Coolier - 新生・東方創想話

風鈴の鳴る頃に -華-

2011/03/10 23:07:33
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 咲夜が時間停止を解除して音も立てずに門に近付いた直後、目を疑いたくなる速度で美鈴が動く。
 右足を軸に身を屈め、半回転。
 足が地面をスライドすると同時に左手が突き出される。
 しかし、反応できない速度ではない。咲夜は身を引くことで拳を避け、逆に伸びきった腕を掴もうとするが、やめた。反撃を諦めたわけではなく。そもそも、今の動きが攻撃ではないと理解したからだ。

「じゃ、じゃぁーん!」
 
 咲夜の目の前で止まった手、その指に挟まれた紙の上には目がちかちかするほどの色素が塗りたくられていた。
 そして視線を紙から外せば、これ見よがしに胸を張る美鈴の姿がある。ただの紙に何の意味があるのかと紙に目を戻しても、気になるのは内容よりもその色。
 良く言えば、鮮やか。
 悪く言えば、

「子供のいたずら?」
「独り身の私がなんでそんなものを自慢げに見せないといけないんですか! 見ればわかるでしょう?」
「だって字が背景の色でつぶれて見辛いのだもの」
「う、た、確かにそうかもしれませんけど。これから私はこれを活用して、門番の新たな可能性を見出すのです!」

 くるりっと咲夜に背をむけると、今度は朝日に向かって紙を掲げる。
 色分けされた文字、と、配色。そして門というキーワードを繋げた咲夜は、ぽんっと手を叩いた。

「なるほど、門の先に屋台を置くのね」
「お品書きでもありませんってば、時間割です。時間割っ」
「営業時間の」
「授業時間です!」
「もう、そんなに興奮しなくてもいいでしょう? 冗談なのに」
「真顔で言わないでください。お願いですから……」

 仕事の合間に与えられる従者の一時。咲夜が珍しく地を出す時間帯ではあるのだが、長年のメイド生活のおかげで表情を変えない技術を覚えてしまい。普段も知らず知らずにそれを実践するものだから、真面目に聞いたら冗談だった、とか。冗談だと思ったら深刻な相談だったとか、困ったケースが多々存在する。
がっくりと美鈴が肩を落とすと、やっと咲夜は困ったように笑った。

「悪いわね、ついつい忘れてしまうの。それで、門番であるあなたがなんでいきなり授業の時間割なんて作成したの?」
「まってました! その質問を待ってたんですよ! 咲夜さん!」
「暑苦しいから離れなさい」

 散々じらされたことにより、美鈴は喚起の声をあげて咲夜に抱きつくが、咲夜は時間をとめてあっさりと後ろに回りこむ。
 そして、目標を見失った美鈴の後ろ頭をこんっと手の甲で叩いた。

「あら、すいません。取り乱しまして。こほん、では、改めましてっ、この時間割は紅魔館のために私が導き出した最良の選択肢。これによって門番という役職のイメージはがらり変化、いや昇華するのです。まさに超門番と言っても過言ではありません!」
「結局門番じゃないの」

 そこで美鈴はいきなり、含み笑いを始めた。

「ふっふっふ、咲夜さん。あなたはぁ~、私がほんのちょっとだけ居眠りをする時間を有効活用できればと考えたことはありませんか?」
「門番の役割を果たしてないからね、って、どんなキャラよあなた」
「というわけで……、眠っている時間を別なことに有効活用してこそ! 真の門番となりえるのではないかと!」
「そもそも真の門番は居眠りしない」
「そこで、私は思い当たりました! 中庭と門を有効活用した方法! 皆さんのために私ができる門前学習法を! って、あーっ! 私の時間割!」
 
 突っ込むことに諦めた咲夜は、素早く美鈴の手から時間割を抜き取り、一度は解読を諦めた書面に目を落とす。
 どうやら横は一週間を示す7曜で、縦はその曜日に何をするか。一時間目から四時間目まで記されていた。
 なるほど、と。
 咲夜はその出来栄えを見て大きく頷き。


『 月曜日:体育 体育 道徳 道徳
  火曜日:道徳 道徳 体育 体育
  水曜日:道徳 道徳 体育 課外授業
  木曜日――             』


 にこり、と微笑を浮かべてから。

「あ、あぁぁぁっ! な、何するんですかっ!」

 三種類の文字しか並んでいない紙、それを迷わず破り捨てたのだった。




 ◇ ◇ ◇




 ゆらり、ゆらり、と。
 暖かい春の日差しの中で、三つの影が紅魔館の外に揺れる。
 爽やかな風に木々や、草葉が踊るように。必ず体のどこかを動かしながら、決して早くない速度で流麗な動きを繰り返していた。
 
 そして、彼女は悟った。

「ねえ、美鈴? 私、騙されてる?」
「な、何をおっしゃいます! 中国四千年の歴史を誇る太極拳こそ、無理なく体を強くする最善の方法だというのにっ、ねえ、小悪魔さん!」
「私に振らないでください」

ゆっくりとした動作を繰り返す中で、必死に否定しつつ同意を求める。しかし魔界出身の小悪魔には地上の歴史ある武術など理解不能である。
 ただ、誘いに来た美鈴の最後の一言。
 痩せられるかもしれませんよ。
 という言葉に半分だけ乗せられただけに過ぎない。

「まあ、こっそり私のお菓子を盗み食いしてる誰かさんには必要な処置かもしれないけれど」
「はぅあっ!?」

 しかもばれていたようだ。
 小悪魔から運動以外の汗が噴き出し始めたところで、美鈴はこほんっと咳払い。

「いいですか、気というものは生命が持つ力の源で、それを溜め込めば身体能力の強化、放出すれば攻撃や癒し、という万能な力となりえます。比較的非力なパチュリー様でも、気を扱うことを覚えていただければ詠唱中に咳をすることもなくなりますよ、きっと」
「……ふーん、で? 私が咳き込むほどの巨大な魔力を扱う中で、同時に気も制御しろという難題をぶつけるわけね、あなたは」
「あ……」

 パチュリーに知識で挑んではいけない。
 そんな常識をすっかり忘れていた美鈴は手痛い反撃を受けて、苦笑いを浮かべる。そのまま一度動きを止めるが、びしっと青空に浮かんだお日様を指差して、

「お日様の下で体を動かすのは、とても気持ちいいことだと思いませんか!」
「うん、まあ、もういいわそれで」

 そのノリに付き合いきれないと、肩を竦めながら。それでもパチュリーはゆったりとした動きを続けていた。
 昨日はたどたどしかった動きも、一日で早代わり。
 身体が弱いだけで、基本的に器用な部類なのかもしれない。
 
「パチュリー様、今度はいっしょにお買い物しましょうよ!」
「……まあ、いいけど」

 それにパチュリーの健康面だけではない。小悪魔にとってもこれは望むべきものだった。
 主の意識が積極的に外に向くようになれば、司書以外の楽しみがその分増えるのだから。図書館の中では嫌だと切り捨てられる言葉でも、青空の下でお願いすると意外と受け入れられたりする。
 まさしく今がそのときであり、ぐっと手を握って控えめに喜びを表現した。

 そんな普段では考えられない光景をテラスから見下ろす影が二つ。



「咲夜? あれがふざけて時間割を書いた者の姿に見える?」
「……後で謝っておきます」
「そうしなさいな、人間は放っておくとすぐ消えてしまうからね。時間は貴重だよ」

 微笑みながら紅茶を傾け、口に含んだところで紅茶と呼ばれる液体を凝視し眉を潜める。
 日傘つきのテーブルで、日常動作を終えたレミリアは背もたれに体を預け、大きく伸びをする。そんな動作の中、隙を突いて紅茶を遠ざけてもすぐさま手元に戻るのも変わらない。

「はぁ、早起きは体に堪えるわね。天気も最悪だし」
「お嬢様を人間に例えるなら、どちらかというと夜更かしかと」
「人間と吸血鬼の価値観を同列に加えるのは感心しないよ?」
「もうしわけありません、つい口が滑りまして」
「うんうん、以後気をつけたまえ」

 背伸びをしながら足を突っ張る。
 その仕草の合間に震える羽と、うっすらと潤み始める瞳。
 そんな愛らしい姿だけをみれば年相応の少女であるが、桃色の服の下に隠された力は世界を揺るがせるに十分足りえるもの。
 何の準備もなく、単機で、さらには単なる気まぐれで幻想郷全体に影響を与えることができる。この世界でも稀な存在なのだから。

「お嬢様、つかぬことをお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ん、面白いことなら許す」
「では、発言させていただきます。お嬢様は、今回の件でなんらかの根回しをされたのですか?」
「……ふむ、確かにおもしろい質問だ。じゃあ、私が答える前にそう思った理由を教えてくれないかしら?」
「はい、それは行動の優先順位にあります。お嬢様の命令がなければ魔法の研究が他の行動理念を圧倒するというのに、美鈴の申し出を簡単に受け入れたこと。運動を極端に嫌うということも上げられますが、やはりこれが大きいかと」
「なるほどね、そうかそうか」

 美鈴が時間割を作った日、その授業内容を聞いた瞬間。
 無理だ、と咲夜は判断した。
 それでも、どうしてもやってみたいという美鈴の熱意に押されて、図書館までついていったわけだが、

『いいわよ、別に』

 パチュリーが美鈴をちら見した直後、あっさりと承諾したのである。
 悩む時間などほとんどゼロ。
 そのあまりの光景に、何度外へ誘っても拒否され続けた小悪魔は複雑な表情をしていたが……

「それで、蓋を開けてみたら効果は上々といったところかな?」
「ええ、昨日は試しにやってみるとだけおっしゃっていたので」
「まさか続くとは思わなかったと」
「はい、そのとおりです」

 レミリアはふふっと微笑んで、紅茶を持つと。
 何を思ったか盛大にそれを傾ける。
 一気に流れ込んだ液体を喉を鳴らして飲み干して、

「こういうことだよ」

 風が髪を掻き上げる中で、ことんっと優しくカップを元の位置へと戻した。

「……つまり、私の紅茶は美味だと?」
「春だからといって、頭がおかしくなるのは感心しない。血と紅茶のブレンドだけなら絶品なのだけれど」
「そうですか、ではそれはまた作ることにします。それでお嬢様先ほどの意味は?」
「わからないというの?」
「ええ、お恥ずかしながら」

 言葉には侮蔑の意味が込められているものの、レミリアは楽しそうに咲夜を見上げた。なぞなぞを出した後、相手が答えを導き出す過程を楽しむ。
 まさにその風貌であった。

「あなた、自分で優先順位と言ったじゃない」
「はい」
「それで、パチュリーは運動が嫌い」
「はい」
「魔法の研究が大好きで、親友である私の声以外では止めるのが難しい」
「はい」
「ほら、答えを言いなさいな」
「無茶が過ぎますわお嬢様……」
「……はぁ? そういうものなの、人間の思考能力というのは」
「お恥ずかしながら」
「仕方ない。それじゃあ、特別ヒントを」

 腕を組み、ふふんっと鼻を鳴らして優越感に浸った後。
 レミリアはテーブルに肘を付いて口を開いた。

「ん、やっぱり気が乗らない」
「……今更それは酷くありませんか?」
「気が乗らない、嫌だ、拒否する。さっさと片付けて家事に戻りなさい」
「はぁ、わかりましたわ。気が向いたらお声をかけてください」
 
 いきなり態度を変えたレミリアを訝しげに見つめるが、すぐさまいつもの凛々しい顔に戻る。そして時間を停止させ、紅茶セットを片付け、

「失礼いたしました」

 一言だけ残し、テラスから出て行く。
 それを瞳の動きだけで見送ったレミリアは、

「慣れというのは本当に恐ろしいもの、そう思わないかしら、咲夜?」

 その姿が消えうせた空間の中で。
 深い、深い、ため息をついた。

 その眼下では、体育の授業を終えたパチュリーと小悪魔がちょうど屋敷の中に戻るところで、

「お手並み拝見、といったところかしらね」

 その二人と入れ替わるように、フリルのついた赤い日傘を持った小さな人影が美鈴の方へと歩いていった。
 その姿に一抹の不安を思いながら、レミリアは屋敷の中へと足を向け。

「つまんないっ! つまんないつまんないつまんないつまんないぃーっ!」

 上品さの欠片もない声を聞いて、もう一度大きなため息を吐いたのだった。




 
 日が傾き、夜の帳が下りた頃。
 夕食を終えたレミリアの自室に、食後の紅茶を持って咲夜が足を運ぶ。目的は今日一日の幻想郷に関わる情報と、屋敷の管理状況の報告。俗にいう定時連絡である。

「……以上です。最近は特に異変もないようで」
「異変が起きても昼間のうちに巫女や魔法使いがでしゃばるからね。前菜どころかメインディッシュまで綺麗に平らげられた後では、何の楽しみもない」
「デザートは残っているようですが?」
「物語は甘さだけで楽しめるものでもないだろう? 味の流れ、波乱があってこそだ」

 異変が起きたとしてもその中心か、中心に近い位置でなければレミリアの欲求を満たすには難しい。それをわかっているからこそ、咲夜は情報収集を惜しまないし、何かあればすぐに行動する。退屈だから異変でも起こしてみましょうか、なんて軽々しく言うことすらあったのだ。
 しかし最近では紅魔館をほとんど出ず、霊夢のところにすら遊びに出なくなった。
 その原因を察していたのはパチュリーくらいで。

『優先順位ってことらしいわよ、レミィ曰く』
『……はぁ』

 しかし咲夜が尋ねることなど予測済みで、根回しも完璧。
 結局レミリアの真意がわからぬまま、話はうやむやになってしまう。

「続きまして、美鈴の行動ですが」
「ああ、それはいいよ。パチェから話は聞いている、なかなか好評だったみたいじゃない」
「いえ、しかし、妹様の報告がまだ」
「それも問題ない。だって、ほら」

 レミリアの声が終わるよりも早く、廊下から元気の良い足音が聞こえて来て、部屋の前で止まった。続けて部屋に響くのは高いノックの音。
 ではなく、メキリ、という木材の破砕音だった。
 音と同時に生まれた穴、そこから伸びた手が引っ込んで、

「お姉様のドア腐ってる」
「フラン、力加減を覚えなさいと言っているでしょう?」
「私の力に耐えられないドアの方が問題よ。欠陥住宅だわ」

 ドアを開け半眼で部屋に入ってきたフランは、手の中に残った木屑を能力で消し飛ばす。それでも自分のせいじゃないと主張するのだから、我侭というべきか強引というべきか。ただし別な見方をするのなら、それだけ興奮しているとも受け取れる。
 そしてその感情を引き出したのは……

「下手をやったかしら」
 
 咲夜だけに聞こえる声でレミリアがつぶやいた。
 授業については全権を美鈴に任せるとレミリアから命を受けたため、咲夜もあれから屋敷の仕事を続けていた。つまりフランドールに対して何を教えたのかはわからない。けれど、二人は聞いていたのだ。
 授業開始直後に館を振るわせた、拒絶を示す大絶叫を。

「わかっているわね? 下手にあの子に触れないように」

 不安定な感情を持つフランドールが感情を爆発させればどうなるか。その力は人間である咲夜に耐えられるものではない。それを理解しているレミリアは咲夜を手で制し一歩だけ下がらせた。
 が、その行動が気に入らなかったのか。フランドールがいきなり走り出す。まっすぐレミリアに向かって突き進み、両腕を前に突き出して。
 対するレミリアは唐突な動きの変化に対応できない。
 できたことは椅子から立ち上がることと、

「お姉様っ、美鈴の授業は明日もあるの? あるのよね?」

 空気を一変させ、嬉しそうにじゃれ付くフランドールを受け止めることだけ。

「凄かった、美鈴は魔法使いみたいだった! 何もない地面からどんどん命を作るのよ! 最初は弾幕勝負しないっていうから、ちょっと怒ってしまったけれど」
「地面の中から、命を作る、か。咲夜はなんだと思う?」
「おそらく、土に隠れていた虫を掘り出したのかと」

 美鈴の能力は気を使うこと。それを生かして地中に気を送り、小さな虫の居場所を探り当てた。咲夜がそう意見してみると、レミリアもそれに頷きを返す。しかし抱きつかれているせいで顎あたりにフランドールの頭があり、ちょこんっと小さく首を縦に振ることしかできなかった。
 
「そうよ、虫っていってた。館の中でときどき見るやつとぜんぜん違う形をしていたわ!」
「虫というのはね、生態系によって大きく姿を変える生き物なのよ」
「そんな小さな生き物から畑の花壇の命の輪があるとか言ってたわ。今度教えてくれるって」
「他には何かあった?」
「お花の種を蒔くって」
「あら、素敵じゃないの。フランドールが作った花が咲いたら家の中に飾ってみましょうか」
「本当に? 約束よ! お姉様!」
「ええ、約束」

 それだけ言い残すと、咲夜の方に向き直り、明日の時間割を確認。
 直後に目を丸くして急いで部屋を出て行った。おそらくは、明日のために早く寝ようというのだろう。
 
「我が妹ながら慌しいことだね」
「昼も夜も関係ないですからね、妹様は」
「外の明るさで時間を計ることもないまま部屋に篭っていたのがこんなときに役立つとは、皮肉かしら」
「お嬢様は昼間苦手ですものね」
「それが本来の在り方だから仕方ない」

 くすくす、と。咲夜は珍しく業務中に笑った。吸血鬼という種族を日中に外出させ、その上で虫の観察を行うなど誰が思いつくのか。咲夜であれば、日中に外に出すという選択肢がまず浮かばないというのに。

「フランは、あなたと出会うまでは人間がどんな生き物かすら知らなかった。あの子にとって外の明るい世界は宝石箱。けれど私たちはその宝石を勝手に取り上げていたのかもしれないね」
「美鈴はそれをわかっていたとでも」
「さあ? あの子のことだから、なんとなく、で終わってしまいそうよ」
「ふふ、違いありませんわ。ではお嬢様、私もこれで」
「ああ、ご苦労だった。ゆっくり休みなさい」

 咲夜は一礼してから主に背を向け、ドアノブに手を掛け。

「……それと、明日の朝。フランと一緒に私も起こすこと」

 ちょっとだけ声を落としたその命令に、咲夜は微笑みながら応じたのだった。





 次の日。


 再び行われた『道徳』が終わった頃には。

『フランドール』  『お姉さま』

 湿った花壇の土の上に、二つのネームプレートが並んで置かれていた。
 
 


 ◇ ◇ ◇


 
 
 三日坊主で終わるだろう。
 その咲夜の予想を大きく上回り、梅雨の季節がきても美鈴の授業は続いていた。けれど、さすがに雨が多くなれば吸血鬼が外を出歩くことは少なくなり、運動も図書館の中で行われた。
 そうやって雨が降る度に、紅魔館ではありえない事態がおき始める。

「お花が折れないか心配」
 
 そう言いながら、フランドールが玄関まで出てきて庭を覗き込もうとするのだ。慌てて咲夜が止めに入るものの、暴れることもなく素直に部屋へと戻っていく。この変化についてパチュリーは言う。

「情操教育の中には草や動物を利用したものがあるの。心の病に侵された者に対しても効果的ね」

 踏みつければすぐ死んでしまう虫や草花と触れ合い、その手で育てることによって命の価値を教える方法。美鈴が行った授業はまさしくそれで、フランドールの心のどこかに大切な種を植え付けたのかもしれない、と。
 そう語るパチュリーについても授業を行う前後と比較して、外出する回数が二倍以上に膨れ上がっているのだから。二つの授業は大成功といったところだろうか。

 ただし、ただしである。

 時間割にはもう一つあった。
 図書館の二人に影響を与え、そしてスカーレット姉妹にも効果を及ぼした美鈴の授業。最後の一つというのは言うまでもなく。

「これでいいのかしら?」
「お~、完璧です! 完璧じゃないですか、咲夜さん!」

 フライパンに乗ったままの青椒肉絲(チンジャオロース)を指でひょいっと口元に運び、頬を両手で押さえて幸せそうに身をくねらせた。
 運動でも、上層教育でもない。『課外授業』はこれ、咲夜を対象とした中華料理の作り方であった。

「火力も十分ですし、火のとおり具合も言う事なし。もちろん味も!」

 正面から美味しいと言われて、悪い気などするはずもなく。咲夜は珍しく頬を染めながら手馴れた様子で中身を広い皿へと移した。

「これだけ基本ができていれば、レシピを伝えただけでも良い物ができそうですよ。あ、この豚肉も絶品ですね」
「誉めても何もでないわよ?」
「咲夜さんの手料理があるじゃないですか、ここに」
「それはあなたが出した課題でしょう?」
「まあ、それはそうなんですけど……そういう気分に浸ってみたいときもあるんですよ。繊細な乙女心です」
「はいはい、無駄口叩いてる暇があったら料理の判定をお願いするわ」
「うう、心が……料理に必要な愛情というスパイスが足りない気が……」

 しくしく、と。べそをかく振りをしながら、美鈴は箸を手早く動かし続け、一人前のチンジャオロースをあっさり食べきってしまう。
 これだけ威勢良く食べてくれるのであれば、作り手としての喜びも格別。
 
「ごちそうさまでした。はい、今日も美味しかったです」
「どういたしまして。でもいいの? 私の授業よりもお嬢様たちのを優先する方がいいと思うのだけれど」
「この時期は仕方ありませんよ。夏になったら今までできなかったことも一杯試してみるつもりですし、今は料理を優先するしか」
「……あなたのお腹も膨れる、と?」
「ご名答♪ あいたっ」
「はいはい、調子に乗らない」

 咲夜のでこぴんが美鈴に襲い掛かり、額を赤く染める。
 それでも嬉しそうに笑う美鈴の顔は、暖かさを咲夜の心に届けてくれた。
 それはまさに、日陰を照らす太陽のよう。

「それでは、授業の合間の門番業務。がんばっていってきます!」
「傘を忘れないように」
「は~い」

 授業が終われば自分の職務へ。
 軽い足取りで調理場を出て行く美鈴を見送り、咲夜は美味しそうに平らげられた大皿に視線を落とし、わずかに張り付いた野菜の一欠けらを見つけて口に運んでみた。
 中華料理には煩い美鈴があれほど手放しに喜んだのだから、どれほどの味に仕上がったのかわずかながら期待もしていた。

「ん……」

 だが、口に運んだすぐ後に咲夜がとった行動は、方眉を跳ね上げることだけ。その内容を正直に口にするなら。

「……酷い味」

 おそらく、砂糖を入れすぎたのだろう。
 甘辛を通り越して、甘々。
 決してお世辞にも美味しいと言える代物ではなかった。それなのにも関わらず、美鈴は美味しいといって食べてくれたのだ。

「まったく、そういうことはしっかり教えなさいよね……馬鹿」

 嬉しさと、ほんのちょっとの悲しさが胸の中で混ざり合う中、咲夜は手際よく魯料理道具を洗い始める。
 水の流れる音に、小気味好い鼻歌を織り交ぜながら。
 
 


 ◇ ◇ ◇




 季節が進み、梅雨が明けると、美鈴の時間割は大きく変わった。
 体育と課外授業が消えて、道徳のみが残る。その理由を咲夜が尋ねたところ、『パチュリー様は日課として続けるとおっしゃっていましたし、咲夜さんはもう私よりも美味しい料理をつくれるようになりましたから』だそうだ。

『べ、別に面倒だとかそういうことはありませんよ?』

 最後に付け加えられた言葉が、不信感だらけであったが。
 ともあれ、現在美鈴の授業を受けているのは、楽しそうに土を触るフランドールと、妹にやさしく傘を覆い被せるレミリアだけ。自分の植えた種が日に日に大きくなるのが嬉しくてたまらないようで、ミリ単位の成長にさえ一喜一憂する。

「お姉様も一緒にやる?」
「今日は遠慮しておくわ、もうすぐ来客があるからね。あまり汚れていては面子にも関わる」

 強い日差しの中でガーデニングを楽しむ姉妹、と、吸血鬼の歴史に名を刻みかねない行為を楽しむ姿は、常識的な観点からすれば異質。
 けれど、スカーレット姉妹を後ろから見守る美鈴を合わせた姿は、まるで

「がんばってる、美鈴お母さん?」
「お、おかっ!? って、咲夜さん変なこといわないでくださいよ! 二人に失礼じゃないですか」

 からかわずにはいられないほど家族そのもの。
 後ろで休憩用のテーブルを準備していた咲夜は、顔を真っ赤にして否定する美鈴お母さんに向けて微笑を返すだけ。すると余計に必死になって、両手をぶんぶん振り出すものだから。

「あら、じゃあ授業中は先生じゃなくてお母さんと呼んであげようかしら?」

 おもしろそうなことに目がない幼い主の標的になるわけだ。

「お嬢様も乗らないでくださ」
「じゃあ、私はパパ役でいいよ」
「ごほっ」

 さらなる追い討ちでむせる。
 けほ、けほっと細かく咳を繰り返し、右手で額を押さえた。性格とか種族差とか言う前に、身長が天と地ほどちがうのだから、がんばってみても年の離れた姉妹がぎりぎりのラインだろう。

「い、妹様、さすがに父親役はどうかと」
「何? 私では役不足だというの?」
「右手で脅すのは卑怯ですっ! 暴力反対っ!」

 むっ、と頬を膨らませたフランドールが瞳を紅くし、手を美鈴に向けた。しかしレミリアも微笑を崩すことはないし、咲夜も時間を止めて救い出すことはない。本気で壊すつもりがないと理解しているからだ。
 ちょっとだけ握る振りをして終わり、誰もがそう予測する中で。
 フランドールの指が、ぴくりとも動かなくなる。

「美鈴……? ねえ、あなた、美鈴よね?」

 動かない指の変わりに上下する唇は、予想だにしない言葉を紡いだ。フランドールが見上げるのは間違いなく美鈴本人で、レミリアも不思議そうに妹の言葉を吟味しているようだった。不安げに目を開くフランドールの右手を凝視する中、一瞬だけ。
 ほんの一瞬だけレミリアの羽が動いた。

「フラン、馬鹿なことを言うものではないわ。美鈴が困っているじゃないの」
「でも、お姉様……」

 一人焦るフランドールの頭を撫でて、レミリアは咲夜を振り返る。

「きっと楽しすぎて疲れたのね。だから変なものが見えるのよ。時間も丁度いいから休憩を取りましょうか」
「ええ、そうですね。いつまでも咲夜さん一人ぼっちにしても可愛そうですし」
「……聞こえてるわよ」

 いつもより少し大きめのテーブルを四人で囲む。咲夜が座っているのはもちろん、レミリアがそう命令したから。
 お茶会が始まった後も、フランドールは美鈴のことを気にしているようだったが、レミリアと談笑をするうちに気にもとめなくなる。柔和な笑みを浮かべて、自分が植えた花のことを心から嬉しそうに語っていた。
 こうも変わるものかと、咲夜は自然とその笑顔に気を取られ、

「あ、すみません咲夜さん。相変わらず美味しい紅茶ですね」

 まちがって美鈴にレミリア用の紅茶を入れたり。

「ぶふっ」

 それを見て油断したレミリアが八目鰻入り夏場のスタミナ紅茶を噴き出したりと。多少波乱はあったが、楽しい休憩時間は終わりを告げ。

「あれ、美鈴。どうしたのその手の甲」
「どうしました妹様? あ、これですか。たぶん朝方に草刈をしていたときにきってしまったんでしょうね。鎌に触れたとか」
「雑草くらい私がぎゅっとしてあげるのに」
「んー、じゃあまた今度ということで」

 まだ薄暗いうちから草を刈る美鈴の姿を想像して、咲夜はくすりと笑う。
 昼過ぎから授業をする予定だったのに、先生である美鈴自身がずいぶん前からそわそわしていたかと思うと、なんだか面白い。

「さあ、いきましょう!」
「こら、日傘を忘れえては駄目よ」

 二人の視線の先にあるのは、一緒に植えた大きな花。
 まだ蕾の状態だけれど、二人の身長を超えて立派に空を向いている。
 その後ろには、同じ植物が綺麗に植えられた畑があって、開花の瞬間をいまかいまかと待ちわびているようで、

 と、そのとき。

 永遠亭のいたずら兎が小さな包みを持って、門の前に立っていた




 ◇ ◇ ◇




 ちりん、ちりん

 紅魔館の入り口で彩色の硝子が音を立てる。
 小悪魔が人里へ行ったときに購入してきたものらしく、じっとしているだけで汗が出る日中に清涼感を加えてくれた。
 そうやって咲夜が玄関の掃除をしていると。
 遠くで歓声が上がる。

「凄いわ、見て、お姉様!」

 弾む声に誘われて庭へ出てみれば、向日葵畑の中で動き回る紅い傘が一つ。空の太陽、大地の向日葵。二つの日輪の中を掻き分けて進み、やっと咲夜の前へとその全貌を見せてくれた。
 葉や花弁を衣服や髪に貼り付けさせながら。

「遊ぶのはいいけれど、少しくらいは身なりに気を使いなさいな」
「だって、今日はお客が来ないのでしょう? 必要ないわ」
「魔法使いがやってくるかもしれないじゃない」

 傘を上下させて、はしゃぐフランドールと、苦笑するレミリア。
 二人の前には、身長を大きく超える向日葵が立ち圧倒的な存在感を放っている。そして暖かさを感じさせる花は、仲良さげに遊ぶ二人の少女に微笑みかけているようだった。そのうちの二つ、首からネームプレートをかけられた向日葵こそが、二人が育てたものなのだろう。

「お二方とも、あまり無茶はなされないようにお願いしますわ」
「あ、咲夜見て見て! 私の向日葵! お姉様のより大きいでしょ?」
「何を言っているの? 見なさい、花の大きさは私の育てたものの方が大きいじゃないか」

 咲夜が何気なく近寄ってみると、今度はその向日葵で自慢を始めてしまう。こんな姿だけを見ていたら、子供そのもの。
 しかし、二つ以外の100を超える向日葵を育てた功労者はというと。

「何してるの?」
「あはは、こんにちは」

 二人から離れた、日陰の中。
 館を囲む塀に背を預け、のんびりと休んでいる。
 本当なら従者として怒るべきところなのだろうが、授業をしている姿よりさぼっている方が親近感が湧くのは何故だろうか。

「花が咲いたから、大急ぎで畑の周りを綺麗にして。ばててしまったそうよ? だから私の命令で休ませたのだけれど」
「……従者が主に気を使わせてどうするのよ」
「いやぁ、め、面目ありません。でも個人的には凄く頑張ったと誉めてあげたい気分といいましょうか」
「ペース配分を間違えるからそうなるの。こらから気をつけなさい」
「はい、これから……」

 両足を投げ出したまま大きく息をすると、咲夜と同じように向日葵畑で動き回る二つの影を追い掛ける。
 満足げに目を細めて、くすくすと笑いながら。

「後一つ、ですね」

 ぼそり、とつぶやく。

「何のこと?」
「え? 私何か言いました?」
「……覚えがないの?」
「ええ、全然」

 誰に告げたかもわからない、それとも、つぶやいている意識すらなかったのだろうか。美鈴はきょとんっとした顔で見上げていた。これ以上詮索しても無駄だろうとわりきった咲夜は、美鈴と同じ壁に背を預けて心地よい一時を楽しんだ。




 それから一週間後、美鈴の授業は開かれることがなくなった。
 花が綺麗に咲いてから自主的に外に出るようになったし、フランドールが無闇に力を使おうとしなくなったから。
 だから、いつもどおり美鈴は門に立ち。
 いつもどおり妖精たちと遊び。
 いつもどおり魔法使いをスルーして。
 いつもどおりフランドールに弄られる。
 
「妹様は、きっと知らなかったと思うんですよ」

 昔のような門番業務に戻った美鈴は、いつのまにか横に立っていた咲夜に語りかける。

「植物とか小さな命とか、そういったものの素晴らしさを知らなかったから、妹様は力を使うことに躊躇いがなかった。みんなは狂気だって言いますけど、生まれたばかりの子供の行動なんて、全部理解できないものでしょうし。何で泣くのかすらわからないときがあるといいますからね」
「そうね」

 そっけなく咲夜は答え、門に背を付けようとしてやめた。
 夏の日差しで暖められた塀は、手をつくことを躊躇ってしまうほど熱せられていたからだ。美鈴のように朝からじっとしていなければ、体重なんてかけられるはずがない。

「だから妹様が命に価値を見出せば、能力の使用も控えてくれるのではないかと思いまして」

 何故いきなりこんなことを話し出したのかは咲夜にわかるはずもなかったが、気分転換に雑談しようと思っていた咲夜には丁度よかった。
 授業があるときはお互いに忙しく動いてばかりで、ゆっくりした時間などあまり取れなかったから。
 それに心配事もあった。

「美鈴、あなた、あの妖怪兎から薬を貰っているようだけれど、どうかしたの?」
「あ、ばれちゃいましたか。実は最近疲れやすくて、すぐ眠くなってしまうので栄養剤を」
「……さっき寝てたわよね? 招かれざる客がやってきたけれど」
「イイエ、マッタク。私との死闘を繰り広げた魔法使いが突破しただけかと」
「その死闘の影すらないのは何故?」
「時間というものはすべてを覆い隠してしま、、、はい、寝てました!」
「素直でよろしい」

 視線と殺気に押され、なくなく真実を語る。
 予想通り反応を見て、咲夜はため息混じりに微笑んだ。

「いつまでも変わらないわね、あなたは」

 すると、何故か美鈴が嬉しそうに目をぱちぱちさせて、

「変わらない、ですかね?」
「ええ、いつもの美鈴に見えるけれど?」
「ふむふむ、年月を重ねても輝きが薄れないとは、やはり私は素敵な妖怪」
「自分で言わない」
 
 どこか、抜けていて。
 どこか、不真面目で。
 それでいて、どこかで芯が通っている。

 それが咲夜のずっと見てきた『紅美鈴』という不思議な妖怪。

「そういえば、咲夜さん? ちょっとだけ聞いておきたいのですが」
「何?」
「くだらない、とか怒ったりしません?」
「怒らない」
「時間の無駄とか言ったりしません?」
「言わない」
「じゃ、じゃあ……」
「しつこいとナイフ」
「ええっ!?」

 何度も何度も繰り返したせいで、笑顔が引きつり始める。美鈴は大慌てで手をパタパタ動かし。
 よしっ、と小さく気合を入れてから咲夜の正面に回った。
 そして頬を掻きながら恥ずかしそうに、

「私って、皆さんのお役に立てたでしょうか」

 なんて言ってくる。
 だから咲夜はここ最近の働きを思い出し、腰に手を当てて冷めた目を向けた。

「門番としては、これ以上ないくらい失格でしょうね」
「う、うわぁ……」
「当然でしょう? 居眠りの時間が業務時間とほぼ同じ門番なんて何の意味があるというの?」
「うう、痛い。咲夜さんの指摘に胸が痛い」

 多少温情を加えてくれると思ったのか、すっぱり切り捨てられた美鈴は胸を押さえて表情を暗くする、が。

「けれど――」
 
 咲夜が片目を閉じて咳払い。
 やれやれと言った様子で肩を竦めて、

「紅美鈴としての働きは、満点以外にありえない」
「え?」

 信じられない。
 悲しみに包まれていた美鈴は、狐にでも摘まれたように瞳を点にする。それからまったく反応しなくなってしまったので、咲夜はしょうがなく息を吐いた。

「門番は失格でも、あなたは紅魔館の一員として素晴らしい働きを見せてくれた。ということよ」
「え、えと……」
「何? 私の判断にケチをつけるの?」
「い、いえいえいえいえいえいえいえっ! 滅相もないです! あ~ん、ありがとうございます咲夜さんっ!」
「こ、こら! くっつかないでっ!」
 
 避けようと思えば、できたはずだった。
 それでも咲夜は時間を止めることなく、その体を受け止める。
 意外と軽い、その身体を。

「咲夜さんが悪いんです」
「なんでよ」
「そんな……、そんな嬉しくなることを言うから」
「ごめんなさい、私はあなたと違って気が利かないのよ」

 離れようとしない美鈴の背中を撫でて、そっと、その肩に息を吹きかける。赤くなった頬を見せないよう、咲夜は顔を外側に向け、それでも頬を美鈴の身体に乗せる。

「それに、素直じゃないと思うし」
「そこが咲夜さんの可愛らしいところだと思いますよ?」
「誉めてる?」
「誉めてますってば! なんでほっぺに手を伸ばそうとするんです!」
「うん、じゃあ信じてあげる」

 美鈴の顔に近付けていた手を引き戻し、胸をとんっと押した。
 それだけで抱きついていた美鈴の身体が離れ、二人の間に数歩分の距離が開く。離れてもまだ火照る頬を気にして、咲夜はすぐに背を向けてしまう。玄関から流れる風鈴の音を少しでも耳に入れて、冷静さを取り戻そうとするが、頭が冴えるほどに余計なことが浮かんできてしまって

「仕事が残っているから、戻るわね」

 肩越しに顔を向けてそれだけ言うのが精一杯だった。
 すると、美鈴は少しだけ寂しそうな顔をして。

「私はやっぱり幸せ者ですね」

 咲夜が館へと足早に進む中、なんだか恥ずかしいことをつぶやいた。
 そのまま放っておいてもよかったのだが、

「また、明日ね」
「はい、さようなら」

 一言だけ挨拶を交わして、咲夜は屋敷に入る。
 その姿がドアに隠れるまで、美鈴はずっと優しく手を振っていた。




 ◇ ◇ ◇




 その次の日は、妙に風が強い日だった。
 天気は悪くないのに、青空の合間を過ぎる雲が目で見てわかる速度で通り過ぎていく。屋敷の中の掃除を朝の内に終えた咲夜は、美鈴に気を付けるよう指示を出そうとして。

「……また、あの子は」

 きっと風で倒れないか心配になったのだろう。
 向日葵畑の真ん中に見覚えのある緑の帽子が揺れていた。
 暴風とまでもいかないが外に洗濯物を干すには難しい天候である。そんな中でわざわざ花畑の掃除をすることもない。どうせ風が吹き終わった後には、庭中葉っぱや枝で汚れてしまうのだから。

「美鈴~、戻っていらっしゃい!」

 咲夜が声をかけても花畑で揺れる帽子は奥へ奥へと進んでいく。
 向日葵と向日葵がぶつかり合うがさがさという音で声が聞き取り辛くなっているのかも知れない。
 仕方なく咲夜は空へとあがり、上空から美鈴の位置を確かめて。

「はい、捕まえ――」

 手を伸ばし、帽子の上から叩いてみた。直後、

 がさり、と。

 予測していた硬い感触などどこにもなく。
 咲夜の手は、帽子を掴んだまま地面近くまで落ちる。
 指に残った感触はたった一つ。

 見慣れた、緑色の帽子だけ。

「美鈴……?」

 突如襲いかかってくる言い知れぬ不安。
 心を揺り動かす激情。

「美鈴っ!」

 問いかけても、叫んでも、返事がない。
 花畑のどこにも、美鈴の姿がない。 
 これは何か悪い夢ではないか。

 そう思い込もうとしても、右手に掴んだ帽子の感触が無理矢理現実に呼び戻す。
 けれど、同時に帽子の現実感は、咲夜に少しだけ冷静さを取り戻させた。

 そうだ、門に行けば、と。

 居眠りしている間に帽子を飛ばしてしまっただけだ、と。

 咲夜はもう一度飛び上がり、門の当たりを見下ろす。
 すると、やはりそこには美鈴の姿があった。
 帽子の持ち主が確かにそこにいるじゃないか。

「……めい、りん?」

 横たわり、

 その四肢を力無く地面に預けて……



 
 咲夜の叫び声が響き、

 風でけたたましく鳴る風鈴の音が、凍えるほど冷たく彼女の胸に残った。
 
 
 

「……だから最初の変化は、味覚。そして、触覚と、痛覚」

 かしゃん、と。
 カップの割れる音がパチュリーの後ろで響く。それでも彼女は声を止めない。

「それでも美鈴は運命を受け入れた。受け入れた上で、それを利用したいと言った」
「何を……言うんですか、パチュリー様」
「命を教える授業で、育ち行く命を見せてあげるのはとても大切なこと。けれど一番大切なものは、とても辛く、悲しいこと」
「そんなことを聞きたかったわけじゃありません! 私はっ!」

 小悪魔は声を荒げて主であるパチュリーを睨む。
 それでも、彼女は声を止めない。

「私とレミィが美鈴の状況を知っていたかという質問なら、肯定、ただそれだけのことよ? それとも、咲夜に謝って欲しい? 妹様を慰めて欲しい?」
「そんな言い方、あんまりじゃないですか!」
「ええ、そうよ。私は冷酷な魔女だもの」

 小悪魔が落とした紅茶のカップに目を落とし、それでも興味がないと言った風に本へと視線を戻した。そのあまりの冷めた態度に、小悪魔は読んでいた本を奪い取った。
 そして机をバンっと叩いて、パチュリーを真っ直ぐ見つめる。
 今までの言い方を訂正しろ、と瞳で訴えていた。
 けれど、パチュリーはその思いを鼻で笑う。

「私達、レミィと私からしてみると、あなた達の方が滑稽だったわ。美鈴があれだけ身を削っているというのに、それに気付こうともしないのだから。穏やかな生活に慣れて、一番大切な物を見る目を失ってしまったのね。幸せという魔術に飲み込まれるなんて悪魔失格ではないのかしら?」
「うっ、うぅぅっ!」

 言い返したくても、言い返せない。
 主だからではない。
 生活の中で、一番気付かなければ行けない立場にいた従者である自分が、何も知ることができなかったことが悔しくて。
 唇を噛むことしかできない。

「そう、あなたは私に手を出したくて仕方がないのね」
「はい、お許しくだされば」
「ならいいわ。きっと咲夜も、妹様も同じ想いを持ってくれている」

 ふぅ、と息を吐き、机の上のランプを見つめる。
 ゆらゆらと揺れる不安定なランプはまるで小悪魔の心を映すようで……

「レミィに対する感情を私にもぶつけてくれる」
「っ!? ま、まさか、パチュリー様は……」
「さあね、どうかしら。でも、レミィを、親友を助けてあげることは、優先するべきことだと思わない?」

 ぶつけようのない、やりきれない想いの捌け口。
 それをレミリアだけにするのではなく、二つにわける。
 パチュリーは最初からそれを優先していた。
 それに気付いた小悪魔であったが、

 そうなると、違和感が生まれる。

 レミリアが責められるとわかっているのなら。
 美鈴のことを最初から知らせていれば、こんなことにはならなかったはずなのに。穏やかな夢を少しでも長く見ることができたかも知れないというのに。
 
「でも美鈴は望んだ、命をかけても、残したいものがあるって。なら私はそれを優先する。親友であるレミリアの家族の、最期の願いであるのなら……」

 そして、パチュリーは袖で目のあたりを軽く拭う。

「命のあり方を、失うことの悲しさを妹様にちゃんとわかって貰えるように。美鈴がそれを願うなら」

 何気なく、欠伸の後の仕草に見せて、そっと。

「最期くらいは、恩返しをさせてあげても良いと思ったのよ……」

 その心に答えることが。
 その想いを未来へ繋げることが。

 パチュリーとレミリアが背負った、最優先事項。


 ☆ ☆ ☆


 知っていれば、フランドールは笑わない。
 知っていれば、咲夜は笑えない。
pys
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コメント



0.4060簡易評価
5.80奇声を発する程度の能力削除
>輪が妹ながら慌しいことだね
我が?
うーん…何と表現したら良いんだろう…
7.90名前が無い程度の能力削除
美鈴お疲れ様……。
8.80名前が無い程度の能力削除
美鈴なら遺された者の悲しみを察することは容易いだろうと思う。
それでも何も告げず静かに退場したことを後悔もしないんだろうなと勝手に想像してみたり。

前作最後の一行のインパクトがあまりに強いため、それと比較するとこの点数になっちゃいます。
でも良かったです。紅魔館のこれからに思いを馳せずにはいられないお話でした。
9.100名前が無い程度の能力削除
最後に美鈴は嘘をつけなかったんだろうなぁ

本当に残酷
それでも優しい

綺麗な話でした
14.100名前が無い程度の能力削除
「最初変化は、味覚」でなるほどな、と
予想できた展開のはずなのに本気で感心しました。
24.100名前が無い程度の能力削除
その身を犠牲にしてでも大切な事を教える。
美鈴らしいです。
らしいけど、悲しいです。


咲夜さんに告げたさようならの台詞がまた悲しくて良いです。
30.100名前が無い程度の能力削除
後日談ってのを期待してもいいかしら
31.100名前が無い程度の能力削除
分かっていた結末なのに、目頭が熱くなった。
美鈴が満足する形になったのだし、これが最良だったんでしょうね。
前作よりインパクトは少ないけれど、心に残ると思いました。
32.100名前が無い程度の能力削除
前作からのフレーズで、最初から「あぁ、まさか」と読んでいました。
彼女が遺したかったものは、何時までも残るのでしょうね……。

うぁぁ、めーりん……。
35.100名前が無い程度の能力削除
めーりん男前
37.100名前が無い程度の能力削除
紅美鈴白熱教室。
先生、お疲れさまでした。
38.100名前が無い程度の能力削除
ああ、「あとひとつ」ってそういう……
42.100名前が無い程度の能力削除
美鈴が健気すぎて生きるのが辛い
44.100名前が無い程度の能力削除
死という直接的な言葉が使われていないのに……
しとかりとつたわってくる

いや、まさかこれは次回作の伏線……か??
46.100名前が無い程度の能力削除
これは、まだ続きが有りますね。
お待ちしています。
57.100名前が無い程度の能力削除
いいもの読ませてもらった
58.100名前が無い程度の能力削除
うおぉ・・・
60.100こーろぎ削除
なるほど最優先事項とはこれか。めーりんの最後の仕事を二人は全力でサポートしたのか
うぅ、やばい、もう涙がとまらない…
なんて話なんだ
64.100名前が無い程度の能力削除
最後は、美鈴の死で終わると解っていたのですが……それでも目頭が熱く
なりました。
美鈴、お疲れ様です


しかし、釈然としない感情もあります。レミリアやパチュリーが咲夜やフラ
ンや小悪魔に美鈴の事を伝えなかったのはある意味では残酷です。
何故、美鈴の変化に気付いてやれなかったのか?何故、あの時(レミリアや
パチュリーが素直に学習に付き合った事や料理の味付けが変だったときとか
など)気が付かなかったのか?気が付くチャンスは幾らでもあったのに自分
は美鈴の何を見ていたのか?自分は美鈴の事を何とも思ってないから、美鈴
の変化に気が付かなかったのではないか?気が付いていれば、もっともっと
美鈴の為に何か出来たはずなのに、もっと真剣に学ぶ事が出来たのにと、後
悔し自分を苦め続ける原因となります
(ペットロストの原因の1つ、動物、特に犬は飼い主に心配かけまいと病気で
苦しくても我慢するため、気付いたときにはほぼ手遅れで、なす術が無い事が
ある。そうなると飼い主は気付けなかった自分を許せず苦しみ続ける)
まして、レミリアやパチュリーは気づいていた訳ですからなお更です。

自己犠牲やこの物語のようなケースが必ずしも、美しく終わるわけでは無いと
言う事です。
73.80名前が無い程度の能力削除
誤字報告
運動でも、上層教育でもない。→情操教育
いつまでも咲夜さん一人ぼっちにしても可愛そうですし→可哀想
予想通り反応を見て、→予想通りの反応を見て、

普段から美鈴が優しいからこそ誰も気付かない。
いい話だったと思います。
79.100名前が無い程度の能力削除
泣いた
87.100名前が無い程度の能力削除
どうせならこんな天気の悪いではなく、ぽかぽかで晴れたとある日であって欲しかった……
ここからは残された人達の物語になるんでしょうか
楽しかったです、続きを読んできます
97.100名前が無い程度の能力削除
続きがあってひゃっほーいと喜んでいたらまた切ない話だった件
心に残るいい作品でした。
続きがあるみたいなので読んできます。
102.100名前が無い程度の能力削除
あとがきのパチュリーの最後の一言が印象的でした。
パチュリーから美鈴へむけた言葉でもある気がするのです。
楽しませていただきました。続きを読んできます。