書き物をしていると、ときどき「みんな死ねばいいのに」と思うことがある。おおよそ、一日に二回くらいは。
午前中の(自分で決めた)割り当てのぶんが終わったので、阿求はううんと伸びをして、固まった凝りをささやかながらほぐし、香霖堂へ向かうことにした。
香霖堂の店主は妖怪と人間のハーフで、ずっと昔から生きている。だから前の代の自分も、そのまた前の代の自分も知っている。転生するごとに記憶の大半は失われてしまうから、まるで何度も初対面を繰り返しているような気もするけど、それでも昔からの知り合いにはかわりがなくて……気安い相手だった。
店は魔法の森の近く、人間が住む場所と妖怪が住む場所の中間くらいにある。阿求ひとりでも、ぎりぎり行けるようなところだ。ほとんど客は来ない。今日も、店主がひとりきりで店の奥に腰を落ち着けて、本を読んでいた。
「こんにちは。いらいらするので死んでください」
と声をかけると、
「ようこそ。同じ台詞を何度も聞いたけど、そのたびに君のほうが早く死んだよ」
と返ってくる。
本から目を上げて、ちらりとこちらを見るぶんだけ、今日は礼儀正しいほうだ。読んでいるのが面白い本だったりすると、自分が入ってきたことにすら気づかない時がある。
あいかわらず雑然とした店内には雑然としたものが雑然と積み重なって散らばっていて、以前に来た時よりも雑然としたものが増えているように見えて、ますます雑然とするばかりだった。
雑然としたものをまずは大雑把に視界におさめて、それからひとつひとつ丁寧に見ていく。そうすると、書き物のために掻き回されて、釣り合いを失ってしまった頭の中身が、ちょっとはきちんとなることがある。一月に二回くらいは、こうして香霖堂に来るようにしていた。今日は運が良くて、ひとりで見まわることができた。これが巫女がいたり、魔法使いがいたりすると、なんだかいつの間にかしっちゃかめっちゃかになって、頭の整理どころではなくなってしまう。
床の上に黒くて四角い箱のようなものが置かれていて、その上に銀色で、丸くて薄い、真ん中に穴のあいた、裸の手鏡のような円盤が載っていた。うす暗い店内で、キラリと光っていたので目についた。阿求はそれを手に取ると、裏表をひっくり返してよく観察してみた。かたっぽうの面はなんだか変な塩梅で、銀色だったり虹色だったりの光が混じる映りの悪い鏡のようだった。もうかたっぽうの面を見ると、表面の光の加減は同じようだったが、その上に何か文字が書いてあった。外の世界の言葉なので、阿求には読めない。
「これ何ですか」
「それか。何だったかな」
本を置いて、店主が近寄ってきた。よっぽど詰まらない本だったのだろう。
店主は銀色の円盤を手に取ると、
「これは『これに触ることができない』だよ」
「……は?」
「『これに触ることができない』」
「触ってるじゃないですか」
「名前であって、用途じゃないんだ。本質でもない。名前というのは本質の一面をとらえる意図でつけられるけど、意図通りにいかないこともあるし、物事の輪郭でしかない場合もある。多くの定義付けはこうした軽薄なやり方でできあがっていて、例えば、『人間とは言葉を操る生き物である』といういかにもいい加減な定義を見てみようか。これは本質について語っているように見えて、その実人間の限界や境界を取り扱っているだけだ。それで、輪郭を描いたことにしているんだね。だから言葉をしゃべれない赤ん坊や知的障害の人間は人間じゃないのか、ということにもなるし、言葉があれば人間と同じものなのだからイルカを食べてはいけないという発想も出てくる。このやり方はレーニンの『最も弱い輪』論に端を発していて」
「用途は何ですか」
「うん、……君を楽しくさせるもの、だよ」
「はあ」
どうやって?
「使い方はわからないんだ。たぶんこれだけではだめで、使うためには他の道具も必要なんだろう。気に入ったなら、条件付きであげてもいい」
「気前がいいですね」
「映りは悪いけど、鏡のようにも使えるから、女性が持っていたほうがいいだろう。霊夢や魔理沙にはやりたくないしね」
「あれ、霖之助さん、ロリコンだったんですか」
「君は立派な女性だよ。荒っぽい性質じゃないし、僕と気が合う」
「……条件って何ですか」
「ああ。この本を読んで、あらすじと感想を教えてくれないか」
と言って、今まで読んでいた本を阿求に手渡した。外の世界の本ではないようだけど、ずいぶん古ぼけたものだった。霖之助が最後まで読まないくらいだから、よっぽど詰まらないんだろうな、と思った。
家に戻ると、ちょうどおやつ時で、家で出るおやつはいつも適当だから、茶店でなにか食べてくればよかったかな、と思った。自室に入ると、八雲紫が畳に座り込んで、阿求が午前中に書いたものをフムフムと読んでいた。
慌てて止めた。
「ちょっと、それ、書きかけなんでまだ読まないでください」
「ううん」
と変な声を出して、紫は読む手を休めない。憮然としながらも、しかたがないので黙って待っていた。あまりたくさん書いていない。午前中いっぱいを使って、紙に二枚だけだった。紫はその二枚の紙を素早く読んで、一枚目に戻って最初を少し読んで、飛ばして後のほうをまた読んで、と、何度も繰り返して検分するように読んだ。
ようやく紙を置くと、
「あっきゅん、不調?」
と首をかしげる。
そのとおりだけど、他人から言われるのは面白くない。そんな日もあります、と言って、阿求は紙を奪いとり、紫に背を向けた。
「何日もそればかりしていると、くさくさするからね。なにか別のことをしたほうがいいわよ」
「わかってます」
わかっているけど、そんなのは当たり前の方法で、いつも、今日だって、やってきたんだし、何度も転生しているから、その当たり前の方法があてになるときとならないときがあるのを思い返せる程度の経験はあるし、とにかく、何を言われても今日は役に立たないんだ。
方解石を割るように、大要を細分化していくだけで平仄の整った文章を書ける時がある。それとは逆に、書いていくうちに自分の思いつきに魅了されて、脱線に脱線を重ねたあげく、どこにも辿りつけないで終わる時もある。でもたいていの場合、自分はその両極端の間にいて、結局、構成から細部へ、細部から構成へと、流れの両方を行ったり来たりするしかない。
不器用なのだ。何度生きなおしても、それは変わらなかった。
だから、今日は時間稼ぎの日だった。
時間稼ぎで書いたものが、面白いかというと、そんなわけはない。
読んだらすぐ帰ってくれると思っていたが、八雲紫は居座ったまま動かなかった。何か用があるのかな、とちらっと思ったが、たぶん暇なだけだろう。
扇子を口にあてて、おやつまだ、と言う。人里に出て、人間を食べてくればいい。そして巫女に退治されてしまえばいい。
どうせ紫がいるうちは、書き物なんかできない。思いついて、香霖堂でもらってきたものを見せてみた。
「CDじゃない」
「これはええと……『これに触ることができない』だと、霖之助さんは言っていましたが」
「ん? んん、CDと言って、音楽を閉じ込めておくものよ。『これに触ることができない』、ええとそれはね、曲名ね。直訳だけど」
円盤の表と裏をくるくるひっくり返して見ながら、紫が教えてくれた。鏡みたいにして使うなら、阿求よりも紫が使ったほうがふさわしいように思えた。けれど、紫はもっと大きくて、映りの良いものをもっているだろう。
八雲紫が鏡に身を映して、お化粧をしたり着替えたり身支度をしているところを想像すると、色っぽい上にいじらしいような、例えば、大人とも子どもともつかない少女が、甘ったるい林檎を囓っているような、そんな姿が浮かんできた。悔しいような、うらやましいような気持ちがした。
でも、大きな鏡なら、阿求だって持っているし。小さな手鏡だって持っているし。
香霖堂でもらってくるものなんて、そんなものだ。
「君は立派な女性だからこれをあげる、と言われてもらいました」
「あのロリコン」
紫は憤慨しているようだった。
音が出るなら、出してみたいです、と言うと、スキマに手を突っ込んで、ひとかかえくらいある機械を引っ張り出してきた。CDラジカセというらしい。
「再生するわよ」
ラジカセの蓋を開けて、CDをのせて、蓋を閉めて、ポチっとスイッチを押すと、中で円盤が回転しているような音が聞こえて、それからラジカセの両端にあった金網のようなところから、音楽が流れてきた。
はじめは小さい音で、すぐに大きくなった。弦楽器の低い音が同じ調子で幾度も繰り返されて、男の人の声がそれに合わせて、歌うような、話すような特徴的なふしまわしで言葉を乗せていった。
たぶん言葉なんだろう。阿求にはわからない言葉だった。
プリズムリバー三姉妹の曲みたいに、旋律が旋律を呼んでひとつの楽曲になるものとは違う。ひとかたまりの、最小単位だけが決まっている楽節が、周期的にぐるぐる回っているだけで、その上に声や、他の楽器の音が乗って、反復したり、違ったことをしたりする。裏も表もない感じだった。今まで聴いてきたものとは全く違って、とてもミステリアスなものに思えた。何だか霊妙な気さえしてきた。
どきどきして、心臓の鼓動が、音楽の拍子に重なっていくようだった。
「気に入ったみたいね」
興奮している阿求を見て、面白そうに八雲紫は言った。
「ビバップによって演奏時間が長期化し、ゲームのルールに従っていさえすれば個人が好きなだけ長時間演奏し続けることができる、踊り続けることができる、という考え方が現われた。ゲームのルールはどんどん複雑になっていったんだけど、基盤には相変わらずスタンダードのコード進行が置かれていた。ドミナント・モーションの進行力、つまり、不安定さから安定さへの移行、不協和が協和に解決する力ね。
それが1950年代までの二十世紀商業音楽だった。それに飽きたマイルス・デイヴィスがはじめたのがモードで、ジェームス・ブラウンが発見したのがファンク・ミュージックよ。日常の苦しみと、白い粉の力を借りてね。
黒人だというだけでプールには入れないし、レストランにも入れない。ドライブインでトイレに入っても嫌な顔をされてしまう。おとなしく普通に生きていても、何故かベトナム戦争に飛ばされてしまって、どこだかわからない密林に放り込まれて、いつ地面の中から竹槍を持った東洋人が飛び出してくるかわからない。恐怖と、そしてそれを迎え撃ったときにはもう――殺人を犯しているという罪悪感。やっと帰って来ても、働き口はない。時折思い出すのは、あの、人を殺したという記憶――そんなものから逃れるために必要なのは、セックスと白い粉、そして、ただ一小節のリズム・パターンだった。ゲロッパ!
と、まあ、はったりをきかせて言えば、そういうことになるんだけども。で、これはもうちょっと時代が下がって、一般的にそれほどたいしたものとは思われてなくって、私も今まで忘れていた曲だけど」
阿求の耳に口を寄せて、小声で囁く。息がかかるほど側に寄ったので、畳についた手が、阿求のお尻に当たった。
それから立ち上がると、少し声を大きくして、
「でも、言葉を楽器として使う音楽としては、同じものよ。その上で彼は、ラップを口ずさみながら踊りまくるスタイルをはじめたのね」
扇子を頭の上にあげて、腰を振って、手を振って踊りだした。いつもの八雲紫には似つかわしくない、洗練されていない、ただぶんぶん振り回しているだけというような踊りだった。けれどラジカセから流れる律動にはぴったりと合っていたし、表情がとても楽しそうで、体の弱い阿求も思わず立ち上がって、一緒になって体を動かしてしまった。
一曲ほどそれをつづけると、ふたりとも汗をかいて、はあはあへたりこんでしまった。
「はあ、はあ、紫さん、運動不足なんじゃないですか。妖怪なのに」
「へえ、へえ、こういうのは、藍の領分だもの」
お年ですからね、と言うと、ほっぺたを両側から引っ張られてしまった。良く伸びて可愛いとか言われてもあまり嬉しくなかった。
あー疲れたー、と言って、スキマから烏龍茶を取り出して飲みはじめる。阿求も同じものをもらった。
気晴らしになったかしら、と笑う紫に、阿求は素直に笑い返すことができた。
少しして息が落ち着くと、阿求は午前中に自分が書いたものを読みなおして、それからため息をついて、紫に向き直って話をはじめた。
阿求の個人的なイメージだけど、書くことは穴を掘ることに似ているのだ。自分だけではなくて、他の人が書くものも、そうだと思っている。
とても深く掘り下げる人もいるし、あちこちにたくさん穴を穿つ迷惑な人もいる。一旦掘った穴をすぐに埋め戻す人、わざと落し穴をこしらえる人、穴と穴を地中でつなげる人……。けれど、それは誰かを陥れるためではなくって、そうやって掘った穴に、いつかさっと風が吹き込むんじゃないかと、それで小さな渦巻がほんのちょっとの間生まれるんじゃないかと、そういうふうに思っているからだ。
穴が笛のようになって、吠えたてたり、高々と呼んだり、低く叱りつけたり、細々と吸い込んだり、叫んだり、号泣したり、深々とこもったり、悲しげだったり、そよ風なりに強風なりに、いろんな音をたてるだろう。それを見たり聞いたりしたくて、穴をいろいろに(並べたり深さを調節したりして)掘ってしまう。
でもその風が、いつ吹くかわからないし、そもそも、吹かないかもしれないし、第一どんな方向からどんな強さで吹いてくるか、長く吹くのかすぐ止んでしまうのか、ちっともわからない。
でも、阿求は穴を掘りつづけていて、風が吹くのを待ちつづけている。
ということをつっかえながらも話したら、紫は微笑んで「何代か前のあなたからも、同じことを聞いた覚えがあるわ」と言った。
ほんとうに進歩がない。繰り言みたいだ。ずっと、自分は同じことをしつづけていて、やめることがない。でも、他にしようがない。
阿求は照れてしまって、こんな分別くさい話は、そうですねでは次の次の転生のときまでしないことにします、と言って頭をかいた。紫はずっと微笑んでいて、そのときにも、全部聞いた後で前にも言ったって思い出させてあげるわ、と言った。
それからまた音楽を聴いて、立ち上がって腕をぶんぶん振り回して腰を揺らして、疲れたら座って冷たいお茶を飲んで、膝枕してあげるからおねむしなさいと言われて嫌ですよと返して、とやり取りをしていると阿求のかばんを蹴っ飛ばしてしまって、中から霖之助にもらった本がこぼれでた。
忘れていたけど、読んで感想を伝えなければならない。今日はもう、そんな気分ではないので、また明日とか、一週間後とか、気の向いたときにしよう。
と考えて本を棚にしまおうとすると、
「何よそれ」
紫が後ろから声をかけた。
「霖之助さんから預かっているんですよ。読んで、感想を聞かせてくれって」
「ふうん。霖之助がねえ。あのロリコン」
詰まらないのと、面白いのが、半々になった目で本を見つめている。
詳しいこと知ってるんですか、と訊いた。
「だってそれ、霖之助が書いた本よ」
「……霖之助さんが?」
「そう。若い頃に書いて、知り合いに配った本。ちっとも面白くなかったから、私も忘れていたけど。どこかにしまいこんでいたんでしょうね。どんな内容だったかしら。あなたに読んでほしいって?」
「ええ」
「あのロリコン」
「そういうんじゃ、ないと思いますけど」
「でしょうねえ」
ふたりは顔を見合わせると、ぷっと吹き出して、大笑いしてしまった。
ばたばた音を立てているのに遠慮していたのか、家のものがおやつを持ってきたのは、普段よりもずいぶん遅い時間だった。
いつもよりお腹がすいていたのでちょうどよかったとは言え、出てきたものはかなり意外なものだった。
お雑煮だった。
「お雑煮……」
「お雑煮ですね……」
「正月もずいぶん過ぎてるのに……」
「嫌なら、食べなくてもいいですよ。人間食べて、巫女に退治されてください」
「意地の悪いことを言わないの」
いただきまーす、と手を合わせて、紫はあわてて口を付けた。熱々の汁の中で伸びきった餅が、口の中の上半分全体にぴったりとくっついた。
「ぅあつあつあつあつあつ」
紫は焦って、べろで餅を剥がそうとしたがうまくいかず、手を使って引っ張り出そうと暴れたら持っていたお椀が逆さになって、お雑煮が紫の股の部分にひっくり返ってしまった。
「うぁっつーーーーーーーーーーーーーーーー」
堪らず、立ち上がって、大きく足を開いてがに股になって畳をどしどしと踏み始めた。
天啓のように、阿求の脳裏に閃くものがあった。
ラジカセのスイッチを入れる。さっき流れた音楽が、また大きな音で鳴り始めた。
律動に合わせて、紫の足が左右に行き来する。先程のぶんぶん振り回す振り付けとは違って、それは順序と計画によって特徴づけられた、この曲に最も符合した足運びのように思えた。
方角を細かに刻むようなそのステップは、この上ない正確さに加え、あたかも風水によって定められたかのような美しい調和を実現させていた。曲と踊りを最も引き立てる、絶妙な組み合わせだ。あっつふぅいー火傷したぁーとか言ってときどきくるっと回ったりもした。
阿求は求聞持の能力で、紫の姿をしっかりと、今までの転生のうちで最高の重要さでもって記憶した。
後に世界中のダンス・シーンに影響を与え、日本においても中高生がこぞって真似をしたという、阿求音頭誕生の瞬間であった。
残念
いや、本当にそうとしか言えないです…
個人的には結構楽しめました
ただ、消化不良感があるのでそこはマイナス。
そういう呪いでもかけられているんじゃないかと疑ってしまうほどです。
ただ、一読者としてはそこまで矢継ぎ早に出さなくても良いんじゃないかな……と思ってしまうのです。
内容も、失礼ながらCDが出てきて音楽豆知識が出てきて、そのままぼんやり終わってしまったような印象です。
ここから後書きの話になってしまいますが
「自分が書いたSSで生まれた単語がニコ動でタグになってた! 嬉しい!」
という出来事も、冷たい言い方をすれば「作品の内容や、面白いか否かとは何ら関係がない」ことです。
多作・速筆は良い事だと思うのですが、そこに着実に「質」が加われば更に良いのではないでしょうか。
以上、乱筆乱文失礼致しました。
あと阿求音頭周りの自己過信が酷い。
少し投稿頻度を下げても良いんじゃないでしょうか?
こんなクオリティの話をこれからも続けられても迷惑です
面白かったですけど、もう少し空気が洗練されていたら尚良かったです。
ただ何か急いで書いてるなーってのは読んでて思いました。