春を手放したくないと空が涙を流す頃。
「よく来てくれた、歓迎するよ」
レミリアは一人の客人を招いた。
客人は小さな身体を酔っ払いのように揺らして、赤い絨毯の上を無遠慮に進む。不思議そうにキョロキョロと、紅が基調の部屋を見渡しながら。
「霊夢経由で私を呼び出してくれるなんて、ちゃんと準備くらいはしてあるんだよね?」
廊下を歩いてきたわけではなく、部屋の入り口にいきなり現れた異質の能力者。レミリアはベッドから腰を上げて、隅に配置した三つの樽を指差す。すると客人は嬉しそうに飛び跳ねた。
「わかってるじゃない! やっぱり持つべきものは鬼仲間だ!」
上下する度にじゃらじゃらと鎖が鳴り、様々な形のアクセサリーが激しく動き回る。角に付けたリボンもふわりっと、揺れて。愛らしい外見を際立たせた。
「でも、あなたの回答を聞かない限り、アレは渡せない」
「それもそうだ、そういう約束だったからね」
腰に手を当て、明るい笑い声を上げる客人の様子はレミリアとはまったくの真逆。相手の真意を探るため、瞳はずっと相手の細かな仕草まで捉え続ける。
「そんな、警戒しなくてもいいってば~、この前の質問の意味ならアレだ。
可能、だよ」
軽々とそう言った客人の肩を、レミリアは掴んだ。
行動を起こすつもりなどなかったはずなのに、体が自然と反応してしまっていた。
「……本当でしょうね」
「ああ、私は嘘が嫌いだからね」
吸血鬼が無意識で、力の加減なしで掴んでいるというのに、客人は表情に苦痛すら浮かべず、瓢箪の酒を飲む。ぐっと、天井に傾けて、のどが鳴る勢いで一気に流し込んだ。
そして期待の色を映し始めた瞳をまっすぐ見つめ返して。
レミリアの胸倉を掴む。
「だからさ、気に食わない。
嘘で塗り固めたあんたのやり方に、反吐が出るんだよ」
「そう、でも協力してもらうわ。そういう約束を霊夢と結んだのだから」
「ああ、だから気に食わないって言ってるんだ!」
だから客人は叫ぶ。
小さな館の主をベッドに放り投げて、すかさずその体に馬乗りになる。
けれど、レミリアは抵抗しない。
振り上げられた拳を見つめながら、
「お願い……」
そう、つぶやくことしかしない。
それでも拳は顔面へと振り下ろされ。
「ああ、本当にむかつく」
その額に触れるか、触れないかのところで停止した。
「なによりっ!
あんたが求める結果が悪くないと思えちまう自分自身に、一番腹が立つ!」
一発ぐらいは殴られる覚悟でいたレミリアは、その行動に目を丸くして、疑問の声を投げかけようとするが。
やっと、気付く。
客人が怒った素振りを見せたときも、敵意や負の感情がまるで伝わってこなかったことに。
「ああ、でも。調べ物と頼まれ事は別契約だから、その分も準備しといてね~」
その証拠に、さっきまで殴ろうとしていた者とは思えない顔で、ニコニコと酒樽の方へと歩いていく。ぽんぽんっと手で叩いて中身を確かめて、頬擦りを始める姿など、おもちゃを与えられた子供のよう。
「ええ、すべては風鈴の鳴る頃に……」
スカートの裾を掴み、淑やかに、最大限の敬意を持って一礼すると。
客人は恥ずかしそうに一度だけ振り返り……
霧となって消えた。
◇ ◇ ◇
普段は使われないはずのベッドに、その身体が沈み込んでいた。
言葉を口にせず、悪夢を見ているかのような呻き声を上げ、大粒の汗を額に浮かせる。
「美鈴……」
呼び掛けても、いつものような明るい声は返ってこない。
薄く瞳を開けて何かを言おうとするのはわかるのだが、唇が震えるだけで言葉にはならいのだ。
それでも咲夜は、大丈夫よ、とつぶやいてぬるま湯にタオルを浸し、しぼったもので顔の汗を拭い取ってやる。そのときに見せる、美鈴の笑顔が唯一の救いであり、
心を抉る、ナイフでもあった。
「私がもう少し、もう少しだけ早く……」
悔やんでも、悔やみきれない。
助けてと叫んでも、救いがない。
それくらいはわかっている。
レミリアでさえ、その手を引いたのだ。これは美鈴が命を掛けて望んだことだと言った。命の意味を教えるために、自分の命を使いたいと。きっと、それを学べば、
「咲夜……美鈴は?」
扉が重く鳴って、片羽だけがその隙間から覗く。
けれどそこから動こうとしない。
「妹様、どうぞこちらに」
「嫌」
羽が左右に揺れ、拒絶の意思を示す。
美鈴が倒れ、その意味を知ってから、フランドールは一度もこの部屋に、美鈴の部屋に入ろうとしない。自分にはその資格がないと、そう訴えるように。
それでも羽は小刻みに震え、その本心を映し出していた。
すぐに部屋に入って美鈴の肌に触れたいであろうその感情を殺し、狂気の代名詞とも言われたフランドールが耐えている。
我慢、しているのだ。
美鈴が残したものの、大きさに咲夜は驚きながらも、それでいて胸が押しつぶされそうになる。
「ここでいいから、美鈴の状況を教えなさい」
「はい、妹様。昨日と変わらず、意識があまりはっきりとしていません。汗も凄くて、息も荒い状況です」
「そう、わかった」
こんなにも、フランドールが短期間で成長したのは誰のためか。
こんなにも、他人を想うようになったのは何故か。
それくらいは咲夜にもわかる。
楽しかった、ただそれだけなのだ。
「もう、いいじゃないの……美鈴」
美鈴の授業が楽しくて、実の姉と過ごす時間が楽しくて、花の成長を見守るのが楽しくて、みんなで一緒に居る時間の大切さを理解した。
それで十分なはずではないのだろうか。
それ以上が、本当に必要なのか。
「きっと、妹様も理解してくれたわ。大切なことはきっと残っている。だからもういいでしょう……? ねぇ、美鈴……」
あんなにも、悲しそうにする妹様に、これ以上の苦痛を与える必要があるのか。
本当なら誰よりも、美鈴にすがりついて泣きたいはずなのに。
まだ、我慢させなければいけないというのか。
最悪の結末をその目に刻ませるために。
ベッドに横たわる美鈴の頬を撫でても、答えはない。
答えるだけの余力は、残されていない。
生きているだけ不思議だと、永遠亭の名医からも言われているくらいなのだから。これ以上改善する手立てなど、あるはずが……
「ねえ、咲夜」
そこでまた、フランドールが声をかける。
そして、廊下まで来て欲しいと小さな声で咲夜を呼んだ。
「教えて欲しいことが、あるの……」
入り口を大きく開いたとき、きっと涙を耐える顔が飛び込んでくるのだろう。そう予測して、暗い気持ちでその場に立った咲夜は、
「妹、様?」
素直に、驚愕した。
フランドールの表情には悲壮感など消え去っていて、あるのは強い決意だけ。
「あいつが、教えてくれなかったことを教えて……」
それが示すのは、たった一つ。
「吸血鬼が、吸血鬼たりえる。その定義をっ!」
例え美鈴を裏切ることになっても、その意思を貫く。
誰を敵に回しても、それだけはやってみせる。
その姿に、咲夜は迷わず膝をついた。
まるで吸血鬼事変のときの、敗戦を覚悟したレミリアにも似た気配を発する。
フランドール・スカーレットの目の前で。
◇ ◇ ◇
美鈴を救う方法は、あった。
本人の意思を無に返すという前提でなら、十分にその手段はある。
蓬莱の薬、歴史の改変。
この世界には、それを可能な人材が揃っている。けれど、それよりももっと確実な方法がこの屋敷の中に存在する。方法は、たった二つ。
レミリアが美鈴を同族、もしくは使途とするか。
フランドールが美鈴を同族、もしくは使途とする。
しかしレミリアは早い段階でそれを放棄した。
『小食だから僕にも同族にもできないのよ』と。
その言葉が真実かどうか確かめる術はない。咲夜は吸血鬼の常識など持ち合わせていなかったからだ。けれど、もし、もしもだ。
フランドールが、その方法を使いこなせるのであれば、何の問題もなくなる。
故に、時間を止め、咲夜は一冊の本を図書館から持ってきた。
フランドールが学ぶ機会のなかった、吸血鬼の在り方にまつわる文書を。
「血を吸うと同時に、自分の血も相手に注ぐ……それが契約になるのね」
「できそうですか? 妹様」
「……わからない。だって、いままでそんなこと考えて事もないのだから」
練習用に、果物を持ってきてみた。
フランドールの自室に、スイカ、メロン等水分の多いものを集めて、その液体を吸うと同時に血を送り込む練習をする。最初はどうしても吸うだけで精一杯で、果物の中に血を残すことができなかったが。
練習を重ねること、半日。
「やった、やったわ! 咲夜!」
「さすがですわ、妹様」
とうとう、吸いながら血を与える技術を自分の力で手に入れた。
吸血鬼として、やっと一人前になったと言えるのかもしれない。後はこれを、美鈴に対して行うだけなのだが。
「成功率は、吸血鬼の力が最も強い満月の夜……咲夜やっぱり」
今すぐ、というわけにはいかない。
フランドールは初めてその力を使うのだ。
少しでも負担を減らすために、最高の場面をお膳立てする必要があった。しかも幸運なことに。
「満月は明後日ですわ、妹様。きっと間に合います。間に合わせてみせます」
最高の場面はすぐそこまで迫っている。
主の言葉を使うのであれば、まるで二人を覆う世界が運命に操られているように。例えそれを美鈴が望んでいなかったとしても、
「やるわよ、咲夜」
「もちろんですわ」
二人はランプの明かりが照らす部屋の中で、瞳に炎を宿らせた。
◇ ◇ ◇
「パチュリー様……」
「どうしたの? そんな不安そうな声を出して」
「第25番の本棚の、上から二段目、左から15冊目の本の所在がわからなくなりました」
ぴたり、と。
ページを捲る指が止まり、パチュリーは声の方へと顔を上げる。
たまにいたずらをする小悪魔だが、この時期に、このタイミングでやるとは思えない。加えて、いつもの泥棒もやってきていない。
さらに、その本について考えるのであれば。
「本のタイトルと内容は――」
「いいわ、小悪魔。そこまで言わなくて結構よ」
犯人も、犯人の目的も理解できる。
その選択をするのに、どれほど心を痛めたか。
どれほどの強い意志を固めたかを想像できてしまう。生にすがりつき、感情を削り、魔女として生き長らえてきた彼女だからこそ。
故にパチュリーは本を置き、瞳を細く、冷たい色に変えた。
「レミィ、いるわね?」
「ああ、聞いているよ」
突然降ってきた声に小悪魔が驚き、天井を見上げれば、大型のシャンデリアの上に立つ小さな影がひとつ。
しかしすぐさまその身を霧状に変化させ、体を再構築した場所はパチュリーの隣。本の置かれていない。端正な作りの椅子の上だった。
「盗み聞きとはいい趣味ね」
「そんなつもりはないよ。今来たところだし、面白いことを話していたから少し聞き耳を立てただけで」
「それを人間は盗み聞きというのよ。ノックぐらいしなさいな」
小悪魔に紅茶を持ってくるように指示を出し、パチュリーは再び書物に目を落とす。親友が来たというのに、そのスタイルはいつも変わらない。
書物と、実験機材にまみれた机の上で。難しそうな顔する、何があっても変わらない態度を取り続ける。
「パチェを見ていたら、いろいろ馬鹿らしくなってくるわね」
「それは結構なことね。私はいい気がしないけれど?」
「褒めているんだけどね」
「だって仕方ないでしょう? 慌てた所で何も好転しない。だって舞台の幕が開いて、役者はもう舞台を降りようとしている。今の状況で私たちができ――」
ぱたんっと本を閉じて、やっとレミリアの方に顔を向けたパチュリーは、珍しく目を丸くする。直後に大きくため息をついて、小悪魔に声を飛ばした。
「紅茶はキャンセル。仮眠室の準備」
「ん? 寝るの?」
「ええ、そうよ。あなたがね」
「は? ちょ、ちょっと待ちなさい」
足を運んだ直後に寝ろ、と言われてレミリアは呆けた声を上げてしまう。けれど、パチュリーはいつもの半眼をさらに細めて、自分の瞳の下あたりを指でなぞった。
「目のクマ、すごいことになってるわよ?」
「……ふん、何を言っているのかしらパチェ? この夜の王である私が、睡眠を必要とする脆弱な妖怪に見えると――」
「こぁ、連行」
「はい、パチュリー様!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいあなたたち!」
いきなり後ろから小悪魔に脇を捕まえられ、その状態で吊り上げられる。足の付かない高さまで持ち上げられたレミリアはばさばさと羽を動かして抵抗して見せるが。
それでも腕を振り払うことはできない。
霧状になればすぐ逃げられるはずだったのだが、
「ほら、ね? 小悪魔の力でも簡単に取り押さえられる今のあなたじゃ、何の役にも立たないわよ。どうせ、満月まで動きはないだろうから、体を休めておきなさいな」
「う~……」
釘を刺されてはどうすることもできず。
素直に図書館の仮眠室へ連行されていく。
時折、もうちょっとやさしく運びなさいと悪態をつきながら。
「あれでいて、それなりに気にしているんだから。まったく世話の焼ける……」
「そんなものでしょうか?」
「あの我侭なレミィがあそこまで何かに執着するのは稀なこと。それだけ大きいということなんでしょうね」
戻ってきた小悪魔と談笑し、紅茶を一口啜る。
そしてカップの横にある細長い砂糖の包みに手を伸ばした。
すると、その手を見た小悪魔が、何故か苦笑を始めて、
「何よ?」
「いえ、あの……特に何も」
「こぁ、私はあなたのその時折はっきりしない受け答えがあまり好きではないの。何か思うところがあるならはっきり言えばどう?」
主に促されたのなら仕方ない。
小悪魔は、言い難そうに眉を潜めて。
「パチュリー様、砂糖、三袋目です……」
「……甘党になったのよ」
その指摘に本で顔を隠す。
あまりにわかりやすい照れ隠しに小悪魔はくすくすと微笑むが、本から覗く鋭い瞳を見つけてくるりっと背を向ける。
けれど、肩を震えさせて笑いをこらえていたのはほんの少しの時間だった。
パチュリーがなぜそのような簡単なミスをしたか。
それを一番よく理解していたからだ。
「あの、やはり……パチュリー様もお休みになったほうが……美鈴さんが倒れてからずっと眠っていな」
「こぁ」
けれど、その言葉はパチュリーが許さない。
「私の前以外で、その事実を語ることは許さない」
「しかし、私が言ってもパチュリー様はっ!」
「必要ないわ」
小悪魔の想いをわかっていながらも、パチュリーはそれを跳ね除け、新しい本を持ってくるように指示を出す。
心配そうに見下ろされても、それを平然と受け止めた上で。
「私は、私の役割を果たさなければいけない。それでもあなたが不安ならば、納得できないと言うのなら」
珍しく微笑みを返した。
普段の彼女からは創造できない、柔和な暖かい微笑を。
「自分で自分を制御できない私の代わりに、守って頂戴」
「……はい、いの」
「ただし、命に代えても、はナシよ?」
「う゛……」
困った顔で、固まる小悪魔を見つめてから。
パチュリーは再び、本に目を落とす。
紅魔館に、もう一度だけ風を吹かせるために。
◇ ◇ ◇
それから二日間は、静寂そのものだった。
レミリアは特に変わった様子もなく、咲夜に家事を任せ続け何の釘も指そうとはしない。図書館に足を踏み入れても、パチュリーや小悪魔が口にするのは、なんでもない世間話だけ。
例の本についてなど、問われることがなかった。
故に、咲夜は確信する。
「妹様、満月が昇ったら即仕掛けます」
「わかった。日が沈む頃ね」
すでに、咲夜たちの行動が把握されていることに。
だから日中のうちに美鈴の様子だけをしっかり確認し、作戦開始までの配置を細かく話し合った。
最悪の能力である運命を掻い潜って、フランドールと美鈴を接触させなければいけない。その大きな鍵は、咲夜の時間停止能力に掛かっているといっても過言ではない。
「私が妹様を美鈴の部屋まで運びます。その後は、すぐに……」
「ええ、私が血を吸えばいいのね」
小細工など必要ない。
ただ、もっとも単純でもっとも効果的な作戦を取るしか二人には残されていない。それに、昼間の美鈴の様子を見る限りでは、今夜を逃せばもうチャンスがない。
美鈴の生命の灯火が、失われる可能性が高いからだ。
「時間は私が」
「……うん、お願い」
果たして、時間はどれくらい許されるのか。
数分?
数十秒?
それとも、数秒?
あの二人が同時に出てきた場合、本当に足止めになるのか。
そう問われれば、咲夜は首を横に振るだろう。それでも、手繰り寄せなければいけない。細い糸に括り付けられた可能性を。
「準備はよろしいですね、妹様」
咲夜は時間を止めて屋敷から出ると、屋根に飛び乗り茜色の空を見つめる。
半分ほど地平線に飲み込まれた太陽を確認してから、時間を元に戻した。すると茜色が闇に染まり始め、そのせい反対側からは満月が頭が浮かんで来た。
「……後、10秒」
咲夜は待つ。
満月がその姿を見せるのを。すべての姿を夜空に晒す瞬間を。
「3、2、1……」
吸血鬼の力が最も強まる、満月の夜を。
美鈴を救える可能性にだけを信じて、強く懐中時計を握り締める。
「いきますっ! 妹様!」
満月が淡く世界を照らし出す頃。
月光の下で、一人のメイドの姿がその場から掻き消えた。
◇ ◇ ◇
自分しか入り込めない空間の中で、妖精メイドたちの姿が後ろへと飛んでいく。停止した時間に取り残された風景に目もくれず、咲夜はフランドールを抱えて、床を、壁を、天井を蹴る。
部屋に到着するまでは急いでも意味がないと、頭では理解しているのに。
落ち着きを取り戻すことができず、ただ、速度を上げる。
後一つ、角を曲がれば美鈴の部屋。
咲夜は開いた手でナイフの在りかを確認してから、見慣れたドアに手をかざし。
「妹様、今です!」
「任せて!」
時間停止を解除すると同時に、フランドールがドアを突き破る。
ごろごろ、と床を転がった小さな体は、間髪おかずに部屋の床を蹴り、ベッドへと飛んだ。そこまでは、すべて作戦通り。
遅れて部屋の中に入った咲夜は部屋を中を一瞬で見渡した。
壁際天井、窓、どこにも人影はない。
あるとすればベッドの上の膨らみと、それに覆いかぶさるフランドールの姿。
何か、違和感のようなものが全身を包み込むが、咲夜は喜びに胸を振るわせる。
「妹様、お早く!」
邪魔をすると予測されたレミリアと、パチュリーの姿はない。
この状況からならば、時間を稼げる。
まだ二人がいない状況ならば。
咲夜は強い意志を持ってその両手にナイフを握り、周囲を警戒し始め。
どん、と。
直後に、背後から重い音がした。
何かが壁にぶつかるような、そんな音。
そして……
「あら? どうしたのフラン、あなたから抱きついてきたというのに、そんなに簡単に離れてしまうなんて。もう少し頑張ってもらいたいものね」
どくん、と心臓が大きく鳴り。
今一番聞きたくない声が、咲夜の耳に吸い込まれる。
声しか、音しか聞こえていない。
それでも何が起こったかはわかる。
「あまり、従者のベッドを占拠するのは感心できませんよ。お嬢様」
「あら? 美鈴には私のベッドを与えているのよ? 心地好さでいえばあちらの方が上だと思うのだけれど」
それでも納得は、できない。
確かにここには、美鈴がいた。
夕方の巡回のときも苦しそうに寝息を立てていた。
それからは動いていないはず。細かな出入りがないか時間を止めて確認すらしていたのだから。
「……咲夜、目で見えるものだけを信じているようでは。私とレミィの裏をかくことも隙を突くこともできないと知りなさい」
「幻術、ですか? パチュリー様」
「ええ、魔法使いでは一般的なものよ」
入り口からまた新しい声が聞こえて、咲夜はナイフを構えたまま距離を取る。
一歩、二歩、と。
入り口からおよそ、4メートル程度離れたところで体を止める。ベッドの上のレミリアと、入り口にゆっくりと姿を見せたパチュリーの両方に飛びかかれる位置取りだ。
レミリアに投げ飛ばされたフランドールはというと、入り口から離れた壁に背中を預け、瞳を真っ赤にしてレミリアだけを睨み付けていた。
「それでも、知識のないあなたを騙すには十分すぎたかしら?」
「はい、お恥ずかしながら」
咲夜はナイフを構えて、パチュリーだけを見るようにする。
狭い範囲とはいえ分断された以上、個々で対応するしかない。二人の息を合わせて戦うという選択肢もあったが、レミリアとパチュリーが本気で連携するようなことになれば、どうしても勝てるイメージがわかない。
ならば、やはり最善の策は――
「パチュリー様、お覚悟を」
「……いい案ね。この狭い部屋の中であなたとの距離をこうも詰められては」
「お分かりでしたら、引いてはくださいませんか?」
「それが、美鈴のためになるということ?」
「はい」
間違いない、美鈴のためになると思って始めた行動だ。
誰に指摘されようがそれは変わらない。
「ありのままに生きることを願った美鈴の、その願いを無駄にして、別な存在に変える。それがあなたたちの言う正しいことなのね?」
「はい」
おそらく、咲夜は非難されるだろう。
どうしてこんなことをしたのかと、美鈴に恨まれるかもしれない。
それでも、咲夜は純粋に願うのだ。
「あの子が、この場所で生きていられるのなら。私はその道だけを選びたいのです、パチュリー様」
「そう……」
会話はここまで、そう伝えるために咲夜はナイフを構えて懐中時計を右腕から下げる。
わかりきった、最善の戦術。
停止した時間の中で間合いを詰め、当身で終わらせる。
それを示し、即座に行動した。
意識を空間に張り巡らせ、世界を自分のためだけに廻す。
時間を、空間を、そのすべてを。
灰色の風景で塗りつぶし、彼女の世界が――
「……戦術がわかりきっているのに、私が対処しない、と?」
「っ!?」
世界が、生まれない。切り替わらない。
「この部屋に、魔術的な結界を張らせてもらったわ。あなたの時空への干渉を阻害するタイプのものをね。そうなるとあなたが使える手は圧倒的に少なくなるもの。ナイフを無限に近い本数出し入れできるのも、能力を使えてこそ。さあ、有限の武器で、魔女とやりあう?」
「……その割には、さきほどから魔法を一度も唱えていないように見えますが?」
「ええ、そうね。だってこの結界とあなたのナイフ投げを防御する障壁を維持するだけで難しいのだもの。それ以外の攻撃も防御も、できるはずがないじゃない」
「それが事実だとすれば、近づいて攻撃を当てさえすればいいように思えます」
「ご名答、でも、あなたにできるかしら?」
パチュリーが声を上げているうちに、咲夜は床を蹴る。
小細工など無用の、全身のばねを使った突撃。
その速度は人間とは思えないほどで、余裕を見せていたパチュリーに動揺を走らせるには十分であった。
だが――
「っ!」
引いたのは、咲夜の方だった。
空を飛ぶ要領で慣性を殺し、後ろに飛ぶ。
その直後に、硬い音を三つ響かせて、クナイが床に突き刺さった。
「やめてください、咲夜さん! こんなことが、美鈴さんのためになると! 本気で思っているんですか!」
そして、悲痛な叫び声を上げながら、黒い影がパチュリーと咲夜の間に降り立つ。
腕を大きく振り、再び牽制のクナイを投げつけた小悪魔は、一気に間合いを詰めると。
「ぐっ!」
その突進力を殺さずに、鋭い爪を咲夜に向ける。
咲夜はそれをナイフで受け止め、切り払おうとするが。
「わかりますか、咲夜さん。昔ならこうやって、互角に組むこともできなかった。そんな私が、どうして今あなたの前に立てるか」
「黙りなさい……」
ナイフが動かない。
爪で挟み込まれて、それを外すことができない。普段の小悪魔なら、切り返して、隙だらけの腹部にでも攻撃を加えられるはずなのに、今はその隙自体が見つからないのだ。
「これは美鈴さんが教えてくれた、気の力です! 私にも、みんなを守れる力をくれたんです! フランドール様だけじゃない。美鈴さんはっ、自分がいなくなったときのために、何かを、あの人がここに居たという証拠を残そうとした! 咲夜さんも、何かをもらったんじゃないんですか! 美鈴さんが、あなたにだけ教えたいことがあったんじゃないですか!」
「ええ、そうよ、教えてもらったわよ……美鈴の中華料理を、ね」
ギンッと、咲夜は掴まれているナイフをわざと後ろに捨てて、小悪魔の体制を前傾に崩す。そしてその下がった後頭部に向けて、肘を振り下ろすが。
ばさりっと、背中の羽が大きく動き、腕ごと一撃を受け止める。
「それなら、なんでわからないんですか! 美鈴さんはっ! みんなのことを思って!」
「……意味がない、それじゃあ意味がないからよ」
「っ! 何でですか、何でっ!」
ナイフを失い、残るは身体一つ。
咲夜は爪を使われないよう、小悪魔の手を握り、上半身を押し返す。
もういつもの優雅さなど、どこにも残っていない。
床に足を着け、全体重を前に。
不恰好でしかない、両手の純粋な力比べの中で、咲夜は歯を食いしばる。普段はメイドの仮面に隠した感情を、まっすぐに曝け出した。
「料理はねっ! 誰かに、食べてもらえるから嬉しいのよ! それを一番食べて欲しい人がいなくなるなんて! 認められるはずが、ないでしょうがぁっ!」
「っ! 咲夜さんのっ! わからずやぁぁっ!」
お互い、一歩も引かず、ぶつかり合う。
片方が拳を振るえば、もう片方も。
片方が頭突きをすれば、もう片方も。
意地と意地が、心と心が。
肉体がぶつかり合う中で、爆発し、拡散し……
「美鈴、わかる? あなたは……」
その意思の力は粒子となって、パチュリーの周囲に浮き上がっていく。
◇ ◇ ◇
「お姉様、私はもう、美鈴に大切なことを教わったよ」
その空間でもう一つ。
紅い瞳をたたえた姉妹が、視線をぶつけていた。
「命っていうのは、小さくても大事なんでしょう? だから私の力を簡単に使っちゃいけないんだ。壊しちゃったら楽しい思いができなくなっちゃうから」
いびつな羽に宿る水晶を輝かせ、使い慣れた武器を握り。
たった一撃のためにその手に力を込める。
それ以上は必要ない。
「だから、もういいよね? お姉様。もう、我慢しなくていいよね? フラン、美鈴と一緒がいい……」
「わかっているの? 使途にするということは、あなたの命令を忠実に聞く人形になるということなのよ?」
「わかってる」
俯き、息を吐くだけで、一段階フランドールの魔力が跳ね上がる。
力が放出されるたび、帽子と束ねた髪が波打つ。
満月の力を受け、本質を顕現させた吸血鬼の力がその小さな身体から溢れ出し、部屋全体を震わせた。
「同族になっても一緒だ。例え意思があるように見えても、本質は人形……、意思なんてどこにも残らない」
「わかってる」
「あなたが、死ねと命令すれば、喜んで胸に白木を杭を差し込むような存在が生まれる」
「わかってるよ」
「それを、そんな状態のモノをあなたは――」
「わかってるって、いってるでしょっ!」
高ぶった魔力を、掲げた右腕に集めた。
集められた紅の力の奔流は段々とその姿を構築、フランドールが思い描く力の形を具現化させる。
「私だって、本で読んだよ。そうだよ、お姉様が言ってたことと一緒なことが書いてあった。確かにそれは、今の美鈴とは違うと思う。全然違う生き物に、ううん、生き物でもなくなっちゃうのかもしれない。でもね……フランはね、お姉様」
それは、剣。
たった一振りの紅の剣。
「フランは、美鈴のそばに居たいっ! みんなで一緒に居たい!」
己の進む道を切り開くための、決意の刃。
「だからお姉様、お願い、そこを、どいてぇぇぇ!!」
自分の身体の数倍はあるかという刀身を煌かせ、フランドールは進む。
歯を食いしばり、涙を零し。
まっすぐレミリアへと向かう。
「……いいよ、フラン。受け止めてあげる。その心、全部私がっ!」
紅の魔力が浮かび、レミリアを染め。
彼女の腕にも、巨大な紅の武具が生まれた。
大きく、長く、己が信念を貫くための、紅の槍が。
「レェェーーヴァンッ、テイィィンッ!!」
「スピア・ザ・グングニルッ!!」
衝突し、爆ぜる。
紅の魔力を撒き散らし、感情のままに吼え続ける。
「うわぁぁぁぁっ!!」
「はぁぁぁぁぁっ!!」
その根底にある感情は、ただ一人の仲間のため。
紅美鈴という、おかしな妖怪への想いが、感情がぶつかり。
剣と槍は、その原型を留めないほどに歪み、力を打ち消しあう。
「はは、はははははっ!」
そこで、レミリアは笑う。
「これだ、はは、これだけあれば……」
ぶつかり合う感情。
レミリアとフランドールのものだけではない。
咲夜と、小悪魔の、そしてパチュリーの。
紅魔館の代表格となる妖怪の力が一箇所に集まり、混ざり合い、爆発しようとしている。
そうだ。
そうなるよう、術式を組み込んだのだ。
大妖ですら震え上がるほどのこの想いを、妖怪や、神々の命の源である信仰の力を――
「さあ、さっさと萃めろっ! 伊吹っ! すいかぁぁっ!!」
そうレミリアが叫んだ直後、真っ白の閃光が部屋を覆いつくし、
五人の姿を飲み込んでいった。
◇ ◇ ◇
小鳥のさえずりが聞こえる。
清々しい、日差しが朝だということを教えてくれる。
でも、変だ。
寝ぼけ眼を擦ってもう一度視線を下に動かしても、やっぱりおかしい。
布団、ベッド、枕、床。
間違いなく室内のはずなのに、何故か朝日が真上から差し込んでくる。
何事かと思って天井があるべきところを見上げてみたら、
「……んあ? ごめん、おこしちゃったかなぁ~?」
なんだか巨大な鬼が、木材を組み合わせている。
それ以外はまるで何もない。
骨組みしかない。
それ以外は澄み切った青空が広がっていて……
「あれ?」
ぼーっと眺めていると、とても大事なことを忘れているような気がしてくる。なんだったかなと思考回路を働かせてみても、ぴんとこない。
とりあえず、生まれたときと同じくらい体が軽いことだけは事実だ。
鬼に上から覗かれつつもクローゼットから服を取り出し、袖を通しながら周りを見てみれば改めて面白すぎる状況が目に飛び込んでくる。
入り口のドアやクローゼットのある部分以外の横壁が綺麗に吹き飛んでいる状況が、
「……え、えーっと。わ、私なんかしましたっけ、天井だけでなく壁までおかしなことになるということは、皆さんを相当怒らせてしまったというわけで……」
出会ったら、理由も聞かされないまま満身創痍にされかねない。
きっと頭の中でもやもやする大事なことというのは、それだ。
大変なことをしでかしたまま、放置したとか……居眠りしたとか。
「よし! と、とりあえず情報収集しましょう!」
調査のための外出、別名、戦略的撤退を試みることに決定した。
そうと決まれば、手早く準備を終わらせて。
「よし、ちょっとしたお金だけ持って」
「……あら? 人里にでもいくつもり?」
「ええ、ほとぼりが冷めるまで、ちょっと散歩に、て、あ、あれ?」
「ふーん」
「……さ、咲夜さん?」
振り返ると、腕を組んだ咲夜さんが仁王立ち。
本格的にまずい。
なんだか目を細めて、体全体を震わせて、怒ってるみたいで。
「あのね、起きたら起きたで、何か言うことがあるんじゃないの?」
「え、えっと、あの、ごめんなさいっ! とか?」
「……」
「あ、んー、違う~わけですねぇ? は、はい、じゃあやっぱり、おはようございますっ! とか?」
「……」
謝ってみても挨拶をしても、その不機嫌そうな態度は崩れない、
じゃあ何をすればいいんだろうと、必死に考えてみても、改善策はまったく浮かんでこないわけで。
と、そんなことを考えていたら。
「美鈴、忘れ物よ」
日傘を持ったお嬢様が開けた天井からやってきて、一枚の紙を手渡してくれる。
なんだろうと思ってそれを眺めたら、
とても色鮮やかな、
ちょっとだけ、見難い時間割が書き込まれていて。
それでやっと、言うべき言葉を見つけることができた。
「……ありがとうございます。咲夜さん、お嬢様」
飛び掛ってくる二つの幸せな温もりの中で、私は、大の字に寝転がって空を見る。
まだまだ、暑くなりそうな。
夏の青空を。
>昨日じゃないでしょうか
大変おもしろかったです
個人的には美鈴がしんでしまったあとの話も気になったりしているのですがハッピーエンドでよかったです
勢いでも、ご都合主義でも、やるせない事が起きる現実を生きる我々だからこそ、せめて幸せな物語を読みたい。
やはり、続きが有りましたね。
期待していた……いや、期待以上の結末でした。
ありがとうございます、また次回作も楽しみにしています。
本当にどうなるか気になってたので、無事に助かってよかった。
本当に、面白かったです!
みんなの美鈴を必要とする想いが新たな美鈴の存在意義をつくったってことか
イイネ
蛇足のような感じと、不自然な感じがあり、前回で終わりで良いのでは?と思ってしまいました
しかし続きが読めて嬉しかったのでこの点数で
いろいろ生意気に書いたので気分を害したらすみません
一生死ぬ人間である咲夜が、美鈴に吸血鬼化を強いた理由が弱かった気がします。
ここらへんで説得力があれば、お話に合わせてキャラを動かしたような感じが無くなると思うのですが。
やはりハッピーエンドというものはカタルシスとして重要なものなんだなと思えました。
しかし、反面この結末に物足りなさも感じてしまう自分がいるわけで。悲劇こそが高尚などとは言いませんが、けれども亡くすことでこそ映える輝きというのもあるわけで・・・まぁ、戯れ言です。
今回で序破急と締められたのか、それとも起承転からの結があるのか。
どちらにせよ、楽しませて頂きました。
咲夜とフランが行動に出るまでの経緯をもっと詳しく書くべきだったかと
後、ある程度のご都合主義はいいですけど萃香の登場がちょっと唐突過ぎた
全体的に、話を急ぎ過ぎた感があります
もう少し説得力がほしかったです。
料理は食べてくれる人がいてこそですね。
ただ、ストーリーの展開が若干納得できない所もあったのでこの点数で。
ハッピーエンドも好きなのですが、個人的に最初の話の終わり方が素敵だったので、話としてはあそこで終わらせて、その後のことは読者の思考にゆだねるみたいな形が良かったかなあと思いました。
あんなにもみんなが優しいから前作の結末はツラ過ぎた
バッドエンドも嫌いじゃないけどこれはハッピーエンドで本当によかった
5人の感情のぶつかり合いが胸にきました
とても面白かったですが、やはり自分ももう少しジックリ書いて欲しかったということでこの点数で
ともあれこの作品群を読むことが出来て良かったです
しかし作者さんが目指した結末が始めからこれだったのならもう私に言う事はありません。
感動的な作品をありがとうございました。
おもしろかったです
じぶんの想像の中の美鈴で
とても美鈴してて、すごく美鈴でした
ああ良い物を読んだ