薄く焼かれたクラッカーに、べたべたと林檎ジャムを塗りたくって、魔理沙はそれを一口に頬張った。ああ、うまいとか何とか、もごもご口を動かしながら言っている。私はそれを見て、眉をひそめた。その視線を、魔理沙は気にも留めない。
紅茶を飲む気が失せて、視線を横にずらした。よく分からない古ぼけた魔術品の置かれた台の奥、古くひびの入った木枠の窓から、きらきらと日の光が注いでいる。妙にきらきらして見えるのは、埃が舞っているからだ、そう気付いてげんなりした。よく、くしゃみの一つも出ないものだと思う。そういう自分も、ここを訪れてから一度もくしゃみをしていないのだけれど……。まぁ、デリケートより頑丈なほうが良いだろうしね、と、自分でもよく分からないフォローを入れた。それに、デリケートな人間だったら、ここまでは来られなかった。
「やっぱ、あれだな、咲夜の作るジャムは美味い」
「それは良かった。なら、もっと味わって食べたらどう?」
「レミリアみたいに? 嫌だよ、格式ばるのは。美味いものは、思いっきり頬張って食べたい」
「強欲」
「そうかぁ?」
やや含みのある返しをしてから、魔理沙はごくごく紅茶を飲んだ。もちろん、茶葉を持ちこんだのも紅茶を淹れたのも私だ。魔理沙の家に、ティータイムを楽しむための何かを期待してはいけない。と言うか、別に私は優雅なティータイムを楽しみたいわけでもないのだけれど。でもどうせ飲んだり、食べたりするのなら、美味しいもののほうが良い、そう思っただけだ。それに私は、それを整えるだけの力がある。試しに紅茶を一口飲むと、当然だけれど、美味しかった。
「まぁ、がっついてるレミリアは想像出来ないけど」
「そうね」
「がっついてるお前も想像出来ない」
「それは良い事だわ」
「パチュリーもほとんど食べないだろうし、美鈴なら、想像出来るかな」
「二人ともマナーはなってるわよ」
「え?」
「……何?」
「いや」
魔理沙は一瞬口をつぐむと、じっとこちらを窺う視線を向けてきた。
「何よ」
「いや、別に」
「気になるじゃない、言いなさいよ」
「いや、この間、美鈴と人里でばったり会ってさ、二人ともご飯食べてなくて、寒かったし鍋を食べたんだけど、すごくもぐもぐ美味そうに食べてたからさ。食べるの好きなんだろうなって思ったんだよ。店のおばちゃんに、二人して美味しそうに食べるわねぇって、肉と野菜をサービスしてもらったんだ、私たち。だから、美鈴に行儀とか、マナーって、何か合わないって思ってさ……館だとまた違うのかもな」
「……それは、美鈴の口に、私の作るものは合わないっていう事?」
「いや、違うだろ、気を使ってるんだろ」
「気を使ってる……?」
聞き捨てならない言葉だった。気を使ってるって、どういう意味だろう。上司と部下の関係を重んじて、という理由なら、まだ分かる。納得がいく。だけど、例えば人間なのに妖怪の世界で頑張って生きているから、という、余計な気遣いからだとしたら、そんなのは我慢ならない。頑張っている人が作ったものを失礼のないように食べる、という行為自体が、私からしたら失礼だ。
「あーあ、だから言いたくなかったんだよな」
黙りこんでいると、魔理沙は停滞した空気を一掃するように独りごち、クラッカーを手に取った。今度はママレード、と呟きつつ、スプーンでジャムを掬い、クラッカーにべとべととつける。指についたものはぺろりと舐める。そのスプーン、さっき、林檎のジャムを掬ったやつでしょ、と窘めたかったけれど、何だか面倒くさくなって止めた。ふと、何もかもが馬鹿馬鹿しく思えた。やはり人間が妖怪と渡り合うのは無理なのかな、とか、そういう思いに囚われた。
例えば、部下として全幅の信頼を置いているのは私だけで、美鈴はそうではないのかもしれない。今の立場が不服なのかもしれない。そう思うと、弱々しい妖精たちも自分よりずっと年上かもしれないわけで、実は私の振る舞いや立場を疎ましく思っているのかもしれない。何を馬鹿馬鹿しい、と一笑したいけれど、そんな事は今まで思いもしなかったので、軽く流せない自分がいた。
「……何か、肉食べたくなってきた」
「は……?」
「ああ、何か馬鹿みたいだなぁ」
「もしもし、咲夜さん?」
魔理沙は一瞬目を丸くしたけれど、何やら面白そうに笑って、クラッカーを口に運んだ。さくさくと美味しそうな音を立てるクラッカー。そして美味しそうに食べる魔理沙。
そういえば、初めてここを訪れた時は緑茶しか出されなかったのに、いつの間にか、丸い缶に詰まったクッキーだったり、ビスケットだったり、はずれの少ないお菓子が出されるようになっていた。だから、じゃあ、私も作ったジャムでも持って来ようかと思ったのだ。
これは魔理沙なりの気遣いなのか、と思ったけれど、それは不快な気遣いではなかった。むしろ、心地好いものだった。それは同じ人間だからかもしれない、と思ったところで、ふと思い至る。人間と妖怪の間に境界線を引いていたのは、自分なのかもしれないと。妖怪の世界に身を投じたものの、自分の周りに薄く透明な、けれども強固な壁を立てていたのかもしれないと。それは人間である事への自負のためか、それとも、妖怪から身を守る術なのか、はたまた両方なのか……今はまだ判断がつかないけれど。
でも、魔理沙の家を訪れるようになったのは、きっと魔理沙が人間だったからであり、霊夢の家のように常に妖怪が遊びに来るような家ではなく、早苗の家のように神と妖怪に囲まれている家でもなく、ただ一人で勝手気ままに暮らしているから、という理由であったのは間違いないだろう。無意識にそういう選択をして、私は魔理沙を選んだ。それに、魔法の森という危険地帯に一人で住んでいる、という点も好ましい。
「私も食べようかな」
ママレードの瓶に突っ込まれたままになっていたスプーンでジャムを掬い、クラッカーにさっと塗る。その上から、林檎のジャムを塗った。ふんわりと甘やかな香りが鼻をくすぐる。それも塗るんだ、と意外そうに目を丸くする魔理沙に、実は、こうするともっと美味しいのよ、お嬢様の前ではやらないけど……と言って笑う。
「なあなあ、じゃあさ、今度、肉食べに行こうぜ。お茶してる時に言うのも、アレだけど」
「良いわよ」
「じゃ、美鈴も誘おう。アリスは……肉とかどうかなぁ、食べるかなぁ」
「貴女が誘えば来るでしょうに」
「それがな、そうでもないんだ。嫌なものは嫌、と、意思を通すところは通す」
そう言う魔理沙の口調からは、けれども苦々しさは感じられない。きっと、そういう一癖も二癖もあるような、融通が利かないというか、頑固者というか、自分の意思を持っているような者が好きなのだろう。自分で言うのも何だけど、扱いにくさについては群を抜く私とも、こうして付き合っているのだし。
「じゃあ、美鈴は私が誘いましょう」
「お、ホントか? 美鈴も喜ぶよ」
「え?」
「じゃあ、アリスは私が誘ってみる。いつにしようか」
「ちょっと、流さないでよ」
「えー、別に流してないぞ」
「何で美鈴が喜ぶの?」
「慕ってる上司から誘われたら、部下は喜ぶものだろ」
「へぇ」
「と、言う回答では不満?」
「さあ、どうかしらね。で、実際は?」
「んー、どうなんでしょうかね」
何気なくクラッカーを手に取る魔理沙からは、もう何も話しません、という意思が感じ取れた。何か、口はばかれるような理由でもあるのだろうか。そこに、ほんの少しだけ期待めいたものが混じる。
まぁ、良い。それなら今度、直接美鈴に聞けば良い。肉を食べながら、何気なく。その時彼女はどんな反応をするのだろう。これも自覚している事だけれど、何か引っかかる事があると、無視出来ない私だ。そうして今気付いたのが、私が結構、美鈴を気に入っているという事だ。だからさっきも、あんなに腹が立ったのかもしれない。
「……ま、良いけど。アリス、来ると良いわね。美鈴は絶対来ると思うけど。で、いつにする?」
「わ、可愛くないやつ」
「それは、お互いさまでしょ」
口を大げさなまでにへの字に曲げる魔理沙は、けれども、二種類のジャムをまんべんなくクラッカーに塗りたくっている。そう、そうすると美味しいのよね。でもさすがにそれは甘いでしょ、なんてのん気に思いながら、取り澄ました表情で紅茶を一口飲んだ。ポットを眺めて、もうそろそろ、おかわりの紅茶を淹れる頃合いかもしれない、と考える。今度は砂糖の代わりに、紅茶にジャムを入れてみようか。美鈴が庭園で育てたオレンジで作ったジャムを。
肉食べるとこも見たいなぁ。
こういう駄弁ってるだけの感じが妙に合っている感じがします。