※以前創想話へ掲載した際に一部地震を想起させるシーンがあり、読者の方にご迷惑をお掛けしました。
それでなくとも品のないギャグ作品なので時間を置きましたが、
せっかくなので少しでも誰かに笑いをもたらせればと思い再掲します。
早苗がえっちな本を取りに真夜中の天井裏にのぼると、そこで偶然神奈子に逢った。
神奈子は薄暗い闇の中に胡座を組んでいた。真下から漏れ出る上向きの淡い光に、顎だけを照らしている。
「神奈子様。どうされましたか、こんな真夜中に天井裏で」
「早苗こそどうした、こんな時間にこんな場所へ」
「私は隠しているえっちな本を取りに参りました」
「そうか」
蜘蛛の巣も多い天井裏の景色を、神奈子は夜目を利かせて眺める。
「えっちな本か。夜だからなあ」
「別に夜だからという訳ではありません。私は必要になった時は、いつでもこうして取りに参っております」
神奈子は沈思黙考して、
「……そうか」
一言だけ零す。
「はい。驚きました、天井裏で神奈子様にお逢いするとは奇遇です」
「しかも真夜中になあ。そういえば、エッチな本はここにあるなあ」
「存じております。私のものですから」
早苗は神奈子の横に寄り、律儀にも正座で肩を並べた。そして彼女の手許にある光の穴を見る。
天井の羽目板が一枚だけ外されていた。暗い足許にぽつりと穴が空き、薄明りはその向こう側から漏れていた。
「神奈子様、一体ここはどこでしょうか」
「天井裏だよ、早苗」
「ありがとうございます。天井裏ということは、下にお部屋がございますね」
「あるなあ。諏訪子の部屋だよ」
早苗は目を凝らした。
下を覗きこめばなるほど、眠っている諏訪子の愛くるしい顔が見える。
「私は夜釣りをしているのだ」
神奈子は言った。その手許からはよく見ると短い竿が伸びていて、先端から糸が真っ直ぐ穴の中に落ちていた。糸は真っ白で細く、諏訪子の身体の上あたりまで垂れていた。
「諏訪子の神気に吸い寄せられて、彼女が寝ている間は名もなき雑多な精霊達が集まってくるのだ。それを釣る。夜釣りは楽しいよ、早苗」
神奈子はくいと、そこで竿を引いた。
手繰り寄せていくと間もなく、蒼い光を放ちつつ、寸足らずの昇り龍が半透明の姿で揚がってくる。
「何と何と……これは実に面白そうです、神奈子様」
「だろう、早苗。餌を変えれば、いろんなものが釣れるぞ」
笑った神奈子は針から龍を外し、横に置かれていた白い塊を餌としてつけ替えた。
「神奈子様。それはもしや、鏡餅ではありませんか」
「この状態になっては、もはや鏡餅ではないなあ」
「では餅でしょうか」
「もち、ろん。なんちゃって!」
「……」
「すまん」
「いえ」
外れないようにしっかりと針を入れながら、神奈子は楽しげに目を細める。
「早苗が私と諏訪子に供えてくれた、正月の鏡餅の余りだよ。つまり私達の食事だ」
「それで釣るのですか」
「ああ」
「何をでしょうか」
神奈子はくすりと笑いながら、釣り糸を穴の中に垂らしていく。
「ほら、見てごらん」
間もなく、糸は強く引っぱられた。神奈子が糸を引いていくと、釣り上がってきたのは寝間着姿の洩矢諏訪子であった。
「ほうら、釣れた。こいつは小ぶりだなあ」
「大ぶりな諏訪子様もどこかにおられるのですか」
「たまに掛かるよ」
「そう、なのですか」
「クニマスだって居たんだからなあ」
眠ったままの諏訪子は、ぴちぴちと身をくねらせている。
「なるほど、鏡餅は神奈子様と諏訪子様にお供えしたものだから」
「そういうことだ。だから諏訪子が釣れるのだ」
得心が行って早苗は頷くが、ふと疑問を覚えて尋ねる。
「神奈子様。こうして釣ったものは、釣ったあと如何なさるのですか」
「んー……お刺身なんてどうだ、早苗」
「私は、三枚におろすのが苦手ですので……上手に出来ないかもしれません。あと、諏訪子様は食べられないような気もします」
「食べられないんじゃ、最初からダメだなあ」
諏訪子を手許まで引き揚げた神奈子は、執拗に引っかかる仕掛けを外して笑う。
「……キャッチアンドリリースだな、早苗」
そのまま手を離した。
洩矢諏訪子は瞬く間に視界から消え、穴の中に真っ逆さまに落ちていった。どすんと鈍い音がする。早苗が覗きこむと諏訪子は、再び布団の中に戻って何事もなかったかのように熟睡していた。
「ところで早苗」
「改まって何でしょうか、神奈子様」
「このえっちな本は、どんな内容なのかな」
「神奈子様も興味がおありなのですか」
「もちろん、あるねえ。早苗の育ての親として、早苗がどんな興味を持ったのか是非とも知ってみたい」
早苗は残念そうに、首を横に振るばかりだった。
「……生憎ですが、とても人に言えるような内容ではありません」
「ほう。聖なる神社では買えないような本かい」
「神奈子様がお知りになることは、神道と人道に悖り当神社に汚泥を塗る覚悟を要しますがそれでも宜しいですか」
「……」
よろしくないので、神奈子は首を横に振った。
釣り針につける餌を考えながら、諏訪子の静かな寝息に、そして釣り糸の輝きに、何となく心安らかな気持ちになっていく。
「……その、猿轡を噛まされた二人がですね」
「だから良い、ってのに」
正月に余らせた鏡餅の最後の一かけを、今一度釣り針につける。
先ほどと同じ餌で、先ほどと同様に釣ったので、間もなく先ほどと同様に諏訪子が穴から天井裏へと揚がってきた。
だらしなく食いついた諏訪子には手応えらしい手応えもなく、練熟の神奈子には面白味の欠片も感じられない。
それでも、早苗には新鮮なようだ。諏訪子から再び針を外すのさえ、真剣な瞳で見つめている。
「神奈子様。夜釣りとは、とても楽しそうな遊びなのですねえ」
「楽しいよ、早苗。餌を変えれば色々なものが釣れる」
得意になって神奈子が取り出したのは、三本の針が手の指のようについている、特殊な仕掛け。
「これは何でしょうか、神奈子様」
「ポカンだ、早苗」
「ポカ……何ですか、神奈子様」
「はっはっは! ポカンだけにぽかーんとしちゃって。ハハハ!」
「……」
「……そんな難しい顔をするな」
神奈子は仕掛けを早苗に示すと、抱きかかえた諏訪子の寝間着に、三本の針を順番に引っかけていった。
「こうして、な。生きたカエルをつけるんだ。餌を泳がせて大きな魚を釣る豪快な仕掛けだよ、早苗」
「ポカン、ですか。実在の仕掛けなのでしょうか」
「実在だよ?」
実在である。
諏訪子を抱きかかえた手を、神奈子は離す。再び諏訪子は視界から消えたが今度はどすん、と言わず、早苗が穴を覗きこむと部屋の中ほどで宙づりになっていた。寝ぼけた諏訪子がその状態から、せかせかと虚空を泳いでいる。
「彼女が動くことによって、生きているカエルを捕食する獲物を、まんまと釣り上げることができるというわけだ」
「怖い釣りですねえ。一体どんなお魚なのでしょうか、神奈子様」
ずぅん、と巨大な音がする。
「……こういうお魚だよ、早苗」
神奈子の表情が引き締まり、腕に力が籠もる。
ずしん、と重厚な音が二人の腹に響いてきた。巨大な物が襲来したらしく、がたがたと障子が叩かれ、ばたんばたんと畳を跳ね回り、正体不明のぬちょぬちょという不快な音が聞こえてくる。
早苗は羽目板から下を覗きこみ、目を丸くした。
「神奈子様! あれは何ですか」
「……ナマズだよ、早苗」
なお余談になるが、本物のポカンは当然もっと小さい。
それは古来から広く、鯰を釣るための仕掛けとして太公望に珍重されてきた代物だ。生きたまま泳ぐカエルが、食欲旺盛な沼の主にもそれを狙う釣り人にも、等しく好評なのである。
諏訪子の寝室を覆い尽くして瓢箪型の身をくねらせているのは、身の丈二十尺はあろうかというどす黒い、ぬめぬめと輝く大鯰の姿であった。沼の主というより、既にちょっとした沼くらいの大きさがある。
「神奈子様! これは大物なのでしょうか小物なのでしょうか」
「これを見てそれが分からないようじゃ馬鹿にされるよ、早苗」
大鯰は怒りで真っ赤にした目を光らせ、諏訪子の寝室で暴れ回っている。落ちつく気配は微塵も見せなかった。
鎮めの要石を破ってまで餌に食いついたところ、見事釣り針に引っかかった、郷では名の知れた妖怪大鯰。怒っているか落ちついているか、で言えば一目瞭然。
壁と障子がみるみるうちに、大穴とぬめりで埋め尽くされていく。
「神奈子様、神奈子様! しかしこのままでは神社が持ちません」
「げ。そ、そうか早苗?」
「このまま暴れられれば諏訪子様の部屋のみならず、神社そのものが半壊しても文句は言えないかと存じますが」
「バカ野郎! ここで大物を諦める奴ぁ太公望を名乗る資格が」
「がんばって引き上げたところで、二人仲良く鯰の栄養になるかと存じます」
むぅ、と神奈子が唸る。自分一人ならいざ知らず、今日は早苗も一緒なのだ。光あふれる将来を鯰の消化液に漂わせてしまっていいものか。
「あと私は女ですので、バカ野郎ではなくバカ女郎でございます」
潮時であった。
かといって、深々と餌を呑み込んだ相手を今更バラすこともできない。致し方なく神奈子は懐から鋏を取り出すと、糸を中ほどでぷちりと切る。
大鯰は最後に一踊りして神奈子の苦渋の決断を呑み込むと、身をくねらせ、畳から地中へと沈み込むように消えていった。
何事もなかったように、静寂が戻る。
「…………ふう。助かったな、早苗」
「助かりました、神奈子様」
打って変わって静かである。
「か、神奈子様。い……『糸を意図的に切るのはやめましょう!』……な、なんちゃって?」
「……可愛いね、早苗は」
釣りのマナーは極力守りたいものだ。
神奈子も反省しているので、ここは許してやってほしい。
「神奈子様。それにしても釣りとは、とても楽しそうですね」
「楽しいよ、早苗」
落ちぶれる神奈子と裏腹に、早苗の声は弾み始めていた。
元々好奇心は旺盛な方で、見ているだけでは大抵我慢できない性格だ。
神奈子は横目でちらり、と早苗を見た。お澄ましの正座はともかく、瞳に宿った好奇心は隠しようがない。
「神奈子様。この釣りというのは、餌を変えればどんなものでも釣れるのでしょうか?」
「ああ釣れるよ、早苗。餌がある限り、釣りはできる」
神奈子は身を起こし、つけ直した仕掛けに五円玉を括り付ける。
「それはお金、ですか」
「さぁ見ててごらん」
穴の中に釣り糸を垂らす。
間もなく、糸を引く強い力を早苗は認めた。
「五円玉で、今度は何が釣れるのでしょう。神奈子様」
「霊夢だよ、早苗」
神奈子が糸を引き揚げると、なるほど生きの良い紅白の巫女がぴちぴちと揚がってきた。
「なるほど、神奈子様。夜釣りとは駆け引き、知恵比べなのですねえ」
「その通りだ、早苗。獲物の心を読み、最適の釣り餌と仕掛けを用意する。ようやく面白味が分かってきたようじゃないか」
こくこく、と早苗は頷く。
ぴちぴち、と寝ぼけた霊夢が暴れている。
「これが――神々の遊びなのさ」
神奈子の顔には万代の歴史に裏打ちされた、言い知れぬ凄みが漂っていた。
「神奈子様。それではこの霊夢を餌にすると、何が釣れるのでしょうか」
「お? いいねえ早苗。ここはひとつ、やってみようじゃないか」
五円玉を銜えたままの霊夢の胴体にそのまま釣り糸を巻き付け、引き結び、手早く神奈子は天井裏の釣り堀からそれを落とした。
「私は魔理沙が釣れると予想します、神奈子様」
「じゃあ私はアリスに一票だ、早苗」
垂らされた糸をじっと見つめる二人。
間もなく糸は、強靱な力で思いっきり引かれた。あわや神奈子の手ごと持って行くか、という勢いであった。
「うおっとぉ! これはすごいな。こんな強い引きは見たことがない」
「やはり魔理沙ではないでしょうか」
羽目板の穴から、早苗は覗きこむ。
「……大変です神奈子様」
「どうした早苗。やはりアリスか」
「はい、アリスです」
「ハッハッハ。どうだい私の慧眼は! やはりだ」
「ですが魔理沙も居ます」
「……何?」
神奈子の手を引く糸の力は、留まるところを知らずどんどん強まっていく。
「レイマリ、レイアリ、れいさく、あやれいむ、ゆかれいむ、レミ霊、霊あきゅ、ゆゆれい、凄いです神奈子様! 花の万博、百鬼夜行です」
「なんて言い種だよ早苗、可哀想に」
神奈子はうめいた。恐るべきは霊夢の好かれっぷりである。
穴から僅かに見える諏訪子の寝室は既に黒山の群集で、人がゴミのようである。縋りついて餌をただ舐め回すゴミのような人も存在する。それらを全員引き揚げたら天井が抜けるであろう。
「仕方ないなあ……ほいっ」
釣り竿を撓らせて、餌を大きく上下に揺らし、有象無象の獲物たちを一切合切、神奈子は巧みにふるい落とす。
阿鼻叫喚を振り切って神奈子は霊夢だけを引き揚げると、口から五円玉をはずし、糸をほどいて、その獲物をあっさりキャッチアンドリリースした。
霊夢が落ちていった穴から、たちまち欣喜雀躍の歓呼が轟く。そしてあっという間に遠ざかっていった。
「……霊夢さんはみんなに好かれているのですねえ、神奈子様」
「そんな霊夢は五円が恋しい、か。人は卑しき生き物だな、早苗」
「人が卑しいのではありません。霊夢さんが卑しいのです」
「そして早苗はいやらしい、っと。プッハハハ!」
「…………」
「今のは本当にごめん。必要のない言葉で傷つけた」
涙を拭いながら早苗は、その瞳をふと丸くする。
「そういえば、神奈子様。今の騒動で思い出していたのですが」
「何だい、早苗」
「諏訪子様を取り返しておりません」
「あ。……あー」
いいや。
「いいのですか」
「いいよ」
霊夢が落ちていった穴を、早苗は寂しそうに見つめた。
「神奈子様――なんだか私も、釣りをやってみたくなりました」
「ああ、やってみると良いよ早苗。予備で竿はもう一本ある」
早苗はふるふると、首を横に振る。
「そうではなく。私も、餌になってみたいのです」
「ああ、そうかそうか、何だそっちの方か」
神奈子は頷く。
「今何だって?」
声が裏返った。
早苗の瞳には、強い意志が見える。
「……神奈子様」
「いや待て早苗。餌だぞ? 食われるんだぞ? 早まるな、ちょっと待て」
「私が餌になったら誰が釣れるか、神奈子様は興味ないのですか」
「言葉がちょっとエッチに聞こえるよ、早苗」
早苗は制止も聞かず、自らの服に針を付け始めている。どうやら言って聞くような風情ではなかった。
「……分かったよ、私の負けだ。早苗を餌にして、私が釣りをしてみよう」
「それともう一つございます、神奈子様」
「まだあるのかい? 何だい早苗」
「霊夢さんをもう一度餌にしてください」
「……」
早苗と長い付き合いになる神奈子である。
遅ればせながら、彼女の意志をここに至ってようやく理解した。
「……『あいつなんかに負けてたまるか』ってなもんかい、早苗?」
「つけられる白黒はできるだけはっきりつけたいのです、神奈子様」
神奈子は頷くともう一本の竿を取り、五円玉を括り付け直した。もちろん霊夢を再度釣り上げるためだ。
一度こうと決めた東風谷早苗は、一筋縄でも二筋縄でも縛れない。頑固一徹をとことん貫く性格だ。
「ほぅれ、霊夢ー。もっかいおいでー」
糸を垂らして神奈子は呼びかける。
宿敵の再来を待つ早苗だが、獲物は意に反してなかなか現われてくれない。
「……釣れませんね、神奈子様?」
「相手にも学習能力というものがある。こういうときもあるさ、早苗」
神奈子は針を一度引き揚げた。
「釣りは、駆け引きだと言っただろう」
神奈子は五円玉を外し、代わりに五十円玉をつけて針を落とした。
三秒ほどで霊夢が釣り上がってきた。
「ほらごらん、早苗」
「さすがです、神奈子様」
先ほどと同じように霊夢そのものを餌にして、準備は整う。
羽目板をもう一枚はずし、膝元に竿を二本並べて立て、神奈子は腕をまくった。
「神奈子様――平等を期すため、双方すべての服を脱いで勝負したく」
「それは逆に不公平というものだよ、早苗」
二つの餌を、順に穴の中へと落とした。
二つの餌が、同じ高さの宙に漂っている。方や五十円玉に幸せな顔、方や若干不服そうな顔をしている。
「どっちがより多く釣れるのかなあ。楽しみだなあ早苗」
「私は負けませんよ、神奈子様」
ほどなく、糸が揺れる。
揺れたのは、二本ぴったり同時であった。
「ほぅ、くっこれはなかなか暴れるな! 霊夢のもすごいが、早苗のも負けていない!」
神奈子の手許で、二本の竿がぎしぎしと音を立てた。
「大変です、神奈子様」
「どうした、大物か! 早苗!」
糸が揺れる。
早苗の声が何かを伝えようとした。
「霊……むぐ」
激しい引き合いで、短い竿はぎゅうぎゅうと撓る。
糸が互いに揺れ続ける。
神奈子は穴から下を見下ろして、目をしばたたかせ、そしてまたしても唸った。
腕を組む。
元の胡座の体勢に戻ると、なにかを思案して、ふうと溜息を零した。
「…………サナレイ、か」
糸はぎし、ぎし、と定期的に揺れている。
「なあ、早苗」
「んふっ、はい神奈子様」
「こういうのは、私達の言葉で『お祭り』っていうんだよ」
胡座の膝に肘を突く。
穴に問いかける。
「なあ、早苗」
「ぷはっ。はい、神奈子様」
「その『ぷはっ』てのは何だ?」
「……お察しください」
ぎし。
ぎし。
「逢いみての、後の心にくらぶれば」
ぎし。
ぎし。
「昔はものを、思はざりけり。か」
ちなみに『お祭り』というのは、二本の釣り竿の糸が互いに絡み合ってしまうことを言う、釣り人達の専門用語である。
神奈子は途轍もなく暇になった。一人天井裏に取り残され、音だけで情景を想像するしかない。
ぎし。
ぎし。
ぎし。
ああん。
「おい早苗、引き揚げるぞ」
「あっ待ってください、神奈子様、ああああ」
神奈子は問答無用で、片方の竿だけを引き揚げた。
引き揚がってきた、服が乱れた早苗をぽつりと横に置いて、もう一方の獲物は有無を言わさずキャッチアンドリリースに付す。
神奈子はそして、早苗をじーっと見つめた。
吐息を弾ませた早苗も、上目遣いに神奈子を見る。
「……神様の前だというのに。早苗はいけない子だな」
「すみません、神奈子様」
むー、と神奈子は面白くない顔をする。
「ああうらやましい、いやらしい。やめられない、止まらない」
「面目次第もございません」
服の裾を直し、少し舌の具合を気にしながら正座した早苗は、神奈子にじっと見つめているのにはたと気づいて眉をひそめる。
「……」
「……」
「……何ですか」
早苗が赤くなった。
神奈子は含み笑いを零す。
「いやまあ、ね。女同士で子は生まれまい、よ」
竿の針につけられるものも少なくなり、神奈子は身辺を物色し始めた。
移ろう視線が、ふと止まる。
「なあ。さっき気になったんだがさ、早苗。この本はどんな本か、結局聞いていなかったな?」
早苗は表紙を見ることもなく答える。
「えっちな本でございます、神奈子様」
「そうだな、それはさっき聞いたなあ」
えっちな本を何冊か、代わる代わる手に取って物色する。
ゴリラのようにそれを振り上げた。
「存外に、ひとり蚊帳の外はつまらぬものだよ早苗。何だか私も獰猛になっちゃうぞ」
「まあ、神奈子様ったら」
「そんなにえっちな本なら是非餌にして、色男の一人でもここに釣り上げようじゃないか。なあ」
唇を舌で湿らせた。
「早苗は知ってるかな、郷の外れで古道具屋をやっている、若い銀髪の男がいるだろう? あいつはなかなか器量が良いぞ。私の見立てでは正しく鯔背な伊達男、そしてちょっと色好きに見える。瞳で口説ける方かは知らんが、あれくらい若ければ、多少刺激の強い餌の方が精力的に食いつくのではないかな。どう思う早苗」
「精力次第かと存じます、神奈子様」
本の物色を続ける神奈子。
意気込むその様子を諫めるように、早苗はしかし、声を落とした。
「……ですが先ほど申しました通り神奈子様、それは人に見せられるほど口当たりの良い代物ではありません故」
「なぁに、男の色欲に底などないさ」
「……いえ。残念ですが、そちらは青年二人の道ならぬ恋、俗に言うボーイズ・ラヴの本でございます」
神奈子の目が、陰陽を行き来した。
「なんだって?」
「ボーイズ・ラヴ。男性同士の色恋沙汰でございます」
「なんだ、衆道――かあ」
「いえ。ボーイズ・ラヴでございます」
「男色の道……ともいうな、早苗」
「ボーイズ・ラヴでございます、神奈子様」
神奈子はすっかり落胆して、また天を仰ぐ。
「ああ、ああ。そんな本では男は釣れぬ、か……残念だよ早苗」
「ですが女性は多量に釣れるかと存じます、神奈子様」
むく、と首を起こす。
「……んあ? 衆道の本で、女性がそんなに釣れるというのか?」
「それを嫌いな女の子は居ません。そう思っております」
早苗の瞳は、まっすぐに澄んでいる。
「釣りは駆け引きなのでしょう? 神奈子様」
「……ああ、そのとおりだ。そうだな、一番食いつきの良い奴を私も確かめてみたくなってきたよ、早苗」
「はい。私も見てみたく存じます、神奈子様」
ぽん、と神奈子が膝を打つ。
「よし、そうと決まったら準備だ早苗」
「それから衆道ではなく、ボーイズ・ラヴでございます。神奈子様」
準備は迅速に進んだ。神奈子の求めで、もっとも餌として上等な一冊を早苗は抜擢してくれた。
「これか……期待が持てそうだなあ、早苗」
「はい、神奈子様」
時間を掛けて丁寧に、本を針につけてゆく神奈子。
早苗は厳粛な面持ちで横に正座している。
「そちらは濃く激しく、他人に見せるにはあまりに刺激的で、念に念を入れて品名を『書籍』ではなく『パソコン部品』で送ってもらった私の秘蔵品でございます」
神奈子は本を、穴の下に垂らした。
二人は固唾を呑んで、糸の動向を見守る。
「……ん? うぉおおっと! 早苗え!」
「きゃぁあっ! 神奈子様あ!」
一瞬の引きで、釣り人の尻は浮かび上がった。あわや竿ごと持って行かれるかという強烈な引きである。
「こんな凄い引き……いったいどれほど大勢のおなごが食いついたというのでしょうか、神奈子様」
神奈子は首を横に振る。
「いや……この感触は違うな。アタってるのは一人だよ、早苗」
引き切れそうなほど糸が張る。
「何と、お一人ですか! しかし、この引き具合は」
「うむ。並々ならぬ執着がこの肌に痛いほど伝わってくるぞ」
「揚がって参ります、神奈子様」
「揚がってくるぞ。タモを用意してくれ、早苗」
柄が長く口の大きい、虫取り網の親玉みたいなタモを、早苗が穴の中に突き入れた。
糸が最後に暴れて、タモが撓う。
その大きな獲物はようやく、二人の前に御自慢の銀髪と眼鏡を堂々、晒し出した。
「これは……早苗」
「なんと……神奈子様」
どすん、と天井に置いた途端、ぴちぴちと跳ね回る獲物。
「……これは、心なしか、霖之助殿によく似ていないか。早苗?」
「神奈子様、私はこの方を存じ上げております」
「何と。誰だい早苗?」
「郷の外れで門前雀羅の道具店を営んでおられる、暇で物好きな若い男性の方です」
「……名前は?」
「森近霖之助さんとおっしゃいます」
神奈子は腕を組んで、うーむと難しい顔をした。
「早苗、さきほどの衆道の本は」
「ボーイズ・ラヴでございます神奈子様」
「おなごを釣るに最適の餌であると、その方申したではないか」
「はい、申しました」
「どうして霖之助殿が、その本で釣れたのかな。早苗」
「……」
ぴちぴち。
活発に寝ぼけて天井板の上を跳ね回る霖之助を、早苗は眺めて首を傾げる。
「私には断言はできませんが……」
「構わないよ、言ってごらん早苗」
獲物に視線を注ぎながら、早苗は呟く。
「……霖之助殿が、ボーイズ・ラヴをお好きなのだと思います。神奈子様」
ぴち、ぴちぴち。
びくん。
「いや、男を釣るものではないと言ったのに……」
「男が釣れぬ、とは申しておりません。それとも、万に一つの可能性ではありますが――」
跳ね回る霖之助を、二人そろって眺める。
ふと考えたことは同じであった。
ほっそりとした腰元までの輪郭、男にしては端整すぎる小顔に注がれた視線が、二人同時に身体を這い、臍下のある一点に集約される。
早苗が静かに立ちあがる。
「お確かめいたします、神奈子様」
「いや……いいよ早苗」
早苗がそのズボンに手を掛けたところで、神奈子は顔を背けた。
「霖之助殿はつまり、そういう本が好きなのだろう」
「はい。確かにそういう男性もおいでではありますが」
神奈子は頷く。
「ならもういい。恐らく他に群がったであろう無数のおなご連中を押し退けて、一人餌に食いついてきたんだろう。立派なものじゃないか」
「あ、立派なモノということはつまり男性ですね」
「……早苗、本当にそっちの話が好きだな」
早苗は俯く。僅かに頬を朱に染めてから、すっと首をあげてまっすぐ前を向く。
「はい。神奈子様」
「そうかい」
「私ももう……大人ですから」
神奈子は竿を片づけ始めた。
むずかる霖之助を針から外して穴に放り、餌の使い残しや仕掛け、えっちな本で個人的にちょっと気になった一冊をこっそりまとめて、鞄に詰め込み立ちあがる。
「後で同じ場所に戻しておいて頂けたら結構ですよ、神奈子様」
「……承知したよ、早苗」
とっぷりと夜も更けてしまった。明日は寝不足であろうと思われる。
「早苗、帰るぞ」
声を掛ける。
だが早苗は、立ちあがらなかった。
「……神奈子、様」
丸くした瞳で、早苗は神奈子を見上げる。
神奈子はそこでようやく、リリースしたはずの霖之助が、なぜかまだ足許に留まっていることを知った。
理由はすぐに分かった、早苗の腕で、その身体を抱き留められているせいだった。
「ああ、ああ……神奈子様、大変でございます」
「私はもう眠いぞ。どうした早苗」
朱に染めた頬で、早苗は呟く。
「私、この方を好きになってしまいました」
丸く見開いた瞳で、早苗は訴えかける。
「……は?」
「どうしましょう、神奈子様。胸の高鳴りが、抑えられません」
「立派なモノ目当てか? 早苗」
「そんなふしだらな理由では断じてございません! 神奈子様」
きっ、と早苗は神を睨んだ。
強い口調になる。
「単にボーイズ・ラヴが好きな、イケメン優男だからでございます」
「……私の知っている日本語に絞ってくれ、早苗」
「ボーイズ・ラヴ好きなイケメンだからでございます。神奈子様」
ぴち、ぴち。
「ボーイズ・ラヴが好きな男を、嫌いな女の子は居ないと私は思っております」
ふ、と神奈子は笑った。
「……そうかい」
本格的に、眠気が押し寄せてきていた。
「その獲物」
「はい」
「持って行っていいよ、早苗。私は要らないから、好きに使いなさい」
「かたじけないです、神奈子様」
神奈子は魚籠をひとつ、早苗の腰に巻いてやった。
ぴちぴちと跳ね回る霖之助をそこに逆さまに突き入れると、ようやく早苗は立ちあがることができた。
足の裏の位置が早苗の背丈を超えている。
「ところで、早苗」
ぴち、ぴちぴち。
「なんでしょうか、神奈子様」
「残ったえっちな本の山は、ここに置いといたらいいのかい?」
「いえ。それは私が、今夜は布団に持って参ります」
「――そうかい」
釣り穴にしていた天井の羽目板を、元に戻す。
辺りに闇がよみがえった。
早苗、ぴちぴち、それから神奈子の順番で、押し入れの中に架けた梯子を降りていく。
「……霖之助とえっちな本を布団に持って帰って、早苗は欲張りだなあ」
「はい、神奈子様。大きな社の一人娘として、産めや増やせの自負もございますので」
「そんな大きな話は誰もしていないよ、早苗」
釣り竿の先っぽが、最後に天井の下に沈み込む。
そして梯子が外されて、天井裏は再び、静かな夜へと戻っていった。
二人の妙に冷静で理知的な、でも駘蕩とした会話も素敵です。
でも……、
「ボーイズ・ラヴが好きな男を嫌いな女の子は居ない」
で思い切り吹いてしまいました。早苗さん、霊夢だけでは飽き足らず……立派な心がけだ。
よいお話をありがとうございました。
個人的な意見ですが、
意図的に被災者や災害を貶めたり揶揄したりしていない限り、そうお気になさる必要はないと思いますよ。もっとも、それを気に病んで自ら作品を降ろした作者様の姿勢はとても好ましく思いますけど。
いや、早苗さんは多趣味なお方だ。守矢神社の将来がタノシミデスネ。
地震云々については上の人の言っているけど、この内容であれば気にすることもないかと。
お祭りが!お祭りが!わっしょいわっしょい
命蓮寺の面々は釣れそうにないですねえ。女とは言えど、「ボウズ」なだけに。
日本昔話とかみたいなアニメになりそうだ
それにしても早苗さんはイケナイ子ですね。
冒頭の一文でもう完全に惹きつけられた
このカオスな空気に見事釣り上げられてしまった。
俺も…やってみようかな、夜釣り……