとう。手伝ってくれたことには、一応、感謝してあげるわ」
「はいはい」
入り口にかけてあるコートを手に取り、アリスはそれに袖を通した。
そうして、幽香を振り返る。
「……ほんとに終わっちゃうのよ?」
「……いいのよ」
「そう。わかった。
じゃあ、幽香。また何かあったらうちに来て。いつも通り、相談とかには乗るし、お茶の相手にはなるから」
「わかった」
「それじゃね」
短く、淡白な会話が終わると、しんと室内が静まり返る。
幽香は一人、小さなため息をつくと、一度、ざっと店内を見渡した。
あれこれと悩んで作り上げたレイアウト。もちろん、アリスには散々ダメ出しをされ、頭の中にあった図とはだいぶ違ったものになってしまっている。
しかし、改めて眺めてみると機能的な配置だった。
どこからでも日の光が取り入れられる窓。
外から見た時に、店内の活況がわかるように配置されたイートインスペース。
用意された椅子やテーブルも、アリスがわざわざ持って来てくれたものばかり。
店に入ってすぐに用意された陳列棚。
子供も来るんだから、と高さに配慮がなされ、人間の目線の位置を計算して配置された棚の上に、品物が載ることも、もうない。
入り口奥のカウンターに設置されたウィンドウを開いてみれば、まだ少しだけ、甘い匂いが漂ってくる。
その残り香も、あともう少しで消えてしまうのだ。
「……終わっちゃったか」
何だか実感がなかった。
また明日になったら、また品物を並べなきゃいけないのかな、と少しだけ考えてしまった。
明日から、ここの空間に、にぎやかな声が響くことはないのだ。
「……寝ようかな」
奥の階段をあがって寝室へ。
月光の差し込む空間に戻ってきた彼女はベッドの上に横になる。
そうして、つと、枕元を見れば、何もない鉢植えがぽつんと置かれている。それを眺めていた彼女は、ふと、ため息をついたのだった。
自分の中での結論をつけて、つと、彼女は立ち止まって考える時間を得ることが出来た。
自分が見出した答えの意味。
自分が行ったことの意味。
そして、それが本当に、自分のためであったのだろうかと。
……結局、それがごまかしに過ぎないことに気づく。気づくのは一瞬だった。
何度も後悔してきたのだから、それが自分にとってプラスになりえないことなどわかっていた。
わかっていたからこそ、やってしまったのだ。
どうしようかな、と考えた。
もう、取り返しのつかないことであるのはわかっていた。
わかっていても、もう一度、やり直したいと、彼女は強く思った。
身勝手な考えで、自分勝手にも程があるとわかっていたけれども。
そう思わずにはいられなかった。
奇跡は起きないのだろうか。
たった一度でいい。過ちを償うチャンスはもらえないのだろうか。
そう思ってため息をつく彼女。その背中に、ぽん、と誰かの手が載せられたのは、その時だった。
翌朝、太陽の光で目を覚ました幽香は、時計を見てベッドの上に飛び起きた。
慌てて朝の用意を調えて、階段を駆け下りていく。
そうして、階段を降り切ったところでようやく思い出す。
「……ああ、そうか」
今の時刻、午前9時。普段なら、店の開店の準備を始めてないといけない時間帯だ。
しかし、もう、その必要もない。彼女の店は閉店したのだから。
しばらくの間、そこに立ち尽くしていた彼女は、厨房へと足を運んで朝食を作ると、店の椅子に腰掛けて食事を始める。
「……この建物、どうしようかしら」
自分の家として、このまま使おうか。しかし、いつまでもこの建物の中にいると、何だか色々と思い出してしまいそうで居心地が悪かった。
とりあえず、その辺りは、今度、アリスに相談しようか。
結論を先送りして、彼女は窓から外を眺める。
季節は春を迎えたとはいえ、まだまだ周囲には雪が残っている。それらと緑の草花が入り混じる光景は、この季節独特のものだ。
「温室でも見に行こうかな」
何となくそうつぶやいて、彼女は席を立った。
空っぽの皿などを洗ってから、表のドアを開けて外へと歩みだす。まぶしい太陽の光に目を細めてから、いつもの日傘を掲げて、ゆっくりと歩いていく。
「こっちはこれから続けていくとは言っても」
店の側に作られた、幻想郷唯一の温室。
しかしながら、当然、続けていくには維持費がかかる。その維持費は、これまで、店の売り上げから充当していたのだが、それがなくなった以上、どこから捻出するかを考えなくてはいけない。
基本、妖怪とはその日暮らしだ。これはこれで困ったわね、と彼女はつぶやいた。
ともあれ、温室の中へと足を踏み入れる。
途端、冬の空気などどこにもない、暖かな気配が肌を包み込んでいく。
「ふぅ……」
ぼーっと、その場で時間を過ごす。
無数の花に包み込まれるこの空間は、彼女にとっても居心地のいい場所だ。彼らを眺めながら、彼女は温室の奥へと歩いていく。
そうして、奥の壁にあるスイッチを押せば、温室内に這いまわされている配管から、室内に、水がシャワーとなって降り注いでいく。
「便利なものよね」
つぶやき、シャワーを止めて踵を返す。
とりあえず、これからどうやって時間を潰そうか。そんなことを、ふと、悩む。
以前の彼女――店を開く前の彼女も、こうして一日の時間をすごす手段を持っていたはずなのだが、とんと思い出すことが出来ない。
これから、毎日、こんな感じに退屈なのだろうか。
そんなことを思っていた彼女の足が止まる。
「あら?」
温室の中に、見慣れない姿が一つ。
年のころは、5歳か6歳程度だろう。小さな人間の女の子が、興味深そうに花を眺めている。
「あなた、そこで何をしてるの?」
尋ねると、少女はびくっと背筋を震わせ、幽香を振り向いた。
「あなた、一人?」
「ううん。ママがいるよ」
「そう。
どうやってここにきたの?」
「ずーっと向こうから」
店の閉店を知らない客だろうか。
幽香は思った。
かなり大々的に人里にも宣伝したはずなのだが、それを知らない人間がいるのも、特段、世界と言う範囲で考えるのなら不思議ではない。
「うちに用事?」
「うん」
「ごめんなさいね。お店は、もう閉店したのよ」
そう言ったのだが、少女は反応を見せなかった。代わりに、目の前の花を眺めている。
「あなた、花が好きなの?」
「うん」
「ひょっとして、温室を見に来たのかしら?」
「うーん?」
何だかよくわかっていないらしい。
この年頃なら仕方ないか、と幽香は肩をすくめて、彼女の隣で膝を曲げた。
「不思議でしょう? この花、この季節には咲かない花なのよ」
「そうなの?」
「あっちもそう。何でだと思う?」
「あったかいから?」
「そうね。正解。
ここはね、色んな花を栽培しているの。温室、って言うのよ」
へぇー、と少女は声を上げた。
どうやら、この空間そのものに興味を持ってくれたらしい。幽香は彼女に『あれはね』と、一つ一つ花の名前や特徴を説明していく。
それを一つ一つ聞いて、うんうん、と少女は楽しそうにうなずいた。
「おねえちゃん、すごいね。物知りなんだね」
「まぁね」
「おねえちゃんは、お花のどんなところが好きなの?」
「……好きなところ、か。
全部、かな」
言ってみて『ずるい答えだな』と幽香は思った。しかし、少女はその答えが気に入ったのか、けらけらと楽しそうに笑うだけだ。
そんな彼女に、幽香は尋ねた。
「じゃあ、あなたは、どうして花は咲くんだと思う?」
どんな子供っぽい答えが聞けるだろうか。
彼女の顔を見ながら、幽香はそんなことを思う。
「あのね、育ててくれた人に『ありがとう』って言うために咲くんだと思う」
しかし、返ってきた答えは、予想していなかったものだった。
「お花はお礼が言えないから、育ててくれた人に『ありがとう』って言いたくても言えないよね?
だから、その代わりに、きれいなお花になって『今まで育ててくれてありがとう。こんなにきれいになったんだよ』って言ってるんだと思う」
「……そう」
「ここにあるお花、ぜーんぶ、おねえちゃんに『ありがとう』って言ってくれてるんだよ」
――育ててくれてありがとう……か。
幽香は内心で小さくつぶやき、曲げていた膝を伸ばした。
「あなた、お腹すいてない?」
「ん? んー……少しだけ」
「じゃあ、美味しいお菓子をご馳走してあげる」
おいで、と彼女は少女の手を引いて温室を後にした。
店の中に戻り、少女に『そこで待っていて』と椅子とテーブルを勧めた後、厨房へと。
「花が咲くのはお礼のため……か」
じゃあ、野に咲く花は何に感謝しているんだ、とは言わない。
ここにあるたくさんの花は、あの少女が言うように、幽香が一生懸命、献身的に世話をしたものばかりだ。
もちろん、彼らにそんな『お礼』を期待して、彼女は花を育てていたわけではない。ただ、楽しいからそれを続けていただけだ。
その名を冠した妖怪であるからこそ、愛情を持たない理由はない。
花が好きで、彼らが好きで、ずっと世話をしていた。
――だから、その、好きなはずの花を『うっかり』で枯らしてしまったことは、彼女の心に突き刺さる。
「はい、どうぞ」
その思いを振り切って、少女の前に戻ってきた時には、彼女は笑顔を浮かべていた。
差し出されたケーキを嬉しそうに頬張る少女の頭をなでながら、彼女は少女の対面に腰を下ろす。
「美味しい?」
「うん」
そう、とだけうなずく彼女。
それから少しして、少女が尋ねる。
「ねぇ、おねえちゃん。おねえちゃんはおかしやさんなの?」
「昨日まではね」
「やめちゃったの?」
「うん。ちょっとね」
そっか……、と少しだけ、少女は寂しそうな顔になった。
そんな少女に『ごめんね』と彼女。
「ううん」
少女は首を横に振ると、小さな声で、しかし、しっかりとした声で言った。
「おねえちゃん、何だかさみしそう」
「……寂しい?」
「うん」
そんなことないわよ、と強がってみせるのだが、子供の意見は正直だった。
「おねえちゃん、どうしてお店やめちゃったの?」
「ん……っと。
花をね……枯らしちゃったの。今まで、そんなこと、一回もなかったのに」
「どうしてやめちゃったの?」
「え? だから……」
「どうして?」
何度もしつこく聞いてくる少女に、つと、思う。
――あれ? 何で私、店をやめたんだっけ?
理由はある。覚えている。店のことにかまけてしまっていて、花を育てることを怠ってしまっていたことだ。
だから、店をやめれば時間が生まれる。時間が生まれれば、きっと、そんなことをするはずもなくなるだろう。
しかし。
まず最初に、店をやめて、彼女が思ったのは何だっただろうか。
それは『退屈』。
時間が生まれたことに対する『喜び』でも『開放感』でも、これからの自分への『意気込み』でもなかった。
ただ、『退屈』が生まれただけだった。
「その……」
「お店、やめちゃうの?」
「……」
答えられなかった。
そうだよ、と、そんな簡単な言葉すら発することが出来なかった。
そして、何とか『あのね――』と言葉を搾り出そうとしたとき、店のドアがノックされた。
「あ、はーい」
慌てて立ち上がる幽香。ドアを開けると、そこには、桃色の髪を長く伸ばした、妙齢の美人が立っていた。
「ママ!」
少女が声を上げ、母親に向かって手を振る。
女性はぺこりと幽香に一礼すると、少女の元へと歩いていって、彼女の手をとった。
「あ、えっと……その子がうちの温室に一人でいたから……」
「はい。ありがとうございます」
「その……」
「この子の面倒を見ていただいて感謝しております。
ああ、申し訳ありません。わたくし、雛菊と申します」
「……あ、はい」
「この子は、本当に元気なだけがとりえの子でして」
嬉しそうに、そして幸せそうに微笑む彼女。
そんな彼女の笑顔に、幽香は何も言えず、黙り込む。
「大変お世話になりました、風見幽香さん。何か御礼をしたいところなのですけれど、あいにくと持ち合わせがなくて……」
「あ、その……別にお礼なんて……」
言って、『あれ?』と首をかしげる。
彼女に、自分は自己紹介をしただろうか。
それとも、この店のおかげで、自分は人里ではそれなりに有名人になっているらしいから、単に名前を知っているだけなのだろうか。
その彼女の疑問には答えるはずもなく、女性は続けた。
「ですから、お礼の言葉を言わせてください」
「え? え、ええ……どうぞ」
彼女は、幽香にぺこりと一礼する。少女もそれに倣って、ぺこりと頭を下げた。
「わたしは、幽香さん。あなたをずっと慕っておりました」
「えぇ!?」
「まだわたしが幼い頃から、あなたと出会い、あなたに優しい言葉をかけてもらい、そして、あなたに育てていただき。
ずっと、あなたに感謝し、あなたを慕っておりました」
いきなりの発言に、幽香は目を丸くして『ちょっと、どういうこと!?』と頭の中で叫ぶ。
当然だが、彼女は目の前の女性を知らない。ましてや、女性が今の見た目になるまで、つまり、成人するまでの間、付き合いを持っていた相手など数えるほどだ。もしも、その間も付き合いがあったのなら、女性のことを知らないはずはないのだ。
そんな矛盾など、女性は微塵も気にしていないようだった。
「わたしがこうして成長し、子供も設けることが出来たのは、ひとえにあなたのおかげです」
「ちょっと、あなた……」
「あなたのことをそばで見ていて、いつかお礼を言いたいと思っていました。
けれど、なかなかその時間もなくて……。
今、この時間をいただけた事を、わたしは感謝しております」
そうして、彼女は言う。
「幽香さん。お店をやめないでください」
「何で、いきなり……」
「あなたは、このお店を始めて変わられた。それは悪い意味ではなく、とてもよい意味で。
わたしは、あなたの笑顔を見ているのがとても嬉しかった。昔のあなたの話も聞いていましたが、その時のあなたと、今のあなたとが同一人物とは思えなかった。
あなたは毎日疲れていた。けれど、毎日、とても幸せそうでした。わたしは、そんなあなたを見ているだけで、とても嬉しかったんです」
ふっと既視感に駆られる。
こんな言葉を、誰かが言っていなかっただろうか、と。
「今のあなたの顔は、とても辛そうです。心が痛くなってしまいます。
わたしは、幽香さんにそんな顔をしていて欲しくありません」
「……けど……」
「大丈夫。わたしは恨んでなどいません。
むしろ、わたしとあなたとは、生きる時間が違うのです。あなたといつまでも一緒にいることは出来ません。
……そして、わたしは、あなたと比べて、とても弱い生き物です」
我が子の頭をなでながら、彼女は続ける。
「……わたしは後悔しているんです。あなたにそんな顔をさせてしまっていることに。
わたしが、もっと強い生き物であればよかったのに、って」
「……何を……?」
「だから、幽香さん。お店をやめないでください。
そして、いつまでも笑っていてください。
そうじゃないと、わたしが辛いんです。
あなたの幸せな笑顔を見られなくなって……そして、あなたに悲しそうな顔をさせてしまって。その負い目がありまして、とあるお方に言われてしまいました。
『その未練を背負ったままでは、あなたは極楽浄土にはいけませんよ』と」
と言うことは、この彼女は幽霊と言うことか。
しかし、それにしては、何かがおかしい。何か、彼女から感じるものがある。
そう。それは――。
「それに、この子はあなたの幸せな笑顔を、まだ知りません。
わたしがあなたに見せていただいていた、あなたの最高の笑顔を、この子にも見せてあげて欲しいんです。
わたしがあなたのことを好きになった、あなたのあの笑顔を」
「……まさか、あなた……!」
「ありがとうございました、幽香さん。それから、これからはこの子があなたにご迷惑をおかけするかもしれませんが、わたしにしてくれた時と同じように優しくしてあげてください」
彼女は一礼して、少女を連れて歩き出す。
幽香の横を、彼女が通り抜けた瞬間、空気を揺らして香る匂いがあった。
振り向く幽香。女性はドアを開け、「それでは」と幽香に一礼する。
「あなた――!」
ドアの向こうに消える二人を追って、外へと飛び出す。
その瞬間、一陣の風が吹き、合間にひらひらと、桃色の花の花弁を流していった。
「――!?」
幽香は慌てて身を起こす。
周囲の気配は静まり返り、窓から差し込む日の光だけがにぎやかだった。
時計を見る。時刻、午前9時。
「……夢……」
彼女はすぐさま立ち上がると、枕元に置いてある鉢植えに視線をやった。
そこに見た『正夢』に、彼女の瞳から、一筋の雫が流れ落ちたのだった。
彼女の心は晴れやかだった。
雲一つない、穏やかな晴天のように澄み渡っていた。
今なら、普段、出来ないことでも出来るんじゃないか。たとえ、それが錯覚であったとしてもそう思ってしまう何かがあった。
迷いはなかった。
あんなことが出来たんだから、きっと、こんなことだって出来るはず。
足取りは軽やか。体は羽根のように軽い。
もう一度、やってみよう。
そう思った。
何を、とは誰も聞かない。どうして、とも聞かない。
出来たのだから。
出来るのだから。
出来てしまうのだから。
振り返って、彼女は言った。
その瞳の向こうに見えるもの。そこに映るもの。それだけを見つめて、彼女は言った。
――ありがとう――
『マスター、どこに行くの?』
「ちょっと幽香のところ」
朝食を終えて、アリスはコートを着込んだ。尋ねた上海は『どうして?』と首をかしげる。
「……やっぱり、まだ気になるのよ」
昨日があんな感じだったしね、とアリス。
それで上海もアリスの言葉を理解したのか、『それなら、あたし達も行く!』と宣言してしまった。
アリスは彼女たちを断ろうにも断れず、やれやれ、と肩をすくめる。
「ほんと、これで自立できないのが不思議よ」
私って、ほんとに人形遣いとしての才能はあるんだろうか。
苦笑と共にそんなことを思い浮かべ、アリスは彼女たちを連れて太陽の畑へと向かった。
――小高い丘の上に、ぽつんと佇む一軒の建物。
その前へと舞い降りたアリスは、少しの間、ドアの前で逡巡する。やがて、大きく深呼吸をしてから、ゆっくりとドアを開けた。
「あら、アリス」
建物の主がそこに立っていた。彼女は、手に何やら色々な飾りを持っている。
何してるの? そうアリスが尋ねた。
「何してるの、って。
決まってるじゃない。リニューアルオープンの準備よ」
「はぁ!?」
こともなげにさらっと言ってくれた幽香に、アリスは思わず声を上げる。
まさに寝耳に水、青天の霹靂だ。
あんまりにもあんまりな発言に「どういうことよ!?」と声を荒げてしまう。
「だから、リニューアル。一度、閉店しないと出来ないでしょ?」
「そういうことじゃなくて!
じゃあ、何!? 何で閉店なんてしたのよ!」
「だから、リニューアルのためよ。あなた、頭悪いわね」
「こっ……!」
さすがに二の句が告げなくなり、言葉を失うアリス。
そんな彼女に、幽香は意地悪く笑いながら言った。
「ねぇ、アリス。私があなたに話を持っていったの、いつだったか覚えてる?」
「お、覚えてるわよ! 4月1日……って……まさか!?」
「そう。四月バカ。面白いわね、友人を騙すのって」
「ゆっ……!」
アリスはそこで言葉を区切ると、大きく息を吸い込んだ。
そして次の瞬間、「騙したわねぇぇぇぇぇぇぇっ!」と、太陽の畑全部に響くような声で絶叫した。
「信じられない! あんな深刻そうな顔して、文に広告まで頼んで! それぜーんぶ四月バカ!?」
「ええ、そうよ」
騙される方が悪いのよ、と幽香。
そこには微塵も自分に非があることを感じていない、いつもの傍若無人さがあった。
「心配して損した! このバカ幽香!」
「はいはい、そうね。
それで、アリス。悪いんだけど手伝ってちょうだい」
「ええ、ええ、いいわよ! 手伝うわよ!
その代わり、お金取るわよ! こうなったら、絶対にお金を返せないくらいに借金まみれにして、二度と、『店をやめる』なんて言えないようにしてやるわ!」
「そうなったら踏み倒すわよ」
「うるさいっ! このバカ!」
叫ぶ彼女。
その表情には、確かに怒りの色があった。あんな風にたちの悪い嘘で騙されたのだ。それも無理もない。
しかし、それ以上に、アリスの表情に浮かんでいる色がある。
それは、嬉しさだった。
『結局、何だったのよ。もう』
『姉さま、ご存知ですか?』
『何よ、蓬莱。あなたは嘘つきだから、あの女の気持ちがわかるっての?』
『それもありますけれど。
四月バカのうち、嘘をついていいのは午前中だけ。幽香さんがマスターのところにやってきたのは午後だったのですよ』
え? と首をかしげる上海に蓬莱は何も応えなかった。
「それじゃ、店の模様替えと……あと、あの天狗に広告してもらわないとね。
ちょっと、天狗ー! ここに特ダネがあるわよー!」
「呼ばれて飛び出てあやややや! 毎度おなじみ射命丸ですよー!」
「だーっ! もーっ!」
ずいぶんとにぎやかになった店の中。
昨日までの空気はどこにもない。そして、今のようなにぎやかさが、この場所独特の『空気』であるのは、もはや言うまでもなかった。
~文々。新聞 春の超特大号外~
本紙読者の諸兄に嬉しいお知らせである。
前回の号外でお伝えした、喫茶店『かざみ』の閉店のニュースであるが、本日、店主である風見幽香女史より『四月バカ』であることが明かされた。
全くはた迷惑なことであるが、本紙記者は素直にその『嘘』を喜びたいと思う。
風見幽香女史によると、かねてより、店のリニューアルを考えており、どうすればより利用者の心に残るような『リニューアルオープン』が出来るかを検討していたとの事だ。
その際、エイプリルフールのことを思い出し、その話を打ち出したのだという。
本当に厄介ないたずら心ではあったが、喜ばしい事実であるのは言うまでもないだろう。
リニューアルオープンセールは本日午後より開始される。
当然、セールに伴い、既存商品の半額セールも行われる他、リニューアルによる新商品も多数追加されるとのことだ。
また、来店した方全てにかざみで使える3割引チケットをプレゼントするとの事である。なお、利用期間はチケット記載の日時より一ヶ月なので留意されたしとの事である。
悲しいニュースに肩を落としていた諸君。今回のニュースで飛び上がって喜んでいる諸君。
ぜひとも、かざみに足を運び、思いっきり買い物をしていただきたい。
店主からも「必ず来るように」とのメッセージを預かっている。きっと、以前よりも素晴らしいお店が、諸君を出迎えてくれるはずである。
太陽の畑に佇む一軒の家。
まだ季節柄、一面が緑の草原のままのその場所に、大勢の人妖が列を作っている。
列の最後尾には大きな人形が立ち、『ただいまの待ち時間2時間』の看板を掲げている。
「もう、嘘なら嘘って言いなさいな。わたしはてっきり、あなたが勝負から逃げ出したと思ったじゃない」
「お嬢様、こちらの店と潰しあいはしないはずでしたけれど」
「い、いいじゃない、別に!
それじゃ、咲夜。ショートケーキとチョコレートケーキと……ああ、もう、めんどくさいわ! こっからここまでぜ~んぶ買ってきなさい!」
「虫歯になりますよ」
「うぐっ……!」
そこにやってくる者たちは、皆、花のように甘く優しいお菓子を求めてやってくる。
彼らは、皆、店内でああでもないこうでもないと悩みながら、両手に一杯のお菓子を抱え、笑顔で店を去っていく。
「ねぇ、妖夢ぅ。ここぉ、暑いんだけどぉ」
「まぁ、『温室』って言うくらいですから」
「あ、妖夢ぅ。このお花はぁ、なんていう名前なのかしらぁ?」
「こっちに書いてありますよ。えーっと……パッ○ンフ○ワー?」
「いったぁぁぁぁぁ~い! かじられたわぁぁぁぁ~!」
店の周りに佇む施設も大好評。
時々、変なトラブルが起きる他は、やってくる客、全てに満足してもらえる時間を提供してくれる。
「あら、うどんげ。こっちのクッキーも一緒に買いましょう」
「あ、はーい」
「それから……あら、懐かしい。ハッカパイプじゃない。
昔はよく食べたわねぇ」
「……あの、師匠。ちょっと年齢を感じさせる発言は……」
「あらあら」
「ごめんなさい失言でした!」
にぎやかな騒動も一緒に起きるその場所で、退屈を潰していくものも少なくない。
美味しいお菓子と美味しいお茶、そして楽しい時間があるのだから。
「あれ、珍しい」
「よっ。どうだい。もうかってるかい」
「ええ、まあ、そこそこに。
小町さん、今日はどんな御用事で?」
「四季様が『ケーキ買ってきてください』だとさ。自分で行けばいいのにね。
結構な甘党だっていうことをみんなに知られたくないのさ」
「かわいいところがある閻魔様で何よりです」
「ははは、そうだね。というわけで……ま、せっかくだから、自分の分も買っていこうかな」
「ありがとうございます」
その人の流れは朝から途絶えることがなく。
時が過ぎれば過ぎるほどに伸びていく。
今度、この近くに宿泊施設も作ろうか。そんな話を、店の中でも聞こえるほどに。
「ねぇねぇ、お燐! これ、美味しいね!」
「ちょっとお空! それ、まだ会計済ませてないよ!」
「あれ? 食べちゃダメなの?」
「ダメ!」
「……やれやれ」
「はい、お姉ちゃん、あ~ん」
「だから会計済ませる前に、店のものを口にしないでください、あなた達はっ!」
「……さとり様、今度から、ここに買い物に来るの、あたい達だけにしましょうね」
「え~!? お燐、ずるい! 自分だけ美味しいもの食べようとしてるー!」
「そーだそーだー」
「……すいません。この子達が食べた分も合わせてお金は払いますから」
「……強く生きてね、さとり」
その風景は、いつになっても変わらない。
この春を過ぎて、季節が変わっても、ずっと変わらない。変わらないまま過ぎていく。
「アリスさん、幽香さんはいますか!?」
「うわ、何、早苗!」
「お店の継続、おめでとうございます! お金一杯持ってきましたので、ケーキ、一杯くださいっ!」
「え、ええ、ありがとう……」
「あれ、てんこじゃないか。お前、何しに来たんだ」
「誰がてんこよ、天子よ、て・ん・し! 別に、わたしが来たっていいじゃない!」
「いや、結構違和感あるのよ、てんこの場合」
「天子って言ってるでしょ!
わたしは……その……も、申し込みを……」
「申し込みって何だ?」
「……お菓子作り教室……。自分でも作れるようになれたらいいかなーって……」
「あんたキャラ変わった?」
「うるっさいっ! いいじゃない、別に!」
「まあまあ、怒るな怒るな、てんこ」
「むきーっ!」
そんな、いつも変わらない毎日を皆が歓迎し、その時間と空間を享受する。
もちろん、その時間を演出する方としては大変さもまたひとしおなのであるが。
「よい……しょ。
さて、帰りましょうか、ナズーリン」
「落とさないように頼む」
「ははは、大丈夫ですよ」
「けれど、そんな大きなケーキも買うのに、他のケーキも買っていくんですか?」
「ああ、いや、これは……」
「……聖が食べるんですよ……。一人で……」
「……え? そのワンホール全部……?」
そして、そのいつもの空間を、ひっそりと見つめる一人の少女がいる。
彼女はにぎやかなその空間を眺めて、いつでも楽しそうに笑っていた。
自分に向けられる笑顔に、同じように笑顔を返せる日を夢見て、毎日、笑顔の練習を続けている。
「ねぇ、アリス。このケーキ、新商品なんだけど」
「何かいい匂いのケーキね。見た目もきれいだし。
なんていうの?」
「これ? ヒナギクって名づけようかな、って。
見た目がそれっぽいでしょ?」
「いいわね。ワンホール1000円くらいでよろしく」
「高くない?」
「高くない! それ、材料費だけで相当かかってるでしょ! あなた、商売するつもりあるの!?」
小さな音を立ててドアが開く。
今日もやってくる、たくさんの客の元に、店主が振り返る。
「いらっしゃいませ。かざみへようこそ」
その顔に、まぶしいくらいの大輪の花を咲かせる彼女を、店のカウンターの上で、ようやく芽を出したばかりのヒナギクの花が見つめていた。
~Fin~
完結、お疲れさまでした。
毎回が楽しみだったので終わってしまうのが寂しいです。
なんか甘いものを食べたくなってきた。
ツンデレゆうかりんが悪戦苦闘するドタバタコメディで始まったこのシリーズは、
太陽の畑にふさわしい幽香の笑顔で幕を閉じる。
最後にあったかい気持ちになれました。連載お疲れ様でした。
連載お疲れ様です。心温まる物語をありがとうございました。
完結ということで複雑な思いでありますが、お疲れ様でした
幽香さんのかわいさに悶え、アリスさん達とのドタバタに笑い、
クリスマスなんかには温かさと、ときにちょっと切なく。
大変、美味でした。ありがとうございました。
……これを投稿したのが4月1日、閉店セールは1週間。
話中の幽香さんばりの壮大なエイプリルフールだったらイイな、というのが正直な気持ちですが……w
思わずゆうかりんに、感情移入しつつ読んでいました。
途中から知った作品でしたが、ゆうかりんとアリスの関係に温かい気持ちになり、
楽しかったです。 完結お疲れ様でした。
物語は読み進めれば終わりが来てしまう物だから仕方ない
ゆうかりんウチに来てくれないかなー
ゆうかりん、ファイト!の頃からずっとこのシリーズのファンで、終わってしまうのは正直寂しいです。
しかしいいお話でした、これからもゆうかりんはたくさんの人たちと花達の笑顔に囲まれていくんですねぇ。
お疲れ様でした、また別の話でもゆうかりんとアリスの話をこっそり期待していますw
とても心地よいシリーズでした。