Coolier - 新生・東方創想話

春告草を探して

2011/03/01 09:53:02
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 白と赤が入り乱れて舞い踊る、懐かしい夢を見た。
 小高い丘の麓。何本あるか数えることすら馬鹿馬鹿しくなるくらい、見渡す限りの梅の花。紅白の両方を同時に見たことなんてなかったから、酷く現実感がなかったことを覚えている。
 ほとんど外に出ることを許されなかった妹紅にとって、忘れられない光景だった。敷いた薄い茣蓙の上で、はしゃぐ自分を見つめていた母の優しげな笑顔も。
 愛でる花が桜に変わったくらいで、今も珍しくない花見の一場面。
 けれどそこに、あるべき父の姿はない。

 ――当然か。

 小さく、苦笑がこぼれた。
 夢と知りながら未だ目の覚めないまま、彼女は幼い自分と母の姿を眺めていた。植えられた梅の一本に背を預け、手折った枝を弄ぶ。大振りの白い花が二つ、くるりくるりと回った。夢のくせにやたら現実味のある触感が、二本の指を刺激する。
 下級貴族の母と犯した、一夜の過ち。結果生まれた、望まれてはいなかった身だ。父など、いることの方が不自然だろう。けれど夢の中でくらい、ユメを見させてくれてもいいだろうに。
 思う間に、幼い自分が母に呼ばれて振り向いた。純粋な疑問を瞳に浮かべて。

 ――ああ。覚えてる。

 なあに、かあさま。貴女にこれを。言葉少なに、彼女は何か差し出した。赤い梅の意匠を凝らした、美しい玉かんざしを。
 戸惑う妹紅の髪をまとめて、母は笑った。

『似合っていますよ。大切で愛しい私の、――』

 それが、彼女から渡された最初で最後の贈り物だったように思う。父の気を引くために――そしてかぐや姫の残した壺を追いかけるために家を出奔するまでの数年、母と会う機会は終ぞ与えられなかったから。
 はにかむ自分と母の姿が、ゆらりと揺れた。何かに引かれるように浮上する感覚。もう、目覚めの時間らしい。

 ――あと少しだけ、見ていたかったな。

 枝を投げ捨て、首を振った。
 名残惜しい心地を振りきって、夢の中で妹紅は目を閉じた。かんざしの行方が思い出せないことだけを、心残りに思いながら。



 中天を横切る鳶の声が聞こえた。寝ぼけ眼を巡らせると、高空で輪を描く黒い点が見えた。カラスと餌場の争いにならなければいいが。ぼんやり思って、目をこする。
 里外れの田の方で、野焼きの煙が上がっていた。季節の巡りは早いもので、里にはもう春の気配が漂っている。つい先頃まで、囲炉裏の火を絶やすことができなかったのに。そろそろ生垣の手入れもしてやらないと。冬の間放っておいた所為で、見栄えが悪くなっているから。
 自宅の縁側で雨戸にもたれかかり、眠ってしまっていたらしいと自覚するまで数秒を要した。あれだけはっきり夢とわかる夢を見ておきながら、眠っていない訳がないだろうと自嘲する。
 口をついた欠伸を咬み殺す。くぁ、と小さな吐息を漏らして、妹紅は潤んだ目元をもう一度こすった。……古い、夢だった。幾度となく見たことのある夢。もはや、特別な感慨を抱けるはずもない。だからこの涙だって、ただの生理現象だ。そう自分に言い聞かせる。
 蓬莱の薬を飲んだ身体は、代謝こそすれ根本的に変化することはない。人には強すぎる薬故に容姿はずいぶんと変わってしまったが、基本的に変化は魂にのみ現れる。記憶も同じ。飲むより以前のことを、妹紅は忘れることができない。永琳は何でもないことのように"慣れ、よ"と言っていた――初めから長命でないあなたには難しいかも知れないけど、という注釈付きで。
 幼少の些細な記憶。長じて、恩人を蹴落とした足の感覚。自分の一部だと思えるまでには、長い期間を要した。"蓬莱の人の形"を全て受け止められるまでに、あとどれくらいの時間が必要なのだろう。それを成せるだけの時間が自分にあることは、果たして幸運なのだろうか。そんなことを、たまに思う。

 ――それにしても。

 夢の中で、母に贈られたかんざし。彼女は何を思って、自分にあれを贈ったのだろう。あの時代、貴族の間で流行っていたのは垂髪だったはず。あの時すでに、娘を貴族とすることを諦めていたのだろうか。それとも、言葉通りに自分を想って贈ったのか。

 ――訊けない以上、分からないか。

 あるいは、死ぬことさえできれば訊ねられるのかもしれない。しかし生き続ける以上、死者の思いには想像でしか応えることはできない。少しだけ、申し訳なく思う。

 ――駄目だな。

 左右に小さく首を振った。こんな馬鹿げたことを考えるなんて、まだ半分がた眠っているらしい。顔でも洗ってこようと膝に手をかけた、そのときだった。
 伸び放題の生垣に、低い影が差した。
 視線を上げると、特徴的な丸い耳が目に入る。

「邪魔をしたかな」
「いや。ちょうど今、起きたところさ。最近はずいぶん暖かくなっていけないな」

 言うと、ナズーリンは紅い瞳を薄く細めて笑った。ともすれば人を小馬鹿にしているようにも受け止められそうな表情だが、彼女自身は誠実な妖怪だ。自分の外面がどういう効果を及ぼすのか、計算するだけの頭の持ち主でもある。どちらに取るかは受け止める側の問題なのだろう。

「で、また何か仕事を?」

 それが分かっているから、妹紅は気にせず先を促した。
 春先には筍を取りに迷いの竹林へ入る人が増える。専門的な腕のあるなしに関わらず、だ。まだ少し時期は早い気もするが、そんな人達の落し物や忘れ物を探すために昨年は何度か案内を引き受けた。そう密ではない付き合いだ。用もなく行き来するような間柄ではない。依頼か、と思うのも自然な流れではあった。
 案の定、ナズーリンはこくりと頷いて、

「まあ、その通りだね。この後空いているかい」
「それは話の内容次第。また竹林に?」
「と、言いたいんだけど。今日のは少し、厄介でね」

 困ったように頬を掻いた。妹紅はすっと立ち上がり、手招きをする。

「長くなりそうだな。入りなよ、詳しい話を聞かせてくれ」

 客を立たせたまま、自分だけ座って話ができるほど図々しくはないつもりだった。周りの人妖に影響されて、茶葉だけはそれなりのものが揃っている。粗末な家だが、出すものを出せるだけ庭先で立ち話をするよりはマシだろう。
 すまないね。言ってナズーリンは表に回った。妹紅も縁側を開け放ったまま屋内へ戻る。一室しかない家の中心、鎮座する囲炉裏に火を入れる。茶釜を吊るしたところで、失礼するよと声をかけながら玄関の引き戸が開けられた。
 背負っていたダウジングロッドと尻尾に提げていた籠を下ろして、ナズーリンは一息吐いた。籠の鼠たちに大人しくしていろと言い聞かせ、スカートの裾をふわりと広げながら囲炉裏端に正座する。

「あんたが厄介だって言うくらいだ。まずロクな話じゃないんだろ」

 その向かい側、妹紅は棚から取り出した茶缶と湯呑みを手に胡座を組んだ。片付けるのが面倒で、他の道具は手の届く範囲に出しっ放しにしている。客用の湯呑みとちょっと高級な葉だけを取れば十分。
 ナズーリンは少しだけ言い淀むようにして、

「ああ――厄介なのは依頼主だ。昨日、命蓮寺へ直接霊夢が来たらしい。あいにく留守にしていたのだが、私宛の言伝をご主人様に預けていてね」
「霊夢? あいつは祭の準備をしてる頃じゃなかったっけ」
「その通り。本来なら、油を売りにくる暇はないはずなんだが」

 春一番に行われる、博麗神社の例大祭。人を呼ぶ祭ではないが、神職としては欠かせない祭事だ。神楽の奉納に、里からも数名を出さなければならないと慧音が人選に悩んでいた。結局、寺子屋から何人かを選んで練習させていたはず。妹紅が彼らを連れて、神社へ行く手筈になっている。妖怪神社は嫌だ、と間際に泣かれないか今から心配なのだけれど。
 祭が行われるのは、明後日ではなかったか。そう問うとナズーリンは一つ頷いて、

「頼まれたのはその後の酒宴について、なんだ。どうやら桜よりも一足早く、梅で花見をする算段らしい。冬に一度、探し物なら代金は負けておく、と言ったことを思い出したようでね。早くもその権利を使おうという訳だ。ただまあ、口約束だからね。ゼロとまでは言わないが、どう転んでも赤字になりそうで困っている」
「なるほど。あいつらしい」
「だろう? 背景としてはそういう所だね」

 彼女と妹紅は顔を見合わせて笑った。霊夢と関わった人妖の共通認識。使えるものはとことん使う。巫女らしくない、と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが。
 笑い止みにタイミングよく、茶釜がしゅうしゅうと音を立てた。火から下ろして、少し冷ます。茶漉しに適当な量の茶葉を入れて、不揃いの湯呑み二つに茶を淹れた。考えてみれば、ここでナズーリンに茶を出すのは初めてではなかったか。

「正式な淹れ方は知らないから、味の保証はしかねるけど」
「自分がふるまわれる側に回るというのも新鮮なものだね。命蓮寺では私が茶汲みをすることが多いから」
「う。お手柔らかに」

 動物に近しい妖怪が須らくそうであるように、ナズーリンもまた猫舌のようで。何度か息を吹きかけて、慎重に口をつける。及第点だね。言われて、妹紅は短く安堵の息を漏らした。
 しばらく、互いに茶を啜る音だけが座敷に響いた。
 やがて。
 ことり。微かに音を立てて、彼女は湯呑みを置いた。

「本題に入ろうか。妹紅、博麗神社は鎮守の森で護衛を頼みたい。迷いの竹林ではないし、霊夢本人もあまり立ち入ったことのない場所だそうだが、どうだい?」
「いいよ、受ける。と言っても私だって行ったことのない場所だし、代金は心付け程度で十分だ。お試しって奴さ――一つ条件を飲んでもらえれば、ね」

 薄々は話が読めていたから、妹紅はそう逡巡することもなく頷いた。……口の端をつり上げて。ちょっとした思いつきがあったから。乗ってくれるといいのだけれど。
 不審そうに眉を顰め、ナズーリンは上半身で距離を置いた。あからさまな警戒に内心苦笑を零す。

「……私にあまり、支払い能力を期待しないでくれるかい?」
「してないよ。人を守銭奴みたいに言わないでくれ」

 片掌を見せて制止する。

「霊夢が花見をしたいって言ったのはさ、多分勘でその梅が咲いてることを察したからだと思うんだ。暖かいといってもこの辺りじゃまだ、他のは咲いてないんだから。条件って言うのはね。私たちで先に花見をしないか、ってことなんだけど」
「へえ?」
「どうかな」

 それさえ飲んでくれれば、と続けようとして。けれどナズーリンは首を左右に振る。

「仏教には、不飲酒戒ってものがあるのを知っているかい?」

 返った言葉は予想外。妹紅は二、三度目を瞬いて。

「あんたら、宴会じゃ普通に飲んでるだろ」
「いやいや。私たちが宴席で口にしているのは般若湯だよ――と、言うのは冗談だが。君は知っているかもしれないが、私はあまり酒に強くないものでね」

 ご主人様は大トラなのだが、とナズーリンは苦笑する。

「もうすぐ、本格的な春だろう? 畢竟花見をする回数も増える。ただね、私自身がゆっくりと花見をできるかというと――そうでもないんだ。苦手な分、抑えに回ることが多くなるから。花見をするという行為自体に異論はないけれど、できれば酒精を入れずに花だけを楽しみたい」
「……別にさ? 私は酒なんてなくてもいいんだけど」

 組んだ膝に頬杖をつき、回りくどさに呆れてため息を吐いた。あればそれなりに嬉しいが、酒を呑むことだけが花見ではないことを妹紅は知っている。
 ありがとう。ナズーリンは笑みのまま小さく頭を下げた。
 簡単にも思えるが、妹紅が話を受けるときは大抵こういう口先の契約だ。最も身近な目的地、永遠亭のスタンスに影響された部分が大きい。尤も支払ってもらうときには、永琳ほど長くは支払いを待たない。そこだけが違いと言えば違いなのか。

「じゃあ、行くか。ろくでもない依頼事はさっさと終わらせるに限る」
「何か必要なものがあるなら持って行こうか?」
「何も。いつも通り、手ぶらでやるさ」

 両手を広げてみせると、ナズーリンはやれやれと首を振りながら立ち上がった。脇においたダウジングロッドを再び背負い、籠の鼠に声を掛ける。よく言いつけを守れたね。利口だ、えらいぞ。主人と呼ぶからには、星にも同じかそれ以上のフォローを入れてやればいいのに。

 ――まあ、そうは言っても。

 花見を語る言葉は、態度と裏腹に楽しそうではあった。ナズーリンと星は千年前からの付き合いだと聞いているし、両者とも納得尽くではあるのかもしれない。
 戸締りをして玄関を開けた後ろ姿を追いながら、妹紅は土間に積んであった掛札を手に取る。

『所用のため外出中・永遠亭への急な用向きは寺子屋まで』

 ――よし。

 慧音自身の達筆な文字で書かれたそれを戸口に引っ掛け、妹紅はナズーリンと連れ立って空へ上がった。





 博麗神社へ向かう空の上で、正午の鐘を聞いた。響き渡る独特の高い音が九回重なり、そう言えば昼食を摂っていないことを思い出す。

「何か腹に入れてくればよかったな」
「うん? 私は寺で昼を食べてから来たんだが」

 そういう事は先に言ってくれ、と妹紅は嘆息した。仕方がない、霊夢に集ろうと心に決める。無理だろうが。
 左手に見える妖怪の山は麓の雪がほとんど溶けていた。木々の茶色を透かして緑の下草が覗いている。じきに今度は、桜で白く色づき始める。山頂はまだ雪深いようだが、あれは年中通して夏の数ヶ月しか解けやしない。春先に残っているのは仕様がないことだ。
 対して徐々に近付いてくる博麗神社の周囲は、上から見る限りよほど寒々しい姿を晒していた。落葉樹ばかりということもしかり。山に比べると標高も低い丘なのに、所々雪化粧を残したままだからそんな印象を受けるのだろうか。どこかに咲いている梅の大木があるなどとはとても考えられない。

「本当に見つかるのかどうか、不安になってきたな」
「君もかい? ……実は、私もだ」

 春告精・リリーホワイトは、幻想郷縁起において毎年西から来て妖怪の山、つまり北へ去るとされている。その山よりも冬の気配を残しているということは、要するに最も春から遠いということではないのだろうか。
 しかし、
 
 ――やるだけやるしかない、か。

 考えるだけ無駄と嘆息し、妹紅はナズーリンを追って鳥居の前へと高度を下げた。

 

 緋色の鳥居をくぐった妹紅たちを、神楽舞台が出迎えた。まだ完成には遠いようだけれど。木造りの基礎から推測するに、縦横十間近い広さがある。今まで数度見たことがあるとは言え、即席の舞台としてはやはり圧巻だ。
 里から人を出さなくても良かったのだろうか――という妹紅の疑問は、すぐに氷解した。その舞台に渡すための木材を担いで、萃香が目の前を横切ったからだ。何人も。能力で普段よりも小さくなっているが、鬼の力ならあの程度の重さを担ぐくらい問題はないに違いない。

「萃香あー、お疲れー」

 妹紅が声を掛けると、その内の一人が振り向いた。他に比べると一回り大きく、伊吹瓢を担いでいる。こいつは飲む役目なのかと呆れた妹紅に、萃香は片手を振って笑みを浮かべた。一応は会話もこの萃香が受け持っているのだろう。

「おう、藤原の娘っ子じゃないか。そっちは何とかいう寺の……あー、鼠?」
「……ナズーリン。そろそろ名前くらい覚えていただきたいものだね」
「あっはっは、細かいことは気にするなぃ。酒に弱いヤツの名前はどうにも覚えるのが苦手なのさ。ここだけの話、藤原のも下の名前は覚えちゃいないんだ」

 本人を目の前にしてここだけの話も何もないだろう、と思って。妹紅は自分の額に青筋の浮かぶ音を聞いた。

 ――珍しい経験をしたことだし、この場は流そう。

 心の中で頷いた。いつでも酒に頭をやられている鬼の言うことだ。いちいち細かいことを気にしていたら、いくら妹紅が死なない身でも精神が持たない。
 萃香を監督しているはずの霊夢は、なぜだか境内には見当たらなかった。訊くと、当たり前のことを訊かれたようにきょとんとして。

「霊夢? 霊夢なら蔵の中だよ。太鼓とか笛とか、要る物引っ張り出して手入れしてるはずさ」

 萃香にここを任せている以上、当然といえば当然の帰結だった。礼を言い、本殿を通り越して裏手にある社務所を更にぐるりと回り込む。鼠籠を胸の前に抱え直したナズーリンも一緒に。
 博麗神社の蔵は、祭祀具や日用品を雑多にぶち込んでも一杯になることがない程に大きい。それでも年に一度は虫干しを行わなくてはならないから、その日に行きあった人妖は例外なく手伝わされることになる。日取りは霊夢の気まぐれ次第。当たってしまえば運がなかったと嘆くより他ない。
 虫干しをするときにはついでに整理も行われるはずなのだが、

 ――その割には。

「いつ見ても整理されてる印象がないんだよな。せめてそれくらいしとけば、虫干しも早く終わると思わないか?」
「これでも最低限の整理はしてるわ。単にモノが多すぎるのよ、ここは」

 埃まみれでため息を吐いて、霊夢は蔵の中で両掌を天に向けた。大小いくつかの和太鼓と、それを拭くための雑巾。乱雑に積まれた箱の中身は縦笛なのだろうか。モノに囲まれて途方に暮れたような姿は、ひと回り小さくすら見えてくる。

「とりあえず休憩、ね」

 自分に言い聞かせるためか呟いて、霊夢は日の下に歩き出た。いつも通りの平静な姿に見えるがどうにも覇気が感じられない。手伝うべきかと一瞬でも思ってしまったのは、普段の姿を見慣れすぎているからなのだろう。彼女が疲れている状況、なんて言うのは大抵正常ではないのだし。
 で? と肩を揉みながら霊夢は問う。
 
「あんたらがここに来たってことは、昨日の伝言聞いてくれたのよね」
「そういうことになるかな。疲れているところに悪いが、早速その話をしよう。上から見た限り、ここの森はずいぶんと広かったからね。下手をすると今日中には見つからない可能性もある。できるだけ早く取り掛かりたい」
「そう。ちょっと縁側で待ってて」

 埃落としてから行くわね。言うなり肩口から叩き始めた。白い煙が舞い上がる。鼠たちの抗議に急かされて、妹紅とナズーリンは来た道を引き返す。

 ――忙しないなあ。

 始める前から前途多難な気がして。
 妹紅はナズーリンに聞こえないよう、小さくため息を吐いた。



「よく動くなー、しかし」
「……だんだんと気持ちが悪くなってきたよ。何人いるんだ、これは」

 その気持は分からないでもない。春先の陽気と相まって、ぼうっとした頭で眺めるには少々動きが激しすぎる。
 とは言え他に見るものもないし、と揃って縁側に座り、右へ左へちょこまか動く萃香たちを眺めていると、

「悪いけど今日は何も出ないわよ。賽銭でも入れてってくれるなら別だけど」

 幾分マシな見目になって霊夢が現れた。……予想はしていたが昼替わりになりそうなものは得られそうにない。

「雇われに来た私が、どうして身銭を切らなければいけないんだい?」

 渋い顔でナズーリンが言う。どうせ挨拶代わりなのだと双方分かっているのに、いやに真実味のある口調だった。
 まあ、それは。
 続く戦いの序曲でしかなかったのだけれど。

「――じゃ、早速お仕事の話しましょ。たかが梅の木一本探してくるだけなんだし、支払いは相場の半分でいいわよね?」
「……いきなりだね。割り引くと言った記憶は確かにあるが、未知の場所で咲いているかも分からない梅の木を探せと言うんだろう? そんな話を半値で引き受けるほど、私はお人好しじゃないんだ」

 霊夢が座る間もないまま、火蓋は切って落とされた。
 妹紅は隣に座る小柄な妖怪少女の気配が大きく膨らんだのを感じた。本気だ。ゼロでないだけマシ、などとは口が裂けても言えそうにない。
 霊夢もまた、妖怪退治をするときにしか見せないような顔で語気を強めて言う。

「何言ってるの、うちの森がそこまで危ないわけないでしょ。あんまり入ったことがないのは本当だけど、それは危険を感じなかったからよ?」
「現実的に考えてみてくれないか。この広大な森を捜索する手間、何がいるのか所有者でさえ把握していない土地。それに、私は従ってくれる子ネズミたちにも報酬を与えてやらないといけないんだよ」
「それはそっちの都合よね。私には関係ないわ。私がは危なくもない森の中で動かない、それも見つけやすい梅の木一本探してこい、って頼んでるの」
「そこまで言うなら、君自身が空から探してくればいいだろうに」
「上からだと見つかんないのよ、なぜか。見つけたことがあるのはね、外来人を元の世界に送り返した後に気まぐれで森の中を歩いていた時なの。わざわざ他人に頼むんだから、理由があることくらい察しなさい」
「……悪いが、どう聞いても半値で引き受けて構わないような楽な案件であるとは思えないね。いくら君が博麗の巫女であったとしても、だ」
「じゃあどうするってのよ」
「一番面倒な依頼の、八割。そう――これくらい、かな。これだけ出すなら引き受けよう。大役を終えたあとの一杯は、この程度の価値を持つだろう?」

 にやりと笑ってナズーリンは指を三本立てる。霊夢は柳眉を逆立てて腕を組み、首を横に振った。

 ――うわあ。

 睨み合う二人を横目に眺めて、妹紅は頭を抱えたくなった。向こうで萃香も苦笑している。
 互いに一歩も譲りそうにない。こちらに火の粉が飛んできかねないから、何も言えないけれど。時間がかかりそうだと覚悟して、妹紅は二人から身一つ分距離を置いた。
 霊夢はともかく。ナズーリンは早く探索を始めたいのではなかったのか。
 いっそ萃香を手伝っていた方が気が楽かもしれない。しかしこれ以上身体を動かす愚は避けたいと思い直した。腹が減るのは避けたい。となれば、動き回る彼女(たち?)を見ているのも目の毒で。
 いよいよ困って、妹紅は雲一つない空を振り仰いだ。家を出る前に見かけた鳶の姿は既にない。餌にありつけたのか、それとも諦めて空を降りたのか。
 思った妹紅の、

「――あん? 珍しい組み合わせだな」
「わ!」

 視界一杯にとんがり帽子が飛び込んで。妹紅は大きくのけぞった。
 いつの間に現れたのか、博麗神社ではそれなりの遭遇率を誇る普通の魔法使いがナズーリンとは逆隣に立っていた。箒を逆さ持ちにして、上機嫌そうに。
 妹紅は、はあ、と息を吐き出して。

「……驚かすなよ、魔理沙」
「悪い悪い。なかなか面白そうな話が聞こえてきたからつい。詳しく聞かせてくれ」

 悪いという割には悪びれもせず、魔理沙はいつものように笑った。
 冬仕様で普段より幾分厚着の彼女は縁側に腰を下ろして。魔理沙は印象に反して寒がりで、下手をすると皐月の頃まで同じような格好を続ける。大抵は世話焼きの人形遣いが衣替えを手伝うらしいが。
 こちらには目もくれず侃々諤々と応酬を交わすナズーリンと霊夢を見やって、

「大して面白くもない、仕事の話さ」

 妹紅は言った。魔理沙は額に手を当てて小馬鹿にするように口の端を曲げる。ちっちっと右手の指を左右に振る仕草付きで。

「私だって、いつもここに遊びに来るってわけじゃないんだ」
「……言いたいことの意味が分からないな」
「私の職業を知らないんなら聞かせてやる。霧雨魔法店は年中無休で営業中、なんだぜ?」
「あー……」

 ――要するに。

 もう一つ頭痛の種ができたような気がして。妹紅は重苦しいため息を吐く。

「一枚噛ませろ、ってか。そういうことは雇用主に言ってくれ」
「聞こえてるわよ。こき使って欲しいなら、こっちの道具出し手伝ってくれない?」

 霊夢が半目でこちらを見ていた。ナズーリンも呆れたように首を振っている。
 魔理沙は霊夢に箒を向けて、

「お断り、だぜ。そっちは面白そうじゃないからな」
「面白くはないけど、大事な仕事よ?」
「面白いことの方が大事だろ? そういや鎮守の森には入ったことなかったし。まあ探し物、ってのは地味だけど」

 そう言えば、と魔理沙は思い出したように手を打った。

「何を探すんだ、お前ら」
「……それも知らないまま、何をするつもりだったのやら」

 ため息を吐きながらナズーリンが零した。妹紅も、そして霊夢も同感だったらしい。揃ってため息を吐いて。

「梅の木、よ。祭が終わったら桜より先に花見をするの」
「梅、ねえ。なんか地味だな」

 箒に寄りかかって、魔理沙は言った。
 微睡みの中で見た夢では梅がその対象だったけれど、平安の中頃からは確かに花見と言えば桜を指す。記憶の中を除けば妹紅も桜の方が馴染み深い。魔理沙の気持ちも分からなくはないが、

「どうせ花なんて口実で、花見になれば酒飲むことしか考えないような奴が何言ってるんだか」
「む」

 霊夢はにべもなかった。図星を指されて言葉に詰まる魔理沙を放り、霊夢はとにかく、とナズーリンに指を突きつける。

「いいわもう、さっさと決めましょ。報酬は全額成功払いで、下は五割から。上はあんたの言う通り八割まで出すわ。どう?」
「私が嘘をついて、過大に報告をするとは思わないのかい?」
「私の勘を舐めないことね。そうなったら命蓮寺の醜聞が新聞に載るだけよ」
「――分かった。それで手を打とう」

 肩をすくめてナズーリンは引き下がった。抱えた籠の中にいる鼠たちの方は不満そうだったが。ちゅう。
 手段を問わず、我を通すことに関しては妖怪にも引けを取らない。それが博麗霊夢なのだと今更ながらに感心した。実際には力づくで押し通してしまうことの方が多いけれど。

「あんたは? こいつから又払いなんて手間でしょ、私が出す」
「まあ、そうだなあ」

 鋭い視線をこちらへ向けて、霊夢は続けた。妹紅はちらりとナズーリンを見やる。

 ――別に懐具合が切羽詰ってるわけでもないし。

「私は別にいいや。花見さえ許してくれれば。成功払い、って言うならそれ以上の報酬もないだろ」
「あら、欲がないのね。あんたらしいって言えばらしいのかしら」
「なあ、私はー?」
「……行くなら行けば? 私は知らないわよ」

 えー、と魔理沙は不満そうに口を尖らせた。そのくせ、目はいつものように笑っている。この程度のやりとりは日常茶飯事なのだろう。
 ナズーリンは小さく咳払いをして立ち上がる。

「決まり、かな。霊夢、探し物に関わりのある物――ああ、君が漬けた梅酒でいいか。少量で構わない、持ってきてくれ。探査の触媒に使うから」

 普段は依頼主が身につけているものを使うらしい。縁が繋がっているものならば別に何であろうと構わないそうだが、手っ取り早さで思いついたのか。
 霊夢はへえ、と呟いて、

「そうなの? もう残り少ないから全部持ってっちゃってよ。花見にゃ酒よね」
「何だよ、結局霊夢も酒じゃないか」
「魔理沙、うるさい」

 混ぜ返した魔理沙に言い捨て、霊夢は草履を脱いで。わずかに足音荒く、台所へ向かった。
 戻ってくる前にと妹紅は魔理沙に向けて言う。

「魔理沙が一緒に来るんなら正直助かるよ。春先だけど、まだ空気は乾燥してるしね。あんまり炎は使いたくないんだ」
「報酬は出さないけどね」
「別にいいぜ。霊夢にはああ言ったけど、幻想郷中で一番先に花見ができる権利をもらえると思えばいいんだからな」

 あっけらかんと魔理沙は笑った。このプラス思考は学ぶべきなのかも知れないと妹紅は思う。
 台所から霊夢が顔を覗かせて、割合大きめの徳利を振る。残り、少ない?

「これくらいしかないんだけどー。お猪口もあったほうがいいー?」
「頼むよー」
「萃香には聞いてないわよ!」
「……いや、頼むよ」

 想定以上の酒と酒飲みを抱えるハメになって、ナズーリンは酷い渋面を作っていた。邪魔だけはしてくれるなよ、と言わんばかりの半目を魔理沙に向けて――言っても無駄と自己完結したらしく首を振った。たしかに無駄かもしれないが、諦めが良すぎるのもどうかとは思う。
 程なく、徳利と油紙に包んだ猪口を持って霊夢は戻ってきた。
 首に下げた水晶を弄びながら、ナズーリンは立ち上がった。霊夢の差し出した徳利を受け取って、蓋を外すと籠の鼠たちに匂いを嗅がせる。

「始めよう。みんな、この匂いだ。――いいかい、覚えたね? よし、行け」
「酒の匂いで紛れそうだぜ」
「匂い、と一口にいっても色々あるのさ。魔法使いなら分かるだろうに」

 散開する鼠たちを目で追いながら、ナズーリンは水晶にも一滴梅酒を垂らす。淡い光を放つそれを元通りの位置に戻して、

「私たちも出よう。……鬼が出るか蛇が出るか。いずれにせよ、何かあったら満額渡してもらうからね」
「何も出やしないわよ。――ただまあ」

 不意に霊夢は口許に手を当て、考えこむように言い淀んで。

「季節の変わり目は博麗大結界が緩み易くなってるわ。もしも妙な場所があったら、近づかない方が吉ではあるかもね」
「……早くも雲行きが怪しくなってないか」
「お生憎様。雨なんて一切降りそうにないわ」

 半目で言った妹紅に、霊夢はすまし顔で返した。
 ――が。
 ぱらり。

「お?」
「…………天気雨?」
「考えうる限り、最悪の状況だね」
「い、いいからあんたら早く行きなさいよ!」

 むがー、と腕を振り上げた霊夢に追われて、妹紅たちは東の方角へ足を向けた。魔理沙は霊夢に箒を押し付けていた。預かっといてくれ、邪魔だからさ。
 ロッドがこちらだと囁くんだ。不敵な笑みを浮かべたナズーリンの瞳に、しかし一抹の不安が過るのを妹紅は見逃さなかった。今一つ信用できない霊夢の言葉、重ねて妙な天候。精神性に依るダウジング能力に影響が出なければいいのだがと心配する。
 それでもやるしかないのが雇われ人の辛いところ、ではあるか。

 ――それにしても。

 大量の同じ顔が同じ仕草をするのは客観的に見るとかなり不気味だな――と、妹紅は手を振る萃香に悪いとは思いながらもやはりそう感じた。






 博麗神社の境内、その東端。丘が下り始める場所に、幻想郷と外の世界をつなぐ鳥居は聳えている。
 話に聞いたことはあったが、しかし。

「実際に見ると壮観だな、これは」
「だろ? 麓までずっと続いてるんだ。私も上からしか見たことないけどさ」

 何故か自慢気に胸を張った魔理沙に苦笑して、それでも同意せざるを得ない威容だった。
 千本鳥居、と言うのだろうか。緋色の鳥居がずっと下まで連なっていた。なるほど確かに――異界との境目には相応しい。とは言え博麗の巫女を伴わない今は、ただの鳥居に過ぎない。
 妹紅たちはその連なりに沿って、緩やかな傾斜を下っていた。ナズーリンは先導する形で数歩前に立ち、妹紅と魔理沙は周囲に気を張りながら後に続く。
 森を作るミズナラの、梢を通して見える空はどこまでも青い。……寒々しい、とすら言えるのかもしれない。よくよく見れば木々にも新芽はあるに違いないが、芽吹きはもう少し先だから。
 しかし静かな草木とは、動物たちは違っていた。冬を抜け、活発に動き始めた獣が時折様子をうかがうように木々の隙間から顔を覗かせる。

「鹿肉、って結構美味いんだよな」
「何をいきなり。そりゃ美味いかもしれないけど、ここは一応神域だぞ。命を奪うことはご法度だろうに」
「冗談だ。本気にするなって」

 何頭かの鹿がまとまって通りすぎていくのを見送ったばかりだった。冗談には聞こえなくて、妹紅は微妙な表情になる。
 森へ入る直前に降った天気雨は、ものの数分もしないうちに止んでいた。森の中と言ってもほとんど遮るものがないような状態だったから、素直に助かったと内心に思う。雨量はたいしたこともなかったし、それで何が変わるというわけでもないが。気の持ちよう、だ。
 獣を見かけるのとは対照的に、妖怪や妖精の姿はまるで見えない。鎮守の森の面目躍如、というところだろうか。連なる鳥居の傍を歩いていることもあり、多少の見通しの悪さを除けば、迷いの竹林よりもよほど歩きやすい。

「瘴気まみれの魔法の森に比べりゃ、綺麗すぎて気味が悪いぜ」
「同じにするのも失礼だ。まともなイキモノが暮らせないような場所だろう、あそこは」

 それもそうだと魔理沙は笑った。
 いつもの雰囲気だったのだ。
 軽い、弾幕ごっこのような。
 けれど。
 そうして歩いて、半刻も経った頃だろうか。

 ――これは。

 進むうちに、妹紅は言い知れぬ不安感を覚えはじめた。具体的に言うならそう、

 ――見られている……ような。

 誰に、あるいは何にとは言えない――分からない。背筋を虫が這うような不快感。あまり強い気配ではないけれど。
 ナズーリンも薄々と感じているらしかった。さっきから幾度か不自然に立ち止まることがある。ダウジングロッドを構えたまま苛立たしげに頭を掻いてみたり、あるいは籠を引っ掛けた尻尾を揺らしてみたり。
 沈む船からは真っ先に逃げると言われているように、鼠は元来危機察知に優れた生き物だ。人の型をとっているとは言え、彼女もそういう感覚は優れているのだろうか。

 ――それなら。

 何かいる、のか? 自問するが、答えは出なかった。妖力を探るのは苦手なタチだ。出てくるならさっさと出てきてくれればいいのに。

「何にもいないな。退屈だ」

 隣を歩く魔理沙は特に何の痛痒も感じてはいないようだった。右手に八卦炉こそ持ったままだが、これは危なそうな場所に行くときの平常運転なのだろうし。外見上は普段と何一つ変わらないようにも見える。
 しかし妹紅は、魔理沙の口数が少なくなってきていることを感じていた。森の雰囲気に気圧されたのか、延々と続く鳥居の圧迫感からか。空からでは見つからない、と霊夢が言っていたから、歩かざるをえないというナズーリンの判断なのだが。
 ナズーリンは集中すると寡黙になる。仕事中の妹紅は相手に合わせて話す話さないを調整する。加えて魔理沙まで話さないとなれば、沈黙が降りることは自明で。

「……っ」

 ぎゃあ、と得体のしれない鳴き声が上がり、妹紅は一瞬身構えた。続く複数の羽ばたきを聞いて、一つ吐息を零す。鳥か。あまり良くない精神状態だった。何か――追い詰められているような。

「……嫌な空気だな。なんか寒くなってきたような気もするし」

 ぼそりと魔理沙が呟いた。小さく頷いて返す。
 確かに、先へ進めば進むほど冬へ戻っているような感すらある。……視線のようなものとは関係なく。
 腐るに任せて放置された栄養過多な土の匂い。
 枯れ枝を踏み折る乾いた音。
 立木についた手は木肌の荒れを感じ。
 吸い込んだ空気は冷たく乾燥した感触を喉にもたらす。
 視界は緋色と茶色を織り交ぜて沈んだ景色に埋められて。
 そして。
 唐突に、妹紅は思う。

 ――この場所は。

 春を、奪われている。

「どう転べば、この空気をして危険でないなどと霊夢は言えるのだろうね」

 俯き加減の顔を上げた。ナズーリンが立ち止まってこちらを振り向いていた。ダウジングロッドが不規則に揺れている。魔理沙は訝しげに指差して、

「お前、それ」
「こんな反応は、私自身初めてだよ。これでは――空でなくとも見つかりそうにない。子ネズミたちの帰りを待つ方が賢明かもしれないね」

 ため息と愚痴を同時に吐いて、ナズーリンは鳥居の基部に腰を下ろした。ロッドを投げ捨てかけて――腕を下げる。

「少し休もう。なにか妙だ。この場所は、酷く疲れる」

 渡り風が、ぞうと鳴いた。



 かさり。
 枯れた下生えを踏む音がした。木にもたせかけた背を思わず浮かし、寸秒をおいて妹紅は安堵の息を吐く。

「おかえり。見つかったかい?」

 ナズーリンがそう言ったからだ。彼女の遣う鼠の一匹が、落ち着けた腰の辺りに顔を覗かせていた。
 おいで、と囁くその肩口まで軽い足取りで駆け上り、甲高い声で一鳴きする。

「うん? ちゃんと通じるように話してくれないか。……そうか」

 妹紅と魔理沙にはやりとりの中身が分からない。だから、聞いているしかないのだが。

「あった、にはあったようだ。が……まだ、暫くかかりそうだね」

 呟きに、二人は肩を落とした。こんな場所は早く抜けてしまいたい。既に依頼主である霊夢の機嫌を損ねるよりも、帰りたいという方向に気持ちは傾き始めている。
 けれど少なくとも、妹紅は依頼を受けた以上ナズーリンに従うしかない。そして彼女は途中で投げ出すことをよしとしないわけで。

 ――今日は夕飯、作るの私の番なんだよなあ。

 今頃は寺子屋で教鞭を執っているであろう半同居人の顔を思い浮かべて、妹紅は小さくため息を吐いた。軽い仕事のつもりだったから、夕方には帰り着くだろうと思っていた。
 梢の隙間に覗く太陽はまだ高いが、出立して一刻足らずの位置にある。陽が沈むまでに帰りつけるか、と言われると微妙なところだろう。
 それからね、とナズーリンは口角を吊り上げる。

「もう一つ。悪い知らせだ。ここへ来る前に何頭か狼を見たそうだよ。今からこの子に案内をさせるけど、それにはまだ地面を歩いていく必要がある。私や妹紅はともかく、魔理沙。君は――十二分に気をつけてくれ」
「あの、ナズーリン? 私だって一応は人間なんだけど」
「普通の人間じゃないだろ、お前は」
「……確かに、喰われたくらいじゃ終われない命ではあるけどね」

 今一つ調子の上がらない、乾いた笑みを互いに交わして。

「行こうか。急げばもう半刻程度で着くそうだよ」

 ダウジングロッドを背負って、ナズーリンは重い腰を上げた。疲れると言った言葉は真実らしく、それだけの動作が億劫そうで。肩乗りの鼠もどこか心配そうだった。出直したほうが良くないか、と言いたくなるのを妹紅は何とか押し殺す。

 ――しかし、な。

 こんな所で狼と出くわすかもしれないなんて。山に登らない限り、姿を見ることはないと思っていたのに。
 幻想郷には少数ながら狼が生息している。基本的に白狼天狗の下についているから妖怪の山を下りてくることはないし、ましてや人間を襲うなんてことはない。ただ、ここは鎮守の森という妖怪が極端に少ない環境だ。何があるかは分からない。

 ――あるいは。

 先頃から感じている感覚は、本当に狼のものなのか。
 外の世界にいた頃は何度となく遭遇したものだが、ここ数百年は迷いの竹林に篭っていた。あそこに狼はいないだけに、同じかそれ以上の期間相手をした記憶はない。妖力の類と同じく獣の気配が分からなくなっていても不思議ではない。
 思う間に、ナズーリンは鳥居に指を這わせて。

「分かりやすい経路としては最適だったんだが」

 離れるよ。鼠に導かれて、千本鳥居と直角に歩き始めた。妹紅と魔理沙はその両隣に並ぶ。魔理沙は脳天気に頭の後ろで手を組んで、

「まあ、帰りは飛んで帰ればいいだろ」
「帰りはね。ただし、日が落ちてから帰る可能性を考えれば――上からでは位置の同定ができないかもしれない。そうなればもう一度、この子に案内してもらう必要も出てくるだろうし」

 憂鬱だよ、と首を振る。けれど魔理沙の表情は変わらなかった。 

「それくらいなら手伝うぜ。魔法の森やら迷いの竹林なんかよりはずっと分かりやすい道じゃないか。一回歩けば暗かろうが空からだろうが同じルートを通れるさ」
「なんだそれ。なんかの魔法?」
「いや? お前らができないことの方が私には不思議なんだけど。妹紅なんかよっぽど迷いやすい所で道案内してるじゃないか」

 不思議そうに言われて妹紅は苦笑した。通い慣れた場所ならば大丈夫なのかもしれないが、初めて訪れた場所では普通無理だと思う。
 これもまた勘で異変の原因を突き止めてしまう霊夢に対抗して身につけた"技能"なのか。魔法の森は魔理沙にとって、魔力の鍛錬のみの場所ではないのだろう。自覚はないようだけれど。

 鳥居の周辺を離れてから、倒木が目につくようになった。倒れて時間が経ったものはまだいい。間もないものは、朽ちきっていない分だけ歩む速度を鈍らせる。道の不確かさに魔理沙が不満げな声を出して。

「なあ、焼いちゃえば?」
「火気厳禁。いいだろ別に、ちょっと邪魔なくらいなんだし」

 言いながら、妹紅は一本を乗り越えた。ただ、燃やす目的でなくとも炎を使いたくはなっている。なぜだか気温の低下が著しい。
 視線の主はやはり、狼かそれに類する獣のようだった。何故か遠巻きにしたまま近付いてくる様子はないが、注意深く見ていれば木々の隙間に何度かそれらしい姿が見えた。正体が割れてしまえばそう恐ろしい相手ではないし、今のところ襲ってくる様子はないけれど。用心に越したことはない。下等な妖怪と同じ程度にこちらを恐れてくれればいいのだが。

「――なに?」

 耳元でちゅうと鳴いた鼠の声に、ナズーリンは困惑したように声を上げて足を止めた。妹紅と魔理沙は行き過ぎてから振り返る。

「どうした? 何かあったのか」
「……この先に何か、結界のようなものがあるそうだよ。正体は今一つ分からないけれどね。聞く限りでは物理的なものでなく、認識に干渉するもの――なのかな」

 ナズーリンは小首を傾げた。鼠の報告では詳細までは分からないのだろう。特徴から察するに、目的さえあれば通り抜けられる程度の簡易な結界ではあるようだ。なぜそんなものがあるのかは分からないが、

「行ってみるしかないだろ。私が先に立つ。あんたらは少し距離を開けて付いて来な」

 妹紅は二人の前に立って歩き出した。幻覚を扱う月兎と何度となく手合わせしているから、その手の認識異常には強い。自分が先行して通ってしまうのが一番手っ取り早いだろう。後ろから、そのまま真っすぐだとナズーリンが指示を飛ばす。

 獣の息遣いを遠くに感じ、冷気に身を晒しながら歩き続けて。
 こちらを伺うばかりで、狼は一向に近づいてこようとはしない。野生の勘か何かなのか。相手は山の狼でなく、はぐれものの狼なのだと妹紅は推測していた。無理な狩りを仕掛けてこないのはおそらく、そのせいだろう。異常を感じるに足る構成だという自覚はある。

 妹紅が先頭に立ってから、四半刻あまりが経過した。空模様は次第に夕刻めいてきている。

「多分、そろそろ幻想郷のどん詰まりだぜ。神社の森の広さから考えれば、これ以上先は長くないと思う」

 寒そうに細く声を震わせながら、魔理沙が言った。春が奪われている感覚はさらに強く、気温もまた下がっていた。
 緩やかな傾斜が続く鎮守の森。妹紅は何となく下っている程度にしか思っていなかったが、魔理沙に言わせると博麗神社の裏手はいくつかの丘を組みあわせてできたような地形になっているらしい。そのせいで距離感が狂っていたのか。鳥居の列を離れた後は、何度か折れ曲がりながら博麗大結界の外縁に向かって歩き続けていたようだ。その割に、目的のものはなかなか見つからないのだが。

「なあ、まだその妙な結界には辿りつかないのか?」

 首だけで振り向いて、聞く。ナズーリンが答えるために口を開こうとして、

 瞬間、

 何かを通り抜けるような-―



(来るな)



 -―気がした。

「待った。……今、通った。大したものじゃあないが、人払いの亜種だな。さっさと抜けちまえ。獣にも効果のある類の奴だ」

 ぱし、と側頭部に手を当てて残響を振り払った。後ろの二人を手招きする。
 昔、使ったことのある術と似ていた。古い結界だ。廃れてしまったカタチのものだから、知っている人間はもういないと思っていた。効果もそう強くはない――現に、"普通の"人間である魔理沙にもほとんど影響を与えられなかったようだ。
 ナズーリンはほっとしたように息を吐いて。

「やれやれ、獲物気分ともようやくお別れかな。なんだか身体も軽くなったような気がするよ」
「どうでもいいけど、この寒いのは何とかならないもんかね」
「これを越えれば、すぐだそうだ。他の子ネズミたちが帰って来ないことも気になるし、花見はやめておこうか」

 そうだな、と言って魔理沙は鼻をすすった。寒さは苦手――なのだろう。それに。
 妹紅とナズーリンはまだ余力を残しているが、魔理沙はずいぶんと消耗しているようだった。当然か。そう大きな妖力を持たないとはいえ、ナズーリンは妖怪で。体力的には彼女に劣る妹紅も、体の動かし方と呼吸法を熟知している。ただ、ナズーリンは場の影響で疲弊してはいるようだけれど。
 休憩は何度か挟んでいるとはいえ、歩けなくなるほど疲れきって野営をする愚だけは避けたい。最初からやり直すことも手ではあるかもしれないが。

 ――何とか、早く見つけたいねえ。

 背中で魔理沙の気配を感じながら、思う。
 初めはミズナラやコナラが目立っていた森は、今やまばらに灌木が生えている他には倒木ばかりが目立つようになっていた。土の具合まで変わってきている。柔らかかったものから固い感触へ。元から見かけなかった妖怪や妖精に加えて、獣の姿まで見えなくなった。
 辺りを見回して妹紅は言う。

「方向だけ教えてくれ。道を作る」

 とにかく、越えればすぐとの言葉を信じて先を急ぐより他ないか。
 神社の丘は既に背後。寂れた森をただ歩く。
 腰から胸程度の高さの灌木を掻き分け、進む。
 枝を折る音だけが静寂に響く。
 古い倒木と倒木の間を抜けて。
 ちゅう。鳴く声とナズーリンの翻訳を聞きながら。
 わ、引っ掛けた。そんな服を着ているからだよ。お前も似たような服じゃん。君と違ってこんな場所は慣れっこだからね。
 後ろで二人が言い合う。
 いっそ本気で燃やそうかとも考えた妹紅に、

「その先だ。くぐり抜けた先が目的地のようだよ」
「よし、ちょっと待ってな」

 倒れた巨木が壁のように折り重なる、その先に――。





 
 侵入を拒むように傾いて倒れ込んだ木々を抜けると、ただ一本を除いて何も生えていない広場に出た。同時に、芳しく濃い花の香が鼻腔を満たす。なぜ今まで気づかなかったのか、不思議に思うくらいに。
 大丈夫だよ、と後ろに声をかけて、妹紅は二、三歩前に出る。

「本当にあったぜ……」

 魔理沙が囁くように言った。頷きを返すことが精一杯で、妹紅は口を開けたままその大木を振り仰ぐ。

 広々とした空き地に、そびえる。

 空を分かつかの如く伸びた、古木と呼ぶに相応しい風体。

 年輪を感じさせる捻くれた幹、葉がなくとも十分な存在感を持つ枝ぶり。

 張った根はいかな嵐でも倒れまいとする意思のよう。

 梅であるとは信じられないほど多くの花と蕾。

 紅色の彩りが風に舞う。

 ともすれば妖気をすら感じさせる佇まい。

 まるで、それは。

 冥界の最奥で咲き誇る、西行妖にも似ていて。

 ――凄い。

「どこへ行くんだい!」

 思った妹紅の足元を、小さな黒いものが走り抜けた。ナズーリンの肩にいた、鼠だ。
 向かう先を目で追って、妹紅は目を見張った。――上ばかり見ていて気付かなかったが。
 古木の下、二人分の影がある。博麗神社ではよく見かけるが、冬の間はまるで見ることのなかった大妖の姿。その隣で揺れるのは、いかにも目立つ九本の尾。

「なんで紫と藍がこんなところにいるんだ?」

 指差した魔理沙の言葉通り、八雲の主従が泰然と座っていた。





「結界の修復に来たのよ。そうしたら、こんなところには来そうもない貴女たちが見えたから観察していたの」

 紫は煙管を咥えて妖艶に笑った。毎年、冬眠から覚めると同時にこの場所――博麗大結界の最果てを訪れ、冬の間藍に管理を任せていた結界の微妙な歪みを正しているのだという。紫様ご自身でなされるのは一年でこの一度だけなんだ、と藍は言ったが、それで構わないのだろうか。
 質素ながら品のある、実用本位な煙草盆。
 白い徳利と白い杯。
 今までの寒さが嘘のように、この木の周りは暖かくて。肘掛けにしなだれかかる姿は、どう見ても優雅な花見をしに来たようにしか見えないのに。

 紫の用意した茣蓙の上。魔理沙は何か思うところがあるのか梅の幹を背に霊夢の梅酒を独りで傾け、ナズーリンは藍の隣で鼠たちに説教をしていた。君たちは鼠としての矜持がないのかい。狐の言いなりになるなんて、だとか。
 確かに狐は鼠を食べるかもしれないが、相手はただの狐ならぬ妖狐なのに。案の定、鼠たちはちゅうちゅうと抗議の声を上げていた。藍はそれを見ながら苦笑している。
 妹紅は紫の前で、漂う煙を見るともなしに追っていた。既にここへきた理由は話し、結界の緩みを甘くみた霊夢を叱る約束は取り付けている。元よりこの後、神社へは赴くつもりだったらしい。

「でも、言われて素直に来てしまった貴女たちにも非があるわ。私が導いていなければどうなっていたか」

 妹紅たちを案内してここまで導いた鼠は、一時的に式として使役されていたらしい。ナズーリンが怒っているのは安堵感もあるのだろう。
 まあそもそもは、と紫は言葉を続ける。

「自分の特異さを棚に上げて、自分が大事なければ他人も大丈夫だなんて平気で考える――あの子の考え方が危ういのかもしれないけれどね」
「まあ、ね。結界関連なら何とでもしてしまえる分、意識も薄いのかな」

 馴染みの顔を思い浮かべて苦笑した。結界を扱える彼女にとって、実際この状況は"危なくない"のかもしれない。ナズーリンは騙されたと憤慨していたけれど。
 同じ表情を浮かべた紫は、吐いた煙で円を作って。

「あとでちゃんと言って聞かせるわ。私の周りにはいい子しかいないもの、分かってくれるでしょう。例えばそうねえ――天気雨の異称を知っているかしら?」
「狐の嫁入り、だっけ」
「ええ。力の強い妖獣は感情の高ぶりが天候の変化まで引き起こすことがあるの――うちの藍みたいにね」
「そう言えば、昼過ぎ森へ入る前に降ったよな」

 紫はふふ、と微かに笑みをこぼして頷いた。

「昔はもっとストレートに感情表現してくれたのに、最近はこんな日くらいしか隙を見せてくれないのよ」
「あの、紫様?」

 離れた場所にいたはずの藍が紫の背後に立っていた。気にする素振りすら見せずに紫は言う。

「いい子過ぎて親離れが早かったことだけ、心残りなの」
「そ、その話は他人に聞かせるようなものでは」
「いいじゃない。貴女の式に話して聞かせるわけでなし」

 八雲の姓を継がせるまで、橙をここへは連れてこないと決めているのだそうだ。甘えてもいいのに、と歌うように嘯く紫へ、藍は赤い顔で結構ですと返した。いつも手許に置いている扇がないだけで、紫が普段まとう胡散臭さが幾分薄れたような気がして。妹紅は微笑ましいような落ち着かないような、妙な気分になる。

 ――寝起きだから、か?

 思った妹紅に、ついでだから少しだけお話ししましょうか、と紫はわずかに目を細めて。

「この場所は博麗大結界の――いわば"遊び"に相当する部分。博麗神社は外の世界であり、また幻想郷でもある。けれど丘の西側は幻想郷に、東側は外の世界にその属性が偏っている。つまり貴女たちは今、外の世界の側にいるというわけ。特に春先のこの時期は、偏りが顕著に現れるの」

 もちろんこの一帯は大丈夫なようにしてあるけれど。言って、紫煙で落ちる花弁を弄ぶ。煙管の灰を煙草盆に落としたあと、藍に次の葉を詰めさせた。
 妹紅はその先端に、指に灯した炎で火種をくれてやりながら、

「じゃあ、森の中であいつが妙に疲れてたのは」

 ナズーリンを視線で指す。鼠たちとの諍いは一段落したのか、彼女は膝に乗せて花を見上げていた。思っていたより魔理沙が静かにしているから、望んだ花見ができているらしい。
 長柄の煙管が紫の口許で揺れる。隣に正座した式の尾を軽く撫で、

「どうかしら。貴女の――考えている通りなんじゃないかしらね」
「言いなよ、そこはさ」

 博麗神社で借りた杯に、白い徳利から酒を注いだ。紫自身は飲む気がないらしい。勧めてはみたが、藍もまた飲もうとはしなかった。何のために持ってきたのだろう。魔理沙が来ることを察していたのか。思ってちびりと口を付けると、舌先を焼くような辛い酒だった。思わず空気に舌を晒す。紫はくすくすと肩を揺らしていた。何となく悔しくて、残りを一気に呷る。

「っけほ、なにこれ」
「外の世界のお酒よ。幻想郷の中だと、人の手でこれだけ強いものは作れないでしょうね」
「……あっそ」

 もう飲まないと心に決めて。妹紅は盃を逆さに伏せた。もしかして、萃香への土産だったのだろうか。古い知り合いのようだし、ここで飲むつもりだったとしても不思議はあるまい。当の萃香は博麗神社で霊夢を手伝っていたけれど。
 それにしても、と紫色の瞳が一層細められる。

「私たち以外の者がここを訪れるのは――もうどれくらいぶりになるのかしら」
「三度ばかり前の花の異変で、死神を案内したあれが最後なのでは?」
「そうだったわね。あのとき、この子に化野梅と名を付けたのだっけ」

 この辺りは本当に化野じみてしまったわ、と紫は呟いた。結界の管理者としては、何かを思うところがあるのだろうか。一人間の妹紅が慮れるような胸中では――ないかもしれないが。
 春度とやらを萃めることで咲く、妖木の変種。それがこの梅の木の正体であるとか。そもそも春度が何であるかを妹紅は知らない。春というくらいだし、森の中が妙に寒々しかったのもそれを根こそぎにされたせいなのか。春度を萃め花開くことと、人が萃まることは別のようだけれど。

「今年は私たちが来てやったんだから、そんなことはないぜ。墓より陰気臭いところで毎年酒盛りしてるんだから、こんなとこに来るくらいはどうってことない、ってな」

 手酌でちまちま飲んでいた魔理沙が、梅酒の徳利を片手に妹紅の隣へ胡座を組んだ。

「あら魔理沙、お酒はもういいの?」
「なくなったんだ。たかりに来ただけ。なんかさ、桜より派手じゃない分騒ぐ気になれないよな。チマチマやんのが丁度いいっつーか」

 紫の酒をなみなみと注いで、確認もせずに呷る。ぎゅっと強く眼に力を入れて、喉を焼く酒の味を楽しんでいるようだった。本当に人か、こいつは。それとも萃香に言われた通り、自分があまり強くないだけなのだろうか。悩む。
 梅と煙と酒と。最後の一つがとりわけ強烈に漂う。
 混ざり過ぎた芳香に麻痺し始めた嗅覚が、徐々に痛みを訴え始めた。空が赤く染まり始めたこともあって、妹紅は紫に向けて催促する。

「なあ、そろそろ始めちゃくれないか。夕飯作んなきゃいけないんだ」
「私も同意見だ。特に遅くなるとも言っていないし、帰ってやらないと心配をする面倒な人がいるものでね」

 元通り鼠たちが収まった籠を抱え、ナズーリンは魔理沙の隣に座った。紫とは若干距離を取って。あんなのでも一応は幻想郷の有力者なんだよな、とその反応で思い出す。

「もう花見はいいのか?」
「あとは寺の皆と一緒にやるさ。抜け駆けは少しで十分だ」
「仕方ないわね、じゃあいい加減始めましょうか」

 紫は悠然と立ち上がった。煙管を藍に預け、白い手袋を外す。

「結界の調整を施した後に、地脈を介して春を巡らせます。手順はいつも通りよ――分かっているわね、藍」
「任せてください」

 八雲紫の式として。藍の九尾に鬼火が灯る。

 ――あ。

 ふわりと舞った、春の欠片。

「春度、が――」

 空を見上げた魔理沙の声と、

「なんだい、こちらの方が綺麗じゃないか」

 感心したようなナズーリンの声が重なった。

 青の鬼火が揺らめいて、紅い梅の花と金毛九尾を照らし出し。
 赤い夕陽に照らされながら、紫の繊手が白い弧を描く。

 ――術法の類は多く見知っているつもりだったけど。

 これは。

「いいもの、見たかな」

 慧音にも見せてやりたかったな、と思う。記録を文字に頼る彼女は、この様をどう紡ぐのだろうか。
 妹紅は首を上向けたまま、軽い酒が欲しかったなあと少しだけ後悔した。肴にするには十二分、それだけ美しい光景で。
 不変ならざる魂に、不変の記憶を刻み付ける。ゆらりゆらりとさんざめく、色の踊りを。






 黄昏時を過ぎた頃、スキマを経由して博麗神社へ戻った。今日は何一つ自力でこなしていない気がするよ、とナズーリンは苦笑していた。スキマを通ることがあまり気持ちのいい経験でなかったことも響いていたのだろうか。何だかんだで出来上がった魔理沙はどこ吹く風と笑っていたけれど。
 結界を甘くは見るなと紫は霊夢を叱り。憮然と唇を尖らせた彼女に、萃香は紫の酒を勧めていた。……どいつもこいつも、強すぎる。結局、化野梅で花見をする計画は流れたらしい。返す返すも今日の依頼は霊夢に取って何の得にもならなかったようだ。
 帰りしな、紫は小さな箱を妹紅とナズーリンに渡した。霊夢の代わりに謝っておくわ、と扇で隠した笑みを浮かべる彼女は、すっかりいつもの調子を取り戻していた。梅の下で話した彼女は春霞の見せた幻だったような、妙な感覚に襲われた。
 日暮れに合わせて里へ帰った。里の入り口でナズーリンとは別れ、中央にほど近い慧音の家へ上がりこんだ。中央近いとは言え、里の皆の配慮もあってここの周りで過剰な喧騒を聞くことは少ない。
 勝手知ったる炊事場で夕飯の用意をしていると、

「ただいま」
「おー、おかえりー」

 寺子屋終わりで里の会合へ直接出向いていた慧音が帰宅した。肩に掛けた革鞄と特徴的な帽子を降ろすなり、

「もうこんな時期か。いい香りだな」

 文机の一輪挿しを手に取った。紫に無理を言って手折った紅梅――化野梅の一枝。そう広くはない部屋とは言え、細やかな変化に気づくところが慧音らしいと妹紅は嬉しく思う。
 
「もうすぐできるから、食器出して」
「献立は?」
「ほうれん草のお白和えと揚げ出し豆腐。あとはお吸い物かな。ごめんね、少なくて」
「なに、春先はどうしても蓄えがなくなるからな。もう少ししたら、また色々と出回るようになるさ」

 言って、慧音はぬか漬けを取り出した。ぬかを洗い落として小皿に盛りつける。
 上がってすぐの客間兼仕事場を抜けて、次の間――茶の間には食事のためにちゃぶ台を置いてある。その奥は慧音が蒐集した資料を保管する書物庫だが、そちらは妹紅でもあまり立ち入らせてはもらえない。散らかっていて恥ずかしいのだとか。
 二人分の膳を整え、茶の間へ入る。慧音は正座で待っていた。
 向かいあわせで配膳を済ませ、いただきますと手を合わせ。

「今日はどこへ行っていたんだ? この辺りではまだ梅なんて咲いていないだろう」
「ちょっとね。話せば長くなるような、そうでもないような」
「ふうん? 聞かせて?」

 ええと、と一日を思い返す。言葉を選び選び、ぽつぽつと紡ぎ出す。
 ナズーリンに頼まれて。
 霊夢に追われるように。
 萃香に見送られて。
 魔理沙とも一緒に探索道中。
 梅の木の下で紫と藍に出会って。
 結界の話を聞いたり。
 色踊る儀を皆で眺めた。

「まあ、色々あった――かな」

 結局妹紅がまとめたのはそんな言葉で。
 それでも慧音は、そうか、とくすぐったそうに笑ってくれた。

 ごちそうさまで食事を終えて、片付けのために立ち上がろうとした慧音を引き止めた。

「いいから、そのまま。背中向けてて」
「わかっ、たけど」

 何をする気だ? 言葉に無言で返して、後ろに回る。
 紫に渡された小箱を開ける。中身は――いつか見たような、梅の玉かんざし。紫は何を思ってこれを自分に渡したのだろう、と妹紅は内心に訝しむ。たとえ聞いたところで、普段の紫からまともな答えが得られるとは思わないけれど。
 かんざしを唇に咥える。櫛と手鏡は既に用意してあった。青混ぜの銀糸を梳る。
 長い髪を丁寧にまとめ、根元で時計回りに一回、二回。まとめた先を左に持ち上げる。後頭部から襟足に向けて、やや右上方からかんざしを挿し込む。下を向いた先端を、上に向けるように半回転。できた団子を手首で返して、かんざしを上から下へしっかり深く刺す。

「できた」

 後ろから手を回して、手鏡に二人分の姿を映した。耳の後ろに覗く、綺麗な白と赤のコントラスト。

「どうかな?」
「――どうしたんだ、これ」
「仕事の報酬。私には似合いそうにないから、あげる」
「なんだ、それ」

 鏡に映る慧音が俯いた。妹紅は慌てて抱き締める。

「わ、違う違う。悪く取らないで、慧音」
「じゃあどう考えればいいんだ。余り物を押し付けられても、私は嬉しくなんて」
「ああ、そうじゃなくて」

 ぐしゃぐしゃと自分の頭をかきむしって、妹紅は昼間の夢を思い出す。

「昔、さ。一度だけもらって忘れられない贈りものによく似てるんだ、これ。だからその、つい舞い上がった、って言うか。……やっぱり、無神経だったよね」

 はは、と誤魔化し笑いでかんざしを引き抜こうとした。

「待って」

 その手を握って、止められる。貸して、と抜き取られた手鏡に再び二人が映って。

「似合ってる、のかな」
「……似合ってるよ」
「そうか」

 慧音は鏡の中で小さく笑った。

「考えてみれば妹紅が私に何かを贈ろうとしてくれたのは、ずいぶんと久しぶりのことだったな」
「……悪かったね」
「責めているわけではないさ。嬉しいんだ」

 とす、と慧音は妹紅に寄りかかってきた。

「考えがあって贈ってくれるのなら、だがな。何も考えずにモノだけもらっても、そんなのは嬉しくない」
「……善処します」
「宜しい」

 やっと二人で、笑えた。書き物をするときに使わせてもらうよ、と慧音は言って。そうして、と妹紅は返した。
 鏡を置いた慧音が、胸の前で交差した妹紅の腕に手を掛ける。

「ありがとう」

 言われて、妹紅は顔を赤くした。

 ――……ええと。

「……あ、これ梅の香りがする」
「え、わ、ちょっ、妹紅?」
「なあんて、ね」

 照れ隠しに呟き、白いうなじに唇を落とした。なんだか無性に愛おしくて。
 ひゃっ、と首を竦めた慧音をぎゅっと抱き締める。抗議の声を押し殺すように、強く。

 遠くの方で、鳴き損ないの鶯が恥ずかしそうに声を伸ばした。
 人も妖怪も獣も。それぞれに待ち望んだ、春が来る。
斎木です。ここまで読んでくださった方に最大の感謝を。
梅の異称が春告草と知りまして。拙作と微妙につながっていたりもしますが読まなくても大丈夫でしょう……多分。
……正直に言ってしまうなら、もこけーねを書きたかっただけなのです。
それではこの辺りで。ありがとうございました。
斎木
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コメント



0.1130簡易評価
5.90鈍狐削除
きれいなお話でした。内容も筋道も。
読み終わってからの読後感も良くて、一足早い春の陽気を感じられました。
6.90奇声を発する程度の能力削除
とても面白かったです
8.100名前が無い程度の能力削除
美しい……とても美しい物語でした。
12.100名前が無い程度の能力削除
こんなに良い話は読んだのは久しぶりです
ありがとうございます
18.100名前が無い程度の能力削除
こりゃ面白い
ナズーリンと妹紅の、ともすれば愛嬌のあるクールさと、
話の雰囲気、両方素敵っす
21.100名前が無い程度の能力削除
あなたの書く話はじんわりとくる面白さがありますね
とてもよかったです。
22.無評価斎木削除
評価・コメントありがとうございます。
読んでいただいた方の中に何かが残って頂ければ幸いです。

>一足早い春の陽気
梅の花を2月の半ばに見かけて、書き始めました。
おそらく早咲きの物だったのでしょうが、
私の感じた春を感じていただけたのなら良かったです。

>面白い、美しい
そう言って頂けると励みになります。
瞬発力のある話も書ければいいのですが、なかなか上手くいきませんね。

それでは、また。
23.100名前が無い程度の能力削除
好き嫌いで言うなら、本当に大好きなお話でした。
キャラクターそれぞれの性格もとても良く出ていたと思いますし、
読みながら梅の香りを感じられるような、そんな文章だったと思います。

途中までもとても面白く読ませて頂いたのですが、
個人的にはもこけーねが大好きなので、最後はやられました。
何このかわいい人たち。
素敵なお話を、ありがとうございました。
25.60名前が無い程度の能力削除
うん、話の運び方も文章も綺麗。
最初の夢のミステリアスな雰囲気が後に残って、すごくどきどきしながら読み進めることが出来ました。
ナズーリンや魔理沙という揃うには珍しい面子が魅力たっぷりに書かれていたのも好感触。こねずみかわいいよこねずみ。ちゅう。
ただ、それだけにラストになんかいきなりもこけーねにもって行かれたー・・・というある種の残念さがありました。私もこけーね派じゃないからなー・・・。そしてナズーリン派だからなー・・・。
まぁ、それでなくてもラストがなんとなくすっきりしなかったので、この点数で。
26.100名前が無い程度の能力削除
春、良いですよね~一年の中で最も華やかな季節。でもわびさびもあるんですね。そう認識を増やせる程素晴らしいお話しでした。春をありがとう。
28.100名前が無い程度の能力削除
読了後に満足からの溜息がでました
相応の格を得た橙と三人で春を迎える所を見たいような
貴重な気の抜けた藍様の姿が減るのも惜しいような
梅の薫る様を堪能できました。ありがとうございます