※このお話は全四部構成となっております
当作品はその内の第四部、すなわち最終話となっております
ですので、第一部にあたる『朱色の想い ― 起 ―』(作品集136)
第二部『朱色の想い ― 承 ―』(作品集137)、そして第三部『朱色の想い ― 転 ―』(作品集138)
上記の三作を先に読んでおかれることを強く推奨します
夕刻、太陽が1日の役目を終えて山の向こうへその身を落とす。
昼間は青々としていた空も、今では天上を焼き尽くさんばかりに朱く、朱く染まっている。
しかし、そんな空の色と相反するかのように、僕の心にはどんよりとした雲が掛かってその内面を灰色に染めていた。
「今日も来なかったか……」
誰もいない店の入り口へと目を向け、落胆の声をこぼす。
朱鷺子が最後に香霖堂を訪れた日から、今日でちょうど1週間が経とうとしていた。
あの日――朱鷺子が『非ノイマン型計算機の未来』の12冊目を読み終えた日。
契約通りお互いの本を返却し合った後、彼女は一言「さよなら」とだけ告げると、逃げるようにしてここを飛び出していってしまった。
はっきりと見たわけではないが、その時朱鷺子の目には涙が溜まっていたようにも思える。
ただならぬその様子に、もちろん僕は彼女を呼び止めようとした。
しかし、彼女を追って外に飛び出したとき、既にその姿は見当たらず、
代わりに彼女が飛び去った瞬間に抜け落ちたと思われる朱い羽根が、ひらひらと宙を舞って地に着くところであった。
どうして朱鷺子はあんな形でこの場所から去っていったのか。
どうして朱鷺子はあれ以来店に来ることがなくなってしまったのか。
そしてどうして自分の心は、こんなにもざわついているのか。
それからさらに3日経っても、朱鷺子が香霖堂を訪ねてくることは一度としてなかった。
この頃には、朱鷺子がこの場所を訪れることはもう二度とないのかもしれないという、諦めにも近い感情が僕の心中を支配し始めていた。
あれだけ香霖堂に通いつめていた彼女が、10日も続けて姿を見せないなど明らかに異様なことだ。
この場所に愛想を尽かしたから? ――彼女を怒らせるような真似をした覚えはない。
彼女の身に何かがあった? ――仮にも妖怪である彼女が、怪我や病気が原因で10日も寝込むとは考えにくい
あらゆる可能性を並べ立て、一つ一つ脳内で検証してみるが、どの理由もしっくりこない。
(……まったく、女々しいにもほどがある)
知り合いの1人が店に顔を出さなくなっただけで、何をそこまで気を落とす必要があるというのだ。
朱鷺子は良き友人であり、彼女と過ごす時間は悪くなかった。それは認めよう。
しかし、別に彼女がいないからといって今後の生活に支障をきたすわけでもない。
今現在のこのもどかしい気持ちも、きっと一過性のものに違いあるまい。
賑やかだった日々が唐突に途絶えてしまったせいで、朱鷺子と出会う前の生活にうまく戻れないでいるだけだ。
あと数日もすれば、彼女のいない日常にも慣れてしまうだろう。
そう結論付け、頭の中から朱鷺子に関する思考を除外しようとしたところで、
カランカラン――
と、来客を告げるベルの音が鳴り響いた。
(朱鷺子……?)
咄嗟に彼女のことを思い浮かべてしまった自分に対し、心の中で苦笑をもらす。
つい今しがた、彼女のことは気にしないようにしようと決めたばかりだというのに。
僕の心はこんなにも脆いものだっただろうか。
「よぉ、今日も辛気臭い顔してるな」
「大きなお世話だよ、魔理沙」
開口一番、失礼なことをのたまいつつ店に入ってきたのは僕がよく知る少女であった。
どうやら僕の期待は外れたらしい。
(……期待だって? 一体僕は何を考えているんだ)
内心で取り繕ってももう遅い。
来客が魔理沙だと分かった瞬間、僕は間違いなく"落胆"した。
それはほんの微かなもので、普段の僕なら気にも留めないような些細な感情であったが、一度意識してしまったら誤魔化しは効かない。
別に魔理沙がやって来たことに対して落胆を覚えたわけではない。
来客が"彼女"でなかったことに対して、ほんの僅かに気落ちしているのだ。
「なに考え事してんだ? さっきよりも増して辛気臭い顔になってるぞ」
「……僕はそんなにひどい顔をしてるのか?」
「ああ、それもここ最近ずーっとな。そんな暗い顔してたら客だって気を悪くして帰っちまうぜ」
まあ元から客なんて来ないか、と余計な台詞を付け足す魔理沙。
いつもならここで一言物申すところだが、生憎今の僕にはそれだけの余裕がなかった。
なぜなら魔理沙の放った一言が、頭の中を反芻し続けて離れないからだ。
『ああ、それもここ最近はずーっとな』
自分では全く気付かなかった。
いや、気付こうとしていなかっただけかもしれない。
たしかにここ最近、心が落ち着かない日々を送ってきたように思う。
しかしその心情が顔にまで出ていたとは……
「……おい、本当にどうしたんだよ。もしかして体調でも悪いのか?」
難しい顔で黙りこくる僕を心配したのか、魔理沙は柄にもなく僕を気遣ってくる。
いや、柄にもなくという言い方は失礼だったか。
彼女は元々、他人を思いやることのできる優しい子だ。
普段の傍若無人な振る舞いのせいでそうは思えないかもしれないが、彼女が幼いときから側にいた僕にはよく分かる。
言葉や態度で誤魔化していても、その内心では常に相手のことを気遣っていたりするのだ。
「いや、体調が悪いわけじゃない。ここ最近気になることがあってね、ちょっと考え事をしていただけさ」
「……ならいいけどよ」
煙に巻くような僕の言い方に対し、魔理沙は当然のごとく疑念を抱いたようだったが、深くは追求しないでくれた。
別に追求されたところでどうということはないのだが、自分でもこのモヤモヤした感情を上手く言い表せない以上、問い詰められたところで説明のしようがない。
「それで、今日は一体何の用事だ」
「特に用はない。ついでに金もないから商品も買っていかない」
「そこまではっきり言い切られると、追い返す気持ちも失せてくるよ……」
にししし、と笑って商品である壷の上に腰掛ける魔理沙。
これも毎度のことなので今さら注意する気にもなれない。
「ああ、そうだ魔理沙」
「ん? なんだよ香霖」
「さっきは気遣ってくれてありがとう」
「……はっ! どういたしまして」
本当に素直じゃない子だ。
だがそれもまた、彼女の魅力の1つなのだろう。
数分後。
香霖堂の店内には、魔理沙が取り留めのない話を繰り出し続け、僕がそれに相槌を打つという構図が出来上がっていた。
「――っていうわけなんだよ」
「なるほど、しかし僕なら――」
時間が進むのも忘れて、益体のない会話の応酬に没頭する僕と魔理沙。
ここ数日1人で悶々としていた僕にとって、誰かと会話することはちょうどいいストレスの解消になり得る。
心に溜まった靄のような感情が出口を見つけて一斉に溢れだすかのように、僕の口からは絶え間なく言葉が出続けた。
「――おや、もうこんな時間か」
気付けば時刻は午後3時を回ろうとしていた。
お茶を飲んで一服するにはちょうどいい時間帯だ。
「少し待っているといい。お茶とお茶請けを持ってこよう」
「お、今日は何だか気前がいいな」
魔理沙のおかげで気を紛らわすことができたのだ。
お茶を出すくらいのサービスはしてあげようじゃないか。
朱鷺子が来ると思って取っておいた饅頭もあることだし――
(……っ!)
またこれだ。
ふと気を緩めると、すぐに彼女のことを連想してしまう自分に嫌気がさす。
せっかく魔理沙との会話のおかげで、鬱屈した心情を発散できたと思っていたのに……
どうしてそこまで朱鷺子のことが気になる?
彼女がこの店にやって来なくなったのは、十中八九彼女の意思だろう。
元々本の貸し借りという契約の上に成り立っていた関係だったのだ。それを今さらどうこう言ったところで仕方あるまい。
僕は言葉もなく頭を振ると、心身を落ち着けるためのお茶という名の清涼剤を求めて、奥の部屋へと歩を進めようとした。
が、魔理沙が次に放った一言によって、僕の動作は停止することとなる。
「そういえば、いつだったかここに押しかけてきた鳥の妖怪がいただろ? あいつをここに来る途中で見かけたぜ」
鳥の、妖怪……?
「魔理沙、その妖怪というのは……」
「以前霊夢に本を盗られたとか言って、この店まで取り返しに来た妖怪がいただろ。覚えてないか?」
忘れるものか、それは間違いなく朱鷺子のことだ。
「その妖怪を見たって言うのかい?」
「ああ、ここに来る途中でな。何だか元気なさそうにトボトボと道を歩いてやがったぜ」
大して興味もないんで素通りしてきたが、と魔理沙は付け加える。
しかしこれで僕の立てていた仮説の1つ、『彼女は病気か怪我のせいでここにやって来ることができない』という予想は外れたことになる。
とするとやはり、彼女が香霖堂に訪れなくなったのは彼女自身の意思によるものだということだ。
彼女が病気や怪我をしていたわけではないという事実に安心しつつも、彼女が自らの意思で香霖堂に通うのをやめたという真実に軽く胸が痛む。
自分では気付かないうちに、彼女に嫌われるようなことをしてしまったのだろうか?
それとも良き友人と思っていたのは僕のほうだけで、彼女は僕のことを本を貸してくれるだけの存在……すなわちただの契約相手としか考えていなかったのだろうか。
「……おい、どうしたんだ? お茶を淹れてきてくれるんじゃなかったのかよ」
「あ、ああすまない。少し考え事をしていた」
「さっきも同じ台詞を聞いたばかりだぜ。……本当に体調が悪いわけじゃないんだよな?」
「それはないよ。ただ……君の言ったことが少々気になってね」
「気になったって……例の妖怪のことがか?」
「ああ……まぁ、ね」
朱鷺子がこの店に通い詰めていたことと、今の女々しい自分の心中を知られたくないという思いからか、僕の返事はとても歯切れの悪いものとなってしまう。
「なんであの妖怪のことが気になるんだ?」
当然のごとく、魔理沙は僕の発言が気になったようだ。
彼女の中では、僕と朱鷺子は"あの日"一度顔を合わせただけということになっているはずだから、僕が朱鷺子のことを気に掛ける態度を見て、疑問を持つのも無理はない。
(あの後朱鷺子が再び本を取り返しにきて、そこから色々あって親しくなったなんて……今さら言えるわけないか)
別にやましいことなど何もないのだし、知られたところで大して問題はないように思える。
だがしかし、僕は一度朱鷺子を庇って魔理沙を追い返したことがあるのだ。
あの時の真相が魔理沙に知られれば、まず間違いなく機嫌を損ねてしまうだろう。
『お前はあんな妖怪を庇うために、旧知の仲である私を追い払ったんだな』などと恨みがましい目つきで言う魔理沙の姿が容易に思い描けてしまう。
「なぁ、答えろよ。なんであの妖怪のことが気になるんだ?」
それにしても魔理沙も思った以上にしつこい。
中々回答が返ってこないことに苛立っているのか、彼女は若干不機嫌そうにも見える。
僕が朱鷺子のことを気に掛けているのがそんなにも気になるのだろうか。
「なに、そういえばそんな妖怪もいたなぁと、あの騒々しい日のことを思い返していただけさ」
「本当にそれだけか?」
「他に何があるというんだ。それだけだよ」
「……相変わらず嘘が下手なやつだ。ま、いいけどよ」
どうやら僕の誤魔化しは通用しなかったらしい。
霊夢ほどではないが、魔理沙の勘もだいぶ鋭くなったものだ。
もしかして霊夢に感化されたのだろうか。
「どうせ、またあの妖怪が珍しい本でも持っていないかなー、とか考えてたんだろ? お前はそういうやつだからな」
「何か引っ掛かる言い方だな。別に本のことなんかどうだって……」
どうだって……何だ?
僕は朱鷺子との関係を“契約の上に成り立っていたもの”と考えることで、彼女のいない日常を何とか受け入れようとしていた。
しかし、今僕は本のことなどどうでもいいと、確かにこの口で言ったのだ。
当初こそ本が目当てで彼女と親しくなろうとした。
しかしそれはあくまで当初の話であり、今は違う。
僕が彼女のことを気にして止まない理由……それは“本”などという即物的な理由ではなく、もっと単純な感情によるものではないか。
その感情の名は恐らく――
「なるほど、そういうことか……」
「? どうした香霖、今日のお前はマジで変だぞ。いやいつも変だけどさ」
「変、か……たしかに今の僕は変かもしれないな。少なくとも、以前までの僕ならこんなことを思ったりはしなかっただろう」
「さっきから1人で何言ってんだ? 良ければ永遠停まで運んでってやるぜ」
「遠慮しておくよ。少しやることができたんでね」
気遣っているのか馬鹿にしているのか分からない魔理沙の申し出を断ると、僕はおもむろに立ち上がった。
「やること? 店の掃除でも始めようってのか?」
「掃除か……なかなかに的を射ているかな」
もっとも、掃除するのは店ではなく僕自身の心の中だけどね、などという台詞はさすがに恥ずかしかったので脳内で思うだけに止めておいた。
ともかく、いい加減この鬱屈した気持ちを綺麗さっぱり取り払ってしまうことにしよう。
「本当にワケが分からん……まあ、何かするっていうんなら私は帰ることにするぜ。もう話のネタも尽きたしな」
「すまないね。そうしてくれると助かる……ああそれと」
「? まだ何かあるのか?」
「――ありがとう。魔理沙のおかげで気付くことができた。今度来たときは何かサービスしよう」
「……お前本当に大丈夫か? 言っちゃ悪いが少し不気味だな」
「そうはっきりと言わないでくれ。さすがに少し傷付くだろう」
「そんなタマかよ……でもまぁ」
そこで魔理沙は一呼吸置いて、
「最初よりは随分といい顔になったかもな」
何時もの眩しい笑顔でそう言ってくれた。
人里と魔法の森を繋ぐ道。
私こと朱鷺子は、その長くて何もない道のりをただひたすら歩き続けていた。
人里の手前から出発して、魔法の森が見え始めたところで元来た道を引き返す。
そうして再び人里が見えてきたら、またUターンして魔法の森へと向かう。
そんな意味のない往復運動を、私はこの数日間に何度も繰り返していた。
傍から見たらさぞかし理解に苦しむであろうこの行為には、私自身も意味を見出せないでいる。
“あの場所”にもう一度行きたいという未練と、もう訪れてはならないという自制の念が鬩ぎ合い、この生産性のない行動を私に促しているのだろう。
(あれからもうだいぶ経つのに、いつまで気にしてんだろ……)
未だ香霖堂に対する執着が捨て切れない自分に対し、軽い嫌気がさす。
もう終わってしまったことをいつまでも悔いていても仕方がないというのに。
(……ん?)
俯き加減で歩いていた私の視界の端に、どこかで見たことのある物体が映りこんだような気がした。
気になった私はそちらの方へと視線を向けて、今一度その“見覚えのある物体”を確認する。
(あれは……っ!)
私は決して記憶力がいい方ではない。
しかし“ソレ”の見た目を忘れたり、他の何かと見間違えることがあるはずもなかった。
だってあれは“あの人”との絆そのもの――私と彼が知り合う原因となった本、『非ノイマン型計算機の未来』なのだから。
「どうしてこれがこんなところに……!」
この本はシリーズ物となっており、全部で15冊が存在している。
私はその中の3冊を持っていて、それらは今もきちんと家に保管されているはずだ。
ということは、この本は残りの12冊のうちのどれかであると考えるのが妥当だろう。
「……やっぱり」
拾い上げたその本の背表紙には、小さな文字で『第5巻』と書かれていた。
私が持っているのは第13巻から15巻まで。
そして残りの1巻から12巻までを持っているのは……
「これ、きっと香霖堂の本だ……」
この本は別に世界に1冊しか存在しないというわけではない。
同じタイトルの本が他にも何冊か幻想郷に流れ着いていたとしても不思議ではないだろう。
しかし、まったく同じ本がほぼ同時に幻想郷に流れ着くなんてことが、そうそうあり得るのだろうか?
それにこの場所が香霖堂からそう離れていないことも考慮すると、やはりこの本は彼のものである可能性が高い。
(もしかして落し物?)
香霖堂はこの本をとても大切にしていた。
もう読み終えてしまったからといって、こんな場所に捨てていくとは思えない。
とすると、何らかの理由でこの本を外に持ち出した際、気付かないうちに落としていってしまったのかもしれない。
他に考えられそうな理由もないし、恐らくそれで正解だろう。
(やっぱり届けたほうがいいのかな)
これが落し物だとすれば、今頃香霖堂は必死になってこの本を探しているかもしれない。
私と彼は知らない仲でもないのだし、ここは届けてあげるのが筋というものだろう。
(落し物を届けに行くだけ……そう、だから仕方ないのよ)
そうやって自分に言い聞かせ、魔法の森へと足を向ける。
仕方がないなどと言いつつも再びあの場所に訪れる理由ができたことを、私は心の奥底で喜んでいた。
そうして香霖堂の前にやって来たまではよかったものの、私は中々店内に入れずにいた。
本当に中に入ってしまってもいいのか?
久しぶりに会ってもし香霖堂が私のことを忘れていたら?
忘れていなくても迷惑そうな顔をされたりしたら私はどうすれば?
ネガティブな思考ばかりが頭の中をぐるぐると駆け巡り、私の足を棒のように硬直させる。
大丈夫、落し物を渡すだけだ。
ドアを開けて香霖堂がいたら、事情を説明して本を手渡せばいい。
何も尻込む必要なんかない。
一歩、また一歩と足を進め、ようやくドアの正面に辿り着く。
呼吸を整えて心を落ち着かせると、私は一気にドアを開け放った。
「香霖堂! 落し物を届け「いらっしゃい、朱鷺子」…………へ?」
精一杯絞り出した私の声は、誰かの声に被せられて最後まで言い切ることができなかった。
誰かの声? それは一体誰の?
考えるまでもない。
この場所で、ドアを開けた私に対して「いらっしゃい」などと言う人物は1人しかいない。
「待っていたよ。久しぶりだね、朱鷺子」
「香、霖堂……」
咄嗟のことで思考が落ち着かない中、何とか平常を保ちつつ目の前の人物の名を口にする。
ドアを開けた姿勢のまま固まる私を歓迎するかのように、香霖堂はこちらの方を向いて佇んでいた。
「君がその本を届けに来てくれるのをこうしてずっと待っていたんだ。わざわざ届けてくれてありがとう」
「え、えと……どういたしまして?」
私が来るのを待っていた?
それは一体どういう意味だろう。
「ずっと待ってたって、どういうこと……?」
「ふむ、とりあえずそこの椅子にでも腰掛けたらどうだい」
「あ、うん」
言われるがままに近くにあった椅子へと腰を下ろす。
同じように香霖堂も、カウンターの中へと回り込みそこにあった椅子へと腰掛ける。
この構図はまるで以前と同じだ。
香霖堂はカウンター席、私はこの椅子に腰掛けて、お互いに貸し借りした本をよく読み耽っていた。
今思い出しただけでも懐かしい思いが込み上げてくる。
あれからまだ2週間も経っていないというのに――
「さて、僕が君を待っていた理由についてだったか」
「理由もそうだけど、どうして私がこの本を拾ったことを知ってたの? それにどうして私が本を届けに来るだろうって分かったの?」
もしかしたら本を拾う瞬間を誰かに見られていたとか?
いや、この本を拾った後、私は割とすぐに香霖堂へ向かったのだ。
仮にあのシーンを誰かが目撃していたとして、それを私が訪れるより先に香霖堂に知らせることができるとは思えない。
では一体なぜ?
「君は勘違いをしているようだが、僕は君が本を拾ってくれたことを知っていたわけではないし、さらに言うなら届けに来てくれることも分かっていなかった。
有り体に言ってしまえば、勘というやつかな」
「勘?」
「ああ。君の姿をこの近くで目撃したと魔理沙が教えてくれてね。この近辺にその本を落としておけば、きっと君が拾ってくれるだろうと思っていたんだ。
君はその本のことを知っているし、何より本好きの君が道端に落ちている本を拾わないわけがないからね」
「人を何でも拾ってくる犬みたいに……って“落としておけば”?」
その言い回しはつまり、本をうっかり“落とした”のではなく、わざとあの場所に“落としておいた”という意味だろうか?
「君が考えている通り、僕はその本をわざと道端に放置しておいたのさ。君が拾ってくれることを信じてね」
「ちょ、ちょっと待って! どうしてそんなこと――」
「そうでもしないと、君はもうこの店に来てくれないと思ったからさ」
「――ッ!」
香霖堂の一言は、私の心の隅々にまで染み渡った。
別に香霖堂は怒っているわけではないし、私を責めているわけでもない。
しかしそれでも、私は隠し事が親に見つかった子供のように、肩をびくりと震わせて気まずそうに視線を床に落とした。
「………………」
「その本を君が通りそうな道に置いておけば、もしかしたら君が拾ってくれるかもしれない。
そうしたら、拾った本を届けるためにこの場所までやって来てくれるかもしれない。
僕はそう思ってその本を道に落としておいたんだ。聞こえは悪いが、言ってしまえば罠のようなものだよ」
「……なるほどね。それで私はまんまとその罠に引っ掛かって、ここまでやって来たってわけ、か」
ふぅ、と小さく息を吐く。
何かを吹っ切ったかのような溜息の後、私は逸らしていた視線を再び香霖堂の目に合わせた。
「でも、どうしてそんなことをしたの?」
本が道端に落ちていた理由は分かったが、そうまでして私を呼び寄せた理由はまだ聞いていない。
「この本は香霖堂の大事なものなんでしょ?
他の誰かが拾って自分のものにしてしまったり、逆に誰も拾わなかったら雨風のせいでボロボロになってたかもしれないのに……」
香霖堂は先ほど「勘」と言ったが、まさしくそれは勘でしかない。
私があの場所を通りかからなかったら、本が落ちていることに気付かなかったら、私が見つけるよりも先に誰かに拾われてしまっていたら。
それらは十分にあり得た可能性だ。
「どうして……どうして大事な本を捨てるような真似をしてまで、私に会いたいと思ったの?」
私は真っ直ぐに彼の瞳を見つめる。
彼もまた、私の視線を真っ向から受け止めていた。
わざわざこんな手の込んだことをしてまで私に会いたかった理由――
はっきり言って、今私は何かを“期待”している。
香霖堂が私に会いたいと思った理由は、もしかして――
「……なに、実は君が貸してくれたあの3冊の本をまた読みたくなってしまってね」
「……へ?」
ポカン、という音が自分の口から聞こえたような気がした。
口を半開きにしたまま、彼の放った言葉の意味を少しずつ噛み砕いていく。
(また私の本が読みたくなったから、ですって……?)
私がその台詞の意味を余すことなく理解し、思わず怒りを口にしようとする前に、彼はまくし立てるようにして次の言葉を重ねた。
「あの本は実に素晴らしい。
できれば手元に置いておいて定期的に読み返したいんだが、生憎あの本には君の名前が書かれているからね、あれらは紛れもなく君の所有物だし――」
「ッッ! あのねぇ、私がどんな気持ちで――!」
「だから」
と、彼は再び私の言葉を遮った。
しかしその口調は先程よりも強く、彼がこれから何か大事なことを言おうとしているのが何となく伝わってくる。
私は若干むっとしつつも、その憤りを抑えて彼の言葉に耳を傾けることにした。
「だから、良ければこれからも香霖堂に通い続けてくれないか?」
「……え?」
「そうすれば、以前のように本の貸し借りができるしね。勿論次からは契約と関係なしに、だ」
それってつまり――
私はまたこの場所に来てもいいってこと……?
「……君があの日以来どうして店に来なくなったのかは分からない。もし気に触るようなことをしていたのなら謝ろう。
だから……だからまた、以前のように店を訪ねてきてくれないか」
ああ――
今の私の心情を、何と言って表現したらいいのだろう。
頭の中が真っ白になって、けれどもそれは決して悪い意味ではなく。
嬉しくて、恥ずかしくて、戸惑いもあって、それでもやっぱり嬉しくて――
彼のその言葉で、私は全てから救われたような気がした。
「……しょーがないわね。そんなに言うんなら、また前みたいにここに通ってあげるわよ」
「そうかい」
「それでもって、本を貸す代わりにご飯を食べさせてもらったり、服が破れたら直してもらって、たまには泊まっていったりもして――」
「ああ」
「それからそれから……! 世話になりすぎるのも悪いから、たまには店の手伝いだってしてあげるし、また面白い本を拾ったら貸してあげたりもするし――」
「うん」
「だから……だからこれからもよろしくね、香霖堂!」
「ああ、こちらこそよろしく、朱鷺子」
「さて、一件落着したところで、早速出かけようじゃないか」
「へ? どこ行くの?」
「決まってるだろう、残りの11冊を回収しに行くんだ」
「……もしかして、他の11冊もその辺の道端に置いてきたの?」
「当然じゃないか。君がどの場所を通るか分からないから、できるだけ多くの本を、それも広範囲にわたって設置しておいたよ」
「アホーっ!! 誰かに持っていかれる前に回収しに行くわよ! ほら早く!」
「はいはい、今行くよ」
青年を急かす少女と、少女の後をついていく青年。
少女の顔はどこか楽しげで、青年の顔には苦笑が浮かんでいた。
(また香霖堂と一緒にいられる……)
少女はそのことが堪らなく嬉しくて、思わず小粋なステップを刻んでしまう。
どうして彼の側にいたいと思うのか、どうして側にいられることが嬉しいのか。
少女が胸に抱く想いは、まだまだ未熟な淡い色。
赤というには幾分薄く、白というには鮮やか過ぎる、そんな成長途中の色をした気持ち……
それはさながら朱色の想い。
人はそれを恋心と呼ぶ ――
機会があれば後日談も見てみたいぜ
面白かったですよ。
ああ畜生可愛いなぁもうッ!
ラストの間抜けな罠の掛け方がいかにもな彼らしさで、本当にいいお話を頂けたと思えました。
本は拾えませんでしたが、せめてこの100点をお納め下さい。
これで完結かぁ…後日談期待してすよw
こんな話書けるようになりたい...
実に素晴らしかった!
朱鷺子がかわいくて生きるのが辛い
今まで魔理沙×霖之助が一番でしたが、朱鷺子も大いにアリだな…と思わせる一作でした。
そして落ちに感動しました。
2人の淡い恋に胸が熱いです。
第三者になって二人を観察したい気持ちになったぜ
とても満たされた気分になりました
原作を殺すことなく綺麗に二次恋愛を
描くなんて並大抵じゃあないですよ
100点が少なく思えます
100じゃ足りないね