月の都、綿月邸。
「……はあ」
「あら、またため息?」
ため息混じりに廊下を歩いていた依姫の姿を見とがめたのは、いつものように桃を抱えた豊姫だった。姉の姿に、依姫は「お姉様」と呆れ混じりに苦笑する。
「桃、食べる?」
「……そうですね、いただきます」
姉の誘いに、依姫は素直に応じる。気分転換したいところではあった。
「それで、今度はどの子のことでお悩みなの?」
「レイセンです。新しく入った」
「あらあら」
場所を豊姫の私室に移し、テーブルを挟んでソファーに腰を下ろして、依姫は息を吐いた。
先日の騒動の折、地上から八意永琳の手紙を運んできた脱走兎、レイセン。彼女を餅つきの兎から、綿月家直属の玉兎兵に配置転換させて、しばらく経つ。
「前のレイセンみたいに、サボり魔なのかしら?」
「いえ、前のレイセンに比べれば余程真面目です。玉兎相応に、ではありますが」
「じゃあ、兵士にするには鈍くさすぎるとか?」
「身体能力は、玉兎兵としては標準的なところです。筋もそれほど悪くはありません」
「ふうん?」
はぐ、と桃を囓って、豊姫は首を傾げる。
「それなら、何が問題なの?」
「……いや、それが、何というか」
自分も桃に口をつけて、依姫は数回口ごもり、結局ため息とともに言葉を吐き出す。
「怖がられてしまったようで」
「あらあら」
豊姫は愉快そうに笑った。思わず依姫は憮然と口を尖らせる。
「笑わないでください、お姉様」
「だって、依姫ったら前のレイセンのときから何も変わってないんだもの」
「……反省はしています。ですが」
どうにも、自分の欠点はそこなのだ、ということは依姫も自覚はしていた。
自分としては精一杯、玉兎たちのためを思って稽古をつけているのに、それがどうにも、享楽的な玉兎たちには過剰に厳しく受け取られるらしい。それは新しく入ってきたレイセンも例外ではなかった。
今日の訓練が終わった後、レイセンを呼び止めた。特に怒るつもりはなく、兵隊としての生活に慣れたかどうか、一言二言訊ねるだけのつもりだったのだ。だというのに、レイセンは怒られると思ったのが、ガチガチに緊張した泣き出しそうな顔でこっちにやってきた。そんな顔をされては、こっちも何気なく話を切り出せない。
『レイセン』
『は、はひっ、すっ、すみません!』
で、結局こっちが名前を呼んだだけで土下座に近い勢いで謝られた。どうしろというのだ。
『……何か怒られる覚えでもあるのですか』
そう訊ねれば、レイセンはあうあうと泣きそうな顔をして、こっちを心配そうに見守る同室の兎――キュウやサキムニたちの方を振り返った。
『じ……実は……依姫様が目を離してる間、みんなで桃を……』
――そんなことを白状されたら、立場上怒らないわけにはいかないではないか。
そんなわけで、レイセンたち四人に罰走を命じたら逃げるように走り出してしまい、肝心の話は全く出来なかった次第である。
自分は厳しすぎるのだろうか。しかし、根が不真面目な玉兎たちにきちんと訓練をつけさせるには、少しぐらい厳しく接しなければどうしようもない。だがそれで過剰に怯えさせて、また前のレイセンのような脱走兵を出してしまう懸念もある。
どうバランスを取ったものか、未だに依姫は答えを出せずにいた。
「依姫」
「はい」
呼ばれて顔を上げると、豊姫は苦笑してこちらに目を細めた。
「とりあえず、怒っていないときは笑顔で声をかけてあげるようにしたら?」
「……笑顔、ですか」
「依姫ったら、訓練のときはいつも仏頂面じゃない。それじゃみんな、怒ってると思うわよ」
――笑顔。そう簡単に言われても、と依姫は唸る。
目の前の姉の脳天気な笑み。どうすれば、そんな風に笑えるのだろう。
だいたい、姉のような笑顔など、自分に似合うべくもあるまいに。
「ほら、笑って笑って」
「そう言われても――」
「くすぐってあげましょうか?」
「結構です」
ちぇー、と口を尖らせる豊姫に、依姫はため息ひとつ。
「じゃあ、依姫」
「……今度はなんです?」
「貴方は、何が嬉しいかしら?」
「嬉しい?」
眉を寄せた依姫に、「だから」と豊姫は言葉を続ける。
「あの子達に、こうなってくれれば、こうしてもらえれば、嬉しいっていうのを想像してみて」
「……玉兎たちにですか?」
「そうそう」
玉兎たちに自分が望むこと?
それはもちろん、月の使者の護衛として、立派な兵隊になることだ。
そのために、皆が真面目に訓練に取り組んでくれれば、もちろん嬉しい。
「そうじゃなくて。一度兵隊とか訓練とかから離れて」
「はあ」
「単純に飼い主とペットとして。あるいは、家族として。あの子たちから、どんな風にしてもらえれば、依姫は嬉しい?」
――飼い主とペット、家族として?
玉兎たちの顔を思い浮かべる。レイセン、サキムニ、キュウ、シャッカ、あるいはその他の玉兎たち。彼女たちに――自分は。
しばらく、桃を囓りながら、依姫は考え込んだ。
けれど、どうにも答えらしい答えは見つからなかった。
◇
陽が沈む頃、依姫はひとり庭へ出た。
玉兎たちに訓練をつけている間、依姫は専らそれを見守り指示を飛ばすのが役目なので、自分自身の訓練はこうして、玉兎たちの目覚めぬ朝と、一日の終わる夜に行うことにしている。
月の使者として、月の都を守るため、己の鍛錬は欠かせない。
先日のロケットでやってきた地上の侵略者は、八百万の神々の力を借りて撃退したが、あれは向こうの流儀に合わせてやってのことだ。いざというときは、この腕ひとつでも月を守らなければならない。神の力に頼ってばかりでは己を見失う。
神経を研ぎ澄ませ、愛剣を無心に虚空へ振るう。
終わりのない鍛錬。道に極めるなどということはない。常に玉兎たちの範として、師として相応しくあらねばならないのだ。
――そうして、辺りが完全に暗くなる頃まで剣を振るい。
ようやく一息ついたところで、依姫はふと、明かりのついた窓を見やった。
そこは玉兎兵たちの宿舎だ。明かりのともった窓、カーテンの向こうに影が見える。
二階のあの部屋は、確か――。
依姫が目を細めた瞬間、影はさっと引っ込んでしまった。
こっちを見ていたのだろうか。依姫はひとつ首を傾げたが、それ以上は気にしないことにした。
◇
訓練後には玉兎兵たちで賑わう浴場も、この時間には誰も利用していない。
一日の汗をシャワーで洗い流し、湯船に浸かると、疲れが溶けていくような心地よさに包まれる。
湯気のたちこめる天井を見上げて、依姫は息を吐き、目を閉じた。
浴場の静けさの中、姉から問われた言葉が、また頭の中を巡る。
――飼い主として、自分は玉兎たちにどうしてもらえれば、嬉しいのか。
自分は月の使者で、玉兎たちはその護衛となる兵隊だ。
ならば、自分が彼女たちに求めるのは、立派な兵たることのみ。
それ以上でも、それ以下でも無い。――そうではないのか。
目を閉じて思考を巡らせていると、不意にカラカラと浴場の戸が開く音がした。
こんな時間に誰だろうか、と依姫が振り返ると、そこには思いがけない顔がある。
「レイセン?」
「あ、よ、依姫様……」
入ってきたのはレイセンだった。同室のはずのキュウやサキムニの姿は無い。
気まずそうにこちらに目礼して、レイセンは慌てた様子で身体を洗うと、依姫から距離をとって湯船に身体を沈めた。
沈黙。
「……サキムニやキュウは一緒ではないの?」
「あ、いえ、その……キュウたちは、先にお風呂済ませちゃったそうなので……」
依姫が訊ねると、こちらに目を合わせようとしないままレイセンはそう答える。
思わず依姫は眉を寄せた。……まさか、キュウたちからのけ者にされているのか?
「レイセン」
「はひっ」
「……正直に答えなさい。今の兵隊としての暮らしは、嫌ですか」
「いっ、いえっ、そんなことは――っ」
ざぶ、と湯船から立ち上がって、レイセンは慌てた様子で首を振る。
「あの、全然、みんな優しいですし、訓練はちょっと大変だけど、でも……餅つきの頃に比べたら、今は……楽しい、です」
最後はもごもごと呟くような声になり、レイセンはまた湯船に身体を沈めた。
――どこまでが彼女の本心なのか、依姫は目を細める。
「あ、あの、依姫様……」
「なに?」
「……依姫様はあんなに強いのに、どうして私たち玉兎兵が必要なんですか? あ、いえ、兵隊が嫌だっていうわけじゃないですけど、その」
レイセンの問いに、依姫は思わず目をしばたたかせる。
確かに、戦闘能力でいえば、玉兎兵がどれだけ束になったところで、依姫ひとりの敵ではない。
だが――。
「私ひとりだけではどうにもならない状況があります。大勢の敵と相対したときなど、貴方たちの力は必ず必要になる。だからこそ、貴方たちには立派な兵隊になってもらわないと」
「は……はひ」
怒られていると思ったのか、レイセンは身を縮こまらせる。
――ああ、また悪い癖だ。別に怒っているわけではないのに、こうして怯えさせて。
結局、前のレイセンが逃げ出してしまったのだって、今レイセンが問いかけたような疑問からだったのかもしれない。
月人と力の差がありすぎる玉兎兵という存在の意義。だが――。
「レイセン」
「は、はい」
「……本当は、兵隊なんて居ないに越したことはないのです」
「え……?」
「だけど、私たち月の民には、月の都という守らなければいけないものがある。それを守るための力が必要だからこそ、私たちがいるのです。……それを忘れないように」
「守る……ため」
レイセンは、依姫の言葉を反芻するように、小さく呟く。
依姫も、言葉にしてみて、今までほとんど考えたこともなかったその意味が、すとんと胸に落ちてきたような気がした。
――そう、本来、兵隊なんて居ないに越したことはない。戦いは無い方がいい。
けれど、月の都を脅かす脅威がある以上、誰かが戦わなければいけない。
それは、この月の都を守るために。
「レイセン。……貴方は守りたいものがありますか?」
「……私は」
レイセンは考え込む。
……それをきちんと、皆に問うておくべきだったのかもしれない、と依姫は思う。
ただ漫然と訓練を続けるのではなく。
何のために訓練をするのか。何のために戦うのか。
それをきちんと自分が教えていれば、あるいは前のレイセンも――。
「……あの、依姫様は」
「私?」
「依姫様の守りたいものって、なんですか? やっぱり、月の都そのものですか?」
依姫は目を見開き、そして考える。
自分は月の使者。月の都を守る者。
――だが、本当にそれだけか?
自分の守りたいものは、ただ漠然とした《月の都》という全体だけなのか?
いや、違う。そうではない。
もちろん、月の都を守ることは自分の使命だ。
だが――それ以上に、綿月依姫という個人として。
守りたいものがあるとすれば、それは――。
「あ、ここにいた! なんだ、水くさいなあ、誘ってよ-。ていうかさっき一緒にお風呂入ったじゃん、レイセンそんなにお風呂好きだっけ? ――ってわわわっ、依姫様!?」
と、騒々しい声とともに思考が中断される。
入ってきたのは、レイセンと同室の玉兎、キュウだった。キュウは依姫の姿に目を丸くし、レイセンは困ったように視線をそらす。
――別に、のけ者にされていたわけではないのか。じゃあ、レイセンが今ここにいるのは、
「あ、よ、依姫様、ご一緒してもよろしいので……?」
「キュウ、似合わない」
「ほんとね」
へこへこと頭を下げるキュウの後ろから、サキムニとシャッカも顔を出す。
その三匹の姿に、レイセンが顔をほころばせたのが、依姫の横目に見えた。
――どうやら、ちゃんと玉兎兵としての生活にはなじんでいるようだ。
思わず、依姫は口元をほころばせた。
「好きになさい。でも、あまり遅くまでお風呂ではしゃいでいてはいけませんよ」
依姫は立ち上がり、湯船から身体を出す。自分がいては、キュウたちは落ち着いていられないだろう。
キュウたちはこちらを見やり、それから歓声をあげて湯船に飛び込んだ。その楽しげな声を聞きながら、依姫は浴場を出て脱衣所に戻る。
――自分の守りたいものは、あの子たちがあんな風に笑っていられる、この時間だ。
「あら、依姫」
「お姉様?」
と、何故か脱衣所に豊姫の姿があった。身体を拭っていた依姫に歩み寄り、豊姫は笑う。
「――ちゃんと笑えてるじゃない」
そう言って豊姫は、目を細めて笑った。
依姫は思わず、脱衣所の鏡を振り返った。
そこにあった自分の顔を、依姫はなんだか気恥ずかしくて、直視できなかった。
最後の脱衣所のシーンで依姫と豊姫が逆になってる?
綿月姉妹もっと流行れー。
侵入者の提案してきた謎ルールの戦いをまあいいやと受けてやる程度の寛大さをもってる娘なのに。
地上人にとりあえず見下した暴言を吐く高慢エリート扱いといい、どうもあなたの作品は
儚月をちゃんと読んだのかといいたくなる傾向が強い。
玉兎は紅魔館の妖精メイド並みにお気楽そうだし。
根を詰めやすいよっちゃんも精神的に助かってるところありますよね
はぁみんなかわいい
背中流しますんで^^